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大序の修業 

このところ、時間があると手元に置いている『四代竹本越路太夫』を読み返しています。もう何度も読んだ本ですが、今は通読せずにぱっと開いたところから数ページ読んでまた置いておくことが多いのです。そうすると、その数ページがとても濃くて、考え事をすることもできるのです。
先日は大序のあたりを読みました。越路師は大正二年のお生まれで、大序で番付に出たのは大正十五年四月の『加賀見山』だったそうです。まだ御霊文楽座ですね(御霊文楽座はこの年の年末に焼失)。満13歳のときです。ところがこのときには、30歳くらいの人も大序にいたらしくて、そういう人は、年齢の関係でどうしても覚えも悪くなりますから、なかなか出世もできなかったようです。
いきおい辞めていく人も多く、そうなると生活ができないので、当時の太夫さんはかなり三味線の稽古もしていたようです。三味線が弾ければ、

     素人の稽古

で、ある程度は収入が得られますから。
大序の稽古は、シンの人(大序の最後を比較的長く語るリーダー格)の師匠がしてくださるのだそうで、最初のころは静(しずか)太夫、のちの四代大隅太夫師のところに稽古に行ったそうです。大序でデビューされた直後に勉強会のために鶴澤浅造師のところにも稽古にいらしたそうですが、この方はのちの重造師。二代目呂太夫のご子息です。そのページを読んでいると、ご自宅が

    両替町

で、ご尊父と一緒に暮らしていらっしゃったと書かれていました。私が六代呂太夫さんの本を書くとき、すべての呂太夫の経歴をいろいろ調べていたのですが、二代目が両替町にお住まいだったことは見落としていました。本に書くほどの事ではないかもしれませんが、こういうところをきちんと隅々まで読まないといけない、と反省した次第です。
さて、大序の時代は無給だったそうで、シンになって初めて15日あたり三円の給金(ということは1日二十銭)が出るのだとか。お客さんなんてあまり入っていない朝早くの時間帯に語るのもつらいものだったのではないか、と想像してしまいます。
今は大序と言っても大序しか語れない人にその場の役が付くのではありませんが、当時はこの「大序から抜ける」(次の身分は「序中」)のが大変だったらしいですね。
だから「大序の修業」という言い方をして、これは修業のためにしているのであって、お金もうけにはならないという認識だったとか。なんだか「修業」というよりも「修行」の字を当てたくなるくらいです。同級生が高校の先生になって一人前の給料をもらっているのを横目に見ていた大学院時代の自分を思い出してしまいます(笑)。
今どきそんなことを文楽の若手に押し付けるわけにはいかないでしょうが、「大序から抜けるために頑張る」というのはつらいことであると同時にモチベーションにもなったのかもしれないと思いました。

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太夫の切っ先、三味線の切っ先 

視覚障害の方が聴覚に鋭敏になるという話をしばしば聴きます。実際に聴力が上がるわけではないでしょうが、視覚に頼らない分、聴覚に神経が集中するのでしょうか。
私もそういうことを感じることがあって、これまで見えなかったものがふと感じられるようになったり、鼻が利くようになったりしたように思うのです。具体的に言うと、人とすれ違ったときにその人からどういう香りが漂って来るかが以前とは比較にならないくらいよくわかるようになったのです。また、最近仕事場に行くと、なんだか幽霊みたいなものが見えないこともないのです・・・。早い話が、以前はあまりに鈍かったということで、今やっと人並みになっただけの事なのですが(笑)、私にとってはかなりの変化なのです。
ある感覚が失われた場合、

    別の感覚で補おう

とする本能が働くのかもしれません。
私が聴力を落としつつあった頃、当然、三味線の演奏もわかりにくくなりました。ところが、なぜか優れた三味線弾きさん独特の精神性というか、奥深さというか、そういうものを感じ始めたのもまさにそのころだったのです。太夫、三味線、人形で一番わかりにくいのは三味線だったのですが、あの、かろうじて音を聞き分けられた数年間が三味線をもっとも味わえた時期だったと思います。
中でも私が強くそれを感じたのは鶴澤清治さんで、伊達太夫さんとのめずらしいコンビで「弁慶上使」をなさったときに、強いインパクトを受けました。これがまさにしばしばいわれる

    切っ先の鋭さ

というものかな、と思ったのです。この言葉は太夫さんにもよく使われますが、四代竹本越路太夫師はその「太夫の切っ先」を三味線に当てはめて、越路師匠の相三味線でいらした二代野澤喜左衛門師の三味線を絶賛されていました(淡交社『四代竹本越路大夫』による)。越路師が例に挙げていらっしゃる「新口村」については私も喜左衛門師の三味線がとても素敵だと思っていましたので納得しました。「京の六条数珠屋町」のあとの手。あそこの情の深さを一番感じたのはいまだかつて喜左衛門師の演奏が最高です(越路・喜左衛門のカセットテープで拝聴)。
しかし越路師は切っ先の鋭さの例として「堀川」や「すしや」の冒頭を挙げていらっしゃいます。なるほど、盆が回って口上があって、いきなりあの「すしや」の手を引くのは大変だろうと思いますが、越路師にいわせると、喜左衛門師は

    スピードが落ちなかった

そうです。そういえば文楽劇場開場公演のときに越路師匠を弾かれた清治さんの「すしや」も素晴らしかったと記憶します。あの当時まだ20代だった私にはその良さがじゅうぶんにはわからなかったのですが、あれもまさに切っ先の鋭さだったのだろう、と今になって思い返しています。

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やっと咲いた朝顔 

今年は5月27日に朝顔の種を蒔きました。そして7月28日に最初の花が咲きました。街を歩いていると7月の初めにはあちこちで朝顔が咲いているのを見かけましたので、うちは遅すぎだと思いました。
一昨年のことをかなり細かくブログに書いていましたのでそれ見てみますと、5月上旬に蒔いていました。今年より3週間くらい早かったようです。ところが一昨年最初に花をつけたのは7月22日だったようで、今年と6日しか違っていませんでした。今年は遅いと思っていたらそうでもなかったことになります。

    這えば立て立てば歩めの親心

といいますが、花に対しても同じような気持ちになるもので、種を蒔いたら早く芽を出せ、双葉がついたら早く蔓を伸ばせ、そして花よ咲け、と願ってしまいます。
朝顔はもともと秋の花という認識がなされていました。俳諧では秋の季語です。旧暦の七月一日は秋の始まる日と言えますが、今年は8月1日に当たるそうで、また立秋は8月8日ですので、もうまもなく秋がやってきます
そう考えると私の家ののんびりした朝顔は確かに「秋の花」と言えそうなのです。
すでに咲いている世間の気の早い花たちも、まだこれから10月頃までは咲き続けますから、今の暦でも秋の花と言ってもおかしくないのですが、7月から10月まで咲くというとどちらかといえば

     暑い時期

の、夏の花らしく感じるのでしょうね。
私の家の第一号の花は濃い赤、古い言い方をすると蘇芳色という感じです。これから連日のように咲いてくれると期待しているのですが、今つぼみが開きかけているのを覗き込むとやはりこの色のものばかりで、ほかの色の種も蒔いたつもりなのにな、と気になっているところです。梅雨が明けて蒸し暑い日が続きますが、そのうっとうしい朝の心を少し和らげてくれる朝顔に感謝しながら面倒をみて行こうと思っています。

