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スポーツ競技会 

平安時代の人は、かけっこなどはしたのでしょうか。私は、庶民はしたと思っています。やはり速く走るのは自慢になるでしょうし、優越感も得られるでしょうから。私は、小学校時代は鈍足で、かけっこというと後ろから数えて何番目というのがいつもの成績でした。昨今は順位を付けなくなっているようなことを聞きますが、そういうのはもっと昔からやってよ(笑)、と思います。ただ、大学生の教養の「体育」では、何しろ文学部(体育は医学部も合同)の連中ですから、みんな本は読んでいても鈍足(笑)。私はずいぶん速い方でした。
平安時代の貴族の姿は走るような恰好ではありません。検非違使(警察)の下っ端連中は、犯人逮捕などで動き回りますから草鞋履きなどで活動的でも、ちょっとした身分以上の貴族はそうではなかったのです。彼らにとっての運動というと、

    騎馬

が挙げられるでしょう。急ぐ時は何と言っても馬です。牛車はスピードが出ませんから話になりません。昨日書きました『伴大納言絵巻』にも、検非違使ではなく冠直衣姿の貴族が馬を走らせて、なかなかの手綱さばきを見せています。
貴族に取ってのたしなみだったでしょう。『源氏物語』でも、夕顔が亡くなったあと、東山に安置された夕顔の亡骸を光源氏が訪ねたことがありますが、このときも馬でした。ただし、哀しみのあまり、彼は馬から落ちそうになります。同じ『源氏物語』では、宇治を訪ねる薫や匂宮は馬で山道を進み、夜露に濡れたりもしています。
ほかのスポーツとしては、蹴鞠や弓矢があります。蹴鞠は今でも蹴鞠(しゅうきく)保存会などによっておこなわれることがありますが、輪になって鹿革の鞠を蹴り合います。『源氏物語』若菜下巻では、この蹴鞠の催しのときに光源氏の最後の妻である女三宮という人物を、かねてから慕っていた柏木と呼ばれる男が垣間見て、のちに密通を犯す契機となってしまいます。
弓も盛んでした。内裏でも、一月十七日に射礼(じゃらい)、十八日には賭弓(のりゆみ)がおこなわれました。賭弓は、紫宸殿の西南、校書殿と呼ばれる建物の東の廂のところに設けられた弓場殿で天皇の前でおこなわれました。これらのほか、「小弓」といって、建物の廊下でできるようなミニサイズのものもありました。『枕草子』「あそびわざは」には「小弓、碁、さまあしけれど鞠もをかし」とあって、小弓や蹴鞠はちょっとしたゲームという感じで捉えられています。
さらには

    騎射

というアクロバティックなものもあって、これは競技としても楽しまれたようです。平安京には一条大路より北側に馬場があって、五月にはそこで騎射がおこなわれました。『枕草子』には、ほととぎすを聴きに行く清少納言たちに従者が「騎射を見ていきましょう」と誘われるのですがにべもなく彼女たちは断ります。好みの男性が登場するならともかく、そうでもなければ彼女たちはあまり関心を示さなかったのかもしれません。

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走る人たち(2) 

『伴大納言絵巻』は検非違使(警察)の姿に始まって検非違使に終わる絵巻物です。事件を描くこの話らしい描き方です。しかし最初の検非違使は火事に向かうだけに大慌て。末尾の検非違使は伴大納言を連行する一段なのでおごそかです。身なりも整え、従者たちも草鞋を履いての行進です。
では、貴族は走らなかったのか、というとそんなことはありません。
当時の貴族の行動は絵だけではなく、文献からもかなり事情が分かります。男性貴族の日記にはその仕事ぶりがいろいろ書かれていますし、女性日記にはそういう役人たちの平素の生活もうかがえ、また、彼女たちの衣服や趣味などの記述も多く載せられています。

     『枕草子』

も貴族たちの生活をよく写しています。
後日このブログで紹介することになるのですが、「五月の御精進のほど」の段には清少納言にからかわれる若い貴族の姿が描かれます。詳細は後日に譲りますが、この男、藤原公信(ふじわらのきんのぶ)は、ほととぎすを聴きに行った帰り道の清少納言たちの突然の訪問を受けます。しかし暑い時期(五月は梅雨の頃)とあって、彼は袴もつけないようなくつろいだ格好をしていたのです。そこに彼女たちが来たものですから、あわてて袴を着けたりしています。ところが清少納言たちは「待ってなんかいられない」と車を進めさせるのです。いってみれば、平安時代版の

    「ピンポンダッシュ」

をするのです。やっと袴(指貫=さしぬき)を着けて門を出てみると、すでに牛車はその場を離れています。かれは帯を結びつつ、追いかけるほかはなかったのです。牛車はいくら牛でもモウ(猛)スピードは出ません。それでも少し急かせるとそれなりの速さです。清少納言たちは従者に「急いで、急いで」と言います。公信に意地悪をしているのです。しかたなく公信は、天下の一条大路を、装束を着けながら走らされるというなんとも格好の悪いことをさせられたのです。牛車は、一条大路を東大宮大路で左折して大内裏の上東門に着き、そこでやっと公信は追いついたのです。まだ若い(公信は二十二歳)とはいえ、息を切らせています。やはり運動不足なのかもしれません。
公信は沓を履いていたでしょうから、なかなかうまくは走れなかったでしょうに、「せっかく訪ねたのにまともに応じなかった」などという噂をたてられたのではたまったものではなく、一生懸命だったのです。こういうところに、まだ若手のさほどの名家でもない家の貴族男性と中宮付きの女房との関係がうかがわれるようで面白く感じます。
雨が降っていたうえ、この上東門という門は「土御門(つちみかど)」とも呼ばれるとおり、塀を切っただけの門で、屋根がないのです。そんなところで多少のやり取りをしたものの、彼はずぶ濡れ、「内裏にお入りなさい」と清少納に言われたものの、かぶっているのは烏帽子で、冠ではないために憚られます。やっと自宅から傘を持ってきたものがいて、彼はすごすごと帰っていくのです。
こんな若者を、清少納言はこのあとも軽んじるように扱い、笑いの対象にしてしまいます。怖い女性たちです(笑)。

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走る人たち(1) 

平安時代の人がどういう生活をしていたのか、というのは興味がありながら不勉強であまりわかっていません。しかし長年平安時代のことを学んできたというだけのことで、少しずつ見えてくるものもあります。
京の庶民は自在に活動していて、家の脇に設けた畑で野菜を作ったり、賀茂川で捕えた魚を売り歩いたり、店を構えてコンビニのようにさまざまなものを売ったり。こういうのは昔の絵画資料から読み取ることが出来ます。男性は普段必ず烏帽子を着けて、寝る時には家に烏帽子かけのようなものがあって、それに引っ掛けたりしたようです。女性は腰あたりまで髪を伸ばすことが多かったようで、それをひっつめて仕事をしていたみたいです。それでも邪魔ではなかったのかな、といらぬおせっかいをしてしまいます。
子どもたちは、たとえば五月になると、腰に菖蒲を刀のように差して、チャンバラのようなことをしています。取っ組み合いをするのもいつの時代も同じです。有名な

    伴大納言絵巻

では、子どもの喧嘩がきっかけになって、伴大納言が放火したことが露見します(史実は陰謀によって伴大納言が濡れ衣を着せられただけかもしれませんが)。
山城と摂津の境のところにある山崎(サントリーの工場やウイスキーの銘柄でおなじみ)あたりでは荏胡麻油が作られていたようで、それを作る道具も『信貴山縁起絵巻』に残っていたりして、生活の様子がうかがえます。
前述の『伴大納言絵巻』には、朝堂院の正門である

    応天門

が炎上した時の貴族、庶民を問わぬ慌てっぷりが描かれて、生き生きとしています。応天門というのは大内裏の南門であった朱雀門(東西の二条大路と南北の朱雀大路に面している)を入ってしばらく少し北に行ったところにある門で、とても立派なものでした。
それが炎上したとあっては、誰もが観に行こうとします。野次馬ですね。貴族や警察(検非違使)は馬に乗ってくるのですが、その従者を含めて周りの者は走っています。消防隊はありません。火災があるともう誰も消せないのです。ただ状況を見に来て人々を整理したり怪しげなものを見張ったりする検非違使があるばかりです。
馬上の検非違使や貴族の多くは沓(くつ)を履いています(中には、慌てていたのか、裸足の者も)が、二条大路や朱雀大路を走ってきた庶民たちはたいていが裸足です。
今と違って、右足を出すときは右手を出して、ナンバ走りをしています。
朱雀門を入るまではどこかうれしそうな庶民たちですが、実際に火災を目の当たりにすると怯えたようになります。強風にあおられて烏帽子が飛ばないように抑えながら逃げようとする者もいます。

