京都御苑の北側(2) 

さらに東に行くと中山邸跡。近衛とか一条とか姉小路などというといかにもお公家さんという感じがしますが、中山さん、って、ご近所にありそうなお名前です。ここの中山さんは藤原北家の流れを汲む家柄で12世紀から始まる「羽林家」(摂家、清華家、大臣家につぐ家格。摂関や大臣にはなれない)です。幕末の当主は中山忠能。この人の娘の慶子が明治天皇のお母さんです。そして明治天皇はここで生まれたのです。中には入れませんが、柵越しに覗くことができます。祐の井(さちのい)は明治天皇の「祐宮(さちのみや)」の名にちなんだ井戸だそうです。

京都御苑中山家跡201637
↑中山邸跡

京都御苑中山家跡明治天皇生誕の地碑201637
↑明治天皇生誕の地碑

京都御苑中山家跡祐の井201637
↑祐の井

さらに東に行くと石薬師御門に出ますが、このあたりは鳥が多いそうで、バードウオッチングのお好きな方は楽しいでしょうね。ヤマガラ、ジョウビタキ、メジロ、シメ、シジュウカラなどがいるようです。
少し西に戻って現在の猿が辻から南へ行きます。この東側は、今は何もありませんが、江戸時代末期までは貴族の邸が姉小路、持明院、日野西、橋本、七条と並んでいました。橋本家跡のみ高札が立っています。というのも、ここで「皇女和宮」が生まれたからです。

京都御苑橋本家(皇女和宮生誕の地)説明板201637
↑皇女和宮生誕の地

もう少し東に入ると迎賓館が木々の間に隠れるように建っていますが、このあたりも昔は富小路、園、柳原などの貴族の邸宅のあったところです。

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京都御苑の北側(1) 

京都御苑の南側のことを書きながら、北側のことを放っておいたのがなんとなく気になっていました。
なんだか京都の観光課かなにかの回し者のようになってきましたが、ものはついでなので書いておきます。
京都御苑の北側はなんといっても京都御所が中心です。江戸時代末期まで実際に天皇が住んでいたのです。紫宸殿、清涼殿、御常御殿、小御所などの建物があり、平安時代の内裏とはかなり違いますが、やはり私のように古典文学を専攻するものにとってはなつかしい場所です。
先日のニュースでは今後は一年中一般公開されるようですが、現在のところ、見学するためには許可が必要です(春と秋の公開時期をのぞく)。

    「宮内庁の許可を得る」

などというとなんとなく面倒に思ってしまいかねませんが、実際は難しい条件はなく、気軽に見学できるのです。私は学生を20人ばかり連れて行ったこともありますが、そのときは案内してくれた若い職員さんも嬉しそうで、学生と楽しそうに話していました。
今の御所は14世紀以来の場所ですが、だからといって同じ形を保ってきたのではありません。そもそもは

    「土御門東洞院殿」

といって、土御門大路の北、東洞院の東、高倉小路の西、正親町小路の南の一町四方の邸宅でした。大雑把に申しますと110m四方の敷地です。それが、後に北へ東へと拡張されて本格的な御所の体裁を持つようになっていきました。そして江戸時代の宝永年間に火災があったあと、北側がさらに拡張されて今の御所の8割ほどができました。それでも東北が欠けたようになっていて、その「欠けた部分」はもともと有栖川宮家でその後も幕末まで「欠けたまま」の形だったのです。

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注意書き 



電車と徒歩で仕事場に行く場合、駅を降りてから住宅街を通ります。高級なお住まいが多く、お出かけになるのも車が多いのか、あまり住民の姿を見ません。家の前でお隣の人と立ち話をしている、などというのはこういう街では習慣としてあまりないのでしょうか。庭があって、母屋は少し奥まっていたりしますので灯りが漏れてこず、街灯だけの夜の道などはいささか怖いくらいです。
そういう場合、私は学生の姿を見かけるとできるだけ彼女たちより少し前を歩くようにしています。路上に

    停車している車

があると、人が乗っているかどうかをちらっと覗くようにしています。もし若い男性が乗っていたら、申し訳ないのですが、一応怪しいと判断して、前後を歩く学生になにかちょっかいを出さないか、様子をうかがうこともあります。立ち止まって鞄の中を探るようなふりをしたり(笑)、靴の紐がほどけたようなふりをしたりして。怪しげな連中なら、後ろめたいですから、「チェックしてるよ」という合図を送ればそれで引き揚げるかもしれませんので、まったく意味がないとも思っていません。職務質問の権利があれば必ずするのですが。
というのも、ここで以前怪しげな男(私ではありません)が出没することがあったからです。
逆に、学生が地元の住民に迷惑をかけることもあります。びっくりするのが

    煙草のポイ捨て

です。最近は看護学科の学生が多くいますので減ってきているだろうと思うのですが、以前はしょっちゅう苦情電話がかかってきたようです。学内は禁煙ですから、門を出るとすぐに吸い出す学生がいたらしく、ちょうど住宅街のあたりで一本目の煙草が終わりになる(?)ようです。

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オススメ 

この間、病院で長い時間待たされて、しかも本を持っていなかったので、普段ならまず観ることのない時間帯のテレビを眺めていました。
昼下がりでしたので、ワイドショーかなにかを放映しているのかなと思っていたのですが、この時は、素人っぽい主婦のグループのような人たち(実際は素人ではなさそうに見えたのですが)が出てきて、その人たちの体験談などで構成された「私はこうして

    幸せになった」

という感じのミニ・ドキュメンタリー(?)でした。そして、その「こうして」の部分を最初は何となく見せていたのに、次第に大げさに扱うようになって、そこに取りあげられた品物がやがて商品として紹介されるようになるのです。いつしか「今ならお得」「あなたもいかがですか」「早い者勝ちです」「今から先着○○名様のみ受け付けます」などと展開してきました。
最初からスタジオに商品を置いて、その特徴を説明し、時には実演し、大幅に割引し、さらにはおまけなどをつけていき、その都度スタジオに見学に来た(らしい)人たちの「わ〜っ」という歓声が挙がる形のものが定番かもしれませんが、それとはちょっと違った