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理想を持とう 

夢みたいなことばかり言うな、と、「世の中のことは何でも分かっている」という顔をする人は言います。「世間は甘いものではない」。そういう理屈なのです。政治家の中にも、そういう人はいますし、それを理由にして汚いことをするのも辞さない人もいます。それどころか、そういう姿勢を公言してはばからない輩もいるのです。そういう人の口癖は「あのねえ」です。世の中の酸いも甘いも知り尽くしたと自認する人が「あのねえ」と言いたがります。
でも私は言い続けます。理想を持たないような人間はダメだと。「あのねえ」なんて言ってはいけない、と。
ええ、どうぞ、

    甘っちょろい

とでもなんとでも言ってください。
私は今も、「この学校で一番学生とコミュニケーションをとれる教員」を目指しています。「あのねえ、そんなの無理に決まってるでしょ」とたいていは思われているでしょうし、面と向かってそういわれてもかまいません。でも、この理想をなくしたら私はおしまいです。
学生にも、自分にしかなれない看護師を、栄養士を、保育士を目指してほしいと願っていますし、それをあえて大きな声で言っています。理想を持って、しかしそれが実現するか否かが大事なのではなくそこに向かって努力することが尊いのだと。はい、もう青春ドラマ風なのです。

このあいだ、文楽のある人形遣いさんとお話ししました。私は彼に「究極、この役をやってみたい、というものをあなたは持っていますか」と聞いたのです。彼はためらうことなく「政岡です」といいました。
すばらしい。そういうことを言える人形遣いさんは本当に素晴らしいです。
今、この方は

    左遣いの修行中

です。まだまだ主役級の主遣いは(若手会以外では)なさっていません。それでもきちんといつかあの役を遣いたいと思っているのはとてもいいことです。そういう人が一本筋の通った芸能人になれるのです。見込みのある人だとは思っていましたが、改めてそのことを感じました。頑張ってください。

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半年ぶりのビール 

昨日、文楽ファンの方々と久しぶりにお会いしました。
土曜日に実施されるだしまきの夕べになかなか参加できないまま、退会しましたので、こういう集まりに出かけるのは2017年の秋以来ではないかと思います。
実は、数日前からまた体調が下降していて、昨日も大丈夫かな、と心配していました。
しかし、最近このブログにコメントを下さる

   ゆかりさん

が来られましたので、何を差し置いても行かないわけには参りません。
ただ、私一人でお会いするのはいけないかな、と思い、やたけたの熊さんに来てくれませんか、とお願いしました。
すると、さすがに熊さんです、あっという間にお仲間を集めてくださり、総勢6人で福家さんに乗り込みました。
みなさま、本当にありがとうございました。
半年ぶりにビールを飲みました。
日本酒もワインもいただきました。
飲み過ぎて(?)体調が良くなりました(笑)。

忠臣蔵は満員 

文楽劇場の企画は「当たった」と言えるのでしょう。文楽夏休み公演の第二部『仮名手本忠臣蔵』の五段目から七段目は連日大入りで千秋楽まで補助席が出そうだとのことです。
このところ、夏の公演では昼の部をどのようにするかが難しいところだったようです。以前は古典の名作という形でしたが、意外に集客はよくなかったようです。昨年は復活した演目の上演でしたが、やはり大きな話題になるところまではいかなかったように思います。
ところが今年は、通常公演と同じ規模で、人気狂言を

    通しでなく

上演するのが奏功したのでしょうか。
独参湯の面目躍如というところかもしれません。この演目が発表されて以来、こういう上演形式はおかしいという声が多数挙がりましたが、その声を黙らせるにふさわしい観客動員とも見えます。うまくいくと、重厚な九段目のほかはあまり面白みのない十一月の『忠臣蔵』までもがこの余波で多数の観客が入るかもしれない、と劇場では皮算用されているかもしれません。
今の観客の

    ライフスタイル

から考えると、こういう上演も必要なのだという考えも今後出てくる可能性がありますし、芸能というのは半分がお客さんの作るものですから、お客さんに合わせることも時代の趨勢という判断を、制作の人たちもなさるかもしれません。
また、今の太夫陣ではこれが精いっぱいで、とても通しで上演できる状況ではないのだ、という「大義名分」もあるのでしょうか。
これで勢いづいて、次は『一谷』の年間通しだ! その次は『菅原』だ! ということになるのでしょうか? 柳の下に、のたとえもありますし、どうもそうはうまくいかないような気がします。それに、多少無理をしてでも一つの公演で通しをしないと

    力が細る

と思うのです。どうしても器に合わせて芸は大きくなっていくので、多少は大きめの器にしておいた方がいいと思うのです。これは時々話題にする襲名も同じことです。「まだその名前を継ぐ器じゃない」と言っているといつまでも名前なんて襲えません。
私は、文楽が自分自身を小さくしてしまわないように願うものです。

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授業が終わりました 

昨日、学生対象の授業はすべて終わりました。
この3か月余りもかなりくたびれました。
私は障害があるため、授業には工夫をしなければ学生とのコミュニケーションが取れません。そのために授業の予習復習にとても長い時間がかかります。往復の電車の中もひたすら仕事をしているという有様です。
そんなわけで、とにかく働きづめ。週の真ん中の木曜日と週末は休息をとらないとどうにもならないくらいです。さすがに

    ガタが来ている

ようです(笑)。
それでも、一度も休むことなく15週間の仕事を終えることができました。
私の授業でいつも人気のないのが文学の授業。源氏物語を取り上げているのですが、これが一番ダメなのです。やはり学生は古い文章を読むことに大いに抵抗があるようなのです。
それだけに、単に文章を読むのではなく、平安時代の人々の生活の話を交えたりしながら進めています。
中でも一番学生の興味を引くのは

    出産

の話です。この時だけは何となく熱心に聴いてくれるような気がします。
座産であったということだけでも驚きますし、出産の場では祈祷が行われたりまじないのために米をまいたりしてけっこうやかましいのですが、そのことにも興味を持つようです。彼女たちは静かにしないと出産できないのではないか、というのです。でも、ある程度騒々しいほうが産婦さんはその音とリズムに乗って産めるかもしれないじゃないですか。というのですが、あまり説得力はないようです。
ともあれ、これで一段落。でも、この夏もまた宿題がたくさんありますので楽ではなさそうです。

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平安時代の物価 

西暦996年、元号では長暦二年に当たる年のことを記録されたおもしろい史料が残っています。『西宮記』という、源高明という人の撰述した有職故実にかかわる書物です。
その中に「勘文を成す事」という項目があり、「左右囚贓物(ぞうぶつ、ぞうもつ)勘文」といういかめしい名前の文書が引用されています。盗賊が盗んだものがどれくらいあるのかを記した報告書で、「贓物」は盗品の、「勘文」は報告書の意味です。
そしてこの贓物が当時の貨幣価値でどれくらいのものであったかまでを併せて記録してくれていますので、わずかな品目ではありますが、この当時の物価がわかるのです。京の都のように人口の多いところでは貨幣経済が便利で、市が立ったり、物売りが街を歩いたり、ちょっとしたコンビニのような店があったりしました。
この記録によりますと、米は

