しゅくだいの締切間近 

子どもの頃、夏休みが終わりそうになると、宿題は全部できたのかどうか不安になることがありました。
おおむね7月中にやってしまうのですが、絵を描くとか、何かを作るとか、そういうことはあとまわしになりがちでした。また、算数や理科は好きではなかったので「難しいのはあとでやろう」とばかりに放置していたものもあったりして、きちんと確認しないとどうにもなりませんでした。宿題をするほうもするほうですが、あれを提出されたら先生も大変でしょうね。
仕事をするようになってからは、夏休みと言っても別に休むという感覚はありません。海外旅行に行くとか

    軽井沢でテニス

をするとか、そういう身分ではありませんから。
この夏休みもまず自分に宿題を課して、それをこなしていく日々でした。こうすると何よりもお金がかからなくていいのです(笑)。
8月末日締切のものが1つ、9月10日締切のものが1つ、そして締切というわけではないものの、夏の間に片を付けておかねばならないものが1つ、秋におこなう講演の準備(できれば来年論文にしたい)が1つ、そのほか、余裕があればできることをする、という内容でした。

    何もないところ

からものを書いていく場合、スタートの時点では何も先が見えなくて絶対にできないと思ってしまうことが少なくありません。自分ではこうすればこうなって、ああなって、という見通しは持っているのですが、霞がかかってゴールなど見えないのです。

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ポケモンGo 

うちの子が小さい頃にポケモンが流行りだしました。今二十代くらいの人たちが最初のポケモン世代ということになるのでしょうか。
もう流行は終わったのだろうと思っていたら、それどころか世界に広がっていって、アニメまでできて、そのアニメもまた世界で観られたのだとか。いやもうすごい話です。私もポケモンの名前(ピカチュウとか、フシギダネとか)はけっこう知っています。
『竹取物語』では、かぐや姫が大伴大納言という人物に結婚の条件として「龍の首の玉」を要求したのですが、授業でそれを取りあげるとき、龍がどんな具合にどんな「玉」を首に付けているのかについて、どう説明しようかと予習しながら悩んだのです。そして、授業で

    「ハクリュウ

が首に付けています」といったら学生にバカ受けしてしまいました。もちろんその際にはネットから探してきた「ハクリュウ」の画像をスクリーンに映し出すことを怠りませんでした。学生は私の口からまさかポケモンの名前が出てくるとは、と、ビックリしたようでした。作戦成功でした。
ただ、私の知っているポケモンは

    初期のもの

限定(150匹くらい?)で、もちろん全部は知りません。さらにその後、数が増えているらしいので、そこはさっぱりわかりません。数を増やしたのは、そうしないとユーザーが飽きてしまうからでしょう。さらに、ポケモンは「なんとか島」とか「かんとかタウン」とかいう、架空の場所にいるだけですから、ロールプレイングとしてもおもしろさに限界が来ていたのかもしれません。

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著作権(2) 

この夏の文楽公演で上演された井上ひさし作「金壺親父恋達引」をお聴きになった方は、語りや音楽としてはどんな印象をお持ちになったでしょうか。
この作品の舞台は江戸で、冒頭に「浅草のここ馬道」とありますから、浅草寺の東側の馬道界隈ということになります。井上ひさしさんにとってお馴染みの地域を舞台になさったのでしょう。今は浅草何丁目という言い方をするのかもしれませんが、「馬道」は町名として長く親しまれていました。
「夜の段」の冒頭では浅草寺のすぐ横に

    三五の月(十五夜の月)

が出ていましたが、へりくつをいうと、宵の頃に馬道からあの方向に、あの位置に満月が見える事はないと思います。まあ、そこは芝居なので。
浅草ということで、当然彼らの言葉は上方のものではありません。では江戸の下町言葉なのかというとそうでもなく、むしろ現代の共通語に近いでしょう。金左衛門は「〜じゃ」という言い方をしますが、口利き婆のお梶は、年齢も意地悪さも感じさせないあっさりした言葉を使っていました。語りや人形の動きでその性根は出ていたのだろうと思いますが、言葉遣いだけでいうとあまり悪婆首には合っていなかったように感じました。
若い登場人物たちもとてもすっきりとした、それだけに無国籍的な言葉遣いで、

    地方色や生活の匂い

はあまり感じませんでした。井上さんは「わかりやすさ」を大事にされたようなので、あえてこういう没個性的な言葉遣いになさったのでしょうか。

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著作権(1) 

紙芝居を学生の前で演じた時に、私は自分なりの工夫をしていくらかアドリブも入れました。するとある学生が「それはダメだと思う。やはり作者が書いたとおりに読むのが当然だ」という意見をくれました。たしかに作者は一字一句身を削るような思いで文章を書いています。それを読み手が勝手に変えるなんて許されてもいいのだろうか、という考えはあります。いかにも現代的というか近代的な考え方だろうと思います。
それでも私はアドリブを入れることはあり得るというか、演ずるものの

    自由裁量

に任せてもよいと思っています。まず、私が読んだのは芝居であることがポイントです。芝居にアドリブはつきものです。落語だって骨格は作者の文章に従うでしょうが、演者によって演じ方を変えるのはむしろ当然だと言えます。
文楽でも原作にいっさい手を加えないことをよしとする考えは根強くあると思いますが、私はそうは思っていません。
もうひとつ、この学生の意見はやはり

    著作権

の考え方が下敷きにあることに引っかかりを覚えます。近代的といった所以です。
平安時代の物語である『伊勢物語』は、誰が描いたのか分かりませんが、少なくとも作者は一人ではないでしょう。その成立は少なくとも三回にはわたっているといわれ、何十年もかけて今のような形ができたのだろうと思われます。
『源氏物語』はほとんどが紫式部の作でしょうが、100%かどうかはわかりません。主人公の光源氏が亡くなった後の巻について、後の時代には続編のようなものまで書かれています。

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金壺親父恋達引(3) 

