幼稚園のにんぎょうげき
文楽人形を使って実施してきた人形劇を奈良市内の幼稚園で8年間実施してきました。しかし、昨今は少子化が顕著で園児の数が極めて少なくなっています。園児が少ないということは保護者も少なく、また景気も良くないので働くお母さんも増えています。次第にこの催しもやりにくくなってきて、昨年は新しく小道具を作る余裕がないということで、旧作に手を入れて(新しい道具はほとんど作らず)実施しました。
そんな状態ですので、今年はどうなるかさらに心配していたのです。
先日その幼稚園の園長先生から連絡があり、やはり手伝ってくださる方の人数が定まらない(多くは集まらない)とのことでした。しかし園長先生は
やりたい
とお考えで、一応十一月に実施することで方法を模索することになりました。
私はやはり旧作でしかもあまり道具を使わないものをいくらか書き換えて実施するのがいいと思っています。
それでも人数が足りない可能性があるみたいで、さてどうしたものか、と悩みは尽きません。
そんなことを漏らしたところ、強烈な助っ人が
「手伝いましょうか」
と声を挙げてくださいました。
何も決まっていませんのでこれ以上詳しいことは書きませんが、うまくいけば、人員不足を逆手に取ってこの上なく面白いものができるかもしれません。
今は不安と楽しみが交錯してるところです。
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- [2019/04/30 00:00]
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2019年文楽4月公演千秋楽
春の文楽も本日が千秋楽です。
『仮名手本忠臣蔵』は何といっても名作です。このたびは「力弥使者」が上演されたのがよかったと思います。文楽劇場では初めてだと聞きましたが、それなら、私はいつどこで見たのでしょうか(笑)。
またこの公演では
豊竹藤太夫 さん
が改名後の初舞台でした。藤太夫さんももう60代半ばです。切語りになってもなんらおかしくない年齢なのです。今はなかなかそうはいかないようで、ファンからも、「あの人はダメ」「まだまだ」という声が聞こえてきます。しかし私は切語りはきちんと4人は揃えていただきたいと思っています。今は咲さんおひとりですが、あの人とあの人とあの人は十分資格があると思っています。もちろん呂、津駒、千歳です。
欠点を言い出したら切がありません。そうではなくて、今の文楽で時代物を通しで上演する場合、序切は誰、二の切は誰、三の切は誰、四の切は誰、と言えるようにしておかないと格好がつかないと思っています。こういうことを言うと大抵「甘い!」と一蹴されるのですが、文楽をつぶさないためにも必要なことだと思えて仕方がありません。
さて、このあとは東京で、なんと『妹背山婦女庭訓』の通し! すごいなぁ、東京は。
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- [2019/04/29 00:00]
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連休対策
いよいよ私も8連休です。
連休明けから猛烈に忙しくなりますので、その準備をしなければなりません。具体的には『源氏物語』と『枕草子』の講座が始まるのです。本当は受講者の方々とやり取りをしながら進めたいのですが、私はそれができないので、ひたすらお話をします。そうなるとどうしても皆さん飽きられると思いますので、できるだけいろいろな資料を集めて興味を持っていただく必要があり、事前の準備が大変なことになります。学生への授業と合わせると
6種類7コマ
で、それぞれ5~6時間は予習がいりますので、朝から晩までそれに追い回されます。その負担を少しでも減らすためにはこの連休に予習を積み重ねておくことが必要です。国文科勤務時代はぶっちゃけた話、そんなに予習の時間はかかりませんでしたから、あのころに比べると負担は5倍にはなったと思います。
そこで、図書館からそれらの授業にかかわる本をごっそり借りて持って帰ることにしました。
こういう本に限って重いですから、めんどうです。図書館の入り口は2階にあり、
外階段
を昇り降りします。雨でも降ろうものなら本が濡れてしまいますのでそういう日は避けねばなりません。天気予報を見て図書館に行くって・・・。誰がこんな設計をしたのか、と思います。バリアフリーなんていう発想はもちろんなかったのでしょう。
最低限、屋根付きにしないといけないのですが、消防法の関係か何かで屋根がつけられないと聞いたこともあります。
というわけで、まとめて本を借りて、連休の間は家に閉じこもることになりそうです。
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- [2019/04/28 00:00]
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例年通りのゴールデンウィーク
今年の大型連休は、とんでもない大型のものになるのだそうで、さて私はいったいどうなるのだろうと思っていました。
結局、何のことはない、例年と全く同じ連休になるのだそうです。4月29日はなんだか忘れましたが(笑)祝日で30日はなぜ無理やり休みにして、1日も無理やり休みにして、2日は適当にこじつけたらしい創立記念日で、3,4,5は世間並みの休み。以上終わり。6日は、世間は休みだそうですが、学校は例によって無理やり授業。こうなるともう
無理やり連休
以外の何ものでもありません。
世間ではいったいどういう理由をこじつけて連休にするのか、あまり詳しくは知りませんが、5月1日は新天皇の即位を祝うということだと、世間知らずの私もさすがにわかります。
あの「なるちゃん」が浩宮様と呼ばれるようになり、いつしか皇太子になり、ついには天皇になります。そういう日まで自分が生き延びるとは思いませんでしたが、ともあれ、国の象徴とされる天皇の交代ですから、今上にはどうかご安心なさってゆっくりご隠居生活をお送りいただきたいですし、天皇となる皇太子にはまた新たなご自身の天皇像を作られることを期待しています。
それにしても世間より休みが少ないというのは学生にとっては不満だろうな、と思います。
多い分には
「だって学生だから」
なのですが、少ないと文句も言いたくなるものなのです。看護師になったら日曜も祝日も関係ないですから、今の内から予行演習だと思ってもらうほかはありません。
私は特にすることもありませんので、5月7日から始まる講座の為に予習に専念することにします。
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- [2019/04/27 00:00]
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藤の季節
去年の今ごろ、阪急電鉄京都線(京福電鉄も)西院駅から歩いてすぐのところにあるにある西院春日神社に行きました。この神社は名前尾の通り、」奈良の春日大社の
ここは藤の花が有名で、「六尺藤」があり、4月29日の夕刻からは
藤花祭(とうかさい)
もおこなわれます。
あいにく昨年行ったときはまだ少し時期が早かったので満開の花、というわけにはいかなかったのですが、それでも桜や梅とはまた違った魅力のある藤の花にしばし時を忘れました。
『源氏物語』と藤というと藤壺中宮の名前がまず思い出されるのですが、「花宴(はなのえん)」の巻における朧月夜と光源氏の密会の話も魅力的です。桜の宴のときに出会った光源氏と朧月夜は、その後右大臣の家で行われた藤の宴で再会します。彼女は右大臣の娘だったのです。
『枕草子』にも藤はしばしば描かれます。
「木の花は」という段では「紅梅、桜」に続いて藤を挙げていて「しなひ長く色濃く咲きたる、いとめでたし(房が長くて色濃く咲いているのはとてもすばらしい)」と言います。「あてなるもの」(気品のあるもの)という段では花単独では唯一「藤」が挙がります(「梅の花に雪の降りかかりたる」というのはありますが)。「めでたきもの」の段では「色合ひ深く花房長く咲きたる藤の花、松にかかりたる」という一節があります。