    1石(斛)あたり1000文

だったそうです。これがとてもいい目安になります。1石は10斗のことですが、この時代の1斗は今の0.4斗に該当するのだそうで、そうすると1石は今の4斗に当たります。今の1斗はおよそ15㎏なので、1石は60㎏にあたります。これが1000文なのです。
今の米の値段は、皆さんは高価なお米を召し上がっていらっしゃるかもしれませんが、私は10㎏3000円程度の米です。少し高めに見積もって3300円くらいとすると、60㎏はほぼ2万円です。ということは、1文はその1000分の1の20円くらいに当たることになります。
これを目安にしてほかの品目に目を向けてみます。
銀作りの太刀一腰は5,000文。米が300㎏買える値段です。ところが黒作りの太刀になるとその10分の1の500文。
銀の銚子一口は2,200文。やはり銀のものは高いです。
馬一頭は600文から1500文くらいだそうです。ということは1万2千円から3万円くらい。馬といっても今のサラブレッドのようなものではなく、ロバのような小型の馬だったようですが。牛は少し安くて500文から1000文。1万円から2万円ですね。
織物では、

    絹1疋

が1000文から2000文。綾1疋は4000文。「疋」というのは60尺×1.9尺で、1尺を30㎝とすると57㎝幅で18mの織物です。綾織物は8万円の価値ということになりそうです。麻になると1反(段)75文。「反」は72㎝幅で7.8mくらい。
ほかにも鏡が100文とか、弓が30文などという記録があります。
一般の方対象の講座の夏休み前の最終回でこんなことを紹介してみました。

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さもしく、いやしく 

文楽が、第二次大戦後、二つに分かれたことはよく知られています。
芸は修行の場であって、お金のことは言うな、というのが文楽の世界の人の考えにはあったようです。七代寛治師匠のご本によると先代(六代)寛治師匠は稽古などでずいぶん稼ぎがあって、羽振りもよかったようなことが書かれていました。だから、逆に文楽で舞台に出る場合はお金のことは言ってはいけないのだ、ということでしょうか。しかしそれではやっていけない人もいます。そして、戦後の不安な時期には、家族を養うためにも安定した収入が欲しいと思うようになった人がいてもおかしくないでしょう。
そういう人が給与体系の御確立を願って組合が結成され、それがやがて

    三和会

になったことは言うまでもありません。松竹からは圧力もかかったそうで、松竹系の劇場では当然三和会の公演はできない、ということになります。結局この分裂は松竹が文楽を手放すまでは元に戻ることはありませんでした。
戦後のインフレはすさまじかったそうで、これは呂太夫さんの本に書いたのですが、文楽の一等席を例に挙げると昭和二十二年四月は30円、五月は40円、十月は55円、十二月は75円、翌年四月は100円、六月は120円になっています。こういう時期だけに、芸人さんたちもさすがにやっていけなくなったようです。四代竹本越路太夫師がボンボン育ちだったそうですが、ご尊父からしばしば「貧乏を体で体験しろ、これは頭では理解出来ませんから、そういう生活の苦労をしないと人間として駄目だ、しかし、それでいやしくなるな」(淡交社『四代竹本越路太夫』による)と言われていたそうです。
ところがその越路師が戦後の苦しい時期には「悲しいかな根性まで

    さもしく、いやしく

なるもんですよ」というありさまだったそうです。越路師匠が最初の奥様と死別されたあとお住まいだったところはあばらやのようなところだったそうで、お金にはこだわらない方だったのかなと思っていただけに、やはりそういうわけにはいかなかったのだ、としみじみと感じました。人間、さもしくなると自分が嫌になることもあります。戦後の文楽の人たちだけではありません。今でも多くの人が貧しさを感じながら生きています。声も挙げずにじっとしたままの人も少なくありません。
文楽の組合派の人たちは声を挙げた挙句にいばらの道を進んだようですが、今はそういう人も少なくなったのでしょうか。

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選挙への関心 

選挙がありました。
直前に学生に尋ねたのですが、選挙に関心がない人はやはりかなり多いようです。確かに我々の1票では何も動きません。自分が投票しなくても、どうせ組織票で結果は決まるんだから、という諦観を抱く人も多いのです。残念ながら実際その通りで、例えば私なんて投票した人はほとんど落選しています(笑)ので、私の1票はほとんど役に立たなかったという気がしてしまいます。
郵政選挙とか、民主党政権実現の時とか、

    劇的な選挙

もありましたが、私はああいうのはあまりにも劇的過ぎて私はかえって危険な意識を持ってしまいます。実際あれが素晴らしい世の中を作ったかというと、どうにもそうは思えません。敵を作ってそれを攻撃して、少しでも上回ればそれで自分の天下になる。考えたら恐ろしくもあります。
選挙に行かないという学生は「誰に入れたらいいのかわからない」「私が投票しても意味がない」という意見が圧倒的で、選挙に行く人も「親の言うとおりに入れる」というのも珍しくありません。
私は学生に対しては「それなら〇〇党に入れたら?」ということは言わないのです。やはり自分で考えてほしいからです。私が学生の頃は、わからないまでもみんなそれなりに政治については話していたし、中には政党に所属して必死に運動していた友人もいました。
学生はこんなことも言っていました。「どうして選挙権を

    18歳に引き下げたのか

理解できない」というのです。ときどき新聞に出ているような「選挙について熱心に学ぶ高校生」のような、ほんの一部の人は別として、ほとんどの18歳にとってはわからないんだから、意味がないと。どうしても行けと言われたら、「投票所で目についた名前を書くかもしれない」という意見もありました。さらには「私は選挙が分からないから、棄権する方が世の中のためだと思う」「前期の試験の真っ最中に選挙なんてされても、考える暇もないし、投票に行けるわけもない」という意見も。
彼女たちの言うことはそれなりに言い得て妙という面もあります。
選挙は民主主義を守る砦ではありますが、複雑な気持ちにもなります。

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色のいろいろ 

以前、言語学の専門家の方の本を読んでいたら、この先生のアメリカでの体験だが書かれていました。
この先生がアメリカにいらっしゃったときに、悪天候なのでホテルから車で出ようとなさってレンタカーを借りるべく電話をされたのだそうです。するとレンタカー会社から10分ほどしたらオレンジ色の車がホテルの前に行くから運転手に声をかけてくれと言ったのだそうです。ところが、待てど暮らせどそんな車が来ない。そのときその先生はふと気が付かれたのです。少し離れたところに

    茶色の車

が止まっていて運転手がちらちらこちらを見ているのです。ひょっとして、と思って声を掛けたら図星でした。
その先生が「オレンジ色の車だと聞いていたのでわからなかった」と言ったら、運転手は「この車、オレンジ色じゃないか」と答えたそうです。
つまり、日本人の目ではどう見ても茶色にしか見えないものがアメリカではオレンジ色と認識されていたわけです。不機嫌そうな運転手さんを後目に、その先生は新しい発見に嬉しくなったそうです。その先生はクリスティの小説に「オレンジ色の猫」という一節があったのにも出会ったそうで、、それもどうやら「明るい茶色」の猫なのだそうです。
 どちらかというと緑なのに

