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ZOOM 

今や、爆発的に拡散しているのはウイルスばかりではありません。会社などで会議がしにくくなっているために、ウェブカメラを用いてのオンライン会議が盛んになっているのです。家電量販店や通販でもウェブカメラがとてもよく売れているのだそうです。
いろんな方法があるようなのですが、一番よく用いられているのはあるいは

    ZOOM

と呼ばれるシステムではないでしょうか。
最大50人まで話し合いができるというので、普通の会議であればまずそれで対応できるでしょうね。ただ、問題もしばしば起こっているようで、どうしても完璧というわけにはいかないでしょうけれど。
笑い話にもなるのは、カメラに映る姿です。家にいるからといっても、会議などであればあまりふざけた格好もできないでしょうし、背景もまる見えになってしまいますので気にされる方はなかなか面倒です。以前ツイッターで見たのですが、カメラに映るのは顔だけだからというので、下半身をかなりいい加減な格好にしていた人がいたのです(海外の人です)。その人が、話し合いを終えたのにカメラを切り忘れて、オンラインになったまま立ち上がった映像がそのまま映り、ほかの参加者に大爆笑されたのです。映像がそのまま投稿され、リツイートを繰り返して世界に広がってしまいました。気が付かない本人に携帯電話で知らせたら、あわてて別の部屋に逃げて行った、というオチがついていました。

中には、会議ではなく、

    飲み会

をオンラインでするという人も少なくありません。画面に向かってしゃべりながら手元にはお酒を置いてちびりちびりと飲むらしいのです。なかなか楽しそうなのですが、これにも欠点があって、気をつけないと飲みすぎる傾向にあるのだとか。会議でも同じことなのですが、家族が後ろを通るとか、そばで関係のない笑い声を立てるとか、そういうことが起こる場合もあるかもしれません。
このウェブ会議システムは、ウェブカメラやインターネットにつながったパソコンなどを備える必要があるため、どんな人でも使えるわけではなく・・となると使えない人が置き去りにされるという面もありそうです。

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8月に上演? 

大阪府豊能郡能勢町では、毎年6月に「浄瑠璃月間」と称して、浄るりシアターで人形浄瑠璃の公演があります。最近はレベルが上がって、「日高川の渡し場」とか「千本の道行」とか派手な演目も堂々と演じられるようになりました。
私がよく知っている人が人形遣いをなさっていて、主役級の人形を遣われるので応援しています。
しかし今年はとても無理だろうなと思っていたら、その知り合いの人形遣いさんが8月に延期になるのだとおっしゃったのです。そのこと自体は、このご時世ですから

    しかたがない

という程度に考えていたのです。彼女は(その人形遣いさんは女性です)今年も主役の「狐火の八重垣姫」を遣われるそうなのですが、今年はそれ以外にどんな演目を上演するのだろうと浄るりシアターのHPをのぞいてみました。
するとびっくり仰天。なんと、私が1995年から翌年にかけて書いた

    名月乗桂木(めいげつにのせてかつらぎ)

を上演してくださるのだそうです。この演目は直近が2015年の上演で、その前が2007年でした。初演は1998年だったと思いますので、2007年までの間にもう1回上演されたような気がします。とすれば今回は5回目ということになります。なにしろ25年ほど前に書いたたわいないお芝居ですから恥ずかしいのですが、やはり嬉しいものです。桐竹勘十郎さんや吉田簔二郎さん、吉田簔一郎さんらが演出に工夫を凝らしてくださって、毎回新しいものになっていますのでとても楽しみです。
が! 今の状況がそう簡単に収まるとも思えず、8月に上演なんてできるものでしょうか。すくなくとも5月あたりから稽古を始めないと間に合わないと思うのですが、文楽人形は密着して遣いますので、無理かもしれませんね・・。

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源氏物語「蓬生(よもぎふ)」(1) 

まず「蓬生」巻の冒頭部を原文で書きます。どうか声に出して読んでみてください。声に出すことで、文章がどのように書かれているのかが肌で感じ取れるようになると思います。また引き歌の箇所など、自然に理解できるようにもなります。

藻塩(もしほ)たれつつわびたまひしころほひ、都にも、さまざま思(おぼ)しなげく人多かりしを、さてもわが御身のよりどころあるは、ひとかたの思ひこそ苦しげなりしか、二条の上などものどやかにて、旅の御住み処(すみか)をもおぼつかなからず聞こえ通ひたまひつつ、位を去りたまへる仮の御よそひをも、竹の子の世のうき節を、時々につけてあつかひきこえたまふに、慰めたまひけむ、なかなか、その数とも人にも知られず、立ち別れたまひしほどの御ありさまをもよそのことに思ひやりたまふ人々の、下の心砕きたまふたぐひ多かり。

涙を流しながらつらい日々を送っていらっしゃったころ、都でも、さまざまにお嘆きになっている方々が多かったのだが、そうはいっても、よりどころのある方は、ただ光源氏お一人への思いは苦しそうであったが、二条の上(紫の上)なども、穏やかにお暮らしになっていて、旅のお住まいをお案じしてお手紙をお交わしになっては、位をお退きになってからの仮りのご装束をも、この世の辛いあれこれをも、時節ごとにお整え申し上げなさることで心をお慰めになったであろうが、かえって、妻として世の人にも知られず、ご出立になった時のご様子にも、よそごとのように思いやっていた人々で、心の奥では苦しんでいいらっしゃる人も多かったのである。

こういう文章ですが、引き歌があるのはお気づきでしょうか。読み慣れると「ここは引き歌かな?」とわかってきますし、有名な歌であれば歌も思い浮かべられるようになると思います。
まず冒頭の「藻塩たれつつ」が引き歌です。
  わくらばに問ふ人あらば
須磨の浦に藻塩たれつつわぶとこたへよ
       (古今和歌集・雑下・在原行平)
を引いています。
たまたま私のことを聞く人がいたら、須磨の浦で藻塩の水が垂れるように涙を流してつらい生活をしていると答えておくれ、というほどの意味です。行平は文徳天皇の時代に何かの事件にかかわって須磨に蟄居したことがあるのです。ここでは光源氏が須磨、明石でわび住まいをしていたことを言っています。

「竹の子の世のうき節」というのも何かありそうだな、とお気づきにはなりませんか。これは
今さらに何生ひ出づらむ
竹の子の憂き節しげき世とは知らずや
(古今集・雑下・凡河内躬恒)
によった表現です。今らどうして生まれてきたのだろう。筍の節がたくさんあるようにつらいことがたくさんあるよとは知らないのだろうか、というものです。この歌は「横笛」巻で、まだ幼い薫が朱雀院から女三宮に贈られた筍をかじった場面でも引き歌として用いられていました。

光源氏がわび住まいをしていたころ、都でも嘆く人は多かったのです。しかし、生活の安定している人は、なるほど光源氏のことを思う気持ちはつらそうでしたが、光源氏の装束などを整えることでいくらか心は落ち着いたのです。それに対して妻としての数にも入らない女性たちは悲しみを心の奥に秘めているだけでした。どうやら、このあと、そういう女性の話が始まるようです。


常陸宮の君は、父親王の亡せたまひにし名残に、また思ひあつかふ人もなき御身にて、いみじう心細げなりしを、 思ひかけぬ御ことの出で来て、とぶらひきこえたまふこと絶えざりしを、いかめしき御勢にこそ、ことにもあらず、はかなきほどの御情けばかりと思したりしかど、待ち受けたまふ袂の狭きに、大空の星の光を盥の水に映したる心地して過ぐしたまひしほどに、かかる世の騷ぎ出で来て、なべての世憂く思し乱れしまぎれに、わざと深からぬ方の心ざしはうち忘れたるやうにて、遠くおはしましにしのち、ふりはへてしもえ尋ねきこえたまはず。その名残に、しばしは泣く泣くも過ぐしたまひしを、年月経るままに、あはれにさびしき御ありさまなり。

常陸宮の姫君は、父の親王が亡くなってから、他には誰もお世話する人もない身の上で、ひどく心細そうであったが、思いがけないことが起こってお見舞いくださることが絶えなかったのだが、大変なご威勢の方にとっては、たいしたこともない、お情けほどのこととお思いであったが、お待ち受けになる貧しさには、大空の星の光を盥の水に映したような気持ちがしてお過ごしになっていたところ、あのような世の騒ぎが起こって、おしなべて世の中がつらいことと思い悩まれていたのにまぎれて、格別に深い関係でもない方へのおこころざしは、忘れられたようになって、はるか遠くにおいでになった後は、わざわざお見舞い申し上げることもおできになれない。それまでにお世話くださった余光でしばらくは、泣きながらもお過ごしになっていたが、年月が経つにつれて悲しく寂しいご様子なのである。

「常陸宮の姫君」とは末摘花のことです。父の亡き後、だれも世話をしてくれずに心細い生活をしていたのに、思いがけず光源氏の訪問があったのです。威勢のある光源氏にとってはお情けくらいの扱いではありましたが、貧しい姫君にとってはほんとうにありがたいことなのでした。そんなときに光源氏が須磨に行くことになって、この程度の、取り立てて愛情の深かったわけではない人は忘れられたような存在になってしまったのです。最初にうちは、それまでに受けていた光源氏からの経済的な支援のおかげでなんとか暮らせたのですが、次第にみじめな生活になっていったのです。
ここでは「大空の星の光を盥の水に映したる心地して」という表現が目を引きます。これは、源氏のささやかな援助も末摘花にとってはこのうえないお恵みだと感じていたことを、大空の星を盥の水に映したことにたとえたようです。