上品な豪奢な花
だったのですね。
この春、文楽の竹本文字久太夫さんが初代豊竹藤太夫を名乗られました。
藤太夫さんも、「気品ある」「色濃い」語りで、「めでたきもの」として浄瑠璃の花を咲かせ、多くの方に称賛されるようご奮闘を願うところです。
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- [2019/04/26 00:00]
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春のプランター(花編)
野菜はアスパラとニンニクともうひとつねぎを植えています。ねぎは時々スーパーで買ってくる根付きのものを根っこだけ植えているもので原料費ゼロです。それでも、このところずいぶん活躍してくれていますのでありがたいです。
わずかながら花も植えました。二年前の春、何を思い立ったのか、グラジオラスを育てることにしたのですが、これは秋にいつも球根を掘り起こしています。そして部屋にぶら下げているのですが、先日それを見ると、ひとつが
芽を出して
いるのに気づきました。グラジオラスは春から夏まで幅広い時期に植えられますので、まあそのうちに植えようと油断していました。早速空いている花鉢に入れてやったのですが、まだ芽は小さかったので土の中にすっぽりと入ってしまいました。しかし二日もするとすぐに伸びてきて気が付いたら顔を出していたのです。これもこれから一気に伸びてくるのだろうと期待しています。グラジオラスの球根はまだいくつかあるので、花期を長く楽しむために、少し時期をずらして植えようと思っています。
そうこうしているうちに朝顔の種も蒔きたくなりそうです。
このところ、新聞の折り込みチラシに
ホームセンター
の広告が入っており、野菜や花の苗の写真がたくさん出ています。目の毒です。シソだけでも植えてみようかなと思っているのですが、次の休みの日にホームセンターに行ってみます。
それにしても、鉢やプランター、そして何よりもそれを置くスペースがもっと欲しいです。
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- [2019/04/25 00:00]
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春のプランター(野菜編)
アスパラのほかに、今もプランターで成長しているものがあります。野菜ではニンニク。以前書きましたが、去年の夏に一般の方対象の講座に出ていらっしゃる方から「うちで採れたんです」と立派なニンニクを3つもいただいてうらやましくなり、私も試してみたいと思ったのです。植え付けの時期は秋。ホームセンターに出回る栽培用のニンニクを入手すると、中から大小合わせて10個近い種球が出てきました。あまりに小さいものは期待できない、というようなことがものの本に書いてありましたが、それでも全部植えてみました。
発芽したものを見ると、たしかに、小さいものは茎も太くなく、弱弱しげです。猫に踏んづけられたものもありますのでさすがに10個全部というわけにはいかないのですが、大きめのものはそれなりに太い茎に育ち、結局は
5つくらい
がしっかりした姿に成長しました。
といっても、葉が次々に出てくるだけであまり愛想がない(笑)のですが、実はゴールデンウィーク頃には(ということはもうまもなく)「花芽(花茎)」というのが出てくるのだそうです。つぼみを持った茎が伸びてきて、やがては花を咲かせるのだそうです。ただ、根の部分を太らせるために、かわいそうですが、花は咲く前に取ってしまわないといけないのだそうです。もっとも、その花芽はスーパーにも野菜として売っているもので、
炒め物
などにして食べることもできるそうで、ちょっと楽しみではあるのです。
そのあと、どんどん根の部分が太り、うまくいくと6月には収穫できるというのですが、はたしてどうなりますか。だいたい、花芽というのもまだぜんぜんそれらしいものが見えていないので、ちょっと心配しているのです。
仮に今年はうまくいかなくても、大体の見当は付きましたので、せめてもう一年は試そうと思っているのですが。
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- [2019/04/24 00:00]
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グリーンアスパラ
私は植物にはほとんど興味はなかったのですが、このところ、プランター栽培ながら野菜や花などを大事にしています。
この時期になるとホームセンターで野菜の苗がたくさん出回ります。キュウリ、シソ、トマト、ミニトマト、ゴーヤ、オクラ等々。私も(ゴーヤ以外)あれこれ試してみましたが、なかなか難しいものでした。
数年前の秋だったと思うのですが、アスパラガスの苗というのでしょうか、根っこというのでしょうか、摩訶不思議なものが売られているのを目にしてびっくりしたことがありました。
「こんなの、どうしろっていうの?」と思ったのですが、この木の根のようなものをうまくプランターに入れて世話をすれば来年には収穫できます、ということでした。ただ、値段が高い(1株1,500円くらいだったと思います)のです。
そこで私は収穫まで数年かかるという
アスパラの種
を手に入れて(これは激安!)じっくり育ててみようと思ったのでした。まずは苗を育てて、アスパラ専用と決めた底の深い野菜鉢に移し、あとはひたすら水やりをしたり土の世話をしたり肥料を与えたり。年末になると枯れた茎は切り取ってしまいますので、3か月以上は表面上何もないプランターの世話をしているようなものです。しかしアスパラくんは誠実なのです。春になると忘れずに芽を出してくれます。
これまでの茎はまだ細くて、一切収穫はしませんでした。ひたすら大きく茎をのばして光合成をさせ、今年に備えてきたのです。
今年も3月の半ばについに芽が出ました。すると、あれよあれよという間に大きくなり、しかも今年はかなり太くて、スーパーで売っているものに比べて何の遜色もありません。
なんだか、
手塩にかけた
子供や弟子が一人前になってスーツ姿で働いているのを見るような気分です。まだあまり多くは収穫せずに来年に向けて育てはしますが、それでも初めての自家製アスパラが食卓に出ることになったのです。
野菜は買った方が安い、などという勿れです。けっしてそんなことはありません。心の栄養を併せ考えたらあの激安の種はとてもいい買い物だったと思います。
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- [2019/04/23 00:00]
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先例と言っても・・
天皇の交代についていろいろいわれる時節、何ごとも先例主義のお役所的発想には時として疑問を感じることもあります。その「先例」というのが、たかだか「明治以降」「昭和以降」というレベルのものである場合は特に気になっています。
「天皇は終身制」などというのは明治、大正、昭和だけで、それ以前の天皇は半分くらいが生前に退位しています。今は政治的には力がないと言っても、天皇の役割は大きくなっていて、ただ内裏の奥深いところに鎮座ましましていればいいというものではありません。
本来、天皇は
内裏からは出ない
もので、庶民がその顔を見るということもまずないことでした。今は皇居内の神事や書類の決裁などの仕事に加えて、外に出ることがあたりまえにおこなわれ、海外にまで行くわけです。こんなの、昭和以前の天皇にはほとんどなかった、もっというと第二次大戦終結後のことで、あえていうなら先例を大幅に逸脱しているのです。
しかし戦後の天皇はそういうものになっているのですから、肉体的に負担になることについて何も考慮しない方がおかしいので、今上が退位を望まれたときに反対するのは私には異常に思えました。反対論の方の中には「天皇は祈るのが仕事」とおっしゃるかたもありましたが、そうではなくなっていることを無視してはいけないと思います。