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源氏物語「少女」(4) 

弘徽殿女御が中宮になれなかったことをその祖母(大宮)と父(内大臣)が嘆いていました。しかし彼らにはもう一人期待の星があったのです。それが、やはり内大臣の娘で弘徽殿女御とは異母姉妹にあたる雲居雁でした。十四歳で前途有望。姿も実にかわいらしく、五歳年少の春宮とは不釣り合いではありません。光源氏の娘の明石の姫君もいますが、入内するなら雲居雁が先でしょうし、子どもを産むということになるとどう考えても雲居雁が有利で、男子が生まれれば中宮への道はおのずから開けるのです。そんなことを夢想していたかもしれない大宮と内大臣の前に夕霧がやってきます。

「こなたに」とて、御几帳隔てて入れたてまつりたまへり。「をさをさ対面もえ賜はらぬかな。などかく、この御学問のあながちならむ。才のほどより あまり過ぎぬるもあぢきなきわざと、大臣も思し知れることなるを、かくおきてきこえたまふ、やうあらむとは思ひたまへながら、かう籠もりおはすることなむ、心苦しうはべる」と聞こえたまひて、「時々はことわざしたまへ。笛の音にも古事は、伝はるものなり」とて、御笛たてまつりたまふ。

(内大臣は)「こちらに(来なさい)」とおっしゃって几帳を隔ててお入れ申し上げなさる。「めったにお目にかかれなくなりましたね。どうしてそのようにひたすら学問をなさるのですか学才が身分以上になり過ぎるのもつまらないことと、太政大臣もおわかりのことなのに、このようにおしつけになるのもわけがあるのだろうとは存じますが、このように閉じこもっていらっしゃるのはおいたわしく存じております」と申し上げなさって、「ときどきはほかのこともなさってください。笛の音などにも昔からの伝えはあるものです」とおっしゃって、御笛を差し上げなさる。

内大臣は夕霧を迎えますが、「御几帳を隔てて」つまり雲居雁と直接顔を合わすような形にせずに招き入れます。内大臣は夕霧がひたすら学問に励んでいることについて疑問も呈して、たまには楽器もなさい、と笛を吹くように勧めます。学問だけでなく、笛の音ひとつをとっても昔からの教えというものはその中に潜んでいるものだというのでしょう。事実、賢者は音楽を愛するものでした。

いと若うをかしげなる音に吹きたてて、いみじうおもしろければ、御琴どもをばしばし止めて、大臣、拍子おどろおどろしからずうち鳴らしたまひて、「萩が花摺り」など歌ひたまふ。 「大殿も、かやうの御遊びに心止めたまひて、いそがしき御政事どもをば逃れたまふなりけり。げに、あぢきなき世に、心のゆくわざをしてこそ、過ぐしはべりなまほしけれ」などのたまひて御土器参りたまふに、暗うなれば、御殿油参り、御湯漬、くだものなど誰も誰もきこしめす。姫君はあなたに渡したてまつりたまひつ。しひて気遠くもてなしたまひ、「御琴の音ばかりをも聞かせたてまつらじ」と、今はこよなく隔てきこえたまふを、「いとほしきことありぬべき世なるこそ」と、近う仕うまつる大宮の御方のねび人ども、ささめきけり。

とても若々しく美しい音色で吹き上げて、たいそうおもしろいものなので、絃の楽器はしばらく弾くのをやめて、大臣は笏拍子を大げさにではなく打ち鳴らされて「萩が花ずり」などとお歌いになる。「大殿(光源氏)もこのような音楽の遊びに心をお寄せになって忙しい政務からお逃げになったのですね。なるほどつまらないこの世では満足できることをして過ごしたいものです」などとおっしゃって、盃を傾けられるうちに暗くなったので、灯りをともして御湯漬けやくだものなどをどなたも召しあがる。姫君は別室にお移しになってしまう。しいて遠ざけなさって、(雲居雁の)琴の音もお聞かせ申すまいと、今はむやみに隔て申し上げなさるのを「お気の毒なことが起こりそうなお二人の関係ですね」と近侍する大宮の老いた女房たちがささやいている。

