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二度目の防府市 

山口県の東側は、昔は周防国でした。その国府のあったところが周「防」の国「府」で防府。今は山口県防府市です。菅原道真を祀る防府天満宮という実に立派な神社があります。わたしはこれまでに3度行きました。所在地が防府市松崎町であることからもわかるのですが、もともと松崎天神と言っていたようで、松崎天神縁起絵巻(鎌倉時代)という絵巻物があります。防府と言えばまずこの神社が思い浮かぶくらいです。
防府市の周辺は平成の大合併のときにどんどん合併が進み、私は昨年防府に行って地元の方に伺うまでは「徳山市」というのは今もあると思っていました。しかし新南陽市、熊毛町、鹿野町との合併で、今では周南市というようです。
防府市も山口市と合併する話があったようにうかがいました。山口市は県庁所在地とは言いながら少し奥まったところにあり、人口では長門の下関市にかなわないという町です。だからということなのか、市域を拡張していったようで防府が加われば名実ともに周防の中心地になれたのかな、と感じます。もしそうなったら新しい市の名前はやはり山口市でしょうから、防府市が嫌がったのではないでしょうか。
昨年末の慌ただしい時に、この防府からかつての徳地町、今の

    山口市徳地

に行ってきました。徳地人形浄瑠璃のお話を伺うためでした。ただ、そのときは年末でもありましたし、人形そのものは拝見できしましたが、舞台を目の当たりにすることはできなかったのです。
最終目的地は山口市だったのですが、あえて防府で一泊したのは、防府天満宮や徳地地域などをもう一度訪ねておきたかったからです。天満宮は、前回は新年の準備で雑然としていたうえ、歴史館(宝物殿)がウイルス感染防止の観点から閉館になっていたのです。今回はあの時より感染はひどいかもしれませんが、開館していました。さほど興味はなかったのですが(笑)、山縣有朋没後100年記念特別展示「山縣有朋と防府天満宮」展がおこなわれていました。また、徳地の方までバスで移動し、これまた前回見られなかった二の宮の石風呂に行きました。
そして翌日、午前中に天満宮をずっと東の奥に行ったところにある阿弥陀寺という紫陽花で有名なお寺に行きました。ここに石風呂があると知って行ったのです。そしていよいよ山口市水の上町にある

    正宗山洞春寺

に行ったのです。このお寺は1572年に安芸国吉田(今の広島県安芸高田市)に創建され、それが山口県の萩城内に移り、さらに明治になって現在地に移されたものだそうです。現在地は国清寺の跡地で、その寺の山門(重要文化財)が残っています。また同じ重要文化財の観音堂は山口市滝町の観音寺にあったものを移築したのだそうです。
この日のメインイベントは野澤松也師匠の創作浄瑠璃と、徳地人形浄瑠璃とのコラボで『傾城阿波の鳴門』でした。
その記録はまた後日書きます。

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出産のお話をします 

情報公開してかまいません、と言われましたので、お知らせしておきます。夏に勉強した平安時代の出産について、この冬にお話しすることになりました。専門家にとっては当たりまえのことばかりだとは思いますが、一般的にあまり知られていないであろうことについてお話ししてみようと思います。90分の講座ですが、こういう場合、話の組み立てがとても重要で、途中で飽きられないようにするのはなかなか難しいです。以前経験があるのですが、途中で席を立つ方がいらっしゃるととてもショックです(笑)。
どなたでもご参加いただけるのですが500円かかるそうです。日程、場所などの詳細はFacebookやInstagramに書きますので、どうぞそちらでご覧ください。

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今年も新作浄瑠璃 

ちょっとわけがあって、詳しいことは言えないのですが、この夏、ひとつ浄瑠璃を書きました。詳しく言えないのは、著作権の問題が絡んでくることと、それとの関係で、この作品が上演されても私の名前が出ないからです。
「自分が書いたのだから自分の名前が出るのは当然で、出ないのであれば作品を返してもらう!」という考えを持つ方もいらっしゃるでしょう。それはちっともおかしいことではありません。むしろまっとうな考えと言ってもいいと思います。権利を主張することは大切です。
ただ、私はそういうことに無頓着で、名前が出ようが出まいが、あまり関心はないのです。もちろん私だって名誉欲のようなものはないわけではありませんから出してもらえたら嬉しいですが、出ないからと言って不満を持つことはないのです。「名前は出ません」と言われたときも「そうですか、別にかまいませんよ」という程度の気持ちしか湧きませんでした。こういう考えを持っているから出世もしないし(教員には出世なんてないといってもいいのですが)、

