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だしまき2012ー4(告知) 

長かった寒さもようやくおさまる気配。
ということは文楽4月公演が近づいてきたということです。そして、お馴染みの

    だしまきの夕べ

が近づいてきたことでもあります。
いつも参加されているかた、たまに参加されるかた(私はこれです)、そして未参加のかた。
どなたもご遠慮なく、おいでになってください。
今回は

    4月21日(土)

の第二部終演のあと。つまり3週間後です。そろそろ観劇日程もお決まりかと思いますので、ここに告知し、ご参加のお申し出をお待ちすることにいたします。

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吉備大臣(2) 

吉備大臣入唐絵巻はとにかくユーモラス。
唐人は次に「才はあっても芸はあるまい」と言って、吉備大臣に

    囲碁

を打たせようとします。これも鬼が教えてくれたので、吉備大臣は囲碁について殿上人の組入を碁盤に見立てて作戦を練ります。
翌日、囲碁の名手がやってきます。
相手も名手、吉備大臣もしたたか者です。互いに譲らず、勝負がなかなかつきません。そこで吉備大臣は相手の黒石を一個飲み込んで、勝ちを収めます。卑怯ものと言われるかもしれませんが、彼は全く囲碁を知らなかったのに一晩勉強しただけで名人と互角の勝負をしているのです。文選の時も盗み聞きしただけで理解しましたが、実に優れた才だと言うべきではないでしょうか。

しかし、どうもおかしいぞ、ということになって唐人が占いをすると、吉備大臣が飲み込んだという結果が出ます。飲み込んだものは出させればいい、というわけで、「かりろく丸」を飲ませて、尾篭な話ですが、

    下から出そう

ということにします。
ここの絵がまたケッサク。出すものを出してきた肌着姿の吉備大臣がみつめている方向に、唐人が3人地面を見ています。一人は見たくないものを見るのはいやだとばかりに手をかざすようにして目を半ば隠し、一人は袖口で鼻を覆い、もう一人に至っては鼻の穴に指を突っ込んでいます。要するに、吉備大臣の排泄物を調べて、黒石を探しているのです。
しかし吉備大臣は腹中に碁石を留めて出さなかったのです。

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改名 

歌舞伎の世界では又五郎、勘九郎、猿之助などの襲名が華やかに次々おこなわれ、一方文楽では相変わらず地味です。襲名すればいいと言うものではありませんが、

    60歳前後で初名

の方が多い現状は不自然にすら思えます。かつては子供時代に入門、20代、30代で襲名ということもあり、呂大夫さんや咲大夫さんも若くして襲名されました。
ご本人のためだけでなく、お客さんも楽しみがあると思われます。
たとえば、私も以前に文楽に行きたいが、第一部と第二部のどちらがよいか、と訊かれたときに、「この公演では第一部で

    襲名の口上があって

華やかだと思いますよ」という勧め方をしたことがあります。
春などはいい機会です。毎年春は誰かが何かになる、という雰囲気があってもよいと思っています。安売りするな、というお考えもあるでしょうが、あまりこだわりすぎると金輪際襲名なんてできなくなると思います。

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吉備大臣(1) 

持統天皇9年(695)~宝亀6年(775)に生きた吉備真備は、現在の岡山県倉敷市真備町の出身。
阿倍仲麻呂らとともに遣唐使として入唐し、終生唐にいた仲麻呂とは違って帰朝しました。
後年、再度唐に渡り、また帰朝を果たします。その後は出世して右大臣にまで上ったのです。

この人物が唐に渡った時の出来事をかなりユーモラスに描いたのが

    吉備大臣入唐絵巻

です。「きびのだいじんにっとうえまき」「きびだいじんにっとうえまき」「きびのおとどにっとうえまき」などと読まれるこの絵巻物はアメリカのボストン美術館の所蔵です。彼が唐に渡った時はまだ大臣ではなかったのですが、あくまでこれは説話の中の吉備大臣で、歴史的事実にはこだわらないでよさそうです。
この絵巻は、16世紀末には若狭国小浜、今の福井県小浜市の新八幡宮にあったといわれ、その後幾人かの手を経て幕末に若狭の酒井家が手に入れたのです、酒井家はあの

    伴大納言絵巻(現在は出光美術館蔵)

も持っていたのですが、いつまでも全ての美術品を所持し続けることはできませんでした。そしてまず「吉備大臣」を売りに出し、買ったのは大阪の戸田商店という古美術商。しかし日本では転売できず、東洋の美術品を集めていたボストン美術館の手に渡りました。昭和に入ってからのことでした。これほどの名品が海外に流れたのは残念とも言えますが、そのためにこれを買うことにしたボストンの富田幸次郎は国賊呼ばわりされたこともあったそうです。これはまたいわれのない、気の毒な話です。

このたびボストン美術館から「平治物語絵巻」「雲龍図」「松に麝香猫図屏風」などとともにこの絵巻が日本にやってきました。アメリカでは、Minister Kibi's Adventure in China と呼ばれるそうです。
東京国立博物館(公開中)を皮切りに、名古屋、福岡、そして来春の大阪と巡回するようです。私は一刻も早く観たいのですが、おそらく大阪までお預けになるだろうと思います。かつて学生時代に京都で見て以来の再会になります。

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看護師さん 

昨日は、看護師国家試験の合格発表があったようです。落とすための試験ではないようですが、それでも成績が悪ければ落ちます。
合格したみなさん。

  おめでとうございます!

