初代吉田玉造のはなし(1) 

初代吉田玉助の父は初代吉田玉造でしたが、この人についての話を三宅周太郎『文楽の研究』茶谷半次郎『文楽聞書』から拾っておきます。
古い本ですから、その後、学者の方などが調べられたことで訂正されていることがあるかもしれませんが、とりあえずこの二書の記す所を素直に聞いておきます。
まずは『文楽の研究』による話です。
玉造は人形遣いの吉田徳蔵の子で本名吉倉亀吉。11歳の天保十年に子供の太夫による芝居があり、それに出してもらったのが初めてであったとされます。その時父親が「丸顔だから玉造にしておけ」と芸名をつけてくれたと言います。父が徳蔵なら「玉蔵」でもよさそうですが、字が重すぎたのでしょうかね。
その後四国で興行があった時に『先代萩』の鶴喜代君(『文楽の研究』では「鶴千代君」)を遣うことになったそうですが、千松を遣う人形遣いが、玉造のような新米が相手では気にくわないという態度だったそうで、玉造は昼ご飯をこの人形遣いに提供することでやっと遣わせてもらったそうです。そのため、あまりに空腹で、鶴喜代君以上に大変だったというなかなかよくできた話があるそうです。
玉造は歌舞伎の市川米十郎(のちの四代目小団次)と張り合ったことがあり、それは『傾城反魂香』の一場面で宙乗りを見せるところに関わることだったそうです。玉造が工夫していたことを座(竹田の芝居)から米十郎に「採用したらどうか」と言ったそうです。すると米十郎はそんな人形遣いの言うことは相手にしないと断ったそうです。それを聞いた玉造は、それならとばかりに自分も同じ役をさらに工夫して演じることにして結局評判は玉造に軍配が上がったそうです。
玉造はのちにも宙乗りや早替わりなどに様々な工夫を凝らした人です。
そして、もうひとつはあの有名な話です。
「志渡寺」の「南無金毘羅大権現」のところで長門太夫を弾く三味線の

    豊澤団平

が総稽古の時に気を抜いたそうです。それに怒った玉造が苦情を言ったそうです。
長門太夫のとりなしもあって一応収まったものの、次の公演で『義経千本桜』「すしや」が出たときのことです。
長門太夫・団平が「すしや」を演奏し、玉造は権太。稽古で、団平が「これ忘れてはとひっさげて」のところをどうしようかと玉造に問うと、玉造は「自由に弾いてくれれば自分が合わせる」と、そっけなく言ったそうです。まだ「志渡寺」のもやくやを引きずっていたのですね。団平はそういわれてぶちっと切れました。
さていよいよその場面になりました。団平はこれでもかとばかりに力いっぱい弾いたそうです。長門太夫も負けていられず目いっぱい語る。そのとき、玉造の

    腹帯

が切れた、というのです。

三宅周太郎はこの、欲得のない人形遣いを「天才肌の達人」と言っています。

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幸助から玉助へ(7) 


このたび、五代目玉助になられるからには、松王丸、毛谷村の六助、岡崎の政右衛門、御所桜の弁慶、引窓の長五郎など、大きな主役は自分のものだという自負とともに責任を感じていただいて遣っていただきたいものです。
歌舞伎で「加役」と言いますが、立役遣いの方がなさる女形には岩藤や八汐なども玉助さんでぜひ観たいです。検非違使首なら「河庄」の孫右衛門。やはり肚のある役柄が映るように思えます。
四月公演では口上とともに『本朝廿四孝』の

    山本勘助

を遣われます。これは三代目の襲名披露のときと同じ役です。
幸助さんから襲名の相談を受けられた簑助師匠も「この役で襲名したらどうか」とおっしゃったそうです。
口上はどなたが出られるのでしょうか。初春の織太夫さんの時は八代綱大夫師の五十回忌がありましたので、咲太夫師匠と織太夫さんだけで(写真で綱師も出ていらっしゃいましたが)、お話しになったのは咲太夫師匠だけでした。今回はご一門はじめ多くの方が舞台に上がられそうですね。
多くの人に祝福される五代目吉田玉助さんは

    幸せな門出

をなさると言えるでしょう。
どうかますます精進なさって、平成の次の元号を代表する人形遣いになっていただきたいと願っています。
このシリーズ記事の最後に幸助さんにお願いをしておきます。
幸助さんが玉助になられたら、次の玉助を育てる使命が生じたとも言えるでしょう。是非、

    お弟子さん

を育てていただきたい。
基礎をしっかり身につけていらっしゃる幸助さんですから、きちんと若手を育てられる、立派な師匠になられると思います。
そうすることで四代目玉助のご尊父への本当の意味での恩返しができます。これができなかったら玉助襲名の意味が小さくなると思います。
長々と書いてきましたが、実はこれが一番言いたかったことかも知れません。

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幸助から玉助へ(6) 

文楽ファンの集まりである「だしまきの夕べ」にも来てもらったことがあります。どなたか来てもらえたら、と、実行委員長(笑)のやたけたの熊さんに言われて、私がお声をかけたのですが「ぼくなんかでいいんですか」と例によって謙虚にお返事を下さいました。
するとこの時は女性陣が大張り切り。私の知り合いで、だしまきの夕べには参加したことのない人までが「行きます」と言い出して、初春公演だったものですから、その人は早めの

