恵方巻、食べた? 

ずいぶん前の話になりますが、2月3日は節分でした。
いつの間にやら恵方を向いて食べると縁起がよいというまきずし、いわゆる

    恵方巻

が大変な流行になっているようです。
あの日の朝の新聞はさみこみのチラシを見ると、スーパーでは膨大な量の恵方巻を売っているような感じでした。
単なる巻きずしではなく、中味も凝りに凝っているものがあり、値段もさまざま。
私はその日はスーパーに行く用がありませんでしたので見てはいないのですが、おそらく売り場も大変なことになっていたのかなと思います。

    歳徳の神

のいる方角を見て何も言わずに食べるとよい、とかいうのですが、そんなに古くからあるものでもなく、今のようになったのは海苔業界が主導して40年ほど前から始まったものと言われるそうです。
「恵方を向いて」とか「何も言わず」とか「丸かじりを」とか、いろんな条件を付けることでそれらしさを増す作戦も成功したようです。
ところが、これが翌日になると大量に廃棄されるというので話題になったようです。
廃棄するなら翌日の弁当にするから2本くらいちょうだい、と思うのは私のような貧乏人の考えることです。
これは変じゃないかという考え方をするスーパーもあるそうで、その店では「うちは売るけれども多めには作らない」と宣言して、完売したそうです。
ウナギにせよ、チョコレートにせよ、「この日にはこれを食べる」というのは、やはり無理もあり、またどうしても無駄も生ずるのです。私もどうも変な気がしますので、もう何年も恵方巻なるものは食べていませんし、バレンタインデーのチョコレートなんて何十年もご無沙汰しています(これは意味が違うか・・)。
そういえば、ウナギの稚魚の漁獲量が極めて少なくなったというニュースもありました。あれは何かの警告なのではないかとさえ思えるのでした。

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浄瑠璃作り 

何の根拠もないのですが、どうもわが人生も終わりに近づいてきたような感じがしてなりません。
それを言い出すと誰でも同じことなのですが、このところ急にそんなことを思うようになってきました。
ふと思い出したのが、恩師が大学を辞められて、私立の女子大に移られた後におっしゃっていたことです。その女子大は東京では名門のように言われるのですが、あまり勉強好きな学生さんはいないのか、授業をしていてもうるさくて仕方なかったのだそうです。「よく『うるさい!』って、怒鳴るんだよ」とぼやきながら、恩師は「これからは本作りをする」とおっしゃっていました。
実際、そのあと重厚な論文集を編まれて、私にまで一部お恵みいただきました。さらにはエッセイなども含む本も出され、みごとに「本作り」を

     有言実行

されたのでした。
私も論文集が出せればいいのですが、そんな立派な業績を持っていませんし、先立つものがありませんから、とっくに諦めています。
かといって、無名の私がエッセイ集を出しても売れません(笑)。
何ができるかなぁ、と思うのですが、

    浄瑠璃集

は書き残せるのではないかと思わないではありません。
費用がありませんから、本にして出版することは無理です(エッセイ以上に売れません)が、データとして残すことはできるだろうと思います。
『斎宮暁白露』『名月乗桂木』の二作は文楽劇場や能勢の浄瑠璃シアターに保管されていますが、そのほかにも表に出していないものがいくらかありますし、野澤松也さんに差し上げている短編連作ももうすぐ七つになって、これで完成します。言葉が枯渇しないうちに(笑)、短編浄瑠璃はもっと書きたいという思いがあります。
そしてもうひとつ、これは大きなものになりますが、『フィガロの結婚』(ボオマルシェ原作。ロレンツォ・ダ・ポンテ脚色)を浄瑠璃にすることはできないだろうかと思っているところです。
何年かかるかなぁ? それまで生きてるかなぁ? 縁起でもないことばかり書いてすみません。

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2018年2月文楽東京公演千秋楽 

2月の公演が終わりました。
豊竹咲太夫師匠、竹本織太夫さん、2か月にわたってお疲れさまでした。
織太夫さんは今後、花形として重要な場をお語りになることを期待しております。
「桂川連理柵」「曽根崎心中」による地方公演のあとは、息つく間も無く、

    五代目吉田玉助

の襲名披露公演です。
私の文楽観劇歴はほとんど新・玉助さんの芸歴に重なりますので、よけいに楽しみです。
桜咲く季節、よき襲名披露になりますように。

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玉造の名 

吉田玉助の名よりも玉造の名の方が格上だったことは否定できないでしょう。初代玉造の子が初代玉助。この人はゆくゆく二代目玉造となるところを早世されたので果たせず、二代目玉助が玉造を襲名しています。いいかえれば、玉造の前名が玉助ということになりそうです。
にもかかわらず、玉造の名は途絶え、玉助はこのたび五代目を数えることになりました。
初代玉造は名人で権威があって長生きもしたのですが、その後、どうもこの玉造の名には

    

がつきまといます。
二代目の玉造は人形遣いとしても、人間としても立派な人だったようですが、襲名した翌年に亡くなりました。
そして三代目を継いだのはもともと初代玉助の弟子だった玉松でした。この人は、三宅周太郎『文楽の研究』によると万延元年の生まれで、中野卯之助という人。父は中座の楽屋番で兄は大道具方。卯之助は大道具を手伝った後、二十一歳で(文楽の世界では「中年」での入門になります)初代玉助の門下になり、玉松を名乗ったのです。文楽座、彦六座、堀江座で活躍し、二代目の玉造が亡くなった後、三代目を継ぎました。ところが厄介なことがありました。文楽では名跡は遺族に属することになるのですが、二代目の玉造の親類から何かといわれたらしく、彼は

    吉田玉蔵

と名前を改めてしまいます。
これで玉造の名は途切れてしまうことになりました。
ときどき思うのですが、遺族の方は当然故人に対して思い入れがありますから、その名前は故人のもの、ひいては自分たち遺族のものと思いがちですが、代々伝わったものであれば、次に手渡すことを考えていただきたいのです。
越路太夫の名は三代目のご子息(竹本さの太夫)が歌舞伎に行かれたために継がれなかったのですが、その奥様が、絶やすわけにはいかないというので、当時の豊竹つばめ太夫に手渡してくれたことで我々の知る四代目ができました。
最近では文昇の名もそうです。先代文昇師匠の奥様が「どなたかに継いでいただきたい」と文雀師匠に相談なさって今の文昇さんに渡されたのですから。大事な名は継がれることでさらに意味が出てくるものだと思います。
さて、玉蔵という人は春風駘蕩。二代目玉造がそうであったように、温和な人で、何を言われても泰然として、意に介することなく落ち着いていたようです。大正十五年に亡くなりましたが、立役、女形のいずれもすぐれていたそうです。戒名「真性院覚山慈照居士」。
三宅周太郎はこの人と二代目玉造を「二大紳士」とまで言っています。
玉造の名が、残念なことに、こうして霞んでいったのに対して、玉助は三代目がさらに大きな名にしたため、今に残ることになったのです。

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二代目吉田玉助のはなし 

三宅周太郎の『文楽の研究』によって初代吉田玉造をご紹介しましたので、二代目玉造である二代目玉助についても書いておきます。
初代に続いて二代の玉助も短命だったのですが、なかなかすぐれた人形遣いだったようです。
本名を佐々木熊次郎といったこの人は、大阪新町北通に生まれ、九歳で初代吉田玉助の門下になります。初名は吉田玉七。『祇園祭礼信仰記』の輝若丸で、松島文楽座でデビューを果たし、その後は文楽座一筋だったそうです。この当時は座を転々とする人が多かったのですが、この人は文楽座で通したそうで三宅周太郎は「脇目もくれずにぢつと文楽にゐて初代玉造父子に仕へた」と書いています。
初代玉助は早世しましたが、亡くなる時にこの玉七に二代目玉助を継ぐように遺言したそうで、その言葉に従って玉七は『妹背山』のお三輪で明治二十二年に玉助となりました。その後、初代玉造が明治三十八年に亡くなる時にも、玉造の名はこの男しか継ぐ者はないと言ったそうで、翌年

    二代目吉田玉造

になるのです。初代玉造父子からいかに信頼されていた弟子であったかがよくわかります。
ところが、好事魔多し。その翌年、風邪からの病によって大阪市北区兎我野町の自宅で、わずか四十二歳で亡くなったのです。文楽座では座葬をおこなったそうです。
三宅周太郎はこの人を

    「英國流の紳士」

と言っており、さらには「温厚篤実」「謙遜家」「沈黙家」「責任感があり」「清廉」「几帳面」と書いています。亡くなる時に道具類を弟子たちに分与したのだそうで、そういうところにもこの人の几帳面さはよく表れており、それゆえに「英國流の紳士」とされるわけです。
この二代目玉造(二代目玉助)が亡くなった時の新聞記事によると、『伊賀越』の十兵衛、『紙治』の治兵衛、『菅原』の菅丞相などが当たり役で、和事の芸に関しては並ぶ者がなかったと言います。
戒名「永壽院善誉居士」。

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初代吉田玉造のはなし(2) 

茶谷半次郎『文楽聞書』に載る三味線の四代目鶴澤叶(のちの二代目鶴澤清八)の話です。
初代吉田玉造の家は大阪島之内の「御池橋東詰を東へ這入つた北側」だったそうです。御池橋は西横堀に架かっていた橋です。
叶は玉造の狐について面白い話を伝えています。『義経千本桜』の道行や四段目の狐、『本朝廿四孝』の狐など、あまりに見事で感心したそうで、あるとき玉造に狐の演技が素晴らしいと、いささか生意気なことを言ったのだそうです。鼻白んだ玉造が「子供が大人なぶりすな」と言うと、「お師匠はんはきつとほんまの狐がそばえてゐるのを見やはつたのんや思ひます」と言ったそうです。「そばえる」は甘えるとか戯れる、といった意味です。すると玉造は逆に感心してある秘話を教えてくれたのです。
玉造は、狐がものに戯れているところを見たいと思って伏見稲荷に願をかけました。そして七年目の暮れの寒い時期に「一の峰のお宮のうしろの裏山」で、

    真っ白な狐

を見たそうです。玉造は思わずその狐を拝んで様子を見ていると、狐は「うしろを見たり、そばえたり、パッと飛んだり」したかと思うとふいと見えなくなったのです。玉造は「神様が見せて下されたのだ」と思ってそれを参考に狐の動きに工夫を重ね、紋も玉の紋に替えたと言います。
叶は、やはり玉造の真骨頂として早替わりや宙乗り(昔の人はわりあいに「宙吊り」といいます。今、そういうと笑われるのですが)を挙げています。「石橋」の獅子、「松島八景」の七変化、「五天竺」の孫悟空などで、孫悟空では客席の上をくるくる回ったそうです。
今では考えられないような玉造の

    いたずら

の話もあります。『浦島太郎倭物語』が出た時、玉造は浦島太郎を遣い、浦島が海に飛び込むということで本水が用意され、人形とともにその中に飛び込むのだそうです。ところがそのあとすぐに下手から人形も玉造自身もまったく濡れていない姿で出てくるのだそうです。
さて、その時の床は文太夫(のちの三代目津太夫)と鶴澤寛治郎でしたが、ある日、玉造は二人を捕まえてその本水に引きずり込もうとしたそうです。寛治郎は逃げおおせて客席の方に逃げたそうですが、あわれ文太夫は引きずり込まれてしまします。そのあと、寛治郎は床に戻って平然としていたそうですが、文太夫は大道具さんに助けられてやっとの思いで水槽を抜け出し、びしょ濡れのまま最後まで語り、お客さんは大喜びだったそうです。
それにしても、玉造の茶目っ気とともに、怒ることもなく床をつとめて、そのあと玉造に「えらい目にあはしやはりましたぜ」と言ったという文太夫もなかなかのものだと思います。玉造はそういわれて「それは気の毒やつたなア」と大笑いしたと言います。
例の「腹帯」の話も書かれているのですが、このできごとについては「「志渡寺」のお辻の水行のくだりであつたといふ異説」があることも紹介しています。これは三宅周太郎の言っていた、「志渡寺」が原因になって「すしや」で腹帯が切れた、という話が混乱して伝わったものかもしれません。
叶はこの玉造について「摂津大掾さんに劣らぬ文楽座の殊勲者のお一人」と賛辞を贈っています。

