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獺祭忌 

9月19日は正岡子規の命日です。つまり「子規忌」なのですが、「獺祭忌」「糸瓜忌」ともいわれます。
「獺祭忌」というのは、彼が「獺祭書屋(だっさいしょおく)主人」と称したことにより、「糸瓜忌」は、子規の最後の句に「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」などがあるためにそう言われるのです。
正岡子規は短歌、俳句どちらでも名を残した人で、私も好きな作品があります。前掲の「糸瓜咲て」の句は、やはり呼吸器に持病のある私にとっては他人事にも思えないほどです。
彼が野球好きだったことも、親近感を覚えます。子規が、本名の「升(のぼる」にちなんで

    「野球(のぼーる)」

と称したこともあるのは以前ここにも書いたと思います。「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」という短歌があるのですが、素直に野球を愛好する気持ちがあらわれた歌です。

ほかにも教科書にも出ている
  くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
のような短歌もとても言葉の使い方がきれいですてきです。
  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
  人も来ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花
  足たたば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
  松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く

など、とても発想の面白い歌や子規ならではの写生の歌などさまざまです。
俳句では、

    柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

という著名な句がありますが、彼は柿が好きで、「風呂敷をほどけば柿のころげけり」「柿くふも今年ばかりと思ひけり」などもあります。
松山を詠んだ俳句にもいいものがあります。
  春や昔十五万石の城下哉
  松山や秋より高き天主閣
  名月や伊予の松山一万戸
前述の「糸瓜」の句と同じく彼の最後の句には
  痰一斗糸瓜の水も間に合はず
  をととひの糸瓜の水も取らざりき
があります。
そのほかにも、
  鶏頭の十四五本もありぬべし
  赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
  牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
  山吹も菜の花も咲く小庭哉
などなど・・・。作品を挙げているときりがありません。あえてもうやめておきます。
子規の人生はわずか35年。モーツアルトと同じです。最後は苦しかっただろうな、と思います。

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かぐや姫の物語の覚書でした 

ここしばらく、高畑勲監督『かぐや姫の物語』についていろいろ考えてメモランダムの形で書いてきました。この映画は、月の世界という、いわば「理想郷」であるはずのところにもなかった「ほんものの愛」に憧れたかぐや姫(月では何と呼ばれていたのでしょうか)のお話でした。
彼女は月の世界で、かつて地上に降りた人が歌っては涙を流していたのを見て、涙を流すほどの「ほんものの愛」とは何なのかを知りたくなりました。禁断の地に憧れたというその罪のために、彼女は罰としてほかならぬその地上に降ろされたのでした。ところが地上の親(特に父親)が娘の幸せを願うがゆえに与えようとする「愛」、それは彼女にとっては「にせものの愛」であったために苦しむことになってしまいます。
父親としては、娘に苦労させたくありません。山を駆けずり回って、ぼろぼろの服を着て、貧しさに負けて盗みさえするような生活なんて、絶対にしてほしくない。考えただけでもぞっとするのです。ところが、そんなところに、案外「ほんとうの愛」はあるのだ、と、かぐや姫は

    捨丸

の生き方を見ながら感じます。捨丸はかぐや姫が都に行ったあと、平凡な(映画では終始無表情に描かれる)女性を妻として、自分の手で粗末な家を建てて、山の木を切って、ある程度切ってしまうと今度はその樹勢が回復するまでは別の場所に行って暮らします。根無し草のような生活。それでもそこに「ほんとうの愛」があるとかぐや姫は思うのです。かつて月の世界で「まわれ、めぐれ、めぐれよ」の歌を歌っていた人は、地上で名もない貧しそうな男と暮らし、子どもが一人いたようです。その暮らしをかぐや姫もしてみたかったのかもしれません。
私はここしばらく、『かぐや姫の物語』を細かく観て、それについての覚書をここにメモしてきました。実は何らかの形でまとめて活字にしておこうと思ったのです。しかし、どうしても

    高畑勲監督

ほかのスタッフの皆さんのインタビューを集めきることができず、また、私の身体的な事情から、そのインタビューの中味を理解することの難しさがわかり、とりあえず保留することにしました。
それでも、この作品をしっかり見つめることができて、平安時代を専攻してきた者としての視点を持つことができたように思います。
ここに書いてきたことは、私が考えてきたことの一部なのです。勉強することはいつでも、どんなところにでも転がっています。
この作品を観ることで、高畑さんらの脚本の作り方も学べましたので、浄瑠璃を書く時の参考になったとも思っています。この映画をご覧になっていない方にとっては「何のことかわからない」ことを長々と書いてまいりました。お付き合いくださった方、ありがとうございました。

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東向きの兵士 

『竹取物語』では、八月十五夜の子の刻、つまり深夜の0時前後に月からの迎えがやってきます。子の刻というのは、おおざっぱに言いますと午前0時をはさむ2時間くらいのことです。今の時刻の感覚から言うと十五日の夜から十六日にかけて、ということですね。ただ、昔の人は子の刻で日付が変わるという意識はなかったらしく、仮に今でいう0時を過ぎていても相変わらず八月十五日なのです。
その時刻であれば、月はほぼ南中していて、高い位置にあります。そのときに、にわかに明るさが増して、地上にいる人の毛穴までが見えるくらいだったと言います。強烈な光でしょうね。
そして天人がやってきて、かぐや姫は帝のために

    不死の薬

と手紙を置いて去っていきます。月が昇ってから天人が下りてくるまでは、理屈から言うと6時間くらい経っていることになります。相当長い時間待たされているわけですね。
では、映画『かぐや姫の物語』では、ここをどのように描いているのでしょうか。翁は天人から姫を守るために兵士をこの日のために組んだやぐらや屋根に上らせるのです。
この場面で、画面が俯瞰図になるのですが、兵士たちは一様に東を向いています。というより、屋敷の東側にやぐらが組まれているのです。
すると月が東の空に昇り、まださほど高い位置ではないところで強烈な光が射してきます。雲が下りてきて、月の王を中心に音楽を奏でる天人たちが姿を見せます。またまた理屈を言うなら、おおむね7時頃、酉から戌の刻あたりに思われます。
やがて雲は屋敷の池の上あたりで止まります。飛天が屋敷の格子を次々に開けて、まず寝殿に入り、そのあと渡殿を経て西の対に向かいます。おそらく

    塗籠の中

に隠れていたのであろう媼とかぐや姫はすぐに見つかってしまいます。
我を忘れたかのように、かぐや姫は西中門廊を通って釣殿に向かい、東を向いて雲の上に至ります。
どうでもいいことなのかもしれませんが、映画では、なぜ原作のような子の刻ではなくまだ早い時刻にしたのでしょうか。月が昇ってから深夜までの長い時間にして愁嘆場を描くこともできたかもしれません。どのように兵士を配置したのか、かぐや姫はどんな気持ちで塗籠に入ったのか、媼がかぐや姫に付き添い、翁は兵士の中に入るに際しての心理はどうだったのか、そんなことを描く可能性もないとは言えないように思うのです。しかしここはあっという間に天人が登場します。
月がまだ大きく見える頃だから、という理由もあるのかもしれません。絵として、高い南の空から降りるのではなく、低い東の空から滑るように出てくる形にする方がよかったのかもしれません。このあたりは

    絵心のない私

にはまるで分りません。
私はもうひとつ、この月を眺める人たちの様子を描きたかったから、ということもあるのではないかと感じました。
帝は清涼殿の東の簀子に出て倚子(いし)に腰かけ、四人の求婚者たち(石作皇子、車持皇子、阿部右大臣、大伴大納言。石上中納言は亡くなっている)とともに空を見上げています。この場面でも、東から射す月の光を受けた呉竹や柱などの影が正確に描かれています。教育係だった相模と名付け親の斎部秋田は現代風にススキを瓶に入れて月見団子を供え、月見酒を味わっています。山の子どもたちはその明るさのために駆け回り、捨丸は子どもを背負った妻と共に家の屋根を葺いています。
深夜であればいくら何でも子どもたちは眠っているでしょう。月見酒ももう終えている時刻かもしれません。そもそも、冠を着けて羽衣を手に取ったかぐや姫が我に返ったのは女童や子どもたちがあの「まわれ、まわれ、まわれよ」のわらべ歌を歌ったのを聞いたあとでした。子どもたちが行き来する時刻なのです。
実際、高畑監督にどういう意図があったのかは存じませんが、結果的には、深夜に設定することはいろいろな意味で無理があったのではないか、と、余計な詮索をしています。

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寝殿造り 

平安時代の貴族の邸宅として知られるのは「寝殿造り」です。平安時代の初期にはまだなくて、次第に形が整っていくのです。この「寝殿造り」という言葉そのものは新しいもので、わかっている限りでは江戸時代が初見です。中央に寝殿という建物があって、東西、あるいは北に廊下で繋がれる「対」があります。内裏(皇居)が火災などの理由で使えなくなった時、天皇は一時的にこういう邸宅を仮御所とします。その場合は寝殿が紫宸殿、北の対が清涼殿の役割を果たしたりします。清涼殿は本来東向きに作られており、前庭は「東庭」でしたが、寝殿造りの北の対を清涼殿にすると前庭が南側になります。それでもこれを「東庭」と言ったりしたようです。
寝殿造りの場合、南側には池が作られますので「南の対」というものはありません。
門は東西と北に作られたようですが、よく使われるのは東西門だと思います。

    『かぐや姫の物語』

では、平安時代後期が舞台設定のようになっていますので、建物は寝殿造りです。かぐや姫が初めて都の屋敷に入った時は東門から入って東の対に上がり、そこから透渡殿(すきわたどの)という渡り廊下を渡って寝殿に行きました。寝殿にはかしこまって座っている翁と媼がいて、かぐや姫に着替えなさいというのですが、たくさんの装束が置かれた部屋がありました。これはおそらく塗籠(四方を壁で塗りこめた部屋。妻戸があって、そこから出入りする)だろうと思います。帝もやはり東門から入りましたが、東の対から寝殿に渡るのは北側の渡殿を通って、東北の妻戸から入っています。この時はすでに夕刻で西日が射しこんでいます。かぐや姫は西の廂の間にいるようで、帝は姫のいる局の南側の几帳から覗き込んだあと、東側に立ててある屏風の方からかぐや姫に迫りました。部屋には脇息が置かれ、火取り(香炉)が薫(た)かれています。かぐや姫が普段暮らす部屋というよりは、琴(きん)の稽古場のようにしている部屋かも知れません。かぐや姫が姿を消したあと、西の簀子に出ます。そこから帝は

    釣殿(つりどの)

のある南西側を見ます。この釣殿は後にかぐや姫が月を眺める場所としても用いられます。釣殿は東の対と西の対の両方の延長上に設けられることも、どちらかのみに置かれることもありました。月からの使者を防ごうと翁が防衛軍(?)を配備した場面で、この屋敷が俯瞰される場面が一瞬あるのです。これを見ると、釣殿があるのは西だけです。なお、この俯瞰図は寝殿造りの絵としてはいささかいびつな形をしているように思われ、特に東の中門廊と呼ばれるところの描き方が奇妙に見えます。中門廊というのは北側の建物(東の対、西の対)から南に向かって伸びていますが、南側には池があるため、そこで途切れてしまう(途切れたところが「釣殿」)のが普通です。しかし映画ではさらに南まで東中門廊は伸びているのです。西の中門廊は当然西の対から出ていますが、この画面では西の対が省かれたような描き方です。何も、高畑監督の仕事がずさんだと言っているのではありません。高畑さんならそれくらいは分かっているはずで、絵として効果のある描き方を採られたのではないかというのが私の推測です。
この映画で面白いのは、媼が作業をする部屋を持っていることです。実際の寝殿造りでは、北側に蔵があったり下仕えのものが暮らしたりしたと思われますが、そちらにあったと決めつけることはできないと思います。対の屋から廊でつながった場所だと思われ、西の対のさらに西側かな、と想像しています。檜皮葺の寝殿に対してこちらは藁葺。きわめて質素な造りで、媼はここで煮炊きをしたり、機織りをしたりしています。かぐや姫も機織りをしたり琴を弾いたり、そして箱庭のような小さな山の家を作り、川や橋を設けて疑似的に山の暮らしをしているのです。その庭についてかぐや姫自身が「茅草が竹林、蓬も木々そっくり」と言っています。ただ、かぐや姫はこの「疑似的な」暮らしを「ニセモノ」と感じて絶望することになるのですが。
寝殿造りはある程度絵画史料もあり、研究もありますので、映画で描く場合もそんなに難しくはなかったかもしれません。
この映画では太陽の光とそれによる影をよく用いていて、壮麗な寝殿造りの建物が作る影も印象的です。

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待つとし聞かば今かへりこむ 

先日書きましたように、高畑勲監督『かぐや姫の物語』には「まわれ、まわれ、まわれよ、水車まわれ、まわってお日さん呼んでこい」というわらべ歌が出てきます。「まわる」という言葉は時の動きや人の一生に深くかかわるものだと感じます。我々の人生は、生と死の間を直線的に進むのではなく、同じことを繰り返しながらぐるぐる回ることで進んでいくものです。落ち込んだときも、次の日にはまた日が昇ることで元気になることがあります。冬至になると一陽来復。一日、一年、それらが回っていきます。有為転変の世の中といいながら、実はぐるぐる回るのが我々の日常。「輪廻」もまた人生の繰り返しでぐるぐる回ります。回るという運動は人生の時間の動きそのものでしょう。
『かぐや姫の物語』のかぐや姫は、かつて地上に降りた人が口ずさむ

    「まわれ、めぐれ、めぐれよ」

という歌に心惹かれ、自分のその地に行ってみたいと思ったのです。その人の歌は「まつとし聞かば今かへりこむ」で終わるのでした。もし私を待っていると聞いたならすぐにでも帰りましょう、ということです。なぜその歌が忘れられないのか、そこにはほんとうの愛があるのではないか、そう思ったのでしょうか、かぐや姫は地上にあこがれを持ちます。地上は禁断の場所で、かぐや姫はその地に憧れるという罪を犯し、その罰としてこの地上に降ろされたというのです。
この一節は

    在原行平

の「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今かへりこむ」を使われたのでしょう。行平が因幡に下向するときに詠んだ別れの歌なのですが、今でもどこかに行ってしまったペットに帰ってきてほしい時にこの歌をおまじないとして使うことがあるようです。あの内田百閒も自分の猫がいなくなったときにこの歌をまじないに使ったそうです(内田『ノラや』中公文庫)。なお、「まつ」は「(因幡の山の峰に生えている)松」に「待つ」を掛けています。
古歌を用いることで古風にして、「わらべ歌」ではない大人の悲しみが歌われているようです。しかしどうしても現代人には意味が分かりにくいので、かぐや姫が月に帰ることを告白したあと、この歌を媼の前で歌うと、媼がきちんと「本当に私を待っていてくれるのなら、すぐにでもここに帰ってきます」とその意味を説明しています。媼が自分で納得しているようで、実は映画鑑賞者に説明する役割を持っているのでしょう。
私はあくまで素人考えではありますが、つい脚本を書くなら、という視点で見てしまいます。もし私が書くなら、行平の歌の四、五句をそのまま用いるのは避けただろうと思います。
この歌は『古今和歌集』所載のものですが、

    『百人一首』

にも採られているため、かなりよく知られた作品だと思います。それだけに、私に関して言えば、元の歌の臭いが残り過ぎて何か心に沁みるものがありませんでした。いや、高畑さんはその香りを残すことを狙って、あえてこの有名な歌の一節を使われたのかもしれません。いわば引き歌のように使ったのだ、ということも考えられます。映画をご覧になった人も「あの言葉、どこかで聞いたことあるね」と強い印象を持ちながら帰られた方が少なくないでしょう。
あくまで「私なら」ということなのですが、古風なのはいいと思いますので、少しわかりにくい、新たな歌詞を作って、媼に「現代語訳」させるくらいがよかった、と思っています。
私はたまたま古典文学を勉強してきたからつい元の歌の臭いを強く感じすぎるのかもしれません。

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