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学生からの質問(その3) 

質問を授業の柱にすえるやり方はここ数年の方針です。邪道といわれても、当分はこのままいくつもりです。

若者言葉と言えばいいのでしょうか、それも学生は関心を持ちます。つまり、自分の使っている言葉のどれが一般的には通用しないのかもわからないので、知りたがるのです。言ってみれば、若者言葉は「世代別方言」のようなもの。若者世代のみで通ずる、あるいはおもしろがれるものと、世間一般では眉をひそめられるものとの違いをよく理解していません。テレビの影響は当然あるでしょう。「テレビで言っているんだから通用するよね」という感覚です。ところがそうはいかないことを話すと彼らはびっくりします。
最近の若者言葉の代表的なのが

    ヤバイ

でしょうね。これは私の世代ならその筋の怖いお兄さんが使うか、若い男の子が悪ぶって使うか、というもので、きちんとした若い女の子が使う言葉ではなかったように思います。しかも意味は「危険」ということに限定されていました。「やばい、遅刻する」なんていうのは私も使ったことがあると思います。
今は女の子も当たり前のように使っており、意味は拡散して「超カワイイ」「超オイシイ」などの意味まで獲得しているようです。友達同士で面白がってしゃべるときはともかく、一般社会に出たらやはり考えものです。多くの学生は

    語彙を増やしたい

と思っています。そこで、「『ヤバイ』で済ませるところを他の言葉ではなんと言えるかを考えてみたら、使える語彙が増えます」と話すようにしています。

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引退すること 

定年のあるサラチーマ社会とはちがって、芸の世界では本人が言い出さないかぎりは引退というのはなかなか難しいと思います。野球選手の引退が可能なのは、体力的に明らかに無理がくる上、成績が下降するという、客観的事実がものを言うと思います。その点、芸の世界は年齢を重ねるにつれて円熟する面もあり、「まだできる」という気持ちが長く続くだろうと思います。
無責任なことを申しますが、お目付け役のような人がいて、「そろそろ

    後進に道を譲ったら

どないや」と言いにくいことを言う人がいてほしいとも最近は思っています。
晩年の亀松師は妹背山の豆腐買とか刃傷の抱きとめるだけの本蔵に出ていらっしゃいました。そこまでして出るのがいいのか、すっぱりやめてしまうのがいいのか、意見はあると思います。「あの人の顔を見ないと気がすまない」という気持ちもわかるような気がします。ですから、「豆腐買でもいいから」という意見には反対しません。ご本人がそれもよしとお考えになるなら。
ただ、太夫さんの場合は切語りになるとそうそう簡単な場を語ることはできません。横綱ですから、大関や関脇の場を語ることは原則的に許されないからです。となると、切場のほんの一部を語って「切」の字を付けるということになりかねず(昨年秋の住師の「千本松原」など)、物足りなさが残ります。住師はそういうこともあって、十分に語れないことを痛感されたのかなと、これは邪推に過ぎませんが。

    四世 竹本越路大夫 師匠

の引退は実にさっぱりした印象でした。最後の「桜丸切腹」を拝聴したとき、私にはなぜこの人が引退するのかわからない、という気持ちになりました。しかしご本人はもう十分に語れない、と思われたのでしょう。潔い引退でした。

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学生からの質問 

日本語の表現法を話す授業では教科書は使いません。彼女たちの質問がおのずから「質問集」=「教科書」になります。
これを集めるだけでも教科書が作れるくらいです。
最近彼女たちから届いた質問をいくつかご披露いたします。圧倒的にバイト先で感じる問題のようです。

★「1000円からお預かりします」といったら変な顔をされたのですがなぜでしょうか?
★先輩より先に帰るときは何と言って帰ればいいですか?
★先輩にメールするとき、「了解です」を使ってもはかまいませんか?
★お客さんの言うことは全部聞かなければなりませんか?
★「あちらのほうへ」「4階のほうへ」という言い方はいけないのですか?
★「よろしかったでしょうか」は間違った言い方ですか?

これはほんの一部です。こういうものが山ほど出てきます。

学生は関西の人が圧倒的ですがほかの地方の人もいて方言でも悩むらしいのです。
「東京の人のように共通語を使うべきですか?」という質問もあるのですが、やはりコンプレックスがあるのでしょう。「東京の人でも共通語(のようなもの)を使うのは地方出身者で、江戸っ子といえる人は江戸弁を使う人が多いでしょ」というと安心もするようです。関西の学生が「バイト先で関西弁を使ってはいけませんか?」などというのは、マニュアル化されたバイト先での言葉遣いがあまり関西弁を用いないからなのでしょうね。これまで使ってきたイントネーションは関西、ところがバイト先での語彙、語法は非関西ということになってその違和感に悩むようです。


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2014年4月公演千秋楽 

本日、文楽4月公演が千秋楽を迎えます。
長いような,短いような3週間でした。これをもって、

    七世 竹本住大夫師匠

は大阪のファンとお別れになります。長い間,現在の文楽ファンのほとんどの方は「いつも住大夫がいた」という日々を過ごされたはずです。なにしろ昭和21年にこの世界に入られたのですから。私ももちろん文字大夫時代から『この人、
凄いなあ」と思いながら拝聴して参りました。住大夫襲名披露の口上で、亡き四世津大夫師匠は「新住大夫はこれからの文楽を背負って立つ人』とおっしゃったと記憶します。昭和六十年のことでした。あのあとまもなく津大夫師匠は亡くなり、越路師匠も引退され、平成の文楽は名実共に

    住大夫時代

でもあったわけです。
私がこの方で凄いと思ったことの一つは「休まない」こと。本公演はもちろん,地方公演もまったく休まれない。根っから丈夫でいらっしゃるのだろうと思います。それだけにお年を召されてから休演されたときは、やはり時間には何人たりとも逆らえないことを痛感しました。

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にほんごをまなぼ 

大学生に「日本語表現」を教えるというのは時代の要請でやむをえないのかな、と思います。以前書いたような気もするのですが、私が学生のときは「文章表現」という授業が国語教員の必修科目になっていて、「国語学概論」を読み替えで履修したことになるのでした。ところがその国語学概論はまるで文章の話などなくて、本当に概論、あるいは特殊講義だったのです。ですから履修したとはいっても、実際は名目上のことで、何も習っていません。要するに文章など自分で訓練しろと突っぱねられたということです。
ましてや敬語の使い方なんて誰も教えてくれませんでした。
その意味では、今の大学は

    親切だ

ともおせっかいだともいえます。実際、学生の中には参考にしている様子もうかがえます。
私の授業はもうどんどん変化していて、この授業を始めた頃はきちんと講義をしてテストをして・・だったのですが、今はもう崩れてきまして、学生からの質問に答えるだけで時間のほとんどを使う状況です。ただ、学生はみな同じようなことを疑問に思っているので、これが案外役に立つかもしれない、と今のところは変更の意思はありません。
特に最初の数週間は講義らしいことは何もせず、彼女たちの疑問に徹底的に答えることで、語彙はいかにして増やすか、正確なようで間違った言葉とは何か、その他あれこれお話ししています。もちろん彼女たちが一番気になるのは

    敬語

です。これは使いたいけど使えない、使うのが恥ずかしい、という感じです。高校生までは先生に向かっても敬語なんて使ったことがないという者もいます(少なくありません)。
ですから、敬語と尊敬語をイコールだと思っていたり、「謙譲語」なんていうと「それ、何ですか?」と問われる始末。ためしに

  今日の昼休みに先生の研究室に行ってもいいですか?