古き女ばらなどは、「いでや、いと口惜しき御宿世なりけり。おぼえず神仏の現はれたまへらむやうなりし御心ばへに、かかるよすがも人は出でおはするものなりけりと、ありがたう見たてまつりしを、おほかたの世の事といひながら、また頼む方なき御ありさまこそ、悲しけれ」と、つぶやき嘆く。さる方にありつきたりしあなたの年ごろは、いふかひなきさびしさに目なれて過ぐしたまふを、なかなかすこし世づきてならひにける年月に、いと堪へがたく思ひ嘆くべし。すこしも、さてありぬべき人びとは、おのづから参りつきてありしを、皆次々に従ひて行き散りぬ。女ばらの命堪へぬもありて、月日に従ひては、上下人数少なくなりゆく。

古くからの女房は「まったく残念なご運でございますね。思いがけず神仏が出現されたようであったお心遣いに、このような頼りになることも起こるものなのだとありがたく拝見していたのに、世の常のこととは言いながら、ほかにはどなたも頼れる方がないご様子は悲しいことです」とぶつぶつ嘆いている。あのような暮らしに馴れていたかつての年月は、言いようもない寂しさを見慣れてお過ごしになっていたのだが、なまじ少し世間並みの暮らしに馴れた年月があったために、とても堪え難く思い嘆くのであろう。少しでも女房としてふさわしい人々は、おのずから集まってきたのだが、みな次々に後を追うように離れていった。女房の中には命のもたなかった者もいて、月日が経つにつれて上臈、下臈の女房の数が少なくなって行く。

末摘花は、また元の貧しい生活に戻らざるを得なくなります。そういう状況になった時の周りの女房たちの対応が皮肉なほどよく描かれています。いかにも人間の弱さというか、無情さというか、「こんなところにはいられない」を愛想をつかしてしまうのですね。

このあと、原文は略しますが、末摘花の屋敷は荒れていき、キツネの住みかとなり、フクロウが鳴き、木霊(こだま)のようなものが現れるという恐ろしい状況になります。女房の中には「受領(地方官。身分はさほどではないが、裕福な者がいた)の中には、この屋敷を売ってくれという者もいます。いっそそのようになさって、恐ろしくなさそうなところにご転居になりませんか。私たちも、もう限界です」と訴える者もあるのです。しかし末摘花はとんでもないことだと泣く泣く拒否するのです。ほかにも、道具類を欲しがる者もいるのですが、末摘花はこれも相手にしません。
屋敷はますます荒廃し、「盗人などいふひたぶる心ある者も、思ひやりの寂しければにや、この宮をば不要のものに踏み過ぎて(泥棒でさえ貧乏な家だと思って通り過ぎて)」しまうようなありさまになりました。
末摘花は古い厨子を開けては物語の絵に描かれているものを取り出してみているばかりです。ここで彼女が見ている物語は『唐守(からもり)』『藐姑射(はこや)の刀自(とじ)』『かぐや姫の物語』と記されています。かぐや姫はおなじみですが、前二者は今は残っていない物語です。
末摘花には「おば」(母方の姉妹)がいたのですが、この人は受領の北の方になっていました。この叔母は心根の悪い人で、末摘花を自分の娘の使用人にしようと思っているのです。そうこうしているうちにこの叔母の夫が太宰大弐(大宰府の次官)になって赴任することになり、「あなた(末摘花)が心配なので一緒に行きましょう」と言葉巧みに誘うのですが、末摘花はこれも突き放してしまいます。

さて、このあと、光源氏が都に戻ってからの話になります。本日はここまでということで。

次は5月3回です。

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いちばんやりたいことを 

憂鬱な毎日です。さすがに私もずっと家にいてパソコンを触っているだけでは元気が出ません。時には体操をしたり散歩をしたりするのですが、体調が悪いとそれもできません。今は一日おきに好不調を繰り返している状態です。しかしもう私などはどうでもいいのです。若者たちはあふれるエネルギーをもてあまして困惑しているのではないかと案じられてなりません。楽しみにしていたことを我慢しなければならない、という苦痛を感じているだろうな、とかわいそうですらあります。
今の総理大臣は何が何でも自分の任期中にオリンピックをしたかったのでしょう。ところが、まさにそれが実現するぞというときにこのような騒ぎになってしまいました。国難などというレベルではなく、世界的な危機がやってきたわけです。
そんな時に総理大臣が考えたことはよりによって

     「それでもオリンピックを実施する」

ということでした。2月に「完全な形で」と言ったあの発言は、この人の最後のあがき、断末魔の叫びであったと思います。確信も証拠もありませんが、世界の目をごまかすために感染者数を抑えたり隠したりしたようすもうかがえます。嘘をついてでも自分のやりたいことをする、というこの人の性癖があらわに見えてしまいました。
こういう危機的な状況の場合は、一番やりたいことだけをして、それ以外のことはあとまわしにするという考えがあると思います。しかしもうひとつ、一番やりたいことを我慢して、

    それ以外のことに専心する

という方法もあるように思えるのです。
つらい思いをしている若者たちは、前者の方法をとるといいかもしれません。これだけはやりたいということをやってみてください。しかし、国民の生活を支える人たちはその逆、ほんとうにやりたいことはあきらめて、むしろ地味なことを丁寧に進めてもらいたい。まして総理大臣などは、自分の身分がどうのこうのなどと言っていては国のまとめ役としては失格。政治家は「粉骨砕身」という言葉を安易に使いますが、ほんとうに骨を粉にして身を砕くことを考える人がいるのでしょうか。
「私はCOVID-19の騒ぎが一段落したら職を辞する」と公言するくらいの覚悟で励んでもらいたいとも思います。

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二つに割ったために 

私の、はなはだ怪しげな目では、今の内閣はもう壊滅寸前に見えます。
簡単に言うと、生気がなくて、内閣構成員がバラバラになっているような気がしてなりません。自分たちで考える能力を失って官僚のアイデアを鵜呑みにするために、メッセージ性がなくてやることなすこと愚策に見られてしまう。「マスク」にしても「30万円」にしても、考えた人はその意義に対してそれなりに自信も理屈も持っているのです。ところが発信する人に力がないためにバカげているとかほかにすることはないのかとか言われてしまう。
これは、アメリカだとか、近くでいうと大阪市などをみてもそうなのですが、半分の人を味方につけるためには残りの半分は敵に回してもよい、あるいは半分の人をあえて敵対視することで残りの半分を強固にまとめる、というまことに乱暴な戦法が

    破綻を呼んでいる

のではないかと思えるのです。
仲良しのお友だちだけは優遇して、自分に都合の悪いことは隠して、対立するものに対しては恫喝めいたことまでする。自分にとって都合の悪いことであれば、他人の不幸にさえ「お気の毒に」というひとことで済ませて諫言には耳をふさぐ。自分たちは間違っていない、お友だちのあなたも間違っていない、間違っているのは批判する半分の人間だ。そういうことを繰り返してきたために、いったんタガが外れるとこの内閣がいかにむなしいものなのかがくっきりと浮かび上がってしまったように感じられます。
失礼ながら、有能とは思えない総理大臣だけに、こうなるともう修復できなくなっているように思えます。ここまで落ちぶれてしまったのは、人心を二つに割ってしまったことが結局は失敗だったのだろうと思えるのです。しかしそれでもかろうじて内閣が保たれ、摩訶不思議なことに40%近い支持率を保っているのは、鉄壁の支持者の存在に加えて、皮肉なことに

    「COVID-19のおかげ」

ということかもしれません。
総理大臣に、残されている道は、いくらかでも仕事が落ち着いたときにきっぱりと身を引くことしかないだろうと思います。

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正解がないから 

オリンピックが1年延期になったそうですが、実際のところ、来年実現すると思っている人はどれくらいいらっしゃるのでしょうか。2月の時点でまだ「今年完全な形で」と言っている人がいたときは信じられない思いでしたが、来年についても私はまったく実現を信じていません。オリンピック延期が決まった直後にCOVID-19の感染者が増えたことから、感染者数を隠していたのではないかと海外から疑われているとも聞きますが、もしほんとうに信用を失ってしまったのであれば簡単に取り返すのは難しいでしょう。
そもそも、アメリカが世界で一番感染者数が多い状態では、仮に日本での感染がある程度収まったとしても、ウイルスを再び元気づけるような国際的な祝典行事が行われるというのは希望的観測に過ぎないように思います。
何よりも努力してこられた代表選手の皆さんには気の毒ではありますが、早いうちに返上して混乱を避ける必要があるのではないかと感じています。何とか2024年のパリで無事に行われるように努めよう、という程度に考えた方が健全ではないのでしょうか。世事に疎く、あまりニュースも知らない私が何を言ってもしかたがありませんが、これは

     杞憂

に過ぎないのでしょうか。
まもなく5月の連休がやってきます。今年は国民大移動というわけにはいかないでしょうし、近場の行楽も控えめになるはずです。昨年の連休、豪華な旅行など経済状態が許さない(笑)私は「阪急電車に乗って近場をめぐる旅」というのを楽しんでいました。神戸の布引とか住吉界隈とか、長岡とか、服部天神とか。今年はそれもなく、ずっと家にいることになるかなと思います。私などは今さらどうなってもかまわないのですが、若者や子供たちがなんとも気の毒でなりません。
それにしても、その連休が明けた後、社会はどうなるでしょうか。
ある程度定着した在宅ワークは続くような気もします。週に1~2回出勤するような形もあり得るでしょうか。
学校はどうなのでしょう。一度に通常運転というわけにはいかないかもしれませんが、なにもフルに授業を行うことはないので、クラスを半分に分けで登校日をずらすなどの工夫をすることになるのでしょうか。
学校年齢の子を持つ親の方はイライラも募っているかもしれませんし、子どもは子どもで不満がたまっているでしょうね。
なにしろ

    正解がない

問題を出されているようで、誰もがストレスをためているように感じます。
先日、数学の何とかいう難問を解いた人のニュースがありましたが、本当に解けたのかが証明されるまでに何年もかかったとのことでした。
オリンピックにせよ、万博にせよ、不要不急(と言っては企画している人や出場予定の人たちには申し訳ないのですが)の大イベントは数年間停止して、後世の範となるような態勢を整えるべきように感じる昨今です。

