王朝の歌人たち 

新年度、一般の方にお話しする講座を二つ考えなければなりませんでした。ひとつは『源氏物語』で決まっていましたが、もうひとつ、以前このブログで「菅原道真」と取り上げるようなことを書いたのですが、いろいろ考えた結果、あまり興味を持っていただけないかもしれない(漢詩が多いことも理由のひとつです)と思うに至り、変更することにしました。
やや総花的になるのですが、小野小町も在原業平も紀貫之も和泉式部もとにかくさまざまな

    王朝の歌人たち

についてお話しして、平安時代の和歌史を展望してみようと決めました。これでやってみようという方がいらっしゃるかどうかわかりません。しかし、何もしないわけにも行かず、時期も迫っていますので、えいやっ! とばかりにシラバスを作って提出してしまいました。
和歌を読むのはもちろんなのですが、歌人たちがのちの時代にどのように受け止められていたかを探ることも考えており、具体的には本歌取りなどの形で影響を与えたことを考えてみたり、説話などを読んでいかに

    伝説化

されたかを考えたりしてみようと思っています。
たとえば、和泉式部は恋の歌を多く詠み、好色であったかのようにも伝えられています。その結果、どんな説話が生まれたかを調べてみたいのです。
まったく自信はありません。これから相当勉強しなければならないと思われ、いささか焦っています。

にほんブログ村 演劇へ
↑応援よろしく!

KatayamaGoをフォローしましょう

スポンサーサイト

菅原道真 

日本の古典文学を勉強する者なら、この人について知ることは重要だと思います。漢詩人、歌人としてすぐれた業績を残したばかりでなく、官人としての生涯があまりに劇的であるために伝説が生まれ、神格化され、芝居の主人公にまでなった人です。
申すまでもなく、文楽では

    菅原伝授手習鑑

のタイトルロールです。
ところが私は漢詩が苦手なものですから、つい敬遠してきた人なのです。
この春から、この人について勉強しようかという気持ちが起こっています。「今ごろになって?」といわれそうなのですが、仕方がありません。学生時代にもっとしっかり勉強すべきだったのに、ということはよくわかっていますが、後悔するよりも勉強する方が楽しいですから。
まだ決めたわけではないのですが、一般の方と一緒に道真の生涯、漢詩、和歌、説話などを調べ、さらに

    北野天神縁起絵巻

などを読み解けないだろうかと思っています。

にほんブログ村 演劇へ
↑応援よろしく!

KatayamaGoをフォローしましょう

『源氏物語』逍遥(四)ーあふさきるさにー(その4) 

 次に、左馬頭は家刀自(主婦)と情趣の関係に言及します。「こぎれいで風雅をちらつかせるような女はそれゆえに欠点が隠れ、こちらが調子を合わせると色っぽさが度を超す。夫の世話という大事な仕事をするのに風流本位では済まないことがある一方、風流のかけらもなく世帯じみてしまったのではつまらない。仕事のことなど、理解のない妻なら話しても仕方がないと、ついそっぽを向いてしまう。子どもっぽい女を妻にすると教える楽しみもあるが、重要なことを頼むのに判断すらできない女では困る」などと。ところが、経験豊かな左馬頭もそのうちに収拾がつかなくなってしまい、「定めかねていたくうち嘆く(結論を出すこともできず、ふーっとため息をつく)」始末です。なお「嘆く」は「長息」=「なげき」からできた言葉です。
 左馬頭はとうとう「もう品(階級)とか容貌などまったくこだわらない。ひどく残念なほどひねくれていると思われない人であれば、ただ一途にまじめで、穏やかな様子の人をあてにできる妻と考えるのがよいでしょう」と言い出します。そして「恨み言を言うべきところを我慢して貞淑を装っていながら、思いあまると(今の言葉でいうと「キレると」でしょうか)恐ろしい言葉などを書き残して辺鄙な海山に行ってしまう女がいるが、それは軽薄だ。ちょっとつらいことがあるだけで愛情の深い夫を置いて逃げ隠れると後悔することになる」と続けます。左馬頭なりの結論は「万事穏やかに、嫉妬するときはほのめかす程度にして恨み言を言う時はそれとなくかわいらしく言えば男の愛情は増すものだ。男の浮気心もそうすれば収まるのだ」ということでした。男の身勝手とも本音とも言えましょうか。
 この意見にうなずいたのは頭中将でした。彼は妹の葵の上が夫の光源氏とあまりうまくいっていないことを思い浮かべていたのです。そして「夫婦関係が順調でなくても気長に耐えているほかはないようだな」というのです。ちょっとしたいやみのようですが、何も意見を言わない光源氏はここに及んで「うちねぶりて(居眠りをして)」います。さてこの居眠り、彼は本当に寝ていたのでしょうか、話がつまらなくて目を閉じていたのでしょうか、あるいは自分に不利な空気を読んで狸寝入りを決め込んでいたのでしょうか。
 頭中将が熱心に聞き耳を立ててくれるので、左馬頭はこの品定めの「博士(その道に通じた指導的立場の人)」としてなおも続けます。「奇抜なものと本格的なものでは後者の方が心惹かれるもので、何かの折々に様子ありげなふりをするような人は信用できません。そういう例をお話ししましょう」と居住まいを正します。話が具体的になるようです。頭中将は真剣に聴こうとし、光源氏もまた目を覚ますのでした。
 憂鬱な雨に降り込められて心が内向きになっている若者たちです。あたかも百物語でもするかのように話はさらに続くのです。

にほんブログ村 演劇へ
↑応援よろしく!

