名所江戸百景~日暮里界隈 

谷中、根津、千駄木の昔ながらの下町の雰囲気はファンも多いようです。私自身も根津神社のすぐそばにに知人が住んでいたこともあって好きなところです。
『名所江戸百景』第十六景「千駄木団子坂花屋敷」。

名所江戸百景016
↑千駄木団子坂花屋敷

団子坂は森鴎外の家のあったところ(観潮楼)としても有名です。正岡子規の「自雷也もがまも枯れたり団子坂」があり、漱石も『三四郎』や『吾輩は猫である』などに書きこんでいます。江戸川乱歩には「D坂殺人事件」があります。
坂の上の建物紫泉亭といわれるもので嘉永五年(1852)に植木屋宇平次という人が開いたものです。ここを花屋敷といったようです。二棟の間の渡り廊下が特徴です。
広重の団扇絵にも「千駄木はなやしき」があり、これも紫泉亭を描いています。また『絵本江戸土産』第七編にも同じような絵があります。

花屋敷

同じ『絵本江戸土産』の第七編には逆のアングル(先ほどの団扇絵と同じアングル)もあります。

花屋敷2

広重はよほどここが気に入っていたのでしょうね。源氏雲で隔てられた池の水際には花見の場が設けられており、紫泉亭は名前が花屋敷で、実際の花ははるか下に見えたということでしょうか。

墓めぐりがけっこう好きで、大阪でも文楽劇場に行かなくても四天王寺から寺町を北上することは今でもたまにしています。東京に行っても雑司が谷とか谷中とか青山とかいろいろ巡りました。日暮里は谷中に行くときに使う駅でした。ですから、逆に日暮里自体はあまり知らないのです。なぜ「日暮里」と書いて「にっぽり」などと読むのかも疑問でした。このあたりは「新堀」(にいぼり)という地であったのを日暮れの里としゃれて「にっぽり」。よく思いついた人がいたものです。
第十四景「日暮里寺院の林泉」は、寺院名は挙がっていませんが修性院の庭園(林泉)だろうと言われます。

名所江戸百景014
↑日暮里寺院の林泉

団子坂を東へ、谷中霊園の手前を北に行くと今も修性院があります。この南北に隣接する妙六寺(妙隆寺。修性院と合併して今はない)、青運院(青雲寺)とともに花見寺と称されたようです。古地図には「此辺寺ノ庭中景至テ見事也」と見えます。また近くには今もなお残る富士見坂があり、景勝の地だったようです。この庭には手前に枝垂桜。烏帽子のようなもの、茶碗をひっくり返したようなものなどいろいろ刈り込みされていますが、一番右側に奇妙な形のものが見えます。ほとんど帆かけ船ですね。築山の裾にありますから、庭を海に見立てたものでしょうか。こういうものが実際にあったのでしょう。左奥に見える屋根はあるいは青雲寺なのでしょうか。

第十五景「日暮里諏訪の台」は第十四景のすぐ近くです。

名所江戸百景015
↑日暮里諏訪の台

西日暮里駅の南側に駅を見下ろす諏方神社があります。この絵はやはり花見の季節。神社の境内で花見をしながら茶菓か酒肴かを味わう人々。高台だけに桜とともに町を見下ろす楽しみもあったでしょう。またはるか遠景には筑波山が描かれています。古地図を見ても神社から北東側は田地が広がっており、のどかな風景だったようです。

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尼崎(続) 

尼崎市のなさっていることにケチをつけているつもりはありません。むしろ尼崎の持っている史跡をもっと丁寧に多くの人に見てもらいたいから書いているとお考えください。

さて、何とか辰巳神社に行くとなんだかよくわからない石碑があって、凝視するとなるほど

    「静なごりの橋」

と書かれていました。説明はなし、すぐ横のぶつかりそうな位置に車が止めてある。がっかりでした。この文字を見ただけで何がわかりますか? 静かな、ごりの橋?

静名残の橋
↑静なごりの橋

見に来なくてもいいよと言われているような感じでした。
この神社にはもうひとつ

    「辰巳渡仇討の碑」

があるのです。伊予藤堂家の家臣、高畑なにがしという人が殺され、その妻が辰巳の渡しで敵討ちを果たし、彼女はその場で自害したのだそうです。私が見落としたのかもしれないのですが、そういう説明は見当たりませんでした。仮にここを通りかかった人が目にとめても、「なに、これ?」で終わってしまいそうです。

辰巳渡仇討址
↑辰巳渡仇討址

阪神大物駅の北側には大物崩れの碑があります。
細川政元の養子のうち澄元と高国が抗争を繰り返していました。澄元亡き後、子の晴元や彼と連携した三好元長が高国を攻めます。そして享禄4年6月4日に大物で行われた合戦が「大物崩れ」です。結局三好元長らが、高国を破り、高国は逃げるのですが捕えられて尼崎の広徳寺で自害させられます。
これはさすがにきちんとした説明板が建てられています。

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尼崎 

どうしても調べたい本を蔵する最も近い図書館は尼崎市立図書館らしいということがわかり、行ってきました。
阪神電鉄沿線です。
すぐ近くを走っているのに、めったに利用することのない電車です。ですから、乗るとわくわくします。往路は最寄駅の尼崎で降りずに一つ先の大物駅で降りました。
と書くだけで、「あ、千本桜や船弁慶のゆかりの地を訪ねたんだな」とお分かりになる方が多いと思います。おめでとうございます、大当たりです。

大物駅
↑阪神大物駅

大物駅は立派な駅です。神戸側から見ると、この駅で難波方面と梅田方面に分かれて行きますのでホームの数もそれなりにあります。いつも思うのですが、あの甲子園球場のある甲子園駅は「え? これが?」と思うほど狭苦しいホーム。野球のある日は大変でしょうね。
大物駅を降りてしばらく南の方へ行くと

    大物主神社

です。さすがに私は何度も行っていますので、どこにあるとかどういう神社だとか、そういうことは知っていますが、駅には何の案内もありません。「船弁慶ゆかりの大物駅」くらい書いてもいいのに、と、もの好きな私は思うわけです。
もっとも、そういう掲示を出しても、実際特に面白い遺跡があるわけでもない、というか、面白く見せようという工夫がないので、日本三大がっかりの中に入れられてしまうかもしれません。
でも、興味のある人は行ってみようと思うはずで、神社も駅もそして何よりも尼崎市が歴史文化にもっと熱を入れればいいのに、と思うのです。
私に言ってくれたら(笑)、案内地図くらい作りますけどね。バイトがなくて困ってるんですから。
大物主神社はいつもひっそりしていて、私はここで人に会ったことがありません。神社本殿の東側隅には

    義経辨慶隠家跡

という碑が経っています。ここにはきちんと説明板もあります。

義経弁慶隠家跡

しかし、何か催しをするかというとどうもそういう感じがありません。
すぐ南側には大物橋跡の碑。これはただ建っているだけで、なんのことかわかりません。なぜか、その少し東側の公衆トイレの脇(!)にこのあたりの歴史についての説明板があります。
もうちょっとわかりやすくできないものでしょうか?