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源氏物語「蓬生(よもぎふ)」を読むために 

今日から、長年実施してまいりました『源氏物語』の講座の簡略版を、断続的にこのブログに掲載していきます。
と申しますのは、例のCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)の影響で、この講座は早くとも9月の末にならないと再開できないからです。それまでの約5か月間、私も頭が鈍りそうですので(笑)、何らかの形で『源氏物語』に関することを書いて、ひょっとしてご覧いただける方があればと思った次第です。平素から参加してくださっている方々にはできるだけメールなどでご連絡しているのですが、連絡先のわからない方もいらっしゃいますので、すべての方にお知らせすることができません。もし便宜がおありでしたらお伝え願いたく存じます。
講座ではこれまでに「若菜上」から「橋姫」までを読んでまいりました。また、受講者の皆様には「桐壷」から「若紫」の途中までについては雑文をお渡ししてまいりました。そこで、講座では取り上げることのできそうにない巻の中から「蓬生」を手始めに、できれば「関屋」「絵合」「松風」「薄雲」「朝顔」などの巻をここで読んでみたいのです。
講座にいらしてくださっていない方も、よろしければ『源氏物語』の雰囲気だけでも味わっていただけるとありがたく存じます。けっして難しいものではなく、おもしろもの、読む価値のあるものです。

まず今日は「蓬生」巻の前提となる内容を書いておきます。

光源氏は十八歳のときに常陸宮の姫君である末摘花(すゑつむはな)という女性と交際しました。昔は夜に女を訪ねて夜明け前に帰るのが普通でしたから、顔を見ることはできず、光源氏は興味津々でした。ある雪の朝、彼女を少し端近(はしぢか。部屋の奥ではなく、縁側の近く)に呼んで、雪明りで姿かたちを見ようという魂胆でした。そして彼が見た姿は、
「座高が高くて胴長で、顔で真っ先に目につくのは普賢菩薩の乗り物のような鼻で、あきれるほど高く、長く、先っぽが赤らんでいる。顔色は青白く、額が広いのに顔の下半分が長く見えるのは相当な面長なのだろう。からだは痩せて骨ばっている。髪はとてもきれいで着物より一尺ほど余るくらいあるのに、着ているものときたら昔風でとても若い姫君の着るものとは思えない」
と、まあとにかくさんざんでした。「普賢菩薩の乗り物」というのは象のことです。鼻が長く垂れていた、ということでしょうね。
彼は幻滅してしまって(こういう話を学生にすると、多くの学生は「顔がすべてなのか!」と憤慨します)、その後は出かけることもあまりありませんでした。そうこうしているうちに、二十二歳の光源氏は男子(のちに夕霧と呼ばれる)を得ます。この子を産んだのは正妻の葵の上でした。しかし葵の上は、光源氏の愛人であった六条御息所の霊に苦しめられたこともあって、出産してしばらくして胸の苦しさに見舞われて二十六歳で亡くなります。
その後、光源氏は十四歳くらいと思われる紫の上と結ばれ、六条御息所は斎宮となって伊勢に下る娘に同行し、光源氏とは別れ、物語は新たな局面に入ります。
光源氏は紫の上とは仲睦まじく暮らすものの、父の桐壷院が亡くなり(このとき光源氏二十三歳)、政治的には対立する右大臣側の力が増します。さらに、桐壷院の一周忌のあと、光源氏が思慕し続けてきた藤壺中宮が突然出家してしまいます。さらに葵の上の父で光源氏の後ろ盾ともなってきた左大臣は意欲を失って引退してしまいます。そんなとき光源氏は右大臣の娘で朱雀帝(光源氏の兄、右大臣の孫)の尚侍となっていた朧月夜(おぼろづきよ)との密会に夢中になっていきます。しかし、光源氏二十五歳の夏、その密会の現場を右大臣に見つかってしまうのです。右大臣の娘で朧月夜の姉でもある弘徽殿大后は激しく怒り、光源氏を何とか貶めてやろうと画策します。
このようなことがあって、世の中のことが何もかも嫌になった光源氏は、二十六歳の三月下旬、最愛の紫の上を都に残して須磨に退去します。その翌年の三月、激しい暴風雨が須磨を襲い、生きた心地もしない光源氏の夢に父桐壷院が現れ、「住吉の紙の導きに従ってこの須磨を離れよ」と告げます。そのあと、明石入道が須磨を訪れ、「夢のお告げでここまで来た」というので光源氏は父の言葉を思い合わせて入道の導くままに明石まで行きます。そこで光源氏は琵琶の演奏の巧みな明石の君と出会います。
都では、右大臣が亡くなり、目を病んだ朱雀帝は退位を決意し、帝位を継ぐべき春宮(藤壺中宮の生んだ皇子。実は光源氏の子)の後見をさせるために光源氏を召し返すことを決意します。光源氏は身ごもった明石の君を残して都に戻り、権大納言になります。二十八歳のことです。
翌年、春宮が即位して光源氏は内大臣になります。あの左大臣は太政大臣として復帰し、明石では女の子が生まれます。そのことを紫の上に伝えると、さすがに彼女は嫉妬の気持ちを持ってしまいます。
帝の交代によって斎宮は都に戻り、同行していた斎宮の母の六条御息所も帰京します。御息所は重い病になり、娘の将来を光源氏に託して亡くなります。光源氏はこの娘を帝に入内させることにしました。

駆け足で「蓬生」巻に至る話を書いてみました。概ね「末摘花」巻から「賢木」巻までに該当します。
「蓬生」は少し時間が戻って光源氏がまだ明石にいる二十八歳のころの末摘花の話から始まります。
次回からは原文も交えながら、急がずに読んでいこうと思います。

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見上げればハナミズキ 

いろいろと世の中の騒がしい時期ですが、季節の移り変わりだけは丁寧に見ていたいものだと思います。
2年前の4月20日、私は京都市右京区の陽明文庫に行っていました。20人あまりの方をお連れして見学させていただいたのです。私は陽明文庫に行くときはいつも阪急電車の西院駅からバスに乗っていきますので、この日はひょっとしたら見ごろかもしれないと思って

    西院春日神社

に藤を見に行きました。あいにく少し早かったのですが、それでもけっこう咲いていて、行ってよかったと思いました。
もう、藤の時期なのですね。しかし、藤は私の家の近くでは見ることができません。少し前までは宝塚大劇場の前に藤棚があって毎年見に行っていましたが、宝塚ホテルの建設のために撤去されてしまいました。少し離れた中山寺まで行けばいいのですが、中途半端に遠いので億劫になっています。
このところ、ぶらぶらと散歩することがあるのですが、モクレンや桜が散ったために、つい足元の花に目を奪われがちでした。先日、ぴゅっと背筋を伸ばして斜め上を見ると、街路樹として植えられている

    ハナミズキ

が目に入りました。
前かがみにならずに、少し上を見上げるとこんなにすてきな花があったのですね。上を向いて歩くのは涙がこぼれないようにするためとは限りません。遠くが見えると、近くにあるもののすばらしさも見えるのです。
今日も散歩に出たいと思っています。

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啄木にまつわる話(2) 

『古今著聞集』「宿執」に見える藤原孝道がらみの話はまだ続きます。
後鳥羽院は、藤原定輔(藤原師長から桂流の啄木を伝授された人)から琵琶を教わっていたのですが、まもなく写瓶(しゃびょう。瓶の中の水を一滴もこぼさずに別の瓶に移すことで、師から弟子に完全に伝授し終えること。皆伝)するという時期まで来ていました。
そんなとき、北面に控えていた孝道が「おそれながら、わが君の琵琶は、束帯を正しく装束している人が

    折烏帽子

を着けているようだ」とつぶやいたのです。
それが院の耳に入り、孝道は院に「どういう意味か」と問われました。孝道は次のように答えました。「定輔卿の琵琶は楽説も、他の曲の弾き方も、撥合わせ(調子を確かめるための曲)もすべて当流(桂流に対する流派。孝博流かといわれる)ですが、啄木だけは桂流です。妙音院殿(師長)は当流も桂流も極められて、当流を正統、桂流をその次に来るものと定められました。そして定輔卿の啄木は桂流です。ですから、他の曲は当流ですばらしいのに、

    啄木だけが桂流

なので、束帯に折烏帽子を着けるようだと申したのです」。
後鳥羽院はなるほどと思って、では孝道から習おうと言い出しました。
しかし、あちらを立てればこちらが立たず。それを聞いておさまらないのは定輔です。「写瓶寸前で孝道に変えるなんて生涯の恨みです。もしそうお決めになるなら、私を配流してください」と、泣いて訴えました。
院は、「不憫なり(それも気の毒だ)」と言ってやはり定輔から習うことにしたのだそうです。
なお、藤原孝道(1166〜1237)という人は、『古今著聞集』にはしばしば登場し、、鼻が大きな人としても知られています。琵琶について「知国秘鈔」「残夜抄」という著述も残しました。
この人は、ある人物が伝授を受けてもいないのに「啄木」を弾いたというので後鳥羽院に訴えたという逸話もあり、まことに執着心の強い人だったようです。なお、その勝手に「啄木」を弾いた人とは、あの鴨長明だそうです。

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啄木にまつわる話(1) 

少し前に、琵琶の秘曲「啄木」について書きましたが、この曲に関しては藤原孝道という人物の話が『古今著聞集』「宿執」に見えます。
孝道が若かったころ、これといってはっきりした病気でもないのに、飲食もできないほど体調が悪くなったので、妙音院こと藤原師長が見舞いました。
孝道は「痛みも苦痛もありませんが、何も食べられず、気弱になっています」というのです。
師長は孝道をじっと見て「お前は、ほんとうの病気ではない。私が藤原定輔に『啄木』を伝授することを気に病んでいるだけだ。心配するな。定輔には