という例文を出し、「敬語として問題があると思いますか?」と尋ねると、ほとんどが「???」という顔をします。

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名所江戸百景~湯島界隈 

湯島天神といえば新派の「婦系図」(泉鏡花原作)。「切れるの別れるのって、そんなことはね、芸者の時に言うことよ。今の私には死ねといって下さい」・・・かつては人口に膾炙したせりふですね。
しかし、泉鏡花という人物がそもそも忘れられがちですから、お蔦、主税も知られざるヒーロー、ヒロインになりつつあるといってよいでしょうか。
神田明神下といえば野村胡堂『銭形平次』。これも大川橋蔵さんのあとは北大路欣也さんがなさっているようですが、やはり若者にはあまりポピュラーではないでしょうね。
学生に寛永通宝の話をするにしても「銭形平次が投げるお金」と言うと余計に分からなくなりそうです。
今日はそのあたりの散策です。

『江戸名所百景』第百十七景「湯島天神坂上眺望」は冬の情景です。つまり梅はありません。

名所江戸百景117
↑湯しま天神坂上眺望

天神様と言うと学問の神様ですから厳粛一辺倒だろうと思ってしまいますが、さすがは庶民の町。境内には芝居や茶店などの娯楽施設があり、富くじがおこなわれたことでも知られます。社伝によると、湯島天神はもともとはアマノタヂカラヲノミコト(アマテラスを天の岩屋から引っ張り出した神)を祀っていたとのことで、今も道真とともにアマノタヂカラヲが祭神となっています。高台になっているので、当時は特に女坂側からの眺めがよく、そこを広重は描いています。右手隅が男坂です。北側を見ています。一面白に覆われていますが、今は雪もやんでいて人々は傘をすぼめています。
女坂を登りつめるとすぐ手前下には茅町の家々。不忍池の中島弁天堂、そして右奥には寛永寺が見えています。梅の頃はもちろんだが、雪の湯島もいいよ、という広重のつぶやきが聞こえてきそうです。

元は今の大手町将軍塚のあたりにあった神田神社は家康の亡くなった元和二年(1616)に現在地に移っています。
第10景「神田明神曙之景」は春、正月と思われる風景です。

名所江戸百景010
↑神田明神曙之景

この神社は東側に眺望が開けていたため、初日の出を観るのにとてもよかったようです。神主さんがいて巫女さんがいます。もう一人手桶を持っているのは神社の下男のような立場の人でしょうか。三人とも東の曙の空を眺めているようです。曙はもう日の昇る時刻ですから、元日なら初日の出ということになります。しかしそれにしては三人だけというのは不自然にも思えます。実際は参詣人もいたのをすべてカットしてこの三人だけを描いたのかもしれませんし、正月の賑わいのあとの風景なのかもしれません。ただ、右端の人物の持っている水桶から元旦の若水汲みのあとのひとこまではないかとも言われるようです。春は曙、です。「やうやう白くなりゆく」「少しあかりて」などの枕草子の一節まで思い浮かべてしまいました。境内の色合いもなんとも幻想的です。

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新しいパソコン 

教室で勉強するのはあたり前です。しかし教室で勉強するのはたいてい学生です。
ところが,このところ私は早朝大学に行くとまず誰もいない教室に入っていました。7時半頃には着いている事が多いので、学生がぼつぼつやってくる8時半頃までは私の天下。
丸1時間はまず教室で勉強していました。
というのは、研究室のPCがOSが

    WindowsXP

のままサポート時期が終わって、それ以後はネットにつながないようにせよという情報を得またからでした。
てっきり

    Windows7

に替えてくれるのだろうと思っていたのですが、音沙汰がなく、自分でネットから遮断してマシン自体を部屋の隅に片付けてしまいました。
ですから、私はパソコン難民(笑)となり、漂流して教室に流れ着いていたわけです。
学生が来たらやはり多少遠慮してしまいます。そこで他の仕事をして、授業に向かっていました。

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大内天変 

五段目を上演することはあまりありませんが、『菅原伝授手習鑑』の大詰めはどうなるのでしょうか。
ざっとその内容を書いておきます。

夏も終わりの水無月下旬、内裏では王体安全雷除のため法性坊の阿闍梨が祈祷しています。そこに寛平法皇(歴史上の人物を当てはめるなら宇多法皇)の使者として判官代輝国が斎世親王、苅屋姫、菅秀才とともに菅秀才の菅家相続のために参内します。菅丞相とは師弟関係にある阿闍梨は霊魂を鎮めるためには菅家相続が必要だからと天皇に話すことにし、一同は奥に入ります。
斎世らが参内したことを春藤玄蕃から知らされた時平は怒りに狂い、「片端から殺してしまえ、法皇や天皇は遠島させて自分が皇位に就く」と三善清貫や平希世に命じます。奥から出てきた菅秀才の腕を希世が取ってねじ伏せます。菅秀才の偽首を持ってきたことで春藤玄蕃はその場で時平に首を抜かれてしまいます。時平は清貫と希世に斎世親王と苅屋姫を引っ立てて来いと命じますが、その時天が曇り、雷鳴がとどろきます。怯える清貫と希世を尻目に時平は菅秀才を小脇に抱えて虚空をにらんで突っ立っています。するとまずは希世が、次に清貫も雷に打たれ即死。さしもの時平も恐れをなし、菅秀才は逃げます。時平が最後の手段とばかりに法力を頼もうとすると左右の耳から一尺余りの蛇が現れ、やがて桜丸夫婦の姿になります。そして「汝のせいで菅丞相は無実の罪のために筑紫で亡くなった。その怨念が晴れないまま雷神となった」と言って時平を捕らえます。すると法性阿闍梨が現れ、桜丸夫婦を物の怪とみて祈祷します。しかし桜丸夫婦が「菅丞相を讒言して帝位を奪おうとする時平に味方するのか」というと阿闍梨は驚いて立ち去ります。桜丸夫婦の霊は時平のたぶさをつかんで庭上に蹴落とします。すると空は晴れ、日が差し、菅秀才と苅屋姫は父の敵として時平を討ちます。
法性阿闍梨は親王を伴って現れ、「菅秀才には家を復興させ、菅丞相には正一位を贈って右近の馬場に社を築いて天満大自在天神と崇める」という宣旨を披露します。

