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能勢物語 

平安時代の物語で、その後の文学にきわめて大きな影響を与えたものに『伊勢物語』があります。私が古典文学にめざめたのもこの作品のおかげです。高校2年生のときに突然取り憑かれたように興味を持ち、高校の教科書ではごく一部しか載っていませんから、全体像のわかる、しかし安価な文庫本(原文、注釈、現代語訳つきでした)を手に入れてずっとそれを読んでいました。まだよくわからないままに、不思議な魅力をたたえるものだということだけは肌で感じ取っていたように思います。
この『伊勢物語』にはパロディがあります。原文を少し変えてはまるで違った滑稽な内容に作り替えた『仁勢(にせ)物語』というふざけたタイトルのものです。『伊勢物語』とそっくりでありながら、

    「にせ(似せ、偽)」

なのです。よくこんなことを思いつくものだと感心させられました。多くの段が「昔、男」で始まるのが『伊勢物語』ですが、これを「をかし、男」に置き換えて滑稽な話を繰り広げるのです。
最近、Facebookで「友だち」にしていただいた方で、能勢町(大阪府豊能郡)在住の方がいらっしゃいます。今はお勤めもおやめになって農業や地域活動に力を入れていらっしゃるようにお見受けしています。
その方が、能勢町にこんなものがある、と紹介してくだったものがあります。この地を本拠にした能勢氏の物語で、タイトルが

    能勢物語

というのです。作者はあるいは『伊勢物語』を意識してこのタイトルをつけたのではないか、と想像しています。中味はパロディではなく、純粋に能勢の歴史物語のようなものです。地元の旧家や寺が所持してきたものらしく、それを郷土史の研究家の方々が苦心して翻字されたものがあるのです。おそらく地元で少部数刊行されたものと思われ、大阪府池田市の図書館には寄贈されていました。少し読み始めたばかりなのですが、これから時間をかけてじっくり読んでみたいと思っています。

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感想戦 

将棋のことはさっぱりわからないのですが、「感想戦」というのがあるのですね。簡単に言えば勝負の「ふり返り」なのでしょう。あれはとてもいい習慣だと思います。
前にも書きましたが、私は将棋の世界の「負けました」という決着のしかたが好きなのです。勝った方が勝ちを宣言するのではなく、負けたほうが負けを認める世界。もちろん、それには理由があるはずで、負けを認めなければ、極端な話、王将を取られるまで勝負はつかないことになります。しかし、少しでも将棋を知っておれば、もうこうなったら負けに決まっている、というところまできたら事実上終わりなのです。だからといって勝っている人が「私の勝ちです」と宣言することはできない。おのずから負けた側が宣言するほかはないことになってしまいます。そういう理屈はあるとしても、敗者が負けを認めて終わるのは何とも潔くまたすがすがしいものです。
そして「負けた」と

     捨て台詞

を吐くのではなく「負けました」と相手をたたえつつ、深々と頭を下げるのがしきたりのようです。すると勝者が同じように頭を下げる。納得するまで下げているようにも見えます。
そして将棋の面白さはまだ続くのです。それが「感想戦」です。今の勝負を振り返って、どういう局面で勝敗の別れ路があったのか、よりよい手とは何だったのか、そんなことを話し合うというのです。そんなの、企業秘密じゃないの? 相手に知られたら次の勝負のときに不利にならない? と思えるくらいですが、そんなことにかまわず、話をすることでお互いが将棋そのものをより深く

    理解し、学ぼうとする

のでしょうか。勝った者も負けた者もなく、将棋そのものを語り合う。しかも、耳学問ですが、感想戦は負けた側が納得するまで続くのだそうです。将棋そのものも長時間ですか、感想戦も5分や10分では終わらないようです。私は、今さら将棋を学ぶことはないと思うのですが、少し垣間見ることで、その魅力の一端を知れたような気がします。

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幼い頃が見える 

私は人を見る目がないのです。「人」だけでなく、自分でも嫌になるくらい、あらゆるものの真の姿を見通せないのです。よくこれで文学の道を歩んできたものだとあきれかえるくらいです。
ところが、今のような危機的な状況になって、人の本来の姿が見えるようになってきた思いがします。特に感じるのは、「この人は幼い頃こんな人だったのだろうな」ということです。人物の真価を見極めるのは今もできないのですが、何かその人の根本にあるものは見えてくるように思います。
最近、もっとも「わかりやすい人」だと感じるのは今の総理大臣です。
あの人は幼い頃からほとんど変わっていないことが私には感じられます。もちろん、人間というのはそうそう変われるものではありませんから、誰しも大人になってからの姿から

    幼時の姿

は想像されるものですが、この人は本当にわかりやすい人なのです。
とにかく人より前に出るのが好きで、大きなことを、いかにも論理的であるかのように言って、自分よりちょっと強そうなヤツが現れたら、そばにいる取り巻きのような友だちに「おい、お前、何とかしてみろ」と言い出す。自分で責任を取るということの意味を知らないまま成長したのだろうな、と感じます。シンゾー少年が、強そうなヤツに対峙するや否や取り巻きの後ろに身を潜めて上目遣いになっている姿が浮かんできます。
責任の取り方を知らないから、以前退陣した時には

