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2019年2月文楽東京公演千秋楽 

今日は文楽東京公演の千秋楽です。
東京まで行く財力がない(涙)ため、すっかりよそごとになってしまいました。
これで2018年度の主な公演は終わり、あとは地方の巡業です。
四月は大阪で奇妙な番組の公演があります。

    「爪先鼠」

と「おしゅん伝兵衛」など行こうかな。
「忠臣蔵」はどう考えてもひどい。四段目で切るって、あり得ないです。「はったと睨んでぇ」で帰って「ああ、夏が楽しみ」なんて思うものですか。。
それから、思い出したように言いますが、あまり

    出遣い

にしてほしくありません。
私に言わせたら、せいぜい「刃傷」だけで十分。特に「切腹」は黒衣でお願いしたい・・ですが、「切腹」こそ出遣いなのでしょうね。
勘十郎さんデザインの手拭いを差し上げます、って全然ほしくありません。国立劇場の名が泣きます。
いや、もちろん楽しみにされている方もいらっしゃるのでしょうが、それにしても、あんまりぢやわいなあ。

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素人の遺伝子 

Facebookの友だちに、文楽の往年の人形遣いさんのお孫さんという方がいらっしゃいます。私などお名前を知るのみで、もちろん故人でいらっしゃいます。
やはり血のつながりというのは大きな意味があって、その方は今では文楽など伝統芸能を紹介する活動をエネルギッシュになさっています。
うかがったところでは、ご本人はもともとまるで文楽には

    関心がなかった

そうです。とても有名な大学を出られた秀才でいらっしゃって、お仕事もされてこられたようです。ところが今は文楽大好き、伝統芸能大好きでいらっしゃるのです。血のなせるわざでしょうか。
そういえば私にも祖父がいて(当たり前ですが)そのうちの一人、母が他の祖父は文楽大好き人間。自身義太夫節をけいこしていて、肩衣は持っている、見台は持っている、床本は山ほど持っているという人だったそうです(私はほとんどしらない人なのです)。しかし所詮

    素人

で、その浄瑠璃を聞かされたことがあったらしい私の父は閉口していました(笑)。よって父は文楽にはまるで関心がなく、私は隔世遺伝かと思います。しかし素人の祖父ですから、私も結局は素人で終わり、Facebook の自己紹介には「浄瑠璃作者」と書いているのですが、それは「自称」に過ぎません。いや、文楽好きというのは素人で十分です。
でも、「祖父が人形遣いで」って言ってみたかったなぁ。

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2019年2月文楽東京公演初日 

雪がちらつくような昨今であり、インフルエンザが猛威をふるう日々でもありますが、今日から文楽は早くも東京公演です。
『大経師昔暦』があるのが近松好きの東京公演らしいです。もちろんいいと思いますよ。近松というと先代織太夫が第一に思い浮かぶ世代です。咲さんも印象に残っています。
大阪では大人気だった阿古屋もあります。またSNSでは寛太郎さんと勘十郎さんのお名前が飛び交うでしょうか。でも、清介さんも忘れないでください。
そのほかには桂川連理柵と中将姫雪責も。
第三部は雪責め、琴責め、三味線責め、胡弓責め!

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改名した人びと 

竹本文字久太夫さんが豊竹藤太夫になられるのは襲名とは言わないでしょう。ご本人はお母様の家の由緒ある名前「藤太夫」を襲名する心でいらっしゃるかもしれませんが、文楽としてはまた別の問題です。これはやはり改名というべきなのだと思います。
改名というのはこれまでにももちろんあったことで、三代竹本春子太夫師はもともと三代豊竹呂太夫(のちの十代若太夫)に入門されて豊竹呂賀太夫を名乗られました。そのあと、松竹の白井松次郎さんのお名前の一字をもらわれて