私の部屋に時々遊びに来ていた学生さんからは、早速『合格しました』のメールが届きました。これで、4月から晴れて社会人。高給取りですね(笑)。彼女は4年間断続的にではありましたが、ずっとつきあってくれました。もちろん、専門の先生ほど親密な付き合いではありませんでしたが、斜め向かいの研究室にしばしば出入りしていたので、そのついでに(笑)私の部屋にもよく立ち寄ってくれました。
4年生の秋には

    奈良市の幼稚園

での文楽人形劇にも参加してくれました。ご両親にしてみたら「なんであなたが文楽人形劇なの?」という感じだったでしょうけとね。

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腕時計 

指や腕につけるものもいろいろあります。
指輪、腕時計、ミサンガ、数珠など。つけ爪もありますね。
縁のないのはつけ爪だけで、あとはどれをつけてもさほど不自然ではないと思うのです。
ところがこういうのはまるでダメ。手につけるとなんだか気になって仕方がないのです。
初めて腕時計というものを買ってもらったのは小学生の時でした。
商社勤めだった父は海外出張が多く、特に

    香港 

にはしばしば出かけていました。
あるとき、別にねだったわけでもないのに兄と私に香港で腕時計を買ってきてくれたのでした。当時おそらく中学生だった兄は薄型のおとなっぽいもの、私はカレンダーつきのものでした。小学生で腕時計など持っていてもほとんど意味がなかったのですが、兄だけに買ったのでは次男がひがむだろうと思ったのかもしれません。記憶はないのですが、兄が頼んだのかもしれません。
私はものを欲しがらない、

    愛想のない子供

だったので、別に兄だけでもひがむことなどなかったと思うのです。こういうときはひがんでこそ子供だと思うのですが。
それでも嬉しいことには違いなく、家に帰ったら時計を眺めていたような気もします。愛想のないのが愛想となった、ということにしておきます。

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傾城阿波の鳴門(第六の1) 付680,000 

第六は「吉田屋」です。私どもは、「吉田屋」というと『曲輪文章』(タイトルとしては「文」と「章」を一字に合字、つまり「文」偏に「章」という文字で表記される)を思い出しますが、もとは近松門左衛門の

    夕霧阿波の鳴門

の一部です。それをこの『傾城阿波の鳴門』にも取り込んでいるわけです。

大坂新町の揚屋「吉田屋」では大晦日の今日、庭で餅つきの最中です。藤屋の伊左衛門は夕霧を呼びに行かせていますが、癪でふらつくからといってまだ来ません。
駕籠舁の喜八と太鼓持の太四郎は「夕霧様は、半年ばかり伊左衛門様が江戸に行かれてたので吉原での遊興にすねていらっしゃる」「そうではなくて住吉屋の阿波の客が身請けするという噂で癪を起こされたらしい。なんとか伊左衛門様に身請けしていただけるようにとこちらの旦那(吉田屋喜左衛門)が京までいらっしゃったそうな」と話します。それを聞いた伊左衛門は「親は女郎嫌いだから、さてうまくいくかどうか」と案じます。
そんな伊左衛門を慰めるように太四郎が餅を搗き、一同は奥に入って行きます。(ここまでが口)

夕霧がやってきます。そのあとに破れ編み笠に

    紙衣姿

という男がついてきて声をかけ、銭一文を差し出します。風流なところもありげな男の様子に、夕霧はわけがありそうだと思います。
男は、「私はあなたに惚れました。先月二十日の朝、道中されるあなたを見て忘れられなくなりました。このままでは死んでしまいそうで、どうかお情けに一夜を共にしてください」と言って泣いています。
夕霧は聞き届けましたといって吉田屋の中に手を引いて男を入れます。花車のすぎは驚きますが、先ほどの一文で私は買われました、と言うのです。いくらなんでも紙衣姿では、というのでやむを得ず着替えさせることになりました。

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友 

だいたい友人が少ないのです。年賀状のやりとりも多分同世代の人に比べたら少ないはずで、そもそも日常的に連絡を取り合ったり相談をしたりする人は皆無に等しいのです。
職場でもほぼポツンと一人でいることが多かったので、ものごとの動きもあまりわかりませんでした。それでなくても情報弱者なので、世の中の動きについていけないのもやむを得ないと諦めていました。
今、

    Twitter

でフォローしている人数は100人足らず。いわゆる著名人をフォローしていないので少ない、という面もありますが、平安時代文学のクラスタにはほとんど出入りしていません。だいたい、その関係の人の誰がツイッターに参加しているかも知らないのです。

あまり積極的には参加していない

    Face Book

なのですが、ここでの「友達」もまだ10人ちょっとです。自分からどんどん増やそうという意識が低いのですね。びっくりするのは、大半が女性であること。もっと消極的な参加にとどまっている(笑) Mixi になると、90%以上が女性です。
そういえば昔から「リアル」でも男友達が少ないのでした。
大学は文学部で女性のほうが多く、大学院は国文学は男性が多かったと思うのですが、なぜか外国文学専攻の人と気が合って、そちらは女性が多かったのです。
そんなわけで、なかなか男の親友のような存在に出会いませんでした。