    テレビショッピング

といえばいいのでしょうか。
そのときの商品は女性向けで(時間帯から言って、そうなるのでしょうね)、高級品だからというのでかなり値の張るものでした。それを割引して販売するということになっていて、結局私には高いのか安いのかはわからないものでした。もっとも、今の私にはとても買える値段ではありませんでしたが(笑)。

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予習復習 

自己点検という名のもとに、学生がその授業をどのように見ているかについてのアンケートに答えてくれることになっています。
そのアンケート結果が3月の初めに教員に届きます。そして今度はそれを見て教員が

    反省文(笑)

のようなものを書き、それで一件落着にするのです。それで気が済むなら付き合います、という気持ちで私も書いていますが、これで自己点検をしたことにするというのがなんとも役所的で・・・。
反省文といいましたが、具体的に申しますと「シラバスに書いた内容を達成できたか」「アンケート結果をどう思うか」「授業でどんな工夫をしたのか」「今後どうするつもりか」ということをそれぞれ200字程度で書けというのです。
全部の授業について書くので、200字×4問×6つの授業=4800字。実際は4000字くらいでしょうか。学生への返事ではありませんので、適当に、とはいいませんが、あっというまに書いて、すぐに送っておきました。
学生は

    5点満点

で授業にどう関わったかについての設問に答え、さらに自由にコメントを書くこともできます。その5段階評価の中に「この授業1回あたりにどれくらい予習復習をしたか」という項目があります。「5」は「3時間以上」なのです。でも考えてみてください。たとえば「文学」という授業のために看護学科や食物栄養学科の学生が毎週3時間も予習復習するなどということがありうるでしょうか? いや、専門科目だってそこまですることは少ないでしょう。

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シラバス、知らない 

大学の授業がどんどん窮屈になります。いわく自己点検、いわくシラバス、いわく15回の授業。
文部科学省の事実上の命令です。「文部科学省さまさま」の発想の人たちは教員にも何が何でも言うことを聞かせようとします。「そうしないと補助金が」という事なのかもしれません。私のような昔ながらの考えの無精者には首を傾げることが多いのです。自己点検というのはもう30年くらい前にさかんに言われ出しましたが、実際なんの実効があるのか私には不明です。いつも自分のしている仕事を点検しながら前に進むなんて、そんなこと

    あたりまえ

じゃないかと思うからです。授業アンケートなどというのがありますが、こんなの、私には役に立ったことがありません。私は普段から学生と綿密なコミュニケーションを取っていますので、いちいちおざなりのアンケートなんて書いてもらうことはありません。ただ、それをしないと文部科学省向けに顔が立たないのでしょうか、だらだらと続いています。
このアンケート結果に対して、教員はどう思うかを報告する義務があります。私は時間の無駄だと思いながらしかたなく答えていますが、実際は何もメリットを感じていないのです。もちろん有意義だと感じる教員もあるのでしょうから、その人にはとてもいいことなのだろうなとは思っていますけれども。
半期に15回の授業の

    義務

なんてほんとうにばかばかしい。その必要があるならそうすればいいし、そうでもなければそうしなくてもいい。それを一律に考えることに何の意味があるのか、「昔ながら」の「無精者」には「役所の発想」にしか見えません。

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ひさびさの確定申告 

去年は数年ぶりに所得税を払いました。扶養家族が減った事が大きかったのだろうと思います。
関係ありませんが、子供のころ、何かの話のついでに「お前は『ふようかぞく』だ」と言われて「不要家族」という漢字を連想し、悲しくなった事を思い出します(笑)。私には兄と妹がいますので、たしかに一番不要なのは次男坊の私だろうなと思わないわけにはいかなかったのです。

    「冷や飯食い」

という言葉も幼いうちに覚えていて、「江戸時代の武士の次男なんて養子にでも行かないとどうしようもなかったんだぞ」と脅かされ(笑)もしました。実際に子供がいない親戚が私を養子にほしがっているという話まであったらしく、ほんとうに追い出される(!)ところだったのです。ただし、その親戚は家も田畑も山も持っているらしく、それなら養子になっておいた方がよかった、と後悔しています(笑)。もしそうしていたら、今ごろ左うちわで野菜作りに精を出していたかもしれません。
それはともかく、所得税なんて立派なものを払う身分に戻ったからには

    医療費の控除

を申告して少しでも返してもらわねばなりません(そういう態度は必ずしも立派じゃない?)。もちろん、還ってくるといっても「何万円も」というわけにはいかないのですが、それでも医療費の請求書をめいっぱいかき集めることにしました。出てくる、出てくる。よくもこれだけ医者(薬局)をもうけさせたものだと思います。

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楽屋の文雀師 

少し前の文楽劇場の楽屋は楽屋口の一番手前に先代玉男師匠、その隣が簑助師匠、廊下を右に折れて人形置き場の近くが文雀師匠でした。今も玉男部屋が二代目に引き継がれただけで、簑助、文雀師のお部屋は変わりませんが、その間のいくつかのお部屋はずいぶん出入りがありました。つまりこのお三方は動くことなく、周りだけが動いていったという感じでしょうか。
部屋の構造(収容人数など)もあるのでしょうが、文雀師だけが少し離れて、しかし確たる地位を感じさせる趣がありました。そんなお気持ではなかったのでしょうけれども、なんとなく

    孤高

を保っていらっしゃるような雰囲気も感じていました。
技芸だけでなく、博識で、特に首については何でもご存じというかたですが、楽屋ではあまり目立たないようにお見受けしておりました。あくまで私の印象ですのでいいかげんなものですが。
玉男、簑助両師はお弟子さんがとても多かったのに対して、文雀師匠は少なめで、直接のお弟子さんは長らく和生、和右のおふたりだけでした。
またお弟子さんのお名前も「文」でも「雀」でもなく、師匠のご本名由来の

