ショートショート浄瑠璃 

長い間上方文化、特に芸能を支援し、その発展に少なからず寄与してきた雑誌『上方芸能』が次号で終刊となります。
最初の編集長だった木津川計さんはやがて森西真弓さんにその立場を譲って「代表」となられ、さらに広瀬依子さんが編集長になられることで、森西さんが代表、木津川さんは「発行人」という立場で関わっていらっしゃいます。
私は森西さんとは同年代で、最初からいわゆる「タメ語」でしゃべったりしていました。広瀬さんや木村さんという編集者とも親しくなり、木村さんに至っては今なお個人的におつきあいがあります(清い関係です・・笑)。その木津川さんが80歳になられ、しかも、もともと

    ペイしない

雑誌ですから、これ以上は続けられないということで終刊を決意されたようです。執筆者が原稿料を受け取らなかったり、逆に寄付したり、読者も雑誌を買うだけでなく維持基金を寄せたり「提灯広告」という形で支援されたりしました。そんな

    家族的な雰囲気

のある編集部でした。
嶋大夫師の引退、『上方芸能』の終刊というこの年は、上方の芸能にとって落日なのか、新時代の到来を告げる時期なのか。それはいうまでもなく次代を担う若人の双肩にかかっているのです。心ある若者が出てくる事を願います。

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残す 

海外からの観光客が激増していて、昨年は2000万人に迫ったということです。前年比で50%近く増えたというのですから、凄まじい数字です。
たしかに、京都などに行ってみると外国人だらけです。中国語、韓国語、英語、なんとか語が飛び交っていて、「ここはどこなんだ、という感じがする」と驚く人もいます。
その人たちが日本に落として行ったお金は年間で

    3兆円

以上になるそうで、これは私の年収よりいくらか多いのです。2兆9999億9700万円くらい多いかも orz
日本人は親切だ、礼儀正しい、食べ物はおいしい、温泉が嬉しい、などと満足して帰ってくれればけっこうなのですが、やはり豊かな文化財も見て行ってほしいものです。京都や奈良の社寺、歴史を感じさせる庭園や建築など。ただ、見た目の華やかさだけではなく、しっとりとした日本美もわかってほしいものです。たとえば、キラキラ金閣も結構ですが、銀閣のよさを伝えることもまた大事だと思うのです。建築だけではありません。日本の祭、習慣、風俗なども見てほしいですし、やはり

    芸能

も少しは味わってほしい。
いっそのこと、大阪市あたりがお金を出して、国立文楽劇場の小ホールや1階ロビーなどを使って外国人のための文楽案内のような催しをするのもいいかもしれません。古建築や歴史遺産などの面では何かと京都や奈良には負ける大阪ですから、せめて大阪文化の象徴のような文楽をアピールしてはいかがでしょうか。今の道頓堀を見せて「これが大阪です」でいいのかなあ?

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泣く男(2) 

光源氏はよく泣きます。賢木の巻の二つあとの須磨の巻では須磨に落ちた光源氏が秋風の吹く夜に目を覚ましていると「涙落つとも覚えぬに、枕うくばかりになりにけり」、と泣いています。中秋の名月の夜には「二千里の外、故人の心」という白居易の詩を朗唱し、藤壷中宮のことを思い出すと

  「よよと泣かれたまふ」

のです。
六条御息所とのもうひとつの別れは、死別です。天皇の交代によって伊勢の斎宮も代わります。そこで御息所も伊勢から都に戻ります。ところが病気になって、ついに尼となります。
光源氏は御息所を六条の屋敷に見舞います。「近き御枕上に」光源氏の座を設けて、二人はすぐ近くで話し合います。御息所がかなり衰弱しているのを見ると、光源氏は

  「いみじう泣いたまふ」

のです。御息所は「これほどに思ってくださるのか」と感銘を受けるのです。
このあと、七、八日ほどで御息所は亡くなります。
この二人は、七年の年齢差があり(御息所のほうが年長)、光源氏は若い時はどうにも気の置ける人だと感じていました。しかし、この時点では光源氏も二十九歳。須磨でのつらい体験もして大人になっています。
魂が抜け出て葵の上のところに行き、彼女を苦しめ、命を失わせた御息所はつらく悲しい人生を送ってしまいました。

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泣く男(1) 

男の子は泣いちゃいけない、と言われてきました。しかし私はいじめられっ子でしたので、なかなかそうもいかないのです。
今はもう、泣いて何が悪いのか、と開き直っています。
文楽で何度か泣いたことがあります。おいおい泣くのではなく、じわっと涙が出るという感じです。
最初に涙ぐんだのは越路大夫、清治の

    「引窓」

でした。涙があふれてきた時は自分でもびっくりしました。その次は津大夫、団七の「沼津」。先代玉男の十兵衛、先代勘十郎の平作、簑助のお米でした。「沼津」はそれ以後はおもに住大夫師で聴きましたが、やはり何度かぐっとくることがありました。
咲大夫(おゆみ)、9歳の咲甫大夫(おつる)による『鳴門』もかなり涙腺が緩みました。咲甫坊やのデビュー、「咲大夫の会」でのことでした。周りにいた年配のお客さんも「咲甫ちゃんのおつる、目が潤んだわ」とおっしゃっていましたので、私だけではなかったようです。当時の咲甫ちゃんはまさにおつるの年ごろでしたから、リアルそのものでした。
音楽でも涙があふれそうになることがありました。ブルックナーの

    「ミサ3番」

は、朝比奈隆と大阪フィルで。
老巨匠カール・ベームとウイーンフィルのブラームス第一番。ゲルハルト・ボッセとライプツイヒゲバントハウスバッハ管弦楽団のブランデンブルク協奏曲3番。ベームはとても高くて学生の私はナマでは聴けなかったのですが、ボッセはチケットをもらって行きました。あの当時外国の演奏家などなかなか聴けなかったのに聴けた感動もあったかもしれません。アンコールのG線上のアリアもしみじみとしました。
絵でも琴線に触れると涙ぐみそうになることがあります。絵がぐーっと大きくなって迫ってくるような感じがすることもあります。

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やなぎだくにお 

学生時代柳田国男や折口信夫を読まないようでは話にならない、という雰囲気がありました。2年生の時に哲学専攻の学生が何かの話のついでに「先生から『なんだ、君は柳田を読んでいないのか』といわれた」と言っていました。私もそれまであまり読んでいませんでしたので「国文科ならもっと読まないとまずいだろうな」と考え、折しも平安時代の歌人の和泉式部に関心を持ち始めていたものですから、彼女を主題とした

    『女性と民間伝承』

をしっかり読もうと決意して読み始めました。それがきっかけになって、あの当時は文庫本でいくらでも揃えることができたという手軽さもあって『遠野物語』『海上の道』『日本の昔話』『山の人生』『蝸牛考』『桃太郎の誕生』などを読んでいきました。
兄の井上通泰や弟の松岡静雄、松岡映丘(日本画)にも興味を持ち始めて、兵庫県の福崎にある柳田と彼の実家の松岡家の記念館に行く機会もあり、一気に彼の存在は身近になりました。
竹取物語にも興味があった上、学生時代の恩師のお一人が説話文学の研究者でしたので、授業のためにも

    『昔話と文学』

も読みました。この本は竹取物語以外にも、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』にも出てくる「わらしべ長者」、その他「かちかち山」「花咲爺」などについての考察があるのです。
「わらしべ長者」は長谷の観音の利生譚ですが、時々授業で観音信仰の話をすることがあるので例に挙げるのにもってこいです。たいていの学生はあらすじくらいは知っていますから。

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二本足の台 

大江親通の『七大寺巡礼私記』に記される、ということは12世紀には確実に存在していたことになる東大寺大仏殿内部の「金銅六角燈爐」「金銅大火舎」は『信貴山縁起絵巻』にも描かれています。ですから『七大寺巡礼私記』の記述はおのずからこの絵巻物の「図版解説」になっているといってもよいのです。仏像や仏具あるいは荘厳(しょうごん。飾り付け)についての知識のない私にとってはほんとうにありがたく、両書を見比べているうちに

    目から鱗

が次々に落ちるのです。では『信貴山縁起絵巻』に描かれている大仏殿内の様子はすべてわかるのかというと、やはりそうはいかず、ここで私の無知をさらけ出さねばならなくなるのです。
すでに記しましたように、大仏の前、中央に「金銅六角燈爐」があります。そして、その左右に、円形のものが載っている

    長い二本足の台

があるのですが、これが何なのか、実はわかっていません。円形のものの大きさ(直径)は、周りのもの、たとえば二尺五寸あるという「金銅大火舎」と比べると二尺ほどではないかと想像されます。
そこで『七大寺巡礼私記』を参照すると「青瓷花瓶」という項目があり、これは「石座の上、(金銅六角)燈爐の左右に置かれて、白蓮の作り花(造花)を立てる」という意味のことが記されています。位置からするとこれだろうかと思ったのですが、どうにも花瓶には見えませんし、白蓮の作り花もありません。

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大仏さんの身の回り 

大江親通の著した『七大寺巡礼私記』の東大寺の項目は、東大寺や大仏そのものについて書くばかりではなく、大仏の脇侍とか仏殿内の雑具などについても書いてくれていてとても助かります。
大仏の脇侍は、右側(大仏に向かって左)が虚空菩薩、左側が如意輪観音菩薩のそれぞれ坐像です。現在の像はやはり江戸時代に造られたもので、像高はどちらも7mあまりです。
どうでもいいことですが、昔は

    「菩薩」

の文字を略字で書くことが多かったのです。「菩薩」という字が画数が多くて大変だったからでしょう、「草かんむり」を縦に二つ並べた形で表しました。一見すると「幵」「并」のように見えます。『七大寺巡礼私記』の字もそんな字で、「観世音艹艹」(これを縦に書く)のような字になっています。
それはともかく、『七大寺巡礼私記』にも両菩薩像の記述があり、その高さは

    三丈

であったと記されています。10m近くになりますね。『信貴山縁起絵巻』にはわずかに如意輪観音の姿の一部が見えます。大仏の背後には四天王(増長天、持国天、広目天、多聞天)立像もあり、これも大きなもので、『七大寺巡礼私記』は高さ三丈七尺あるいは四丈といっています。『信貴山縁起絵巻』には左端(大仏に向かって右側)の広目天の一部が見えています。江戸時代の像、つまり現存のものは多聞天と広目天のみで、あとの二つは完成されず、大仏殿の中に頭部のみが置かれています。
これらの像はどうしても大仏の偉容の前にかすみがちですが、もしこれらが単独で置かれていたら、それだけでも威圧されてしまうのではないでしょうか。

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奈良の大仏さん 

飛鳥大仏よりははるかに、そして鎌倉大仏よりも3m以上大きく、日本を代表する「大仏」といえば、これはもう圧倒的に東大寺(奈良市雑司町)の

    盧遮那仏

でしょう。聖武天皇の発願で多くの人手と費用をかけて造立された像高(台座を除く)15m近くにもなる巨大な仏像です。
関西人は神様でも仏様でも親しみを込めて「さん付け」しますので、「東大寺の盧遮那仏」などとかしこまらずに「奈良の大仏さん(だいぶっつぁん)」というほうが通りがよいかもしれません。その住まいは一般的に大仏殿といわれますが、正式には東大寺の金堂です。

    戦争は文化を破壊する

と、学生にはしばしば言うのですが、大仏もまたしかり。兵火のために二度まで焼けています。ただ、大仏は金銅仏ですから、建物が全焼しても像が燃え尽きるということはなく、今も膝の辺りなど部分的には奈良時代のものが残っているようです。
最初の兵火は1180年、平重衡らによるもの。この時はすぐに再興されて5年後に開眼供養がおこなわれています。まだ本来の像の記憶が明確なうちに再興されたといえるでしょう。2度目の兵火は松永久秀によるもの。1567年のことでしたが、この時はなかなか復興せず、やっと像ができて開眼供養がおこなわれるのは百年以上が経過した1692年でした。その時、以前の姿を知るものはひとりもいなかったといってよいでしょう。

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大仏 

身体検査で座高を測るのをやめるというのがニュースになっていました。私も子供の頃から座高は何のために測るのか、今ひとつ意味が分かりませんでした。座席順を決めるのに、座高の高い人は後ろにするという意味があるのかな、というくらいに思いましたが、実際はそんなことはしていませんでしたし、たかだか1、2センチの違いならそこまで考えることはないだろう、などとも思いました。背の高さのわりに

    座高が高い人

は、測るのがいやだったという思い出があるのではないでしょうか。私はどうだったのか、あまり覚えていないのですが、覚えていないということは普通だったということかもしれません。あたりまえのようにおこなわれていることが実はなぜあたりまえなのか説明できない、という類のことは、単に座高の問題ではなく、世の中の至る所にある問題なのでしょう。そんなことを考えさせられるニュースでした。これで今後は背丈を測るのは立位の、つまり身長だけということになるようです。
一方、今後も座高しか測れそうにない、というと、蓮華の上に座っている

    仏像

でしょうか(推定身長は測れるでしょうが)。仏像は写真で見るのと実物とではまるで印象が違うことがあります。その理由のひとつは、写真では大きさがわからないことにあると思うのです。人間なら写真を見ればある程度の身長はイメージできますが、仏像は手のひらに載るような小さなものから見上げるような巨大なものまでさまざまです。

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たじろぎ、苦しみ 

学生時代以来何度も読んで、何よりも好きな作品が『源氏物語』です。授業でも何度も取りあげましたし、今は公開講座でも読んでいます。しかし、恥ずかしながら研究者としてこの作品にまともに向き合ったことはないと言ってもよいのです。
いつか『源氏物語』をテーマにした文章を書きたいと思い続けながら、あまりにも作品の背丈が高すぎて、その前に立つと茫然として何もできないのです。

    研究史が膨大

です。平安時代から注釈がおこなわれている作品ですから、注釈書だけでも半端な数ではありません。そして近代以降も大学で研究する人が絶えることがなく、作家などもいろいろ言いますから、多い時には毎日のように論文が書かれ、こうなると研究文献の全てを把握することは困難と言ってもよいのです。源氏学者と呼ばれる人はほんとうに勉強家だと思います。
こうやって長い間

    怖じ気づいて

ばかりいたのですが、もう残された時間もあまりないのですから、なんとか形にできないものかと真剣に考えるようになりました。何も、研究史に残る論文を書こうというのでなくても、源氏物語の関わりの中で考えたこと、感じたことなどを文章にしておく、という程度でもいいのです。私が作家やタレントのように名前のある人なら機会も少なくないでしょうし、お金儲けにもなるかもしれません(笑)。しかし、無名の教員のすることですから、編集者がついてくれるわけでもありません。

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工作の時間 

何度かこのブログに書いてきましたが、小学校時代、私は「図画工作」ほど苦手なものはありませんでした。幼稚園児並みのものしか描けない、作れない無能さには我ながらあきれるほどでした。不器用な私の「作品」を教師に笑いものにされたこともありました。
はさみをうまく使えない、真っ直ぐに線が引けない、造型するための観念が持てない、その他、とにかく無から有を生ぜしめる能力に欠けていたことは認めざるを得ません。高校に入って芸術科目(音楽、美術、書道)の選択をするのにまず美術を除外したほどです。
そんな私が、今となっては

    「趣味は美術です」

というのはなんとも奇妙ですが、音楽と無縁になってからはほんとうに美術に親しみを覚えるようになりました。もっとも、学生時代から絵巻物の魅力には不思議に取り憑かれていたのです。そして、この2年間、公開講座で「伴大納言絵巻」「信貴山縁起絵巻」を読み続け、今年は「粉河寺縁起絵巻」「吉備大臣入唐絵巻」「源氏物語絵巻」を制覇しようと思っています。
昨日書きましたように、「粉河寺縁起絵巻」は兵火に遭ったらしく、焼損しているのですが、

    裏打ち

して補修されているため、一応巻物の形態は持っています。では補修される前はどんな状態だったのか、それも気になります。そこで、あえて無残な姿を「復元」してみることにしました。

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兵火 

子供の頃、三船敏郎さんあたりが主演する戦争映画がよく作られていたように思います。予告編やテレビCMなどを観たのかもしれませんが、軍艦が大砲を「どかん」と撃てば戦闘機が爆破される。空襲で爆弾が「ひゅー」と落とされると人々は逃げ惑い、街が灰燼に帰す。私はあれが生理的にダメで、三船さんに恨みはありませんが、本編を観たいと思ったことがありません。実際は重厚な人間ドラマだったのかもしれませんが、子供の目にはやはり「どかん」「ひゅー」の映画に思えたのです。
「へいか」と入力して変換キーをたたくと「平価」「陛下」「弊家」「瓶華」などが出てきます。どれもめったに使わない言葉です。だからでしょうか、一番の候補としては

    兵火

が出てきます。実際、最近しばしばこの言葉を使うことがあるのです。おとなになって戦争ものが好きになったのか、というとそうではありません。文楽でも時代物の武将が出てくる場面はあまり好まないくらいですから。
それではなぜ使うのかというと、「兵火によって文化財が焼かれる」という趣旨の話をすることが多いからです。焼かなくても、軍隊にとって敵国の文化財は嘲笑すべきもの、いたぶるべきもの、という面があります。

    ナポレオン軍

がその価値を知ってか知らずか、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を傷つけたという話を聞いたこともあります。戦争は罪もない人の命を奪うのが最悪。もうひとつ、大切な文化財を傷つけ、破壊するから私は戦争を憎みます。そんなことを「文化と歴史」の授業の中で話すことがあります。

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インフルが怖い 

この冬もインフルエンザはそれなりの流行を見せ、今が流行のピークだとか。
12月が比較的暖かかったのでさほどひどいことにはならないだろうとは思ったのですが、1月の寒波の頃に「流行期に入った」という宣言がありました。
それとほぼ同じ時期に学生がポツポツ休むようになり、あとで「インフルエンザのためでした」と言ってくる者がありました。
昔はインフルエンザと風邪の区別をあまりはっきりさせていなかったようで、「インフルです」「ああ、風邪ですか」という会話も成り立ったと思うのです。今はインフルなら

    「公認欠席」

になります。学校に限らず、インフルと診断されたら何日間かは休まねばならないのですね。
ただ、この時期は後期授業の締めくくりの時期であり、試験期間にも該当します。ですから学生も休むとあとが面倒になるのです。多くの科目は試験を実施し、同じ時期になることが多いので、この時期に5日も休んだら何科目もの試験を受けられないことになります。こういう場合は

    「追試験」

を実施するのが普通ですが、教員の側も面倒であることには違いありません。全員受験してくれたらホッとすると思います。私の場合、試験はほとんどしませんので、最後から2週目の授業で、しばしば学生に「来週で最後ですね。みなさんもう単位は取れていますから大丈夫ですよ」と言ってしまいます。そうすると、おもしろいのが最終回なのです。

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粉河寺 

平成の大合併は、私の周辺ではあまり関係なかったのですが、やはり各地で町村がかなり消えて行ったようです。
広島に廿日市市(はつかいちし)という市があります。もとは佐伯郡廿日市町といったのです。広島市が周辺の町を吸収合併したとき、おとなりの五日市町は広島市に入りました。ところが廿日市町はそのまま市になったのです。人口は数万人、ほんとうに小さな市でした。ところが平成の大合併であの厳島神社のある宮島町などと一緒になって大きな廿日市市になりました。私は、そのときはもう広島にはいませんでしたので、久しぶりに行ってみたら宮島が廿日市市になっていたのでびっくりしたものでした。
近畿地方の中ではもっとも存在感の薄い県が

    和歌山県

です。「近畿のおまけ」などと揶揄されることもあり、京都、兵庫、大阪、奈良、滋賀がそれなりに目立つものを持っているのに対して「和歌山って何があるの?」と思われるくらいなのです(実際はいろいろあるのですが)。近畿地方に住んでいても、和歌山の話題などほとんど接することがありません。和歌浦には名所がござる、といっても、その存在を意識することはないといってよいくらいです。
ですから平成の大合併で

    紀の川市

ができたことなど知りませんでした。

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漢字ばかり 

小学校時代から国語という科目は好きでした。言葉の意味を知ったり、漢字を勉強したりするのは数字を学ぶよりずっと性に合ったのです。高校に入ると待ちに待った古文という科目がありました。現代文よりはるかにおもしろく、成績は伴いませんでしたが(笑)、好きという意味では誰にも負けなかったと思います。
今の高校生はそうとは限らないのでしょうが、国語は「現代文」「古文」「漢文」がすべて必修でした。その中で、得意とはいえなかったのが

    漢文

でした。周りの友だちはたいてい「虎の巻」(いわゆる「あんちょこ=安直」)というのを持っていて、これには訓読から意味まで全部載っているのです。私はそういうものを買う余裕もなかったので、授業はついて行くのに必死、テストの時は自分でメモしたノートを使って勉強するしかありませんでした。余裕もなかったのですが、そういうものを使うのが何となく

    後ろめたい

という気もしていました。ところが、先輩が卒業するとき、もういらないからといって、いろいろ本を置いて行ってくれた中に漢文の「あんちょこ」があったのです。誰もほしがらない(みんな持っているから)ので、私は後ろめたさを持ちながらそれをもらいました。そして授業はもちろん、試験の時にそれを使って訓読や意味をひたすら暗記するようにしたら(あたりまえかもしれませんが)飛躍的に点数が上がり、自分でもびっくり。それ以後は虎の巻信者になりました(笑)。それで自信もできたのか、受験勉強も順調に進み、入試で漢文の点を落としたという意識はありません。

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レポート 

学生時代、期末試験というのはあまりありませんでした。なにしろ文学部ですから、知識を問うような試験をしてもあまり意味がないのです。それより自分で調べて考えたことをレポートすることが重要なのです。
明確には覚えていないのですが、当時は後期の開始が10月1日で、2月の初め頃に試験があったように思います。試験の場合はほとんど「〜について述べよ」というもので、問題文は1行くらい。あとは白紙で、そこにひたすら

    自分の考え

を書くのです。鉛筆1本ではダメだったと思います(私は当時から今に至るまでシャープペンシルは使わないのです)。
ゼミでは課題すらなくて、この半期の間に考えたことをレポートするというのが普通でしたし、大学院の時は平常点のみだったように記憶します。
そのレポートなのですが、締切は3月だったと思います。ですから、試験のあと、1か月ほどはひたすらレポートを書くのです。ひとつの科目に原稿用紙にして10枚から数10枚。私は一番多いもので70枚ほど書いたように思います。後日先生が「また別の形でまとめるようにしなさい」とおっしゃって返してくださったことがありました。普通は成績をつけたらレポートは処分してしまうので、論文になりそうなものは返してもらえるわけです。
そうやってじっくり時間をかけて考えたり調べたりして書くことで、

    卒業論文

などにつなげる準備をしていたのです。おそらく先生たちの考えもそういうところにあったのだろうと思います。

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おこなう 

仕事というのは同じことの繰り返し、という面があります。
高校生のとき「将来高校の教師になる」と話したら、友人が「学校の先生なんか、毎年同じことばかり教えるんだからつまらない」と言っていました。たしかに、化学の教員は「すいへーりーべ」と唱え、日本史教員は「1600年に関ヶ原の合戦があって」と言い続けるのです。たまには

    「関ヶ原の合戦なんてなかった」


と言いたくならないのかな、と思います(笑)。しかしそういうことをしてはいけないのです。繰り返すことに意味があるのです。
教員だけではありません。すし職人は毎日ご飯を炊いて魚をスライスして握り続け、パイロットは定められたコースを飛び続けるのです。すし職人は新ネタを工夫することもあるでしょうが、基本的には繰り返すことで技を熟成させていきます。文楽の技芸員さんも公演期間中は概ね日々同じことをしています。だからこそ気づいたことを微妙に改めていくこともできるのでしょう。学校の教員も同じ内容を教えながら教え方や話の仕方に工夫していくのです。
もし私が文学部の教員なら『源氏物語』のような著名作品だけでなく、マイナーなものも取りあげて平安時代文学の

    全体像

がうかがえるようなないようにしたいと思います。しかし今はそうはいかないのです。私は「文学」という授業を担当していますが、担当する時の申し合わせで「教養の授業という点に鑑み、『源氏物語』などの著名作品を取りあげる」ということになり、やむを得ずしょっちゅう『源氏物語』の話をしています。

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新たな連載 

ある短歌の雑誌に「御堂関白記の風景」という連載をしてきました。日本史の恩師である山中裕先生のご紹介で書かせていただいたのでした。毎回ひとつのテーマを設定して藤原道長の日記を細かく読んでいくもので、分量は二段組み4ページ分。私はいつも最後の行まで書くことにしていました。この連載を発展させたものを論文にしたこともあって、同人の皆さんにはさほど関心はなかったかもしれませんが、私にはとても

    貴重な体験

になりました。
道長についてはこれからも勉強を続けますが、山中先生が幽界に旅立たれたこともあって、連載としては一段落ということにさせてもらいました。30回あまりの連載でしたので全てをまとめると原稿用紙にして400枚くらいになったかもしれません。自分で撮った写真を入れた上で一冊の本にしたかったのですが、とても予算がなく(笑)、断念しました。
連載は苦痛を伴いますが、そのぶん勉強をサボるわけにはいかないという

    プレッシャー

を自分にかけることができますので、その雑誌にはほんとうに感謝しています。あるときはどうしても調べたい古文書があって、東京のさる資料館まで行ったこともありました。ここちよいしんどさでした。連載を終えたらまたサボりがちになりますので、新たに何か書き続けることはできまいかと思っていました。
かつて、まったく別の短歌結社から古典文学についての話をしてほしいと言われたことがあって伊勢物語についてお話ししたことがあります。それがきっかけになって、その結社の代表の先生がずっと雑誌を贈ってくださり、また年賀状もくださっていました。

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太夫陣に光明を(2) 

聴き巧者の方々からは「お前はわかっていない」と言われると思います。確かに私は太夫さんの善し悪しを論評できるほどの経験も見識も学問もなく、挙げ句の果てには耳までダメにしてしまいました。そんな私が何を言っても「わかっていない」のは当然のことです。それでも私は黙っていたくありません。
「今の太夫はダメだ」なんて、遥か昔から言われてきた

    陳腐なことば

です。ところがその「ダメ」な太夫が年齢を重ねて技芸も成長するとまた「この人は立派だけど、今の若手は・・・」になるわけです。嶋師匠が出ない文楽は文楽じゃない、と思われるならそれでもかまいません。ファンの自由です。でも、嶋師匠が出ない文楽も文楽だというファンもたくさんいてほしいし、きっといらっしゃるだろうと思います。
「日の当たらない世代」というものがあるのかもしれません。野球で、王、野村、張本、長島などが活躍した世代のあと、とか、サッカーで釜本、杉山、横山、小城らの活躍した世代のあと、とか。
上の人と比べられて、

    まだまだ

と言われるばかりの世代。太夫でいうなら、今60代の方々。
名前ひとつをとってみても、初名のままの人がどれほど多いことか。襲名というのは功成ってするものではないと私は思っています。四世越路師匠は30歳でつばめ太夫、49歳で切語り、52歳で越路大夫。四世津大夫師匠は25歳で濱太夫、34歳で四代目を襲名されました。

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太夫陣に光明を(1) 

文楽は三位一体と言われ、太夫、三味線、人形遣いのどれが欠けても成り立たないのですが、それでも太夫がいちばん重要な立場にあると思います。野球で言えば監督とピッチャーを兼任しているようなものです。ヘッドコーチ兼キャッチャーが横にいますが、やはりボールを投げないと試合は始まらない。
我々一般人は通常人形を遣うことなどできっこありません。いきなり目の前に三味線を置かれてもどうしようもありません。ところが声を出すのは誰でもできる。カラオケで歌を唄うなんて多くの人がやっています。だから、

    欠点が見えやすい

のも長所が際立つのも太夫がいちばん、と言えるのではないでしょうか。その意味で、太夫はとても厳しい批評に晒されます。もちろんそれはファンの自由ですし、それが個々の太夫の励みになることはあり得るでしょう。しかし、ある程度発言力のある人が「あの太夫はダメだ」ということばかり言っていたのでは、太夫を育てられないことにもつながるのではないかと心配になります。

    建設的な

ものの言い方があります。ダメなものをダメというのではなくて、こうすればうまくいくという言い方です。私がもし立派な見識のある、しかも経験も知識もある批評家なら、できる限りその方向でものを言いたい。
初春公演は嶋大夫師匠の引退ということで、第一部は睦、靖、呂勢が露払いのように語り、「関取千両幟」ではゆかりのある英大夫のほか、津国、呂勢、始、睦、芳穂、靖が(ダルブキャストもありましたが)入れ替わり顔を出しました。こういう機会は若手には逃してもらいたくありません。

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女たちの『国性爺』(2) 

この芝居に出てくる主要な女性としては、和藤内母と錦祥女のほかに華清夫人、柳歌君、小睦(小むつ)、栴檀皇女などがあります。この中では柳歌君と小睦の存在が重要です。
華清夫人は今回の上演ではカットされていますが、韃靼の侵略や李蹈天の反逆に逃げ切ることができずにお腹に子を抱いたまま亡くなります。そこで呉三桂が華清夫人の腹を切って皇子を取り出し、我が子を殺して身代わりにするというなんとも

    血なまぐさい

ことをするのです。今上演されないのは、時間の関係や四段目を上演しないので皇子の話があとに続かないから、ということもあるのでしょうが、やはりこの血なまぐささもカットされた理由のひとつだったのではないでしょうか。栴檀皇女は唐土と日本を結びつける役割、和藤内を唐土に招く役割として重要ですが、そこまでだと思います。柳歌君はなかなか勇ましいのですが、今の上演ではかなりその魅力が減量されています。栴檀皇女を連れてくるところも原作では我が子を抱きながら皇女とともに出てくるのです。呉三桂から子どもを置いて皇女と逃げろと言われると、我が子を見捨てて主君第一に逃げ落ちます。

    芦辺での戦い

は、今は安大人との戦いですが、原作は安大人の家来との戦いで、もっと激しい描写になっています。ですから、段切の「乱れし髪をかきあげて、あたりを睨んで立つたりし」というあたりは今の上演で受け取られるよりはるかに凄まじい形相なのだろうと思います。

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女たちの『国性爺』(1) 

『国性爺合戦』は和藤内、呉三桂、甘輝の勇者三人が韃靼大王を追放し、李蹈天の首や腕を引っこ抜くところで終わります。
現在の上演は主に二段目から三段目なので、和藤内が出ずっぱりに近く、人形遣いさんは大変な重労働だと思います。『国性爺』の主役は? といわれるとやはり国性爺、和藤内その人と答える人が多いだろうと思います。
『義経千本桜』でも義経はしょっちゅう登場しますが、彼は主役とはいえず、各段の主人公は知盛であったり、権太であったり、狐忠信であったりします。お里や静御前も大事な存在です。
和藤内は人形が大きくて目立ちます。しかし血気盛んに過ぎて母に戒められたり、甘輝の援助を頼むのも母や錦祥女に任せるほかはなく、舞台を動かすというよりは

    動かされてこそ生きる

キャラクターだと思います。たしかに主役級ではありますが、座頭の持つ人形ではなく、中堅どころ、しかも華のある人形遣いの持ち役だと思います。先代の玉男、勘十郎時代なら文吾、玉幸、今回は玉志、幸助。十年後なら簑紫郎などがおもしろいかもしれません。
三人の男の中では圧倒的に和藤内が目立ちますが、全五段を上演することができるなら、

    呉三桂や甘輝

はもっと重要性が増すはずです。特に呉三桂は初段、四段目、五段目で活躍します。華清夫人(くわせいぶにん)の腹の中の子を取り出して我が子と入れ替えたり、その子を育てて明の初代皇帝(洪武帝)とその家臣の劉伯温の霊と出会ったりする、大切な役どころです。

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はるやすみのしゅくだい 

なさけないのですが、勉強がおろそかになりがちで、こうなると自分で自分にプレッシャーをかけないとほんとうにダメになってしまいます。
この春休みも「こういうことをするぞ!」とあえて宣言しておこうと思います。
原稿はたいしてありません。2つ書くことが決まっているだけです。しかし原稿を書くということは他人様に読んでいただく可能性があるわけですから、しっかり勉強しないと

    ばちがあたり

ます。この「ばちがあたる」というのはなかなかいい言葉です。実際に誰かから叱られるというのではなくて、なにものかわからない神仏のようなもののお仕置きを受けることになるぞ、というわけで、子供の頃はこれを言われるとなんとも怖かったのです。子供の頃というと、この「ばち」を「太鼓の撥」のことと思っていたような気がします。あの撥で太鼓のようにどんどんと叩かれるかと思うと、それもまた恐ろしいことです。
さて、「罰(ばち)」があたらないようにほかの宿題も公言しておきます。
新年度、長らく続けてきた公開講座が最後の一年になります。私がいやだからやめるわけではなく、学校の方針で、今のような形のものは終わることになったのだそうです。実は私は「『源氏物語』の講座を

    あと10年

は続けて最後まで読みましょう」と受講者の皆さんにお話ししてきたのです。それだけに、学校の方針とはいえ、中絶してしまうのは何とも残念ですし、申し訳ないかぎりです。

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マフラー 

私は買物が苦手です。もちろん、食べるものだけは買わないわけにはいかないので、スーパーなどには学生時代から今に至るまでよく行きます。電気店なども何かと必要があって行くことがあります。ところが、衣料品、装飾品などはさっぱり足が向きません。
一人暮らしのとき、着るものはどうしていたのかを思い出すと、「そういえば、安物の衣料を買ったことがあったような気がする」という程度には思い出せます。しかし、それは必要に迫られてのことで、おしゃれのために服を買うということはほぼしていないと思います。ネクタイも

    買ったことがない

のです。
必要に迫られて、というのは、着ているものが破れたというような、ほんとうに困った時だけです。最初に勤めた女子大では学生から「若いのに、あまりにもおしゃれのセンスがない」と見下げられていたのではないかと思います。
冬の必需衣料品というと、セーターやコート、そしてマフラーがあります。といいながら、私はこれまでマフラーというものをほとんど使ったことがないのです。首に巻くのが何となく面倒でわずらわしそうだから、という程度の理由なのですが。当然、マフラーを自分で買ったことはありません。
今年は暖冬で、12月から1月上旬にかけてはこのまま春になるのではないかと思ったくらい暖かい日が続きました。

    梅の花

も早いうちにつぼみが膨らんでいたくらいです。早くから暖冬の予報が出ていましたので、今年はマフラーなど不要、ということになると思っていました。

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初夢 

何だか1か月ずれた記事が続きます。昨日まで書いていた七福神はそれぞれ福徳をもたらしてくれるのだそうで、私もそのお裾分けを願ったわけではない、と言うと嘘になります。私には「福徳」などというのは似合わない気はするのですが、お裾分け程度ならいただいてもいいのではないか、そういう時にはいい初夢を見るといいかもしれません。となると、回文になっている、
  ながきよの遠の眠りのみな目覚め
      波乗り舟の音のよきかな
の歌の書かれた七福神の絵を枕の下に入れなさい、といいますね。宝船に乗って福がやってくるというのですが。へりくつをこねると、この歌は回文にはなっていません。「遠の眠り(とほのねふり)の」を引っくり返すと「のりふねの『ほと』」になり、歴史的仮名遣いとしては「音(おと)」にはなりません。しかしそんな夢のないことは言わないことにしましょう。ある学生が

  「一富士二鷹三茄子
     四扇五煙草六座頭」


を知っていました。普通は「三茄子」までだと思うのですが、どこで覚えたのか、すらすらと「六座頭」まで言ってのけました。
「富士山」「鷹」「なすび」は駿河の国の「高いもの」という説があります。富士は言うまでもありませんが、鷹は愛鷹山(あしたかやま。「高」にも通じそうです)、なすびは初物の茄子。

    駿河限定

なら私などあまり関係なさそうだなと思うのですが(笑)、語呂もいいですし、かなり有名になっていると思います。茄子はあまり好きじゃないしなあ。
ほかにも富士=「不死」「無事」、鷹=「高」、茄子=「成す」の意味だとか、その他あれこれ言われているようです。

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七福神(4) 毘沙門天、弁財天 

正月に廻ってきた七福神ですが、初詣をした大瀧神社という神社の参道の入口に「毘沙門天」、神社の境内に「弁財天」があります。
いかつい毘沙門天と優美な弁財天は好一対にも見えます。
毘沙門天は私が一年間公開講座で読んできた「信貴山縁起絵巻」とも関わりがあります。以前書いたことがありますが、信貴山は物部と蘇我の争い(6世紀)の時に、蘇我氏に与した聖徳太子がこの山で必勝を祈願したところ、寅の年、寅の日、寅の刻(ってどこかで聞いたような話ですが)に毘沙門天が出現して、その加護によって聖徳太子は勝利したのだそうです。
信貴山縁起絵巻に登場する

    命蓮(9〜10世紀)

という僧がこの山に登った時には、毘沙門天を安置した堂ひとつしかなかったそうで、その後整備されて行ったということです。
この絵巻物の最後には、命蓮が鉢を飛ばして得た倉の木の端で造った毘沙門天を持仏(身近に置いて日常的に信仰する仏)とすると裕福にならない者はなかったと書かれています。
毘沙門天は須弥山の北方を守護し、帝釈天、羅刹天、水天などとともに十二天の一です。また持国天、増長天、広目天とともに四天王とされる

    多聞天

が毘沙門天と同じとされます。
甲冑に身を固め、鉾を持ち、忿怒の相をしていますのでかなりこわいのですが、福徳を与えるという面もあって、それで七福神のひとつになっているようです。先に書いた、倉の木の端で造られた毘沙門天を持仏とすると裕福になるというのはこういうところと関わりがあるのか、無縁なのか、もう少し考えてみたいと思っています。

大竹市 毘沙門天2
↑毘沙門天

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七福神(3) 恵比寿、大黒天 

恵比寿はしばしば平かなで「ゑびす」と書かれますが、もともとは漢字なら「夷」「戎」、仮名で表記するなら「えびす」なのです。しかし漢字を「恵比寿」と当てると「恵」は「ゑ」ですから「ゑびす」と読めます。「ゑひ」は「酔ひ」「ゑみ(笑み)」にも通じそうで何だか楽しそうにも見えます。「えびす顔」といえばにこにこと嬉しそうな笑顔です。
アイヌの男性たちが自称する時に用いた言葉を

    「えみし」

と聞き做したことから変化したのが「えびす」「えぞ」だと考えられ、「えみし」も「えびす」も「えぞ」も東国の人や土地を蔑視的に表現した語でした。平安時代にも、風流を解さない者として「えびす(東国人)」がその代表のように言われました。
ところが、そういう差別的な語がおめでたい福神となったのです。摂津国西宮神社(兵庫県西宮市)の蛭子命(ひるこのみこと)を「えびす神」として崇めるようになりました。蛭子はイザナギ、イザナミの最初の子でしたが、不具で捨てられてしまいました。その後西宮に流れ着いて海を司ったと言われています。この蛭子(ひるこ)を蝦子(えびす)とみなしたのでしょうか。
えびす神は庶民、特に商売人から大黒天と並ぶ福徳の神ということで厚い信仰を得ました。十月二十日にはえびす神を祀って「夷講」という催しもおこなわれましたし、えびす神の姿を描いたものを配布しながら人形を舞わせて門付したのが

    えびすまわし(えびすかき)

でした。今では西宮を総本社として全国に3500ものえびす神社があるそうです。大阪は商売が盛んでしたから、今宮戎や堀川戎など今も賑やかで、文楽劇場にも十日戎には今宮戎から巫女さんがおいでになります。
えびすのアトリビュート(っていうのかな?)は釣り竿と鯛。これがあればもう間違えようがありません。

大竹市 戎
↑恵比寿(大竹胡子神社)

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七福神(2) 寿老人、福禄寿 

七福神のうち、寿老人と福禄寿は時として同一視されることがあり、そのために寿老人が七福神から外される考えもあります。その場合はピンチヒッターとして

    猩々

が打席に入ります。
しかしここでは一般的な見方に従ってやはり寿老人を入れておきます。
寿老人は11世紀頃に中国にいたと言われる道教の神で、うちわ、巻物を結びつけた杖を持った白髪の老人です。頭が長く描かれることもありますが、どちらかというとそれは後述の福禄寿の特徴として知られます。

    カノープス

という明るい星があります。竜骨座の一等星で、地球から見た場合、その明るさはシリウスに次ぐものです。ただし、あいにく南にあるため、日本からはあまり見えません。この星は南極老人星ともいわれるのですが、寿老人や福禄寿はこの星の化身ということになっています。
寿老人は牡鹿がつきものです。長寿のシンボルでもあるそうです。桃やひょうたんを持っていることも多いのです。
私の見に行ったものは団扇と巻物を持って、杖を体に預けて座っているものでした。

大竹市 寿老人
↑寿老人(金毘羅・住吉神社)

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七福神(1) おたふくと布袋 

文楽の演目に『七福神宝入舩』があります。お正月の演し物といってよいのですが、宝船に乗った七福神がそれぞれ技芸を披露するものです。
おもしろいと思われるかどうかは人さまざまですが、罪のない

    ご祝儀曲

として時には上演されてもよいのではないかと思います。
この初春公演ではこの『七福神宝入舩』のみならず、定番の『寿式三番叟』『花競四季寿』などの上演がありませんでした。これもまたよいかもしれません。何も無理に毎年上演することはないので、時々見せていただければけっこうかと思います。
ところで、私はすでに書きましたように、正月は家を離れておりました。私が滞在した広島県大竹市では、石に絵を描いたもので町を飾ろう、とでもいうのか、

    「ストーンアート」

なるものが道々に置かれています。特に学校のあたりなど、子どもたちが描いたものがありました。
そして「七福神」を岩に描いたものも神社などに散在しており、ひとつこの正月はそれらを全て廻ってみようかなと思ったのでした。
ただ、私が見た限り、市民の方々はほとんど相手にしていない感じがしたのです。企画倒れだったのかもしれません(笑)。せめてよそ者の私だけでも、興味を持ってあげないと気の毒ですらあり、神様に同情するのもいかがなものかと思いますが、二日かけて廻ったのでした。
以下、一か月遅れの正月レポートです。

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