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女性技芸員 

文楽の技芸員さんはすべて男性です。女性は入れてもらえません。
研修生の応募資格にも「中学校卒業(卒業見込みを含む)以上の男子」と明確に記されています。
ところが、今や研修生に応募する男子はめっきり減り、このところはゼロというありさまです。これでは文楽の未来は暗澹たるもので、何とかしなければなりません。昨年から夏休みなどに体験する機会が提供されていましたが、こちらは女子も可ということでした。体験はできてもプロにはなれない、というのはどこか理不尽に思えます。教えるほうだって男子に関しては何とかプロになってもらおう、という気持ちでしょうが、女性は「ファンになってね」で終わってしまいそうです。
この体験などを通して男子が入門してくれば技芸員の確保はできるでしょうが、現実にはいかがなものでしょうか。そこでしばしば出てくるのが、文楽にも

    女性を採用

すればどうか、というアイデアです。
以前は男性のもの、という印象が強かった落語家でも最近は女性がずいぶん増えています。電車の女性乗務員さんも昔は見たことがありませんでしたが、今は普通にいらっしゃいます。女子マラソン、女子サッカー、女子ラグビー、女子ボクシングなどもあたりまえになってきました。
文楽も女性が加わる日が来ているかもしれません。太夫さん、三味線弾きさんはプロの方もいらっしゃるのは周知のことです。豊竹呂太夫さんのお弟子さんとしては呂秀さん、呂響さんらが活動していらっしゃいます。竹本駒之助さんや鶴澤津賀寿さんなどは人間国宝にまでなっていらっしゃいます。技芸が不足するということはないように思います。声の大きさという点では私は小さなホールでしか聞いた経験がありませんのでよくわかりませんが、大丈夫なのではないでしょうか。

    オペラ歌手

を見ているとそうとは思えないのですが。三味線もじゅうぶん行けそうに思います。
人形は背の高さ、手の長さ、腕力の強さなどで大きな人形は扱えないかもしれませんが、小ぶりのもの、女性の人形などであれば対応できるように思います。各地の人形浄瑠璃でも女性の人形遣いさんはいらっしゃいます。能勢の人形浄瑠璃でもそういう方はいらっしゃいますね。足遣いのうちは男性の先輩とからだをくっつけて動かねばなりませんが、いまどきそれくらいで問題になることはないようにも思いますし、組み合わせを考えればうまくいくのではないでしょうか。
セクハラはどの世界でも厳しくなっていますから、文楽でも厳密に対処すればよいでしょう。
すぐに切場を語ったり弾いたりするわけではありませんし、主役の人形を持つわけでもありませんから、試してみる価値はありそうに思います。もちろん、伝統とか歴史とかいうことを問題にすると「前例がない」と言われますが、それでも滅んでしまうより前に手を打つことも大事だと思います。
オーケストラでは、外部の人に出演してもらう(いわゆる「トラ」「エキストラ」)ことがありますが、東京公演の時だけ、大阪の時だけのように常時出演するのでない形もありそうに思えます。
ひょっとすると「女性技芸員」という言葉を口に出すことすら「タブー視」されているのかもしれませんが、考えても良いのではなかろうか、と思います。

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2023年2月文楽東京公演千秋楽 

ついこの間、初日です、と書いたはずなのに、あっという間の9日間でした。日本青年館ホールでおこなわれている文楽2月公演が本日千秋楽を迎えます。ご覧になった方々、いかがでしたでしょうか。
このあとは地方公演を経ていよいよ四月の大阪公演となります。
六代目豊竹呂太夫さんが十一代目豊竹若太夫を襲名される公演です。若太夫の名前は今年しか継ぐ機会はない、とかねて思っておりました(呂太夫さんにもそのように申し上げました)ので、ほんとうによかったと思っております。十万円くらい包んでお祝いしたいのですが、そんなことをすると私の明日のお米がなくなってしまいます(笑)。
暖かくなる日を心待ちにしております。

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元祖と二代目の豊松清十郎 

豊松清十郎というのはなんともきれいなお名前です。華があってお名前自体にスター性を感じさせます。
19世紀前半に大坂で活躍していた初代の豊松清十郎は、二代目豊松東十郎門弟でした。この当時、人形遣いの姓は今よりずっと多くて、「辰松」「藤井」「西川」「吉田」「吉川」「森竹」「吉尾」などがあり、「豊松」もそのひとつでした。
初代清十郎は初名を豊松伊三郎と言ったようです。菅秀才のような子役を遣ったりしていましたが、天保八年(1837)十二月の稲荷社で『玉藻前』の采女ノ方などを遣って豊松百造となりました。そして『廿四孝』の濡衣、『一谷』の玉織姫、『千本』の小仙、『菅原』の春藤玄蕃、立田の前などなかなかいい役を演じていたようです。そして天保十年(1839)七月に『浦島太郎倭物語』の乳母朝路、求女の前で豊松清十郎を名乗ったのです。それ以後は『廿四孝』の唐織、簑作(勝頼)、『恋娘』の才三郎、『近頃河原の達引』のおしゅん、『伊賀越』のおよね、『千本』の典侍局、などを遣いました。