    「和」

の字がつきますので玉男、簑助門下のように一見してお弟子さんとわかるわけではありませんでした。目立つ、目立たない、という意味では「玉」や「簑」のお名前が多いのに比べてやはり地味な感じがしました。

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玉男、勘十郎、清十郎、簑助そして文雀 

私が文楽を観始めた頃、人形遣いの最高齢は桐竹亀松師だったと思います。なにしろ見始めの頃は誰が誰だか分からず、おじいさん、おじさん、おにいさん、にいちゃんくらいの区別しかなかったかもしれません。特に人形遣いさんは今より黒衣に隠れていましたから、プログラムで確認しない限りわかりません(床は口上がありますから、多少違います)。

    文楽そのもの

がおもしろいのであって、芸人さん(「技芸員さん」なんていう言葉も知りませんでした)には興味はなく、お名前を覚えようという気持ちすら少なかったと思います。
まだ朝日座の時代でした。
亀松師の下に吉田玉五郎師がいらっしゃいました。
このお二人は60代の終わりから70代でいらっしゃったのだろうとおもいますので、学生の私から見たらはるか彼方の世代のおじいさんだったはずです。今の玉也さんあたりのお年でしょうから、ちっともおじいさんじゃないような気もするのですが、それは

    私自身が歳をとった

からに他ならないのです。
ただ、申し訳ないのですが、両師ともその技芸についてはあまり覚えていないのです。失礼な言い方になるかもしれませんが、亀松師を認識し始めた頃は古怪な遣い方をする人だな、玉五郎師についてはおばあさんのよく映る小手の利いた(こんな言葉は知りませんでしたが)人だなという程度に感じていました。

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文雀師の引退 

文楽人形遣いの吉田文雀師匠が引退されるというニュースがありました。覚悟していましたが、やはり残念です。
文雀師というと、『義経千本桜』の典侍局、静御前、狐忠信、『菅原伝授手習鑑』の覚寿、『仮名手本忠臣蔵』の戸無瀬、判官、『妹背山婦女庭訓』の定高、『摂州合邦辻』の玉手御前、『艶姿女舞衣』のお園、『良弁杉由来』の渚の方、『卅三間堂棟由来』のお柳、『生写朝顔話』の乳母浅香、『双蝶々曲輪日記』の長五郎母、『芦屋道満大内鑑』の狐葛の葉、『心中天網島』の孫右衛門などいくらでも思い出す役があります。首でいうと、

    老女形、婆、検非違使

がおもに印象に残っていることになります。
忘れていました。私は『花競四季寿 関寺小町』の小野小町で胸がいっぱいになったことがありました。
簑助師という華のある方がいらっしゃいますので地味に見えましたが、温かい母の情愛や宮廷婦人の

    気品

などを醸し出す力はたいしたものだったと思います。今の天皇は大阪の国立文楽劇場で嶋大夫、英大夫らの「葛の葉子別れ」を御覧になりましたが葛の葉を遣われたのは文雀師。子を思いやってごく自然にあらわれるささやかな動きにも母性の温かみを感じさせるのが文雀師の至芸でした。
簑助師との関係で言うと、簑助の朝顔、文雀の浅香で観た『朝顔話』「浜松小屋」は今も脳裏にあります。普段はあまり行動をともにされないお二人かもしれませんが、そういうこととは関係なく、朝顔と浅香の関係が生き生きと描かれていました。

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息子の喧嘩沙汰 

文化審議会が、神戸市の香雪美術館所蔵の藤原俊成自筆書状を重要文化財に指定するように答申しました。
香雪美術館は阪急電鉄御影駅の近くにあって、震災で随分周囲の様子は変わりましたが、美術館自体は今も穏やかなたたずまいをみせています。御影駅から美術館へ行く道がすでに芸術のような、とてもいいところです。そんないいところにある藤原俊成の書状、というと、和歌についてのやりとりだろう、と勝手に想像してしまうのですが、実際はまるで違います。
平安末期から鎌倉時代の貴族、九条兼実の日記『玉葉』文治元年(1185)十一月二十五日条が二日前の二十三日のできごとを書き留めています。おおむねこんなことです。

十一月二十三日の寅の日。五節の舞の御前試みという儀式が行われます。五節舞姫が内裏清涼殿に参って舞うものです。この日の夜には殿上の淵酔(ゑんずい)という無礼講の宴会があります。そこで少将源雅行と侍従

    藤原定家

の間で「闘諍」がありました。雅行が定家を嘲弄し、定家は怒りを抑えきれず脂燭で雅行を殴ったのです。「顔を殴ったともいわれる」と『玉葉』は注記しています。このことで、定家は除籍になったのです。

定家というと『新古今和歌集』『百人一首』などを作り、「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に」などという歌を詠む人ですから、おっとりした風流人だったのかなと思うと、意外に頑固で意地っ張り。かなり激情家だったようです。文学に傾倒する人間には実はこういう人は多いのです。無礼講の宴会ですからこういうことになったのかもしれません。
定家の父の俊成は早速47人を集めて仇討を、というわけではなく、なんとか息子を助けようと、隠然と権力を持っていた後白河法皇に、和歌とともに

    「若気の至り

ですので復帰できるようにお口添えを」と、とりなしを願う手紙を出しました。その手紙の控えに当たるのがこの「書状」だそうです。やはり親というのはいつの時代も息子が不祥事を起こしたら何とかしてやろうと思うものなのですね。定家もお父さんに頭が上がらなかったかもしれません。
この話は俊成自身が撰者となった『千載和歌集』にも伝えられていて、俊成が「あしたづの雲路まよひし年暮れて霞をさへや隔てはつべき」(鶴が雲路に迷ったように息子もお許しが出ずにうらぶれて年が暮れました。霞が隔てるように春になってもお許しが出ないまま終わるのでしょうか)と詠んで許されたというのです。