    お金持ち

にもなれないのだ(笑)と思いますが、もう貧乏には慣れっこになっていますから問題ありません。
さてその浄瑠璃ですが、上のような事情で内容もはっきりとは言えません。ただ、書いたものが多少変更はあるものの、節付けされて語っていただけそうだ、ということは記録しておこうと思います。私は自称浄瑠璃作者ですが、新作浄瑠璃の需要なんてめったにありませんので「プロ」と名乗ってお金をもらっているような「作家」ではありません。あくまで素人の「作者」です。
このたび書いたものは、史実を基にした、いわば

    時代もの

の作品で、私が主に書いてきた世話の内容とは異なります。しかしどうしても私が書くと時代物も「時代世話」になってしまいます。「渡海屋」ではなく「すしや」、「切腹」ではなく「腹切」という感じになります。力強い大柄な作品ではなく、庶民のはかない願いを描いてみました(できたかどうかはわかりません)。
私が合戦が嫌いなのは、その陰で多くの庶民がつらい思いをしなければならないからで、そういう発想は江戸時代の浄瑠璃と共通すると思います。江戸時代の浄瑠璃作家たちも、庶民の哀しみを必ず書き込んでいます。知盛が碇をかついで海に沈む姿が勇壮ですばらしい、ともいえるでしょうが、お里や権太の悲哀こそが観客に訴えてきたのではないでしょうか。樋口次郎のカンヌキもかっこいいですが、権四郎一家の哀しみこそがクライマックスだと思います。三段目の切にはそういう場面が多いはずです。
この新作は、短い期間で「やっつけ仕事」のようにあわてて書かざるを得なかったものです。10日もかけなかった(というか、かけることができなかった)と思います。どこで上演されるのか、まだ知らないのですが、陰ながら成功を祈っている次第です。

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2022年の中秋の名月 

子どものころ、兄が記念切手を集めていて、まだ自主性のなかった私は、兄の真似をしておけば間違いないというので、若干切手に関心を持っていたことがあります。そのころ、「月に雁」と「見返り美人」はとても価値のあるものだと言われていました。きれいなものであればかなり高額で売られていたような気がします。もちろん子どもの私にそんなものが買えるわけがありませんから、カタログの写真を眺めるのが精一杯でした。おそらく今でもマニアの中では人気があるのでしょうね。
「見返り美人」は菱川師宣、「月に雁」は歌川広重の絵です。広重の絵には「こむな夜かまたも有うか月に雁」という画賛があります。「こんな夜がまたとしてあるだろうか、月に雁が重なって見える」ということでしょう。

  白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の
    数さへ見ゆる秋の夜の月

は、『古今和歌集』の「よみびと知らず」の歌です。白い雲がかかっている空に羽を交わすようにして飛ぶ雁の数まで見える、そんな明るい秋の月だ、というのです。月と雁は昔からペアで愛されることがあったのです。もうひとつ、『古今和歌集』には月と雁の歌があります。「さ夜中と夜は更けぬらし雁がねの聞こゆる空に月渡る見ゆ」こちらは雁の姿ではなく鳴き声と素材にしています。秋は、月のほかにも秋風、七夕、虫の音、雁、鹿、草花(萩、女郎花など)、白露、菊、霧、時雨、紅葉など歌の題材になる景物がたくさんあるため、『古今和歌集』の中では

    「中秋の名月」

ということは特に主題になりません。月はよく詠まれますが、特に時期は決まっていません。有名な歌に「月見ればちぢにものこそ哀しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど」(大江千里)があります。この歌の下の句は白居易の漢詩を下敷きにしており、満月とも言っていません。「ひさかたの月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ」(壬生忠岑)も秋の明るい月を詠んでいますが、時期については厳密ではありません。千里の歌と忠岑の歌は『是貞親王家歌合』に載せられた歌です。
今年は9月10日が旧暦八月十五日でした。私はこのところ、夕方になるときれいな月が見えるスポットが近くにありますので、そこに行くことにしているのですが、今年はその時間帯が曇り空で、やっと宵になって観ることができました。

