蘇民将来
日本史や日本文学を勉強する者にとってとても重要な叢書に『国史大系』があります。今用いられているのは『新訂増補 国史大系』というもので、私も頻繁にお世話になっています。
『延喜式』とか『本朝世紀』とか『政事要略』とか、とにかく多くの資料が入っています。『公卿補任』『尊卑分脈』などは眺めているだけでも面白いものです。
その『国史大系』第8巻に『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』があり、その巻七に『備後国風土記』の逸文(失われた本の一部がほかの本の中で引用されて残っているもの)があります。
あるいはご存じの方もたくさんいらっしゃるかと思うのですが、
蘇民将来
の話です。舞台となるのは、広島県福山市にある素戔嗚(スサノヲ)神社といわれます。
北の国の武塔(むたふ)の神が南の海の神の娘に求愛するために出かけたのですが、日が暮れてしまいました。そこに兄弟がいました。兄の蘇民将来はとても貧しく、弟の将来(「将来」の意味はよく分かりません)は富裕でした。そして武塔の神が宿を求めたところ、弟は惜しんで貸さず、兄の蘇民将来が貸しました。蘇民将来は粟殻の座を用意し、粟飯をふるまいました。どちらも粗末なものです。そして武塔の神は出発して何年もたってから、八柱の子を連れて戻ってきました。武塔の神は蘇民将来に向かって、「あなたにお礼をしよう。あなたの子孫はこの家にいますか」と尋ねました。蘇民将来が「答えて言うには「娘と妻がいます」。すると武塔の神は
「茅の輪
を腰の上に着けさせなさい」と言いました。そのとおりにすると、その夜、蘇民将来の家族を除いて武塔の神はことごとく殺してしまいました。そして言ったのです。「私は速須佐男(ハヤスサノヲ)の神である。後世に疫病があったとき『蘇民将来の子孫』と言って、茅の輪を腰に着けた人は疫病を免れるであろう」と。
茅の輪を腰に着けろと言っていますから、くぐるわけではありません。しかし、このように茅の輪と疫病が古くから結び付けられていたことが想像されます。
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源氏物語「薄雲」(5)
本日も『後拾遺和歌集』雑四の続きを掲載します。
手違いがあり、今回に限り2枚あります。
お読みになってください。
また次回に読み方を書きます。
今なら血液型はもちろん、DNA鑑定とかいうものもあって、自分の父親が誰か、というのは科学的にわかるようになっているのでしょう。しかし、昔の子どもにとっては、いつの間にか顔を覚えた人が自分の父親であり母親であるわけですから、実の親というのは確信を持っては分からないわけです。冷泉帝は、光源氏に似ていると言われてきたことは間違いありませんが、兄弟だから似ているのだと思っていたでしょう。しかし、その兄であるはずの人が実は父親であると夜居の僧都に聞かされた時の驚きは大変なものでした。だからと言ってこんなことは安易に誰に確認することもできません。ひそかに聞けるとしたら僧都が語っていた王命婦だけかもしれないのです。
上は、王命婦に詳しきことは、問はまほしう思し召せど、今さらに、しか忍びたまひけむこと知りにけりとかの人にも思はれじ。ただ大臣にいかでほのめかし問ひきこえて、先々のかかる事の例(れい)はありけりやと問ひ聞かむ、とぞ思せど、さらについでもなければ、いよいよ御学問をせさせたまひつつ、さまざまの書(ふみ)どもを御覧ずるに、唐土(もろこし)には、あらはれても忍びても、乱りがはしき事いと多かりけり。日本にはさらに御覧じ得るところなし。たとひあらむにても、かやうに忍びたらむことをばいかでか伝へ知るやうのあらむとする。一世の源氏、また納言、大臣になりて後に、さらに親王(みこ)にもなり、位にも即(つ)きたまひつるも、あまたの例ありけり。人柄のかしこきにことよせて、さもや譲りきこえまし」など、よろづにぞ思しける。
帝は、王命婦に詳しいことを尋ねたいとお思いになるのだが、今さら、あのように母宮が秘していらっしゃったことを知ってしまったとこの女房にも思われるまい。ただ源氏の大臣になんとかしてほのめかし申し上げて、先々のこのようなことの例はあったのかどうかを尋ねてみようとはお思いになるのだが、まったくそういう機会もないので、ますます御学問をなさって、さまざまの書籍を御覧になると、唐土には、表にあらわれたものも、秘匿されたものも、乱れたことがとても多いのであった。日本には調べのおつきになることはなかった。たとえあったとしても、このように秘したことは、どうして伝え知ることができるだろうか。一世の源氏が、また納言や大臣になったあとであらためて親王にもなり、即位もなさったことも多くの例があった。源氏の大臣の人柄のすぐれていることを口実に、その例のように位をお譲りもうしあげようか
など、あれこれお考えになった。
かつて「若紫」巻で光源氏を藤壺のところに導いたのが「王命婦」という女房でした。秘密を話した僧都がこの女房の名前を出したことで、帝は彼女に事実を確認したい思いに駆られます。しかし秘密を知ったことを知られたくないとの思いから自重しています。光源氏にも話を聞きたいとは思うもののそういう機会がなく、帝は一人で文献に当たって血筋の乱れや一世源氏(天皇の子で源氏になった者)が親王に復帰したり即位したりした例を調べます。
血筋の乱れに関しては、中国で頻繁に起こっていました。たとえば、『史記』「后妃伝」によれば、秦の始皇帝は王の子として位に即(つ)きましたが、実は彼の母が臣下と密通して生まれたとされます。それに対して、日本ではその例を見ないというのですが、陽成天皇は在原業平(平城天皇の孫)と藤原高子の密通によって生まれた、という伝承がある(『伊勢物語』に由来する)など、史書には出てこない秘密の関係は当時も伝えられていた可能性があります。一世源氏が臣下になりながら親王に復帰して即位した例としては、光孝天皇、宇多天皇などが挙げられます。これらを総合的に判断して、帝は光源氏に譲位することは可能だと思うのです。
秋の司召に太政大臣になりたまふべきこと、うちうちに定め申したまふついでになむ、帝、思し寄する筋のこと漏らしきこえたまひけるを、大臣いとまばゆく恐ろしう思して、さらにあるまじきよしを申し返したまふ。「故院の御心ざし、あまたの皇子たちの御中に、とりわきて思し召しながら、位を譲らせたまはむことを思し召し寄らずなりにけり。何か、その御心改めて、及ばぬ際には昇りはべらむ。ただ、もとの御おきてのままにおほやけに仕うまつりて、今すこしの齢かさなりはべりなば、のどかなる行なひに籠もりはべりなむと思ひたまふる」 と、常の御言の葉に変はらず奏したまへば、いと口惜しうなむ思しける。
秋の司召に太政大臣になられることを内々にお決め申しなさるついでに、帝は、お考えになっている筋のこと(譲位のこと)をお漏らし申し上げなさると、大臣はまったく面映ゆくも恐ろしくもお思いになって、けっしてあってはならないこととご返答になる。「亡き院(桐壷)のお心向けとしては、多くの皇子たちの中で、とりわけ大事にしてくださったものの、位をお譲りになろうとはお考えにならなかったのでした。どうして、そのお心にそむくようにして、及びもつかない身分に昇りましょうか。ただ、本来お決めになったとおりに朝廷にお仕えして、もう少し年齢が重なりましたら静かな勤行のために籠もろうと存じております」と、普段のお言葉に変はらず奏上なさるので、とても残念にお思いになった。
「司召(つかさめし)」は正式には「司召の除目(ぢもく)」といい、在京の官吏を任命する儀式のことで、おもに秋におこなわれます。それに対して地方官を任命するのは県召の除目(あがためしのぢもく)で通例春におこなわれました。
光源氏はこの司召で太政大臣になることが内定しました。臣下の最高の位は、本来は左大臣、その次が右大臣ですが、彼はそういう官職を経験しないまま、令外官(りやうげのくわん。令で定められていない官職)である内大臣から、名誉職的な太政大臣に移ることになります。ただし、後述されるように、光源氏はそれを辞退して、実際に太政大臣になるのは翌年のことです。その話をするついでに、帝はついに譲位のことを漏らします。それを聞かされた光源氏はどんな思いがしたことでしょうか。なぜ今さら、と考えたでしょうか。帝は何かを知らされたのではないか、と思ったでしょうか。桐壷院は光源氏を寵愛しましたが、公的には長子の朱雀院を後継者にして、光源氏はあえて臣下に下ろしたのでした。その父院の意思にそむくことのないように、彼は臣下として生き、しかるべきときに出家するつもりであると、平素から考えていることを帝に伝えました。
太政大臣になりたまふべき定めあれど、しばし、と思すところありて、ただ御位添ひて牛車聴されて参りまかでしたまふを、帝、飽かずかたじけなきものに思ひきこえたまひて、なほ親王になりたまふべきよしを思しのたまはすれど、世の中の御後見したまふべき人なし。権中納言、大納言になりて、右大将かけたまへるを、今ひときはあがりなむに、何ごとも譲りてむ。さて後にともかくも静かなるさまに、とぞ思しける。
太政大臣になられるようにというご沙汰があったが、しばらくはこのままで、とお思いになるお気持ちがあって、ただ官位を加えて牛車(うしぐるま)を聴(ゆる)されて参りあるいは退出なさるのを、帝は物足らず畏れ多いこととお思い申し上げなさって、やはり親王におなりになるようにお思いになり、おっしゃりもするのだが、源氏の大臣は、世の中の政治を執る人はいない。権中納言が大納言になって右大将を兼任なさったのを、もう一段昇進したらそのときに、すべてを譲ってしまおう。そのあかつきにともかくも安楽な暮らしを、とお思いになるのであった。
ここでもう一度「太政大臣になりたまふべき定めあれど」といっていますが、先ほどのものは帝の内意で、ここは正式の場での任命です。しかし光源氏は思うところあってこれを受けません。そもそも太政大臣というような重く格式の高い職を任ぜられた場合は辞退するのが当然でもありました。結局この時は官位だけを上げて太政大臣には就かないことになりました。当時の官位は必ずしも規定通りに与えられたわけではなかった(たとえば正三位相当の大納言でも二位の人がいる、という具合)のですが、一応の定めでは大臣は正二位または従二位で、太政大臣は正一位または従一位でした。「牛車を聴(ゆる)す」というのは、牛車に乗ったまま建礼門まで入ることを許されることで、臣下では摂関や年功のある大臣の中から許されました。帝はそれでも不満で、光源氏に親王になってほしいと願います。実の父を臣下にしておくわけにはいかない、という思いです。光源氏は、今自分が引退してしまったらあとを任せられる人がいないことを案じます。権中納言(かつての頭中将)がこのたびの司召で大納言になって右大将を兼任することにはなったものの、やはり大臣になってくれなければ任せられないと考えるのでしょう。「今ひときはあがりなむに」というのが大臣への昇進を意味するものと思われます。
なほ思しめぐらすに、故宮の御ためにもいとほしう、また上(うへ)のかく思し召し悩めるを見たてまつりたまふもかたじけなきに、誰かかることを漏らし奏しけむ、とあやしう思さる。命婦は、御匣殿の替はりたる所に移りて曹司たまはりて参りたり。大臣、対面したまひて、「このことを、もしもののついでに露ばかりにても漏らし奏したまふことやありし」と案内(あない)したまへど、「さらに。かけても聞こし召さむことを、いみじきことに思し召して、かつは罪得(う)ることにやと、上の御ためをなほ思し召し嘆きたりし」と聞こゆるにも、ひとかたならず心深くおはせし御ありさまなど、尽きせず恋ひきこえたまふ。
やはりいろいろとお考えになって見ると、亡き藤壺宮の御ためにもおいたわしく、また帝がこのように思い悩んでいらっしゃるのを拝見なさるのも畏れ多いことで、誰がこういうことをお漏らし申し上げたのだろう、と、不可解にお思いになる。王命婦は、御匣殿の異動したあとに移って、局(つぼね)をちょうだいして参内している。大臣は対面なさって、「このことを、ひょっとしてなにかのついでに少しばかりでも帝に漏らし申し上げたことはあったか」とさぐりなさるのだが、「一向にそのようなことは。宮は、帝がこのことをお聞きになっては一大事だとお思いになり、一方では罪を得ることがおありになるかもしれないと、帝の御ためをやはり思い嘆いておいででした」と申し上げるにつけても、なみなみならず慎重でいらっしゃった中宮のご様子などを尽きることなくお慕い申し上げなさる。
光源氏は冷泉帝が秘密を知ってしまったと確信します。もし亡き中宮がそのことをあの世で知られたら成仏もおできにならないだろうと案じます。そこで光源氏はあの手引きをした王命婦という女房を問い質すことにしました。王命婦は御匣殿(貞観殿にあって、帝の装束の用意などをする役所。そこの長官が別当で、王命婦はこの御匣殿別当になったというのであろう)に採用されて内裏に曲を持っていました。もっとも彼女は、「御供になりにければ(藤壺が出家したのにともなって尼になってしまったので)(賢木巻)とありましたので、ここでまた俗に還っているのもいささか奇妙な感じではあります。光源氏がようすをうかがうと、彼女はきっぱりと否定しました。そして、藤壺中宮が、帝が事実をお尻になってはたいへんだと思われる反面、実の父を知らないまま孝行もしないのでは仏罰を得ることになりはしないかと案じていたというのです。
斎宮の女御は、思ししもしるき御後見にて、やむごとなき御おぼえなり。御用意、ありさまなども、思ふさまにあらまほしう見えたまへれば、かたじけなきものにもてかしづききこえたまへり。
秋のころ、二条院にまかでたまへり。寝殿の御しつらひいとど輝くばかりしたまひて、今はむげの親ざまにもてなして扱ひきこえたまふ。 秋の雨いと静かに降りて、御前の前栽(せんざい)のいろいろ乱れたる露のしげさに、いにしへのことどもかき続け思し出でられて、御袖も濡れつつ女御の御方に渡りたまへり。こまやかなる鈍色(にびいろ)の御直衣姿にて、世の中の騒がしきなどことつけたまひて、やがて御精進(さうじん)なれば、数珠(ずず)ひき隠してさまよくもてなしたまへる、尽きせずなまめかしき御ありさまにて御簾の内に入りたまひぬ。
斎宮の女御は、光源氏が期待なさっていたとおりの帝の後見役となって、帝のご寵愛も厚いのである。気立てや、物腰なども、申し分のないほど理想的にお見えになるので、畏れ多いような方として源氏の大臣は大事にお世話申しあげなさっている。
秋のころ、二条院に里下がりなさった。寝殿のかざりつけなどは、ただもう輝くほどになさって、今はもうすっかり親代わりとしてお世話申しあげなさる。秋の雨がとても静かに降って、御前の植え込みが色とりどりに乱れて、露がしとどに下りているので、源氏の君は昔のことがあれこれと次々に思い出されなさって、御袖も濡れて女御のお部屋におでましになった。色濃い鈍色の御直衣姿で、世の中の騒動などを口実になさってそのまま御精進をなさっているので、数珠を隠して体裁よくふるまっていらっしゃるのが、このうえなく優美なごようすで御簾の中に入っておしまいになる。
斎宮女御の話に移ります。帝より九歳年長の女御だけに、なにかと帝の気に入るようにうまく振舞っているので、帝も彼女を信頼しています。光源氏は親代わりとして精一杯彼女の後ろ盾となっています。
秋になって斎宮女御は二条院に下がります。彼女には母御息所の住まいであった六条の屋敷がありますが、今は光源氏の養女となっているので、里下がりとして二条院に行くのです。二条院は西の対に紫の上がいますが、寝殿はあいた状態になっています。女御の里下がりとあって、寝殿の設備はきれいに整えられます。秋の雨がしとしとと降っており、寝殿の前の植え込みが秋の花を咲かせてとても美しく見えます。それを見つめると、光源氏は過去のことが回想されます。斎宮女御の母の六条御息所が亡くなったのは三年前の冬の初め頃でした。「いろいろ乱れたる露のしげさに」という記述は風景描写であると同時に、さまざまなことを思い乱れては涙を流す光源氏の心象風景でもあるでしょう。光源氏の装束は濃い鈍色です。太政大臣(光源氏の義父)、藤壺中宮(義母)、式部卿宮(叔父)が亡くなっているのですが、言うまでもなく彼の心の中では藤壺への思いが一番深いことでしょう。世の中の騒動、つまり、たびかさなる天変地異のために、精進を重ねている、ということにして、藤壺の菩提を弔う気持ちが強いのでしょう。そして彼は、斎宮女御は養女だから、というので、遠慮せずに御簾の中に入ってしまいます。普通であれば御簾の外にいて女房を介して話すものです。
御几帳ばかりを隔ててみづから聞こえたまふ。「前栽どもこそ残りなく紐解きはべりにけれ。いとものすさまじき年なるを、心やりて時知り顔なるもあはれにこそ」とて、柱に寄りゐたまへる夕ばえいとめでたし。昔の御ことども、かの野宮(ののみや)に立ちわづらひし曙などを聞こえ出でたまふ。いとものあはれと思したり。
宮も、「かくれば」とにや、すこし泣きたまふけはひいとらうたげにて、うち身じろきたまふほどもあさましくやはらかになまめきておはすべかめる。見たてまつらぬこそ口惜しけれ、と、胸のうちつぶるるぞうたてあるや。
几帳だけを隔てて、みずからお話し申し上げなさる。「前栽の木草が残るとことなく『紐を解き』ましたね。まったく恐ろしい年ですが、気持ちよさそうに、時節を知っているような顔をしているのも心にしみるようで
といって、柱に寄りかかっておすわりになっていらっしゃる夕陽に映えたお姿はまことにご立派である。昔のことをいろいろ、あの野宮で帰りにくそうにしていた曙などを、話にお出しになる。まったく感無量でいらっしゃる。