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切語りのつらさ 

私が最初にファンになった文楽の太夫さんは、当時トップクラスだった四世越路大夫でも四世津大夫でもなく、

    五世 竹本織大夫

さんでした。まだ40代半ばでしたから今の呂勢大夫さんくらいでしょうか。佇まいは颯爽としていて、中音から低音の響きは類を見ず、厚みもあって浄瑠璃が手に入っている感じ。時代、世話いずれもよく、特に近松ものには当時から定評がありました。
もっとも私が若輩で、まだまだ浄瑠璃の魅力なんて何も分かっていませんでしたから詳しいことは言えませんが。
文楽劇場開場の時は52歳。

    川連館の奥

を語っていらっしゃいました。その後、豊島屋油店、数寄屋、紙屋内、大和屋などの近松作品はもちろん、勘平腹切、寺子屋、尼崎、妹山、酒屋、野崎村、新口村等々、舞台はもちろん、放送なども追っかけるように聴きました。やがて九代目綱大夫を襲名され、昨年は九代目源大夫になられました。
しかし年齢や体調のことで休演が相次ぎ、かなり心配になっています。
2月は「すしや」の一部分、4月は「長局」の掛け合いで、持ち場も健康に配慮されるようになりました。
もはや義太夫節は楽しめない私ですが、それでも気になる方なのです。

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小銭 

私の悪癖さまざまあれどどうかこうかと溜まる銭
都々逸にもなりませんが、全くもって改善しない癖が、すぐに硬貨、小銭を溜めてしまうことです。貯めるのならかまわないのですが(笑)、溜めるのです。
要するにポケットにハダカの小銭をジャラジャラさせてしまうのです。
最近のレジでは客にはっきりと金額が見えるようになっていますが、病院の会計窓口などは必ずしもそうでもなく、

    会計のお姉さん

の言われるままに払っています。ところが何を言っているのかわからないので(請求書兼領収書は彼女が握って放さないから見えない)、500円で収まるかなという時は1000円札、血液検査のあった日は5000円札を出してしまうことがあります。最近は見せてもらうように頼むようになりましたけどね。
また、スーパーに行って混んだレジに並んで、あわてて小銭を出していると、次に並んでいるこわそうなおばさんに「はよ、してえな」の

    ギロリとした視線

を送られそうで、これまた紙幣を出してしまったりします。気が弱いものですから・・・。

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The Graduate 

一昨日、コンテナで野菜を作るということを書きましたが、何を作るかという思案の中でローズメリーやセージなどのハーブも考えていたのでした。
で、思い出したのが ♪ Parsley, Sage, Rosemary,& Thyme
という、サイモンとガーファンクルが歌った古曲、

    スカボロフェア (スカボローの市)

だったのです。
あの歌をはじめて聴いたとき、パセリは知っていましたが、そのほかは何のことかわからず、ローズマリーというと「ローズマリーの赤ちゃん Rosemary's Baby」を思い出しましたし、タイム=Timeかと思ったほどです。、まして、あの歌が古いものでスカボローがイギリスの町だとは知りませんでした。パセリ・・・の歌詞は、Wikipediaを見ると、これら4種のハーブは「二人の間の苦味を取り除く温和さ、互いの隔たった時間を辛抱強く待つ強さ、孤独の間彼を待つ貞節、出来ない仕事を果たす矛盾した度胸を具えた真の恋人、そして彼女がそれらをできた時に彼の元に戻ってくること」を象徴的に意味するのだそうです。

それにしてもマイク・ニコルズ監督の

    「卒業 The Graduate」

は、何度も観た映画です(一昨年の今頃、やはりこの映画に関する記事を書いています)。1967年制作の映画だそうで、私はリバイバル上映で観ました。45年前の映画ですから、ダスティン・ホフマンはもう74歳なのですね。ロビンソン夫人のアン・バンクロフトは実はダスティン・ホフマンとは6つしか歳が違わないのだそうで、「卒業」の時はまだ36歳だったそうです。今のペネロペ・クルスより若かったんだ。

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傾城阿波の鳴門(第五) 

寺町尊正寺の僧侶が善男善女に語ります。「悪逆非道の武烈天皇のおこないを見かねて、阿弥陀如来が出現し、目を剥いて怒ると武烈天皇は目を回したそうな。それでこの如来を

    目剥(めむき)如来

と申しまして、この尊正寺のご本尊。ひとたび拝めば悪事災難を逃れ、盗賊が入ろうとすると睨み殺しておしまいになります。また、この刀は三条小鍛冶の打った名刀で義経公のご寄付。お賽銭を上げてご縁を結ばれませ・・・」。要するにでたらめばかり言ってお金を取っているのです。霊感商法ですかね。
これまで貧乏寺だったのに、にわかに評判が良くなり、今やお金持ちとなった正清和尚。今日も才覚坊と鈍才坊に命じてこの日集まった金を納戸にしまわせています。
さて、その日も暮れて黄昏時。
いわばにわか分限の正清のところに淨慶という僧が、正清の梵妻(だいこく。僧侶の隠し妻)となる厚化粧の尼、正貞を連れてきます。そして夜も更け、二人は奥へ。才覚坊と鈍才坊はうらやましくてならず、仕方なく二人は裸になって抱き合って寝ます。
丑三つ時になりました。阿波の十郎兵衛、闇の黒八、ばったり道七の