夕霧は笛がとてもうまくて内大臣の和琴と雲居雁の筝はしばらく手を止めて聞き入ることにしました。「萩が花ずり」というのは、催馬楽の「更衣(ころもがへ)せむや さきむだちや わがきぬは 野原篠原 萩の花ずりや さきむだちや」(「更衣」)によるものです。一説には夕霧が早く六位の装束から色が改まるように(出世するように)という意味を込めたとも言われますが、さていかがでしょうか。この催馬楽では萩の花で染色するように詠まれていますが、実際は「榛(はり)」のことではないかとも言われます。光源氏が政務から逃れたというのは太政大臣という職について事実上の政務を内大臣に譲ったことを言うのです。中宮争いで敗北した内大臣は太政大臣になって煩わしいことからのがれた光源氏を皮肉交じりにうらやんでいるようです。酒が入り、食事も出されましたが、内大臣は雲居雁をわざわざ遠ざけました。「渡したてまつりたまひつ」の最後の「つ」にはいかにも内大臣が意図的に雲居雁と夕霧を引き離したようすがあらわれています。内大臣は雲居雁を春宮に差し上げるつもりですから、いくら親しかろうとほかの男は近づけてはならないのです。昔から使えているのであろう老いた女房たちは「お二人(夕霧と雲居雁)にとってなんとも気の毒なことだ」とひそひそと話しているのです。夕霧は内大臣の夢を壊す存在かも知れませんが、内大臣もまた夕霧の恋を邪魔する存在になりそうです。

大臣出でたまひぬるやうにて、忍びて人にもののたまふとて立ちたまへりけるを、やをらかい細りて出でたまふ道に、かかるささめき言をするに、あやしうなりたまひて、御耳とどめたまへば、わが御うへをぞ言ふ。「かしこがりたまへど、人の親よ。おのづから、おれたることこそ出で来べかめれ」「子を知るは、といふは、そらごとなめり」などぞつきしろふ。

大臣がお帰りになったようなふりをしてこっそりと女房に逢おうとしてお立ちになったのだったが、そっと身を細めてお出になる途中でこういうひそひそ話をしていたので、不思議にお感じになって耳をとどめていらっしゃるとご自身の噂話を言っている。「賢明そうにしていらっしゃるけど、人の親よね。自然とばかげたことば起こるでしょうよ」「子を知るは、というのはうそのようですね」などとつつき合っている。

内大臣は帰ると言っておきながら、ある女房のところに行くのです。おそらく愛人なのでしょう。こういうことはあたりまえのように行われていました。女房で愛人のようになっている女性は「召人(めしうど)」といいました。内大臣の様子は「やをらかい細りて」とあるように、身をひそめています。すると女房たちの噂話が聞こえてきたのです。「内大臣も所詮親ばかなのですね。娘のことなんて何も知らない。きっと厄介なことになりますね」などと言っています。「子を知るは」というのはおそらくことわざのようなもので、「子を知るのは親に勝るものはない」というようなことわざを引き合いに出して、それは嘘に違いないと言っています。要するに「娘のことなど何も分かっていない。夕霧との間に厄介なことが起きるだろう」と言っているわけです。父親は娘の恋愛についてはおよそ何も分かっておらず、事実を聞かされて大きなショックを受ける、というのは今も昔も同じなのですね。「つきしろふ」というのは相手の袖を引っ張ったり、軽くたたいたりしながら噂話をひそひそとすることを言います。今でも同じようなことをしますね。

あさましくもあるかな。さればよ。思ひ寄らぬことにはあらねど、いはけなきほどにうちたゆみて。世は憂きものにもありけるかな、と、けしきをつぶつぶと心得たまへど、音もせで出でたまひぬ。御前駆(さき)追ふ声のいかめしきにぞ、「殿は今こそ出でさせたまひけれ」「いづれの隈(くま)におはしましつらむ」「今さへかかる あだけこそ」と言ひあへり。

あきれたことだ。そうなのか。感づかないことではなかったのだが、幼いのだからと油断して・・。この世はつらいものよ、と、事情をつぶさにご理解になったが、音もたてずにお出ましになった。前駆の声がいかめしく聞こえるので「殿は今お出ましになったのですね」「どこに隠れていらっしゃったのでしょう」「今になってなおこんな浮気な・・」と言い合っている。