    「青信号」

という言葉が生きているように、昔の人は緑も青の範囲に入れていました。古墳に描かれる「青龍」は緑色の龍にしか見えません。青葉、青菜なども実際は緑色です。信号と言えば、黄色の信号は「オレンジ色の信号」という国もあるようです。
 平安時代の文章を読むと、色がいろいろ出てくるのですが、いったいどういう色なのかがなかなかわかりません。最近はさすがに馴れてきましたが、鈍(にび)、蘇芳(すおう)、縹(はなだ)、麹塵(きくじん)、青白橡(あおしらつるばみ)、赤白橡(あかしらつるばみ)などなかなか認識できませんし、そもそも読むのが難しいです。こういうのをいちいち区別していたとすると相当色のセンスが磨かれそうですね。
そのおかげでしょうか、日本人は色をかなり見分けることができるのだそうです。
しかし、私個人は美的なものがだいたいわからないもので、色に関してもよくわかっていません。しかし案外「色音痴」の私だったら、「オレンジ色のレンタカー」はあっさり見分けられたかもしれないな、と思うのです。

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文楽夏休み公演初日 

今日から文楽の七、八月の公演が始まります。
第一部は『日高川入相花王』渡し場、『かみなり太鼓』
第二部は『仮名手本忠臣蔵』五段目から七段目
第三部は『国言詢音頭』
という番組です。私の思うところでは、面白そうなのは「国言」、そして「一力」です。
さて、どんな公演になりますか。じっとり暑い時期ですが、技芸員の皆様はもとより、お客様もどうかお元気でお楽しみになりますように。

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フロッピーディスク(2) 

フロッピーディスクといえば、私は5インチのものも使ったことがあります。まだ個人ではパソコンは持っていなかったのですが、仕事で使うことがあり、NEC5200 というパソコンでした。これに用いたのが5インチのペラペラとしたもの。ほかにも8インチというのがありましたが、私は使ったことがありません。
5インチフロッピーディスクはかなり容量が多いものを使ったように思うのですが、もう覚えていません。それでもせいぜい1.5メガバイトくらいのものだったのでしょう。
そのあとはワープロのフロッピーと同じ3.5インチのものでしたが、これは2HDフロッピーディスクで、

     1.44メガバイト

だったことを覚えています。これは結構長く使ったような気がしますが、間もなくそんな容量の小さいものでは済まない時代がやってきました。
あるとき、出入りの電気製品のセールスの人が、これからはUSBメモリですと言って64メガバイトのメモリを紹介してくれました。早速使ったらフロッピーディスク50枚分というすごいものでした。その後256Mb、512Mb、と容量が増え、ギガの時代になるのはあっという間でした。
もうフロッピーディスクは1枚も持っていないのですが、外付けのフロッピーディスクドライブ(USB接続)は捨てられずに(笑)持っています。
ところで、ワードの画面の左上には

    「上書き保存」

のマークが付いています。あれが今なおフロッピーディスクの形をしているのが、なんだか昭和だな、と感じてしまいます。
あのマークって、今でも世界共通なのでしょうか。
ワープロにフロッピーディスク。懐かしいです。

フロッピーディスク(1) 

始めてワープロというものを使ったのは学生の頃でした。まだパソコンは高嶺の花で、大学院生の研究室ではまだ誰も持っていませんでした。
ワープロこそが私にとって、そして当時の院生にとっての最新鋭機器でした。私が持っていたのはNECの「文豪」というワープロで、定価だと20万円近くしたものです。もちろん定価で買うわけがなく、5万円くらい安かったのではないかと思います。あのころはおp金がなかったはずなのに、本はたくさん買いましたし、ワープロもほかの学生に比べると早く手に入れたほうです。
ゼミのレジュメをワープロで作ったのは私が一番早かったかもしれません。そしてその後、続々とほかの学生が導入しましたので、私は

    先駆者(笑)

だったことになります。
しかし、手に入れたのはいいものの、何をどうすればいいのかわからず、とにかく使ってみたらすぐにデータがいっぱいになってしまい、「いちいち印刷しなければならないのだろうか、不便なものだな」と思いました。そんなことをしていたらインクリボン(これも懐かしいです)がすぐになくなってしまいます。
ところがよくよく説明を読むと、フロッピーディスクというものにデータを入れればいいのだということが分かりました(笑)。早速それを入手してデータを入れてみると「便利なものだな」と、ころっと考えが変わりました。
あのフロッピーディスクの容量は最大720キロバイトでした。つまり1メガバイトもなかったのですね。しかしまだ画像を入れるということはなく、文書だけのデータでしたから、それなりに十分だったのです。
実は私が最初に書いた本はパソコンではなく

    ワープロで書き始めた

ものでした。ですから、出版社には2DDフロッピーディスクを送ったのでした。ちょうどそのころから世の中が一気にOA化して、出版社も2DDのデータを変換することができなかったみたいで(工夫すればできたと思うのですが、小さな出版社で、担当の人も知らなかったのかな)、結局そのデータをプリントアウトして編集者の方がまた書き写してくれたみたいでした。もう少し遅く始めていればパソコンで書いていましたからあんな迷惑はかけなかったのですが。もっとも、あの当時は手書きの人もまだ多かったので、私のひどい字でないだけましだったかもしれません。

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ヒトラー 

最近とても興奮しながら話をしている自分に気が付きます。
学生に話をするときには、かなり理想論をぶち上げています。このあいだ、国民の目の前にニンジンをぶら下げて「さあ私に投票しなさい」という政党の宣伝動画がインターネットに上がっていました。しかもそれがアノ総理大臣でした。保育所、「無料ですよ!」って・・・。それ、言ってて恥ずかしくないですかね。・・ということを言おうかと思ったのですが、授業中なので固有名詞を出して揶揄することはやめておきました。しかし、やはり政治家というのは理想を語りつつ、それに向かってどれだけ努力するかを訴えたいものです、という程度には言っています。

    あれをやります、

これをやります、ってできるわけがありません。どう考えても消費税も上がるでしょう。辺野古への土砂の投入は続くでしょう。しかしできなくてもそれに向かっていくことが大事なので、「できもしないことを言うな」というのは、私に言わせるとおかしいことなのです。むしろできることを自慢げに語る方が浅はかかも。
こんな話をつい長々としてしまうのです。
この間は学生から「ヒトラーはなぜユダヤ人をあんなに虐殺したのですが?」と聞かれました。たまたまこのところ

    全体主義

の問題点を勉強していた(と言っても本を読むだけですが)ので、偶然その質問の答えに当たる歴史が頭に入っていたのです。
ユダヤ人がどのようにしてヨーロッパに入り、その地でどのように生き、いかにして力をつけたかを話した後、アーリア人たちがそれを特に問題視していなかったのになぜ排斥しようとしたのか、というあたりを世界恐慌の話、第一次世界大戦後の特にドイツの苦しい事情とともに説明しました。民族主義に偏ったナチスが、あたかもユダヤ人が世界征服を狙っているかのように言って、ユダヤ人を追放する政策をとっていたのに、それが困難になるや残虐な絶滅政策に出た、というようなことです。
しゃべっているうちに自分が興奮してきているのがわかるのですが、同時に学生の目の色が変わってきていたので、もう止めることができずにヒトラー並みに(笑)演説してしまいました。
そしてしゃべっているうちに、こういうことは今の日本でも起こっていることに改めて気づかされたのでした。