    盗賊一味

がやってきます。
そして納戸の金箱を盗み出そうとすると和尚が出てきます。
弟子僧たちは震えていますが、和尚はかろうじて声を挙げます。
「命知らずの盗人め。この寺に入ったのは大きな不覚。このご本尊は目剥如来。物を盗んで逃げようとしたら身体が砕けて死ぬるぞよ。金を置いて去れ」。
なおも逆らう盗賊に、和尚は数珠さらさらと押し揉んで、弟子僧とともに祈ります。
しかし、何の奇蹟も起こりません・・・

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コンテナで野菜を 

新年度の用意がある程度できてきました。
担当させてやるといわれているわずかな授業について、すでに私は一年分の予習をほぼ終えました。
あとは受講する人数がはっきりしたらプリント作りをするだけです。
なにしろ、授業のない日に来ても交通費は出しません、といわれています。ということは、もう仕事場では勉強するなということです。
せいぜいバイトに励もうと思っているのですが、何しろ私の場合バイトの口がありませんから、

  おなかが減らないように(笑)

じっとしているほかはありません。
とはいえ、粗大ゴミ化するのも悲しいですから、少しでもできることをしようと思うのです。
もともと農業への憧れは強く、そこまで大げさでなくても畑仕事をしてみたいとずっと思ってきました。

    晴耕雨読

なんて立派なものではありませんが、土を触って野菜作りなどしたいと思っています。
買ったほうが安いということになるかもしれませんが、まあそこは大目に見ることにします。

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忠臣講釈の結末 

『仮名手本忠臣蔵』の結末は、原作では「光明寺焼香」でも「花水橋引揚」でもなく、「討入」です。そしてその場で焼香、さらには薬師寺の最期。
『太平記忠臣講釈』でも討入の話なのですが、趣向があります。討ち入った面々が必死で師直を探しますがなかなか見つかりません。諦めかけていた時、矢間重太郎が柴部屋で見つけて連れ出し、ひと太刀ずつ浴びせて、見事本懐を遂げます。
そして「光明寺に焼香に行こう」と由良之助が言いますが、

    早野勘平

を名乗って仇討ちに加わった石堂縫之助は許されません。養父(右馬丞)のためにも石堂家を継いでほしいとの由良之助の志です。

・・・という夢を見たところで、天河屋義平は目が覚めました。一転して義平が薬師寺に責められていた場面に戻るのです。
するとそこに鎌倉から使者として寺岡平右衛門が駆け付けます。師直を討ったと聞いた義平は喜びます。

    正夢

だったのです。

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鈍感、敏感 

鈍いヤツ、として有名でした。デリカシーに欠ける、空気が読めない、という意味でもあるのですが、文字通り感覚が鈍いのです。
地震が起きてもわからない、暑さ寒さがわからない、食べ物の味のよしあしがわからない、芸術のよしあしもわからない、注射針を刺されるのは平気・・・
我ながら

    呆れるほど鈍い

のです。
「これって痛いのかな」と思っていたら、あとで「あの痛さをよく我慢できましたね」と、褒めてもらったのかばかにされたのか(笑)、ということもありました。
たしかに、注射されるだけで「痛いやないか、何すんねん!」と叫ぶおっちゃんを目撃したこともあります。「何すんねん」って、注射に決まってるでしょ。
芸術のセンスもダメ。絵はまるでわからず、小説もよしあしが論ぜられない。文学部で何をやったんだ、というくらいわかりません。
ですから

    文楽評

を頼まれた時は私こそ「何させんねん!」と言いたかったのです。

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長寿を祈る 

『源氏物語』「若菜上」巻は光源氏39歳の年末から始まります。すぐに年が明けて40歳。こうなるとこの当時は

    四十の賀

をおこなうことに成るのです。正月の子の日に玉鬘からお祝いの若菜が献上され、これが巻の名前にもなっています。
四十歳は長生きというほどではないにせよ、孫もできる年齢で、とりあえず人間としてひととおりのことをしてきた、という時期だったのではないでしょうか。そこで区切りの意味をこめてお祝いをして、その後さらに長寿が保てるようにと願うのですね。
これ以後、10年ごとに五十の賀、六十の賀・・・と続いていきます。藤原道長は六十の賀で終わりでしたが、彼の妻の倫子という人は九十の賀まで祝われています。
こういうときには和歌が欠かせません。たとえばあの在原業平は藤原基経の四十の祝いの時に

  桜花散りかひくもれ
    老いらくの来むといふなる道まがふがに
                        (古今集349)

と詠んでいます。
古今集の「賀」の部に入る歌です。この「賀」の部の巻頭歌は

  わが君は千代に八千代に
    さざれ石の巌となりて苔のむすまで
                        (古今集343)

で、作者は不明です。
あなたのご寿命が千代も八千代も続きますように。小さな石が巨岩となって苔のむすまで。
実にゆったりとした罪のないお祝いの歌です。「君」は一般的な「あなた」という程度の意味で、「帝王」ということではありません。
先ほどの業平の歌が「散る」「老い」など、一見めでたくなさそうな言葉を続けて、しかしうまくオチをつけるような歌い納め方になっているのに比べるとさらにこの歌のおおどかさを感じます。
いってみれば「ハッピー・バースディ・トゥー・ユー」のような歌ではないでしょうか。

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傾城阿波の鳴門(第四の2) 

