fc2ブログ

政治用語 

私は、「仕事柄」なんて偉そうなことを言うほどではないのですが、日本語の使い方がかなり気になるのです。
最近、ツイッターでの政治がらみの発言を見ていると、政治家がふまじめに、芸能人がまじめにものを言う、という傾向があるように感じています。私は、政治家も芸能人も一人としてフォローしていないのですべてリツイートされたものを見るだけですが、どうもそんな気がしてなりません。ある国会議員が「あじゃーす」(「ありがとうございます」の意味か?)「おっかしーぞぉ」(「変だ」の意味でしょう)と言ったり、別の人物が「いつぶりやろ」(「いつ以来だろう」の意味でしょう)といったりしているのを見ました。
嫌味を言うつもりではないのですが、

    恥ずかしくないのだろうか

というのが正直な感想です。おそらく何ともないのでしょうね・・。内容が政治と関わらないことならまだしも、重要なことであっても、こういう物言いをあたりまえのようにしている人が多いように見受けます。ツイッターだからかまわない、若者に訴えるように意識的に言っている、ということなのかもしれませんが、私には「タレント気分」なのだろうな、と思えてなりません。もはや「政治家なら常に政治家らしく」などというのは意味のないことなのでしょうか。
政治家の発言の中には便利なごまかし言葉があるように思います。よくいわれるのが、自分の発言についてクレームがついた時に使う

    「不快感を与えたとしたら

お詫びする」というものです。「間違っているとは思わないが、聞く方がそう思うならお詫びする」と言っているわけです。言葉というのは、自分勝手に言えばいいものではなく、相手に伝えるためのものです。あらかじめ、聞く方がどう思うかを考える必要があります。我々一般人でもそれは心掛けるべきことですが、まして言葉が拡散することが当然の人は注意すべきです。
もう一つ、最近気になっているのが

    「コメントは控える」

という言葉です。安易に返答すべきでないことであればまだしも、「それくらいのこと、言えば?」というようなことにも使われています。翻訳すると「答えると何かとまずいので黙っておきます」ということで、返答に窮する場合に使われているようです。「秘書が」とか「まったく当たりません」とか、ごまかすのに便利な言葉を見つけると、ひとつおぼえのように使いまくりますね。
法律用語はわけのわからないものが多いと言われますが、最近の政治家用語も私には不満がいろいろあります。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

スポンサーサイト



パスワード 

かなり前から、携帯に歩数計アプリを入れようと思っていたのです。
その時に、機械はとても生意気ですので、私にいちいちパスワードを入れろと要求してきます。
思えばパスワードというものとも長いお付き合いです。私はこれまでに何種類ものパスワードを使ってきましたが、どれがどれやらわからなくなることもあります。当初は簡単なものを使っていたのですが、危険性があるというので、生意気な機械がもっと複雑なのに変えろと言ってきます。
最近は英字の大文字と小文字を組み合わせて、しかも数字を必ず入れて、8文字以上というのが多いのでしょうか。
歩数計をインストールするために、早速、かねて覚えていたパスワードを入れてみました。すると

    やり直せ

と、またまた生意気なことを言います。おかしい、と思いながら「また今度でいいや」という気持ちでいつしか時間が経っていました。
で、最近また思いついて歩数計アプリを入れようとしたのです。
間違ってないよね、と思うパスワードをいれると、やはり「やり直せ」。別のパスワードだったかな、と思って入れてみても同じこと。ついには「パスワードを忘れたのか?」とバカにするようなことを言ってきました。しかし、実際忘れたのですから仕方がありません。はい、忘れました、とお許しを願いましたら、「ではここに新たなパスワードを入れよ」と言います。そこで、これまで使っていた別のパスワードを使うことにしたのですが、これは英字がすべて大文字でした。仕方がないので少し小文字に変えて登録しようとしたら「このパスワードは

    今使ってるじゃん!」

と言い出しました。そうか、前にもパスワードをそろそろ変えようとして、同じように大文字小文字を混ぜろと言われたことがあったので、まったく同じように改めたのでした。そこでパスワード変更をやめて、もう一度くだんのものを入れてみると、「はいけっこうです」というのです。
まったくもって、物忘れの激しい昨今です。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

ドラッグストアにて 

私はよくドラッグストアに行きます。
といってもドラッグを買うのではなく、朝食用のシリアルなど、こういう店によくある安売りの食品を買うことが多いのですが(笑)。
それにしても、ここ数カ月のドラッグストアは大変な様子でした。
一時期は、トイレットペーパーはなくなる、マスクは姿を消す、ハンドソープは行方不明、という具合に、特定の商品が品薄になっていました。
まだ「なっていました」と過去形で言うのは気が早いでしょうが、それでもいくらか

    変化の兆し

は見えます。
トイレットペーパーはさすがにもう品切れということはありません。「おひとり様1パック」ということもなくなってきました(と言われても、何パックも買いませんけどね)。これはそもそもデマだったので当然と言えば当然でしょう。
ハンドソープはしばらく姿を見ませんでしたが、数週間前からポツポツと出始めました。先日スーパーに行ったら、狭い日用品のコーナーに詰め替え用のものがかなり並んでいました。
やはり一番問題なのは

    マスク

でしょうか。
少し高級な、1枚500円くらいのものは稀に見ることがあったのですが、もちろん私などは横目で見るだけでした。先日、ごく普通のサージカルマスクらしきものが10枚500円で売られていました。これはかなりたくさんありました。また、日によっては、50枚の箱入りのものも見かけます。私が見たのは質のいいものらしく、2480円でした。その隣には少し品質が落ちるのか、30枚入り1200円のものもありました。いずれにせよ、まだ高めです。
「100円ショップでも3枚入り100円で売っているのを見かける」とFacebookに書いていらっしゃる方もありました。これなら50枚2480円より安いですね。
厚生労働省から届くはず、という噂の布マスクは私の住む田舎町には届いていません。
それにしても、何から何まで非常時のような日々で、疲れてきました(笑)。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

源氏物語「絵合(ゑあはせ)」(4) 

光源氏の出した須磨の絵があまりにも強いインパクトを与え、絵合は大きな感動を参会者に与えて終わりました。

夜明け方近くなるほどに、ものいとあはれに思されて、御土器(かはらけ)などまゐるついでに、昔の御物語ども出できて「いはけなきほどより、学問に心を入れてはべりしに、すこしも才(ざえ)などつきぬべくや御覧じけむ、院ののたまはせしやう、才学といふもの、世にいと重くするものなればにやあらむ、いたう進みぬる人の、命幸ひと並びぬるは、いと難きものになむ。品高く生まれ、さらでも人に劣るまじきほどにて、あながちにこの道な深く習ひそ、といさめさせたまひて、本才のかたがたのもの教へさせたまひしに、拙きこともなく、またとり立ててこのことと心得ることもはべらざりき。絵描くことのみなむあやしく、はかなきものから、いかにしてかは心ゆくばかり描きてみるべきと思ふをりをりはべりしを、おぼえぬ山がつになりて、四方(よも)の海の深き心を見しに、さらに思ひ寄らぬ隈なくいたられにしかど、筆のゆくかぎりありて、心よりはことゆかずなむ思うたまへられしを、ついでなくてご覧ぜさすべきならねば。かうすきずきしきやうなる、後の聞こえやあらむ」と親王(みこ)に申したまへば、

明け方近くなるころに、なんとなく感慨深くお思いになって、盃を取られるついでに、昔のお話がいろいろと出てきて「幼い頃から、学問にうちこんでいましたが、すこしでも学才などが身につきそうだとご覧になったのでしょうか、院がおっしゃったことには『才学というものは、世間でとても重んずるからであろうか、たいそう学識の深い人で、長命と幸福を併せ持つ人は、まったくめったにいないものだ。身分高く生まれて、そんなに学問をしなくても人に劣るはずもないのだから、無理に学問の道を深く極めようとするものではない』とおいさめになって、実用的な才(芸能や儀式典礼など)をあれこれお教えくださったのですが、拙いということはなく、とはいってもまた特にこれといって会得したこともございませんでした。絵を描くことだけは、どういうものか、ちょっとしたことではありますが、どうすれば満足できるように描いてみることができるのだろうと思う折々がございましたが、思いがけず山賤になって、四方の海の深い風趣を見ましたので、まったく思いの届かないことがないくらいに会得できたのですが、筆の運びにはかぎりがあって、思うほどにはうまくいかないと思われたのですが、機会がなくてはお目にかけるようなものではありませんので。このようにもの好きのようなことをすると、後世の噂にもなるでしょうか」と帥宮に申しなさると、

なんと、明け方近くまで二次会(?)が続いていたのですね。光源氏は、弟の帥宮に昔話を始めます。光源氏は漢学に熱心だったのですが、その様子を見た父の桐壷院が「世間で学問が重視されるために、誰しもそのことに熱心になりすぎて、長生きできないものだ。お前は無理に学問などしなくても高貴な家柄に生まれたのだから、無理に学問に励むな」というのです。普通なら「学問をせよ」と言いそうなものですが、根を詰めすぎると長生きしない、あるいは学者バカになって碌な人生を歩むことはできない、と案じたのですね。このあたりは、学者の家に生まれた紫式部の実感があるでしょう。そこまで勉強しなくてもいいのに、という例をあるいは彼女は父(藤原為時)などに見てきたのでしょうか。父ではなくても、学問が出世の糸口になる中流貴族の悲哀を目の当たりにしてきたでしょう。確かに、今でも学者の中には「とても変な奴」がいます(笑)。『源氏物語』の古い注釈書は孔子の弟子の顔回の例を挙げます。顔回は孔子の随一の弟子で、孔子自身が「顔回ほど学問をする者はない」と感嘆したくらいです。ところが彼は30代かせいぜい40歳くらいで亡くなり、孔子は激しく嘆くのです。この部分の解釈は顔回にこだわることはないでしょうが、学問に没頭して早世した人物としては的確な例ではあります。桐壷院はそんなことにならないようにと、光源氏にはもっぱら芸能などを教えたというのです。その中でも光源氏は絵だけはどうすれば満足できるように描いてみることができるのだろうかとこだわりがあったのです。そして彼は須磨での生活のときに完全に自家薬籠中のものにできたという、酔いまかせに自画自賛の言葉を吐露します。古注釈の『岷江入楚(みんごうにっそ。みんごうじっそ。中院通勝による注釈。16世紀末)』は「此物語一部の内にこれほどに源氏の自讃の詞なしと也云々(『源氏物語』全体を見渡してもこれほど光源氏の自画自賛の言葉は見当たらない、とのことである)」と言っています。光源氏は「こういう機会でもないとあなたにも見ていただけないので」と最後に言っており、帥宮を招いた真意はこれなのだというのでしょう。ただ、権中納言との絵合に弟を判者にするのはなんだかずるいような気もするのですが(笑)。

「何の才も、心より放ちて習ふべきわざならねど、道々に物の師あり、まねびどころあらむはことの深さ浅さは知らねど、おのづからうつさむに跡ありぬべし。筆とる道と碁打つこととぞあやしう魂のほど見ゆるを、深き労(らう)なく見ゆるおれ者も、さるべきにて描き打つたぐひも出でくれど、家の子の中にはなほ人に抜けぬる人、何ごとをも好み得けるとぞ見えたる。院の御前(ごぜん)にて親王(みこ)たち、内親王(ないしんわう)、いづれかはさまざまとりどりの才ならはさせたまはざりけむ。その中にも、とり立てたる御心に入れて、伝へうけとらせたまへるかひありて、文才(もんざい)をばさるものにていはず、さらぬことの中には、琴(きん)弾かせたまふことなむ一の才(いちのざえ)にて次には横笛、琵琶、筝の琴をなむ次々に習ひたまへると、上も思しのたまはせき。世の人、しか思ひきこえさせたるを、絵はなほ筆のついでにすさびさせたまふあだことこそ思ひたまへしか。いとかうまさなきまで、いにしへの墨書きの上手ども跡をくらうなしつべかめるは、かへりてけしからぬわざなり」と、うち乱れて聞こえたまひて、酔ひ泣きにや、院の御事聞こえ出でてみなうちしほたれたまひぬ。

「どんな技芸でも、心をこめないでは習得できるものではありませんが、それぞれの道に師があり、学ぶ手段のあることは、深さ浅さは別として、おのずから学んだことがきっと残るでしょう。筆をとる道と碁を打つことは、不思議にもってうまれたものがあらわれるもので、さほどの修練を積んではいないように見える間の抜けた者も、天賦の才によって描いたり打ったりできる者も現れます。しかし、権勢家の子の中にはやはり人に抜きん出た人がいて、それは何ごとをも愛好して習得したのだと思われます。桐壷院の御前で、親王や内親王は、どなたもさまざまにそれぞれの芸能をお習いにならなかった方はいらっしゃいません。その中でも、兄上(光源氏)は特に御熱心で、相伝なさったかいがあって、文才はいうまでもなく、それ以外のことでは、琴(きん)お弾きになることが第一の才で、次には横笛、琵琶、筝の琴を次々にお習いになったと院もお考えになり、またおっしゃってもいました。世間の人もそのようにお思い申しておりましたが、絵はやはり筆のついでに慰みごととしてなさっている夜着のようなものだと存じておりました。まったくこのように思いがけないほどに、昔の墨書き(墨だけで絵を描くこと)の名人たちが行方をくらましそうなのは、かえってけしからぬことです」と、乱暴な口のきき方で申し上げなさり、酔い泣きであろうか、院の御事を口に出し申し上げて、みな涙ぐんでいらっしゃった。

帥宮が答えます。
どんな技芸であっても一生懸命学ばないと身につかないとはいえ、師匠から学べばそれなりにかっこうはつくものの、書画と囲碁だけは天賦の才能によるのだ、といいます。図画工作が大の苦手だった私は、絵は才能がものを言うという意見に思わずうなずいてしまいました(笑)。桐壷院からはすべての子どもたちは音楽などを教わったようですが、帥宮の目から見ても光源氏の琴(きん)の見事さは格別なようです。琴(きん)は奏法が難しく、『源氏物語』が書かれたころはもう演奏する人は少なかったようです。光源氏はそのほかにも笛、琵琶、筝が得意ということになっています。それだけに、帥宮は兄がここまで絵がうまいとは思いがけなかったようです。言葉の最後に「けしからぬわざなり」とけなすような言い方をしているのは逆説的に称賛しているのですね。
絵の催しのあとに、絵についての話で盛り上がるというのはありがちなことだと思います。若菜下巻で女楽(女性による合奏)がおこなわれたあと、光源氏が音楽に詳しい息子の夕霧と音楽論をするところとも共通するように感じます。

三月二十日過ぎの月が出て、空が美しい頃なので、音楽の演奏が始まります。
和琴は権中納言、帥宮は筝、光源氏はやはり琴(きん)を奏でます。琵琶は少将命婦という女房、拍子は心得のある殿上人が任されます。次第に夜が明けて、花や人々の顔が見えるほどになり(ということは、かなり暗いところで演奏していたのですね)やがて鳥のさえずりも聞こえます。

そのころのことにはこの絵の定めをしたまふ。「かの浦々の巻は中宮にさぶらはせたまへ」と聞こえさせたまひければ、これがはじめ、また残りの巻々ゆかしがらせたまへど「今次々に」と聞こえさせたまふ。上にも御心ゆかせたまひて思しめしたるを、うれしく見たてまつりたまふ。はかなきことにつけても、かうもてなしきこえたまへば、権中納言は、なほおぼえおさるべきにや、と心やましう思さるべかめり。上の御心ざしは、もとより思ししみにければ、なほこまやかに思しめしたるさまを、人知れず見たてまつり知りたまひてぞ、頼もしく、さりともと思されける。

そのころなさることというと、この須磨の絵をひょうかすることばかりである。「あの浦々の巻は中宮のおそばにお置きください」ともうしあげなさったので、この絵のはじめのところや、また残りの数々の巻をご覧になりたいとお思いになるのだが、「そのうちに、次々と」と申し上げなさる。帝もご満足にお思いになったのを(光源氏は)嬉しくお思いになる。このようなちょっとしたことでもこのように(斎宮女御を)お世話申し上げなさるので、やはり世の評判は圧倒されるのだろうか、とご心痛でいらっしゃるようだ。帝のお心向けは、もともと(弘徽殿に)なじんでいらっしゃったので、やはり心こまやかにご寵愛になるようすを、人知れずお分かりになっていらっしゃるので、それが頼もしく、いくらなんでも、とお思いになった。

光源氏の絵を藤壺中宮がどのように見たのかは明確に書かれていませんでしたが、ここで光源氏は須磨の絵を中宮に差し上げるのです。以前、「中宮ばかりには見せたてまつるべきものなり(中宮だけにはどうしてもご覧いただきたいものである)とありましたが、それがここで中宮の手元に置くという形で実現します。中宮にはひそかにじっくり見てもらいたいのです。中宮はこの絵の前後も見たいと言いますが、光源氏はまた追ってご覧いただきます、とじらすように答えます。帝が喜んでいることで斎宮女御の株があがりましたが、権中納言は心中穏やかではありません。先に入内したのは自分の娘です。何としても中宮には娘がなってもらいたいのです。前の中宮は藤壺で、この人は皇統の人(桐壺院の前の帝の第四皇女)です。となれば次は藤原氏が中宮の地位を手に入れたいと思うのです。結果的にはこのあと斎宮女御、明石女御という光源氏の養女と実の娘が中宮の地位に就きます。これはいくら何でも源氏(皇統)に偏り過ぎなのです。帝が、もともと年齢の近い(帝が1歳年少)弘徽殿と仲がよいのが唯一の救いです。

光源氏は、後代の人が「この節会は冷泉帝のころに始まったのだ」というような新しい節会の例を作ろうとします。この「○○帝の時代に始まった」というのは実際に語り継がれるもので、その時代は聖代とされることもありました。なんとか冷泉帝の御代をそのようにしたいと考える光源氏は、このようなささいなことに関しても工夫するのでした。

大臣ぞ、なほ常なきものに世を思して、今すこしおとなびおはしますと見たてまつりて、なほ世を背きなむと、深く思ほすべかめる。「昔のためしを見聞くにも、齢足らで官位(つかさくらゐ)高く昇り、世に抜けぬる人の、長くえ保たぬわざなりけり。この御代には、身のほど覚え過ぎにたり。中ごろなきになりて沈みたりし愁(うれ)へにかはりて、今までもながらふるなり。今より後の栄えはなほ命うしろめたし。静かに籠りゐて、後の世のことをつとめ、かつは齢をも延べむ」と思ほして、山里ののどかなるを占めて御堂を造らせたまふ。仏経(ほとけきやう)のいとなみ添へてせさせたまふめるに、末の君たち、思ふさまにかしづき出だしてみむ、と思しめすにぞ、とく棄てたまはむことは難(かた)げなる。いかに思しおきつるにかと、いと知りがたし。