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名所江戸百景~日本橋北側 

日本橋の北側もまた江戸の台所であり、商売の栄えた地域です。
ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」かと思うほど(笑)はっきりした遠近法を見せる春の第八景「するがてふ」(駿河町)は日本橋から北の室町を三丁目まで行って西に曲がったところ。とはいえ、微妙に南に向いています。なぜかというと、こうすることで通りの真正面に富士山が見えるからです。

名所江戸百景008
↑するがてふ

富士をランドマークのようにして町の設計図を作った感じです。駿河町という名前の由来は申すまでもないでしょう。ここはなんといっても道の両側を占める越後屋。今も三越百貨店と三井本館があります。三井はもともと伊勢松坂の商人。現銀掛け値なしの商法が受けたことはよく知られます。そして巨大といってよい富士山。町を覆う笠のような描き方がなされています。
同じく春の第七景「大てんま町木綿店」。

名所江戸百景007

もともとは奥州街道の宿駅だったので大伝馬町と言われましたが、宿駅が千住に移ってこの地は木綿商の集まる地域になったそうです。この絵は東を向いています。長谷川家の「たばたや」が描かれており、これももとは松坂商人です。芸者らしき女性が通っていきます。
第七景の地点からさらに東へ行き、振り返るように西側を見て描かれたのが第七十四景「大傳馬町ごふく店」。

名所江戸百景074
↑大傳馬町ごふく店

京の下村彦右衛門創業の「大丸屋」です。看板には「呉服太物類 下むら 大丸屋 けんきん かけねなし」とあります。紺と臙脂ののれんも鮮やかに立派な店構えで秋の様子。店の前を通る一行は威儀を正した大工の棟梁やとび職。上棟式のためにこんな格好をしています。
この大伝馬町の北に小伝馬町があり、そこに

    伝馬町牢屋敷

があったことはよく知られています。今は十思公園。私も何度か行きましたが、なんとも不思議な重い気持ちになりました。

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北嵯峨の段 

『菅原伝授手習鑑』の「天拝山」と「寺入り」の間には

    北嵯峨の段

があります。
ここは最近通しの場合でも滅多に上演されなくなっています。私も観たのは映像のみ。昭和47年の通しで、嶋大夫、団二郎(現団七)、亀松、蓑助、文雀らの出演でした。公演記録映画会だったと思います。
八重がどうなったのか、なぜ御台所は松王に匿われているのか(寺子屋で松王が説明しますが)、などがよくわかります。ここでその概要をメモしておきます。
八重(桜丸の妻)と春(梅王丸の妻)が御台所を守って北嵯峨にいますが、御台所はなかなか眠れずやっととろとろとまどろんだところでした。そこに

    怪しげな山伏

が来て無遠慮にほら貝を吹いたり中を覗いたりします。春が追い払ったあと、御台所の様子を春に問うとお目覚めだといいます。ほら貝がうるさかったのだろうと尋ねると、御台所は「天拝山の段」でおこった出来事(飛び梅、梅王の到着、平馬の企み、時平の策謀、丞相の怒りなど)をまざまざと夢に見たため目を覚ましたのだと言います。
八重は「逆夢ということもあるから、むしろ吉相かもしれない」となだめ、春は「先ほどの山伏が敵方の探索でかもしれないから御台所の在所を替えましょう、るために下嵯峨に来ている法性寺の阿闍梨に相談に行く」と言います。御台所は「それなら先ほどの夢解きもしてもらってほしい」といって送り出します。

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天拝山 

太宰府天満宮に行ったことはありますが、あまりゆっくりできなかったので周りを見物していないのです。九州国立博物館も行っていません。九州は本当によく知りません。
万葉集、道真、藤原隆家など太宰府にゆかりのある文学や古代史の人物、出来事などは当然いろいろあるのです。ですから、ある程度は知っておきたいと思いながら、とうとうチャンスを得られないままです。太宰府のすぐ近くに

    二日市温泉

がありますが、これなど万葉時代から知られた温泉ですし、竹取物語にもイメージされています。ぜひ一度行ってみたいと、これはもう何年も前から思っていることです。
JR鹿児島本線で言うと,「二日市」のひとつ南側の駅が「天拝山」。山自体はその西側で標高258m。
とても恥ずかしいことを申しますが,天拝山も天満宮も福岡市だと思っていた時期が長かったのです。あの辺は私の頭では全部福岡市(笑)。
ところが、天満宮は太宰府市で天拝山は筑紫野市なのですね。さらに恥ずかしいのですが「筑紫野市」は「つくしのし」だと思っていました。「ちくしのし」が正しいのですね。だから変換できなくて不思議に思っていました。

    天拝山(天判山)

は山といっても低いですから割合に簡単に登れます。日課のように登る方もいらっしゃるのだとか。健康のために,という感じでしょうか。私の出身高校の近くに甲山(かぶとやま)という山があって,これはけっこう目立つ山なのですが高さはたいしたことはなく(309m)、天拝山と似たり寄ったりです。ですから、天拝山はだいたいこの甲山をイメージすれば大きさとしては合うのかな,と考えるようにしています。
頂上からの見晴らしはよいそうで、ネットにも写真がいろいろ出ています。

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梅王、桜、杉王 

「車曳」を観ると、仁左衛門(13代)、我當、秀太郎、孝夫のことを思ってしまいます。十三代目は歌舞伎役者としても立派でしたが(晩年に演じた菅丞相は語り草になっています)、男子三人に恵まれたのも幸せな方だったと思います。
そしてまたこのお三方は梅王(我當)、桜(秀太郎)、松王(孝夫)が実によく映る。仁左衛門が時平を演じて、一家でこの場ができてしまったこともありました。
梅王は長男格で、菅丞相の愛する梅とも名前に縁があり、丞相に仕えている。もちろん忠義。腕っぷしも強い。ただ、一本気に過ぎてどこか抜けたところもあって、父親の白太夫はそのあたりがちょっと心配でもある。今回はこの梅王を