皇位継承順位は今、皇太子、秋篠宮、悠仁親王、常陸宮の順ですが、古くは適当な人がいない場合、つなぎ役ではありましたが
女性天皇
もありました。秋篠宮がおっしゃるように、(20年後に)70代半ばになって天皇になれと言われてもそれは厳しいと思います。そういうとき、昔なら女性天皇を間において次の男性天皇が一人前になるまではつないでいました。あの持統天皇もその一人でした。ところが明治になって皇室典範なるものが定められ、男系の男子以外は皇位に就けないという決まりを作ってしまった。でもたかだか明治のものです。改めることができない規則などありえないので、政治家はまじめにものを考えてよりよいルールを作らなければなりません。
新しいルールに「女性天皇」を認め、イギリスのようにいっそのこと男女かかわりなく年齢順にしてしまうことも私なら考慮すべきだと思います。
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- [2019/04/22 00:00]
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次男の立場
先日の新聞に出ていた記事です。次の次の天皇になるはずの秋篠宮文仁親王がしかるべき時期には自身が高齢になっていることから、「そのときはもう無理だ」という意味のことを漏らしたことがあるとか。
江戸時代の武家の発想で言うと、次男以下の男の子は跡継ぎになれない不安定な運命を背負って生まれてきたことになります。他家の、男子のいない家に婿養子に行ければいいものの、そうでなければいわゆる「冷や飯食い」に終わることがあったのですね。皇室が今なお年齢順を重んずるかぎりは、この考えは生きているというべきでしょう。昭和天皇には秩父宮、高松宮、三笠宮という弟がいました。それぞれに活躍はなさったのでしょうが、あまり日の当たるところにいたとは思えませんでした。今の天皇の弟の常陸宮も同じことで、学生に聞いても
「天皇に弟がいる」
ことを知っている者は極めて少ないのです。秋篠宮も、皇太子に男子がいないことに加えて、人気の高いお嬢さんが二人(真子さんと佳子さん)いらっしゃり、さらに男子も生まれたこともあってよく知られていますが、もし皇太子に二人くらい男子がいたら、やはり「無名の皇族」に終わるかもしれません。私が子供のころを思い起しても、皇太子(今の天皇)一家には男子が二人あって、子のない常陸宮家の存在はほとんど世間の関心を誘いませんでした。
次男の掟
ということになるでしょうか。それがないと主役は心細くはあるのですが、あくまで次男以下は影の存在であり続けてきたように思います。
私も実は次男で、表に出るのはいつも兄。子どもの頃に「次男は冷や飯食いだ」と言われたことを今も覚えています。もっとも、私は気楽で無責任な心地よい位置にいると思って好きなことをさせてもらってきたので気に入っているのです。秋篠宮もこれまでに次男ならではの比較的自由な発言(時として政治的と言われることでさえも)をしてこられましたが、あの発想は次男ならではかもしれません。今後は皇太子に準ずる地位に就かれますのであまり自由な発言はしにくいのかもしれませんが、秋篠宮節(ぶし)は続けて聴きたいようにも思うのです。
あの人は実際、天皇の地位に就くことは拒否したいのではないか、次の次の天皇は、おそらくしかるべき時期にはすでに30代になっているであろう悠仁親王に譲れないものかと考えているように思えてなりません。私ならきっとそういう希望を持つと思います。
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- [2019/04/21 00:00]
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やっぱり旧暦
旧暦
同じようなことをこれまでにも書いたかもしれませんが、私は日常生活の中で旧暦を意識することが多いのです。満月が出ていると「(おおむね)十五日だな」と思いますし、左に細くなった月を見ると「今月も終わりだな」と感じます。日常生活に必要な新暦の暦をうっかり忘れることもあるくらいです。
浅野内匠頭長矩が殿中において吉良上野介義央に刃傷に及び、即日切腹になったのは三月十四日でした(元禄時代ですので当時は貞享暦)。昔の人の書いたものに見られる「三月」は、もちろん「さんがつ」「さんがち」と読んでいいのですが、季節感を感じるためには「やよい(弥生)」と読みたくなります。「弥生」は、本来は「弥(いや)生(おひ)」で、植物が
いっそう生長する
という時期で、もう夏は目の前なのです。
浅野内匠頭はそんな時期にあんなことをしでかしたのですね。脇差を抜いた理由についてはいろいろ言われるようですが、パワハラに対する蜂の一刺しのつもりだったのでしょうか。もちろんご法度に逆らったのですし、そうでなくても老人に斬りつけるというのは穏やかではありません。しかし、浅野の気持ちは何となくわかるような気がします。日本人だから、というのではなく、そういう感情が他人事に思えないこともあります。
私は
季節感
を抜きにして歴史や文学を見ることはできないと思っています。とくに古典文学では今以上に季節、月の出入り、寒暖などを漢字ながら読むべきだと感じています。ところが「四月十日過ぎ」のように書かれているとつい春爛漫をイメージしがちです。実際は初夏なのですけどね。
新聞の見出しのあたりには日付が書かれていますが、当然それは今の暦です。それでふと思うのですが、あそこに( )の中に入れて結構ですので旧暦を書いたらどうかなと思うことがあります。元号を書くくらいなら(笑)、旧暦のほうが役に立ちそうにも思えます。七夕のような年中行事は旧暦におこなうべきだと思っているのですが、あまりにもなじみがないので特に若者には違和感があるでしょう。大学生の多くは旧暦の何たるかを知りません。
季節感だけでいうなら今の十二月半ばに「赤穂浪士の討ち入りの日です」なんていうのは実は奇妙なものなのです。
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- [2019/04/20 00:00]
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一遍上人絵伝
僧・智真。
遊行上人とも一遍上人ともいわれる人。教信や空也といった先人を敬い、各地を放浪しながらい踊念仏を行ったことであまりにも有名。時宗の開祖で、13世紀すなわち鎌倉時代の僧侶です。
今、京都の国立博物館で「一遍聖絵と時宗の名宝」の特別展が行われています。
えらそうに書きましたが、私は一遍上人のことなどほとんど何も知らず、以前からもうちょっと勉強しないとな、と思っていたところです。というのは、私はしばしば絵画資料としてこの
『一遍聖絵』
とも『一遍上人絵伝』(絹本著色)ともいわれる、鎌倉時代のj絵巻物を使わせてもらっているからです。
昔の人の生活を知るためには、さまざまな文献が残されていて、それを読むことはもちろん大切なのですが、百聞は一見に如かずで、絵画資料は一見してそのものを見せてくれるので極めて有益です。それで、暇なときはよく図書館に行って絵巻物の代表的なものを集めた『日本絵巻大成』をパラパラと眺めたりしています。すると、思いがけない絵が描かれているのを発見して面白いのです。
旅衣 木の根かやの根
いづくにか 身の捨られぬところあるべき
旅衣を着てあちらこちらに行く私はいったいどこに身を捨てられないところなどあるだろうか。どこにだって捨てられるのだ。
これは一遍の歌で、たしかに各地を歩き回った彼らしい歌だと思います。
ちょっと体調がすぐれないのですが、いくらか歩けるようになったらぜひ博物館まで行きたいと思っています。そしてその前に図書館でもう少しこの絵巻について勉強しておこうと思っています。
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- [2019/04/19 00:00]
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変な名前?