大臣はやはりこの世を無常なものとお思いになって、帝がもう少しおとなになられるのを拝見して、やはり世を背いてしまおうと、深くお思いになるようだ。「昔の例を見たり聞いたりしても、若くして高い官位に昇進し、世に抜きんでてしまった人は、長生きはできないものであった。この御代では、世評が身のほどに過ぎてしまった。人生の途中で生きているともいえないような身になって沈淪していたつらさに変わって、今までも生きながらえているのだ。今から後の繁栄はやはり命短いのではないかと気がかりだ。静かにじっと籠って、後世を願うお勤めをして、その一方で齢をも延ばそう」とお思いになって、山里ののどかなところを入手して御堂をお造らせになる。仏像、経巻の準備もあわせておさせになるようだが、お子様がたを、思いのままに大事に育てあげたい、とお思いになるにつけても、すぐに世をお棄てになることは難しそうなのであった。どのようにお考えになっているのか、まったく知りがたいことである。

これが「絵合」巻の巻末です。光源氏は、自分が今何をしてもうまくいく一方で、所詮この世はむなしいものという思いを強めます。今うまくいっているのは須磨で沈淪したことが反動となっているだけで、このあとはどうなるかわからない、と思っています。そして、静かに勤行に励めるようなお堂を造らせ始めます。ここではどこに造らせているのか不明ですが、次の「松風」巻でそれは明らかになります。ただ、十歳の夕霧(長男)と三歳の明石の姫君(長女)の養育があるだけにその願いが叶う日は遠そうです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

Y染色体 

またまた無知をさらけ出します。私は大学受験で生物を選択していたのに、実はまったく分かっていないのです。あれでよく合格したものだと思います。遺伝とか、DNAとか、授業中に先生が何を言っているのかわからないくらいで、それでもいわゆる「赤点」を取った覚えがないのが不思議でなりません。
学生さんからこんなことを言われたことがあります。
「高校時代に、生物の先生が言っていたのですが、女性の染色体はXXで、男性はXYなので、女性が天皇になってその人に男の子が生まれたら天皇家のY遺伝子は受け継がれないことになってしまうそうです」。
実はこのとき、

    女性天皇

の話をしていたのです。「でも」と学生さんが続けました。「昔、女性天皇がいたことがあるし、いろいろな遺伝子が入り乱れている時代があったみたいなので、どの人のY染色体を基準にしているのか、私には分からなかった」と。
なんだか難しい話になってしまい、私は取り残されるような気持ちになりました。なにしろ理系の学生さんが多いので、そういう話がしょっちゅう出てくるのです。
ただし、たとえば最初の女帝の推古天皇は欽明天皇の皇女であり、敏達天皇(推古の異母兄)の皇后でした。彼女が生んだ子は敏達天皇の血も引いていますから、仮にその子が皇位を継いでも皇族のY染色体とやらを持っていることになります。もっとも、推古天皇の跡を継いだ舒明天皇は彼女の子ではありませんでしたが。
その後の女性天皇は
 皇極天皇
  父は茅渟王(敏達天皇の孫)
  舒明天皇(父の異母兄弟)の皇后
  次代は弟の孝徳天皇
 斉明天皇(皇極の重祚)
  次代は子(つまり舒明天皇の子)
  の天智天皇
 持統天皇  
  天智天皇の子で天武天皇の皇后
  次代は孫(つまり天武天皇の孫)
  の文武天皇
 元明天皇  
  天智天皇の子で草壁皇子の后
  文武天皇の母
  次代は子(つまり天智天皇の孫)
  の元正天皇
 元正天皇  
  草壁皇子と元明天皇の子  
  結婚せず
  次代は文武天皇の子の聖武天皇
 孝謙天皇  
  聖武天皇の子   
  結婚せず
  次代は舎人親王の子(天武天皇
  の孫)の淳仁天皇
 称徳天皇  
  孝謙天皇の重祚
  次代は天智天皇の孫の光仁天皇
 明正天皇  
  後水尾天皇の子  
  結婚せず
  次代は弟の後光明天皇
 後桜町天皇 
  桜町天皇の子  
  結婚せず
  次代は桃園天皇の子の後桃園天皇
というわけで、女性天皇が皇室以外の人と結婚して産んだ子が皇位を継ぐということはなかったわけです。ということはYに乱れはなかったということになります。もっとも、神話の時代の天皇は実在が疑われますし、その後の天皇家には

    王朝の交代

があったという説も有力ですから、学生さんの言っていたように「いろいろな遺伝子が入り乱れている時代があった」というのもそのとおりなのでしょう。
しかし、おおむね1500年くらいは、Y染色体は続いていることになのでしょうね。今問題になっているのは女性が皇位に就くことそのものとともに、そうなった場合、女性天皇は皇族以外と結婚する可能性が高いですから、その次は女系天皇にならざるを得なくなるということでしょう。今こそ皇族のY染色体とやらがなくなってしまうのですね。
こういう話も、学生さんとのやり取りの中から生まれてきたのです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

警察 

「着物警察」というのがあると聞きました。何のことかと思っていたら、着物を着ている人に対して、厳しいチェックをする人のことだそうです。素材がどうとか季節に合わないとか着こなしがダメだとか・・・。着物というものを持っていない、何の知識もない私のような者にとっては、どこがどうおかしいのか、よくわからないのですが、詳しい方にとっては気になるものなのでしょうね。しかし、あまり難しく考えなくてもいいのに、というのは着物知らずの私だから思うことでしょうか。
「皇室警察」というのもあるみたいで、皇室のことを何か言おうものなら厳しいチェックが飛んでくるようです。私もツイッターで天皇のことを「天皇」と書いたら「『陛下』を付けろ」と言われたり、「ツイッターならしかたがないが、普段は付ける方がいいですよ」とていねいにご指導をいただいたりしました。
「タカラヅカ警察」もありますね。生徒さんの名前を書き間違えたら、見も知らぬ人からすぐさま反応がありました。ファンの人にとっては許しがたいことなのでしょうね。
「文楽警察」ってあるのかな? たとえば豊竹咲太夫さんを「咲太夫」と書いても「咲大夫」と書いても専門家以外なら許されると思いますけどね。

    「豊竹さん」

と呼ぶよりはずっといいと思います(笑)。
近ごろは「自粛警察」というのがあって、県外ナンバーの車が駐車していると「帰れ」とか「ウイルスを運んでくるな」という紙をごていねいにフロントガラスのワイパーに挟み込んでいく人があると聞きました。ナンバープレートに「自粛しろ」と落書きされた方の証拠写真も見ました。そういうことをする暇があるのなら、その人こそ家で「自粛」していた方がいいと思いますけどね。ああいう人って、何枚も紙を作ってどこかにひそんでいて、車の持ち主が店に入った隙に挟み込むのでしょうか。あるいはそういうときに落書きしては逃げて行くのでしょうか。それなら小学生の「ピンポンダッシュ」と同じでしょう。隠れてコソコソするなんて、とても

    陰湿

だと思います。ほかにも、営業している店にいやがらせの電話をしたり、医療関係者を村八分のようにしたり・・。「自分のしていることは正しい」と思いこんでこういうことをするのはなさけないことです。
警察は、なくて済むなら、なければいいのです。しかし社会を安全に維持するために最低限必要なので、いわゆる「警察」があるのです。余計な警察はいりません。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

源氏物語「絵合(ゑあはせ)」(3) 

藤壺中宮の御前で左右に分かれて物語絵についてさまざまな話し合いがありました。物語絵と言いながら、実際は物語の内容そのものに興味の中心があったようです。

光源氏がやってきます。この争いを見て、「同じことなら帝の前で勝負を決めよう」と言います。光源氏はまだ手許にさらに面白い絵を持っており、それを帝の前で出そうと思っています。その中には、須磨明石を描いた自らの絵も含めているのです。権中納言(かつての頭中将)も「のぞむところ」とばかりに対抗心を燃やします。光源氏は「新たに絵を描くのではなく、手持ちのもので競おう」というのですが、負けるわけにはいかない権中納言は、『竹取物語』のくらもちの皇子なみに、ひそかに絵を描かせたのです。ここまでの物語絵による催しは絵そのものもさることながら女性たちによる物語の面白さについて議論に大きな意味があった私的なものでしたが、が帝の御前となると本格的に絵が中心になり、公的な性格も増します。
朱雀院も噂を伝え聞いて斎宮女御に秘蔵の絵を贈りました。その内容は、次のようなもので、朱雀院の複雑な心境がうかがえます。

年の内の節会どものおもしろく興あるを、昔の上手どものとりどり描きけるに、延喜の御手づからことの心描かせたまへるに、またわが御世のことも描かせたまへる巻に、かの斎宮の下りたまひし日の大極殿の儀式、御心にしみて思しければ、描(か)くべきやうくはしく仰せられて、公茂がつかうまつれるが、いといみじきを奉らせたまへり。

年中の節会のさまざまのおもしろく興あるものを、昔の名人たちがさまざまに描いたものに、延喜(醍醐天皇)が直筆でその意味を説明なさったものに、また院の在位のころのことも描かせなさった巻に、あの、斎宮がお下りになった日の大極殿の儀式が御心にしみるほどにお思いになったので、描く内容を詳しくお命じになって、公茂がお描き申したものの、とても見事な絵を差し上げなさった。

朱雀院の未練がこういうところにあらわれるのですね。年中行事を描いたものというのは、後の時代(平安時代末期)にも『年中行事絵巻』があるように、おもしろい題材だったのでしょう。そこに醍醐天皇宸筆で説明を書いたものがあるというのです。国宝級ですね。そして、斎宮の伊勢下向の日を、描いたものも当の斎宮女御に贈るのです。その絵は巨勢公茂(巨勢金岡の孫)の描いたものだというのです。巨勢(こせ)氏は画工の家柄ですね。金岡は特に著名で、今も大阪府堺市には金岡神社があり、この人を祀っています。
そして、大極殿に斎宮の輿を寄せている場面を描いたところに、朱雀院は「身こそかくしめのほかなれそのかみの心のうちを忘れしもせず(わが身はこのように内裏から出て、あなたの身は私のものではありませんが、あのときの心の中を忘れることはありません)」という一首を書いています。「しめのほか」は「注連のほか(内裏の外)」に「占めのほか(私のものではない)」を掛け、「そのかみ(「昔」の意)」に「神」を響かせて「注連」との縁語にしています。未練たらたらという感じですね。斎宮女御は返事をしないわけにもいかず、伊勢下向のときに当時の天皇(朱雀)から挿してもらった櫛の端を少し折って「しめのうちは昔にあらぬ心地して神代のことも今ぞ恋しき(内裏の中は院の在位時とは違ったように思われ、神にお仕えしていたときのことも今では恋しく思っています)」と返事しました。朱雀院はこの返事を見て昔を思い出すばかりでした。今はもう何の力もない朱雀院なのです。院は斎宮を冷泉帝に入内させた光源氏を恨めしく思っているかもしれませんが、それも過去の報いだろうか、と作者は書き添えています。
朱雀院の絵はその母(弘徽殿大后)から大后の姪にあたる弘徽殿女御(大后の妹が弘徽殿女御の母)にも伝わっていたようであり、またあの朧月夜も絵を集めているというのです。今や内裏はたいへんな絵画ブームなのです。
さて、この巻のクライマックスともいうべき、帝の前での絵合が始まります。

女房のさぶらひに御座(おまし)よそはせて、北南方々(きたみなみかたがた)分かれてさぶらふ。殿上人は、後涼殿(こうらうでん)の簀子(すのこ)におのおの心寄せつつさぶらふ。左は紫檀(したん)の箱に蘇芳(すはう)の華足(けそく)、敷物には紫地に唐の錦、打敷(うちしき)は葡萄染(えびぞめ)の唐の綺(き)なり。童六人、赤色に桜襲(さくらがさね)の汗衫(かざみ)、衵(あこめ)は紅に藤襲の織物なり。姿用意などなべてならず見ゆ。右は沈(ぢん)の箱に浅香(せんかう)の下机(したづくえ)、打敷は青地の高麗(こま)の錦、あしゆひの組、華足の心ばへなど今めかし。童、青色に柳の汗衫、山吹襲の衵着たり。みな御前にかき立つ。上の女房、前後(まへしりへ)と装束(さうぞ)きわけたり。

女房の控え所である台盤所(清涼殿の昼の御座の西隣。朝餉=あさがれひ=の間と鬼の間に挟まれた位置)に帝の御座を用意させて、北南それぞれに女房は分かれて控えている。殿上人は、後涼殿(清涼殿の西側)の簀子に、左右それぞれにひいきしながら控える。左方は紫檀の箱に蘇芳の華足(脚の部分に彫刻を施したもの)、敷物には紫地に唐の錦、打敷(華足の下に敷くもの)は葡萄染の唐の綺である。女童六人が、赤色に桜襲(表が白、裏が赤または葡萄染)の汗衫(童女が正装するときに表着=うはぎ=の上に着るもの)、衵(表着の下に着るもの)は紅に藤襲の織物である。姿、心構えなどひととおりでないように見える。右方は沈の箱に浅香の下机(箱を載せる机)、打敷は青地の高麗の錦、脚結いの組(華足に結んである組紐)、華足のおもむきなどは当世風である。女童は、青色に柳の汗衫、山吹襲の衵を着ている。みな御前に箱を並べる。内裏の女房は、前と後で装束の色を分けている。

細かいことはわかりにくいかもしれませんが、正式の催しだけに相当力が入っていることを感じ取っていただければと思って原文を書いておきました。ここには書かれていないのですが、時は三月二十日過ぎ。晩春のころです。実はこの絵合は天徳四年(960)三月三十日におこなわれた内裏歌合の様子ととてもよく似ていて、作者はそれを範として描いているのだろうと言われています。天徳は村上天皇の年号で、冷泉帝は村上天皇のイメージで描かれているとも思われます。『百人一首』の平兼盛の「忍ぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人に問ふまで」、壬生忠見の「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」はこの歌合のときに「忍ぶ恋」の題で組み合わされた(対戦させられた)二首です。余談ですが、このとき誰もが両者互角の秀作だと思ったのですが、たまたま村上天皇が兼盛の歌を口ずさんだのを聞いた判者が「天皇はこちらがお好みなのだ」と忖度(!)して兼盛を勝ちにした、という伝承があります。

召しありて、内大臣(うちのおとど)、権中納言参りたまふ。その日、帥宮(そちのみや)も参りたまへり。いとよしありておはするうちに、絵を好みたまへば、大臣の下にすすめたまへるやうやあらむ、ことごとしき召しにはあらで、殿上におはするを、仰せ言ありて御前に参りたまふ。この判つかうまつりたまふ。いみじう、げに描きつくしたる絵どもあり。さらにえ定めやりたまはず。例の四季の絵も、いにしへの上手どものおもしろきことどもを選びつつ筆とどこほらず描きながしたるさま、たとへんかたなしと見るに、紙絵は限りありて、山水のゆたかなる心ばへを、え見せ尽くさぬものなれば、ただ筆の飾り、人の心に作り立てられて今の浅はかなるも昔の跡に恥なく、にぎははしくあなおもしろと見ゆる筋はまさりて多くの争ひども、今日はかたがたに興あることも多かり。

お召しがあって、内大臣と、権中納言が参上なさる。その日、帥宮も参内なさった。とても趣味が豊かでいらっしゃる中でも、絵をお好みになるので、大臣がひそかにお進めになったという事情があるのだろうか、表立ってのお召しではなく、殿上にいらっしゃるのを、帝の仰せ言があって御前に参上なさる。判者をおつとめになる。なるほど、これ以上は描けないという絵がいろいろある。まったく判定のなさりようがない。例の四季の絵も、昔の名人がおもしろいことを選んで筆もとどこおらず描き流したようすは、たとえるものとてないのだが、紙絵は紙幅に限りがあって、山水のゆたかな風趣を表し尽くすことができないもので、他方の、筆の技巧や画工の思うままに作り立てられて、昨今の深みのないものも昔からあるものに恥ずるものではなく、はなやかでああおもしろいと見える点ではまさって、多くの論争が、今日は左右それぞれにおもしろみのあることも多い。

「判者」というのは勝負を判定する人のことで、帥宮が担当することになりました。この人は風流人として知られるのですが、とりわけ絵が好きなので選ばれたということになっています。帥宮は光源氏の弟で、後に「蛍兵部卿」と呼ばれる人です。この時点では大宰帥(だざいのそち。もちろん九州にはいかない、名目上の官職です)だったので帥宮と呼ばれています。さて勝負が始まったのですが、なかなか優劣つけがたいのです。朱雀院が斎宮女御に贈った絵(ということは左方の絵です)もとてもすばらしいものなのですが、どうしても紙の大きさには限度があって描きつくせない面もあります。一方、右方の絵は技巧に走るあまり深みに欠ける恨みがあるのですが、華やかさという意味ではすばらしく、一見すると見事なものなので甲乙つけがたい状態が続きます。

20200507121008dfb.jpeg

↑ 伝土佐光信 源氏物語・絵合 裏表紙

上の絵は、帝の御前での絵合。絵の入った箱が置かれています。

20200507204731fea.png

↑絵入源氏物語 絵合

中宮の御前での物語絵の絵合の時は、具体的な議論の様子が描かれていましたが、こちらは一切略されています。そういうことをだらだら書くと、最後の名作の登場がぼやけてしまうという判断でしょうか。両者拮抗していた、ということさえ書けばそれでよかったのでしょう。
朝餉の間(あさがれひのま)の障子(ふすま)を開けて中宮も姿を見せます。いよいよ舞台が整ったのです。そして勝負がつかないまま夜に入りました。

左はなほ数ひとつあるはてに、須磨の巻出できたるに、中納言の御心騒ぎにけり。あなたにも心して、はての巻は心ことにすぐれたるを選(え)りおきたまへるに、かかるいみじきものの上手の、心の限り思ひ澄まして静かに描きたまへるは、たとふべきかたなし。親王(みこ)よりはじめたてまつりて、涙とどめたまはず。その世に、心苦し、悲しいと思ほししほどよりも、おはしけむありさま、御心に思ししことども、ただ今のやうに見え、所のさま、おぼつかなき浦々磯の隠れなく描きあらはしたまへり。草(さう)の手に仮名のところどころに書きまぜて、まほのくはしき日記にはあらず、あはれなる歌などもまじれる、たぐひゆかし。誰もことごと思ほさず、さまざまの御絵の興、これにみな移り果てて、あはれにおもしろし。よろづみなおしゆづりて、左勝つになりぬ。