後に残った助右衛門は金を片付けて、しみじみ思います。義理を立てることを第一にするのに、あえて金を返して藤屋との縁を切ろうとするおまきのこと、一人の男を思い続ける、忠臣蔵の小浪のようなお辻のことを。そして彼は、なんとかしてお辻を伊左衛門と結婚させることはできないかとも思案しています。奥からはお弓のためにお辻が琴を弾いているのが聞こえてきます、その歌もやはり夫を慕う内容です。
そんな時、

    深編笠

の浪人らしき人物がやってきます。助右衛門が応待すると、答えます。「自分は尾羽うち枯らす浪人だが、このたびつてがあって播州に仕官することになった。しかしこの身なりのままと言うわけには行かず、金を借りたい」とのことです。ずいぶん横柄な態度です。律儀な助右衛門が「ご用立てするのはいかほどですか」と尋ねると、浪人は「わずか五百両だ」と答えます。あまりの金額に驚いた助右衛門は断ります。
すると浪人は「金があることは知っている」と迫りますが、助右衛門は首を縦には振りません。すると浪人は「それならお座敷を汚す」と居直り、腹を切ろうとします。驚いた助右衛門が必死になって止めていると、お弓が障子を開いてなにやら絵姿を見ています。そして助右衛門を呼び、「あの浪人は

  阿波の十郎兵衛

という海賊で、五右衛門の銀十郎と異名を取る男です。このたび夫が大坂に出てきたのも十郎兵衛を捕えるためなので、これは天の賜物です」と勇み立ちます。

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鬼怒鳴門さん 

アメリカ人の日本文学研究者で、これほど有名で、しかも敬愛された人がかつていらっしゃったのでしょうか。
ゆっくりと穏やかな語り口で、日本の美を語り、時には警鐘も鳴らし、多数の著書をものしてこられました。
申すまでもなく、先日日本国籍を得られた

  鬼怒鳴門(キーン・ドナルド)さん

のことです。50年近く前には『文楽』も書かれていて、これは今講談社学術文庫で読むことができます(原著は英文。吉田健一訳)。私が学生時代にすでにあの人懐っこいお話と笑顔で有名で、アメリカのコロンビア大学でのお仕事と平行して頻繁に日本に来られ、しばしば日本のメディアにも登場していらっしゃいました。
日本文学、文化全体に深い造詣がおありで、源氏物語かと思えば近松、かと思えば子規、といった具合に、なんでもお詳しい方です。日本文学史の本を書いちゃうわけですから、その才能と勉強ぶりは私などの何十倍もあろうかという感じです。
ご著書にある

  『青い目の太郎冠者』

という印象も強く、サムライでもヤマトダマシイでもない、太郎冠者にご自身をなぞらえられたのも文化人らしさにあふれていました。

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忠臣講釈の由良之助 

『太平記忠臣講釈』でも貫禄豊かな大星が描かれます。貫禄豊かなのはいいのですが、酒と女性にだらしない(ふりをする)時があります。
『仮名手本』「一力茶屋」でも、本心を隠している時点ではいやらしい中年男を装っていますが、『忠臣講釈』ではさらにエスカレート(笑)。
まずびっくりするのが、顔世御前との秘め事(三段目)。
由良之助の妻、お石がお気晴らしにと顔世に酒を勧めていると、由良之助が現れ、顔世は由良之助と話があるから、とお石を下がらせます。そこで二人がじゃらじゃらとして、なにやら

    ラブレター

らしきものを交換します。様子を伺っていたのはお石と天河屋義平。障子の音にびっくりした顔世と由良之助がその場を離れた後に義平は怒り、お石もつらい思い。そこに斧九太夫が現れ、私に任せなさい、というようなことを言います。
義平は九太夫のもっともらしい言葉に感激し、お石もいったん下がります。千崎弥五郎らが、九太夫に追い腹の相談に来たところに由良之助も現れます。
そこで九太夫は顔世とのことを問い詰め、証拠のラブレターまで出します。さすがの由良之助も、「顔世御前の

    色香に迷った

と告白し、切腹すると言います。
ところが力弥が持ってきた腹切り刀は九太夫の前に。九太夫が師直に通じ、金銀をもってへつらったことや千両の金を盗んだことを証拠をみせて明らかにし、逆に九太夫を切腹に追い込みます。
義平は疑ったことを詫びますが、由良之助は討ち入りの準備を任せると言います。武具はもちろん衣装、小手脛当てまで義は引き受けてくれます。

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相撲の勉強 

とにかくすることがありませんので、このところずっと平安時代の史料と首っ引きでした。
いわゆる

    相撲節会

に関する史料を読んでいました。
江戸時代の大相撲とは違って、内裏で催される儀式です。平安時代にも神社に奉納される相撲はありましたが、節儀としていちおう恒例になっている(実施されないことも間々ある)のは内裏での催しでした。
当時の横綱あるいは大関に当たるのは

    最手(ほて)