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駆け上がる 

ものごとには「勢い」というものがあり、うまく上昇気流をとらえてそれに乗ることが重要なのでしょう。それを逃すと墜落してしまいかねません。私は残念ながらそういう器用なことができないので、わけもわからないままに容赦なく突き落とされて下降気流(笑)に乗ってしまいました。「才覚」というのか、

    生きる才能

のようなものに欠けるのだろうと思います。自分ひとりならまだかまわないのですが、家族に迷惑をかけていることだけは悔しく、申し訳ないことだと思っています。
だからといって、喧嘩をしてでも、他人を蹴落としてでも、という発想と気力に乏しいのがなさけないのです。
そんな人間が下手に喧嘩をすると、かえって大きなダメージを受けるかもしれません。にもかかわらず、私は最近ちょっとした

    喧嘩をふっかけ

ました。
蟷螂の斧ではありますが、振りかざさないわけにはいかなくなってきました。上野戦争の彰義隊のようなものかもしれません。孤軍奮闘と言いますが、ほんとうに孤軍。誰も味方はいません。負け戦をするのはばかだと思いますが、五分の魂を捨てきれません。
一戦交えて、返り討ちにあっても、二の矢、三の矢を準備しています。といっても、三本の矢ではあっけなく落城でしょう。毛利の三矢にあやかって、仲間をつくればいいのでしょうが。

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春の庭 

この時期、日付が分からなくて、今年はお水取りがあったことを知りませんでした。新聞にはきっと出ていたのでしょうが、なぜか見落としています。
ということはもうすぐ大相撲の春場所だな、と思っていたらもう始まっていました。昔、文楽が3月に公演していたときは、この時期にミナミにしょっちゅう行っていましたので、力士の皆さんと地下鉄などに乗り合わせることもしばしばありました。
ということはもうすぐ高校野球でしょうか。これはまだですよね。
関西では奈良東大寺修二会、春場所、甲子園などで

    春の兆し

を感じ、やがて本番になって行きます。ひな祭りは本来は春もたけなわのころの行事ですが、今は太陽暦ですのでまだ寒い時期の催しになってしまいました。
私は以前なら卒業式に出ていましたので気分も高まったのですが、今はそれもなく、今年は廊下でスーツや式服を来ている同僚の姿を見て「あ、今日なのか」と思ったくらいです。私はいつものようにだらしない格好をしていましたのでできるだけ目立たないように部屋にこもっていましたが。
兵庫、大阪、奈良のことを書きましたが、京都でももちろん春を告げる行事がいろいろあるはずです。ありすぎてわからないくらいです(笑)。
花で春を感じるとしたら何でしょうか。やはり梅は

    「花の兄」

というくらいですから春の花の長男のような存在感があります。私は花に疎いのですが、最近いくらか興味を持つようになりました。近くの家には寒桜があって、これもきれいでした。

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京都御苑の南側(2) 

梅林の北は桃林になっていて、この近くの門が

    蛤御門

です。本来は新在家御門と言いましたが、天明の京都の大火の時以来開かれるようになったので、焼けて口を開くというので蛤御門というようになったとか。

蛤御門201637
↑蛤御門(新在家御門)

私が京都御苑に行く場合、堺町御門、下立売御門、蛤御門、中立売御門、今出川御門、清和院御門はとてもよく使います。一方、めったに行かないのが乾御門(北西部)、石薬師御門(北東部)、寺町御門(南東部)です。

    寺町御門

を通らないわけは、この近くには運動場(テニス、ゲートボールなどができる)や広場(富小路広場)などがある程度で、あまり私の関心をそそるものがないからだと思います。

お屋敷の跡を訪ねてみます。南西部にある賀陽宮跡は朝彦親王(中川宮)の邸でした。伏見宮の王子であった親王は出家していましたが、還俗して中川宮、さらにはカヤの木があったので「かやのみや」とも称したそうです。このかたは呼び名がいろいろあってとてもわかりにくいのです。幕末に公武合体を唱えた人です。

京都御苑賀陽宮跡201637
↑賀陽宮跡

堺町御門を入った突き当たりにあったのが鷹司家。五摂家のひとつで、格式の高い家でした。
鷹司家の西には黒木の梅があります。私が行った日はとてもきれいに咲いていて、この春観た梅の中ではもっとも美しいものだったと思います。

京都御苑鷹司邸跡201637
↑鷹司家跡

京都御苑黒木の梅201637
↑黒木の梅

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京都御苑の南側(1) 

閑院宮邸跡について書きましたが、京都御苑の南半分についてもう少し書き留めておきます。
実はこのあたり、古くは町家が軒を並べていたのです。やがて公家たちが屋敷を構えてひしめくように立ち並ぶことになりました。いわゆる「五摂家」でいうなら、一条、近衛は今出川通側でしたが、鷹司、九条の屋敷は南側にありました(もうひとつの二条家はもともと二条にありましたが、江戸時代に今の同志社女子大学構内に移りました)。有栖川宮はもともと御所の北東側にあったのですが、幕末に御所の南に移りました。
ついでに申しますが、御所の東北側はいわゆる

    鬼門

で、今も築地塀がへこんだような形になっています。しかし現在の形は幕末(慶応年間)以降のもので、それ以前は御所の東北側はもっと大きく欠けたようになっていて、今の猿が辻あたりは有栖川宮邸の中でした。

江戸時代の内裏
↑江戸時代の内裏のイメージ

上の図の右上(東北)側が今と違っています。さらに古くは欠けて見える部分の左側(白いところ)も内裏ではなく、18世紀の初めまでは図の斜線部分のみでした。
幕末に姉小路公知が殺されたのは文久年間でしたから、まだもとの猿が辻ということになります。公知は宜秋門(御所の南西門。公家門。公家はこの門を出入りします)を出て北回りに自宅に帰ろうとして、

    朔平門(御所の北門)