    投げ出した

といわれたのでしょう。
彼は、自分の政治的レガシーとして憲法を「改正」し、オリンピックを「国の代表」として迎え、万雷の拍手を持って花道を去って行く自分を恍惚として夢見ているのではないか。その一方で、いっそ病気が悪化しないものかと願っているような気もするのです。つまり、現実に対応する気はなくて、夢を見るか逃げ出すかのどちらかしか考えていないように見受けられます。
本人はそれでいいかもしれませんが、そのために多くの人がこうむる迷惑を考えると、やはりこの人は総理大臣になどなってはいけなかった人なのだと感じないわけにはいかないのです。
ちなみに、私もこの総理大臣に似たところがあるような気がしてなりません。よくぞ政治家を目指さなかったことと今さらながら思います。

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お盆が近づいて 

政府のすることがもうひとつよくわかりません。何か信念をもって仕事をしているというよりは、行き当たりばったりで、手を変え品を変えて行動しているように見えます。苦労するのは分かります。なにしろ未曾有のできごとだけに前例がなくて、どうすればよいかの経験を持たないからです。つまり我々は今、「歴史に学べない」ことの恐ろしさを思い知らされているのです。
こういう場合、専門家ですら間違った判断をすることはありがちです。そこは我々も理解しなくてはなりません。ちょっと間違ったことをしたからと言って、揚げ足を取るようなことはしないほうがいいのです。その意味では、私は専門家に対しても政治家に対しても、寛容でありたいと思っています。「この間はあのように言ったが、間違いだった、ついてはこのように変更したい」というのはかまわないと思うのです。
問題はむしろ間違ったことなどしていないと強弁して、

    誤りを簡単に直さない

ことではないかと思っています。
間違いだと言ったら責任を取らされる、そのことに怯えてもしかたがないと思います。メディアも、そのあたりはうまく対応しないと、人間同士のいがみ合いに対して向こう側でウイルスがほくそえんでいますよ。
政府が考えたマスクも、お粗末極まりないものでしたが、考えた人はその当座は名案だと思ったのでしょう。ところが、専門家の話も聞かずにすぐに決定してばたばたと発注して、無用論には耳も貸さずに何か月もかかって配布しました。
最近は旅行に行きましょう、お金は補助します、というキャンペーンが始まり、それを見てあざわらうかのようにウイルスの蔓延が再燃しました。
ああいうことをしても、慎重な人ほど行かないのです。そのあたりのことを考えずに無謀なことをしようとすると結局はウイルスの拡散に手を貸すだけ、ということになりかねません。
そしてまもなく

    お盆休み

です。
今度は、「あまり出かけないでください」という呼びかけをするようですが、ちぐはぐな感は免れません。しかしここは、そのちぐはぐさを受け入れてあまり出歩かない方がいいのだろうと思います。
担当大臣は「なんで自分がこんな目に遭わなきゃならんのだ」と思っているかもしれませんが、むしろ「これで自分がつぶされるなら本望だ」というくらいに思って間違いは間違いとしっかり認めつつ、新たな対策を提示するのが唯一の方法だと思います。
何の役にも立たない総理大臣に比べれば仕事はしているのですから、責任は総理大臣におっかぶせて(それは当然のことでしょう)、間違いは間違いだと認めつつ多少の「ぶれ」は仕方ないものとして頑張っていただきたいものです。

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終着駅に着く前に 

文学などを研究しても何の役にも立たない、というのは多くの人の言うことです。医学部の教授と文学部の教授では、けた違いに医学部が上である、と平気でいう人もいます。特に、こんなご時世になると、何が古典文学だ、という風潮に拍車がかかりそうで恐ろしくさえあります。古典を勉強する若者が減ったらどういうことになるか、未来を考えてものを言ってもらいたいものです。
ただ、私はもうそんなことを気にしていてもしかたがないと思っており、言いたい方は

    どうぞご自由に、

という心境です。もちろん、その考えが間違っていることは明らかだとは思っていますが、反論している暇はもうない、と自覚しています。
人生を東海道新幹線にたとえるなら、東京から新大阪を目指してきて、今は京都駅を出たころかな、と思っています。左手に東寺の五重塔が見えます。あとはあまりスピードを上げずに安全に終着駅に着くことを目指すばかりです。しかし、その終着駅に着くまでに、まだ何かできることがあるような気がしています。
この夏、今から25年前の、あの阪神大震災のあった年に書いた創作浄瑠璃、

    名月乗桂木

をきちんと活字にして残しておこうと思っています。上演台本ではなく、私の書いた原作の方です。来年は狂言風オペラ『フィガロの結婚』、これも原作を活字にしたいという思いを抱いています。
この夏は図書館に通うことがかなり困難だと思われ、論文(みたいなもの)を書くのはあきらめました。
創作浄瑠璃もふたつ頭にあります。また、それ以外にも下調べを始めている者もあります。なんとか形になるようにしようと思っています。
新大阪に着いてしまわないか心配ですが(笑)。

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