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和歌を贈る 

日本語表現という授業をしています。
日本語を正しく使える人はそうそういるものではありません。私もダメです。
しかしできるだけ多くの人に自分の思いを伝えるためには正しい日本語を使えるようになることは重要です。
特に学生ができないのが敬語です。尊敬語と謙譲語の違いが判りません。それどころか敬語のことを「尊語」という学生がとても多いのです。
そんなわけで、私はせっせと彼女たちに

    きれいな言葉

が使えるようになってもらうためのレッスンをしています。
その授業が終わりました。
で、ふと思ったのです、授業の終わりに彼女たちに何か言葉を残しておくのもいいのではないかと。
そこで恥ずかしさを押し隠して、和歌を一首贈りました。

    金のごとく蘭のごとくに親しみて
        ことばやさしき乙女とをなれ


ひどい腰折れですが、思いだけは込めました。
友愛を大切にしてことばやさしき乙女となってください。
金や蘭は友愛の意味です。空海があの有名な「風信帖」で最澄のことを「東嶺金蘭」と呼んでいるのはまさにそれです。
比叡山に住んでいる友人のあなたへ、という意味です。
そして「やさし」には多くの意味を込めました。平易な言葉で、親切に、そして優美な表現で。
そんな乙女になってくれるでしょうか。

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土曜日の昼 

このところ、仕事がかなり忙しいです。研究日という名の休日を含めて週休3日は約束されているのですが、その3日の休みはそのまま休みとして使っています。この春までは週休1日にしていたのですが、さすがにそれではからだが持たなくなってきました。もっとも多くの教員はそれ以上に休んでいて、週休5日という人もいるくらいです。
大体今は朝の7時過ぎから夜の8時過ぎまで仕事場にいて、それが週に4日。往復の電車で実質1時間余り仕事をしています。以前は土曜日も仕事場に行って、たいていは図書館にいたのですが、これも含めると週に

    80時間

ほど働いていました。もちろん、土日も仕事をしていますので、それを含めたらさらに増えますけれども。我ながらかなり無理をしていたという他はありません。
それで、この6月からは土曜日には行かない、研究日にもいかない、というのを徹底しています。家にいても仕事はするのですが、寝たいときには二度寝もできますので、やはり楽です。
それでもやはり週に50時間は仕事場にいますから、土曜日になるとかなりくたびれます。
朝起きたらいつものように仕事をするのですが、どうにもだるく、また眠気も強いのです。そして昼になったら必ずと言ってよいほど

    午睡

をとっています。これがもう気持ちのよいこと! 1~2時間ぐっすり寝てしまいます。すると午後は楽になって、また仕事ができるようになるのです。
先日は金曜日に7時から9時まで仕事場にいるというバカなことをしてしまい、土曜日の朝は目が覚めてもだるくてどうしようもありませんでした。昼前になって睡魔がやってきて、よし、寝ようというわけで目を閉じたら、きっちり2時間寝てしまいました。
これからはさて、どんな生活サイクルにすべきか、今いささか悩んでおります。

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スーパー通い 

私は週に2~3回スーパーに買い物に行きます。一番近いところは徒歩5分くらいなのですが、ここはあまり品ぞろえがよくなく、また値段もそれほど安くはありません。
次に近いのは徒歩10分くらいの所ですが、ここは高級スーパーなので縁がありません(笑)。その近くにもあるのですが、ここは何となく行かないのです。で、いつも行くのは徒歩15分の所にあります。わざわざ時間のかかる所に行くひとつの理由は、散歩になるからです。往復30分は4500歩くらいですから、なかなかいい運動になります。日曜日などは、午前中は別の所を歩いて、午後はスーパーに行くと、

    1万歩近く

歩けます。
このスーパーも安いものもあればそれほどでないものもあります。で、私はもっぱら安い物に集中(笑)。「広告の品」なんて書いてあるとついそちらに足が向いてしまいます。プライベートブランドもお世話になっています。
ここではお米が時々安売りになるので以前はよく買ったのですが、徒歩15分だと10㎏のコメをかついでいくのは大変だなと思います。
以前は60㎏の米を担げて一人前だったそうですし、春に桜正宗の資料館に行ったとき、古い映像で多くの人が次々に60㎏すなわち

    1俵

の米を担いでいくのを見ました。いやそれどころか、昔の人は旅をするのに、なんと米俵を担いでいったらしいのです。『信貴山縁起絵巻』などにそういう絵が描かれています。旅宿などはありませんから、旅先で泊めてもらう時などにいくらか米を渡すのでしょう。それにしても米を担いで旅をするって、たいへんなことです。持ち方にコツがあるのでしょうか。
あの人たちを思うとたかが10㎏なんてどうってことないよね、と思うのですが、15分はねぇ、とまだ躊躇しています。
そのうち、スーパーからの帰り道のどこかで米を抱いたまま行き倒れになっているかも(笑)。

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哲学 

私は文学部出身なのですが、文学部というと哲学、史学、文学が骨格になっていて、私の大学には哲学系に哲学、社会学、芸術学、史学は日本、東洋、西洋、文学は日本、英米、中国、西洋比較などがありました。私は国文学専攻でしたが、日本史や芸術学の授業には出ていました。日本史の授業は本当に役に立って、特にその後『御堂関白記』研究で山中裕先生に支持するためにも下地となったと思います。芸術学というのは主に美術史で、特に私は日本美術史の先生の授業に出ていました。
これらの中で私がもっとも苦手だった、要するに絶対にこれだけは先行する気はないと思っていたのが哲学でした。いったいあれは何をしているのだろうと不思議ですらありました。
カントだとかヘーゲルだとかキェルケゴールだとか、それらの

    哲学書を原語で

読んで、それは難しいでしょうし、ご苦労様だとは思ったのですが、ではそれで何になるのだろうと思っていたのです。実際、哲学専攻は学生から人気がなく、私の同期ではわずかに一人だけだったと思います。難しい議論が好きな変わったヤツが行くところ、という感じで、あまり仲良くもしていなかったのです。
今になってみると、失礼なことを思っていたものだと感じます。
それどころか、最近になって哲学という学問は今こそ重要なのではないかと思うようになってきました。カントもヘーゲルもやはり勉強すべきもので、いわば学問の一番基礎となるものではないかとまで考えるようになっています。
今の世の中、あまりにも

    哲学のない人間

が社会で大きな顔をしすぎていないだろうかと感じるからです。哲学のない私が言っても説得力ゼロですが、つくづくそんな気がするのです。歴史学が重要であることはさすがに私も学生時代から痛感していました。しかし哲学の重要性はここ数年やっと感じるようになってきたのです。
ひと昔前の政治家は割合にきちんと政治思想、政治哲学を勉強していました。愛読書は中国古代思想だ、なんていう人はけっこういたものです。今はもう、そんなのんきなことは言っていられない、という風潮です。しかし決してのんきではない。哲学のない人間が社会をリードするなんてもってのほかだと感じます。
もちろん教育にも哲学が必要です。今ひしひしと自覚、反省をしています。

