3月のニンニク
昨年の9月に植え付けたニンニクですが、あれから半年が過ぎました。栽培を登山に喩えると7合目くらいまで来たというところでしょうか。
種の小さかったものはやはり育たず、すでに葉が枯れてしまったものがあります。一方、大きなものはやはり育ちがいいようです。弱いものは淘汰される、自然は無情です。
2月にはリン酸とカリウムの多めの肥料を与えました。これまでは適当に「野菜のための化成肥料」を標榜するものを施していただけでしたが、ホームセンターに行ってみると
NPK(窒素・リン酸・カリウム)
の配合だけでもいろんな種類のものがあることに気づきます。そういうのを眺めるのもまた面白いものだと思います。
冬の間はあまり成長がありませんでしたが、今年は暖冬ということもあってか、春の兆しが見え始めるとまた新しい葉が出てきました。葉の長さは長いもので
50cm
くらいかと思います。
葉は元気に天を突きさすように(というのはやや大げさかもしれませんが)伸びていて、昨年に比べると葉の厚みがしっかりしているような気がします。
茎もかなり太くなってきました。
↑2020.03.14撮影
この2、3日はやや冷えましたが、春が本格的になってくるとさらに成長があるでしょうし、そのうちに花芽も出てくるはずです。
次に記事を書くときは花芽のころかなと思います。
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- [2020/03/31 00:00]
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名前の封印
以前も似たようなことを書いたと思いますが・・・。
桐竹紋壽さんの『文楽 女方ひとすじ』を読んでいると、紋十郎師への尊敬の念がひしひしと伝わってきます。
紋十郎師は、日常生活の中でも勉強はできることなどを撤格に教えられたようで、またそれをきちんと実行されるお弟子さん=紋壽さんもさすがというほかはありません。
大師匠にあたる吉田文五郎師への紋十郎師の態度もまたいかにも明治の人たちらしい厳しい礼節を感じます。押しも押されもしない花形の紋十郎師が八重垣姫を遣われたとき、文五郎師に「お姫さんらしぃ遣(つこ)てたなぁ」と言われて欣喜雀躍されるなど、ほほえましくさえあります。
ところで、紋壽さんは人形遣いになった当初は
紋若(もんじゃく)
を名乗っていらっしゃったそうですが、なにかよくないというのですぐに紋壽に変わったそうです。その後、襲名なさることなく、終わられたのですが、名前替えの話はなかったわけではないそうです。
昭和三十四年に紋之助さんが四代目豊松清十郎を名乗られました。この名前は岐阜の人形遣いさんのものだそうで、紋十郎師がその名前を預かって紋之助さんに名乗らせたのだとか。そして紋二郎さんには桐竹三左衛門の名前を打診されたそうです。でも紋二郎さんは自ら望まれて
三代目吉田簔助
を名乗られたのでした。すると紋十郎師は紋壽さんに「三左衛門」の名前を打診されたそうです。しかし吉田玉市、桐竹勘十郎(二代目)の両師からやめておくように言われたこともあって紋壽のままになったそうです。
この話の最後に紋壽さんは紋十郎の名前についてひとこと触れていらっしゃいます。紋十郎の名前は師匠のご子息が「封印」されたので、今後表に出ることはない、とのことです。
桐竹紋十郎――とても粋な名前です。もったいないです。誰にも継がせたくない、というご遺族の気持ちはわからないでもないのですが、どうも私はすっきりしません。特に紋十郎の名前は二代目ですので、むしろ長く続く方が二代目の功績も生きてくるように感じるのです。
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- [2020/03/30 00:00]
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無観客(2)
アマチュアのスポーツの場合、観客がいなくても自分たちの楽しみという意味ではなんとかできないわけではありません。草野球なんて、そんなものでしょう。私も身に覚えがあります。しかし、演劇になると、いくらアマチュアでも、お客さんのいない劇場で演じても意味がありません。
19世期後半の話ですが、ババリア王ルードウィッヒ2世という人が、王立劇場の
お抱え役者
は自分のものだからというので、ある日、一人で観劇すると言い出して、ほかのお客さんを入れずに演じさせたという話があります。その芝居、おもしろくなかっただろうな、と想像されます。
以前NHKだったと思いますが、スタジオ録音の落語というのがありました。当然スタッフさんはいますが、無観客(無聴衆)で、笑い声はありませんでした。やはり
つまらなかった
です。
もっとも、逆に笑い声を過大に入れて放送している(これは民放でした)お笑い番組があり、これはこれで逆にうっとうしいものでした。
「芝居」というのは草の生えている居場所のこと。つまり観客席です。観客席(もちろんそこには人が座っている)がないと芝居は成立しません。
テアター、シアター、テアトルなどの語も、語源は「観る場所」を意味するテアトロンだそうです。
世阿弥も能における観客の持つ意味をとても重く見ていました。
お金もうけの話ではなく、演劇というのは、観客に入ってもらわないと演じられないものなのです。
今の状況は舞台人にとってはきわめてつらいものだと思います。
劇作家の野田秀樹さんが劇場の閉鎖に対する抗議のメッセージを出されたそうです。反論も多数あったようですが、おっしゃっていることは、基本的に間違いはないと思います。
戦争と疫病は文化の敵
で、下手をするとあまり力を持たない分野の文化を破壊することもあり得ると思います。
学校の閉鎖も、私の素人考えではあまり効果はないように思います。少なくともこの試練を忘れずに、また同じようなことが起こった時には過ちを繰り返さないようにしなければなりません。
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- [2020/03/29 00:00]
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無観客(1)
大相撲春場所は観客のいないところでおこなわれました。
プロ野球のオープン戦も無観客でした。
そして高校野球はついに中止になってしまいました。
「春はセンバツから」という、メディア(毎日放送?)の作ったコピーがあり、関西の春は東大寺のお水取り、センバツ高校野球、大相撲春場所という催しの連続で一気に花開くものでした。「年年歳歳花相似たり」といいますが、今年は、「歳歳年年催し同じからず」のようです。
それにしても、中学や高校のクラブ活動の試合でもたいてい応援する人はいますから、無観客というのは力が入りにくいだろうな、と感じてしまいます。
もっとも、昔の
阪急西宮球場
でおこなわれた「阪急・ロッテ戦」などでは、公式発表で観客「1000人」とあっても(当時は実数では発表しなかった)試合開始段階だと数十人ではないかと思えるくらいでした。
阪急の山田が投げ、ロッテの落合がバッターボックスにいる。福本が塁に出て駆け回る。ブーマーがとんでもないホームランを打つ・・・。当時、それぞれの分野(投手、打者、走者、守備など)で日本有数の選手たちです。それなのに観客はちらほら。なにしろ、内野の応援団の人の声が球場中に響き渡りましたし、「ひとり、ふたり」と観客の人数を数えることすらできたのですから。
余談ですが、
福本さんの盗塁
はすごかったですよ。まだピッチャーが足をあげていない、つまり牽制しようと思えばできるタイミングに見えるのにもう走っちゃうんです。ピッチャーはなぜかホームに投げて、キャッチャーが受けたころには福本さんはすでに二塁の手前にいましたから今さら送球もできない、そんなすさまじい盗塁でした。あれを目の当たりにできたのは西宮球場にしばしば出かけた者の特権でした。ただ、選手たちは満員の中で野球がやりたいだろうな、という、寂しさは感じました。そういえば、オールスター戦が西宮球場で行われたとき、私は観に行ったのですが、さすがに超満員でした。この試合で、福本さんが最高に張り切って、普段の試合では見せないような(失礼!)すばらしい守備を見せたこともありました。
大阪朝日座の文楽も、日によっては悲惨な状況でした。六代豊竹呂太夫さんはお客さんが30人くらいのことがあったとおっしゃっています(『文楽 六代豊竹呂太夫』)が、確かにあの頃は人気がなかったです(地方公演ではそこそこ入っていたと思うのですが)。技芸員さんはどんな気持ちで演じていらっしゃったのだろう、と気になる所です。
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- [2020/03/28 00:00]
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何もない春です
東京に行ったとき、例の新型ウィルスが俄然問題になってきていました。といってもまだ学校が休みになったり美術館が軒並み休館になったりする直前のことでした。
そのため、私はほとんど問題なく東京でのスケジュールをこなしたのですが、やはり何となく旅先の不安というのか、こちらに来ると感染してしまうのではないかという思いが漠然とありました。しかしそれからすでに1か月が経ち、何の症状も出ていないということは、あの国立博物館や国立新美術館の