    女形や二枚目

が多いですね。
彼は座摩社の芝居に出ていたのですが、「天保の改革」で宮地芝居が禁止になってしまい、やむを得ず名古屋に赴き、そこから美濃三宅村に移りました。今の地名では岐阜県羽島郡岐南(ぎなん)町三宅にあたります。ここで彼は独自の人形浄瑠璃を興し、これがなかなかの人気だったようで、「三宅文楽」として後継者によって大正の初めごろまで続きました。
清十郎自身は明治四年(1871)、浜松に巡業しているときに亡くなったそうです。墓所は三宅の浄苑墓地内のほか、岐阜県安八(あんぱち)郡輪之内町の浄光寺にもあるそうです。後者の墓は長らくそれとは知られておらず、2001年に郷土史家で片野記念館館長の片野知二さんという方が発見されたそうです。
初代が後半生を過ごした岐阜出身の人形遣いが大阪でなかなかの活躍をしました。この人は初代の門人ではありませんが、岐阜の縁で

    二代目清十郎

を継いだようです。やはり女形などにすぐれたようです。
『桐竹紋十郎手記』(三田村鳶魚『未刊随筆百首』12所収)には「安政 (小六改 宇ち与改 か六改) 二代目豊松清十郎」とありました。『義太夫年表 明治篇』には桐竹歌六の門下で、兵花から哥六になって清十郎を継いだように書かれていました。私はこれ以上のことは知らないのですが、歌六または哥六から清十郎になったのは間違いないようですね。
明治の番付を見ていると、子の清十郎がとてもいい役を遣っていることが分かります。明治3年には『廿四孝』の八重垣姫、『ひらかな盛衰記』の梅ヶ枝、『夏祭』のお梶などです。
後年にも『菅原』の千代、覚寿、『白石噺』の宮城野、『太功記』の操、『壇浦』の阿古屋、『安達原』の袖萩、『酒屋』のお園などなど。人気もあったのでしょうね。
二代目に関しては、愛知県知立市に顕彰碑があるのだそうです(未見です)。そのことがきっかけになって、ずいぶん前に知立の山車文楽の指導を四代目清十郎師がなさることになって、今では五代目が引き続き関わっていらっしゃるようです。

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猿沢の池 

奈良興福寺の放生池である猿沢の池は特になんということもない池ですが、私もこれまでに何度も訪ねています。猿沢の池というと采女、ひいては『妹背山婦女庭訓』を思い出します。
そもそもの采女伝説は、帝の寵を失った采女が猿沢の池に身を投げたとされ、池に背を向ける形で采女神社も建てられています。
『妹背山』では、眼病に苦しむ天智天皇の寵愛を受けていた采女が蘇我蝦夷の謀略のために危険を感じて逃亡し、久我之助に救われます。采女が猿沢の池に身を投げたという話を伝え聞いた天智天皇が池にやってきたとき、都では蝦夷の子入鹿が帝となったと自称しました。藤原淡海の力添えで天皇が芝六(玄上太郎)のあばら家に身を隠したあと、淡海の父鎌足の力で采女の無事と神鏡が見つかり、天皇の目もみえるようになります。
猿沢の池というと、

    七不思議

というのがあって、もうこれは、観光案内の枕詞のように用いられるものといっても過言ではないくらいです。すなわち、「澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が七分に水三分」というものです。池水は澄むことも濁ることもなく、水は出入りもない、蛙はいないし、藻は生えない。放生会で放たれた魚があふれんばかりだ、というのでしょう。魚が七分もいたら酸欠になりそうですけどね。
先月病気をしていた時、前川佐美雄『大和まほろばの記』(角川選書)をぱらぱらと読んでいたのですが、その冒頭が猿沢の池の話題でした。佐美雄は一度池の水抜きを目の当たりにしたらしく、「猿沢の池さらへすと聞きしかばわが子つれ来るその亀を見に」「池底のどろどろを這ふ亀なれば亀はあはれに首もたげたる」と詠んでいます。観光客の多い時期を外して冬におこなわれたのだそうですが、このとき彼は思いがけないものを見ました。

  猿沢の池のもなかの泥に立ち
   鰻つかむ人をみなともしがる
               佐美雄

鰻がいたのですね。ちょっとおもしろいエピソードです。
前述の采女神社は仲秋の名月の日に

    采女祭

をおこなっていますが、これは歴史の浅いもので、春日大社宮司であった水谷川(みやがわ)忠麿氏が始められたそうです。水谷川宮司は近衛家の出身で、首相を務めた文麿、音楽家の秀麿の弟にあたります。いうまでもなく、藤原氏の嫡流の家柄で、王朝趣味は当然のように強くお持ちだったようです。そこでこの祭も平安王朝風にするおつもりだったのですが、奈良の祭に平安時代風となると賛成してくれない人もあったようです。そのとき、前川佐美雄は積極的に賛同したようで、水谷川宮司にとっては強い味方だったと思われます。
なお、水谷川宮司は秀才で音楽も絵もよくした人でしたが、五十代で亡くなり、そのあとは三条実春氏(実美の孫)、花山院親忠氏、葉室頼昭氏と続いて現在の花山院弘匡氏に受け継がれます。