を過ぎたあたり、つまり旧有栖川宮邸の近くで暗殺されました。姉小路屋敷は御所の東北部にありましたので、もう少しで家に着くところでした。
有栖川宮はその後、建礼門(御所の南門)のすぐ南東側に移ったのです。京都御苑を南北で半分に分けると、この新しい有栖川宮邸跡が南半分の北端ということになります。

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閑院宮 

「かんいんのみや」を変換したら「姦淫飲み屋」と出てきました。びっくりします。どんなパソコンやねん、とつっこみたくなりました。
伏見宮、桂宮、有栖川宮とともに江戸時代の「四親王家(世襲親王家)」とされたのが

    閑院宮

です。直仁親王(東山天皇皇子)に始まり、大阪で竹本義太夫や近松門左衛門がまだ活躍していた宝永七年(1710)に立てられた宮家です。
天皇家というのは子どもが多すぎると困り、少なすぎても困ります。後継者の問題が重要だからです。後継者にゆとりがあれば生まれてきた子は(言葉が悪いですが)あまり存在意義がなくて、出家させられるのが常。しかし子どもが少ないと、後継予定者が若死にした場合など慌てることになります。実際、江戸時代にもそういう問題が起こったことがありました。出家した人が還俗して天皇になるのは基本的にダメなので、ちょっとした騒動になります。そこで天皇家でも、常に

    後継資格保持者

を確保しておきたい、という思いがあったのです。その方便として世襲親王家が置かれ、そのひとつが閑院宮というわけです。「親王」というのは「天皇に近い(親しい)王」で、今の皇室典範で言うなら天皇の孫までが親王(内親王)、それ以上血が薄くなると「王(女王)」になります。ところが、そのときの天皇と血が濃いかどうかに関わらず、この「世襲親王家」の男子は代々親王になることができました。
ただ、年月が経つにつれて皇族との縁は薄まりますから、明治になって世襲親王家の制度は廃されました。

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クロード・モネ 

細川家の「永青文庫」で開催された「春画展」が大変な人気を博しました。それが京都の細見美術館に廻ってきましたが、こちらでも好評のようです。
京都に近い所に住んでいますのでこういう物に触れる機会は多い方です。しかしたとえば四国や日本海側にお住まいの方だとわざわざ遠出しないことにはこういう展覧会は観られないわけで、いささか

    理不尽

に思わないでもないのです。
東京、京都、そのほかは福岡、名古屋くらいでしょうか、こういうことで比較的恵まれているのは。結局「都会」でなければどうにもならないのですね。
京都は国立博物館、国立近代美術館、京都市美術館があり、たいてい何か大きな展覧会があります。しかし「春画展」は、国立は二の足を踏んだのでしょうか、あるいは遠慮したのでしょうか、なかなか会場がなかったようです。それでも細見できちんと開催できるだけにたいしたものです。
今、京都市美術館では、やはり東京、福岡からの巡回ですが、

    モネ展

が開催されています。このあと新潟に行く予定もあるそうで、もしそうなるのであれば何だか嬉しいです。新潟とか富山とか新幹線を敷くだけではなく、文化のコンテンツが日本海側にももっとめぐりますように。

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遠足の帰り道 

うれしそうに長々と書いてしまいました。実際、こういう「団体行動」をする機会は今の私にはめったにないことなので、どうすればよいのか分からないのと同時にわくわくもするのです。
このあと私は京都御苑をぐるっとまわり、さらに四条河原町まで歩いて帰りました。
御苑内のことは別に書くとして、御苑を出た所からのことをメモしておきます。
この日は間ノ町口(閑院宮跡と九条家跡の間の切り通し)から丸太町通に出ました。しばらくは東洞院通を南へ歩きます。例によって、

    ♪丸竹夷二押御池
        姉三六角蛸錦


と口ずさみながらですので(笑)次はなんという通りかがすぐにわかります。丸太町、竹屋町、夷川、二条、御池・・。そうそう、この道を御池通まで来たのだから、通りの南にある吉忠ビル北西脇に建てられている

    在原業平邸跡

の碑にも挨拶くらいしておこう、と思いつきました。別に何でもない碑なのですが、業平の名前が書いてあるとやはり放っておけません。

在原業平邸跡(吉忠ビル)201637
↑在原業平邸跡の碑(奥が御池通です)

そして姉小路通まで来ると、もう足が勝手に東に向いて曲がってしまいます。ひとつ東は高倉通。姉小路高倉の南西側は京都府文化博物館です。といってもこの日は月曜日でしたので休館日。最初から中に入るつもりはありませんでした。ではなぜわざわざ高倉に出たのかというと、三条高倉の交差点から博物館の別館を眺めたかったからです。

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おとなたちの遠足(6) 

実はもっと長い時間をかけて清涼殿を観たかったのです。しかしそれは私のわがままですからやむをえずその場を去りました。
誰だ、後ろ髪を引っ張るのは!!
次は小御所です。この北側には「蹴鞠の庭」が設けられていて、源氏物語の六条院の蹴鞠の場面をいくらか思い出させてくれます。ただし、向きは東向きです(源氏物語は寝殿なので南向き)。ここは幕末に小御所会議が開かれたことでも知られます。ただし、この建物は昭和29年に火災があって現在のものは4年後に再建されたものです。

小御所201637
↑小御所。右手前が蹴鞠の庭(おまわりさん、邪魔)

小御所の蔀戸201637
↑小御所の蔀戸(しとみど)。二枚になっていて、上は外側に上げ、下ははずしたりはめ込んだりします

御学問所。学問をする場所とかぎったわけではありません。建物の周囲は「まいら戸」になっています。「格子戸(蔀)」は外側または内側に上げて金具で吊ります(二枚格子の場合、下半分ははめ込み)が、「まいら戸」は横に引く戸です。

御学問所201637
↑御学問所

小御所と御学問所の東側は御池庭(おいけにわ)です。一方から眺める庭ではなく、回遊式になっていて、本来は欅橋で中島に渡れます(見学者は通行できません)。私も一度回遊してみたいです。わずかに御池庭の北側から小御所を眺めるアングルが得られますが、やはり歩いて多角的に見る事でよさが感じられる庭だと思います。

御池庭201637
↑御池庭

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おとなたちの遠足(5) 

次は参内者の控え室にあたる三つの部屋。「虎の間(公卿の間)」「鶴の間(殿上人の間)」「桜の間(諸大夫の間)」です。総称としては「諸大夫の間」です。

諸大夫の間201637
↑諸大夫の間(手前=東側から虎、鶴、桜の間)

奥にわずかに写っている人は参内者ではなく警官です。この警官が我々の後からずっとついてくるのです。申し訳ないですが、うっとうしいです(笑)。
この東端に行きますと殿上の間(てんじょうのま)があって、さらにその奥に清涼殿の屋根が見えます。

諸大夫の間の奥から清涼殿を201637
↑諸大夫の間の東端から清涼殿の屋根を望む

そして新御車寄。大正天皇即位の時に作られたものだそうで、今、天応が京都御所に入る場合、この新御車寄から入ります。これもずいぶん立派なものです。

新御車寄201637
↑新御車寄

そして内裏の正門である建礼門。この門から手前が内裏になります。今、天皇はこの門から入ります。

建礼門201637
↑建礼門

建礼門の北側、つまり内裏の内側にあるのが承明門。この門を入ると紫宸殿の南庭(だんてい)です。

承明門201637
↑承明門。奥に見えるのは紫宸殿

その紫宸殿は、即位の礼のような重要な儀式が行なわれる内裏の正殿です。ただし、今の天皇はここでは即位しませんでした。
間口37mという壮麗な建物です。南庭に向かって18段の階(きざはし)があります。

紫宸殿201637
↑紫宸殿。ほとんど見えませんが、岡本保考(1749-1817)筆の扁額が掛けられています。

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おとなたちの遠足(4) 

というわけで、この遠足で単独でまたは皆さんと一緒に行ったところを写真とともにもう一度振り返っておきます。
私はまずひとりで本願寺(西本願寺)に行きました。いつ見ても壮麗な寺院です。派手な(笑)唐門も健在。朝早かったのであまり人はいませんでした。
本堂(阿弥陀堂)や御影堂に入って、思うところがあったので、いくらか瞑想。さすがにそういう気分にさせられる場所です。あの暗さがなんともいえません。もう少し暗くてもいいくらいです。
ここの床板の埋め木はユニークなことで知られています。

西本願寺阿弥陀堂床板埋め木1

西本願寺阿弥陀堂床板埋め木2

西本願寺阿弥陀堂床板埋め木3
↑本願寺の床板の埋め木

国宝の唐門にも必ず行きますが、これはかなり派手なので、実はもっと暗い時間帯に観たいと思うのです。たとえば紫だちたる雲の細くたなびくような曙などに。

西本願寺唐門(部分)
↑西本願寺唐門(部分)

そのすぐ筋向かいにあるのが風俗博物館です。前の博物館はほんのわずか北側にあったのですが、新しくなりました。きれいなのですが、ちょっと物足りない面もあったのです。竹取物語の人形が展示されていたので、新年度の授業の参考にさせていただこうと思っています。

井筒左女牛井ビル
↑新しい風俗博物館のある井筒左女牛井ビル(5階が風俗博物館)

西本願寺の前は堀川通ですが、井筒左女牛井ビルの目の前にはとてもきれいなチューリップが咲いていました。

風俗博物館前のチューリップ
↑風俗博物館前のチューリップ

さて、堀川というと文楽ファンの方は「堀川御所」「堀川夜討」を思い出されるでしょう。義経が住んだ堀川邸は場所が明確ではありませんが、もともとこのあたりには源氏の邸があり、そこには名水の「左女牛井(さめがい)」なる井戸もありました。また、少し東に行くと若宮八幡宮があり、少し離れますが、東洞院綾小路東入ルには神明社(源頼政が鵺退治をしたときの鏃が残っているという)があり、一連の源氏がらみの史跡とされます。

左女牛井の跡
↑左女牛井跡

若宮八幡宮(若宮町)
↑源頼義創建という若宮八幡宮

神明神社
↑神明神社

寄り道ばかりしてしまいました。風俗博物館の中以外はすべて私が一人でぶらついたところです。

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おとなたちの遠足(3) 

京都御所はこのあと小御所、御学問所、御常御殿、御三間などを見学して清所門に戻ります。小御所は慶応三年におこなわれた小御所会議の場になったことでも知られますが、天皇が武家と対面する場所でもありました。御学問所は学芸に関する催しがおこなわれ、御常御殿は清涼殿に代わって天皇の起居の場となったところ、御三間(おみま)は上中下の三間から成り、内向きの行事のおこなわれるところでした。もっと北側には「飛香舎(藤壷)」などもあるのですが、見学はできません。
みなさんが楽しんでいただけたなら、私としては嬉しい限りで、何も申すことはありません。京都御苑にはほかにも

    仙洞御所

があり、ここも見学できるのです。
私は知識が乏しいですが、平安時代文学の語り部をもって任じていますので、いくらかお話しすることはできないわけでもありません。こういう形で少しでもお役に立てるならそれだけでこの上なく幸せです。仕事で行っているわけではなく、あえて言うなら

    ボランティア活動

に等しく、もうほとんど「文楽応援団」の皆さんと同じ心境です。
この日はこれで一応おひらきになったのですが、私はまたぞろ御所の外周を少し遠回りに一回りしてきました。西側の縣井、北側の近衛家跡、朔平門を横目に中山家跡、また少し戻って猿が辻や姉小路家などのあったあたり、橋本家(皇女和宮誕生の家)、学習院跡、建春門、建礼門、さらに南へ行って黒木の梅を眺めながら鷹司家跡、九条家跡その他あちこちです。丸太町通りに出たらもう地下鉄やバスに乗る気にはなりません。丸竹夷二押御池・・と歌いながら南へ南へ。っして四条まで戻ったのでした。

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おとなたちの遠足(2) 

風俗博物館で平安時代の貴族の邸宅の様子や装束を見学したあと、堀川通を北へ向かいます。平安時代の大内裏はこの堀川の西にあったのですが、今の京都御所は東側です。京都は平安時代の頃から東が栄えるようになり、貴族も左京(平安京の東半分)にもっぱら住むようになっていました。京都御所は、14世紀以来、明治の東京奠都まで長らく皇居として用いられてきました。当然、周辺には貴族の屋敷も多く、今の京都御苑(御所の周辺)にも屋敷が並んでいました。今はわずかに今出川通りの北側に

    冷泉家

があるくらいです。
さて、いよいよ京都御所の見学です。一般公開の時は宜秋門から入って清所門から出るのですが、通常の見学コースは入退場共に清所門です。一般公開の方がいいのは紫宸殿の前を通れることです。通常見学では承明門(南側の正門である建礼門の内側の門)越しに「あれが紫宸殿です」と遠望するだけなのです。私は一度だけ紫宸殿の中に上げてもらったことがあります。ああいう体験も皆さんにしていただけたらと思うのですが、なかなかそうはいかないようです。そして紫宸殿の北側を通って今回の目的である

    清涼殿

を見学します。平安時代の清涼殿は天皇の起居の場でしたが、京都御所では16世紀に「御常御殿」が建てられ、日常生活はそれ以後そちらに移り、もっぱら政務や儀式の場になりました。それでも「呉竹」「河竹(漢竹)」「年中行事の障子」「石灰壇」「昆明池の障子」「荒海の障子」「弘徽殿の上の御局」「御溝水」その他、古来の体裁を多く保っています。一般公開の時は人が多すぎて写真もうまく撮れませんので、こういう機会にしっかり撮っておきました。

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おとなたちの遠足(1) 

昨日、京都に行っていました。
京都に限らず、私はどこへ行くにもたいてい一人なのですが、昨日は現地で大勢の方と合流しました。
というのも、以前書いたことがありますが、公開講座にお越しくださっている方々に「京都御所に行きませんか?」というお誘いをしたからです。もともとは『伴大納言絵巻』『信貴山縁起絵巻』に平安時代の内裏清涼殿が描かれていますので、「今とどう違うか、どういうところが同じなのかを自分の目で確かめるといいと思います」と申し上げていたのです。

    「一般公開

がありますから、そのときにでもいらしたらいかがでしょうか」とも申し上げたのですが、どうしても一般公開の時は混雑しますから落ち着きません。それに、説明もなしに見学するだけでは面白みも少ないかなと思ったのです。
そこでふと「一度ご一緒に参りましょうか」と申し上げたら思いがけず「行きましょう」という反応があったのです。『源氏物語』の講座の皆さんにもうかがってみますと、これまたいい反応がありました。全部で10人くらいおいでになるかもしれない、と思っていたのですが、募集をかけるとすぐにその人数は超え、さらには「夫も行きたいというのですがダメですか?」「友だちが」「かつてこの講座に来ていた人が」というご希望もありました。何も学校にことわって行事として行くわけではありません。あくまで「平安時代文学に興味のあるグループ」として行くわけですから、

    「どなたでもどうぞ」

というわけで、最終的には私を含めて20人の参加者がありました。

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ゆで卵 

先日、おでんを作ろうと思って、朝から下ごしらえをしていました。実は私はおでんの大根があまり好きではありません。以前は昼ご飯に定食のようなものを食べる事が多かったのですが、それにしばしば出てきました。そういう場合でも、苦手だからと言って残すのはもっと苦手なので、我慢しながら食べていたのです。場合によっては、カラシで味をごまかして飲み込むように(笑)。
しかし、娘が好きなので入れないわけにもいかず、皮を剥いて面取りをして切れ込みを入れて、下ゆでをして、と、かなり手がかかる食材です。ひょっとして私も食べるはめになるかも知れないと思って、早いうちからだしの味をしみ込ませておきます。大根の

    大根くささ

を少しでも感じたくないのです(笑)。
こんにゃくには網の目のように包丁を入れ、やはり下ゆで。揚げものは熱湯をかけるだけ。
ジャガイモは好き、ネギも好きです。揚げ物は出来合いのものです。紀文だったかな。スジも出来合い。とても楽です。関西ではめったに使わないものに

    ちくわぶ

があります。私もめったに食べる事はありません。しかし今回はたまたまスーパーで目に入ったので買ってみました。まあ、おいしいというかなんというか。特に必需品という感じはしません。その他いくつかの具を入れましたが、おでんそのものはまずまずおいしくいただけました。そりゃそうです。私はほとんど包丁を使うだけで、あとはダシが面倒を見てくれます。しかもそのダシは自分でとったものではありませんから、手抜きもいいところです。

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喪中 

父が亡くなったとき、その直後が年賀状の季節でしたので、「喪中につき新年のご挨拶を失礼致します」といういわゆる

    喪中はがき

を作りました。当時はまだワープロ専用機を使っていまして(パーソナルなパソコンは持っていませんでした)、それで作りましたから、ほんとうに味気ないものでした。まあ、喪中はがきにあまり濃い味があってもいけませんが。
今年も、というか去年の末にもいくらかの喪中はがきをいただきました。親を亡くす年代になっていますので、しかたがないこととはいえ、やはりつらいものです。
以前はそういうお葉書をいただいた場合はこちらかも年賀状を差し上げることを遠慮していたのですが、今年はご挨拶状という気持ちで年賀状を使ってお便りを書きました。
もとより喪中欠礼というのは喪中の人が

    「めでたい」

というのを忌む意味があるのでしょうから、こちらも「めでたい」という言葉そのものをうまく遠慮すればいいのだろうと思います。
また、いくら喪中でも、新年になればそれなりに明るく暮らしていらっしゃるでしょうから、やけに明るい色の年賀はがきが届いても許されるだろうという思いもあります。
年賀状そのものの歴史がさほど古いものではありませんから、決まりというほどのものも明確ではなく、そのあたりはうまく対処すれば問題ないように思います。

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細糞 

昔のものを読んでいると、意味の分からない部分にしょっちゅう出くわします。異なった時代の、時には漢字ばかりで書かれたものを読むのですから、わからなくても当然とも言えます。
ただ、そういうものに出くわした時に、何とか読みこなしたいと思うことが仮にも昔の文献を扱う仕事をしている人間には必要なことだともいます。
まずは古語辞典のお世話になります。これで解決すれば簡単です。しかしそれには出てこないものもありますので、こうなったらもっと分厚い古語大辞典や

    日本国語大辞典

のようなものに挑みます。ただし、これとて100%信用してはいけません。なにも、辞典の編纂者にケチを付けているのではありません。どうしても人間の仕事ですから、完璧はあり得ないと言っているだけです。むしろ100%信用しないことこそその辞典に向き合う誠意ある態度だと思っています。
注釈書があればこれも頼りになります。知識と経験を持った人が書いているに違いないので、これまた

    80%

は信用できると思います。
源氏物語のように注釈の歴史が長く、膨大な成果が積み上げられている場合はかなり詳しく理解できます。しかし、注釈書はあってもたったひとつ、という場合はやはり頭から信用するだけではいけないと思います。80%と言った所以です。私も注釈書を書いたことがありますが、自信などありません。必死に調べましたが、誤解していること、明確にはわからないこともあります。むしろ厳しく訂正してくれる読者を渇望するくらいです。

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夕月夜 

月はいつ観てもいいものだと思います。仕事場から帰るのはほとんどとっぷり日が暮れてからなのですが、天気さえよければ必ず月の位置を確かめながら帰ります。満月の場合はちょうど東の空のいくらか昇ったあたりに見えていますので感動します。下弦の月だと残念ながら見えません。上弦の半月くらいなら南の空にきれいに見えます。
三日月は建物を出たあたりでは見えませんが、西に向かって帰りますので、ちょうど目の前に鎌を研いだような姿を長い時間見続ける事になります。
三日月に限らず、旧暦の月初めの月は夕方に見えてやがて沈んでいきますので独特の趣があります。こういう月を昔の人は

    夕月夜

といったのです。「夕月の出る夜」というよりも「夕月」そのものの意味です。
この言葉は『源氏物語』には七例用いられています。全てではないのですが、なんとも「あはれ」な状況で出てくる事があります。たとえば「桐壺」巻では桐壺更衣(きりつぼのこうい)が亡くなったあと、その母のもとに帝が使者を送るのです。それが夕月夜の出るころでした。天皇というのは原則的に

    24時間内裏に居る

もので、直接更衣の母を見舞う事などできず、靱負命婦(ゆげひのみやうぶ)という女官を使者にしたのです。娘を失った母ですから、元気なはずがありません。しかも愚痴っぽくなりますから、使者となった命婦もたいへんです。月はやがて入り方(沈みかけ)となり、ついには山の端に沈みます。その間ずっととぎれとぎれの話が続いているのです。夕月の印象がとても効果的です。

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図書館の住人 

この2月は割合に勉強できました。
普段は授業などがあるために余裕がなくて(というのは言い訳ですが)自分の専門の勉強はあまりできないのですが、2月と8月は恵みの時期です。
今年の大きなテーマは『源氏物語』と『粉河寺縁起絵巻』でした。『源氏物語』は文献が多くて、私個人ではあまり持っていません。買おうとすると破産するくらいありますから。一方の『粉河寺縁起絵巻』は専門から外れますのでもともと関連書籍は持っていないのです。
そんなわけで、この春は普段以上に

    図書館

のお世話にならざるを得ませんでした。月、火、水、金は仕事場の、木、土、日は地元の図書館です。
以前書きましたが、私の地元の図書館は鐵齋美術館からの寄付をもらっていて美術関係の書籍を集中的に集めていて、図書館の規模の割には思いがけない美術の研究書も持っているのです。『粉河寺縁起絵巻』の勉強には便利です。一般の図書の部屋は椅子が置いてあるだけでじっくり読む事はできませんが、

    聖光文庫

という美術書の部屋は大きなデスクがあって、しかもほとんど人が来ませんのでゆっくり勉強できます。
仕事場はもともと国文科がありましたので、源氏物語の古注釈などが揃っていて、あちらの図書館ではこれ、こちらではこれという具合に勉強できます。古注釈というのは、一条兼良、三條西実隆、九条稙通などという人たちの書いた文字通り古い注釈書で、この注釈書を読む注釈が欲しいくらいです(笑)。

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不倫 

若い国会議員君が不倫を理由に辞職したというできごとがありました。彼は「国会議員も育児休暇をとるべきだ」と主張していたらしく、家庭第一のようなことを言いながら「不倫しました」というのは筋が通らないということだったのでしょう。
政治家は聖人君子ではありませんし、むしろその反対の人(笑)が多いように見受けられます。過去には(今も?)もっと高齢の人でも不倫をする人はいましたし、それを問われるとニヤニヤとして開き直る人もいました。
だいたい、

    「先生」

と呼ばれるような人こそ「先生」らしからぬ行動をとるもので、相談にきた人と不適切な関係になる弁護士、看護師さんに言いよる医者、学生とわりない仲になる教師などよく聞く話です。「あんたも他人事じゃないだろう」とおっしゃるかもしれませんが、私の場合は正真正銘、他人事です。学生に限らず誰も相手にしてくれませんから(笑)自信を持って言います。
先輩政治家たちは不倫してもごまかしたり、居直ったりしてきたのに、この議員君はまだ若く、奥さんも議員で、しかもちょっとした「時の人」でもあったために週刊誌がネタにするには

    格好の対象

ということだったのでしょう。週刊誌も、奥さんが出産する頃を狙って書いたとするなら「もっとも効果的」な時期だったのでしょうね。それもまた品格も何もありませんが。

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