それにしても、豪華な配役でした。和生、勘十郎、玉男、玉也、清十郎、簑二郎、勘弥、玉志、勘市。勘十郎さん以外で目立ったのは、手代豆助を遣った玉也さんでした。軽めの役ではありましたが、人形が先に動いている、といえばいいでしょうか、わずかな動きの中にいい味が出ていました。昔の玉也さんはその逆で、どうにも「人形遣いが芝居をしている」という印象が強かったのですが、今はすっかりそうではなくなりました。
簑二郎さんのお梶は、実は

    損な役

だったと思います。この芝居はほとんどが二枚目で、その中に金左衛門がいるからこの人物が際立っておもしろいのだと思います。ところがお梶は三枚目系で、金左衛門と同じ系列。しかし金左衛門の上を行くわけではなく、どうしても影が薄くなってしまいました。
玉男、清十郎、勘弥などの二枚目系は、二枚目であればあるほどいいので、それぞれお得意なところだったと思います。行平とお舟が実は徳右衛門の子であることがわかった、という

    「そんなあほな」

といいたくなるような場面は、彼らが二枚目だからこそおもしろいのでしょう。あそこを「そんなあほな」という崩した演技にしてしまっては逆効果で、真剣に親子の再会を喜び合う「くさい芝居」に徹すればいいのだろうだと思います。

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金壺親父恋達引(2) 

タイトルなのですが、公演プログラムには「かなつぼおやじこいのたてひき」とルビが振ってありました。私はずっと「かねつぼ」だと思っていたのでびっくりしました。本文にも出てきますから、英太夫さんの語りも「かなつぼ」で通されたのでしょうね。井上さんがそう書いていらしたのでしょうが、なんだか鉄製の壺みたいで、私は変な感じがします。
楽しみにしていた演目なのですが、実はがっかりしたことがあります。みなさんにはほとんど関係ない話だと思いますが、

    字幕

がありませんでした。古典ならある程度は「こういう話で、こういうせりふが続いて」というのが頭に入っていますが、なにしろ30年ぶりに観るわけですから、そこまでわかりません。よって私にとっては字幕が命綱だったのです。
国立劇場の考え方は、字幕は「語りをわかりやすくするため」のもの、ということでしょうから、こういう作品には馴染まないと考えられたのかもしれません。「むずかしいことをやさしく」の井上さんの文章ですから、聴いていればわかる、ということなのでしょう。もっとも、普段の字幕もやたら難しい漢字が出てきたりして、文楽通にしか分からないのではないかと思うようなこともあります。むしろ字幕は文楽にあまり

    馴染みのない人

に分かってもらうためのものではないのか、と私はそこも不思議に思っています。お役所仕事という言い方は失礼に当たるかもしれませんが、工夫の仕方はあると思います。
私ひとりのために字幕を作ってもらうことができないのはわかりますが、ひとこと愚痴っておきます(笑)。

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金壺親父恋達引(1) 

井上ひさしは稀代の作家だと思っています。私がもし作家になれるなら、漱石でも三島でもなく井上ひさしのような作品を書きたいです。芝居はおもしろく、鋭く、深みも味わいもある。小説も同じで、よく調べられて、話の作りが堅牢で、しかし重くならず、それでいて読後の余韻がすばらしいのです。井上さんのおっしゃる「むずかしいことをやさしく・・・」のお考えどおりです。
昭和40年代にNHKが作家の方々に依頼して、新作文楽を作る試みをされました。そのうちのひとつに井上さんの

    金壺親父恋達引

がありました。それにしても、NHKも昔はこんなことをしていたのですね。今はもうこういうことを望んでも仕方ないのでしょうか。NHK大阪が企画、主催して毎年一度でいいので素浄瑠璃の会を開き、そのプログラムのひとつに必ず新作を入れる、ということくらいしてもらえないものかと思うのですが。黒字にはならなくても、お客さんはある程度は入るはずです。放送もまずはラジオでいいのです。
『金壺親父』は、今回の公演プログラムの説明では、最初

    昭和47年

にラジオで、翌年には人形を入れてテレビで放送されたそうですが、さすがに私はまったく存じませんでした。まだ文楽に関しては横目で見ている時代でしたから。
私が知ったのは昭和61年のテレビ放送で、太夫は住、織(後の綱、源)ほか、三味線は清治ほか、人形は玉男(先代)、簑助、一暢ほか。もちろん玉男師匠が金左衛門でした。

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夏の終わり 

季節はいつ始まりいつ終わるというものではありません。暦では八月上旬に立秋があって秋が始まるのですが、まだまだそういう実感はありません。しかし、十日ほどあとのお盆の頃になると、秋の始めというのではないのですが、夏の終わりを感じることがあります。ぼんやりと季節は移ります。
広島や長崎の原爆記念日があり、お盆になり、とどめをさすように終戦の日。突拍子もないことをいいますが、仮に他の季節だったら終戦はもう少し長引いたのではないかと、いいかげんなことを思ったりしています。
夏の終わりだから、お盆だから、もう秋になるのだから、この季節感が

    終戦を決めた

と考えるのはばかげているようなそうでもないような気がしています。
もう何もかもがいやになるような、うだるような暑さ。それがやっと終わりに近づいた。もうやめよう、こんなことはもうやめよう、と昭和天皇も思ったのではないか。いや、思ったというよりは自分でも気がつかないうちにそれを感じていたのではないか。
私はこの時期になると毎年思い出すのが京都の

    百万遍

でおこなわれた『御堂関白記』(藤原道長の日記)を注釈する研究会です。京都にあった古代学協会が主催して、もうお名前を書いてもいいと思います、山中裕先生を中心に開かれていたのです。歴史学の先生はもちろん、国文学の先生もお出でになり、若手では関東、関西から、やはり歴史学、文学双方の専攻学生が集まってきました。
最初に参加したときは何もわからず、こんな難しい研究会にはついていけないと頭を抱えたのですが、山中先生が声をかけてくださり、熱心に指導してくださったこともあって、なんとか一番後ろからついていったのでした。