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咲太夫さん 

人間国宝の文楽太夫、豊竹咲太夫さんが亡くなりました。まだ79歳。もう舞台復帰はないものと覚悟はしておりましたが、それでも後進の指導などで活躍していただきたかった方です。亡くなるくなる少し前には、からだをさすってくれた織太夫さんが時間がないのでそろそろ帰りますとおっしゃったところ、いやいやをするように首を振られたのだとか。病院が東京でしたから、織さんは最期をみとることはできなかったようです。
八代目竹本綱太夫師の一人息子として生まれ、幼くして豊竹山城少掾門下となり、竹本綱子太夫としてデビューされました。五代目豊竹呂太夫さん(初名若子太夫)や鶴澤清治さんとは年齢も近く、子供のころから舞台に上がられたお仲間でした。呂太夫さんとはライバルとして、お二人ともにまだ二十代のころから将来必ず文楽を背負って立つ人と見られていました。若子太夫が呂太夫を襲名されると、まもなく綱子太夫も改名しようということになって、綱師が山城師に相談され、いくつかのアイデアの中から江戸時代からの名跡である竹本咲太夫を選ばれたようです。ところが画数の問題などがあって、同じ咲太夫でも、豊竹の初代として改名されたのでした。
私が文楽を見始めたころの咲太夫さんは、まだ三十代で、若手と言うべきお年でしたが、技芸という点では五代呂太夫さんとともにすでに中堅の域に達していらっしゃったように思います。
これまでこのブログに書いたことはなかったかもしれませんが、私が初めて文楽の技芸員さんの

    楽屋

に入れていただいたのは咲太夫さんのお部屋だったのです。少しお話したいことがあって、厚かましくもいきなりお訪ねしたのでした。当時の咲さんはまだお若かったのに、泰然として動じない、自信に満ち溢れた方、という印象を持ちました。そのときにいただいた「咲」の字がデザインされた手ぬぐいは今も持っています。
そのあと、舞台以外で印象に残っているのは、お弟子さんになられた竹本南都太夫さんの結婚式でした。松香太夫さん、文字久太夫さん(今の藤太夫)、人形遣いをなさっていた和右さんらとともに同じテーブルになって、目の前が媒酌の咲太夫さんご夫妻でした。ちなみに隣はまだ十代だった咲甫君(今の六代織太夫)でした。
その時には私が書いていた

    新作浄瑠璃

のお話をしたのですが、あまり興味を持っていただけませんでした(笑)。その新作は、咲太夫さんに語っていただくことを念頭に書いたものだったのですが(笑)、パラパラっとご覧いただいただけでスルーされ、残念でした。
数々の名舞台がありますが、私が今なお忘れられないのは1998年12月の東京公演における『仮名手本忠臣蔵』九段目の

    「山科閑居」

です。ベテランの出ない十二月公演ということもあったのですが、この大曲一段すべてを三味線の鶴澤清介さんと練り上げた会心の語りでした。ドラマティックで力強く、聴いているこちらが息詰まるような時間でした。すさまじいという意味では、あれほどの語りを聞いたのは私にとって初めてで最後の体験だったかもしれません。越路師の「引窓」、津太夫師の「沼津」、住師の「沓掛村」、九代目綱師の「長局」、嶋師の「重の井子別れ」などとともに私の文楽体験の中で絶対に忘れることのない演奏でした。
病後でいらっしゃいましたので心配だったのですが、とにかく手に汗握るような語りで、「咲太夫は復活した」と多くの人に思わせたと思います。私はそのあと文楽仲間と忘年会があったのですが、興奮して「すごい、すごい」を連発した記憶があります。
世話物では『心中天網島』「大和屋」が印象に残ります。初冬十月十五夜の澄み切った空気を感じさせる冒頭から、ついに心中に向かってしまう治兵衛と小春のひんやりとした心根まで、実に鮮やかに聴かせてくださいました。
チャリ場もおもしろく、「笑ひ薬」や「宝引」など楽しかったです。
どこか「孤高の人」という印象を持っていたのですが、お弟子さんとして今の織さんを育てられたことは特筆に値すると思います。いずれ十代目綱太夫になるであろう織さんには、師匠の教えを守って大成していただきたいと願っています。
文楽の太夫は、これで人間国宝がなくなり、切語りも3人となりました。六代目豊竹呂太夫さんと六代目竹本錣太夫さんはますます責任が重くなります。お二人ともお元気ですが、どうかますます健康に留意なさって「咲太夫以後」の文楽を盛り上げていただきたく存じます。

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