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寛仁 

大江匡衡という人物が考えた「寛仁」という元号案は西暦1004年の改元の際には思いがけないことで落選してしまいました。
ところが藤原道長はこの元号を気に入っていたのです。そこで次の改元の時にぜひともこの元号を採用しようとしたのです。一条天皇がなくなって、諱を「居貞」という天皇(三条天皇)が即位しましたので、もう「仁」の字を使うのに支障はありません。一条天皇が亡くなったのは寛弘八年でしたから、翌九年に改元は行われるべきです。ところがなんと、この年に大江匡衡が亡くなるのです。そんな年末に改元を行うことになったのですが、道長は「寛仁」にする腹積もりですから、文章博士にその案を出すように命じていました。
ところが博士たち(二人)は「寛仁」の出典がわからないというのです。出典のわからない案は提出できないので、道長は不満でした。

    「匡衡が生きていれば」

と思ったことでしょう。
そしていよいよ新元号を決める話し合いのある日、道長はたまたま家で仏事を行ったのですが、そこに藤原実資というなかなか学識のある人物が来ました。そこで道長が不満を漏らすと、実資はあっさり「『寛仁』なら『漢書』に出てくる言葉ですよ」とあっさり言うのです。そこで道長はさっそく『漢書』を調べてみると「寛仁にして人を愛し、意豁如たり」(「豁如」は広々としている様子)という一節があるではありませんか。道長は「これを見つけることができずに何が文章博士だ」とぼやいたようです。
会議の席上、「長和」がいいでしょう」という話にはなったのですが、まだ納得のいかない道長は「案にはないが『寛仁』にするわけにはいかないか」と口に出しましたが、

    それはできません

と一蹴されてしまいました。
ここでぶちぎれてしまっては「寛仁にして人を愛す」どころではありません。道長は断念せざるを得なかったのです。
そして、次の改元の時、やっと「寛仁」は日の目を見るのです。最初に案が出されたのが西暦1004年、採用されたのはその13年後のことでした。

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学者の出番 

このたびの改元でも古代日本及び古代中国文学者や古代日本及び古代中国歴史学者が活躍されたようですが、昔もこういう時には学者に出番がありました。
文章博士とか式部大輔などという地位にある人が案を出して、それをもとにトップクラスの政治家たちがまとめ、天皇の裁可を乞うというのが筋道です。
『源氏物語』の時代であれば、こういう役割を果たす人物として

    大江匡衡(おおえのまさひら)

を挙げないわけにはいかないのです。歌人の赤染衛門の夫でもあるこの人物は、漢詩の催しなどがあるとすぐに呼ばれて序を書いたり、題を出したりすることがありました。
また、一条天皇の第二、第三皇子(いずれも藤原道長の娘の生んだ皇子)についてはその名前の案も出しています。事実上の名付け親ですね。
そしてこの人は西暦999年に始まる「長保」と1004年に始まる「寛弘」の元号案を提示した人でもありました。
彼は自分の考えたこの二つの元号に

    自信

があって、自らの漢詩集の中に「長保と寛弘の時代はいい時代だ。延喜天暦に比肩するものだ」という意味のことを書いています。
このうち「寛弘」という元号が採用されたときにはちょっとしたハプニングがありました、実は匡衡はほかにも「寛仁」という案を出していたのです。そして政治家たちは「寛仁」がいいと言っていったんこれに決まりかけたのです。ところが、藤原忠輔という人物が「『仁』の字は今の帝の諱にありますから避けるべきではないですか」と言ったものですから、それはなるほどその通りだということで一転「寛弘」が選ばれたのです。時の天皇(一条天皇)の諱は「懐仁(かねひと)」でした。jもっとも、「仁」という字は天皇の諱にはよく用いられるもので、のちの時代には諱と元号の文字が重複することは珍しくなくなっています。例えば「天仁」という元号は鳥羽天皇の時ですが、この天皇の諱は「宗仁」、「仁平」は近衛天皇ですがこの人は「躰仁」でした。
ところで、匡衡が提案したうちの「寛仁」はどうなったかというと、このあとめまぐるしい運命をたどることになるのです。

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改元ネタ 

「不謹慎極まりない」と言われそうですが、このたびの改元の話題は、いろんなところで話のネタとして使わせていただこうと思っています。
といっても、直接の出典とされる『万葉集』の解説をするのは私の任ではないと思いますので話題にはしないかもしれませんが、改元という作業についてはいくらかものが言えるかな、と思うのです。
といっても私の場合は平安時代のことで、このたびの改元が政府内でどういう手続きで行われたのか、などということについてはまるで知りませんし、正直に申しますと

    興味もない

のです。
私が今、ある短歌結社の雑誌に連載させていただいている『源氏物語』のお話でも普段のお話から切り離して、特別の話題として『源氏物語』の時代にどのようにして改元が行われたか、というお話を書こうと思っています。
また、どうせなら使いまわしをすると効率がいい(笑)ので、一般の方にお話をしている『源氏物語』や『枕草子』の講座でも同じ内容をお話ししようかな、と思っています。
たとえば