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文雀師匠 

文楽人形遣いの吉田文雀師匠が亡くなりました。
88歳でいらしたとのことです。東京出身で、入門されたのはあの吉田文五郎。私の世代では幻の名人です。
二派分裂のころは因会にいらして、先代玉男師匠ともずっとご一緒だったようです。玉男、簑助というコンビはあまりにも有名ですが、おつきあいの長さと言うことからいえば玉男、文雀のほうが長く深いものがあったかもしれません。文雀師匠は玉男師匠の左をお持ちになったこともあったようですし。
そういえば、『曽根崎心中』を玉男、文雀で拝見したこともありました。
西宮市の「夙川(しゅくがわ)」という川を下ったあたりにとても瀟洒なお住まいを構えられていて、表札もとても洒落た感じで、「吉田文雀」と横書きされていました。
私が師匠のご自宅の近くを通るのは阪急電車の夙川駅からひたすらこの川を下って西宮市立図書館に行く時か、西宮神社にいくときくらいでした。一度師匠のお姿をお見かけしたこともありました。
申すまでもなく、師匠の人形は母性のあたたかみに魅力があり、典侍局とか
お柳とか渚の上とか狐葛の葉とか。玉男、文雀で目に焼き付いているものに『良弁杉由来』「二月堂」があります。「そんならあなたが」「そもじが」。泣かずにはいられませんでした。狐葛の葉は、今の天皇が在位二十年で大阪に来られた時にご覧になった演目でした。嶋師匠の切場で文雀師匠の葛の葉。
お柳が緑丸を見る様子、葛の葉が童子を見つめる姿、渚の方が鷲にさらわれゆく我が子を茫然と見送るありさまなど、胸がいっぱいになるほどでした。
婆首でも他の追随を許さないものがありました。『菅原』の覚寿はその代表的なものだったと思います。凛とした婆の性根をあれほど出せる人はなかなかいないだろうと思います。これもやはり玉男(菅丞相)、文雀でした。
当たり役を羅列していったら、それだけで大変な量になってしまいそうです。
歌舞伎の当代坂田藤十郎、当時の扇雀さんとのご縁で、千(扇)の雀から一羽もらって文雀と名乗られたようにうかがいました。とてもきれいなお名前だと思います。
せっかくおなじみになった「文雀」のお名前、今すぐにでも和生さんが継がれたとして異存のある方がどれくらいいらっしゃるでしょうか。
和生さんほどの方ですから、やはり襲名披露に一幕設けるのは当然として、一年前には公表しなければならないでしょう。早いかもしれませんが、ぜひ来年の秋にでも、遅くとも二年後の春にはこの立派な名を継いでいただきたいものです。
玉男、勘十郎、簑助、文雀、というのは私にとって最初に接した名人たちのお名前なのです。ぜひまた番付に揃うことを願っています。
文雀師匠とは個人的にお付き合いがあるはずもありません。なんといっても世代が違いますし、あちらは天下の人間国宝。どちらかというと簑助一門の方とお話しさせていただくことが多かった私などおそばに近づくこともできませんでした。それでも人間国宝になられたとき、歌人の松平盟子さんと一緒に楽屋にお邪魔してお祝いを申し上げたことがありました。師匠はとてもにこやかにお話しくださいました。その当時から膝があまり良い状態ではいらっしゃらず、足を投げ出した状態でお話しになっていたのが気にはなりました。
『上方芸能』に私が文章を書いていることはご存じでした。あるとき、私が間違ったことを書いてしまい、編集部に師匠からご指摘がありました。まことにお恥ずかしいばかりでした。しかも驚いたことに、その直後に師匠から私の自宅にお電話を頂戴しました。いきなり「文雀でございます」って、ビックリしたのなんの。私の間違いについてやさしく懇切にお教えいただいたうえ、「また何かわからないことがありましたら、いつでもお電話ください」とのこと。送受器を持つ手がガクガクするくらいでした。
電話では私なりに失礼のないようにお話ししたつもりでしたが、やはり直接お礼とお詫びに行かねばと思いました。
次の公演のときに楽屋にお邪魔しましてご挨拶しましたら、「今、時間ありますか?」とおっしゃいます。「はい、もう今日は何も予定はございません」とお返事致しますと「では床山に行って首(かしら)のお話でもしましょう」とのおことばを賜りました。そして床山部屋でいろいろな首を取り出してはお話ししてくださいました。完全な個人授業で、申し訳ないやら光栄に存ずるやら。今思い出しても、ただただ「師匠、ありがとうございました」と感謝申し上げるほかは何もできません。

幼稚園での文楽人形劇のまとめ(2) 

最初に依頼があったのはメールだったのですが、それはもうどこかへいってしまいました。ですから明確なことは分からないのですが、2011年の夏あたりに依頼されたようです。最初は学生ではなく、一般の方にお願いしたいと思っていたのですが、やはり何かと難しく、実現しそうにありませんでした。いざとなったら私ひとりで人形を持っていって、

    川上のぼるさん

のまねなどしてみようかと、本気で思ったものでした。ところがMさんという学生がいまして、この人がやってもいいと言ってくれました。するとほかにも数人手を上げてくれた人がいて、これなら学内で練習して、当日一回行けば済むというわけで、当時4年生だった4人のみなさんにお願いすることにしたのです。4年生は就職など大変ですが、授業は少ないのでその意味では時間に余裕があるのです。
そして熱心に稽古をしてもらって、Mさんをリーダーにして奈良に乗り込んだのでした。細かいことはこれ以上書きませんが、帰りは意気揚々と高速をぶっ飛ばして、吹田市の

    回転寿司

で散財したことは忘れられません。Mさんはバレーの選手で、身長は170cm超。お寿司は大好きということで10皿では済まない量をぺろり。
翌年からは学生に頼むことができなくなりましたので、地元のみなさんにボランティアとして協力していただくことになり、以後はずっとその形で実施してきました。
この実践報告では、この協力者のみなさんの言葉もできるだけ紹介していきたいと思っています。

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幼稚園での文楽人形劇のまとめ(1) 

