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山崎海道(2) 

阪急電鉄なら「大山崎」、JRなら「山崎」の駅。サントリーの工場やアサヒビールの美術館があるあたりです。私は阪急大山崎まで行きました。高架駅で、あまり乗降客は多くなく、各駅停車と準急が停まるだけです。京都府乙訓郡大山崎町。
ここからJR山崎の方に少し歩くと

    離宮八幡宮

があります。淀川を挟んで対岸にある石清水八幡宮が有名ですが、その本家ともいうべきがこの離宮八幡宮です。

離宮八幡宮拝殿
↑離宮八幡宮拝殿(奥が本殿)

もとは嵯峨天皇の河陽宮(かやのみや)のあったところで、今も境内にはそのことを示す碑が建っています。

離宮八幡宮河陽宮故址
↑河陽宮故址(離宮八幡宮)

境内には「ここにもあるのか」(笑)と思わせるような「菅原道真腰掛け石」も。


離宮八幡宮道真腰掛石
↑菅原道真腰掛け石(離宮八幡宮)

それはともかくとして、私がここに来た理由はこのあたりが古く荏胡麻を用いた製油をおこなっていた場所だからです。
社務所の前にはまさにその荏胡麻がプランターに植えてありました。荏胡麻は「胡麻」という名がついていますが実際はシソの仲間だそうです。

離宮八幡宮社務所前荏胡麻
↑荏胡麻(離宮八幡宮社務所前)

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山崎街道(1) 

新幹線で京都から大阪へ行く途中、阪急電車と並走するところがあります。私は東から帰ってくる場合、逢坂山トンネルを抜けると「ああ帰ってきた」と思いますし、そのあと阪急電車が見えると「もう目の前だ」という気分になります。
京都府乙訓郡大山崎町から大阪府三島郡島本町、阪急の駅でいうと

     「大山崎」「水無瀬」

のあたりです。
サントリーの山崎工場がありますが、さすがに郡部だけあってのんびりしています。すぐ目の前を桂川〜淀川が流れていて、対岸(淀川左岸)は橋本、そして石清水八幡宮のある男山です。右岸の大山崎は天王山も目の前。こうなるともう古典文学にも文楽にも、いろいろ出てくる地域ですね。西国街道はこのあたりを中心に

    山崎街道

と言うようで、文楽『仮名手本忠臣蔵』の五段目の早野勘平と千崎弥五郎との出会い、謎の男(のちに斧定九郎と知れる)の二つ玉でもおなじみです。
街道を歩いていると歴史のある道ということが分かります。史跡があり、古い家があり、道には歴史の香りが立ち上るのです。
私は以前、西国街道を京都から神戸まで歩く、という事を企てたのです。もちろん一日で歩くのではありません。今日は山崎辺り、次は箕面近辺、さらにその次は伊丹や西宮という具合に分断しながら歩いたのです。
先日、その企画以来久しぶりに大山崎から水無瀬まで歩きました。

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鉢を飛ばす 

お坊さんの話にはときどき信じられないような奇跡譚があります。
なんといっても高徳の人は常人とは違ったことができるようです。文楽にも『日蓮上人御法海』のようなものがありますが、こういう偉いお坊さんは何か一つや二つは奇跡がらみの逸話が残っているものです。
12世紀の初めに大江匡房(おおえのまさふさ)が撰した『続本朝往生伝』という書物があります。この中には一条天皇以下、42人の往生者について短い話が載せられています。
その中に

    寂照

という人の話があります。この人は在俗の時は大江定基という名でした。三河守になったのですが、妻を亡くし、悲嘆のあまりその妻のなきがらのそばで暮らしていたのですが、やがて死臭が激しくなり、それがきっかけで出家します。
宋国へわたって修行し、安居(あんご。僧が雨季などの期間にひとつの場所に集まって修行する)を終えると他の僧たちが鉢を飛ばして、それで斎食(さいじき。とき。僧侶の食事)を得ていたのです。托鉢を自動的にやっちゃうんですね。こういう秘法を

    飛鉢法(ひはつのほう)

とも言いました。寂照は自分ではできないものですから、心の中で恥ずかしく思っていました。やがて彼もそれをする順番になり、思い切って本朝(日本)の仏や神に祈ると見事に鉢が飛んで斎食を得たといいます。
こういう鉢、欲しいです(笑)。

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宝塚ホテル 

歩ける時はできるだけ歩くようにしています。特に気候のいい時期は汗をかくくらい歩きます。このあいだの日曜も朝早く100分ばかり、ということは11000歩くらい歩きました。汗はジンワリ出ています。
ずっと山の方をめざして、大阪方面まで見渡せる高さまで上りました。かなり急な坂道です。そこにある中学の門を入ったところには

    宝の塚

といわれる石室が組み置かれています。古墳のようになっています。
八馬さんという土地の名士が持っていた宝梅園梅林にあったものだそうです。

宝の塚(宝梅中学校)
↑宝の塚

そこをあとにして別の道を下っていきました。どんどん新しく造成されていますので、自分がどこにいるのかさっぱり分からなくなって、気がついたら阪急電鉄宝塚南口駅の近くまで来ていました。
この駅は昭和40年代末までは高架ではなく、駅のすぐ横には踏切があって踏み切り番のおじさんが手動で上げ下げしていました。駅前は昔ながらの「市場」で、入ったところには本屋さんお菓子屋さんなどがあったのを覚えています。
踏切を西側に渡ったところ(今は高架をくぐったところ)にあるのが