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講座が一段落 

私が一般の方に定期的にお話ししている講座に「源氏物語」と「枕草子」があります。どちらも年間30回。1回2時間ですので、学生対象の授業に比べると1.3倍の分量です。
この春~夏期の講座では、改元がありましたので、どちらの時間にも改元にまつわるお話をしたりもしました。ネタの使いまわしとも言えます(笑)。使いまわしどころか、ある雑誌に寄稿した雑文にも使いましたし、このブログにも書きましたし、授業でもしゃべりましたので、改元に感謝したいところです。
「枕草子」の時間には歴史に興味を持つ方が来られていますので、このブログにも時々書いた

    九条殿遺誡

を読んだりもしました。こんなのを読むのに付き合ってもらえるのだろうかと恐る恐る始めたのですが、皆さん熱心に聴いてくださいました。
それどころか、おもしろいと言ってくださる方もあり、また何か「枕草子」に関りのある昔の史料を読んでもいいかもしれない、と思い始めています。
「源氏物語」は継続して読解しているのですが、この講座で、すでに全体の15%以上を読んだことになるのです。今は「紅梅(こうばい)巻」を読んでいますが、今年中にいわゆる

    宇治十帖

に入ることになります。
どちらの講座にも長くお付き合いくださっている方が多く、ありがたい限りです。ただ、中にはあっという間に辞められる方もあって、こういう方には実に申し訳ない気持ちになります。何が合わなかったのかな、とお尋ねしたいくらいです。
その講座も今日で一段落して夏休みに入ります。次はまた涼しくなることにお目にかかります。

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パソコン持って 

頻繁に図書館通いをする生活をしています。
仕事場の4階はめったに人が来ないところで、しかも私の専門分野の本が集められているところなので、はかどるのです。また、ネットがつながりませんので、多少は不便ではありますが、気が散らずに勉強できます。
そんな事情で時間が30分以上取れる場合はパソコンを持って4階まで登っています。
学生は図書館の使い方をあまり知らないこともあり、またパソコンがないと何も調べられないのかもしれませんし、また、専門分野の本が下の階にあるからでしょう、4階まではめったに上がってきません。
それでも、

    エアコン

が入っていますから、夏も冬も快適に仕事ができます。眠くなったら10分くらい居眠りをしますが、誰に遠慮することもありません。
それにしても私がいなくなったら、この4回の書籍は宝の持ち腐れになるかもしれない、と思えてもったいなきかぎりです。
今どき、国文学なんて学問の内に入れてもらえないような風潮がありますが、私が学生の頃はほんとうに研究が盛んで、そのころに書かれた書籍が今なお重要な意味を持っていることが少なくありません。
これらの本を書かれた先生方のお顔を思い出しながら、とてもありがたい気持ちで勉強させていただいています。
私の学問レベルはせいぜい

    大学院生

程度ですので、今なお「研究している」というよりは「勉強している」という感じなのです。夏休みも図書館に通おうかな、と思ったりしています。

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相談のメール 

私は、今仕事場では学生以外とはほとんど話す機会がなく、空いた時間は図書館で勉強していますので、学生以外とはまず会わないとも言えます。
それだけに、教員から無視されても平気なのですが(笑)、学生から無視されるのは寂しいものです。逆に何か声をかけてもらうととても嬉しい気持ちになります。
このところ、学生から次々に相談事があるといわれます。
多いのは家庭内でのもめごと関連です。彼女たちも、そろそろ独立心が旺盛になってきますし、親は逆にますます心配になってくるでしょうから、衝突も起こりやすいようです。
先日は

    独り暮らし

に踏み切りたいけれどもどうだろうか、という相談がありました。
独り暮らしにはリスクがあります。お金がかかることを始め、危険もありますし、生活が乱れる可能性もあります。買い物や家事などにも時間がかかります。
以前、ある学生は4年生になって授業時間が減ったのを機に、下宿をやめて実家のある岡山からの

    新幹線通学

に切り替えました。授業を二日だけに抑えて、朝早くやってきて授業を受け、その日は友人の家に泊めてもらって翌日また授業を受けて夕方に帰るという生活でした。とても快適だと言っていました。新幹線の料金なんて下宿することを思えば安いものです。
そんな具体例も挙げながら、下宿のデメリットも話しました。しかしおそらく彼女は一人ぐらいに踏み切りたくて仕方がないようなので、あまり反対ばかりするのもどうかと考えました。
あとはご両親にどう話すか、そしてどういう下宿を見つけるかの問題も大切だということを言いました。下宿によってはひどいところもあり、また夜などは危険を伴うことが少なくありません。
こういうことを私はすべてメールでお返事しています。ですから、かなり長いメールになってしまいます。先日は仕事場で夜8時ごろに書き始めて、気が付いたら9時になっていました。おなかが空いたのなんの(笑)。
しかし、これからも何かあればきちんと考えてお返事しようと思っています。

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夏の花 

学生に「夏の花というと何を思い出しますか?」と聞いたのです。するとその答えは「ひまわり」・・・・以上。
ほかに思いつかない、というのです。そういえば『枕草子』にも蓮の花のことを書いたくだりに、「蓮は、ほかの花が咲かない時節に咲いてくれるのがいい」という意味のことが書かれていました。古来、夏の花は不作なのでしょうか。
しかし今どきは海外からどんどん花が入ってきたりしていますので、ひまわり以外にも何か思い出してもらいたいものだと思うのです。
実はこの質問をしたのは学生に

    時候の挨拶

をするとして、今ならどういうことを言いますか、という話から起こったことなのです。
梅雨の時期であればアジサイを思い出すけれども、そのあとはどうしてもひまわりだけしか思い浮かばないというのです。
思い起せば私も学生時代は同じようなものでした。花の名前というのをまるで知らず、春と言えばタンポポと梅と桜とすみれと・・・そのへんで止まっていたと思います。夏は朝顔が思い浮かんだかもしれませんが、ほかはやはりあいまいだったような気がします。朝顔は歳時記でいうなら秋の花ですが、そんなことも思いつかなかったはずです。
さて、学生には「この際、いろんな花を知っておくのもいいと思いますよ」と言って、時候の挨拶になりそうなものを考えてもらいました。私の家ではグラジオラスが次々に咲いていますし、町の花壇などを見るとインパチェンスとかマリーゴールドとか、アガパンサスとか、和風のものなら桔梗も咲いていますから、そういう花を思いつくかなと思ったのですが。
すると、ある学生が、

    ハイビスカス

を挙げました。「それは『夏過ぎる』でしょ」と一瞬思いました。昔ならハイビスカスなんてハワイかせいぜい沖縄の花くらいに思われたでしょうから。でも、関西地方が亜熱帯のようになってきたこともあるのか、昨今は確かに街中でも見ない花ではありません。
こうやって、学生と一緒に花に興味を持つのも悪いことではないと思っています。

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偏骨 

四代目竹本越路太夫師は私にとって文楽の鑑のような太夫さんでした。何しろ私自身が若くて義太夫節の何たるかがわからない頃にこの方を聴きましたので、ほんとうのところは何もわかっていないのですが、義太夫節というのはこういうものなのだ、というひとつの亀鑑でした。
舞台以外の場でお見掛けしても、たとえば、あの住太夫師にダメ出しをなさっている現場に遭遇したことがありましたが、実に厳しく難しそうなお顔をなさっていました。それでいて、心を許せる人に会われたときの笑顔は逆にとても明るく、パッと花が咲くような感じでした。引退された後、ロビーにいらっしゃったことがあり、ファンの方からサインを頼まれて「はいはい」とお引き受けになっていました。『四代竹本越路大夫』(1984年、淡交社)という本には、奥様(川口松太郎のご息女)が越路師を評するのに

    偏骨

という言葉をお使いになっていることが紹介されていました。偏屈で反骨心が強いから、それをくっつけて「偏骨」だそうです。
私を天下の越路師と並べることなど畏れ多くてできませんが、この「偏屈で反骨心が強い」というのは、どうも似通っているな、と思えてなりません。
同書で、越路師は「高い声を裏に逃げて目いっぱい出さんのも、休んでるのと同じです。出ん声を出しながら使い方を会得するしかないです。ここで苦労せないかん」とおっしゃっています。
私も、まるでレベルは違うのですが、耳を悪くしてからどうしても話がうまくできなくなり、もう駄目じゃないかと思ったことがありますが、そういう時こそ勉強の時だと思いました。そこで

    逃げたらだめ

なのです。越路師はさかんにご自身の「非力」をおっしゃいますが、私はそれを通り越して無力です。だからこそ勉強するほかはないと、それはほんとうにそう思ってきました。
反骨心でいうと、私はとにかく間違ったことは嫌い。間違いを正さないのはもっと嫌い。それができないものに対しては、「おかしい」と口にします。こういう時に黙っておけば世の中は案外うまく渡って行けるのでしょうが、どうしてもそれができません。相手が力を持っている者であればあるほど強く言ってしまいます。
今の、あの総理大臣など目の前に来たら多分ぼろくそに行っちゃうだろうな、と思います。
越路師匠、なんだか一緒にしてしまってすみません。ご本を拝読しているうちになんだか親近感を持ってしまったものですから・・・。

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日本三景 

越路師匠の『四代竹本越路大夫』の、越路師匠が一時文楽を脱退されて新義座で巡業されたくだりを読んでいました。新義座は四代南部大夫、つばめ太夫(のちの八代綱)、越名太夫(五代南部)、野澤勝平(二代喜左衛門)、竹澤団二郎(十代弥七)、鶴澤綱延(五代野澤錦糸)らが結成したグループで、越路師匠は昭和十一年の結成時から昭和十三年に廃業されるまで続けられました。
廃業されたときはよく知られるようにとんかつ屋をなさったのですね。越路師匠はその後昭和十六年に文楽に戻られました。
新義座で仙台に巡業をした時、二日目の公演の朝である昭和十二年六月四日に

    松島

に観光に行ったことがあったそうです。あの日本三景の一つの松島です。そのときに「之で日本三景全部見たわけだ。宮島が一番好い様に思ふ」と日記に書いていらっしゃったそうです。
私も日本三景はすべて見ましたが、一番数多く行った宮島にどうしてもひいきしてしまいます。
宮島の場合は厳島神社という宗教的な雰囲気もありますし、島から本土を見るのが独特の感傷を誘うということもあるかもしれません。
今は神社からあの鳥居を見ると、ちょっと残念なのが鳥居越しにある宗教施設が見えてしまうことです。また、観光客があまりにも多くて、ここ数年は特に

    外国人観光客

が引きも切らずにやってきます。もちろん歓迎されてしかるべきですが、もっと閑散とした神社を知るものとしては、最近は足が向かなくなりました。
広島で暮らし始めたころは桃花祭、管絃祭、菊花祭などになると喜んで出かけて行って舞楽を堪能したりもしました。そうなのです。やはり芸能がともにあるだけにいっそう宮島が印象に残るのだろうと思います。
もうあの神社で舞楽を見ることは叶わないかな、と思いながら、時々思いを馳せています。

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増補もの 

『源氏物語』には「雲隠(くもがくれ)」という巻があります。いや、実はないのですが、タイトルだけが残っています。「幻」巻のあとに、「雲隠」を入れることがあるのです。おそらく紫式部はそういうものは書かなかったと思いますし、またタイトルだけを残すというような妙なことはしなかったと思います。この巻は光源氏が出家して亡くなるまでの部分に該当するのですが、後世の誰かがこの部分の存在しないことを残念に思って書こうとしたか、書かないまでもこういう巻があってもよいはずだと思ったか、そういう事情で

    巻の名だけ

が残ったのかもしれません。
このほかにも『源氏物語』には増補された巻が残されています。なにしろ著作権というものがありませんので、この誰も真似をできないような物語に書き足しをしてやろうという気持ちになる人がいたのでしょうね。
同じように、文楽の演目にも「増補もの」と呼ばれるものがあります。ずばり「増補忠臣蔵」というタイトルのものもあります。
いったい加古川本蔵はどういう事情で山科の大石の所に行くことになったのか、そこに関心を持った人が増補したのですね。
なにしろ四十七士がいますので、それぞれがどのような思いで、またどのような苦難を越えて討ち入りに参加したかを考えると物語になるのですね。ただ、こういう物語はあざとさがある場合が多く、好まない人も多いようです。実は私もあまり好きではなく、「本蔵下屋敷」も何度も観ましたが今なおどういう話だったかが思い出せないくらい面白みを感じません。また、観たこともない(というか最近上演されることがないのですが)

     「松王下屋敷」

など、ぜひ再演してほしいなどとは思わず、ほとんど関心がありません。
今も時々上演される「弥作の鎌腹」なども特に面白いとも思わず、やはりどんな話だったかなぁ、というレベルです。
ついこの間、『四代竹本越路太夫』をパラパラと読んでいたら、越路師匠も増補ものは嫌いだとおっしゃっていました。「阿漕(『勢州阿漕浦』)」「飯原館(『岸姫松轡鑑』)」「小坂部館(『蝶花形名歌嶋台』)」もお好きではなかったそうです。
改作ものもどうしても筆に無理が出てくると思います。原作がいいから増補や改作をするわけで、その原作に匹敵する、あるいは超えるようなものを書かないといけないわけですから、無理が生じるのではないかと思います。
・・と他人事のようなことを言っていますが、あの『フィガロ』も無理があったかなと今になって反省しないでもありません。

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何を捨てるか 

最近、ものを買いません。お金がないので仕方がありませんが(笑)、ほんとうに物を買わなくなりました。本も、以前は惜しむことなく買っていましたが、今は一切買わなくなりました。最後に買った本は何だろうと思い出してもわからない暗い過去のものになってしまいました。
身に着けるものも最低限以外のものは買わないのです。ふと思うと、礼服がありません。結婚式に呼ばれようものならどうしようか(笑)と思います。
それでも、本はそれなりに数が多くなって、今はどのように処分していこうかを考えています。

    読まなくなった文庫本

などは捨てるほかはないでしょう。これだけでも相当すっきりするだろうと思います。単行本でも、小説の類はすぐにでも処分すべきでしょう。
文楽関係のものに悩んでいます。古い本もありますし、絶版になったものも少なくありません。ひょっとしたら欲しいと思う人がいるのではないか、と考えると、ただ捨てるだけというわけにもいかないかな、と思ったりしています。
床本などもほとんどの人にとっては古臭い意味の分からないことの書かれている紙の束に過ぎないでしょうが、、たとえば学生の頃の私などは