内大臣は事の次第を察するのです。まだ子どもだからと油断していると、とんでもないことになるのだ、と今さらながら思い知ったのです。今の今まで雲居雁を春宮に入内させる夢を思い描いていたのに、それが壊されるかもしれない。しかもつい先ごろ弘徽殿女御の立后を妨げたあの光源氏の息子に・・。それでも女房たちを問い詰めるのではなく、そっと出ていくあたりも内大臣の複雑な心理が描かれているように思います。女房たちは前駆(先払い)の荘厳な声が聞こえてきたので、今お帰りなのだ、ということは今までそばにいらっしゃったのだ、と気付きます。もちろん彼女たちはすぐに「召人と逢っていたのだ」と察します。だから、彼女たちは話を聞かれたこと以前に内大臣の「あだけ(浮ついた心。浮気心)」をまず感じたのです。

ささめき言の人びとは、「いとかうばしき香のうちそよめき出でつるは、冠者(くわざ)の君のおはしつると こそ思ひつれ」「あな、むくつけや。しりう言(ごと)やほの聞こしめしつらむ。わづらはしき御心を」と、わびあへり。

ひそひそ話をしていた人は、「とても香ばしい薫物がそよそよと漂ってきたのは冠者の君(夕霧)がいらっしゃったのだとばかり思っていました」「なんとおそろしい。陰口をわずかにでもお聞きになってしまったでしょうか。気むずかしいお人柄なのに」とそれぞれに困惑している。

女房はやっと気づきます。あのいい香りは夕霧のものだと思っていたのに、そうではなかったのだ、ということは私たちが話していたことをお聞きになったのではないか、厄介な性格の人だからどんなことになるか知れたものではない・・。女房たちの不安は読者の不安でもあるでしょう。読者もここまで読むと、何か厄介なことが起こるに違いないと感じているはずです。

殿は、道すがら思すに、いと口惜しく悪しきことにはあらねど、めづらしげなきあはひに、世人も思ひ言ふべきこと。大臣の、しひて女御をおし沈めたまふもつらきに、わくらばに、人にまさることもやとこそ思ひつれ、ねたくもあるかな、と思す。

内大臣殿は、帰りの道すがらお考えになる。まったく残念で悪い話というわけではないが、珍しいわけでもないご縁談だと世間の人も思ったり言ったりすることだ。大臣(光源氏)が、無理やり(弘徽殿)女御を押さえつけられたことでさえつらいのに、ひょっとして人にまさることにもなろうかと思っていたのだ。妬ましいこと、とお思いになる。


内大臣は、夕霧との縁談であれば、とんでもない話というわけではないと思うのです。しかし世間はありふれた縁談だと思うだろうとも危惧します。春宮に差し上げるということになれば「ありふれた」ものではないのです。光源氏の家との縁組は大臣同士の子女の結婚としてはありふれたものなのでしょう。それにしても、弘徽殿女御の立后を妨げた光源氏だけに、もし雲居雁が入内して、将来中宮になれば鼻を明かせることができるという気持ちもあったでしょう。それなのにまた、してやられた、という思いを抱いています。

殿の御仲の、おほかたには昔も今もいとよくおはしながら、かやうの方にては、挑みきこえたまひし名残も思し出でて、心憂ければ、寝覚がちにて明かしたまふ。大宮をも、さやうのけしきには御覧ずらむものを、「世になくかなしくしたまふ御孫にて、まかせて見たまふならむ」と、人びとの言ひしけしきを、めざましうねたしと思すに、御心動きて、すこし男々(をを)しくあざやぎたる御心には、しづめがたし。

大臣同士の仲は、だいたいは昔も今もとてもよくていらっしゃるのだが、このようなことになると張り合われた経緯を思い出されて憂鬱なお気持ちになるので目覚めがちに夜をお明かしになる。大宮もそういうそぶりについてはご覧になっているであろうに、「このうえなくかわいがっていらっしゃる御孫で、自由にさせておせわなさっているのでしょう」と女房たちが言っていたようすを、心外で妬ましいこととお思いになると、御心が動揺して、いくらか荒っぽく何ごともはっきりさせなければ気の済まないご性格なので我慢がおできにならない。