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女王の婚約 

高円宮家の次女、

    典子女王

が婚約を発表されました。
おめでたいです。
お相手は千家さんという15歳年上の方だそうで、出会ったときは18歳と33歳かな。典子女王はちょうど学生と同じ年齢だったわけで、これについては学生に感想を聞いてみたいと思っています。

    出雲大社

の方だそうですから、そりゃ、いい縁がありますよね。40歳まで待ったかいがあったでしょうか。

お歳のことを言って申し訳ないのですが、現在20歳以上の未婚の皇族女性は年齢順に
  彬子女王(32)、瑤子女王(30)、承子女王(28)、典子女王(25)、絢子女王(23)、眞子内親王(22)
の6人で、今年の年末に佳子内親王が20歳になります。
典子女王はまだ若いほうですね。
皇室典範12条に

  皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。

とありますので、典子女王は結婚されると千家典子(せんげ のりこ)さんとなって、一般人の戸籍を得ることになります。
言い換えると、皇族が一人減るわけです。今皇族は22人ですので、21人になります。
このあと上記の方々が次々に結婚されるとあっというまに15人くらいになってしまいます。
しかも今の皇室は98歳を最高齢として、60代以上が8人を占めています。何しろ皇族の若い世代がほとんど女性ですので、この法があるかぎり、皇族の先細りの感は免れません。
たとえば今後10年のうちに佳子内親王以上の年代が結婚してしまうと、10年後の年末時点では最年少が悠仁親王の18歳、その上が愛子内親王の23歳、その上はなんと、紀子妃殿下の58歳!

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名所江戸百景~深川(2) 

材木商というと紀伊国屋文左衛門などを思い出しますが、現場で働く人たちは威勢のいい江戸っ子のイメージも強いのです。
『名所江戸百景』の第百六景「深川木場」は冬の風景です。

名所江戸百景106
↑深川木場

掘割と橋、浮かぶ材木、働く人々。労働の場であるわけですが、水郷の情趣とでもいうものをおのずから持っているように思います。雪で一面真っ白。空は黒々として人は点景。むしろ犬や雀が目立ちます。手前の番傘にはまた「魚」の文字が入っています。例によって版元「魚栄」の「魚」の字です。静かな中に木がぶつかるカタンカタンという音が聞こえるような気がします。

藤沢周平や池波正太郎の小説は好きでよく読みました。最近も繰り返し読むことがあります。本所や深川は大事な舞台ですね。小名木川も彼らの小説を読んでいるとあまりにもよく出てきますので、いつしか身近な川のように思えてきました。
『名所江戸百景』弟九十七景「小奈木川五本まつ」。

名所江戸百景097
↑小奈木川五本まつ

芭蕉稲荷神社のある万年橋から小名木川を東へ行き、高橋、新高橋を過ぎると左手(北側)に五本松が見えてきます。「川上とこの川下や月の友(芭蕉)」はこの五本松のところで月を見て詠んだ句です。「この川下」が今芭蕉のいるところ。川上には自分と同じように月を見ている友がいるはずだと詠んでいます。五本の松のうち、九鬼大隈守の屋敷から小名木川に出ていたものが最後まで残っただそうで、かなりの巨木、古木です。江戸名所図会もこの松を描いています。

五本松
↑江戸名所図会 小名木川五本松

江戸名所図会のほうはあたり全体を描いていますが、広重はあくまで川を描き、松は突き出している部分だけ。しかも近景として画面に大きく描いています。中央の舟にはちょっとした旅支度の人も乗っており、行徳(下総国)のほうからやってきた、あるいは戻ってきた人でしょうか。南北の岸沿いの道には駕籠や歩く人が極めて小さく描かれています。

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2014年5月東京公演千秋楽 

本日、文楽東京公演が千秋楽を迎えます。
すなわち、これでもうほんとうに

    七世 竹本住大夫 師匠

のお名残となるわけです。今日のチケットこそプラチナかダイヤモンドか。本当に貴重な一日になりそうです。月曜日ですから平日なのですが、あるいは休暇を取って三宅坂を登るという方もいらっしゃるのではないでしょうか。第一部終演後、きっとツイッターあたりでは感動のつぶやきがあふれるように思います。
それにしても、68年という長い年月、義太夫節を語り続けられたというのは本当にうらやましい人生です。お疲れ様でした、と何度申し上げても物足りなくらいです。

この公演は私の場合、引退云々はなくても、芝居として一番観たかったのはやはり

    沓掛村

だったのです。他の演目がどうこうというわけではないのですが、圧倒的にこれが一番です。
ぜひ近いうちに大阪でも上演していただきたくお願いしておきます。
今回はどうしても引退狂言ということで、人形の配役もびっくりするような方がご馳走でこの演目に顔をそろえられましたが、正直申しますと、こういう形ではなく、適材適所の配役でじっくり観たいと思っています。
他の演目ではやはり『女殺油地獄』が大きな存在感を見せていたでしょうか。和生、勘十郎に咲、燕三ですからね。
『卅三間堂棟由来』も嶋、富助、簑助という配役でしたから、よかったのではないでしょうか。

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公開講座開始 

今年度も多少なりともアルバイトをと思い、公開講座を実施します。もっともバイトといっても実際はあまりお金になりません。事実上時給1200円くらいです(笑)。最近は夜間の飲食店などで1500円くらいのところもあるそうで、負けました。私の年代のパート・アルバイトの平均時給は1138円なのだそうで、それでいくとほぼ平均的でしょうか。

さて、今年度は

    伴大納言絵巻

を読むことにしています。はじめて絵巻物に挑戦しますので、今からドキドキしています。10人あまりの方がおいでくださるそうで、楽しみにしています。
この絵巻物は宇治拾遺物語にもある、伴大納言と応天門焼失事件について書かれた説話の絵画化と言ってもよいものです。けっして史実の絵画化ではありません。
まずその点をはっきりさせておいた上で、それでも史実についてもある程度はお話ししておこうと思っています。そして絵巻物を順に見ていきながら、それぞれの場面を詳細に検討して行こうと思っています。また、詞書もありますので、そこは

    変体仮名

を読む練習にも使いたいと思っています。
うまくできるかどうか、今はまだなんともわかりません。
いったい、何回で読めてしまうものかも見当が付かないのです。とりあえず始めてみて、その上で今後の方針を決めるという、行き当たりばったりの進め方になりそうです。いつものことではありますが(笑)。

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太夫さんの名前 

たとえば竹本越路大夫や竹本津大夫は四代、竹本住大夫は七代、竹本綱大夫は九代続いていることは私でも知っています。
若太夫、染太夫、春太夫、大隅太夫、土佐太夫、匠太夫、八重太夫、嶋太夫、咲太夫などの名もかなり続いています。
ですから、江戸時代や明治時代の番付を見てそういう名前の人がいても驚くことはありません。
越路太夫というのは初代は三味線弾きの出身だったそうで、さほど有名でもないと思うのです(よく知りません)。
ところが二代目が南部太夫ら越路太夫、そして師匠の名前である春太夫を継いだあと、

    竹本攝津大掾

となって、越路太夫という名前にも箔がつきました。さらに三代目がまたたいした人で、この人は越路太夫で終わっていますから、この名前を真打名とでもいうか、大物の名前として確立したのだろうと思います。そして四代目は昭和の名人。ますます越路の名前は大きくなりました。
呂太夫も新しい名前ですが、そもそも初代は素人で呂篤といったそうです。それがプロになって呂太夫。ハラハラ薬の仕事をしていたので通称ハラハラ屋の呂太夫。二代目はそのお弟子さんで、ご尊父(初代)もご子息(四世)も三味線引きの鶴澤重造です。この人は谷崎潤一郎の小説