    宝塚ホテル

です。大正15年(1926)創業の老舗ホテル(旧館は古塚正治設計)で、のちに阪急に買収されて阪急ホテルグループ(今は阪急阪神第一ホテルグループ)の看板のようになったホテルです。

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肝試し 

授業で、江戸時代の時刻の話をすることがあります。明け六つとか暮れ六つとか、お江戸日本橋七つ立ちとか、お八つとか。あるいは正午とか、丑の刻参りとか。東京の本所には

    時の鐘

のレプリカがありますから、それを写真で見せたりもします。へ〜とかほ〜とかいう反応が返ってきます。
しかし、「丑の刻参り」は学生にはなかなか通用しません。蠟燭を頭に立てて藁人形を木に打ち付けて、と説明したり、そういう絵を見せたりするといくらか分かってくれる人もいます。「草木も眠る

    丑三つ時」

なんていうも古すぎて分かりにくいようです。世の中が明るくなって、なかなか怪談がおもしろがられないのかもしれません。
落語にも怪談噺がありますし、怪談ではなくても幽霊の出てくる噺はいくつもあります。
明るくなったと言うと、肝試しも昔よりはしにくいかもしれません。大体、今はそういうことをしようとすると「危ないからやめろ」といわれるかもしれませんね。ときどきでかける田舎は路地に入ろうものなら深夜にはとても歩けません。とにかく真っ暗で一寸先は闇という,私の人生のようなものです(笑)。だいたい恐がりですので、私は肝試しなど御免蒙りたいタイプです。

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花山院 

賀茂祭に行って御所をうろついていると、花山院(かざんいん。花山天皇。968〜1008)のことを思い出さずにはいられませんでした。冷泉天皇の皇子で、父の二代あとの天皇になった人です。かなり個性的な人で、芸術面でいうと

    天才的な才能

の持ち主であったとさえ思えます。時勢に合わず、藤原氏にはめられて出家し、「狂気の人であった」という、信じられないような評判まで立てられます。敗者はこうしてひどい評判を立てられることがしばしばあり、いくらか似たような境遇を体験した私など、かなり同情してしまいます。この人の名誉のために言いますが、狂気という噂はまともに信じるべきではないと思います。

    和歌や絵

に巧みであったと言われ、実際和歌はなかなかいいものが残っています。また、建築デザイナーとしても優れていたとも伝わり、天皇家に生まれたのが間違いだったのではないかとすら思えます。
藤原道長はもともとこの人とは相容れぬ立場にいたのですが(花山院をおとしいれたのは道長の父)、退位、出家したあとはなかなか親しく付き合っています。
この人を思い出した理由のひとつは、先日書いた「車の描き方」なのです。回転する車輪をどう描くかは難しい問題でしょうが、花山院はそれを工夫して薄墨を塗ることで表現しえたと言います(『大鏡』)。証拠が残っていないのでなんともいえませんが、この人ならそれくらいの工夫はしそうだな、と思わせる所があります。

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2015年5月東京公演千秋楽 

文楽東京公演が本日千秋楽です。
二代目吉田玉男さんにとっては、長い長い襲名披露も一段落です。
もちろんこれからも各地でそういう催しがありますが、とりあえずおつかれさまでした。
今後はどうぞ落ち着いて、さらに芸に磨きをかけてください。
私、最近勘十郎さんのことを

    勘十郎師匠

とお呼びしても平気になってきました。
これは勘十郎さんが襲名後も研鑽を積まれていっそう我々観客に訴えるものが大きくなってきたからだと思います。
今の時点で

    玉男師匠

というと、やはりまだ先代のことになってしまいます。
しかしそのうちにきっと二代目も何の抵抗もなくそうお呼びできることと信じております。

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ついでに京歩き(2) 

建礼門を背にしてだらだらと南へ歩きます。九条家旧邸の池などを通って京都御苑とはお別れ。
丸太町通に出て、そういえば今東京の国立劇場では文楽『桂川連理柵』を上演しているな、と思い出し、「柳馬場を押小路」(「帯屋」)というわけで、柳馬場通を南下することにしました。
丸・竹・夷・二・押・御池・姉・三・六角、と下っていったところで、やはり

    六角堂

に行かないと『桂川』にならないなと思って西へ西へ。お絹さんと長吉が話でもしているかなと思ったのですが、すでに帰ったあとだったのかも知れません(笑)。平日の午後、閑散とした境内でした。

六角堂
↑六角堂

このあたりは私にとってとても思い出深いあたりで、三条高倉の平安博物館(現京都府文化博物館別館)は20代の頃に研究会に通った、私の平安時代古記録研究のスタート地点です。夏の盛りに、冷房のない蒸し暑い部屋で先輩たちに交じって藤原道長の日記と格闘していました。以前も書きましたが、

    イノダコーヒー

は指導してくださった山中裕先生(私が出会った当時は東京大学史料編纂所教授)といつも一緒に昼食を摂るところでした。研究会というのは、こういう昼食の場も重要なのです。ほっとした雰囲気の中で忌憚なく先生や先輩と話ができた経験も私の宝物です。
そんなわけで、このあたりは当然覚えのある町並みなのですが、やはり時代の変化で新しいビルも次々に建てられています。

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ついでに京歩き(1) 

賀茂祭の行列を見て、今年の五月十五日は満足しました。電車も混雑していたためずっと立ちっぱなしで、しかもすでに相当歩いていました。無理してまた体調を崩しては行けないと思いましたのでこの時点でもう帰るつもりでした。上賀茂への行列に付き合う手もあったのですが、これは来年にします。
しかしせっかく御所まで来ていますので、ぐるりと回るくらいはしておこうかなと、いつもの散歩癖が頭をもたげたのです。
文化芸術会館の北辺を西へ行くと、もう何度訪れたか分からない京都御苑。清和院御門を入って砂利道を少し歩くと、藤原道長の屋敷跡。

    土御門第

といっています(土御門邸、土御門殿とも)。大きな貴族の屋敷は一町、およそ110m四方なのですが、この屋敷はその2倍。ほぼ25000㎡という広大な屋敷でした。ちなみに、『源氏物語』の主人公光源氏の六条院という屋敷はさらにその2倍であったことになっています。
土御門第の敷地のほとんどはこの砂利道の南側、今の大宮御所、仙洞御所の中におさまるのですが、砂利道の少し北側までが屋敷の範囲で、案内札が立っているあたりはほぼ北辺に当たります。平安京の道で言うと「土御門大路」(ほぼ今の上長者町通)に面しており、それゆえに「土御門第」といわれます。ついでに申しますと、屋敷の南辺は近衛大路(油小路通)、東は東京極大路(寺町通)、西は富小路です。京都の東の端になりますが、内裏から適当な距離があり、

    鴨川も近い

ロケーションです。もともとは道長の妻(源倫子)が伝領した屋敷で、道長はここで妻と同居しています。

土御門第跡
↑土御門第跡

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賀茂祭(4) 

歴史的には新しいものでも、やはり女人が登場するとはっとします。
戦争のために祭が中断したのは残念でしたが、斎王代を中心とした行列を加えることができたのは皮肉にもその中断があったからとも言えそうです。
命婦(みょうぶ)を先頭に、実に美しくきりりと化粧されて、元結で長かもじを束ねて垂らし、軽やかに整然と歩かれます。並んで風流笠を持つ白丁の男性はどこか嬉しそうな、恥ずかしそうな様子に見えました。

女人列の先頭

沿道の空気がさっと変わります。

    斎王代

の乗る「腰輿」が通ります。「ようよ」と読めますが、「御」をつけて「およよ」と言っています。斎王代の座る位置はかなり高いですし、四方が空いてるので風は吹き抜け、もたれもできず、前後左右からの視線を浴び続けます。いくらかはがたがたするでしょうから怖くないのかという心配も抱きます。そんなことを考えていると私が意味もなく緊張してしまって、目の前を通る時にシャッターを押せませんでした(笑)。そんな私の心遣い(笑)もどこ吹く風、真っ直ぐ前を向いて立派に役目をお務めでした。斎王代は公募ではなく、京都の

    名士のお嬢様

がつとめます。お金もかかるのだそうですね。今年もとてもすてきなお嬢さんでした。早朝からあの装束を着けて夕方まで。食べ物は? 水分は? 化粧直しは? トイレは? など、いろいろ気になります。

斎王代
↑斎王代

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賀茂祭(3) 

いいカメラが欲しいです。センスも腕もないのにそんなものを持ったって使いこなせないでしょうし、なによりも贅沢なのは分かっています。しかし、賀茂祭の見物人のみなさんがいいカメラで撮影していらっしゃるのを見るとしみじみそう思います。カメラマンさんを雇って「はい、あれ撮って」「これ撮って」と指示するだけというのが一番ですが。
さて、祭の行列が停止するときはシャッターチャンスです。そこで、目の前にいた人を適当に写しておきました(笑)。この人は太刀を佩いていますが、

    毛鞘(けざや)

がはっきり分かります。太刀や履物(沓や草鞋)、冠(葵のかざしを付ける)、烏帽子などを観ているだけでもおもしろいです。

毛鞘

馬もおとなしいのもいればうろうろしたがるのもいます。口取りの人を困らせたり、行列が止まると沿道に向かってきそうになるものもいました。
風流笠も通ります。大きなものです、持つのもなかなか大変です。行列では交代で持ちます。『年中行事絵巻』の稲荷祭の絵などを見ますと人がかぶった笠に風流(ふりゅう、ふうりゅう。さまざまな趣向)を付けています。

風流笠

そしていよいよ

    勅使

が来ました。一行で一番えらい人です。というか、この人が帝の使いとして賀茂社に行くことが一番重要なので、本来は勅使こそが主役なのです。しかし今では斎王代に人気をさらわれて、沿道の人たちも「さっさと行ってくれ。もうすぐ斎王代だから」といわんばかりで、あまり写真も撮られていません。実は私もうっかり撮り忘れていました。
勅使になるのは近衛中将。四位以上は黒(あるいは紫)の袍を着けますが、縹色(六位以下)や緋色(五位)に比べて、なるほど高貴で重みすら感じます。

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賀茂祭(2) 

私は検非違使に興味があって、今回はもっぱら彼らの装束を眺めていました。
検非違使尉、検非違使志にくっついているのは看督長(かどのおさ)、火長(かちょう)ら。馬は舎人が引いています。火長は赤い狩衣を着けるのが決まりでしたので、かなり目立ちました。
異様な鉾(ほこ)を持っている人物がいます。昨日も少し触れましたが、これが

    鉾持の放免

です。「伴大納言絵巻」や「法然上人絵伝」などに、かなり人相の悪い(笑)豪傑として描かれます。放免(ほうめん、ほうべん)というのは罪人であったものを「放免」して検非違使の下級役人(最前線の実動部隊)に取り立てたことに由来する名前です。元罪人ですから怖いものなし。こわもての警官も必要だったのでしょう。賀茂祭では派手な装束をしたと言われ、尉について行く鉾持は黄色地のボーダーの装束。ストライプかボーダーかを別にすると何となく某プロ野球チームを連想してしまうところはやはり関西のお祭りということでしょうか(関係ないか)。

ほこもちのほうべん
↑鉾持の放免(左端の男。伴大納言絵巻より)

鉾持

鉾持2

人相の悪い鉾持の持つ長い棒と火長の目立つ装束は

    「検非違使が来たぞ」

というしるしになったのではないかと思います。パトカーの白黒のデザインと赤色警光灯のようなものかもしれません。
白丁(はくてい。はくちょう)は文字通り白い装束です。傘袋を持った傘持ちもいます。

傘持の白丁

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賀茂祭(1) 

かもさい。一般的に「葵祭」といっている祭です。毎年五月十五日におこなわれています。仕事とぶつかることも多いのでなかなか行けませんが、今年は終日空いていて、しかも何とか歩けそうな体調でした。それに加えて授業で源氏物語の葵巻を読むものですから、やはり観ておこうと、久しぶりに見物してきました。
京都御苑の有料観覧席で悠々と見物、と言いたいのですが、私など身分が違います(笑)。おおよその時間を見計らって家を出て、10時半頃に河原町丸太町に着きました。ここで行列は東から北に向きを変えるのです。そこで、私はあらかじめそこから少し北に向かって

    荒神口

あたりまで行きました。京都文化芸術会館や府立医大の近くです。私にとっては馴染みの町です。
河原町通は上下2車線ずつの4車線ですが、時刻が来ると検非違使、じゃなくて、警官の皆さんがコーン(パイロン)を並べて車線規制。南から北に向かって左側、つまり北行きの2車線を行列に明け渡し、南行きの2車線を1車線ずつ上下に分けます。どうしてもスピードは出せなくなります。また、バス停がありますからバスは停車せざるを得ず、そのたびに後ろの車はストップします。
しかたがありません。そうやって文化は守るのです。誰一人文句を言いません。それが文化を大事にする

    町の矜持

です。
それどころか、「ああ、今年も葵祭や。またこの祭に会えた」という喜びすら京の町の人々からは感じ取れます。よそ者の私など、申し訳ないと思いつつ、こうして京の祭を見せていただきました。

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九条武子 

美人の基準というのは時代によって異なるようで、『源氏物語絵巻』などを学生に見せると「この人のどこがきれいなんですか?」という反応が返ってきます。藤原明衡という11世紀の人物の『新猿楽記』という風変わりな書物の中に、美人、不美人についてあれこれ書かれています。美人については「芙蓉の瞼を廻らせてひとたび咲(ゑ)めば百の媚をなし、青黛の眉を開きて半面すれば万の愛を集む」(蓮の花のようなまぶたを廻らせてひとたび微笑むと無限の愛嬌がこぼれ、青い黛の眉を開いて斜めから見ると無限の愛欲を集める)などといっており、ほかにもアクセサリー(かんざし)が似合い、

    化粧映え

のするのも大事なことだったようです。不美人の方には、髪がぼさぼさで、額が狭くて、あごが長くて、歯が出ていて、耳が垂れていて、頬骨が高く、鮫肌で、蛙腹で、首が短くて・・・とひどいことをずいぶん書いています。
学生に今の皇后の若い頃の写真を見せると「大変な美人だ」という反応が返ってきます。理知的な近代美人というべきなのでしょうか。
大正三美人と言われる人がいます。その一人が歌人の

   柳原白蓮(1885〜1967)

です。大正天皇の生母の柳原愛子の姪に当たり、三度の結婚を経験するなど、波乱の人生を送りました。特に福岡の炭坑王と婚姻関係にある中で知り合った宮崎龍介との恋愛、駆け落ち事件はスキャンダルになったようです。
細面の涼しい目をした美しい人だと私も思います。

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命蓮参上(1) 

文楽『菅原伝授手習鑑』は申すまでもなく菅丞相(菅原道真)の物語。右大臣にまで昇進した菅原道真は、しかしわずか2年後には斉世親王を皇位に就けようとしたとの罪で大宰権帥に左遷され、そのまま都に戻ることがなく、西国で朽ちます。その後都では時平をはじめ、その周辺の人々が次々に亡くなるなどの異変があります。これが

    道真の祟り

として恐れられるようになり、とどめを刺すのが清涼殿への落雷です。
『菅原伝授手習鑑』でも、五段目「大内天変」で落雷があり、左中弁希世と三善清貫は雷に打たれて死に、菅秀才が家を再興します。
落雷の経緯については『日本紀略』という史書に、次のように記されています。
延長八年(930)六月二十六日の午三剋(およそ午後1時すぎ)に愛宕山の上に黒雲が立ち、にわかに雷鳴が轟きます。そして

    内裏清涼殿

の未申(ひつじさる。南西)の第一の柱の落雷し、火が上がります。昇殿していた大納言藤原清貫は衣服が焼けて胸が裂け、即死。右中弁平希世は顔が焼けて倒れ、運び出されますが結局亡くなります。あまりの出来事に上を下への大騒ぎとなり、醍醐天皇もついに病臥してしまいます。

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葵(あふひ) 

今から8年前(2007年)に生まれた女の子で一番多かった名前は「葵」だといわれています。それ以前からこの名前はかなり多く、今私の授業に出てきている学生にも「葵さん」はいます。
私など、つい「オクラはアオイ科の植物」なんてプランター野菜のことを考えてしまうのですが、ハイビスカスやムクゲなどもアオイ科。概して花のきれいな科と言えるのでしょう。もちろん、オクラの花もきれいです。

今は「アオイ」と読みますが、もともと

    あふひ

と書き、和歌ではしばしば「逢ふ日」を掛けます。
男女が「逢ふ日」というのが普通でしょうが、女同士のちょっと怖い話もあります。葵祭の見物に出かけた藤原道綱母が夫(藤原兼家)の正妻である時姫(道長らの母親)と車をたまたま道の両側の、お互いが見える位置に止めるめぐり合わせになりました
そのとき道綱母は時姫に

    あふひとか聞けどもよそにたちばなの

と詠みかけます。今日はあなたに会う日だと聞いていたけれどもあなたは知らん顔をして離れたところに車を立て(停め)でいらっしゃいますね。
すると時姫は

    君がつらさを今日こそは見れ

と返してきました。あなたの冷たさを今日思い知りましたよ、知らん顔をしているのはあなたでしょう。というのです(以上、かげろふ日記)。女同士の鞘当てということでしょう。
道綱母がこの話を兼家にすると、「『食ひつぶしつべきここちこそすれ』(あなたなんて食いつぶしてしまいたいという気持ちです)とは言っていなかったか?」と冗談を言います。

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砧(きぬた) 

少し先の話になりますが、今年の文楽夏休み公演では夜の部の最初に

    きぬたと大文字

を出すようです。昼の部から夜の部にかけて「生写朝顔話」が宇治川から大井川まで出るので楽しみなのですが、その間になぜかこの演目が挟まるらしいですね。通してご覧になる方にはとても不思議な感じがするように思います。技芸員総出演のためということなのかもしれませんが、それでもここに挟む必然性は?

大文字はもちろん京都五山の送り火。今では八月十六日におこなわれますが、もともとは旧暦七月のお盆の行事として故人の霊を送り返すためのもの。よって、旧暦の七月十六日の行事でした。
私も何度か左京区の百万遍のビルの上から、主に如意ヶ嶽の大文字、松ヶ崎の妙法を見ました。舟形と左大文字はわずかに見えましたが、鳥居形はわかりませんでした。
今は八月におこなわれるため、夏のイメージがありますが、季節はすでに

    

です。
そしてもうひとつの「砧(きぬた)」も、冬支度のために打つことが多かったため、もっぱら秋のものとされます。「砧」は「衣板」のなまったものと思われ、布をたたいて柔らかくしたりつやを出したりするのに使われたものです。板の上に布を載せて、槌で打ちます。
この演目の冒頭は「風蕭々。秋たけて遠征の人いまだ帰らず。うつや砧も乱れがち。留守もる妻の心や通ふ。一つち二つち打つままに、夕べの夢の安からず。思ひ乱れし恋心。月に語るもはかなしや」とあります。

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かむ 

もともと、朗読には強い関心を持っていました。落語にしても文楽にしても語り芸というのは登場人物の立場になってその気持ちで語らねばなりません。人物になりきるというのとは少し違うのですが、そのことばが出てくる必然性を聴き手に伝えねばならないと感じています。
そこで、私は古典文学を読むとき、いささか

     芝居がかった

読み方をすることにしています。
地の文(せりふ以外)については情景や人物の心理描写などを意識しながら読み、せりふは当然人物がどんな気持ちでそのことばを発しているかを重視しています。当然、私の解釈を入れますので、普遍的な読み方ではありません。私だけがおこなう読み方なのです。
聴いてもらえばある程度の意味は現代語に直さなくても通じるのだ、という念願、いや、本当のことを言いますと

    確信

に近いものを持っています。
和歌を読むときも。5・7・5・7・7で区切るとは限りませんし、577・77という、百人一首カルタのような読み方もしません。これについては、以前書きました。

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教えない 

先日、小学校教諭を目指す学生のための国語の授業をしていました。その時に、「私は、授業ではできるだけ

     教えないようにしています」

と言いました。すると学生が一瞬固まりました。
それはそうでしょう。教えるのが仕事の人間が教えないなんておかしなことを言ったわけですから。
学校の教師は教えてこそ価値がある、教えるのがうまい人こそいい教師。となると、私は最低最悪の教師ということになります。
ほんとうに私は今、意識して学生には教えないようにしています。そもそも教えるほどの学識を持っていませんので、教えたくても教えられないのです。いえ、謙遜しているのではありません。たとえば、「生涯学習論」などという授業を担当していますが、これなど全くの

    専門外

ですから、何十年もそれを勉強してきた人と同じことができるわけがありません。そこで、何冊かの本を読んで、その中から学生の現在の生活や将来に関係のありそうなテーマをピックアップして、学生に考えてもらうような話をしています。そうするほかはない、という苦肉の策です

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賞味期限切れ 

昔の牛乳はすぐに腐りました。ちょっとでも置いておくとダメになるので、牛乳瓶は開けたらすぐに最後まで飲む、が原則だったと思います。ですから、牛乳と言えば200ccくらいの瓶か紙パックでしたよね。テトラパックもありました。
今は1リットルのパックが多く、開封前ならかなり持ちますし、開封してからも数日は飲めます。
賞味期限は必ず書いてありますので、それを守っていれば概ね

    お腹を壊す

ということはないのでしょう。
私はそういうことにはいささか敏感すぎるところがあって、以前なら賞味期限切れのものはまず口にしませんでした。現実には多少その期限を越えてもどうってことはないわけです。ただ、なんだか気持ち悪くて、いいところのお坊ちゃまでもないのに、逃げていました。賞味期限が切れたものを食べさせられると、正味、機嫌が悪くなってキレる、というほどではなかったのですが(苦しい駄洒落)。
賞味期限と消費期限は違うのだそうで、音が似ているので混乱しかねませんが、なるほど字面を見ると意味は明らかに違います。消費期限はある程度守った方がいいのかもしれません。
豆腐の腐ったのを長崎名物

    ちりとてちん

と言って食通を気取る男に食べさせる落語がありますが、豆腐はかなり怖そうです。しかし、「長崎名物」「ちりとてちん」というのは誰が考えたのでしょうか? ありそうでなさそうで、でもなんとなくありそうな気がする、というネーミングだと思います。

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差別の話 

いつぞや、学生から差別語について質問されました。「どういう言葉が差別語なのですか?」というものでした。
実際は差別語というものが法律で決まっているわけでもなく、いわば自主規制というか、常識的に言って差別的だと思われる語が差別語といわれているのだろうと思います。
放送局や新聞社などのマスメディアは一人の発言が場合によったら何千万人という人の目や耳に届きますから、かなり慎重にならざるを得ないはずです。学校ではどうなのかというとこれも

    自己判断

ですが、どこまでで線を引くかは個人によってさまざまでしょう。
以下、あえて「差別語」を列挙することがあります。

学生は「めくら」「つんぼ」「おし」などは差別的だと思っているようです。障害者を蔑む印象が強いのだろうと思います。私が子供の頃は、ごく普通に使っていた言葉ですが、今の学生世代なら子供の頃から「そういういいかたはやめなさい」といわれてきたのだろうと思います。いや、そもそもそういう言葉は教わらなかった可能性も高いでしょう。
これらの語は私自身も今は使いません。それは差別語として決まっているから、という外部からの指示や圧迫によるものではなく、そういう言葉を使うことによって自分がいやな思いがするから、という

    内的なもの

といってもよいのです。差別をする気は毛頭なくても、しているような気になって、やはり今はもうたまりません。
こういうものは誰かが線を引くというのは事実上不可能だろうと私は思っています。
以前、目が不自由、耳が不自由という言葉が通用するからというので、テレビで「頭が不自由」「顔が不自由」などという表現をしている人があったようです。これはなるほど差別語の範疇に入らないのかもしれませんが、他人を蔑んでいることには違いありません。

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日本語クイズ 

今日は休日なの? 普通のサラリーマンは出勤なの?
この大型連休では、こんなことがさっぱり分からなくなっていました。
昔は4月29日は天皇誕生日、5月3日は憲法記念日、5日はこどもの日。そして大体この間に日曜が挟まるので「飛び石連休」といいましたよね(5月1日はメーデー)。
しかし昭和天皇が亡くなって、たしか、その日が「みどりの日」になって、休日の間の平日は休日になるとか何とかで、ハッピーマンデーがどうたらこうたらで、分けがわからなくなりました。
それに加えて大学では授業日を確保すべしというオカミのご命令があって、祝日に授業したりしています。
もはやわけがわかりません。
実は私、5月4日は単なる「国民の休日」というものだと思っていたのです。それを当日になって「みどりの日」であると知りました(この日も連休特別バージョンの授業しましたけど)。

結局、今年の連休はこんな具合だったのです
4月29日 祝日(何の日でしたっけ?)     30日 5月4日の代休
5月1日 5月6日の代休  2日 創立記念日
3日 憲法記念日      4日 授業
5日 こどもの日      6日 授業
要するに世間の休日に2回授業をして、世間が働いている日に2日休んでいるわけです。こんな面倒なことをするのは、

    月曜日の授業

を確保し、29日と6日が同じ曜日なので②集続けて休みにすることを避けるためだと思います。
ちなみに、5月2日は創立記念日になっているのですが、古い人に聞きますと、連休にするためにむりやりこの日を創立記念日にしたらしいという話です。都市伝説なのかもしれませんが。
しかし4日の授業は飛び石連休になってしまいますから、学生にとっては気の毒でした。しかし学生は真面目で、こういう日も大学にやってきます。昔の学生ならサボってたんじゃないでしょうか。
連日のバイトで疲れた学生も多いですし、遊び疲れもいます。だらっとした休み疲れもいるかも。
そんな日に私のような

    教養の授業

をするのはなんだか申し訳ないというか、学生もやる気がないんじゃないかな、と心配でした。そこで、直前にツイッターで「授業やめて遊びましょうか」とつぶやいたら、あっというまにいくつもリツイートされて、拡散してしまいました(笑)。

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2015年5月東京公演初日 

文楽東京公演が始まります(9日〜25日)。
二代目吉田玉男襲名披露第二弾というべきでしょう。大阪公演の初日はかなり口上がバタバタしたそうですが(それはそれで楽しくはあります)、もうすっかり落ち着いて、東京ではすらすらと立て板に水になることでしょう。
東京では東京独自の口上があってもよいと思うのですが、そうはいかないのでしょうか。
さて、この公演も襲名披露は

    熊谷陣屋

です。いっそう肚のある、かっこうのよい熊谷を期待しています。
第一部はこの他に『五条橋』『野崎村』。「野崎」では、おみつには勘弥さん。久作が文司さん、久松が清五郎さんでお染が一輔さんという、なんともフレッシュなメンバー。床も呂勢さん・清治さんから津駒さん・寛治師匠とこれはなかなかの見もの、聴きもののような気がします。勘弥さんに主役続き(操、おみつ、お初)の気分をうかがったら、

    「大きな役が続く

のであわてています」とおっしゃっていました。しかしそれは謙遜で、いつものポーカーフェイスで、きっとそれぞれにきちんとした成果をあげてくださるものと思っています。おみつを観たいです。

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おくら 

「だってもへちまもありません!」などと親はよく子を叱りました.今もそんな言い方はするのでしょうか。
へちまというのは見かけは立派な実なのに、食べられないし(文楽人形の肩板に使えるから便利なんですけどね)役に立たない、というような意味で遣われるのですね。「役に立たないことを言うんじゃない!」という感じでしょうか。
私は「しんどいだのへちまだの」と言いながら、この春を過ごしてきました。そして息を切らせながら4月の末から少しずつ夏野菜に向けてのプランターの準備をしていました。
旧土をきれいにした上で新たに土を足したプランターはやはり気持ちのいいものです。すっかりふかふかして、いつでも

    新しい苗

を迎えてくれそうです。
さて、今年は何を植えようかと考えました。この初夏から梅雨にかけては忙しくなりそうなので、あまり難しいことはできそうにありません。
そこで、またキュウリを植えようかな、と思っていたのです。これならある程度慣れてきましたし、そもそもそんなに難しくないものですから。
5寸にんじんも考えました。ここ数年植えていませんので、久しぶりにいいかなとも思ったのです。
しかし結局はホームセンターに行って

    現物を見てから

の方がいいだろうと考え直したのです。
早速出かけてみると、ナス、トマト、ミニトマト、ピーマン、シシトウなど、ナス科のものが並んでいました。
ほかにもキュウリ、ゴーヤ、シソ、ネギなど、いろいろあります。
ずいぶん悩みましたが、結局手が伸びたのはピーマンでした。定番といえば定番ですが、好物でもあり、また気に入った苗もありましたので決めました。

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小学校の国語教科書(2) 

小学校の国語教育では、高学年になると「考える」ということが重視されるようになります。大雑把にいうと、1、2年生は自分の経験を「思い出す」ことが第一で、3、4年生は自分の興味あることを「調べる」時期。そして5、6年生になるとさまざまなことを自分と関係付けて「考える」ことが求められます。それは「読む」「書く」「話す・聞く」のどの分野でも同じことです。
さらに高学年になると、古典とのふれあいが深まります。
低学年では神話や昔話(「いなばのしろうさぎ」「おむすびころりん」など)に触れることがあり、中学年では短歌や俳句に出会います。そして高学年では著名な古典文学のおもに

    冒頭部分

を、原文で(もちろん現代語訳は示されます)読むことがあります。
「私の小学校時代に、こんなの習った?」と思うのが

    祇園精舎の鐘の声  諸行無常の響きあり
    娑羅双樹の花の色  盛者必衰の理をあらはす

です。『平家物語』の冒頭ですね。意味は深く難しいですが、小学生の場合はおもに荘重な音の響きやリズムなどを味わえばよいのだろうと思います。小学生が帰り道に「世の中って、諸行無常だよな」なんて会話をしているのは、さまになりません。
「ぎをん」「しやうじや」「しよぎやう」「むじやう」「ひびき」「さうじゆ」「じやうしや」と濁音が多くて重々しく、対句になっているのでリズム感があります。小学校5年生で読むのか・・・

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小学校の国語教科書(1) 

今年度から、「くらうべき授業」として児童国語という科目を担当しています。
真剣に小学校教諭を目指す学生がいますので、適当にごまかすわけにはまいりません。
昨年のこの科目を担当した人がどのようにしていたのか、シラバスを見てもよくわからないので、完全に我流です。
まずは小学校学習指導要領の「国語」を徹底的に読みました。決しておもしろいものではありませんができるだけ噛み砕いて話しているつもりなのですが、学生の中には

    めんどくさい

という顔をする者もありました。やはり小学校の指導に関しては素人ですから、まだうまくいっていないようです。
文部科学省の資料だけではあまり意味がありませんので、このあとは実際の教科書を参考にしながら話していきます。長年入試問題に関わってきた経験もありますし、高校の現代文、古文、漢文については何とかわかるのですが、小中学校の国語についてはほんとうに疎くなっています。ああらためて教科書を見ると、

    なかなか難しい

ので驚いてしまいます。
大半は現代文ですが、中には古文も出てきますし、短歌や俳句もあります。
中学では当然のような気がしますが、小学校でもかなり習うのですね。
そうだったかな、と我が小学生時代を思い起こしています。

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連休なんて 

なんだか、わけのわからない連休でした。
4月29日から5月3日までの5連休でしたので休めたとはいえるのですが、よく考えたら私は本来木曜と金曜は授業がなく、4月30日、5月1日の休みは別に嬉しくないのです。2日と3日は土日でしたから、これも当然の休日。結局29日だけがスペシャルだったのです。そうそう、今日(5日)は休めるので、飛び石連休にはなりますが。
体調が最悪でしたので、なかなか授業の予習が進まず、ずっと

    自転車操業

だったのですが、この連休の間にいくらか進めることができて、それはホッとしています。
ただ、そのために休むということはあまりできず、せっかくの好天を無駄にしてしまったのが残念でした。もっとも、こんな時に下手に出かけると

    人に酔って

かえってしんどくなっていたようには思いますが。
最近、どうも人の中に入っていくのが苦手になって、社会人としてはもう末期的だなと思うことがあります。
仕事の中に入れてもらえないという感覚と自分1人で生きていくしかないという諦めと、いろんなものが交じって人間嫌いになっていくのだろうかと思ってしまいます。

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教員免許 

私はこれでも高校の国語の教員免許を持っています。私が取得したときは大学を出ると2級、大学院修士課程を出ると1級の免許でした。
それなら高校の教育には詳しいのだろうとお思いかもしれませんが、全然です。なにしろ、必修の「教育原理」とか「教育心理」などはずいぶんいい加減な授業で、まともに勉強した覚えがありません。たしか、経済学部の夜間部で

    集中講義

があって、私はそれにでかけてあっというまに取った科目もありました。1週間通えばなんとか単位は取れるのです。
ですから、教育法規とか、教育の方法論などは全然知らないのです。かろうじて教員採用試験を受けたとき(合格はしましたが権利を放棄。ただし非常勤講師に採用される時に役立ちました)、にほとんど一夜漬けで学校教育法とか教育基本法などは丸暗記しました。あの時は

    偏差値

の計算方法など知らず、それが問題に出てさっぱり解りませんでした。よく合格したものです。
そんないい加減な免許ですが、小学校の免許は文学部では取りたくても取れません。
よって、私は初等教育については、さらに何も知らないのです。

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権力を縛るもの~憲法記念日に 

私の「生涯学習論」という授業はとても文部科学省の役人などに見せられません。
なにをやってるんだ? と思われるに決まっています。
何しろこの間なんて、学生からもらった意見や質問について私が答える時間を90分中75分も取ってしまいました。
授業してないじゃないか、といわれたら、そうかもしれません。どうぞご自由にご批判を。
この日の話の中に法律の質問があったのです。
国会議員は法律を変えられるのですか、というものでした。国会議員は立法府で法を作ったり改めたりするのが重要な仕事ですから、それはそれで説明しておきました。そのついでに私はつい、「憲法だけは

    安易に変えてはいけない

と思っています」と言ってしまいました。
憲法には直接関わらない授業の時間内ですから深入りすべきではないのですが、口に出した言葉は汗のごとしで、もはや取り消すことはできません。
そのとき、首をかしげる学生もいましたので、さらにしゃべってしまいました。
今、国会議員の3分の2の賛成で発議ができますが、それを過半数にしようという動きもあります。しかし、権力を持ったものが勝手に過半数で発議できるようにするなど、私は

    もってのほか

だと考えています。皆さんの中には過半数ならいいと思う、という人もいるかもしれませんし、それはそれでひとつの意見だと思いますので、私の考えを押し付けはしません。しかし、他の法律と同じように考えてはいけないと思うのです。
このあたりまでしゃべってしまって、あれ、これってマズイかも、と思い始めました。しかし昨今「言いたい放題」になっている私の口は制御不能でした。

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高齢者と古典 

スイスの心理学者、精神科医のカール・グスタフ・ユングが「人生の正午」と言った40歳。中年になると、人はそれまでの生き方と違ったことを考えるようになると思います。前半生は学業を修めて就職し、場合によっては昇進を目指し、結婚して家庭を築き、それを守るために必死で働きます。ところが子どもが成長して仕事も先が見えてくると自分を振り返るようになります。
自分の人生はこれでいいのだろうか、と思うのが中年期の不安になります。いくらか自分の老いや死が見えてきて、「働いてばかりでどうするんだ、

    もっと遊べ」

という悪魔のささやき(笑)も聞こえてきます。
男性の厄年は四十二歳。およそこれ以降に遊びを覚えて夢中になると人生をダメにしてしまうほどのめり込む人もいます。パチンコや競馬などの賭け事、酒や女性、今が最後とばかりにのめり込んでしまうのでしょう。私はどういうものかそれらにまるで無縁で、まじめに(!)生きてしまいました。
この時期の内向化は困ったものだという考えもできますが、ユングはむしろこれを

    第二の発達

と捉えたのだそうです。
すなわち、それまでは見て見ぬ振りをしていた老いや死について受け入れられる人間になっていくのがこの時期だというのです。

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