秋の美術館 

絵のことはよくわかりませんのでいいかげんなことを書きます。
わからないくせに絵を観るのは好きで、どういうわけかキリスト教絵画にも魅力を覚えるのです。聖書に描かれていること、それを敷衍した内容などがとてもドラマティックでおもしろいのです。マグダラのマリアは実際どういう人だったのかわかりませんが、悔悛するマリアとしての定型が聖書から抜け出して美術作品として魅力的なテーマになったと思います。その他、さまざまなエピソードが絵画化されることを望む人たちの注文によってすぐれた画家たちの筆で描かれ今に伝わるのです。

    「受胎告知」

をテーマにしたものも古くから数多く描かれてきました。
白百合を持つ大天使ガブリエルがマリアに「あなたは身ごもる。神の子を生む」と告げ、マリアもそれを受け入れるのです。
14世紀のジョットやマルティーニ、15世紀になるとアンジェリコ、ファン・エイク、ダ・ヴィンチ、ボッティチェッリ、16世紀にはラファエロ、デル・サルト、ティツィアーノ、エル・グレコ、そのあとカラヴァッジョも描いています。
これ以外にもあまたの「受胎告知」が描かれていますが、こうなると題材が陳腐になってしまい、画家は独自性を出すのが大変でしょうね。その意味では19世紀のロセッティのものはとても意外な印象があっておもしろいです。
それぞれに魅力がありますが、これまでに実物を観たものではやはり

    ダ・ヴィンチ

の精密な描き方に圧倒されました。ガブリエルの目やマリアの手、そしてそれ以外のものの何と言ってよいのかわからないほどの細やかさ。美術を一から勉強して適当な言葉で評価する言葉を見つけたいくらいです。

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有名人を教える 

学校の教員をしていると偶然有名人が教え子になってくれることもあります。別にこちらが偉いわけでもないのに、たまたまそういう巡り合わせになって、「あの人は私の教え子でしてね」なんて自慢できることもあります。
私がある女子大に非常勤で教えていた頃、その高校部に当時凄まじい勢いで成長していったテニス選手がいました。3年生でしたので、翌年大学に来たら私の授業に出てくれるんじゃないか・・と期待していました。高校生の時に一度だけ制服姿を観たことがありますが、教室で彼女の顔を一度でも拝みたかったのです。
しかし彼女は高校を出るとプロになりました。それはもちろん彼女のテニス人生にとって正解で、またたくまに世界に羽ばたいた彼女は、やがて

    世界ランキング4位

にまで上り詰めました。非常勤講師の控え室の職員さんがやはりテニスの経験者で、その大学の卒業生だったらしく、その部屋に行くといつも「未来の世界4位」を呼び捨てにして批評をしていました。なかなか鋭い批評でした。
広島にいたときはミス広島(?)になった人はいましたが、特に有名な人には出会いませんでした。
関西に戻ってからは惜しいことに、私が来る直前に、かなり有名になった女優さんが卒業していったようでした。

    さらりとした梅酒

のコマーシャルなどにも出ていた人です。もっと前にはやはりワハハと笑うような劇団の女優さんで今もテレビで活躍されているらしいかたもいらっしゃったようです。

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文楽錦秋公演初日 

大阪の本公演として一年納めの錦秋公演になりました。
今日(10月29日)から11月20日までの日程で、例年より少し早めのようです。
第1部(午前11時開演)は
  『花上野誉碑』(志渡寺)
  『恋娘昔八丈』(城木屋、鈴ヶ森)
  『日高川入相花王』(渡し場)
で、「志渡寺」は久しぶりです。乳母お辻というと文雀師匠を思い出すのですが、今回はその衣鉢を継ぐ和生さん。和生さん、いかがですか、遅くとも二年後には「葛の葉子別れ」あたりで二代目をお名乗りいただきたいのですが。
清介さんの激しい撥遣いが楽しみですね。
第2部(午後4時開演)は
  『増補忠臣蔵(本蔵下屋敷)
  『艶容女舞衣(酒屋)
  『勧進帳』
です。『勧進帳』はもう『鳴響安宅新関』の題には戻さないのでしょうか。わかりやすいといえばその通りですけどね。
「酒屋」は簑助師匠の一世一代のお園を期待していたのですが、それはもう少し先なのですね。「本下」はこの公演でたった一つ「切」の字がつく場です。

なお、「だしまきの夕べ」は11月19日。千秋楽の前日ということになります。
お集まりくださいませ。

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もうすぐハロウィン 

いつのまにこんなに浸透してしまったのでしょうか、このお祭り。
以前書いたかも知れませんが、私はハロウィンという言葉を初めて聞いたのは学生時代で、英会話のテキストに出てきたのでした。何のことかわからず、ジャック・オ・ランタンの絵がやけに不気味だと思ったことが第一印象だったくらいです。
記念日の好きな人に「この日にはこれを贈りましょう」「これを食べましょう」という理屈からものを売りつける(笑)商法も盛んです。日本版でも、土用の丑の日のうなぎはもとより、節分ののり巻きとか。おせち料理の販売予約も始まっていますね。
あちらの国の

    お祭りを日本化

して商売に利用するのも、日本の企業の得意技です。子供の頃からあったのはクリスマスですが、バレンタインデーは学生のころから活発化していきました。もっとも私は女性から何かもらったという記憶はほとんどないのです。いつしかホワイトデーなんてものも作られてしまいましたが、二月に何かもらえるような人気者でなくてよかったと思ったものです。
学生時代の英会話のテキストにも

    “Trick or treat!”