    バレンタインデー

のプレゼントまで持ってきていました。
4年くらい前だったと思うのですが、その時にも襲名の話をいくらかされていました。襲名がいかに大変かということと、もうひとつはそれにもかかわらず幸助さんが襲名に意欲を持っていたということを強く感じないわけにはいかなかったのです。
そのころはすでに重要な役も付き初め、次代の座頭格と目されるようにもなっていました。
勘十郎さんが大きな立役を持たれるときには左を遣われることも多く、勘十郎さんが実に動きやすそうで、左遣い次第でこんなに人形は立派に見えるものかと思うほどでした。
主役級の人形というと、『義経千本桜』の狐忠信や『国姓爺合戦』の

    和藤内

あるいは『夏祭浪花鑑』の団七九郎兵衛や一寸徳兵衛も遣われました。
狐忠信では早替わりのところで狐の人形をもって木の陰に隠れたかと思うと舞台に切られた階段から下にもぐり、衣装をはがすように替えて忠信の人形に手を通すと息を切らすこともなく平然として姿を現されました。客席から見ると、たった今狐を持っていた人が、その狐を離した瞬間に別の人形をもって、しかも衣装も改めて立っているのですからかなりのケレンでした。
和藤内では、大きな体、たくましい力、強い芯、安定感を生かして、あの重くて背の高い人形を、さらに目いっぱい大きく見せながら演技をされました。
キマリのしぐさが映えるのは天性のものだろうかと思ってしまいました。
団七も大きな人形ですし、一寸徳兵衛もそうですが、幸助さんご自身が大きいからといって人形を大きく見せられるとは限らないと思います。逆にさほど大柄でなくてもうまく遣えばじゅうぶん人形は大きく見えるはずです。当代の勘十郎さんにせよ玉男さんにせよ、大柄ではありませんが大きく見せる技をお持ちだと思います。
しかしうまく遣えばやはり背丈があることは(手の長さも歩幅もありますし)見栄えにつながると思うのです。
熊谷、知盛、光秀、平右衛門等々、大きな人形をどんどん持っていただけたら、と思います。

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幸助から玉助へ(5) 

人懐っこくて愛想の良い、しかし芸については妥協のない、いかにも「芸人さん」らしさを持った人です。
楽屋の廊下で人を待っていてボヤっとしていたら、よくあちらから声をかけてくださいました。どういうきっかけだったのかは忘れましたが、年賀状も今なおやり取りがあります。
玉幸さんが亡くなった直後、私が劇場の図書閲覧室に行こうとして楽屋側のエレベーターを待っていたら、ちょうど幸助さんが来られたことがあり、「お父様、大変なことでしたね」と声をおかけしました。さすがにその時はあの大きな体を細めるようにして「はい」と

    声にならない声

を出されたのでした。
うちの子がまだ小さかったころ、夏休みの公演に連れていき、楽屋に行ったらたまたま幸助さんに会い、「子供に人形を持たせてくれませんか?」とお願いしたことがあります。私は楽屋廊下の体験用の「お園」か、せいぜいツメ人形を持たせてくれればありがたいと思っていたのです。ところが彼は楽屋に入っていって、おそらく当時の玉女さんが遣っていらっしゃったと思うのですが、あの大きな

    孫悟空

の人形を持って出てきてくれました。小学生だった長男は大きな人形を必死になって持っていました。
そういう人柄で、礼儀も正しく、こちらが何か申し上げると一生懸命聞いてくださる幸助さんだけに、多くのファンがいらっしゃいます。
忘年会や新年会をなさったりして、ファンとの交流を深められ、様々な舞台芸術にも足を運ばれたり、コラボレーションをなさったりしています。
何かの意見を申し上げますとよく聞いてくれましたが、その一方で納得がいかないと反論もきっちりされます。こういうところがプロらしくていいです。
ご尊父が亡くなったあと、近いうちに「玉幸」を名乗られるのだろうなと思っていたのですが、周りの人に伺いますと、早くから「いずれ玉助を」という思いはお持ちだったようです。
そしてそのことを周りの人が「当然」という見方をしていらっしゃったことも幸助さんの人柄や実力のなせるわざだな、と思ったのでした。

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始太夫さん 

びっくりしました。
2月10日、文楽太夫の豊竹始太夫さんが急逝されました。ご本名、高橋尚人さん。まだ50歳の若さ。
着物がはち切れそうな立派な体格で、そばに寄ると熱気すら感じるような存在感がありました。
間違っていたら申し訳ないのですが、神戸大学の農学部卒業で、レスリングをなさっていた異色の太夫さんだったと思います。間違っていたらご訂正ください。
まゆみこさんに言われて思い出したのですが、当時の咲甫太夫さん、新太夫さんらと七歩会という若手の会を作られて素浄瑠璃もなさっていました。歳こそ違え、同じ時期のデビューということもあって、咲甫さん、今の織太夫さんとは仲が良く、一時は2人が競わされていたと記憶します。
嶋太夫門下で将来を嘱望されながら、一時、大きなご病気で休まれました。しかし、復帰されて仕切り直しをされ、さあこれから、というところだったのに。
とても明るく誠実な方で、幕内の人気者でもいらっしゃったそうです。咲甫太夫さんの結婚式では、派手な衣装に身を包んで当時流行っていたマツケンサンバを踊って喝采を浴びられたとか。身のこなしはとても見事だったそうで、いかにもスポーツマンらしいですね。
器用ではなかったかもしれませんが、まっすぐに大きく語る大器の素質がありました。
時代物を中心に花を咲かせる日が来ると信じていましたが。
あまりに早過ぎました。