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本を書くということ(4) 

その一方で、インタビューも続けました。
英太夫さんのお宅には何度お邪魔したかわかりません。内心では「また来たんかいな」とあきれられていた(笑)のかもしれませんが、師匠も奥様もいつも歓迎してくださり、「エンジェルさん」と一緒に突っ込んだお話をあれこれうかがいました。
また、写真取材もおこない、英さんの生家跡やその周辺を訪ねたり、一日密着取材を試みたりしました。
密着取材では楽屋から

    床の裏

までついていき、今まさに始まろうとしているお芝居のえも言えぬ緊張感まで味わうことができました。薄暗い床の裏で盆に乗る英太夫さんと竹澤団七師匠のお姿には、芸能者の崇高ささえうかがい取ることができました。
そういう体験をさせていただけたことで、この芸能への理解が深まり、本の姿が自分でも見えてくるような気持ちになりました。
あとはいつ出版するかの問題です。これは出版社の意向もありますので、しばらく様子をうかがっていました。
平成二十八年二月、東京で

    豊竹嶋太夫師匠

の引退公演が行われました。そのとき、英太夫さんは先輩太夫さんから呂太夫襲名を打診され(このあたりのことも本に書いてあります。買って読んでね♪)、驚きはされたもののお受けになる気持ちを固められたのです。そして六月に正式発表。さあ、そのときです。出版社のSさんからゴーサインが出ました。
出版は平成二十九年三月。そのために逆算して仕事をする、ということがあっという間に決まったのです。(続く)

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本を書くということ(3) 

英さんは当時50代の後半で、本を作るのは「まだ早い」という感じでした。たしかに越路太夫師匠が『四代竹本越路太夫』を出されたのは文楽劇場開場のときで七十一歳でした。ただ、出版自体はまだ先になるとしても、そのつもりで取材させてもらいたいという思いは伝え、英さんも了承してくださいました。
正直に告白しますが、私はそのとき、かなり安易に英太夫さんのタレント本のようなものを作ろうと思っていました。2年も取材すればそれくらいの原稿は書ける、という極めて無責任な考えでした。
ところが、幸か不幸か、世の中は不況の嵐が吹き、出版事情はさらにひどいものになりました。安易な本など作っても売れないし、

    何の価値もない

ことがわかってきたのです。また、私の耳がついに末期的になり、仕事は不調、収入は激減、あげくには呼吸器の持病が再三生死にかかわるほどに悪化。もう踏んだり蹴ったりの日々でした。
この本の制作はその時点でほとんど諦めていました。ただ、あるとき英さんが「まあ、ゆっくりいきましょう」と言ってくださったことと、編集担当にSさんという敏腕の女性がついてくださり、その方が粘り強く支援してくださったことで何とか踏みとどまることができました。
また、インタビューや文字起こしの作業で、耳を悪化させた私にはとてもありがたい助っ人が登場してくれました。私は勝手にその人たちのことを

    エンジェル

と呼んでいるのです(笑)。つまり私がチャーリーですね。といっても吉本の浜さんじゃないですよ。アメリカのテレビドラマの話です。
こういった方々の支援を得て、本の体裁が決まってきました。英さんのタレント本ではなく、「英太夫の話をきっかけに文楽について語ろう」というのがコンセプトになったのです。私は文楽のこと、英さんのことなど、文楽劇場の図書閲覧室や大阪の府立、市立図書館などに通い始めて必死に勉強しました。それを研究書ではなく一般書らしくわかりやすいものに書き下ろしていく作業は苦痛でもあり楽しくもありました。(続く)

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本を書くということ(2) 

大学での専攻として文学を選んだとき、いつか自分の名前が背表紙に載った本を書きたいと思ったことは否定しません。それは夢のようなものでした。しかし、恩師のおかげでその夢はかなり早く実現し、うれしさのあまり、さんざん苦労をかけた父の墓に手向けたこともありました。
今度は自分の企画で本を出せれば、という思いが湧き出てきました。世が世なら、書き溜めてきた歴史エッセイの

     自費出版

あるいは研究費の補助を受けての出版ということができたと思うのですが、その後の事情の変化で、それはもう無理だと観念しました。かといって、私などに出版依頼が来るわけがありません。
そんなときに、文楽で『菅原伝授手習鑑』を観ました。平成十四年の四月で、「寺子屋」は首実検が綱太夫さんでいろは送りは英太夫さん。英さんは当時の燕二郎さんと組んでの語りでした。これがとてもよかったのです。
そのときに英さんと本が作れる、という直感があったのかも知れません。その二年後くらいに英さんに「ちょっとうかがいたいことがあるのですが」と時間をとっていただき、ミナミの英國屋で待ち合わせました。余談なのですが、私が早めに英國屋に着いたら、なんだかとてもインテリっぽい人が難しい顔をして本を読んでいらっしゃいました。