混雑
にもかかわらず感染はしなかったということでしょう。ちなみに、その間、手洗いはいつものように頻繁にしていましたが、マスクはしていませんでした。
ではその後も元気溌剌かというと、なかなかそうはいかないのです。
東京ではかなりの距離を歩いたのですが、特に問題はなかったのです。でも、その疲れが出たのか、関西に戻ってからしばらくしてからはいささか不調が続いているのです。
熱がある訳でもなく、咳き込むこともめったになく、それでもしんどさが平素以上です。単にからだにガタが来ているだけ、というのであればいいのですが、果たしてどうなのか。仕事場には電車で1時間。徒歩も含めると
80分
かかります。それだけに、図書館に行きたくてもどうにも億劫なのです。この春は平安時代の物語をいろいろ読み返すつもりでいたのですが、はかどっていません。
もう今さらあまりじたばたすることも内かな、と思わなくもないのですが、何となく憂鬱な春休みです。
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- [2020/03/27 00:00]
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自信などありません
創作する人って、自分の書いたものを自信満々に世の中に送り出すものなのでしょうか。超一流の人になるとそういうこともあるのかもしれません。しかし私のように、創作と言ってもちょっとしたことを古めかしい言葉にしているだけのような者は、文学的センスに欠けるという自覚がありますから自信なんてまるでありません。
自分の書いたものが語られるときというのは
ハラハラドキドキ
です。
能勢町の新作浄瑠璃は笑いが基本ですので、初演の時など、お客さんが本当に笑ってくれるのだろうか、という不安でいっぱいでした。実は初演の前に語りだけの試演があったのですが、このときはあまりうまくいかなかったように思います。お客さんもシーンとして、これはまずいことになったと思ったものでした。もっともそのときは能勢町の町政0周年だったか何かの記念式典だったので、そもそも厳粛なムードがあってあまり華やぎがなかったという事情はありましたが。
人形が入っての初演の時は、地元の子どもたちにも観てもらう機会があったのですが、その時の様子を(私は行っていませんので)館の方にうかがいましたら「何度も
ワーッと笑いが起こり
ましたよ」と言われてほっとしたものでした。その後も演出に工夫が重ねられたこともあって、いつぞやピロティホールで上演されたときは周りのお客さんはけっこう笑っていらっしゃいました。
呂太夫さんに語っていただいた「ルター」もまるで自信はありませんでした。何しろ1週間でバタバタッと作ったものですから、うまくできませんでした。しかしさすがはプロです。うまく語ってくださって、さほどの破綻もなかったように感じました。
「フィガロの結婚」に至っては、高いお金を出していただいてご覧いただくものですから、さらに不安でした。もっともあの作品は藤田六郎兵衛さんとの共同で書いたものなので、六郎兵衛さんがうまくカバーしてくださってなんとかなったかな、という感じでした。
野澤松也師匠の創作浄瑠璃はお客さんの数が
十人からせいぜい数十人
ですので、独特の雰囲気があります。聴き慣れていらっしゃる、いわゆる聴き巧者の方が多いので、そう簡単に感心していただくなんてことは無理です。むしろ批判されてしまうのではないかと恐ろしい気持ちでいっぱいなのです。
わたしはこれまでに自作を語っていただく場に4~5回顔を出しているのですが、語りを聴くことができないため、ほとんどお客さんの様子を見ているのですが、
心臓に悪い
です。先月の東京での「異聞置いてけ堀」は笑いの要素の強いものなのですが、皆さんが笑ってくださるかどうかを観ている私の気持ちはとても笑えるものではないのです。
また4月か5月あたりに「異聞片葉の葦」を演奏していただけるかもしれませず、これもまた楽しみな反面、心配で仕方がありません。
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- [2020/03/26 00:00]
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ドッサリ、追抱
学生時代に谷崎潤一郎の小説はかなり読みました。内容を本当に理解したかどうかは別として、10冊や20冊ではありません。初期の、あまり知られていない作品もけっこう読んだのです。もちろん、著名な作品は愛読しましたので、「蓼喰ふ虫」も何度か読みました。この作品には登場人物が弁天座で人形浄瑠璃の「天網島」を見る場面が出てきます。大正十五年に御霊文楽座が焼失して昭和五年に四ツ橋文楽座が開場していますので、弁天座時代はその間です。
また、登場人物が淡路の源之丞の芝居の見物に行く場面もあって、そこでは大阪から豊竹呂太夫が
追抱(おいだき)
として出演しています。
「蓼喰ふ虫」はその時の「ビラ」を次のように挙げています。
内務省免許 淡路源之丞大芝居
洲本町物部常盤橋詰
三日目出物
生写朝がお日記
□初幕宇治ノ里蛍狩ノ段
□明石舟別レノ段
□弓ノ助屋敷ノ段
□大磯揚屋ノ段
□摩耶ヶ岳ノ段
□浜松小屋ノ段
□戎屋徳右衛門宿屋ノ段
□道行ノ段
太功記十段目(追抱)
お俊伝兵衛(追抱)
(追抱)
吃又平
大阪文楽 豊竹呂太夫
一人前五拾銭均一 但シ
通券御持参ノ方ハ参拾銭
この呂太夫師は昭和初年ですから二代目です。この方は十代豊竹若太夫師の師匠に当たり、初代鶴澤重造師のご子息で四代目鶴澤重造師のご尊父でもあります。作品中では「ビラ」にあるように「吃又」を語るのですが、このとき「大阪の太夫ということに反感を持つらしい土地ッ児と、そうでないもの」との間に険悪な雰囲気があって、ついに喧嘩が始まり「おかげで折角の真打ちの語り物がとうとう滅茶滅茶にされてしまった」というエピソードも描かれています。追抱というのは座付きの太夫ではなくゲストとして招かれる人のことです。このときは、追抱が三段語っていますが、これは呂太夫がすべてを語ったのではなく、ゲストが三人いたということなのでしょう。呂太夫のみ名前が出ているのはやはり別格なのでしょう。
呂太夫は、ここではトリとして出演しているのですが、桐竹紋壽『文楽 女方ひとすじ』によると、追抱は最後から二番目に語るのだそうで、トリは淡路の「本太夫」とされる人が語ったと言います。追抱には徳島から呼んだり、大阪の女義さんを招いたりすることもあったとのことです。やはり「文楽の呂太夫」ということでトリになったのでしょうか。
文楽の人が淡路の芝居の追抱として語るのは、今ならありえないでしょうが、当時の芸人さんは文楽に出たかと思うと地方に行ったりして落ち着かない人もいたようで、とくにこの二代目呂太夫という人はしょっちゅう旅をしていたのだそうです。
追抱のあとに出るトリの「本太夫」は、文楽でいうなら切語り、あるいは紋下のような感じなのでしょうか。トリのことを義太夫の世界では
ドッサリ
ともいいました。
上方の寄席で「ドッサリ」というといわば真打で、これは終わりから二番目に出るのだそうです。最後に出るのは「トリ」ではなく古参の人が務めた「追い出し」で、出口が混雑しないように「ドッサリ」はわざわざ終わりから二番目に出した・・・という説明は牧村史陽『大阪ことば辞典』にありました。
ドッサリというのは重量感や手ごたえがある立場であるところからそう言われたのでしょうか。
久しぶりに紋壽さんの本を拝読していて、いろいろ学び、感じることがありました。
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- [2020/03/25 00:00]
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読点
私は文章を書くとき、読点を多用することを好みません。文章は他人様に読んでいただくものでもあるので、意味が切れるところでは効果的に用いるとわかりやすいものです。しかし、逆に多用しすぎるとぶつ切りになって見た目も美しくなく、また読むときにもかえって混乱しかねないと思うのです。
たとえば、先ほどの文章で私は「意味が切れるところでは効果的に用いるとわかりやすいものです」の中にはまったく読点を用いませんでした。多用する方であれば「意味が切れるところでは、効果的に、用いると、わかりやすいものです」とされるかもしれません。文章のプロとされる小説家の文章を読んでいても、こんなに読点を使うかな、と疑問を持つことが少なくありません。
谷崎潤一郎
の小説には意図的に読点をほとんど用いないものがありましたが、現実の文章ではあそこまでするのは難しいと思います。それでも私は読点は少なめの方がいいと思っているのです。
こんなことを考えたのは桐竹紋壽さんの『文楽 女方ひとすじ』を読んでいてそこに引用されている新聞記事(神戸新聞)を見たからです。引用ですので、原文がこのとおりかどうかはわかりませんが、ためしにその一部を写してみます。
これは文化の日を中心に国会図書館が開催している
人形文化資料展に公演される阿波と淡路合併の「人
形芝居」の人選に当り、乙女座座元中野篤一郎氏引
田師匠が子供でも間違いないと太鼓判でとくに山口
君を推薦したものだが(以下略)