     桂流(桂大納言源経信の流)

の『啄木』を授けることにしよう。さあ、何か食べよ」と言いました。するとまるで食べ物を受けつけなかった孝道は一気に水飯を平らげてしまったのです。
このあと『古今著聞集』は、伝授される人が多くなって、浅いものになるのは残念なことだ、と言います。そして、貞保親王の編んだ琵琶の譜の序文である

    『南宮譜序』

にいう「物は秘するを以て貴しと為す。故に★(にんべんに「賣」。買い手のこと)を待ちて深く蔵す。音は希なるを以て重しと見る。故に人を得て伝へよ」を引用したうえで、「悲しきかな、世、末になりて、この道やうやく陵遅せり」とため息を漏らします。要するに、誰にでも伝えてよいものではなく、人を選んで伝授してこそ重みがある、として、今は世も末で、この道も衰微したものだ、と嘆いているのです。
この話には続きがあります。それはまた明日。

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今日は何の日 

以前学生との交流ブログを作っていた時、毎日「今日は何の日でしょうか」というところから話をしていたことがあります。学生に限らず記念日が好きな人って多いですから、なかなかうまくいったのです。
そのとき、すでに「今日は何の日」というHPがあって、私はそれにずいぶんお世話になりました。まったく便利なものができたものです。
しかしそのブログも終わって、すっかりそういうことに関心を持たなくなりました。でも最近私はこのブログに「啄木忌」のことを書きました。もちろんそんなことをいちいち覚えているわけではありません。だからといってまた「今日は何の日」のページを見たわけでもないのです。ではどうして気づいたかと言いますと、

    短歌カレンダー

を毎日見ているからなのです。
このカレンダーは四月なら四月がイメージされる短歌をたくさん並べているもので、日付のところには時々歌人の忌日がメモされているのです。
四月で言うなら、十二日が空穂忌(窪田空穂)、十三日が啄木忌(石川啄木)、十五日が善麿忌(土岐善麿)と美代子忌(五島美代子)、そして二十日は菜の花忌です。おいおいちょっと待てよ、「菜の花忌」といえば二月十二日で司馬遼太郎の忌日だろう、歌人じゃないし、日が違っているし・・と思われるかもしれません。そうではないのです、短歌の世界で「菜の花忌」というと前田夕暮の忌日なのです。
前田夕暮は尾上柴舟、若山牧水に師事して、北原白秋とも交流のあった、アララギ派とは反対に位置した歌人です。
  向日葵は金の油を身にあびて
ゆらりと高し日のちひささよ
などの作品を残しています。
このカレンダーを毎日見ていると言いましたが、なぜそんなにマメに見るのか、といいますと、トイレに掛けてあるからです(笑)。このところ家にいることが多いので、一日に何度も見ることになり、そのつどいくつかの短歌を勉強させてもらっています。
もうひとつ、このところしばしば今日は何の日かをチェックしているのは、久しぶりに使っている

    歴史手帳

のおかげです。吉川弘文館という歴史関係の出版社が出している手帳で、日記に当たる部分のあとに「歴史百科」としてデータがぎっしり詰まっています。そして日記の部分にも年中行事がメモされています。たとえば、四月二十日には「近江神宮祭」「長谷寺の牡丹まつり」がおこなわれる旨が記されているのです。六月のところには「能勢の浄瑠璃」という記載もあります。
この手帳も最近はよく使っていて、その日に詠んだ短歌をメモしたりしながら、今日はどんな祭がある、というのを楽しんでみています。
私はやはりデジタル人間ではなくアナログなのだとつくづく感じます。

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二段目 

人形浄瑠璃の時代物の作品で眼目になるのはやはり三段目でしょう。『義経千本桜』なら「すしや」、『菅原伝授手習鑑』なら「佐太村」、『仮名手本忠臣蔵』なら六段目の「勘平腹切」が三段目にあたります。ほかにも「袖萩祭文」「熊谷陣屋」「甘輝館」「勘助住家」「弁慶上使」「九郎助住家」「妹山背山」などなど。豪快で悲痛で悲劇の頂点とも言うべき場面です。ここを語る太夫さんはやはり座頭格の方です。
文楽劇場の開場公演の時の三段目(千本の「すしや」)は越路太夫師でしたが、この時は二段目を語られた津太夫師も同格の太夫さんでした。今なら咲太夫師が格としては三段目語りに当たるのでしょう。
三段目と並んで華やかなのは四段目でしょう。「寺子屋」「川連法眼館」「一つ家」「金殿」「神崎揚屋」「十種香」「金閣寺」など。多段形式で四段目に当たるものとしては「山科閑居」「尼崎」があります。もし今、

    先代呂太夫師

がご健在なら、四段目はこの方でしょうか。
それに比べると二段目はやや地味な感じがします。「芝六忠義」「義賢館」「大物」などが二段目で、多段形式のものなら「長左衛門切腹」「判官切腹」が該当します。
竹本越路太夫師の『四代竹本越路太夫』(淡交社)に『平家女護島』「鬼界が島」いわゆる「俊寛」について書かれた部分があります。そこで越路師は「二段目は概して陰気」だとしつつ、その中でもいいものとしてこの「俊寛」や「道明寺」「流しの枝(林住家)」を挙げていらっしゃいます。そしてそのあとでこういうことをおっしゃっているのです。

  二段目を語り生かすには太夫陣が豊富で、
よほど充実してないと。建狂言の時につ
らいことになります。

何だか今の文楽を予言しているような言葉です(この本が出たのは文楽劇場が開場する直前の昭和五十九年三月)。
今、時代物の通しを上演する場合、特定の太夫さんを何度も床に上げるようなかなり厳しいやり方をしないと上演できないといってもよさそうです。
この四月に予定されていた

    『義経千本桜』

の配役では三段目「すしや」を前後に分けて錣太夫・呂太夫、四段目の奥を千歳太夫、二段目の切を咲太夫、初段の奥を藤太夫というのが柱になっていますが、藤太夫さんは二段目の「後」も語られる予定でした。また、織太夫さんは二段目の中と道行の忠信の予定でした。どうも落ち着かない感じがしてなりません。
昭和五十九年の文楽劇場開場の時は、初段の奥は嶋太夫、二段目切は津太夫、三段目切は越路太夫、四段目奥は五代目織太夫でした。なんと切語りの文字太夫(のちの住太夫)は『寿式三番叟』の翁に回っていて、同じく切語りの南部太夫は道行の静御前でした。今と比べると余裕の配役にさえ見えます。
今の文楽、中堅若手に期待される人がいらっしゃるので、どうかますます励んでいただいて、「二段目を生かすには太夫が充実していなければならない」という越路師の問題提起を解決していただきたいものです。

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奇獣 

藤原道長の日記にはときどき不思議なことが書かれます。
長和二年(1013)十一月十六日。豊明節会(とよのあかりのせちゑ。新嘗祭の翌日、十一月の中の辰の日)の日でしたが、彼の日記にはこんなことが書かれています。
「夜になって節会が始まった。私は内弁(所持を司る筆頭の公卿)を務めていた。公卿たちが参上し、五節所に行ったあと戻ってくると、

    従殿東格子外奇獣走来下従南階」。

読み下してみると、殿の東の格子の外より奇獣走り来りて南階より下る・・つまり、紫宸殿の東側の格子から怪しげな動物が飛び込んできて南の階(紫宸殿から南庭に下りる階段)から下りた、というのです。さらに警備の者が追い回すとまた戻ってきて、来た道を引き返していった。
人々は「あれは野猪というものです」「近ごろ陣中によく現れます。あるいはその類が出てきたのでしょうか」などと言います。私が長らくお世話になった朧谷寿先生の『藤原道長』(ミネルヴァ日本評伝選)で知ったのですが、この「野猪」は藤原実資の日記にも見え、そこでは「くさいなき」と読んでいます。「いなき」は今の言葉でいうと「いななき」つまり馬がヒヒンと鳴く声です。背の高い馬ではなく「野猪」は草の中でいななくような鳴き方をするので「くさいなき」といったのでしょうか。
こういうことは何か

    不吉なことの前兆

と考えられることがあります。するとそのあと十二月二日には「大内夜殿内狐入云々、式部卿宮見付給云々」という珍事があります。道長は実見していないようですが、式部卿宮、すなわち三条天皇皇子の敦明親王が見たこととして「内裏の夜の御殿の中に狐が入った」というのです。こういう動物たちが内裏の中に出没し得た時代だったのですね。
それにしても何か不穏な空気が漂います。
すると今度は十二月九日に「藤壺与梅壺間渡殿盗来、引西廂、依問北方走去」という出来事があるのです。内裏の藤壺と梅壺の間の渡り廊下のあたりに

    盗人

がやってきたので、道長が誰何すると北の方に逃げ去ったというのです。藤壺と梅壺というのは飛香舎と凝花舎のことで、清涼殿の北西側に南北に渡殿を挟んで並んでいる建物です。
内裏に泥棒が入るというのは稀にあったことです。何しろ当時は暗いですし、警備も万全ではなかったのでしょう。
長和二年は三条天皇のころです。この人は道長とはあまり親しい関係になく、やがて眼を不自由にしたこともあって五年ほどで退位してしまいます。「心にもあらで憂き世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」という哀しげな歌を詠んだ人です。
敦明親王は三条天皇の第一皇子で三条天皇の次の後一条天皇のときに春宮になりましたが、権力者の後ろ盾がなく、その地位を辞退せざるを得なくなる、という不遇の人でした。

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竹本春太夫という名跡 

私が以前からすてきな名前だなと思っている文楽太夫の名跡のひとつに「竹本春太夫」があります。初代が活躍されたのが18世紀半ばから後半ということですから、もう250年以上前に起こった名前ということになります。初代は美声で知られた太夫だったらしく『妹背山婦女庭訓』「妹山」が当たり芸だったそうです。
江戸末期から明治初めにかけて活躍したのが五代目。この人もかなりの美声で、知られた人だったそうです。そして五代目の門下で、南部太夫、越路太夫(二代目)から六代目春太夫を継いだ人は、やはり美声で知られ、後に受領して

    竹本摂津大掾

となった方です。
つまり春太夫は美声の太夫の代名詞のような名跡なのですね。こういうのはとても大事だと思うのです。ついでに申しますと、五代目の門下で、六代目とはどう門の弟子だった人に春子太夫(初代)から三代目大隅太夫を名乗った人がいます。二代目豊澤団平の薫陶を受けた方です。
春太夫の名はその後、第二次大戦中に2年間だけ七代目がいらっしゃって、そのままになっています。
今この名前はどなたのところにあるのか存じませんが、もう日の目を見ることはないのでしょうか。もったいないです。私のしろうと考えでは、三代目春子太夫、八代目嶋太夫、五代目呂太夫、そして今の呂勢太夫がこの名前のイメージに合致します。
四代目竹本越路太夫師匠は山城(古靭)師匠から

    染太夫

を襲名したらどうかという話をお受けになったことがおありだそうですが、この染太夫というのは『妹背山』なら「背山」の太夫です。ごつごつした骨太な太夫さんに合いそうな気がします。この名前も絶えてしまったのが寂しいです。染太夫の名跡が今に続いているなら、千歳太夫さんのような人が合いそうだなと感じでいます。
春子太夫師匠は呂賀太夫、松太夫から三代目の春子太夫を襲名されましたが、春太夫になるという話はなかったのだろうか、と、今さら詮索してもかいのないことを思ってしまいます。こういうすてきな名前を継いでいくことは重要だと思うのです。
文楽協会か国立劇場か、どちらの仕事なのかはわかりませんが、遺族を訪ねて名前を協会(劇場)に預けてもらうように動くことはできないものなのでしょうか。文楽は伝統芸能でありながら世襲制ではないのですから、そういう努力も必要になってくると思うのです。
そのためには当然経費も掛かります。そこは大阪府や大阪市が

    補助金を・・

出すわけがないか。

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春子太夫師の邸宅 

呂太夫さんの本の中で、当時の英太夫さんが入門当初三代目竹本春子太夫師匠のご自宅に内弟子として住み込んでいらっしゃったことを書きました。ただ、春子師匠がその後2年で急逝されましたので、英太夫さんがこのお宅にいらっしゃったのも長い年月ではありませんでした。
実はこのお邸は、私も前を何度も通ったことがあるのです。ほんとうにすてきな、モダンなお宅でした。
このお邸の門は道から階段を上がったところにあったのです。そしてその階段脇に、種類はよく知らないのですが、

    枝垂れ桜

がありました。
その時期になると私は普段は別の道を歩くのに、わざわざこのお宅の前を通るようにしていました。車が往来する大きな道からは小さな川を隔てたところにありました。その川沿いにはソメイヨシノが植えてあり、右も左も爛漫の花盛りになるのです。
呂太夫さんに内弟子時代の話をうかがうために、その階段から門にかけての写真を撮らせてもらって「このお宅にいらっしゃったのですか?」とお見せしたら、本当に懐かしそうに「これや、この家や」とおっしゃっていました。
あの階段から春子師匠と英さんが下りてこられて、駅まで(2分くらい)歩いて電車に揺られて朝日座に通われていたのだな、とその

    幻影

が浮かんでくるような錯覚すら覚える、そんなすてきなお宅でした。
しかし、このお宅はもうありません。このあたりは昭和40年代の初めに開発されましたので、周囲の家ともども築50年ほどになり、居住者も変わって、次々に建て替えが進んでいるのです。
このお邸の前を通るたびに春子師匠とわずかながらもつながっているような気になったのですが、残念です。

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呂太夫系図―初代の弟子 

初代呂太夫にはどれくらい弟子がいたのか、気になるところでした。厳密なところはわかりませんが、義太夫年表などによって、それらしい人を探してみると、10人ばかりはいたようです。呂子、呂磨、呂茂、呂鳳、呂三、呂和・・といった名前が記録に残っているからです。その中に、初代古靭太夫門下で豊竹十九太夫(とくたゆう)を名乗っていた人がいます。この人は初代鶴澤重造の子で、古靭門下になったものの、師が大道具の棟梁に殺されるという悲劇に遭い、そのあと呂太夫門に入ったのです。その時に名乗ったのは

    豊竹呂勢太夫

でした。
昔はよく名前を変えることがあったようで、この方はこのあと、新呂太夫、祖太夫も名乗られました。『義太夫年表』を見ますと、祖太夫だけは竹本姓のようです。そして、初代呂太夫が亡くなったあと、二代目を継いだのがこの人でした。結局二代目呂太夫は五つの名前を名乗られたことになります。
この人物については、大正六年に刊行された秋山木芳の『義太夫大鑑』に「豊竹呂太夫の藝談」が載っていたのでいろいろ知ることができました。
この中で二代呂太夫は語り方の細かいことをいくつか話しているのですが、それは素人の人に広めたいという思いからだったようです。当時は素人で義太夫節を語る人はずいぶん多かったので、役に立ったでしょうね。
いかんせん、この人は腰の落ち着かない人で、周りとの人間関係もスムーズであったわけではなさそうで、しばしば旅に出ました。そんなこともあって徳島の金平糖屋の息子であった、後の十代若太夫を弟子にする機会があったのでしょう。
ではこの二代目呂太夫にはどれくらい弟子があったのか、これについてはよくわかりませんでした。わずかに

    三代目司太夫

になった呂瀬太夫という人が門下であったことがわかるくらいで、実は六代呂太夫師匠からは「もっとお弟子さんはいたはったと思う」と言われました。私がもっといろいろな方に直接お話をうかがえればよかったのですが、悔しい思いがあります。

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呂太夫系図―はらはら屋 

少し前に書いた呂太夫さんの本がらみの話の続きです。

呂太夫さんが襲名されることが決まったことが本の刊行日を決定づけることになりました。襲名が2017年4月に決まりましたので、刊行はそのころということになったのです。せっかく「呂太夫」になられるのですから、本には代々の呂太夫についてもまとめておこうという気持ちになりました。私自身、四代目呂太夫である嶋太夫師匠、五代目呂太夫さんは何度も拝聴していますし、おふたりにかんする資料もいくらかは持っていました。また六代目が親しく兄事されてきた方々ですのでさまざまなお話を聞くことができました。三代目は十代若太夫師ですから、これはすでにかなり調べていました。問題は初代と二代目です。
初代豊竹呂太夫(1843~1907)については、素人出身で豪快な語りをされたとか、「一力茶屋なら平右衛門」が当たり役だとか、

    「はらはら屋」

と呼ばれていたことだとか・・・そういうことはわかっていましたが、ではその「はらはら屋」の謂れとなった「はらはら薬」とはどういうものだったのか、ということについてはあまり知りませんでした。しかし、今は何でもネット上に出ているので、この薬が今も第2類医薬品「はらはら薬 翁丸(おきながん)」として販売されていることはいとも簡単にわかりました。上腹(胃、胆のう、すい臓など)と下腹(腸)の両方に作用するので「はら・はら」という名がついたらしく、コウブシ(香附子)、オウバク(黄柏)、トウヤク(当薬。センブリ)、モッコウ(木香)を配合した胃腸薬で、胃もたれ、食べ過ぎ、飲み過ぎ、二日酔い等々に効果があるそうです。
これを

    大阪天満

の店から売り歩いたそうで、いろいろ調べているうちにこの店の古い広告を見つけたこともあります。つまり初代呂太夫は天満の出身なのです。
本名は上西吉兵衛ですが、この家柄は近江の白髭神社の神官だったそうです。昔は神社で薬を調合配布していたので、そのあたりから専門的に薬屋になったよ
うです。
昭和のころは大阪府のある町でやはり上西さんという方が「はらはら薬」を扱う薬局をされていたようなのですが、残念ながら私が調べ始めたころにはもうありませんでした。その町にも、上西さんを訪ねて足を運んだことがありました。「上西」を何と読むのかも問題でした。「うえにし」「かみにし」「じょうさい」など、何とでも読めそうです。しかしこれもその町に今もお住まいになっている方のお名前から「うえにし」であることがわかり、ルビを振ることができました。
本にも書きましたが、初代呂太夫の声の大きさは大変なものだったと伝わり、四代目鶴澤叶や二代目豊竹古靭太夫(山城少掾)の証言があります。どちらも劇場(御霊文楽座)から100mほどのところで声が聞こえたというものでした。御霊神社の近所の人はうるさかったのでしょうかね。

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啄木忌 

今日は4月13日。
ということは石川啄木が26歳で亡くなった命日、つまり啄木忌です。

便所より青空見えて啄木忌(寺山修司)

寺山修司の若き日の作です。栴檀は双葉より、です。啄木がもう少し長生きしていたら、芝居を書いたかもしれない、と、寺山修司とダブらせて考えてしまいます。
寺山修司にはかないませんが、私もひとつ。
花びらを避けて通るや啄木忌

啄木はキツツキのことですが、今ではほとんどこの歌人の名としか思われていないでしょうね。
実は、もう一つ、啄木の名から連想したいものがあります。
先日、琵琶の名器についての記事にこんなことを書きました。村上天皇が玄象を弾いていたときに

    廉承武

の霊の訪問を受け、秘曲を教わった、というものです。そのとき廉承武は「かつて藤原貞敏が唐に来たときに、教え漏らしたから」と言っていました。
貞敏が廉承武から教わって日本に伝えたのは三曲あり、それは「流泉」「楊真操」、そして

    「啄木」

でした。
石川啄木は自分のペンネームの由来を、病を養う折にキツツキの木をつつく音を聞いていたから、という意味のことを言っていますが、もうひとつ、このペンネームは明星を主宰していた与謝野鉄幹が付けたという説もあるらしいのです。
仮に後者が正しいとしたら、鳥のキツツキではなく琵琶の秘曲が由来である可能性もありそうに思えます。
能『玄象』で重要な役を果たす藤原師長は尾張に流されて今の名古屋市瑞穂区に住んだとされます(今もその辺りの地名に「師長町」「妙音通り」があります)。『平家物語』「大臣流罪」には、師長が流されたときに熱田神宮で琵琶の演奏を奉納したことが記され、「流泉」も弾いたとあります。彼が朗詠して秘曲を弾くと、「神明感応堪へずして宝殿大きに震動す」という奇跡も起こりました。
師長は「啄木」も熱田の宮に奉納したのでしょうか。

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カジノはやめよう 

私は政治にも経済にも疎いので、こういうことはめったに言わないのですが、今回のCOVID-19の騒ぎでつくづく思うことがあります。
「必ずもうかるから、これをやろう」という地域があちこちにあると聞いている、カジノ。やっぱりやめませんか。
依存症を確実に出すものです。依存症に対してはフォローもする、というのは、消火器を横に置いて

    放火する

ようなものです。
誘致を推進する人たちは、世界から大金持ちがやってきて大判小判を置いて行ってくれる、という夢物語を頭に描いているのでしょうが、そんなことをしないとやっていけないような街なら、何をしても品格のない町になってしまいます。品格で世の中が潤うものか、という考えの人もあるでしょうが、私はまったくそうは思いません。人のお金を巻き上げて「潤った」世の中が麗しいものでしょうか。
カジノができたとして、その町の夜の風景を衛星写真で見てみましょう。異様なものが写るだろうと思います。そして、このたびのような

    パンデミックが再来する

ことを想像してみるとその先に光明が感じられるのでしょうか。
オリンピックが、「安全に行われたら」という前提でしか考えてこられなかったために、今このような事態になってあたふたしています。
内田樹氏が『サル化する世界』という本を出されました。人間が朝三暮四のサルと同じようになっている、という警告です。
このままではサル化どころか、

    猿の惑星

になってしまいそうで恐ろしくさえあります。
万博を返上するのも早いうちがいいと思います。

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Stay home 

今、世界の合言葉になっているのは、Stay home だそうです。
たまにはこういうのもいいでしょう、と言いたいところではありますが、原因になったのが厄介なウイルスだけに、複雑なところです。
文楽の技芸員さんの中には、ゆっくり休める時期と前向きにとらえる方もあり、そういう発想ができれば必ずしも悪いことではないと感じないわけではないのです。
三月半ばから、私もめったに仕事場に行くことがなくなりました。といっても、どうしても週に1、2度は

    図書館に行きたく

なり、一日中そこに籠ってはいろんな資料を持ち帰って家で仕事に使う、ということをしていました。今さら遅いような気がしますが(笑)、三月はある程度は勉強できたように思います。
もし可能なら、今年度も一般の方対象の講座をしたいのですが、今のところ見通しが立ちません。しかし、三月中に予習だけはしておこうと思い、何と、十月ごろまでの予習ができてしまいました。仮に講座ができなくても、勉強になっただけよしとしようと思います。
外出というと、買い物に行くくらいで、ごくまれに桜を見たりはしていました。でも、歩く人の顔から笑いをあまり感じませんでした。その理由の一つはやはりマスクです。笑いの表情を感じさせてくれるのは目と口元が大きいですから、その半分が失われたのでは物足りなくて当然と言えるでしょう。そしてもうひとつはやはり心の問題でしょうね。笑ってはいけないような、不思議な感覚に陥ってしまいます。
四月は昔の暦でいうと、おおむね

    弥生

にあたります。弥生は「弥(いや)生ひ」の意味ですから、いよいよ草木が生長する季節。明るく希望に燃える時期なのですが。

    家にゐてただ書を読みてなげきをり
      四月のうたは明るかるべきを

そんな気持ちでこの春を過ごしています。

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昔の楽器〜玄象(2) 

琵琶の名器には様々ありますが、『江談抄』が挙げている八つは「玄象」「牧馬」「井手」「渭橋」「木絵」「元興寺」「小琵琶」「無名」で、「玄象」は筆頭に書かれています。
『続古事談』巻五にはこんな話があります。

源経信の話によると、玄象は演奏できない時がある。源資通(みなもとのすけみち。経信の琵琶の師)が弾いた時、音が出ないので、資通の父の済政(やはり管絃の名手。特に笛の名人)が「今日は琵琶を弾く日ではない。琵琶がすねている」といったそうだ。

たったこれだけのことなのですが、やはり

    玄象には感情がある

というわけです。火事のときに自分の力で脱出した、とか、腹を立てると音を出さないなどという話もありましたよね。もちろん、琵琶に感情などありませんが、それだけ大切にしなさい、ほったらかしてはいけない、という戒めでしょうか。
『十訓抄』第十にはこういう話があります。

村上天皇が月夜に清涼殿の昼御座(ひのおまし。天皇が普段いるところ)で水牛の撥を使って玄象を弾いていた。そばには誰もいなかった。すると、なにやら影のようなものが空から舞い降りてきて、清涼殿の孫廂(昼御座の東側)に座った。「何者だ」と天皇が訪ねると「私は唐の琵琶博士廉承武(8~9世紀の人。村上天皇の時代は10世紀半ば)です。今、空を飛翔してこちらを通り過ぎようとしましたら琵琶の音がすばらしいので参上しました。私は藤原貞敏(807~867。管絃の名手。唐に渡って廉承武に師事し、二、三曲の秘曲を伝授され、琵琶を二面もらったと伝えられている)に授け残した曲がありますので、お授けしましょう」という。村上天皇は喜んで琵琶を廉承武(の霊)にわたすと、廉承武はかき鳴らして「この琵琶は、もとは私のもので、藤原貞敏に譲ったもののひとつです」と言った。そして廉承武は

    「上原石上(じょうげんせきじょう)」

という曲を伝授した。
なお、この話は、源高明(914~982)が月夜に琵琶を弾いていた時に廉承武の霊が来て、若い女に取り憑いて秘曲を授けたともいわれる。

というものです。
このように、玄象は村上天皇とのからみで伝説が出来上がるようです。
玄象については、このほかにも、『古今著聞集』に「二条院が即位した翌年に玄象を弾くと、誰もが感動した」という話や「治承二年に作文(漢詩を作る会)の後で太政大臣藤原師長が玄象を弾こうと前に置いたが弾かなかった。これは絃が切れたからだろうか」という逸話を紹介しています。
玄象ほどの名器になるとさまざまな伝承が生まれるのですね。
玄象以外の楽器にも残された話がいくつもあります。また折を見て。

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昔の楽器~玄象(1) 

少し前に平安時代の楽器のことを書きましたら、読んでくださった方があり、能の「玄上」(書き方はさまざまにあるようです)もあるよ、とご指摘いただき、何か他に話があれば続編を書いてもらいたい、というご要望をいただきました。このようなささやかなブログにご希望があるなんて光栄至極です。
そこで、「玄象」のことを少し補足しておきます。
『今昔物語集』巻二十四―24話にこんな話があります。

村上天皇のころ、玄象がにわかに姿を消してしまいました。「これは代々の伝わりもので重要な御物なのに。盗人のしわざであれば、琵琶など持っていても仕方がないだろうから壊してしまったのではなかろうか」と天皇は嘆いたのです。
そんなある日、源博雅(醍醐源氏。克明親王の子。管絃の達人)が清涼殿にいると、南の方から玄象としか思えない音が聞こえてきました。博雅は早速小舎人童一人を連れて外に出ました。すると、やはり南から聞こえてきます。朱雀大路をどんどん南下して、とうとう

    羅城門

にたどり着きました。門の上で誰かが玄象を弾いています。ぞっとした博雅は鬼のしわざではないかと思って「どなたが弾いているのか。天皇がその琵琶を探していらっしゃる。清涼殿でその音が聞こえたので、ここまでやってきたのだ」と声をかけました。すると、何かが上から下りてきました。頸の部分に縄をつけて玄象を下ろしてきたのです。博雅はそれを受け取って内裏に戻り天皇に渡します。天皇は大喜びで「では、鬼が取って行ったのだな」と言いました。人々は博雅を盛んにほめそやしました。
玄象は今もなお天皇の宝物で、内裏にある。この玄象は生き物のようで、下手に弾くと

    腹を立てて

鳴らないし、塵が付いているのを払わないとやはり腹を立てて鳴らない。

というような話です。
これとよく似た話が『江談抄』三巻-58にあります。こちらは、玄上(「象」の字はしばしば「上」でも表記されます)がなくなり、それを探すために天皇が十四日間祈祷を行わせると、朱雀門の楼の上から頸に縄をつけて下ろされた、というもので、朱雀門の鬼が盗んだものの、修法の力で露見した、という話です。羅城門は朱雀大路の南のはて、朱雀門は朱雀大路の最北に当たります。

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百度平住家 

豊竹呂太夫さんの本が世に出て3年が経ちました。
今、改めてこの本を拾い読みしてみると、知らないことだらけなのにいろいろ調べて何とか文章にできた、というところが多数あるのに我ながら驚くばかりです。
特に、十代目豊竹若太夫師匠のことについては、私は実際に語りを聴いていませんから、何も言えないのです。また、呂太夫師匠も子ども時代は太夫になる気などさらさらなかったとおっしゃっていますし、そのころはおじいさまの人生についてあまり深く知ろうともなさらなかったのかもしれません。だからといって何も書かないわけにはいかないので、本にも書きましたように早稲田大学の内山美樹子先生や徳島の浄瑠璃研究家の