    文司さん

が演じました。文司さんはこの芝居なら源蔵がニンかなとも思うのですが、予想外に(というと大変失礼ですが)今回の梅王はよかった。松王と対等に渡り合い、桜丸への思いやりも見せる。喧嘩も迫力がありました。私はこの公演での好演者として文司さんを挙げたいと思っています。
師匠の文吾さんがそのお名前の五代目襲名されて30年あまりになると思いますが、まだまだと思っていたのに亡くなり、こうなったら文司さんが六代目をとずっと思っていました。しかし、いつも安定しているのになかなかこれといった大当たりがなかったように思われ、今に至っています。私は玉女さんが玉男を襲名されたら、次は文吾が復活してもよいのではないかと思っています。
今回の桜丸は

    清十郎さん

でした。これはこのかたのニンだとは思うのですが、今回は肝心の「切腹」を遣われなかったので印象が今一つに終わってしまいました。次回は切腹こそしっかりこのかたで見たいと思っています。「車曳」ではちょっと淡白な桜丸だったように感じました。
「切腹」は簑助師匠でしたが、そういえば越路師匠の引退の時も簑助師匠が桜丸でした。簑助師匠は女形はもちろんですが、こういう立役もよくて、覚悟を極めた桜丸の表情はよくうかがえました。私は簑助師匠の検非違使、源太、若男はけっこう好きなのです。

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名所江戸百景~日本橋南側 

大阪の人間ではありませんので、「日本橋」というとやはり「おえどにほんばし」が子供のころに最初に覚えたものです。今はさすがに「にっぽんばし」と読むことのほうが多いですが。
鉄砲洲湊神社すぐの稲荷橋を北に渡り、いくらか西に行くと与力、同心の住む町御組屋敷が集まっていました。今の東京メトロ日比谷線の茅場町と八丁堀の間の一帯です。
そして楓川を西に越えたら日本橋南の町屋。
広重の『江戸名所百景』の第一景は冬景色で「日本橋雪晴」です。

名所江戸百景001
↑日本橋雪晴

広重自身も南伝馬町一丁目東の大鋸町に住んでいましたから、この地域に対する思い入れはひとしおだったのだろうと想像します。文久三年に再刻された江戸切絵図の「八丁堀霊岸嶋日本橋南之絵図」には日本橋について「此橋上ヨリ御城并富士山見エテ絶景ナリ」と注記されています。広重はさらにその日本橋をも眺める位置から、つまり橋の北東の少し高い視点から千代田城と富士山を遠望する絵を描いています。手前に魚河岸の活気。日本橋川は往来する数々の船、橋の上は棒手振りの庶民や大名行列らしい一群、蔵屋敷の向こう右側に城、さらにその奥左側にかなり大きな全山白一色の富士山。雪の白と川の群青が鮮やかな対比を見せます。
葛飾北斎も日本橋からの富士山を「富嶽三十六景」に描いています。
第四十三景は「日本橋江戸ばし」。

名所江戸百景043
↑日本橋江戸ばし

日本橋の北詰から東側を見た構図。町屋には珍しい

    立派な擬宝珠

を持つ日本橋の欄干が目の前に描かれ、魚屋の棒手振りの桶には鰹が。つまりこれは夏の風景です。江戸橋との間、日本橋川右岸には蔵屋敷。江戸橋の向こうにも白壁の蔵が並ぶ小網町の様子が描かれます。
四十五景は日本橋の西にある「八ツ見のはし」。正式には一石橋という橋です。

名所江戸百景045
↑八ツ見のはし

この橋からは八つの橋(一石橋を含む)が見えたのでこの名があるのだそうで、道三堀をはさんでここから西に見えるのは大名屋敷ばかり。奥には千代田城、そしてやはり富士山。ツバメが飛んでさわやかな夏の風景です。

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戸浪と源蔵 

「菅原伝授手習鑑」のなかで最も人間臭くリアルに描かれるのはあるいは源蔵夫婦かもしれません。
江戸時代の武家の考えでは不義となる職場恋愛。それで追い出されても愛情は貫き、しかも主君のことはひたすら思いやっている。
書道の腕は弟子の中でもずばぬけて、それで

    筆法の伝授

をされると感激しつつも勘当の許しを乞わずにはいられない。
それがかなわなくてもやはり誰を恨むでもなく自分たちの過ちであることを身にしみて理解している。誠実、悪く言えばバカ正直。松王のようなスケールの大きさはない。だからこそ我々の背丈と違わない小市民に近い男と女。
寺子屋でも、田舎者の子供はだめだとかなんとかウジウジ言って、(松王に用意された)小太郎を見るとこれだと思い、しかしこの子の母親が帰ってきたらどうしようとか、火の車だ、おっつけこっちに回ってくるなどと言い尽くします。もちろん松王夫妻だって苦悩しています。家で

    散々ほえた

じゃないか、もう泣くなと松王がいみじくも言っています。彼らとてさんざん嘆いているのです。しかしそれは舞台では見せず、源蔵夫婦だけがリアルに嘆いて見せる。
夢かうつつか、松王と子供の母は夫婦だったのか、と驚くところも源蔵の目は観客の目と同じ。
戸浪はとてもできた女性で、出るところでは出る、下がるところでは下がる。小津安二郎の映画に出てくる加藤治子さんのような家事に長けたてきぱきとした女性です。
この公演ではこの源蔵夫婦がとても生き生きとしていたように思います。

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名所江戸百景~築地界隈 

明暦の大火(1657年)は江戸の町をずいぶん変えたようです。その一例が築地。元は海であったところを埋め立てて武家屋敷が多数移ってきました。その中に赤穂浅野家もあり、鉄砲洲に上屋敷(現在聖路加病院)が置かれ、後に内匠頭長矩となる人もここで生まれています。
日本橋を出た東海道が京橋から新橋に至るまでの銀座を含む新両替町や尾張町などは大火以前からありました。この地域の北の端は外堀から京橋川に入るところに架かる比丘尼橋。『名所江戸百景』には第百十四景「びくにはし雪中」があります。「比丘尼」は私娼のことで、このあたりにいたのですね。

名所江戸百景114
↑びくにはし雪中

左手前に大きく「山くじら」の看板。猪鍋の店で、尾張屋といったそうです。向かい側には「○やき 十三里」。芋の丸焼き、要するに焼き芋ですね。栗(九里)より(四里)うまい十三里。八里半とも言いました(栗=九里に近いというしゃれ)。この店の背後は外堀です。冬景色に猪鍋や焼き芋、そして中央にはおでん屋かとも言われる人物が橋にさしかかるところです。寒さの中の暖かいものですね。遠景の火の見櫓も真っ白です(でも、お七は上っていません・・笑)。
第七十八景「鉄砲洲築地門跡」は秋の風景で雁が飛んでいます。