KatayamaGoをフォローしましょう

『源氏物語』逍遥(四)ーあふさきるさにー(その3) 

 そこにやってきたのがこれまた色好みで知られる左馬頭と藤式部丞で、このあと中流女性を軸にして「雨夜の品定め」が本格化します。しかし肝腎の光源氏はというと、聴き手に終始するのです。つまり彼はこの中流女性論を受け止めることで未知の世界を知り、それは後日の「実践」の糧(かて)となるのです。よって、左馬頭を中心とする論者の見解は物語の展開(光源氏と中流女性との関係の実現)に重要な役割を果たすことになります。彼らの話に耳を傾けてみましょう。
「中流といってもさまざまで、もともと高貴な家柄でありながら没落した人、受領という地方官レベルながらまんざらでもない人、上達部に至らなくても世評も家柄も悪くない人などがいて、そういう人が大事にしている娘が宮仕えをして思わぬ幸運を得ることもある」。
光源氏がのちに出会う末摘花(没落した宮家の娘)や空蝉(地方官の妻)、明石の君(田舎育ちの幸運な人)などが思い合わされなくもありません。「人に知られず荒れ果てた家に思いがけず『らうたげならむ(いじらしい)』人が閉じ込められているのは心が惹かれる。年老いた父親が見苦しく太っていて、兄弟も美男とは言いがたいのに、技芸などのすぐれた女性がいるのもいいものだ」。
シンデレラのような「哀れなヒロイン」の話ですが、後に登場する夕(ゆう)顔(がお)や末摘花あるいは紫の上との出会いはこれに近いかも知れません。
 最初は質問したり冗談を言ったりしていた(しかし意見は言わなかった)光源氏は、このあとも思いめぐらすことはあっても何も言わずに聴いています。
「一家の主婦となる者には不可欠な要素が数多くある」と言い出した左馬頭は
  とあればかかり、あふさきるさにて、なのめにさて
  もありぬべき人の少なきを
  (こうだと思うと実はあのようであり、食い違いば
  かりで、不十分ながらも何とかやっていける人は少
  ないので……)
と述べ、「だから浮気心に任せて多くの女性を見比べてえり好みをするようになるのだ」と続けます。ところで、ここには引き歌があります。
  そゑにとてとすればかかりかくすればあないひ知ら
  ずあふさきるさに     (『古今和歌集』雑躰)
  (だからといってそうすればこうだし、ああすればこうなるし……ああわけがわからない、食い違うばかりで)
「そゑに」は「其(そ)ゆゑに」のことで「合ふさ切るさ」は「一方が合うと他方が切れるような食い違い」のことです。この歌は『古今和歌集』では「誹諧歌」に分類されているのですが、いかにも卑俗で滑稽味すら感じさせる歌です。ああ言えばこうだし、こう言えばまた違うし、「あないひ知らず」は「もうどうでもいい」とやけっぱちになっているようです。そして「あふさきるさ」もいかにも「めんどうくさい」という口調です。左馬頭がここであえて引き歌を用いたのは、そんな「舌打ちでもしたいようないらだち」を伝えたかったのかもしれません。引き歌というのはそんなプラスアルファの効果を持つようです。

にほんブログ村 演劇へ
↑応援よろしく!

KatayamaGoをフォローしましょう

『源氏物語』逍遥(四)ーあふさきるさにー(その2) 

 雨について饒舌が過ぎましたが、それは今回から話題にする帚(ははき)木(ぎ)巻が雨を抜きにしては語れないからです。
 「光る」などと世間で大げさにいわれているものの、実のところ、光源氏はあまり面白おかしい恋愛話はなくて、昔物語に登場する色好みの交野少将には笑われたであろう、と、この巻の冒頭は少将ならぬ中将になった十七歳の光源氏を揶(や)揄(ゆ)するように始まります。
 光源氏の宮中での宿直(とのい)所は桐壺(淑景舎)でした。内裏の物忌みに五月雨も重なって、若いエネルギーを発散するすべもなく閉じ込められてしまった憂鬱な夜のことです。この設定について、江戸時代末期の国学者萩原広道は「初めに長雨の晴れ間なきを言ひ起こして、物語のしめやかなるべき下組をなしおき(最初に長雨の晴れ間がないことを言い起こして、物語のしんみりとした下準備を整えて)」(『源氏物語評釈』)と言っています。
葵の上(光源氏の妻)の兄の頭中将が桐壺にやってきて、女性からの手紙を見たいと催促し、見せろ、見せないの応酬のあと、頭中将はちょっとした女性不信論を語り始めます。「欠点のない人などいるはずもない」「自分の得意なことを吹聴して他人をけなす人が多い」「その女の世話をする女房は、女の欠点は言わず、わずかな長所を大げさに言うのでたいていがっかりする」等々。頭中将とてまだ若者なのですが、光源氏より年長ということもあってか、女性のことは知り尽くしていると言わんばかりです。そのうちに頭中将は上流、中流、下流という階層に言及し、「中の品(中流)の女性にこそ個性がうかがえるのだ」と言って、中流女性になじみのない光源氏の関心を誘います。

にほんブログ村 演劇へ
↑応援よろしく!

KatayamaGoをフォローしましょう