    久米惣七さん

という方のお書きになったものを大いに活用させていただきました。
その中で、久米惣七さんがなさった若太夫師へのインタビュー記事は幼い頃の若太夫師の浄瑠璃への関心についての重要な証言を含んでいるものでした。
若太夫師、というよりは林英雄少年が数え年八歳(小学校1年生の年齢)の明治二十八年のころに、ご尊父(若太夫師の父、つまり呂太夫師匠の曾祖父に当たる方)が浄瑠璃の稽古をしてもらっている三味線の師匠から「ボン(若太夫師)も語ってみなはらんか(語ってみませんか?)と言われすぐに「この里に晴れ曇りつつ行く空の」と語りだしたのだそうです。聴き覚えていらしたのですね。
さてこの浄瑠璃は何だろう、というのが疑問でした。著名な作品なら見当が付くと思ったのですが、私はまったく知りませんでした。そこであれこれ調べると、どうやら『敵討稚文談』の

    百度平住家

という話であることまでは割合に簡単にたどりつきました。さてこの『敵討稚文談』とか「百度平住家」は何と読むのか、私はそれも知りませんでした。しかしこの作品、当時は結構人気があった曲らしく、『義太夫年表』を見るとそれなりに上演されているのです。それで作品名も調べがついたのですが、「かたきうちめばえぶんだん」とか「かたきうちみばえぶんだん」とか読み方は一定していませんでした。「めばえ」は「芽生え」、「みばえ」は「実生え」と思われ、どちらも「稚」の読みとしてはあり得るものだと思います。呂太夫さんの本ではできるだけルビを振るという基本方針がありましたので困りました。結局は「かたきうちめ(み)ばえぶんだん」と振ることにしました。
どんな話か、というところまでは知らなくても本は書けたのですが、やはりひととおりのことは押さえておきたいですし、

    脚注

に少しでもあらすじを書きたいという思いがありましたので、さっそく原文を探しました。すると昔の稽古本がインターネット上で公開されているのを見つけ、あの難しい文字(!)を読むことができたのです。その稽古本のタイトルの「百度平」には「ずんどへい」というルビが振ってありました。内容は、何しろ文字が難しいですし、読めても意味は難解なところもあります。しかし私の怪しげな解釈力でも何となくわかってきました。あの『花上野誉碑』と同じ、

    金毘羅利生もの

でした。「(田宮)坊太郎」という名前が出てきたときはホッとしました(笑)。堀口伝五右衛門に丸亀藩士の田宮新左衛門が殺され、その遺児のお梅と坊太郎が敵討ちをする話です。そして「百度平住家」は紀州藤代の「百度平」の家が舞台であり、この姉弟が乳母のお辻(「志度寺」で「南無金毘羅大権現」と祈るあの人ですね)と再会する場面だということが分かったのでした。百度平はお辻の息子だったのです。
このように、専門家でもなく、知識の乏しい私だけに、いろいろな資料を探してはひとつの脚注(5秒ほどで読めるものではありますが)を書く、という作業の積み重ねがあったのでした。

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外国人の方々 

大相撲春場所で活躍された力士に碧山というかたがいらっしゃいます。私、ずっとこの人のお名前は「みどりやま」だと思っていました。この記事を書くために念のために調べたら「あおいやま」だそうで、人前で「みどりやま関が」なんて言っていたら恥をかくところだったのですね。
この方は稽古場横綱と言われているそうで、本場所では成績にムラがあるものの、稽古場ではめっぽう強いのだそうです。写真を見ると、腕が丸太のようで、しかも長い。あの腕で突き飛ばされたら普通の人なら吹っ飛ばされそうです。
同じブルガリア出身の元関脇琴欧州関の勧めでこの世界に入ったのだそうですね。
この方が場所中に神経質なほど

    コロナ19ウイルス

を警戒して、外には出ずに過ごしたそうです。また、場所中は離れて暮らされる奥様にもくれぐれも注意するように電話をなさっていたと新聞記事で読みました。夫君の活躍でいくらか奥様も気分よくお暮らしだったでしょうか。
逆に、日本から欧米に留学などしている方々も何かと不安な日々を送っていらっしゃるだろうとお察しします。私の知っている日本人女性で、今アメリカにいる方も授業は教室ではできないそうです。あちらは、今は年度替わりではありませんから、大変なことだろうと思います。ご本人がツイッターなどでさかんに寂しさ、不安の気持ちを書いていらっしゃるのが痛々しくて仕方がありません。
外国からの観光客も当然ながら激減して、観光業界も大変な痛手を負っているのではないでしょうか。

    パンデミック

の状況ではもっともなことかもしれません。その他、コロナ19ウイルスのために多くの産業が混乱の度を深めています。こういうときに非正規雇用の者は必ず一番に犠牲になるのでしょう。
私はまだ身の回りに感染者もないのですが、ウイルスの恐怖がひしひしと感じられるようになりました。「明日は我が身」かもしれないことは間違いありません。今できることを精一杯しながら、無理をしない生活を心がけるばかりです。

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春の宴会 

宴会好きな方は新年会に始まって忘年会に至るまで一年中何らかの宴に参加されているかもしれません。この時期、三月から四月にかけては歓送迎会などがおこなわれるようです。
私はもうそういうものからはすっかり縁遠くなり、最後に参加したのは15年くらい前の歓送会です。といっても、お世話になった方が退職されるときでしたので、やむなく出かけただけで、あいさつした後は会場の隅っこでぼんやりしていたのですが。それ以後となると、「だしまきの夕べ」がかろうじて「宴会」といえるものだと思います。
以前は世の中も学校もまだ余裕があって、学園主催の忘年会があり、新年度交流会のようなものがあり(つまり一切費用はかからないのです。会場までは何と貸し切りバスが出ました!)、卒業式のあとには

    謝恩会

なるものもありました。もっとも華やかだったころの謝恩会は某有名ホテルの大きなフロアで、総勢700人くらいの規模でおこなわれ、もちろん教員は無料、お土産までもらうという豪華版でした。その後、世の中が沈滞していき学生も減っていき、謝恩会ではなく卒業記念会のような形になって、学生は数十人、教員は自費で参加、というのがあたりまえになったのでした。
今は障害の問題でパーティ関係には出席していません。そのおかげで出費は減っていますが、そういうことよりもやはり人との交流がなくなることは寂しいです。
せめて総理大臣様に目いっぱいおべんちゃらをつかえば、四月には

    税金を使って

飲み放題食べ放題という、信じられないような花の宴に参加できたのでしょうが、魂を売ってまで「ただ酒」にありつこうとは思いません(笑)。
ことしはコロナ19ウィルスの影響で何かと質素になっていて、春の宴会もあまりおこなわれないのでしょう。
私は、歓送迎会の類に参加しなくなった時に自分が辞める時には逆にそういうものがあるとしてもお断りすることを決めていました。しかし、今のご時世、参加したくでも(笑)そんな催しはあるわけがありません。
これはこれでけっこうなことだと思います
世の就職、退職される皆様の今後の人生に幸がありますように。

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はかない人生 

人生ははかないものだという考え方はいうまでもなく古くからあるものです。
『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声」は「諸行無常」という語とともに人口に膾炙しているものです。
故人を悼む歌として古くから挽歌、哀傷歌というものも多く詠まれてきました。「挽歌」は棺を「挽く」ときの「歌」、ということです。
人生や人の命は「露」「夢」「玉の緒」などに喩えられ、あっけなく消えていくもの、絶えてしまうものとされました。
在原業平は

「つひに行く道とはかねて聞きしかど
昨日今日とは思はざりしを」
(古今和歌集・哀傷。伊勢物語にも)


と詠みました。まさか自分の命がもう終わるとは思わなかった、という実感のこもった歌です。
『和漢朗詠集』というアンソロジーは漢詩と和歌をさまざまなテーマに分類して編集されたものです。
そのテーマの中に「無常」があって、ここに採られている有名な漢詩の一節に藤原義孝(954~974)の

    「朝有紅顔誇世路、暮為白骨朽郊原」

があります。

朝、美しい紅顔で世間に対して誇らしげな
生き方をしていでも夕べには白骨になって
野外に朽ちてしまうのだ。

とまあ、なんともはかない話です。
「何を大げさな」「かっこつけてんじゃねぇよ」などと思う勿れ。
義孝という人は右大臣師輔の長男である一条摂政藤原伊尹の子。つまり家柄は抜群です(義孝の子には書道の名人で官僚としてもすぐれていた藤原行成がいます)。そのうえ、信仰心が篤く、美貌で、文才もありました。「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」は『百人一首』にも採られて有名です。兄の挙賢に続いて近衛少将に任ぜられたので「後少将」とも呼ばれた人でした。こんな

    かっこいい名門の御曹司

なのですが、なんと、二十一歳(満年齢では20歳になる年)という若さで亡くなるのです。流行していた疱瘡だったそうで、同じ日の朝に兄が亡くなり、夕方に義孝が亡くなったと言われます。
あまりに何もかも揃った人は、当時「ゆゆし(不吉だ)」と考えられることがありました。『源氏物語』の主人公の光源氏もそういわれ、長生きできないのではないかと案じられたのです。
自らの作品を模倣したような義孝の最期でした。

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昔の楽器(3) 

藤原道長の日記『御堂関白記』寛弘七年(1010)正月十一日条に、道長が左宰相中将源経房から贈られたと記されている和琴の「鈴鹿」は、名前の由来はよくわかりませんが、「累代帝王の渡物(代々の帝が受け継いだもの)」(『江談抄』)ともいわれています。道長は、これは「故小野宮第一物(故藤原実頼の第一の秘蔵の物)」と言っていますから、この時は必ずしも「帝王」のものとはいえなかったのです。
ところが、吉田経房という人の日記である『吉記』寿永二年(1183)七月二十五日条によると、

