2017年文楽4月公演千秋楽 

本日、文楽4月公演が千秋楽を迎えます。
楽屋で風邪が流行ったという噂を聞きましたが、つつがなく楽となりましたことをお慶び申し上げます。
みなさま、いかがご覧になりましたでしょうか。
六代豊竹呂太夫襲名披露も一段落。次は東京での披露です。





にほんブログ村 演劇ブログへ
 ↑応援よろしく!

KatayamaGoをフォローしましょう

スポンサーサイト

『文楽 六代豊竹呂太夫 五感のかなたへ』の訂正について 

豊竹英太夫さんが六代呂太夫になられました。その記念の意味も込めて本を作るお手伝いをしましたが、かねてより敬愛する専門家の先生からご指摘をいただきました。
五代目呂太夫さん(以下「先代」と書きます)について書いている部分で133頁なのですが、ポイントは
★先代は6歳から修業を始められた
★先代のご母堂様は女流義太夫であった
★先代のご母堂様は竹本文昇と名乗られた
ということです。
これについて先述の先生から詳しいお教えと資料をいただきました。以下、いただいた資料と先生のお教えをもとに、文楽の何人かの太夫さんに教えていただいたことを含めて私なりに理解したことから書きます。
先代は、お母様が義太夫を群馬では有名だった竹本文蝶師匠(女性)に習っていらっしゃったのですが、小さい頃からその稽古について行かれ、4歳にして文蝶師匠の手ほどきを受けられました。その後東京で竹本綾之助師匠にも習われ、6歳の時に綾之助師匠のご自宅において十代豊竹若太夫師匠に入門し、若子太夫を名乗られたのです。
修業を始められたのを6歳としているのはこの若太夫への入門を指していて、これはこのままでもいいかなと思っています。ただ、その下地として4歳から文蝶師匠に手ほどきを受けられたことは、先代の義太夫人生を考える時には欠かすことのできない重要な事実だと思いますのでここに明記しておきます。
次に、お母様が女流義太夫だったということなのです。これは先代のことが書かれた文楽の資料から拝借した記述だったのですが、いささか不適切だったと思います。「女流義太夫」といってしまうと、プロとして出演したり、弟子を持って指導したりするニュアンスがあるでしょう。しかし、お母様は義太夫の稽古はなさったものの、あくまで素人としての稽古であって、「女流義太夫」という、プロを思わせるような書き方はすべきではなかったと反省しています。
最後にお名前のことなのですが、これも文楽のことが書かれた書物からお借りしたものでしたが、お母様は「文昇」の名は名乗っていらっしゃらなかったのではないかという疑いが濃くなってきました。文昇という名を文蝶師匠のお弟子さんと思われる方が名乗っていらっしゃった事実はあるのです。昭和38年の記録に竹沢文昇という方のお名前があり、また昭和51年の記録では竹本文字栄太夫さんのご尊父様も文昇を名乗っていらっしゃったようです。しかし先代のお母様が名乗っていらっしゃった記録は今のところ見当たりません。また、文蝶師匠の聞き書きが残っているのですが(もちろん先述の先生からいただいた資料です)、そこには先代のことについて触れられた一節があって、お母様と一緒に来られて、お母様より覚えが早かったというエピソードまで書かれていました。文蝶師匠はそこで先代のお母様のことをご本名でおっしゃっています。何らかの芸名のあるお弟子さんというわけではなかったような感じなのです。
よって、名乗られたかどうかはっきりしませんので、これも訂正すべきだと思います。
以上のことから、五代豊竹呂太夫師匠は、

★4歳にして竹本文蝶師匠に義太夫の手ほどきを受け、6歳で豊竹若太夫師匠に入門して若子太夫を名乗られた。
★お母様は義太夫を竹本文蝶師匠に習われたことがあって、稽古には幼い正少年(五代呂太夫)を同伴された。

という形に訂正したいと思っています。

もうひとつ、豊竹呂勢太夫さんなのですが、167頁に略歴を書いています。そこに「群馬県出身」と書いてしまいました。五代目の師匠と混乱してしまったのだと思います。呂勢太夫さんは東京都のご出身です。ご本人にはすでにお詫びしましたが、皆様方にもお詫びして訂正致します。