なんと、これだけの文に読点は一つしかありません。私なら
これは、文化の日を中心に国会図書館が開催している
人形文化資料展に公演される、阿波と淡路合併の「人
形芝居」の人選に当り、乙女座座元中野篤一郎氏、引
田師匠が、子供でも間違いないと太鼓判で、とくに山
口君を推薦したものだが(以下略)
という程度には打つだろうと思います。
さらに驚くべきは、この文はこの後まだ続き、ほぼ
200字でひとつの文
を作っているのです。今の文章表現法の授業でこの文章を評価せよと言われたら「長すぎる」と言われるでしょう
ひとつの文が極めて長く、読点はめったに打たない。たった70年ほど前のことなのですが、当時(昭和二十三年)の文章のありかたをよく伝えてくれると思います。
※引用した神戸新聞の記事にある「引田師匠」は引田
咲鬼次(さきじ)師、「山口君」が紋壽さんです。
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- [2020/03/24 00:00]
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和歌山の六太夫
和歌山県出身の学生が卒業論文で地元の芸能について書いたそうです。彼女は子供のころからピアノを弾き、大学生になると地元の芸能を継承したいという思いから三味線を習い始めて名取になっています。
2月の初めには韓国からの留学生にその腕前を披露してくれました。
その学生から、昨年末にこんなメッセージが届きました。
「地元で聞き取り調査をしていると和歌山のある地区では各家庭に三味線(おもに太棹)があったらしく浄瑠璃語りが盛んだったそうです。そして『六太夫の人形芝居を演じた』と本に書かれていたのですが、『六太夫の芝居』ってどういうものですか?」
ということでした。
直接卒論とは関係ないそうですが、気になるので、ということでした。
私は折り返しお返事をしました。
「それはおそらく淡路島の
小林六太夫座
のことだと思います。淡路島の人形座は、ある座は九州中心に巡演し、ある座は中国地方中心にまわり、という具合に地盤のようなものがあって、小林六太夫座は紀州を中心にして大阪南東部、奈良地方にも行ったそうですよ」と。
彼女は納得してくれて、疑問が解けたと喜んでいました。そのときはそれだけのことだったのです。
その後、桐竹紋壽さんの『文楽 女方ひとすじ』を再読していたときに、はたと手のとまるページがありました。
小林六太夫座の座元をされていた中野さんという方が、紋壽さん、というか当時の山口少年を中心にして子どもの人形座を作ろうとおっしゃったそうで、多くは女子の劇団で、星座みたいですが、
乙女座
と命名されました。1948年、紋壽さんが文楽に入られる2年前、14歳になられる年のことでした。このころから山口少年は小林道之助を名乗られたそうで、この小林はやはり六太夫座を由来とするのだそうです。
乙女座は淡路島の洲本、福良、志筑などをまわったほか、
「船に乗って神戸の八千代座や和歌山」
にも行かれたそうです。
和歌山! やはり六太夫座ゆかりのところに行かれたのだ、と気が付いたのです。
あの学生にはもう会うことはないかもしれないのですが、LINEででも乙女座のことは伝えておこうかなと思っています。
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- [2020/03/23 00:00]
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化け猫
文楽人形遣いの桐竹紋壽さんが亡くなって3年になります。呂太夫さんの本の最後の仕上げのときに訃報が入り、脚注に入れていた紋壽さんの略歴にあわてて没年を書き加えたことをついこの間のように思い出します。あのときは、三月いっぱいで松香太夫さんが引退なさるという情報が入っていて、三月二十日刊行の本にそのことも書き入れるかどうかなどギリギリのところまで打ち合わせがありました。
・・それで思い出しました。この際ついでにお詫びと訂正をしておきます。呂太夫さんの本の72ページの紋壽さんの略歴の部分で、出身地を「洲本市」と書くはずのところ
「州本市」
になっています。お手数をおかけしますが「さんずい」を入れておいてください。
さて紋壽さんなのですが、この方は根っからの芸人さんというか、子ども時代から踊りや芝居をなさっていたことはよく知られます。2001年に『文楽 女方ひとすじ』(東方出版)という本を出されましたが、それを拝読すると幼いころから芸事になじんでいらっしゃったことがわかります。紋壽さんの生母でいらっしゃる方は若くして亡くなり、ご尊父の再婚相手となった方が育ての親となってくださったのだそうです。この方が小唄、端唄、踊りなどを教えていたことが紋壽さんの人生に大きな影響をお与えになったのでしょう。
また、ご尊父も戦後になると専門の興行師をなさるようになり、
阪東妻三郎
をはじめ、大河内伝次郎、長谷川一夫、黒川弥太郎などという著名な大スターも一座を組んで紋壽さんの地元の淡路島にお招きになったようです。長谷川一夫さんは大人気だったためににせものが横行したらしく、「長谷川二夫 来る」と、看板の「一夫」の「一」字の上に小さな点のようなものをつけてごまかして偽物が芝居をしたという話を露の五郎(のち五郎兵衛)さんの本だったか何かで読んだことがあります。化粧をしてそれらしく演じたらわからないでしょうね。しかし、そういう噂が広がって、ほんものの長谷川さんが淡路に来られた時も偽物に違いない、というので当初チケットが売れず、本物だとわかるや爆発的に売れたという話も紋壽さんのご本に書かれています。紋壽さんは長谷川一夫さんの遺品もいただいたとのことです。
さて、そういう話の中に、ひょっこり「化け猫の鈴木澄子一座」という劇団の名前が記されています。
鈴木澄子さん(1904~85)
は東京下谷生まれの女優さんで、さまざまなキャリアを積まれた後、1937年に木藤茂監督の「佐賀怪猫伝」に出演(大友柳太郎などと共演)されて、そのあと「有馬猫」「怪猫謎の三味線」「山吹猫」などの映画にも出られました。そして一座を組んで「有馬猫」などを上演されたそうで、アメリカ公演までなさっています。こうして鈴木さんは
「化け猫女優」
と称されるに至ったのだそうです。このかたもまた洲本に来られたのですね。紋壽さんは鈴木澄子一座の方に化粧もしてもらって衣装も着せてもらい、「勘太郎月夜」を踊ったことがあるとも書いていらっしゃいます。
今や、猫はペットの王者のような存在で、「化け猫」なんてはやらないのかもしれませんが、何を考えているのかわからないような独特の雰囲気を持つニャンコは昭和10年代あたりの世相とリンクしてかなり人気があったのでしょうね。
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- [2020/03/22 00:00]
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春の訪れ
たぶん4年前だったと思うのですが、思い立ってグリーンアスパラを育てることにしました。早速ホームセンターに行くとぐるぐる巻いたかたちの「根」を売っているのを見つけました。これを買って植えると、すぐにでも収穫ができる、というものでした。でも1,500円くらいしたので即座に却下(笑)。一方、種は200円くらいでありました。そもそも、育てることに意味があると考えているものですから、種からスタートしようと思いました。こちらは収穫できるまで数年かかります、とのことでした。まあいいさ、気が長い人間ですから、数年くらいどうってことはないのです。
そしてこのアスパラ、年々忘れずに芽を出してくれます。直径30㎝ほどの野菜鉢に植えているのですが、毎年
3月半ば
になるときちんと芽が出るのです。
3月11日の朝、もうそろそろかな、と思って覗き込んだら、綿棒くらいの大きさの芽が二つ出ていました。春が来たな、という感じで、あの瞬間はやはりうれしいものです。
そして翌日には一回り大きな三つ目の芽が出ているのを見つけました。
これまでの数年は芽が出てもしっかり光合成させて栄養をため込んで根を張らせるためにあまり収穫はしませんでした(去年初めて数本採りましたが)。しかし、今年あたりからは本格的に採ってもいいらしいのです。
正直なところ、私はあまりグリーンアスパラを好みません。しかし、庭で採れたものとなるとやはり格別なものです。ぜひ賞味してみたいと思っています。
↑2020.03.21 朝10:30
もうひとつ、育てつつあるのは
ニンニク
ですが、こちらについては明日また書きます。
これから暖かくなると夏野菜を植える時期になります。浅めのプランターしか空いていないので、キュウリやトマトは難しく、シソなどのちょっとした葉っぱものがいいのかな、と思ったりしています。
いろんなことのある昨今ですが、春が訪れてきたことだけは間違いありません。
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- [2020/03/21 00:00]
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尻尾にも魂がある
週刊誌というものを買ったことがありません。
正直に申しますと、怪しげな記事もある、という偏見を持ってきました。