私の夏休みは8月6日から始まりました。授業がない、という意味では9月半ばまでは休みです。しかし当然、今年もいくつか宿題があります。
一番の大物は、また後日申し上げることもあろうかと思いますので詳しくは書きませんが、あと半年頑張らねばならない長丁場の仕事です。でもこの夏休みが山場です。
その他に3つ原稿があります。ひとつは依頼原稿ですから書かないわけにはいかないのです。あとは頼まれてもいないのに(笑)書こうと思っているもので、

    サボろう

と思えばサボれます。しかしサボってばかりいたのでは、いくら安っぽいとはいえ大学教員の名折れです。夏休みはこういう仕事をするためにあるのですから、頑張らねばなりません。
まず頼まれ原稿をお盆までに書き上げようと思っていたのですが、それはかろうじてできました。長いものではなく、原稿用紙11枚です。次は大物を継続しつつ、あとふたつの原稿をしゃにむに書いてくばかりです。そのひとつは、幼稚園での文楽人形劇の試みについてのまとめです。論文ではなく

    実践報告

という形になります。
奈良市の某市立幼稚園、いえ、もう活字にするつもりですので名前も書いておきましょう、奈良市立富雄第三幼稚園での試みです。ここは帝塚山のゆったりした住宅街を高台に登ったところにあり、すぐ隣には富雄第三小学校、中学校があります。二年保育で、多くの子どもたちはそのままお隣の小学校に行くようです。園庭など広々としていて、野菜畑もあります。住み込みで働きたいです(笑)。

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講座を終えて(5) 

草の庵を見つけた長者が戸を開けると、そこには千手観音像が建っていたのです。しかも驚いたことに、その手には提げ鞘と紅の袴がありました。
長者は「あの童の行者はこの観音様の化身だったのだ」と気づき、一同は感激してしまいます。鎧姿の無骨な武者たちも随喜の涙を流し、鎧を脱いで矢を折り、刀で自らの髻を落としてしまう者もいました。
長者も妻も娘もその場で髪を切り、出家してしまいます。
これが『粉河寺縁起絵巻』のあらすじです。
この話を絵と言葉で表現したものを十回にわたって読んできました。私は美術の創作については分かりませんので配色がどうとか構図はどうなっているとか、そういう話は苦手です。そうではなくてむしろ当時の

    庶民の生活

の様子などを考えながら読んでいくのです。
たとえば以前書きましたように、鹿の皮がどのように用いられているかを絵の中に探ってみるのです。すると鹿という動物がいかに当時の人々の生活に密着していたかが分かってくるのです。また、家がいくつか描かれますのでその構造はどうなっているのか、壁は何でできていて、戸はどういう造りになっているのか。橋はどのように作られていたのか、馬に装着されているものは乗る人によってどう違うのか(例えば身分や男女)などなど、さまざまなことに感心を持ちながら

    調べてはお話し

しているのです。
私は決して物知りではありませんので、すべて調べるのです。源氏物語同様、かなり時間がかかりますが、それはすなわち私自身の勉強ですので、まるで苦になりません。

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講座を終えて(4) 

行者が七日で造ると言っていたので、猟師は精進してその日を待って、八日目に行ってみると、庵の中には驚くばかりに美しい「千手観音像」が出来上がっていました。しかも不思議なことに周りには造仏した形跡、たとえば削りくずひとつもないのです。あたかも

    自然に湧き出た

かのような観音像だったのです。あまりのことに感動した早速家族や近所の人に知らせると、人々は我も我もと観音像を拝み、帰依したというのです。
これが『粉河寺縁起絵巻』の前半部の内容です。つまり、こうして粉河寺はできたのだ、という「縁起」が描かれているのです。なお、現在の粉河寺ではこの猟師を「大伴孔子古(おおとものくじこ、くしこ)」という名で伝えているのですが、絵巻にはその名は出てきません。
『粉河寺縁起絵巻』には後半があります。寺の起こり(由緒)という意味での「縁起」としては前半で完結するのですが、もうひとつ霊験について語ることも寺の縁起を語る場合には重要です。
河内国に長者がありました。その威勢はたいしたもので、なかば貴族のような生活をしています。では何の不足もないかというと、そうではないのです。いくら裕福であっても長者は不幸なのです。
というのは、一人娘が

    重い病気

で、しかも若い娘には気の毒なほどからだが腫れ上がり、むくんで、強烈な匂いのする膿が出てやまないのです。医学ではどうにもならず、高僧を頼んで祈禱もしてもらったのですが回復の見込みはありません。

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講座を終えて(3) 

鹿という動物は、今や都会で見ることはありません。ものを知らない子どもだった私は、小学校の頃は鹿は奈良にしかいないものだと思っていたかもしれません。もちろん今でも山の中に行けば野生の鹿はいるわけで、高速道路の標識には鹿の横断に注意、というものもあります。
昔、鹿は狩猟の対象となっていました。貴族などが「獣肉は食べない」などと気取っている時代にも、鹿は例外。夫が明日狩りに行くと言うのを聞いた和泉式部は鹿の鳴く声を耳にして、

  ことわりやいかでか鹿の鳴かざらむ
    今宵かぎりの命と思へば

と詠みました。今夜限りの命と思っているから、鹿が鳴くのも当然だというわけです。鹿の声はどこか切ないのです。
庶民、しかも山住みの人たちは、農業もしたでしょうが、狩猟も大事な仕事でした。海の近くなら海産物もありますが、山では動物性タンパクというとウサギや鳥やイノシシなどと並んで鹿は大事な食糧だったのだろうと思います。また、鹿には他の用途もあります。その革が役に立つのです。これを干して衣料にすることができました。冬などは軽くて温かいコートとして重宝したのではないでしょうか。また馬に乗るときなどに腰から下を覆う

    行縢(むかばき)

には鹿の皮を用いるのが基本です(布を使うこともありましたが)。荷物の覆いにも鹿革は用いられました。このように、肉だけでなく、大きさも適当だった革も大変役に立ったため、鹿は狩の対象として重要だったのだろうと思います。

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講座を終えて(2) 

そんな『源氏物語』の講座が一段落したのですが、最後にみなさんからメッセージをいろいろいただきました。
紙に書いて持ってきてくださるのですが、何かまずいことが書かれているのではないかとおそるおそる拝読致しました。さすがに終わったところですからあまり悪口はありませんでした(ホッ)。中にはとてもおもしろい、あるいは参考になることを書いてくださる方もいらっしゃるのです。
以下にいくらかご紹介しておきます。
前期に読んだ部分にはかなり

    音楽

について書かれたところがありました。もちろん雅楽です。たとえば光源氏が住吉に参詣した時には社頭で夜を徹して音楽を奏し、舞楽をおこなったのです。
そこを読んだ時に四天王寺の舞楽のお話もしました。すると、あるかたが早速「行ってきました」とおっしゃるのです。篝火を焚いての奏楽の予定だったそうですが、雨のために室内に変更。しかし「おかげで

    目の前で

観ることができました」とのことでした。
「振鉾(えんぶ)」「迦陵頻(かりょうびん)」「納曾利(なそり)」「賀殿(かてん)」「長慶子(ちょうげいし)」。このかたは「引き込まれる思いでした」と書いてくださったのでした。
「この講座では時代背景や当時の文化芸術の話をしてくれるのでありがたい」とおっしゃるかたもあって、とても嬉しく心強い思いを致しました。
『源氏物語』の専門家ではありませんので、せめてその周辺の時代背景のようなことをお話しするのが私の生命線のようなものですから、そう言っていただくとありがたいのです。

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講座を終えて(1) 

学生の授業が終わってからも私はなおもおしゃべりしていました。公開講座を続けているためです。この講座は開始が遅くて6月からなのです。ですから10回連続でお話ししようとすると8月第1週まで入ってしまいます。
私は結局5日が最後でした。
この日は『源氏物語』だったのですが、私自身が一番楽しんでいるのではないかと思うほどおもしろいです。
読んでいるのは「若菜下」巻です。この日は、光源氏がその邸(六条院)で

    女楽

すなわち女性だけの演奏会を催したところを読みました。とても有名な場面で、紫の上(和琴)、明石御方(琵琶)、明石女御(筝)、女三宮(琴=きん)の四人による合奏です。
明石御方の琵琶は名人級で神々しいまでの技を披露します(と言ってもこの人は技をひけらかすような演奏はしませんが)。紫の上の和琴はとても親しみのある者で当世風の華やかさも持っています。明石女御の筝は、楽器の性質上あまり前面に出ないのですが、かわいらしく瑞々しい演奏でした。女三宮の琴はやや幼さはあるものの、最近熱心に稽古をしているので危なげはありません。
このあと光源氏は、

    薄明かりの中で

四人の女性たちの様子を見ます。女三宮は二月二十日頃の柳のわずかにしだれたような様子、明石女御は藤の花が夏になってもなお今を盛りと咲いている様子、紫の上は桜に喩えたとしてもなおも物足りないほどのすばらしさ、明石御方は花も実もある橘。そんな比喩がおこなわれるのです。着ているものは女三宮は桜襲(さくらがさね)の細長、明石女御は紅梅襲、紫の上は葡萄染(えびぞめ)の小袿に薄蘇芳の細長、明石御方は萌黄の小袿に柳襲の細長という、唯一緑系。それに彼女だけは裳を着けています。

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『源氏物語』逍遥ー虫の音しげき浅茅生ー(3) 

「虫の音」は「(母君が)泣く声」、「露」は「涙」のことです。「浅茅生」は丈の低い茅(ちがや)の生えているところを言いますが、ここではやはり荒廃した屋敷の比喩として用いられます。つまり「虫の音しげき浅茅生」は激しく泣いてばかりいる母君の姿そのものということになるでしょう。母君は娘の形見として装束や髪上げの品などを命婦に贈ります。
 命婦が内裏に帰ると、深更にもかかわらず、帝はまだ起きていて、女房たち数人に「長恨歌」を絵にしたものなどを話題に語らせていました。
 命婦が渡した母君からの手紙には
  荒き風防ぎし蔭の枯れしより小萩が上ぞ静心なし
  (いつも寄り添って激しい風を防いでいたものが枯
  れてから小萩のことが落ち着いて見られません)
とありました。帝の「小萩がもとを思ひこそやれ」に対応した歌です。更衣が亡くなってからは若宮のことが案じられてならない、というのです。
 命婦が贈られた更衣の形見の品を見せると、帝は
  尋ね行く幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべく
  (亡き人を尋ねることのできる幻術士はいないもの
  か。人づてにでも魂のありかを知れるように)
と詠みます。「長恨歌」では方士(仙術をおこなう人)が楊貴妃の魂を尋ね当て、証拠としてかんざしを持ち帰ったことになっていますので、形見の品を見て自分にもそういう幻術士がいてほしいと独詠しているのです。
 帝がしきりに「長恨歌」になぞらえて追憶している折しも、あの弘徽殿女御の部屋では管絃の遊びの音が漏れてきます。帝の心情を無視するような行為です。

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『源氏物語』逍遥ー虫の音しげき浅茅生ー(2) 

 帝のやさしさが夕月の光なら、娘を失った母君の悲痛な心は八重葎(やへむぐら)に喩えられているようです。多くの蔓草の意を持つ「八重葎」は、むしろ「荒れた家」の比喩として用いられることの多い語です。母君は娘に恥をかかせないためにも精一杯家を手入れしていたのですが、今は悲しみに暮れてそれどころではありません。
  草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月
  影ばかりぞ八重葎にも障(さは)らず射し入りたる。
 手入れされない庭の草が背丈を伸ばし、それが野分で荒らされたのだろうと命婦は哀しみを覚えます。しかしその八重葎にもさえぎられることなく月の光が射し込んでいるのです。藤原兼輔の「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな(親の心は闇ではないけれど、子を思うと闇路に迷うように惑乱するばかりだ)」(『後撰和歌集』)というきわめて有名な一首によって、親の気持ちはしばしば「闇」に喩えられます。その闇の中で八重葎のように荒れすさんだ心を癒しかねている母君に「月影」のような帝のいたわりが届くのです。命婦は母君に若宮とともに参内せよという帝の言葉を伝え、手紙を渡します。すると母君は「目も見えはべらぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ(目もくらんでいますが、このように畏れ多いお言葉を光として拝見いたします)」と言います。闇の中の八重葎に射し込む月の光のように仰せ言を受け止めているのでしょう。
 帝からの手紙にはこんな歌が書かれていました。
  宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ
  (露を吹き飛ばしたり結んだりする風の音を聞いていると
  小萩のような若宮がどうしているかが気になって思いやる
  ばかりです)

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『源氏物語』逍遥ー虫の音しげき浅茅生ー(1) 

大阪にある季刊の短歌雑誌に『源氏物語』について何か書くように言われて、ちょうど『上方芸能』の文楽評と同じペースで書かせていただいています。やはり連載を持つのは緊張感があっていいものです。以前その一回目のものをここに公表しましたが、第二回が最近刊行されましたのでまた掲載しておきます。

 桐壺更衣は宮中を出たその夜にはかなくなり、女御にさえしてやれなかったことを悔やむ帝は三位の位を贈ります。そして他の后妃を召すこともなくなり、七日ごとの法事がおこなわれる更衣の里邸に見舞の品々を送りつつ、更衣とともに里邸に退出した若宮(光源氏)の様子を尋ねては無聊を慰めようとします。
季節は秋になりました。秋は物悲しい季節、と現代人の多くは思うのではないでしょうか。実は『万葉集』には真正面から「秋は悲しい」と詠んだ和歌はありません。ところが中国文学の影響を強く受けた平安時代になると「おほかたの秋くるからに我が身こそ悲しきものと思ひ知りぬれ」「わがために来る秋にしもあらなくに虫の音きけばまづぞ悲しき」(いずれも『古今和歌集』)のように、次第にその意識が定着していきます。
 もともと秋は「実り」「収穫」「収穫物の商い」の季節で、「商(あきな)い」の「あき」は「秋」と同じく「収穫物を交換する時期」のこととされます。秋は活力のある多忙な時期だったのです。しかし古代中国の詩人たちは風(野分を含む)、夜長、虫の声、雁、霜、肌寒さ、月、紅葉、落葉などに敏感に愁いを感じ取りました。紀元前三世紀の楚の人、宋玉は「悲哉秋之為気也(かなしきかな、あきのきたるや。悲しいことだ、秋の気といったら)」(『楚辞』「九弁」)と嘆じ、唐の詩人白居易は「大抵四時心総苦、就中腸断是秋天(たいていしじこころすべてくるしけれど、なかんづくはらわたのたゆるはこれしゅうてん。四季を問わず心は苦しいものだが、とりわけ断腸の思いがするのは秋の空だ)」と詠みました。

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立憲主義(2) 

政治や法に興味がないと言いながら、私は憲法のあり方についてはわずかながら関心があります。こまごまとした法は知らないのですが、憲法というのはその国の大まかな姿を示すものだからです。「憲法」と言いますが、「法」というよりは理念のようなものだと思っています。
民主主義は基本的には

    多数決

でしょうが、多数決の結果が正しいとは限りません。多数決で法律ができても、その法律が本当に国民にとって有益なものかどうかは、場合によってはその人たちの人生が終わったあとで分かることもあると思います。あとになって「あんな法を作るんじゃなかった」「あんな政党を支持するんじゃなかった」という例はいくらでもありますし、「戦争だ、鬼畜米英を打ち破れ」というスローガンが正しかったと思う人は今は少数派のはずです。
また、多数を救うためには

    少数が犠牲

になっても仕方がないという考え方があります。10人の人がいて、9つのものを分けなければならないとした場合、たまたま気の弱いAさんという人が「あなた、我慢してください」と言われ、ほかの9人の人が「そうだそうだ、Aさんが我慢すべきだ」といったら多数決でAさんはひどい目に遭ってしまいます。
「それは人の道に反しているでしょう」といったところで、「多数決です」「民主主義です」「法的に問題ありません」という理屈が通ってしまう世の中。私はおかしいと思います。

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立憲主義(1) 

文系に進んで出世するなら、経済学部か法学部あたりを出て会社務めをしたり法律の専門家になったりすればよい、という考えが高校時代の私の頭にありました。起業するというのはあの当時はまだ無謀な事という意識が強かったかもしれません。父親も経済学部か法学部(または商学部、経営学部など)に行きなさいと言っていました。
しかし私はまるで食指が動かず、中でも法学部だけは受験するつもりはありませんでした。法学部出身の方には失礼ですが、あまりおもしろそうには思えなかったのです。裁判官とか弁護士とか、ああいう仕事にも就きたいとは思いませんでした。で、結局私は

    出世とは無縁

と思われていた文学部に行ったのでした(笑)。
ですから法律については今もさっぱりわかりません。政治ついても関心がなく、選挙に参加することで民主主義が守られるというのは幻想であるという思いさえ抱いています。私が投票した1票なんて実際に社会に何の影響力ももたらさないのは明らかです。
民主政治に参加することが、人間が真に人間であることを保証するという考え方もあるようです。公の場で

    巧みな弁舌

を駆使して時に喝采を浴びることで人間らしい生き方ができるのだという考え方です。それを職業とする政治家以外の人はともかく、それ以外の人でもテレビのコメンテーターなどになるとペラペラと立て板に水を流すごとき弁舌を持った人がもてはやされるものだと思います。

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嫉妬とうはなり打ち(7) 

もうひとつ、『骨董集』の絵の左下にはこんなことも書かれています。
「貞室が 玉海集 に「しもをとこのすり木もてわかなはやしければ うはなりがわかなもたゝく手摺小木」此發句 山の井 にも見ゆ 摺木もて若菜を打をうはなり打にたとへたるも此圖にあへり(貞室の『玉海集』に「下男がすりこぎで若菜を摺っていたので『うはなりが若菜のみならず若妻もたたく手摺小木』。この発句は『山の井』にも見える。すりこぎで若菜を打つのを、うはなりうちに喩えたのもこの絵に合っている」)。
貞室というのは貞門俳諧師の

    安原貞室(1616-73)

