文学は退屈
いつも学生から感想や意見を書いてもらうのですが、この間は『源氏物語』の話をしている「文学」という授業で「退屈です」と直球の(笑)感想をもらいました。
たしかに、彼女たちにとっては「高校で嫌になっているのに、また古文を読まされる」という意識が強いのだろうと思います。私は「古文の授業ではない」と言っていますし、事実現代語訳とか文法とかそういうことは一切問題にしていませんしかし、昔の文章を対象にしている時点で学生の立場からすると似たようなものだと思います。なぜこんな古い時代のものを読まなければならないのか、という疑問は抜けないのでしょう。
その学生は「先生はどうしてこういうことを勉強しているのですか」と古典愛好家なんて
理解に苦しむ
というようなことも書いていました。彼女は決して悪意のある嫌味を言っているのではなく、純粋に疑問を感じているのです。そりゃ、私だって高校時代には数学なんて何が面白くて勉強するのだろうと思っていましたから、大差はないのです。
学生の中には「高校でも古文なんてやめて英語をする方が役に立つ」と言っていた人もいました。
こうなると私は
かなり劣勢
です。しかし、そこをいかにうまく話して、文学というものがなぜ廃れることなく愛され続けているのかを伝えなければ、私の仕事としては失敗になります。
「役に立つ」という言葉は実はたいへんな詭弁で、そもそも勉強なんて役に立つからするものではなく、そこに山があるから登るわけです。私は高校を卒業してからベクトルだとか三角関数だとか、あるいは数列だとか積分だとか、そんなものは一切私の人生には出てきませんでした。英語は役に立つと言いますが、高校時代に学んだ英語はあまり役立っていません。私は時々文楽に外国の方をお連れしましたので、まだいくらかは使うことはありましたが、一般の方であればほとんど英語なんて使いません。生物も化学も物理も何も「役に立つ」ことはありません。それでも勉強するのです。疑問があって、それを追究すること自体に意味があるのだと思います。
看護師になる学生は「医学は役に立つ」と思って勉強していて、それはもちろん結構なことなのですが、それだけが学問ではないことをどういえば伝わるか、それを考えることもまた私の勉強の課題でもあります。
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- [2019/05/31 00:00]
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父と息子
『源氏物語』の幻の巻は光源氏が愛妻の紫の上を亡くした翌年の、悲しみに満ちた一年を描いています。その中で光源氏が息子の夕霧と話をする場面があります。
夕霧は「亡き紫の上がお子様を残されなかったのが残念です」というと、光源氏は「彼女だけではなく、ほかの女性方も子どもを多くは生んでいない。それは私の宿命なのだろうか。しかしあなた(夕霧)は子どもがたくさんいるのだから、あなたがこの家を繁栄させてくれるだろう」と言うのです。
この部分を読んでいて、私は父親の息子に対する
敗北感
を感じ取ってしまいます。ある年齢に達した時、自分はそろそろ終わりだと思った父親は、息子が若々しく元気に日々を送っているのをうらやましく、あるいはまぶしく見ているのではないでしょうか。息子は自分は父親を超えたなどと思っていないのに、父親が一方的に自分の負けだと感じることがあるのではないのでしょうか。光源氏は子どもが少なく、一方夕霧は子だくさんです。それだけのことなのに、何か自分が負けたように感じる心理はないでしょうか。
『伊賀越道中双六』「沼津」では雲助の平作が偶然わが子の十兵衛と出会います。十兵衛は若くて立派な青年に成長していました。わが子を
「旦那様」
と呼んで荷物を持たせてもらおうとする平作はなんともみじめに見えてしまいます。そして、実の親子であることと敵同士の立場にいることが分かり、平作はどうか敵の居場所を教えてほしいと願います。十兵衛は、今はの際の平作に敵の沢井又五郎の落ち着く先を教えます。この時の十兵衛は愛する父親に対して敬意こそ払うものの、侮蔑するような気持ちは持っていないはずです。一方の平作はみすぼらしいなりの自分を顧みて、立派になった息子がまぶしく、あるいは彼も敗北感を覚えたのではないかと感じてしまいます。
父と息子の関係は私にとってとても関心のあるテーマで、これまでに創作浄瑠璃でも書いてきました。
『源氏物語』を読んで、ヒントをもらったような気がしてなりません。
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- [2019/05/30 00:00]
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だしまきの代わりに?
昨日、長らくメンバーに入れていただいていた「だしまきの夕べ」とひとまずお別れします、ということを書きました。
では、今後文楽に行ったときはいつもまっすぐ帰るのか、というと、それもなんだか寂しいような気がします。
一昨日、昨日も書きましたように、私は劇場に行く回数が激減し、行くのはたいてい平日ですので、皆様とお目にかかる機会が少なくなるのはやむを得ないと思っています。しかし、たまたまその平日にお会いするようなことがあったら、どこかへ行きたいな、と思わないでもありません。やはり芝居のあとの
もうひとつの娯楽
には未練が残ります。厚かましい話ですが、そんなことができたらうれしいです。
六月の鑑賞教室には多分参りません。次にお目にかかれるとしたら
夏休み公演
の、七月の終わりあたりになるかもしれません。
安いお店で(笑)またお目にかかれればと存じます。
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- [2019/05/29 00:00]
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ありがとう、だしまきの夕べ
かなり前から考えていたことなのですが、やっと踏ん切りがついたのでお礼とご挨拶を申し上げます。
文楽ファンの方々が集まる会として、日本橋国立文楽劇場そばにあった
両輪 (りょうわ)
という季節料理の店で数人の方々とだしまきの夕べをスタートさせました。
2009年4月18日(土)でしたから、あっという間の10年だったのです。
当初は「だしまきの夕べ」とはいっていなかったのですが、以前このブログにも来てくださっていた「えるさん」が名付け親となって定着したのでした。
以後、大阪国立文楽劇場の公演のあるたびに集まり、最も近い4月の集まりが第45回でした。
両輪さんがなくなって会場を移したものの、無事に
10周年
を迎えたことになります。参加してくださった方、ほんとうにありがとうございました。
何の役にも立たない私は、いつも隅っこでいじけながら(笑)だしまきをいただいていましたが、全体としては話に花が咲いて楽しい会になりました。ゲストとして技芸員さんにもおいでいただき、表の話やら裏の話やら、いろいろうかがいました。
今さらの言い訳なのですが、私はこの会の行われる土曜日があまり都合がよくなくて、さらに体調の悪いことが多く、皆さんとご一緒したらご迷惑をおかけするだけ、ということで欠席がちになり、最後に行ったのは2017年11月の第38回。そのころから、名前だけメンバーに入れていただいていることに後ろめたさを感じていました。
そこで、この春10周年になったのを機に、きっちりと
メンバーから外していただく
ことにしました。
本当は四月の会に行ってご挨拶すべきでしたが、この日もまた体調が整わず、ダメでした。このままズルズルと時間ばかりが経つのはよくないと思い、このブログの場で退会のご挨拶をいたします。
実はその旨をやたけたの熊さんにお伝えしたところ、熊さんから思いがけないことを言われました。「今、あることの勉強を始めていて、いろいろなことを我慢しながらその勉強に集中している。それで、だしまきの夕べからも離れようと思っていたところだった」とのことでした。
というわけで、熊さんと私はまったく別の事情で10年間楽しませていただいたグループから去ることにいたします。といっても、文楽と縁がなくなったわけではありませんし、また土日以外の日に劇場に行っていると思いますので、お会いすることもあるかもしれません。その時はまたお話しさせていただければと思っております。
だしまきのメンバーのみなさんには感謝以外の言葉が見当たりません。ほんとうにありがとうございました。
この記事は、ツイッターに流します。
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- [2019/05/28 00:00]
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文楽とご無沙汰?