『枕草子』「虫は」の段では、ハエのことを「愛敬なきもの」と言っていて、顔にとまられた時の不愉快さについて書いていました。実は清少納言はそのあとに「人の名につきたる、いとうとまし」という一文を書いています。人の名前に「蠅」という字が付いているなんて、まったくいやになる、というのです。実際、そんな名前があったのか、と思うのですが、古くは実際にあったことが『古事記』などにも残っています。そういえば私が昔書いた新作浄瑠璃の『斎宮暁白露』(文楽なにわ賞という、あっという間に終わった新作募集の受賞作でしたが、日の目は見ませんでした)という作品にも「蠅男」だったか「螻蛄男(けらお)」だったかの名前を使ったことがありました。
「螻蛄男」というと『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」では虫をかわいがるという変わった姫君が童たちの名前として「けらを」「ひきまろ(ヒキガエルの男)」「いなかたち(不詳。蜻蛉のこととも)」「いなごまろ」「あまびこ(やすで。ムカデに似た虫)」などとつけたという話もあります。
最近はキラキラネーム全盛で、いつぞやは
「王子様」
と名付けられた人が改名したというのがニュースになりました。もっとも、舞台美術家、エッセイストなどとして活躍されている妹尾河童さんは本名が「肇」だったのに、「河童」のほうが通りがよくなって、ついに正式に改名なさったのだとか。オーソドックスな名前をキラキラ(?)に変えた珍しい例かもしれませんね。
それはともかく、昔の人の名前には不思議なものもあります。「中大兄皇子」「大海人皇子」などもそうですが持統天皇の諱の「鸕野讚良(うののさらら)」もなかなかのものです。「さらら」ちゃん、なんて今どきはありそうですけどね。神話の時代になると「ひこほほでみ」とか「たぎしみみ」とか、ますます不思議感が増します。
平安時代の話なのですが、
漢籍
から名前をとるというのは(元号も同じですが)珍しいことではありませんでした。紀貫之や紀有朋は『論語』の「一以貫之」「有朋自遠方来」からとられているようで、これはなかなか格式があっていいかもしれません(今の総理大臣は嫌いなんだろうな・・)。ところがその貫之は幼名が「あこくそ」だったと伝わっています。「くそ」はないでしょ、と思うのですが。
『源氏物語』「若紫」巻には童女の名前として
犬君(いぬき)
が出てきます。これはニックネームのようなものなのかもしれませんが、そう呼ばれていたことは間違いありません。
平安時代の貴族女性の名前には「明子」「倫子」「彰子」など、昭和生まれの女性といっても不思議でない名前がありました。ただ、読み方は不明瞭なものが多く、それでも「明子」という人が「あきらけいこ」と読まれたらしいことは分かっています。やはりちょっと変わっていますね。
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- [2019/04/18 00:00]
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虫は
学生に聞きますと、「虫が苦手」という人がとても多いのです。看護師になる学生なんて、人体の解剖の見学にだって行くのです。「平泉中尊寺金色堂の藤原氏のミイラを見てみたいですか?」と聞いたら「ぜひ見たいです」という人も少なくありません。私なんてよほどそちらの方がご免こうむりたいのですが、学生はそういうのは怖くなくて、虫が怖いと言います。ゴキブリなんて最近は名前も呼んでもらえず「G」と略称されてしまいます。蛍も光はきれいだけど、手に取るなんて考えられない、とのことです。
いつぞやは図書館で学生が飛んできて
「ム・・・虫が・・・」
というので、私が手に取って窓から放してやりました。飛んでくるのは学生じゃなくて虫の仕事だと思うのですが。
『枕草子』に「虫は」という段があります。鈴虫、松虫、きりぎりす(今のコオロギ)、ヒグラシ、蝶、蛍などはまあまあわかるのですが、
ミノムシについて「いとあはれなり」と言っています。親がみすぼらしい着物を着せて「秋風が吹くころに帰ってくるからな」といって逃げて行ったのも知らずに「ちちよ、ちちよ」と心細そうに鳴くのがなんとも「あはれ」だというのです。ヌカヅキムシ(コメツキムシ)も「また、あはれなり」だそうです。ちっぽけなくせに仏の道に進む心を起こすのか、額づいてまわっていることよ、思いがけず、暗いところでほとほとと音を立ててうろついているのは面白いこと」と言っています。学生は
エーッ!
なんて言いながら読むのでしょうか。
ただ、ひとつだけ「これくらいかわいげのないものはない、にくらしいものというべきだ」として名前を挙げている虫があります。それはハエなのです。「そのハエが濡れたような足で顔にとまったときなんてもう・・・」とまで書いているのですが、これはいつの時代の人も同じ気持ちだったでしょう。こういうことまで書くのが『枕草子』のおもしろいところではあります。
今「いつの時代も」と書きましたが、そういえば最近、ハエって見なくなりましたね。
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- [2019/04/17 00:00]
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1年分のシラバス
授業の予定表というのを書かねばなりません。実は、一般の方対象の講座も、以前のような公開講座ではなく、文部科学省様のお墨付きの授業のひとつになっているのです。詳しいことは私にはわからないのですが、そうすることで補助が出るとかなんとか。
ただ、中味は依然と何も変わっておらず(笑)、『源氏物語』や『枕草子』を読んでいるだけです。いや、読んでいるだけ、というのは正しくなくて、私なりの個性を出したいですから、平安時代の
史料を読む
という、ちょっとばかり面倒なこともしています。なにしろ漢文ばかりの古い文献を読みますので、果たして受講者の皆様がどのように受けてってくださっているのか、気になるところではあります。こういう史料を読む習慣が何となくではありますが身に沁みこんだのは、私の日本史の恩師である亡き山中裕先生に鍛えていただいたからです。先生には藤原道長の日記『御堂関白記』の注釈をする仕事に加えていただいたのですが、この日記を読むためにはどうしてもかなりの種類の史料を読まねばなりません。仲間の日本史専攻の人にとっては何でもないことでも、文学専攻の私は
おろおろしながら
ついていくほかはなかったのでした。それでもいくらか身についたものを、講座の受講者の皆様にもご紹介しようと思っているのです。どういうわけか、この講座に、大学時代日本史を専攻されたいかにもインテリらしい女性(またすごい美人なのです)が来られていて、この方は時々おもしろいとおっしゃってくださいますので、それを力に頑張っています。
この講座もシラバスを書かねばならず、それも何と1年分! 来年の2月のこの日にはこういう内容の授業をします、って書かねばならないのです。もちろん実際はかなりいい加減で、去年のシラバスなんて結局書いたものの7割くらいしかできませんでした。
もうすこしアバウトな講義要項くらいでいいと思うのですが、それではダメなのだそうです。難しい資料を読むよりこちらのほうがよほど面倒です。
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- [2019/04/16 00:00]
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久しぶりの声出し
先日、久しぶりに大きめの声を出しました。1月の後半以来ですので、2か月半ぶりくらいです。私は自分で自分の声がわかりませんので、つい大きな声を出してしまいます。しばしば「もう少し小さめの声でお願いします」と言われるくらいなのです。
自分でもそれはわかっているのですが、しゃべっているうちに声の大きさがわからなくなり、小さくて聞こえなかったらまずいと思って、つい
張り上げてしまう
のです。
先日も、どうも自分では大きすぎたのではないかと思うのです。
そのためか、3日連続で話をした後、体力を使い果たしたような感じになって、かなりぐったりしてしまいました。
その翌日は朝から横になりっぱなしで二度寝もした挙句に病院に行ったのです。動脈血内のヘモグロビンと酸素の結合の度合いを調べる簡単な検査をしたら、かなり状態が悪くて、歩くのもおっくう、
「またかよ~」
という気になりました。ただ、少し薬を調節してしばらく様子を見ようという感じでしたので、仕事に差し支えるほどではなさそうです。ところが、翌朝、鍵が行方不明になり、病院に忘れてきたのではないかとちょっとした騒動。何のことはない、前日着ていた上着と違う上着のポケットを探していただけで、前日のよれよれの上着を見つけるときちんとポケットに収まっていました。どこか感覚が鈍っている(ボケている、ともいう?)のだろうと思うのです。
文楽4月公演も中盤になりました。実はまだまったく行っていないのです。劇場で「待ってました」と声を出す習慣はないのでどうってことはないのですが、なにしろあの劇場まで行くのがひと苦労です。
声の出しすぎに注意、です。
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第45回だしまきの夕べ
昨日、恒例のだしまきの夕べがおこなわれたそうです。「そうです」なんて、まことに他人ごとのような言い方ですが、私は今回も体調不良で参加できませんでした。なにしろ、文楽劇場どころか、大阪にもフェルメール展以後足を向けられないでいますので。
また、いつもここに議事録を描いてくださるやたけたの熊さんも病欠だったそうで、今回は議事録無しになりそうです。
どなたか書いてくださるといいのですが、このブログもあまり読まれなくなっている状況で・・・。
多分、くみさんご推奨の居酒屋さんでおこなわれたと思うのですが、私、まだここに行ったことがありません。
どんなお話があったのか、気になるところですが。
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- [2019/04/14 00:00]
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かわいい1年生
初めて大学というところで授業をしたときは、まだ私が大学院の学生で、受講してくれる学生が妹みたいな感じでしたから、ものすごく「女性」を意識してドキドキしながらしゃべっていました。
学生も、やたら若いのが来た、というので、よく雑談にも付き合ってくれて、ラーメン食べに行こう、などと気楽に話していました。この中から誰か
嫁さん
になってくれないかな、と密かに期待もした(笑)のですが、それはまったく叶いませんでした。
やがて「妹みたいな」が「姪っ子みたいな」に変わり、「娘のような」になっていき、もう彼女たちを女性と見ることはなくなりました。もちろん、教員の中にはロリコン趣味(笑)もいて、いつまでもモテたいと思う人もあるようですが、幸か不幸か、私はまったくそういう気はないのです。
今はもう、
かわいい
のひとこと。
中には生意気なことを言うのもいますし、逆に素直なばかりの学生もいます。どちらもほんとうにかわいいです。
私はまるで教師としての自覚も自信もないまま時を過ごして来たのですが、最近やっと、学生をかわいいと思うようになるのに比例するように教師になりつつある自分を感じます。
もう少し頑張れば、一人前の教師になれるかな、と自惚れかもしれませんが思っています。
今年も学生がますますかわいくなってきました。
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- [2019/04/13 00:00]
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春の遠足ふたたび(2)
一条通りを歩いて烏丸通まで。そして少し北に行った乾御門から京都御苑に入りました。
このすぐ近くが近衛家跡地で、今は家族連れなどが憩う公園のようになっています。昔は内裏の周りにこういう貴族の家がいくつもあったのですが、今は影も形もありません。そしてここには糸桜(枝垂桜)がいくつもあって、よく知られています。
私が行ったのは平日のお昼ごろでしたのでまださほど混雑はしていませんでしたが、それでもお母さんと子供たちというグループがいくつもあって、子どもたちは走り回り、お母さんたちはビニールシートに落ち着いておしゃべり三昧という、実に平和な風景でした。
今は京都御所も年中開放されていて、この日も日本人外国人を問わず次々と入って行っていました。お巡りさんも外国の観光客に対して手慣れた対応をしていました。
私は中には入らず、ぶらぶらと南に歩き、ほとんど人のいない
閑院宮跡
に寄り道しました。
庭に下り立つとアオサギが何を思うのかつくねんと立っていてその周りをマガモのつがいがすいすいと泳いでいました。
建物の中に入ってもあまり人はおらず、京都御苑も南側は割合に閑散としているのです。
ゆっくり見学した後は丸太町通りを横切って、あとは丸竹夷二押御池・・・と下っていきます。御池通を越えると在原業平邸跡を横目に高倉通へ。姉小路に出れば京都文化博物館です。ここでは北野天満宮の展示の後期を観ることにしました。わかる人にはわかるのでしょうが、前期ほどの面白みがなかったような気がします。というか、後期だけの展示というと
鬼切丸
くらいしか興味を持っていなかったからそう思っただけかもしれませんが。
そこから六角通に出て、ついでだからと思って六角堂にも寄りました。ここには柳と枝垂桜が並んでいて、
見渡せば柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける
(古今和歌集 素性法師)
の風情でした。
歩けるというのは素晴らしいことです。歩いた距離はせいぜい7,8㎞かと思いますが、あたたかな春の散策としてはとても気持ちのよいものでした。
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- [2019/04/12 00:00]
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春の遠足ふたたび(1)
先日、まずまずの体調でしたので思い立って京都まで行ってきました。葵祭はまだ一か月後なのですが、昔の葵祭の雰囲気を感じようと思って行ったのです。今は京都御所から丸太町通りを東に行き、河原町通りを北上するのですが、昔は斎院と呼ばれる、賀茂斎院の平素の住まいから大宮通を南下しs手一条まで行きそこから東へ行ったのです。
その距離感などを感じておきたいと思って歩くことにしました。
もちろん今は「斎院」という建物はありません。ただ、おおむねこのあたりだったのだろうという場所はわかっていて、その一角にあたる所がちょうど
櫟谷七野神社
になっていますので、そこに「斎院跡」という碑も建てられています。「七野」というのは、船岡山麓一帯の紫野・禁野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野(神野・神明野・萩野・御栗栖野のことです。
そこでまず阪急で大宮まで行って少し東に歩き、バスで堀川通を北上しました。二条城界隈は平日の午前中にもかかわらず多くの人出がありました。それを横目に、丸太町通や今出川通を超えて天神公園前で下車しました。このあたりまで来るとにぎわいもなく、堀川通を外れると閑静な田舎町と言ったところです。西へしばらく歩いたところにあるのが櫟谷七野神社(上京区社横町)で、ここに大きな「斎院跡」という碑があります。神社自体はさほど立派なものではないのですが、浮気封じのご利益があるのだとか。
誰もいない神社で少し佇んだ後、ここからこの日の散策がスタート。
大宮通を南下してほんとうなら昔の斎院の行列コースの一条まで行くべきなのですが、浮気の虫が出て(櫟谷七野神社の御利益もなく)今出川通で東に折れました。しばらく行ったところにあるのが
京都市考古資料館
です。無料で気軽に入れるところですので、ここでしばらく展示を見て、また歩き出し、高師直の屋敷があったという舟橋(鶴屋吉信さんのみせっ先には碑が建てられています)を経て堀川通まで出たのですが、このまままっすぐ行くと白峯神宮、南に折れると安倍晴明神社や一条戻り橋です。
さてどうするべきかと思ったのですが、たまたま信号がそちらに行けというものですから南へ。一条戻り橋を渡って京都御苑をめざしました。このあたりになるともう斎院の行列をたどるという目的が薄れた感じもしますが。
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- [2019/04/11 00:00]
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寛仁
大江匡衡という人物が考えた「寛仁」という元号案は西暦1004年の改元の際には思いがけないことで落選してしまいました。
ところが藤原道長はこの元号を気に入っていたのです。そこで次の改元の時にぜひともこの元号を採用しようとしたのです。一条天皇がなくなって、諱を「居貞」という天皇(三条天皇)が即位しましたので、もう「仁」の字を使うのに支障はありません。一条天皇が亡くなったのは寛弘八年でしたから、翌九年に改元は行われるべきです。ところがなんと、この年に大江匡衡が亡くなるのです。そんな年末に改元を行うことになったのですが、道長は「寛仁」にする腹積もりですから、文章博士にその案を出すように命じていました。
ところが博士たち(二人)は「寛仁」の出典がわからないというのです。出典のわからない案は提出できないので、道長は不満でした。
「匡衡が生きていれば」
と思ったことでしょう。
そしていよいよ新元号を決める話し合いのある日、道長はたまたま家で仏事を行ったのですが、そこに藤原実資というなかなか学識のある人物が来ました。そこで道長が不満を漏らすと、実資はあっさり「『寛仁』なら『漢書』に出てくる言葉ですよ」とあっさり言うのです。そこで道長はさっそく『漢書』を調べてみると「寛仁にして人を愛し、意豁如たり」(「豁如」は広々としている様子)という一節があるではありませんか。道長は「これを見つけることができずに何が文章博士だ」とぼやいたようです。
会議の席上、「長和」がいいでしょう」という話にはなったのですが、まだ納得のいかない道長は「案にはないが『寛仁』にするわけにはいかないか」と口に出しましたが、
それはできません
と一蹴されてしまいました。
ここでぶちぎれてしまっては「寛仁にして人を愛す」どころではありません。道長は断念せざるを得なかったのです。
そして、次の改元の時、やっと「寛仁」は日の目を見るのです。最初に案が出されたのが西暦1004年、採用されたのはその13年後のことでした。
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- [2019/04/10 00:00]
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学者の出番
このたびの改元でも古代日本及び古代中国文学者や古代日本及び古代中国歴史学者が活躍されたようですが、昔もこういう時には学者に出番がありました。
文章博士とか式部大輔などという地位にある人が案を出して、それをもとにトップクラスの政治家たちがまとめ、天皇の裁可を乞うというのが筋道です。
『源氏物語』の時代であれば、こういう役割を果たす人物として
大江匡衡(おおえのまさひら)
を挙げないわけにはいかないのです。歌人の赤染衛門の夫でもあるこの人物は、漢詩の催しなどがあるとすぐに呼ばれて序を書いたり、題を出したりすることがありました。
また、一条天皇の第二、第三皇子(いずれも藤原道長の娘の生んだ皇子)についてはその名前の案も出しています。事実上の名付け親ですね。
そしてこの人は西暦999年に始まる「長保」と1004年に始まる「寛弘」の元号案を提示した人でもありました。
彼は自分の考えたこの二つの元号に
自信
があって、自らの漢詩集の中に「長保と寛弘の時代はいい時代だ。延喜天暦に比肩するものだ」という意味のことを書いています。
このうち「寛弘」という元号が採用されたときにはちょっとしたハプニングがありました、実は匡衡はほかにも「寛仁」という案を出していたのです。そして政治家たちは「寛仁」がいいと言っていったんこれに決まりかけたのです。ところが、藤原忠輔という人物が「『仁』の字は今の帝の諱にありますから避けるべきではないですか」と言ったものですから、それはなるほどその通りだということで一転「寛弘」が選ばれたのです。時の天皇(一条天皇)の諱は「懐仁(かねひと)」でした。jもっとも、「仁」という字は天皇の諱にはよく用いられるもので、のちの時代には諱と元号の文字が重複することは珍しくなくなっています。例えば「天仁」という元号は鳥羽天皇の時ですが、この天皇の諱は「宗仁」、「仁平」は近衛天皇ですがこの人は「躰仁」でした。
ところで、匡衡が提案したうちの「寛仁」はどうなったかというと、このあとめまぐるしい運命をたどることになるのです。
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- [2019/04/09 00:00]
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改元ネタ
「不謹慎極まりない」と言われそうですが、このたびの改元の話題は、いろんなところで話のネタとして使わせていただこうと思っています。
といっても、直接の出典とされる『万葉集』の解説をするのは私の任ではないと思いますので話題にはしないかもしれませんが、改元という作業についてはいくらかものが言えるかな、と思うのです。
といっても私の場合は平安時代のことで、このたびの改元が政府内でどういう手続きで行われたのか、などということについてはまるで知りませんし、正直に申しますと
興味もない
のです。
私が今、ある短歌結社の雑誌に連載させていただいている『源氏物語』のお話でも普段のお話から切り離して、特別の話題として『源氏物語』の時代にどのようにして改元が行われたか、というお話を書こうと思っています。
また、どうせなら使いまわしをすると効率がいい(笑)ので、一般の方にお話をしている『源氏物語』や『枕草子』の講座でも同じ内容をお話ししようかな、と思っています。
たとえば
「長和」
という、1012年から4年ほどの元号が決まった時のことは改元に関する記録を集めた『改元部類』という書物にその経緯が記されています。案として文章博士が提示したのは「長和」「政和」「太初」の3つで、その中でなぜ「長和」が選ばれたかが書き残されています。
どうもこの3つの案はあまり好評ではなかったらしく、「考え直してこい」と言われそうなものだったようなのですが、そうはいかない事情がありました。
天皇の交代は昔も改元の一番の理由でしたが、慣例として即位の翌年のうちに改元されるのです。ところがこの時は先述の案で議論したのが12月25日。もう後がないのです。考え直していたら年が改まってしまいますからそれはできないのです。
そこで三者を比較して
「ましなもの」
を選ぶことになり、その結果「長和」になったのでした。
「太初」というのは実は古代中国にあった元号で、それを借用するものだったのです(元号の出典というのは文献だけでなく、中国の元号をまねる場合もあり得たことになります)。たまたまこの年と共通点があったのでこれを借りようという案なのですが、どうもその太初年間にはあまりいいことがなかったというので廃案になりました。
「政和」は一見不思議な理由でボツになりました。秦の始皇帝の諱(いみな)が「政」というのです。それで「政」の字を避けるべきだということになったみたいです。また、古代中国でも「政」の字が元号につくのは一回きり(後周の「宣政」のみ)なので、これも不採用の理由になったようです。日本でも「政」の字が元号につくのは江戸時代の「寛政」「文政」「安政」の三つだけで、平安時代には例がありません。
そこで、特に欠点ということがない「長和」が採用されたのですが、ちょっと気になるのはこのときの記録に
「和字不快」
と書かれていることです。「和」の字が元号に用いられたものとしては「長和」以前にも「承和」「仁和」「応和」「安和」「寛和」の例があり、悪い字ではないはずですが問題視されたようです。
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- [2019/04/08 00:00]
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元号の「雲」
元号をネタにした文章を書いていたら、昔の改元のきっかけになった瑞祥のひとつに「雲」があることに行き当たりました。
我々は「あれは水蒸気」と味気ない解釈をしてしまいがちですが、昔の人にとっては何とも不思議なものだったでしょう。白い塊が何しろ空を泳いでいくのですから。
しかもその形は時として芸術的なまでに何かに似ていたりします。筋状のもの、黙々と湧き上がるもの、うろこのようなもの。色も変わります。千変万化の魅力があります。
大宝律令の「大宝」と和同開珎の「和銅」にはさまれた元号に
慶雲
があります。8世紀のごく初めのころです。草壁皇子の子(ということは天武天皇と持統天皇の孫)である文武天皇のころです。縁起の良い雲が現れたというので「慶雲」。文字通りですね。
四字元号の最後になるのは8世紀後半の
神護景雲
で、称徳天皇(聖武天皇と光明子の子。孝謙天皇と同一人物。二度皇位につく、「重祚」をして称徳天皇)のころです。
この「景雲」もまた瑞雲の出現によるものだそうです。
「雲」が元号に用いられたのはこの二度だけ。科学の発達した時代にあってはもう二度とこの字は元号に用いられることはなさそうですね。
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- [2019/04/07 00:00]
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2019年4月文楽公演
本日文楽4月公演が初日を迎えます。
この公演で竹本文字久太夫さんが豊竹藤太夫と改名されます。読み方は「とよたけ とうだゆう」だそうで、ご先祖のお名前に由来することは以前ここにも書きました。今の時代、竹本と名乗るか豊竹かで芸風が変わるということはありませんが、なんとなく豊竹のほうが華やぎがあるような気もします。藤太夫という名には豊竹が映るのではないでしょうか。藤の花の豊満なようすがうかがえるようです。
藤太夫さんは体の大きな方ですが、肩で風を切って歩くような方かと言いますとそうではなく、とても
繊細で礼儀正しく謙虚な
お人柄です。住夫師匠のごひいきのお客様がいらっしゃる時など、よく客席まで出てご挨拶などなさっていました。
私のことなどご存じないと思っていたのですが、あるとき用があって楽屋口にいましたらたまたま出ていらっしゃった当時の文字久さんが大きなお体を折りたたむようにしてご挨拶してくださったことがあってびっくりしました。
この誠実なお人柄ゆえに先輩の方々からも大事にされていらっしゃるようにお見受けしています。
藤太夫さんにますますの輝きが出ますように。
さて、四月公演の演目ですが、まあなんというか、わかりにくい番組です。
第一部が『仮名手本忠臣蔵』の大序から四段目まで。
第二部は『祇園祭礼信仰記』「金閣寺」「爪先鼠」と『近頃河原の達引』「四条河原」「堀川猿回し」
『忠臣蔵』を一度に上演しないのは「時間がない」「太夫がいない」という理由から、ともいわれますが、ほんとうでしょうか? 朝は10時ころから初めて、二段目あたりまでは日替わりで目いっぱい若手を抜擢すれば5月東京の『妹背山婦女庭訓』の通しが実施できるように、不可能ではないと思えてなりません。できないのではなく、「分割通し」なるものが可能なのかを実験することが目的になっているのではないでしょうか。そうとでも割り切らないと、とても観に行く気になれません。いや、割り切っても、あまり行く気にはなれません。かえって忠臣蔵の魅力を失わせることになるのではないか、と危惧しないではいられないのです。
- [2019/04/06 00:00]
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古代の元号
お笑いの坂田利夫さんが「あほ」で売り出していたころ、「あほやない。歴史には詳しい」というために、よく「大化の改新645年、関ヶ原の合戦1600年!」と早口でおっしゃっていました。坂田さんにネタにされるほど有名なのです、大化の改新というのは。
日本の元号の最初はその「大化」でした。
それ以後、元号は使われない時期もあったり、四字になったりすることもありましたが、8世紀の後半からは二字のものが使われ続けています。
元号不要論
は根強いです。確かに、なくてもあまり差支えはないような気がします。時としてむしろ面倒でさえあります。「日付を書いてください」と言われて「西暦と元号とどちらがいいですか」と尋ねたことが何度もありました。グローバル化の時代にふさわしくない、ともいわれます。
その一方で元号が変わるというと日本国中大騒ぎをしていました。どうも簡単に「やめてしまえ」というわけにはいかないようです。
天皇が変わるとその翌年に改元する、というのが古いしきたりでした。「世一元の制」というのは明治以来のものですが、実は昔もそういう時期は結構あったのです。たとえば平安朝を開いた桓武天皇は延暦という元号のみでしたが、次の平城、嵯峨、淳和の各天皇も元号はひとつだけでした。
しかし、それ以外にも、古くは何か祥瑞があると改元するということがあったのです。
「大化」の次の元号は
「白雉(はくち)」
でしたが、これは文字通り白い雉が朝廷に献上されたことによるのです。
大宝律令でおなじみの「大宝」という元号も対馬国から金が献上されたことが理由になったのだそうです。
一番びっくりするのは天平文化で知られる「天平」の由来です。なんでも、甲羅の部分に「天王貴平知百年」と読める文字がある亀が献上されたことによるのだそうです。そんな亀、いるのでしょうか。
ところが10世紀以降になると、むしろ災いがあったときに「げん直し」のように改元が行われるようになり、しょっちゅう元号が変わることもあったのだそうです。
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- [2019/04/05 00:00]
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香りの場面
狂言風オペラ「フィガロの結婚」についていろいろとご感想をいただきました。といっても存じ上げている方ばかりですから、あまりけなしたりはなさいません。あたかも私の書いた本が秀作であったかのような錯覚をするくらいです。実際は「習作」なのですけれどもね。
多くの方が笑いの多さを書いてくださいましたが、一幕の笑いの多くは藤田六郎兵衛さんの加筆と演者の方々のアドリブによるところが大きいのです。大体私が書くと笑いは多くならないのです。
そんな中で、おひとりだけ、
香りの場面
がよかった、とおっしゃってくださいました。
おそらくスザンナ(このたびの作品では「お花」)が奥方に香壜を差し出して、奥方がそれを確かめるという場面のことだと思います。