名所江戸百景078
↑鉄砲洲築地門跡

京の西本願寺の別院が浅草にありましたが、明暦の大火で焼失。そこで築地に建てられたのが

    築地本願寺

です。現在は天竺様式の建物ですが、当時は和様。大きな屋根は灯台代わりに海からもよく見えたようです。この絵はまさに舟からの視点。広重はこの屋根を「霞がせき」「金杉橋芝浦」「芝愛宕山」にも点景として描き込んでいます。

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目立つ玉女、目立たぬ勘十郎 

文楽4月公演の感想をいくらか。
朝から晩まで劇場にいたら10時間余り。
さすがにくたびれます。通しの醍醐味はじゅうぶんでした。
言え、まだ七十代でいらした越路師匠が桜丸切腹、住、織、十九、伊達、嶋が五十代から六十代の脂の乗ったころ。それが四半世紀前の4月でした。あの時も充実感がありましたが、今回は私もいくらか成長している(自分だけが思っているのかも知れませんが)だけに、またとてもよかったです。
びっくりしたのが

    玉女さん

の菅丞相。人にして人に非ずという人物をじっくり見せてくださいました。あれはやはり玉男師匠の演技を目の前で長年ご覧になった方ならではだろうと思います。今度は玉女さんの下の世代がよく見て次につなげていただきたいと思います。
孔明首はとても難しそうに思います。「大内」はまだ人間味がありますが、「築地」で早くも周りを寄せ付けない空気を出し、いらぬ動きを排して、歩みもしずしずと重く見せます。「名残」ではその神々しさが頂点に達し、達したところで苅屋姫との別れがあり、かすかに俗世への、都への、肉親への愛着を見せる。だからこそ真実味を感じさせる。ずんと心に響くところです。ここまでは人にして人に非ずの丞相。
「天拝山」での怒りは人間としての怒りが

    鬼神

のそれと化して行く。つまり完全に神になっていく。
人として人を寄せ付けなかった「築地」「名残」から神となり行くために人を寄せ付けない「天拝山」。白太夫も梅王も容赦なく跳ね飛ばす荒ぶる神。「天拝山」の途中までは孔明のままというわけにはいかないですかね。ひげがないからダメか・・・。丞相が激怒するところの転換点が何となく物足りないような気がして。
しかし玉女さんは今回しっかり二代目襲名への足掛かりというかステップアップというか、大きなきっかけを得たと思います。とても目立った秀演でした。

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名所江戸百景~高輪方面 

東京駅から適度に離れているとはいえ、品川に新幹線の駅ができるとは思いませんでした。関西から眺めているだけだと、こんなもの作ってどうするのかと思いましたが、いざ利用すると確かに便利ですね。
芝の金杉橋から東海道(第一京浜)を上り、金杉通、芝、芝田町あたりは街道の両側に町がありました。ところがその先、今の都営浅草線泉岳寺駅あたりからは街道は海岸沿いでした。つまりJR品川駅の位置はもともと海の中で、明治時代の品川駅も海辺でした。旧高松宮邸(高輪皇族邸)あたりが細川越中守中屋敷であったことはよく知られています。もちろん、大石内蔵助最期の地だからです。内蔵助ら17人がここに預けられて切腹したのでした。邸内にあった椎の木は今も残り、私も見物に行きました。泉岳寺はすぐそばです。前述のように、東海道は海沿いになりますが、この陸地側は車町といって、上方から下って増上寺安国殿などの建立に携わった牛持ち人足の住んだところだそうです。それで「うし町」ともいいました。
『名所江戸百景』第八十一景「高輪うしまち」はそこを描いたものです。

名所江戸百景081
↑高輪うしまち

右手前に車。これは町の象徴のようなものでしょう。スイカが食い散らかされており、犬がわらじの紐をくわえています。誰が食べたのか、誰が履いていたのかわからない残骸が描かれるだけで、人物は見えません。左のはるかかなたに見えるのは房総半島になるでしょう。右側の海に散見する岩場は御台場。砲台場ですね。この絵が描かれたのはペルリが来たあとですからこんなものができていました。品川のお台場は第百八景「芝うらの風景」にもありました。車の描く弧と平行するような形で虹が描かれています。スイカの食べかすにせよ虹にせよ、夕方近くなのだろうと思わせます。スイカを食べていたら夕立が来たので捨てて家に入った人がいた、という状況なのかもしれません。

浅草線泉岳寺の駅を出てだらだらと坂道を歩くと前述の細川越中守中屋敷のほうに行きますが、途中、伊皿子の交差点を北、いわゆる聖坂を行くと、亀塚公園(土岐家屋敷跡)や実相寺に出ます。このあたりは月の名所で、「月の岬」といわれたそうです。三田4丁目になります。これが一般に「月の岬」とされるところなのですが、広重の描く第八十二景「月の岬」はここではないといわれています。

名所江戸百景082
↑月の岬

理由は、広重自身が『絵本江戸土産』の中に描く「月の岬」について「東南は海面」と記し、「八ツ山」という書き込みもしているからです。「八ツ山(谷ツ山)」は車町(うし町)からさらに東海道を上り(つまり南下する)、品川駅の近くをもう少し上ったあたりにありました。たしかに南東側は街道を挟んで海です。そこでこの第八十二景もこの八ツ山あたりを指すのだろうといわれているのです。ただ、それにしてはこのあたりにこんな立派な料亭のようなところがあったのか、いささか疑問が残ります。海が見晴らせる二階の座敷。左端の障子に簪を飾る遊女らしき女性が映っていて、着物の裾がのぞいています。右端には男性が所在なげに煙管をくわえています。月を見て酒を飲むのもそろそろ飽きた、というので、遊女は何かの準備をしているのでしょうか。海には満月、雁が連ね、いかにも中秋の名月の趣です。左右に離れた男女がけだるい空気も漂わせて秋=飽きの掛詞すら思い出してしまうのですが考えすぎでしょうか。

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住大夫引退のプログラム 

正直に申しますと、チケットがなくなってこの公演は一回も行けない、ということになりはしないかと思っていました。たいていのかたは前売りを買えば済むことですが、私の場合はいつ行けるかまったくわからず、行き当たりばったりだからです。
以前ならそれでも何とかなったのですが、このところ大阪公演は人が多く(私に言わせたら多過ぎる)、うかうかしていると週末などは