    安徳天皇の都落ち

に際して、平時忠(清盛の妻時子の弟)が帝の椅子、笛の筥などとともに「鈴鹿」と琵琶の玄象を持ち出すように命じたとあります。
『枕草子』や『御堂関白記』の時代から二百年近く後に同じ楽器が現れるのも面白く感じられます。
「玄象」という琵琶は仁明天皇のころに掃部頭(かもんのかみ)藤原貞敏という人が唐に渡って持ち帰ったものだとされます。撥面に

    黒(玄)い象の絵

が描かれていたので「玄象」というのだ、といわれるのですが、一説には藤原玄上(はるかみ)という人が持っていたので「玄上」というのだ、とも。ただ、ほかの楽器の名前の付け方を考えると、所有者の名前で伝わるというのはいかがなものかと思うのです。
この「玄象」はすごいパワーがあるのです。なんと、内裏が火事に遭った時、だれもこの琵琶を持ち出そうとしていないのに、自分で勝手に飛び出して庭の椋の木に引っかかっていたというのです。
名器になると自分は自分で守る、という力を秘めるようになるのですかね。
このように、さまざまなエピソードがある楽器なのですが、残念なことに、これらの楽器はひとつとして今には伝わっていません。
楽器については資料を集められてきちんとまとまった研究をされている方もありますが、不勉強で、その方のご研究を読まずに書いてみました。疎漏があろうかと思います。

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昔の楽器(2) 

楽器の名前をいろいろ挙げました。「螺鈿」の名前の由来は昨日書きましたようにおよそ見当がつきますが、ほかの物はどんな由来があるのでしょうか。
笛の名器に「大水龍」「蛇逃」「葉二」などがありますが、それらの名前の由来には言い伝えがあります。「大水龍」は唐の商人が海に投げ込んだものを、黄金と引き換えにして龍から返してもらったものだとか。「蛇逃」は清原助元という人がこの笛を吹くことで蛇を退散させたという言い伝えがあります。
そして『枕草子』にも『御堂関白記』にも見えた「葉(歯)二」は、吹き口の近くの「蝉」といわれるところに赤と青(緑)の葉が描かれていたためにそう呼ばれたと伝わっています。
この葉二に関しては、笛の名手である

    博雅三位(源博雅)

という人にまつわる伝承があります。
東山の聖心上人という人が天上春香の空から聞こえる音楽を訪ねていくと、ちょうど博雅が誕生したところに行きついた(古今著聞集)という、何やらキリストの誕生めいた話があります。この博雅は蝉丸(百人一首でおなじみ)のもとに三年間通って琵琶の秘曲を習いました(今昔物語集)。彼が吹いた笛で鬼瓦が落ちたり(江談抄)、盗人が改心したり(古今著聞集)もしました。そして『十訓抄』という説話集の中には、朱雀門(大内裏の正門)の前で見知らぬ人と笛を交換した話があるのです(同じ話は『江談抄』にも見え、こちらでは博雅ではなくやはり笛の名手であった浄蔵上人が朱雀門の鬼から与えられたことになっている)。このとき博雅がもらった笛が「葉二」だったとされます。
「葉二」のことを道長は「歯二」と書いていますが、これに関してちょっとした逸話があります。

    後一条天皇(一条天皇の子、母は道長の娘)

のころ、「葉二」は道長の手元にあって、天皇がそれを欲しいと蔵人を通して道長に伝えました。この蔵人はそれが笛の名だとは知らず、道長に「は、ふたつ」を差し出すようにと伝えてしまったのです。道長は「帝の仰せは何でも聞きますが、いくら何でも歯が二本欠けては困る。それはひょっとしてこの『葉二』のことか」と言ったというのです(江談抄)。なお、この話を信じるなら、この笛は一条天皇に差し上げたはずなのに、また道長の手に戻っていることになります。
この笛はさらに藤原頼通の手に渡ったともいわれ、『十訓抄』は「宇治殿(頼通)平等院を造らせたまひけるとき、御経蔵に納められにけり」と伝えています。

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昔の楽器(1) 

平安時代の内裏には「宜陽殿(ぎようでん)」という建物があります。紫宸殿の東側にあり、母屋は納殿(おさめどの)つまり貴重品収蔵室なのです。「一の棚」と呼ばれるところには特に価値のあるものを納めていたそうです。
天皇の持ち物、いわゆる「御物」ですが、その中には貴重な楽器もありました。そして、これらの楽器には名前が付けられていたのです。例えば、『枕草子』「無名といふ琵琶の御琴を」の段には琵琶の名器である「無名(むみょう)」を天皇が中宮(定子)のところに持ってきた、という話が書かれています。そしてそのあとに笙の名器である「いなかへじ(不々替)」の名も出てきますし、さらには琵琶の

    玄象(げんしょう。「玄上」とも)、

「牧馬(ぼくば)」「井手」、和琴の「朽目」「塩竃」、笛の「水龍」「小水龍」なども記されています。
一条天皇の次男である敦良親王が生まれたのは寛弘六年(1009)十一月二十五日でした。年が明けて寛弘七年正月十一日、親王の母方の祖父に当たる藤原道長はその日記にこんなことを書いています。
花山院御匣殿(かざんいんのみくしげどの)の
ところから横笛を手に入れた。歯二(はふたつ)
という名である。当代最高の笛である。源経房
が和琴が贈られた。これは亡き藤原実頼殿所持
の最高の品である。名は鈴鹿。藤原頼親は筝の
琴を献上してきた。名は螺鈿という。
なぜこの日にこんなに楽器が集まって来たのか、それにはわけがあるのです。たまたま集まってきたわけではなく、四日後におこなわれる

    敦良親王の五十日(いか)の祝い

の際に、道長は天皇にこれらを献上しようと考えていたのです。おそらく彼は事前に名器を所持する人たちにそれらを差し出すように依頼(命令)したのでしょう。歯二、鈴鹿、螺鈿という名器は、何らかの事情で散らばっていたのですが、それを改めて音楽好きの一条天皇に差し上げることを計画したわけです。
「螺鈿」は名前のとおりオウムガイなどの貝殻の光る部分を細工してはめ込んだ筝だと思われます。この楽器は不思議な香りがした、という話も残っています。
こういう名器に関しては、音楽書にも記述が残っています。『教訓抄』『絲竹口伝』『楽家録』などがそれにあたります。
ただ、名器であれば誰が演奏してもいい音がするかというとそうとも限りません。一条天皇時代に源信明、源信義という名手に琵琶の玄象と牧馬を弾かせると信義の演奏した牧馬がすぐれて聞こえたそうです。そこで楽器を取り換えると今度は玄象がよく聞こえたと言います。要するに信義の方が巧みだったのでしょう。この話は『古今著聞集』にあります。

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4月からの授業 

このところしばしばこのブログで怒っています。不愉快に思われる方がいらっしゃったら申し訳ないと思っています。そして、今日もそういうことになりますので、不愉快な方は読まないでください。
通常であれば、まもなく学校が始まる季節です。しかし、京都の大学でCOVID-19の感染者が出たこともあって、慎重にならざるを得ないという空気が漂っています。各大学の対応を見ていると、通常通りにスタートするところ、遅らせるところ、WEB授業を実施するところなどさまざまです。
しかし、もしこれがひと昔前なら開始を連休明けくらいまで遅らせてもさほど大きな問題にはならなかったと思うのです。4月10日ごろから始まって連休前の28日まで授業すると、2~3週間ですから、それだけ後に遅らせることになるわけです。
以前は、7月10日くらいまでで前期は終わり、授業回数はおおむね12~13回でした。2~3週間遅らせると7月いっぱいくらいです。
今、前期の授業は7月25日ころまでですので、ほとんど変わりません。ところが、文部科学省からの事実上の「命令」で

    半期に15回

授業することが義務付けられました。半期15回、年間30回というのは、簡単そうで実はギリギリなのです。授業を終えても、試験があって、その成績を出して、学生に通知して・・・。さらには入試その他の行事や正月休み(こればかりは休まないわけにはいかないでしょう)だの国民の祝日だのがあり、さらに今の学生はさまざまな実習に行かねばならないという問題もあります。1年52週間ですが、こうやって引き算をすると30週間がギリギリになってしまうのです。月曜日に至っては、振替の休日が多くて、回数がこなせず、やむを得ず祝日授業までしています。もし今の制度で2~3週間遅らせたら8月半ばまで授業しなければならず、きわめて難しい状況になります。
教員は病気でも休めず、休めば補講しなければならないのですが、学生との時間の折り合いがなかなかつかずに土曜日に設定しなければならなくなり、教養科目などでは、当然学生の欠席は多くなります。すると結局休んだ人のために同じような内容を繰り返さなければならなくなったり、補講は特別の内容、つまりシラバス以外の内容にせざるを得なくなったりします。
もちろん、15回の授業ができるならすればいいのですが、災害とか、今回のような疫病など不可抗力でそこまで回数をこなせないことがあるのは当たり前なのです。
実際、二年前の北摂での地震の時に、翌日から授業がありました。そうしないと授業回数がこなせないからです。ところが学生の中には恐怖で授業に出るどころではない、という者もあり、翌日の、10人ほどが参加していた授業で教室に来たのは1人だったのです。当たり前の話でしょう、そんなこと。こういうことを考えないから、私はこのブログでこれまでに何度も

    ごまめの歯ぎしり

をしてきまたのです。
15回実施するという規則のために学生を危険にさらすことがありうるとするなら本末転倒ではありませんか。
ひょっとすると、特例のようなことを役所から言ってくるかもしれません。そうではなくて、規則を改めるべきだと私は思っています。役所のメンツなんてどうでもいいことです。
ここでもう一回ごまめの歯ぎしりをした所以です。

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