は出てきました。勉強家だった(笑)私は、この言葉はきちんと覚えました。とても語呂のいい言葉なので覚えやすいですよね。
この間学生にハロウィンの話をしたら「最近は、翌日に町がゴミだらけになるらしいですよ」と言っていました。宴のあとは跡を濁さず、であってもたいたいものです。

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授業のない日 

通常、大学教員は週に6コマの授業を担当します。するとだいたい3日で収まるのです。もっとも、かなり前の話ですが、事務に掛け合って1日3コマにして2日だけ出勤する、という教員もいました。こういう人はやはりなんらかの力のある人で、私のような無力なものにはできない離れ業(笑)です。
今、私は公開講座を含めると4日間何かしゃべっていることになります。土日は休みですから、結局研究日というのは1日だけです。
せめてこの日だけは

    出勤しない

ようにしているのですが、それでもなんだかんだと出て行かねばならないこともあります。
それが雑用だといささか不愉快なのですが、もっと不愉快なのは、仕事に不可欠なものを仕事場に置き忘れてしまったため、研究日に家で「研究」することができない場合です。一生懸命図書館に行ってメモを取ってきたものとか、資料が山ほどつまっているフラッシュメモリだとか。この間はコード一本のために出て行かざるを得ないことがありました。
しかしこういうときは、逆に

    集中して

勉強できるのです。なにしろ授業がありませんから、時間を気にする必要もありません。昼はおにぎりくらいですので部屋でちょこちょこっと食べたら終わりです。食堂はいつのまにやら生協になっていて出資金を出さないと使えないそうです。もっとも、食堂で食べると400円くらい(私にとっては高価)かかりますから、どちらにしても食堂には行きません。

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緊急メール 付記920,000 

人間の耳は不思議なもので、聴きたくないものは判別して聞こえないようになっているようです。電車の線路のすぐ近くに住んでいたころ、最初の数日は電車の音がうるさくて、こんな所には住めたものではない、と絶望的な気持ちになりました。しかし数日後にはまったくその音が気にならなくなり、電車が走っていないような錯覚を覚えました。耳を澄ませると、やはり決まった時刻には音を立てて走っています。でも気にしなくなるとまた聞こえなくなったのです。不思議なものだと思いました。
人の話でも、聴きたくないものは耳を素通りして、頭には残らないでしょう。興味のある話はその人の声が小さくても聴こうという気持ちが強いので理解できるものです。そういえば、このあいだ学生に

    耳をダンボにして

聴いてくださいと言ったら、「それどういう意味ですか?」と言われてしまいました。え? もうこの言葉、古いの? やむを得ず、聞き耳を立てて、と言い換えてやっとわかってもらいましたが。
文楽人形でも、うまい人が遣うとそれが勝手にこちらに飛び込んでくるのですが、あまりうまくない人だと印象に残りません(悪い印象が残ることはありますが)。
私の授業のときに学生さんが

    居眠り

したくなる気持ちもよくわかります。学生さんが乗ってくれる授業なんて、どうすればできるのだろうか、と悩みつつ、その悩みを抱きながら教員生活を終わるんだろうな、と思うと何だか寂しくなります。まあ、もうしばらくありますので精一杯頑張りますけどね。

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話しにくい 

私に対して、ほとんどの方はとても話しかけにくいと思います。さすがにそれはよくわかります。何も差別されているのではなく、当然のことだと思います。
ある学生の話です。彼女は耳の不自由な人(若い男性)と親しくしているのだそうです。その人は口元を見てかなり理解するのだそうで、ある程度スムーズに会話はできるそうです。
とはいえ、理解できないことはありますから、聞き返されます。それは別に問題ないのですが、しばしば、理解したふりをして話を流そうとするのだそうです。彼女はそれがいやで、「わからないなら

    わからないと言って

ほしい」と言い、「聞き返すのが悪いような気がするから」という相手と喧嘩になったことがあるそうです。彼女は自分の誠意を理解してくれないと思って寂しい気持ちになったのです。何度でも聞き返してくれればいいのに、どうしてそんなふうに流してしまうのか、と。
ところが、あとで考え直してみたら、相手の気持ちがよくわかった、その気持ちを察することができなかった自分の心が狭かったのではないか、と省みたそうです。
お互いを思い合っているからこそ、喧嘩になってしまったのですから、きっとその後また二人は

    仲良くなった

ことと思います。
この「聞き返すのが申し訳ない」という気持ちは私もとてもよくわかります。遠慮しなくていいのに、と言われてもやはり遠慮はあります。まして聞き返した後で「もう!」といわんばかりの不満そうな顔をされた経験があると「もう二度とこの人には聞き返してはいけない」と心の奥にメモしてしまいます。

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同音異義語(解答) 

いやあ、まさかこのブログで問題と解答をするとは思いませんでした。
「かいとう」というと「解答」「回答」があり、これも同音異義語でよく間違われるものです。
「解答」は問題を解いた答え、「回答」は質問とかアンケート調査への答え。なんだか面倒ですね。
昨日書いた問題に対する私の「解答」は次のようなものなのですが、何かおかしいところがあったら教えてください(笑)。

①気性情報では行楽に絶交の青天だと言っていたのに、以外にも雨模様だった。しかし小雨結構ということになっていたので、運動会は慣行された
→気象情報では行楽に絶好の晴天だと言っていたのに、意外にも雨模様だった。しかし小雨決行ということになっていたので、運動会は敢行された。
 (よく混同されるのが「以外」と「意外」です。「小雨結構」はなんだか間違っていないような気もしてしまいます・・笑)

②父の会社で人事移動があった。父は外回りから介抱されたといって喜んでいたが、地位は以前として課長のままらしい。
→父の会社で人事異動があった。父は外回りから解放されたといって喜んでいたが、地位は依然として課長のままらしい。
 (「依然として」が書けない学生が多いです。)

③大学で有名な先生の抗議を受ける機械があったが、話が守備一環しておらず、非情につまらなかった。
→大学で有名な先生の講義を受ける機会があったが、話が首尾一貫しておらず、非常につまらなかった。
 (「講義」は「講議」と書く学生も多いです)

④教養過程の授業で能楽の公園を干渉することになった。先生はとても異議のある催しだと協調していたが、難しそうで私は交感が持てない。
→教養課程の授業で能楽の公演を鑑賞することになった。先生はとても意義のある催しだと強調していたが、難しそうで私は好感が持てない。

⑤天門学の好きな兄は、風向明媚な露店風呂に入って満点の星空を眺めると無常の歓びを感じて霧中になるらしい。
→天文学の好きな兄は、風光明媚な露天風呂に入って満天の星空を眺めると無上の歓びを感じて夢中になるらしい。
 (夜店で風呂屋をやってるところもあるかもしれませんが・・笑)

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同音異義語(問題) 

学生にものを書いてもらうと、誤字が目立ちます。人のことは言えないのであって、私も手書きをしなくなるとどうしても漢字がパッと思いつかないことがあります。
誤字でも意味が通じる場合はあります。同音異義語で、発音すれば大体の意味が分かる、という場合です。
「幸彦さんの相性は「さっちゃん」です」と書いてあったら、「愛称」のことだな、とわかります。もっとも「愛妾」と書かれたりすると幸彦さんは佐千代さんという

    おめかけさん

がいるのだろうか、と勘違いしそうではありますが、そういう誤字はまずありえないでしょう。
入試問題でよく使われるのが「ついきゅう」です。「追究」「追求」「追及」を区別させる問題です。「真理を追究(未知のことがらを考え調べて明らかにすること)する」「利潤を追求(追い求めること)する」「責任の所在を追及(追いつめて責任を問いただすこと)する」の区別です。この中で一番難しいのは

    「追及」

で、これを問題にすると正答率が下がると思いますし、だからこそ出題者は問題にしたがる(笑)ものです。
ほかにも「追給(本来の給与に加えて後で追加で支払う給与)」「追咎(ことが解決した後で咎めること)」などが考えられますが、現実にはあまり使わないと思います。

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国というのは 

木下順二の「瓜子姫とあまんじゃく」で、山父が「人間というのは思いがけないことをするからかなわない」ということを言いますが、あれは自然の権化である山父が(言い換えると自然そのものが)人間に向かって言っている、きわめて意味深長でおもしろいせりふだといつも思います。ああいうせりふが書ける劇作家に憧れます。
学生もまた時々思いもよらぬことを言うのでびっくりすることがあります。「大学の先生は勉強するのですか」は久しぶりの爆笑版(笑って申し訳ないのですが)のヒットでした。
爆笑版というと、「私、ダ・ヴィンチの

    『最後の晩酌』

が好きです」というのもありました。居酒屋でイエスと十二使徒がほろ酔い機嫌になっているところを想像させる「名作」でした。ダ・ヴィンチよりはバッサーノの「最後の晩餐」がそんな感じですかね。
最近、2時間目(10:40〜12:10)の授業で「近くの大学病院ではRRホテルのレストランが入っています。ランチは1080円でこんなものが食べられて、スイーツはこんなのが650円です」という話をしたのです(なんという授業!)が、そのあとで学生から「お昼前にそういう話をされると

    おなかがすきます」

と言われてしまいました。これは爆笑ではなく、申し訳ないと思った反応でした。
冗談もけっこう言われます。「先生、今度ハロウィンのころの授業ではとんがり帽子をかぶってきてください」とか。色画用紙を買ってきて本当に作ってかぶっていこうかなと思案しているところです。ウケるか、バカにされるか。
いるんですよ、『バカと違う?』と冷笑する学生が。

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勉強しますか? 

「こんな授業も担当してるの?」と思われるくらい多様な話を学生にしています。そして多くの学生がそのいくつもの授業を取ってくれます。中には私の授業の全種類を受けたという「つわもの」の学生もいます。すると学生が思うらしいのです。「先生、

    何でも知ってるんですね」

と。なるほど、もし私が文学部の教師なら文学だけか、せいぜい文学史とか国語科教育法とか、国文学の周辺の授業をするくらいでしょうから「あの先生は文学のことはわかってるけど、他のことは知ってるのかな?」という印象を与えるかもしれません。
ところが私は「竹取物語は」「平安時代の生活は」という本来の専門に関する話をしたかと思うと、「無形文化遺産になっている地中海食の魅力とは」「天皇の生前退位に関する歴史やそれを実現するための法改訂の手順は」「アメリカの教育学者の唱えた発達課題とは」「レストランでバイトしている時に水をこぼした時のあやまり方は」など、

    なんでもござれ

のような授業をしているのです。すると学生は、「この先生、何が本職なんだろう?」と思うこともあるらしいのです。さすがに理系の(化学とか数学とか)授業はありませんが(笑)、高校の科目でいうと、国語と社会の教師を兼ねていることは間違いありません。

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手書き 

学生のパソコン能力があまり上がっていないように思います。特に顕著なのが、キーボードを叩くのが苦手、という人です。スマホで右手親指の動きは鍛えられていて、あの小さなキーを次々に押さえていく能力は目を瞠るほどです。
私がスマホのキーに触れるのは(左利きなので)左手の人差し指が原則で、親指は使えません。それだけに彼女たちのすることは

    神業

といってもよいくらいなのです。
ところが、パソコンのキーボードを叩くとなると、おそらく私はさほど彼女たちに負けてはいないだろうと思います。なにしろ、その昔は英文タイプライターを打っていた経験もありますから!
先日聞いてビックリしたのですが、「キーボードが苦手なので、私はレポートを書くとき、スマホで打って、それをパソコンに送って、ワードに置き換えてメールに添付して提出します」という学生がいたのです。
私など、あんな小さな画面でレポートを書くことは想像もできません。まず、全体が見えないから考えがまとまらないだろうと思うのです。
もっともそれは、手書きからパソコンに変わったころ「やはり

    自分の手で書いたほうが

考えがまとまる」と思ったかつての経験を思い出させるものでもありますが。
学生から「やはりパソコンは使えた方がいいですか?」と質問されることもあります。私はそういうとき「将来は不要になることもあるのかもしれませんが(たとえばすべて音声で変換できる時代が来るとか)、今のところ使えた方がいいと思います」と言っているのですが、いかがなものでしょうか。

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五代目呂太夫(2) 

五代目は「豊竹呂太夫」という名前をこの上なく大きくされた功労者でいらっしゃったと思います。三代目は18年間この名を名乗られましたが、やはり「若太夫」の名が大きすぎます。嶋師匠は四代目を名乗られた翌年にいったん文楽を離れられました。そんなこともあって、昭和44年に五代目を襲名されて30年以上この名を名乗ってこられた五代目は初代とともに「呂太夫」の代名詞的存在だろうと思います。
ただ、呂太夫は新しい名でもありますし、「花形名」という印象も拭えません。三代目が若太夫を襲名されたように、五代目ももう一度名前替えをなさる日が来たのではなかったでしょうか。もし五代目が長生きされていたら、

    竹本春太夫

のような明るい名前を襲名していただきたかったとも思います。咲太夫さんが染太夫のようなごつごつした語りがおできになるので、お二人で『妹背山婦女庭訓』「山の段」を語っていただけたら、と夢想したこともありました。
五代目の三人の師匠の語り口である、若太夫の分厚さと春子太夫のあでやかさと越路太夫の緻密さを加えたら、こわいものなし。どんな切語りになられたのでしょうか。昔の人は、あまりにもすぐれた人は長生きできない、という気持ちで、

    ゆゆしきまでに(不吉なまでに)

すぐれている、などと言いました。性格も良くて男前だった五代目は神に魅入られたのでしょうか。呂太夫さんは三段目も四段目もいけるかたでしたが、私はやはり四段目語りだったと信じています。「寺子屋」「金閣寺」「十種香」「河連館」。さきほど「竹本春太夫」と言いましたが、ほんとうは豊竹の姓のよく映る方だとも思っています。もっともっと聴かせていただきたかったです。

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五代目呂太夫(1) 

来春、豊竹英太夫さんが襲名されるこの名跡。しかし「とよたけろだゆう」という名前から、多くの人は五代目を思い出されるだろうと思います。私自身その例外ではありません。しかし呂太夫は五代続いているわけですから、さまざまな呂太夫がいらっしゃったわけです。
初代の呂太夫は豊かな音量の持ち主で「呂」という文字がよく映る方だったのだろうと思います。「呂」というのは能の世界では張りのある強い声をいうのだそうで、祝言を謡う時の声、

    喜ぶ声

だとされます。初代呂太夫は、ふくよかな朗々たる声の持ち主だったのだろうと想像します。
二代目は腰の定まらない人で、文楽にいたり地方に行ったりを繰り返したようですが、力はあったらしく、また指導者としてはなかなかの力量を持っていたと想像されます。
三代目はのちの十代豊竹若太夫。「合邦」など激しい語りは今も音源が残っており、山城少掾のような語りとは異なった雰囲気を持つ魅力があったようです。四代目は今の嶋太夫師匠。そして五代目へとつながったわけです。
五代目の語りはあれこれ思い出されるのですが、文楽劇場開場公演の

    『義経千本桜』

「すしや」の「後」も思い出のひとつです。越路師匠が切で、権太が我が妻子を維盛の妻子の身代わりにして差し出した後、梶原がそれを引っ立てていく、「縄付き」までを語られました。それを受けて、呂太夫さんが弥左衛門の権太への復讐と権太のモドリ、維盛一家の再会、弥左衛門の後悔、梶原の真意、維盛の出家、そして段切までを語られたのでした。

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消化試合 

プロ野球のクライマックスシリーズが終わりました。結局はシーズンで優勝したチームが勝ち残り、メデタシ、メデタシというところでしょう。
やはり優勝したチームが日本シリーズに出るのが当然だと思います。
今なお賛否両論のあるこの短期シリーズですが、私は「否」の部類です。
今さらその理由をここに書くほどのことはないと思います。だれもが理由はわかっているはずです。しかし理屈どおりにできない、あるいはしたくない事情があるからこういうものを作っているわけです。
昔、野球解説の人が「消化試合(優勝が決まったあとの試合)は

    お客さんに対して失礼だ」

と言っていました.私はまったく賛成できませんでした。
放送局としては、消化試合などを中継しても仕方がないと考えるでしょうし、解説の人も何を話していいかわからないかもしれません。ですから「消化試合は放送局や解説者に対して失礼だ」というのは成り立つかもしれません。でも私は、西宮球場(!)に観に行っていたころのことですが、秋風の吹く、人気のないロッテとの試合であっても、

    山田対落合

など楽しみにしていました。球界のエースの流れるようなフォームから投じられるシンカーと三冠王の対戦。1級ごとにドキドキしました。山田さが抑えても、落合さんが打っても、どちらもすばらしいプロの技でしたから感動を覚えました。山田さんだけではありません。福本さんも最後までその健脚を見せてくれました。消化試合ならではの愉しみだったかも知れません。

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文才 

高校時代には小説を書いていました。子どもの戯れのようなレベルでしたけれど、いつか文学賞に応募しようと真剣に考えたこともありました(実際に応募したことはありません)。
たとえば三島由紀夫のように、ほんとうに文才のある人は双葉より芳しいもので、中学時代にはもういっぱしの作品を書いているものです。高校時代に「超中学級」の文章力しか持ち合わさなかった私など、話になりませんでした。
ただ、人間というものは(私だけかもしれませんが)あつかましいもので、それでも自分には何らかの文才があるのではないかと、

    性懲りもなく

思い続け、短歌を詠んだり俳句を吟じたりしていました。
そして行き着いたところが新作落語。口演台本を書くというのが何ともおもしろそうで、私が求めていたものはこれだ、と思いました。
近松門左衛門が書いた新しい浄瑠璃の試演があるというのでこっそり聴きにいった若い男女が思いがけないヒントを近松に与えた、という話。
大坂の和光寺さんのあみだ池から龍が昇るという噂を聞きつけた人が次々に集まり、その時刻になるとほんとうに龍の姿が見えるが・・・という話。
こういう話をいくつか作ってみたのですが、どうにも

    笑えそうにない(笑)

ものばかりでした。
そこでさらに何かできないものかと考えて、またまたたどり着いたのが創作浄瑠璃でした。私が求めていたものはこれだ、とふたたび思って今度こそ何とかならないものかと書いてみました。『濱鵆恋帚木(はまちどりこひのははきぎ)』『斎宮曉白露(いつきのみやあけのしらつゆ)』『名月乗桂木(めいげつにのせてかつらぎ)』が私の三大浄瑠璃(笑)です。

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十代目若太夫披露公演(2) 

「市若丸初陣」は、今はあまり上演されません(平成元年東京公演が最後)。板額が我が子の市若丸を切腹させるのが何とも残酷な話で、受け入れられないのでしょうか。
三代目呂太夫改め十代目豊竹若太夫はこの演目について、この翌月の『幕間』にコメントを残しています。それによると、「市若丸初陣」は

    五代目豊澤廣助(松葉屋)

が摂津大掾を弾いたときの朱譜が、若太夫の三味線を弾いた綱造のところに残っていたのだそうで、それで綱造に稽古してもらったのだとか。若太夫も三代目越路太夫の語った「市若丸初陣」は聴いていたそうですが、それとはずいぶん違っていたのだそうです。
若太夫の名はなんといっても豊竹の元祖。しかし、初代、二代目こそ有名な方ですが、その後名前が小さくなったように思います。それをふたたび大きくしたのが十代目でした。この方は徳島の出身で、二代目呂太夫門下。最初英太夫(本名の英雄にちなむ)と名乗り、その後七代目嶋太夫、三代目呂太夫を経て若太夫を継いだのです。嶋太夫を名乗った時点で将来の若太夫が視野に入っていたのかもしれません(二代目若太夫は竹本志摩太夫、竹本島太夫、豊竹島太夫を名乗っていた)。十代目は

    人間国宝

にもなられて、押しも押されもせぬ、後世に名を残す若太夫となられたと思います。「合邦」「志渡寺」のような激しく煮えたぎるような演目を得意にされたかと思うと「酒屋」もすばらしかったのだそうです。
昭和四十二年に亡くなりましたので、残念ながら私は間に合いませんでしたけれども。

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十代目若太夫披露公演(1) 

先日、調べたいことがあって文楽劇場の閲覧室に行ってきました。以前は楽屋口で名前を書いて3階まで行ったのですが、今は警備員さんにお願いして劇場ロビー奥のエレベーターで行くことになります。公演期間中ではありませんでしたので、エレベーターは電源が入っておらず、お願いすると警備員さんが地下に降りていって動かしてくださるなど、時間がかかってしまって

    いささか面倒

です。ただ、以前は3階の薄暗い廊下を歩いていきましたが、今はエレベーターを降りると目の前が閲覧室で、その点は便利です。
閲覧室の係の方は、三十年来何人もの方にお世話になりましたが、代々親切な方ばかりです。
以前はカードを繰って見たい本を調べていましたが、今はさすがにパソコンです。もっとも、私はこのとき

    義太夫年表

を見たかったので、それは開架というか、閲覧席のすぐ横に置いてありますから、まずそれを拝見していました。
仕事場には明治篇まであるので、普段はそれでかなり済ませられるのですが、今回は大正篇と昭和篇が見たかったのです。
おかげさまでひとまず主要な用は済みました.しかしせっかくここまで来たのだから、というわけで、ほかにもいろいろ調べたいことを済ませようと思ったのです。「○年○月のプログラムなんですけど」というともうそれで「はい、それならすぐに出します」と言われましたので、パソコンを使う必要はありませんでした。

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「に」と「へ」 

学生からの質問にあった「に」と「へ」も、本来はまったく違います。「に」は空間のある一点を明確に指定する意味です。日本語では主語を省略することが多いのですが、それは行為や動作を人の主体的な動きとしてではなく、成り行きのようにとらえる傾向があるからです。そのかわり、というべきか、動作が起こる場所、存在する場所についてはきちんと表現し、その役割が「に」にありました。だから「に」はとても重要なことばだったのです。
「へ」は「辺(へ)」からできた言葉と考えられ、「端」のことです。畳の縁(へり)というのと同じです。そこで本来は遥か遠くの自分とは関係の稀薄なところに向かっていくときに用いられたようです。

    「君に会いたい」

とはいいますが「君へ会いたい」とは言いません。「ここに置く」と言っても「ここへ置く」とは言いません。
ただ、次第にこの両者は同じように遣われるようになり、今では特に厳密な使い分けはないように思われます。漠然と遠方に行く場合でも「あそこへ行く」「あそこに行く」、はっきりとして地点を示す場合でも「ここにおいで」「ここへおいで」はほとんど同じように用いられているでしょう。
ただ、私の感覚では、

    「病院に行く」

というと「気分が悪いから」「熱があるから」「治療のために」というニュアンス(はっきりした目的という意味での「明確な一点」)があり、「病院へ行く」と言うと漠然と(たとえば人に道を教える時に「あの病院へ行って、左に曲がって」というように病院の前まで行くことも含むような)した不確実さがあるのです。絶対的ではありませんが、私の感じる違いはやはり古語以来の「へ」と「に」の差だと思います。

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「は」と「が」 

日本語の表現に関する授業は学生からの質問に回答する形で進めています。ですから、まとめて予習をすることはできません。「前回の質問への答え」という形を取るからです。
しかも私は日本語学の専門家ではありませんから、わからないこともしばしば出てきますし、ある程度わかっていることでも確認する必要のある場合も少なくありません。予習時間が5時間も6時間もかかる所以です。
この授業は月曜日にありますので、だいたい土曜日、日曜日に

    まとめて予習

しています。今この記事を書いているのは土曜の昼下がりなのですが、その予習の手を休めてキーを叩いているのです(実はこのブログもほとんど土日にまとめて書いています)。
授業の予習に手放せないのは国語辞典であり古語辞典です。「現代語の授業なのに古語辞典?」と思われても仕方がないのですが、やはり現代語の源泉は古語ですから、必需品と言えるのです。しかも私が愛読書にしている

    岩波の古語辞典

は助詞や助動詞の解説が詳細なので、それが苦手な私にとってはありがたいのです。
おもしろいことに、学生も私が古語辞典で仕入れたネタを話すととてもおもしろがってくれるのです。彼女たちは「古語の話」を聴いているという感覚ではないようです。それでいいのです。言葉は「古語」と「現代語」に二分されるものではありませんから。

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他大学から 

私の授業は教養科目ですので、ゼミのように少人数で意見交換をしながら進めるというわけにはいかないのです。しかも学生は理系の人が多く、文系科目にどれほどの興味を持ってくれるのか、いつも恐々としているのです。
「文学」では竹取物語を取り上げているので、学生はほとんど「古文」と呼びます。「古文の勉強ではありません」と最初に言うのですが、どうしても高校時代の「文法」「現代語訳」のイメージが抜けないようです。私は学生にそういう課題を課すことはありませんので、そのことをいうと学生は「それなら何をするのか?」という顔をします。古典文学を読むのは

    現代語に直すこと

だと、頭に染み付いているのですね。私に言わせれば、現代語に直さなくてもおもしろいと思えるようになるのが楽しいのですが。
竹取の授業の最初は、昔話の話をしてみました。たとえば一寸法師、瓜子姫、桃太郎。羽衣伝説も話しました。そしてそれが竹取物語とどのように関係しているのかについて考えてもらいました。
彼女たちの「古文」へのイメージをまず取っ払って、彼女たちの頭の奥にきっと潜んでいるであろう

    文学への関心

を呼び覚ますためです。
全員が、とは言いませんが、ある程度の学生はなかなかいい答えを出してくれました。もっとも文学ですから「正解」はありません。意見は言いっぱなしでもいいのです。
他の授業でも、とにかく意見を出してもらうようにしています.黙っていて、テストで点数を取れば単位が取得できる、という授業ではありません。そもそも、テストなんてしないのですから。

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文楽座 

必要があって、文楽座の跡を訪ねてきました。といっても、難波神社(博労稲荷)、御霊神社、四ツ橋、道頓堀くらいですが(笑)。
行かなかったのは松島の文楽座跡です。西長堀にある大阪市立図書館からもうすこし西に足を伸ばせばたどり着きますが、あの辺りはまるで土地勘がないので、どれくらい足を伸ばすのかが実感としてわかりません。京セラドームの北ですが、京セラドームにすら行ったことないのです。
木津川に架かる

    千代崎橋

を西側に渡るとそこが松島です。昔は木津川と西の尻無川に挟まれて「島」になっていましたが、尻無川は埋め立ての結果、今では南北の流れがなくなっています。千代崎橋をそのまま西へ向かって歩くと(千代崎2丁目)、道の南側にスーパー玉出があります。古地図を参照するに、おそらくその西隣あたりがかつての松島文楽座、後に八千代座になったところだと思われます。当時は、すぐ西に尻無川があって、

    花園橋

という橋が架かっていたようです。地図の上からはそう考えられるのですが、なにしろ行ったことがないものですから具体的にそのあたりを文章で描写することはできません。
その他の「文楽座」ですが、御堂筋を平野町のあたりで西に入ってすぐのところにある御霊神社と御堂筋沿いにある難波神社(明治には彦六座の本拠地となった)はきわめてわかりやすく、石碑も建てられています。これまでに写真を載せたこともあったと思いますので今回は省略します。

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索引(2) 

せっかく作った索引ですから、恩師にはお贈りしようと思いましたし、先輩や友人にも配布することにしました。いらなかったら捨ててもらえばいいのですから。といっても、出版社に依頼することなどできませんから、自分でプリントアウトしたものを製本し、「私家版」として100部ほど作りました。印刷、製本費用は、その当時はまだ学校がお金を出してくれましたので助かりました。もっとも、ベテランの事務の人から「せんせ、これ売ってもうけるんと違いますか? それやったら

    お金出せません

で」(その方のおっしゃったことをそのままです)と真顔で詰問されたことを覚えています。いくらなんでもそんな言いぐさはなかろう、と悲しくなりましたが、事務の人にすれば「本を出す=売れる=学校のお金で私腹を肥やす」と思うのでしょうね。まだ若かったですから、実のところプツンと切れそうになったのですが、精一杯我慢して「すべて無料で配布します。郵送料がかかるので、私もおそらく万単位の