光源氏と内大臣は子どもの頃から仲は悪くないのです。しかし何かというと張り合う気持ちが、特に内大臣に強く、たとえば「絵合」巻で、斎宮女御(梅壺女御。秋好中宮)に負けてなるものかと精一杯の対抗心を燃やしていたことが思い出されるでしょう。そんなことを考えると寝られなくなってしまうのです。大宮も知らないはずはないのに、そう言えば女房たちが「自由に遊ばせている」というようなことを言っていたな、などと考えると、もともと気の強い、曲がったことの嫌いな融通の利かない人ですからいらいらしてくるのです。現代でも、普段は自分も娘を放置しているのに、現実に身近で育てている者(子の母だとか祖母だとか)が目を光らせていないのが悪いと言いたげな父親はしばしば見かけるように思うのですが、いかがでしょうか。

二日ばかりありて参りたまへり。しきりに参りたまふ時は大宮もいと御心ゆき、うれしきものに思いたり。御尼額(あまびたひ)ひきつくろひ、うるはしき御小袿(こうちき)などたてまつり添へて、 子ながら恥づかしげにおはする御人ざまなれば、まほならずぞ見えたてまつりたまふ。大臣御けしき悪しくて、「ここにさぶらふもはしたなく、人びといかに見はべらむと、心置かれにたり。はかばかしき身にはべらねど、世にはべらむ限り、御目離れず御覧ぜられ、おぼつかなき隔てなくとこそ思ひたまふれ、よからぬもののうへにて、恨めしと思ひきこえさせつべきことの出でまうで来たるを、かうも思うたまへじとかつは思ひたまふれど、なほ静めがたく おぼえはべりてなむ」と、涙おし拭ひたまふに、宮、化粧(けさう)じたまへる御顔の色違(たが)ひて、御目も大きになりぬ。


二日ほどして(内大臣は大宮邸に)参上なさった。頻繁に参上なさるのは大宮もご満足で、嬉しいこととお思いになっている。尼削ぎの額髪をつくろって立派な小袿を重ねてお召しになり、わが子ながら気恥ずかしくなるような人柄なので、直接顔を合わせるのではない形でお会いになる。大臣はご機嫌が悪く、「こちらにうかがいますのもきまり悪いことで、女房たちはどんなふうにみていますやら、と気が引けるのです。私はたいした人間ではございませんが、この世におります限りはご無沙汰することなくお目にかかり、気がかりになるような分け隔てなどしないでおこうと思っておりますが、ぶしつけな娘のことで恨めしいことと申し上げねばならないことが起こりましたので、このように考えたりはするまいと一方では思っておりますが、やはり心を鎮めることができませんので」と涙をお拭いになるので、大宮は化粧をなさったお顔の色も変わって目も大きく開かれてしまった。

「二日ばかりありて」とありますが、この二日間、内大臣は思い悩んでいたのかもしれません。一週間ほどして、では間延びしますし、翌日すぐにというのでは衝動的に過ぎるでしょうから、「二日ばかりありて」というのも無意味な表現ではないと思います。大宮は息子の来訪を喜び、身なりを整えて迎えるのですが、内大臣はご機嫌斜めです。あの陰口を聞いたからには、疑心暗鬼を生じて女房が自分を見下しているようにすら思えるのでしょう。そういう心理がうかがえます。内大臣は、娘のことで困ったことが起きているようだ、ということを恨みがましく言って涙ぐんでいます。大宮は驚いて、化粧をして整えていた顔色も変わり、目を見開くほどでした。「宮、驚きたまひぬ」と言えば済むことかもしれませんが、作者はあえて大宮の顔色や見開いた眼を描写して「驚く」という言葉を用いずに彼女の心を表現して見せます。