のことです。
というわけで、山東京伝の『骨董集』に見える「うはなりうち」の絵を眺めたのですが、この絵の登場人物たち、なるほど真剣なのでしょうが、その一方、どこか楽しそうには見えないでしょうか。「楽しそう」というのは言い過ぎとしても、私はなんとなく

    芝居っ気

のようなものを感じてしまうのです。「こなみ」一統は台所用品を振り回して「うはなり」を追いかけていながら、相手にけがをさせる気はなくて、ただそのあたりにあるものを壊して憂さを晴らしているような感じ。言い換えると、「こなみ」は「うはなり」を許さないのではなく、許すために破壊行為をしていて、「うはなり」は許してもらうために抵抗せずに逃げ回っているようにも思えるのです。「これだけのことはやらせてもらうからね」「それだけやったんだからもういいでしょう」とでもいう、手続きというか、段取りというか。

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2016年文楽夏休み公演千秋楽 

猛烈な暑さです。
特に8月に入ってから連日猛暑日になって、体調を崩しがちな人も多かったようです。
私の部屋の温度計を見ると、最高で

    37.0度

という日がありました。
じっとしているのも苦痛でした。
そんな日々でしたが、本日文楽夏休み公演が千秋楽を迎えました。
皆様お疲れさまでした。

次は東京。
国立劇場開場50周年記念だそうです。

<第一部>11時開演
一谷嫰軍記(堀川御所、敦盛出陣、陣門、須磨浦、組討、林住家)
<第二部>4時開演
寿式三番叟
一谷嫰軍記(弥陀六内、脇ヶ浜宝引、熊谷桜、熊谷陣屋) 

咲太夫さんが「宝引」に回られたので、今回も「切」の字は番付にありません。
「陣屋」は呂勢・清治から英・団七。団七師匠というとかつては津太夫師匠の三味線でここを弾かれましたよね。
「林住家」は千歳・宗助が奥。
簑助師匠は「林住家」の菊の前、和生さんは敦盛(小次郎も)と乳母林、勘十郎さんが熊谷、玉男さんは忠度、清十郎さんの相模、勘弥さんの藤の局。

どうせなら11月も多少配役を変えてこのまま上演していただいてもよかったのですが(笑)。

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嫉妬とうはなり打ち(6) 

山東京伝『骨董集』に描かれた絵の、右下の3人のおとなの見物人はすべて女性ですが、やはり女性が興味を持ったのでしょうか。子どもを抱き、背負い、手を引いています。ふと思うのですが、ここにもし男性の野次馬がいるとするなら、彼らはどんな顔で、どんな思いを抱きながらこの争いを見るのでしょうか。

    根っからの野次馬

ではいられないように思うのですが。
文字も細かく書かれています。
タイトルは「古画 後妻 打圖(こぐわ うはなり うちのづ)」。
右上には「此女後妻なるべし かしらにむすびたるはかづらひもといふものなり これふるきさまをゑがけるあかしなり さる楽(がく)の能の女のいで立に かづらひもをかくるはふるきふりなり 上古には 女男(めを)ともにかしらのかざりに蔓草(つるくさ)をかけしを 髪葛(かづら)といへり かづらひもはその遺風なり(この女が後妻であろう。頭に結んでいるのは「かづらひも」というものである。これは

    古体を描いた

証拠である。猿楽の能の女のいでたちに「かづらひも」をかけるのは古い風体である。上古には女も男も頭のかざりに蔓草をかけていたのを「髪葛」といった。「かづらひも」はその名残である)」とあります。右端の女性が頭に付けている「かづらひも」を説明して、古い時代を描いたものであると述べています。

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第32回だしまきの夕べ 

お詫び申し上げます。
この七月、いろいろなことがあって頭がうまく働かず、「だしまきの夕べ」の告知をすっかり忘れておりました。実は昨夜

    8月6日(土)

がその当日でした。
直前になってやたけたの熊さんから連絡をいただき、「えっ! もうそんな時期ですか!」とお答えする始末でした。
今さら告知する意味はないという時期になっており、本当に失礼致しました。
私は暑さですっかり参っており、失礼致しました。
次回は何とか参加できるような平和な秋になることを願っております。

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嫉妬とうはなり打ち(5) 

『昔々物語』は「うはなりうち」について「今から百二、三十年前にはこういうことがあった」というのですが、この本は1732、3年頃の刊行ですから、そこから130を引くと江戸時代の初めのことになります。そして「以前はあった」というのですから、刊行時はもう見当たらない習慣だったと言うのでしょう。それにしても、いちいち口上の形式、内容まで決まっているのが、おもしろいと言えばおもしろいのです。
『昔々物語』は、最後に「相当打(そうとううち。「うはなりうち」のこと)に加わるよう頼まれる女は二度も三度も頼まれるもので、七十年ばかり前に八十歳くらいの老婆が『私は若い頃に

    十六度頼まれた』

といっていた」と記しています。このおばあさん、若い頃はかなりのアスリートだったのでしょう。女子レスリングに吉田さんという「霊長類最強」の人がいるそうですが、このおばあさんも負けていないのではないでしょうか。プロというわけではないかもしれませんが、「『うはなりうち 引き受けます』という看板でも出していたのでしょうか。あるいは「うはなりうちコンサルタント」のような人がいて仲介したのでしょうか。報酬があったと見るのはまんざら間違いではないと思うのですが。
『狂歌咄』にはこんな話もあります。教月上人という聖が国内各地を修行して回ったのですが、筑紫国のある里で「うはなり打ち」に出くわします。この上人、それを見て一首詠んだそうです。

  世の中に女の心すぐならば
   女牛(めうし)の角やぢやう木ならまし


女の心というものは、曲がっていて当然、嫉妬も当然、と諦観したような、しかし滑稽な一首です。女性のみなさん、失礼しました。私じゃありません、教月さんが詠んだのです。

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嫉妬とうはなり打ち(4) 