しかし、週刊誌でなければ書けない記事があって、それが時として極めて重要な問題を提示することもあります。
以下、言葉が汚くなるかもしれませんが・・。
週刊文春が自死された近畿財務局の職員さんの残された手記などを掲載したそうです。
また、この職員さんの奥様が国と当時の理財局長に対して損害賠償を求める裁判を起こしたのだとか。奥様にしてみると損害賠償よりも事実を明らかにしたいという思いが強いのだろうとお察しします。
職員さんは、財務省が国会などで
虚偽の答弁
を貫いていることで大変な苦しみを味わったとおっしゃっています。
その他、新聞記事によると、信じられないようなことが財務省の中で行われていると書き残されています。
その中で、この方は「うそにうそを塗り重ねる」というやり方を財務省がおこなっているともおっしゃいます。
さらに、ご自身の奥様の
人生を破壊したのは財務省理財局だ
と叫んでいらっしゃるのです。ご自身でなく、奥様の。
トカゲの尻尾切りという言葉があります。力のある者は、尻尾さえ切っておけば本体は安全、と考えているのです。あとは沈黙を守る、というか、知らん顔を決め込めば時間が解決すると思っているのです。私の身の回りでも同じことがあります。
ふざけるんじゃない、尻尾にも魂がある。
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- [2020/03/20 00:00]
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残部、あります
野澤松也師匠に語っていただいている「江戸情七不思議」を活字にしたものが2月にできました。味もそっけもない小冊子で、せめて「そっけ」くらいは付けてほしいのですが、無理だろうなぁ。
そんなものではありますが、松也師匠の東京のマネージャーさんが「東京でのライブでみなさんにお配りするから欲しい」「後日のライブでも配布予定なので余分も欲しい」と言ってくださいましたので、まとまった部数をお渡ししてきました。
京都で行われているライブでもあるいは上演していただけるかもしれず、そのときのために師匠のご自宅にもいくらかお送りしました。
その他、「ちょうだい」という方がいらっしゃいましたので差し上げた結果、
30部ほど
残っています。
以前であれば「だしまきの夕べ」にもっていって皆さんに押し付けたのですが、今はそういう機会もなく、このまま廃棄処分かなという状態です。
けっして神棚に置いてくださいなどと申し上げるようなものではありませんが、どんなのか
見てやってもいいぞ
とおぼしめす奇特な方がいらっしゃいましたらいつでもおっしゃってください。
お目にかかれる機会を見つけてお持ちいたします。
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- [2020/03/19 00:00]
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ラリックといえば
東京都庭園美術館も例の新型ウィルスの影響で一時的に閉館になっているようですが、少し前にここに書きましたように、アール・デコの工芸家ルネ・ラリック展が行われています。
アール・デコの作品はさまざまな分野に広がりを見せ、建築ではアメリカのエムパイア・ステート・ビルなどがあり、ガラス工芸では何といってもラリックが第一人者だそうです。
そして、朝香宮鳩彦王がフランス滞在時にアール・デコの美に感銘を受けて、白金台に自邸を建てるときにもその様式を取り入れたのだそうです。まさにその朝香宮邸の跡である東京都庭園美術館はラリックの展示をするのにうってつけと言ってよいのでしょう。余談ですが、「白金台」はずっと「しろがねだい」と読むのだと思っていましたが、「しろかねだい」が正しいのですね。
そのラリックの作品にカーマスコット(車のボンネットのラジエターキャップにつける装飾品)である
五頭の馬
があります。これはシトロエンの車、ソトロエン5CVのために作られたものと言われています。
この作品は、畏友松平盟子さんの三番目の歌集である
『シュガー』
のカバーに用いられたものです。1989年7月の刊行ですから、平成が始まった年ですね。
私はこの歌集をご本人からいただき、扉の部分に歌を一首書いてもらっています。
三十代日々うれてあれ
この夜のロゼワインわれを小花づめにす
三十代の前半、ワインの好きな松平さんらしい歌です。この夜のロゼワインは私を小花詰めにする。こんなこと、とても言えるものではありません。
私はラリックと言えば松平さんのこの歌集を思い出します。
↑松平盟子歌集『シュガー』
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- [2020/03/18 00:00]
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東京の忘れ物
東京に行ったのに、できなかったことがいろいろあります。富士山を拝めなかったこともその一つですが、以前の私なら考えられないのが文楽を観なかったことです。噂ではかなり空席があったらしく、1月の大阪に続いて不振ですね。新型ウィルスの影響もあるのかもしれませんが、チケット発売とともにいい席は売り切れるという以前の状況とは違ってきたのでしょうか。
満員御礼
の立て看板は出たのかな?
東京は1300万人です。神奈川、千葉、埼玉などの隣県も含めると2500万人くらいはいるのでしょうか。大阪の文楽劇場に通える範囲の人の2,3倍がいるはずです。
しかも公演日数は大阪の方が多いですし、座席数も大阪の方が200席ほど多いのです。それでも満席にならないのはちょっと問題かなという気もします。
東京では人気、大阪では不人気とよく言われてきたことに私はずっと疑念を抱いています。
もうひとつの忘れ物はやはり美術館です。
東京23区にどれくらいの美術館、博物館があるのでしょうか。あまりに多すぎはしないでしょうか。東京の人がうらやましい、というのを過ぎて
妬ましい
とさえ感じてしまいます。
今回行きたいと思いながら行けなかった主なところは出光美術館、三菱一号館美術館、三井記念美術館、江戸東京博物館、すみだ北斎美術館、深川江戸資料館などです(三井は行こうと思えば行けたのですが、たまたま休館の日だったのです)が、いくらなんでも2泊3日でほかにも予定のある旅でしたから、無理と言えば無理な話です。
ただ、行くのがもう1週間遅かったら忘れ物がもっと増えているはずでした。私が家に帰った直後に、新型ウィルスの影響で東京国立博物館は臨時休館になってしまったのです。松也師匠のライブも、もし3月であれば中止だったかもしれず、私個人にとっては不幸中の幸いだったのかもしれません。
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- [2020/03/17 00:00]
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東京への旅(13) 生活ぶり
私の泊まったホテルは当然宿泊費の安いチェーンホテルですが、満足しています。何と言っても朝食付きであることが嬉しかったです。最初の朝はパン食、2日目はごはんにしました。バイキング方式ですから、朝からよく食べる、というか、一日で一番しっかり食べる私にはとてもありがたいのです。サラダ、魚、ソーセージ、煮物、卵などを基本にしてパン食の日も納豆やみそ汁を追加しましたし、ご飯の日もコーヒーをいただきました。落語の「上燗屋」ではありませんが、「ただなら食(く)てみたろ」、の姿勢を貫きました(笑)。
部屋はごく普通のビジネスホテルですが、ベッドに余裕があって嬉しかったです。私は小さなベッドが苦手です。
2泊でしたから、1泊目の翌日なんて掃除はしてもらわなくてもいいけどなあ、と思っていたら、このホテルは「掃除不要の場合は指示してください」ということで、ドアの室内側に
「掃除不要」
のマグネット板が貼ってあり、これを翌朝ドアの外に出しておけばいいのです。夜、帰ってくると、歯磨きやタオルなどの入った袋がノブにかかっていました。旅慣れた皆様にとっては「そんなんあたりまえやん」ということなのかもしれませんが、何しろ浦島太郎ですから、10年間使わないうちにホテルも変わったな、と思いました。そしてその袋の中にペットボトルの飲料水が入っていました。「掃除不要」にするとそういうサービスがあるのでした。おかげさまで、3日目の街歩きの際は水分補給にその水が活用できました。
昼は歩いていましたので、昼食はいいかげんでした。私は普段から
ひとりで飲食店に入って
何かを食べる、飲むという生活をまったくしていません。そこで、今回も公園のベンチに腰を下ろして、ちょっとしたものを食べるだけでした。こういうの、恥ずかしくもないですし、けっこう好きなのです。
夕飯も、当然「近くの飲み屋に入って」などという気の利いたことはできません。幸い、最寄り駅の駅前に総菜を売っているところがありましたので、ちょっとしたものを買ってホテルの部屋でお白湯と一緒に食べただけです。ホテルにはティーバッグのお茶が置いてあるところがあると思うのですが、ここはありませんでした。でも、普段から白湯を飲む習慣がある私にとっては何も不足はありませんでした。
チェックアウトはフロントには行かず、そのまま帰ればいいので、これも楽でした。