「いかやうなることにてか、今さらの齢の末に、心置きては思さるらむ」と聞こえたまふも、さすがにいとほしけれど、「頼もしき御蔭に幼き者をたてまつりおきて、みづからはなかなか幼くより見たまへもつかず、まづ目に近きが、交じらひなどはかばかしからぬを見たまへ嘆きいとなみつつ、さりとも人となさせたまひてむと頼みわたりはべりつるに、 思はずなることのはべりければ、いと口惜しうなむ。まことに天の下並ぶ人なき有職にはものせらるめれど、親しきほどにかかるは、人の聞き思ふところも、あはつけきやうになむ何ばかりのほどにもあらぬ仲らひにだにしはべるを、かの人の御ためにもいとかたはなることなり。さし離れ、きらきらしうめづらしげあるあたりに、今めかしうもてなさるるこそをかしけれ。ゆかりむつび、ねぢけがましきさまにて、大臣も聞き思すところはべりなむ。さるにても、かかることなむと知らせたまひて、ことさらにもてなし、すこしゆかしげあることをまぜてこそはべらめ。幼き人びとの心にまかせて御覧じ放ちけるを、心憂く思うたまふ」など聞こえたまふに、

「どういうわけで、老いた歳になって心を隔てなさるのでしょうか」と申し上げなさるのも、内大臣はさすがにおいたわしくは思うのだが、「心底頼れる方だと思って幼い娘をお預けして私自身は父親なのに幼い頃から面倒も見られませず、まず身近な者(弘徽殿女御)がうまく立后できなかったことを目の当たりにして嘆いては何とかしようとしており、いくらなんでもこちらの娘(雲居雁)は一人前にしてくださるにちがいないとご信頼申し上げてまいりましたのに、思いがけないことがございましたのでとても悔やんでおります。(夕霧は)まことに天下に並ぶ者のない学識者ではいらっしゃるようですが、(従姉弟という)親しい関係の者がこのようなことになるのは、世間の人の聞き思うところも、さほどの身分でもない者の場合でも浅はかなことと考えていますのに、あの人(夕霧)の御ためにもまったく見苦しいことです。縁のない人できちんとした目新しい家に、はなやかに迎えられるのがよいことなのです。親戚同士で馴れあうのはまともではないことで、大臣(光源氏)もお聞きになったらそうお思いになるでしょう。それにしても、こういうことがあるとお知らせくださって、ことさらに体裁を整えていくらかでも世間が納得するような形にするのがよいでしょうに。幼い人の心のままに放置されていらっしゃったことをつらいことに存じております」などと申し上げなさると、

内大臣は母親の大宮に対して雲居雁の養育の放任主義をなじるのです。自分は弘徽殿女御のことで手いっぱいだったために雲居雁については大宮に任せきりにしていたが、それはきっと娘を一人前にしてくださるだろうと信頼していたからこそだ、それなのに従姉弟同士で馴れ合いのように深い関係になるというなど世間体があまりにも悪いではないか、夕霧は学問のできる人ではあるが、血縁の濃い関係でこのようなことになるのはどちらにとっても不都合なことになる、光源氏もよくは思われないだろう、どうして事情を知らせてくれなかったのか、放任されるのもほどほどにしていただきたい、と延々と愚痴をこぼすのです。彼は世間体をとても重視していますが、実際は、春宮に入内されるつもりなのに、それがダメになってしまいそうなことが何よりも口惜しいのではないでしょうか。いとこ同士の結婚はこの当時は珍しいことではなく、光源氏と葵の上も従姉弟です。

夢にも知りたまはぬことなれば、あさましう思して、「げに、かうのたまふもことわりなれど、かけてもこの人びとの下の心なむ知りはべらざりける。げに、いと口惜しきことは、ここにこそまして嘆くべくはべれ。もろともに罪をおほせたまふは恨めしきことになむ。見たてまつりしより心ことに思ひはべりて、そこに思しいたらぬことをも、すぐれたるさまにもてなさむとこそ人知れず思ひはべれ。ものげなきほどを心の闇に惑ひて、急ぎものせむとは思ひ寄らぬことになむ。さても、誰かはかかることは聞こえけむ。よからぬ世の人の言につきて、きはだけく思しのたまふも、あぢきなくむなしきことにて人の御名や穢(けが)れむ」とのたまへば、

夢にもご存じではないことなので、意外なこととあきれられて「なるほど、このようにおっしゃるのも道理ですが、私は誓ってこの人たちの心の中は知らなかったのです。ほんとうに残念なことといったら、私の方こそもっと嘆きたいのです。同罪のようにおっしゃいますのは恨めしいことです。(雲居雁を)お世話し始めたときから格別に心をかけて、あなたが思い至ることがおできにならぬようなことまでも立派に育ててあげようと人知れず思っておりました。まだ一人前にもなっていない人たちなのに、孫かわいさの心の闇に眼がくらんで、急いでことを運ぼうなどとは思いもよらないことです。それにしても、誰がこんなことを申し上げたのでしょう。よからぬ世間の噂話を真に受けて手厳しくお考えになってはこのようにおっしゃるのもつまらなくいいかげんなことで、姫君の御名が穢れましょう」とおっしゃると、

大宮はびっくりしました。自分も知らなかった孫たちの恋愛について聞かされたのですから。自分としては雲居雁を一生懸命育ててきたし、男親にはわからないようなことまでこまごまと教えてもきた、という自負もありますから、内大臣があまりにも頭ごなしにとがめるものですから反論もしたくなるでしょう。そしてそれは無責任な噂に過ぎないでしょうと、興奮している息子をなだめるように言います。

「何の浮きたることにかはべらむ。さぶらふめる人びとも、かつは皆もどき笑ふべかめるものを、いと口惜しく、やすからず思うたまへらるるや」とて、立ちたまひぬ。心知れるどちは、いみじういとほしく思ふ。一夜のしりう言の人びとは、まして心地も違ひて、「何にかかる睦物語をしけむ」と、思ひ嘆きあへり。

「どうしてでたらめなんかでありましょうか。お仕えしている女房たちも、一方ではみなあしざまに言って笑っているようですのに。まったく残念で心配に思われるのですよ」といってお立ちになった。事情を知っている女房たちはたいそうおいたわしいことと思う。先夜陰口をたたいていた人たちはまして動揺して、どうしてあんなふざけた話をしたのだろう、と思い嘆き合っている。

内大臣はいいかげんな話ではなく、女房たちが陰でこそこそ笑っているのだと、なおも厳しく言います。それだけを言うと、ぷいと立ち上がります。この部分を『岷江入楚』は「内府鬱憤散せさるのさま也(内大臣が鬱憤を晴らせないようすである」と言っています。内大臣の厳しい言葉におののいたのは女房たちです。若い二人の恋心を知っている人は、気の毒なことになりそうだ、と思い、先日ひそひそ話をしていた女房たちは後悔しているのです。
さて、若い二人の運命やいかに。

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下戸にまっしぐら(2) 

昨日書いた横山大観と言えば、酒豪で知られ、広島県三原市のお酒である「酔心」を愛したことで知られます。大観は、もともとは下戸だったそうですが、岡倉天心に「お酒の一升くらい飲めないとだめだ」というようなことを言われ、実際に一日に一升も二升も飲めるようになったそうです。ほんとうに下戸だったのでしょうかね? 大観は自分のことを「酒豪」ではなく「酒徒」だといったと伝わりますが、その彼が愛したのが「酔心」だということです。大観は「酔心」の社長とは親しくなって、社長は大観にずっとお酒を提供したのだとか。私も4年間広島にいたときは、「賀茂鶴」とか「賀茂泉」とかこの「酔心」とか、あちらの銘酒をいろいろいただきました。
関西のお酒というと灘の酒が有名で、西宮、神戸、伊丹などでは今でも酒造が盛んです。
その中で異彩を放つのが池田のお酒である

    呉春

ではないでしょうか。桂枝雀さんも愛されたそうですが、私も一時興味を持ったことがあって、なかなか手に入らないこのお酒を、わざわざ池田まで買いに行ったことがあります。「池田の酒買い」です。その後、生産量が増えたのか、このお酒はずいぶん出回るようになって、家の近くの酒屋でもいつも置いてあります。しかしこれも贅沢なので次第に私の口には入らなくなりました。
ところが先日、スーパーでこの「呉春」を発見したのです。しかも、一升瓶が1000円(税別)! 在庫処分なのかとは思いますが、こういうことをされると買わないわけにはいかないでしょう。
早速入手して、これで5日は楽しめそうだと思っていたのです。
栓を開けるといい香りがします。醍醐味ですね。飲んでみると在庫処分であろうが何だろうが、呉春は呉春です。やはりおいしいのです(あまりよくわかっていませんが)。
ところが、

    一合

も飲まないうちに満足してしまって、その日は終わり。
次の日も同じくらいでじゅうぶんでした。
下戸になるにもほどがある! と思いつつ、これなら10日楽しめるわけなので、けっこうな話じゃないかと思うようになりました。
‥で、結局2週間かかってしまいました(笑)。

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