これはまったく私個人の責任によるミスで、六代呂太夫師匠はもちろん、出版社にも責任のないことです。すでに公刊されたものですので回収して刷り直すこともできません。できるかぎりSNSなどを通してこのブログ記事をご覧いただくようにしてお詫びと訂正のお願いをしたいと思っています。

第35回だしまきの夕べ 

昨夜、文楽第二部終演後に大阪日本橋文楽劇場そばの季節料理の店

    両輪 (りょうわ)

で、文楽ファンの集いである「だしまきの夕べ」がおこなわれました。
私は1年ぶりくらいにお邪魔しました。
みなさまとても楽しそうで、素晴らしい会になりました。
やたけたの熊実行委員長の進行でお話が弾みました。お店の女将さんがいらっしゃいませんので、雑用はセルフサービス。みなさん、自分の店のように働いてくださいました。

上演過多とも言われる『曽根崎』、久しぶりの『楠』、そして六代呂太夫襲名披露狂言の『菅原伝授手習鑑』のことなど、どんなお話になったのでしょうか?

にほんブログ村 演劇へ
↑応援よろしく!

KatayamaGoをフォローしましょう

書評 

昔、論文集の書評を頼まれたことがあります。そんなのしたことありません、と言ったのですが、若い人に頼む、ということになったそうで、私にお鉢が回ってきました。
結局、書評ではなく、紹介に終わってしまい、執筆者の皆様には申し訳ないことになってしまいました。
先月刊行された『文楽 六代豊竹呂太夫 五感のかなたへ』については、仲野徹氏がhonzに書いてくださいました。
そしてまた短歌の同人誌『橙(オレンヂ)』に、代表の野澤正子先生が「魂を揺さぶる語り・義太夫の世界」と題してお書きくださったのです。
野澤先生はさすがにするどくポイントを押さえた読みをしてくださり、ありがたい限りでした。
売って儲けよう、という発想は、私にはありません。出版社に迷惑がかからない程度に売れてほしいとは思いますが、それだけです。
ただ、ひとりでも多くの方のお目にとまりますことを期待するため、こうして紹介してくださるのはありがたく、アマゾンなどでレビューがたくさん出ればいいな、とも思うのです。
皆様も何かお感じのことがございましたら、どうかお知らせくださいませ。

襲名披露公演 

この4月もやっと文楽劇場に行きました。
かなり息切れがひどいので、久しぶりに地下鉄を利用しました。やはり早いです。
10時過ぎに着いたため、ゆっくり展示室も拝見。
『文楽 六代豊竹呂太夫 五感のかなたへ』も展示されていて、不思議な気分でした。本の背が堅めですので、真ん中辺りを広げて展示するのは難しいと思っていたのですが、呂太夫さんのサインがある見返しの部分が出ていました。
しばらく売店を見ていたのですが、私が見ている間は一冊も売れていませんでした(笑)。
二階に上がって呂太夫師匠ご夫妻にご挨拶して、観劇。さすがに名作で、あっという間に桜丸は切腹しました。休憩時間にチラッとスマホを開けると、野澤松也師匠から連絡があり、ロビーにいます、とのこと。
お弟子さんの野澤輝也さんにもお会いすることができました。
襲名披露口上では、お痩せになったものの、やはり咲太夫さんの口上が口さばきがはっきりして一番よくわかりました。
もう二度とないであろう呂勢太夫、清治の寺入り。
もったいない配役。
呂太夫、清介から咲太夫、燕三の寺子屋。
床の方々の裃はもちろん、人形遣いさんも袴はお揃いで、呂太夫紋を付けていらっしゃいます。
寺子屋は、ほんとうにあっという間でした。もう、何度観たかわからない演目ですが、さすがの名作。隣の方は泣いていらっしゃいました。
いろいろ事情はあるでしょうが、寺入りを呂太夫さんのお弟子さんの打って替え、寺子屋は呂太夫さんお一人か呂勢、清治の首実検と呂、清介のいろは送りというのは無理だったでしょうか。
終演後、思い立って道頓堀へ。そばの更科さんに行って本に書かせていただいたことを申し上げようと思ったら、お店がありません。いつの間にか閉店されたようで、がっかりしました。
止むを得ずブラブラと歩いていたら、いつの間にか梅田に着いてしまいました(笑)。また地下鉄に乗らなかった・・。
いろいろなことを考えた1日でした。文楽とは縁が薄くなりつつあることを寂しく思いながら、あちこちの名残の桜を愛でて帰りました。