    プラチナチケット

になっています。いや、週末どころか、来週などもうほとんど売り切れています。
しかしなんとかチケットを得て、先日、無事に「私の初日」を果たしました。
そして、昨日は観に行く予定はなかったのですが、水曜日にたまたまネットを覗いたら中央5列がごそっと戻っていましたので買いました。技芸員さんからの戻りなのでしょうね。5席あいていましたのでグループ観劇がごっそりなくなった、という感じでした。

それにしてもこの公演は前の席が取りにくく、

    人形、命

の私にとってはあまりありがたくありません。
以前は十列目の足を伸ばせるところがベストでしたが、ほとんど前のブロックにしているものですから。

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名所江戸百景~目黒 

幕末の古地図を眺めてみると目黒辺りは武家屋敷もありますが、「畑」「田」「百姓地」「畑」「田」がいっぱい。
このあたりは台地で、北西から南東に向かって流れる目黒川沿いに傾斜しているため、南西側に開ける眺望がよいのです。
『名所江戸百景』第八十四景「目黒爺々が茶屋」は今の目黒区三田二丁目にあったといわれます。

名所江戸百景084
↑目黒爺々が茶屋

今はマンションなどの並ぶ茶屋坂は目黒台スカイマンションのあたりからくねくねと曲がって下る坂でこの途中に富士見茶屋があり、鷹狩りに行った将軍がこの茶屋のあるじを「爺」と呼んだため、「爺々が茶屋」ともいったのだとか。落語の「目黒のさんま」で殿様がさんまを食べたのはここをモデルにしているのだろうとされます。それはともかく、絵にあるように、坂道の途中、右隅に茶屋が見えます。
目の前に広がるのは田園風景。何もないといえばそうなのですが、遠方を眺める邪魔をするものが無いとも言えます。そしてその遠方には丹沢の山々。大山参りの大山も含みます。その奥に堂々たる富士山が見えます。アカマツの描き方といい、本当にこんな見事な風景があったのだろうかと思うくらいです。
目黒と富士山といえばやはり

    富士塚

を忘れるわけにはいかないのです。第二十五景「目黒元不二」第二十四景「目黒新富士」です。

名所江戸百景025
↑目黒元不二

名所江戸百景024
↑目黒新富士

江戸の人々は富士への憧れや信仰心、さらには旅の楽しみなどを求めて富士講を作って資金を工面して登りました。しかし誰でも登れるわけではないのが天下の霊峰です。女性や老人などは特に行きにくかったでしょう。そこで江戸のあちこちにミニアチュアの富士山、富士塚が作られました。「元不二」は大体マンションの四階くらいの高さに築かれたもので、人工の築山としてはなかなか立派なものと言うべきでしょうか。東急代官山の近くにあった元不二は今は立派なマンションの敷地内。文化九年(1812)に作られたのだそうです。大きな松の木が一本(「不二」より高い)、手前に元不二、奥に本物の富士山。「麓」には花見をする人々。「登山」している人の様子を見ますと道は九十九折になっているようです。
それに対して新富士は元不二の少し南東側。「爺々が茶屋」はすぐ近くです。これは書誌学者で探検家でもある

    近藤重蔵

の抱屋敷(別荘)に文政二年(1819)に築かれた山です。今の目黒区中目黒。高さは元不二よりもワンフロアー分くらい高かったので、さらに眺望はよかったようです。それでなくてもこのあたりは高台ですしね。
花見をする人たちがいて九十九折の道を登る人があり、元不二と新富士の絵は左右対称に近い構図です。しかし富士山の様子は違っており、そのあたりはやはり工夫されています。絵の中ほどの中景に大きな屋根が見えますが、これは祐天寺であろうと言われます。
元不二も新富士も爺々が茶屋と同じ方向を向いていますし近いですから、遠景は同じように丹沢の山々の向こうに富士という図です。

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おいしいもの 

ツイッターやフェイスブックには頻繁に料理の写真が出てきます。
「今こんなものを食べている」というご紹介をいただくわけです。「へぇ、こんな店にこんな料理があるのか」「珍しいお酒だな」と参考になることが多いといえば多いのです。中にはこういうのを嫌う方もあって、あるアメリカの映画女優さんがフェイスブックをしないのは他人の食べている

    料理の自慢話

は聞きたくないから、というようなことだったように思います。たしかに、そういう面もなきにしもあらずです。
私はもう高級な料理を、いや高級でなくても外食そのものはほとんどできないと覚悟しています。あるとすればだしまきの夕べか子供の結婚式くらいでしょうね(笑)。だしまき会場の『両輪』さんは値段は低級、料理は高級ですから大好きです。
そんな状態ですので、ツイッターなどに出てくる写真を見ると「うらやましい」という気持ちと「どうせ関係ないんだから

    写真だけでも

見せてもらおう」という気持ちになって、けっこう楽しみにしています。やっかむとか腹を立てるということはまったくありません(笑)ので、みなさんどうぞアップしてください。

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名所江戸百景~増上寺周辺 

父親が東京港区の芝公園に長く居ました。
首都高速もすぐ近く、一日中うるさいのですが、不思議なもので何日か逗留すると気にならなくなります。人間の耳はうまくできています。必ずと言ってよいほど地震もありました。これは気にならなくなる・・ことはありませんでした。
もよりの駅は、JRなら浜松町、地下鉄なら三田線の芝公園。
実は、私は大学受験で東京の三田にある大学にも合格していました。もしその大学に行っていたら父親のアパートから歩いて通えたのです。そして、もっとこまめにあのあたりを歩けたのです。
首都高速の下を流れる

    古川 (渋谷川下流)

には赤羽橋や金杉橋が架かります。それぞれの地域では「赤羽川」「新堀川」「金杉川」とも言われます。広重はこの川の上流を第二十二景「廣尾ふる川」に描いています。聖心女子大学の近くでしょうかね。
下流に戻ります。赤羽橋は桜田通り。昔の東海道。金杉橋は第一京浜で新しい東海道。金杉(金州崎)は落語「芝浜」の金さんの住まいですね。広重の『名所江戸百景』第八十景は「金杉橋芝浦」。

名所江戸百景080
↑金杉橋芝浦

十月の風景です。手前に金杉橋の欄干がわずかに見えています。橋を占領しているのは江戸講の日蓮宗門徒。日蓮宗の寺紋の「井桁(いげた)に橘」や「講中」の文字がそのことを示しています。おそらく垂れ幕を先頭に橋を手前に進んでいる様子で、十月十日から御会式がおこなわれる池上本門寺に行くところでしょう。左下には「魚栄梓」の文字も見え、これは前回も申しました『名所江戸百景』の版元の名です。赤い幕には「一天四海 皆帰妙法 南無妙法蓮華経」の文字が見えます。すその向こうはもう海。そしてはるか遠方には築地本願寺の屋根も見えます(真ん中左寄りの高い屋根)。