といわれて、名誉職的な面もあったようです。

「花筏」という落語は上方にも江戸にもありますが、例によって私は上方専門で。提灯屋の徳さんが大関花筏の身代わりを頼まれます。花筏が病気で相撲が取れず、かといっていないと興行的に持たない。そこで体格の良い徳さんに、白羽の矢が立ち、土俵入りの真似事だけしてくれたら飲み食いはいくらでも出来るし、日当もたっぷり出す、と言われて、徳さんはついその気になってしまいます。
ところがいろいろあって素人力士の千鳥が浜と対戦する羽目になります。徳さんは怖くてたまりませんが、病気ということになっていますので、あっさり負けてもかまわんといわれます。一方千鳥が浜は父親に「素人が調子に乗るな、殺されるぞ」と叱られて、「相撲はとりません、見に行くだけは赦してください」と言います。
当日、名前を呼び上げられて、千鳥が浜はうっかり我を忘れて土俵の上へ。徳さんも千鳥が浜の体格を見てやっぱり怖くなって、ふたりともこわごわにらみ合い、徳さん、殺される、と思ってつい「だなんまいだ」とお念仏。それを聞いた千鳥が浜は「これは俺を殺す気だ。それで念仏を唱えている」と勘違い。こっちもまた「なんまいだ」。ついに立ち合い。徳さんでたらめに両手を前に出してわざと転がろうとすると、それが見事に千鳥が浜に命中して千鳥が浜がゴロッ。お客さんは大喜び。「花筏の張りはすごいなぁ。花筏は張るのがうまい」。それもそのはず、徳さんは提灯屋でございます。

オチはいまひとつですが、こんなお話です。
大関花筏は名誉職ではありません。しかし、病気になっても「せめて土俵入りだけでも」といわれるうところが看板力士のつらいところです。
一方、平安時代の最手は、本来は一番強く、この人の勝ち負けで左方と右方(当時は東西ではなく左右です)の勝敗がが決まったのです。ところが徐々に名誉職的になって行って、老齢の人もあり、相撲は取らなくなっていきました。

それにしても、「花筏」でいう、「殺される」なんて大げさて、今ではちょっと考えられません。そこがまた面白いところですね。
平安時代の相撲の節でもそんなことはまずありません。ところが、大昔はけっこう命が失われたらしいのです。

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気がつけば一年 

ひどい言い方になるとは思うのですが、正直な気持ちを申しますと、東北の震災はやはりはるかかなたの出来事。
実際にどういうものだったのか、どれほど人々は恐れおののいたのか、言葉ではいくらでもいえますが、それ以上は何も解らないとしか申せません。仙台に引っ越してすぐに震災に遭った知人は、丸一年の特集を組む最近のテレビを観るとやはり涙が出ると言っていました。
あの阪神大震災の翌日に大阪や京都の人と会いましたが、その感覚の違いに驚きました。そして命も家も無事だった私(兵庫県宝塚市)は多くを失った神戸の人、淡路島北部の人などとはまたまるで違っていたと確信しました。被害の状況は西宮、芦屋市といった隣接市とも違っていましたし、家を出ればすぐに見える武庫川という川を越えた

  同じ宝塚市

でもまた違っていたのですから。
災害は驚くほど局所的なもの。火事はもちろん、雷も台風も少し離れただけで状況はまるで違います。
そんなわけで、解ったような顔は出来ませんが、それでもやはり東北の方々にこの一年のご苦労はお見舞い申し上げるばかりです。

あの日のその時刻、私は研究室にいました。8階なのですが、まったく何も感じず、夕方になってツイッターで情報が流れているのに気づいたのでした。あわててネットニュースをのぞいて、そのただならぬことに驚いたという次第でした。
当日は揺れと津波の情報だけで

    原発

についてはわかっていませんでした。にもかかわらず、大変なことになったとは思いました。安全、安全という言葉があまりにも大きく、だからこそ不安になるしろものではあったのですが、それにしても現実に事故が起こるとはやはり思っていませんでした。

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忠臣講釈の平右衛門 

『太平記忠臣講釈』は、初段が刃傷。二段目、三段目は伯州塩冶の城。ここでは、一見忠臣に見える斧九太夫が、実は師直に通ずる佞臣で、早野三左衛門(勘平の父)が自害を余儀なくされる話などが描かれ、最終的には九太夫の悪行が露見するも、城を明け渡すことになります。天河屋義平も登場します。
四段目からが忠臣たちそれぞれの苦難の話になり、四段目(お礼住家)は早野勘平、五段目(祇園揚屋)は石堂縫之助、六段目(七条河原)と七段目(喜内住家)は矢間重太郎の話です。六、七段目は今も時々上演されますね。
そして八段目(山科閑居)が

    寺岡平右衛門

のくだりです。
由良之助は山科で何でも倹約する生活を送っており、蔵の普請をするのにも、左官や大工と一緒になって仕事しています。
そこへやって来たのが寺岡平右衛門の妻のおきたと息子の平吉。
願いの筋があって来ました、というのですが、由良之助は銭勘定に夢中で相手にしません。そこに今度は鎌倉から飾間宅兵衛という使者が来たというので、おきた母子は追いやられます。
宅兵衛は「由良之助殿は主人師直に仕えたいと言われるが、仇討ちをするつもりではないのか」と問い質します。由良之助がもう武士は辞めてのんきに暮らしたい、師直様の京でのお買い物のお世話でもしたい、とのらりくらり。
そんな腰抜けには仇討ちはできまいと罵倒する宅兵衛に由良之助は茶を進めますが、そこには山吹色のものが。ころっと変わった宅兵衛が「京での買い物は任せよう。そのためには判官の子、為若を九つの鐘が鳴るまでに斬って身の証をせよ」と迫り、ひとまず奥に入ります。
そこにおきた母子が出てきて、夫の平右衛門を

    仇討ちに加えてほしい

と願いますが、由良之助は「その気はない、それより私の妻にならぬか」と、色事をしかけます。
怒り心頭のおきたですが、建物の鍵は締めたから帰れないと言い残して由良之助は奥に行きます。
悲しむおきたがふと見ると、刀が残されています。おきたはすぐに由良之助の心を察します。