    竹本貴太夫さん

でした。貴さんは英さんに何かご用があったらしく、そこで英さんと待ち合わせて、そのあと英さんが私のお話に付き合ってくださることになっていたようです。やがて英さんが来られ、貴さんと少しお話しなさったあと、貴さんはお帰りになりました。貴さんのお声は太さがあって、さすがは太夫さんだと思いました。貴さんは掛け合いで女性、特に姫などを語ることが多かったのですが、違うんじゃないかな、と思いました。
横道にそれました。そのあと、英さんに私は思い切って自分の計画をお話ししたのでした。(続く)

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本を書くということ(1) 

私はこれまでにも本の執筆の経験はあります。しかしそれらはいわゆる学術書で、地域の図書館にも入らず、一般の方々の目には触れないものです。
多数売れることは想定していませんから、一冊の値段はべらぼうに高く、事実上は大学図書館に買ってもらうことが目標になります。
しかし文学部が

    激減している

昨今ですから、そういう本を買ってくれるところが減っていることになり、出版は難しくなってきています。
出版社から送られてくる教科書目録を見ても、以前ならいくらでもあった文学のテキストよりも日本語表現などの教養科目のためのものが目立つようになっています。しかもその著者を見ると国文学専攻の人たちが多く、「ああ、この人たちも苦労してるんだな」と思わざるを得ません。ただ、その内容は(どうしても文学専門の人の作ったものですから)あまり使い勝手のよいものではなく、私はその類の教科書を使ったことはありません。
一般書の話でいいますと、

    ベストセラー

が生まれにくいご時世かも知れません。有名作家やメディアで顔の売れた人が書いたら、そのネームバリューだけでいくらか売れるのでしょうが、そうでない場合はなかなか大変です。村上春樹氏の作品のように、まだ内容もわからないのに予約が殺到するなどというのは例外的な話です。
「法律的に正しい」ということを金科玉条にして他人(例えば政治家)の悪口のようなことを書いては「緊急出版」などといって売ろうとするものもあります。当然「際物(きわもの)」ですから長く売れる(ロングセラーになる)ものではなく、派手に宣伝した上でパッと売って消えていきます。私にとっては見るに堪えないものです。
そんな時代にあって、私はもう本を書くことはないのだろうか、と思うようになっていました。(続く)

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桐竹紋寿さん 

桐竹紋寿さんが亡くなりました。
昭和九年のお生まれですので、簑助師匠より一歳年少の82歳。
淡路島のご出身で、子どものころからスターだったそうです。
桐竹紋十郎師匠に入門されて、紋若から紋寿。
もちろん立ち役も遣われましたが、やはり印象に残るのは娘、老女形を中心とした女形でしょう。

『妹背山』のお三輪、『新版歌祭文』『染模様』のお染、『恋飛脚』の梅川、『廿四孝』のお種、『矢口渡』のお舟、『布引滝』の小まん、『壺坂』のお里、『一谷』の相模や藤の局、『菅原』の千代、『網島』のおさん、小春、『安達』の袖萩、立役では『忠臣蔵』の判官、勘平、『夏祭』の三婦、チャリものでも『朝顔話』の祐仙、『桂川』の儀兵衛、『恋娘』の丈八などで笑わせてくださいました。

思い出すお役が山ほどあります。

肺を病まれて、一昨年にいただいた年賀状だったと思うのですが、はこれからも舞台には立つが、脇で仕事をする、という意味のことをおっしゃっていました。
呼吸器の苦しさは私も知っていますので、重い人形を持つのはさぞかし大変だっただろうと思います。
紋寿さん、長らくありがとうございました。

印刷所へ 

豊竹英太夫さん(4月からは呂太夫さん)の本は、今日の午後に印刷所に入ります。もうこうなると手が出せません。
一昨日、印刷所から白焼きが出て、もうその時点で著者の私は何もしないのが普通だと思うのですが、編集者さんから一緒にやりましょう、ということでまたまた参加しています。やはり気になるものです。
白焼きというのは以前なら「青焼き」と言われていたプロセスに当たり、昨今の

     CTP(Computer to Plate)

の印刷方式では白焼きになりました。これを確認して終わりなのです。
私の校正が頼りないので、編集者さんにはかなり迷惑をおかけし、いきおい印刷所さんにも白焼きまで来てまだ通常の校正のようなことをお願いせざるを得ません。
と同時に、きっちり印刷された

    チラシ

も届きました。以前このブログでも紹介したことがありますが、あれはいただいたデータをプリントアウトしたものだったものです。
仕事場でいくらか撒いて、あとは置いてくれるところがあればお願いしようと思っています。
今日の午前中まで、さらにチェックします。

追記
この記事を書いたあとで、桐竹紋寿さんの訃報に接しました。16日に亡くなったとうかがいました。
紋寿さんはゴスペル・イン・文楽のキリストの人形を遣われましたので、当然、本にも書かせていただきました。略歴欄には

桐竹紋寿(1934〜)

と書いていたのですが、

桐竹紋寿(1934〜2017)

と訂正せねばなりませんでした。
最後の訂正が、こういう形になり、悲しいです。

呂太夫チラシ表20170222
↑チラシ(表)