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道長の経筒 

昨日から天王寺公園の大阪市立美術館で「山の神仏-吉野・ 熊野・高野」が始まりました。
吉野、熊野、高野なら、私は吉野にもっとも関心があります。それはもちろん、天武天皇、義経、西行、芭蕉らにまつわる歴史文化に興味があるからです。
ただ、最後に吉野に行ったのはもう3~4年前になります。行きたくてもなかなか行けませず、歯がゆいばかりです。
蔵王堂の偉容をまた眺めたいです。

    妹山、背山

も望みたいです。一度どなたかと一緒に行って、背山側から「雛鳥の首切ったか」と怒鳴って聞こえるかどうか、実験したいです(笑)。
桜と紅葉の季節はほんとうにきれいです。
私の知人は何度も

    大峰山

を登っていますが、これはもう、私にとっては夢のまた夢。
というわけで、この展覧会はなかなか魅力的です。

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2014年度の授業 

今年もわずかな収入を得るために授業をします。というか、させてもらいます。させないといわれたら一巻の終わりですから、まじめにしないとだめなのです。しかし、実際は全然まじめではありません。あくまでまじめを装っています(笑)。
どのように不真面目かというと、

    予習

をしていないのです。
この春、私にしてはそこそこ勉強をまじめにしました。蝋燭の最後の一閃などという評価には耳を傾けず(笑)、一日12時間以上勉強する日が続き、体調はあまりよくないながらも充実はしていました。
ずっと気になっている絵巻物を中心に、平安時代の歴史や文学。あくまで勉強はこの時代が中心です。
それ以外は、実は

    勉強というか趣味というか、

その境目が微妙なものばかりで、そういう場合は勉強に含める(笑)ことで自己満足することにしています。
例えば、このブログにも書きましたが、江戸時代の文化についてこの際もう少し知っておこうという気持ちになり、そこそこ調べたりしていました。
特に子供の遊びや庶民の日常、また、江戸の町についてもいろいろ調べていました。

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名所江戸百景~国立劇場界隈 

もう関東の地を踏むことはないかもしれません。ちょっと残念です。
それで、せめて絵の中だけでも、と、最近は歌川広重の『名所江戸百景』を眺めています。それに古地図を重ねてさらに現代の風景を思い出しています。このブログでも広重に導かれつつ、江戸のあちこちを散策してみます。

国立劇場には何度行ったことでしょう。永田町や半蔵門の駅から行くことが多かったのですが、時には四ッ谷から歩いたり、有楽町から歩いたり。とにかくあのあたりはよくぶらつきました。半蔵門のホテルを定宿にしていた時期があり、その時は夕飯に出るとそのまま夜の散歩。警官があちこちにいますから大変不愉快でした(笑)。
あのあたりは千代田城のすぐ南ですから、もとは有力な大名の屋敷が並んでいました。
国立劇場のあるところは

    松平兵部大輔

の上屋敷がありました。東隣は三宅坂の由来となった三宅家の上屋敷。最高裁のあるあたりです。その東隣の広大な屋敷が井伊家上屋敷。明治の頃は参謀本部が置かれ、今は憲政記念館などがあります。
桜田門というと今は東京警視庁の異称かもしれませんが、歴史上の事件としてはなんと言ってもあの桜田門外の変。広重の『名所江戸百景』には第五十四景「外桜田弁慶堀糀町」があります。

弁慶堀というと外堀のほうにありますが、今は桜田濠と言われるあたりもそう言ったのですね。どちらも井伊家の屋敷の前です。

名所江戸百景054
↑外桜田弁慶堀糀町

絵は豊かな水の弁慶堀を中央に右は土居、左には井伊家上屋敷が描かれます。門の赤い色が印象的です。遠景には今は国立劇場の西隣にあたる定火消御役屋舗の火の見櫓が見えます。夏の風景で、手前には日傘をさす人も。

さらにその東、霞が関のほうへ行くと上屋敷は上屋敷でもやや小ぶりに。弁護士会館のあたりは

    大岡越前守

の屋敷跡。日比谷公園の向かい側ですね。
『名所江戸百景』第二景は「霞がせき」で、両側は小振りではなく壮大なお屋敷。

名所江戸百景002
↑霞がせき

福岡黒田(右側)と広島浅野の上屋敷です。春正月で、凧が上がっています。一番目立つ凧には「魚」の文字。これはこのシリーズにしばしば見られるのですが、版元の「魚栄」の宣伝(笑)。
坂道ですので海が見渡せます。正月らしく太夫と才蔵らしき人が後ろ向きに。その右には太神楽の人たち。後ろ向きの女の子は羽子板を持っているようです。

第三景「山下町日比谷外さくら田」も正月の風景。

名所江戸百景003
↑山下町日比谷外さくら田

JR有楽町近くにあった山下御門あたりから西を見た絵です。近景というか目の前には羽子板と門松。羽根も飛んでいます。奴だこなど、凧もたくさん上がっています。正面は松平肥前守上屋敷。なかなか立派です。そして左奥には富士山。広重はさかんに富士山を描き込みます。

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第23回だしまきの夕べ 

昨日は文楽の初日であると同時に

    だしまきの夕べ

の日でもありました。初日におこなわれるのは珍しいことで、ひょっとするとはじめてかも。
実は私は三月に入ってまた体調が下降気味で、全く動けないわけではないのですが、お酒を飲むなどもってのほか、天気も悪く、気温は下がり、また、チケットがありませんので、夜の会だけに行くのもちょっとつらい、という状況で失礼してしまいました。
そこでまた、話題だけでも知りたいと思い、どなたかに

    お話の内容

など書いていただきたく、それを今日の記事といたします。
いつも申し訳ございません。どうかよろしくお願いいたします。

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2014年4月大阪公演初日 

始まって欲しいような、欲しくないような文楽四月公演の初日です。
この複雑な気持ちは、やはり

    七世 竹本住大夫

の引退という事実が目の前に突きつけられるからです。例えば、初日だけを見る方は初日で住師匠の聴き納め。始まりは終わりでもあるわけです。私も長年師匠の浄瑠璃にはお世話になりました。感謝の気持ちを持って出かけたいと思っています。
この公演は

    菅原伝授手習鑑

の通し。通し狂言大好きの方にとってはたまらないですね。
文楽劇場30周年記念ですが、住師の引退にかき消されるような気もします。それにしても口上がないのはさびしいですね。なくてもいいという方もいらっしゃるでしょうが、私はやはり欲しいです。今なお、11月に齢九拾住翁披露、十世文字大夫襲名披露を期待しています(無理なのは分かっています)。