    豊竹松太夫

を名乗られましたが、これは改名ですね。その後春子太夫を名乗られえたのは襲名。余計なことですが、あの松太夫という名前もなかなかいい名前なので、私はお弟子さんの松香太夫さんが二代目を名乗られないかなと思っていたのです・・。一度、松香さんに「わたくしはへたくそでございます」と面と向かって言われたことがあって、謙虚な方だと思っておりましたので、誰かが強く進めないと襲名はなさらないかな、と思ってはいましたが。
八代綱太夫のご子息は竹本綱子太夫を名乗られましたが、やがて襲名すべき時期になって、綱太夫師が師匠の山城少掾におうかがいをたてられたそうです。その時に勧められた名前の一つに「竹本咲太夫」があり、これは由緒のある名前です。ところが、字画か何かの問題で「竹本」が合わないらしく、豊竹の初代として咲太夫を名乗られました。勘十郎さんの襲名披露の時、あいさつされた咲さんは最初何日か「わたくしの咲太夫襲名の折」とおっしゃっていましたが、途中から「咲太夫改名の折」と言い換えられました。初代ですのでやはり改名がいいということになったのでしょう。
竹澤団二郎さんは十代弥七師のお弟子さんで団二郎を名乗っていらっしゃいました。やがて四代津太夫師の相三味線になるときに、名前のつり合いも取れないですから改められることになって

     竹澤団七

を名乗られました。「七」は弥七師匠のお名前に由来するのかなと思っています。これもやはり改名ですね。
竹澤団治さんは宗助に、吉田昇六さんは文楽を一時やめられたあと、復帰して玉誉さんになりました。桐竹勘寿さんは一時紋豊に改名され、また勘寿に戻られました。紋豊への改名は、紋若さんの紋臣への改名、昇七さんの紋吉への改名と同時で、あれは紋寿一門で「豊・臣・秀(紋秀さんは改名せず)・吉」という、しゃれ(?)になっていました。紋寿さん、その師匠の紋十郎さんの紋は瓢菱に五三の桐。これは初代紋十郎師がつけられたものだそうです。五三の桐といえば豊臣秀吉、というわけです。
改名にもいろいろありました。

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藤太夫さん 

竹本文字久太夫さんが四月から豊竹藤太夫を名乗られるそうです。それについてはすでにSNSではいろんな憶測や意見が飛び交っています。中には批判的な意見もあるようでした。
万事のんきな私はただただ「へぇ」と思っていたら、やたけたの熊さんから、あれは文字久さんのご先祖の「北藤太夫」の名前が由来ではないかと教えていただきました。すると、文字久さんのHPにご自身がその旨発表されていました。なんでも、お母様の家が北さんとおっしゃって、能舞台などを持つ広大な屋敷を構える名家だったそうです。そして江戸時代の1800年ころに当主だった北與五郎という人が

     藤太夫(とうだゆう)

と呼ばれたそうで、七つのため池を作った功績で紀州家家老に取り立てられたと記されています。そこでこの北家は「藤太夫」「與五郎」と通称されることになったそうです。また源義経が吉野から北家に身を寄せたという言い伝えもあるそうで、大変由緒のある家柄なのですね。
文字久さんにとっては誇らしいご先祖。そしてそのお家の代名詞ともいうべき「藤太夫」のお名前。それを、たまたま文楽の「太夫」になったことで、意味は多少違うものの

    復活

できるというのは文字久さんの宿願だったのでしょうか。
以前、文楽から歌舞伎の竹本に行かれた方に「藤太夫(ふじたゆう)」という方がいらっしゃいました。
私はその方と何かの由縁があるのかと思ったのですが、そうではなく、だからこそ竹本ではなく「豊竹」を名乗られるのでしょうか。このあたりもよくわかりません。
いずれにせよ、演劇の専門的な勉強をなさり、新国劇での舞台経験もあり、文楽太夫としても40年近いキャリアがあり、さらには体も大きく、声も大きな文字久さんは本格的な太夫としてこれから飛躍していただかねばなりません。初代豊竹藤太夫として大いに奮闘していただきたいものです。なお「藤太夫」は文楽の普通の考え方では「とうたゆう」になるのかもしれませんが、「とうだゆう」と濁って発音してもいいように思うのです。
ひそかに期待していた襲名だったのですが、そうではなくて改名。これもまたいいと思います。あまりあれこれ言わずに見守っていければと思います。

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