というわけで、久しぶりの旅を満喫しました。帰りの新幹線は夜でしたので、結局富士山にはお目にかかれないままでしたが。
夜遅く地元の駅に着いたらまた駅前のちょっとしたスーパーですでに半額になっていた総菜を買って、その夜も同じような夕飯を摂ったのでした。
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- [2020/03/16 00:00]
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東京への旅(12) 美術館めぐりの4
学生のころ、國學院大學に用があって、恵比寿駅から歩いて行きました。今回、久しぶりにその駅に降り立ちました。
駅前のだらだらとした坂道を徒歩で10分あまり歩いたところにあるのが
山種美術館(東京都渋谷区広尾)
です。いうまでもなくかつての山種証券(今はSMBC日興証券というのだとか)および創業者である山崎種二さんが収集した美術品を集めたところです。もともと日本橋兜町にあったのが2009年に広尾に移ったのだそうです。日本画の美術館としては代表的なものでしょう。
坂道がやや苦痛で、特にこの時は体調万全ではありませんでしたので、途中で休みながら(笑)歩いていきました。「タクシーで行けば簡単!」なんて、ぜいたくができる人がうらやましいです(笑)。駅からはバスもあるのですが、これも節約(笑)。徒歩に勝るものはありません、と強がりを言っておきます。
ここでおこなわれていたのは
上村松園と美人画の世界
でした。
この美術館の持っている松園の作品には「牡丹雪」「蛍」「庭の雪」「新蛍」「砧」「折鶴」「夏美人」「春芳」など18作品がありますが、それらすべてが惜しげもなく展示されていたので興奮してしまいました。
「蛍」
は蚊帳を吊っている女性がふと振り返ったところに蛍がいるという場面です。蚊帳を吊るという動きが蛍によって一瞬静止したところです。私は授業で蛍の話をすることがあるのですが、その時には決まってこの絵を見せるようにしています。とても大きな絵で、しばし見入ってしまいました。「春のよそをひ」も美しいです。扇を広げて笄に手をやる女性。櫛は透明感があって髪が透けて見えます。白いかんざしもきれいです。女性のほのかな笑顔が春の喜びを感じさせるようです。私の好きな作品に
「杜鵑を聴く」
があります。女性が傘を持って、ほととぎすの声が聞こえたように思ったので思わず手を耳にあてがおうとする瞬間です。傘をすぼめたところのようでもあり、とすると、五月雨が止んだのでしょうか。雨音もなくなり、傘で遮られていた視界も広がりました。するとどこかにひそんでいた鳥が声を上げました。「あ、ほととぎす」という彼女の声が聞こえるようです。
このほか、鏑木清方、小倉遊亀、橋本明治、小林古径、伊東深水、村上華岳らの作品もあって、実に優雅な時間を過ごすことができました。
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- [2020/03/15 00:00]
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東京への旅(11) 美術館めぐりの3
東京メトロ南北線で白金台まで行って東京都庭園美術館(東京都港区白金台)を訪ねました。実はここに行くのははじめてでした。港区ではあるのですが、JRの最寄り駅は目黒で、どうもこういう位置関係があまり分かりません。今回はほとんど地下鉄を使いましたので、風景を見ながら移動しなかったというのも問題だったかもしれません。
さて、この美術館は、もともと
朝香宮邸
で、広大な敷地にたたずむ見事なお屋敷です。部屋を見るだけでも楽しめるのです。朝香宮は北朝系の久邇宮朝彦親王(香淳皇后の祖父)の第八王子である鳩彦王(やすひこおう)の創設した宮家です。姪が香淳皇后ですから、今の天皇から見ると父(上皇)の大叔父ということです。
この人はフランスでアール・デコに触れ、白金台にアール・デコ建築として建てたのが今の庭園美術館です。
ここで、北沢美術館(長野県諏訪市)所蔵の
「ルネ・ラリック アール・デコのガラス モダン・エレガンスの美」
がおこなわれたわけで、作品が建物に溶け込んだような展示でした。
ラリックは日本ではかなり人気の高い人ですし、私もかねてから魅力的だと思っていましたが、こういう場で作品を見ると、息をのむというのはこういうことだと感じさせられました。
香水瓶、花瓶、デカンタ、ランプ、グラス、皿、フィンガーボウル、置物、ペンダント、ブローチ、時計、カー・マスコットなど私にはうまく説明できない美しさのものばかりでした。
写真撮影可なので、見学者の方はスマホやカメラで写真を撮られましたが、私はほとんど撮りませんでした。写真にしてもあまり意味がないような気がしたものですから(一つだけ記念にランプを撮りましたが)。
美術館を出ると庭園が広がります。この日はとても暖かくて、近くにお住まいなのでしょうか、子どもさんとピクニックに来ている方もありました。広々とした庭園にわずかな人。ぜいたくなものです。
↑庭園美術館
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- [2020/03/14 00:00]
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19年型コロナウイルス
私は自分の子の名前を、男子は『論語』から、女子は和歌からつけました。和歌から採ったものについては漢字を当てはめたのですが、それにもじゅうぶん意味を持たせて付けました。名前には言霊があると信じて、私なりに精一杯考えたものです。
海外の人の名前は先人(例えば聖人)にあやかってつける場合が多く、ジョンとかメアリーとかピーターなどはそういう例でしょう。先祖にあやかる名前もあって、たくさんの人の名前をもらうために長い名前になることも少なくありません。画家のピカソの本名はやたら長いとも聞きます。
名前の持つ意味は他者には分からないような大きさがあります。
今、問題になっている新型コロナウイルス感染症は、WHOが
COVID-19
と名付けたのですね。
Coronavirus Disease 2019の意味だとか。「2019年のコロナウイルス病」と読めます(そのままですね)。
しかし、日本ではどうもなじみにくく、読み方すら悩みます。コーヴィッド・ナインティーンでよろしいのでしょうか。医療関係者の術語、専門用語としては通用しそうですが、日常会話では言いにくいでしょう。そういう理由なのか、今なお「新型コロナウイルス(感染症)」「新型コロナ肺炎」などといっているようです。
一部の国会議員が「武漢ウイルス」と呼ぶべきだ、と主張しているようですが、私は与しません。たとえば、(例に出してごめんなさい)神戸で起こったものであっても、私の大好きなこの街の名前をつけて神戸ウイルスなんて言われたらショックです。名前が街のイメージダウンを招き、市民を傷つけ、要らぬ差別や中傷を生むことは想像に難くありません。よその国、よその街だから平気なのかもしれませんが、こういう国会議員は
想像力が欠如
していると思います。あえていうなら「悪意」を感じます。
彼らが言うと、支持者が真似をします。特に、中国嫌いの人たちは意図的に真似るでしょう。
私も嫌いな人はいます。だからと言ってむやみに貶めてもかまわない、とは思いません(もちろん、批判はします。この文章でも批判しています)。レッテル貼りはやめろ、としばしば言っている国会議員が平気でこうやってレッテルを貼っているのですから情けないです。
私は「武漢ウイルス」などというのは
絶対にダメ
だと思います。
それではいったい何と呼べばいいのか。さしあたり、新聞などのメディアは「新型ウイルス(COVID-19)」などカッコ付きで表記することもできそうに思います。「19年(型)ウイルス」も簡単ですが分かりやすそうです。「新」を「19年」に変えただけですけどね。
国会議員は冷静に、客観的に発言してもらいたいものです、と批判しておきます。
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- [2020/03/13 00:00]
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東京への旅(10)美術館めぐりの2
おきまりの上野以外にもどこかに行こうと思って、渋谷、六本木方面の美術館に行くことにしました。
このあたりは、東京メトロの使い方が難しく、JRを併用したり、若干遠回りしたりしましたが、実際はもっとうまい行き方があったのかもしれません。バスを使うという手があるはずなのですが、東京のバスはさっぱりわかりませんし、そもそも私はバスが苦手なのです(天井が低いので)。
さて、国立新美術館(東京都港区六本木)はメトロの乃木坂駅のそばです。これが建てられた時、また国立の美術館を東京に作るのか、と思ったものでしたが、いまだに納得できていません。言い分はあるのでしょうが、やはり東北などに文化施設があればと思えてならないのです。
という愚痴は置いておくことにして、ここで開催されたのはブダペスト国立西洋美術館やハンガリー・ナショナル・ギャラリーの
ブダペストーヨーロッパとハンガリーの美術400年
でした。
正直なところ、展示数が多くて、くたびれました。もう少し絞ってもいいのではないかと感じました。
会場に入るといきなりクラーナハ(父)の「不釣り合いなカップル」があって、思わず吹き出しそうになりました。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオの「聖母子と聖パウロ」、ジョルジュ・ヴァザーリの「カナの婚礼」、フェデリコ・バロッチの「受胎告知」などのキリスト教関連の絵画は興味がありますので楽しめました。スペイン絵画ではエル・グレコの「聖小ヤコブ(男性の頭部の習作)」、オランダ絵画ではヤン・ステーンの「田舎の結婚式」、ヤン・ミーンセ・モレナールの「聖ペテロの否認」などに目が行きました。ルカ・デッラ・ロッビアの「キリストと聖トマス」はイエスの復活が信じられないトマスが復活したイエスの脇腹の傷に指を入れる場面の彫刻でした。バラバーシュ・ミクローシュ「伝書鳩」、シニェイ・メルシェ・パールの「紫のドレスの婦人」なども印象に残ります。
私が美術に興味を持つようになったきっかけを与えてくれた画家に
カミーユ・コロー
がいますが、この人の「ヤギと格闘する羊飼い」「クーブロンの思い出」も出ていました。クロード・モネ、ギュスターヴ・クールベ、オーギュスト・ルノワールらの絵もそろっていました。そのほか、フェレンツィ・カーロイ「オルフェウス」「アーチェリーをする人々」などなど、ほんとうにたっぷりとした展覧会でした。
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- [2020/03/12 00:00]
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東京への旅(9)美術館めぐりの1
なんでもかんでも東京に一極集中させるのはやはりおかしいと感じています。政治、経済、文化はそれぞれ違った場所を中心にするのがよいのではないか、と思うことがあります。
国立博物館は東京、京都、奈良、九州にありますが、東北、北海道、四国にはありません。東北にはもっと文化施設が置けないものだろうかとさえ考えてしまいます。
東京の美術館を巡ろうと思ったらきりがないのです。今回も最低限5つは回ろうと思っていましたが、それ以外にも行きたい場所がいくつもありました。
今回は、上野と渋谷・六本木方面の美術館を回りました。
東京に行くとまず上野に足を向けないことはありません。国立博物館、西洋美術館、都美術館の3つだけでも必ず何かしらおもしろい展覧があるからです。ほかにも東京芸術大学、上野の森美術館、科学博物館など観るべきものがいろいろあります。
まずは東京都美術館の
ハマスホイとデンマークの絵画
に行きました。
ヴィルヘルム・ハマスホイ(1864~1916)は最近再評価されているそうですが、それでも必ずしもなじみのある画家とは言えないでしょう。また、デンマークの画家といわれて次々に名前が出てくる人も多くはないと思います。
ハマスホイはコペンハーゲンで制作に励んだ人だそうで、風景画もありますが、室内の絵を多く描いています。細君のイーダという人をモデルにした絵が多いのですが、顔を見せる場合あまり明るい表情ではないように感じます。イーダから見ると姑に当たるハマスホイの母と二人並んだ「画家の母と妻」などは、ひっそりとした夜の、会話のない寂しい時間が流れます。今回ポスターなどに出ている絵はラナス美術館蔵「背を向けた若い女性のいる室内」で、ピアノの上に置かれたパンチボウルの実物の展示もありました。ハマスホイの展覧会は12年前にも西洋美術館であったそうですが、私は行っていませんでした。
↑東京都美術館
上野では国立博物館平成館の
「出雲と大和」
にも行きました。
私が今回訪ねた美術館・博物館で一番混雑していたのがこちら。
出雲のものでは、出雲大社の心御柱(重文)、秋野鹿蒔絵手箱(国宝)、佐太神社の彩絵檜扇(重文)、平所古墳出土の埴輪(重文)などとともに、圧倒されるような荒神谷遺跡ほか出土の銅剣(国宝)、銅鐸(国宝)の数々に目を瞠りました。
大和のものも、石上神社の七支刀(国宝)、黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡(重文)、宮山古墳出土の埴輪、唐招提寺ほかの四天王像(国宝、重文)などなど。
その他、九条家本延喜式(国宝)、伎楽面の数々など、たっぷりでした。
このあと本館にも行って、ざっと日本文化の展示を見てきました。国宝室は兵庫県一乗寺の慧文大師像でした。
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- [2020/03/11 00:00]
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東京への旅(8)富士塚の2
富士塚は東京にどれくらいあったのでしょうか。厳密なところは分からなくても、ネット上に一覧表を作っていらっしゃる方もあり、ある程度の見当はつきますので、江戸の人がいかに富士を愛していたかを感じることができます。
私は、富岡八幡、鉄砲洲稲荷の富士塚のほか、あと2つ廻ることを計画していました。
そのうちのひとつは南千住駅の東にある
石浜神社(東京都荒川区南千住)
でした。これはこのブログにも以前コメントを書いてくださったことのある花かばさんに教えていただいたところです。ところが十分場所を把握しないまま東京メトロ南千住駅に降り立ったものですから、さてどこをどう行けばよいのやらわかりません。もちろん今はスマホがあれば一発でわかるのですが、このときバッテリーがなくなりかけていたこともあって、それも見ずに南千住まで行ったのです。
駅の案内図に何かあるだろう、というのが私の勘違いでした。どこを探してもその名前がなく、しかたなくもうバッテリーの切れそうな携帯を開けますと、駅から10分以上歩かなければならない位置だったのです。
残念ながらあきらめるほかはありませんでした。あとで調べると、やはり溶岩を積み上げたものらしく、3mくらいのものでしょうか、なかなか立派でした。
「南千住」から2駅の「入谷」近くにも富士塚があります。
小野照崎神社(東京都台東区下谷)
にあるのがそれです。こちらは駅から徒歩数分。駅の案内図にも出ていました
この富士塚も5mくらいのなかなか大きなものでした。ただ、草が生え放題になっているので、全体像がいささかわかりにくかったという恨みもあります。
↑小野照崎神社の富士塚
このように、富士塚を4つ訪ねる予定でしたが、結果的には3つだけ廻ってきました。
なぜ富士塚に関心があったかと言いますと、関心のある広重の絵に見えること、授業で何度か取り上げたこと、そしてもうひとつは富士塚をめぐる浄瑠璃が書けないかという思いを持っていたからなのです。
少しだけ考えたのですが、まだ形になるかどうかはわかりません。
もし、また東京に行く機会があれば、高田富士や品川富士などを訪ねたいと思っています。
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- [2020/03/10 00:00]
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東京への旅(7)富士塚の1
さて、この旅の目的の一つに「富士塚を訪ねる」というものがありました。
江戸時代後期、富士山信仰が盛になって、富士講を組織して実際に登ることもありましたが、誰もがその希望を叶えるわけにはいかないのです。そこで、手っ取り早く江戸市中に富士山のミニチュアを作ってそれに登るという奇想天外とすら思えるアイデアを思いついた人がいたのです。高さは数メートルからせいぜい10メートルくらい。最初の富士塚は、高田藤四郎が安永八年(1779)に高田馬場に造ったものだそうです。
私はこれまでにも、広重の描いた「目黒新富士」の跡地などを訪ねたことはあるのですが、残っている(あるいは再建された)富士塚には行ったことがなく、前から一度訪ねてみようと思っていたのです。最初に、
富岡八幡宮(東京都江東区富岡)
の富士塚に行きました。実はこの神社にも行ったことがなかったので、神社そのものにも行きたかったのです。ポカポカ暖かくて、蚤の市にはインバウンドさんもたくさんいました。社殿の左側奥の目立たないところに「富士浅間神社」があり、そのまた奥に再建されたらしい富士塚がありました。小さなもので、観光客からも見放されているような感じでした。
↑富岡八幡宮の富士塚
次に東京メトロ八丁堀駅近くの
鉄砲洲稲荷神社(東京都中央区湊)
を訪ねました。休日のためでしょうか、あたりは人が少なくて、隣接する公園で遊ぶ子どももまばらでした。
社殿に向かって右奥に富士塚があります。これはなかなか立派なものでした。すぐ裏手にはビルがあるのですが、その2階の天井くらいの高さでしたから、6メートルそこそこでしょうか。鳥居もあって、「山頂」には浅間神社が祀ってありました。鳥居には注意書きがあって、危険なので「富士山」には登らないで、というものでした。ただ、「登山口」はきちんと作られていて、登ろうと思えば登れるようになってはいるのです(もちろんそんなルール違反は犯しませんが)。
↑鉄砲洲稲荷の富士塚
この「山」は
富士山の溶岩
で作られたものだそうで、ぐるりと一周すると洞穴もありました。これはいわゆる「人穴(ひとあな)」を模したものなのでしょうか。
鉄砲洲稲荷神社富士塚の人穴?
登れなくても、こうして一周してあらゆる角度から「山頂」を見上げることができるのはとてもいいと思いました
社殿に参拝している人が何人かいましたが、富士塚に回ってくる人はありませんでした。
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- [2020/03/09 00:00]
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東京への旅(6)野澤松也創作浄瑠璃の会の2
そのあとは松也さんのお話や質問コーナー。役者さんとのからみの話などもあったようです。
そしていよいよメインプログラムの「木遣り音頭」。私もつい「和歌の浦には名所がござる・・」と心の中で語っていました。
これで終わりかと思ったら、ここからがこの日一番の盛り上がりだったかもしれません。泉太夫さんは絶好調でお話しになり、「尼崎」の
大オトシ
を実演なさいました。昨今のお客さんは「大落し」のよさをあまり分かってくださらないのだそうです。「波立ち騒ぐごとくなり」なんて一番盛り上がり、聴衆はハートが熱くなる瞬間だと思いますけどね。
泉太夫さんと松也さんの掛け合い漫才はまだまだ続き、お客さんはみなさん大喜び。さらにこの日は前進座の役者さんがお三方お見えでしたので、この方々のご挨拶やらお話やらで、またまたにぎやかに。終演時刻を過ぎてもおかまいなし、という感じでした。
そしておひらきになると写真タイム。写真嫌いの私はそそくさと逃げようとしたのですが松也師匠やKさんらと一緒に写される羽目に。ああ悲しい。
そうそう、この日、私は
おみやげ
を持って行きました。といっても、私の「江戸情七不思議」を活字にしたもので、お客様にはご不要だったかもしれませんが(笑)。
こうして私は那古の会をあとにしてまっすぐにホテルに帰りました。
夕飯はどうしたものかと思ったのですが、錦糸町の駅前の店で買った総菜などで済ませてしまいました。
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- [2020/03/08 00:00]
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サインしました
東京に行ったとき、あちらので松也さんの会のお世話をしてくださっているKさんという方に頼まれて、私の書いた「江戸情七不思議」の冊子を参加者の方々に差し上げました。こんなもの、もらってくださるかたはいらっしゃるのだろうか、と思うのですが、とりあえずお送りすることにしました。ところがこの冊子、表紙があまりにも
愛想がない
のです。ほとんど真っ白(笑)。タイトルと名前も小さな文字で、もうちょっと何とかならないものかと思うほどなのです。維盛弥助なら愛想のないのも愛想になるのですが。
もし絵が描けたらここに七不思議の一場面の絵でも入れたいところなのですがそんな能力はありません。
それでサインを入れるのはどうだろうと思いつきました。けこれまでに人さまにさしあげた本には「謹呈」という小さな紙を挟むだけだったのですが、
呂太夫さんの本
のときに何人かの方からサインを入れてくれと言われ、そんな、著名な作家や偉い先生みたいなことは、と思ったのですが、お断りするわけにもいかず書いてみました。
それで何となく慣れてしまって、今回はこちらからサインの押し売りをすることにしました。
でも、野球選手みたいにうまく書く能力もありませんので、筆ペンで名前と作品のタイトルをごく普通に書くだけにしておきました。
なんだか、落書きみたい(笑)な感じになったのですが、まあ、皆さんすぐにお捨てになるだろうと思って、気軽に書いたのです。
これでもう、当分、というか一生サインをすることはないと思うので、作家になったような気分だけを味わわせていただきました。
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- [2020/03/07 00:00]
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東京への旅(5)野澤松也創作浄瑠璃の会の1
両国からホテルまで5km歩いたと言いましたが、何しろうろうろしては写真を撮ったり休んだり(時には道を間違えたり)していますので、時間にすると3時間くらい経っていました。
ホテルに入るとさすがにくたびれてごろりと転がっていたら夜の行事に遅刻しそうになってあわててホテルを出ました。錦糸町からは地下鉄を使って那古の会(東京都新宿区愛住町)へ。かろうじて開始には間に合いました。
会場ではこの会を運営してくださっているエステティシャンのKさんに初めてご挨拶出来ました。また、今もFacebookで交流のある、以前このブログにもよくコメントをくださったお姉さまがいらっしゃって、10年ぶりの再会を致しました。さらには関西からお出かけになっていたおなじみの方もいらっしゃり、いささか緊張していたのですが、とても気が楽になりました。
この日のメインは竹本泉太夫・野澤松也両師による『卅三間堂棟由来』の
木遣り音頭
でした。
泉太夫さんは松也さんとは長いお付き合いで、気心の知れたコンビという感じです。この日のお客様の中には松也さんのファンのみならず泉太夫さんのごひいきの方もいらっしゃっていたようです。
この会を運営してくださるKさんの司会で始まり、私も少しだけご挨拶させていただき、早速拙作の
『異聞置いてけ堀』
が演奏されました。みなさん、どのようにお聴きになったのか、あまりよく分かっていません。ただ、笑っていただきたいところが何か所かあったのですが、そこはいくらか笑顔を確認することができてホッとしました。
松也さんの語りはあまりしつこい感じではなく、文楽の太夫さんとはやはり違う印象があります。私はどうしても文楽の太夫さんをイメージして書いてしまいますので、松也さんは語りにくくないだろうか、と気になることもあるのです。
拙作は笑いをベースにしつつ、社会の不条理への怒りと夫婦の愛情を描いたつもりでしたがどうしても未熟で、思いが伝わったかどうかは、今なおはなはだ不安です。
それでも、無事に演奏が終わって、肩の荷が下りたような気がしました。
結局、この日は7kmくらい歩いたと思います。
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- [2020/03/06 00:00]
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東京への旅(4)七不思議の3
九重部屋のそばを通って蔵前橋通りに出て、東へ。すると大横川(今は整備されて大横川親水公園)に行き当たります。ここに架かっているのが「法恩寺橋」です。ここから私は川に下りて公園の中を北に300mほど歩きました。その西側の河岸には本所七不思議の絵をモチーフにした大きなレリーフが並んでいるのです。残念ながらあまりきれいではないのですが、せっかくなのでバチバチと写真を撮ってきました。
↑足洗ひ屋敷のレリーフ
そこからまた道に戻って春日通りを200mほど東へ。そこから南に200mほど行くと先ほど書いた橋の名にもなっている法恩寺です。なかなか立派なお寺でした。この寺の東側に前田丹後守の屋敷があったのですが、ここから法恩寺前、さきほどの蔵前橋通りを通って御竹蔵へと、私の書いた
「送り提灯」
の舞台は進んでいきます。
この日はこのあとチェックインをするためにホテルに入ったのですが、ついでですので、翌日歩いた道をたどってみます。蔵前橋通りを法恩寺から東へ500mほど行ったあたり、今の錦糸公園の一角、墨田区総合体育館とその北側に井上筑後守の屋敷がありました。私の書いた「異聞置いてけ堀」の主人公はこの屋敷で仕事をした帰りに河童に出会うのです。
ものはついでとばかりに、私はこのあと横十間川に架かる天神橋を渡って亀戸天神まで行きました。ゴッホが模写したことでも知られる、広重の有名な絵に描かれた所です。
北斎通りは大横川を超えて東へ行くと
錦糸堀
と言われたそうですが、ここが拙作「異聞置いてけ堀」の主要な場面となったところです。しかも、私が泊まったホテルは、まさにその舞台跡と言ってもよいところにあるのです。
ついでにもうひとつ、四つ目通り(JR錦糸町駅の東側を南北に走る通り)をJR線から200mほど南に行って少し東に入ったところに「錦糸堀公園」があります。名前は前述の錦糸公園と似ていますが、こちらは錦糸公園のような広さはありません。ここの北の端に河童の像があって、その台座と説明版に置いてけ堀ゆかりの河童であることが記されています。
↑錦糸堀公園の河童像
前後しますが、ホテルに入るまで、両国駅からほぼ5km歩いたことになりました。
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- [2020/03/05 00:00]
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東京への旅(3)七不思議の2
北斎通りは葛飾北斎出生の地あたりを通る道なのでそう呼ばれています。
ここは、昔は南割下水でした。湿地であった本所を住みやすくするため、土地の水を流し出すための堀のようです。
今はさほど交通量は多くないものの、それなりに人や車の行き来はあります。
ここを東へ200mほど行くと緑町公園。この北西隅にほくせいの、じゃなくて北斎の生誕の地の案内板が立てられています。そして公園の南側は
すみだ北斎美術館
が建てられました。時間があれば立ち寄ったのですが、先を急ぐ身で今回は断念。
この公園と北斎以美術館のあるところは津軽越中守の上屋敷でした。津軽さんは中屋敷、下屋敷も本所から亀戸にあって、この地域ではよく知られた殿さまだったのでしょう。
津軽越中守の屋敷の火の見やぐらにはなぜか太鼓が置かれていたと言われ、これも七不思議のひとつに数えられることがあります。
「津軽の太鼓」
と言われています。
この界隈には夜になると蕎麦屋も出たそうです。そこで、ここと言って決まった場所はないのですがこのあたりが七不思議の「無灯蕎麦屋(あかりなしそばや)」の舞台と言えそうです。また、「送り拍子木」もこのあたりだと思います。
七不思議には関係ありませんが、野見宿禰神社もついでにお参りしてきました。
三つ目通りと交差する亀沢4丁目の交差点まで来ました。御竹蔵から700mくらいです。本所の堅川(北斎通りより400mくらい南を東西に流れる)には当然橋が架かっており、西から一之橋、二之橋、三之橋、四之橋と続きます。その橋の南北に延長した道が三つ目通り、四ツ目通りなどといわれます。
亀沢4丁目交差点の北東側が、あの「片葉の葦」のお駒が住んでいた三笠町でした。この界隈に味野笈之助という旗本の屋敷があったそうですが、私の見た古地図には出ていませんでした。
ただ、この交差点を北に200mほど行った東側に「小屋敷」という記載があり、こういうところに、さほど大きな家ではない旗本屋敷があったのだろうかと思うのですが、いかがなものでしょうか。
この味野家が七不思議の中でもっとも奇怪な話「足洗ひ屋敷」の舞台になったところです。味野家では天井から大きな足が下りてきて、「足洗へ~」という声がするのだそうで、洗ってやると天井に引っ込むという、誠に不思議な話です。
これで「片葉の葦」「落葉無き椎」「置いてけ堀」「送り提灯」「津軽の太鼓」「送り拍子木」「無灯蕎麦屋」「足洗ひ屋敷」の八つの不思議のあとを訪ねたことになります。七不思議と言いながら、実際は少し多いのですね。
北斎通りからは外れましたので、この際もう少し道を外してさらに七不思議関連の道を歩きます。
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- [2020/03/04 00:00]
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無能なプロ
今の総理大臣は無能だと思います。あまりに幼稚で知性も品性もなく、およそ政治家には向かない人だと思います。なぜこの人が長らく総理大臣を務めているのか、その理由が理解できません。
しかし、彼を見ていると、自分を省みないわけにはいかないのです。
私は大学教員をしてきました。
昔なら、
インテリの仕事
です。
しかし、私はどう考えてもインテリではない。これは謙遜でもなんでもなくずっと自覚していることです。
論文と称するものも、真摯に書いてはきましたが、高い評価を得たものはないといってもよく、研究会に出ても周りの優秀な人を仰ぎ見るばかりで、自分の無能さをいつも感じてきました。
しかし、仕事を辞めれば生きていくこともできず、無能なりに勉強してここまできました。
結局、あの総理大臣と
変わらないレベル
だと、悔しいですが認めないわけにはいかないのです。
私はしばしば大学教員になどなるべきではなかった、と思います。
かろうじて、人並みに近い教育能力は持っているという自負があり、それが唯一の支えになってきました。
あの総理大臣を見ていると、自分の愚かさを感じてしまいます。
総理大臣さん、お互い、無能なプロですなあ。
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- [2020/03/03 00:00]
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東京への旅(2)七不思議の1
昨日の記事について、やたけたの熊さんから「落語の『東の旅』やな」と言われました。一人旅ではありますが、なるほど珍道中には違いありません。新幹線では銘酒の「むらさめ」も「じきさめ」も飲まずに東京駅に到着。
ちょっとした用を済ませた後、午後は両国へ。ここから隣の駅の錦糸町まで寄り道をしながら歩きました。目的は本所七不思議の跡を訪ねることでした。
まず、両国駅から南西の方角へ400mくらい。両国橋の南すぐのところに駒留橋跡があります。この橋は隅田川にかかっていたのではなく、小さな入り堀の小さな橋だったのです。
ここは七不思議のうち「片葉の葦」の場所です。このあたりの葦の葉は片葉だったそうで、それは科学的に言えばおそらく風に影響されてのことなのですが、七不思議と捉えた人は、お駒と留蔵の話に持って行ったのです(もちろん、「お駒」と「留蔵」で駒留橋です)。
ならず者の留蔵は本所三笠町に住む
お駒
という美しい娘にほれ込んだのですが、強く拒まれたため、ついにこの場所で殺してしまいました。そのとき、お駒の片手と片足を斬って彼女をこの入り堀に投げ込んだので、このあたりの葦は片葉になったのだとか。播州皿屋敷のお菊を思い出すような残酷な話です。
今はその跡地にこれらのことを説明した高札型の説明版があります。
さて次はそこから北へ800mばかり行ったところにある、刀剣博物館のあたりが目的地でした。この辺りは江戸時代には肥前平戸新田藩の松浦豊後守の屋敷がありました。この屋敷の椎の木はまったく葉が落ちないのです。椎の木は常緑樹で、そもそもあまり葉は散らないのですが、まったく散らないというので七不思議のひとつになりました。
今はこのすぐ南側は旧安田庭園で、だれでも無料で散策することができます(無料とあれば行かねばならず、私も散歩しました)。
その旧安田庭園の東側を南に、つまり江戸東京博物館のほうに向かうと、日本大学第一高校があります。刀剣博物館からは500mくらいでしょう。
この道沿いにやはり高札型の説明版があり、それは
置いてけ堀
について書かれています。置いてけ堀の伝承は何か所かにあるのですが、その中の代表的なものとして墨田区がここに設置している説明版です。置いてけ堀というのは、このあたりにあった入り堀のことで、ここで釣りをしていると、どこからともなく「置いてけ」と声がして釣った魚を取られてしまうのです。河童の仕業ともいわれます。
この説明版にはもうひとつ「御竹蔵」についても書かれています。このあたりは幕府の材木置き場から米蔵になったかなり広大な敷地です。今の江戸東京博物館、日本大学第一高校、両国中学、第一ホテル両国などはすべて御竹蔵の敷地内に建っています。私の書いた七不思議の話のうち「送り提灯」ではここを最後の場面に使いました。
こうして、江戸東京博物館の東側に出ました。多少回り道もしていますので、ここまでですでに1kmあまり歩きました。次は北斎通りです。
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- [2020/03/02 00:00]
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