このブログのタイトルには「文楽」という言葉を入れています。
実際、書き始めた当初はほとんどが文楽がらみの記事でした。
あの当時は大阪公演の時は週に3日くらい劇場に行くこともあり、また
ゆかりの地
を歩いたりすることも多かったので、いくらでもネタがあったのでした。
仕事場では文楽人形を使った授業を実施していましたし、学生さんにお願いしてあちこちの催しに出かけることもありました。さらには、まだ
「上方芸能」
に文楽関係の文章を書かせてもらっていましたので、文楽こそが日常生活の中心にあったという感じさえしていました。
ところがその後はすっかりそういうことがなくなり、以前のタイトルに「王朝」という言葉を入れて、私の本来の仕事である平安時代の事をしばしば書くようになったのです。
またふところ具合と体調を考えると文楽に行く機会も減り、一番通った時期と比べると8割減くらいになったのではないかと思います。
楽屋に行くこともなくなり、こんな様子を見てきたということも書けません。
これはこれでいいかな、と思わないでもないのですが、もう少し文楽との付き合いを復活させたいと思う昨今です。
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- [2019/05/27 00:00]
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メールを見ない
以前は、朝パソコンのスイッチを入れたら何をおいても一番にメールチェックをしていました。連絡事項も多く、いろんな方から情報が入ってきましたので、チェックしないととんでもないことになりかねなかったのです。
しかし、今や仕事場では窓際族で(笑)、連絡事項がめっきり減りました。おまけに私がこの数年かつて経験のないほど忙しくて、朝はまずその日にすることの最終確認をすることから始めるようになりましたので、ついついメールチェックを忘れてしまうのです。それで困ることが増えるとやはり頻繁にチェックするようになったと思うのですが、2,3日見ないくらいならほとんど
さほど影響もなかった
ことに気づきました(笑)。
さあ、ここからがいけません。ずるずるとメールを見ない日が続き、最近では週に1度見るか見ないか、というありさまです。さすがにそうなると時として事務方から「連絡しているのだからきちんと読め」と苦情が来ることがあり、なかなか微妙なところです。この間は「この書類を出さないと
研究用のお金
をやらないぞ」と言われ、これは一大事とそそくさと書類を書いて出してきました。
正直なところ、メールを見ない方が楽ではあるのですが、仕事に支障が出るのでは問題です。
これからもできるだけ週に2回くらいは見るように努力します。
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- [2019/05/26 00:00]
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喉は痛くない
私は、障害のために、つい大きな声を張り上げてしまいます。
特に、話が調子にのってくると我知らずに声のボリュームが上がります。
今、100人余り入る部屋でもちろんマイクなしで喋っていますが、学生はよく聞こえるみたいです。この間は「マイク、使ってませんよね」とまで言われました。
離れた教室で授業していた同僚からも
「声が聞こえた」
と言われたことがあります。
自分ではまったくわからないので、うるさくて迷惑をかけているだろう、と申し訳なく思っています。
そして、先日学生から「あれだけの声を出したら喉が痛くなりませんか?」と聞かれました。
そこまで大きな声を出してるかな、と我ながらびっくりしたのです。
以前は夏休み明けなど、しばらく声を出していなかった最初の授業などでのどがいがらっぽくなることが確かにありました。しかしそのころは今よりはるかに少ない人数の学生を相手にしていたのです。
なぜこういうことが起こるのか不思議でさえあるのですが、今はまったくのどが痛いという感覚があなく、また声が嗄れるということもありません。その理由をいろいろ考えたのですが、たぶん、ある程度
声の出しかた
ができてきたのだろうと思うのです。要するに、のどを酷使して声を出すのでなく、腹から突き上げるような出し方。体力は使いますので、授業のあとはくたびれますが、のどはまったく異常を感じません。
ひょっとすると文楽の太夫さんの域に近づいてきたかもしれません(笑)。
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- [2019/05/25 00:00]
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お着物でどうぞ
私は着物を持っていません。浴衣もありません。着物の着かたなんて知らないのです。帯をどうやって結べばいいのか、ということすら知りません。でも、憧れがあります。着物姿で文楽に行ったりするなんて、ほんとうにやってみたいです。文楽の技芸員さんは研修の時に着物のたたみ方や肩衣、袴の使い方などをきちんと習われますが、私も技芸員にはならなくても、そのときだけ習いに行きたいくらいです。
Facebookの友だち
の方々には着物をお召しになる方がとても多いのです。男女を問わず、着物姿の写真をよく載せていらっしゃいます。皆さんとてもすてきなのです。
ふと気づいたのですが、そういえば私は洋服もあまり持っていません(笑)。今、スーツなんてあったかな? 礼服はあったはずなのですが、はたしてサイズが合うかどうかはなはだ疑問です。なにしろ30代の時のものですから。
この間、学生がこんなことを言っていました。「皇族の人が一般参賀などで姿を見せる時、なぜ着物を着ないのですか」と。たしかに、ああいうときは、男性方はいかにも高級そうなスーツで、女性方は帽子をかぶったりしてこれまたどこのブランドなのか、高級な洋装のようです。
若い方は
振袖
などをお召しになってはいかがなものでしょうか。
ご年配の方は訪問着というのでしょうか、いいものをお持ちのはずですから、そういう姿でお出ましになると、おそらく洋装よりはるかに話題になると思います。
昔の大学教授は着物姿で講義をされる方もありました。あれ、かっこいいです。私も一度そういうスタイルで「ごきげんよう」とか言って授業をしてみたいものです。
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- [2019/05/24 00:00]
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文学は退屈
いつも学生から感想や意見を書いてもらうのですが、この間は『源氏物語』の話をしている「文学」という授業で「退屈です」と直球の(笑)感想をもらいました。
たしかに、彼女たちにとっては「高校で嫌になっているのに、また古文を読まされる」という意識が強いのだろうと思います。私は「古文の授業ではない」と言っていますし、事実現代語訳とか文法とかそういうことは一切問題にしていません。しかし、昔の文章を対象にしている時点で学生の立場からすると似たようなものだと思います。なぜこんな古い時代のものを読まなければならないのか、という疑問は抜けないのでしょう。
その学生は「先生はどうしてこういうことを勉強しているのですか」と古典愛好家なんて
理解に苦しむ
というようなことも書いていました。「能なんて、あるいは文楽も含む伝統芸能なんて、どこがおもしろいのかわからない」という人もいますが、同じ気持ちなのでしょう。好きでもない人にとってはかび臭い骨董品をありがたがる変人のように見えてしまうのでしょう。
学生の中には「高校でも古文なんてやめて英語をする方が役に立つ」と言っていた人もいました。
しかし、こういう人たちにこそ話のしがいがあると思うのです。おもしろいわけがないという人たちに、いかにうまく話をして、文学というものがなぜ廃れることなく
愛され続けている
のかを伝えなければ、私の仕事としては失敗になります。
学生時代に、あれほど嫌いだった数学の授業を教養科目で受講して、「数学ってやはり面白い」と感じたことがあります。周りの受講者は単位さえ取れればそれでいいと言っていましたが、私はまったくそうではなくて、初めて数学を面白いものとして一生懸命勉強しました。試験はほとんどできましたので、成績も最高のものでした。数学でいい成績をとるなんて、中学校以来で、何とも言えない満ち足りた気持ちになり、もうちょっと勉強してもいいな、とまで思ったものでした。
あのときの数学の先生はそういう意味でたいしたものでした。
私はまたまた猛然とやる気を出しています。
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- [2019/05/23 00:00]
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救助袋
先日、私の仕事をしているフロア(8階)で小火(ぼや)騒ぎがあったらしいのです。焦げ臭いような異臭があって、火がどれだけ出たのかは知りませんが、燃えやすいものが近くにあった場合は危険でしょうね。電気系統なのか、誰かの怨念によるものなのか(恐ろしい)はわかりませんが、初めてきいたできごとでした。
とはいうものの、私がそれを知ったのは、出来事があってから何日もしてからなのです。つまりその日は騒ぎになったのかどうかすら分かっていませんでした。こういうのは大変怖いです。
私はホテルに独りで泊まるのも怖いので、それも出不精になっている大きな理由なのです。みなさんがひととおり逃げおおせたところで火の手が回り、私一人が
なんだか今日は暑いなあ
なんてのんびりしていたらドアから煙が入ってきたなんてことになりかねません。
しかしそういうことはありえないことはないのです。
幸いなことに、私のいる部屋は、たまたま窓の外に救助袋というのが設置されています。これはおおきな箱状のもので、なかに長い袋が入っていて、非常の際はその布袋を外に投げ、それが地上に着いたことを確認したら袋の中に飛び込んで降りるのです。
垂直型
のものですので、なんだか怖いです。しかもこれ、けっこう古そうなんですが、途中で「びりっ」と破れるなんてことはないかな、とそんな心配もしています。万一のために、先日窓を開けて使用方法だけはチェックしておきました。人を頼ることはできませんので、自分の命は自分で守らねばなりません。
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- [2019/05/22 00:00]
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代役、豊竹希太夫
文楽東京公演で『妹背山婦女庭訓』の通しが出ています。なんでも、初日から三日間、豊竹呂太夫さんが珍しく休演なさったそうで、この三日だけはお弟子さんの豊竹希太夫さんが代役を務められたのだとか。
場は「金殿」。これは大変な場です。この十年ばかりの記録を見ると、嶋師、咲師、津駒さんらの持ち場で、咲さん休演の時に英(呂)さん、咲甫(織)さんらが代役を務めています。
鱶七(金輪五郎)の豪快さ、お三輪のあわれなど変化に富んで、聴きどころ見どころのある場ですから、相当な力量が要求されるところでしょう。
さて、その場をいきなり語れと言われた
希さんの心中
はどんなものだったでしょうか。
代役は、本来の太夫と同等の力量の人が語ることもあれば、弟子などかなり下の人が語ることもあります。咲太夫さんの代役に咲甫さんが立てられたのはやはり弟子筋ということになるでしょう。これまでにも越路師の代わりに嶋師、住師のかわりに文字久(藤)さんなどの例があったことを思い出します。
以前、十代目若太夫師のことを調べていた時に、若太夫、当時の七代嶋太夫が竹本源太夫師(九代源太夫の祖父)の代役で「殿中刃傷」を語って評価された話を読んだことがあります。時に二十九歳だったそうです。こういう話は昔の芸談などにしばしばみられるもので、代役はステップアップのきっかけにもなるのでとてもいい経験になるようです。
その一方、あまりにも分不相応な重荷になるともいえますから、その点では苦痛も半端なものではないでしょう。
分不相応というのではありませんが、タイプの違う代役をしたことが命を縮めたのではないかと言われるのが
三代目竹本春子太夫師
の例です。昭和四十四年二月、国立劇場でのことですが、八代目竹本綱太夫師の代役で春子師は『妹背山』「山の段」の大判事を語ることになって、連日のように二代目野澤喜左衛門師からダメ出しが出たため相当苦労なさったとのことでした。そしてその次の大阪朝日坐の公演で春子太夫師は心筋梗塞を起こされて、再起されることなく亡くなったのでした。
また、英太夫時代の今の呂太夫さんが九代目源太夫師の代役で『源平布引瀧』「実盛物語」を語られたときは源師の襲名披露公演でありながら、当の源師が手術後のために出演しないという事態になり、英太夫さんは「ずっと重い荷物を持っているようなしんどさ」があったと語ってくださいました。
さて、このたびの公演は通しですから、上の人たちはそれぞれに大きな場を持っています。呂太夫さんの代役にふさわしい人となると(少し後輩の人が代わることも多いので)千歳さんや呂勢さんもいらっしゃいますが、「山の段」で死力を尽くしていらっしゃるだけに無理をいうわけにはいかないでしょう。
というわけで希太夫さんです。なんだかんだと言っても希さんももう15年選手で、40歳を過ぎられました。「金殿」は希さんのニンとは違うようにも感じますが、呂太夫さんの一番弟子としては言われたら引き受けないわけにはいかないでしょう。三日間だけの代役であったとはいえ、相当のプレッシャーだったこととお察しします。あまりにも役が重すぎて、つぶされそうになったかもしれません。評判も上々というわけにはいかなかったように漏れ聞いています。
しかし、この体験は生涯忘れることのないものになるはずで、希さんがひと回り大きな太夫になることができるなら、その日に不満を持たれたお客様がいらしても赦してあげてほしいと願わないではいられません。そして、希さんはけっして落ち込んだりしないで、ますます精進なさってご自身のニンに合った語りの道に進んでいただきたいと思うのです。お疲れさまでした。
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- [2019/05/21 00:00]
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季節の変わり目
五月の2週目に冷える朝があって、またその前夜、うっかり窓を閉め忘れてしまったため、風邪をひいてしまいました。仕事でしゃべっていると、「なんだか変だな」「からだがふらつくな」というありさまで、その日帰宅して熱を測ると38度近くありました。たまたま病院に行く予定がありましたので、調べてもらったら
「単なる感冒
です」とのことでした。私はあまり風邪薬を飲まないのですが、この時は鼻の症状があまりに不快でしたので「PL」という、元気になったら野球でもできそうな名前の総合感冒薬を処方してもらいました。もっとも、厳密にいうと「PL」(塩野義製薬)ではなく、それより一包につき0.2円(!)安いというジェネリックの薬でした。
風邪の症状は割合によくなったのですが、私の場合は持病への影響が出るので困ります。呼吸器がかなり苦しくなって、五月半ばはこのブログもほぼ見ていませんでした。毎日更新されているのは、連休に書き溜めたものが勝手にアップされているからです。
SNS
にもほとんど行かず、失礼をしておりました。
何とか先週末あたりからよくなりましたので、またあちこちに何か書いていると思います。
今年は暑くなるのがやや遅めで、そのために桜が長持ちしたりしましたが、その関係もあってやや季節の変わり目の過ごし方が難しかったようです。
これから七月いっぱいまではノンストップですので、少しでも休める時間は休んでうまく乗り切りたいと思っています。皆様もどうぞお大事に。
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- [2019/05/20 00:00]
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ほころびた古語辞典
私は岩波書店の古語辞典を5冊持っています。家の勉強机の左右に1冊ずつ。仕事場のデスクの背後と右手すぐのところといつでも授業に持ち出せる棚に1冊ずつ置いています。このうち自腹で買ったのは1冊だけです(笑)。あとは書店から「(岩波は買取なので)古くなってもう置いておけないから廃棄するけどいらないか」と言われてもらったものや、かつて国文科に勤めていた時に学生が捨てて行った(もったいない!)ものです。赤くて堅めの表紙の旧版と濃緑色の柔らかな表紙の補訂版がありますが、私が持っているのは旧版を2冊、補訂版を3冊です。旧版は何と昭和49年12月初版のもので、刊行されたときにすぐ1,900円もはたいて買ったことを覚えています。数えてみると、もう
40年以上
前ではありませんか! 補訂版は平成2年2月で、これもまもなく30年になろうとしています。
そんな長い年月が経つと、中味に問題点が次々に出てきて価値が薄れそうなのに、私は今なおこの辞書を愛用し、頼っています。
内容の充実度や正確さが素晴らしいうえに、言葉の説明がおもしろく、読んでいて飽きません。
私は小学校時代から国語辞典が愛読書だったのですが、この辞書を手に入れてからは
愛読書は古語辞典
になりました。
いかんせん、中味は古びずとも、物理的には骨董品になってきました。分厚い辞書ですから、いかに堅牢な製本をしようともいつしかほころびが出てきます。特に私は扱いが荒っぽいので、劣化が激しいのだろうと思います。
そして先日、ついに自腹で買った旧版のものの表紙が完全に取れてしまいました。長い間勉強を助けてくれた畏友のようなものですから、かわいそうにすらなってきました。
もちろんその辞書は捨てたりすることはなく、また補強して活用させてもらっています。もうこれ以上辞書を買うつもりはなく、最後までこの5冊を大切にしていくつもりです。
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- [2019/05/19 00:00]
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利息
貧しいとはいえ、私も銀行にはお金を置いています。
私、「預けている」とは言わないのです。なんだか、こちらがお願いして預かってもらっているような気がするからです。そうではなく、銀行にはお金を「貸している」のだと思っています。だから利息を付けるのは当たり前です。私がお金を入れないと銀行は経営できないのですから(いや、あの、まあ、そんなに多額に入れているわけではありませんが・・・)。
昔は何かというと印鑑と
通帳
というものが必要でしたが、今はWebで処理できるので、私は普段はあまり通帳を使いません。銀行によってはすでに通帳を使わない登録をしてしまったところもあります。それでも今なお何冊かが手元にあります。
子どもの授業料などのために銀行を指定されることがあったため、口座をあちこちに作る羽目になり、先日調べたら4つの銀行の通帳が出てきたのです。一つ一つの額は微々たるものなので、解約して整理しようと思っているのですが、とりあえず今いくらくらい残高があるのかを調べようと思い、通帳を持って銀行のATMをはしごしました。
A銀行では丸2年記帳していませんでした、B銀行では4年。C銀行は6年、D銀行に至っては17年! 少し色あせた通帳を機械に入れてからそれが出てくるまで長い時間がかかりました。
長らく放置していた口座の場合、お金の出し入れをしていないので、記帳されるのは利息のみ。そのうち、B銀行のものを見てみると、利息が半年で
1円
でした。なんだかむなしくなってきました(笑)。これで休日にATMでお金を引き出そうものなら手数料が108円か216円か取られるのですよね(そんなもったいないこと、したことがありませんのでよく知らないのですが)。自分のお金を返してもらうのに、なぜこちらが手数料を払分ければならないのかさっぱりわかりません。
銀行にお金を「預けた」ものの手数料を取られて損をした人の話を新作落語にできないかぁと以前から思っているのですが、今回の記帳で利息の数字を見て本気で作ろうかと思うようになりました。
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- [2019/05/18 00:00]
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問いかけ上手
教員と言うのはやはり話のうまい人がいいのです。といっても、面白おかしいだけではダメで、中味のある、説得力のある話ができるかどうかが大切で、そのためには勉強もしっかりしないとまずいのです。
中味がないうえに話が下手ではなかなか学生に聴いてもらえません。特に私のような、専門科目と関係ない話をする者は、授業など無視して内職か居眠りを決めこまれる可能性が高いのです。それでもかまわない、という姿勢の人も実際のところは少なくありません。学生の顔を見ずにしゃべるだけで、学生は学生で何も聴かずに内職三昧、という授業風景を、廊下を歩いていたりすると見かけることもあるのです。話を聴かない方が悪い、とはっきり言う教員もいます。かと思うと、ぼんやりしている学生に向かって
「単位、出さないぞ」
と脅かす教員もいるのです。でも、こういう言い方をされると、学生はまず間違いなく反発します。以前ある学生が「こんなことを言われて困っている」と相談に来たこともありました。昔のインテリだらけの大学ならともかく、大衆化した大学において、こういうのはやはりあまり賢明な物言いだとは思いません。
とえらそうなことを言いましたが、それなら私は話し上手で学生に受ける授業をしてきたのかというと、それはまったく違います。
ただ、私の場合、耳の病気をしてから、考えることがありました。話はもともと上手ではないし、ある程度才能も必要なので、それ以外に何か工夫するところはないだろうか、と思ったのです。
学生にはあまりものを覚えさせることは強要しない(覚えたければ覚えてもらえばいいのですが)、試験もしない、ただ考えさせることだけをしよう、というのが今の私のやり方なのです。
そのために私は
問いかけ上手
になろうと決めました。
ですから私は授業中に「これ、どう思いますか?」としょっちゅう言っています。そして思ったことを書いてもらって必ず丁寧に読んで、次の時間にコメントすることにしているのです。
専門科目、特に資格にかかわる科目などではそんな悠長なことはできないでしょうが、教養科目の場合はどこまで話さねばならないということはありませんから、ペースは遅くなっても問題ないと思っています。
ただ、受講学生が多いので、彼女たちの意見を読むのに膨大な時間がかかるのがネックなのですが・・・。
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- [2019/05/17 00:00]
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添削
3年前に私の授業に出ていた学生さんからメールが来ました。
お名前はよく覚えていますが、お顔まではわかりません。そういう人から連絡をもらうのはとてもうれしいことです。
要件は何だったかというと、就職活動の相談でした。彼女は看護師になるのですが、某有名病院を希望しているとのことです。その病院では就職を希望する人に対して小論文を書かせるのだそうです。
看護師にとって大切なもの、という内容で、彼女もさっそく書いたのですが、どうしても自信がなく、
アドバイス
を求めたいと思うようになったらしいのです。そんなときに私を思い出してくれたのだそうで、またまたうれしい気持ちになりました。
さっそく彼女の書いたものをメールに添付して送ってもらい、すぐにチェックを始めました。
就職目当ての小論文にありがちな歯の浮くような、あるいはお題目を唱えるような内容ではなく、自分の体験を基にした、なかなか立派な文章で感心しました。しかし、文章というものは概して他人にとってはわかりにくいものになりがちです。私もいつもその点には気をつけてこのブログを書いているのですが、アップされたものを読んでみると「ひどいなぁ」と思うことがしばしばです。これは謙遜でも何でもありません。それほどに書いているときには気づかないものなのです。彼女の文章にも若干そういうところがありました。
さて、どこまでアドバイスしようかなと思ったのですが、単なる文章の練習ではなく彼女の一生にもかかわりかねないことなので、細かいことまで
厳しくチェック
することにしました。彼女は気分を害することなく受け入れてくれて、訂正したものを病院に送るようです。
もちろん小論文だけで採用が決まるわけでなく、面接もあるのでしょうから、あとは彼女の度胸と誠実さに任せるほかはありません。
大きな仕事はできないのですが、こういうことをこつこつと実践することが私の教員としてのアイデンティティかもしれません。
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- [2019/05/16 00:00]
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お菓子作り(2)
まったく別の授業で「皆さんは料理上手な人を『女子力が高い』というのですか?」と聞いてみました。少し前ならやはり「料理=女子力」という人も少なくなかったのですが、ここ数年は「料理ができるのは男性も女性も関係ない、それはむしろ生活に必要だからするのであって、人間力というべきだ」という意味の答えをする人が多くなっています。また、「料理のできる男性はすてきだ」という人も多く、ゴキブリ亭主なんて、もはや死語になっているようです。そういえば、先日「私が結婚したい男性の職業」というのを教えてくれた学生がいまして、彼女の場合は第三位に
「料理人」
が入っていました。
私もクックパッドとか楽天レシピとかそんなのを見ながらしばしば料理をしますが、いつまでたっても上達しません。そんなことも私は授業中にしゃべっています。世の高尚な大学教員がそんな授業をご覧になったら、「ふざけている」と思われるのかもしれませんが、私はけっこうまじめにそういう話をしているのです。
すると、ある学生が「先生、料理もいいけどお菓子作りをしたらどうですか」と提案してくれました。「いやぁ、私の作ったお菓子なんて食べられないと思いますよ」と言ったら「一度作って持ってきてください。私食べますよ」と話がエスカレートしていきました(これ、休憩時間の雑談じゃないんですよ、授業中です)。
そのあとさらに私が「それでは
ハロウィン
を目指してお菓子作りの稽古を始めようかな、その時みなさんに食べてもらいましょう」と言ったらけっこうウケました(笑)。
でも、学生さん、どうか期待しないでください。
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- [2019/05/15 00:00]
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お菓子作り(1)
平安時代の『枕草子』の中に、「和歌・音楽・書道」に秀でている女性のことが書かれています。この人は父親からこの三つの道を究めるように言われ、『古今和歌集』の歌はことごとく暗誦していて、楽器もできて字もうまいという人だったようです。あるとき、彼女の夫にあたる天皇(村上天皇)が「テストしてやろう」と思いついて、彼女に「いつどういうときに誰それが詠んだ歌は何か」と『古今和歌集』の歌を次々に言わせたら、彼女はすらすらと答えたというのです。
近頃の学生さんは、和歌となるとさすがに無縁ですが、詩の一つくらい書いたことのある人も多く、音楽に関しては楽器ができるとか、カラオケで歌声を磨いている人という人も少なくありません。ところが、失礼ながら文字に関してはさっぱりダメ、という人が多いようです。中には驚くほどきれいな字を書く人もいますが、たいていの人はかなりひどく(笑)、本人もそれは自覚しているのです。私は一般の方向けに講座もしていますが、こちらに参加される方の字は目が覚めるほど美しいものが多く、単に年の功というだけでなく、お若い頃から意識してこられたのだろうと思います。
それに対して学生は、「丸文字で小さく」書くのが
カワイイ
というので、中学生あたりから一生懸命そういう「書道」をしてきたようです。それだけに、今になって年齢相応に大人っぽい字を書きたいという気持ちが高まってくるらしく「どうすればいいでしょうか」といわれることもあります。私はそういう時、まず「自分の名前を丁寧に書けるように練習する」「一回り大きめの字でひら仮名を練習する」というのを試すように言っています。特に名前は将来結婚式などに出席した場合、書かされることが多く、案外必要に迫られることもありますから。毛筆と言うとハードルは高いですが、せめて筆ペンで書けるようにするといいと思います。
先日、その『枕草子』の話をしたところ、「平安時代のお姫様は、『字は下手でも
お菓子作りはできます』
というのは女性の魅力としてどうだったのですか」と質問されました。質問した彼女も字には自信がないらしく、わが身に重ねての質問だったようです。残念ながら、お姫様たる人はみずからお菓子作りなどしないですし、今のようなケーキもチョコもないですから、あまり意味はなかったかもね、と答えざるを得ませんでした。当時のお菓子と言えば米や麦の粉に甘蔓(あまづら。蔓の汁を煮詰めて作った当時の甘味料)を混ぜてこねたものを油で揚げたものがありましたが、お姫様がそんな手の汚れるようなことはしなかったでしょう。
学生さん、がっかりです。でもね、今の学生さんはお菓子作りができるのは自慢していいと思いますよ、とフォローしておきました。
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- [2019/05/14 00:00]
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ひとり旅の完結
服部から梅田まで出て、阪神に乗り換え、甲子園へ。この日は午後に野球があったのですが、10時ごろでしたのでさすがにまだ閑散としていました。
甲子園球場に来るのはもう10年以上前に高校野球を(無料だった外野席で)30分くらい覗いて以来です。
ここでは甲子園一帯の歴史(と言ってもまだ浅い歴史ですが)に関するものを求めてあたりをうろつきました。一番目立つのはやはり素戔嗚神社です。球場に隣接していますので、阪神タイガーズのファンの人もよく訪れるところです。古い玉垣がありますが、おそらく大正十三年(1924)に置かれたものだと思われます。この年の干支は
甲子(きのえ ね)
で、甲子の年に開発された町だから甲子園となったのでした。球場も同じ年にニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)の本拠を参考にして半年足らずで造られたそうですが、当時は「甲子園大運動場」といいました。球場をぐるりと一回りすると、「野球の塔」などもあり、ここはベースボールの聖地にふさわしい場所だと思いました。
こうして、ひとしきり資料になりそうなものを写真に収めて、とうとうゴールデンウィークのひとり旅は完結しました。
私は毎年、この時期は家でひっそりとしているのです。外に出ても人出が多いばかりでかえって面白くないだろうと思っていたからです。
ところが、今年は何を思ったのか(自分でもよくわかりません)外に出てみようと考えたのでした。これまで書いてきましたように、電車と徒歩のみで移動しましたので、歩いた距離を推算しておきます。( )内の数字は距離(単位km)。
4月30日 大阪西天満老松ビル【1日計4.0㎞】
自宅~最寄り駅往復(1.0)
梅田~西天満のギャラリー往復(3.0)
5月1日 尼崎貴布禰神社・開明中公園【1日計3.0㎞】
自宅~最寄り駅往復(1.0)
阪神出屋敷~貴布禰神社~開明中公園~阪神尼崎(2.0)
5月2日 京都国立博物館・京都府文化博物館【1日計9.5㎞】
自宅~最寄り駅往復(1.0)
阪急河原町~建仁寺~六波羅蜜寺~博物館及び博物館内(3.5)
国立博物館~枳殻邸~文化博物館及び博物館内(4.2)
文化博物館~阪急河原町(0.8)
5月3日 布引の滝・倚松庵・桜政宗記念館【1日計7.4㎞】
自宅~最寄り駅往復(1.0)
阪急三宮~加納町交差点~新神戸駅~布引雌滝(2.2)
布引雌滝~北野通~北野坂~阪神三宮(2.7)
阪神魚崎~倚松庵~桜政宗記念館~阪神魚崎(1.5)
5月4日 長岡天満宮・勝龍寺城跡【1日計6.7㎞】
自宅~最寄り駅往復(1.0)
阪急長岡天神~長岡天満宮及び境内~勝龍寺城跡(3.5)
勝龍寺城跡~西国街道~阪急西山天王山(2.2)
5月5日 中山寺・服部天神宮・素戔嗚神社【1日計3.4㎞】
自宅~最寄り駅往復(1.0)
阪急中山観音~中山寺境内散策~阪急中山観音(0.7)
阪急服部天神~服部天神宮及び境内~阪急服部天神(0.5)
阪神甲子園~甲子園球場付近散策~阪神甲子園(1.2)
実際は電車の乗り換えなどもありますし、道を間違えたりもしています(笑)ので右往左往しており、もう少し長い距離になるでしょうが、おおむねこんなところです。
これを合計しますと、総距離は
34.0km
でした。フルマラソンを目指したのですが(笑)、さすがにそこまではいきませんでした。それでもまずまずよく歩いたと思います。
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- [2019/05/13 00:00]
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服部の天神さん
5月5日の「子どもの日」は、私にとっては連休最終日でした。8連休でしたが、そのうち最初の2日はあまり元気がなく、3日目から少しいい感じになりましたので地元の電車に乗ってはできるだけ歩くというのを日課にしたのでした。
子どもの日は、しかし翌日からの仕事のためにあまり無理をしないことにして、「駅からすぐのところにある社寺のみを少しだけ」と決めました。最初に宝塚市の中山寺。寺伝では「聖徳太子の創建になる最古の観音霊場」とされます。
本尊は
十一面観音
で、安産祈願で知られます。孝明天皇の典侍(てんじ。ないしのすけ)であった中山慶子(一位局)はこの寺で安産祈願をして天皇の子である祐宮を生み、この子は後に明治天皇になりました。まだ側室があたりまえの頃でした。
朝早かったので参詣の人はおらず、寺の人たちが子どもの日の催しの準備をしていました。
阪急電車の最寄り駅は、以前は「中山」と言っていましたが、今は近隣の名所などを駅名にする方針をとっているのだそうで「中山観音」になっています。「中山寺」だとすぐ近くにJRの「中山寺」駅がありますので混同しやすいのでしょう。境内には五重塔もあり、なかなか立派な造りです。妊婦さんが来られますので境内にはエスカレーターやエレベーターもあります。
次に、めったに行く機会のない豊中市の服部天神宮(この神社は天神社とも天満宮とも言わないようです)をめざしました。阪急電車の駅名はもともと「服部天神」で、そののち長らく「服部」になったのですが「中山観音」駅と同じ理由でまた「服部天神」に戻ったようです。関西では社寺も「さん付け」で呼びますから、中山寺を「中山さん」というように、こちらは「服部の天神さん」です。
渡来系の秦氏は織物の技術で知られ「はたおりべ」としてこのあたりを本拠としました。「服部」は「はたおりべ」「はとりべ」の意味です。「服」の字が「はとり」なのですね。そして彼ら一族が
スクナビコナノミコト(少彦名命)
を祀った小さな祠があったのだそうです。少彦名命というと薬の町で知られる大阪道修町の「神農さん・少彦名神社」がありますが、医薬の神様とされることがあります。
奈良時代末期に左大臣になった藤原魚名は桓武天皇とうまくいかずに大宰府に流されることになりますが、途中で病気になり、まもなく亡くなります。それがこの地であったという伝承があり、服部天神宮には魚名墓と伝わるものまであります。それから100年あまりのちに、同じように大宰府に流されることになった菅原道真もこのあたりまでやってきました。ところが足の痛みがひどくなったので、地元の人に勧められて少彦名の祠に祈願をして、魚名の墓にも詣でたそうです。すると痛みは消え、彼はまた九州に向かったと社伝は言います。そこで、この社は足の神様として知られるようになり、さらには天神信仰の広がりとともにその道真をも祀ることにして服部天神宮となって信仰も厚くなっていったのです。「医」と「文」がくっついたのですから、神社としてはすさまじいパワーでしょうね。
落語「池田の猪買い」では大阪から池田までの道筋を「十三の渡し、三国の渡しと、渡しを二つこえて、服部の天神さん、横手に見て、岡町から池田」などと言いますが、この道は
能勢街道
で、今も服部天神の西側を通っている細い道がまさにそれなのです。
境内西側には石造りの椅子のようなものがあります。説明によりますと足の痛みなどのある人は、まず履き物を脱いで本殿に向かって拝礼し、そのあとこの椅子に座って祈願をするとよいのだそうです。
この時点でまだ朝の9時過ぎでしたので、もうひとつくらいどこかに行こうかと思っていろいろ考えたあげく、仕事に使う写真を撮りたいこともあったものですから、思い切って甲子園まで行くことにしました。
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- [2019/05/12 00:00]
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2019年5月文楽東京公演初日
本日、東京国立劇場で文楽5月公演が初日を迎えます。
この公演は『妹背山婦女庭訓』の通しで、大序の「大内」に始まって「小松原」「蝦夷子館」、二段目の「猿沢の池」「鹿殺し」「掛乞」「万歳」「芝六忠義」、三段目の「太宰館」「妹山背山」、四段目の「杉酒屋」「道行恋苧環」「鱶七上使」「姫戻り」「金殿」という内容です。なかなか素晴らしい本格的通しで、今、これ以上を望むのは難しいのではないでしょうか。
しかし、これだけのことをするのに、切語りは一人しかいない。寂しい限りです。
それにしても、本格的な通し上演は
東京でしかできない
のでしょうか? 意味が今ひとつわかりません。
チケット料金ですが、一等7300円・・。東京はどうしても高くなります。
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- [2019/05/11 00:00]
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長岡(2)
5月4日に長岡に行って、私が目指したのは勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)の跡なのです。
もとは名前の通り寺院があっただけなのですが、やがてこの寺院を、都を守る西域の砦として利用し、さらに城が築かれたのです。そして織田信長の命によって、細川藤孝がこの城を改修し、長岡姓を名乗って本拠としました。
藤孝の息子の細川忠興が明智光秀の娘である玉と婚礼を挙げた(1578年)のはここでした。玉は、後のガラシャです。のちに忠興は丹後の宮津に移りましたが、そのころに起こったのが本能寺の変(1582年)。当時西国にいた羽柴秀吉がその一方を聞いてすぐさま取って返し、山崎の合戦がありますが、なんと明智光秀はこの勝龍寺城のあたりを陣としたのだそうです。
この城跡については、昭和63年に発掘調査が行われ、その後整備されて今では
勝龍寺城公園
としてだれでも自由に入れるようになっています。
四季の植物が美しい園内にはかつての井戸があり、忠興と玉の像も設置されています。
私はどうも戦国時代が好きになれず、信長も秀吉も家康も好きではなく、何とかの戦いというのは覚える気にもなりませんでした。しかし、戦国大名の中で、細川藤孝はさほど嫌いではないのです。彼は文人でもあり(明智光秀もそういう要素はあったようです)、古典文学の注釈をしたり、また勝龍寺城では古今伝授の切紙を三條西実枝から受け取ったりもしたそうです。古今伝授というのは、『古今和歌集』の秘伝ともいうべき解釈を弟子に伝えることで、荒唐無稽な解釈を秘伝として伝えることもありましたが、歌の家の権威を重んじるプライドもあって、重んじられたものでした。
藤孝は本能寺の変に際しては息子の妻の父である明智光秀から協力を求められても応じずに出家し、
幽斎玄旨
と名乗りました。実は、私は彼のことをあまり「細川藤孝」とは言いません。むしろ「幽斎」あるいは「玄旨」ということが多いのです。国文学の文献にも「玄旨がこう言っている」というような書き方が出てきて、研究の入門時代には「玄旨って何?」というありさまだったこともありました。
こうしてこの日の目的は果たせました。長岡天神駅まで同じ道を戻るのはつまらないので、さらに西国街道を下ることにして「西山天王山(にしやまてんのうざん)駅」を目指しました。この途中には民家の一角に「南無阿弥陀仏」と記した石碑があります。「到空清欣(?)信士」「清誉妙壽信女」「高野聖千人寄宿」「清誉浄佐」などの文字も見え、この浄佐という人が両親の供養に際して建てた碑のようです。
ところがこの碑は、地元では
与市兵衛の墓
と伝えられてきたそうなのです。いうまでもなく、『仮名手本忠臣蔵』で五十両の金を持っていたがゆえに殺された、おかるの父親にあたる人です。ということは架空の人物。吉野にあるいがみの権太の墓もそうですが、芝居が愛されるあまりに、多くの人々が事実と虚構をないまぜにして大切にしてきた、そんな歴史が感じられます。
たしかに、京から街道を下ってきた老人なら、今でこそ住宅街ですが、おそらく当時は何もない山道で、山賊に襲われても不自然ではないでしょう。
この日の長岡散策はこうして終わりを告げ、5年あまり前にできたばかりのまだ新しい西山天王山駅から帰途に就いたのでした。
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- [2019/05/10 00:00]
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長岡(1)
平安時代の始まる少し前に都があったのが長岡、今の京都府向日市から長岡京市のあたり。桓武天皇が置いた都でした。しかし造営の責任者でもあった藤原種継暗殺事件があり、都は完成しないままに平安京に移りました。この暗殺事件では、『万葉集』の歌人として知られる大伴家持が(事件の1か月ほど前に亡くなりましたが)首謀者であったとも言われます。
長岡京市は、今は取り立てて都会という感じもありませんが、それでも西国街道の通る由緒ある街です。天王山がすぐそばで、山崎、水無瀬も目と鼻の先。平安時代の初期には皇族の屋敷もあって、『伊勢物語』八十四段には、主人公の母である皇女が「長岡といふところに住みたまひけり」と見え、京で仕事をする息子とめったに会えないことを悲しみ、「老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな(年を取ると死別という避けられない別れがあるそうなので、ますますあなたに会いたいですよ)」という歌を送ってくる、切ない話があります。新京である平安京と旧都の長岡京という微妙な距離が物語を切実にしています。
また、山崎、水無瀬、天王山と言えば離宮もあり、戦の場ともなったところですから、風流な話でも無粋な話でも、長岡は中世以後もさまざまな役割を果たしてきた町でした。
5月4日、このあたりをいくらか歩いてみました。
朝早くに阪急電車に乗って長岡天神駅まで。実は私の本来の目的は駅の東側、つまり旧西国街道の方だったのですが、せっかくなので、八条が池から
長岡天満宮
にも行ってきました。江戸時代に造られた八条が池はとても美しいところで、今を盛りとツツジが咲いていました。観光客などほとんどなくて、地元の人たちが散策を楽しんでいるだけという風情でした。この池の中央に天満宮への参道があり、ここはキリシマツツジが咲いていました。そろそろ花期も終わりのようでしたが、満喫しました。時間帯も早かったからでしょうか、社殿も人はあまりいなくて、とても落ち着いた気持ちで参詣できました。紅葉庭園は青紅葉で濃淡があって、光と影が交錯するいい雰囲気でした。この場所を詠んだものではありませんが、菅原道真の「紅葉の錦神のまにまに」の歌碑も置かれていました。境内には和歌に限らずさまざまな石碑があって、それらを眺めながらもっとゆっくりしたかったのです。また、足をのばして、桓武天皇の弟であった早良(さわら)親王が例の藤原種継暗殺事件に絡んで幽閉されたともいわれる
乙訓寺
にも行きたかったのですが、この日の目的を達成するために、と、我慢、我慢。
長岡京市には、今、いたるところに幟が立てられています。何をそんなに騒いでいるのかというと、なんでも、来年NHKの大河ドラマで明智光秀などが登場するのだそうで、それを町おこしに利用しようということでした。私はそのことは知らなかったのですが、この日の目的地はその光秀にもかかわりがあるのです。長岡天満宮をあとにして阪急の踏切を渡り、旧西国街道に出ます。そして街道をいくらか南に行ったところで少し外れて、JRの線をくぐります。するとまもなく城跡が見えてきます。ここがこの日の目的地でした。
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- [2019/05/09 00:00]
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「令和」への違和感
いつもより長めの記事になると思います。
いろんなご意見があることを承知の上で思ったことを書きます。私もまたものを言う自由はあると思いますので。
新しい元号になりました。
「れいわ」という「ラ行音+ア行音+ワ行音」というやわらかな音の響きゆえに、また「へいわ(平和)」と似通った音ゆえかもしれませんが好意的に受け取る人が多く、実際、音としてはきれいだと思います。英語には“beautiful harmony”と訳されたそうで、またドイツ語では“guten Harmonie”だった、と教えてくださった方もありました。“beautiful”というよりは“fine”かなと私は感じているのですが、“fine harmony”ではさまにならないかもしれません。ともかくもこういうベルベットでくるんだような言葉は、日本人は大好きですから、好まれるのもわかるような気がします。「昭和」「平成」も音としては穏やかでした。濁音はないし、「S」「H」「W」など、やさしい音です。昔の「元慶」「天元」「長元」「元和」「元文」「文化」「文政」などの元号には濁音があり、今ならあまり好まれないでしょうか。
「令和」の考案者はおそらくとても文学的な、詩や小説の一つも書きそうな、いわゆる
文学青年
がそのまま老成されたような(万葉集専門の)学者大先生なのだろうと想像しています。噂になっているあの先生など確かにぴったりです。
元号はもともと大陸の習慣に倣ったものですが、以前ここに書きましたように、初期のころは「神亀」とか「和銅」など、「亀(銅)が献上されたから」などの理由で改元され、文字も単純に選ばれることが多かったのです。
ところが、平安時代に災害や疫病などのゲン直しというか、気分一新のために改元されるようになると、古代中国の文献に言霊(ことだま)を見出して、有機的につながる二文字の漢字を選んで制定するようになりました。
その伝統が今に続き、「平成」は『史記』の「内平外成(内平らかにして外成る)」と『書経』の「地平天成(地平らかにして天成る)」、昭和は「百姓昭明、協和萬邦(百姓昭明にして、萬邦を協和す)」(『書経』)を典拠としたのでした。
ただ、中国というと、現代の多くの人は中華人民共和国を思い出すわけで、必ずしも朋友関係にあるとは言い難いあの国の文献を典拠とするのは不愉快だと主張する人も少なくありません。しかし元号が典拠としているのは毛沢東語録でもその後の政治家の演説記録でもなく、日本人が長らく勉強してきた古代中国の史書や経典です。あえていうなら『書経』も『史記』もあるいは『論語』も『漢書』も、すべて
日本の古典
でもあったのです。
日本人の美意識といわれているものにも中国由来の感性があります。「秋は寂しいものだ」とか「梅は香りが素晴らしい」とか、そういう美意識は日本人が古来持っていたものではなく、六朝の詩に影響されたものと言われます。また、いかにも図式的に「遣唐使が途絶えて国風文化が盛んになったころ」と言われる平安時代摂関期でも、たとえば『源氏物語』にせよ『枕草子』にせよ、古代中国文学抜きにしては語れないものばかりです。平安時代の主要学問は文章道(もんじょうどう)や明経道(みょうぎょうどう)と呼ばれるのですが、これらは中国の文学、歴史、儒教を修める学問でした。算道、医道、暦道などもありましたが、それらは一部の専門家のものであって、教養の中心にはなかったのです。
新元号の「令和」について「日本の古典であるところの『万葉集』を出典とする」と政府あたりは強調しているようです。しかしすでに話題にもなったように、この『万葉集』の文は『文選(もんぜん)』の
「帰田賦(きでんふ)」
「帰田賦」では「仲春令月、時和気清(仲春の令月、時和やかにして気は清む)」で、『万葉集』では「初春令月、氣淑風和(初春の令月、気淑く風和やかにして)」となっていて(訓読の仕方はさまざまだと思います)、おそらく「帰田賦」を下敷きに、「あちらは仲春(二月)ならこちらは初春(一月)だ、ちょっと違って面白いじゃないか、といって楽しんだのではないかと想像します。そして「時」と「気」を逆にするなど、典拠を少しずつ変えていることが分かります。
古代の人々が古典をいかによく知り、またそれを生かして少しひねったりしながら、いかに自分たちの表現をしていたかがうかがえます。にもかかわらず、このたびの典拠についてはひたすら「日本の古典であるところの」ばかりを主張する傾向にあるのは奇妙にさえ感じてしまいます。私に言わせると、最低でも「『文選』及び『万葉集』を典拠とする」というべきなのです。
もうひとつ、ほかの「国書」ではなく『万葉集』というのがどうも腑に落ちません。元号は漢字二文字で熟語のように用いるのですから、仮に日本の古典から採るとしても漢文系の典籍を用いることも考えられたはずです。島田忠臣(しまだのただおみ)だの菅原道真だのといったすぐれた漢詩人がいて、彼らの漢詩集は今に残っていますし、『本朝文粋』のような日本漢文の名文を集めたものもあります。
平安時代日本漢文学の研究者には優れた人が多くいらっしゃって、ほんとうに多くの知識と見識を持っていらっしゃいます。にもかかわらず、今回はそういう方に委嘱されたのでしょうか。少なくとも、途中からは『万葉集』にこだわる強い「力」が働いたと思えてなりません。「力」の字の前には「権」の字をつけてもかまいません。
もっとも「令和」も『万葉集』とはいいながら和歌ではなく序文から採っているわけで、漢文脈のものであることには違いありません。和文である歌集からわざわざ漢文脈の部分を探して、しかも「初春令月、氣淑風和」の「令月(すてきな月)」と「風和(風がおだやか)」という、さして有機的な結びつきがあるとも思えない、もっというなら
言霊
を強く感じさせない文字を結び付けたのには無理を感じてしまいます。普通に考えれば「氣淑風和」を使うなら「淑和」とでもすべきかもしれません。いやな言い方をすると、「出典は『万葉集』だ」と言えるのであれば何でもよかったのではないか、という感じがしてしまうのです。この「言霊」ということは元号の歴史の中でとても大事なもので、何とか世の中をよくしようという思いから、つぶさに多くの文献を調べたうえで、漢学者によって案が出されたのです。
ある方が「『命令』の『令』なのが気になる」ともおっしゃっていました。たしかに「命令」のほか「号令」「指令」「辞令」「伝令」「令状」などの「令」はすべて「いいつける」の意味です。「りょう」と読むと「律令」などからわかるように古代社会で用いられた「おきて」のことでもあります。ただ、「令」には敬うべき相手にかかわるものにつける言葉でもあり、「令嬢」「令息」「令室」「令孫」などがそれです。さらに「よい」「りっぱな」などの意味もあって「令徳」などはそれにあたるでしょう。「巧言令色」というあの「令色」の「令」も「よい」の意味ではあるのです。
それだけに「決して悪い意味ではありません」と説明されるかもしれませんが、「令和」だと「和」とのつながりが希薄で言霊が弱いから、「いいつけ」などの意味が気になってしまうのではないでしょうか。「平成」の「平」だって「平社員」「平凡」など必ずしもいい意味で用いられるとはいえない言葉もあります。しかし「成」との結びつきが強いので言霊として力を持ったのだと私は感じます。
新聞記事の受け売りにすぎませんが、すでに案が出ていたのにもかかわらず、3月になって(ということはほんとうの間際に)無理に『万葉集』を典拠とするためにしかるべき人物を考案者に加えたとも言われます。私の目から見ますと、こういうのは政治家のゴリ押しにしか見えないのです。以前ここに書いたと思うのですが、平安時代の中ごろにこんなことがありました。藤原道長という権力者が自分の気に入った「寛仁」を次の元号にしたくて、学者に調べさせたところ、学者がその典拠を見つけることができませんでした。やむを得ず三つの案が出されて検討されることになったのですが、そのあとになって藤原実資という人物から典拠を教えてもらい、道長は学者の無能に憤慨します。そして自分の気に入った「寛仁」をすでに案が出ているのにゴリ押ししようとしたのです。ただこの時は周りが抑えたようでした。このたび誰もゴリ押しを抑えることもなく、一部の政治家の言いなりになったようで歴史に何も学んでいないことになります。
あらかじめ出ていた案を考えた学者の方々にも大変失礼な話だと思います。何が何でも日本の文献から採るなら中国史や中国文学の専門家は最初から入れるべきではないでしょう。
「国民歌集」「身分の差を超えた作者の歌によって編まれた歌集」と称揚するのも、本来の『万葉集』の姿がそうであったかどうかの問題を差し置いて独り歩きしているように思います。『万葉集』が日本の古典として極めて重要なものであることに疑いの余地はありません。ところがそれが近代になって軍国主義に利用された悲しい歴史がありました。『万葉集』4094番の
「海ゆかば水漬く屍」
という歌などは、神である天皇に命を捧げる主題歌のように喧伝されることもあったようです。『水漬く屍(みづくかばね)』というと、戦時中に文楽でもその題の「時局もの」といわれる演目がありました。返す返すも悲しい話です。
今の時代、明治に回帰しようという風潮が、おもに右派の政治家や論客と言われる人の間に渦巻いているように見えますが、そのことと『万葉集』がリンクしてくるようで、私などは何となく
うすら寒く
すら感じます。
五月一日の朝刊に明治のヨーグルトの全面広告が出ると、その日はとてもよく売れたのだそうです。名前が「R-1」だそうで、令和元年にぴったりなのだとか。それにしても会社が「明治」とはまたよくできた話です。
元号決定の場には政治家が責任を持つことも必要ですが、自分たちの好みの元号を押し付けるなどというのはもってのほかです。これは大きな勘違いだと思います。案を出す現場に政治家があらかじめ「こういう条件で」と口を挟む(圧力をかける)ことは越権であり、あえていうなら政治的なプロパガンダに利用せんとする危険で違法でさえある行為もっというと皇室の政治利用だとも感じます。政府のための元号ではありません。文化のことはひとまず文化の専門家に任せるのがいいのです。そのうえでなら議論することはあってもいいと思います。かつて大阪で文楽の演出にまで口を挟んで恥をさらした政治家もいましたが、今の総理大臣も同じようなレベルのようにしか思えません・・・。
書いているうちに筆がすべって、せっかくの新しい元号にケチをつけるような形になったかもしれません。いささか感情的になったと反省もしています。しかし、「新元号万歳」「新天皇万歳(これについては私もそう思います。ナルちゃん天皇、末永くお元気で)」に浮かれているだけはなく、私は自分が感じた違和感をしっかり抱いておこうと思っています。
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- [2019/05/08 00:00]
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神戸へ(2)
阪神三宮まで行ったのは、なんとなく阪神沿線にも足を伸ばそうと思ったからです。
ふと気づいたのは、昨年、魚崎まで行きながら訪れなかったところがあることでした。
それは、谷崎潤一郎の旧宅のひとつで、『細雪』を執筆した
倚松庵
でした。そんなことを考えて三宮駅に下りる(阪神は地下駅)と、目の前に桜正宗の記念館の案内があり、これはもう天啓だ(笑)と、ここにも行くことにしました。
阪神魚崎駅の北側すぐにある倚松庵は土日しか入れませんので、前を通っただけですが、文豪の家の空気だけは味わえました。
そのあとは阪神を超え、国道をくぐって閑散とした桜正宗の記念館へ。私は、酒蔵とか酒造記念館が好きで、灘ではこれまでに白鷹、白鹿、菊正宗、白鶴には行っています。桜正宗もワクワクしながら行きました。
ここでは、10分かもう少しだったと思うのですが、昔の酒造りの
記録映像
をしっかり観てきました。とにかく、働く人たちの体力のすばらしいこと!
国鉄(省線?)の住吉の駅に着いた米俵をコンテナから次々に担いで行きます。あれ、60kgですよね。それをあっという間に肩というか首の後ろに担いで、こともなげに運ぶのです。その他、蒸した米やら桶に入れた水やらを全部手仕事で運び、驚嘆するばかりの力仕事でした。
観終わった瞬間、ホォーっとため息が出ました。展示も拝見して、おみやげの一升瓶は・・買わずに(涙)帰りました。
阪神に乗ると各駅停車でしたので、西宮駅でしばらく待ちました。
この日は朝日新聞阪神支局で小尻さんという記者が凶弾に倒れた日。駅からも近いのです。が、私はまったく失念していて、献花にも行けませんでした。
後悔しています。
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- [2019/05/07 00:00]
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神戸へ(1)
5月3日、つまり憲法記念日ということをすっかり忘れていた朝、この日も歩けそうでしたので、神戸へ行こうと思いました。久しぶりに旧居留地を歩こうと思ったのです。ところが、神戸に着いたらなんとなく山側に行きたくなり、意を決してダラダラとした坂道を歩きました。加納町の交差点を超えて、生田川に出て、新神戸駅。となると、やはり
布引の滝
まで行きたいです。あいにく、靴も服装もハイキング姿ではありませんので、最初から雌瀧に限定しての散策でした。
このあたりには布引の滝を詠んだ和歌の碑があちこちにあります。それを眺めながらの散歩でした。
雌瀧までは500mも歩かないかもしれませんが、何しろ坂というか階段状の道で、時間がかかります。途中にある
砂子橋
では説明板に従って断層を流れる川水を眺め、さらにしばらく歩くと雌瀧です。滝の前に出た時の、あの不思議なまでの快感といったら、最高です。
布が引くように落ちる水。昔は自然に水があふれては流れ落ちたのですね。すばらしい景観でした。
10分ばかり、滝の前でぼんやりして、これ以上は登らずに帰りました。
また生田川に出たのですが、久しく行っていないので、異人館通りを歩くことにしました。
これは失敗。やはり女性中心にかなりの人出で、場違いでした。
北野坂を下りていくと、そばの「正家」が昔ながらの姿で見えてきました。ちょっとした思い出のある店なのですが、震災以後は前を通らなかったので、嬉しくなりました。
さて帰ろうかと思ったのですが、予定していた時間よりまだかなり早かったので、阪神三宮駅を目指しました。
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- [2019/05/06 00:00]
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京都穴場めぐり(2)
5月2日の午前中は京都国立博物館に行きましたが、午後はまた鴨川の西に戻りました。バスで一気に三条烏丸あたりまで行けば早いのですが、この日は徒歩と決めていましたので、六条界隈から三条まで、またウロウロしました。
“京ォのォ六条ォ、数ゥ珠ゥゥ屋ァ町”といえばおなじみ「新口村」の一節。今も残るその名の町を歩き、枳殻邸は外回りだけ(笑)。このあたりは『源氏物語』で六条御息所が住んだ屋敷や光源氏が後半生を過ごした六条院(御息所の屋敷を取り込む形で作られた)があったあたりと比定されます。
そうそう、菅原道真の乳母であったという多治比文子の文子天満宮にも行きました。
今の五条通りを越えて、手鞠歌にいう四綾仏高松万五条を逆行。このうちの「高」は高辻通ですが、堺町通と高辻通が交差する少し南にやはり『源氏物語』に登場する夕顔という人物の供養塔(見学不可)を持つお宅があり、そのお宅の道に面したところには
夕顔之墳
という石碑があります。
そこを通って堺町通から高倉通にでると、あとは北へ一本道(池田に行くわけではありません)。
三条高倉まで行くと
京都府文化博物館
です。
ここでは岐阜高山の光ミュージアム所蔵の肉筆浮世絵展がありました。鳥文斎栄之、勝川春章、葛飾北斎、歌川豊国、歌川広重、司馬江漢、歌川国芳、月岡芳年などの百十一点。「日 龍 月」など、北斎はやはりいいです。ところが、ここもかなり空いていました。一歩外に出ると雑踏といっても良いのに。
こうして、なぜか穴場を歩いて、早めに帰宅。あぁ、ビール飲みたい、と思いながら我慢した(笑)1日でした。
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- [2019/05/05 00:00]
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京都穴場めぐり(1)
連休の阪急電車ひとり旅。
一昨日も朝起きると何とか行けそうな体調でしたので、京都まで出かけました。
それでなくても外国人観光客が多いのですから、こんな連休に京都に行くなんて馬鹿げているのではないか、そう思っていると、案の定、阪急京都線はかなり混雑していました。悪い予感・・・。
河原町まで行くと通路も混み合うほど。
少しでも喧騒を避けようとして、四条大橋ではなく、ひとつ南の団栗橋を渡ろうと、高瀬川沿いを南に下りました。すると嘘のように人の姿が消え、ホッとひと息。
建仁寺を少しぶらついて六波羅蜜寺に立ち寄り、あとは一路、博物館へ。
一遍上人絵伝
などの展示でした。
なんとなく、国立博物館の特別展というと、混雑しそうな気がして心配だったのですが、案に相違してガラガラでした。
鳥獣戯画なら2時間、3時間待ちでしたが、まるで知名度も違いますからねぇ。
厳島神社とか四天王寺とか、東北から九州までの各地の風景も描かれ、なかなかおもしろかったのですが。
私は
時宗
のことなど何も知りませんので、その意味でも見るものすべてが目新しく、楽しいのでした。
さて、屋外展示を眺めたあとすぐ近くの耳塚の前を通って鴨川の方に向かいました。耳塚などを見ると、戦国武将がつくづく嫌になります。私、実はあの時代が好きではありません。テレビの大河ドラマで取り上げられるのは明治維新か戦国が多いので、どちらも興味が薄く、もう長年観ていないのです。
正面橋を渡ろうとしたら、東詰に藤棚があって、紫藤はもちろんですが、白藤が清潔な感じできれいでした。
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開明国民学校
一昨日、貴布祢神社に行ったあと、阪神出屋敷駅には戻らず、ひとつ東の尼崎駅を目指しました。と言っても、最近話題になった尼崎城に行ったわけではありません。
3月に、これまた行きそびれたところに立ち寄ったのです。
ここは尼崎藩の学校、
正業館
だったそうですが、その後、正業小学校から開明国民学校、開明小学校になり、今は廃校されて開明中(かいめい なか)公園になっています。一見学校そのままなのですが、建物は市役所の分庁舎になっているのだとか。公園も、校庭の雰囲気が残っています。
そして、注目すべきは第二次大戦末期の空襲のときの機銃掃射の弾痕が残る塀がそのまま保存されていることです。
こういうものを目の当たりにするのは大事なことだと感じます。
ここしばらく、世の中が奇妙なまでに浮き立って、考えすぎかもしれませんが、私は
不気味
です。
後日、ここに書きますが、新天皇の即位に関して、あまりに政治家がでしゃばりすぎるように思えます。しかもあの総理大臣の一連の態度の節々に傲慢さを感じることもあります。
そんな思いを抱いているときにこの弾痕を見つめたことは、とてもよかったと思っています。
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- [2019/05/03 00:00]
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貴布祢神社
昨日はどういうわけか、四時ごろに目が覚めました。
お豆腐屋さんよりは遅いかもしれませんが、私にとってはかなりの早起き。
目が冴えましたのですぐに勉強を始め、6時過ぎにミューズリの朝食。8時になったら今日はお米が安いので(笑)スーパーまで出かけて10kgを担いで帰りました。
ホッとため息をついた時に、何となく電車に乗りたいと思い、阪急今津まで行き、西宮神社に行こうかな、と思ったのですが、ふと思いついて尼崎に行くことにしました。
3月のアルカイックホールオクトの「フィガロの結婚」のときに、ついでに寄ろうと思いながら果たせなかった
貴布祢神社
に行ってみようと思ったのです。阪神電車の出屋敷(でやしき)駅から国道43号線沿いに出て、少し東に行くと南門がありますが、私はこの日北門から入りました。
初めて行ったのですが、なかなか敷地の広い立派な神社でした。
私が拝殿に佇んでいると中年の男女3人の方が来られて正式な手順で参拝され、すぐにお帰りになりました。こんなことを書くのはどうかと思いますが、それぞれお札を賽銭になさっていて、びっくり。
私の家の近くの神社は鬱蒼とした
森
があるのですが、ここはそれがなく、それだけが残念でした。
ご多聞にもれず、この神社も阪神淡路大震災では被害が大きかったようで南門の鳥居は倒壊したようです。拝殿前の鳥居はつぎはぎになっていましたので、これも震災の影響かな、と思いました。
この神社では落語会も開催されるそうで、人の集まる神社っていいものだなと感じました。
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- [2019/05/02 00:00]
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