fc2ブログ

結核 

私は一度、結核を疑われたことがあります。具体的なことは忘れましたが、病院で「血液検査で結核の可能性があるから、一週間、誰とも会わずに部屋にこもって生活してくれ。詳細に検査して結果を報告する」と言われたのです。
さすがに血の気が引きました。部屋で一人になると結核療養についてあれこれ調べました。専門病院のこととか、そこでの生活とか、投薬の実際とか、治療期間の長さとか、さらには収入の道が途絶えて生活が不如意になることとか・・。調べれば調べるほど寂しさやむなしさに駆られるようで、だからといって(部屋を出られないのですから)発散するすべもありませんでした。長い長い一週間でしたが、結果は

    陰性

ということでホッとしたものです。
結核で亡くなった人として有名なのは、沖田総司(?)、高杉晋作、竹久夢二、新美南吉、山村暮鳥、瀧廉太郎、織田作之助、高村光太郎、梶井基次郎らがいますが、歌人にも少なくありません。有名なのは樋口一葉(彼女は小説家として有名ですが、歌人でもありました)、正岡子規、長塚節、石川啄木、前田夕暮といった人たちでしょう。
子規は「いちはつの花咲き出でてわが目には今年ばかりの春行かんとす」「瓶にさす藤の花房みじかければ畳の上にとどかざりけり」などを病床で詠んでいます。
白樺派の歌人である

    木下利玄

も結核で亡くなった一人です。
この人は東京帝国大学国文科の出身で、卒業論文は近松門左衛門でした。四人の子を持ちながら三人までが夭逝するという悲しみを味わっています。唯一長く生きた三男が誕生した時には、利玄はすでに結核を病んでおり、その三年後に39歳で亡くなっています。養父(伯父に当たる)は備中足守藩最後の藩主で明治になって子爵となりました。やはり子爵の家柄であった武者小路実篤とは学習院の同級で、志賀直哉は実篤や利玄より2歳年長でしたが2度落第したため同級となりました。利玄はその関係から白樺派に属したようです。
この人の作品は平明なものが多いこともあって、教科書にもしばしば掲載されてきました。
 牡丹花は咲き定まりて静かなり
  花の占めたる位置の確かさ
 曼殊沙華一むらもえて秋陽つよし
  そこ過ぎてゐるしづかなる径
など、難しい言葉や技巧がない歌です。
利玄は結核を病んでもそのことを歌にせず、晩年は写実的な自然を詠むことをよしとしたようです。
 山畑の白梅の樹に花満てり
  夕べ夕べの靄多くなりて
という歌は亡くなる直前のもの(利玄は1925年2月15日没で、それより少し前の作)ですが、そういう切迫した事情をあまり感じさせないと思います。むしろまだ寒い時期であるはずなのに温かみすら感じさせる歌だと思います。
前川佐美雄は利玄のことを「肉体とは別に利玄は心の健康な心の暖かい人だった」(『秀歌十二月』)と言っています。
今も結核は怖い病気ですが、薬が開発されていますので、早期に投薬治療を始めると多くは完治します。多くの才能が若くしてこの病気で失われたのは誠に残念です。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

スポンサーサイト



紫女年わかく 

紫式部は、父藤原為時の血を引くだけのことがあって、漢詩漢文への理解に並々ならぬものがありました。『源氏物語』の端々に出てくる漢文学の知見は舌を巻くほかはありません。
彼女はかなり年の差があったと思われる藤原宣孝と結婚(それ以前に結婚の経験があったという説もある)して長保元年(999)ごろに一女(大弐三位)をもうけますが、夫がその2年後に亡くなってしまいます。そして4~5年のちに一条天皇中宮の藤原彰子(読み方はわかりません。やむを得ず音読みで「しょうし」と言われることがあります)の女房になりました。彰子は左大臣藤原道長の娘です。なお、紫式部はもともと道長の妻倫子に出仕していたという考えもあります。
紫式部の女房としての生活が生き生きと描かれるのが

    『紫式部日記』

で、寛弘五年(1008)の彰子の出産の頃からの記録が残されています。この日記の中で、紫式部が『源氏物語』の清書や造本にかかわっていることがわかり、また同年十一月一日には道長の屋敷で藤原公任から「このわたりにわかむらさきやさぶらふ」と冗談を言いかけられたことも記されています。このことによって2008年に源氏物語千年紀の催しが行われ、「古典の日」が11月1日に定められたのです。
歌人の

