看護師の卵たちへ(1) 

先日、機会をいただいて、看護師の卵である看護学科の学生に『文楽 六代豊竹呂太夫 五感のかなたへ』のお話をさせていただきました。
はっきり言って、学生はほとんど文楽を知りません興味もないという人も多いのです。
それを承知で、さてどういうお話をするか、いろいろ考えてみました。
まずは、弟子と師匠の関係について、呂太夫さんがおっしゃっていたことを紹介しました。

 ★芸というのは「1+1=2」みたいなお勉強やない
 ★義太夫節は神と悪魔が混在してるような鬼気迫るものが身についてこないと


人間を相手にする仕事ですから、看護師さんは心のケアが大事です。この薬を飲ませたら治る、というような「お勉強」のかたまりの看護師さんではやっていけないと考えたようです。
「神と悪魔の混在」という言葉も何か感ずるところがあったようです。
そして、呂太夫さんの最初の師匠の竹本春子太夫師匠がおっしゃったという

 ★お前、わしに頼みにこなあかん。待ってたらあかんのや。お前から『お願いします』というてこんと稽古はでけへんのや

というお言葉。
学生は、受身一辺倒だった勉強を少しでも変えたいと思ってくれたようです。
こういうちょっとした言葉を紹介するだけでも意味がある。そんなことを感じました。

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正誤だけでなく 

仕事で、文部科学省の作っている小学校の学習指導要領を読むことがあります。大体私は役所嫌いで、文部科学省も好きではありません(笑)が、小学校教員になる学生にとっては指針になるものですし、私も見ないわけにはいかないのです。
私の場合は国語科ですが、その指導の目標は次のように書かれています。

  国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、
  伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力及び言語感覚を養い、
  国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる。


自分が表現できること、他人の話す(書く)ことを理解することが大事です。そして伝え合う、つまりコミュニケーションの力も大切です。さらに思考力、想像力、言語感覚を養う必要があるのです。
ごもっともでございます。
相手のいうことを理解するという点を、私は今、特に重視しています。「話す」「聞く」「書く」「読む」でいうなら

    「聞く」と「読む」

です。
人の言うことを正確に理解するのはなかなか難しく、私自身もその能力が十分だと思っていません。私だけでなく、多くの人がつい自分の言いたいことを主張するばかりで相手の立場に立たないことがあると思うのです。

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『文楽 六代豊竹呂太夫 五感のかなたへ』の訂正について 

豊竹英太夫さんが六代呂太夫になられました。その記念の意味も込めて本を作るお手伝いをしましたが、かねてより敬愛する専門家の先生からご指摘をいただきました。
五代目呂太夫さん(以下「先代」と書きます)について書いている部分で133頁なのですが、ポイントは
★先代は6歳から修業を始められた
★先代のご母堂様は女流義太夫であった
★先代のご母堂様は竹本文昇と名乗られた
ということです。
これについて先述の先生から詳しいお教えと資料をいただきました。以下、いただいた資料と先生のお教えをもとに、文楽の何人かの太夫さんに教えていただいたことを含めて私なりに理解したことから書きます。
先代は、お母様が義太夫を群馬では有名だった竹本文蝶師匠(女性)に習っていらっしゃったのですが、小さい頃からその稽古について行かれ、4歳にして文蝶師匠の手ほどきを受けられました。その後東京で竹本綾之助師匠にも習われ、6歳の時に綾之助師匠のご自宅において十代豊竹若太夫師匠に入門し、若子太夫を名乗られたのです。
修業を始められたのを6歳としているのはこの若太夫への入門を指していて、これはこのままでもいいかなと思っています。ただ、その下地として4歳から文蝶師匠に手ほどきを受けられたことは、先代の義太夫人生を考える時には欠かすことのできない重要な事実だと思いますのでここに明記しておきます。
次に、お母様が女流義太夫だったということなのです。これは先代のことが書かれた文楽の資料から拝借した記述だったのですが、いささか不適切だったと思います。「女流義太夫」といってしまうと、プロとして出演したり、弟子を持って指導したりするニュアンスがあるでしょう。しかし、お母様は義太夫の稽古はなさったものの、あくまで素人としての稽古であって、「女流義太夫」という、プロを思わせるような書き方はすべきではなかったと反省しています。
最後にお名前のことなのですが、これも文楽のことが書かれた書物からお借りしたものでしたが、お母様は「文昇」の名は名乗っていらっしゃらなかったのではないかという疑いが濃くなってきました。文昇という名を文蝶師匠のお弟子さんと思われる方が名乗っていらっしゃった事実はあるのです。昭和38年の記録に竹沢文昇という方のお名前があり、また昭和51年の記録では竹本文字栄太夫さんのご尊父様も文昇を名乗っていらっしゃったようです。しかし先代のお母様が名乗っていらっしゃった記録は今のところ見当たりません。また、文蝶師匠の聞き書きが残っているのですが(もちろん先述の先生からいただいた資料です)、そこには先代のことについて触れられた一節があって、お母様と一緒に来られて、お母様より覚えが早かったというエピソードまで書かれていました。文蝶師匠はそこで先代のお母様のことをご本名でおっしゃっています。何らかの芸名のあるお弟子さんというわけではなかったような感じなのです。
よって、名乗られたかどうかはっきりしませんので、これも訂正すべきだと思います。
以上のことから、五代豊竹呂太夫師匠は、

★4歳にして竹本文蝶師匠に義太夫の手ほどきを受け、6歳で豊竹若太夫師匠に入門して若子太夫を名乗られた。
★お母様は義太夫を竹本文蝶師匠に習われたことがあって、稽古には幼い正少年(五代呂太夫)を同伴された。

という形に訂正したいと思っています。

もうひとつ、豊竹呂勢太夫さんなのですが、167頁に略歴を書いています。そこに「群馬県出身」と書いてしまいました。五代目の師匠と混乱してしまったのだと思います。呂勢太夫さんは東京都のご出身です。ご本人にはすでにお詫びしましたが、皆様方にもお詫びして訂正致します。

これはまったく私個人の責任によるミスで、六代呂太夫師匠はもちろん、出版社にも責任のないことです。すでに公刊されたものですので回収して刷り直すこともできません。できるかぎりSNSなどを通してこのブログ記事をご覧いただくようにしてお詫びと訂正のお願いをしたいと思っています。

説話の中の歌人(4) 

こうして説話の中の歌人を書き続けていくときりがないくらいですので、もうひとりだけご紹介しておきます。
私も大好きな歌人である和泉式部です。『百人一首』には「あらざらむこの世のほかの思ひいでに今ひとたびの逢ふこともがな」が入っていますが、ほかに「黒髪の乱れも知らずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき」「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり」「もの思へば沢の螢も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」などあまたの名作を残しています。
『古今著聞集』巻第五(和歌第六)に「和泉式部田刈る童に襖を借る事、ならびに同童式部に歌を贈ること」という話があります。
和泉式部が稲荷(京都伏見)に参詣した時、田中明神(京都市下京区の田中神社)のあたりで時雨に遭い、

    田を刈っていた童

に「あを(襖)」を借りて参詣しました「襖」は上に着る袷の類です。そして参詣からの帰りに返したのですが、その翌日、童が手紙を持ってきました。「時雨する稲荷の山のもみぢ葉はあをかりしより思ひそめてき」(時雨の降る稲荷の山の紅葉は青葉の頃から紅葉することを思っていますが、私はあなたが襖を借りたときから思い慕うようになったのです。「あをかりし」は「青かりし」「襖借りし」を掛ける)とありました。すると和泉式部は「あはれと思ひてこの童を呼びて『奥へ』といひて呼び入れけるとなむ」という行為に出たのです。奥へ入れてどうしたとは書いていませんが、書かなくても

    好色な

和泉式部なのだから童の思いを叶えてやったのだということがわかるのでしょう。

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第35回だしまきの夕べ 

昨夜、文楽第二部終演後に大阪日本橋文楽劇場そばの季節料理の店

    両輪 (りょうわ)

で、文楽ファンの集いである「だしまきの夕べ」がおこなわれました。
私は1年ぶりくらいにお邪魔しました。
みなさまとても楽しそうで、素晴らしい会になりました。
やたけたの熊実行委員長の進行でお話が弾みました。お店の女将さんがいらっしゃいませんので、雑用はセルフサービス。みなさん、自分の店のように働いてくださいました。

上演過多とも言われる『曽根崎』、久しぶりの『楠』、そして六代呂太夫襲名披露狂言の『菅原伝授手習鑑』のことなど、どんなお話になったのでしょうか?

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