    「長和」

という、1012年から4年ほどの元号が決まった時のことは改元に関する記録を集めた『改元部類』という書物にその経緯が記されています。案として文章博士が提示したのは「長和」「政和」「太初」の3つで、その中でなぜ「長和」が選ばれたかが書き残されています。
どうもこの3つの案はあまり好評ではなかったらしく、「考え直してこい」と言われそうなものだったようなのですが、そうはいかない事情がありました。
天皇の交代は昔も改元の一番の理由でしたが、慣例として即位の翌年のうちに改元されるのです。ところがこの時は先述の案で議論したのが12月25日。もう後がないのです。考え直していたら年が改まってしまいますからそれはできないのです。
そこで三者を比較して

    「ましなもの」

を選ぶことになり、その結果「長和」になったのでした。
「太初」というのは実は古代中国にあった元号で、それを借用するものだったのです(元号の出典というのは文献だけでなく、中国の元号をまねる場合もあり得たことになります)。たまたまこの年と共通点があったのでこれを借りようという案なのですが、どうもその太初年間にはあまりいいことがなかったというので廃案になりました。
「政和」は一見不思議な理由でボツになりました。秦の始皇帝の諱(いみな)が「政」というのです。それで「政」の字を避けるべきだということになったみたいです。また、古代中国でも「政」の字が元号につくのは一回きり(後周の「宣政」のみ)なので、これも不採用の理由になったようです。日本でも「政」の字が元号につくのは江戸時代の「寛政」「文政」「安政」の三つだけで、平安時代には例がありません。
そこで、特に欠点ということがない「長和」が採用されたのですが、ちょっと気になるのはこのときの記録に

    「和字不快」

と書かれていることです。「和」の字が元号に用いられたものとしては「長和」以前にも「承和」「仁和」「応和」「安和」「寛和」の例があり、悪い字ではないはずですが問題視されたようです。

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古代の元号 

お笑いの坂田利夫さんが「あほ」で売り出していたころ、「あほやない。歴史には詳しい」というために、よく「大化の改新645年、関ヶ原の合戦1600年!」と早口でおっしゃっていました。坂田さんにネタにされるほど有名なのです、大化の改新というのは。
日本の元号の最初はその「大化」でした。
それ以後、元号は使われない時期もあったり、四字になったりすることもありましたが、8世紀の後半からは二字のものが使われ続けています。

    元号不要論

は根強いです。確かに、なくてもあまり差支えはないような気がします。時としてむしろ面倒でさえあります。「日付を書いてください」と言われて「西暦と元号とどちらがいいですか」と尋ねたことが何度もありました。グローバル化の時代にふさわしくない、ともいわれます。
その一方で元号が変わるというと日本国中大騒ぎをしていました。どうも簡単に「やめてしまえ」というわけにはいかないようです。
天皇が変わるとその翌年に改元する、というのが古いしきたりでした。「世一元の制」というのは明治以来のものですが、実は昔もそういう時期は結構あったのです。たとえば平安朝を開いた桓武天皇は延暦という元号のみでしたが、次の平城、嵯峨、淳和の各天皇も元号はひとつだけでした。
しかし、それ以外にも、古くは何か祥瑞があると改元するということがあったのです。
「大化」の次の元号は

    「白雉(はくち)」

でしたが、これは文字通り白い雉が朝廷に献上されたことによるのです。
大宝律令でおなじみの「大宝」という元号も対馬国から金が献上されたことが理由になったのだそうです。
一番びっくりするのは天平文化で知られる「天平」の由来です。なんでも、甲羅の部分に「天王貴平知百年」と読める文字がある亀が献上されたことによるのだそうです。そんな亀、いるのでしょうか。
ところが10世紀以降になると、むしろ災いがあったときに「げん直し」のように改元が行われるようになり、しょっちゅう元号が変わることもあったのだそうです。

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牛ほめ 

落語に「牛ほめ」という演目があります。
ある男が、従兄弟らしい男に「池団のおっさん(おじさん)が普請をしたというのでほめてこい、そうすればおっさん喜んで小遣いをくれる」と言われました。ほめ方まで教えてもらって、さらにおじさんが気にしているという台所の柱の節穴に「秋葉はん(秋葉大権現)のお札を貼ったら穴は隠れるし、火よけ、魔よけにもなる」という知恵までつけてもらえます。「これでも小遣いをくれなかったら牛をほめてこい」と言われ、牛のほめ方として

    天角地眼一黒鹿頭耳小歯違

という牛の美点を集めた言葉を教わります。「てんかく・ちがん・いっこく・ろくとう・にしょう・はちごう」すなわち、角(つの)が天を向いて、眼は大地をにらみ、色は黒一色、首が鹿のようで、耳が小さく、歯がたがいちがいになっているということです。
この男、なかなか見事にこの難しい言葉を言うのですが、最後に牛が粗相をして・・というのがこの落語の内容です。
『枕草子』に「牛は」という短い段があります。
ここでは清少納言の言ういい牛の条件が書かれているのです。

  牛は、額はいと小さく白みたるが、腹の下、
  足、尾の筋などは、やがて白き


なんと、落語に言う「一黒」どころか白っぽいのがいいようです。だいたいこの人は白い色が好きで、この前後には馬と猫についても「白」をチャームポイントとしています。馬については「いと黒きが、ただいささか白きところなどある」。葦毛については「薄紅梅の毛にて髪、尾などいと白き」とも言っています。猫は「上のかぎり黒くて腹いと白き」。
しかし、いずれにしても牛を評価するにも色のみを問題にするところが、それなりの家に生まれ、中宮(皇后)に仕えるという暮らしをした人ならでは、でしょうか。

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