前シテは「あら恨めしや、今は打たでは叶ひ候まじ」と言って葵の上(舞台に置かれた小袖)を打ち、ツレの照日の巫女は「六条御息所ほどの御身にてうはなり打ちの御振舞。いかでさることの候べき。ただ思し召し止まりたまへ」と訴えるのですが、御息所の霊は打擲をやめません。結局横川の小聖が祈禱のために呼ばれ、霊はそれに負けて去るのです。
謡曲では「三山」にも「ねたさも妬し、うはなりを打ちちらし、打ちちらす」とあり、「鉄輪」にも「命をとらむと笞(しもと)を振り上げ、うはなりの髪を手にからまいて、打つや宇津の山の夢うつつとも」と出てきます。

    室町時代

には「うはなり打ち」という言葉はよく知られた言葉だったのでしょう。実際、室町時代から江戸時代にかけては、武士の妻の面目に懸けて「うはなり打ち」がよくおこなわれたようです。
おもしろいことに、といっていいのかどうかわかりませんが、「うはなり打ち」は定型化するのです。
江戸時代、享保十七年(1732)か翌年にまとめられた書に

    昔々物語

というものがあります(タイトルはいろいろあって固定しません)。この中に「相応打」について書かれているところがあります。
百二、三十年前には「相応打ち」というものがあって、これは「うはなり打ち」と同じことだと言い、さらにそのあとに相応打ちの詳細について書き記しているのです。

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嫉妬とうはなり打ち(3) 

嫉妬による元妻の攻撃は日本だけの話ではありません。
白居易の「上陽白髪人」は、こういう話を伝えます。

  楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を一身に受け、他の女たちは上陽などに
  置かれました。ある女性は十六で皇帝に召された時に「あなたの
  容貌は芙蓉のようで、胸は玉のように美しい」と言われたのです
  が、皇帝にお目通りする前に楊貴妃に睨まれ、嫉妬されて上陽宮
  に送られ、そのまま老いて白髪の老婆になってしまった。

絶世の美女の楊貴妃もまた弱い人間だったのでしょうか。この話は『古事記』の磐姫命の話に通うところがあるように思われます。
『源氏物語』「葵」巻にはいくつか有名な場面があります。光源氏が葵祭の斎院の禊の時に行列に加わるというので見物人が大変な数になります。彼の妻の葵の上は懐妊中でしたが、女房に誘われて出かけることになりました。仮にも左大臣の娘で今をときめく光源氏の妻ですから怖いものなし。遅れていったので車がたてこんでいますが、権威を見せてそのあたりにいた車をどけてしまいます。しかしどうしても

    言うことを聞かない車

があり、ついに下男同士の喧嘩に発展、あげくには暴力的にその車を排除してしまったのです。その車に乗っていたのが六条御息所でした。大臣の娘で元皇太子夫人。皇太子は若くして亡くなり、その後は光源氏と付き合っていたのです。美貌で芸術的センスがあるのですが、光源氏より七歳年長で、性格は潔癖。光源氏はどこか煙たく思っている様子もあったのです。そんな折りに葵の上の懐妊。御息所にしたらもう自分は終わりではないかという気持ちになったかもしれません。

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嫉妬とうはなり打ち(2) 

十世紀の村上天皇、いくらなんでも、中宮に「君の妹と会いたいから手引きしてくれ」と頼むのには限界がありました。そこで今度は内裏の女房に頼んでひそかに会うようにし、彼女(藤原登子)のために調度品も作ったりしたのです。それがエスカレートしつつあることを中宮安子は漏れ聞いて不愉快な気持ちになりました(そりゃそうでしょ)。天皇もさすがにまずいと思い、登子もまた恐ろしいことと思い、この情事はいったん終わりを告げるのです。
このあと、まもなく登子の夫である重明親王が亡くなり、村上天皇は「これで遠慮なく登子に逢える」と、性懲りもなく

    期待する

のですが、やはり中宮安子に遠慮してそうもいかないのです。やがて安子が亡くなると、やっと登子は天皇の尚侍(女官ですが、事実上天皇の愛妾)となって寵愛されたのでした。この話をどう読み取るかは人それぞれですが、私などは天皇も所詮弱い人間なのだと思わざるを得ないのです。
俊寛僧都らとともに鬼界島に流された人物に、平康頼がいます。彼が許されて都に戻ってからまとめた説話集に『宝物集』があります。それには村上天皇のこんな話も載っています。
天皇は、中宮安子の従妹でもある宣耀殿の女御(芳子)と戯れている所をたまたま安子に見られてしまいます。安子はあまりにも妬ましく思ったので、

    土器(かわらけ)

のこわれたもので打ちつけたのです。帝は腹を立てて、女だてらに何ということをするのかと言って、安子の兄弟たちを謹慎させました。安子本人ではなく兄弟に罰を与えるところが今の常識から考えると不可解ですけれども。

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嫉妬とうはなり打ち(1) 

まだずいぶん先のことなのですが、例年の市民大学講座で何かお話しするようにという依頼がありました。今年は本来の専門分野の平安時代のお話をしようということで、『源氏物語』「葵」巻の六条御息所の執念について考えようと思いました。しかし、この話は有名ですし、私は無名の教員です。この場面に限定するとかえって私などの手には余ると考え、もう少し広く、女性たちの嫉妬の話にしようかと考え直しました。というよりは、「葵」巻を素材にした謡曲

    『葵上』

に言及することを考えたのです。そのうちに、そこに出てくる「うはなり打ちの御振舞」という一節から、さらにうはなり打ちを広く見てみようかと、どんどんイメージが広がっていったのです。
早速いろいろ資料を調べつつあるのですが、それをこのブログに書き留めて、秋の予習にしよう、早い話がブログをノート代わりにしよう(笑)と思いついたのです。
女性の嫉妬の話は男性の浮気の話とセットになって今も昔も登場します。人間、進歩がありません(笑)。

    『古事記』

に遡ると、嫉妬と言えばこの人、仁徳天皇の皇后の磐姫命(いはのひめのみこと。「石之日売命」など、書き方はいろいろあります)がいます。なにしろ皇后ですから、天皇周辺の女性たちもめったに逆らえません。なにしろ、ちょっとでも目立ったことをすると「足もあがかに妬みたまひき」(足をバタバタさせて妬まれた)というのですから。

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