左は、まだ数が一つ残っている最後に、須磨の巻が出できたので、中納言の御心は動揺してしまった。そちら(右方)でも、よく考えて、最後の巻は格別にすぐれたものを選んで残しておいていらっしゃったのだが、このような、大変な名人が、心の及ぶ限り、思い澄まして静かにお描きになったものには比肩のしようもない。帥の親王をはじめ、涙をおとどめになることがない。あの当時の、おいたわしい、悲しいとお思いになっていたころよりも、お暮らしになっていたのであろうありさまや、御心にお思いになったあれこれが目の前のことのように見えて、その場の風景や、実際にはよく知らない浦々や磯についてあますところなく表現なさっている。草書に仮名をところどころに書きまぜて、正式の詳しい日記ではなく、心にしみるような歌などもまじっているのは、これに類するものも見たくなる。誰もほかのことは念頭になく、さまざまな絵についてのおもしろさが、これにすっかり移ってしまって、しみじみとおもしろい。すべてこれに譲る形になって、「左勝つ」ということになった。

須磨の絵が出てきました。権中納言は、とっておきの絵を用意していたにもかかわらず、この絵を前にしてはうろたえるほかはなかったのです。判者の帥宮をはじめとして誰もが涙を抑えがたいのですが、それは光源氏の画家としての技量がすぐれていたということだけではありません。あの、光源氏の試練の日々は同情する人も多かったのですが、実際に彼がどんな日々をどんな思いで送っていたのかは知る由もありません。都とは比較にならない、あまりにも鄙びた風景を目の当たりに見せられたことに感銘を受けたのです。そのあとの、「正式の日記ではなく、歌なども交えたもの」という一節に注目しましょう。当時の貴族は日記を書きました。配布される暦のスペースにその日の出来事(実際は翌朝に書かれることが基本でしたので、前日の出来事)を書き、それは故実を伝えるものとして重視され、子孫に伝えられたのです。藤原道長の『御堂関白記』、藤原実資の『小右記』、藤原行成の『権記』、源経頼の『左経記』などが知られます。ところがここでは、ほんとうにその時の思いを伝えるのはこういう歌なども交えた絵日記なのだというのです。「蛍」巻に物語についての論があるのですが、そこで光源氏は「正史は一面を捉えているにすぎず、物語にこそ道理にかなった詳細が書かれているものだ」といいます。それと一脈通じるのではないでしょうか。
最後に「左勝ちぬ」ではなく「左勝つになりぬ」とありますが、これは菖蒲の判定が「左勝つ」ということになった、ということで、当時の歌合の記録を見ても「左勝」という書き方が行われています。
こうして斎宮女御方の勝ちとなりました。これは、単に絵合という競技の勝敗を意味するのではなく、冷泉帝の治世が源氏主導で動いていくことを感じさせます。しかし、光源氏の心には微妙な揺れがあるのです。そのことと、この須磨の絵に対する藤壺中宮の思いがどのようなものであったのかが気になるところです。そのあたりは次回に書こうと思います。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

さすがに怒りました(2) 

この記事は、5月半ばに書いたものです。
学生あてに書いたものを大幅に書き換えてあります。

こういうことを平気でするということは、あの総理大臣は自分のしていることの後ろめたさを自覚しているとしか思えません。そしてそれを何とかもみ消すために、というきわめて愚かしい理由でこのようなことをしていると考えざるを得ないのです。
近く大きな選挙はありません。こういう時期だから多少支持率を下げてもいいと思っているのでしょう。どうせそのうちに忘れられるのだ、オリンピックを成功させれば選挙に勝てるのだ、という心が透けて見えます。
そもそも、このウイルス騒ぎで国民が動揺しているときに、こういう法を作ろうということに関しては「どさくさまぎれだ」

    「火事場泥棒だ」

という批判もありました。内閣支持率が、今もって大きな低下を見ないことが、内閣を増長させているのでしょう。
私はこの思いを学生が目にするツイッターにも書きました。普段はそういうツイートはしないのですが、思い余ってのことです。学生には難しい問題ではありますが、こういうことも少しずつ知って、自分なりの意見を持ってもらいたいのです。こういうことは政治の世界だけでなく、世の中ではもっと身近なところでもおこなわれているのです。権力者のご都合主義は時として権力を持たない者に極めて深刻な影響を与えることがあります。つまり学生の身の上にかかわる可能性もあるのです。
ところで、このたびの「#検察庁法改正に抗議します」で目立ったのは

    芸能人の発言

が多かったことです。私は芸能人をよく知らないので、どんな方かわかりませんが、新聞から引用します。
「ちゃんと国民に説明してから、順序に則って時間をかけて決めませんか」(俳優の城田優さん)
「コロナ禍の混乱の中、集中すべきは人の命。民主主義とはかけ離れた法案」(演出家の宮本亜門さん)
「自分なりに調べてみた。たしかに由々(ゆゆ)しき事態」(ミュージシャンの綾小路翔さん)
「これはダメですよ」(俳優の西郷輝彦さん)
「安倍政権こそ検察とソーシャルディスタンスを」(芸人の村本大輔さん)
その他、俳優の小泉今日子さん、元格闘家の高田延彦さん、歌手のCharaさん、歌手のきゃりーぱみゅぱみゅさんなどが声を挙げたそうです。それにしても、宮本亜門さんと西郷輝彦さん以外知らないのは情けないです(笑)。特に、きゃりーぱみゅぱみゅさんって、これ、名前なんですか?(笑)
中には発言したため、ファンの人から苦情が出た人もあるらしく、「政治を勉強してから発言を」「歌手は歌っているだけでよい」という批判もあったそうです。それに対しては

     「総理大臣こそ政治を勉強してから発言を」

という秀逸な反論も出たのだとか。一方、サッカー選手の本田圭佑さんは「日本ほどアーティストや俳優やアスリートなどが政治のこと話さない国はない。もっと話そう。あなたの国のことだ!」と呼び掛けているそうです。
長々と書きましたが、私は「#検察庁法改正に抗議します」のハッシュタグつきで一度だけツイートしました。
それにしても、あの検事長さんは、とても優秀な人だそうですが、検察官としての最後の時になって政治家の思わくのために恥をかかされてしまい、被害者でもあると思います。
そして、今のところ、この法案は急いだからだけなのであって、中身は正しいから、また秋に審議します、ということになっているようです。そのころ、検事総長はどなたなのでしょうね。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

さすがに怒りました(1) 

この記事は、5月半ばに書いたものです。
学生あてに書いたものを大幅に書き換えてあります。

5月10日前後に、インターネット上に大きな騒ぎが持ち上がりました。ツイッターでは「#検察庁法改正に抗議します」というハッシュタグのついたツイートが爆発的に拡散し、その後もなかなか収まらずに、700万を超えたとも言われます。もちろん、同じ人が何度も繰り返しますので、700万人の人がそうつぶやいたわけではありません。実際の人数としたら、100万人にも達していないのかもしれません。それにしてもすさまじい人数です。かりに10分の1の70万人としても、全国民の

    200人に1人

がツイートしたことになります。赤ちゃんも、ツイッターをしない人も含めての話です。
この法案は検察官の定年を63歳から65歳に引き上げるという内容を含むもので、それだけなら世の中の趨勢としては当然と言ってもいいでしょう。
問題は、今年1月にK検事長という人の定年を内閣が恣意的に半年間延長すると言い出したことに端を発するものです。内閣は、というよりあの総理大臣はなんとかこの人物を検事総長にしたがっているのです。この恣意的な定年延長は法的に問題があるという指摘があるにもかかわらず、内閣は「法の解釈を変えた」といって問題はないと言い続けています。おまけに総理大臣は「あれは法務省が言ってきたことであって自分は了承しただけだ」と言っているという話も。
もし検察官の定年を今すぐに65歳にする法を作ると、それはK検事長の定年延長を追認することになるから問題だとされるようです。この検事長の定年延長がなければ、検察官の定年延長にはあまり異論は起こらなかったと私は思うのですが。
むしろ問題なのは、検察官は63歳を過ぎたら次長検事、検事長、検事正という役職を退くという役職定年の規則を作りつつ、次席検事と検事長は内閣が、検事正は法務大臣が認めれば最大で3年間延長できる、という特例規定を作ろうとしていることです。これが成立したら、検事が自分の地位を守るためにそのときの政府の言いなりになってしまい、検察の持っている司法に準じた性格が失われ、三権分立の大原則にひびが入る、というものです。もちろん、検察は行政府の一部で法務省の下部組織ですが、

    政治からの独立性

が要求される職種です。かつて田中角栄元総理大臣を総理大臣時代の犯罪容疑で逮捕したこともあるくらいですから。ですから、これまでは事実上検察の内部で検事総長を決めて、任命権のある内閣は「それでけっこうです」と認めるだけになっていたとのことです。そうすることで検察の内閣からの独立性を保ってきたのです。もし、特例規定のように内閣や法務大臣が「必要と認めた場合」に役職定年を延長できるようにすると内閣の気に入らない者は延長せず、内閣にとって都合のいい者は延長するというようなことが起こりうるのです。今の総理大臣は「そのような恣意的な人事は行わない」といっていますが、行われる可能性の残る法を定めてよいものか、という問題があるわけです。そもそも、あの総理大臣が今さらいくらそんなことを言ったところで私などは信用できるはずもありません。
元東京地検特捜部検事、元法務省官房長の堀田務さんは「検察幹部を政府の裁量で定年延長させる真の狙いは、与党の政治家の不正を追及させないため以外に考えられません」(朝日新聞5月14日朝刊)とまで言い切っています。また、松尾邦弘元検事総長ら(前掲の堀田氏も含む)検察庁のOBがこの法案を政治の人事介入を正当化するものとして法務省に反対意見書を出しました。その中で総理大臣の姿勢を「『朕は国家である』との

    中世の亡霊

のような言葉を彷彿とさせる」ようだと批判しました。さらに意見書はジョン・ロックの「法が終わるところ、暴政が始まる」(『統治二論』)という言葉まで引用し、「一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動き」だと指摘しています。ちなみに、この『統治二論』は岩波文庫に入っていて、翻訳したのは、なんと総理大臣の授業を担当した(もっともあの人はサボってばかりだったそうですが)元教授だそうです。
私は政治や法律には疎く、あまり関心もないのですが、この意見書は全文を(ざっとですが)読みました。そしてあの総理大臣にさらに強い怒りを覚えました。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

それが疑問だ 

今ごろ何を言っているのか、と言われそうですが、もともとマスクとネクタイをする習慣のないものにとって、このところの状況はつらいものがありました。私は、それでなくても呼吸がしづらいので、マスクをすると普段以上に息苦しく感じます。
ですから、二月に東京に行ったときも、マスクは持って行ったのですが、使わないまま持ち帰りました(ネクタイは持っても行かなかったなぁ)。もっとも、あのころ(二月下旬)は電車の中でもまだ7割くらいの人しか着用していませんでしたし、道行く人はもっと少なかったし、ホテルマンの人もしていなかったし、朝ご飯の食堂でも誰もマスクをせずに食べていました(←それはあたりまえ)。
だからあまり

    同調圧力

はかからなかったのです。ところが、このところはもう猫も杓子もマスクをしていて、先日は猫と杓子がマスクの奪い合いをしていました(←してない)。
病院はマスク着用を事実上義務付け、いつも牛乳を買いに行く酒屋さん(お酒を買え!)も「マスクの着用をお願いします」という案内を出していました。「No Mask, No Entrace」という外国の店の表示もネット上で見ました。こうなると診察もできませんし、牛乳も買えませんので、私もついにマスクをすることにしました。

    5,6年前に

箱で買ったマスクがまだ残っているので、それを使うことにしたのです。何と物持ちのよいこと!
それでもやはりずっと着けているのはつらいので、店に入る前に着けて、出たら外す、散歩するときは着けない、ということにしました。店で長居をしないことにすれば、さほどの苦痛はありません。
しかし、このあいだ、牛乳を買いに(しつこいなぁ)酒屋に行ったとき、マスクなしの人がいました。するとやはり何となくその人は白い目で見られていたような気がするのです。
マスクをするかしないか、That is the question.

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

源氏物語「絵合(ゑあはせ)」(2) 

『源氏物語』が書かれたころの天皇は一条天皇でした。大江匡房の『続本朝往生伝』の最初に描かれるのがこの人なのですが、そこでは「叡哲欽明、広長万事、才学文章、詞花過人、糸竹絃歌、音曲絶倫」とあって、文学や音楽に秀でていたことが書かれています。ほかの史料からも、この人が音楽、特に笛を愛したことが知られます。一条天皇の時代の画工には巨勢弘高のような人がいましたが、天皇は、音楽ほどは興味を持たなかったかもしれません。
『源氏物語』「絵合」巻のハイライトは、絵画を比べる場面です。

上は、よろづのことにすぐれて絵を興あるものに思したり。立てて好ませたまへばにや、二なく描かせたまふ。斎宮の女御、いとをかしう描かせたまひければ、これに御心移りて、渡らせたまひつつ、描きかよはさせたまふ。殿上の若き人々もこのことまねぶをば、御心とどめてをかしきものに思ほしたれば、まして、をかしげなる人の、心ばへあるさまに、まほならず描きすさび、なまめかしう添ひ臥して、とかく筆うちやすらひたまへる御さま、らうたげさ御心しみて、いとしげう渡らせたまひて、ありしよりけに御思ひまされるを、権中納言聞きたまひて、あくまでかどかどしく今めきたまへる御心にて、我人に劣りなむやと思しはげみて、すぐれたる上手どもを召しとりて、いみじく戒めて、またなきさまなる絵どもを、二なき紙どもに描き集めさせたまふ。

帝は、ほかのどんなことにもまして絵をおもしろいものだとお思いになっている。とり立てて絵をお好みになるからであろう、このうえなく巧みにお描きになる。斎宮の女御がとても美しくお描きになるので、こちらに御心が移って、お渡りになっては、お描きになって心を通わせていらっしゃる。若い殿上人も、絵を習う者に目をおかけになったので、まして、この美しい方が、風情豊かに、型通りではない絵を楽しんでお描きになり、しっとりとものに寄りかかって、なにかと筆をおいて思案なさっているご様子のいじらしさが帝の御心にしみて、とても頻繁にお渡りになって、以前より格段に梧桐愛がまさっているのを権中納言がお聞きになって、どこまでもとげとげしくてなにごとも派手になさる御心なので、自分が人に劣ってよいものかと自らを奮い立たせなさって、すぐれた名人たちをお呼び集めになって、きびしくご注意になって、このうえなくすぐれた絵の数々を、またとない立派な紙に描かせなさる。

冷泉帝は絵が好きだったのです。自分でも描いていたのですが、斎宮女御がうまく描くので、ついついこちらに足が向き、彼女の魅力に目覚めていきます。黙っていられないのが権中納言です。この人は何ごとにもはっきりして負けず嫌いな人で、こうなったらプロを呼んで描かせるほかはないと、対抗心を燃やすのです。

権中納言は、とりわけ「物語絵」が見ごたえがあると言います。12世紀には『源氏物語絵巻』をはじめとする絵巻が盛んに作られますが、『源氏物語』の時代から物語を絵とともに鑑賞する習慣があったのですね。『源氏物語絵巻』「東屋」に浮舟が絵の冊子を眺めて女房の読む物語を楽しんでいる場面があります。こういう絵を権中納言は描かせたのでしょうか。また彼は月次絵(毎月の行事や風景を描いたもの)にも言葉をつけて物語絵風にして描かせたのです。そして弘徽殿女御のところで帝に見せるようにして、帝がこの絵を斎宮女御のところに持って行かないようにするのです。光源氏はこういう権中納言の振る舞いを耳にして「なほ、権中納言の御心ばへの若々しさこそあらたまりがたかめれ(やはり、権中納言のご性分のおとなげないことといったら改まりようがないようだな)」といって笑うのです。「若々しさ」という皮肉な言葉を使って苦笑(「嘲笑」は言い過ぎでしょうか)しています。
光源氏は二条院(紫の上がいる)にある厨子の絵を取り出して、帝にお目にかけようと餞別します。長恨歌や王昭君の絵は感銘を受けるものではあっても、さすがに不吉な感じがして外すことにします。長恨歌は玄宗皇帝と楊貴妃が死別する内容ですし、王昭君は匈奴に遣わされた悲劇の女性です。王昭君について少し詳しく書きますと、漢の元帝は美人を求め、肖像画を見て美しい女性を選びました。そこで、女性たちは画家に賄賂を渡して美しく描いてもらうように頼んで元帝に愛されました。ところが王昭君は賄賂を渡さなかったので画家は美しく描かず、帝には愛されませんでした。あるとき匈奴の単于(ぜんう。匈奴の君主のこと)から美人を求められ、元帝は美人を惜しんで肖像画でもっとも美しくない者を与えることにしました。それが王昭君でした。王昭君が匈奴に遣わされるとき、元帝ははじめて実際の彼女を見て、その美しさに驚きましたが、もはや手遅れでした。
この機会に、光源氏は須磨での絵日記を取り出し、紫の上にも見せます。あまりにも見事なもので、紫の上は「ひとりゐて嘆きしよりはあまのすむかたをかくてぞ見るべかりける おぼつかなさは慰みなましものを(あのころ私はひとり都で嘆いておりましたが、海人の住むところを描いたこの絵をこうして見ればよかったのです そうすれば待ち遠しい気持ちが慰められたでしょうに)」と言います。「かた」は「絵(かた)」に「潟」を掛けています。「見る」は掛詞ではありませんが、同じ発音の「海松(みる)」を響かせて、「海人」「潟」とともに海の風景を表す縁語としています。光源氏はそれに対して「うきめ見しそのをりよりも今日はまた過ぎにしかたにかへる涙か(つらい目に遭ったあのころよりもこうして絵を見ると今日はまた昔に返って涙があふれます)」と返します。「うきめ」は「憂き目」と「浮き海布(め)」を、「かた」は「方」に「潟」を「かへる涙」は「返る波」を掛けています。


2020050712002501b.jpeg

↑伝土佐光信 源氏物語・絵合 表紙絵

上の絵は光源氏が紫の上に須磨の絵を見せているところです。
中宮ばかりには見せたてまつるべきものなり。かたはなるまじき一帖づつ、さすがに浦々のありさまさやかに見えたるを選(え)りたまふついでにも、かの明石の家ゐぞまづいかにと思しやらぬ時の間なき。

この絵は中宮にだけはお見せしなければならないものである。うまく描けていないというわけではなさそうなものを一帖ずつ、とはいえ、浦々の風景がはっきりうかがわれるものをお選びになるにつけても、あの明石の住まいのことを、まず「どうしているだろう」と思いやりなさらないときはないのである。