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関節炎 

フィギュアスケートの三原舞衣さんという選手が四大陸選手権で優勝しました。しかも堂々たる成績でした。ジャンプの安定感がすばらしく、まぐれではない実力を示したように感じます。まったくの素人の私が言っても説得力はありませんが。

三原さんは神戸のスケートクラブに所属している関西人。実は、私の長男の高校の教え子に当たります。長男はあまりテレビを観る方ではありませんが、なんだかテレビ前に陣取っているなと思ったらフィギュアスケート。つまり三原さんを一生懸命観ているのです。

とてもかわいい、といってもアイドルっぽいのではなくて、愛敬のある普通のお嬢さんという感じで、長男は自分のスマホに彼女の

    制服姿

の写真も入れています(アブナイ?)。

三原さんは原因のよくわからない関節炎で入院までしたことがあるようで、そこから世界のトップクラスに躍り出たことがちょっとしたシンデレラストーリーのようになっています。ガラスの靴ならぬスケートシューズを履いた彼女のますますの活躍を心から祈っています。

私が蜂窩織炎になってその後も困っているのが関節の痛みです。三原さんとは比べものになりませんが、関節の痛みというのがつらいこと、それを克服してその関節を最大限に使いながら競技を続ける意思の

    すさまじさ

だけはわかります。またそういう病歴を背負いながら、屈託のない笑顔で氷上に舞う姿を見ると、私などよりはるかに立派だと思います。

この記事を書いている時点でも、私の右手首はじゅうぶんに曲がりません。しかし三原さんの活躍は、高校生の女の子に負けているわけにはいかないぞ、と思わせてくれます。私もスマホに彼女の写真を入れとこうかな(さらにアブナイ?)。

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蜂の巣 


蜂に刺されたことは、三度は覚えています。
二度は子どもの頃で、ぼんやり外を見ていてなんと「あご」を刺されたことがあります。刺された私もバカですが、蜂もどういうつもりだったのでしょうか。足を刺されたことも微かな記憶にありますが、いずれも小学生だったと思います。
もう一度は大学院の頃で、なんと、シャツを着ようとしたらそこに蜂が紛れ込んでいて腕を刺されたのです。蜂にしてみればのんびり休んでいたら長いものがぐぐぐっと入ってきたわけですから、反射的に刺したのかも知れません。おそらく外に干していた時に入り込んだのでしょうが、きちんとアイロンをかけておけばそのときに気づいたのでしょうが、それを怠って皺のまま着ようとしたのが失敗でした。ずぼらな学生時代の生活を思い出します。
蜂に刺されると本当に痛いです。特にスズメバチなどになると痛いばかりか恐ろしくさえあります。スズメバチに巣を作られたら厄介で、取り除く専門の業者もあるのだそうですね。
蜂の巣は難しい字で

    「蜂窩」

とも書きます。訓みは「ほうか」。
皮膚の組織の深いところに炎症を起こすと、そのあたりが蜂の巣のように見えるのだそうで、この症状を蜂窩織炎というそうです。何もそんな難しい名前を付けなくてもいいのに、と思うのですが、そう思われませんか。第一いかにも痛そうな名前じゃないですか。また、漢字が難しくて、今は電子カルテだから勝手にパソコンが変換してくれます(してくれないものもあります)し、医者のパソコンソフトにはあらかじめ書き込まれているのかも知れませんから問題ないですが、紙のカルテだと国語の苦手だった医者などは「峰過識炎」なんて書いてしまわないでしょうか。まあ、わかりますけどね、それでも。
私の右手の炎症はどうもこの蜂窩織炎だったらしいのですが、不思議なことに血液検査をしても

     白血球

が増えておらず、医者もそれで首を傾げたのでした。
この病気、へたをすると38度以上の熱が出る場合もあるそうで、かなりつらいようです。私は右手の痛みだけだったのですが、それでもいいかげんつらかったです。
まだすっかりもとの通りというわけではないのですが、ほんとうに蜂窩織炎なのでしょうか。あるいは蜂に刺されて腫れたのでしょうか?

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2017年2月文楽東京公演千秋楽 

本日、文楽東京公演が千秋楽を迎えます。厳しい寒さの中、皆様お疲れさまでした。
この公演をもって三代豊竹英太夫の名は番付から消えます。四月の番付には「英太夫改め 豊竹呂太夫」と書かれることになるのでしょう。
その四月公演は

第一部(午前11時開演)
寿柱立万歳
菅原伝授手習鑑 (茶筅酒、喧嘩、訴訟桜丸切腹)
豊竹英太夫改め 六代豊竹呂太夫襲名披露 口上
菅原伝授手習鑑(寺入り、寺子屋)

第二部(午後4時開演)
楠昔噺 (碪拍子、徳太夫住家)
曾根崎心中 (生玉社前、天満屋、天神森)

とのことです。

『源氏物語』逍遥(四)ーあふさきるさにー(その4) 

 次に、左馬頭は家刀自(主婦)と情趣の関係に言及します。「こぎれいで風雅をちらつかせるような女はそれゆえに欠点が隠れ、こちらが調子を合わせると色っぽさが度を超す。夫の世話という大事な仕事をするのに風流本位では済まないことがある一方、風流のかけらもなく世帯じみてしまったのではつまらない。仕事のことなど、理解のない妻なら話しても仕方がないと、ついそっぽを向いてしまう。子どもっぽい女を妻にすると教える楽しみもあるが、重要なことを頼むのに判断すらできない女では困る」などと。ところが、経験豊かな左馬頭もそのうちに収拾がつかなくなってしまい、「定めかねていたくうち嘆く(結論を出すこともできず、ふーっとため息をつく)」始末です。なお「嘆く」は「長息」=「なげき」からできた言葉です。
 左馬頭はとうとう「もう品(階級)とか容貌などまったくこだわらない。ひどく残念なほどひねくれていると思われない人であれば、ただ一途にまじめで、穏やかな様子の人をあてにできる妻と考えるのがよいでしょう」と言い出します。そして「恨み言を言うべきところを我慢して貞淑を装っていながら、思いあまると(今の言葉でいうと「キレると」でしょうか)恐ろしい言葉などを書き残して辺鄙な海山に行ってしまう女がいるが、それは軽薄だ。ちょっとつらいことがあるだけで愛情の深い夫を置いて逃げ隠れると後悔することになる」と続けます。左馬頭なりの結論は「万事穏やかに、嫉妬するときはほのめかす程度にして恨み言を言う時はそれとなくかわいらしく言えば男の愛情は増すものだ。男の浮気心もそうすれば収まるのだ」ということでした。男の身勝手とも本音とも言えましょうか。
 この意見にうなずいたのは頭中将でした。彼は妹の葵の上が夫の光源氏とあまりうまくいっていないことを思い浮かべていたのです。そして「夫婦関係が順調でなくても気長に耐えているほかはないようだな」というのです。ちょっとしたいやみのようですが、何も意見を言わない光源氏はここに及んで「うちねぶりて(居眠りをして)」います。さてこの居眠り、彼は本当に寝ていたのでしょうか、話がつまらなくて目を閉じていたのでしょうか、あるいは自分に不利な空気を読んで狸寝入りを決め込んでいたのでしょうか。
 頭中将が熱心に聞き耳を立ててくれるので、左馬頭はこの品定めの「博士(その道に通じた指導的立場の人)」としてなおも続けます。「奇抜なものと本格的なものでは後者の方が心惹かれるもので、何かの折々に様子ありげなふりをするような人は信用できません。そういう例をお話ししましょう」と居住まいを正します。話が具体的になるようです。頭中将は真剣に聴こうとし、光源氏もまた目を覚ますのでした。
 憂鬱な雨に降り込められて心が内向きになっている若者たちです。あたかも百物語でもするかのように話はさらに続くのです。

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『源氏物語』逍遥(四)ーあふさきるさにー(その3) 

 そこにやってきたのがこれまた色好みで知られる左馬頭と藤式部丞で、このあと中流女性を軸にして「雨夜の品定め」が本格化します。しかし肝腎の光源氏はというと、聴き手に終始するのです。つまり彼はこの中流女性論を受け止めることで未知の世界を知り、それは後日の「実践」の糧(かて)となるのです。よって、左馬頭を中心とする論者の見解は物語の展開(光源氏と中流女性との関係の実現)に重要な役割を果たすことになります。彼らの話に耳を傾けてみましょう。
「中流といってもさまざまで、もともと高貴な家柄でありながら没落した人、受領という地方官レベルながらまんざらでもない人、上達部に至らなくても世評も家柄も悪くない人などがいて、そういう人が大事にしている娘が宮仕えをして思わぬ幸運を得ることもある」。
光源氏がのちに出会う末摘花(没落した宮家の娘)や空蝉(地方官の妻)、明石の君(田舎育ちの幸運な人)などが思い合わされなくもありません。「人に知られず荒れ果てた家に思いがけず『らうたげならむ(いじらしい)』人が閉じ込められているのは心が惹かれる。年老いた父親が見苦しく太っていて、兄弟も美男とは言いがたいのに、技芸などのすぐれた女性がいるのもいいものだ」。
シンデレラのような「哀れなヒロイン」の話ですが、後に登場する夕(ゆう)顔(がお)や末摘花あるいは紫の上との出会いはこれに近いかも知れません。
 最初は質問したり冗談を言ったりしていた(しかし意見は言わなかった)光源氏は、このあとも思いめぐらすことはあっても何も言わずに聴いています。
「一家の主婦となる者には不可欠な要素が数多くある」と言い出した左馬頭は
  とあればかかり、あふさきるさにて、なのめにさて
  もありぬべき人の少なきを
  (こうだと思うと実はあのようであり、食い違いば
  かりで、不十分ながらも何とかやっていける人は少
  ないので……)
と述べ、「だから浮気心に任せて多くの女性を見比べてえり好みをするようになるのだ」と続けます。ところで、ここには引き歌があります。
  そゑにとてとすればかかりかくすればあないひ知ら
  ずあふさきるさに     (『古今和歌集』雑躰)
  (だからといってそうすればこうだし、ああすればこうなるし……ああわけがわからない、食い違うばかりで)
「そゑに」は「其(そ)ゆゑに」のことで「合ふさ切るさ」は「一方が合うと他方が切れるような食い違い」のことです。この歌は『古今和歌集』では「誹諧歌」に分類されているのですが、いかにも卑俗で滑稽味すら感じさせる歌です。ああ言えばこうだし、こう言えばまた違うし、「あないひ知らず」は「もうどうでもいい」とやけっぱちになっているようです。そして「あふさきるさ」もいかにも「めんどうくさい」という口調です。左馬頭がここであえて引き歌を用いたのは、そんな「舌打ちでもしたいようないらだち」を伝えたかったのかもしれません。引き歌というのはそんなプラスアルファの効果を持つようです。