    『蓼喰う蟲』

にも出てきます。十世若大夫の師匠でもあります。三代目の呂太夫が今申しました十世若大夫。この人は英太夫から嶋太夫(七世)になって、呂太夫を継いでから若大夫になっています。嶋太夫から呂太夫になるときは名前の重みから言って逆なので、反対もあったそうです。四世呂太夫は今の嶋大夫師匠。そして五世は若くして亡くなったあの呂大夫さんです。
こういうふうに名前が続いていくのはとてもいいものだと思います。
八重太夫とか匠太夫なんて復活すればいいのに。

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フォルスタフ 

ベルディのオペラに「ファルスタフ」があります。『アマデウス』でおなじみになった、あのサリエリもやはり「ファルスタフ」というオペラ(オペラブッファ)を書いています。オットー・ニコライにも「ウィンザーの陽気な女房たち」があります。
タイトルロールのファルスタフ(フォルスタフ Sir John Falstaff)が面白いキャラクターで、女性たちの策略やどたばたのストーリーも相俟ってオペラ作曲家にとってはなかなか魅力的な素材だったのでしょう。
ウィリアム・シェークスピアの『ヘンリー4世』(Henry IV)『ウィンザーの陽気な女房たち』(The Merry Wives of Windsor)に登場するこの人物が文楽に登場するようです。
9月文楽東京公演で

    不破留寿之太夫(ふぁるすのたいふ)

が上演されるとのことです。
鶴澤清治さんが音頭を取られたのでしょうか? 以前から清治さんはこういうことを考えていらしたように記憶しています(違いましたかね?)。脚本はシェークスピア研究などの学者で、翻訳をなさる河合祥一郎さん。このかたは以前狂言「国盗人」(『リチャード三世』より)も書いていらっしゃいます。「不破留寿之太夫」というタイトルは「ファルスタフ」をもじったもののようですので、この記事では「フォルスタフ」ではなく、「ファルスタフ」と書いています。

ベルディのオペラは、大体次のような内容です。
金に困ったファルスタフがアリーチェ(フォード夫人)とその友メグに金目当てで言い寄りますが、彼女たちに送られた恋文は同じ文章で書かれていて、二人はこの男を許すまいと仕返しを計画します。また恋文の件を知ったアリーチェの夫のフォードは嫉妬して怒っています。
夫が留守のときに、アリーチェはファルスタッフを招き、メグもやってきます。さて懲らしめようとすると夫が帰ってきます。アリーチェはファルスタフに洗濯かごの中に隠れるように言います。そしてアリーチェは召使に洗濯かごを窓から川に投げ捨てるように命じ、ファルスタフは濡れ鼠。フォード夫妻もメグも喜びます。
一方、フォードの娘のナンネッタはフェントンと恋仲。しかし父親は医者と結婚させようとしています。
アリーチェとメグは、またもファルスタッフを懲らしめようと深夜のウィンザー公園に誘い出します。すると、妖精の姿になった村の人々がファルスタフをいじめます。妖精の姿を見ると死んでしまうという迷信があり、ファルスタフはそれを恐れて無抵抗だったのです。
フォードはこのときどさくさまぎれに娘と医者の結婚を村の人々に認めさせようとしますが、アリーチェの機転でナンネッタとフェントンとの結婚が披露されることになりました。
すべての事情を知ったファルスタフは「この世はすべて冗談さ」と笑いました。

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名所江戸百景~深川(1) 付820,000 

深川と言うと、芭蕉、木場、藤沢周平、富岡八幡、小名木川などを思い出します。
芭蕉庵は具体的な位置は明確ではないのですが、古地図には小名木川に架かる万年橋のすぐ北側の紀伊家屋敷(松平遠江守屋敷)に「芭蕉庵ノ古跡庭中ニ有」と記されており、今この地のそばにある稲荷神社を芭蕉稲荷神社(芭蕉庵跡)としています。
その万年橋を描いたのが第五十六景「深川万年橋」です。

名所江戸百景056
↑深川万年橋

なんとも不思議な絵で、亀が吊るされています。何に吊るされているのかよく見ると、どうやら手桶のようです。万年橋はどこにあるのかというと、この手桶のすぐむこうが欄干なのです。なぜ吊るされているのかというと売り物だからです。つまりこれは放生会で放してやるいわゆる「放生亀」なのです。そして「亀は万年」で万年橋です。捕らえられた亀は首をしっかり伸ばしていますがあたかも富士山を眺めているかのようです。このあと自由の身になるとはいえ今のところは囚われの身。しかし、そんなことにおかまいなく風趣を楽しんでいるかのような亀です。さすがは万年の寿命を持つだけのことはあります。
なお北斎も「深川万年橋下」を『富嶽三十六景』のひとつとして描いています。

第五十八景「大はしあたけの夕立」。

名所江戸百景058
↑大はしあたけの夕立

元禄六年(1693)に架けられたのが新大橋です。両国橋に対して新大橋といいますが、広重の絵では単に「大橋」といっています。この絵はゴッホが模写したことで有名です(ゴッホは亀戸梅屋敷も模写)。

ゴッホ 新大橋
↑ゴッホの模写

また、芭蕉が「初雪やかけかかりたる橋の上」「ありがたやいただいて踏む橋の霜」と詠んでいます。
夏の夕立。新大橋を渡る人も傘を持ち合わせていない人があり、三人でひとつの傘に入ったりしています。いかにも突然の雨という感じがします。
対岸の深川側の川岸は御舟蔵で、ここにかつて幕府の持つ最大の船、安宅丸(あたけまる。米一万俵が積めたとか)が繋留されていたことがあります。そこでこのあたりを「あたけ」ともいったのです。

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老いる覚悟 

年を重ねるのは時間の経過による必然で、抗うことはできません。
誰しもそれはあきらめているというか、それを前提にして生きているわけです。
成長するまではなかなか時間が経たないのに、いったん成長してしまうとあとは下り坂なので転げ落ちることの早いこと早いこと(笑)。
私も25歳まではなかなか歳を取らなかったと思うのですが、それ以後はあれよあれよというまに時間がたちました。このままなら自分の寿命と覚悟しているあと5年なんてあっという間だろうなと思っています。
ところが困ったことに、自分でまったく

    老いを感じていない

のです。
35歳くらいから何も変わっていません。父が65歳くらいのときに「まだ30代のつもりなのに、いつのまにか周りがみんな若くなっていく」と言っていたのを思い出します。
あのころは「そんなもんかな」としか思いませんでしたが、今はその気持ちがなんとなく判るような気がします。
体力はもちろん落ちています。この間高校生の娘と腕相撲をしたのですが、これはまあ、さすがにびくともしませんでした。ところが、その時彼女が「お兄ちゃんとどっちが強い?」と聞いてきました。「そうだよな、負けるはずがないと思ってきたけれど、もう今はあっというまに負けちゃうだろうな」と答えてしんみり(笑)しました。
結果は判っていますので、長男を呼んで勝負することはしませんでしたが。
それにもかかわらず、自分が歳を取ったなどとはまるで思えないのです。これも「あほか!」と言われそうですが、若いタレントさんや俳優さんを見ても、自分のほうが