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紙芝居の勉強(2) 

戦後になって、平和、平等、友愛、命の尊厳、など、忘れられていた教育のテーマが紙芝居によって表現されるようになり、民主紙芝居人集団が1948年に結成され、紙芝居出版の老舗である

    童心社

ができたのは1957年のことでした。
戦時の自由にものを言えない、ということは紙芝居も自由に作れない苦しみを体験した高橋五山らの紙芝居作者たちはいよいよ力を発揮することができるようになりました。
そして、教育現場にも紙芝居が広がり、私も小学校ではときどき見せてもらいました。
もっとも、小学校の先生は紙芝居を演ずるのが得意な人ばかりではなく、私の思い出では、二年生の時の担任の女性の先生1人が比較的うまかった、と記憶します。この先生は

    ふつうのおばちゃん(笑)

という感じの人で、他の先生が教育者然としていたのと対照的。ところが芝居っ気があって、紙芝居も楽しそうに読んでくれました。
私の紙芝居への関心の原点は、観たか観ていないかわからない街頭のおっちゃんと、鮮明に覚えているこのおばちゃん先生にあります。
ただ、紙芝居はどこか低級なものという意識があったらしく、先生たちも紙芝居をよむ練習などあまりしていなかったように思います。
実際、小学校高学年になったら紙芝居を観せてもらうことはありませんでした。中高生の頃は当然のように紙芝居とは無縁で、大学も教育学部に行けば触れる機会があったのかもしれませんが、縁がなかったのです。
それでも、語り芸が好きで、芝居にも関心のあった私の心から紙芝居が消えることはありませんでした。

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紙芝居の勉強(1) 

あれは何歳だったのか、よく覚えていないのですが、近所に公園というよりは空き地というべきところがあって、そこにはどこからともなく

    紙芝居のおっちゃん

がやってきたのです。ちょっとしたヒーローでした。
私は一度だけ観たような、いや、やっぱり観てないような、そんなおぼろげな記憶しかないのですが、いわゆる街頭紙芝居です。

街頭紙芝居は1930年代に日本で生まれたもので、もともとは、世界大恐慌のあと、不況のために職を失った人が、駄菓子を売ろうとして、いわばそのついでに子どもに見せたもののようです。
ところが、街頭で売る菓子が非衛生で、紙芝居の内容に好ましからぬ(とおとなたちに見られた)問題があったらしく、批判もされたようです。やはり子どもを集めて駄菓子を売らねばならないですから、内容が

    教育的

とは言えなかったのでしょう。もちろん、教育的でなければ紙芝居ではないとは思いませんが、お菓子を買わされた上に変なものを見せられたら困る、ということだったのでしょう。
ところが、その非教育的と批判されたものを、形式を借りて教育に役立てるものを作ろう、という動きが出ます。
つまり、紙芝居そのものの魅力は内容に関わらず誰もが認めるものだったのです。最初から芸術としての要素を孕んでいたとも言えそうです。
では、教育的ならなんでもよいか、というと、そうとも言えません。折しも時代は第二次世界大戦に突入するころで、紙芝居も戦争を題材にしつつ、大日本帝国軍の賛美を「教育」するものになっていきました。
『軍神の母』『敵くだけるまで』『玉砕軍神部隊』などのタイトルが全てを説明してくれそうです。

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初代吉田玉造のはなし(1) 

初代吉田玉助の父は初代吉田玉造でしたが、この人についての話を三宅周太郎『文楽の研究』茶谷半次郎『文楽聞書』から拾っておきます。
古い本ですから、その後、学者の方などが調べられたことで訂正されていることがあるかもしれませんが、とりあえずこの二書の記す所を素直に聞いておきます。
まずは『文楽の研究』による話です。
玉造は人形遣いの吉田徳蔵の子で本名吉倉亀吉。11歳の天保十年に子供の太夫による芝居があり、それに出してもらったのが初めてであったとされます。その時父親が「丸顔だから玉造にしておけ」と芸名をつけてくれたと言います。父が徳蔵なら「玉蔵」でもよさそうですが、字が重すぎたのでしょうかね。
その後四国で興行があった時に『先代萩』の鶴喜代君(『文楽の研究』では「鶴千代君」)を遣うことになったそうですが、千松を遣う人形遣いが、玉造のような新米が相手では気にくわないという態度だったそうで、玉造は昼ご飯をこの人形遣いに提供することでやっと遣わせてもらったそうです。そのため、あまりに空腹で、鶴喜代君以上に大変だったというなかなかよくできた話があるそうです。
玉造は歌舞伎の市川米十郎(のちの四代目小団次)と張り合ったことがあり、それは『傾城反魂香』の一場面で宙乗りを見せるところに関わることだったそうです。玉造が工夫していたことを座(竹田の芝居)から米十郎に「採用したらどうか」と言ったそうです。すると米十郎はそんな人形遣いの言うことは相手にしないと断ったそうです。それを聞いた玉造は、それならとばかりに自分も同じ役をさらに工夫して演じることにして結局評判は玉造に軍配が上がったそうです。
玉造はのちにも宙乗りや早替わりなどに様々な工夫を凝らした人です。
そして、もうひとつはあの有名な話です。
「志渡寺」の「南無金毘羅大権現」のところで長門太夫を弾く三味線の

    豊澤団平

が総稽古の時に気を抜いたそうです。それに怒った玉造が苦情を言ったそうです。
長門太夫のとりなしもあって一応収まったものの、次の公演で『義経千本桜』「すしや」が出たときのことです。
長門太夫・団平が「すしや」を演奏し、玉造は権太。稽古で、団平が「これ忘れてはとひっさげて」のところをどうしようかと玉造に問うと、玉造は「自由に弾いてくれれば自分が合わせる」と、そっけなく言ったそうです。まだ「志渡寺」のもやくやを引きずっていたのですね。団平はそういわれてぶちっと切れました。
さていよいよその場面になりました。団平はこれでもかとばかりに力いっぱい弾いたそうです。長門太夫も負けていられず目いっぱい語る。そのとき、玉造の