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最後の劇評 

文楽技芸員のみなさま、劇場、協会、その他関係者のみなさま、文楽ファンのみなさま、藤十郎ファンのみなさま(これはいない)、長らくありがとうございました。
先日、『上方芸能』編集部に文楽評から退きたいとのお願いをしまして、ご多忙の編集長からは直筆のお許しのお返事までいただきました。
また、相棒の先生もお許しくださり、肩の荷がおりました。

単独で書いていた7年ほどのものが、およそ評の名に値しないものであったことは、私自身が一番身にしみてわかっており、

   慚愧

に堪えません。
その後、槌谷さん、森田さんというすてきな女性といっしょに書かせていただいて、お二人のお力でいくらかはまともになったかも知れませんが、お二人には本当にご迷惑をおかけしました。にもかかわらず、ひとことも不平をおっしゃらずに付き合ってくださったことには深く感謝しております。森田先生とは並んで観劇し、並んでノートを取っていたこともありました。不思議な風景だった(笑)かもしれませんね。
技芸員のみなさまからはいろいろ教えていただき、時にはお邪魔だろうとは思いながら、介錯や大道具の様子が知りたいこともあって袖にも行かせていただきました。そんなとき、若い人形遣いさんが、「どうぞ」と場所を譲ってくださろうとするのを

    必死でお断り

したこともありました(笑)。彼らの勉強の場ですからね。

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傾城阿波の鳴門(第四の1) 

大坂今橋のくけ屋は主人が亡くなって万事手回りが悪く、逼塞しています。それでも一人娘のお辻を大事に育てています。
ある日、武家の奥方らしき人が訪ねてきます。今は後家となったおまきと番頭の庄九郎が迎えますと、その女性は「私は阿波の安松数馬の妻の弓です」と言います。阿波なら亡夫三郎兵衛が出入りしており、安松数馬からも目をかけてもらっていました。

    お弓

は「殿の御用で蔵屋敷まで来ています。私は町中を見物して、夫の指示でこちらに寄りました」といってさまざまな手土産を出します。一同は恐縮しておまきが奥に招き入れます。
後に残った庄九郎はあれこれ指図をする様子を見せながら、誰もいないのを幸いと戸棚に近寄り、合鍵を出して五百両の金を盗み取ります。ただし、その様子はお弓が見ていました。
そこに

    お辻

が出てきたので庄九郎は驚きますが、幸いお辻は何も見ておらず、図に乗った庄九郎はお辻に言い寄ります。
お辻は、自分には藤屋の伊左衛門という許婚がいると振り払いますが、庄九郎はあの人は亡くなったとの噂だし、よしんば生きていたとしても、大金持ちの伊左衛門に嫁入りするのは金目当てだと悪口を言われます。そんなことはさせられない、と言い、さらに抱き付こうとします。
そこに手代の助右衛門が現れたのでお辻は助かります。助右衛門は藤屋のことを調べてきたのです。奥からおまきが現れると助右衛門が「伊左衛門様は病死したとも生きているとも言われて生死ははっきりしません」と説明します。

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許さない、赦さない 

最近、窮屈だな、と思うことのひとつに、他人を全否定するというか、自分の気にくわない人やその人のいうことを許さない風潮があります。そもそも同じ考えの人間のなどいるはずがないのに、自分と違った考えの持ち主を

    徹底的に攻撃する

という風潮があるように思うのです。
聞いていてとても心地よい言葉とは思えない品位に欠ける表現を仮にも

    インテリ

と呼ばれる(あるいは自称しいている)ような人が平気で使っている。そしてそれを小気味よいと喝采する人もあり、「インテリ氏」はさらに図に乗ってエスカレートさせる。
そんな風景も珍しくはありません。
むしろ、自称インテリたちはそんな乱暴な表現をすることでアイデンティティーを主張しているかのようです。
日本人は下手だといわれてきたディベートを盛んにしようというので、国会でも1対1の党首討論がおこなわれ、テレビでも盛んに討論番組が企画されているようです。もっとも、先日は党首討論の前に当のお二人が話し合っていた、とも言われますが。この辺が日本的と言うべきなのでしょうか。

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忠臣講釈の九太夫 

『太平記忠臣講釈』には悪役の斧九太夫も登場しますが、最初の印象は『仮名手本』とは違って一見忠臣なのです。
判官の刃傷の報がもたらされた時、九太夫は諸士に向かって「軽うて流罪、重うて切腹」と言います。全く同じせりふを言う『仮名手本』「花籠」では嫌味な表現ですが、こちらは

    理性的な判断

をしているようにも見えます。矢間重太郎と共に二番手の使者としてかけつけた息子の定九郎が判官の切腹を伝えると、「なぜ師直を討って殿の無念を晴らさなかったのか」と勘当してしまいます。
それに対して、九太夫の言葉を聞いた重太郎が由良之助の前に刀を差し出し、武士を捨てると言うと、酒に酔った(ふりをしている)由良之助は「どこへでも

    勝手に行け」

とつれない返事。さらには御用金を配分するに当たり、千両の使途不明金があり、それを由良之助に尋ねると、遊興に使ったとのこと。ついでに申しますと、この千両の責任を取って、金の管理をする早野三左衛門(勘平の父)は自害することになります。