    欲しくて欲しくて

たまりませんでした。今もそういう若い人がいないかなと思ったりしています。また、文楽の太夫さんはいらないかな、と思うこともあります。
学会誌などに、欲しい本いらない本のやり取りをするページなどがあったらいいのにな、と思うこともあります。掲載にはそれなりのお金を払ってもらって、そのうえであとは自由に当事者がやりとりするような。
私にとっては大事なものでも二束三文の価値しかないものもあります。そういうものは断腸の思いで廃棄するほかはないのかな。

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芸談の難しさ 

もうすぐ竹澤団七さんの本が出るそうですね。しゃれた感じで、何となく古く良き江戸っ子みたいな雰囲気を持つ方ですが、愛知県生まれでいらっしゃるのだとか。私が文楽を観るようになったころはまだ団二郎を名乗っていらした頃なのですが、そのころどういう方だったのかはよく覚えていません。昭和56年(1981年)に

    竹本津太夫師匠

の相三味線になって団七を名乗られてからはさすがに明確な記憶があります。どちらかというと優しい感じの三味線弾きさんなのに、「尼崎」とか「弁慶上使」とか重厚な時代ものをお弾きになるようになったわけで、もちろんきちんと修行されているわけですから何でもおできになるのでしょうけれど、何と言っても相手が大物ですから大変じゃないのかなと思いました。津太夫師匠も団七さんについて「音がきれいすぎる」ということをおっしゃっていました。津太夫師匠亡きあとは特にきまった太夫さんを弾かれたわけではなく、独特のポジションにいらしたように感じます。一見クール、しかし人間的には温かく、三味線を持ってちょっとしたお話をなさるとお客さんを喜ばせる見事なテクニックをお持ちです。寛治師匠が亡くなって、

    最長老

の三味線弾きになられました。この際、人間国宝になっていただいてさらに次の世代に教えを広めていただきたいと願っています。
芸談が出るのはとても嬉しいことですが、こういう本は簡単に出版できるものではないと思いますので、団七師匠ご自身も、また聞き書きをされる方も、ご苦労なさったこととお察し申し上げております。
私も呂太夫さんのお手伝いをした身として、芸談を本にする難しさをいろいろ感じることがありました。ただ、おしゃべりを活字にするだけなら簡単なのですが、それではいい本にはなりません。やはり、お話を伺って自分が感銘を受けたところを軸にして構成していく、そういう技もいるだろうと思います。これは聞き書きの方と編集者の力量の問われるところです。
こういう本は、やはり一般書ですから、あまり専門的なことになってしまうと文字では伝えにくく、さりとてそこから逃げてばかりいるわけにもいかず、説得力のある形でいかに読者に親切な文章を作るかで苦労するわけです。
さて、どんな本が出るのか、大いに楽しみです。
私は、本はもう買えないので、すぐには拝読できないと思います。今はただ、近所の図書館が勝ってくれることを期待するばかりです。

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著作権侵害? 

学生にヨーロッパ絵画の話をすることがあります。専門外ですから怪しげな内容にならないように頑張って予習するのですが、なかなかうまくいきません。このあいだ「最後の晩餐」を描いたさまざまな絵画を見せると、「『最後の晩餐』はレオナルド・ダ・ヴィンチだけが描いているのだと思っていた」という人が数多くいました。さらに「同じテーマで描くのはいけないのではないですか?」という人もいました。「盗作だ」というわけです。もちろんそんなことはないわけで、教会や王侯貴族が「祭壇(あるいは部屋)のこの位置には『受胎告知』を飾りたい。あそこには『最後の晩餐』だ。だから誰それに描いてもらおう」ということになりますから、同じテーマの絵はあって当然です。一人の画家が複数の注文を受けて、そっくり同じような絵を描くこともままあります。

    エル・グレコ

の大原美術館にある「受胎告知」はブダペストにあるそれと、私などは一見区別できないくらいです。
時には注文主である人物をその絵の中に描き込むこともあって、これなどは失礼ながらちょっと笑ってしまいます。
百合を持った大天使ガブリエルがマリアに受胎を告げる姿はある程度似通いますが、それを受けるマリアの姿は、驚愕、困惑、恭順などとりどりの反応が感じ取れるように思います。
ロットの「受胎告知」のように逃げようとするかのようなものもあり、ボッティチェッリのように身をくねらせるような姿もあり、もちろん敬虔な姿で告知を受け入れる者も数多くあります。
大天使とマリアの位置も多くは

    大天使が左

で、低い位置にいるようですが、たとえばカラヴァッジョの「受胎告知」は大天使が覆いかぶさるように告知し、マリアは低い位置で受け入れます。しかも、アンジェリコにせよレオナルドにせよ、たいていは崇高な聖女として描かれたマリアはごく普通の平民の婦人という感じがします。
エル・グレコやロット、ルーベンス、ブッサンなどは大天使が右側にいます。
つまり同じテーマでも、さまざまに画家が工夫を凝らしてきたわけで、こうなると著作権なんてありえないでしょう・・・という話をしています。

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時の氏神 

落語に「天狗裁き」があります。やはりこれは米朝師匠のもので、私はおそらくほかの人では聴いていないように思います。喜八が転寝をして妙な顔をしているので妻のお咲が揺り起こして何の夢を見ていたのかを聞く。しかし喜八に夢を見た覚えはない。私にも言えない夢なのか、と早速喧嘩になって、そこに割って入ったのが隣の徳さん。ところがこの徳さんも夢の話を聴きたい。しかし見ていないというのでまた喧嘩になり、家主さんが割って入る、これを繰り返して次はお奉行、次に天狗の裁きを受けるという大騒動になります。
こういう時に喧嘩の中に割って入るとき、「仲裁は時の氏神」などといいました。米朝師匠も徳さんのセリフとして

    「わしは氏神さんや」

と言わせていたように思います。たしかに喧嘩をすると当人同士は興奮したり後に引き下がれなくなってしまったりで仲直りのきっかけを失います。片方が年長であれば、年少者が謝って年長者は「いや、こちらこそおとなげなくて」ということで収まる場合もあります。スポーツの世界ではしばしばあって、野球で危ないボールを投げて一触即発になった場合、翌日あたりにお互い頭が冷えたところでこうやって仲直りすることもあります。
めんどうなのは政治家連中で自分が損をする形ではなかなか折れることがなく、折れるためにはなんらかの言い訳が必要になってきます。
大阪でも、ある政党が大阪市を廃止する案に反対していたのに、「選挙で民意が分かったから折れる」という理屈で考えを改めていました。要するに次の

    自分の選挙が心配

なのでしょう。そんなことを言っていたら、選挙で与党が過半数を取ったら野党は「民意は与党にあるから」といって主義主張を変えなければならないことになります。私は、こういう政党は一切信用しません。
時の氏神はたしかに必要な時があって、矛先を修めさせてくれるのはありがたいものです。私も何度も喧嘩はしましたが、基本的には自分が我慢することで収めることにしてきました。こういう時にうまい氏神がいてくれたらなぁ、と思うこともありました。だから、本気で喧嘩してしまって我慢することができなくなった場合は、矛の収め方が分からずにブチギレしてしまうこともあって、損ばかりしています(笑)。我慢しても損、主張しても損。
そういえば先だってアメリカとイランの仲裁をしようとして氏神気取りで出かけて行った人がろくなこともできずに帰ってきた、という例がありました。やっぱり、大きな喧嘩は天狗にでも裁いてもらわねばどうにもならないのでしょうか。

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