    腹帯

が切れた、というのです。

三宅周太郎はこの、欲得のない人形遣いを「天才肌の達人」と言っています。

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2018 春休みの宿題(4) 

あまりあれもこれもやろうとするとすべてが中途半端に終わりそうですが、もうひとつ、せめて骨組みだけでも作っておきたいものはやはり創作浄瑠璃です。これまで野澤松也さんに差し上げたものは6つあるのですが、実は最初の1つはあまり評判が芳しくなく、私自身も習作という感じがしています。
おそらくほとんど上演されないままに終わっている唯一の作品だと思います。
ある程度は納得できているのですが、話としてはあまりにも面白くなくて、

     書き換え

てもいいかなと思うのです。
そうすると、できたものは5つになり、あと2つ、なんとか書ければ本所七不思議を素材にしたものが完結するのです。
私はこの奇談、怪異譚を浄瑠璃にするにあたっては、人間の情愛がどのように怪異を生むのかという点に興味を持ち、結果として生まれる怪異よりもその情愛を描くことを主眼にしてきました。父と子、男と女、姉と妹などの情愛。
この線で7つを仕上げたら、一つ仕事を終えたという気持ちになれそうです。この春休みは完結まではいきそうにないのですが、

    置いてけぼり

をある程度の形にしたいと思っています。「置いてけぼり」は落語にもなった話ですね。
とりあえずこれだけを春休みの宿題として掲げておいて、さてどこまでできるかということになります。
この冬もインフルエンザにかからずにここまでやってきましたので、しっかり勉強しようと思います。

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春休みの補講 

おととい、学生さんが来ました。
1月の最初の授業のとき私がいつになくゆっくり家を出たらたまたま事故があったらしく、途中で大渋滞になりました。車の列はまるで動かず、脇道に逃げるのもたやすくなく、逃げるとまたそちらも渋滞しているというひどい目にあい、普段なら30分余りで行けるのに、この日は1時間余分にかかってしまいました。結局大幅に遅刻する羽目になったのです。
多くの学生さんは「そんなのいいですよ」「とよくあることです」「私たちも遅刻しますから」と言ってくれたのですが、後日

    「補講してください」

と言ってきた学生さんがいました。
よくぞ言ってくれました。病気で休んだというならならともかく、車が渋滞で遅刻という恥ずかしさですから、どちらかというと補講させてもらうほうが気が楽だったのです。
しかも彼女は「キリスト教の話をしてください」とリクエストしてきました。
もうこうなったら何でもやっちゃいますよ。
その後

    聖書

を読み直してまとめることをまとめ、プリントもしっかり作って準備しました。
彼女一人だけでしたが、とても気持ちよく話をさせてもらいました。もちろん手当は尽きません(笑)。

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2018 春休みの宿題(3) 

今年の春休み、まじめに取り組んでいるものがあります。それは紙芝居です。
まずは
 長野ヒデ子編 『演じてみよう つくってみよう 紙芝居』(石風社)
 子どもの文化研究所編 『紙芝居のコツと基礎理論のテキスト』(一声社)
 紙芝居文化の会 『紙芝居百科』
を読んで勉強しました。このうち最初の本は以前もざっと読んでいるのですが、もう一度やり直します。
しかし紙芝居は理論だけではどうしようもありません。大事なのはやはり

    実践

です。しっかり声を出しながら、どのように紙を抜いていくかなどを、きちんと研究しています。
そのために紙芝居を11セット手に入れました。もちろん自費で買ったのではありません(笑)。

『かさじぞう』
『人魚ひめ』
『雪の女王』
『ふるやのもり』
『なんにもせんにん』
『てぶくろをかいに』
『うりこひめとあまのじゃく』
『さるとかに』
『天人のよめさま』
『ニャーオン』
『ももたろう』

です。これまでに研究、実践したのは、この中では『かさじぞう』と『ニャーオン』のみです。
どちらも勉強のしがいのある名作でした。
普段はどうしても大きな声は出せませんので、

    休み中こそ

こういうことができるいい機会なのです。
1日1時間は、声を出したり紙の送り方の工夫を考えたりしています。
これも実は授業に関係するもので、幼稚園教諭や小学校教諭を目指す学生にn勉強してもらうために私がまず勉強するわけです。

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幸助から玉助へ(7) 


このたび、五代目玉助になられるからには、松王丸、毛谷村の六助、岡崎の政右衛門、御所桜の弁慶、引窓の長五郎など、大きな主役は自分のものだという自負とともに責任を感じていただいて遣っていただきたいものです。
歌舞伎で「加役」と言いますが、立役遣いの方がなさる女形には岩藤や八汐なども玉助さんでぜひ観たいです。検非違使首なら「河庄」の孫右衛門。やはり肚のある役柄が映るように思えます。
四月公演では口上とともに『本朝廿四孝』の

    山本勘助

を遣われます。これは三代目の襲名披露のときと同じ役です。
幸助さんから襲名の相談を受けられた簑助師匠も「この役で襲名したらどうか」とおっしゃったそうです。
口上はどなたが出られるのでしょうか。初春の織太夫さんの時は八代綱大夫師の五十回忌がありましたので、咲太夫師匠と織太夫さんだけで(写真で綱師も出ていらっしゃいましたが)、お話しになったのは咲太夫師匠だけでした。今回はご一門はじめ多くの方が舞台に上がられそうですね。
多くの人に祝福される五代目吉田玉助さんは

    幸せな門出

をなさると言えるでしょう。
どうかますます精進なさって、平成の次の元号を代表する人形遣いになっていただきたいと願っています。
このシリーズ記事の最後に幸助さんにお願いをしておきます。
幸助さんが玉助になられたら、次の玉助を育てる使命が生じたとも言えるでしょう。是非、

    お弟子さん

を育てていただきたい。
基礎をしっかり身につけていらっしゃる幸助さんですから、きちんと若手を育てられる、立派な師匠になられると思います。
そうすることで四代目玉助のご尊父への本当の意味での恩返しができます。これができなかったら玉助襲名の意味が小さくなると思います。
長々と書いてきましたが、実はこれが一番言いたかったことかも知れません。

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幸助から玉助へ(6) 

文楽ファンの集まりである「だしまきの夕べ」にも来てもらったことがあります。どなたか来てもらえたら、と、実行委員長(笑)のやたけたの熊さんに言われて、私がお声をかけたのですが「ぼくなんかでいいんですか」と例によって謙虚にお返事を下さいました。
するとこの時は女性陣が大張り切り。私の知り合いで、だしまきの夕べには参加したことのない人までが「行きます」と言い出して、初春公演だったものですから、その人は早めの

    バレンタインデー

のプレゼントまで持ってきていました。
4年くらい前だったと思うのですが、その時にも襲名の話をいくらかされていました。襲名がいかに大変かということと、もうひとつはそれにもかかわらず幸助さんが襲名に意欲を持っていたということを強く感じないわけにはいかなかったのです。
そのころはすでに重要な役も付き初め、次代の座頭格と目されるようにもなっていました。
勘十郎さんが大きな立役を持たれるときには左を遣われることも多く、勘十郎さんが実に動きやすそうで、左遣い次第でこんなに人形は立派に見えるものかと思うほどでした。
主役級の人形というと、『義経千本桜』の狐忠信や『国姓爺合戦』の

    和藤内

あるいは『夏祭浪花鑑』の団七九郎兵衛や一寸徳兵衛も遣われました。
狐忠信では早替わりのところで狐の人形をもって木の陰に隠れたかと思うと舞台に切られた階段から下にもぐり、衣装をはがすように替えて忠信の人形に手を通すと息を切らすこともなく平然として姿を現されました。客席から見ると、たった今狐を持っていた人が、その狐を離した瞬間に別の人形をもって、しかも衣装も改めて立っているのですからかなりのケレンでした。
和藤内では、大きな体、たくましい力、強い芯、安定感を生かして、あの重くて背の高い人形を、さらに目いっぱい大きく見せながら演技をされました。
キマリのしぐさが映えるのは天性のものだろうかと思ってしまいました。
団七も大きな人形ですし、一寸徳兵衛もそうですが、幸助さんご自身が大きいからといって人形を大きく見せられるとは限らないと思います。逆にさほど大柄でなくてもうまく遣えばじゅうぶん人形は大きく見えるはずです。当代の勘十郎さんにせよ玉男さんにせよ、大柄ではありませんが大きく見せる技をお持ちだと思います。
しかしうまく遣えばやはり背丈があることは(手の長さも歩幅もありますし)見栄えにつながると思うのです。
熊谷、知盛、光秀、平右衛門等々、大きな人形をどんどん持っていただけたら、と思います。

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幸助から玉助へ(5) 

人懐っこくて愛想の良い、しかし芸については妥協のない、いかにも「芸人さん」らしさを持った人です。
楽屋の廊下で人を待っていてボヤっとしていたら、よくあちらから声をかけてくださいました。どういうきっかけだったのかは忘れましたが、年賀状も今なおやり取りがあります。
玉幸さんが亡くなった直後、私が劇場の図書閲覧室に行こうとして楽屋側のエレベーターを待っていたら、ちょうど幸助さんが来られたことがあり、「お父様、大変なことでしたね」と声をおかけしました。さすがにその時はあの大きな体を細めるようにして「はい」と

    声にならない声

を出されたのでした。
うちの子がまだ小さかったころ、夏休みの公演に連れていき、楽屋に行ったらたまたま幸助さんに会い、「子供に人形を持たせてくれませんか?」とお願いしたことがあります。私は楽屋廊下の体験用の「お園」か、せいぜいツメ人形を持たせてくれればありがたいと思っていたのです。ところが彼は楽屋に入っていって、おそらく当時の玉女さんが遣っていらっしゃったと思うのですが、あの大きな

    孫悟空

の人形を持って出てきてくれました。小学生だった長男は大きな人形を必死になって持っていました。
そういう人柄で、礼儀も正しく、こちらが何か申し上げると一生懸命聞いてくださる幸助さんだけに、多くのファンがいらっしゃいます。
忘年会や新年会をなさったりして、ファンとの交流を深められ、様々な舞台芸術にも足を運ばれたり、コラボレーションをなさったりしています。
何かの意見を申し上げますとよく聞いてくれましたが、その一方で納得がいかないと反論もきっちりされます。こういうところがプロらしくていいです。
ご尊父が亡くなったあと、近いうちに「玉幸」を名乗られるのだろうなと思っていたのですが、周りの人に伺いますと、早くから「いずれ玉助を」という思いはお持ちだったようです。
そしてそのことを周りの人が「当然」という見方をしていらっしゃったことも幸助さんの人柄や実力のなせるわざだな、と思ったのでした。

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始太夫さん 

びっくりしました。
2月10日、文楽太夫の豊竹始太夫さんが急逝されました。ご本名、高橋尚人さん。まだ50歳の若さ。
着物がはち切れそうな立派な体格で、そばに寄ると熱気すら感じるような存在感がありました。
間違っていたら申し訳ないのですが、神戸大学の農学部卒業で、レスリングをなさっていた異色の太夫さんだったと思います。間違っていたらご訂正ください。
まゆみこさんに言われて思い出したのですが、当時の咲甫太夫さん、新太夫さんらと七歩会という若手の会を作られて素浄瑠璃もなさっていました。歳こそ違え、同じ時期のデビューということもあって、咲甫さん、今の織太夫さんとは仲が良く、一時は2人が競わされていたと記憶します。
嶋太夫門下で将来を嘱望されながら、一時、大きなご病気で休まれました。しかし、復帰されて仕切り直しをされ、さあこれから、というところだったのに。
とても明るく誠実な方で、幕内の人気者でもいらっしゃったそうです。咲甫太夫さんの結婚式では、派手な衣装に身を包んで当時流行っていたマツケンサンバを踊って喝采を浴びられたとか。身のこなしはとても見事だったそうで、いかにもスポーツマンらしいですね。
器用ではなかったかもしれませんが、まっすぐに大きく語る大器の素質がありました。
時代物を中心に花を咲かせる日が来ると信じていましたが。
あまりに早過ぎました。

幸助から玉助へ(4) 

四代目玉助の玉幸さんの実子が幸助さん。ご次男だそうです。
幸助さんの人形遣いとしてのキャリアは私の文楽鑑賞歴とほとんど重なります。昭和55年に14歳でご尊父の玉幸さんに入門してこの世界にお入りになりました。
とても大柄な人形遣いさんで、前かがみになる足遣いは苦労するタイプですね。実際、腰を痛めたことがあるそうです。私は幸助さんのデビュー当時のことは何も覚えておらず、幸助さんの20代前半の頃についてもあまり明確な印象は持っていません。
やはりこの人に注目するきっかけを作ってくれたのは吉田勘彌さんを中心に始められた

    十色会

だったと思います。勘彌さんは、当時30代の終わり。役は付かず、それでも年齢は重ねていかざるを得ません。いつの日か自分が大きな役を持たされるときに「それはできません」とは言えないじゃないか。未熟でもいいから今のうちに大きな役を体験するのは大事なことだ、とお思いになったようで、これに幸助さんも参加されて彼ならでは大きな立役を持つことができました。
いつぞや、十色会の打ち上げの時に勘彌さんに「幸助さんの演技がよかった」と話しましたら、ひとこと、

     「幸ちゃんはうまい!」

とおっしゃいました。
とにかく形がきれいで、基本に忠実であることが見て取れるのです。人形をこねくり回さない、素直な遣い方。だから人形が勝手に動いているように見えるのです。あるとき、舞台の袖から見ていたことがあるのですが、幸助さんの人形を遣われるお姿が実に美しいことに気づきました。人形じゃありません、幸助さんの姿が美しかったのです。腰がぴたりと決まって、安定感があり、人形が動くのをしっかり支えていらっしゃったのです。あの美しさにはほれぼれしました。おそらく今の人形遣いさんの中では「ぴかいち」だと思います。
私は幸助さんに対しては片思いで、お話しもしないままでしたが、あるとき突然幸助さんの方からにこにこして近づいてこられ、「どうも」という感じで声をかけてくださったのです。誰かと間違ってるんじゃないかな、と思ったのですが、せっかくですから少し話をさせていただきました。
当時私はもう『上方芸能』の仕事をしていましたので、楽屋にはよく出入りをさせてもらっていました。それで「なんや、あいつ」と思われることがあったようで、幸助さんもそういうきっかけで私を知ってくれたようです。

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幸助から玉助へ(3) 

今回、幸助さんがご尊父に四代目を追贈したうえでご自身が五代目を継がれることになさったことからは、ご尊父への思いの深さが感じられるでしょう。「前例がなく、世襲制でもない文楽で追贈なんておかしい」「歌舞伎の真似をするな」という意見を聞いたことがあります。前例のないことをするのは難しいですが、私はこうやって思い切ったことをしてくれた幸助さんに

    拍手を送りたい

と思っています。親孝行ということもあるでしょうが、それよりも師匠としての玉幸さんへの敬愛が感じられます。また、そうしないと彼は自分が玉助を継ぐことに逡巡が生じたのではないでしょうか。あれもダメ、これもダメ、おまえなんか百年早い、そういうことを言っているうちに名前はまた宙に浮いてしまうのです。前例がなければ作ればいいだけです。それは伝統を破る事ではないと思います。
玉幸さんというとなんだか渋い顔をして人形を遣っていらっしゃった記憶が強くて、口の悪い人は悪役の人形を遣われると人形も人形遣いも悪役に見えると言っていました。ところが、ファンにはとてもにこやかにお話しになり、以前、ご子息幸助さんのご活躍ぶりを申し上げた時にはいかにも嬉しそうに目を細めて笑っていらっしゃったことを思い出します。
お若いころは足遣いがとてもうまかったそうで、三代玉助、初代玉男らの足や左で修業されたようです。
玉幸さんは肚のある、どこか憂いを感じさせる役が映ったように思います。幸助さんもおっしゃっているのですが、『冥途の飛脚』「封印切」の

    八右衛門

はよかったです。悪役ではない、苦渋に満ちた友人思いの大人の男。「封印切」の名場面を支える重要な役ですが、それをこなせるようになるには半端な修業ではできないだろうと感じさせるものがありました。
五代目文吾さんとともに立役の次代を担うと言われながら、まことに惜しい方だったと思います。

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2018年2月文楽東京公演 

本日(2月10日)、文楽東京公演が始まります。
関西ではもう玉助襲名モード(笑)になっていますが、関東はこれから

    織太夫

の襲名ですね。
演目は以下のとおりです。

第1部(11時開演)
心中宵庚申(上田村、八百屋、道行思ひの短夜)

第2部(2時30分開演)
花競四季寿(万才、鷺娘)
八代目竹本綱太夫五十回忌追善
六代目竹本織太夫襲名
口上
追善、襲名披露狂言
摂州合邦辻

第3部(6時開演)
女殺油地獄(徳庵堤、河内屋内、豊島屋油店、逮夜)

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幸助から玉助へ(2) 


初代の玉助は初代玉造の実子で、玉助は本名だったそうです(姓は吉倉)。三十代前半で若死にされ、二代目玉造を名乗ることはありませんでした。玉造の名は玉助の弟子が継ぎ、四代目までありますが、この四代目は我々の知る吉田玉松さんのご尊父です。
さて、「玉助」の代々なのですが、二代玉造の前名が二代玉助でした。ただ、この人も「玉造」を名乗った翌年、40歳そこそこで若死にされた方です。
三代玉助(1895~1965)は、オールドファンならご記憶でしょう。私も結構オールドになってきましたが、残念ながら存じません。ご本名は小西奈良吉とおっしゃって、三代目玉造(のちに玉蔵)の弟子となって玉小(たまこ)と名乗られました。後に玉幸と改めましたが、このお名前も「たまこ」なのでしょうね。47歳になられる昭和17年に『本朝廿四孝』の

    山本勘助

と『平家女護島』の瀬尾で三代目玉助を襲名されました。肚のある豪快な立役の遣い手だったそうです。今でもよく見る写真は由良助や熊谷を遣っていらっしゃるところなのですが、文七首を中心にさまざまな名演をされたようです。文楽の歴史の中で初めて文楽座(当時は四ツ橋)で天皇が文楽を観たこと、いわゆる

    天覧文楽

がおこなわれたことは、戦争が終わり、平和な時代が来たことの象徴のように言われることが多いのです。そのとき『義経千本桜』「道行初音旅」が出ましたが、玉助師は桐竹紋十郎師の静御前に対して狐忠信を遣われました。新しい文楽の到来を告げるファンファーレ役を務められたのです。
三代玉助の甥だったのが我々もよく知る二代玉幸(1938~2007)さんです。もともとは江島さんとおっしゃったそうですが、三代玉助の養子になって小西姓になられました。今の幸助さんのご尊父です。いずれは四代目をというお考えだったのだそうで、その準備も始められていたと幸助さんが叔父様(玉幸さんのご令弟)からお聞きになったそうです。残念ながら、難病でそれは叶いませんでしたが。

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幸助から玉助へ(1) 

先日、文楽人形遣いの吉田幸助さんから襲名のごあいさつ状、扇子、手ぬぐいをいただきました。そんなに親しくさせてもらっているわけでもない私にまでくださって、恐縮しました。
その中に玉助襲名の記念の小冊子も入っていたのですが、以下、そこに書かれている記事を参考にさせていただきながら書こうと思います。
この冊子の中に吉田簑助師匠が「応援の言葉」という文章を寄せていらっしゃいました。師、のたまわく「名人の名跡は次代に受け継がれてこそ、人々の記憶の中で名人であり続けます」と。

    門閥

のある歌舞伎は襲名がたえず行われており、松竹は襲名で稼ぐと皮肉を言われるくらいです。今年は高麗屋の三代襲名で話題になっていますね。
しかし文楽はさほど頻繁ではありませんでした。私が目の当たりにしたのは(以下、順不同)小玉⇒文吾、文字太夫⇒住太夫、勝平⇒喜左衛門、伊達路太夫⇒伊達太夫、織太夫⇒綱太夫⇒源太夫、簑太郎⇒勘十郎、清之助⇒清十郎、団六⇒寛治、錦弥⇒錦糸、燕二郎⇒燕三、清二郎⇒藤蔵、玉女⇒玉男、英太夫⇒呂太夫、咲甫太夫⇒織太夫、四月の幸助⇒玉助などで、口上のない襲名や改名としては勝司⇒富助、若玉⇒文司、南寿太夫⇒呂勢太夫、団治⇒宗助、勘寿⇒紋豊⇒勘寿、紋若⇒紋臣、昇六⇒紋史⇒紋吉、昇市⇒玉誉、清三郎⇒文昇、簑次⇒簑太郎、龍爾⇒友之助、そして四月の喜一朗⇒勝平などがありますから、多く見えますが、歌舞伎ではこの比ではないでしょう。しかも歌舞伎の場合は江戸時代から続く名跡を大事にしていてそれぞれの家で継承しています。
門閥がないだけに、文楽は襲名といっても、縁もゆかりもない人の名前を継ぐこともなかなかできず、多くの大名跡が宙に浮いている状態です。
太夫さんでは、

     「染太夫」や「春太夫」

など復活してほしいと思っている名跡です。
なかんずく人形遣いというのは、江戸時代にはあまり重要な立場ではなかったこともあるのか、当時の人の名が尊重されることは珍しく、いきおい十代若太夫とか九代綱大夫のように多くの人に継がれてきた名跡は多くないといってよいでしょう。「簑助」や「勘十郎」は三代、「清十郎」は五代、「玉男」はもちろん二代。簑助は文五郎師の本名に由来しますし、玉男はご存じ初代が終生名乗られたものです。由緒ある名というと文三郎などがありますが、もうこれはどなたもお継ぎにならないのでしょうね。
初代吉田玉造は江戸時代の末の名人で、長門太夫、団平の「すしや」で権太を遣っていて、腹帯が切れた話が残っています。三者の気合のすさまじさの逸話として有名です。この人の実子が初代玉助でした。

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2018 春休みの宿題(2) 

『源氏物語』の原稿は書き終えることができました。
この春休みの、まず一つめの宿題はできたことになります。
次は新年度の授業の予習です。
私は障害のために授業によほど工夫をしなければならず、そのために費やさねばならない予習時間は半端ではありません。
それだけに長期休みの時にまとめてしておかないと授業が始まってしまうと大変なことになるのです。
新年度は『源氏物語』の

    若き日の光源氏

を話そうと思っています。光源氏が生まれてから22歳くらいまでのお話を、じっくりではなく、飛ばし飛ばしに読んでいくのです。こういうやり方は国文科ではあまり有効でないかもしれませんが、私のような教養科目としての文学を読む場合にはひとつのやりかただと思っているのです。
あまり細部にはこだわらずに話を追っていきます。しかし、だからと言って表現方法などは無視する、というわけではありません。和歌も読みますし、いかに作者が工夫して描いているかも話したいと思っています。この春休みの内にすべての教材を作ってしまうつもりです。
その他の授業、また一般の方々への講座も予習は相当時間をかけないとできません。障害を持つものとしては当然だと思っていますので、別に

    苦になるもの

ではありません。
当たり前だと思えばどうってことはないのです。ほかの人にできて私にできないことがあればそれを補えばいいだけです。
恥ずかしい話ですが、生活が苦しいものですから、新年度からもうひとつ講座を増やして稼ごう(笑)かと思っています。もっとも、人が来てくださらないと講座は成立しませんので、下手をすると予習して終わり、ということになりかねません。

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襲名すること 

文楽では去年から襲名の吉事が続いています。
三代英太夫さんが六代呂太夫に、咲甫太夫さんが六代織太夫に、そして四月には幸助さんが五代玉助に。
私など無責任ですから、もっともっと襲名すればいいのに、と思ってしまうのですが、実際にそうなるとご本人は大変だそうです。へあいさつ回りだの配りものだので

    へとへとになる

とおっしゃっていた噺家さんもいらっしゃいました。
奥様も大変だそうで、一連の行事が終わったら体調を崩される方もいらっしゃるとか。
先日、四月に玉助を襲名される吉田幸助さんからごあいさつ状や手ぬぐい、扇子などをいただきました。
私などにまで下さるということは、それほど多くの方になさっているのだろうと本当に心配になってきます。
以前、

    だしまきの夕べ

に幸助さんが来られた時に、「お金もかかります」とおっしゃっていましたが、そりゃそうでしょうね。
私もポンと10万円くらいお祝いをしたいところですが、とてもそんなお金はありません。
でも、わずかながらでもお祝いは差し上げたいと思っています。

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春は雪のうちに 

昨日は立春でしたが、寒かったですね。
まだまだ寒さは続きそうです。
『古今和歌集』をみても、春の初めの歌は残る寒さを詠んだものが続きます。

袖ひちて掬びし水のこほれるを春立つ今日の風やとくらむ(紀貫之)
(袖が濡れたまま掬った水が凍っていたのを、立春の今日の風が、今ごろ解かしているだろうか)

前の年の夏に袖を濡らしながら掬った水が、冬になって凍り、それを今日の春風が解かしているだろうか、と、谷川などを思わせる水が夏から秋、冬を経て凍って、今まさに溶け始めているだろうかと想像しています。
「孟春の月、東風氷を解く」(『礼記』)による歌です。

春霞立てるやいづこみよしのの吉野の山に雪は降りつつ(読み人知らず)
(春霞が立っているのはどこだろう。吉野の山には雪が降って降って・・)

平安の都の人から見ると吉野ははるかに遠い山でした。それだけに和歌には雪が景物としてよく詠まれました。
また、「みよしのの山の白雪踏み分けて入りにし人のおとづれもせぬ」(壬生忠岑)のように、吉野山に入って音信が絶える、という歌もあり、吉野は「遁世する山」という意味合いもあります。
そんな奥深い山では春霞どころか、まだ雪が降っている、というわけです。
立春を機に暖かくなるのではなく、寒さが少しずつ和らいでいく、という感じなのでしょう。
もうしばらくの辛抱です。

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年内の立春 

今日は立春。いよいよ春の声が聞こえてきます。
また、今日は旧暦では十二月十九日で、まだ新年を迎えてはいないのです。
新春のお慶び、というのはまだ先なのですね。
こういう、年内の立春はしばしばありうることで、多分これまでにも書いたことがあると思うのですが(笑)、『古今和歌集』冒頭歌には

    年の内に春は来にけり

      ひととせをこぞとやいはん今年とやいはん


とあります。
なんだか変な理屈っぽい歌だともいえますし、今こういう歌を作って歌会に出したり新聞の短歌欄に投稿したら没になるか酷評されるか、ということになるかもしれません
しかし古今和歌集の巻頭を飾るあまり意味を考えなくてもいい

    挨拶のような歌

だと思えば、おおらかで、笑い声さえ聞こえてきそうでもあると思うのです。
私はいつも、立春おめでとう、いよいよ春だね、という気持ちでこの歌を読んでいます。

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2018 春休みの宿題(1) 

昨日、成績をやっと出し終えました。成績自体はとっくに記入できていますのでいつもならどの教員よりも早く(笑)出すのですが、今年は最後の授業で休んだ学生がインフルエンザなどの公認欠席なのかどうかを見極めるために出すのを遅らせていました。
『源氏物語』の講座がありますからしゃべる仕事がなくなったわけではないのですが、それでも予習時間をずいぶん削減できます。
これからは春休みの宿題にかからねばなりません。
例によって

    『源氏物語』

関係の原稿を一つ。「夕顔」巻について書き始めました。
京都には今も「夕顔町」というところがあり、このあたりが『源氏物語』で光源氏が夕顔という女性を見つけたのだということになっています。
ここの個人のお宅には「夕顔の墳」というものもあるそうで(非公開)、おそらく夕顔の家はこのあたりだったということなのでしょう。いかに彼女が愛されていたかがわかります。
そういえば奈良の吉野下市には

    いがみの権太

の墓というのもありました。
今回の原稿では「夕顔」巻の冒頭当たりの表現について思うことを書いています。
夕顔という花は「顔」という文字が入っていることもあって、人を思わせ、また、卑しい家の垣根などに咲く花ということになっているため、たまたまそこに来た光源氏に「悲しい運命の花だね」と言われるのです。それはちょうどこの家に住む女性(すなわち「夕顔」と呼ばれる人)の運命をも暗示しているようです。
この宿題はもうすぐできそうなのですが、ほかにもまだまだすべきことはあります。

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見えない家事 

先日、新聞に「見えない家事の大変さがわからない男性」というような記事がありました。
何、それ?
私も知らない、と思って読んだのです。
すると、洗剤がなくなりそうになったら買っておく、とか、洗濯物は干したらたたむ、とか、そんなことが書いてありました。
それって

    見えてるよ!

自慢じゃないですが、私はずっとそんなことはやってきました。今も、毎朝のゴミ出しに始まって、洗濯関係(洗う、干す、たたむ)、食器洗い、食器片付け、日用品(米、コーヒー、牛乳、パン、ミューズリ、食用油、洗剤、トイレットペーパーなど)の買い置き、などなど、何とも思わずにやっています。
やらないと物事が進まないから、あたりまえだと思ってきました。
でも、

    旦那さん

たちはそんなことには見向きもしないのが普通だとか。
と、えらそうに言いましたが、私にはできない家事もあります。料理は苦手だし、自分の着る服を選ぶのも苦手。だからグルメではないし、オシャレはできず、ファッションセンスはゼロ。
自分が「見えていない」のですね。

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月が籠もるように 

昨夜は月蝕でした。
仕事帰りにちょうど欠けはじめ、何度も外に出ては観ました。
多くの目に見つめられたからか、赤くなっていたように思います。
いいカメラを持っていませんから、写真は撮れず、ただ移りゆく地球の影を眺めるばかりでした。
昨日書いた長和元年の月蝕もよく欠けたようで、道長も外に出て見つめたのでしょうか。
ところで、道長はその日、

    もう一つの月蝕

を体験したのです。
彼の息子の顕信が出家してしまったのです。突然のことで驚いたと思われ、日記には

    今無云益

と書いています。「今は云ふに益無し」とでも読むのでしょうか。要するに「もはや何を言っても仕方ない」ということです。
しかし、彼以上に悲しんだのは母親の明子だったと思われます。道長の日記には、明子を訪ねたら、彼女も乳母も前後不覚になっていた、と記されています。
道長はどんな思いで欠けゆく
満月を観たのでしょうか。

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