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新やじきた道中記(その2) 

昨日は江戸っ子の熱湯(あつゆ)のことまで書きましたが、今でも江戸の風呂屋は熱いところがあるそうです。
東京池之端にある銭湯の「六龍鉱泉」ではとても長湯などできない熱さで知られるそうで、45度くらいあるのだとか。
私には信じられません。

新やじきた道中記は昭和26~7年の作品ですから戦後の世の中が落ち着いてきた頃でしょうか。この作品にはときどき

    英単語

が入ります。
鞠子宿(駿河国)を過ぎたところで、懐が寂しい2人は「アルバイト」を探してやじさんが彫刻の「モデル」になります。うまくいかずに逃げ出すやじさん。すると彫刻家は「いまインスピレーションがわいてきた」と言ってとめようとしますが、やじさんは「ローションかチックかしらねえがごめんこうむる」と言って逃げます。チックは整髪料、今はマンダムと社名を変えていますが、大阪に「丹頂」という化粧品会社があり、ここが「丹頂チック」を作っていました(今もその名前で売られているのだそうですね)。なんと、その製造は昭和8年に始まったのだとか。今の天皇と同い年ですね。
英単語は他にも「ファン」「ワン、ツー」「サイン」「プライド」「エゴイスト」などが出てきます。
当時はこういうことばを読者層も使い始めていたのですね。昭和20年代後半、約60年前の世の中の雰囲気です。
英語というと

    「スト」

も出てきます。これも社会の状況を反映しているのでしょうね。作品中では駕籠屋がストをしていますので、いわば私鉄ストのようなものですね。

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新やじきた道中記(その1) 

「サザエさん」でおなじみの長谷川町子さんが昭和26年11月4日号~昭和27年12月28日号の「週刊朝日」に連載されたものに

    新やじきた道中記

があります。もちろん登場人物は「やじさん」と「きたさん」。舞坂と赤坂の間あたりでは、なんとサザエさん一家も出てきます(京を目指すサザエさんと道連れになります)。
2人は伊勢参りではなく、大坂に遊びに行くということになっています。
これを読んでいると、長谷川さんがいろいろ江戸時代のことを調べながら描いていらっしゃることに気がつきます。
以前「都鳥」という玩具のことをこのブログに書きました(⇒こちら)が、そこでこの「新やじきた道中記」にも都鳥が出てくることをメモしておきました。やじきた道中、平塚の宿(相模国)でのことでした。
ほかのエピソードをいくらかご紹介します。
武蔵国の端、程ヶ谷(保土ヶ谷)宿ですから、平塚の少し前です。やじさんがだんごやの娘に呼び止められて喜んで店に入り、そこで必要もないのに馬のわらじを買います。これが

    11文

だとあります。200円前後でしょうか。
戸塚宿(相模国)では宿に着いてまずひとっぷろ。きたさんが「デ、デン、デン。デン そりゃきこえませぬウ」と語るとやじさんが「でんべえさん♪」。そのあと道中できたさんが「おれも昔は旅芝居で女形をつとめたこともあるんだ」と言い、十八番は「じゅんれいおツルのお弓」と言っています。その時知り合った芝居好きの男と「五代目菊五郎のベンテン小僧みましたかイ」「暫は何といっても団十郎だな」と話しながら旅をします。ちなみに、五代目菊五郎は天保15年(1844)生まれで菊五郎襲名は慶應4年 (1868) 、主に活躍したのは明治です。この連載の頃は六代目が亡くなって2年後ですから、その六代目よりひとつ前、というくらいの意識で書かれたのでしょうか。

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土をさわる 

ここ数年、それ以前は全く興味のなかった土いじりというか家庭菜園というか、そんな趣味を持つようになりました。
なぜそんな事をしようと思ったのか、もう忘れましたが、命がいとおしくなってきたことだけは確かだと思います。自分の命が危うい(笑)ので、何か元気なものを見ていたいという気持ちになったのかもしれません。

それにしても、野菜作りなんて何も知らずに出発しましたので、今でも頓珍漢なことをしている可能性はあります。しかし図書館で借りた本を読んだり、花かばさんややたけたの熊さんに教わったりしながら少しずつ実りを得ています。
まだ花はあまり関心はなくて、野菜が面白いのです。根本的に精神構造が美的じゃないのかな。
昨年は

    ピーマン と きゅうり

を作って、私にしてはかなりの好成績でした。ピーマンなんてはっきり言って飽きるほどできました。
今年も何か、と思っています。まだぼんやりとしか決めていませんが、その準備だけはしておこうと思って3月の終わりに土を整えておきました。もちろん全部捨ててしまって新しい培養土を買ってくればいいのですが、それでは面白くありません。
と、偉そうにいいましたが、どうやったら整うのか、あまりわかっていません(笑)。
結局、プランターの土をひっくり返して古根を除いて虫がいないか調べて、ふるいをかけて使えそうな部分だけ残すということをしておきました。そしてそれを新聞紙に薄く広げて、雨の予報のない時期でしたので、3日ばかり日光にさらして

    消毒

しておきました。私の家には陽がかなり長時間当たるところがありますのでそれだけは幸運です。
夏に日光消毒をすると、さすがに陽射しが強いですから効果的なのだそうです。しかしそんなことを言っても始まりませんから、せめて気温が上がり、3日連続で雨が降らない予報が出たらその時にしようと思っていました。すると三月下旬に晴れが続き、かなり気温が上がるという予報がありましたのでこれ幸いと実行したのです。
プランターも掃除。ごしごし洗いました。

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今年も文楽人形劇 

先日、見たこともないアドレスからメールが入りました。最近、わけのわからないのがありますから、さわらない方がいいかな、と思案しました。
しかも、アカウント名が女性名で、やたらかわいい(笑)。さらに、件名がなくてこれはますます危ないと思ったのですが、案外学生かも知れませんから、とりあえず開封しました。

なんと、奈良の幼稚園の

    園長先生

からでした。たしかに、園長先生のお名前はかわいく、しかもご丁寧にchan付け(○○ちゃん、の意味)されているので疑ってしまったわけです。園長先生、失礼致しました。
この方からメールがあるということは、いずれにせよ文楽人形劇がらみ。「新年度もやりましょう」か「新年度はできません」かのいずれかです。
おそるおそる拝見すると、

    やりましょう

でした。
今年は6月末か7月はじめに、と言われました。幼稚園の行事で言うと、七夕の少し前ですね。
また地元のボランティアの方に集まっていただいて稽古して、いくらか小道具も作っていただいて、本番に臨みたいと思っています。

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