    はるかにいい男だ

と思ってしまいます。あの子たちに負けるはずがないじゃないか、という思いを抱くのです。客観的に見たら完璧に負けていますけれど。

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上演されなかった段 

4月文楽公演『菅原伝授手習鑑』は長丁場の通しでしたが、それでも上演されなかった段がありました。

  道行詞の甘替
  安井汐待
  北嵯峨
  大内天変

がありませんでした。
昭和47年国立劇場(東京)ではこれらをすべて上演していますから、まんざら不可能ではないのでしょう。しかし、昭和47年の上演と比べると今はテンポが遅くなっているようで、文化デジタルライブラリの記録と今回のタイムテーブルの所要時間を並べてみますと

  昭和47  平成26
大内 23    24 
加茂 22    23
伝授 63    65
築地 21    21

道行 28    
安井 24    
折檻 29    30
東天 19    20
名残 72    76

車曳 27    28
茶筅 34    35
喧嘩 14    14
訴訟 51    18
切腹       37
※昭和47年は「訴訟」と「切腹」をあわせて51分

天拝 44    41
嵯峨 15 
寺入 12    14
寺子 69    76    

天変 22
     (単位は分)

ということになります。
昭和47年は全部で589分、今回は522分です。仮に、昭和47年の時間で今回上演されなかった4段を今回の公演に入れると、28(道行)+24(安井汐待)+15(北嵯峨)+22(大内天変)=89(分)ですから、522+89=611分かかってしまいます。昭和47年より22分多くかかる、ということは、大序の「大内」一段分余分にかかるということです。
今回は朝、10時30分開演で第一部が15時27分終演でしたが、道行と安井を入れるとどう考えても小一時間多くかかりますから、16時25分くらいに終わります。これだと第二部は17時開演になってしまいそうです。10時に始めても15時55分終演。これですと第二部は16時30分開演でしょうから、今回の内容でも21時28分終演。これに北嵯峨と天変を入れると22時終演でしょう。丸12時間ですね。
現実には無理に近いでしょう。
それにしても昭和47年は国立劇場も相当な力の入れようだと思います。
昭和58年1月の朝日座は道行、北嵯峨、天変がありませんが、安井はありました。今よりテンポは早いとしても、おそらく今回の公演くらいの時間はかかったでしょう。
今後、これらの段はどうなるのでしょうか。

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三勇士名誉肉弾(その3) 

北川、江下、作江の三人は月の光を浴びながら語ります。
作江「ああ、月はますます冴えているなあ。おい北川、何をぼんやり考えているのだ。何か国のことでも思い出したのか」
北川「なに、そうじゃないよ。おれはひそかに謀をめぐらしている、とでもいうのかな。とにかく考えているんだな」
作江「なに、謀。ははは、考えもくそもあるものか。この場合手段はたった一つしかないのだ」
北川「貴様の手段てのはたいてい見当が付いているよ。負けず嫌いの貴様のことだから、鉄条網へ食いつこうとでもいうんじゃろ」
などと笑い合っています。そこに内田伍長が来て、江下に国からの郵便を手渡すついでに、三人に「選抜されてよかった、しっかりやってくれ」と言って立ち去ります。
江下に届いた手紙は日本を立つとき

    久留米の停車場

で会った少年からでした。その少年とは、江下に「天子様のために働いてください」と激励の言葉をかけた小学生なのです。
江下は
「おれはあの少年のひとことのためにいつでも死ねる気になって、愉快に日本を出てくることができたんだ。もうすぐ死ぬるかもわからないが、こうしてのんきにしていられるのは、やはりあの少年の力なんだ」といって手紙を読み始めます。

  私の大事な兵隊さん。あなたは立派な手柄をして、
  久留米へ帰ってくる日を私は毎日指を折って待って
  居りますよ。あなたの凱旋の時には、家中、お父さ
  んもお母さんも兄さんも妹もみんなで迎えに行きます。
  私の大事な大事な兵隊さん。本当に天子様のために
  働いて死なないで帰ってきてください。

三人はかわいいことを書くものだと涙しています。

三人は今回の使命の困難について話し合います。
「あの鉄条網は誰も手が付けられないもので、破壊筒を担ぎこんでも、口火をつける前にやられてしまう。だからしっかりやらなければならない」と話していると、どうやら三人とも同じことを考えているようなのです。
「破壊筒を自分のからだへくくりつけて

    からだと一緒に爆発

させる考え」が「日本軍隊にとってたったひとつの名策」だと一致したのです。

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三勇士名誉肉弾(その2) 

この時期にあえてこの作品を紹介します。
昭和七年四月初演の「三勇士名誉肉弾」の概要は次の通りです。せりふなどは原文のままでもほとんどわかりますのでかなりそのまま使っています。

時は昭和七年二月二十二日。筑紫の勇士のいついつまでも桜の匂うような物語。
ここは上海に近い村で霜まで凍る凍る暁、前進の命令を待つ松下中隊長の部隊です。旧暦十七日の月が冴えてうごめく人影が見えます。誰何すると、その男は「私は廟行鎮の鉄条網について話すことがあります」と中国人なまりの日本語で話します。中隊長のところに引っ立てられると、その男は「廟行鎮はなかなか堅牢で機関銃も多く、日本兵は少ないからめったに陥落はしない。ほかに廻ったほうがいい」」というのです。中隊長は怒り、馬田軍曹に命じて縛り上げさせます。軍曹が男の身体検査をすると軍隊手帳がありました。まさしく敵方、第十九路軍の正規兵でした。
そのとき、軍用電話が鳴ります。内田伍長が電話に出ます。「本隊はその主力をもって二十二日午前五時三十分を期し、廟行鎮の総攻撃を開始す。松下中隊はその正面の鉄条網を爆破し、五か所に歩兵突撃路を開くべし」という

    旅団命令

でした。
松下中隊長(大尉)は電話をを代わって「ただちに決死隊を募り、たしかにその時間までに敵の鉄条網を破壊し、完全に突撃路を開きます」と応じました。
電話が切れると、馬田軍曹が「旅団のご命令でも、あの敵の鉄条網は実に構築堅固で、わが爆撃機が日夜必死の奮闘もまだ何の効果もなく、尋常一様の手段ではとてもだめだと思います」と語ります。
松下中隊長はにっこり笑って、「できないことをし遂ぐるが日本軍人の誇りである。日本軍人の上には常に天佑(天の助け、天の加護)あって守らるる。これ、日の本の常ぞかし」と言い、小隊長たちを集めて、まず大島小隊長に三人二組(合計六人)の先発隊、後発隊を選抜させ、東島小隊長には予備班として三名の決死隊を選抜させます。
こうして島田一等兵、古川一等兵、高野一等兵、黒澤一等兵、村田一等兵、村上一等兵が大島小隊から、北川一等兵、江下一等兵、作江一等兵の三人が東島小隊から選抜されます。

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三勇士名誉肉弾(その1) 