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音声認識 

音声認識ソフトの能力はかなり向上しています。
このあたりで一度使ってみるのもいいかなと思い、大学が私に対して最後に出してくれるお金で買いました。自費ではとても買えませんので、慈悲にすがったという次第です。
音声認識ソフトは、

    声を文字にしてくれる

わけですが、うまく認識してくれないとなんのことやらさっぱりわかりません。
今はスマホでもちょこちょこっと音声を文字に変えてくれますが、やはり長い文章となるとかえって面倒です。
このソフトを使うとそのまま原稿にできたり(ワードに移す)このブログを書くこともできます。
しゃべって文字に変換して(ここはソフトの仕事)、誤っているところを訂正して(ここは自分で)、「文字を転送」と言えば勝手にこの場所(ブログの記事を書くところ)に移し替えることが可能です。
多くの方はこの使い方をされていると思います。しかし、これを他人との会話に用いることはどれくらいできるものか、今いくらか試しています。
中学生の娘がしゃべると、さすがに

    ギャル語

なのでうまくできません。なにかと「チョー(超)」をつけるのも困りものです。
普通にしゃべるとかなり認識度は高く、90%以上きれいに変換してくれます。
以下、ちょっと試験してみます。

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新作文楽に思うこと(3) 

鶴澤清介さんが「三谷さんに新作文楽を作ってほしい」とおっしゃっていたのはかなり前、おそらく平成17年あたりからでしょうから、7年越しの夢が実現するのです。
言い換えると、それくらいの年月がかかってしまうことを覚悟しないと実現は難しいのかもしれません。
清介さんは「悲劇はうち(文楽の古典)になんぼでもおますねん。喜劇がよろしいねん」とも。これはもう10年以上前に伺ったことです。
三谷さんが喜劇を作られるのも清介さんには

    我が意を得たり

だったのではないでしょうか。
演劇の台本は叙事詩の側面があると思うのですが、浄瑠璃の場合は特にそういう面が必要だと感じています。絶対に七五調でなければならないわけではありませんが、やはり三味線に乗ることは大事です。懸詞だの縁語だのといった和歌の技法も不可欠ではないにせよ、あればまた

    心地好い響き

になると思います。

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傾城阿波の鳴門(第三) 

夕立降りしきる両国橋。山口定九郎と佐渡平がこの道を通るはずの主膳をひと討ちにすべく待ち伏せています。もちろん国家老の小野田郡兵衛に頼まれたのです。
太鼓持ちの佐渡七を衛門之助平殺害に利用しようとしたのも郡兵衛でしたが、それに失敗した佐渡七を郡兵衛は咎めず、佐渡平として仲間にしてやったのです。佐渡平はそれに感謝しています。
定九郎は主膳の組下ですが、郡兵衛に近づき、主膳が預かっていた殿の重宝

    国次の刀

を盗み、郡兵衛に渡しています。

雨も小止みになった頃、十郎兵衛が主膳の勘気を許してもらおうとやってきます。
佐渡平が「主膳ならぬ」と斬りつけると、それを受け止めた十郎兵衛は声で佐渡平と見破り、問い詰めます。佐渡平は主膳を斬る思案だ、お前も生かしておかぬと、定九郎と二人がかりで斬ってきます。
すると十郎兵衛は、思案して両手を突き、「理非はともかく意趣遺恨はままあることだから、あなたたちのすることを無理とは言わない。私は勘当の身の上で、主人に許されるなら命は惜しくない。手向かいしないから主人の命を助け、替わりに私を斬って忠義を立てさせてくれ」と言います。それでも二人は主膳を斬ると言いますので、十郎兵衛は、それならお前たちは

    主人の仇

になる、と、逆に二人を斬ってしまいます。

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敬称 

学生、生徒、児童は教師のことを(面と向かわない時は)何と呼ぶのか?
思い起こせば、私は小中学生のときはほとんど「★★先生」と言っていたように思います。
かなり先生が怖かったほうです。
小学校はまだかわいいものでしたが、とんでもない暴力放置だった中学では、同級の悪たれ坊主たちは呼び捨てにしていた者がかなり多かったと思います。
高校は少し生徒の質が上がりましたが、それでも男子生徒は教師を呼び捨て、あだ名、さん付けにすることが多く、「★★先生」は少なかったと思います。私は比較的「★★先生」と呼んだほうですが、少し悪ぶって「さん付け」もあだ名呼びもしました(さすがに呼び捨てはしなかったと思います)。キャピキャピした女の子の中には、好きな若い先生を

    ちゃん付け

していた人もいました。
大学時代はほとんど「★★先生」でしたが、やはり「さん付け」する同級生も少なくありませんでした。
今の女子大生たちも、友達との会話ではけっこう先生を「さん付け」しているようです。そういう学生はけしからんと思うか、と言われると、個人的にはまるで何とも思いません。だいたい「先生」と呼ばれるのがニガテなので、ちょうどいいくらいです。
文楽ファンの方の中にも私のことを「先生」と呼ばれるかたがあり、心の中ではいつも「間違ってますよ」とダメ出ししているのです。私は単なるファンですので、できればさん付けかちゃん付け(笑)でお願いします。
それでも授業では、「手紙の宛名や本文では、教師、医師、政治家、法律家などには『★★先生』と書いておくほうがよい」と教えざるを得ませんす。中には「先生」と呼ばないと返事もしない

    うるさい人

もいますしね。

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