    与謝野晶子

は『源氏物語』の現代語訳をしていますが、この人の平安時代に関する知識もたいしたものだと思います。もし彼女が平安時代に生まれてやはり道長の娘に仕えていたら紫式部や和泉式部と並び称されていたかもしれません。
与謝野晶子の歌にこういうものがあります。

  源氏をば一人となりて後に書く
    紫女年わかくわれは然らず

紫式部は夫に先立たれてから『源氏物語』を書いたが、その時まだ年若かった。でも私はそうではない・・。
この「紫式部は若かったが私はそうではない」という部分は、散文的に読んでしまうと実につまらなく感じられます。しかしこれを短歌にしてしまったことで、「私はそうではない」がまことに詠嘆的で彼女のため息すら聞こえてきそうです。彼女には歌人としての、平安時代の研究家としての自負もあるでしょう。しかし、紫式部はまだ30歳そこそこであの『源氏物語』を書いたのです。気が遠くなるような大作を若くして書いた紫式部の才能の前に、与謝野晶子というたぐいまれな歌人がひれ伏しているような印象も持ちます。
私は、『源氏物語』の講座をかつて大学でかなり長い間続け(講座を維持するお金がないらしく、なくなってしまいました)、今は大阪で実施しています。ひたすら勉強してはお話しするということの繰り返しで、たいしたことはできていません。晶子の歌の「われは然らず」という部分は、晶子以上に私にとっては骨身にしみるようです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

梅の季節 

私はどういうわけか、子どものころからぱっと華やかな桜よりもやや小ぶりで地味にすら見える梅のほうが好きでした。目立つよりも引き立て役になっているほうが性に合ったのだと思います。
とはいえ、梅はもともととても愛された花で、『万葉集』では一番多く詠まれた花は萩なのですが、それに次ぐのが梅です。清少納言が『枕草子』「木の花は」の段で一番に「濃きも薄きも紅梅」と言ったことはこのブログのどこかに書いたかもしれません。
中国から渡来した木で、「ムエ」「ンメー」というような発音を日本で「むめ」と聞きなしてその名としていますので、「うめ」という名は日本語ではないことになります。
梅の実は燻製にして胃腸薬として用いられたりしました。燻製ですから真っ黒になりますので、

    「烏梅」

と呼ばれます。
『古今和歌集』の歌で『百人一首』にも入る
  人はいさ心も知らず
   ふるさとは花ぞ昔の香にほひける
            (紀貫之)
にいう「花」も梅です。
香に「好文木」というのがありますが、この「文を好む木」というのも梅のことです。晋の武帝が学問に励むと梅の花が咲いたところからそう名付けられたものです。
『義経千本桜』「すしや」ですしの空き桶をかついで帰ってきたのは「利口で伊達で色も香も知る人ぞ知る優男」でしたが、この言葉の下敷きになったのは『古今和歌集』の
  君ならで誰にか見せむ梅の花
   色をも香をも知る人ぞ知る
          (紀友則)
でした。昔の人は梅でも桜でもきれいに咲いている枝を折って人に贈ったのです。それを室内の瓶に挿して鑑賞しました。この歌はその際に添えられた歌。あなた以外のどなたに見せましょうか、梅の花は、色も香りもわかる人だけがわかってくれるのですから、ということです。
挨拶に和歌を用いるような生活は、今ではほとんど考えられなくなりました。でも、57577の31文字でちょっとした連絡事項を伝えたりするのはけっこうおもしろいもので、

    正岡子規

もそんなことをしていたのを読んだことがあります。この日に歌会をおこないますので、おいでください、などというのをはがきに31文字で書いて送るのです。やはり歌人であった塚本邦雄氏もご自身の電話番号を短歌仕立てにして伝えていたと木津川計さんの本で読んだことがありました。短歌にもそういう遊び心があっても良いわけです。
梅の季節は春を告げるころで、まだ寒い時期ではあるのですが、その色も香も心を温めてくれる花だと思います。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

今年の大河ドラマ 

今年のNHK大河ドラマは意外に評判がいいように聞いています。勝海舟や坂本龍馬が登場するか、「合戦じゃ!」「エイエイオー!」がないとだめだといわれてきましたが、驚きました。視聴率はどうなのでしょうか。
例年どおり、私はまったく観ていないのですが、SNSを通して、多くの方がおもしろい、とおっしゃっているので「へーっ!」という感じです。
そもそも何も知らなかった私は光源氏が出てくるのかと思った(笑)のですが、そうではなくて大河ドラマらしく歴史上の人物のお話なのですね。
紫式部が主人公なのかな。
内容はよくわかっていませんが、漏れ聞く限りでは、とても現代的な内容が描かれているような感じでした。平安時代の貴族は、もともとは争いごとをして得た権力をその子孫が受け継いでいく、という感じで、江戸時代の将軍も現代の総理大臣も同じようなものです。
ただ、ときどきなかなか立派な人もいるもので、そういう中興の祖のような人があるとぐうたらが間に挟まっても(笑)ある程度は続くものかもしれません。このたびのドラマに