この絵は中宮にだけはどうしても見せねばならない、というのです。光源氏が中宮との間に犯した過ちで生まれた皇子(冷泉帝)は、右大臣側の謀略から何としても守らなければならなかったのです。みずから身を引いて皇子を守ることで父桐壷院への罪をつぐなわねばならなかった、そういう事情は藤壺中宮しか知らないことです。だからこそこの絵は中宮には見せねばならないというのでしょう。光源氏が須磨で謫居したのは、右大臣の娘の朧月夜と密通したことが露見したからだ、と安易に考えることはできません。藤壺が懐妊した時に、光源氏は夢を見たのですが、その夢の意味するところを夢解きに占わせると、「違(たが)ひめありて慎ませたまふべきことなむはべる(うまくいかないことがあって、謹慎なさらねばならないことがございます)」と言われていたのです。その「謹慎」が須磨謫居にほかならないのです。言い換えると、須磨謫居は藤壺との密通に遠因があったのです。
光源氏は、帝や斎宮女御に見せるにとどまらず、中宮の目に届くことを前提として慎重に絵を選ぶのですが、その折にはあの明石の君のことを思い出さずにはいられません。明石の姫君はもう三歳になっています。
光源氏が熱心に絵を選んでいるという噂を聞いた権中納言はいっそうのライバル心をむきだしにして軸や表紙などにも趣向を凝らした絵を作らせます。斎宮女御の方(光源氏方)は昔の物語で有名なもの、弘徽殿女御の方(権中納言方)は目新しいものを中心に集めています。
パッと見た目の華やかさは権中納言、しみじみと深みのあるのは光源氏という対照的な絵の選択です。それぞれの人物の個性が現れているのでしょう。
こうしてエスカレートした競い合いは帝付きの女房まで夢中にさせるもので、大がかりな品評会が行われるのが必然の状況になってきました。
折しも、中宮が内裏に来て、一緒になって絵を見ているのですが、そのうちに右方と左方に分けて論評しようということになりました。こういう優劣を競う催しは「物合(ものあはせ)」と総称されますが、具体的には「歌合(和歌を比べる)」「根合(ねあはせ。菖蒲の根を比べる)」「薫物合(たきものあはせ。お香を比べる)」などがありました。ここでは「絵合(ゑあはせ)」です。ただし、後に帝の御前で改めて絵合がおこなわれますので、ここではまだ私的な催しにとどまります。

202005071152047cd.jpeg

↑土佐光起 源氏物語絵巻 絵合

上の絵は、中宮の御前での絵合のようすで、女房たちが左右に分かれて絵について議論しているところです。巻物がいくつも置かれています

左方の梅壺(斎宮女御)方には平典侍(へいないしのすけ)、侍従内侍、少将命婦(せうしやうのみやうぶ)、右方の弘徽殿女御方には大弐典侍(だいにのないしのすけ)、中将命婦、兵衛命婦といった物知りの女房が方人(かたうど。物合で、左右それぞれの味方となって発言する人)となります。
なお左と右では何ごとも左が上位に来るもので、たとえば左大臣と右大臣では左大臣が上位です。天皇と皇后が並ぶとき、昨今は西洋風で天皇が右側に来ることが多いですが、京飾りのひな人形は天皇が皇后の左(向かって右側)に位置するのです。物合の場合も左方が上位に置かれることがあり、勝つことも多かったようです。相撲節会などでは左が勝つのがしきたりのようにもなっています。ここで斎宮女御が左になっているのも、やはり光源氏の権威がものを言うのでしょう。
ここからはいささか長くなるのですが、原文をしっかり読んでおきましょう。

まづ、物語の出で来はじめの親なる竹取の翁に宇津保の俊蔭を合はせてあらそふ。「なよ竹の世々に古(ふ)りにけることをかしきふしもなけれど、かぐや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに思ひのぼれる契りたかく、神代のことなめれば、浅はかなる女、目及ばぬらむかし」と言ふ。右は「かぐや姫ののぼりけむ雲ゐはげに及ばぬことなれば、誰も知りがたし。この世の契りは竹の中に結びければ、下(くだ)れる人のこととこそは見ゆめれ。ひとつ家の内は照らしけめど、ももしきのかしこき御光には並ばずなりにけり。阿部のおほしが千々の金(こがね)を捨てて、火鼠の思ひ片時に消えたるもいとあへなし。くらもちの皇子(みこ)の、まことの蓬莱の深き心も知りながら、いつはりて玉の枝に瑕(きず)をつけたるをあやまちとなす」。絵は巨勢相覧(こせのあふみ)、手は紀貫之書けり。紙屋紙に唐の綺(き)を陪(はい)して、赤紫の表紙、紫檀の軸、世の常のよそひなり。

まず、物語の生まれ始めた親である『竹取の翁』に『宇津保』の「俊蔭」を合わせて競う。「なよ竹の節(よ)ではありませんが世々に古くなってしまったことはおもしろい「節」もないのですが、かぐや姫がこの世の濁りにも穢れず、はるかに気位(きぐらい)高く天に昇った契りというものは気高いもので、神代のことのようですから、浅はかな女には目も及ばないことでしょうね」と言う。右は「かぐや姫が昇ったとかいうはるかな天というところはなるほど私たちの想像を越えますから誰だって理解しがたいことです。この世との縁は竹の中で結んだのですから、賤しい人のことと見えるようです。ひとつの家の中は照らしたそうですが、宮中の畏れ多い御威光には並ぶことなく終わってしまいました。阿部のおほし(三番目の求婚者で右大臣。「あべのみうし」「あべのみむらじ」ともいわれる)が多くの金を捨てて、火鼠の皮衣が火に燃えたように、「思ひ」もまた瞬時にに消えたというのもまったくあっけないことです。くらもちの皇子(みこ)が、実際の蓬莱山が遥かなところにあることもかぐや姫の思慮の深いことも知りながら、偽って玉の枝に瑕(きず)をつけたところが欠点となるのです」という。絵は巨勢相覧(こせのあふみ)、手は紀貫之が書いている。紙屋紙に唐の綺(き。中国渡来の絹織物)を裏打ちして、赤紫の表紙で、紫檀の軸はありふれた装丁なのである。

最初に合わせられたのは、ご存じ『竹取物語』と『宇津保物語』の「俊蔭」でした。『竹取』については「物語の出で来はじめの親なる」と言っており、物語が書かれた「親」の作品であると言います。もちろん、この記述をもって『竹取』が最初に書かれた物語であると言ってしまうのは早計です。『竹取』は左方(斎宮女御)が出し、右方が『宇津保物語』の物語絵を出しています。まずは左方の意見です。古物語で、面白みはないけれど、かぐや姫がこの世の男たちの求婚をはねつけて高いプライドをもって高く天に帰って行ったのは気高いことであり、浅はかな女にはわからないことだ、というのです。あなたたちにはわからないでしょう、と相手方をおとしめる言い方です。「ひとつ家」と「百敷(ももしし)」は「一」と「百」を対置しているのです。「ひとつはできでも百はできない」という意味を込めています。成長したかぐや姫はその美しさのあまり「屋の内は暗きところなく光満ちたり」と『竹取』の本文にあります。「火鼠の思ひ」は燃えるはずのない火鼠の皮衣を火にくべるとめらめらと燃えてしまったということを言っており、「思ひ」の「ひ」には「火」が掛けられています。皮衣が片時の間に燃えて消えてしまったように、阿部右大臣のせっかくの思いも消えてしまったというのです。「あへなし」は「張り合いがない」という意味ですが、「あべなし」を掛けているのです。『竹取物語』にも同じ洒落が用いられていますので、なかなか機知に富んだ言い方です。ここでどっと笑いが起こったのではないでしょうか。くらもちの皇子は、蓬莱山にあるという玉の枝を要求された人です。「まことの蓬莱の深き心も知りながら」は「ほんとうの蓬莱山は深いところにあることを知って、またかぐや姫の深い心をも知って」というなかなか難しい掛詞になっています。『竹取物語』は古い写本がなく、今読まれているものはほとんど江戸時代に刊行されたものなのです。それだけに、私たちは書かれた当時の姿をどれほどありのままに読んでいるのか、はなはだあやしいと言わざるを得ません。しかし、この「絵合」巻に阿部右大臣やくらもちの皇子の話が、我々の知っているものと齟齬をきたさないものであることは確かです。竹から生まれたかぐや姫が翁に育てられて、くらもちの皇子や阿部右大臣らの求愛は失敗し、帝の求婚をもふりきってかぐや姫は天に帰る、というストーリーはもちろん、「あへなし」のしゃれまで同じでした。当時はすでに「古い物語」と思われていたことも含めて、これは貴重な証言というべきでしょう。もちろん、ほかの求婚者たちの話はどうだったのか、物語の末尾に書かれている富士山の名の由来の話はあったのか、など、平安時代の『竹取物語』の姿の全貌がわかるわけではありませんが。
巨勢相覧は延喜のころ(10世紀初頭)に活躍した画工です。紀貫之はご存じの通りの人で、やはり延喜年間に活躍した歌人です。『源氏物語』の時代設定が、紫式部の時代から半世紀くらい遡るものであるとしたら、相覧や貫之はさらにそれから半世紀遡る人たちです。我々の感覚で言うなら、尾崎紅葉の小説に谷崎潤一郎が解説を付けたような感じでしょうか(笑)。装丁は古風なもので、紙屋紙に舶来の絹織物を裏打ちしたもので、表紙も軸(巻物の軸)もありふれたものだったというのです。「紙屋紙」は官立の製紙所である「紙屋」で作った紙です。今も京都の北野天満宮のそばに紙屋川がありますが、そこにあったのが「紙屋」です。「陪して」というのは珍しい言葉ですが、「裏打ちをすること」を意味します。
このように見てみますと、単に物語の内容をほめたりけなしたりするだけでなく、論評の言葉遣いにも掛詞や縁語などさまざまな言葉の技巧を凝らしていることがわかります。こういうことが判定に影響を与えることもあったのかもしれません。
ここまでは、右方がなかなか手厳しく言っていて、優勢かもしれません。

「俊蔭は、激しき波風におぼほれ、知らぬ国に放たれしかど、なほさして行きける方の心ざしもかなひて、つひに人の朝廷(みかど)にもわが国にもありがたき才(ざえ)のほどを広め、名を残しけるふかき心をいふに、絵のさまも唐土(もろこし)と日本(ひのもと)とを取り並べて、おもしろきことどもなほ並びなし」と言ふ。白き色紙、青き表紙、黄なる玉の軸なり。絵は常則(つねのり)、手は道風(みちかぜ)なれば、今めかしうをかしげに、目も輝くまで見ゆ。左にはそのことわりなし。

「俊蔭は、激しい波風にまきこまれて見知らぬ国に流れ着きましたが、それでもやはり目指していた思いもかなって、ついによその朝廷にもわが国にも稀に見る才能を広く知らせ、名を残した人の深い心を語るに際して、絵の描きかたも唐土と日本とを並べて、おもしろいことがさまざまにあるのはやはり並ぶものがないのです」と言う。白い色紙、青い表紙、黄色の玉の軸である。絵は飛鳥部常則、筆は小野道風なので、当世風ですばらしく、目も輝くほどに見える。左には何とも反論の余地がない。

俊蔭は唐土に渡ろうとするのですが、大風に遭って波斯国(はしこく)に漂着してしまいます。それでも音楽の才能を発揮して、海外でも日本でも朝廷に重用されます。かぐや姫が皇后にならなかったのに比べて、すぐれているという論法です。絵の描き方も唐と日本をうまく描き分けているようです。右方の「俊蔭」を称賛しているのですから、当然これは右方の発言です。紙も表紙も軸もすべて鮮やかで、画工と書家は飛鳥部常則と小野道風(ともに10世紀後半の人)で、いかにも派手で現代的な絵なのです。最後に「左にはそのことわりなし」とあるのは左方の劣勢を言うのでしょうが、底本(飛鳥井雅康筆。通称「大島本」)は「右には・・」としています。「左」と「右」の字はよく誤写が起こるので、ここも「左」として解釈しました。
斎宮女御方はどうも押され気味ですね。

次に、伊勢物語に正三位を合はせて、また定めやらず。これも右はおもしろくにぎはしく、内裏わたりよりうちはじめ、近き世のありさまを描(か)きたるは、をかしうみどころまさる。

次に『伊勢物語』に『正三位』を合わせて、また判定しきれない。これも、右方はおもしろくて派手で、宮中あたりをはじめ、最近の世のありさまを描いているのはおもしろくてみどころがまさっている。

『伊勢物語』はおなじみの作品ですが、『正三位』は今に伝わらない作品です。しかし、宮中にまつわることや、最近のことを描いている点で注目を集めやすいのです。『伊勢物語』は在原業平(825~880)の時代を描いていますから、ざっと100年前のことなのですね。古典か現代文学か、というところでしょうか。

平内侍、
 「伊勢の海の深き心をたどらずて
ふりにし跡と波や消つべき
世の常のあだことのひきつくろひ飾れるにおされて、業平が名をや朽(くた)すべき」とあらそひかねたり。右の典侍、
 「雲の上に思ひのぼれる心には
    千尋の底もはるかにぞ見る」
「兵衛の大君の心高さはげに棄てがたけれど、在五中将の名をばえ朽さじ」とのたまはせて、宮、
 「見る目こそうらふりぬらめ年経(へ)にし
    伊勢をのあまの名をや沈めむ
かやうの女言(をむなごと)にて乱りがはしく争ふに、一巻(ひとまき)に言の葉を尽くしてえも言ひやらず。ただ浅はかなる若人どもは、死にかへりゆかしがれど、上のも、宮のも、片端をだにえ見ず、いといたう秘めさせたまふ。


(左方の)平内侍は、「伊勢物語の深いおもむきをたどり知らずに古めかしいものとしてけなしてしまってよいものでしょうか。 
世にありふれた恋物語のわざとらしく飾り立てたものに圧倒されて、業平の名を汚してよいものでしょうか」となかなか主張しきれない。右の大弐典侍は、「雲の上(宮中)に願いをかけて昇った(入内した?)人物の心に比べると、千尋の底もはるか下に見るのです」。「兵衛の大君(長女)の志の高さはなるほど捨てがたいのですが、在五中将の名はけなすわけにはいかないでしょう」とおっしゃって、中宮が「見た目はうらぶれているでしょうが、長年読まれてきた伊勢物語の名をおとしめてよいものでしょうか」。と詠みました。このような女の議論で、とり。めもなく言い争っているので、一巻に言葉を尽くして、簡単には結論が出ない。ただ浅はかな若い女房たちは、死ぬほどこの絵合を見たいと思っているのだが、帝の女房も、中宮の女房も、ほんの片端さえ見ることができず、たいそう厳しく秘密になさっている。


歌による議論になりました。ここに見える歌も技巧を凝らすことで論評としての価値を高める意味がありそうです。平典侍の「伊勢の海の」はもちろん『伊勢物語』を評価しているのです。そのポイントは「深き心」つまり物語の文学性にあります。そこを見ないで、古臭いものだと言ってよいものだろうか、というのは、今の古典文学愛好家と同じ発想ですね。「深き」は「深き心」に「海の深き」かけて、「海」「波」の縁語になっています。それに対して「雲の上に」は「伊勢の海の深さ」を「低さ」と捉えて雲の上に昇って行った『正三位』の方が優れていると言います。「雲の上」は「雲上」つまり宮中のことを指し、高いところに昇れば海は低く見える、という意味と内裏に入ることを掛けて表現しています。
『正三位』という物語がどういうものかわからないので読み解きにくいのですが、兵衛の大君という人物が登場するものらしく、これは女性ですから、大した身分でもないのに入内したという内容なのかもしれません。「正三位」というタイトルは大納言、中納言クラスの官位ですから、たとえばこの「兵衛」(大君の父。兵衛は近衛のような花形の役所ではなく、兵衛佐なら五位レベルの官職)なる人物がその正三位まで上り詰めたということなのかもしれません。
そこに藤壺中宮が口を挟む形で、『伊勢物語』を擁護します。
「見る目」は「海松布(みるめ)」を掛け、「うらふりぬ」は「浦古り」に「心(うら)ぶれ」を掛け、「あま」「沈む」とともに縁語となっています。全体として海辺のわびしい風景を詠んでおり、須磨に流謫した光源氏のわびしさも思い出させます。
この議論では、左方は古典の魅力、作品のもつ高い精神性などを訴え、右方は新しいはなやかさや登場人物の身分の高さなどを問題にしています。やや右方優勢ですが、藤壺中宮の歌によって左方も捨てたものではないという情勢です。
さて、勝敗はどうなるのか、まだ予断は許さないのです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

都会に出ないので 

私は新型コロナウイルス(SARS-CoV2)が出現するまでも、めったに街中には出かけない生活をしていました。数か月に1度くらい神戸とか京都とか大阪といった街に出る(美術館に行くのが主な用事)くらいで、めったにひとごみには入らないのです。入るとすれば日々の電車ですが、これも満員にならない時間帯(6時ごろに乗って7時ごろに降りる)に使うことがほとんどで、いわゆるラッシュ時には遭わないようにしてきました(帰宅電車はやや混みますが)。
それだけにこの新しいコロナウイルスによる感染症(Covid-19)が問題になり始めたころも、

    危機感が薄かった

のです。二月下旬には何でもないように東京まで出かけ、マスクもしないで連日地下鉄に乗りまくっていました。美術館もまだ開いていましたから、国立博物館など、混雑する中をかき分けるようにして見物していたのです。今思えば信じられないような光景でした。
その後、日本でも亡くなった方が次々に出て、私の住む町の病院でも感染者が出たりしました。こうなると鈍感な人間なりに本当にまずいんじゃないかと感じるようになりました。その結果、四月以降はさらに家にいることが多いのですが、何しろ以前がそんな生活だったので、多くの方が感じていらっしゃるほどの、

    苦痛

はありません。
ご隠居生活よろしく植物を眺めたり、歌を詠んだりしながら、できるだけ日常生活で落ち込まないようにしています。このブログを書くことも生活を円滑にするためのひとつの方法です。
さて、この騒ぎがいくらかでも沈静化した時、都会に出るというのが面倒になっているのではないかと今から不安です。
光源氏も50歳を過ぎて嵯峨に隠棲しました。私もそろそろ、と思うのですが、よく考えたら、そんなことをする余裕なんてなく、また小銭稼ぎをしなければならないのでした。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

『源氏物語』プチ講座を始めてみて 

このところ、普段開催していた『源氏物語』の講座においでくださる方々を主な対象に、しかしご覧いただける方はどなたにでも楽しんでいただきたいという思いでこのブログに断続的な文章を書いています。『源氏物語』の「蓬生」巻だけでも書いて、どなたも読んで下さらないようなら引っ込もう(笑)と思っていたのです。すると、講座に出てくださっている方から、「毎回読んでいる」というご連絡をいただいたりしてとてもありがたく思っています。さらに、講座の方以外でも、このブログでの古いお友だちで、今は主にFacebookで交流のある方や、さらにはそのお友だちの方までも読んでくださっているとのことで、望外の喜びを抱いております。
中には、「毎回

    プリントアウト

して読んでいる」と言ってくださる方もあり、だんだん恐縮してまいりました。
すでに公開済みの「蓬生」「関屋」に続いく「絵合」「松風」巻については書き終えており、今は調子に乗って「薄雲」巻の準備をしているところです。
まさかこんなにたくさん勉強させていただけるとは思っておりませんでした。感謝申し上げます。
もし夏休みくらいまで書き続けられたら、ひょっとしたらそのあとの「朝顔」「少女」「玉鬘」「初音」「胡蝶」「蛍」・・・と読んでいけるのではないかと

    夢のような

気がしております。
私は、『源氏物語』が好きで何度も読んではいるのですが、丁寧に読むということでいうなら、今書いているところはこれまで一番いいかげんであったところなのです。それをここで書かせていただけるのはほんとうにありがたいことなのです。
いちいち数えてはいないのですが、見当としては、これまでに10万字以上は書いただろうと思います。原稿用紙にすると250枚分ということはちょっとした本1冊分でしょうか。よく書いたものです。
これからもますます勉強していきますので、よろしくお願いいたします。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

源氏物語「絵合(ゑあはせ)」(1) 

『源氏物語』は時間的にも内容的にも必ずしも巻の順になっているとは限りません。時には時間が戻りますし、接続する話の間に入れ子のように挿話が置かれることもあります。「蓬生」巻のひとつ前の「澪標(みをつくし)」巻は六条御息所の娘の前斎宮を光源氏が後見しようとするところで終わっています。それに直接つながるのは「関屋」巻の次の「絵合」巻です。「蓬生」巻と「関屋」巻は、その間に挟み込まれた、末摘花と空蝉という物語の傍流の人たちの後日談でした。
しかし「澪標」巻と「絵合」巻は時間的には少し飛んでいます。「絵合」巻は光源氏三十一歳のことです。

前斎宮の御参りのこと、中宮の御心に入れてもよほしきこえたまふ。こまかなる御とぶらひまで、とりたてたる御後見もなしと思しやれど、大殿は、院にきこしめさむことを憚りたまひて、二条院に渡したてまつらむことをも、このたびは思しとまりて、ただ知らず顔にもてなしたまへれど、おほかたのことどもは、とりもちて、親めききこえたまふ。

前斎宮の御入内のことは、中宮がご熱心にご催促申し上げなさる。こまごまとしたお世話まで、これといったご後見もないと案じていらっしゃるが、大殿は、院がお聞きになるであろうことをご遠慮なさって、二条院にお移し申し上げることをも、このたびは思いとどまられて、ただそしらぬ顔をしていらっしゃるのだが、ひととおりのことについては、お世話をして、親らしくふるまっていらっしゃる。

前斎宮は元の春宮と六条御息所の間に生まれ、朱雀帝の時代に伊勢斎宮となっていた人です。この人の処遇について「澪標」巻で光源氏は冷泉帝の後宮に入れることを決意していました。実は、「賢木(さかき)」巻で伊勢に下るときの斎宮の姿を見た朱雀帝がその美しさに心を動かしていたのです。それだけに、伊勢から帰るとすでに上皇となっている朱雀院はあらためて前斎宮を手元に置きたいと望んでいるのです。六条御息所はそれを聞いて、朱雀帝にはすでに何人もの女性がいらっしゃるので、遠慮したいと考えていたのです。光源氏は御息所亡きあと、前斎宮の身の振り方について藤壺中宮に相談し、冷泉帝に差し上げたいというと、中宮(冷泉帝の母)も賛成していました(ここまでは「澪標」巻の内容)。
それから一年以上経って、今や斎宮は二十二歳になっています。朱雀院はこのとき三十四歳で、前斎宮との年齢関係も不釣り合いではありません。一方、冷泉帝はまだ十三歳なのです。現代では考えにくい、大学三年生の年齢の女性と小学校六年生の年齢の男性の結婚話です。余談ですが、『源氏物語』が書かれた少しあとの寛仁二年三月七日、藤原道長の娘威子が後一条天皇に入内します。このとき、威子は二十歳、天皇は十一歳でした。この、はっきり言ってめちゃくちゃな結婚について、道長は『源氏物語』にもよく似た話があるじゃないか、とでも思ったのではないでしょうか。事実はしばしば芸術を模倣します。
すでに出家している藤壺ですが、ここでは「中宮」と呼ばれています。その中宮から、熱心に早く入内を、と催促があります。光源氏は前斎宮をいったん二条院に引き取ってから養女格にして入内させようとしていました(「澪標」巻)が、院(朱雀院)の耳に入ることを憚ってまだそれは実現していません。それでも着実に入内に向けての準備は進めているのです。

朱雀院は何とも残念に思っています。ここでも彼は敗者なのです。そして、入内の当日になってさまざまな贈り物をしてきます。なんとも複雑な心境での贈りものといえるでしょう。前斎院のもっとも近くでお仕えする女別当(によべたう。斎宮寮の長官を別当といい、男女ひとりずつが任ぜられました。そのうちの女性が女別当)が光源氏に「こういう贈り物がありました」と披露します。光源氏が見ていると、朱雀院のこんな歌が書かれているのを見つけました。
  別れ路に添へし小櫛(をぐし)をかことにて
    はるけきなかと神やいさめし
「伊勢にお下りになる別れの時に、小櫛を添えたが、それを理由として私たちは離れ離れの関係なのだと神がおいさめになったのだろうか」という意味です。斎宮は帝の在位中は都に戻らないので、伊勢への出発の儀式に際しては、帝が斎宮の額髪に黄楊(つげ)の小櫛をさして「帰りたまふな」というきまりがあったのです。斎宮が帰らないということは帝の治世が長続きすることですから。このときのようすについては「賢木」巻に「いとうつくしうおはするさまを、うるはしうしたてまつりたまへるぞ、いとゆゆしきまで見えたまふを、帝、心動きて、別れの櫛たてまつりたまふほど、いとあはれにて、しほたれたせたまひぬ(とてもかわいらしくていらっしゃるうえに、りっぱに飾り立ててさしあげなさったお姿が不吉なまでに美しくお見えになるので、帝=朱雀=は心が動いて、別れの櫛を差し上げなさる時には、あまりのおいたわしさに涙ぐみなさるのであった)」とあります。そのことを神が口実として私たちの仲をはるか遠いものにしてしまったのだろうか、というわけです。「負ける人」である朱雀院の悲痛な訴えです。光源氏はさすがにおいたわしく思うのです。かつて須磨に落ちる時には、院に恨みを持たなかったと言えばうそになるのですが、その一方、院はとてもやさしい人柄なので、申し訳ない気持ちもあるのです。
お返事しないわけにもいかず、光源氏は「形だけでもお返事なさいませ」と勧め、前斎宮は、あの伊勢下向のときに院が涙ぐまれたことなどを思い出して、
  別るとてはるかにいひしひとことも
    かへりてものは今ぞかなしき
とだけお返事したのです。「あのお別れの時『帰りたまふな』とおっしゃったひとことも、帰ってきた今となっては、かえって物悲しいのです」。「かへりて」は「都に帰って」と「かえって~だ」の意味を掛けています。
光源氏は、この不釣り合いな結婚を推し進めるに際して、前斎宮が不愉快に思っているのではないかという思いも抱いています。遠慮がちに、しかしひたみちに進めるこの結婚に対して、光源氏は「もし御息所がご存命ならかいがいしくお世話なさっただろう」と想像し、また御息所の風情豊かな人柄を思い出すのでした。

中宮も内裏(うち)にぞおはしましける。上は、めづらしき人参りたまふと聞し召しければ、いとうつくしう御心づかひしておはします。ほどよりはいみじうされ、大人びたまへり。宮も「かく恥づかしき人参りたまふを、御心づかひして見えたてまつらせたまへ」と聞こえたまひけり。人知れず、大人は恥づかしうやあらむと思しけるを、いたう夜更けてまうのぼりたまへり。いとつつましげにおほどかにて、ささやかにあえかなるけはひのしたまへれば、いとをかしと思しけり。

中宮も内裏におでましになった。帝は、新鮮で心惹かれる方が参られたとお聞きになったので、とてもいじらしいまでにお気遣いになっている。実際の年齢よりはたいそう洗練されて大人びていらっしゃる。中宮も「このように立派な方がまいられるますので、お気遣いなさってお逢いなさいませ」と申し上げなさった。帝は、人知れず、大人の女性はきまり悪いのではないかとお思いになったのだが、すっかり夜が更けて参内なさった。とても慎みがあっておおらかで、小柄で華奢でいらっしゃるごようすなので、たいそうすばらしいとお思いになった。

藤壺中宮はみずからが表に立って運んだ婚儀ですから、現在住んでいる三条の宮からわざわざ内裏に出てきているのです。大人びてはいても、まだ十三歳の帝ですから、二十二歳の女性を迎えるのはきまり悪い思いもします。前斎宮の様子は暗い中でも華奢な感じがわかり、帝は気に入ってしまいました。こうして前斎宮は「斎宮女御」と呼ばれるようになります(梅壺女御とも、そしてのちには秋好中宮と言われます)。

十三歳の帝、実はこれが初めての結婚ではありません。二年前に弘徽殿女御が入内しているのです。この人は権中納言(光源氏のライバル。かつての頭中将)の娘で、帝より一歳年長の十四歳です。こちらは同年代の気安さで子どもっぽい遊び相手のような関係です。光源氏には冷泉帝に入内させられるような実の娘はいませんから権中納言にしてみればわが娘をゆくゆくは中宮にも、と思っています。そして男子が生まれた場合は光源氏を凌駕する権力も手に入れられるかもしれないのです。それだけに、かなりの年長とはいえ、斎宮女御の入内は不安を抱かされるものだったのです。
光源氏は朱雀院を訪ね、今どんなお気持ちなのかが知りたかったので、それとなく斎宮女御のことを話題にします。すると院の表情がいかにも残念そうに見えるのです。院がこれほど残念に思う斎宮の女御という人はどんなに美しい人なのだろう、と、こんな時であっても光源氏は好色心が動きます。光源氏は斎宮女御の姿を一度だけわずかに見たことがあります。それは「澪標」巻で、病の六条御息所を見舞ったときのことです。そのときの印象では「いとうつくしげ」(とてもかわいらしい)「あてに気高きものから、ひちちかに愛敬づきたまへるけはひ(上品で気高いものの、いきいきとして≪小柄で、の意味とも言われる≫愛くるしい感じ)」がしたのです。

かく隙間なくて二(ふた)ところさぶらひたまへば、兵部卿宮、すがすがともえ思ほし立たず、帝おとなびたまひなば、さりともえ思ほし棄てじ、とぞ待ち過ぐしたまふ。二ところの御おぼえども、とりどりに、いどみたまへり。

このように、ほかの人の入る余地もないほどお二人がおそばにいらっしゃるので、兵部卿宮はそうは簡単にご決心になれないのであった。帝がご成人なさったらいくらなんでもお見捨てにはなるまい、とその機会を待って過ごしていらっしゃる。お二方へのご寵愛はそれぞれに篤いもので、競い合っていらっしゃった。

こうなると、それ以外に「我が娘を」と思っていた人は困ってしまうのです。藤壺中宮の兄(紫の上の父)の兵部卿宮は、以前から娘を入内させたいと思っていたのですが、今、なまじ入内させたら恥をかくだけかもしれないと決心が鈍ります。いつかそういう日が来るだろうとかすかな期待を持ちながら待っているほかはないのです。帝の弘徽殿女御と斎宮女御への寵愛はいずれ劣らぬもので、何かと競い合うようになっています。これは光源氏と権中納言の、あるいは源氏と藤原氏の競争でもあります。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

短歌を詠もう 

4月以降、「硬貨を使おう」プロジェクトとともに、「短歌を詠もう」プロジェクトも開催中です。
私は子どものころから詩を書けと言われるとどうすればよいのか意味が解らず、むしろ5と7のリズムで書ける俳句や短歌の類が好きでした。といっても、寺山修司のように早熟な俳人、歌人ではありませず、ただ5と7の音をつなげて遊んでいるだけでした。学生のころから少しは短歌を詠もうという意欲が湧いてきましたが、指導を受けるわけでも結社に入るわけでもなく、ただ思いつきを書くばかり。今もってその状態が続いているという、何の進歩もない「短歌愛好家」です。
4月以降読もうと思ったのは、やはり

    COVID-19の流行

によるのです。家で「方丈の暮らし」をしていると、じっと目を閉じて何かを考える時間を作ることができます。また、散歩すると季節の巡りを普段以上に目の当たりにすることができます。
そこで、むなしい時間を送るだけにならないように、せめて腰折れなりともひねろうと思ったのです。相変わらず愚作ばかりですが、プロではありませんからそれでいいのです。
これまで詠んだ短歌から少し挙げてみます。Facebookにはアップしているのですが、さらに少し推敲したものを書きます(下手な考え何とやら、ですが)
  家に居てただパソコンのキーを打つ
    四月の歌は明るかるべきを
  息を病む人あまたありかくもまた
    涙に似たる桜はなびら
  怒りとも嘆きとも見ゆひさかたの
    今宵は赤き十六夜の月
  街路樹の白ハナミズキ散りそめて
    道行く人のマスクとなりぬ
  ねぎ一本きざみてひとり歌を詠む
    けだるきまでに日は長くして
  ウイルスは春告げ鳥に名こそ似れ
    そのいとなみのいとはしきかな
  アンドレやオスカルといふ名の薔薇に
    マスク外せり人げなき朝
  嘘といふ息吐かざればアスパラの
    小さき花の命うるはし

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

フィジカル ディスタンシング(Physical Distancing) 

最近、電車ではできるだけ人と離れようとする傾向があらわな感じがします。以前阪急電車の十三駅から神戸方面に行く特急に乗ろうとしたらさほど混んでいなかったのですが、いくらか立っている人がいたのです。では座席は満席なのかというと、そうではありませんでした。多くの人が、隣の人と少し距離をあけて座っているので、1.5人分の座席を一人で占めているのです。ところが誰も「ちょっと詰めていただけませんか」なんて言わないのです。それでも座ろうとする人はいないわけではなく、詰めてもらっていましたが、元から座っていた人はなんとなく嫌な顔をしていました(笑)。
店でレジに並ぶときは前の人との間に距離を取るのは当たり前になってきました。最近、WHOが言う

     Physical Distancing(物理的な距離をとること)

が、かなり浸透しているのですね。外国でもうまく機能しているのかもしれませんが(外国のことは知らないのです)、こういうことに対してあまり逆らおうとしない正直さは日本人らしいと言えるかもしれません。いいことだと言えるでしょうね。昔の道頓堀朝日座の文楽上演時の客席は「ナチュラル ディスタンシング」だったように思います(笑)。
私の好きな美術館はまだ閉館したままですが、有名作品をドカンと持ってきて、各種メディアで大々的に宣伝して、ごった返すほど多数の観客を入れる、というやり方では物理的に離れるなどということは難しいですね。だいたい、観る方もそんな状態では落ち着いて鑑賞するなんて無理な話です。館外で3時間待ち、中に入ると押し合いへし合いしていつのまにか館外に吐き出される、という状態で、絵なんてそうそう楽しめないでしょう。東京国立博物館でのレオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」や京都国立博物館の

     「鳥獣人物戯画」

など、時間帯を工夫してすいているときを狙ったものの、それでも押し合いへし合いには変わりませんでした。
美術館が再開された場合、「大作を集めて観客を大量動員する」というやりかたはしばらく避ける必要があるかもしれません。その一方、それでは美術館の収入が落ち込んでやっていけない、美術館の意義が薄れる、という理屈も分かります。今、美術館を運営する立場の方々も今後についていろいろお考えになっているのだろうと想像します。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

硬貨を使おう 

以前このブログに書いたことがあるはずなのですが、私は小銭を遣うのが下手で、つい千円札(1万円札でないところがつらいです)を出してはお釣りをもらってしまいます。そしてすぐに小銭入れが満杯になるので、家に放置してしまうのです。そのために小銭が溜まって仕方がありません。おそらく私は数百枚の小銭(大半は10円硬貨)をため込んでいると思います。このままいくと、その重みで家が壊れるのではないか(それはない!)と思って、最近小銭使用プロジェクトを開催中です。
スーパーに行くときは(近所のスーパーのレジは自分で機械にお金を入れるタイプです)1000円分くらいの小銭を持って行きます。10円玉は必ず10枚は入れておきます。それで目いっぱい小銭で支払っているのです。仮に1000円であれば、100円硬貨9枚と10円硬貨10枚という具合です。しかしそういう時に限って966円というような半端な数字で、結局

    1円硬貨

が増えたりしてしまうのです。
電車に乗る時も切符を買う場合はできる限り硬貨で払います。
払うだけではありません。いつぞや銀行に行ったときは、小銭を100枚くらい持って行って、預金してきました。せいぜい3千円くらい(笑)だと思いますが、なんだか達成感のようなものがあって、すっきりしたのなんの。
こんなことをしているうちに発見したのは、

    硬貨は重い

ということです。金属ですからあたりまえのことではあるのですが、バッグを持たずに小銭入れをポケットに入れようものなら、ずしりとした重みがあります。
二か月ほどそんな工夫をしているのですが、それでもまだ小銭だらけ。
ということはこのプロジェクト実施前は1,000枚くらいあったかもしれません。
1万円札が1,000枚なら、としみじみ思います。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

源氏物語「関屋(せきや)」 

『源氏物語』には「空蝉」「篝火」「花散里」など、とても短い巻があります。「蓬生」巻に続く「関屋」巻もそのひとつです。
光源氏は若き日に中流階級の女性に関心を持ち、空蝉、夕顔、末摘花らに接近しましたが、さまざまな理由でそれらの恋愛は頓挫しました。そのうち、「蓬生」巻では末摘花の後日談が描かれたのですが、この「関屋」巻に登場するのは空蝉です。

伊予介といひしは、故院隠れさせたまひてまたの年、常陸になりて下りしかば、帚木(ははきぎ)もいざなはれにけり。須磨の御旅居もはるかに聞きて、人知れず思ひやりきこえぬにしもあらざりしかど、伝へきこゆべきよすがだになくて、筑波嶺(つくばね)の山を吹き越す風も浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて年月重なりにけり。限れることもなかりし御旅居なれど、京に帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ常陸は上りける。

伊予介と言った人は、故院がお亡くなりになった翌年、常陸介になって下向したので、帚木も伴われていってしまった。須磨の御謫居(たっきょ)もはるか東国で聞いて、人知れず思いを馳せ申し上げることがないわけではなかったが、その気持ちをお伝えするよすがさえなくて、筑波嶺の山を吹き越えてくる風も不確かな思いがして、わずかな音沙汰さえないままに年月が重なってしまった。いつまでと限られた御謫居ではなかったが、京にお帰りになってお暮らしになったそのあくる年の秋に常陸介は上洛したのであった。

「故院」は桐壷院で、亡くなったのは光源氏二十三歳の十月でした。その翌年に伊予介だった人物は常陸介に任ぜられて現地に下ったのです。伊予介も常陸介も地方の次官ではありますが、伊予は上国、常陸は大国です。しかも常陸国の守(かみ)は親王が名目上任ぜられるので、介は事実上の長官。かなり実入りもよかった役職なのです。それに伴われて、妻の「帚木」も下っていきました。ここでは「帚木」といっていますが、一般的に「空蝉」と言われる人のことです。彼女は「帚木」巻で登場して「数ならぬ伏屋に生(お)ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木」の歌を詠みました。
光源氏が須磨に落ちたのは二十六歳でしたから、空蝉の常陸下向の二年後でした。その噂を聞いて空蝉も心を痛めたのですがはるか東国にいては情報すら満足に伝わりません。「筑波嶺の山を吹き越す」の部分は、「甲斐が嶺(ね)を嶺(ね)越し山越し吹く風を人にもがもやことづてやらむ(甲斐の山の峰を越し、山を越して吹く風よ、お前が人であってくれればいいのだが。そうすればことづてができるのに)」(古今集・東歌)の「甲斐が嶺」を言い換えたものと思われます。そして光源氏が都に帰った翌年、つまり光源氏二十九歳の秋に常陸介一行は都に戻ることになるのです。
そして逢坂の関に入るちょうどその日に、光源氏(このとき内大臣)が石山寺に願ほどきに参詣に行くところだったのです。石山寺は、申すまでもなく今の大津市にある寺で、紫式部が『源氏物語』を書いたという伝承のあるところです。光源氏はこの年には住吉(大阪の住吉大社)にもお礼参りをしていますので、この石山参詣も無事に帰京できたことの願ほどきに来たと考えられます。常陸介の先妻の子の河内守(光源氏が空蝉と通じた時は紀伊守)などが常陸介一行を迎えに来ていて、光源氏の石山参詣の情報を伝えました。光源氏は当然大勢で参詣しますから、道が混むことが予想され、結局常陸介一行はぶつかる形になることを遠慮して関のあたりで道を開けて光源氏を先に通すことにしました。常陸介一行には女車も多く、光源氏の前駆を務める者たちはこの女車に目を止めたりしています。

九月晦日(ながつき つごもり)なれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋よりさとくづれ出でたる旅姿どもの、色々の襖(あを)のつきづきしき縫ひもの、括り染めのさまも、さる方にをかしう見ゆ。御車は簾おろしたまひて、かの昔の小君、今は右衛門佐なるを召し寄せて「今日の御関迎へはえ思ひ棄てたまはじ」などのたまふ。御心のうちいとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も人知れず昔のこと忘れねば、とり返してものあはれなり。
  行くと来(く)とせきとめがたき涙をや
    絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかし、と思ふに、いとかひなし。


九月の末なので、紅葉が色とりどりにまぜ合わせて、霜枯れの草が濃淡さまざまに一面に風情ありげに見えるあたりに、関屋からさっと崩れ出た多くの旅姿の、色さまざまな狩衣の、それにふさわしい縫いものや、括り染めのありさまも、旅装束なりにおもしろく見える。光源氏の御車は簾をおおろしになって、あの昔の小君、今は右衛門佐である者をお呼び寄せになって「今日私が関までお迎えに参りましたことはお見捨てにはなれますまい」などとおっしゃる。御心の中ではとてもしみじみとお思い出しになることが多いのだが、ひととおりの挨拶しかできずにかいのないことである。女も、人知れず昔のことは忘れていないので、思い返してしんみりとしている。
  常陸に行ったときも戻ってきた今も
  せきとめがたい涙を、絶えず湧き出
  る関の清水とご覧になっているので
  しょうか
私の心などおわかりにはならないだろう、と思うと、まったくかいのないことである。


周囲の風景がいかにも風情豊かな時節です。光源氏は、かつて空蝉との仲立ちとなってくれた小君、今は右衛門佐になっている若者を召し寄せて「わざわざお迎えに来たのですよ」と、またまたしゃれたこと(いいかげんなこと?)を言っています。もちろん空蝉にはそうではないことくらいわかっているのですが。光源氏はいくら何でも人目が多いのでそれ以上のことは言いにくいのです。空蝉も昔のことを思い出しています。「行くと来と」は空蝉がひとりかみしめるように詠んだ歌です。常陸に行くときは都を離れますから当然悲しいのです。そして今もまた涙があふれてきます。しかしその気持ちを光源氏はわかってはくれないだろうと思うのです。この歌は、「せきとめ」に「(逢坂の)関」を掛け、関の清水(逢坂の関にあった清水で歌にしばしば詠まれた。今は「関の清水跡」が置かれている)と涙を重ねています。古注釈の『岷江入楚(みんごうにっそ。みんごうじっそ)』はこの歌に関して「心のうちに源をふかく思ふ心は見えたり」と言っています。
この場面も『源氏物語絵巻』が残っていますが、あいにく保存状態が悪く、顔料がかなり剥落しています。

2020042812390250a.jpeg

↑源氏物語絵巻 関屋

あくまで現存するものだけの話ですが、この場面が一見して『源氏物語絵巻』のほかの場面と違っているのは、人物を大きく描かず、風景を広く描いていることでしょう。
画面左上には琵琶湖が見え、空蝉一行の人々が描かれます。画面左手前に大きく描かれた牛車は空蝉のものかもしれません。右から九十九折(つづらおり)の道を見え隠れしながら人がやってきます。これが光源氏の一行でしょう。中央やや右奥に牛車がほんのかすかに見える(顔料が落ちていて、枠しか見えません)のですが、これは光源氏の乗る物でしょう。右側中ほどに鳥居、その向こうに祠(ほこら)が見え、右隅にはこれもほとんど分かりませんが、関の清水をあらわすのであろう懸樋(かけひ)が描かれています。

202004281310326aa.jpeg

↑鳥居と祠

20200428131111710.jpeg

↑鳥居と祠のイメージ

20200428131146a67.jpeg

↑掛樋

20200428131607bc9.jpeg

↑掛樋のイメージ

木々は紅葉、黄葉、常緑の葉が描かれ、晩秋の風景です。出会いなのに別れ、その皮肉が感じられます。この絵にも加藤純子さんの模写があるのですが、ここでは略します。

20200511134031035.jpeg

↑土佐光吉ほか 源氏物語画帖 関屋

この絵では、手前の八葉車が光源氏の乗り物で、左奥がその通過を待つ空蝉一行です。

光源氏は石山に参って都に戻るのですが、その迎えに右衛門佐(かつての小君)がやってきました。光源氏の石山での参籠については、『岷江入楚』が「七日参籠し給へるにや」と記しています。昔はすぐそばに置いてかわいがっていた(男色の様相も感じられる関係だったのです)ので、五位になるときまでは光源氏の恩を受けていたのですが、光源氏の須磨謫居のあとは常陸に行っていたのです。

佐(すけ)召し寄せて御消息あり。今は思し忘れぬべきことを、心長くもおはするかな、と思ひゐたり。「一日(ひとひ)は契り知られしを、さは思し知りけむや。
  わくらばに行きあふみちをたのみしも
    なほかひなしやしほならぬうみ
関守の、さもうらやましく、めざましかりしかな」とあり。


右衛門佐をお召しになって御消息がある。今となってはお忘れになってしまってもよさそうなものを、お心変わりなさらぬことだ、と右衛門佐は思ってひかえている。「先日は宿縁というものが思い知られたのだが、そう思い知りはなさいませんでしたかか。
  たまたま行き会ったところが「逢ふ」
  という名を持つ「近江路」だったので
  期待したのだが、やはりかいのないこ
  とであったな、貝もいない湖では。
関守が、いかにもうらやましく、いまいましかったよ」とある。


呼び寄せられた右衛門佐は、光源氏が今も空蝉に心を残しているのだと感じます。そして空蝉への手紙を託されます。自分は運命の出会いだと思ったが、あなたはどうですか、としたうえで、和歌が書かれています。「行きあふみち」は「行き会ふ」に「近江路」を掛け、「かひなし」には「琵琶湖が淡水湖なので海の貝がいない」の意味を掛けています。『伊勢物語』の「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」のように、「関守」は恋路を邪魔する者という意味があり、ここでは常陸介がうらやましくも邪魔であった、というのです。もちろん、逢坂の関の縁でわざわざ「関守」と言っているのです。

光源氏はその手紙を右衛門佐に渡すに際して、「長年のご無沙汰で初めてお便りするような気持ちですが、心の中ではいつとなく、つい今しがたのような気になるのです。色めかしいといっそうお憎みになるだろうか」と言葉を添えます。右衛門佐は恐縮してそれを受け取り、姉に渡して「私に対しても今も変わらず優しく接してくださいますのでとてもお断りすることはできません。お便りをしても誰もとやかくは言いませんから」と返事を書くように求めます。空蝉も、さすがにこらえきれなかったものか、「あふさかの関やいかなる関なれば 繁きなげきの中をわくらむ(逢坂の関はいったいどういう関だからというので、木が生い茂る中を嘆きながらかき分けていくのでしょうか)」と返事を書きました。「あふさか」に「逢ふ」を掛けることはお分かりだと思います。「関」の語を二つ用いていますが、それほどに重い意味を持つ場だった、というのでしょう。「なげき」には「木」が掛けられて、逢坂山の木々の中を、嘆きながら進んだ、というのです。その後もふたりはときどき手紙を交わしていました。

かかるほどに、この常陸守、老いのつもりにや、悩ましくのみしてもの心細かりければ、子どもにただこの君の御ことをのみ言ひおきて「よろづのこと、ただこの御心にのみまかせて、ありつる世に変はらで仕うまつれ」とのみ、明け暮れ言ひけり。女君、心うき宿世ありて、この人にさへ後れて、いかなるさまにはふれまどふべきにかあらん、と思ひ嘆きたまふを見るに、「命の限りあるものなれば、惜しみとどむべき方もなし。いかでか、この人の御ために残しおく魂(たましひ)もがな。わが子どもの心も知らぬを」とうしろめたう悲しきことに言ひ思へど、心にえとどめぬものにて、うせぬ。

そうこうしているうちに、この常陸守が、老いが重なったためか、ずっと病気がちで、何となく心細かったので、子どもたちに。ただこの君のことばかりを言い残して「なにごとも、ただこの方のお心のままにして、私の生きているうちと変わることなくお仕えせよ」とばかり、明け暮れ言っていた。女君(空蝉)は、つらい宿世があって、この人にまで先立たれて、どのように落ちぶれていくことになるのだろう、と思い嘆いていらっしゃるのを見るにつけて、「命は限りあるものだから、惜しんでとどめるすべもない。なんとかして、この人の御ために魂をあとに残しておきたいものだ。自分の子どもたちの心もどうかわるかわからないのだから」と気がかりで悲しいことと言い、また思うのだが、気持ちでは命はとどめられないものなので亡くなった。

「常陸守」とあるのは「常陸介」のことで、前にも書きましたように、常陸守は親王が「常陸大守」として名目上務めるものであったために、「介」が事実上の「守」の役割を果たしました。そこで「常陸守」とも言ったのです。こういうことは「上野(かみつけ。こうづけ。群馬県)」や「上総(かづさ。千葉県)も同様でした。余談ですが、「上野」は「かみ・つ・け」で「下野(しもつけ)」とともに「毛野の国」でした。本来「上毛野」「下毛野」だったのです。国名は漢字二文字で書く決まりがありますので、それを略して「上野」「下野」としました。「上総」は「かみつふさ」のことで、「下総(しもつふさ)」とともに「ふさ」の国でした。
老いた常陸介は子どもたちに空蝉のことばかりを言い残したのです。空蝉はかつて桐壷院の後宮に上がる可能性もあった人で、それを一介の地方官が後妻にしたのですから、常陸介にしてみればとても大切な妻だったのです。妻が(一度のこととはいえ)光源氏と過ちを犯したことも知らないこの老人は、死期が迫った今もなお気の毒なくらい妻を思いやるばかりなのです。空蝉にしてみれば、満足のできる結婚ではなかったかもしれませんが、それでもここまで大事にしてくれた夫を失うと、今後どうなっていくのかわからないのです。常陸介は子どもなど信用ができないとばかりに、魂魄この土にとどまって妻を見ていたいと思うのですが、とうとう亡くなりました。

子どもたちは、しばらくは父の遺言どおり空蝉のことにも気を使いましたが、なんといっても継母ですから、冷たい態度を取り始めます。

ただこの河内守のみぞ、昔よりすき心ありて少し情けがりける。「あはれにのたまひおきし、数ならずとも、思し疎(うと)までのたまはせよ」など追従(ついそう)し寄りて、いとあさましき心の見えければ、うき宿世ある身にて、かく生きとまりて、はてはてはめづらしきことどもを聞き添ふるかなと、人知れず思ひ知りて、人にさなむとも知らせで、尼になりにけり。ある人々、いふかひなしと思ひ嘆く。守もいとつらう「おのれを厭ひたまふほどに、残りの御齢(よはひ)は多くものしたまふらむ、いかでか過ぐしたまふべき」などぞ。あいなのさかしらや、などぞ侍るめる。

ただこの河内守だけは、昔から好色な心があって、少し思いやりを見せた。「しみじみとご遺言になったのですから、ものの数にも入らぬ私ですが、お疎みにならずに何でもおっしゃってください」などとへつらって近づき、まったくとんでもない心のあらわなので、つらい宿世の身で、このように生き残って、ついには珍しいことまでをも聞くことだと、人知れず悟って、人にそういうつもりだとも知らせずに、尼になってしまった。周囲の人たちは、早まったことを、と思い嘆く。河内守もとてもうらめしくて「私をお嫌いになってのことであっても、残りの年月は長くていらっしゃるでしょうに、どうやってお過ごしになるのでしょう」などと・・。余計なおせっかいだ、という噂でございましたようで。

河内守は以前からこの継母に下心があったのです。「帚木」巻にも「紀伊守(今の河内守)、すき心にこの継母(ままはは)のありさまを、あたらしきものに思ひて、追従(ついそう)しありけば」と、この「関屋」巻とよく似た表現があります。空蝉はこの河内守の態度にも嫌気がさして、誰にも相談せずに出家してしまいました。「蓬生」巻の末摘花がそれなりの小さな幸せを得られる話であったのに対して、この空蝉の後日談はあっけないほどの結末を迎えてしまいました。このあと、空蝉はどうなるのか、それはかなり先の「玉鬘」巻までわからないのです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

幸せな時間 

幸せな時間、というと、以前なら「音楽を聴いているとき」とか「芝居を観ているとき」とかいろいろあったのですが、健康上の理由で「音楽」は完全にアウト、「芝居」もほんとうに観られなくなりました。
映画も好きだったのですが、もう何年も行っていません。最後に観たのはナタリー・ポートマン主演の『ブラック・スワン』(日本公開は2011年)かな、もうちょっと後まで観ていたかな、という感じです。
歌舞伎の最後は道頓堀松竹座での仁左衛門の「義賢最期」ですから、これはもっと前です。歌舞伎に行かなくなったのは経済的な事情もありますけど(笑)。
その後はひたすら美術館通いに喜びを見出しています。このウイルス騒ぎになる前も東京でできる限り「はしご」してきました。
この春は神戸の市立博物館で

    コートールド美術館展

に行くことをとても楽しみにしていたのですが、多分ダメでしょうね。神戸市立博物館は秋のボストン美術館展の中止も決めています。アメリカの事情もありますからね。それにしてもがっくりです。
私だけではありません。どなたも楽しみを失っていらっしゃることだろうと思います。旅行もドライブもスポーツも・・・。そういえば、

    パチンコ店

もほぼ全面休業になりましたが、私のように無縁な者にとっては何でもないことなのですが、好きな人はつまらないのでしょうね。
さて今何をしているときが幸せなのだろう、と考えたのですが、そもそも今は何かを書いているだけで、それ以外何もしていないのですから、「幸せな時間」なんて考えるまでもないのです。
それでもなにかありはしないかと探してみたのですが、あるいは今は古語辞典を読んでいるときが一番幸せかなという気がしてきました。こりゃあ、おもしろいですよ。
我ながら変わった人です。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

ちょっとしたこと 

こんなに世の中が騒がしくなると、人の心がぎすぎすしてくるのもやむを得ないでしょう。街のあちこちで暴言を吐く人がいるというのはちらちら話題になります。ほんとかな、と思ったのは「朝、散歩をしていたら知らない人から『家にいろ』といわれた」とツイッターに書いていた人がいたことです。それ、何かおかしくないですか。その「家にいろ」と言った人も外出しているじゃありませんか。まさか二階の窓から歩いている人に向かって大声をあげたわけではないでしょう。そんなことをしたら唾液がふりかかってしまいますよ。
いくらなんでも、

    散歩を非難する

というのはあり得ないようにも思うのですが、それくらい神経質になっている人がいるというのは多分間違いないでしょう。
そういう私も何かと神経質になってしまいます。
COVID-19の初期症状に「味がしなくなる」「においがわからなくなる」ことがありうるのだそうで、つい、何かのにおいがするとホッとしてしまうのです。
逆にちょっとしたことが気になる場合もあります。
先日、朝起きたときに何だか

    のどが痛い

ような気がしました。大声を出すことはありませんから、風邪気味なのかな、と思いつつも、ひょっとしたら・・と不安がよぎります。
病院に行ったとき、予約時間に間に合うようにさっさと歩いて行ったら、受付で「お熱をお測りします」と言われました。あらゆる患者にそうしているみたいです。こめかみのあたりに体温計をかざされて、「はい大丈夫です」と言われて見せてもらった体温が36.8℃でした。私にしてはちょっと高いのです。「大丈夫です」じゃないよ、と思ったのですが、よく考えたら速足で歩いてきたところでしたからそういう体温になったのだろうと気が付きました。
人間というのはほんとうに弱いものだと思います。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

源氏物語「蓬生(よもぎふ)」(4) 

末摘花は着るものとてろくなものではないのですが、あの叔母の大弐の北の方がくれたもので、これまでは毛嫌いして着ていなかったものがあったのに仕方なく着替えて几帳越しに対面します。

入りたまひて「年ごろの隔てにも心ばかり変はらずなむ思ひやりきこえつるを、さしもおどろかいたまはぬ恨めしさに、今まで試みきこえつるを、杉ならぬ木立のしるさに、え過ぎでなむ負けきこえにける」とて、帷子をすこしかきやりたまへれば、例の、いとつつましげに、とみにもいらへきこえたまはず。かくばかり分け入りたまへるが浅からぬに、思ひおこしてぞほのかに聞こえ出でたまひける。

光源氏はお入りになって、「長年のお心の隔てに対しても、心だけは変わらず思いを馳せておりましたがとくにお便りもくださらないのが恨めしくて今まであなたのお気持ちをお試ししていたのですが、三輪の杉ではありませんが木立がはっきりと見えましたので、通り過ぎることもできずに、あなたに負けてしまいました」といって几帳の帷子を少しかきやりなさると、いつものようにとても遠慮深いようすで、すぐにもお返事は申し上げなさらない。こうして露の中をかき分けてお入りなったお心が浅からぬものなので、気持ちを奮い立たせてわずかに言葉をお出しになるのであった。

また光源氏はこんなうまいことを言っています。あなたが何も言ってこないからこれまではあなたの気持ちを確かめるためにお訪ねしなかったのです。でも今日は木立を見て我慢ならずやってきたのです、って、よくもまあ、こんなことが言えるものです。しかし、こういう言い方をして相手を立てようとする、男女間の礼儀でもあったのでしょう。文中に「杉ならぬ木立」とありましたが、ここに引き歌があるのはおわかりでしょうか。「わが庵(いほ)は三輪の山もと恋しくはとぶらひきませ杉立てる門(かど)」(古今和歌集・雑下・よみびと知らず)という有名な歌があります。私の庵は三輪山の麓です。恋しく思ってくださるなら訪ねてきてください。杉の立っている門を、という歌で、『古今和歌集』では「恋」の部ではなく「雑」の部に入ることからも、本来この歌は三輪山の麓に隠棲した人が詠んだものと思われます。しかし、のちには恋しい人のいる家の目印として「しるしの杉」ということばが定着します。さらに後世には三輪明神の歌とされて、三輪山伝説とともに語られるようになります。ちなみに、『古今和歌集』ではこの歌の次に「わが庵は都の辰巳しかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」の歌が収められています。
光源氏の言葉は続きます。

「かかる草隠れに過ぐしたまひける年月のあはれもおろかならず、また変はらぬ心ならひに、人の御心のうちもたどり知らずながら、分け入りはべりつる露けさなどをいかが思す。年ごろのおこたり、はた、なべての世に思し許すらむ。今より後の御心にかなはざらむなむ言ひしにたがふ罪も負ふべき」など、さしも思されぬことも、なさけなさけしう聞こえなしたまふことどもあんめり

「長い年月このような草深いところにお暮らしだったことのおいたわしいことは並大抵ではありません。また一方、心変わりしないという私の性癖から、あなたのお心も知らないままに、こうして露を分けて入ってきた私の気持ちをどうお思いになりますか。長らくご無沙汰したのはどなたも同じことなので、あなたはお許しくださるでしょう。今後、御心に叶わぬようなことがあればお約束を違えた罪を負いましょう」などと、ほんとうはそこまで思ってもいらっしゃらないことをも、いかにも情け深いかのようにうまく申し上げなさることがあれこれあるようだ。

あなたもお気の毒だったが、私がわざわざやってきた気持ちは理解してほしい、長らくお訪ねしなかったのはどなたも同じなのだ、今後はあなたの御心に添うようにしましょう、というのですが、最後に作者は皮肉っぽく光源氏の口のうまさを書き添えています。いわゆる草子地(そうしじ)ですね。
光源氏はこのまま今夜は泊まるのかというとそうではありません。どう考えてもこの屋敷には目をそむけたくなるのです。
  藤波のうち過ぎがたく見えつるは
    まつこそ宿のしるしなりけれ
光源氏の歌です。藤が通り過ぎがたく見えたのは、その藤がかかっている松が、私を待つというこの家のしるしだったのですね。
もちろん、最後の「松がこの家の印だ」という部分は前掲の「わが庵は三輪の山もと」の歌が響いています。
光源氏は「またそのうちに『鄙の別れに衰えた』ころのお話もしましょう、あなたもご苦労話を私以外に話す人はいないでしょう」と付け加えました。「鄙の別れに衰えた」というのは「思ひきや鄙の別れに衰へて海人(あま)の縄たき漁(いざ)りせむとは」(古今集・雑下・小野篁)によります。この篁の歌は隠岐に流されたときのもので、「思いもよらなかった、人と別れて田舎暮らしでおちぶれて、海人として釣り縄を操って漁をするようになろうとは」という意味です。
末摘花はそれに対して
  年を経てまつしるしなきわが宿を
    花のたよりにすぎぬばかりか
長い年月を経てあなたさまをお待ちしたかいもない私の家を花のついでに立ち寄られただけですか、と返しました。
明るい月が差し込むために家の中が見えるのですが、光源氏はそれを見て、荒れた外回りに比べて風雅を保っていることに感心します。自分もこの人もつらい日々を送ったのだと思うと、共感も覚えます。かねてから末摘花の魅力だと思ってきた奥ゆかしいところは今も変わりなく、よけいにいじらしい気持ちにもなるのです。
もし、あの「末摘花」巻の滑稽とさえいえる描写を思い出さなかったら、この再会の場面はなかなかいい感じではないでしょうか。
確かに、前回読みましたように、作者は末摘花の悲嘆の日々を描くに際して「山人の赤き木の実ひとつを顔に放たぬ」などと、彼女の容貌の醜さを描きました。
しかしここではむしろ、叔母に嫌がらせを受けつつも、苦しい生活にじっと耐えてきた、上品で奥ゆかしいシンデレラ(は、言い過ぎかも・・)のような姫君の姿すら浮かんできます。光源氏自身が感じているように、ふたりとも離れ離れではありながら、悲劇的な時間を共有してきたのです。今こうして荒れ果てた屋敷に同座して、この人を見棄てるわけにはいかない、という気持ちが強まったのではないかと思われます。
花散里という人も、容貌という点ではほかの女性たちに劣るのです。それでも光源氏は彼女を頼りにして夕霧の親代わりとして六条院の夏の町に住まわせるほどの待遇をしました。末摘花はそこまではいかないにしても、その古めかしさや容貌の醜さをからかわれていた「末摘花」巻とは異なった、新しい光源氏との関係が成立するように感じられるのですが、皆さまはいかがお感じでしょうか。
このあと、光源氏は人を遣わして末摘花の屋敷を修理させ、庭もきれいに手入れさせました。「近く、あなたのお住まいを作らせるので、女童などをお探しになっておかれよ」とまで言ってもらって、末摘花の女房たちは感激で光源氏の屋敷の方を拝むのでした。こうなると人の心は現金なものです。かつて末摘花を見限った女房たちも、われさきにと戻ってくるのです。末摘花は二年ばかりこの屋敷にいた後、二条院の東に建てられた屋敷(二条東院)に移りました。光源氏は対面することはなかったのですが、それでも何かの折にはこちらに顔を出したりもして、それなりの扱いをするのです。あの大弐の妻(末摘花の叔母)が都に戻ってびっくりしたこと、乳母子の侍従がもう少し我慢すべきだったと反省していることなどを付記して、「蓬生」巻は閉じられます。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

10万円 

COVID-19による生活の圧迫を緩和する意味もあって、政府は税の再配分(?)としてひとりあたり10万円を戻すことを決めたそうです。
世界各国でもおこなわれていることらしく、少しでもつらさから立ち直れますように。
財務省の役人さんが札束をもって全国を行脚して「ピンポン、10万円です。印鑑お願いします」というのかと思ったら、さすがにそうではなさそうです。世帯主に一括して振り込むようで、世帯主の私としては大儲けのような気もするのですが、たぶん手元には1円も残らないでしょう(笑)。私が持っていても使わないので、有効活用してもらいます。
現金の再配分でなく、

    消費税

をしばらく0にするのはどうかと言っていた人もいました。しかしそうなると、大金持ちで月に何百万円も使うような人には利益が大きいでしょうが、私のようにほとんど消費しない者にとってはありがたみが少ないかな、とも思います。
びっくりしたのは、県の職員に渡される10万円を県のCOVID-19対策に使うと言い出した知事がいたことでした。全然意味がわかりませんでした。どういう発想をしたらああいうことが言えるのだろうと不思議に思いました。「そんな

    端金(はしたがね)

はいらない」という大金持ちの方は、受け取らないか、そのまま寄付すればいいのだと思います。
もし私が、「今日中に使わないと消えてしまう、しかも赤字の補填とか(笑)生活必需品に使ってはいけない10万円」があるとしたら、さてどうしようかな。
少し考えてみたのですが、なさけないことに、欲しいものがありません。ミニトマトの苗と野菜鉢と培養土を買っても1500円くらいだし(笑)。いっそのこと、ちょっとした医療機器を買おうかな。経皮的動脈血内酸素飽和度や脈拍を計測する

    パルスオキシメーター

というのがあるのですが、これは日々の健康管理に役立つので、あればいいな、とかねてから思っていました。しかし、安いもので7000円くらい、いいものだと数万円するので手が出なかったのです。あぶく銭の10万円があるなら、これだと何となく「使った!」という感じの金額になります。2万円の高級品を買うとして、あと8万円。・・・やっぱり思いつきません・・・。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

ブックカバー 

あれこれすることが多くて、Facebookをあまり熱心に見ていません。それでも一日に数回見ているのは、Facebookではときどきタグ付けをされたり、記事の中に名前を入れられたりするので、知らん顔をするのはやはり失礼だろうと思うからです。
先日、やはりタグ付けされていたのですが、それは

     ブックカバーチャレンジ

という、どなたかがはじめられた企画だそうです。なんでも、ブックカバーを7日間毎日1冊ずつ紹介して、そのたびにどなたかに引き継いでいただく、というもので、これが順調にいけば1人から毎日1人、つまり7日で7人増えることになり、いろんなブックカバーが紹介されるというもののようです。別に断ってもいいわけで、また次の人に引継ぎをお願いしなくても文句を言われるわけではありません。私はそこまでルールを知らなかったものですから、引継ぎのお願いはせず、7冊の紹介だけをすることにしました。
毎日、というのはなかなか難しく、サボった日もありましたが、あくまでブックカバーの紹介ということにして、中味についてはあまりとやかく言いませんでした(ほとんどの方はカバーは話題にせず、内容紹介を中心になさっていました)。私がお世話になった本はいろいろありますが、概してそういう本は堅苦しくて、カバーなんてついていなくて、ついていても

    味もそっけもない

ものが多く、紹介できませんでした。
きれいな表紙のもの、しゃれたデザインのもの、工夫を凝らしたものなど、書架から取り出しては、これはどうかな、と考えるのはなかなか面白いものでした。
私が紹介したのは次の7冊でした。
  松平盟子『プラチナ・ブルース』
           (砂子屋書房)
  広谷鏡子『恋する文楽』
        (洋泉社、筑摩書房)
  竹本綱大夫『かたつむり』
            (布井書房)
  紙芝居文化の会『紙芝居百科』
             (童心社)
  田中優子『江戸の想像力』
            (筑摩書房)
  朧谷寿『藤原道長』
         (ミネルヴァ書房)
  豊竹呂太夫『文楽 六代豊竹呂太夫』
             (創元社)

       ※竹本綱大夫は八代目
       ※豊竹呂太夫は六代目

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

閑散とした病院 

COVID-19の影響で大変な状況になっている病院があるようです。私の教えた人で看護師さんがたくさんいるのですが、不安いっぱいで仕事をしている様子がしばしばツイッターに上がってきます。
精神的に落ち込むことがあると思うのですが、こういうときにこそ大学で語り合った

    教養がものを言う

かもしれませんよ。何も手助けはできませんが、あなたがた自身が参ってしまわないようにと祈るばかりです。
私が通っている病院は、個人経営でさほど大きなところではありませんが、それなりのベッド数を持っています。しかし、今のところ、COVID-19の患者さんはいないはずで、まだ落ち着いている方だと思います。前回行ったときは、待合も閑散としていて、みんな、どこへ行っちゃったんだろう、と思うくらいでした。診察のあと「次回診察は1回飛ばします」と言われました。なるほど、そうやって受診者数を減らし、感染防止対策にしているのですね。病院は病気治療の場ではありますが、下手をすると病院に行ったがゆえに感染するということもあり得るので、さほど症状が悪いのでなければ、行かない方がいいのですね。
私の主治医は

    呼吸器の専門医

ですが、感染症の専門ではありません。しかし、この病院ではもっともCOVID-19に関しては詳しいでしょうから、いざとなったら対応しなければならないのだろうと思います。ご苦労様です。
私は、もし感染したらほかの人よりも命にかかわる可能性が高いので、これからしばらくは病院に行く回数も減らしつつ無理をしないようにしていたいと思っています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

源氏物語「蓬生(よもぎふ)」(3) 

『源氏物語』で夏の似合う女性というと花散里です。のちに六条院の夏の町に住むこともそうなのですが、実は彼女が物語に顔を出す季節は夏が多いのです。彼女が最初に登場する「花散里」巻は五月雨の晴れ間のころでした。そもそも「花散里」ということばは「橘の花が散る里」という意味ですからまさに夏の人なのです。
光源氏二十九歳の初夏、四月のことです。数日来雨が降り続いたあとで、まだ少し降っているのですが、やがて月も出てきました。光源氏は花散里を訪ねようと出かけるのです。そのとき、ひどく荒れた屋敷の前を通りかかります。
この、別の女性のところに行こうとしたときに荒れた屋敷に出会うという形は、「若紫」巻で光源氏が六条の女性(六条御息所を思わせる)のところに出かけようとしたときに、
  荒れたる家の、木立いともの古りて、木暗う見えたるあり
と、北山の尼君(紫の上の祖母)の暮らす家を見つける場面とも似ているように思えます。このときはこの邸にまだ幼い若紫(後の紫の上)がいましたので、このたびもまた魅力的な人のお屋敷なのでしょうか。

形(かた)もなく荒れたる家の、木立(こだち)茂く森のやうなるを過ぎたまふ。大きなる松に藤の咲きかかりて月影になよびたる、風につきてさと匂ふがなつかしく、そこはかとなき香りなり。橘にかはりてをかしければ、さし出でたまへるに、柳もいたうしだりて、築地(ついひぢ)もさはらねば、乱れ伏したり。

見るかげもなく荒れた家で、木が茂って森のようなところを通り過ぎられる。大きな松に藤が咲いてまとわりつき、月の光の中でなよなよとしているのだが、それが風に乗ってさっと匂って来るのが好ましくて、ほのかな香りがする。橘とは違った趣があるので、車から顔をお出しになると、柳もたいそう長く垂れて築地も邪魔にならないので乱れかぶさっている。

初夏の雰囲気のよく表れた描写ですね。松に藤がまとわりついて咲くのは初夏の風物として愛されました。『枕草子』「めでたきもの」の段にも「色あひ深く花房長く咲きたる藤の花、松にかかりたる」とあります。その藤の香りが風に乗ってくるのです。その次に「橘にかはりて」とありますが、これはおそらく花散里のイメージなのでしょう。前述のように「花散里」の呼び名は橘の花と関わりがあるわけで、「花散里と言えば橘だが、それとはまた違った風情がある藤の香りだ」という気持ちになって光源氏は車から顔を出すのです。築地(土塀)が邪魔にならないのは、崩れているからです。それほどにみすぼらしい屋敷なのです。『枕草子』「人にあなづらるるもの(人にばかにされるもの)」の段にも「築地の崩れ」がその代表として挙げられています。

車から顔を出した光源氏は、この屋敷に見覚えがあると思うのですが、それもそのはず、ここは末摘花の屋敷だったのです。光源氏はさっそく惟光に命じて末摘花が今もここにいるかを尋ねさせます。惟光が邸内に入って様子をうかがうのですが人のいる様子がありません。やはり誰もいないのだ、と思った惟光が帰ろうとしたとき、月の光が明るく射したので改めて見直すと人がいるようです。惟光は人がいることが不気味に感じられたのですが、ともかく咳払いをして名を名乗り、「侍従に会いたい」と言います。「侍従はここにはいませんが、同じように思っていただいてよい者がおります」と答えるその声は確かに聞き覚えのあるものでした。

内には思ひもよらず、狩衣姿なる男、忍びやかに、もてなしなごやかなれば、見ならはずなりにける目にて、もし狐などの変化(へんげ)にやとおぼゆれど、近う寄りて「たしかになむ承らまほしき。変はらぬ御ありさまならば、たづねきこえさせたまふべき御心ざしも絶えずなむおはしますめるかし。今宵も行きすぎがてにとまらせたまへるを、いかが聞こえさせむ。うしろやすくを」と言へば、女どもうち笑ひて「変はらせたまふ御ありさまならば、かかる浅茅(あさぢ)が原をうつろひたまはでは侍りなむや。ただ推し量りて聞こえさせたまへかし。年経たる人の心にもたぐひあらじとのみめづらかなる世をこそは見たてまつり過ごし侍る」と、ややくづし出でて問はず語りもしつべきがむつかしければ、「よし、よし、まづはかくなむ聞こえさせむ」とて参りぬ。

邸内では、思いがけずも狩衣姿の男が人目を避けるようにして、物腰も柔らかな様子なので、すっかりこういう人を見馴れなくなってしまった目には、ひょっとして狐などの化けたものではないかと思われるのだが、近くによって「たしかなことを承りたいのだ。昔と変わらないありさまでいらっしゃるなら、お訪ね申し上げなさろうというお気持ちも、常にお持ちのようなのだよ。今夜も通り過ぎにくくお思いになってとどまりなさったのだが、どのように申し上げようか。安心しておっしゃってください」と言うので、女たちは少し声を立てて笑って「お変わりになっていらっしゃるのであれば、このような浅茅の生い茂ったところをお移りにならずにいらっしゃるものでございましょうか。ただご推量の上で申し上げなさってくださいな。年老いた私の気持ちとしましても、ただもう類がないだろうと思われるお暮らしを拝見して過ごしているのです」と、話し出して、問わず語りも始めそうなのが厄介なので「わかった、わかった、まずはこのようなことですと申し上げよう」といって源氏のところに参った。

惟光の訪問に対する老女房の反応がおもしろいです。狩衣姿の男なんて、まず見ないので狐ではないかしらと疑っています。いかに世離れしているかがよくわかります。この巻の初めに、この屋敷の様子を「もとより荒れたりし宮の内、いとど狐の住み処になりて」とありましたが、まさにそのとおりに女房は感じたのです。惟光が「光源氏は今もお忘れにはなっていない」とやや粉飾気味の答えをすると、女房たちは「うち笑ひて」と声をあげるのです。この「笑ひ」はどういう笑いでしょうか。狐の変化どころか、あの光源氏の家司(けいし)である惟光が、まちがいなく光源氏の思いを伝えているのだと知って、安堵と喜びのあまりにお互い顔を見合わせて「よかった!」と笑ったのでしょう。唐突なのですが、私はこの場面から『伴大納言絵巻』の一場面を思い出しました。放火の疑いを掛けられた左大臣源信(みなもとのまこと)が無実であるとの吉報が伝わり、女房たちが喜び合う場面があるのです。手を打つ者あり、天を仰ぐ者あり、おそらく誰もが喜びの声をあげていると思われる場面です。

2020042812534110b.jpeg

↑伴大納言絵巻 中巻

老女房は、いかにみじめな暮らしをしてきたかを語りだします。問わず語りを始められては収拾がつかないと思った惟光は光源氏に事情を話しに行きました。講座に出てくださっている方は、『橋姫』巻で、薫が話し相手にしていた弁の君という老女房のことを「年寄りだから問わず語りをしかねない」と言っていたことを覚えていらっしゃるでしょうか。どうも高齢になると問わず語り癖が出ると思われていたようですね。
なお、この老女房はあの大宰府に行ってしまった侍従の叔母の「少将」という女房でした。
惟光が光源氏に事情を話すと光源氏は「どうしたものだろう、こういう機会でもないと立ち寄ることはできないだろうが、それにしても入りにくい家だ」と躊躇するのです。惟光は、「蓬の露けさが足を踏み入れられないようなありさまですから、露を払わせてからお入りください」と言います。光源氏は「たづねてもわれこそ問はめ道もなく深き蓬のもとの心を(尋ね求めてでも私は訪問しよう。道もなく、深く茂った蓬の家の昔に変わらぬ心なのだから)」と独り言のように口ずさんでから車から降りるのです。入ろうかな、どうしようかな、と思う心を自ら奮い立たせるような歌のように見えます。喜んではいる、という感じではないのですね。
惟光が馬の鞭で露を払い、そのあとに光源氏が続いて入って行きます。
この場面は『源氏物語絵巻』に描かれ、今も徳川美術館に伝わっています。

202004281238358b6.jpeg

↑源氏物語絵巻蓬生

この絵は右端に老女房の姿が描かれ、御簾などもかなり古びています。老女の顔はいかにもやせこけた様子です。簀子はところどころ壊れていて、よく見ると草まで生えています。修理する者もいないのでしょう。そして画面左端には対照的な人物として光源氏の姿があり、その前を惟光が鞭で露を払っている様子が描かれています。光源氏には褄折傘(つまおりがさ)がさしかけられていますが、これを持っているのは彼の後ろにいるはずの供の者です。左上に藤の花のかかった松の木があるのですが、その葉から雨の雫が落ちるのを避けるためでしょう。顔料がすっかり落ちていて、全画面セピア色に見えますが、加藤純子さんによる模写によると、画面右半分はセピアのような感じなのですが、光源氏と惟光のすがたはさすがに優美です。そしてその両者の間には庭の草がめいっぱい描かれています。なお、加藤さんの模写は著作権が気になりますので、このブログには上げません。
庭は本来緑青で描かれているのです。光源氏の装束は烏帽子直衣。惟光は狩衣です。露を払う惟光はもちろん、光源氏の視線も下を向いていることから、荒れ果てた庭をかろうじて歩んでいく様子が感じられるでしょう。この日は、雨のあと月が差し込んでいるのですが、それは末摘花の「雨」のようなつらい生活に光源氏という「月」が訪れることの象徴のようでもあります。

2020050711371572a.jpeg

土佐光吉ほか『源氏物語画帖』「蓬生」

この絵では、松にかかる藤や雲間の月なども見えます。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

4月のニンニク 

長丁場のニンニク栽培もあと一か月。
私がニンニクを作ろうと思ったのは、源氏物語の講座にいらっしゃっている方が、2年前に「家で作ったから」と立派なニンニクをくださったからです。
何でも真似をしたがる(笑)私は、その秋からチャレンジしました。それは昨年の6月ごろに収穫しましたが、やや小ぶりで何がいけなかったか、反省材料もできました。
そして昨秋植えたものが、ここまではまずまず順調に育ってきました。
4月末になると

    花芽

が出るはずなので楽しみに待っていましたら、葉だと思っていたものの中ほどが色が違って、ぷっくりと膨らんできました。

202005020912395c1.jpeg

↑ニンニクの花芽

間違いありません、花芽です。いわゆる董立ちですね。
これはは放っておくと当然花が咲きます。しかし咲かせると肝心の地中のニンニク球が太らないのだそうで、抜いてしまいます。
これがスーパーなどに売っている

    ニンニクの芽

で、食べられます。炒め物にするか、スープに浮かべるか。さて、ニンニク栽培はいよいよ終盤。
今年はどんなのができるかな。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

プロだからといって 

COVID-19が話題になり始めたころ、何人もの医者が「あれは風邪みたいなものだ」とか「インフルエンザほどの感染力はない」とか「致死率は低い」とか、安心させようと思ったのかもしれませんが、ネット上でずいぶん楽観的な情報が流れていたことがありました。
また医者から聞いた話として同じようなことを言う人も少なくなかったのです。私もついそれを信じて、甘く見ていたことがありました。
プロの言うことだからといって必ずしも信用できるわけではないのですね。そりゃそうです。医者と言っても

    感染症の専門家

ばかりではありません。また、専門家であってもであったことのないウイルスの正体をそんなに簡単に見極められるものではないでしょう。
SNSがあっという間に情報を伝えてしまいます。玉石混交の情報です。
このブログでも書いたはずなのですが、私も去年の3月に、ちょっとしたことを学生向けにツイートしたら、1万6千回以上リツイートされて、「いいね」が3万7千以上ついたことがありました。ウイルスの増殖みたいな気がしたものです(といったら、「いいね」をしてくださった方に失礼ですね。すみません)。あげくには見も知らぬ人からああだこうだと(笑)細かいことを指摘されてほんとうに閉口しました(結局、それ以上リツイートされるのが嫌で削除してしまいましたが)。
ひょっとすると、COVID-19について「たいしたことはない」とつぶやいていた医者の中には、私と同じように、親しい人に過剰な心配をかけたくないという気持ちでつい書いてしまった人もいたかもしれません。
何万回もリツイートされると、それはもうつぶやきではなく、多くの人に聞こえる

    大音声

になります。
私のような無名の学校教員が大音声を挙げると「またこいつ、馬鹿なことを言って」で済まされるでしょうが、知名度のある人が言ったことばであれば下手をすると間違ったことまで信じてしまう人がいます。綸言汗のごとし。覆水盆に返らず。一度出てしまった言葉は取り返せません。
昨日書いたような「正義の剣闘士」が「こうだ!」と言ったら、メディアが批判もなしに飛びつき、大衆に「そうだ、そうだ」と言わせる。こういう無批判は、はなはだ危険だと思います。
プロだからといって、正しいことを言うとは限りません。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

剣闘士 

何ごとにも意気地なしの私は血なまぐさいのが苦手です。
古代ローマでは闘技会というのがあり、ずいぶん血なまぐさいことが行われたようです。獣(ライオン、豹、象、熊など)を殺したり、罪人を殺したりして、メインイベントとしてグラディアトル(剣闘士)による闘いがあったようです。
大相撲のように最初は格下の者が登場し、次第に著名なグラディアトルが出てきたといわれます。以前、ジェロームの「指しおろされた親指」という絵を見たとき、少なからぬ戦慄を覚えました。

20200504083358749.jpeg

↑ジェローム「指しおろされた親指」

剣闘士が、闘いの相手を踏みつけていて、観客にこの男をどうすればよいかを問うているのです。親指を上げる(サムアップ)か、下げる(サムダウン)かによって、あわれ、この人物の

    運命は決まってしまう

のです。サムアップすると「殺せ」の意味だとも「救ってやれ」の意味だとも言われ、私にはどちらかよくわかりません。ジェロームの絵では、観客はサムダウンしているのです。さて、踏みつけられている男は助かるのか、殺されるのか。

闘牛というのも残虐ですし、イギリスでは熊いじめというショーのようなことがありました。

今の日本でこういうことが行われるとは考えられませんが、似たようなことはあると思うのです。
最近、関西のテレビではCOVID-19への対処をめぐって、

    大阪はすごい

の大合唱をしていると噂に聞きました。私はテレビを観ないのでよくわからないのですが、ほんとうにそんな状況なのでしょうか。今、大阪を牛耳っている政治家たちはわざと相手を怒らせて、相手が頭に血が上ったところで揚げ足を取るようなことを言い、ニヤニヤと勝ち誇った顔をする、という手法をとってきました。これはやくざな法律家のすることです。
私には、しばしば彼らが

    横綱級の剣闘士

に見えてしまうのです。かつてオーケストラや文楽への補助金をなくすと言ったときも、反論する人たちを踏みつけて、観客にサムアップかサムダウンを求める。熱狂する観客はいっせいに「殺せ」の合図を送る。メディアはろくに批判もせずにそのショーを流す。
ウイルスに立ち向かう「正義の剣闘士」たちに喝采を送れば視聴率が稼げるということなのかもしれませんが、ほんとうにそういうことがおこなわれているならぞっとしてしまいます。冷静に批判していくことが本来のメディアの仕事ではなかったのか。蔓延しているのはウイルスだけではないようで、不安になります。
大阪は古代ローマのレベルになっていないか、疑ってしまいます。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

源氏物語「蓬生(よもぎふ)」(2) 

光源氏が都に戻ってきました。世の中は歓喜の声で大騒ぎです。光源氏の不遇の時期には見向きもしなかった人々ですが、こうなると調子のいいもので、また光源氏に追従(ついしょう)するのです。こういう人間心理も『源氏物語』はさりげなく書きますね。
末摘花は、光源氏の無事の帰京を喜びつつも、自分は他人事として聞かねばならないことを残念に思って人知れず声を上げて泣くばかりなのです。
前回の最後に触れた、末摘花の叔母である、太宰大弐の北の方は「それみたことか。こんな落ちぶれた人を、光源氏が一人前に扱ってくれるはずがないではないか。いつまでも過去にこだわっているのは高慢で気の毒なほどだ」と思って、末摘花になおも大宰府に同行するように勧めます。
女房たちももはや憔悴していますから、「おばさまのおっしゃるようにしていただきたい」と願っています。
しかし当の末摘花は相変わらず心のどこかで光源氏に期待しているのです。この人の性格が伺われます。
原文をあげます。

御心のうちに「さりとも、あり経ても思し出づるついであらじやは。あはれに心深き契りをしたまひしに、わが身は憂くて、かく忘られたるにこそあれ、風のつてにても、我かくいみじきありさまを聞きつけたまはば、かならず訪らひ出でたまひてむ」と、年ごろ思しければ、おほかたの御家居も、ありしよりけにあさましけれど、わが心もてはかなき御調度どもなども 取り失はせたまはず、心強く同じさまにて念じ過ごしたまふなりけり。

お心の中では「いくら何でも、時の経つうちに思い出してくださる機会のないことがあろうか。しみじみと心からの深いお約束をなさったのだから、わが身はつらくて、このように忘れられているが、風の便りででも、私のこのようなひどい暮らしぶりをお聞きつけになったら、きっとお見舞いにおいでくださるだろう」と、年来お思いになっていたので、お住まい全体も以前よりいっそうあきれるほどの荒れ方だが、自身の考えで、ちょっとした調度類なども散逸させずに、辛抱強く同じようにこらえてお過ごしになっているのであった。

とにかくこの人は辛抱強いのです。かたくなと言ってもよいくらい、我慢に我慢を重ねてそれでもなお光源氏を待ち続ける、いじらしさがあります。しかし周りの女房から見ると、世間知らずのばかげた人にも見えるのです。
作者はこのように、いじらしいまでの末摘花を描くのですが、その直後にはこんなことも書いています。

音(ね)泣きがちに、いとど思し沈みたるは、ただ山人の赤き木の実一つを顔に放たぬと見えたまふ、御側目などは、おぼろけの人の見たてまつりゆるすべきにもあらずかし。詳しくは聞こえじ。いとほしう、もの言ひさがなきやうなり。

普段から声をあげて泣いていて、いっそう悲しみに沈んでいるのは、ちょうど山人が赤い木の実一つを顔から放さないようにお見えになる。横顔などは、普通の人ならこらえてでも拝見できないようなお顔立ちなのである。詳しく申し上げますまい。そんなことをしたらお気の毒で、口が悪いようです。

まったくひどいことを書きますね(笑)。「赤い木の実」は彼女の鼻です。「詳しくは言いますまい」なんて今さら遅いですよね。「口が悪いようです」って、十分悪いですね。

末摘花の兄に「禅師(ぜんじ)の君」という僧がいます。この人は、光源氏が催した亡き桐壷院のための追善の法会にも参加したのです。そして禅師の君はその帰りに末摘花を訪ね「すばらしい法会でした。この世の極楽のようでした」などと言って帰ります。そこにやってきたのはあの叔母(大弐の北の方)でした。
末摘花にの乳母子(めのとご)に侍従という者がいました。叔母は、この人を筑紫に連れていくというのです。そしてなおも末摘花に「源氏の君がこの屋敷を手入れしてくださるならともかく、あの方は二条の君(紫の上)に夢中でいらっしゃるので、あなたのところにおいでになることはないでしょう」といって筑紫下向を迫るのですが、彼女は頑として拒みます。しかし末摘花は叔母の言うこと(光源氏が来ることはないということ)は事実だとも思うのです。侍従は別れを悲しむものの、自分の身の上を考えると筑紫に行くのが幸せだとも感じているようです。末摘花は「この人までが自分を見捨てて行くのかと思うと、恨めしくも悲しくも感じます。

形見に添へたまふべき身馴れ衣もしほなれたれば、年経ぬるしるし見せたまふべきものなくて、わが御髪の落ちたりけるを取り集めて鬘にしたまへるが、九尺余ばかりにていときよらなるを、をかしげなる箱に入れて、昔の薫衣香(くぬえかう)のいとかうばしき、一壺具して賜ふ。

形見として与えるべき着馴れた衣も垢じみているので、長年世話をしてくれたことへの報いとする物がなくて、ご自分の髪の抜け落ちたのを集めて鬘になさっていたものが、九尺あまりの長さでたいそうみごとなので、風流な箱に入れて、昔の薫衣香のたいそう香ばしいのを、一壷添えてお与えになる。

自分を置いていく侍従が恨めしくはあるものの、末摘花は人が良くて、何とか形見の品を与えようと思うのです。そして抜け落ちた髪を集めて鬘にしたものを贈るのですが、これがなんと270㎝以上あるというのです。末摘花は、容貌は作者からもけなされるほどでしたが、とても美しい髪の持ち主でした。

絶ゆまじき筋を頼みし玉かづら
   思ひのほかにかけ離れぬる
故(こ)ままの、のたまひ置きしこともありしかば、かひなき身なりとも、見果ててむとこそ思ひつれ。うち捨てらるるもことわりなれど、誰に見ゆづりてかと、恨めしうなむ」とて、いみじう泣いたまふ。

あなたとの関係は絶えることがないものとあてにしていたのに、思いがけず離れてしまうのですね。
亡き乳母の遺言もあったので、ふがいない私の身の上であっても最後までお世話してくれると思っていました。見捨てられるのも道理ですが、誰に世話をしてもらおうかと恨めしくて」といって激しくお泣きになる。

乳母子は幼いころから一緒に育ってきた関係なので、姉妹のような心やすさもあるはずです。その乳母子に見捨てられることを末摘花はひどく悲しむのです。なお、「故まま(亡き『まま』)」ということばがありましたが、「まま」というのは乳母のことを指したのです。今でも母親のこと外国ふうに「ママ」ということがありますが、日本でも昔から乳母のことは「まま」と言っていたのです。赤ん坊が最初に出す言葉らしき声は世界共通で「むまむま」でしょうから、これが赤ん坊にとってもっとも身近な人を指す言葉になるのは自然と言えるでしょう。

侍従は返事をします。

「ままの遺言は、さらにも聞こえさせず、年ごろの忍びがたき世の憂さを過ぐしはべりつるに、かくおぼえぬ道にいざなはれて、遥かにまかりあくがるること」とて、
玉かづら絶えてもやまじ行く道の
    手向の神もかけて誓はむ
命こそ知りはべらぬ」などいふに

「乳母の遺言は、まったく申し上げるまでもなく、長年の、耐えがたいようなつらい世を過ごしてまいりましたが、このように思いがけない道に誘われて、遥か遠くにまいりますこと」と言って、
「離れ離れになってもお見捨てはいたしません手向けの神(道祖神)にかたく誓いましょう。
命はどうなるかわかりませんが」などというと

侍従はこうして去ってしまいます。末摘花は頼みの綱の乳母子に去られて、どうなるのでしょうか。
こうして年が改まりました。光源氏二十九歳の年です。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

暴言 

私は、インフルエンザなどの感染症が怖いので、以前から手の清潔には神経質になっていました。インフルエンザに罹ると呼吸器がひどく苦しくなり、全身に悪影響が出ます。以前、何度かそういう目に遭ったことがありますので、インフルエンザに関しては予防接種もしていました。それと並行して、とにかく手洗いをすることを心掛けると、もう何年もインフルエンザに罹ってはいません。そのうちに通っている病院がインフルの予防接種をしなくなったのに伴って、私もやめるようになりました。それでも、まるで罹患することはありません。やはり手洗いの効果はすごいのだろうと思ったものです。
それで、その後も一日に何度も手洗いはする習慣がつき、いきおい、

    ハンドソープ

が必需品になってきたのです。ところがこのたびの騒ぎで品切れが続いています。いつ、どこに行っても、棚はからっぽ。ため込んでいる人もいるのでしょうが、私の手元のものはもうすぐなくなってしまいます。今日もまたドラッグストアなどを訪ねるつもりですが、だめだろうなぁ。
こうして、何とか自分や家族の身を守りたいと思って、私だけでなく、誰もが神経質になってピリピリしている昨今です。ハンドソープにしてもマスクにしても、品切れの棚を見るたびにいらだつ気持ちはわからなくもないのです。しかし、だからといって、店員さんに

    当たり散らし

て暴言を吐いても、なんの意味もありません。
ところが、稀にそういうことをしたり、ちょっとした暴力的な行為(商品を投げるとか、レジカウンターをこぶしで殴るとか)に及んだりする人もあるのだとか。人間というのがいかに弱いものかということを感じないわけにはいかないのです。
スーパーでも、誰もが険しい顔をしているような気がします。隣に立っている人が刃物でも持っているのではないかと疑っているような、そんな顔つきの人もいます。

(追記)今、ドラッグストアから帰ってきました。ハンドソープ、珍しく3つ残っていたので、ひとつ買ってきました。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう