瓜子姫 

授業で竹取物語の話をし始めています。最初の時間に、昔話の世界で言う「小さ子」について話しました。小さく生まれた子が大きく成長して主人公になっていく話です。典型的なのがかぐや姫であり一寸法師でしょう。
かぐや姫は竹から生まれたのですが、

    鶯の卵

から生まれたという伝承もあります。どちらにしてもきわめて小さいのです。
一寸法師は活躍するときは小さいままで、お椀の船に箸の櫂。針の刀で鬼をやっつけます。小さくても強い。これは日本文化の大事な美意識のひとつです。
権力や暴力に服従せず、小さい力でそれらを完膚なきまで叩きのめす。蟷螂の斧と言われても屈することがない魂を我々は愛してきたように思います。
桃太郎はどうだったのでしょうか。大きな桃が流れてきたので、最初から大きな子どもだったのでしょうか。そうかもしれません。しかし案外、

    普通サイズの桃

から生まれた、小さい男の子だったのではないか。そんな想像もしてみたくなります。私は「日本一」の幟を掲げて、犬、猿、雉を家来にして鬼が島に乗り込む桃太郎はあまり好きではありません。そんなの、最初から勝ちそうじゃないですか(笑)。ああいう姿は実は新しい桃太郎で、明治以降の軍人少年みたいな造型になっているのでどうも苦手なのです。鬼畜米英っていうのは、「西洋列強は桃太郎の鬼だ」といっているわけでしょう。

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源氏物語逍遥(その3) 

 帝と更衣の間には「世になくきよらなる玉の男みこ」が生まれます。将来の皇太子候補の筆頭にはすでに第一皇子(のちの朱雀院)がいますので、帝はこの無類の美しさを持つ子を「私(わたくし)もの」として愛しました。「私もの」とは、思いのままにかわいがる秘蔵子のことで、これまた宮廷の秩序からいくらかはみ出した次元で、天皇が一人の人間として愛情を注いでいることをいうのでしょう。
 帝の更衣母子への寵愛はさらに深まり、他の后妃の嫉妬も過激になります。光源氏が三歳になって袴着(はかまぎ。初めて袴を着け、幼児から少年になったことを祝う儀式)を終えると、更衣はその夏に重病に陥ります。当時は后妃といえども内裏で死ぬことはタブー(禁忌)で、重病になれば里邸(実家)に帰るのが掟でした。しかし帝はなかなか承知しません。ここでも宮廷の秩序と個人としての愛のせめぎ合いに苦しむ一人の男が描かれます。結局帝は「限りあれば(どうにもならない制約があるので)」と諦めざるを得ず、更衣は内裏を退出します。ここはぜひ原文で読んでいただきたい名場面ですが、帝は輦車(てぐるま)で退出することを許した上で、瀕死の更衣に向かって「さりとも打ち捨ててはえ行きやらじ(いくらなんでも私を捨てて先立ったりはなさらないでしょうね)」と言葉をかけます。すると更衣は息も絶え絶えに
  限りとて別るる道の悲しきに
    いかまほしきは命なりけり
  (抗いがたい寿命ゆえに別れて行かねばならない死出の道の悲しさにつけ、私は行きたい、いえ、生きたい、命長らえたいのでございます)
と詠むのです。『源氏物語』の和歌七百九十五首の嚆矢となる絶唱です。帝と更衣はかねてから「限りあらん道にも後れ先立たじ(寿命というものがあっても後れ先立つことなく一緒に死のう)」と約束をしていました。この誓詞、6・7・5になっていて、和歌の上の句のようにも読めませんか。それはともかく、右の歌はこの誓詞の「限り」「道」という語を用いながらも約束を違えて先立たざるを得ないことを深く悲しんだものです。「行かまほしき」に「生かまほしき」を掛けて生への執着をあらわにしていますが、それはもう二度とこの世で逢うことはないという悲痛な確信の裏返しであり、自分だけの命ではないと思いつめた心のあらわれでもあるでしょう。

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源氏物語逍遥(その2) 

 『源氏物語』より少し前の村上天皇時代に藤原登子という女性がいました。『栄花物語』「月の宴」は、美貌で性質もよく華やかで色っぽい彼女を天皇が見初めたこと、入内させて昼夜を問わずそばに置き、天皇が政務をおろそかにしたこと、大臣の藤原実頼が「賢帝と思っていたのに・・」と嘆いたことなどを伝えています。
 では、桐壺更衣を寵愛し続けた帝もまた愚帝として描かれるのでしょうか。作者のまなざしはそうではなさそうです。
 平安時代中期の天皇は、常に内裏に在るもので、外出(いわゆる行幸)したとしても原則的に宿泊はせず、その暮らしは宮廷のしきたりにがんじがらめにされていました。権力にあぐらをかいて酒食に溺れていたような印象を持たれることもあると思うのですが、実際は政務も多忙で、恋愛も思うに任せず、結婚すらきわめて政治的なものでした。先走って申しますが、帝が桐壺更衣の産
んだ光源氏を皇室に留めず人臣としたことは結果的に彼を恋物語の世界に解き放つ役割も果たしたことになるでしょう。
 天皇の正式な結婚は、しかるべき家柄の娘が男子(将来の天皇)を産むことで外戚関係を築き、実家を繁栄させるという重責を担って送り出されてくるものでした。それだけに「あまたさぶらひける」という后妃の「数」は帝の心を満たし、愛の至福を保証するものではなかったともいえます。実際「桐壺巻」の后妃たちは桐壺更衣に陰惨な嫌がらせをするような人柄でしたから、帝の心はやすまりません。そんな帝が初めて出逢った、心から愛せる女性が桐壺更衣だったのです。では彼女だけをそこまで深く愛せた理由は何だったのでしょうか。たとえば彼女がひときわすぐれた美貌であったから、ということも考えられます。なるほど「いとにほひやかにうつくしげなる人(いかにも気品があってかわいい様子の人)」という描写はあります。しかし彼女は、物語からすぐに姿を消すという事情もありますが、思いのほか容貌を絶賛されることはないのです。

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源氏物語逍遥(その1) 

ある雑誌から「王朝文学について何か書いてみないか」というお誘いをいただきました。短歌結社の雑誌で、その代表の先生をたまたま存じ上げており、以前そこに講演に呼ばれたことがあるというご縁によるのです。「平安時代文学でも、新古今集でも、近松でも、なんでもいいから」ということでした。私は近松などとても書く自信がありませんので、それはすぐに選択肢から外しました。新古今も勉強不足でとても対応できません。そこで、いくらか勉強しきて、かねてから書いてみたいと思っていた

    『源氏物語』

はどうでしょうかとおそるおそる打診してみました。するとOKが出ましたので、この1、2月に勉強してなんとか書き上げたのでした。たまたまツイッターで「書くことになった」とつぶやいたら、ある方から「どんなものなのか」というお尋ねをいただきました。けっして立派なものではないのですが、このブログの記事としてなら簡単にお目にかけることができますので、ここに公開致します。連載予定で、タイトルは

    源氏物語逍遥

としました。最初にこの雑誌への挨拶文を書いているのですが、以下に掲載するものはカットしていますので、冒頭がいささか唐突な感じがするかも知れません。また、ルビは雑誌では漢字の横に打っていますが、ここでは( )に入れてあります。長くなりますので、3回に分けてアップします。

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『妹背山婦女庭訓』「山の段」を観て 

文楽4月公演は『妹背山婦女庭訓』の通しでした。みなさんはどのようにご覧になったのでしょうか。
眼目の「妹山背山」を千歳、文字久、呂勢、咲甫という顔ぶれで(三味線は清治、富助、清介、藤蔵)上演したことでどういう反応があるのか、気になっています。
千歳さんは筒いっぱいだったように拝見したのですが、無駄な力が入り過ぎではないのかなと無責任に思って観ていました。住師のほうが声自体は小さいかもしれませんが、スケールという場合、逆に住師の大きさが思われるようにも感じました。呂勢さんは師匠や清治さんから細かく指導されたでしょうが、声柄が合っていると思いますので、公演中にどんどんよくなっていったのではないかと、これまた無責任な推測をしています。いい加減なことを書いてすみません。太夫さんのことは何も

    語る資格

がありません。ご容赦くださいませ。
人形は簑助の雛鳥、和生の定高、勘十郎の久我之助、玉男の大判事。簑助師はどうしても足もとが気になりますが、ここというときのスケールの大きさ〜しかもそれは無駄のない華やぎという形で表わされる哀しみ〜が格別でした.そして何よりすごかったのは、二人の腰元はもちろんのこと、久我之助までをも

    簑助師が動かしている

のではないかと感じたことです。もちろん勘十郎さんも紋若さんも紋秀さんもそれぞれにきちんと自律的に動いていらっしゃるのですが、場を支配する磁力のようなものを簑助師には感じてしまいます。

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2016年4月公演千秋楽(昨日) 

昨日は文楽4月公演が本日千秋楽でした。
「山の段」はさすがにすばらしく、2時間があっという間でした。
とかく太夫陣の層の薄さが言われてきただけに、長時間の演目をこなされたのはご立派だったと思います。
嶋師がいらっしゃらず、咲師匠もお休みということで、通し狂言といながら、太夫のお名前の頭に「切」の字がまったくないのは寂しかったです。もっとも、咲師は今回「杉酒屋」でしたから、出ていらっしゃっても「切」のjはつかなかったわけですが。
文雀師がもう定高を遣われることはないのだ、と思うと寂しさもありますが、世代の交代は世の常です。

さて、次は東京。
今年は5月に鑑賞教室と短い公演。
公演は『絵本太功記』で、本能寺、妙心寺、夕顔棚、尼ヶ崎。
「尼崎」は文字久・藤蔵から津駒・清介。妙心寺の奥は呂勢・錦糸。
光秀は玉志、さつきは玉也、十次郎は勘弥、初菊は一輔。
鑑賞教室は『曽根崎』で、和生・勘十郎と玉男・清十郎が徳兵衛・お初。
「天満屋」は英・燕三と千歳・富助。

6月は大阪に戻って鑑賞教室。
『夏祭』で、「三婦内』を語るのは四月の『妹背山婦女庭訓』「山の段」の四人衆です。

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第31回だしまきの夕べ 

昨日は文楽公演のあと、恒例の

    だしまきの夕べ

がおこなわれました。
私は誠に失礼ながらチケットが取れないために遠慮しようと思っていました。ところが、水曜日にちらっと劇場のHPを見ましたら5列のど真ん中がごっそり戻っているではありませんか。
これはもう天啓としか思えず、すぐにチケットを買って、終わってからも少しご一緒させていただきました。
みなさまあがとうございました。
とてもエレガントな亮子さんにはじめてお目にかかりました。
やたけたの熊さん、くみさん、まゆみこさん、ぶたねこさん、あやりんさん、らくださん、おわぞんさん、人形遣いの玉誉さん、玉彦さんもありがとうございました。

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白日(3) 

「白日」について書いているうちに興奮してきしまったような気がします。以前なら適宜文章を改めて穏便に済ませようとしたと思うのですが、もう今は怖いものがなくなってきました。過激なこともあまり気にせずに言いたいと思うようになってもいます。
「白日の下に晒す」というのは、何だか公明正大のようで、もっともらしい言葉です。「正義」というのもまっとうきわまりないものです。「正義の味方」に悪い人はいないことになっています。しかし正義を振りかざすことなんて、どんな人にもできるのです。

    私は正義だ

と言えば済むのです。
新聞を初めとするマスメディアが権力を批判するのは当然のことだと思います。それをせずにメディアが権力に流されていった時代を我々は知っているわけです。
しかし、だからといって、あらゆることを白日の下に晒すことがほんとうに正しいのか。メディアは、自分たちが社会的制裁を加えるほどの「権力」を持っていることを自覚してしっかり反省してもらいたいものです。
いつのころからでしょうが、

    潔癖な人

が増えているということがいわれます。
常に手袋をしていなければ不快であるとか、アルコール消毒液が置いてあるところでは必ず使うとか。コインは消毒しないと気持ち悪いとか。

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白日(2) 

オリンピックのメダル候補と期待されていたバトミントンの選手が違法賭博のためにオリンピック出場ができなくなるというできごとがありました。
ことの経緯はよく知りませんが、悪の誘いのようなものがあって、つい乗ってしまったのでしょうか。女性関係まで表沙汰にされているようですが、私はそういう週刊誌は読みませんのでこれ以上詳しくは知りません
若い男の子ですから、誘われたらなかなかいやともいえず、また、博打くらい

    男の遊び

としてOKの範囲だとも思ったかもしれませんし、多少の悪いことはやってみたくなるのが男の子の本性でもあります(女の子がどうなのかは知りません)。また、普通の若者と違って、多少金銭的に余裕もあったのかもしれず、何かとちやほやされていたのでしょうか。ただ、若気の至りで先輩から誘われたのでやってみたものの、すでに違法博打はやめていたとも聞きました。
それでも違法なのだから罰せられて当然、という理屈はもっともらしいですが、私の考えでは、法というのは

    方便

なので、破ったからすなわち罰せられるというものではありません。「きみ、これは法律違反でもあるし、立場上そういうことをしたら具合が悪いだろう。すぐにやめなさい」と言って、「わかりました」と答えてやめるような若者なら、私だったら何も言わずに許します。
「甘い!」と言われるのは分かっています。「今は時代が違うんだ!」というのもこういう人たちを批判するネット上の決まり文句です。

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白日(1) 

中華民国の国旗は「青天白日満地紅旗」です。旗の左肩に青空と十二の光芒を放つ白い太陽、すなわち「青天白日」があり、右側と下部は赤に染められています。「青天白日」の部分だけを見ると日本の「日の丸」とも通うところがありそうです。
「青天白日」ということばは

    「清廉潔白

で、後ろ暗いことがない」という意味で用いられますが、出典は中国の韓愈(唐宋八大家のひとり)の「崔群与書」(崔群に与ふる書)の一節だそうです。罪を問われた人の無実が証明された時にも「青天白日の身となる」といわれることがあります。
私も学校の教員ですので、清廉潔白でありたいとは思うのですが、現実はそうもいかないのです。いつも

    後ろめたさ

を抱えながら生きています。自分のだらしなさ、非情さに嫌気がさすことも珍しいことではありません。「後ろめたい」というのは「後ろ目」「痛い」ということで、本来は「他人を後ろから見ていて大丈夫かなと思うこと」なのですが、それが転じて「自分のすることについて他人がどう思うか気がかりだ」という意味になり、今は後者の意味で用いられることが多いと思います。こんなだらしない生活をしていて、他人はどう思っているのだろう、という感じですね。身につまされます。

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梯子を外す 

本居宣長は医者でした。医者と文学というのは珍しい組み合せではなくて、森鷗外も斎藤茂吉も北杜夫も渡辺淳一も医者で作家でした。
宣長は山桜が好きで、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」とも詠んでいます。宣長の奥津城(墓)には桜が植えられていますが、ソメイヨシノではなく山桜。平安時代の人が見た桜で、見頃はソメイヨシノに遅れます。
松阪市の松阪城跡にある宣長記念館は、資料の展示はもちろん、復元された宣長の旧宅も興味深いものです。彼の家はもともと松阪の魚町にあったのですが、今は保存のために移築されているのです。この旧宅にはもちろん彼が学問に打ち込んだ部屋があります。

    鈴屋

と宣長自身が称したその部屋には、名の通り柱に鈴が掛けられ、勉強の合間に彼はそれを鳴らして心を癒したようです。宣長はことのほか鈴が好きで、ほかにもさまざまな鈴を持っていて、記念館で観ることもできます。私は学生時代に松阪市出身の女子学生さんから柱掛鈴のレプリカのおみやげをもらったことがあり、長い間それを勉強部屋に掛けていたのですが、宣長先生とは心がけが違いますので勉強は捗りませんでした。鈴屋は二階にあるのですが、元は

    物置

だったようで、屋根裏部屋のようなものに思えます。そこへは箱階段を上がっていくのですが、彼は勉強中にはその階段を外させたという話もあります。要するに下におりられないように自分を追いつめて勉強に没頭するためです。つい気が散ってあれもしよう、これもしようと思いがちになるのが人間の弱さですが、それを断ち切ったというわけです。
「できる人」というのは、どこか常人と違ったものを持っているようです。

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松阪の一夜 

本居宣長(1730〜1801)という人に対しては尊敬よりも憧れを感ずるところがあります。いったいどれほど勉強したのだろうと不思議ですらあります。
大著『古事記伝』をはじめ、『源氏物語玉の小櫛』『古今和歌集遠鏡』『石上私淑言』『玉勝間』などあまたの著作をものしています。彼の業績がその後の古典文学研究に甚だ大きな影響を与えたことは申すまでもありません。
宣長は伊勢国松阪(三重県松坂市)の人です。今も松阪市には

    本居宣長記念館

があり、私は彼への憧れの気持ちから何度か訪問しました。私のような者とはあまりにも桁の違う偉人ですから、展示されているものを見ていると、ただただ「すごいなあ」と感心するばかりです。
宣長は会ったこともない賀茂真淵(かものまぶち)を陰ながら敬愛、あるいは崇拝していました。真淵は宣長より30歳以上年長の大先達で、「縣居(あがたい)」と号したため、宣長は「縣居大人(あがたいのうし)」と書いた掛け軸を掲げていました。私の教え子がスマホの待ち受けに「藤十郎先生」と書いているようなものですね(笑)。
宝暦十三年(1763)五月二十五日の宣長(当時三十四歳)の日記に「岡部衛士当所一宿[新上屋]始対面」という一節があります。「岡部衛士が旅宿の新上屋(しんじょうや)に一泊されたので初めて対面した」ということです。岡部衛士というのは誰のことかと言うと、これがほかならぬ賀茂真淵のことなのです。宣長はたまたま松阪に来た真淵先生に面会することが叶ったのです。日記には先の1行しか書いておらず、逆に彼が受けた感銘の大きさが感じられるようでもあります。この出会いは、

    「松阪の一夜」

と言われて佐佐木信綱が「中央公論」などに書き、尋常小学校の国語の読本にもわかりやすい形で掲載されてさらに有名になりました。

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熊本、大分(続) 

九州には久しく行っていません。平成3年雲仙普賢岳の火砕流で40人以上の方が亡くなったことがありました(さらに土石流も発生)が、あのしばらくあとに熊本から長崎を訪ねたことがあります。普賢岳の火砕流、土石流の爪痕を見て自然の脅威の一端を思い知らされました。
あのとき熊本は被害の対岸でした。しかし今回はもっとも強い被害を受けた当事者になってしまいました。

    火山列島

である日本全国、我々もいつ同じ目に遭うか分かりません。
私はかつて「関西には地震が少ない、大地震はない」という何の根拠もない風説を信じていて、あの阪神淡路大震災のときは「これは地震ではなく地球が壊れるのだろう」とすら思ったものでした。幸い私の住む地域は住居の倒壊はなく、近所に亡くなったかたもありませんでした。しかし目の前にある川の対岸では人も亡くなりましたし、隣の市ではもっと悲惨なことになっていました。一寸先は光明が射しているとは限らないのですね。
被害の大きかった神戸市長田区に住んでいた知人も多く、芦屋在住の教え子が亡くなったことを新聞で見て愕然としたこともまだ忘れられません。
地震は止められない。だから被害を最小限に抑える必要があります。今度の地震で、稼働している

    川内原発

の問題がまた浮上しました。いったいだれが安全と言いきれるのか。少なくとも安心できないことだけは間違いありません。物理的な安全と心理的な安心はともに守られねばなりません。

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熊本、大分 

熊本県で震度7というニュースに驚きました。
実はあの前日(4月14日の地震でしたから、前日は13日)、私は「日本の文化と歴史」という授業の中で震災の話をしたのです。東日本と阪神淡路。震災は一瞬のうちに町を破壊し、人の命を奪い、文化財も容赦なく壊し、その土地の人の心に傷をつけます。しかし地震そのものは自然の行為なのでどうしようもありません。他人事ではなく、南海トラフなど、5秒後に起こるかもしれません。日本という国が地震国であることを知り、その上で「災」を少しでも軽くするのが歴史の知恵というものでしょう。過去にこんな地震があったというのを覚えたら、それは入試の日本史の知識にはなるでしょうが、やはり肝心なのはその知識をもとに知恵を絞って

    未来を築く

ことです。歴史ってそういう学問です。だから、突き詰めて言えば学問というのは全て歴史学なのです。と言いつつ、まさかその翌日にほんとうに大地震が起こるとは思ってもいませんでした。
あの日の地震は実は本震ではなく、16日の未明にさらに規模の大きい地震が来ました。余震があるとしても14日のような大きな揺れはないだろうと思っていたかも知れない人たちをさらに恐怖に陥れました。深夜ということもあって亡くなった方も多く、真っ暗な中で不安な時間を過ごされたことでしょう。
さらに追い打ちをかけるように

    強い雨

が降って土砂崩れなどを引き起こしました。そういう物理的な影響とともに、不安でいっぱいの人々の心に雨音がどのように響いたのか察するにあまりあります。

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牛に引かれて天神詣り 

一昨日は堺筋を歩いたのですが、西天満一丁目東交差点からつい菅原町のほうへ、つまり東に足が向きました。
菅原町といえば道真。天神橋筋のアーケードにやって来ました。
このあたりは、黄昏時にはやたけたの熊さんが出没するという噂ですが、さすがに会いませんでした。
ここまで来て挨拶しないわけにはいきませんから、商店街を出て

    大阪天満宮

に詣りました。大阪の人のいう「天満の天神さん」です。ということは、牛に引かれて天神詣り、でしょうか。
白太夫はおらぬか? いました!
戎門から入るとすぐに白太夫社があります。
平日の夕刻で人は少なく、こんな時間、こんなところを歩いているビジネスマンがいたら、それは多分、サボってるんでしょうから(笑)。
本殿に詣って、もうほんとうに満腹の散策になりました。
最後に本殿西側にある

    登龍門

だけ写真を撮って帰ることにしました。
すると北側からなんだか愛想のよいビジネスマンらしき人が歩いてきます。サボってるのかな?(笑)

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堺筋 

昨日(15日)は文楽の第一部に行っていました。
それについてはまた後日書くとして、帰り道のことを書いておきます。
地下鉄が好きではないうえ、せっかくのいい天気ですから、劇場から梅田までは歩くことにしました。
冬場の御堂筋はいちょうの木に電線が張り巡らされているのを見たくないので、つい堺筋を歩く癖がつきました。
堺筋はもとの

    メインストリート

だけに魅力もあります。
ただ、あまり何も考えないで歩くのです。
日本橋を越えて、安井道頓、道卜の碑あたりから、ひたすら北へ。
八幡町、周防町、鰻谷から長堀。汗をかくことのない快適さ。
南久宝寺町、久太郎町、船場センタービル。このビルも割合好きなのですが、今回はパス。
安土町、備後町、瓦町、淡路町。近松の世界との境目が混沌としてきます。
平野町、道修町。いつもなら道修町を西に行くのですが、今回はまだまだ北へ。ただ、久しぶりなので、ボンド(接着剤)の

    コニシ

さんの正面に行ってきました。
またまた北へ。
高麗橋、今橋。鴻池のだんさんはいたはりませんが。

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文学部の発想(2) 

先日、ツイッターで「中高の国語の教員免許を現代文と古文に分けて、現代文は国文科以外の教員も資格が取れるようにすべきだ」という意味のことをおっしゃる意見がリツイートされているのに目が止まりました。中学では「古文」というわけにはいかないので、事実上は高校でしょうね。
ツイッターなので、あまり詳しいことは分からないのですが、国文科の学生はものの考え方が

    論理的でなく、

現代文を中高生に教えるのにふさわしからぬ人が多い、というようなことだったように思います。その方は、哲学、社会学、法学などの学生も国語の資格を取れるようにすべきだとおっしゃっていました。その方への賛同コメントには「理系の国語教員もいいと思う」とも書かれていました。
なるほどおもしろいと思いました。私も、高校時代に文学部出身の数学教員がいたらもう少しわかりやすく説明してくれたかも知れないな、と、今になって思います。実際国立大学受験には文学部でも数学が必要ですから、文学部の学生でも数学のできる人なんてたくさんいます(私はできません)。逆に生物学を専攻した大学生に「理科」教員の資格を与えて何かのはずみで物理学を教えろということになっても「ほんとにできるの?」と疑ってしまいます。実は私の高校時代、そういう先生がいて、教科書を読むだけの「授業」をしていました。
先のツイッター氏の考えを私に当てはめてみますと、社会を歴史、政治経済、地理に分けて、国文科の学生にも

    歴史教員の資格

が取れるようにしてほしいと思わないでもありません。私は現代文より日本史の方が得意ですし、史料を読む訓練は史学科の学生には及ばないものの、必然的にさせられましたし。

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文学部の発想(1) 

「大学に行きたい」と言ったとき、親は文句を言いませんでした。ありがたいことでした。授業料を出してくれるわけですから、感謝するほかはありませんでした。ところが「文学部に行きたい」と言ったら反対されました。役に立たない、教員になる以外「つぶし」が利かない、豊かな暮らしはできない、ということだったのでしょう。兄が理系で飛行機乗りになると言い出したので、父親としては、文系の私には「経営学部」「経済学部」せめて「法学部」あたりに行ってほしかったのでしょう。それは

     「正しい意見」

だった、と今は思います(笑)が、その反対を押し切って超一流というわけでもない大学の文学部に進ませてもらいました。親には悪かったのですが、自分を抑えて経済学部や法学部に行っていたらやはり後悔しただろうと思います。好きな文学作品はもちろんのこと、文化史以外の史料を読むことも叩き込まれて、しんどかったものの、とても充実した学生生活でしたから。
それでも就職はやはり難しく、私は今の言葉でいうなら「フリーター」を何年もしていたのです。朝早くから晩まで働く、いわゆるモーレツサラリーマンだった父親には理解しがたい

    ぐうたら

だったかも知れません。父親が60代で亡くなったのは私が心配ばかりかけたからではないかとそれはもうほんとうに申し訳なく思っています。最初に書いた本は手にとってもらえず、ひとりで墓に行って400ページほどの本をパラパラとめくって「やっとできました」と報告したものでした。

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阪神沿線芦屋近辺 

私は阪急電車の沿線に住んでいます。京都への大阪へも神戸へも阪急を使いますから、大阪と神戸を結だけの阪神電鉄にはめったに乗りません。阪神沿線にある西宮の図書館に行くときも阪急夙川駅から歩いて行きます。
阪急沿線は山の手、阪神沿線は下町の雰囲気があります。あえて言うなら、阪急のほうが高級感があるのです。たとえば芦屋市を例にとると、いわゆる高級住宅街というのは阪急電鉄の線路よりさらに山側にあるのです。私など足を踏み入れるのも申し訳ないような

    六麓荘町

はかなり山側です。ここはお屋敷がたくさんあって、それも半端な広さではないのです。芦屋市に住む人は誰もがお金持ちなのではありません。山の手の一廓に桁外れのお金持ちがいるのです(笑)。
と書きましたが、私はけっして阪神沿線の悪口を言っているのではありません。むしろ阪神沿線の雰囲気は好きですし、歴史的には西国街道に近い阪神沿線の方が芦屋の中心地だったのです。
私は大学院生の頃、芦屋市内の高校で非常勤講師をしていました。最初、そこに行かないかと言われた時、「芦屋なら

  お嬢様やお坊っちゃま

ばかりの学校かな?」と思いました。ところが言ってみるとまるで違って、とても庶民的というかごく普通の高校生でした。生徒の住所録に「芦屋市六麓荘町」という文字はありませんでした。ホッとしました。それもそのはず、県立高校であったうえ、所在地が阪神電鉄よりさらに南側、騒音のひどい国道43号線と接するところでした。あまりにもうるさいので窓を閉めないわけにはいかず、あの当時としては珍しく6月頃からは冷房が入ったくらいです。

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大震災の直後 

谷崎潤一郎は関東大震災をきっかけに関西に移住したのです。そのときのことも書いています。
彼はその夏、千代夫人や娘の鮎子さんと一緒に箱根の小涌谷のホテルに滞在していました。九月一日から鮎子さんの学校が始まるので八月二十九日にご家族は横浜山手の自宅に帰っていたのだそうです。そして八月三十一日に芦ノ湖に遊んだ谷崎は、翌日その湖畔のホテルからバスで小涌谷に戻ろうとして、その途中で震災に遭いました。わずか三日前に別れた家族を地震のまっただ中に返してしまった谷崎は、後悔しても仕方のないことながら、

    焼け野原

の中をさまようご家族を想像して暗澹たる思いをしたようです。
一刻も早く横浜に行きたいのですが、小涌谷から東京側には出られないということを聞いて、大阪行きの列車に乗ったそうです。神戸まで行って、船に乗って横浜に行くつもりだったのだとか。ところが緊急事態で、乗船のためには何やら証明書のようなものが必要だったらしく、数日間神戸、京都、大阪に滞在することを余儀なくされたのです。
その時、神戸と大阪では罹災者に対して援助の手が差し伸べられていて、特に梅田駅では手厚い処遇を受けられるようになっていたそうです。ところが京都駅ではまったくそういう気配がなく、不思議に思ったようです。
東京はもうダメだ、というので、

    都を関西に戻す

という噂が立っていて、京都の人はその点については喜んだのだろうと思うと、そうではなかったと言います。祗園の女将に聞いてみると、京都に都が戻ったら役人などが大挙やって来るだろうから、そんなのは御免だ、という意味のことを言ったそうです。

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文楽の中の現代 

谷崎潤一郎は「私の見た大阪及び大阪人」の中で、東京の言葉は「説いて委曲を尽すのには一番便利であるけれども、純日本風の奥床しい女の言葉としては甚だ不向きである」と書いています。「さびしからずや道を説く君」ではありませんが、理屈を言うのにはふさわしくても、東京の言葉には品や情趣が不足していると感じているのでしょう。
私は大阪の言葉が使えません。関西弁は話せますが、大阪の言葉は語彙もイントネーションも私の範囲の外にあるのです。両親が大阪人なのに、なぜきちんと大阪言葉が身につかなかったのか、阪神間に居住することがその理由の一つだとは思いますが、それにしても不思議ですらあります。
そんな私ゆえに、あのやわらかな品のある

    上方言葉

を話す人がうらやましくてなりません。女性に限らず、京都や大阪の人が地元のきれいな言葉を使うのを聴いた時にはうっとりしたものです。噺家さんや文楽技芸員さんのうち、大阪出身の人たちが日常的にお遣いになる上方言葉はほんとうにきれいです。住大夫(住太夫と書くべき?)師も簑助師も。
谷崎は語彙や表現法のみならず声に注目して上方の言葉を分析しているのがすばらしいと思いました。谷崎は、声には自信があったらしく、若い頃から端唄や長唄がかなりうまかったのです。ところが、関西に移住して

    地唄

を習ってみるとうまく声が出ないのだそうです。年のせいかなと最初は思ったそうですが、江戸唄なら自由に声が出るので、「江戸唄と上方唄とは声の出所が違うのだということを痛切に感じた」そうです。

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大阪及び大阪人 

谷崎の言うことには共感することが多々あります。「私の見た大阪及び大阪人」は昭和七年(1932)に『中央公論』に発表されたものですが、今でも通用するようなこともいろいろ書かれています。
谷崎は、当時すでに東京の文化が関西を浸食しつつあったことを指摘しつつ、大阪人が生田流の箏曲や地唄などを習わなくなっていることを嘆いています。長唄などは声の出し方が素直なのでまだわからなくもないが、小唄など大阪人が謡いこなすことはできないとも言います。舞踊でも山村や井上の「舞」よりも藤間や花柳の「踊り」に圧倒されていくのは「甚だ慨(なげ)かわしい」とまで言っています。生理的、体質的に関西人と関東人は違うのだから、

    越えがたい差異

のあることを考えよとの指摘です。
私も、大阪の人は大阪文化に固執せよとは言いませんが、大阪の文化をないがしろにしたところで何のプラスにもならない、いやそれどころか、自己否定にすらなると感じています。
東京は多くが平野で、だだっ広いのです。だからここという中心地がない。庁舎は新宿区にあるのだそうですが、では東京の中心地は新宿なのかというとそうは思えません。東京の人が東京タワーや新東京タワーのようなものを建てたがるのは、なんとかだだっ広い平野部にランドマークを置きたいという気持ちのあらわれなのではないか。関西にはああいうものは合わず、

    大阪タワー

なんて昇りたいと思う人も多くないままにいつのまにかなくなっています。多くの若者はそんなものが大阪にあったということすら知らないようです。タワーなど必要もなく、少なくとも谷崎の時代には大阪には文化の中心地があったのです。それは船場、島之内、道頓堀辺りでした。

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江戸っ子気質 

谷崎潤一郎は東京市日本橋区蠣殻町(今の中央区人形町)生まれ。その先祖はどうやら近江商人だったらしいのですが、ご本人の意識としては「代々の江戸っ子」でしょう。
ところが関東大震災(大正12年9月1日)に箱根で罹災。神戸に避難して芦屋から苦楽園、本山、岡本、夙川、魚崎、芦屋(のちの富田砕花邸)、住吉、魚崎などに住み、その後は岡山県真庭、京都南禅寺下河原、下鴨泉川、神奈川県熱海伊豆山、神奈川県湯河原などに移っているのです。谷崎という人は転居癖のようなものがあって、震災前に関東にいたときも本所小梅、本郷曙町、小石川、鵠沼、小田原十字町、横浜と頻繁に住処を変えています。
関西にはずいぶん長くいましたが、大阪には住んでいません。むしろ周辺から

    じっと観察

していたようにも思えます。「私の見た大阪及び大阪人」は大阪の中にどっぷり浸かって大阪を描いたのではなく、関西に居住しながら大阪を客観視しているところに特徴があるのかもしれません。
関西以外の人には、関西=大阪と思われている方も多いのですが、京都と神戸と大阪ではかなり違います。神戸の人に「大阪の方ですか?」と尋ねたら多くは頭から否定すると思います。京都の人に「神戸の方ですか?」と訊いたら、「神戸みたいなもん、西の彼方どすがな」と言うかも(笑)。

    阪神間

に住む私は、京都も神戸も大阪も客観的に観ていて、大阪に対する視点は谷崎に近いかもしれません。私はそれでも関西人の気質を強く持っていると思ってきたのですが、谷崎のエッセイの中に書かれている一節を読んで自分のことを言われているのだろうかと思う部分がありました。

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谷崎潤一郎のエッセイ 

高校生の時、小説を書いたりしていました。もちろん読むに堪えないものですが、その時は文学少年を気取って悦に入っていたのです。そのくせ読書家ではありませんでした。三島由紀夫は子供の頃に代表的な世界文学を読んでいたようで、その姿勢を土台にして文才を発揮したからこそあれほどのものが書けるようになったのでしょう。私の場合は、三島に比べると(比べる価値すらありませんが)何万分の一にしかならないような読書経験だったのです。
大学は文学部に行ったのですが、三島どころか、周りの友人たちの読書家ぶりに比べても劣等生でした。さすがに危機感を覚えて、遅まきながら古典的なものから制覇するつもりで読んで行こうと決意して、父の書棚の文学作品を借りて読むことから始めました。書棚の中でとても目立ったのが谷崎潤一郎の

    細雪

でした。分厚い本でした。これなら読み応えがありそうだ、という理由だけで手にしたのがきっかけで、読破したあともしばらくは谷崎作品ばかり読んでいました。文庫本は収められていない小品から、ほとんど文庫本で読んだ「刺青」「少年」「悪魔」「幇間」「異端者の悲しみ」「知人の愛」「少将滋幹の母」「蘆刈」「春琴抄」「卍」「猫と庄造と二人のおんな」「盲目物語」「吉野葛」「蓼喰う蟲」「乱菊物語」「武州公秘話」「鍵」「瘋癲老人日記」「台所太平記」・・・そうそう、

    「源氏物語」の初訳

もなぜか父が持っていましたのでわからないなりに通読しました。これがいい刺激になり、谷崎に限らず大学1、2年生は人生で一番多読した時期だったと思います。
谷崎についてはエッセイも随分読んだのです。「いわゆる痴呆の藝術について」「陰翳礼賛」「恋愛及び色情」「懶惰の説」「私の見た大阪及び大阪人」「東京をおもう」「雪」・・・。「文章読本」も勉強になりました。

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鬱です 

あまり言いたくないのですが、1月の終わりくらいから、気分の滅入ることがあり、体調がよくありません。
医者はストレスが重大だと言いますし、私も経験的にストレスと体調の因果関係は認めざるを得ません。
昨日、血圧を測ったら97ー40という低さでした、体がふらつき、車に乗るのも怖いです。
せめて気分が上がるようにと歌など歌いながら乗っているのですが、歌が暗くて(笑)逆効果かも。このところ、懐かしい

    Holiday(Bee Gees)

にはまっていて、往復で10回以上歌っているかも(笑)。
喧嘩のようなことはしたくないのですが、理不尽なことを理不尽というのはやめられません。
まあまあ、といって世の中を渡るのが賢明なのでしょうが、それができるなら出世しています。
授業が始まればいくらかテンションも上がるかな、と期待しているのですが。
そんなわけで、文楽4月公演にもまだ行っていません。
鬱の状態で、このところ、誰とも話していません。
こんなことでわけのわからない医者に行くのもいやなので、じっとしています。
もうしばらく落ち込むことにします。
今日はこれにて。

今年の花見(2) 

この日は朝から曇り空で、いくらか明るくはなったのですが、「晴れ」と言いきれるほどにはなりませんでした。桜は白っぽいですし、このあたりの建物の壁も白っぽいのでいささか映えないように思いました。
宝塚歌劇のグッズを売っているのは

    キャトル・レーヴ

で、私も時々行きます。ここは、入口の階段が茶色になっていて看板がすみれ色であるうえ、桜がその上を覆うように咲いているのでなかなかきれいでした。ただ、壁は白くて、写真に撮ると桜がぼやけた感じになってしまいました。

キャトルレーヴ入口の桜
↑キャトル・レーヴ入口

「花のみち」には歌劇の場面が像にして置かれています。これは何かの場面というよりも、踊るペアという幹事なのでしょうか。

花と踊り子
↑歌劇の像

像といえば、歌劇場入口のすぐ近くに、お客さんをお迎えするかのような小林一三翁の像もあります。

小林一三胸像と桜
↑小林一三翁胸像

桜だけではありません。この道がきれいなのは草の花のおかげでもあります。

花の道の草花1

花の道の草花2

花の道の草花3

花のみちのチューリップ

花の道の草花4
↑花の道の草花

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今年の花見(1) 

1月の終わりごろからいささか調子が悪いと思っていたのです。それでもなんとか2月を乗り切り、3月上旬あたりまでは普通に仕事をしていました。
ところがいろんなことがあって、ストレスが溜まり、私の場合はそれがバカ正直なほどすぐに呼吸器の症状になって現れます。
4月に入っても元気がなく、授業はすぐにエンジンがかかるのですが、それ以外の雑用はほぼやる気がありません(笑)。
これまで、言われたことは何でもかんでもあまりにも安請け合いばかりしてきたので、「そんな

    お人好し

ではやっていけないぞ」と先輩諸氏からさんざん言われてきました。それが今ごろになって思い当たるようになり、もうやりたくないことはしない、いいかげん「お人好し」は卒業しようと思います。
しかし体調不良はどうにもならず、京都の近衛邸跡(京都御苑北西部)に行こうと思っていた花見は中止しました。
満開で、「今日を逃すとゆっくり花など見られない」という日も、朝から不調でとても歩ける気分ではありませんでした。しかし曇っていた天気が少しよくなり、気温も上がったので、せめて地元の名所くらいには行っておこうと、徒歩7、8分の

    宝塚 花の道

まで歩くことにしました。少し歩くだけで息切れするのですが、宝塚市の中央を流れる「武庫川」(むこがわ)の流れが目に入るといくらか気分が良くなりました。

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新年度 

新しい年度が始まりました。
昨年のこの時期は体調不良でしたが、今年もまたよくないスタートです。やはりストレスが大きいのかも知れません。
その元凶である差別(あくまで私の認識です。相手はそうは思っていません、きっと)との闘いを続けつつ、

    勉強と教育

はトボトボとした歩みではありますが、頑張っていかねばなりません。
まず、夏までに幼稚園でおこなってきた文楽人形劇の実践報告をまとめるつもりです。
ポイントは
★文楽人形の可能性(幼稚園児とどう関われるか)
★文楽人形の可能性(朗読劇の視覚化として)
★上演した演目の内容と主題
★出演者の協力(地域と幼稚園)
★出演者の学び(生涯学習として)
などになると思います。
自己満足に陥らないように、記録し、報告するつもりです。
もうひとつ、夏までに論文をまとめたいと思っていますが、これはまだ目処が立っていません。

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今年も幼稚園(付900,000) 

3月の終わりに、奈良市の幼稚園から「今年も一緒に文楽人形劇をやろう」というご連絡をいただきました。
あっという間に六年目です。これまでに

  ごんべえさんとやまのかみさま

  ごんべえさんとさかなだいおう

  ごんべえさんとやまのかみさま(新演出)

  ごんべえさんのおむすびころりん

  ごんべえさんの「おさむらいでござる」


を上演してきました。
そのたびに地元のボランティアの皆様には無理難題を申しまして、四回の稽古で本番、平行して小道具製作をお願いしてきました。皆さん、必死に頑張ってくださり、すべて成功した、と思っています。
メッセージとしては、

  食べ物を大事にしよう

  自然の恵みに感謝しよう
 
  自然を汚さないようにしよう

  動物と親しもう

  地道に努力しよう

  自分の身の程を知ろう
    

など、やや教訓的なものなのですが、あまり明確にそういうことは言っていません。いわば、隠れテーマです。

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2016年4月公演初日 

文楽4月公演が始まりました。
この公演は久しぶりに

    妹背山婦女庭訓

の通し。
眼目の山の段は千歳、呂ら。
荷が重いかも知れませんが、桜の散る音を劇場一杯に響かせてください。
嶋師引退、咲太夫休演で線が細くなった感が否めませんが、だからこそ骨太な山、芝六、金殿などを期待します。
私は、昨年も4月は体調不良でかなりしんどかったのですが、今年も同じような感じで、また先立つものの事情(笑)もあって、多分、一回しか行けないだろうと思っています。
よって、前半はパス。
後半の平日にこっそり(笑)行くつもりです。
24日までの公演、みなさま、どうぞお楽しみください。