    藤原師輔

は登場したのかな・・? 道長のおじいさんに当たる人ですから、初めのあたりで顔を出したかもしれませんね。この人はそれなりに立派なところがあって、すべてにおいてとは言いませんが兄(実頼)を超える有能な官吏であったと言われ、和歌・学問をよくし、故実にも詳しく(兄の実頼も詳しい)、『九条年中行事』のような故実書を記し、さらには子孫への戒めである『九条殿遺誡』を残しています。九条殿というのは師輔のことで、彼の門閥が台閣の中枢を構成するようになっていきます。こういう人物が、道長たち子孫の背景にいい意味で亡霊のように憑いていたことが、彼らの心の支えになったと思うのです。
当時は

    疫病

がよく流行しましたが、そういうのも描いていくのでしょうか。いや、描かざるを得ないでしょうね。身分の上下なんて関係なく、感染した人はばたばたと倒れていくわけですから、政争にも大きな影響を与えます。
道長自身は疫病とはあまり縁がなかったようですが、いろいろな病気をしています。しかし、権力をふるう人物として、あまり病弱には描かれないのかもしれません。よしんばそうであっても、そのあたりはドラマのウソですから別にかまわないのですけどね。歴史という観点から言うと脇役に過ぎない人の中にも、私なら芝居に取り入れたくなるようななかなかおもしろい人物がいるのですが、そんなにあれこれ入れるわけにはいかないでしょうね。
私がこの大河ドラマを観るとすると、一番興味を持つのは装束や調度品をどのように見せてくれるか、という点だろうと思います。映画『かぐや姫の物語』でも、かなり調度品は気にしていました。建物の構造の描き方にも興味はあります。それなら今からでも観ればいいんじゃないの、と言われそうですが、おそらくすぐにやめてしまう(笑)と思います。
ご覧になっている方、どうぞ楽しみになさってください。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

春在枝頭已十分 

春を待ち焦がれる気持ちは、冬という季節のある土地に住む人たちには共通のもので、古来詩歌にも詠まれてきました。
袖ひちて掬びし水の凍れるを
   春立つ今日の風やとくらむ
    (古今和歌集・春上・紀貫之)
立春の今日の風は、凍った水もとかすだろうか、と、暦の上の春を待ち焦がれた気持ちが詠まれます。でも実際はまだそんなに暖かいわけではなく、
  春来ぬと人はいへども
   鶯の鳴かぬかぎりは
    あらじとぞ思ふ
    (古今和歌集・春上・壬生忠岑)
と、鶯が鳴かないと春が来たとは思えない、というのが実感なのです。
私も、近ごろ歩いているときは、春はどこに来ているだろうか、とついきょろきょろとしてしまいます。
宋の詩人戴益の

    「探春」

という詩はこう言います。
  尽日尋春不見春
  杖藜踏破幾重雲
  帰来試把梅梢看
  春在枝頭已十分
一日中、藜(あかざ)の杖を突いて幾重の雲の中を、春を探して歩いたがどこにも見当たらなかった。家に帰って梅の梢を手に取って観ると、春は枝先にあったのだ、というわけです。幸せの青い鳥は遠くにはいなかったのですね。
この最後の句は

    禅語

として独立して用いられることもあって、二月の茶会などで軸が掛けられるのではないかと思います。
二月ではまだ春を感じることは少ないですが、「花の兄」と言われる梅はそろそろ咲き、やはり枝頭に春は来ていると思います。春の初めはまだ寒いのです。氷がとけるかどうかという時期で、鶯の声がしない限りほんとうに春が来たとは思えないのがこの時期なのだろうと思います。
それでもやはり暖かい日を待ち焦がれます。
今年の立春は2月4日で、旧正月は2月10日にあたります。つまり旧暦では正月になる前に春が来ることになります。こういうのを「年内立春」ということがありました。
  年のうちに春は来にけり
   ひととせを去年とやいはん
    今年とやいはん
    (古今和歌集・春上・在原元方)
という歌もあります。年内に春が来てしまったが、この一年を去年と言えばいいのか今年というべきか。ちなみにこの歌は正岡子規が、ハーフの人を日本人というべきか外国人というべきか、というのと同じ程度の歌だ、とひどくけなした一首です。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう