こどもと小動物(1)
映画などの映像に、犬や猫、それも小さなものがキャンとかニャーとか鳴いているカットを使うと人の心を打つことがあります。切なくなってくるのですね。
人と小動物のふれあいなんて、しばしばドラマなどに出てきます。南極のタロ・ジロとか、忠犬ハチ公とか、先日の新聞には、猫と高齢男性を主人公とする映画が公開されるという広告が出ていました。
文楽で言うなら、
キツネ
が大活躍しますね。九本のシッポを持つ強烈なパワーの持ち主もいますが、むしろどこかけなげで切ないのが多くて、信太の森の母狐とか、親を慕って鼓を追う狐とか、恋しい人のために狐の霊力を借りる娘とか。新作でも有吉佐和子さんが人間の男を想う狐を書きました。
しかし、文楽では、犬はあまりにも身近過ぎるのか、狐ほどのインパクトはなさそうです。おいしそうにおにぎりをほおばる狆(ちん)はいましたが、野良犬はかわいそうにも石で追われたりします。
意外に、狸が見当たらないですね。
子ども
も同じで、小さい子どもが出てくるとやはり切ない気持ちになります。赤ん坊が泣いているとそれだけで胸が締め付けられるようです。
ご飯を自由に食べさせてもらえずに空腹を抱えるこどもとか、煙草を吹かしたりしながらも母親を恋い慕う双六名人の馬方とか、やはり母を慕って大きな柳の丸太を動かしてしまう男の子とか、幼くして母親の仇を打つ未来の武将とか、雪の中で母親に自分の着物を着せるけなげな娘とか、殺されてしまう子供も少なくないですね。
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- [2019/02/28 00:00]
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ドナルド・キーンさん
日本文学研究者のドナルド―キーンさんが亡くなりました。96歳だったとのこと。長らくお元気でご活躍になり、私も学恩を受けた一人です。呂太夫さんの本を書いた時は、道行に関してキーンさんのご本の一節を紹介したりもしました。
私が学生のころはコロンビア大学教授でいらして、日本にもしょっちゅうおいでになっては講演などをなさっていました。私もキーンさんの、あの柔らかなお声の日本語によるお話を伺ったことがあります。
文学そのもののお話はもちろんなのですが、キーンさんの日本文学への傾倒のお話や日本に初めて来られた時の経験談なども楽しく拝聴しました。お若いころのお話で「京都に行くときの列車で、居眠りをしてふと目を覚ましたら、そこは
関ケ原
だった、もちろん史跡としてその名は知っていたが、その関ケ原が目の前にある、自分は今そこにいるということに感銘を受けた」というようなことをおっしゃっていました。
日本文学全般にお詳しい方でしたから、作家との交流もたくさんお持ちでした。ほぼ同世代には三島由紀夫もいました。
しかし私はやはり古典文学に関して書かれたものを主に拝見しました。また、古典芸能にもお好きで、能、狂言、文楽、歌舞伎などさまざまな芸能を愛されました。
キーンさんとは面識などあるはずもありませんが、あの大阪府の文楽補助金(本来はは大阪府が責任を持つべき分担金)廃止の時には一方的に
連帯感
すら覚えたものでした。
私の日本史の恩師(日本人で)がなんとなくキーンさんと風貌が似ていらして、余計に親しみを感じたりしていました。
日本に帰化された上、元文楽三味線弾きの鶴沢浅造さんとは養子縁組までされました。
実はちょっと不思議な話があるのです。つい先日、どういうはずみだったのか、「キーンさん、お元気なのかな」と何かの拍子に思ったのです。ひょっとしたら夢の中でそう思ったのかもしれません。ぼんやりとした記憶なのです。その数日後の訃報で本当にびっくりしました。
長らくありがとうございました。
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- [2019/02/27 00:00]
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三段目
法華経のことを書きました。
法華八講というのがあって、4日で全8巻の講説が行われたことも申しました。
4日で8巻ですから、1日2巻。これを朝座と夕座に分けて行ったのです。
そして、この八講のハイライトというか、クライマックスというか、参会者が法悦に浸ったであろう催しに薪の行道というのがあることも書きました。
実は、この内容は最近、一般の皆様向けの講座でもお話ししたことがあったのです。
そしてそのとき、しゃべりながら思いついたことがありました。
4日のうちの3日目がハイライト・・・
これ、浄瑠璃でいうと
三段目
みたいですね。起承転結なら転。序破急なら破にあたるのかな、野球ならラッキーセブンでしょうか。
法会で法悦に浸るというなら、文楽を見ていても三段目の切場は強烈なカタルシスがあると思います。
こじつけと思われるかもしれませんが、法会というのは、
芸能
という側面を持っているようにも思うのです。
釈迦の真似をして堂を巡る薪の行道なんて、パフォーマンスに他ならないでしょう。
人様の前でお話をしていると、そんなことをふと思いつくことがあるのです。
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- [2019/02/26 00:00]
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采女(2)
采女というのは女官とはいっても身分の低いもので、地方から(今どきこんな言葉を使う不謹慎と言われそうですが)「献上された」人なのです。帝にとってはあまたある女のうちの一人。そして、田舎の人ですから、いかに見目麗しくとも、どれほど風流の道に通じていたか。何しろ帝の周りには中宮だの女御だの更衣だの、はたまたそれ以外の高位の女官(尚侍=ないしのかみ=など)や女房たちもひしめいているのです。采女などにそうそう目を配ることはできなかったのでしょう。
しかし彼女の美貌はかなりのもので、男たち、殿上人にまで
「よばう」
ことをされるのです。
「よばう」というと今は何となく「夜這う」と理解されている節があります。『竹取物語』の中に、かぐや姫を求める男たちが夜な夜な訪れたので、「夜這ひ」ということばができたのだ、と面白いことを書いているのです。ただ、これは語源としては間違いで、正しくは
「呼ばふ」
で、繰り返し相手を呼ぶことです。これが求愛の意味になりました。
采女はさながらかぐや姫のように男たちから求められたのですが、男たちを相手にしないかぐや姫と違うのは帝に思いを寄せていることです。そして帝から愛されることはないと知ると天に上るかぐや姫とは対照的に池の藻屑となってしまうのでした。
彼女の美しい髪を「玉藻」に例えた人麻呂の歌はなかなか魅力的なものです。
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- [2019/02/25 00:00]
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采女(1)
『枕草子』に「池は」という段があって、清少納言は『大和物語』などに見える采女の入水の話とそれにまつわる柿本人麻呂の和歌などがあることによって猿沢の池の名前も挙げています。
文楽ファンであれば『妹背山婦女庭訓』ですよね。「猿沢の池」という段もありますから。
『大和物語』の内容はざっとこんな感じです。
昔、「ならの帝」に仕えていた采女(‘地方から召し出される見目麗しい若い女性で、食事の世話などをする)がいて、とても美しい女でした。多くの男たちが
「よばう」
のですが、見向きもしません。なぜなら彼女の心には帝の存在があるからです。帝は、一度は寝所に召すのですが、あとは知らん顔。お世話をするのにすぐそばにいるのに、2度と声がかからないのです。帝は大したことと思っていないのです。そこで采女は絶望して、夜ひそかに
猿沢の池
に身を投げました。帝は最初そんなことは知らなかったのですが、たまたま告げる人があってかわいそうに思いました。そこで池まで行幸して人々に歌を詠ませたのです。その中に柿本人麻呂がいて、彼は
わぎもこのねたくれ髪を
猿沢の池の玉藻と見るぞわびしき
と、帝の気持ちになって詠みました。私の愛しい人の寝乱れた髪を、猿沢の池の美しい藻と見るのがわびしい、というのです。帝も一種の歌を詠み、そこに墓を作って帰ったのでした。
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- [2019/02/24 00:00]
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国家試験
この時期、学生さんがよく図書館で勉強しています。ところが、2月後半になるとかなり減りました。でもまだいくらかの学生さんが勉強に来ているのです。それにはわけがあります。
2月17日が
看護師の国家試験
だったのです。卒業間近で単位などはそろったはずの学生さんですが、最後の山があるわけです。
それを受けたある学生さんがツイッターで「学生生活はしんどかった」と言っていました。国家試験を受ける人たちは大変なのでしょうね。合格率は極めて高いのですが、だからといってサボっていてもいいわけではありませんから、ぎりぎりまで家で、図書館で勉強していたというわけです。
実はその直前には助産師、保健師の国家試験もあって、それらを受ける人はまた大変だったと思います。
さて、今もまだ勉強している人は何かというと
管理栄養士の国家試験
を目指している人たちなのです
これは3月3日ですから、今が追い込みです。こちらは、あまり合格率は高くないらしく、また模擬試験の成績などによっては受験もできない人もいるのだそうです(受験だけは本人の希望通りにすればいいと思うのですが)。
彼女たちはいつも図書館の同じ席にいますので、なんとなく顔見知りになり、また私は朝早く図書館に行っても、彼女たちの定位置には座らないようにしています。どうぞ頑張ってください。
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- [2019/02/23 00:00]
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源氏物語短距離レース
私が初めて『源氏物語』を原文で通読したのは大学2年生だったと思います。それ以前に谷崎潤一郎の現代語訳で読んでいたのですが、やはり原文の場合はハードルが高いですから、相当時間がかかりました。夏休みを使って、読み始めたのですが、最初は文体になじまなくて、50ページ読むのに1日かかったような記憶があります。しかしおもしろいもので、慣れてくるとスピードが上がるのです。結局、
約2500ページ
を3週間あまりかけて読んだのだったと思います。25日とすれば一日平均100ページということになりますから、やはり最初に比べるとハイペースになっているのがわかります。しかし、理解できたのかと言われると、さて自信はありません。ただ、「読んだ」ということは生意気な大学生にとっては自慢であり喜びであったことは間違いありません。マラソンを完走したような感じでした。
必要があって、またこの作品を通読しなければならなくなりました。このたびはあることを調べる必要があって、読みますので、いわば
斜め読み
で、短距離レースみたいな読み方です。
ですから、1日目は300ページ以上読めました。これは1週間とかからないな、と思ったのですが、2日目に調べたかった問題点がいっぱい出てきたので100ページくらいで終わってしまいました。やはり2週間は覚悟しなければならないでしょう。
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- [2019/02/22 00:00]
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還付申告
今年も所得税の確定申告(還付申告)をします。余分に払っているのを返してもらうのに、何でこんな面倒なことをしなければならないのか、といつも思います。
だいたい、申告という言葉も気に入らないです。辞書には「国民が法律上の義務として、官庁などに一定の事実を申し出ること」とありました。何だか、
お恐れながら
申し上げます、って感じがして(笑)。
細かいことを言うと、書類の郵送料もなんで払わないとダメなの(笑)とも思います。今はスマホでできるんだよ、って話ですが、それをするためには一度税務署に行かねばならないとか。私の街は小さいので税務署はなく、隣町まで行かねばならないのですよ。
ただ、今はパソコンでできるので以前に比べたら圧倒的に楽ですが。
私の場合は
医療費
の控除で、悲しいことにかなり払っているのです。所得税はあまり払ってない(収入がびっくりするくらい少ないから)のですが、そこからまた返してもらいます。
今年は1万円ちょっと返ってくるはずです。
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- [2019/02/21 00:00]
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法華経(2)
『法華経』は正式には『妙法蓮華経』。
近松門左衛門は日蓮宗の信者で、兵庫県尼崎市の広済寺(こうさいじ)にしばしば出かけ、その縁でこのお寺に彼の墓があります。
文楽でも『恋娘昔八丈』の鈴ヶ森の段などで「南無妙法蓮華経」の「法」の字以外を「ひげ題目」と言われる独特の文字で書いたものを目にすることはあります。
しかし日蓮以前でも法華経は重要な経典だったわけで、すでに書きましたように特に五巻目は重要でした。
この五巻目の「提婆達多品」の中に
釈迦
が前世で仙人から教えを請い、法華経を得た話が出てきます。彼は仙人になんでもするから教えてほしいと言って薪を切ったり、水を汲んだり、菜を摘んだりして食事の世話をしたのだそうです。
その内容を和歌にしたものに
法華経をわが得しことは
薪こり菜つみ水汲(く)み仕へてぞ得し
というものがあり、行基の作ともいわれます。
法華八講の五巻目を読む日にはこの歌を詠みながら、薪や水、菜をかついで同の周りを歩く
薪の行道(たきぎのぎょうどう)
がおこなわれました。これはなかなかの見ものだったようです。この行道が行われているのを目の当たりにする人たちはおそらく法悦に浸ったのだろうと思います。
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- [2019/02/20 00:00]
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法華経(1)
平安時代の文学を勉強するためには、当時の律令だとか、政治体制だとか、知っておいたほうがいいことはたくさんあります。私は半ば日本史専攻のようにそういうたぐいの勉強をしてきたのですが、なかなか身に付きません(汗)。
ほかにも、建築様式とか、美術とか、音楽とか、あるいは生活様式、風俗習慣などなど、文学以外にも知っておくべきことは本当にたくさんあります。
宗教
も大事です。私が主に勉強している時代は浄土思想が強いころで、後世は阿弥陀如来のおわします裁縫極楽浄土の蓮の上に生まれたい、と、一生懸命仏道修行に励む人が少なくありませんでした。
法会なんて、めんどくさそう、と思われがちですが、彼らにとっては楽しみでもあったらしく、清少納言は説経する法師は男前がいい、なんて言っています。
法華経はとても大事な経典で、しばしばその講座も行われました。清少納言もそういうところによく行ったようなのです。
法華経は全部で八巻。これを四日に分けて講説する
法華八講
という催しもしばしば行われ、人気がありました。この四日のうち、ハイライトは3日目なのです。の日には五巻目が読まれますが、「提婆達多品(だいばだったぼん)」などを含むこの巻は極めて重要で、特に女人往生にかかわるところなので、女性たちもよく読んだようです。
今、この経典は、は岩波文庫に全三冊で収められていて、私も学生時代に買って読みました。しかしこれまた何のことやらよくわかっていません(笑)。
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- [2019/02/19 00:00]
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2019年2月文楽東京公演千秋楽
今日は文楽東京公演の千秋楽です。
東京まで行く財力がない(涙)ため、すっかりよそごとになってしまいました。
これで2018年度の主な公演は終わり、あとは地方の巡業です。
四月は大阪で奇妙な番組の公演があります。
「爪先鼠」
と「おしゅん伝兵衛」など行こうかな。
「忠臣蔵」はどう考えてもひどい。四段目で切るって、あり得ないです。「はったと睨んでぇ」で帰って「ああ、夏が楽しみ」なんて思うものですか。。
それから、思い出したように言いますが、あまり
出遣い
にしてほしくありません。
私に言わせたら、せいぜい「刃傷」だけで十分。特に「切腹」は黒衣でお願いしたい・・ですが、「切腹」こそ出遣いなのでしょうね。
勘十郎さんデザインの手拭いを差し上げます、って全然ほしくありません。国立劇場の名が泣きます。
いや、もちろん楽しみにされている方もいらっしゃるのでしょうが、それにしても、あんまりぢやわいなあ。
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- [2019/02/18 00:00]
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にんにく、その後
去年の秋、初めてニンニクを植えました。
何しろまったく未経験ですから、できるのかどうか、さっぱりわからないまま、ネットで調べたことを参考にしながら、とりあえず植えてみたのです。
こういうことに詳しい花かばさんからアドバイスももらって、過度にならない水やりと
追肥
を12月と2月にすることだけを忘れないようにしました。
しかし、体調があまりよくなくて、本当にそれ以外は何もできないようなありさまで今に至ります。
虫や病気が気になるのですが、どちらかというと虫は大丈夫だろうと思っていました。
が、なんと、この寒さの中で
アブラムシ
らしきものが付いていました。
すぐに増えると聞きましたので、早めに捕殺し、かなり収まっているのですが、何しろ繁殖する力がすごいらしく、きれいにいなくなったとは言えないままです。
もうしばらくいたちごっこを繰り返して、どうにもならなかったら薬剤散布かな。
特に暖かくなったら心配です。
まだ、収穫までは3ヶ月以上あります。
さて、どうなるでしょうか。
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- [2019/02/17 00:00]
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方言
学生がときどき「方言は使わない方がいいですか?」という意味のことを聞いてきます。「え? どうして?」とすら思えるのですが、方言はよくない言葉と思っているのかもしれません。
どこかの学校で、「方言を使ってはいけません」という
校則
があったと聞いたことがあります。どういう発想でそうなるのかがわかりませんが、校則というところに二重のショックを受けます。なんでもかんでも規定を作ればいいと思っている人が多いですが、およそ健全なことではないと思います。
そういえば、私の仕事場でも、このところ嬉しそうに(笑)規定ばかり作っています。そんなもの、誰も見ませんから、要するにそういうのを趣味にしている事務の人の自己満足なのだろうと思いますが(我ながらすごいいやみ)。
それはともかく、私は学生に「方言はどんどん使ってください。むしろ大事にしてください」と言い続けています。
「関西弁は汚いと言われます」
と嘆く学生もいます。「汚い関西弁は汚いですが、きれいな関西弁はきれいです」というのが私の答えです。そして汚い言葉は広島弁だろうが青森弁だろうが東京弁だろうが、どこの方言でも汚いです。
おそらくテレビなどで汚い関西弁が横行しているのでそう思われるのでしょう。
上方の古典落語などを聴いてみればその良さがわかると思います。
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- [2019/02/16 00:00]
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椿
木へんに春と書くと「椿」です。まだ冬のうちに咲くので、春を待つ花、という感じでしょうか。植物学的に言うと「ツバキ科の常緑喬木」なのだそうですが、どうもこういう植物の分類が苦手で、すぐに忘れると思います(笑)。
色とりどりですが、私の家(居候していますので実際は親の家ですが)にも椿があって、これは紅椿です。とてもきれいで大きな花ですから、殺風景な冬の公園や庭を明るくしてくれる魅力的な植物だと思います。
古くからこの国にはある木で、古代では
神聖なもの
とみられたようです。
椿の葉を二枚使って餅を包むとこれは「椿餅」というものになりました。「つばいもちひ」と読みます。これは蹴鞠をした後の饗応に用いられることでも知られます。『源氏物語』にも蹴鞠の後に梨や柑子(かうじ)とともに出されたことが書かれています。
「椿市(つばきち、つばいち)」
という市場があり、ここは長谷寺の入り口にあたるため、参詣する人が必ずと言ってもよいくらい立ち寄ったところだそうです。「長谷に詣づる人の必ずそこにとまるは」と『枕草子』も書いています。
「椿姫」という小説、そしてオペラもあります。
余談ですが、唾液のことを「つばき」と言います。でもこれと椿の花に関連はなく、唾液は古くは単に「つ」と言ったり、「つは」と言ったりしたようです。「つはき」となる場合も「つ吐き」の意味なのか、「は」は清音で「つばき」ではなかったのだそうです。
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- [2019/02/15 00:00]
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今どきのバレンタインデー
相変わらず騒がれる日がやってきました。そして相変わらず私には無縁な日です(笑)。
何度か書いたと思うのですが、20代のころを最後に、女性から何かをもらったということはありません。
今年はたまたま
病院
に行く日と重なって(笑)、会うのは70がらみのおじさん医者です。
バレンタインデーというのは「告白日」というのがこれまでの常識で、そのためにチョコレートを贈りましょうというお菓子業界の作戦が建てられたのでした。ところが昨今はいささか事情が変わってきつつあるのだとか。
なんでも、チョコレートは買うけれども、普段買えない高価なもの、飛び切りおいしいものを
自分のため
に買う人が多いのだとか。
お菓子業界としてはどちらでも構わないわけで、そういう風潮になったらそれはそれでもうハート形にこだわることはなく、高級なものを展示会をしながら販売すればいいのでしょうね。Facebookの記事で、50代の女性がまさにそういう感じで阪急百貨店だったかどこかでしっかり買い物をなさったそうです。
ホワイトデーも男性諸氏が自分のために何かを買う日になりつつあるのかな。それなら私は久しぶりにビールでも買いたいです(笑)。
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- [2019/02/14 00:00]
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素人の遺伝子
Facebookの友だちに、文楽の往年の人形遣いさんのお孫さんという方がいらっしゃいます。私などお名前を知るのみで、もちろん故人でいらっしゃいます。
やはり血のつながりというのは大きな意味があって、その方は今では文楽など伝統芸能を紹介する活動をエネルギッシュになさっています。
うかがったところでは、ご本人はもともとまるで文楽には
関心がなかった
そうです。とても有名な大学を出られた秀才でいらっしゃって、お仕事もされてこられたようです。ところが今は文楽大好き、伝統芸能大好きでいらっしゃるのです。血のなせるわざでしょうか。
そういえば私にも祖父がいて(当たり前ですが)そのうちの一人、母が他の祖父は文楽大好き人間。自身義太夫節をけいこしていて、肩衣は持っている、見台は持っている、床本は山ほど持っているという人だったそうです(私はほとんどしらない人なのです)。しかし所詮
素人
で、その浄瑠璃を聞かされたことがあったらしい私の父は閉口していました(笑)。よって父は文楽にはまるで関心がなく、私は隔世遺伝かと思います。しかし素人の祖父ですから、私も結局は素人で終わり、Facebook の自己紹介には「浄瑠璃作者」と書いているのですが、それは「自称」に過ぎません。いや、文楽好きというのは素人で十分です。
でも、「祖父が人形遣いで」って言ってみたかったなぁ。
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- [2019/02/13 00:00]
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さへづり
ツイッターというのはtwittterであって、辞書には
〔鳥が〕さえずる、高い声で鳴く
〔甲高い声で〕ぺちゃくちゃしゃべる
〔興奮して〕クスクス笑う
〔高い震え声で〕話す、歌う
〔興奮して〕小刻みに震える
などと出ています。私、英語ができないものですから、当初は「twitする人」の意味だろうと思っていたのです。しかしtwitといえば
【他動・名】なじる(こと)、からかう(こと)
【名】〈俗〉ばか者、愚か者、あほ、間抜け、能なし
と出てきますので、これだとえらいことになって今します。
「さえずる」というのはtweetとも言いますから、こっちが私もしばしば使う「ツィートする」のスペルなのですね。けっして「twitする」ではないのですね。
A little bird told me.
というと「うわさに聞いた」という意味。ここでは鳥が「言う」という表現になっています。いかにも噂を広めるべく鳥が意味のあることを「言っている」感じです。「さえずり」はあまり意味のある感じがしません。
古い言葉にも「さへづり」というのはあります。これはもちろん鳥の声に使いますが、もうひとつ
何を言っているのかわからない
話し方に使います。京の都の人間が田舎に行くと方言が理解できず、人が「さえずっている」、などというのです。外国の人(平安時代なら朝鮮か中国)の人もやはり「さえずって」いたのです。
たまたま読んでいた鎌倉時代の文章に、都の人が京の桂の人の話を聞いても「さえずっている」といっているところがありました。桂って京都市内でしょ、と言いたくなりますが、やはり田舎だったのですね。
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- [2019/02/12 00:00]
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国民の祝日
一般的に祝日法と言われるものによって「国民の祝日」が定められています。以前なら学校はすべてお休み、企業も多くはお休み。ただ、商店やサービス業はなかなかそういはいかないのです。逆にこういう日こそかせぎ時です。
昨今は大学も祝日をかなり無視しています。
唯一無視できないのは
成人の日
ですが、あとはもうしっちゃかめっちゃかで、授業なんて平気で実施しています。本来学則に国民の祝日は休みである、と書かれているのですが、今どきはそういうことは言ってはいられないのです。
今日は
建国記念の日
だそうですが、これはかなり眉唾な記念日です。神武天皇が出てくる話ですから。建国記念日というなら、8月15日にするほうがよかったかもしれません。「昭和の日」というのもわけのわからない祝日です。すると図に乗った政治家は「文化の日」を「明治の日」にしようと言い始めているのもいるとか。
国家の祝日じゃないですよ。国民の祝日です。
2月11日を祝日にするなら、せいぜい「神話の日」くらいでしょうかね。
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- [2019/02/11 00:00]
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Facebook離れ
SNSにもいろいろありますが、学生はやはりインスタグラムを多用しているように見受けられます。
昔ならカメラを持って出かけるなどというのyは特別な日でしたが、今はたいていカバンかポケットに入っているわけです。
しかもスマホというのはとてもきれいな写真が撮れます。
私も一眼レフのいいカメラがほしいと思わないでもないですが、そんなお金はどこにもありません(笑)ので、今はスマホカメラで満足しているのです。
で、写真を撮ると
見せたくなる
のが人情です。そこに目をつけて、加工もできるインスタグラムが大流行。
私の印象では学生の3分の2くらいが使っている感じです。
ツイッターもなかなかよく使われています。こちらは簡単なつぶやきですから、
手軽さ
がいいのでしょうかね。私も性懲りなくまれにつぶやいています(ほとんどは学生対象)。
それに対してFacebookはおじさんおばさんの集う場所。学生もめったに使っている様子はありません。しかも以前に比べて減少していることが明らかです。
私は何となく居心地がいいのでFacebookは使い続けていますし、インスタグラムは本当にまれにしか使っていません。
古い人間になってきました。
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- [2019/02/10 00:00]
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短歌への思い
私は子供のころから俳句や短歌には興味がありました。ただ、文学のセンスが自分で思うほどはなくて、小学生時代はせいぜい交通標語を考えるくらいだったかもしれません(笑)。
それでも、俳句まがいのもの、腰折れ短歌、川柳、狂歌などを中学生のころには作っていたように思います。
大学時代には短歌をもっぱら作るようになって、新聞の短歌欄にはしばしば掲載してもらいました。多くは
毎日新聞
で、ほかの新聞もありましたが、選んでくださったのは、高安国世、窪田章一郎、宮柊二といった方だったと思います。
ただ、あまりいいものはできずに、我流一辺倒。もともとあまりグループに入るのが得意ではないものですから短歌結社にも入りませんでした。どこかに入れてもらって先輩たちのご批判をまともに受け止めていたら、もう少し上達したかなとも思うのですが。
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読経のバックサウンド
三味線という楽器は、弦楽器とされますし、実際旋律を奏でます。しかし、あの形を見ると、半ば打楽器のように思えます。なにしろ、木で枠を作って、その両面に動物の革を張るのですから、あの胴の部分だけを見たら太鼓にほかならないのです。
義太夫はあの、旋律楽器であり打楽器でもある三味線によって語られます。
そういえば、能も三つの打楽器(太鼓、大鼓、小鼓)と笛という組み合わせで、ほとんど打楽器です。
踊りだって、古くは鼓を打ちながら舞いました。このあたりのことは橋本治さんの
義太夫を聴こう
という本にも書かれていました。
雅楽も琵琶、筝、和琴、笛など旋律を奏でるものもありますが、やはり打楽器も多く、旋律楽器も琵琶などはあまり軽やかにメロディを奏でるという感じはしません。舞楽になると、舞人はほとんど旋律よりも打楽器のリズムに乗せて舞っているような印象さえあります。
日本の伝統的な芸能はこういう
『源氏物語』「御法」巻に法華経の供養が行われる場面があります。その中に
尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。
という一節があります。「尊きこと」というのは読経だろうと思われますので、鼓を打ちながら読経をするのです。
読経というのも
音楽的な要素
があるだけに、興味をもって読みました。
ある注釈書には「鞨鼓」であろうか、という意味のことが書かれていました。雅楽で使う楽器です。
橋本治さんの本を読んでいて、ちょうど『源氏物語』も読んでいたので、思わず目をとめた、という次第です。
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- 平安王朝 和歌 |
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植物音痴
私はまるで植物がわかりません。名前を言われても、どんな葉を持つとか、何色の花が咲くとか、背丈はどれくらいだとか、さっぱりです。まして、分類のことになると皆目わかりません。
バラ科とかアオイ科とかなら多少見当は付きますが、ゴマノハグサ科なんて言われると何のイメージもわきません。
『枕草子』「木の花は」の段に「かへで」が出てきます。私だって、カエデといへば、葉っぱの形が
カエルの手
のようだからそう名付けられた、あの木だということくらいはわかります。ところが、清少納言はそのカエデのことをいっているのかどうかわかりにくくて、頭を悩ませています。平安時代の辞書に『倭名類聚抄』という書物があるのですが、その中の草木(要するに植物)の項目に「楓」という字が出てきます。パッと見たらこれがすなわちカエデだと思うのですが、よみかたは「をかつら(雄カツラ)」である旨が記されています。全然違うじゃん。
カツラというと「桂」の字が思い出されますが、これには「めかつら」という読みが与えられています。
もう一つ別に
鶏冠木
というのもあって、これに「かへてのき(カエデの木)」という読みが記されていて、こっちが我々の知るカエデなのだろうと思います。『枕草子』は仮名で書かれていますので「かへて」はやはり「鶏冠木」のことかな、と思うのですが、それでいいのかどうか。というのは、なぜか少し後にあたかも別の木のように書いている「かへて」がまた出てくるのです。
もともとは「をかつら」と書かれていたのを、写した人が「楓」の字を当ててしまって、さらにそれを写した人が仮名に戻して「かへて」と書いたのではないかという説すらあるのです。この説もややアクロバティックな感じがするのですが、そうでも読まないと説明できない面もあって、混乱してしまいます。
そもそも、「雄かつら」と「雌かつら」の区別さえついていないので、昨今こういうことを調べるためにしばしば植物図鑑を開いているのです。
もう、何の因果やら。
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- [2019/02/07 00:00]
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平安時代の話なんて(2)
そんな平安時代の文学や歴史について、しかもかなり専門的なことをお話ししているのに、一般の方対象の講座にいらしてくださる方はほんとうに熱心です。反応も大きく、『源氏物語』で夕霧という人物とその妻の痴話げんかの部分などを読みますと滑稽でお笑いになります。これはとてもいい反応です。紫式部はこのあたりを「おもしろうてやがて悲しき」という描き方をしていると思うからです。その「おもしろうて」の部分を読めば笑うのが読者としてすばらしい反応だと思うのです。
なにも
高尚な古典
などと思ってまじめくさって読む必要はないのです。当時の読者も笑ったに違いないのです。そしてそのあとの「やがて悲しき」もしっかり読んでみるとさらにおもしろいです。
そういうことをさすがに年季の入った皆様方ですから、わかってくださいます。『源氏物語』の講座は新しくおいでになる方もいらっしゃいますが、常連さんがたくさんで、おやめになる気配がありません(笑)。以前は一年で90分×16回だったのですが、「できればもう少し回数を増やしてほしい」というご希望も少なくなかったのです。今は120分×30回なのですが、それでも引き続きおいでくださっています。
今年度から
『枕草子』
の講座も始めましたが、何しろ私がこれまであまり熱心にこの作品を勉強してこなかったので、自信などまるでないまま進めています。
平安時代の史料などをそのまま出して読んだりもするので、ちょっとむずかしいかな、と気になっています。もうすぐ一年が終わりますので、それを機にリタイアされる方も多くなるだろうな、と案じています。
ところが最近、ある方が「このあいだの話、とてもおもしろかったです」と言ってくださいました。平安時代の話なんて、と、自分で意識しすぎずに受講者のっ皆さんにぶっつければいいのかな、と思った瞬間でした。
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- [2019/02/06 00:00]
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平安時代の話なんて(1)
これに生涯をかけていて、自分では何ら不満はありませんし、意味のあることをしていると思っているのですが、「平安時代のことを勉強して何が面白いのだろう?」と思われているかな、という気持ちになることがあります。
たとえば、平安時代の相撲はこんなのでした、とか、嫉妬に狂う女性がこのように描かれました、とか、藤原道長はこんな宗教心を持っていました、とか、おもしろくてしかたなくてそんなことを勉強しているのですが、くだらないと言われたらたしかにくだらないかもしれません。最近よくいわれる
「役に立たない
研究」の最たるものかもしれません。
学生に話をしていても、とてもおもしろがってくれる人がいる反面、一部の学生はまったく興味を示しません。なんだか馬鹿にされてるかもしれないな、とさえ思います。具体的に言いますと、彼女たちは単位だけが目当てですので、出席はするのです。私にいわせれば無理に来なくてもいいのですが、成績だけが気になるので、とりあえず授業にはきて、しかし実態はスマホをいじって帰る・・。「そのほうが意味がないよ」と思うのですが(笑)、そういう学生が結構いるのです。
とても残念なのは、古典文学の話をしているのに、
小学校教諭
などを目指す学生が関心を持たないことも少なくないのです。小学校の授業でも昔話、民話、古典の初歩は教科書に入っていますので、彼らの専門分野とは無関係ではないのですが・・。
実のところ、意外にも、専門のまるで違う理系の学生のほうが熱心だったりします。しかし彼女達も高校時代の古文アレルギーがありますので、授業の進め方によってはおもしろくないだろうと思います。そこで、できるだけ学生の関心を引くような話をしようとは思うのですが、さて、どう思ってくれているのでしょうか。
大学は昔のようにごく一部のエリートと呼ばれる人のためのものではなくなりました。それなら当然授業も昔ながらのことをしていてはいけないのです。大先生ぶって自分の専門の話をして、「授業がわからないのは、話を理解しない学生の責任」ではもう通用しません。私も、何とかあのスマホいじりの学生に「源氏物語はおもしろい」と言わせてみたいのです。
まだまだ道半ばです。
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- [2019/02/05 00:00]
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僧衣の運転
福井県で、僧衣の方が運転中に警察に止められていわゆる青切符を切られ、罰金の支払いを拒否したというニュースがありました。
福井県警は結局、「証拠不十分で起訴しない」と僧侶に伝えたそうです。
先日、その僧侶の言い分が新聞に載っていましたので読んでみました。
それによると、道路を走っている時に警察に停止を求められ、服装が違反だと言われたとのこと。ということは、警察は上半身だけをみて判断しているわけで、
僧衣はすなわち違反
という判断をしたことになります。
しかも停止を求めたあと、服装を詳しく確認せずに切符を切ったとこの方は証言しています。
警察の判断は下半身の服装が危険だから切符を切ったと言っているようで、それならきちんと確認するのが当然。僧侶の言い分が正しいなら、警察はわけのわからないことを言っているように思います。挙げ句の果ては、世論に押されるように不起訴。しかもその理由が
証拠不十分
というのが私は気にくわないのです。
警察は間違っていないがはっきりしないから咎めないという言い分に聞こえます。
警察は、間違っていたなら間違って謝るべきです。そして、僧衣は危険ではないが、ブレーキがかけやすいように注意を払ってほしい、と念を押せばいいのではないか。しかし、絶対にそうは言わない。
これは、権力を持つ者に共通する思考です。私も今、そういう連中と戦っていますので、余計に腹立たしい思いをしています。
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- [2019/02/04 00:00]
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節分
気がついたら2月、そして今日は節分です。
もう、冬は終わります。
今後まだ雪が降る日もあるかもしれませんが、季節は進みます。
以前は、節分といえば豆まきでしたが、今は
恵方巻
とかいうのがはやりです。
以前学生から「平安時代の人も恵方巻を食べたのですか?」と聞かれたことがあります。
節分に巻き寿司なんて昭和以来のものだし、恵方巻という言葉は平成になってできたのでは?」と答えたらびっくりしていました。
平安時代には大晦日に追儺(ついな、おにやらい)というのがありました。暦が今と1か月あまり違いますので、同じく鬼を払う行事でもありますから、今の節分の豆まきにあたるといえます。追儺は吉田神社や平安神宮などでは今もおこなわれています。
節分の豆まきのような行事は、幼稚園がよく残していますら、多分今年も幼稚園では鬼役の先生が追われるのでしょうか。
神社やお寺でも著名人などによって豆まきが行われます。
私の住む街では
中山寺
が有名で、タカラヅカの生徒さんたちが小さな袋に入った豆をまいてくれますので、それをキャッチするわけです。
福男さんもまいてくれるのですが、どちらかというとタカラジェンヌからいただきたいものです。
明日はもう、立春。
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- [2019/02/03 00:00]
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2019年2月文楽東京公演初日
雪がちらつくような昨今であり、インフルエンザが猛威をふるう日々でもありますが、今日から文楽は早くも東京公演です。
『大経師昔暦』があるのが近松好きの東京公演らしいです。もちろんいいと思いますよ。近松というと先代織太夫が第一に思い浮かぶ世代です。咲さんも印象に残っています。
大阪では大人気だった阿古屋もあります。またSNSでは寛太郎さんと勘十郎さんのお名前が飛び交うでしょうか。でも、清介さんも忘れないでください。
そのほかには桂川連理柵と中将姫雪責も。
第三部は雪責め、琴責め、三味線責め、胡弓責め!
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- [2019/02/02 00:00]
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原爆ドーム
2019年1月13日午後。久しぶりに旧広島県産業奨励館、原爆ドームの前に立ちました。改めて、その壮大さに驚きました。どうしても写真ではドーム部分が誇張されたり、全体像を少し遠目に移したりしますからわかりにくいのですが、実物はとても大きなものであることを再認識したのです。
戦後、町が少しずつ復興していく過程で、この建物はどうするべきかが議論になり、最終的に保存されましたが、何と言って強烈な原爆をもろに受けた建物ですから、当然崩壊の危険があります。保存には多くの人の工夫と苦心があったことだろうと思います。今は接着剤を注入したり、建物内部を
支柱
で支えたりしていて、支柱は外からでも見ることができます。
ドームはぐるっとその周囲を回ることができますから、さまざまな表情をうかがうことができます。とりわけ、私が訪ねたのは午後の3時台でしたから、東側に行ったときの風景にはぞっとするものがありました。写真に撮ると、逆光になりますので、青空が写っているのに、ドームは真っ黒に見えるのです。墓標のようでした。もしこれが墓標であるなら、
戦争そのものの墓
つまり世の中から戦争というものがなくなってしまってほしいと願わざるを得ません。
私はひょっとしたらもう二度と原爆ドームを見ることはないかもしれません。その意味でも、この散策はとても印象に残るものでした。
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- [2019/02/01 00:00]
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