    かぐや姫

が月に帰り、『源氏物語』でもこの翌日に光源氏は夕顔を連れて廃院に行きます(そこで夕顔は頓死します)。光源氏の正妻葵の上が亡くなったのもこのころ、紫の上が亡くなったのもこの時期です。秋の、少し物悲しくなる折を作者は選んだのかもしれません。「時しもあれ秋は人の別るべきあるを見るだに恋しきものを」という歌があります。盟友の紀友則が亡くなったことを悼んで壬生忠岑が詠んだものです。秋は哀しい季節なのです。
『源氏物語』で月を観るというと、「鈴虫」巻が思い出されます。光源氏の妻である女三宮が密通して出産したあと、出家してしまいます。そして光源氏は、八月十五日に彼女がひっそりと暮らす庭に鈴虫を放って秋の風情を醸し出します。
中秋の満月ですから、音楽の遊びをおこなうのが常だったようで、この夜も内裏で管絃の催しがあるはずでした。しかしなぜか中止になったらしく、風流な人たちが光源氏の屋敷に来ます。すると光源氏は「今宵は鈴虫の宴をしよう」と言うのです。月の宴ではなく、あえて鈴虫の宴と言っています。
そこに院(光源氏の異母弟、実は光源氏の子)から招待があって、そちらでは月の宴が催されます。

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天王寺から新世界(2) 

実は、美術館に行った日、私は天王寺の駅で少し迷ってしまいました。私の住む町にはあり得ない大きさの駅ですから、人の流れに乗り誤ると間違いを起こしてしまいます。どうも私はあべのハルカスに行く人たちの流れに乗ったようなのです。途中で気付いた時にはかなり天王寺公園からは離れていました。
さて、大阪市立美術館に行くだけで、またすぐに天王寺駅に戻ったらあまりあの周辺の雰囲気を味わうことはできません。といっても、ハルカスにはまるで興味がなく、入ろうという気になりません。むしろ私は、美術館からの帰り道は西に行って新今宮駅から帰ることにしているのです。美術館の隣は大阪市立天王寺動物園。ここには一度だけ入ったことがありますが、もう記憶の彼方です。その動物園をまたぐよう広い道を歩いて、

    新世界門

とかいうのを超えると、そこはたった今まで見ていた場所とはまるで雰囲気の違うところです。その名も「新世界」。昔はパリのエッフェル塔を模した初代の通天閣とルナパークという遊園地があったところです。建てられたのは1912年といいますから、100年以上前のことでした。しかし通天閣は火災や戦時の資材供出のために完全に姿を消しました。その後二代目の通天閣が場所を移して建設され、1956年に竣工したそうです。北側には放射状の道が出ており、それは凱旋門のイメージです。
先日書きましたように、私はこの塔にのぼったことはないと思います。幼いころに親に連れられて行った可能性はゼロではありませんが、少なくとも物心がついてからは行っていません。最近も近くまですら行ったことがなくて、次回はのぼらないまでも、足元までは行ってみようかな、と思っています。
通天閣から南側には通天閣南本通りがあって、以前はここに大きなふぐの提灯がありました。

    づぼらや

ですね。今はその建物だけがあって、何とも寂しいのです。あの跡地はどうなるのか、もう決まっているのでしょうか。
づぼらやの閉店は寂しいのですが、周囲には串カツの店などがあっていまもそれなりににぎやかです。なにしろ「ビリケンさん」の模型が大きさを競うようにあちこちに置かれていて、店の構えも大きくて派手です。私は美術館にはいつも一人で行きますので、当然このあたりの店に入ることもありません。一人だから入る、という人も多いでしょうが、私は逆なのです。誰かに誘われでもしないととても行けません。
さらに南側には飲食店などの居並ぶ南陽通商店街がありますが、ここは通称ジャンジャン横丁。ここにも私は行ったことがありません。いつも美術館でくたびれるので、なかなか足が向きませんが、いつか元気な状態でこのあたりに来たら歩いてみたいところです(歩くだけです)。
こうして天王寺のひとつ西側の駅である新今宮駅まで行ってそこからJR環状線外回りで大阪駅まで帰るのです。
天王寺の駅で迷ったと書きましたが、実はこの日はJR大阪駅から阪急電車に乗り換えるところでも迷いました。都会はどんどん変わっていくので、私はもうついていけません。このまま田舎者で終わろうと思います。

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