こんなマクラで始まる浄瑠璃をご存じでしょうか。

  志士は溝壑(こうがく)にあるを忘れず、
  勇士はその元(げん)を失ふを忘れずとかや


いかにも古典のにおいのする作品のようですが、これがなんと昭和の新作。さすがにこの時代にはこういう言葉をつむぐことのできるインテリがいたんだ、と感心してしまいます。原作は松居松翁、脚色が食満南北、そして作曲は鶴澤友次郎という作品です。
しかし今思うと、あくまで今思うとですが、この作品に対しては感心できるものかどうか、との思いを禁じえません。
折りしも5・15事件のあった日と同じ5月15日、安倍総理大臣は「問答無用」とばかりに憲法解釈を改めて集団的自衛権を合憲とする考えを示しました。そんなことができるものかと唖然としてしまいました。
私はかなり強く反発しているのですが、法律に疎く、政治的発言ができるほど勉強もしていません。だからこそ、あえて以下に今から82年前の文楽作品についてご紹介することで気持ちの一端を披瀝せんと思います。

昭和7年、上海事変の折、2月22日に上海の敵陣に張られた鉄条網を破るために、一等兵であった独立工兵第18大隊の北川丞、江下武二、作江伊之助の三名が点火した破壊筒を抱えたまま突撃し、鉄条網は破ったものの三人も爆死したという凄絶な話です。
この「美談」は「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」として称揚され、3人の兵士は二階級特進したのだそうです。

この話に飛びついたのが映画であり歌舞伎であり、新派であり、そして文楽でした。
歌舞伎は事件直後の3月に六代目菊五郎、十五代目羽左衛門らで「肉弾三勇士」として上演。書き下ろしたのが松居松翁(1870~1933)です。松翁はあまたの歌舞伎作品や「エディプス王」(「オィディプス王」などの翻訳劇、その他を多作した劇作家です。これを関西歌舞伎を支えた劇作家食満南北(1880~1957)が脚色したのが文楽版ということになります。
同年4月に四つ橋文楽座で

    三勇士名誉肉弾
      (さんゆうしほまれのにくだん)


として上演しています。
その番付を見ますと、

    昔の義士は「忠臣蔵」
    今の忠烈は「三勇士」

と割書があります。
その通り、前狂言は「仮名手本忠臣蔵」の「兜改」「下馬先進物」「殿中刃傷」「裏門」「扇ヶ谷」「霞ヶ関」「二ッ玉」「身売」「勘平切腹」「祇園一力」「道行 旅路の嫁入」「山科閑居」(番付表記のママ)で、切狂言が「三勇士」だったのです。

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名所江戸百景~両国橋 

本所はもともと下総国で田舎だったのですが、明暦の大火の後、市街地の拡大が図られて大名の下屋敷などが移され、独特の雰囲気を作ったようです。津軽越中守などは上屋敷があります。このあたりは低湿地だったので、排水の必要があり、堀を掘削して開発が進められました。それが竪川、横川、北割下水、南割下水です。

    吉良上野介

の屋敷は回向院の東、今も松坂町公園にわずかな旧跡がありますのでわかりやすくなっています。本所七不思議が今に伝えられますが、中には天井をぶち破って巨大な足が下りてきて「足を洗え」と怒鳴るという奇怪な話もあり、なかなか面白い町です。しかし広重の『名所江戸百景』には両国橋あたりと北のはずれの亀戸以外は描いていません。
本所を開発するに当たって必要だったのはやはり橋です。明暦の大火のときに両国橋があったら東に逃げる手もあったわけで、橋はやはり重要なものだと思います。そして明暦の大火で亡くなった無縁仏を供養するために建てられたのが回向院でした。
『名所江戸百景』第五景「両ごく回向院元柳橋」は春の相撲の頃。

名所江戸百景005
↑両ごく回向院元柳橋

櫓が組まれて太鼓が見えます。回向院ではもともと勧進相撲が行われ、天保四年(1833)からは春秋二回、十日ずつの場所となりました。櫓で相撲を象徴して人を描かず、人物は舟に乗る人のみ。隅田川の向こうに橋が見え、これが薬研堀に架かっていた元柳橋。名の通り、その右側(北詰)には柳が植えられています。元柳橋というのは北にある神田川の柳橋(現存)に対してそう呼ばれます。花街で有名なのは新柳橋の北ですので、この絵には関係ありません。そしてこの絵でも富士山が大きく描かれます。江戸の町が薄墨色で隅田川以東(手前側)と富士が色鮮やかです。
両国橋といえば花火が有名です。第九十八景「両国花火」。

名所江戸百景098
↑両国花火

両国の玉屋と浅草の鍵屋がしのぎを削った競演。橋の上流側が玉屋、下流側が鍵屋の担当だったそうなので、今の花火がどちらのものかはすぐにわかるわけです。この絵は深川側から見たのか浅草側から見たのかはっきりしませんが、向こう岸に御舟蔵のように見える(第五十八景「大川あたけの夕立」にも描かれて似ているように思います)ものがあり、西側から深川のほうを見ているように感じます。
大小の船が出ており、橋の上も人がつめかけています。両岸もきっと人だかりだったのでしょう。舟を出せるのはやはり裕福な人でしょうが、その間を物売りの舟も行き来したようです。淀川なら「くらわんか舟」ですが、こちらは「うろうろ舟」といったようです。「売ろ、売ろ」と言いながら回ったのだとか。花火は楽しいですが一抹の哀しさも覚えるところがまた魅力です。

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ごんべえさんへの思い 

私は幼稚園での文楽人形劇のキャラクターとして

    ごんべえさん

を作りました。ツメ人形は便利なもので、何歳にでもなれます。若者に使っても大丈夫だと思うのです。しかし、幼稚園児にとって親しみ易い存在として、50~60代の「おじいちゃん」の世代をイメージしています。
私から見ると園児は孫世代ですから、逆に言うと、ごんべえさんという「おじいちゃん」は子供からみた私になるだろうと思うのです。すなわち、主人公は私(笑)。
器用ではないけれど、精一杯生きるキャラクターとして親しみを持ってもらえたらと思っています。
第一作は

    ごんべえさんとやまのかみさま

でした。
これは山にきのこ取りに出かけたごんべえさんがうっかりひとつ余分にきのこを取ってしまい、それを持ち帰ろうとすると、嵐となり、ごんべえさんは瀕死になります。しかし、普段から正直者であるために、山の神様が「救いの傘」を投げかけてくれて、無事に山を降りることができるのです。ここでは自然に感謝する気持ち、食べ物を大事にする気持ちを描いてみました。
第二作は

    いけにもぐったごんべえさん

でした。
池に魚釣りに行ったごんべえさんは、持って行ったペットボトルをうっかり池に捨ててしまいます。なかなか魚が釣れなくて居眠りをしていると、ごんべえさんに声をかけるものがあります。魚のコイタロウでした。コイタロウは魚大王が待っているからと、ごんべえさんを池の中に連れて行きます。浦島太郎のように歓待されると思ったごんべえさんは喜んでついていきますが、魚大王は池に物を投げ捨てるごんべえさんを厳しく咎めます。そして折檻されて吹き飛ばされてしまうのです。気がつくと、ごんべえさんは居眠りをしたままでした。夢だったのかもしれません。これはもう話は簡単で、ものを大事にせずにうっかりしていたと言ってもやはりごみをそのあたりに捨てるような心がけは誰かが見ているよ、というメッセージでした。

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ごんべえさんの「おむすびころりん」(その3) 

元の庭に戻ったごんべえさんは、今日の出来事を思い出して、

ご 今日は不思議な日だったな。でも、夢じゃな
  いぞ。これこれ、こうしてモグリンがくれた
  鍬がある。モグリンと仲良くなれて、よかっ
  た、よかった。さて、それではモグリンの言
  っていたように、この魔法の粉のついた鍬で
  庭の土を耕してみよう。さ、いくぞ、そりゃ
  こそ、よいしょ、そりゃこそ、よいしょ、よ
  いしょ、よいしょ、よいしょ、よいしょ、よ
  いしょ。ふう、ふう、野菜作りは大変な仕事
  じゃ。腰もだるいし、肩も痛い。それに、一
  人ではどうも力が入らんなあ。そうじゃ、○
  ○幼稚園のみんなもわしといっしょに『よい
  しょ』と声をかけてくれるかな。いいかな、
  さ、いくぞ。そりゃこそ、よいしょ、そりゃ
  こそ、よいしょ、よいしょ、よいしょ、よい
  しょ、よいしょ、よいしょ。うん、なかなか
  よくなってきたぞ。よし、もう一度、そりゃ
  こそ、よいしょ、そりゃこそ、よいしょ、よ
  いしょ、よいしょ、よいしょ、よいしょ、よ
  いしょ。ははは、みんなが手伝ってくれたお
  かげで、ずいぶんうまくいった。よし、それ
  じゃあキュウリの種を蒔くとするか。そーれ、
  そーれ。うん、今度は水まきじゃ。お水をヒ
  ョイ、もひとつヒョイ、キュウリはたくさん
  水を飲むからしっかり撒いてやろう。お水を
  ヒョイ、もひとつヒョイ。ははは、キュウリ
  どん、たっぷりお水を飲んでくれ、そして、
  肥やしをたくさん食べて大きくなってくれ。

と、ごんべえさんは一生懸命キュウリの世話をしてやりました。自分で土を耕して、種を蒔いて、水をやって。ごんべえさんは野菜を作ることがどんなに大変なことか、そして、どんなに楽しいことかを、ほんの少しわかったような気がしました。

ご ア、ア、アアアア。今日はちょっとくたびれ
  た。また明日になったら様子を見よう。キュ
  ウリどん、おやすみ。大きくなっておくれ。

ごんべえさんはキュウリに優しく声をかけて、家に入って休みました。

(注 文中の「○○幼稚園」には私が実際に行く幼稚園の名前が入ります)

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ごんべえさんの「おむすびころりん」(その2) 

ご ん? おまえは誰じゃな。
も はい、私はもぐらのモグリンです。
ご モグリン。そのもぐらがわしに何の用じゃ。
も はい、さっき、ごんべえさんのおむすびが私
  の家にコロコロコロリンと転がって来ました
  ので、おいしくいただきました。ごちそうさ
  までした。
ご おお、そうかそうか、いやいや、もったいな
  いことをしたと思ったが、モグリンが食べて
  くれたのならよかった、よかった。実は、ち
  ょっと考え事をしていたので、うっかり落と
  してしまったのでな。
も ごんべえさんは何を考えていたのですか?
ご うん、今年から庭で野菜を作ろうと思ってな。
  キュウリの種を蒔いたんじゃ。でもちっとも
  大きくならんので、おかしいな、と思ってい
  たんじゃよ。
も はははは。
ご おいおい、モグリン。何がそんなにおかしい
  んじゃ。
も これはこれは、笑ってごめんなさい。いえね、
  私はごんべえさんの家の庭で暮らしています
  が、土が堅くてやせていて、その上、水も足
  りないので『これじゃあ、おいしい野菜は作
  れないだろうなあ』と思っていたのです。
ご ほう、ということは、土がいけなかったのか。
  むう、そんならどうすりゃ、ええんじゃ?
も はい、まず大事なことは、土をしっかり耕す
  ことです。
ご 耕す? というと、土を掘って柔らかくする
  んじゃな。
も はい、土をふかふかのお布団のようにするの
  です。そして、水や肥やしをまいて、キュウ
  リの種が元気よくおとなになれるようにして
  やってください。
ご 肥やし、というと、ああ、土が元気になる、
  ご飯のようなものじゃな。

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ごんべえさんの「おむすびころりん」(その1) 

奈良市の幼稚園での文楽人形劇について、何度か記録していきます。
先日すでに書きましたように、今年は7月3日に本番。去年とは全く違った内容で子供たちに会いたいと思っています。
寸劇は

  「ごんべえさんの『おむすびころりん』」

と決めました。
よく知られる「おむすびころりん」というお話は微妙に異なる話が伝わりますが、およそこんなお話です。正直なおじいさんがおむすびを穴に落として、ネズミがそれをもらったお礼に大きな葛と小さな葛を差し出すとおじいさんは小さい方を選びます。中には金銀財宝。それを聞いたとなりの強欲なおじいさんが同じようにしてネズミに土産を要求。猫のまねをして大小二つの葛を持っていこうとしますが、ネズミにかみつかれて降参してしまう。
私の作ったのはネズミではなくモグラが出てきます。そして、モグラからもらうのも金銀ではなく

    野菜作り

のために畑を耕す鍬(くわ)なのです。野菜作りって、ひょっとして、ごんべえさんのモデルって自分自身なの? とお気づきの方、正解です。幼稚園児は私の孫世代。私はすっかりごんべえじいさんの立場になって書いています。

以下、台本を記録しておきます。

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名所江戸百景~隅田川 

東京の川というとやはりこの川を思い出します。大川とも言って、もとは武蔵と下総の境。やがて国境が変更になって東岸も武蔵に入りますが。隅田川で思い出すのは、私のように平安時代文学大好き人間にとってはやはり伊勢物語。中世文学の人なら謡曲でしょうか。
『名所江戸百景』第三十七景「墨田河橋場の渡かわら竃」。

名所江戸百景037
↑墨田河橋場の渡かわら竃

今は埋め立ててスポーツセンターなどもできたため川の形が変わっていますが、昔は言問橋の少し上流は「くの字型」になっていました。その折れ曲がったあたりに瓦屋があり、古地図には

    「都鳥ノ名所ナリ」

とも見えます。『古今和歌集』や『伊勢物語』に載る、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」の歌で知られます。在原業平はこのあたりを下総に渡ったというわけです。古地図には橋場町(今の台東区橋場)のところに「舩渡場 向島ニ渡ル」とあります。この絵は手前に瓦(今戸瓦)を焼く竃と煙、そして川には都鳥の群れ、奥には渡し舟が交差しようとするところ鳥も渡り、人も渡ります。そして向島には桜の咲く春の情景。左奥には筑波山が遠景として描かれています。「西に富士が嶺、北には筑波」。これもまた江戸の人が愛した山です。

第三十九景「吾妻橋金龍山遠望」。

名所江戸百景039

隅田川で遊ぶ屋根舟を手前に置いて浅草寺の本堂と五重塔を遠望する図です。桜の花びらが舞っています。すだれを巻き上げた舟に半身が見える女性。この人と向き合っている男性も想像されます。あるいは花びらを浮かべた盃を手にしているでしょうか。屋形船ではないので町人の、大店のご主人かも知れません。左奥に

    吾妻橋(大川橋)

が見えます。当時は言問橋などありませんから、このあたりでは唯一の橋。そしてさらにはるか向こうに富士山。隅田川に浮かべた船で桜と富士、なんとも贅沢な春の日和です。

第六十二景「駒形堂吾妻橋」。

名所江戸百景062

手前が右岸、浅草側です。吾妻橋のやや下流、今は駒形橋があります。春ののどかな風景の第三十九景に対して、こちらは夏、

    五月雨

の激しい暗い空です。手前左に浅草寺諸堂の一つである駒形堂。本尊は馬頭観世音菩薩です。暗い空にひらひらと赤い布がはためいていますが、これは小間物屋の紅屋の目印。こういうものをうまく描き込みますよね、広重さん。そして空には大きく描かれたほととぎす。端唄に「五月雨や」に「五月雨や 空にひとこえ ほととぎす 晴れて漕ぎ出す 木母寺の関屋離れて 綾瀬口・・」とありますがほととぎすは五月を代表する鳥でもあります。傾城高尾は「ぬしは今駒形あたりほととぎす」と伊達綱宗に詠みました。

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2014年5月東京公演初日 

今日から、東京公演です。
これでほんとうに

    七世 竹本住大夫 師匠

もお名残となります。
チケットはもちろんよく売れているようで、約550席の適正規模の劇場で最後の語りをなさることは喜ばしく存じます。その一方、大阪が最後でないのは、越路師匠の時もそうでしたが、一抹の寂しさも。
演目をメモしておきます。

<第一部>11時開演
増補忠臣蔵(本蔵下屋敷)
恋女房染分手綱(沓掛村、坂の下)
卅三間堂棟由来(平太郎住家より木遣り音頭)

<第二部>4時開演
女殺油地獄(徳庵堤、河内屋内、豊島屋油店)
鳴響安宅新関(勧進帳)

もちろん「沓掛村」が住大夫師の役場です。先代住大夫の引退狂言であり、先代、当代住大夫の得意演目でもあります。私もかつて当代の「沓掛村」を拝聴して驚嘆しました。
人形も、簑助、文雀、紋寿、和生、勘十郎、玉女などが顔を揃え、簑助師匠は与之助というびっくり配役です。

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文楽人形劇の概略 

幼稚園で実施してきた文楽人形劇、今年もがんばってみます。
内容は

  ①娘人形による昔の人のくらしのお話
  ②人形劇
  ③文楽人形と歌いましょう

になると思います。
①は、たとえば「振り分けの荷物」を子供たちに見せて、これは昔の人が使ったものです。これの仲間を次の中から選んでください。というような問題を出して旅行かばんを答えてもらおうかななどと思っています。このほかに、「ハタキ」も同じようにして、電気掃除機を答えてもらおうと思います。もうひとつ、「針箱」も考えています。答えはミシンだと難しいかな?
そのあと、昔の子供たちの遊びというテーマで、昔の遊び道具を紹介しようと思います。今はもう見当たらない遊びも、今なお楽しまれているものもあります。今見られないものについては、できれば模型をつくって見せたいと思っています。
そしていよいよ人形劇。今年は

    ごんべえさんの「おむすびころりん」

の予定です。台本はまたここに書きますが、野菜作りに挑戦しようとするごんべえさん(私自身がモデルみたいなものです・・笑)が、もぐらのモグリンの力を借りて成功する話にしようかな、と。今年は人形に足を付けましたので、歩く姿もそれらしくなりますし、棒足などもやっていただこうかなと思っています。いつもはストーリーで見せるものにしたのですが、今回は人形の面白さで楽しんでもらえたら、と思っています。

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細かい話 

文楽で、手摺(人形側)が浄瑠璃の文句をどれくらい忠実に見せるのか、というのはちょっとした問題だろうと思います。
原作に忠実に、初演大事というのは一つのアイデアではありますが、私はその後の上演史の中で工夫されて現代につながっているものもまた無視できないと思っています。はっきり言うと、私の頭の中には初演当時の演技を復活すればよいという考えはありません。
この4月公演の

    菅原伝授手習鑑

においてもこまかいことをいくつか考える機会がありました。
「大内の段」の斎世親王や「車曳の段」の時平が疑似天皇スタイルをするのですが、そのとき天皇の象徴として

    立纓冠

を着けていることでした。平安時代のイメージが抜けない私としては、いささか違和感を覚えたのです。もちろん『菅原伝授』は江戸時代の芝居ですから、風俗も江戸時代でかまわないわけで、武部源蔵が月代を剃っていても、彼が寺子屋を営んでいてもいくら私でもちっとも気になりません。
ただ、「大内」だと左右大臣がきちんとした冠を着けて纓を垂らして笏を持っていましたので、かなり王朝気分になれるのです。そこに立纓冠でしたので、ほんの一瞬ですがのけぞった、ということです。
そして本文には

    金巾子の冠

と出てきたものも、私のイメージする金巾子(黒い冠に金色の巾子紙で纓をはさむ)とは違っていました。斎世親王や時平が着けているのは金色の巾子の、というか全体が金色の冠ですので、これは以前から引っ掛かりを覚えていたのでした。『花渡し』の入鹿もそうでしたかね。別にそれをとやかく言うのではないのです。むしろ「江戸時代の感覚」はこういうもので、明らかにほかの人と違った冠が天皇の記号として生きており、今もそれで理解できるわけだ、と納得したくらいです。

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連休は 

春の大型連休が終わりました。今年は秋の連休も長いそうで、いい季節に休みがあるといろいろできそうですね。
私は旅行する甲斐性もありませんので、ひたすら家にいました。おまけにちょっとしたネット難民で、このブログやTwitter、Facebookにもあまりアクセスできませんでした。
したことといえば、掃除と洗濯と読書とあとは幼稚園の人形劇の準備でした。読書は連休前に借りておいた浮世絵の本を二冊といまだによく把握できない旧約聖書を理解するための本、それと、学生時代から親しくしていただいている河添房江さんが最新刊の

    『唐物の文化史』(岩波新書)

を送ってくださいましたので、それも。
河添さんは私の憧れのお姉様というべき方で、血筋も人格も学才も輝くような、いわば藤壺中宮のような(!)立派な先輩なのです。
岩波新書ですので高価ではありませんし、どうぞ皆様もご一読くださいませ。

    浮世絵

については、まだまだ入門レベルで、学生に話せるところまで、早く達したいと頑張っています。昔から広重贔屓ですが、専門的なことはよくわかりませんし、写楽や歌麿や春信や北斎や…に至ってはまだ何も語れません。
役者絵はまだこれからで、今は主に風景画。広重贔屓のきっかけも、あの永谷園のお茶漬けのりに入っていた『東海道五十三次』でしたから(笑)いいかげんなものです。

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名所江戸百景~浅草 

外国の人に東京を案内する場合、どうしても浅草は欠かせないようです。海外からの観光客はやはり日本独特のものを見たい。大事にしなければならない文化資源です。この地域には寺院が極めて多いのですが、それは明暦の大火で中心部から移転してきた寺が多いからです。そんな中で古くからある浅草寺はやはりぴか一の知名度を誇ります。新吉原、猿若町も浅草寺の周辺にあり、江戸時代から人気スポットでした。
『名所江戸百景』三十八景「廓中東雲」は春の新吉原。

名所江戸百景038
↑廓中東雲

男の町江戸に自然発生するように生まれた遊里を葭町(よしちょう。今の日本橋人形町)に集めたのが葭原(よしはら後に吉原)。これを

    明暦の大火

の後浅草寺の北に移して新吉原(今の千束4丁目)。町の北東側にあった大門に向かう独特のくねった道は今もそのまま残っています。絵の手前左右(方角としては北東から南西)に仲の町通り。それにクロスする各町に入る通りがあり、そこから客が出てきているところです。奥の空が明るくなっていますので、南東側の町(江戸丁二丁目、南丁、京丁二丁目のどれか)です。薄墨色の空と茜色の東雲、なんとも風情があります。
天保の改革、そして中村座の失火という事件があって、歌舞伎の中村、市村、森田(河原崎)の三座が薩摩座、結城座とともに浅草寺の北東(今の浅草6丁目)に移転させられ、ここが

    猿若町

となります。第九十景「猿わか町よるの景」は秋の満月の頃です。

名所江戸百景090
↑猿わか町よるの景

珍しく人の影が描かれているのが印象的です。『名所江戸百景』ではこの絵だけです。方角としては奥が南側。ですから月はかなり高くなっており、芝居がはねたあとです。芝居の余韻を象徴するような月です。右側手前から森田座(河原崎座)、市村座、中村座。左手前には芝居茶屋があって、その向こうには結城座、薩摩座がありました。提灯を持つ供の者に導かれるご婦人が目立ちます。

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人形拵え 

仕事場にある文楽人形のうち、男の人形(ツメ首)はずいぶん荒っぽく遣って、というよりも「使って」きました。娘首のほうは高価なので遠慮がちにしてきたのですが。
となるとやはり傷んできます。それでこの春は時間を見つけては修理をしていました。

★ツキアゲが取れてしまったので付け直す
★肩板と人形の首をはめ込む板を結ぶ紐が切れかかっていたので補強する
★足を付ける

が主な仕事でした。ツキアゲは三味線の糸を使うのですが、手元に適当なものがなく、とりあえず麻紐を使って修理しておきました。また切れるでしょうから、次は三味線の糸で付けようと思います。

DSC_0533.jpg
↑切れたツキアゲ

下の写真が作業場です(笑)。
針箱は芝居で使う小道具なのですが、その一番上の引き出しは演出の都合もあって開くようになっています。そこでその中に実際に針仕事で使うもの一式を入れてあります(笑)。針刺し(針山)も使えますが、普段は刺していません。左にあるのが人形の胴。実はこれを修理しているのではないのです。これは参考資料(笑)。これを見ながら同じように付けていくのです。なんだ、簡単じゃないか、と思われるでしょうが、なにしろ針を持つのは不器用な私です。同じようにと言ってもそう簡単にはいかないのです。

DSC_0562.jpg
↑作業机

ツキアゲは付けるだけでは意味がなく、付けたあと実際に動かしてみて、使い勝手がよいかどうかを確認しなければなりません。案の定一回失敗しました。何がいけないのか、うまく突き上げられないのです。いろいろ考えて原因を発見し、再度挑戦。今度はうまくいきました。

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引退の口上 

最近、プロ野球では「引退披露口上」がおこなわれるのがあたりまえになりました。
きっかけを作ったのは長嶋さんだったのでしょうか。その後はさほどの大選手ではなくても年度最終試合やオープン戦に設定された引退試合でマウンドにマイクを設置してお客さんに挨拶をするのが珍しくなくなりました。
やはりお別れを言いたいという気持ちはわかります。
私の仕事場では以前は定年を迎えた方をお送りする会、要するに

    送別会

がありました。あとに残るものがちょっとしたお金を出して、しかし学園からもおそらくかなりの補助が出て、近くのホテルで送別の宴を催しました。そういう時にも退職者が言いたいことをわりあいに長々と(笑)お話しになるのが通例でした。私自身は事情があって見送られることはありませんが、やはり一抹の寂しさを覚えます。
竹本住大夫師匠が引退されるにあたっては、残念ながら一幕を設けての

    引退披露口上

はありませんでした。突然のことでもありましたからやむを得なかったのでしょう。
その代わり、というわけでもないのでしょうが、千秋楽には語り終えられた後、ほんの少しの間をおいて舞台に出られて簑助師匠の遣われる桜丸から花束を受けられるというセレモニーがあったようです。そして師匠は「ええ星のもとに生まれました」と挨拶なさったとか。お客さんはもう涙滂沱として止まらなかったとも承りました。その場に居合わせた皆さんは感動されたでしょうね。

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思い出の住大夫 

七世竹本住大夫師が大阪での公演を終えられ、東京に向かわれます。
しかし私は行けませんので、ひとあし早く住大夫師の思い出の名演を記録しておきます。

実は、住大夫師はいつも90点というか、満足させられる語りをされるだけに、どれもこれもすばらしいとも、これといって強烈な印象のものが少ないとも感じています。
そんな中で私にとって今も印象に残っているのは『恋女房染分手綱』の

    「沓掛村」

なのです。
八蔵の冒頭の言葉「与之助さん、門にぢやないか」というひとことは今も頭の中で響くくらいです。
『恋女房』といえば「定之進切腹」「重の井子別れ」が有名ですが、あの「沓掛村」は私にとって唯一無二のものです。
先代住大夫の引退狂言の演目とか、そういうことは別にして、当代住大夫の語りはすばらしかった。
まさかその演目を語られるこの5月が引退の公演になるとは。不思議な縁だと思います。先代が「じゅうぶん仕事したやないか。もうええんちゃうか」とおっしゃっているのかもしれません。

    「沼津」

はやはり無視できません。何度聴かせていただいたかわからないくらいです。私の「沼津体験」は越路、津、住がほとんどすべて。回数では住師が一番多いはずです。最高だったのは津大夫師匠でした(玉男、勘十郎の演技と相俟って)が、住師もすばらしかったと思います。特に平成10年代、つまり住大夫70代ころが最高でした。とかく平作の「なまいだ」が有名ですが、そこに至るまでの十兵衛もきりりとして、あばらやの平作住家の空気も、お米の一途さもさすがでした。

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学生からの質問(その4) 

私、以前キャッシュカードをなくしたことがありまして、銀行に行って再発行してもらおうと思ったのです。係りのお姉さんが丁寧に手続き方法を教えてくれました。その通りにして書類を出すと彼女はおもむろに「1000円お預かりいたします」と言ったのです(1050円かも)。私は銀行で「預かる」という言葉を聞いたものですから、(利子はつかないと思いましたが・・笑)一時的に預かってあとで返してくれるのだろうととっさに判断してしまい、お金を出しました。ところがそれはどうやら

    手数料

だったのです。高い! 「あのね、銀行がお金を貸してくれっていうから貸してるんですよ。窓口でなく自分で機械を操作して返してもらってるだけなのに、その操作するときに必要だというキャッシュカードを再発行するのになぜお金を取るんですか。また取るなら取るで『1000円いただきます』とか『手数料を1000円頂戴致します』とかはっきり言ってくださいよ」と言いたかったのですがにっこり笑ってお金を持っていった彼女の笑顔に負けて(笑)私は黙って帰ったのでした(ナサケナイ)。大体、銀行というのは休日にお金を出すと手数料を取るとか、勝手なことを言います。貸してくれといいながら返すときには渋るような体質のなせる業でしょうか。
と、そんな不満を書くつもりはなかったのです。
この

    「預かる」

という言葉も学生の悩みにあります。
学生はレジを担当しているものも多いのです。

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