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『源氏物語』逍遥(四)ーあふさきるさにー(その2) 

 雨について饒舌が過ぎましたが、それは今回から話題にする帚(ははき)木(ぎ)巻が雨を抜きにしては語れないからです。
 「光る」などと世間で大げさにいわれているものの、実のところ、光源氏はあまり面白おかしい恋愛話はなくて、昔物語に登場する色好みの交野少将には笑われたであろう、と、この巻の冒頭は少将ならぬ中将になった十七歳の光源氏を揶(や)揄(ゆ)するように始まります。
 光源氏の宮中での宿直(とのい)所は桐壺(淑景舎)でした。内裏の物忌みに五月雨も重なって、若いエネルギーを発散するすべもなく閉じ込められてしまった憂鬱な夜のことです。この設定について、江戸時代末期の国学者萩原広道は「初めに長雨の晴れ間なきを言ひ起こして、物語のしめやかなるべき下組をなしおき(最初に長雨の晴れ間がないことを言い起こして、物語のしんみりとした下準備を整えて)」(『源氏物語評釈』)と言っています。
葵の上(光源氏の妻)の兄の頭中将が桐壺にやってきて、女性からの手紙を見たいと催促し、見せろ、見せないの応酬のあと、頭中将はちょっとした女性不信論を語り始めます。「欠点のない人などいるはずもない」「自分の得意なことを吹聴して他人をけなす人が多い」「その女の世話をする女房は、女の欠点は言わず、わずかな長所を大げさに言うのでたいていがっかりする」等々。頭中将とてまだ若者なのですが、光源氏より年長ということもあってか、女性のことは知り尽くしていると言わんばかりです。そのうちに頭中将は上流、中流、下流という階層に言及し、「中の品(中流)の女性にこそ個性がうかがえるのだ」と言って、中流女性になじみのない光源氏の関心を誘います。

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『源氏物語』逍遥(四) ーあふさきるさにー(その1) 

私が短歌の雑誌に連載させていただいている源氏物語のエッセイです。第四回になりました。
今日からのブログにも書き留めておきます。


 雨は土地を潤し、人の渇きを癒す、生活に不可欠なものであることはわかっていても、長く続くと鬱陶しく、外出することすらためらわれます。「蛇の目でお迎え」にきてくれる母さんが嬉しいのは、雨の憂鬱に勝る愛情を感じるからであり、家にじっとしていたら「遊びに行きたし傘はなし」と心は沈んでしまいます。
 唐の無可(むか)上人は「寒い夜に雨の音を聴いていたが、翌朝外に出てみると落葉が降り敷いていた。昨夜屋根をたたいていたのはこれだったのか」と気づいて「聴雨寒更尽、開門落葉多(雨を聴けば寒更尽き、門を開けば落葉多し)」と吟じました。紀貫之もまた、
  秋の夜に雨ときこえて降るものは風にしたがふ紅葉
  なりけり         (『拾遺和歌集』秋)
  (秋の夜に雨だと聞こえて降っていたのは風任せにに吹かれる紅葉なのであった)
と詠み(『後撰和歌集』『拾遺抄』では三句「降りつるは」四句「風にみだるる」)、冷たく寂しい雨と晩秋を彩る紅葉の乱舞を対照させました。
 かくも憂鬱な雨は『源氏物語』ではどのように描かれるのでしょうか。何と言っても印象的なのは光源氏と朧月夜との密会の夜に激しい雷雨があり、翌朝様子を見にきた彼女の父の右大臣にすべてを知られてしまう場面(賢木巻)でしょう。また、その事件が引き金となって光源氏が須磨に流謫すると、翌年三月には風を伴う雷雨がはらめき(バラバラと音をたてて)落ちてきます(須磨巻)。この雷雨をきっかけに源氏は明石に赴きます(明石巻)ので、賢木〜須磨〜明石の展開には、若き日の光源氏の激動の時期を象徴するような激しい雨が大きな役割を果たすことになるのです。今「賢木」と「須磨」の巻を連続させてしまいましたが、この間には「花散里(はなちるさと)」という極めて短い巻が存在します。人柄のよさゆえに光源氏に愛される花散里という人は夏のイメージの強い女性で、この巻でも光源氏は五月雨の晴れ間に彼女を訪ねます。「賢木」と「須磨」という光源氏の転落を描く嵐の巻の間に置かれた「花散里」巻は束の間の五月晴れのようでもあります。ついでながら、澪標巻で光源氏が花散里を訪ねた時もやはり五月雨の晴れ間でした。

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内助の功(2) 

豊竹英太夫さんの奥様は高校時代からのお付き合いだそうで(ぜひ本を買って読んでください!)、出会ってからもう半世紀以上になるそうです。
少女時代から体型が変化していないのではないかと思うほどスマートな方で、モデルさんのようなのです。以前、何かの仕事で文楽劇場にいたとき、チケットは持っていませんでしたのでロビーでボヤーッとしていたのです。
すると白っぽいスーツ(だったと思うのですが、記憶が不明瞭です)の女性がすたすたと歩いてこられました。「おおお、女優さんみたいな人だな、歩き方も美しい!」と思っていたら

    「こんにちは」

といわれました。「へっ? 私?」と思ってよくお顔を拝見したら英太夫夫人だったのです。普段、ご自宅にお邪魔しますと当然ながら普段着でいらっしゃいますから気がつかなかったのですが、お召し物の着こなしがすばらしくて、立ち姿の本当にきれいな方です。

    あわあわあわ

と動転してしまった私は、何とお答えしたかわからないくらいでしたが、なんとかご挨拶をしたつもりです。でも、失礼じゃなかったかな、と心配になりました。
こういう方が、普段のご家庭での生活とともに、ご贔屓の方にきちんとご挨拶をされたりすることで伝統芸能の世界が成り立っているという面があるのだなと思います。それと同時に、奥様方は注目されることもありますから、きちんとした格好で劇場においでにならないといけないわけで、そこがまた大変だな、とも思います。
四月公演では英太夫夫人〜そのときは呂太夫夫人ですね〜も連日おいでになるでしょうから、皆様もお会いになるかも知れませんね。

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内助の功(1) 

「内助の功」というのは以前に比べるとあまり聞かなくなった言葉かも知れません。しかし、文楽にせよ歌舞伎にせよ、伝統芸能の世界では演者が男性ばかりですから、かえって奥様の力がかけがえのないものになったりします。
歌舞伎に行きますと、奥樣方がロビーに出てご贔屓の方にご挨拶なさったりしていて、華やぎがあります。歌舞伎通のかたは

    「あの人は誰の奥様」

ということをよくご存じです。最近は歌舞伎役者の方もタレントさんと結婚されたりしますので、奥様ご自身がもともとよく知られた人だったりします。
文楽では、歌舞伎ほどではないにしても、奥様がロビーに出ていらっしゃることが珍しくありません。住太夫師匠、団七師匠、勘十郎さん、燕三さんなどの奥様はかなりよく知られた方々でしょう。最近話題の奥様と言えば

    吉田幸助夫人

でしょうか。
上演中にロビーにいますと、お客さんはいませんから、奥様方が出てこられてリラックスしてお話しになったりしていることもありますし、小さいお子様が走り回っていることもあります。(明日に続く)

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手を離れました 

先日、出版社に最後の校正と索引を送って、『文楽 六代豊竹呂太夫 五感のかなたへ』の仕事は私の手を離れました。
もちろん、問い合わせが来る可能性はありますが、基本的にはもう終わりです。去年の夏以来、原稿を何度読んで何度手を入れたかわかりません。
これが論文集なら、

    文字を並べる

だけですので、原稿さえしっかりしておればさほど苦労はしなくて済みます。しかし、英太夫さんのおっしゃりたいこと、おっしゃりたくないこともありますし、私にはわからない文楽の世界独特の慣習もあります。それをうかがいながら失礼のないように書かねばなりません。
また、出版社はできるだけ赤字を減らそうと考えてくれますから、いい本を作ろうということとともに、

    売れるように

導いてくれます。その結果、あれこれ注文も出てきます。わかりやすい文章、ルビ、注、写真、章立て、カバーデザイン等々。
この仕事さえしておけばいいのであればまだしも楽だったのですが、授業その他の予習などは一般の教員より多く時間がかかりますから、この半年はかなりキツかったのです。最後になって右手が細菌感染して炎症を起こすというおまけまでつきました。
裏話はいろいろありますが、内緒話でしか言えないこともあります。またお会いした時にこっそりお話しします(笑)。

呂太夫 チラシ オモテ
チラシ(表)

呂太夫 チラシ ウラ
チラシ(裏)

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しんどいです 

2月にはいって、ちょっとしんどいです。
呼吸器の状態も思わしくありませんし、右手の痛みがなかなかよくなってくれません。
それにもまして、からだ全体が疲れています。朝まだ暗い時間に仕事に出るのですが、気力を振り絞らなければ出て行こうという気になりません。
休日など二度寝をすると数時間寝続けることもあるくらいです。
生活が苦しいうえに忙しい、貧乏暇なしの生活を続けていますが、身体は確実に老いていき、ガタが来ています。
美術館にでも行きたいな、とは思うのですが、その元気も今ひとつ出ないのです。お金がかからなくていいのですが(笑)、あまりにもエンゲル係数が低すぎます。
なんとか、明るく楽しい春が来てくれることを待つばかりです。

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腱鞘炎にご注意 

右手に故障が発生してからも、英太夫さんのお宅で打ち合わせがありました。その時点では、病名は腱鞘炎で、パソコンの使い過ぎ、ペンの使い過ぎだと思っていました。
どんなに不便かをお話しもしたのですが、そういえば、師匠もこれから気をつけないといけませんね、という話になりました。
なぜなら、本が出たら師匠は

    サイン

をしなければならないからです。
文楽劇場や国立劇場の売店からはサイン入りを置きたいと言われるでしょうし、それ以外にも買ってくださった方が師匠にお願いされることがあるでしょう。
おそらく何百冊という単位でサインする必要がでてくるのではないでしょうか。奥様も大変心配なさっていました。
私としてはにわか仕込みの腱鞘炎予防の仕方を伝授して差し上げるのが精一杯でしたが、ご本人は大丈夫やろ、とおっしゃっていました。
「床本めくるのは

    左手

やし」とのことでした。なるほど、太夫さんは必ず左手で床本をめくることになっています。でも、「野崎村」あたりを語っていて、久作が「できた!」というところで勢い余って見台を右手でどんと叩いたりすると「できた!」のかわりに「痛い!」と言ってしまうかも。
師匠、どうか10人分サインしたらストレッチするとか、ご注意くださいませ。

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厄年? 

私の家からもさほど遠くないところに「門戸」と書いて「もんど」と読む「厄神さん」(神社でもお寺でも「さん」付けするのはこちらでは普通なのでご容赦を)があります。電車の駅名にもずばり「門戸厄神」があります。
たしか、妹は19の年に行っていたと思います。私はそういうものにほとんど関心がなくていわゆる「厄除」はしたことがありません。
厄年というのは何歳なのか、必ずしも決まっているとは思わないのです。もともとは13、25、37、49(いずれも数え年)と、12年ごとの「当たり年」が厄年だったと思うのですが、今は、男性は25と42、女性は19と33が大厄といわれているのではないでしょうか。そういえば『曽根崎心中』では徳兵衛とお初は二十五歳と十九歳の厄年ということになっていました。
しかし私は厄年とも思えないのに、なんだか、年明け以降次から次へと厄災に見舞われています。
車は故障続き、携帯はダメになる、右手が使えない、久しぶりに呼吸がつらくなる。いやな一年にならなければいいのですが・・・。

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パーティ 

六代目豊竹呂太夫さんの襲名披露パーティがあります。
その案内状を先日いただきました。大阪と東京で、どちらも著名なホテル。発起人の皆様方の錚々たる顔ぶれにも驚きつつ、どうも私には場違いな気がしています。
パーティの会費もそれなりで、今の私にはとてもお支払いするのが厳しく、そもそも着ていくものもありません。
よしんばそれらの難題がクリアされて行ったとしても、壁の花どころか、壁のシミ(笑)くらいにしかなれそうになく、誠に残念ながら欠席させていただくのがいいだろうと思います。
思えば、パーティというものにはもう長い間行っていません。昔は何だかんだとあったのですけれどもね。
でも、四月には劇場でしっかり「おめでとうございます」とご挨拶をしようと思います。

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携帯が・・・ 

長年使ってきた携帯電話がどうやら完全にダメになりそうです。ここしばらくの間は携帯での連絡が不自由になると思います。
もう一年以上前から危ないとは思っていたのですが、なにしろ新しいものにするには先立つものが必要ですので、今の私にはかなり厳しいです。
それでずっとだましだまし使ってきたのですが、何もかもできなくなってきて、どうもあきらめなければならないようです。
何とかお金を工面して安いものを手に入れるか、使うのをやめるか。今のご時世では後者が難しいのですよね・・・。

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素人判断 

先達はあらまほしきものです。
私は右手の異常を腱鞘炎だと思っていました。なにしろ、パソコンを使い倒して、それをしない日はペン。電車の中でもペン。右手にかなり負担をかけていましたから。
ところが内科の医者に診てもらったら「違うと思う」といきなり血液検査。医者は蜂窩織炎だと言ったのですが、結果は白血球値などに異常はなく、細菌感染ではなさそうだ、とのことでした。
結局その医者は見立てと検査結果の不一致に結論を留保し、整形外科に行くことを勧めてくれました。
あいにく、私が忙しくしていたため、その病院の整形外科の診察時間には行けなかったのです。
しかしどうにもすっきりしないので、仕事をさぼって開業医さんに行ってみました。
するとその医師も開口一番「蜂窩織炎だと思う」。X線では何の異常もないので、ほかに思い当たらないとのこと。血液検査はともかく「しばらく抗生剤を使ってみましょう」とのことでした。
やはり素人判断で「何とかなるんじゃないか」と思い込むのは禁物ですね。
はやいうちに完治させたいものです。

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疲れが… 

2月になったし、さあ、頑張るぞ、と思ったのですが、なんだか調子が悪いです。
土曜日(4日)はほぼ寝たきり雀。
前日に仕事が一段落してホッとしたのかも知れません。
食欲はなく、何度も寝てしまいました。
活字に向き合っても30分と持たず、休憩の合間に仕事をする(笑)感じです。
右手は腱鞘炎ではないようで、治療方針変更。とにかく、自由に手を使いたいです。
今週はあまり無理せず日々牛歩でまいります。

二度目のご案内 

現・豊竹英太夫、4月からは豊竹呂太夫。
この方の聞き書きを中心とした本の制作はもう少しで完全に私の手から離れます。重大な作業としては索引が残っています。編集者さん曰く「索引のきっちりした本はすばらしい」。その言葉に乗せられながら最後の詰めに向かいます。ただ、索引はページが確定しないとできませんので、本当に最後の仕事になります。
先日、知人が楽天ブックスやアマゾンにもう出ていると教えてくれました。ほんまかいなと思ったら、出ていました(→こちら)。

実感としては、作業は続いても刊行されるという気がしないのですが、こうして宣伝されると「ああ、ほんとうに出るんだな」という感じがしてきました。
書名はちょっと長いのですが、

    『文楽 六代豊竹呂太夫
             五感のかなたへ』


です。
二度目のご案内でした。
次は刊行される三月にまた書きます。

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2017年2月文楽東京公演初日 

今日から文楽東京公演が始まります。
近松門左衛門作品集のようです。
『平家女護島』『曽根崎心中』『冥途の飛脚』。
関西でこの演目それぞれが6000円だとかなりクレームがつくでしょうが、東京はそうでもないのでしょうか。

関東圏は東京、神奈川を中心に、関西圏に比べて人口がはるかに多く、逆に劇場客席数や公演日数は文楽劇場の70%くらいです。
文楽劇場
750人×22日=16500人
国立小劇場
550人×16日=8800人
人口がはるかに多いのに客席のキャパは半分。
いきおい、東京国立はチケットが取りにくく、見かけ上は人気が高いようです。多少チケット代が高くても行く人はいらっしゃるでしょう。しかし、庶民の芸能という感じからは程遠いような気もします。
さて、この公演も大入り満員続きでしょうか。

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春休みのしゅくだい 

授業は終わり、成績は今日が締切。熱を出して一回お休みをいただいたために延びてしまった公開講座も今日が千秋楽。これで2016年度の仕事らしい仕事は終わりです。
ということで、ほぼ

    春休み

に入ります。
これから約2か月が仕事を集中してできる時です。頑張らねばなりません。
まずは『源氏物語』の原稿。丸一年4回短歌の雑誌に連載させていただいたのですが、続けてもよいと言われておりますので、頑張ろうと思います。そうすることで、学生時代以来きちんと勉強しないまま過ごしてしまったこの大作に少しでも接したいと思っています。
『源氏物語』というと、4月から学生への授業で

    宇治十帖

を読むことにしているため、しっかり予習しなければなりません。15回分のテキストは作っておかなければ、4月以降の忙しさを思うととてもやっていけません。
できれば宇治に行って写真も多く撮ってきたいのですが、できますかどうか。私の授業では、文を読むだけではなく、絵、写真などを多く見せることにしていますので。

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車が… 

愛車が悲鳴をあげています。
エンジンがかからなくなり(スターターの故障)、もうそろそろ引退かな、と思っていたら、バックモニターもダメ。
ディーラーでは、型が古いから在庫を安くつけますよ、というのですが、やめておきました。
以前はそんなものなかったのですから(義務化されるという話もあるようですが)。
今度は、ガソリンがなくなったので給油に行ったら、給油口のカバーが開かず。これは錆でした。
走行距離は12万kmくらいですが、ウ~ン、と悩んでいます。
お金があれば問題ないのですけどね(笑)。

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後悔 

これだけはやっておくべきだった、と思うことがあります。
大学一年生の時、クラブ紹介の場まで行って説明も聞いたのになぜか参加しなかった謡曲部。厳密には観世会だったかな。
とても後悔しています。
私は特に謡に関心があり、仕舞に自信がまるでなかったことが理由だったかも知れません。

もうひとつは茶道。
これは大学にクラブがあったかどうかもわかりません。
日本の芸道を知らなさすぎです。
あのころ、もし三味線部や義太夫部があったら、参加していたかな?

今、もうひとつ後悔しているのは、料理。まるでやらなかったのです。でも、独り暮らしをしていたころ、もしクックパッドがあったら、やっていたかな。

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