あそこは原作でいうなら二幕のリボンの話をする件(くだ)り、ケルビーノ(蘭丸)が士官として派遣されることを伝えに来る直前の場面です。今回の芝居では、およそ風流のかけらもない殿さまとのコントラストを示しつつ、高貴な奥方の日常生活を小間使いのスザンナとのやり取りの中から浮かび上がらせたい、という意図がありました。そして、ラストシーンの伏線にすることを考え付いたのはラーヘンデル(ラベンダー)の花ことばのひとつに
「赦し合う愛」
があることを知ったからです。
私は、自分が音楽もセリフもわかりませんので、何となくそれ以外の感覚に訴えるような場面を設けたいという思いも抱いていました。となると「嗅覚」です。その思い付きから前述のようにテーマにかかわるラーヘンデルを探し当てたわけです。
私は音楽の指示は出さなかったのです(たいていの場合はここで何々のアリアを入れるというような指示をト書きで書いていました)が、何か入れてくださったようで、その音楽との兼ね合いもよかったのだそうです。この場面がとてもいいと思った、と書いてくださった方があったのは、本当にうれしかったのです。
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- [2019/04/04 00:00]
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卒業生からの手紙
少し前にこのブログに卒業生からコメントをもらったことがありました。それで喜んでいたら、今度は別の卒業生からの手紙が届きました。
以前ここにも書きましたが、ツイッターで私のつぶやきが大拡散してしまったことがありました。それが彼女のところにも届いたらしく、びっくりして居ても立ってもいられなくなって書いてくれたのだそうです。
学生時代はよくあちこちに行った思い出もあり、卒業論文には文楽人形の衣装を取り上げたので、どうしてもかかわりが深くなった学生でした。文楽劇場の衣装さんのところにもうかがいました。
しかし学生というものは、卒業してしまったら「もう自分は
忘れられた
だろう」と思うものです。彼女もそうだったようで、手紙の中でこまごまと自己紹介をして最後には「もし私が誰だかわからなかったら手紙に書いたことの意味も解らないと思います。そのときはすみません」というようなことも書いてありました。
実際は名前を見た瞬間に、あるいはもっと手っ取り早く文字を見るとすぐに分かったのですけどね。
就職はしたものの、セクハラやパワハラに遭って、こらえきれずに2年余りでやめたこと、その後、本屋やパン屋でバイトをしていたこと、そしてめでたく結婚したこと、結婚後は富山県でしばらく過ごしたこと、あまりにも何もないところだったので引きこもり状態になったこと、今は関西に戻って元気を取り戻したこと、そして
新しい命
を授かったことなどが書かれていました。
ただ、今はつわりでしんどいことが多いらしく、その手紙も横になりながら書いたのだそうです。
ついこの間の卒業生のような錯覚をしたものですから、そろそろ20代後半かな、と思っていたら「30歳になりました」とのことでした。
ひえ~~~っ!
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- [2019/04/03 00:00]
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牛ほめ
落語に「牛ほめ」という演目があります。
ある男が、従兄弟らしい男に「池団のおっさん(おじさん)が普請をしたというのでほめてこい、そうすればおっさん喜んで小遣いをくれる」と言われました。ほめ方まで教えてもらって、さらにおじさんが気にしているという台所の柱の節穴に「秋葉はん(秋葉大権現)のお札を貼ったら穴は隠れるし、火よけ、魔よけにもなる」という知恵までつけてもらえます。「これでも小遣いをくれなかったら牛をほめてこい」と言われ、牛のほめ方として
天角地眼一黒鹿頭耳小歯違
という牛の美点を集めた言葉を教わります。「てんかく・ちがん・いっこく・ろくとう・にしょう・はちごう」すなわち、角(つの)が天を向いて、眼は大地をにらみ、色は黒一色、首が鹿のようで、耳が小さく、歯がたがいちがいになっているということです。
この男、なかなか見事にこの難しい言葉を言うのですが、最後に牛が粗相をして・・というのがこの落語の内容です。
『枕草子』に「牛は」という短い段があります。
ここでは清少納言の言ういい牛の条件が書かれているのです。
牛は、額はいと小さく白みたるが、腹の下、
足、尾の筋などは、やがて白き
なんと、落語に言う「一黒」どころか白っぽいのがいいようです。だいたいこの人は白い色が好きで、この前後には馬と猫についても「白」をチャームポイントとしています。馬については「いと黒きが、ただいささか白きところなどある」。葦毛については「薄紅梅の毛にて髪、尾などいと白き」とも言っています。猫は「上のかぎり黒くて腹いと白き」。
しかし、いずれにしても牛を評価するにも色のみを問題にするところが、それなりの家に生まれ、中宮(皇后)に仕えるという暮らしをした人ならでは、でしょうか。
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- [2019/04/02 00:00]
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広谷鏡子さんの小説
友だち、などというと「あんたみたいな友だちを持った覚えはない」と叱られるかもしれませんが、少なくとも知り合いの(笑)作家、広谷鏡子さんの小説は最初のころはきちんと読もうと思っていました。
『不随の家』『げつようびのこども』『心のかけら』『花狂い』などは刊行されるとすぐに読んでいたように思います。小説以外では、『恋する文楽』もありますが、これはありがたいことにご本人からいただきましたので当然拝読しました。
ところがその後、小説をゆっくり読むということができにくくなって、その間に刊行された作品は
「ああ、読まなきゃなぁ」
と思いながら読めないままに時間が経っていきました。
最近、思い立って私の居住地の図書館に入っている彼女の作品を全部読もうと決心しました。
全部で10冊入っていましたが、改題されたほぼ同じ作品がありますので実際は9冊。そのうち既読のものは別とすると、『六月の海を泳いで』(文庫になるときに『あなたがいてもいなくても』と改題)、『胸いっぱいの愛を』(同じく『ヒットエンドラン』と改題)、『湘南シェアハウス』、『シャッター通りに陽が昇る』の4冊が未読でした。これならすぐに読めそうです。というわけで、ほぼ2週間に1冊のペースで先日無事にすべて読み終えました。これで今度会っても後ろめたさが減ります(笑)。
広谷さんの作品は最初のころはちょっとしんどいところもあったのですが、いつしか力が抜けるというか、作品に味わいが出てきて、
人間を描く
という点ではどんどん深みを増しているように思います。
けっこうドキッとさせられることもあって、それは小説を読む醍醐味でもあります。
作品に登場する人物は、彼女の分身のような人もいますが、そうでない人はやはりモデルになる人がいるのかもしれません。私は幸い(?)そんなに深いお付き合いはありませんし、そもそもおもしろみのない人間ですので大丈夫ですが、モデルにされる人がいたとしたら、その人はどんな気持ちなのでしょう。
文庫化されるときに改題されたのが二冊ありますが、実はそのうちのひとつは改題とは知らずに、両方借りてしまったのです。1ページ目の1行目で気づきました(笑)けどね。
また次の作品を期待しています。
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- [2019/04/01 00:00]
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