    赤字

が出ます」と説明してやっとわかってもらいました。ついでに言っておきますと、他の教員以上のお金を出してくれと言ったわけではなく、私の個人研究費を他のことに使わずにこれに費やしたのですから、文句を言われることはないはずなのです。ああ、思い出したらまた腹が立ってきた(笑)。そんなわけで、安っぽい製本の私家版索引も完成を見たのでした。

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索引(1) 

もう20年近く前になるのですが、恩師との共著が完成し、畏れ多くも背表紙に恩師と並んで名前を挙げてもらったことがあります。歌集の注釈書だったのですが、私の怠慢ゆえに刊行までに8年くらいかかりました。
この仕事を始めたのは、私が広島に赴任する時だったと記憶しています。広島はいささか面倒なところで、その歌集の写本や関連文献をあちこちに見に行くだけでもひまがかかり、三つの写本を持っている

    宮内庁書陵部

まで出かけるのも大仕事でした。東京に住んでいれば願いさえ出しておけばすぐに行けたのですが。
慣れない広島での仕事と並行しているうちに、家庭の事情があって関西に戻ることになり、これで捗るかなと思ったところで、とどめを刺すように襲ってきたのが阪神淡路大震災でした。

    避難生活

をしたこともあって、さすがにあのあと数か月は、あまり仕事になりませんでした。東京にいらした恩師と打ち合わせをするのに、震災直後の神戸六甲で待ち合わせ、悲惨な光景の中で話をしたことも覚えています。
やっと刊行できたときは感無量でした。恩師の叱咤激励がなければとてもできる仕事ではありませんでした。今でも、私の原稿を真っ赤にして下さった恩師の筆の跡をまざまざと思い出すことができます。

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春子太夫の「酒屋」(2) 

春子太夫師のご自宅は、私の仕事場の近くにあって、つい最近までは奥様がお住まいだったようです。ところが先日その前を通ったら、お屋敷は影も形もなく、目印になっていた「しだれ桜」もありませんでした。「民芸調の」といえばいいのでしょうか、とてもしゃれたお住まいだっただけに残念です。
さて、春子師匠の師匠である若太夫師が亡くなったのが昭和42年4月で、そのあと弟弟子であった豊竹若子太夫(五世呂太夫)が門下に入り、若太夫の孫(三世英太夫)が新たに入門し、さらに文楽を離れていた村上五郎氏が文楽に復帰、八世嶋太夫となって春子太夫門下になります。
2年後、すなわち昭和44年の2月東京公演は『妹背山婦女庭訓』でした。春子師は

    「道行恋苧環」

のお三輪だったそうで、切語りの太夫さんにしては何だか物足りない配役です。ところが、この公演で「山の段」の大判事を語る予定であった八世竹本綱太夫師が休演され、その役が春子師に回ってきたのだそうです。それにしても艶もの語りの春子師が大判事とは、代役にしてもあまりイメージが合いません。綱師は初日からずっとお休みだったようで、春子師匠にとってはかなり負担が大きかったでしょう。それでもなんとか舞台をこなされ、4月の大阪公演(朝日座)になるのです。この公演は豊竹山城少掾と十世豊竹若太夫の三回忌追善興行でした。若太夫追善の演目は

    『艶姿女舞衣』

でした。「酒屋」の中は、すでに五世を襲名していた呂太夫、切が春子太夫、道行に嶋太夫、松香太夫、英太夫が揃ったのでした。春子師にとっては得意演目の「酒屋」ですから、芝居は順調に進むはずでした。ところが舞台稽古の時に春子師は胸が痛いとおっしゃったそうです。

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春子太夫の「酒屋」(1) 

私は年代的に三世竹本春子太夫師匠(1909〜1969)には間に合っていたはずなのです。しかし春子師が早世されたため、それは叶いませんでした。亡くなったのは昭和44年4月で、まだ60歳にもなっていらっしゃらなかったのです。せめてあと10年、できれば15年長生きしてくださっていたら聴けたのに、と思うと、ほんとうに残念です。
越路師匠や津太夫師匠より少しお年上ですが、淡路で活躍された時期がありますので、文楽ではかなり後輩になります。このお三方はそれぞれに味わいがあって、越路師匠は精緻、津太夫師匠は豪快、そして春子師匠は

    艶麗

という個性がおありだったようです。いわば三者三様の魅力。こういう色合いの違いは文楽にとっては大事なことだと思うのです。みんながみんな同じように三段目語りのように語ったのでは聴いている方はしんどいだけです。逆に、道行のような三段目では気が抜けてしまいます。
文楽劇場開場公演のとき、もし春子師匠がご健在なら二段目(大物浦)が津太夫、三段目(すしや)が越路太夫、四段目(河連館)が春子太夫ということになっていたのかもしれません。いや、もう春子太夫ではなく、たとえば「子」の字が取れたような、あるいはそれ以外の大名跡を継いでいらしたかもしれませんが。
淡路にいらっしゃった頃は

    竹本三木太夫

とおっしゃって、とても人気があったのだそうです。声がよく、技芸にすぐれ、容姿端麗。三味線もお上手だったそうです。性格はとても優しい方だったそうで、三拍子も四拍子も揃った大スターです。

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白菜 

このところ、あまりプランターネタを書いていません。
実は今年の夏、ちょっとしたアクシデントがあって、せっかく植えていたトマトと大葉がダメになってしまったのです。トマトはまだこれからだと思っていましたので悔しいです。結局、実は10個も生らないうちに終わってしまったと思います。残念無念。
アクシデントなので仕方がないと諦めて、来年、もう一度チャレンジしたいと思っています。では代わりに何かを作ればいいではないかということになるのですが、私自身がこの夏かなり忙しくて、

    秋野菜

をどうするかなどということを考える余裕もありませんでした。そもそも私はこれまで秋野菜、冬野菜をあまり育てておらず、どういうものを育てればいいのかもよく知らないのです。
もちろん、ネットで調べればそんな情報はいくらでも出てきますが、ほんとうにそういう心の余裕がありませんでした。
忙しくてあまり面倒を見られないかもしれないなら、また来年でもいいかなと思っていたのですが、ふと思い出しました。今年の父の日に末娘がハクサイのキットをくれたことを。ミニハクサイですので、うまく結球してもおそらく片手でひょいと持てるくらいの小さなものです。普通サイズの

    4分の1

くらいだろうと思います。
このキットというのは、ポットと土と種からなっており、8月の終わりころに種を蒔けばいいと思って放置していたのです。ところが、時すでにやや遅し。
9月半ば になっていました。

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役立つブログ 

近松門左衛門の作品の中で『心中天網島』は最高クラスの名作だと思います。小詰役者の真似をして客を装う孫右衛門もわざとらしさがなく、そこまでしなければならないほど追いつめられた兄の心がよく描かれていると思います。小春とおさんの義理の立て合いもお互いに許し合っているな関係として素直に感動できます。その中で治兵衛がふらふらしているのがまたなんともリアルです。ダメな奴、あかんたれ、と言われる治兵衛ですが、こういう男はいくらでもいるわけで、かえってリアルなのです。江戸時代だけでなく、

    時代を超えた

人物像で、今でも「お〜い、そこの治兵衛みたいな男!」と声をかけたら、「すみません、私のことでしょうか」と思い当たる男がたくさんいるはずです。少なくとも、私はすぐに「お呼びになりましたか?」と返事をしてしまいます。
この男に対して周りの人たちがどうしてこれほどに誠意を示すのか、見放すことなく温情を傾けるのか、それもまた人間の心理として不思議でもあり、しかしリアルでもあると思います。
おさんと小春は私が最近勉強していることに当てはめるなら

  「こなみ」と「うはなり」

なのです。つまりもともとの妻と、新しい妻。「こなみ」であるおさんは「うはなり」の小春をいじめてもおかしくないのです。
にもかかわらず、二人は相手への義理から自分こそが身を引こうとするのです。「子どもの乳母かまま炊きか」というおさんの言葉を初めて聴いたとき、私は「あほらしい」と思うどころか、この人物がものの見事に目の前に浮かんでくるような思いがしました。「貞女」などということばでは表せないような人だと感じました。

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大序 

文楽の時代物の最初の場面は事件の発端。とても難しい言葉で始まって語りも格調を感じさせ、舞台は左右対称に人物が配置されることが多く、極めて形式的な要素が強い荘厳ささえ感じる場面です。
「うまいものがあっても食べなかったら味はわからない」というところを『仮名手本忠臣蔵』の大序は

  嘉肴ありといへども食せざればその味を知らず

などと難しくいいます。もともとは一座の総帥が語る場だったようですが、いつしか若手が修業の意味も込めて分担して語るようになったようです。
今でも若い人が数人、御簾内で交代しながら語っていますが、昔は数人どころではなかったようです。
三宅周太郎の本をいくらか読んでいたのですが、もっともよく知られる『文楽の研究』には「大序の人々」という項目があります。
昭和3年(1928)の時点で大序には20人ほどの人がいたといいます。そしてこのレベルではほとんど

    文楽人

の中に入れてもらえなかったのだそうです。
三宅さんの書いていらっしゃるところに従うと、大正後期の『加賀見山旧錦絵』大序「凱陣」は十二人で分担したそうです。字数にして1500字くらい。平均すると一人当たり100字ちょっとというところです(実際は長短があったでしょう)。ここから序中に到達するのにひとしきりの苦労があって、さらに序切にいくにはもっと大変で、序切にいったらもうあとは出世街道かと言うとそれもまたとんでもない話だったといいます。何とも厳しいです。こういう修業をされた世代で長く活躍された最後の人は四世越路太夫師だったそうですが、御簾の中に若い人がぎっしりすし詰め状態になってしゅをいれている写真が残っていたりします。

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かぶりもの(2) 

烏帽子にもいろいろあります。貴族の着ける指サックの親玉のような立烏帽子はおしゃれですが不安定で、風が吹いたら飛びそうですし、高いところにぶつけそうです。烏帽子を着けてスポーツをする(たとえば蹴鞠)ときなど、邪魔だったのではないかと思いますが、外すことはありません。
背丈の低い風折烏帽子や侍烏帽子などはその点では実用的でした。庶民はふにゃりとした萎烏帽子を着けていました。
立烏帽子は貴族が使い続けましたが、時代が下ると小型になっていきました。江戸時代の貴族等はちょこんとかぶっている感じです。こんにち烏帽子を着けるというと神職のかた(立烏帽子)、相撲の行司さん(これも神職のようなものですが、こちらは侍烏帽子)でしょうか。
もともとは髪をまとめてまげを結った「もとどり」を烏帽子の中にある紐で結んで固定したのですが、その後あごひもを使うようにもなりました。

    

は内裏などかしこまった場所で着けるもので、甲という頭を覆うもの(平べったい帽子状)の後頭部の位置に「巾子(こじ)」というものを立てます。そして纓(えい)といわれるしっぽのようなものを垂らすのです。纓はもともと下にだらりとたらしたのですが、そのうちに少し上に持ち上げてから垂らす形のものが流行しました。以前ここに書いたことがありますが、天皇のみは

    立纓

といって纓を真上に立てる形のものを用いるようにもなりました。
昔の絵巻物を見ていますと、中国人を描いたものがあります。『玄奘三蔵絵』『吉備大臣入唐絵巻』などがそれですが、そういう場合、纓を二本にしてウサギの耳のように細く描くのがパターンだったようです。(後半の「彦火々出見尊絵巻参照)。

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