女御も、「かくれば」ということであろうか、すこし泣いていらっしゃるようすがとてもいじらしくて、みじろぎなさるのもあきれるほどやわらかでみずみずしくていらっしゃるようである。これまでお姿を拝見したことがないのが残念だ、と胸の中がどきどきするのは困った人である。
几帳だけを隔てているということは、すぐそばにいることになります。普通なら女房を介して話すところですが、光源氏は直接女御に話しかけます。「前栽の木草が花開きましたね」といっているのですが、それを「紐解く」と表現しています。「ももくさの花の紐解く秋の野に思ひたはれむ人なとがめそ」(古今集・秋上・よみびと知らず)による表現です。多くの木草が花咲くこの秋の野で戯れよう、人は咎めないでほしい、という意味ですが、「紐解く」は衣の下紐を解くことで、共寝しようと言っているのです。そういう歌をわざと引いているところが光源氏の根っからの好色たるゆえんでしょう。斎宮女御23歳に対して、光源氏は32歳、義理の父娘といっても、少なくとも14歳の帝よりは男女としての釣り合いは取れているでしょう。野宮で帰りにくそうにしていたというのは、「賢木」巻で伊勢に下ることを決意した六条御息所を、光源氏が潔斎所の嵯峨の野宮をたずねたときのことです。9年前のことです。「かくれば」については『源氏釈』という古い注釈書が「いにしへの昔のことをいとどしくかくれば袖に露かかりけり(むかしのことをこれまで以上に心にかけると袖に露がかかるように涙が出てしまったことだ)」という出典不明の歌を挙げています。「わが思ふ人は草葉の露なれやかくれば袖のまづそほつらむ(私の思うあの人は草の露なのであろうか、心に欠けるとどうして袖がまず濡れるのだろうか)」(拾遺集・恋二・よみびと知らず)を引くとも考えられます。光源氏はそのいじらしげな斎宮女御の姿を几帳越しに感じ取ると、これまできちんとその姿を見なかったことが悔やまれるのです。彼は一度のぞき見をしたことがあるにはあるのですが(澪標巻)、真正面から近くで女御の顔を見たことはありません。そのために彼は胸がときめいてしまいます。里下がりしてきた養女のご機嫌うかがいに来たはずなのに、どうも様子がおかしくなってきました。
「過ぎにし方、ことに思ひ悩むべきこともなくてはべりぬべかりし世の中にも、なほ心から好き好きしきことにつけて、もの思ひの絶えずもはべりけるかな。さるまじきことどもの心苦しきがあまたはべりし中に、つひに心も解けずむすぼほれて止みぬること二つなむはべる。一つは、この過ぎたまひにし御ことよ。あさましうのみ思ひつめて止みたまひにしが、長き世の愁はしきふしと思ひたまへられしを、かうまでも仕うまつり御覧ぜらるるをなむ慰めに思うたまへなせど、燃えし煙のむすぼほれたまひけむは、なほいぶせうこそ思ひたまへらるれ」とて、今一つはのたまひさしつ。
「昔のことで、特に思い悩むべきこともございませんでしたころでも、やはり自分のせいで好色なことにつけて、もの思いが絶えないことでございました。こういうことをしてはいけないということで、相手の人がいたわしく思われたことがたくさんございましたが、その中で、最後までうちとけることなく心が鬱屈したまま終わってしまったことがふたつございます。一つは、この亡くなられた方のことですよ。あきれるほど思い詰めたあげくにそれきりになってしまわれたのが、生涯の愁いごとの一点だと思われたのですが、今こうしてあなた様にお仕え申し上げて御目通りもいただけるのを心の慰めに思うようにはしております。しかし、『燃えし煙』が晴れずにいらっしゃったであろうことは、やはり気が滅入るように思われるのです
といて、もうひとりの人についてはおっしゃらなかった。
光源氏は、自分がこれまでにしてきたあまたの恋愛について懺悔するかのように語り始めます。とりわけ、相手の女性に気の毒な思いをさせてしまったことが二つある、と言います。そのうちのひとつは「この過ぎたまひにし御こと(こちらのゆかりの亡くなった方のこと)」、つまり斎宮女御の母六条御息所のことです。しかし今その娘であるあなたをお世話することで、いくらかでもわが心を慰めるようにしているのだ、といいます。「燃えし煙」については「むすぼほれ燃えし煙もいかがせむ君だにこめよ長き契りを」という出典不明の歌を引くと伝えられてきました。もう燃えてしまった煙はどうしようもない、亡くなった人のことを言っても始まらない、だから、せめてあなただけは末長い約束をしようではないですか、と求愛する言葉と解されます。しかしそうは言ったものの、「なほいぶせうこそ思ひたまへらるれ」と一歩引きさがるようなことを言います。御息所が亡くなるとき、光源氏は「かけてさやうの世づいたる方に思し寄るな(絶対に娘に対して好色がましい態度をとらないでください)」とくぎを刺され、そのようなことはしないと約束していました(澪標巻)。それなのにこのざまです。女御もさすがに困るでしょうね。
さて彼は「今ひとつ」については言いさしてしまいました。この「今ひとつ」とは誰に対する愛情のことでしょうか。藤壺のこととも目の前にいる斎宮女御のこととも言われるのですが、みなさまはどちらだとお考えになるでしょうか。女御に対しては、光源氏はこれまでに恋愛対象として気の毒なことをしてきたかというと、それはありません。私はやはり藤壺の事が心にあるために「ふたつ」と言ってしまったものの、まさかそんなことはおくびにも出せないということで言いさしたのではないかと考えています。
「中ごろ、身のなきに沈みはべりしほど方々に思ひたまへしことは、片端づつかなひにたり。東の院にものする人の、そこはかとなくて、心苦しうおぼえわたりはべりしも、おだしう思ひなりにてはべり。心ばへの憎からぬなど、我も人も見たまへあきらめて、いとこそさはやかなれ。かく立ち返り、おほやけの御後見仕うまつるよろこびなどは、さしも心に深く染まず、かやうなる好きがましき方は、静めがたうのみはべるを、おぼろけに思ひ忍びたる御後見とは、思し知らせたまふらむや。あはれとだにのたまはせずは、いかにかひなくはべらむ」とのたまへば、むつかしうて御いらへもなければ、「さりや。あな心憂」とて、異(こと)ごとに言ひ紛らはしたまひつ。
「遠からぬ昔、どん底に落ち込んでおりましたころ、何くれと思っておりましたことは、少しずつ実現しました。東の院に住んでいる人が、頼りない身の上でいたわしく思っておりましたが、落ち着いた暮らしになりました。気立ての憎からぬところなどを、私もあの人も認め合っておりましてとてもすっきりしました。こうして都に戻って、帝の御後見をする喜びなどは、それほど深くはこだわらず、このような色めいたことは、いつもおさえがたいものですから、並々ならずこらえている御世話役だとは、おわかりいただいているのでしょうか。せめて『かわいそうに』とだけでもおっしゃってくださらないのでしたら、どんなにかいのないことでございましょう」とおっしゃるので、女御は厄介な気持ちになってお返事もなさらないので、「そうなのですね。ああ、つらいこと」といって、ほかのことに話を紛らわしておしまいになった。
光源氏のどん底の時代というともちろん須磨明石にいたころのことです。そのころ、都に戻れたらこういうことをしようと思っていたことは少しずつかなったと言います。その例として、東の院の人、つまり花散里を例に挙げています。なぜ花散里? と疑問がないわけではないのですが、これは彼なりの策略だと思います。花散里は、不安定な身の上だったところを二条東院に住まわせつつ、さっぱりとした関係になってしまった、つまりもう恋愛関係にはなくなってしまったといいます。そういう例としてこの人をあげたのだろうと思われます。政治向きのことにはこだわりがない、と言っているのは、事実ではなく、女御に言い寄るための手立てだろうと思われます。政治よりも女性に関心があるのだけれど、たとえば花散里はもうそういう関係ではない、と言っておいて、「だからあなたと」という具合に話を持って行こうとするのです。「せめて『あはれ』とだけでもいってくださったら」というのは、女性に告白するときの常套的な言い方で、のちに柏木が朱雀院の女三宮の寝所に入り込んだ時にも「あはれとだにのたまはせば、それを承りてまかでなむ」(若菜下)と言います。女御はさすがに面倒になります。父親代わりとして何かと面倒を見てくれた人がこのように豹変したらそう思うのももっともでしょう。光源氏は「やはり私のことなど何とも思っていないのですね」と捨て台詞のようなことを言って話を変えてしまいます。
「今はいかでのどやかに、生ける世の限り思ふこと残さず、後の世の勤めも心にまかせて籠もりゐなむと思ひはべるを、この世の思ひ出にしつべきふしのはべらぬこそさすがに口惜しうはべりぬべけれ。数ならぬ幼き人のはべる、生ひ先いと待ち遠なりや。かたじけなくとも、なほこの門広げさせたまひて、はべらずなりなむ後にも数まへさせたまへ」など聞こえたまふ。御いらへは、いとおほどかなるさまに、からうしてひとことばかりかすめたまへるけはひ、いとなつかしげなるに聞きつきて、しめじめと暮るるまでおはす。
「今となっては、何とかのんびりと、生きている間は悩みを残さず、後世を願うお勤めも、思うままにして籠ってしまおうと思っておりますが、この世の思い出にできるようなことがございませんのが、さすがに残念でございます。人数にも入らない幼い人がございますが、大きくなるのがひどく待ち遠しいことです。畏れ多いことですが、やはりこの一門をお広げくださって、私の亡きあとも一人前に扱ってください」などと申し上げなさる。お返事はとてもおおらかに、やっとのことでひとことだけそれとなくおっしゃるのだが、その様子のたいそう慕わしいのを聞いて心引きつけられて、しんみりとして日が暮れるまでそうしていらっしゃる。
几帳を隔てているだけの危険な位置関係にある光源氏とん斎宮女御ですが、さすがの光源氏も几帳を横にやって無理に侵入するなどということはしません。もしそのようなことをしようものなら六条御息所の死霊が飛び出してくるかもしれませんね。そして今まで若ぶって口説き文句を並べていたのに、一転して老人のように後世を願うだの今生の思い出だのと言い始めます。人数にも入らない幼い人というのはもちろん明石の姫君(このとき四歳)のことです。斎宮女御は「光源氏の子」としては最年長であり、しかも女御という高い身分でもありますから、今後の一門を委ねたいというのはまんざらおおげさなことではありません。女御はそんな光源氏の言葉に対してはおおらかな口調でかすかに返事をします。それがまた魅力的なので光源氏はその場を離れられなくなるのです。
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- [2020/06/29 00:00]
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大祓
明後日は大祓(夏越の祓)です。
京都を中心に、この時期には和菓子の「水無月」を召し上がる方も少なくありません。
本来は旧暦の六月晦日におこなわれるべきもので、夏を終えて明日から秋になるという頃に、一年の前半の穢れを祓うということで行われます。
太陽暦の6月30日におこなうという今の習慣であれば、これから本格的な暑さになるころですね。
ちなみに、今年の旧暦六月晦日は8月18日に該当するそうで、厳密に言いますと、今年の六月が小の月(旧暦では大の月が30日、小の月は29日)ですので旧暦六月二十九日が晦日になります。
平安時代の宮廷の儀式としては、儀式書に書かれているのですが、ごく大雑把に言いますと、朱雀門の前で百官が集まって祝詞を上げたり祓物(馬、稲、米など)を並べたりしたものです。
夏越の祓は古くからおこなわれており、『年中行事秘抄』が引く「日本紀」には
「天武天皇二年六月晦日大祓」
とあります。天武天皇二年は西暦673年ですから、7世紀には行われていたことになります。
一条兼良の記した『公事根源』(応永二十九年=1422年)には「家々は輪をこゆる事有」と見え、これが今日に伝わる
茅の輪くぐり
なのでしょう。『源氏物語』には茅の輪くぐりの場面はなく、おそらくこのころはまだそういう風習はなかったと思われます。
今でも茅の輪くぐりをするときに唱えられることがある歌として有名なのは
なごしのはらへ
みなづきの夏越の祓する人は
千歳の命延ぶといふなり
でしょう。
この歌は十世紀の『古今和歌六帖』に見え、少し後にできた『拾遺和歌集』「賀」にも詠み人知らずとして載っています。実に意味の分かりやすい歌ですね。
茅の輪くぐりの習慣はともかくとして、茅の輪が疫病除けになるという考え方ははるかに古い時代にうかがわれます。
それにつきましてはまた明後日。
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- [2020/06/28 00:00]
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マスクをしない選択
マスクの洗濯の話ではないのです。
私は日常生活ではほとんどマスクはしていません。もし私が有名人だったら非難殺到かもしれませんが、そうではないことをさいわいに、あえて告白しておきます。
最近、電車の中では、もちろんその時々で異なりますが、1~2割の人がマスクをしていないように感じます。先日は4人の若い人が車内でマスクなしで向き合って座ってはしゃいでいました。道を歩いていると若者を中心に非マスク着用者が増えてきたようにも思います。私は若者ではありませんが、道を歩くときには、もうずっとマスクはしていません。
それでなくても呼吸が不十分なので、マスクをすると
息苦しく
なるのです。これは2月ごろにウイルスが問題になり始めたころからずっと変わりません。もちろん白い眼で見られることもあります。自責の念に駆られることもあります。それでもこれからもするつもりはありません。私がマスクをするのは店に入る時くらいです。
まもなく本格的な夏になりますが、こうなると息苦しいのみならず蒸れてしまいそうです。熱中症を誘うかもしれないとさえ言われます。また、マスクをすると息苦しいのでつい
口呼吸
をしてしまい、かえってよくないようにも思います。悩むのは電車です。私も1、2割の若者の仲間入りをするか、それ以外の人たちのようにするか。
マスクをしてもあまり感染リスクは下がらないと思っていますので、その意味では不要なのです。問題は自分が感染しているときにウイルスを出してしまって他人にうつすことだけです。しかし、噂では、厚労省から送られたマスクはウイルスを通してしまうそうで、特に咳をして激しく息を吐いたらウイルスは喜んで飛び出していきそうに思います。今や感染拡大が目的というよりはエチケットになりつつあり、気休めにもなるから、ということなのかもしれませんが・・。それにしても、今もって国はなぜあのようなものを送りつけてきたのか、意味がわかりません。
最近はドラッグストアにもあたりまえのように置いてある不織布のマスクを見ると、手を出しそうにもなるのですが、まだ手許に残っているマスクがいくらかありますので、買っていません。
たかがマスク、されどマスク。
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- [2020/06/27 00:00]
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半分以下でスタート
8月に、文楽劇場の文楽の催しがやっと再スタートするそうですね。
1月に竹本錣太夫さんの襲名披露公演があって以来、7か月ぶりにあの劇場に灯がともります。何だかずいぶん懐かしい感じがします。
もっとも、文楽の公演ではなく、素浄瑠璃の会ではありますが。客席はやはり半分にするみたいで、おそらく座席一つ分をあけて、さらにはひとつ前の座席も空席になるようにチケットを販売するのでしょうね。前の座席が空くのは頭が邪魔にならないという意味ではいいかもしれませんが・・・。
演目と演者は
『日吉丸稚桜』「駒木山城中」
竹本錣太夫・鶴澤寛太郎
『生写朝顔話』「宿屋」
豊竹咲太夫・鶴澤燕三
琴 鶴澤燕二郎
『恋女房染分手綱』「重の井子別れ」
竹本千歳太夫・鶴澤清介
本公演は四月の千本桜も、六月の鑑賞教室や若手会も、さらには夏休み公演もなくなり、再開は九月の東京になるのでしょうから、大阪では十一月。ずいぶん先の話です。チケットはプラチナ化するかもしれません。しかしそうなると
満員御礼
というのもむなしく感じられます。
人形遣いさんは引きこもり状態の人も多かったでしょうから、そういう人たちの技芸の向上というか、肩慣らし運転のためには、できれば予行演習的なことがあってもいいと思うのですが、実際は難しいのでしょう。
人形が重く感じられる、という人も出てくるのではないでしょうか。心配になります。もう十一月の公演内容は決まっているのかもしれませんが、いっそのこと同じ演目を昼と夜で(あるいは三部制で)
ダブルキャスト
あるいはトリプルキャストで実施するくらいにしたらどうかとも思います。それによって、「観に行けないお客さん」を減らして、技芸員さんに負担をかけないようにして、さらに普段は使えないいい役を与えるようにする、というような・・。もちろん素人考えであって、実際はあり得ないでしょうが(笑)。
ともかくも、文楽劇場の再開はよろこばしいことで、ファンの皆様が大勢、というわけにはいかないでしょうが、できるだけ楽しまれますように。
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- [2020/06/26 00:00]
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源氏物語「薄雲」(4)
前回ご覧いただいた『後拾遺和歌集』の文字を書いておきます。
後拾遺和哥抄第十八 雑四
のりみつの朝臣のともにみちのくに
にくたりてたけくまのまつをよ
みはへりける 楠(橘)季道
たけくまのまつはふたきをみやこ人
いかゝとゝはゝみきとこたへん
みちのくにゝふたゝひくたりてのち
のたひたけくまのまつも侍らさりけ
れはよみ侍ける 能因法師
たけくまのまつはこのたひあともなし
ちとせをへてやわれはきつらん
分かりやすく書き直すとこうなります。
後拾遺和哥抄第十八 雑四
則光の朝臣の供に陸奥国
に下りて、武隈の松を詠
みはべりける 橘季道(通)
武隈の松は二木を都人
いかがと問はば「みき」と答へん
陸奥国にふたたび下りてのち
のたび、武隈の松も侍らざりけ
れば、詠み侍りける 能因法師
武隈の松はこのたび跡もなし
千歳を経てや我は来つらん
いかがでしたでしょうか。
最初の歌の作者名はどうも「楠」に見えてしまいます。こういう字体の「橘」があるのかもしれませんので、保留にして探してみます。
実際は橘則光の子である橘季通のことです。武隈の松は二木なのだが、もし都の人が「どうだった」と尋ねたら「みき(三木。『見き』を掛ける)」と答えようというものです。
次の歌はすでに武隈の松がなくなっていたので、詠んだもの。武隈の松はこのたびは跡かたもない。千年を経て私はここに来たのだろうか、という意味です。
藤壺中宮という人は、先帝の第四皇女で、十四歳のときに桐壷帝に入内、光源氏が十八歳(藤壺二十三歳)のときに密通を犯し(若紫巻)、懐妊。翌年、桐壷帝の子として皇子(のちの冷泉帝)を出産しました。その秋には中宮となりました(紅葉賀巻)が、桐壷院が光源氏二十四歳の冬に亡くなり、そのあと、藤壺中宮はなおもやまない光源氏の求愛を避けるべく、またわが子の春宮を守るためにも出家しようと決意しました。そして桐壷院の一周忌のあとに法華八講を催して、その結願の日に二十九歳で出家しました(賢木巻)。そのとき春宮はまだ六歳でした。そのあとは斎宮女御の入内を進めたり、絵合で重要な役割を果たしたりしていました。
藤壺の四十九日の法要も終わりました。このたびの法要には、藤壺の母(先帝の后)のころから祈祷をおこなってきた僧都(そうづ)が加わっていました。この人は、七十歳くらいで、自分の後世を願うために山籠もりしていたのですが、冷泉帝からの信任も篤く、わざわざ下山してきたのでした。高齢だけに、夜居(よゐ。加持祈祷のために、貴人の寝所の近くに詰めること)はつらくなっているのですが、昔から信頼されていたという事情もあり、帝のそばに伺候しています。
静かなる暁に人も近くさぶらはず、あるはまかでなどしぬるほどに、古代にうちしはぶきつつ世の中のことども奏したまふついでに、「いと奏しがたく、かへりては罪にもやまかり当たらむと思ひたまへ憚る方多かれど、知ろし召さぬに罪重くて 天眼恐ろしく思ひたまへらるることを、心にむせびはべりつつ、命終りはべりなば、何の益(やく)かははべらむ。仏も心ぎたなしとや思し召さむ」とばかり奏しさして、えうち出でぬことあり。
静かな暁に、人も近くには伺候しておらず、あるいは退出したりしてしまったころに、古風に咳払いをしては世の中のことをあれこれ申し上げるついでに、「まことに申し上げにくく、かえって罪にも当たるだろうかと思われまして憚ることが多いのですが、ご存じでいらっしゃらないと罪が重くて 天の見る眼も恐ろしく思われますことを、わが心の中でもやもやしたままで命が終わりましたら、何の利益がございましょうか。仏も、心汚いものとお思いになるでしょうか」とだけ奏上して言いかねていることがある。
おそらく、帝は母藤壺やその母のことなどを僧都に話させているのでしょう。すると、ある暁のころに、人がいなくなったのを見計らうようにして僧都が思わせぶりなことを言い出します。黙っていると罪が重く、天眼が恐ろしいと言います。読者は「これは帝の実の父のことだろう」と想像するでしょうが、まだそれとはっきりは言われていません。この場合の罪は、帝に天罰が下るということなのか、黙っていると自分に罪があるということなのか、両説あります。いずれにしても、帝が実の父を臣下としているとなればけしからぬことではあるでしょう。「天の眼」は「天眼(てんげん、てんがん)」のことです。「肉眼」「天眼」「慧眼」「法眼」「仏眼」の五つを「五眼」と言います。「天眼」は神通力を持ってものごとを見通すことのできる眼のことです。
さて、読者としては、この僧侶はあの秘密の話を知っていて、その話をするのだろうか、とドキドキするところです。
上、何事ならむ。この世に恨み残るべく思ふことやあらむ。法師は、聖といへども、あるまじき横さまのそねみ深く、うたてあるものを、と思して、「いはけなかりし時より隔て思ふことなきを、そこにはかく忍び残されたることありけるをなむつらく思ひぬる」とのたまはすれば、「あなかしこ。さらに、仏の諌め守りたまふ真言の深き道をだに、隠しとどむることなく広め仕うまつりはべり。まして、心に隈あること、何ごとにかはべらむ。これは来し方行く先の大事とはべることを、過ぎおはしましにし院、后の宮、ただ今世をまつりごちたまふ大臣の御ため、すべてかへりてよからぬ事にや漏り出ではべらむ。かかる老法師の身には、たとひ愁へはべりとも、何の悔(くい)かはべらむ。 仏天(ぶつてん)の告げあるによりて奏しはべるなり。わが君はらまれおはしましたりし時より、故宮の深く思し嘆くことありて、御祈り仕うまつらせたまふゆゑなむはべりし。 詳しくは法師の心にえ悟りはべらず。事の違ひめありて、大臣横さまの罪に当たりたまひし時、いよいよ懼ぢ思し召して、重ねて御祈りども承りはべりしを、大臣も聞こし召してなむ、またさらに言加へ仰せられて、御位につきおはしまししまで仕うまつることどもはべりし。その承りしさま」とて、詳しく奏するを聞こし召すに、あさましうめづらかにて、恐ろしうも悲しうも、さまざまに御心乱れたり。
帝は、何ごとだろう、この世に恨みが残りそうなことがあるのだろうか。法師というのは、聖とはいってもあってはならないような、非道なまでの妬み心が深く、どうしようもないものだから、とお思いになって、「幼いころから心に隔てことがないようにしてきたのに、あなたがこのように隠しごとをなさっていたのはうらめしいことです」とおっしゃるので、「ああ畏れ多い。仏が諌めて秘密になさっている真言の深い道をさえ、けっして隠すことなく世に広めております。まして、心に隠しごとがあるというのは、何ごとでございましょうか。これは過去や将来にわたる大事でございますが、亡くなりました桐壷院、藤壺の后の宮、そしてただいま世のまつりごとをなさっている源氏の大臣の御ために、黙っていますとかえってよからぬ事として噂になりましょうか。私のような老法師の身には、たとえつらいことがございましょうとも、何の後悔がございましょう。 仏のお告げがあることによって奏上するのでございます。わが君がお腹にいらっしゃったときから、母宮が深く思い悩まれることがありまして、私に祈祷をおさせになったわけがあったのでございます。 詳しいことは法師の心には悟ることができません。何か行き違いがあって、大臣がいわれのない罪に当たられましたとき、母宮はますます恐れるようになられまして、重ねて御祈祷を承ったのでございましたが、大臣もそれをお聞きになり、また別に祈祷のことを仰せられまして、わが君が御位にお即(つ)きになりました時までご奉仕申し上げたことがございました。その承りましたことと申しますのは」といって、詳しく奏上するのをお聞きになると、あきれるような意外なことで、恐ろしくも悲しくも、さまざまに御心乱れたのである。
「法師というのは妬み心が深く、どうしようもないものだ」と帝は思っているようですが、これは当時の人たちの僧侶に対する思いがあらわれているのでしょう。失礼なことを申しますが、今でも「生臭坊主」と言われるような人がいるらしく(笑)、いかにも俗物のような僧侶というのはいつの時代もあったのだろうと思われるのです。そのあと帝は「あなたがこのように隠しごとをなさっていたのはうらめしいことです」と言っているのですが、これが七十歳前後の僧都に向かって言う十四歳(今なら中学一年生の年齢)の言葉でしょうか。少し前のところに冷泉帝は「御歳よりはこよなうおとなおとなしうねびさせたまひて」(年齢のわりに、このうえなく大人びていらっしゃって)とありましたが、たしかに大人びていますね。その言い方が僧都はいささかカチンと来たのかもしれません。隠し立てなどとんでもない、と言って、勢いにまかせて重大な秘密をしゃべってしまいます。かつて藤壺中宮は僧都に祈祷を依頼していたのですが、そのときに何をどう祈るのかを知らないわけにはいかないのです。つまりそのときに僧都は光源氏と藤壺の秘密を知ってしまったのです。光源氏が「横さまの罪」に当たった時というのは須磨に退去をしたときのことです。「横さまの罪にあたりて思ひかけぬ世界にただよふも」(明石巻)と光源氏自身もかつてこの言葉を使っていました。そのとき、藤壺はさらに恐ろしい思いに駆られたのです。自分と光源氏の密通の結果、光源氏は「横さまの罪」を受けることになったのだという思いがあったのでしょう。藤壺の祈祷は冷泉帝が即位するまで(十一歳の時)と言いますから、丸十年も続いたことになります。彼女は息子を守るのに必死だったことがうかがわれます。そして僧都は「くはしく奏する」のです。すべて省略されていますが、ここで冷泉帝の出産の秘密が詳細に語られたのです。いくら大人びていても十四歳の少年です。心が乱れるのももっともでしょう。
とばかり、御応へもなければ、僧都、進み奏しつるを便なく思し召すにやと、わづらはしく思ひて、やをらかしこまりてまかづるを召し止めて、「心に知らで過ぎなましかば、後の世までの咎めあるべかりけることを、今まで忍び籠められたりけるをなむかへりてはうしろめたき心なりと思ひぬる。またこの事を知りて漏らし伝ふるたぐひやあらむ」とのたまはす。「さらに。なにがしと王命婦とより他の人、この事のけしき見たるはべらず。さるによりなむいと恐ろしうはべる。天変しきりにさとし、世の中静かならぬはこの気(け)なり。いときなく、ものの心知ろし召すまじかりつるほどこそはべりつれ、やうやう御齢(よはひ)足りおはしまして、何事もわきまへさせたまふべき時に至りて、咎(とが)をも示すなり。 よろづのこと、親の御世より始まるにこそはべるなれ。何の罪とも知ろし召さぬが恐ろしきにより、思ひたまへ消ちてしことを、さらに心より出しはべりぬること」と、泣く泣く聞こゆるほどに、明け果てぬれば、まかでぬ。
しばしお返事もないので、僧都は、調子に乗って奏上したことを不都合だとお思いになるのであろうか、と、難儀なことだと思って、そっと恐縮して退出するのを帝はお呼び止めになって、「わが心に知らないまま過ぎていれば、後世までの咎めがあるはずであったことを、今まで隠してこられたのを、(知らせてくれてありがたいというよりは)かえって気の許せぬ人だと思ったぞ。またこの事を知って漏らし伝えるような人はいるであろうか」とおっしゃる。「けっしてそのようなことは。拙僧と王命婦以外の人は、このことの次第を知っているものはございません。そういうわけですからこそたいそう恐ろしいのでございます。天変がしきりに啓示して、世の中がおだやかでないのは、このためでございます。ご幼少で、分別をお持ちでなかったころはなにごともなかったのでございますが、しだいにお歳も召されまして、何ごとも分別のおできになる今になって、罪の啓示があるのです。 あらゆることは、親の世代から始まるのでございます。何の罪ともお気づきになれないことが恐ろしいあまり、意識せぬようにして参りましたことを、あらためて心から表に出してしまったのでございます」と、泣く泣く申し上げるうちに、すっかり夜が明けたので退出した。
あまりのことに、帝は返事もできません。余計なことを言ったのか、と思った僧都は帰ろうとしますが、帝は呼び止めます。仏教では、三宝の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩を四つの恩として重視しますが、そのうちの父の恩を知らずに生きていくことになるのであれば、これまでこの事を知らなかったのが来世までの罪障になると考えています。気になることは、ほかに知っている者がいるかどうかです。僧都がいうにはもうひとり「王命婦」が知っているとのことです。この人物は藤壺の女房で、かつて光源氏を手引きした人です(若紫巻)。この事を帝が知らないゆえにこのところしきりに天変が起こっているというのです。
上は、夢のやうにいみじきことを聞かせたまひて、いろいろに思し乱れさせたまふ。故院の御ためもうしろめたく、大臣のかくただ人にて世に仕へたまふも、あはれにかたじけなかりけること、かたがた思し悩みて、日たくるまで 出でさせたまはねば、かくなむと聞きたまひて、大臣も驚きて参りたまへるを、御覧ずるにつけても、いとど忍びがたく思し召されて、御涙のこぼれさせたまひぬるを、おほかた故宮の御事を、干る世なく思し召したるころなればなめり、と見たてまつりたまふ。
帝は、夢のように重大なことをお聞きになってさまざまに思い乱れていらっしゃる。亡き父院の御ためにも気がかりなことであり、源氏の大臣がこうして臣下として仕えていらっしゃるのもしみじみと畏れ多いことだったと、あれこれお悩みになって、日が高くなるまでお出ましにならないので、こういうご様子だとお聞きになって源氏の大臣も驚いて参内なさったのだが、それをご覧になるにつけても、いっそうこらえがたくお思いになられて、御涙がついこぼれておしまいになったのを、およそ亡き母宮の御事を涙のかわくまもなくお思いになっていらっしゃるころだからのようだ、と拝見なさっている。
少年天皇は心が千々に乱れます。しかし密通を犯した光源氏と藤壺に対して憎しみを抱くのかというと、そうではないようです。むしろ実の父である光源氏が臣下として自分に仕えていることを畏れ多いと感じています。そうこうしているうちに日が昇るのですが、天皇は夜の御殿(よるのおとど。天皇の寝所)から出てきません。光源氏は何ごとかと思ってやってきましたが、天皇の心を知ることはできないのです。
その日、式部卿の親王(みこ)亡せたまひぬるよし奏するに、いよいよ世の中の騒がしきことを嘆き思したり。かかるころなれば、大臣は里にもえまかでたまはで、つとさぶらひたまふ。しめやかなる御物語のついでに、「世は尽きぬるにやあらむ。もの心細く例ならぬ心地なむするを、天の下もかくのどかならぬに、よろづあわたたしくなむ。故宮の思さむところによりてこそ世間のことも思ひ憚りつれ、今は心やすきさまにても過ぐさまほしくなむ」と語らひきこえたまふ。「いとあるまじき御ことなり。世の静かならぬことは、かならず政(まつりごと)の直(なほ)くゆがめるにもよりはべらず。さかしき世にしもなむ、よからぬことどももはべりける。 聖の帝の世にも、横さまの乱れ出で来ること、唐土(もろこし)にもはべりける。わが国にもさなむはべる。まして、ことわりの齢どもの、時至りぬるを、思し嘆くべきことにもはべらず」など、すべて多くのことどもを聞こえたまふ。片はしまねぶも、いとかたはらいたしや。
その日、桃園式部卿の親王(桐壷院の弟。朝顔の父)がなくなったことを奏上してきたので、ますます世の中の騒がしいことをお嘆きになっている。このような事態なので、源氏の大臣は里に退出なさることもおできにならず、帝にぴったりと寄り添っていらっしゃる。しんみりとしたお話のついでに、「私の寿命は果ててしまうのであろうか。何か心細く気分もよくないのだが、世の中がこんなに騒がしいありさまで、何かと落ち着かなくて。亡き宮がどうお思いになるかと思って、世の中のことについても遠慮していたのですが、もう心穏やかに過ごしたいと思っているのです」とお話し申し上げなさる。「まったくとんでもないことです。世の穏やかでないことは、必ずしも政治がただしいとか間違っているということによるのではございません。賢帝の世にかぎってよからぬこともいろいろあったのでございます。 聖帝の世にも、非道な混乱が起こることは、唐土にもございました。わが国にでもそうなのでございます。まして、亡くなっても仕方ない年齢の人たちが、その時がきたことを思い嘆かれるべきではございません」などと、多くのことをまとめて申し上げなさる。その一部を書き記すのもまったくきまり悪いことよ。
太政大臣、藤壺に続いて、桃園式部卿まで亡くなりました。僧都から驚くべきことを聞いた後だけに、帝は自分が帝位にあってはいけないのではないかと思いこみます。「今は心やすきさまにても過ぐさまほしくなむ」というのは退位してゆっくり過ごしたい、という意味です。光源氏は驚いて、今の世の中の天変や凶事は帝のせいではないこと、こういうことは唐土にも例があること、日本にも例があったこと、亡くなった方については寿命であること、などを語ります。なお、日本での「横さまの乱れ」については、古来延喜の聖代(醍醐天皇の時代)における菅原道真の左遷を例に挙げて説明されることがあります。
最後の文の「片はしまねぶも、いとかたはらいたしや」は語り手の言葉で、女性である自分んはこういう政治向きのことは書かない方がいいだろう、という気持ちがあります。
常よりも黒き御装ひに、やつしたまへる御容貌(かたち)違ふところなし。上も、年ごろ御鏡にも思しよることなれど、聞こし召ししことの後は、またこまかに見たてまつりたまひつつ、ことにいとあはれに思し召さるれば、いかで、このことをかすめ聞こえばやと思せど、さすがに はしたなくも思しぬべきことなれば、若き御心地につつましくて、ふともえうち出できこえたまはぬほどは、ただおほかたのことどもを、常よりことになつかしう聞こえさせたまふ。うちかしこまりたまへるさまにて、いと御けしきことなるを、かしこき人の御目にはあやしと見たてまつりたまへど、いとかくさださだと聞こし召したらむとは思さざりけり。
普段よりも、喪服のために地味になさっているお顔立ちはそっくりである。帝も、何年ものあいだ、鏡をご覧になっても、思い当たられることではあるが、僧都の話をお聞きになってからは、またこまごまと源氏の君を拝見なさってはしみじみとお感じになることが多いので、なんとかしてこのことをそれとなく申し上げたいものだ、とお思いになるのだが、そうはいってもきまり悪くお思いになるはずのことだから、帝の若いお心では憚られて、急には口にお出しになれないので、そのあいだは、ただ一般の話を普段よりは格別親しみを込めて申し上げなさる。かしこまったご様子で、まるでいつもと違ってお見えになるのを、賢明な源氏の大臣の目には、妙だと拝見なさるのだが、こんなにはっきりとお聞きになっていらっしゃるとはお思いにはならないのであった。
帝は、自分が光源氏と似ていることはかねてから感じていたのですが、今こうして間近に見るといっそうその思いを深くするのです。それらしいことを言ってみようかと思わないでもないのですが、そうなると光源氏が奥底も否定もしかねるきまり悪い思いをするだろうと察してそこまでは言えないのです。光源氏は帝の様子に奇妙な印象は持つのですが、だからといってまさか事実をはっきり知ったとは思いもよらないのです。
※まもなく6月30日です。それに絡めて、28日と30日に大祓に関する記事を書きます。
お時間がございましたらお読みください。
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- [2020/06/25 00:00]
- 平安王朝 和歌 |
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デマ、フェイク
少し前のことになるのですが、私がしばしば行くところにパトカーが集まっていました。警官もうろうろしていて、何事があったのだろう、という感じでした。あまり気にも留めなかったのですが、その夜にその場所で事件があったといううわさが流れているのに気づきました。ネット上ではそれなりに大きな広がりを見せていました。それはそうでしょう、パトカーが何台もサイレンを鳴らして集まっているのであれば穏やかなことではなさそうです。
さらに少し前に、兵庫県で
ボウガン
を使った家庭内での不幸な出来事がありましたので、もう今やどこで何が起こるかわかったものではない、という気がします。
というわけで、この事件もかなり信じてしまったのです。
ところが、ネットニュースを見ても何らそういう話は書かれていません。
どうもおかしいぞ、という気がしてきました。
わざわざ噂を聞いて警察に問い合わせた方もいらっしゃったそうで、結局は
デマ
だったのだろう、というのが結論のようです。
実は、次の日に「現場」の近くを通りましたので様子を伺ったら、普通に犬の散歩をされている方があり、実に平和な風景でした。
こういうデマを信じてしまうのはやはり世の中の不穏さと無縁ではないように思います。
しかし、それを逆手にとって、気に入らないことは何でもフェイクニュースだと言うどこかの大統領もいますけどね。
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- [2020/06/24 00:00]
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パソコンで見られるように
私は、家ではパソコンがネット接続されていません。やむを得ずこのブログは携帯か、公の場で見ることにしているのです。ところがその公の場では、このブログは、品位にかけるというので長らく閲覧停止になっていました。
そうかなぁ、品がないかなぁ、と思うものの、表示される閲覧できない理由というのが、記事の中にある言葉が入っているからだ、というのです。その言葉は読みようによっては品がないかもしれませんが、日常的にいくらでも使われている言葉なので、私はまるで納得がいきませんでした。確かに検索してみるとそういう言葉が出てきたのです。しかしそれは平安時代の装束に関して書いたものであって、妙なものではなかったのです。で、その言葉って何なの、と言われましても、それをここに書くとまた文句を言われる可能性があります(笑)。
ともかく、品がないといわれるなら、とりあえずその言葉を消してみたのですが、それでもダメなものはダメらしいです。
そこで、パソコンの苦手な私ですが、何とか苦労して
クレーム
をつけることにしました。
そういう言葉は使っていませんので、速やかに閲覧できるようにしてください、というお願いをしたのです。
なぜこんなお願いをしなければならないのか、と思わないでもないですが、相手は機械のことですから仕方がありません。
そのクレームも1度ではなく、2,3回出してみました。すると最近やっと反応があって、検討する、というようなことがメールで連絡されてきました。
こうなれば、なんといってもこの
品位ある(!)ブログ
ですから問題なく閲覧できるようになるだろうと思っていました。
するとそれから数日後に、晴れて閲覧できるようになったのです。おかげで、とてもスムーズに記事も書けるようになり、ありがたい限りです。
もう二度とこういうことのないようにお願いしたいものです。
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- [2020/06/23 00:00]
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源氏物語「薄雲」(3)
皆さま、こんにちは。
私は、普段の講座で昔の仮名文字を読んでいただく練習もしています。
久しぶりにここでそれをやってみましょう。正解は次回書きます。
次の文字を読んでみてください。
明石の君は重い決断をして姫君を紫の上に預けました。
わが子を手放したほうが幸せになる、という逆説的な考え方は正しいのか、という問題は、何も平安時代の貴族の話だけには限らないと思います。事情は違いますが、子供を育てる経済力も自信もない人が、親子心中したり、子供を殺したりすることもあり、それを避けるために「赤ちゃんポスト」というシステムがあります。赤ちゃんを手放すのがつらくても、この子の幸せのために、という思いでそれを利用する母親もいるでしょう。そう考えると、この問題は普遍的なものといえるようにも思うのです。
明石の君と姫君にまつわる話はこれで一段落します。
そのころ、太政大臣(おほきおとど)亡(う)せたまひぬ。世の重しとおはしつる人なれば、おほやけにも思し嘆く。しばし籠もりたまひしほどをだに、天の下の騷ぎなりしかば、まして悲しと思ふ人多かり。源氏の大臣(おとど)もいと口惜しく、よろづのことおし譲りきこえてこそ暇もありつるを、心細く事しげくも思されて嘆きおはす。帝は、御年よりはこよなうおとなおとなしうねびさせたまひて、世のまつりごともうしろめたく思ひきこえたまふべきにはあらねども、またとりたてて御後見(うしろみ)したまふべき人もなきを、誰(たれ)に譲りてかは静かなる御本意もかなはむ、と思すに、いと飽かず口惜し。後の御わざなどにも、御子(みこ)ども孫(むまご)に過ぎてなむ、こまやかにとぶらひ扱ひたまひける。
そのころ、太政大臣がお亡くなりになった。世の重鎮となっていらっしゃった方なので、帝もお嘆きになる。しばらく隠居されていたどきでさえ、天下の一大事であったので、ましてこのたびは悲しいと思う人が多い。源氏の大臣もとても残念で、政務万事を無理にお譲り申し上げたからこそゆとりもあったのだが、心細くまた何かと忙しくなることとお思いになって嘆いていらっしゃる。帝は、御年よりは格段に大人らしく成長なさっていらっしゃって、世の政務について気がかりにはお思い申し上げなさることはないだけれども、ほかにこの人と言って確かな後見をなさるべき人もいないので、静かな暮らしをしたいという本願はどなたにお譲りすればかなうのだろうか、とお思いになるのだが、まったく不満で残念なのである。ご葬儀などにも、お子様方やお孫様方以上にこまごまとお世話をなさった。
「そのころ」と言って、明石の君にまつわる話から違う話に進むことが示されます。
太政大臣は葵の上の父で、元の左大臣です。桐壷院が亡くなったあと、右大臣一派が世の中を牛耳るようになり、左大臣は引退を表明して引きこもってしまいました(賢木巻)。しかし朱雀帝が譲位して冷泉帝の世となると、光源氏が内大臣として政務をとりつつも摂政となることは重荷だとして左大臣に復帰してもらい、太政大臣となって新帝の摂政を務めることになったのでした(澪標巻)。「世の重し」は「重鎮」のことで、「世の重しとものしたまへる大臣」(賢木巻)ともいわれていました。「しばし籠りたまへりしほど」というのは「賢木巻」で引退したときのことです。「よろづのことおし譲り」は光源氏が「さやうのことしげき職にはたへずなむ(そのような煩瑣な職は過重だ)」として太政大臣に摂政を無理に譲ったことを言います。冷泉帝は年齢より大人びているとありますが、このときまだ十四歳です。誰にも摂政を任せることもできないだけに、光源氏は出家の本意もかなう日は遠いと感じます。
さて、話が変わって、まずは太政大臣の薨去が伝えられます。太政大臣になった三年前が「六十三にぞなりたまふ」(澪標巻)でしたので、このとき六十六歳でした。新しい話はどうも不穏なもののようです。
その年、おほかた世の中騒がしくて、おほやけざまにもののさとししげく、のどかならで、天つ空にも例に違へる月日星の光見え、雲のたたずまひあり、とのみ世の人おどろくこと多くて、道々の勘文どもたてまつれるにも、あやしく世になべてならぬことども混じりたり。内の大臣のみなむ、御心のうちにわづらはしく思し知らるることありける。
その年、世の中が何かと騒がしくて、朝廷に関わることで、何かの前兆がしばしばあって穏やかならず、天空にもいつもとは違った月、日、星の光が見え、雲の姿がある、とばかり、世の人のおどろくことが多くて、それぞれの道の勘文を差し上げるものにも、不思議なほど世の中に普通ではないことがいろいろ混じっている。内大臣だけは、御心の中に厄介なことが思い知られることがあったのである。
やはり何やら不穏な空気が漂います。「世の中騒がしく」という表現は疫病の流行の際にしばしば用いられるもので、ここもそういうことを感じさせます。しかも朝廷に関わることで何か問題がありそうな前兆があると言います。日、月、星の異常というのは、例えば日食、月食、星食などが挙げられ、ほかにも雲の動き、虹など、空に見えるものが異常なことがあると、天文博士などがそれを発見して報告することがありました。「道々の勘文」というのは、陰陽道はもちろん、神祇官や学者などが昔の記録を調べて、天体の不穏な動きの持つ意味(「内乱があります」のなど)を報告するのです。そして、他の人が不思議に思っている一方で、光源氏ひとりはあれが原因ではないか、と、藤壺との密通の事を思い出したりするようです。古注釈の『孟津抄』は「源はかり天変を心に置きたまふ也藤壺の事を源心にふくみ給ふ也(光源氏だけが天変を自分のことと感じていらっしゃるのである。藤壺のことを光源氏は心に置いていらっしゃるのである)」と言っています。
入道后の宮、春のはじめより悩みわたらせたまひて、三月にはいと重くならせたまひぬれば、行幸(ぎやうがう)などあり。院に別れたてまつらせたまひしほどは、いといはけなくてもの深くも思されざりしを、いみじう思し嘆きたる御けしきなれば、宮もいと悲しく思し召さる。「今年は、かならず逃るまじき年と思ひたまへつれど、おどろおどろしき心地にもはべらざりつれば、命の限り知り顔にはべらむも、人やうたて、ことことしう思はむと憚りてなむ、功徳のことなども、わざと例よりも取り分きてしもはべらずなりにける。参りて、心のどかに昔の御物語もなど思ひたまへながら、うつしざまなる折少なくはべりて、口惜しく、いぶせくて過ぎはべりぬること」と、いと弱げに聞こえたまふ。 三十七にぞおはしましける。されど、いと若く盛りにおはしますさまを、惜しく悲しと見たてまつらせたまふ。
入道后の宮(藤壺中宮)は春のはじめからずっとご病気でいらして、三月にはひどく重くなられたので、行幸などがある。父の桐壷院にお別れ申し上げなさったときは、とても幼くて深くお感じになることはなかったのだが、このたびはひどく思い嘆いていらっしゃるごようすなので、宮もたいそう悲しくお思いになる。「今年はどうにも逃れられない年と思っておりましたが、それほどひどく気分が悪いわけでもございませんでしたので命がいつ果てるかわかっているようにいたしますのも、人が『いやなことだ、おおげさだ』思うであろうと憚りまして、仏事のことなどもことさら普段よりもとりわけ熱心にしないままでございました。そちらに参ってゆっくりと昔のお話などもとは存じながら、気分のよい折が少ないものですから、残念で心の晴れないままに過ごしておりますことです」と、たいそう弱々しく申し上げなさる。 三十七歳でいらっしゃるのであった。それでも、とても若く盛りでいらっしゃる様子を、惜しく悲しいと拝見なさる。
藤壺中宮が重い病気になっています。三十七歳は重厄の年です。冷泉帝が見舞いに藤壺の住む三条宮まで行きます。天皇は気軽に外出はできませんので、こういう場合も「行幸」などという大げさな名前がつきます。帝は父桐壷院と死別した時はまだ五歳(今で言うなら幼稚園の年少組)で、あまり詳しいことは覚えていないのです。それだけにこのたびはとても悲しい気持ちになっています。藤壺は、厄年だけに本来なら仏事を熱心にしなければならないのですが、それを十分にはしてこなかったと言います。内裏に参上していろいろ昔の話もしたいのですがそれもかなわないままです。
帝は、母后が謹慎しなければならない年齢なのに、じゅうぶんなお祈りなどをしてこなかったことをひどく案じています。天皇という身分の制限のためにすぐに帰らねばならないのを、帝は残念に思います。藤壺中宮は苦しくてあまりものも言えないようすです。自分はこのうえない宿縁に生まれついたとは思うものの、人並み以上の苦しみもまた得てしまったと思っています。帝が誕生の事実(光源氏の実子であること)を知らないことだけが気がかりで、自らの亡きあとも妄執となってこの世に残るではないかと思っています。
光源氏も、太政大臣の逝去に続いて藤壺までが重体であることを嘆いています。また藤壺への秘めた思いも手伝って、精一杯の祈祷などをさせています。藤壺が出家して以来あきらめていて思慕の情をもう一度訴えたいと思いながらそれもできないことを残念に思っています。藤壺のすぐそば、几帳のもとに寄った光源氏は女房たちに藤壺の病状を尋ねます。女房が言うには、最近は柑子(みかんの類)さえも口にされない、とのことです。
「院の御遺言にかなひて、内裏(うち)の御後見仕うまつりたまふこと、年ごろ思ひ知りはべること多かれど、何につけてかは、その心寄せことなるさまをも漏らしきこえむとのみ、のどかに思ひはべりけるを、今なむあはれに口惜しく」と、ほのかにのたまはするも、ほのぼの聞こゆるに、御いらへも聞こえやりたまはず泣きたまふさま、いといみじ。などかうしも心弱きさまにと、人目を思し返せど、いにしへよりの御ありさまを、おほかたの世につけてもあたらしく惜しき人の御さまを、心にかなふわざならねばかけとどめきこえむ方なく、いふかひなく思さるること限りなし。「はかばかしからぬ身ながらも、昔より御後見仕うまつるべきことを、心のいたる限りおろかならず思ひたまふるに、太政大臣(おほきおとど)の隠れたまひぬるをだに、世の中心あわたたしく思ひたまへらるるに、またかくおはしませば、よろづに心乱れはべりて、世にはべらむことも残りなき心地なむしはべる」など聞こえたまふほどに、 ともしびなどの消え入るやうにて果てたまひぬれば、いふかひなく悲しきことを思し嘆く。
「院(桐壷)の御遺言のとおりに、帝の御後見としてお仕えなさっていることは、長年よく存じてはおりますが、どういう機会にありがたく思っている気持ちを少しでも申し上げようかとばかり、のんきにかまえていたのですが、今となってはしみじみと残念で」と、かすかな声でおっしゃるのもわずかに聞こえるので、お返事も申し上げきれずに泣いていらっしゃるご様子はとても切ないものである。どうしてこんなに気弱に、と、人目をはばかって気を取り直されるのだが、昔からの宮のご様子を、そして特別な気持ちを抜きにしてももったいないようなお人柄を、思うままにはならないものなのでこの世におとどめするすべもなく、いいようもなく思い悩まれることは限りないのである。「頼りにならない身ではございますが、昔から御後見申すべきことを、気のつく限り精一杯果たそうと存じておりましたが、太政大臣が亡くなられたことさえ世の移り変わりのあわたたしさが感じられますのに、またこのようなご容態でいらっしゃいますので、千々に心が乱れまして、私がこの世におりますのも残り少ないような気がしております」などと申し上げていらっしゃるうちに、 燈火などが消え入るようにして亡くなってしまわれたので、言いようもなく悲しいことを嘆いていらっしゃる。
藤壺の最後の言葉です。光源氏が桐壷院の遺言通りに帝の後見をしてくれることに感謝しています。桐壷院は「大将(光源氏)にも、おほやけに仕うまつりたまふべき御心づかひ、この宮(当時の春宮。冷泉帝のこと)の御後見したまふべきことをかへすがへすのたまはす」(源氏の大将にも、朱雀帝におつかえするための心がまえや春宮の後見をなさるようにということを繰り返しおっしゃる)」(賢木巻)というように、冷泉帝への後見を光源氏に強く依頼していました。藤壺はそのことへの感謝の気持ちを伝えたいと思いながらできなかったのが残念だ、と言います。この言葉は当然女房を介して光源氏に伝えられますから、彼女は光源氏への個人的な感情についてははっきりとは言えません。しかし光源氏が冷泉帝を大事にしてくれることは、二人(光源氏と藤壺)の間にできた子をいつくしんでくれることであり、彼女はそのことを感謝することによって光源氏への愛情を伝えているとも言えるのではないでしょうか。
光源氏は、かすかに藤壺の声を聞きました。彼女の最後の言葉を聞いたのは(女房は別として)まぎれもなく光源氏ひとりでした。そして光源氏が気力を振り絞って返事をしているときに、藤壺はその声に包まれるようにして「ともしびなどの消え入るやうにて」亡くなりました。「ともしびが消え入るように」というのは『法華経』「安楽行品」の釈迦の入滅を伝える「煙尽きて燈の滅するが如し」を念頭に置いた表現だとも言われます。藤壺は事実上光源氏ひとりに見取られて亡くなりました。
藤壺という人は世の人のために常に心を配る人でした。世の中には家柄がよいということだけで人のためにならないようなことをする者もありがちですが、藤壺はそういうことをする人ではなかったのです。仏事に関しても、派手なことをするのではなく、できる範囲で誠心誠意おこなったために、山伏のようなものまでが惜しみ申し上げました。
をさめたてまつるにも、世の中響きて、悲しと思はぬ人なし。殿上人など、なべてひとつ色に黒みわたりて、もののはえなき春の暮なり。二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴の折など思し出づ。「今年ばかりは」と、一人ごちたまひて、人の見とがめつべければ、御念誦堂に籠もりゐたまひて、日一日泣き暮らしたまふ。夕日はなやかにさして、山際の梢あらはなるに、雲の薄くわたれるが鈍色(にびいろ)なるを、何ごとも御目とどまらぬころなれど、いとものあはれに思さる。
入り日さす峰にたなびく薄雲は
もの思ふ袖に色やまがへる
人聞かぬ所なれば、かひなし。
ご葬送申し上げるに際しても、世の人は声を挙げて泣き、悲しいと思わない人はいない。殿上人などはおしなべて同じ黒一色になって、なんとなく映えない春の暮である。二条院の御前の桜を御覧になっても、あの花の宴のころなどをお思い出しになる。「今年ばかりは」と独り言をおっしゃって、人が見て怪しみそうなので、御念誦堂にお籠もりになって、一日中泣き暮らしていらっしゃる。夕日がはなやかにさして、山際の梢がはっきり見えるところに、雲の薄くたなびいているのが鈍色であるのを、何ひとつ御目にとまらないころではあるが、まことに悲しい気持ちになられる。
夕陽のさす峰にたなびく薄雲は
もの思う私の袖と色の見分けが
つかないようだ
誰も聞いていないところなので、歌を詠んでもかいのないことだ。
↑絵入源氏物語 薄雲
藤壺が亡くなったのは光源氏三十二歳の春の終わりでした。義理の母と言いながら藤壺はわずか五歳年上に過ぎないのです。葵の上は四歳、六条御息所は七歳年長でしたから、ほとんど差がありません。光源氏は二条院の桜を見ると、十二年前に内裏紫宸殿でおこなわれた花の宴を思い出します。そのとき光源氏は春鶯囀(しゆんあうてん)を舞い、藤壺は心の中で「おほかたに花のすがたを見ましかばつゆも心のおかれましやは」(密通の事など何も考えずにこの舞姿をみたのであったら、けっして心を隔てることはないでしょうに)と詠んだのです。「今年ばかりは」は「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け(深草の野辺の桜にもし心があるのなら、今年だけは墨染の色に咲け。藤原基経を悼む歌)」(古今集・哀傷・上野岑雄)によります。異様なまでに悲しむ姿を人に見とがめられてはいけないと思った光源氏は念誦堂に籠って泣いています。夕暮れの雲の色までが鈍色に見えます。「入り日さす」の歌は鈍色の雲が光源氏自身の喪服の袖の色とまがうようなものだと言います。申すまでもなく、この歌が「薄雲」巻の由来となったものです。
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- [2020/06/22 00:00]
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英和辞典
大学院の入試までは、英和辞典は必需品でしたが、さすがにその後は使う頻度が激減しました。英文を日常的に読むことがなくなったからです・
専門分野によっては、英語の専門家でなくても英語の文献を読むことは当たり前でしょうし、論文を英語で書くこともあります。
私の場合は日本語、特に古語に磨きを掛けねばならないこともあって(というのはいいわけなのですが)英語で文章を書くなど本当になくなりました。
ごくまれに、留学生が来て、
日本の文化
について話をする機会があり、そのときは数日前から必死で原稿を用意してしゃべったものでした。しかしそれも今は昔の物語です。
先日ここに書きましたが、竹取物語の英訳を読みました。辞書など持たずにざっと読んでみたのですが、何しろストーリーを知っていますので、けっこうすらすらと詠めるのです。ところが実際は分からない単語がいくつもあって、それは飛ばしていました。
きちんと読もうという段になると、やはり英和辞典が欠かせません。私が高校生の時に使っていたのは
研究社の英和中辞典
でした。用例がまずまずたくさん載っていたので重宝していました。ところがそれが行方不明で、やむをえず、予備校でバイトしていた時にもらった、やや薄めのものを使いました。これは何でもその予備校で推薦しているものだったそうで、バイト生には一冊もらえたのです(あの当時の予備校はもうかっていましたからね)。しかし、いずれも、もう何十年も前のものだけに、たとえばIT用語などが不十分ということがあります。
さいわい『竹取物語』にはIT用語が出てこないので(笑)これで十分。何とか無事に読むことができました。
いまどき、紙の辞書というのははやらない、というか、持っている人も減っているのかもしれません。しかし、私は紙の辞書が大好きですので、実は新しい英和辞典が欲しいという誘惑に駆られています。
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- [2020/06/21 00:00]
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夏の窓辺
ニンニクを収穫した後、今年の夏は野菜を育てる予定はありません。今は窓の外にネットを張って朝顔の種を蒔き、その横に鉢植えのグラジオラスを置いています。
どちらもぐんぐん大きくなっている途中です。朝顔は発芽するまでが心配ですが、芽を出しさえすればあとは水さえ与えておけば放っておいても大きくなる感じですし、グラジオラスは発芽も容易なのであまり気を使わなくて済みます。
しかし、梅雨入り直後にかなりひどい風が吹きました。そのときは朝顔の茎が折れるのではないかと案じられ、
過保護
かもしれないと思いつつ、支えを挿してそれに茎を絡ませて守ってやりました。グラジオラスはまだ茎が小さかったうえ、頑丈ですので問題ありませんでした。
どちらももう4,5年になるでしょうか。種や球根を入手したのはもちろん最初だけで、あとは繰り返しその子孫を育てています。
次々に花を咲かせる朝顔も、花茎を破って鮮やかな色の花を見せるグラジオラスも、それぞれに魅力があります。
朝顔に申し訳ないのは窓やネットの高さが180㎝であること。それ以上は伸ばさずに、横に広がってもらおうと思っています。
グリーンカーテン
のまねごともできるのですが、株数も少なく、難しいかもしれません。
秋になったらまた何か越冬する野菜を植えてみたいという思いがあります。ニンニク、タマネギ、イチゴなども候補です。
それまでは花をめでることにいたします。
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- [2020/06/20 00:00]
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6月のニンニク
昨年の9月から始めたニンニク作りがついにゴールを迎えました。芽が出るかどうか、茎や葉が伸びるかどうか、枯らせてしまわないか、虫は付かないか、病気はしないか、と子どもをいつくしむようにしてきました。
4月の終わりごろに花茎が出てきましたので、それはカットして、もうあとは栄養が土の中に還流して大きくなるかどうかを待つばかりになりました。なにしろ成果が土の中にあるので、収穫するまでどんなものができているのかさっぱりわかりません。
5月半ばころから葉が徐々に枯れ始め、月末には半分ほど枯れてしまいました。ネット上のいろんなところに
収穫のタイミング
の解説が載っているのですが、あるものには花茎がついてから20日くらいで、と書かれており、あるものには葉が3~5割枯れたとき、またあるものには葉が8割枯れたとき・・・など諸説紛々です。花茎云々はいくらなんでも早いと思いましたので却下。そこで、葉が枯れるのが3割~8割のうちのいずれかの時点で収穫することにしました。ではどの時点で?
実はもうひとつ、晴れた日が2、3日続いたころに、と書かれているものが多くありましたので、この条件に合う日を選ぼうと思いました。実は5月の後半はぐずついた天気の日が多く、そのあたりはやめました。そして5月末にややうっとうしい日があったあと、気温が上がって晴れることがありましたので、このへんで、ということにして葉を見ると、8割がた枯れていました。これはもうピタリですね。
9か月近く
ほとんど毎日見てきたものですから、いざ収穫するとなると、なんだかもったいないような(笑)気がします。しかし、この機会を逃すまいと、茎の下のあたりを持ってぐいと引っ張ると「抜ける」という手ごたえがありました。そしてもう一度引っ張ると白くてきれいなニンニクが出てきました。
この一瞬のために9か月間世話をしてきたようなもので、とても嬉しい気持ちになりました。
この秋も植えてみようかな・・・。
↑収穫したニンニク
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- [2020/06/19 00:00]
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源氏物語「薄雲」(2)
暗くなってから二条院に着きました。あまりにも華やかな屋敷だけに、お仕えする人たちの田舎暮らしに馴れた目には不安もまじりますが、紫の上の住む西の対の西側を姫君のためにことさらに整えさせてあります。乳母の局(つぼね)は寝殿と西の対をつなぐ渡殿の北を与えました。
若君は道にて寝たまひにけり。抱(いだ)き下ろされて、泣きなどはしたまはず。こなたにて御くだもの参りなどしたまへど、やうやう見めぐらして、母君の見えぬをもとめてらうたげにうちひそみたまへば、乳母召し出でて慰め紛らはしきこえたまふ。山里のつれづれ、ましていかに、と思しやるはいとほしけれど、明け暮れ思すさまにかしづきつつ見たまふは、ものあひたる心地したまふらむ。いかにぞや、人の思ふべき瑕(きず)なきことは、このわたりに出でおはせで、と、口惜しく思さる。しばしは人々もとめて泣きなどしたまひしかど、おほかた心やすくをかしき心ざまなれば、上にいとよくつき睦(むつ)びきこえたまへれば、いみじううつくしきもの得たり、と思しけり。ことごとなく抱き扱ひ、もてあそびきこえたまひて、乳母も、おのづから近う仕うまつり馴れにけり。また、やむごとなき人の乳ある、添へて参りたまふ。
若君は途中で寝ておしまいになっていた。抱きおろされても泣きなどはなさらない。こちらでお菓子を召し上がるなどなさるが、だんだんと見回して、母君が見えないのを探して、いじらしげにべそをかいていらっしゃるので、乳母をお呼び出しになって、お慰めしたりお気を紛らわしたりしてさし上げなさる。山里の所在なさは、以前にもましてどうであろうか、とお思いやりになると気の毒であるが、明け暮れ思いどおりに大切にお世話なさるのは、これでいいのだという気持ちになられるだろう。どういうものか、世間がとやかくいうようなことがないためには、こちらにはお生まれになればいいのだがそうはいかないで、と残念にお思いになる。姫君は、しばらくの間は女房たちを探して泣いたりなさったが、だいたいが人懐っこくてかわいらしい性質なので、上(紫の上)にたいそうよくなついていらっしゃるので、上は、とてもかわいらしい子を得た、とお思いになった。余念なく抱いたりあやしたりなさって、乳母も自然とお側近くにお仕えすることに慣れたのであった。また、身分の高い人で乳の出る人を乳母として加えておあげになる。
姫君は車の中で寝てしまったのですが、到着してからは特にひどく泣くわけでもなく「くだもの」(本来は「木の実」のこと。ここでは菓子類)などを食べたりもしています。ただ、母親がいないことに気が付くと不安が募るようです。乳母はそのときの慰めとしても重要な存在です。光源氏は、紫の上にこのような子ができたら、と思わずにはいられないのですが、紫の上はかわいい子を得た、と喜んで、飽きる様子も見せずかわいがっています。当時は断乳するのが今より遅かったようで、姫君はこの時点で生後2年9か月ですが、菓子も食べるものの、まだ母乳が欠かせません。そこで、新たに母乳のよく出る、しかもそれなりに高い身分の乳母を加えるという厚い待遇で育てられます。
袴着がおこなわれ、明石の姫君は紫の上の養女として新たな人生を進むことになります。大堰では、尼君もあれほど気強く養女にすることを勧めたものの、やはり寂しさは隠せず、涙もろくなっています。しかし姫君が大切にされていることが伝えられると嬉しくもあるのです。明石の君は歳末の贈り物を乳母や姫君の女房たちに贈ります。ほんとうは姫君のものも贈りたいのですが、それは姫君がわが子ではなくなった今となっては出過ぎたことです。このあたりの分別や節度の確かな点は明石の君らしいところです。光源氏は、明石の君を訪問しなければ、やはり姫君だけが目当てだったのだと思われるのが不憫なので、年内に一度訪れもしました。さらにその後も手紙のやりとりをするのですが、紫の上は今となってはそれを恨むこともなく、姫君に免じて大目に見るようになりました。
こうして新年を迎えました。光源氏・三十二歳、紫の上・二十四歳、明石の君・二十三歳、明石の姫君・四歳、冷泉帝・十四歳、斎宮女御・二十三歳、そして藤壺中宮は厄年の三十七歳になりました。二条院はいかにも華やかで、誰一人何の不足もないかのような、よろこびに満ち溢れたようすです。
東(ひむがし)の院の対の御方も、ありさまは好ましうあらまほしきさまに、さぶらふ人々、童べ(わらはべ)の姿などうちとけず、心づかひしつつ過ぐしたまふに、近きしるしはこよなくて、のどかなる御暇(いとま)のひまなどには、ふとはひ渡りなどしたまへど、夜たちとまりなどやうに、わざとは見えたまはず。ただ御心ざまのおいらかにこめきて、かばかりの宿世なりける身にこそあらめ、と思ひなしつつ、ありがたきまでうしろやすくのどかにものしたまへば、をりふしの御心おきてなども、こなたの御ありさまに劣るけぢめこよなからずもてなしたまひて、あなづりきこゆべうはあらねば、同じごと、人参り仕うまつりて、別当(べたう)どもも事おこたらず、なかなか乱れたるところなく目やすき御ありさまなり。
東の院の対の御方(花散里)も、日々のお暮らしぶりは、好ましく、かくありたいと思われるほどで、お仕えする女房たちや女童の姿などは節度があって、何かと気を遣いながらお過ごしになっているのだが、源氏の君の近くに住むという利点はこのうえないもので、のびりとしたお休みの時などには、急においでになったりなさるのだが、夜にお泊りになるというようにわざわざお見えになることはない。ただ御気性が鷹揚で子どもっぽいところがあり、これくらいの宿世であったわが身だったのだろう、と思うようにして、まれに見るほど心安く穏やかにしていらっしゃるので、折々のご配慮なども、こちらの君(紫の上)のお扱いに劣るような差別をそれほどにはなさらないようにしていらっしゃって、軽んじ申すことは誰にもできないので、紫の上同様に、女房はこちらに参ってお仕えして、別当(二条東院の政所の長)たちもないがしろにせず、二条院よりもかえって乱れたところもなく安心していられるお暮らしぶりなのである。
花散里の話です。「松風」巻に、二条東院の女主人の形で暮らし始めたことが記されていました。もう一度この人物を振り返っておきます。この人は桐壷帝の女御であった麗景殿(れいけいでん)女御の妹に当たる人です。麗景殿女御は桐壷院が亡くなったあとは、子もいないのでひっそりと光源氏の庇護を受けながら暮らしていました。光源氏はその妹の三の君(花散里)と以前内裏で忍び逢う関係になったことがあり、女御と同居していた彼女を訪ねたことが「花散里」巻に見えるのです。「花散里」というのは光源氏が詠んだ「橘の香をなつかしみほととぎす花散里をたづねてぞ訪ふ」(昔の人を思い起させるという橘の香を懐かしく思って、ほととぎすは橘の花の散る里を探してやってきます。私もまた父院のことを懐かしく思って、こちらを訪ねてきたのです)という歌によります。今、花散里は二条東院の西の対に住んでいます。
彼女は誰からも嫌われることのないつつましい暮らしをしていて、明石の君のように離れたところに住むのではなく、光源氏の住まいのすぐ東にいるため時には訪れもあります(夜を共にすることはありませんが)。この程度の宿命として生まれてきたのだろう、と自分に言い聞かせるようにして穏やかに暮らしているために、光源氏は折々に支援を惜しまないのです。波風を立てることがありませんから、二条院以上に安定した暮らしぶりが続いています。この花散里の好ましい暮らしぶりははるか西の大堰で暮らす明石の君のこのあとに描かれる生き方に通ずるものがあるかもしれません。
山里のつれづれをも絶えず思しやれば、公私(おほやけわたくし)もの騒がしきほど過ぐして渡りたまふとて、常よりことにうち化粧(けさう)じたまひて、桜の御直衣(なほし)に、えならぬ御衣(ぞ)ひき重ねて、たきしめ、装束(さうぞ)きたまひて、まかり申したまふさま、隈なき夕日にいとどしくきよらに見えたまふ。女君、ただならず見たてまつり送りたまふ。
大堰の山里の所在なさをも絶えずお思いやりになっているので、公私ともにあわただしい折を過ごしておでましになるというので、普段より特別に身づくろいをなさって、桜襲(さくらがさね。春の色目。表が白、裏は二藍)の御直衣に、なんともいえないお召し物を重ねて、香をたきしめ、装束をお着けになって、お出かけの挨拶をなさる様子は、隈なく射しこむ夕日に映えていっそう美しくお見えになる。女君は、ただならぬお気持ちでお見送り申し上げなさる。
世の中が新年の祝いに興じているのに対して、明石の君は何もすることがない寂しさを覚えているはずです。そのことを気に掛ける光源氏は、正月の公私にわたる行事が一段落したころに出かけることにします。春の装束の桜襲の直衣にお香を焚きしめて、化粧もしているでしょう。その様子がまた夕陽に映えるものですから、紫の上は悲しみを増すのです。先に、光源氏が明石の君の無聊を慰める手紙をしばしば送っても「女君(紫の上)も今はことに怨じきこえたまはず、うつくしき人に罪ゆるしきこえたまへり」とありましたが、目の前でめかしこんでいる光源氏を見るとまだまだ嫉妬の心は収まりません。
姫君は、いはけなく御指貫(さしぬき)の裾にかかりて慕ひきこえたまふほどに、外(と)にも出でたまひぬべければ、立ちとまりて、いとあはれと思したり。こしらへおきて、「明日帰り来む」と、口ずさびて出でたまふに、渡殿(わたどの)の戸口に待ちかけて、中将の君して聞こえたまへり。
舟とむる遠方人(をちかたびと)のなくはこそ
明日帰り来む夫(せな)と待ち見め
いたう馴れて聞こゆれば、いとにほひやかにほほ笑みて、
行きて見て明日もさね来むなかなかに
遠方人は心置くとも
何ごととも聞き分かでされありきたまふ人を、上はうつくしと見たまへば、遠方人のめざましきもこよなく思しゆるされにたり。
姫君は、頑是なく御指貫(裾を紐でくくった袴の一種)の裾にまとわりついてあとを追ったりなさるうちに、御簾の外にも出でおしまいになりそうなので、源氏の君は立ちどまって、とてもいじらしいとお思いになっている。なだめておいて、「明日帰り来む」と、口ずさんでお出かけになるので、女君は渡殿の戸口で待っていて、中将の君を通して申し上げなさった。
あなたさまという「舟」をとめる
「遠方」の奥様がいないのでした
ら「明日帰ってこよう」とおっし
ゃるのをあてにしてお待ちするの
でしょうが。
中将の君はとても物馴れた様子で申し上げるので、源氏の君はとてもはなやかかようすでほほえんで、
あちらに行ってようすを見て明日
になったらほんとうに帰ってきま
しょう。そのことであちらがお気
を悪くなさっても
何のことともお聞き分けになれないでふざけて歩き回っていらっしゃる人を、上はかわいいものとご覧になるので、あちらの人に対する癪に障る思いもずいぶん大目に見ようというお気持ちになっていらっしゃる。
嫉妬する紫の上に対して、無邪気な姫君は光源氏にまとわりついて離れません。「外にも出でたまひぬべければ」とありますが、深窓の姫君はめったに御簾の外に出るものではないので、光源氏は立ち止まるのです。「明日帰り来む」というのは催馬楽「桜人」の一節によるものです。この歌詞は夫と妻の掛け合いのようになっているもので
【夫の詞】
さくら人、その舟止(ちぢ)め、
島つ田を、十町作れる、見て帰り
来むや、そよや、明日帰り来む、
そよや、
【妻の詞】
言(こと)をこそ、明日とも言は
め、遠方(をちかた)に、妻(め)
ざる夫(せな)は、明日もさね来
じや、そよや、さ、明日もさね来
じや、そよや
という内容です。意味は
さくら人(作良という土地の人の
意味か)は、その舟を止めて島の
田を十町作っているのを見てかえ
って来よう、そうだよ、明日帰っ
て来よう、そうだよ。
口では明日と言っても、あちらに
は妻のあるあなたは、明日もほん
とうには帰ってこないでしょう、
そうよ、さ、明日も帰ってこない
でしょう、そうよ。
というもので、ここでいう「遠方の妻」が明石の君に当たります。
この時、紫の上の歌を光源氏に伝える「中将の君」は紫の上の女房ではあるのですが、それだけでの人ではないのです。「中将、中務やうの人々には、ほどほどにつけつつ情けを見えたまふ」(澪標巻)とあるように、光源氏のひそかな愛人でもあるのです。こういう立場の女性を「召人(めしうと)」といいました。
紫の上の歌は「舟」を光源氏に、「遠方人」を明石の君に喩えています。あちらにそういう人がいらっしゃらなければ安心してお待ちしていますが、というのです。光源氏はそれに対して「さね来む(ほんとうに帰って来よう)」と言います。紫の上はこれまでならさらに嫉妬していたでしょうが、姫君が何も知らずにはしゃいでいるのを見ると、以前ほどには嫉妬の炎は燃やさなくなっています。紫の上の明石の君への感情は「めざまし」という言葉で表現されますが、これは見下すような相手がなかなか力を持っている場合に「しゃくにさわる」「不愉快だ」という意味で用いられます。
↑指貫(はかま)。全体は夏の冠直衣装束
いかに思ひおこすらむ。われにて、いみじう恋しかりぬべきさまを、と、うちまもりつつ、ふところに入れて、うつくしげなる御乳をくくめたまひつつ、戯れゐたまへる御さま、見どころ多かり。御前なる人びとは「などか、同じくは」「いでや」など、語らひあへり。
こちらのことをどのように思いやっているのだろうか、自分のことと考えたら、ほんとうに恋しいであろう姫君の様子なのだから、とじっと見つめながら、懐に抱えるようにして、かわいげな乳房をふくませながら、戯れていらっしゃるご様子は、見た目にもすばらしい。御前の女房たちは、「どうして同じことなら」「いやもう」などと語り合っている。
紫の上は、女としては明石の君に今なお不快感を抱いていますが、子を持ちながらその子を育てられない悲しみには同情を禁じ得ません。もし自分があちらの立場だったら、こんなにかわいい子をどうして手放せようかと思いめぐらします。そして、実際は母乳は出ないわけですから、「戯れ」にそのまねごとをしてかわいがっています。それをみる女房たちは「同じことなら実のお子様にこういうことをなされたらいいでしょうに」「いやもう思いのままにはならないものですね」などと話し合っています。」
かしこには、いとのどやかに、心ばせあるけはひに住みなして、家のありさまも、やう離れめづらしきに、みづからのけはひなどは、見るたびごとに、やむごとなき人びとなどに劣るけぢめこよなからず、容貌(かたち)、用意あらまほしうねびまさりゆく。ただ、世の常のおぼえにかき紛れたらば、さるたぐひなくやはと思ふべきを、世に似ぬひがものなる親の聞こえなどこそ苦しけれ、人のほどなどはさてもあるべきを、など思す。はつかに、飽かぬほどにのみあればにや、心のどかならず立ち帰りたまふも苦しくて、「夢のわたりの浮橋か」とのみうち嘆かれて、箏(さう)の琴のあるを引き寄せて、かの明石にて、小夜(さよ)更けたりし音(ね)も、例の思し出でらるれば、琵琶をわりなくせめたまへば、すこし掻き合はせたる、いかで、かうのみひき具しけむと思さる。若君の御ことなどこまやかに語りたまひつつおはす。
あちら(大堰)では、とてものんびりと、心用意のある様子で暮らしていて、家のありさまも、ありきたりのものとは違って珍しいうえに、女君自身の物腰などは、逢うたびに、高貴な人たちなどに劣るようなことはちっともなくて、容貌や心がまえは申し分ないようにますます整っていく。ただ普通の人だという程度で目立つことのない人であれば、こういう人もないことはあるまいと思うであろうが、世にまたとないひねくれものの親の評判などが困ったものだ、身分はしかるべきものであるのに、などとお思いになる。まれなご訪問で、物足りなさばかりお感じになるからか、あわただしくお帰りになるのもつらくて、「夢のわたりの浮橋か」とばかりついため息がもれて、箏の琴があるのを引き寄せて、あの明石で、夜更けに聴いた音も、いつものようにお思い出しになったので、琵琶をぜひにと催促なさると、すこし掻き合わせたのを、どうやって、こんなに何もかも揃った人なのだろうかと思われなさる。若君の御ことなどをこまごまとお話しになっていらっしゃる。
大堰の屋敷は風情のある造りになっています。その屋敷の個性的な点もさることながら、そこに住む明石の君の風情は、どんな高貴な人にもひけをとらないものだと感じられます。「ただ世の常の」以下の光源氏の考え方の解釈は難しく、上記のような解釈でいいのかどうか不安があります。同じ受領の娘でもごく普通の親を持っていれば高貴な人に劣らない人だっているだろうが、なにしろあの偏屈な父親の娘なのだから、というようなことかと思っています。「人のほどなどはさてもあるべきを」というのは「明石入道の本来の血筋は大臣家なので、自分(光源氏)の愛人としてはじゅうぶんなのだが(でも父親が偏屈だからなぁ・・・)」というところでしょうか。
「夢のわたりの浮橋か」は出典がわからないのですが、『源氏物語奥入』という注釈書が「世の中は夢のわたりの浮橋かうち渡りつつものをこそ思へ(世の中は夢に見える浮橋のようなものか。それを渡りながら物思いをするのだ)」という歌を挙げています。
光源氏は筝の琴を引き寄せて明石で別れの直前に明石の君が弾いた筝を思い出しています。「忍びやかに調べたるほどいと上衆(じやうず)めきたり(ひそやかに弾くようすはとても上流の人のようである)」「あくまで弾き澄まし、心にくくねたき音ぞまされる(この人の演奏はどこまでもきれいに弾いておくゆかしくねたましいほど音色がまさっている)」(いずれも「明石」巻)とあるほど、彼女の筝はみごとなものなのです。明石入道は、自分の筝の演奏は醍醐天皇以来三代目のものだと言っており(「明石」巻)、明石の君はいわば四代目にあたるわけです。しかし、今回は光源氏が筝を弾いて、明石の君には彼女のもう一つの得意楽器である琵琶の演奏を促します。それを聞いた光源氏は、彼女の資質に改めて感動します。
ここはかかる所なれど、かやうに立ちとまりたまふ折々あれば、はかなきくだもの、強飯(こはいひ)ばかりはきこしめす時もあり。近き御寺(みてら)、桂殿(かつらどの)などにおはしまし紛らはしつつ、 いとまほには乱れたまはねど、また、いとけざやかにはしたなく、おしなべてのさまにはもてなしたまはぬなどこそは、いとおぼえことには見ゆめれ。女も、かかる御心のほどを見知りきこえて、過ぎたりと思すばかりのことはし出でず、また、いたく卑下せずなどして、御心おきてにもて違ふことなく、いとめやすくぞありける。
ここはこういうところではあるが、このようにお泊りになる折もあるので、ちょっとした菓子や強飯くらいは召しあがるときもある。近くの御寺や桂の院などにお出ましになるように装って、まったく真剣に心を乱されるほどではないけれど、その一方、まったくそれとは逆に無作法なまでにとおりいっぺんの扱いはなさらないなどという点が、さすがに世間の評判が格別なところだと見えるようである。女も、このような御心を見て取って、出しゃばっていると源氏の君がお思いになるようなことは自分からはせず、一方、さほど卑下もしないで、源氏の君のお考えに背くことはなく、まったくもって安心していられるのである。
最初の「ここはかかる所なれど」というのは、「この大堰はこんなわびしげな山里ではあるけれど」というほどの意味でしょう。普通なら光源氏ほどの人が泊まったりなさるようなところではないのに、明石の君がいるからこそ泊まって行くのです。そのために菓子の類や「おこわ」(蒸した飯。普通のご飯)などは用意されています。光源氏はこの人にぞっこんで夢中になっているというほどではないにせよ、粗略に扱うことはありません。一方、明石の君も、出過ぎたまねはせず、かといってあまり卑下はしない、という態度を見せるため、光源氏は安心していられるのです。
おぼろけにやむごとなき所にてだに、かばかりもうちとけたまふことなく、気高き御もてなしを聞き置きたれば、近きほどにまじらひては、なかなかいとど目馴れて人あなづられなることどももぞあらまし、たまさかにてかやうにふりはへたまへるこそたけき心地すれ、と思ふべし。
明石にも、さこそ言ひしか、この御心おきて、ありさまをゆかしがりて、おぼつかなからず人は通はしつつ、胸つぶるることもあり、また、おもだたしくうれしと思ふことも多くなむありける。
並々ならず高貴な方のところにいらっしゃってもこれほどにおくつろぎになることはなく、気品に満ちたふるまいをなさると聞いていたので、もしおそば近くでお仕えするようなことになったら、かえっていっそう見馴れてしまって人に侮られることもあるだろう、たまにこうしてわざわざおいでいたくことが精一杯だと思っているようである。
明石でも、あのようには言ったが、源氏の君のお考えや暮らしぶりなどを聞きたがって、無沙汰にならない程度に使いのものを通わせていると、胸のつぶれるようなこともあれば、また面目を施して嬉しく思うこともいろいろあるのであった。
明石の君は、自分が二条院のこの上なく高貴な人たちのところに入り込んでしまうときっと人にばかにされることもあるだろうから、こうしてたまさかの訪問を待っているくらいが分相応なのだと感じています。
一方、明石の入道は別れの時に「今日、長く別れたてまつりぬ。命尽きぬと聞し召すとも、後のこと思し営むな。避(さ)らぬ別れに御心動かしたまふな」(「松風」巻)と言っていたのに、やはり娘や孫のことが案じられて手紙のやりとりをしています。姫君を手放すという胸のつぶれるようなこともあれば、姫君も明石の君も大事に扱われているという安心するようなこともあると、入道は娘大事の子煩悩な父親の顔を見せています。
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- [2020/06/18 00:00]
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「異聞置いてけ堀」関西初演(2)
野澤松也師匠の京都のご自宅におけるライブは盛況裡におこなわれたそうです。そして、拙作「異聞置いてけ堀」も皆様に聴いていただけました。この作品を「異聞」と言っているのは、松也師匠には別に「置いてけ堀」という作品があるからです。「もうひとつの『置いてけ堀』」という意味で、私は「異聞」の文字を付けました。浄瑠璃のタイトルは奇数で表示されるのが基本ですが、「置いてけ堀」は五文字、「異聞」を付けても七文字ですから問題はありません。
この作品は人間の男と
河童(カッパ)の女
が夫婦になっていて、それが夫に知られてしまうという、『卅三間堂棟由来』や『芦屋道満大内鑑』「葛の葉子別れ」、さらには有吉佐和子の『雪狐々姿湖』に倣ったような状況設定です。結末はやはり哀しい別れになりそうなのですが・・・。
さて、聴いてくださった方はどんなご感想を持たれたのでしょうか。
松也師匠からご連絡をいただいたのですが、このあと来月にまた
異聞片葉の葦
という拙作を上演してくださるそうです。松也師匠にはもう5年ほどお世話になっていますが、これからもまだ作曲していただけるかどうか自信はありません。しかし、浄瑠璃作者を自称するものといたしましてはもっと頑張らねばなりません。
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- [2020/06/17 00:00]
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「異聞置いてけ堀」関西初演(1)
何だか妙に大げさなタイトルをつけてしまいました。
私が、拙いながらもサブワークにしている創作浄瑠璃。ここ数年は遅々として進まなかったのですが、『江戸情七不思議』に時間を注いでまいりました。この作品を作曲、演奏してくださるのは、歌舞伎竹本夫三味線の野澤松也師匠です。そして、6月13日(土)と14日(日)に、昨年書いた、シリーズ最終の7つ目の作品である「異聞置いてけ堀」を語ってくださいました。
この演目は2月に東京で演奏してくださったのですが、このたびは京都のご自宅での、
町屋ライブ
でした。
師匠のご自宅は昔ながらの京都の町屋なのです。ここで師匠はほぼ毎月ライブをなさっていて、毎回10人余りの方が参加されます。しかし去年の秋以来、東京歌舞伎座での舞台が続き、しばらくできなかったのです。2月の東京では、まだ参加者の方々はどなたもマスクなどしていらっしゃらない状態で、まだあのウイルスへの危機感は少なかったのです。
ところがその後は大変な騒ぎになり、今度は京都にお帰りになったもののお客様を呼べないということで開催を見合わせていらっしゃいました。このたびのライブは結局半年以上のご無沙汰ということだったのです。
常連のお客様は待ち焦がれていらっしゃったことと思われ、それだけに二日とも盛況だったそうです。
そして演じられたのは『生写朝顔話』の
「明石船別れ」
と拙作の「異聞置いてけ堀」だったのです。「明石船別れ」は、「朝顔話」という「すれ違いの物語」の中でも離れていく船が文字通り二人を引き離していく名場面です。参加された方の多くはよくご存じの演目でしょうが、あらためて感動なさったのではないかと思います。
そしていよいよ拙作の「異聞置いてけ堀」。果たしてお客様方は楽しんで下さったのでしょうか・・?
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- [2020/06/16 00:00]
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源氏物語「薄雲(うすぐも)」(1)
このブログでのシリーズも「蓬生」「関屋」「絵合」「松風」に続いて5つ目の巻である「薄雲」に入ります。分量としては、私の持っているテキストでちょうど100ページくらいに達しており、いつもおこなっている講座の18回分くらいにあたります。内容がどうしても薄いですから、普段の講座のようには理解していただけないかもしれませんが、30回分(1年分。約170ページ)くらいまではいきたいと思っています。もしそれが叶えば「朝顔巻」までを読み終えることになります。
さて、その「薄雲」巻は第十九帖。光源氏(内大臣)三十一歳の冬から三十二歳の秋にかけてのことです。
冬になりゆくままに、川づらの住まひいとど心細さまさりて、うはの空なる心地のみしつつ明かし暮らすを、君も「なほ、かくてはえ過ぐさじ。かの近き所に思ひ立ちね」と、すすめたまへど、「つらき所多くこころみ果てむも残りなき心地すべきを、いかに言ひてか」などいふやうに思ひ乱れたり。「さらばこの若君を。かくてのみは便(び)なきことなり。 思ふ心あればかたじけなし。対(たい)に聞き置きて常にゆかしがるを、しばし見ならはさせて、袴着の事なども、人知れぬさまならずしなさむとなむ思ふ」と、まめやかに語らひたまふ。
冬になるにつれて、川のほとりの生活はますます心細さがつのっていって、ただうわの空のような気持ちで日々を過ごしているのを、君も「やはり、このまま過すことはできないだろう。あちらの、近い所に移ることを決心しておしまいなさい」とお勧めになるが、そんなことをして、つれないお気持ちをすっかり見てしまうとどうしようもないことになるだろうから、何と恨みを言ったらよいものか、などというように思い悩んでいる。「それではこの若君を。こうしてばかりいるのは具合の悪いことです。思うところがあるので、恐れ多いことです。対の君も耳にしていつも見たがっているので、しばらくの間なじませて、袴着のことなども内々で済ませてしまうのではなくきちんとしてあげようと思うのです」と、真剣にご相談になる。
何と言っても、都から見れば大堰は遠いのです。「松風」巻の最後に「月に二度ばかりの御契りなめり」とあったように、光源氏の訪れはまれなので、明石の君の心細さは冬になるにつれて侘しさを増します。季節の移り変わりに並行するような心細さです。光源氏は「かの近き所」すなわち二条院の「東の院」です。「松風」巻の冒頭に「(東の院の)東の対は明石の御方と思しおきてたり」とありました。「つらきところ」については『後撰和歌集』にこんな歌があります。
かりそめなるところにはべりける女に、
心かはりにける男の「ここにてはかく便
なき所なれば、心ざしはありながらなむ
え立ち寄らぬ」といへりければ、所をか
へて待ちけるに見えざりければ、女
宿かへて待つにも見えずなりぬれば
つらきところの多くもあるかな
男が、あなたのことを思っているのだけれど、ここでは具合が悪いから来ることができないのだ、というので、それでは、と居場所を変えてみたのだが、やはり来ない。そんな女の嘆きの歌です。明石の君も、居場所を変えたところで同じことではないかと思うのです。「いかに言ひてか」というのは「恨みてののちさへ人のつらからばいかに言ひてか音をも泣かまし(恨みごとを言ったあとまであの人がつれないしうちをするのであれば、いったいどう言って泣けばいいのだろうか)」(拾遺集・恋五・読み人知らず)によります。「さらばこの若君を」というのは申すまでもなく「あなたが東の院に移りたくないというのであれば、明石の姫君だけでも移しましょう」という意味ですね。「さらばこの若君をだに渡らせたまへ」とでも言うところでしょうか。しかし「この若君を」で言いさしてしまうのは、やはりはっきりとは言いにくいことなのでしょう。光源氏はどんな顔をしてこのひとことを言っているのでしょうか。「思ふ心あれば」というのは姫君に関して考えるところがあるのだ、ということで、かつて宿曜道の予言で「御子三人、帝、后、必ず並びて生まれたまふべし。中の劣りは太政大臣にて位を極むべし」(澪標巻)と言われたことが実現するなら、この姫君こそが「后」になる人だと考えるのです。しかし后になるのはたいていのことではありません。光源氏の母も大納言の娘で、しかもその父は亡くなっていたために女御にすらなれないままでした。一方、あのいやみなおばはん(失礼!)の弘徽殿女御は右大臣の娘で、最終的に「大后」になりました。明石の姫君を中宮にするには何としても家柄の箔を付けねばなりません。そして「対(紫の上。二条院の西の対に住む)」も会いたがっているので、あちらできちんと袴着の儀式をしようと勧めます。あちらで袴着をするということは、あちらの養女にするということです。
「さ思すらむ」と思ひわたることなれば、いとど胸つぶれぬ。「あらためてやむごとなき方にもてなされたまふとも、人の漏り聞かむことは、なかなかにやつくろひがたく思されむ」とて、放ちがたく思ひたる、ことわりにはあれど、「うしろやすからぬ方にやなどは、な疑ひたまひそ。かしこには年経ぬれどかかる人もなきがさうざうしくおぼゆるままに、前斎宮(さきのさいぐう)のおとなびものしたまふをだにこそあながちに扱ひきこゆめれば、まして、かく憎みがたげなめるほどを、おろかには見放つまじき心ばへに」など、女君の御ありさまの思ふやうなることも語りたまふ。
「そうお考えなのだろう」と思ってきたことなので、ますます胸がつぶれる思いがした。「今さら身分の高い人として大切にお扱いになっても、人が漏れ聞くだろうことは、かえってとりつくろいにくくお思いになるのではないでしょうか」と言って、手放しがたく思っているのはもっともなことではあるが、「気がかりなあしらひをされるのではないかなどとは、お疑いにならないでください。あちらには、何年にもなるのに、このような子どももいないのが淋しい気がするので、前斎宮の大人になっていらっしゃるのをさえ、無理にお世話申しているようなのですから、まして、このようにとても憎めそうにない人を、いいかげんなお世話はしない性格で」などと、女君のご様子が申し分ないこともお話しになる。
明石の君は、姫君が今さら高貴な人の養女となったとしても、世間の噂では「実の母親は田舎の受領の娘に過ぎない」ということにならないだろうか、と案じます。実際にそのように案じているのでしょうが、同時に娘を手放さないためのいいわけのようでもあります。しかし光源氏は紫の上が子を持たないのに子供好きであることを話し、何とか決断させようとするのです。前斎宮は「絵合」巻にも登場した六条御息所の娘の斎宮女御(梅壺女御)のことです。斎宮女御は紫の上とは1年しか歳が違わないということになっています(このとき斎宮女御二十二歳。紫の上は光源氏と八歳違いとして二十三歳)。
げに、いにしへは、いかばかりのことに定まりたまふべきにかと、つてにもほの聞こえし御心の名残なく静まりたまへるは、おぼろけの御宿世(すくせ)にもあらず、人の御ありさまも、ここらの御中(なか)にすぐれたまへるにこそは、と思ひやられて、数ならぬ人の並びきこゆべきおぼえにもあらぬを、さすがに、立ち出でて、人もめざましと思すことやあらむ。わが身はとてもかくても同じこと。生ひ先遠き人の御上(うへ)も、つひにはかの御心にかかるべきにこそあめれ。さりとならば、げにかう何心なきほどにや譲りきこえまし、と思ふ。また、手を放ちてうしろめたからむこと。つれづれも慰む方なくては いかが明かし暮らすべからむ。何につけてかたまさかの御立ち寄りもあらむ、など、さまざまに思ひ乱るるに、身の憂きこと、限りなし
なるほど、昔は、どれほど立派な方とのご結婚に落ち着かれるのだろうかと、うすうす噂に聞いた好色なお心が、あとかたもなく落ち着かれたのは、並大抵のご宿縁でもなく、お人柄もおおぜいの方々の中でも優れていらっしゃるのだろう、と推察されて、ものの数にも入らない自分のような者が肩を並べ申し上げるような信望を持っているわけではないのに、それでも出ていったりしたら、あの方(紫の上)も身の程知らずだとお思いになることもあろうか。自分の身はどうなっても同じこと。行く末の長い姫君のお身の上も、結局は、あの方のお心次第のようだ。そうであるなら、なるほどこのように無邪気な間にお譲り申し上げようか、と思う。一方また、手放したら気がかりなことだろう、所在ない気持ちを慰めるすべもないのであれば、どのようにして明かし暮らしてゆけようか、何を目当てにときたまにでもお立ち寄りがあるだろうか、などと、さまざまに思い悩むにつけても、身の上のつらさは際限ない。
明石の君の心が揺れます。光源氏の浮気なうわさはかねてから聞いていたのですが、紫の上のところで落ち着かれたのだから、よほど素晴らしい女性なのだろう、と推測されます。だからこそ田舎者の自分など比肩できるはずもなく、もしのこのこと出て行こうものなら、紫の上に軽蔑されるかもしれない、姫君の将来が紫の上のお心にかかっているのであれば、何も言わずに養女にしてもらうべきではないか、と考えます。その一方で、娘を手放したら、心配でなにもできなくなりそうであり、また光源氏もこれまでは姫君目当てに来られていたのだろうから、もうおいでにならないだろう、と動揺するのです。
手放した方が幸せなのか、それだけはしたくないのか、常識人としての彼女と、ひとりの母親としての彼女あるいは一人の女性としての彼女がせめぎ合っているようでもあります。
尼君、思ひやり深き人にて、「あぢきなし。見たてまつらざらむことはいと胸いたかりぬべけれど、つひにこの御ためによかるべからむことをこそ思はめ。浅く思してのたまふことにはあらじ。ただうち頼みきこえて渡したてまつりたまひてよ。母方からこそ帝の御子(みこ)も際々(きはぎは)におはすめれ。この大臣の君の、世に二つなき御ありさまながら、世に仕へたまふは、 故大納言の、今ひときざみなり劣りたまひて、更衣腹(かういばら)と言はれたまひしけぢめにこそはおはすめれ。ましてただ人はなずらふべきことにもあらず。また、親王(みこ)たち、大臣(おとど)の御腹といへど、 なほさし向かひたる劣りの所には、人も思ひ落とし、親の御もてなしもえ等しからぬものなり。まして、これは、やむごとなき御方々にかかる人、出でものしたまはば、こよなく消たれたまひなむ。ほどほどにつけて、親にもひとふしもてかしづかれぬる人こそやがて落としめられぬはじめとはなれ。御袴着(はかまぎ)のほども、いみじき心を尽くすとも、かかる 深山(みやま)隠れにては、何の栄(はえ)かあらむ。ただ任せきこえたまひて、もてなしきこえたまはむありさまをも聞きたまへ」と教ふ。
尼君は思慮の深い人なので、「つまらないことです。お目にかかれなくなることは、とても胸の痛むことでしょうが、結局は姫君のためにはよいことであろうと、そのことをお考えなさい。いいかげんなお考えでおっしゃることではないでしょう。ただご信頼申し上げて、あちらにお移し申しあげておしまいなさい。母方の家柄によって、帝の御子も身分がさまざまでいらっしゃるようです。この大臣の君が、世に二人とないすばらしいご様子なのに、臣下としてお仕えになっているのは、亡き大納言が、大臣までもう一階というところでご出世が劣っていらっしゃって、更衣腹と言われなさった、その違いでいらっしゃるようです。まして、臣下の場合は比べようもないのです。また、親王家や大臣家の娘の生んだ子であっても、やはり正妻でそれより家柄の劣っている人よりは、世間の人も軽んじ、父親のお扱いも等しくはできないものです。ましてこの姫君は、身分の高い奥様方にこのような姫君がお生まれになったら話にならないほど圧倒されておしまいになるでしょう。身分に応じて、父親にほかの人とは異なって大切にされた人が、そのまま軽んぜられない始まりとなるのです。御袴着の祝いも、どんなに一生懸命にしても、このような人里離れた所では、何の見栄えがするでしょうか。ただお任せ申し上げなさって、どのように姫君をお扱いになるか、その様子を聞いていらっしゃい」と教える。
こういう時に、年の功というのでしょうか、経験豊かな明石の君の母の尼君がかなりはっきりとアドバイスをします。こういうことは母親ならではのことであり、それも、都で育って人々の生きざまをあれこれ見てきた人だからこそ言える忠告でしょう。
尼君の言っていることをまとめておきましょう。
○姫君と別れるのはつらいだろうが、
結局は姫君のためになる
○光源氏は真剣におっしゃっている
ので信じうる
○母方の家柄によって将来が決まる
○光源氏の母更衣も、父が大納言ど
まりであったために女御になれな
かったのだ
○また、身分の高い家の娘でも、北
の方でなければ、家柄の低い北の
方に劣り、父親の扱いも軽くなる
○もし、光源氏のほかの女君に娘が
生まれたら、とてもかなわない
○袴着もいかに盛大に催しても、こ
んな田舎では見栄えがしない
尼君は、姫君が母方の家柄ゆえに出世できないことは目に見えているし、また北の方の生んだ子なら多少母親の身分は劣っても大事に扱われもしようが、あなた(明石の君)はそうではない、とどう転んだところでこのままでは姫君は不幸になる、と言います。現代的な考え方なら、実の母と一緒に暮らすのが一番の幸せということになるのでしょうが、身分制度のはっきりした時代にあっては、そんな論理は通用しないのですね。このあたりは学生に話すとき、とても苦労するところです。
都のことをあまりよく知らない明石の君は、母のいうことを信ずるほかはなく、次第に心は固まっていきます。
さかしき人の心の占(うら)どもにも、もの問はせなどするにも、なほ「渡りたまひてはまさるべし」とのみ言へば、思ひ弱りにたり。殿もしか思しながら、思はむところのいとほしさにしひてもえのたまはで、「御袴着のことは、いかやうにか」とのたまへる御返りに「よろづのこと、かひなき身にたぐへきこえては、げに生ひ先もいとほしかるべくおぼえはべるを、たち交じりてもいかに人笑へにや」と聞こえたるを、いとどあはれに思す。日などとらせたまひて、忍びやかにさるべきことなどのたまひおきてさせたまふ。放ちきこえむことはなほいとあはれにおぼゆれど「君の御ためによかるべきことをこそは」と念ず。
賢明な何人もの人の占いにも、また人に相談などをしても、やはり「お移りになった方がよろしいでしょう」とばかり言うので、気が弱くなってきた。殿もそのようにお思いになりながら、(明石の君が)どのように思われるかがお気の毒で、無理におっしゃることもできないで、「袴着のお祝いはどのようにしましょうか」とおっしゃる、そのお返事に、「何事につけてもふがいない私のもとにお置き申しては、なるほど将来もおいたわしく存ぜられますが、そちらに入れていただいても、どんなにもの笑いになりましょう」と申し上げたのを、ますますいたわしくお思いになる。吉日などをお選びになって、ひそかにしかるべき事を采配なさる。お手放し申すことは、やはりとても悲しく思われるが、「姫君のためになるであろうことをまずは」とこらえている。
母親の意見は説得力のあるものでした。次にはやはり第三者の意見を求めることになります。占いをする賢者に意見を求めたりするのですがいずれも答えは同じ。思い弱る明石の君がかわいそうになってきます。当時は、占いの判断は重要で、今とは比較にならないほど信頼度も高かったのです。光源氏はなかなか切り出せなくて「袴着はどうしましょうか」という言い方でしかようすをうかがうことはできません。明石の君は、光源氏の言い分に同意する気持ちを伝えつつも、姫君が華やかなところに行って笑いものにならないか心配だとまだためらうようすを見せます。光源氏は明石の君が決断していることを察しつつも気の毒で同情を禁じ得ません。
「日などとらせたまひて」とあるのは二条院に移る吉日を陰陽師に調べさせることです。今でも気にする方はいらっしゃるかもしれませんが、引っ越しも吉日でないとすべきではなかったのです。神社のおみくじにも書いてありますよね。
「乳母(めのと)をもひき別れなむこと。明け暮れのもの思はしさ、つれづれをもうち語らひて、慰めならひつるに、いとど たつきなきことさへ取り添へ、いみじくおぼゆべきこと」と、君も泣く。乳母も、「さるべきにや、おぼえぬさまにて、見たてまつりそめて、年ごろの御心ばへの忘れがたう恋しうおぼえたまふべきを、うち絶えきこゆることはよもはべらじ。つひにはと頼みながら、しばしにても、よそよそに、思ひのほかの交じらひしはべらむが、安からずも はべるべきかな」など、うち泣きつつ過ぐすほどに、 師走にもなりぬ。
「乳母とも離れてしまうなんて。明け暮れの悩み事ごとや所在ないことまで話し合って、ずっと心を慰めてきたのに、いっそう頼りとするものがなくなって、悲しい思いをするであろうこと」と、女君も泣く。乳母も、「そうなるはずの宿縁なのでしょうか、思いがけないことでお目にかかるようになって、長年のお気遣いが忘れがたく恋しく思われなさいましょうが、ふっつりご縁が切れることは決してございますまい。ついにはご一緒に、とあてにしながら、しばらくの間でも離れ離れになって、思いもかけないご奉公をすることになりますのが不安なのでございます」などと、泣きながら日を過ごしているうちに、十二月にもなってしまった。
この乳母は、姫君が生まれたときに、親を亡くして不如意な生活をしていたところを光源氏に見いだされて明石に遣わされた人でした。最初は辺鄙な田舎に行くことをつらいとも思ったのですが、かわいい姫君を目の当たりにするとそんな思いは吹っ切れて、大切に養育するようになったのです(「澪標」巻)。
それ以来ずっと一緒に暮らしていた人だけに、明石の君は彼女と別れることも寂しく感じたのです。姉妹と別れるような感情でしょうか。「君も泣く」と簡潔に明石の君の動作が描写されますが、「泣く」は涙ぐむ、という程度ではなく、声を立てて泣くことです。光源氏に対しては本心をあらわに見せないのに、乳母の前では感情を吐露しているといえるでしょう。乳母は、年来の明石の君の厚情に感謝しつつ、再開する日をあてにしながら引き続き姫君の世話をすることになります。
雪、霰がちに、心細さまさりて、あやしくさまざまにもの思ふべかりける身かな、と、うち嘆きて、常よりもこの君を撫でつくろひつつ見ゐたり。雪かきくらし降りつもる朝、来し方行く末のこと残らず思ひつづけて、例はことに端近(はしぢか)なる出で居(いでゐ)などもせぬを、汀(みぎは)の氷など見やりて、白き衣どものなよよかなるあまた着て、眺めゐたる様体(やうだい)、頭(かしら)つき、うしろでなど、限りなき人と聞こゆとも、かうこそはおはすらめ、と人びとも見る。落つる涙をかき払ひて「かやうならむ日、ましていかにおぼつかなからむ」と、らうたげにうち嘆きて、
雪深み深山の道は晴れずとも
なほふみかよへ跡絶えずして
とのたまへば、乳母うち泣きて、
雪間なき吉野の山を訪ねても
心のかよふ跡絶えめやは
と言ひ慰む。
雪、霰の降る日が多く、心細さがつのって、不思議なほどに何かと物思いせねばならないわが身よ、と、ため息をついて、いつもよりもこの姫君を撫でては身なりを整えたりしながらじっと見ている。雪が空を暗くして降り積もった翌朝、これまでのことやこれからのことをあれもこれも考え続けて、いつもは特に端近に出ることなどはしないのだが、汀の氷などを眺めやって、白い衣の柔らかいのを着重ねて、物思いに沈んでいる容姿や頭の恰好、後ろ姿などは、このうえなく高貴なお方と申し上げても、これくらいでいらっしゃるだろう、と女房たちも見る。落ちる涙をかき払って、「このような日は今にもましてどんなに不安なことでしょう」と、弱弱しそうにため息をついて、
雪が深いのでこの深い山里の道は
晴れ間がなくても、踏み通うのは
ともかくやはりお手紙はください。
跡の絶えないように
とおっしゃると、乳母は泣いて、
雪の消える間もない吉野の山奥で
も、必ず探して心の通うお手紙を
絶やすことがありましょうか
と言って慰める。
なかなかの名場面だと思います。ここに描かれる雪、あられ、汀の氷などは明石の君の心象風景でしょうか。
彼女はこれまでに体験したさまざまな苦しみを思い出します。明石に残されたときのこと、父を捨てるように大堰に出てきたこと、光源氏のまれな訪れを待つほかはないこと、そして姫君と別れざるを得ないこと。それだけに、姫君をいつも以上に撫でいつくしんでいるのです。唐突なのですが、1927年に、昭和天皇の第二皇女の祐子内親王が生後6か月で亡くなったあと、皇后(香淳皇后)がしばらくの間、内親王と同じ重さの人形を抱いていたというエピソードを思い出してしまいました。何とも切ない話です。彼女は奥ゆかしい人なので、普段はあまり端近(簀子の近く)には出ないのですが、このときはぼんやりと物思いをしながら端近で庭の氷などを眺めています。いわば彼女自身がその風景の中に入り込んでいるのです。それを後ろから見ている女房たちは、どんなに高貴な方にも負けないような彼女の姿を讃嘆します。明石の君はのちに六条院の冬の町を居所としますが、彼女にはこの季節が似合うのでしょう。明石の君の詠んだ「雪深み」の歌は、「ふみかよへ」が「踏み通へ」「文通へ」の掛詞です。
さて、いよいよ悲しい別れの日がやってきます。
この雪すこし解けて渡りたまへり。例は待ちきこゆるに、さならむとおぼゆることにより胸うちつぶれて、人やりならずおぼゆ。わが心にこそあらめ。いなびきこえむをしひてやは、あぢきな、とおぼゆれど、軽々しきやうなり、と、せめて思ひ返す。いとうつくしげにて、前にゐたまへるを見たまふに、おろかには思ひがたかりける人の宿世かな、と思ほす。この春より生ほす御髪(みぐし)、尼そぎのほどにてゆらゆらとめでたく、つらつき、まみのかをれるほどなど、言へばさらなり。よそのものに思ひやらむほどの心の闇、推し量りたまふにいと心苦しければ、うち返しのたまひ明かす。「何か。かく口惜しき身のほどならずだにもてなしたまはば」と聞こゆるものから、念じあへずうち泣くけはひあはれなり。
この雪が少し解けて源氏の君がお越しになった。いつもならお待ち申し上げているのに、そのことだろうと感じ取れたので、胸がどきどきして、自分の心からすることなのだと思われる。私の考え次第なのだ、お断り申し上げたら無理強いはなさるまい、どうにもならないことを、と思われるのだが、軽率なことだ、と、努めて思い返す。とてもかわいらしくて、前に座っていらっしゃるのを御覧になると、いいかげんには思えない宿縁だ、とお思いになる。今年の春からのばしている御髪が尼そぎくらいに伸びて、ゆらゆらとしてみごとで、顔の形や目もとのほんのりとした美しさなどは言うまでもない。この子を手放してはるかに思いやることになる母親の心の闇を推量なさると、まことにおいたわしいので、繰り返してご説明になる。「いえいえ。私のような取るに足りない身分ではなくお世話くださるのでしたら」と申し上げるものの、こらえきれずに泣く様子は胸に響くのである。
光源氏が姫君を連れて行くためにやってきました。明石の君は、断ればいいのだと思いつつ、今さらそんな未練で軽々しいことなどできないことをよくわかっています。
姫君はとてもかわいらしく、だからこそ光源氏は明石の君の悲しさを思いやらずにはいられません。「うち返しのたまひ明かす」という一節は「話をして夜を明かす」という解釈もできそうです。光源氏の最後の説得に対して、「何か。かく口惜しき身のほどならずだにもてなしたまはば」と言いさす明石の君の言葉は痛切です。
姫君は、何心もなく、御車に乗らむことを急ぎたまふ。寄せたる所に母君みづから抱きて出でたまへり。片言の、声はいとうつくしうて、袖をとらへて、乗りたまへ、と引くも、いみじうおぼえて、
末遠き二葉の松に引き別れ
いつか木高きかげを見るべき
えも言ひやらずいみじう泣けば、さりや、あな苦し、と思して、
「生ひそめし根も深ければたけくまの
松に小松の千代をならべむ
のどかにを」と、慰めたまふ。さることとは思ひ静むれど、えなむたへざりける。 乳母、少将とてあてやかなる人ばかり、御佩刀(みはかし)、天児(あまがつ)やうの物取りて乗る。副車(ひとだまひ)によろしき若人、童(わらは)など乗せて、御送りに参らす。道すがらとまりつる人の心苦しさを「いかに。罪や得らむ」と思す。
姫君は、無邪気に、お車に乗ることをお急ぎになる。車を寄せたところに、母君自ら抱いて出ていらっしゃった。片言で、声はとてもかわいらしくて、袖をつかまえて、お乗りください、と引っ張るのも悲しく思われて、
将来の長い幼い姫君にお別れして、
いつになったら成長なさったお姿
を拝見できるのでしょう
最後まで言い終えられずひどく泣くので、無理もない、ああ、気の毒な、とお思いになって、
「生まれてきた因縁も深いのだから
松のようなあなたにこの小松の姫
君を並べて末長く一緒に暮らせる
ようになりましょう
安心なさい」と、お慰めになる。いつかそうなることだとは思って気持ちを落ち着けるが、とてもこらえきれないのであった。乳母と、少将という気品のある女房だけが、御佩刀、天児のような物を持って乗る。お供の車には見苦しからぬ若い女房や童女などを乗せて、お見送りに行かせた。道中、後に残った人の気の毒さを、「どのように罪を得ることになるだろうか」とお思いになる。
↑絵入源氏物語・薄雲
↑狩野探幽 源氏物語図屏風 薄雲
姫君は車に乗るのが嬉しいのです。車の後ろ側を簀子に寄せて、姫君は簀子からそのまま乗り込むのです。このときは明石の君が自ら姫君を抱いていきました。以前、光源氏がこの屋敷から帰るときに「乳母、若君抱きてさし出でたり」(松風巻)という場面がありました。普通なら、そうするのが当たり前です。しかしここではどうしても自分で抱いて出たかったのでしょう。姫君は母に向かって乗るように伝えて袖を引きます。この部分の「乗りたまへ」というのは実際に姫君が言った言葉というよりは、そういう意味の言葉を片言の言葉で伝えたのではないでしょうか。今の言葉で言うなら「お乗りなさい」ではなく「のんの」とでもいうような感じです。「末遠き」は明石の君の歌です。長寿の象徴である松の二葉は姫君を喩え、「引き(別れ)」は正月の「小松引き」の行事によって「松」の縁語にしています。「木高きかげ」は気が成長して高くなった姿のことです。
「生ひそめし」は光源氏の歌です。「たけくまの松」は今の宮城県岩沼市の松で何度も植え替えられて今もあります。『後拾遺和歌集』の橘季通の歌に「武隈の松は二木(ふたき)を都人いかがと問はばみきとこたへむ(武隈の松は相生になって「ふたき」なのだが、都の人がどうであったかと尋ねたら「みき(「三木」と「見き」を掛ける)」と答えましょう)という歌にあるように、このころは相生であったようです。そこで、相生の松(光源氏と明石の君)に小松(姫君)を並べていつまでも暮らそうという意味になります。明石の君は「さること(なるほど、いつか一緒に暮らせることもあるだろう)」と心を落ち着けるものの、やはりこらえられません。「乳母、少将」は「乳母の少将」とするテキストもありますが、乳母と、少将という品のある女房、と解釈しておきます。「御佩刀」は守り刀で、かつて「御佩刀、さるべきものなど、ところせきまで思しやらぬくまなし(守り刀やそのほかのしかるべきものを置き場もないほどくださって、お心の至らないところはない)」(澪標巻)とあるように、光源氏が明石に乳母を派遣したときに一緒に贈ったものです。「天児」は子どもの姿の人形(ひとかた)で、これを子どものそばに置いて、子どもが受ける厄災を代わりに受けるものとしたのです。旅は危難がありますから、こういうものも忘れずに持って行くのです。光源氏は、道々明石の君の心を思いやって、自分はこんなことをして罪を得るのではないかとさえ思います。
↑天児
こうして、明石の姫君は二条院に引き取られていきました。将来はまだどうなるかわかりません。もしこのあとに紫の上に実子ができようものなら、姫君はどうなるでしょうか。明石の君にすれば、わが子が継子として粗略に扱われるのではないかと案じても当然ではないでしょうか。姫君を乗せた車は、寒い大堰から東へ東へと進み、二条院に着きます。
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- [2020/06/15 00:00]
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短歌を送っちゃいました
私がずっと『源氏物語』について書かせてもらっている短歌の雑誌があるということはこれまでにもここに書いてきたのですが、以前からエッセイだけでなく短歌も詠んだらどうか、と言われていました。私は高校生あたりから断続的に詠んではきたのですが、それらの腰折れは今となってはもうどこに行ってしまったかわかりません。カッコよく言うと「散逸してしまった」(笑)のです。
しかし、これからは詠んだものは何らかの形できちんと記録しておきたいと思うようになりました。もちろん残しておいてもどうなるわけではなく、単なる自己満足に過ぎないのです。でも、自己満足おおいにけっこう、自分が納得できるように記録しておきたいのです。
そこで、とりあえず
ノート
を作って、その短歌を詠んだ時の状況や思ったことなどとともに書きとめることにしました。立派なノートではなく、かつて文楽について書かせてもらったときに劇場に持って行っていたノートがかなり余っていますので、それを使うことにしました。
さてノートのどれくらいを埋めることができるでしょうか。
この春、COVID-19がらみで詠んだ歌があることは以前ここに書きましたが、まずかあれを書き残しておくことにします。
で、ふとあの短歌雑誌の主宰の先生が
「詠んで、送ってきなさい」
とおっしゃったのを思い出しましたのです。
恥ずかしいなあ、とは思うのですがそんなことを言っていてはいけないのです。恥を覚悟で人さまに見ていただくのがいいのです。そこで、先日、思い切って送ってしまいました。
主宰の先生は、歓迎してくださったのですが、ひょっとしたら初めてその雑誌にきちんと載せてもらえるかもしれません。嬉しいような、やっぱり恥ずかしいような。
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- [2020/06/14 00:00]
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The Tale of the Bamboo Cutter(3)
A Moon man handed her a robe of feathers, which she put over her shoulders, and as shu did so, all the sadness that had filled her heart disappeared – along with all her memories of the Earth, the Emperor, and her parents.
「a robe of feathers」は「天の羽衣」ですね。これをつけると、Lady Kaguyaの心を満たしていた悲しみは消えてしまいました。この国やthe Emperorや両親の記憶とともに。
私はこういう簡略化された話なので、ここで終わりかと思っていたのですが、さらに話は原典のとおりに進んでいきます。
the Emperorは届けられた手紙を読んで、Lady Kaguyaが自分と一緒に居たがっていたこと、この国を去ることをつらく思っていたこと、自分たちの結婚は許されぬものであったこと、彼女は月へ帰らねばならなかったことを理解します。そして悲しみに打ちひしがれたthe Emperorは廷臣に聞きます。
Which mountaintop is closest to heaven?
天にもっとも近い山の頂はどこか、と。するとそれは
“a mountain in the Suruga Province”
であるとのことでした。
the Emperorは手紙とElixir をもっとも信頼のおける衛兵に渡し、その山の頂上で、手紙も薬も燃やしてしまうように言いました。茫然とする廷臣に向かって、the Emperorは「Elixirを飲んで不死になろうとは思わない」といいます。
そこで衛兵はもっとも高い山の頂上に登ってthe Emperorの命令を遂行しました。
このあたり、とても綿密に原典の内容を伝えています。あの五人の貴公子の求婚譚があれほど簡略であったのがうそのようです。
そしていよいよ
クライマックス
です。
And to this day people still see smoke rising from the Mountain of Immortality, or Mt. Fuji, and watch as the fumes become as one with the clouds of heaven.
ここでは「不死の山」から「ふじの山」を導いています(もちろん、英語ではこのしゃれは通じません)が、原典ではそういうしゃれだろうと思わせておいて、「つはもの(士)どもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を「富士の山」とは名付けける」と読者の裏をかくような地名由来譚としています。「士」が「たくさん(富)」だから「富士の山」だというわけです。
私は英語が苦手なので、英和辞典を引きながらではありましたが、コンパクトにまとめられた『竹取物語』を読んでみて、編訳者の工夫がいくらかでもわかったような気がしました。
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- [2020/06/13 00:00]
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The Tale of the Bamboo Cutter(2)
Lady Kaguya の噂はthe Emperor(帝)に達しました。the Emperorは女官を派遣したのですが、Lady Kaguyaは会おうとしません。そこでthe Emperorはbamboo cutterとLady Kaguyaを宮廷に招いて、bamboo cutterに官位を与えようと伝えます。bamboo cutterは大喜びするのですが、Lady Kaguyaが悲しそうな表情を見せるのでその喜びも消えてしまうのです。そしてLady Kaguyaは「もしお父様の家を出たら私は死んでしまいます」と言います。bamboo cutterがそれを、the Emperorに伝えると、the Emperorは強引にbamboo cutterの家を訪問するのです。しかしLady Kaguyaはthe Emperorの視線を捕えると姿を消してしまいます。the Emperor はLady Kaguyaに元に戻るように懇願すると姿を現します。このあたりは原典にあるとおりと言ってもよい詳しい書き方です。
the Emperorは不滅の愛を訴えるのですが、Lady Kaguyaはまたもや「この家を出たら私は死んでしまいます」と言って拒みました。the Emperorは
heavy heart
のまま帰って行きました。原典ではこのあと、帝とかぐや姫の間に歌のやり取りがあるなど、それなりに心が通い合うのですが、この本ではそういうことは描かれていません。
そのうちにbamboo cutter夫妻はLady Kaguyaに異変があるのを感じ取ります。ものをいわなくなり、物思いに沈むようになったのです。そして満月を見ると彼女の眼には涙が溢れます。
夫妻がわけを尋ねると、最初は何も言わなかったLady Kaguyaはついに口を開きました。「私は月からやってきました。まもなく迎えの者がやってきます」と。「それではそなたはなぜこの国に来たのか」とbamboo cutterが尋ねると、
Lady Kaguya explained that there had been a great war on her world, and that she had been sent to Earth for her own safety. Now that the war was over, she would have to go home.
私の国で戦(いくさ)があって、危険なのでこの国に来たのです。そしていくさが終わったので帰らなければならないのです、と、信じられないようなことを彼女は言いました。
この部分、とても面白いと思いました。原典では彼女は「昔の契りありけるによりてなむこの世界にはまうできたりける」といい、後に天人は「かぐや姫は罪をつくりたまへりければ(地上に降りたのだ)」と説明します。「前世の因縁」「罪障」という
仏教的な理由
で彼女はこの地球にやってきたのですが、それが「戦」に置き換えられているのです。
the Emperorはその話を伝え聞いて、月に帰してなるものかとguards(衛兵)を派遣して阻止しようとしますが次の満月の夜に天上から降りてきたthe Moon Peopleの乗ってきた輝ける雲があまりにもまぶしくて何も見えなくなり、無力になってしまいました。
やがてthe Moon Peopleはbamboo cutterの家に近づきLady Kaguyaを連れ帰ろうとします。a Moon manが彼女に“an Elixir of Immoratality”を手渡します。「Elixir」は「万能薬」「不老長寿の薬」という意味だそうです(知らなかった)。「Immoratality」も「不死」「不滅」ですから、原典の「不死の薬」そのままです。Lady Kaguyaはその薬を飲み、父母(bamboo cutter夫妻)に苦しみを与えてしまうことの詫びを言います。そしてthe Emperorには心のこもった手紙とElixirの残りを衛兵に渡します。ここではthe Emperorのことを「the man who loved her more than anyone」(誰よりも彼女を愛した男)と言っています。
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- [2020/06/12 00:00]
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源氏物語「松風(まつかぜ)」(4)
光源氏ともなると、「お忍び」のはずが見つかってしまって大げさなことに発展してしまうことがあります。
結局、二条院に戻るはずが桂の院に行くことになってしまいました。紫の上のご機嫌を損ねなければいいのですが・・・。
にはかなる御あるじと騷ぎて、鵜飼(うかひ)ども召したるに、海人のさへづり思し出でらる。野にとまりぬる君達(きむだち)、小鳥しるしばかりひき付けさせたる荻(をぎ)の枝など、苞(つと)にして参れり。大御酒(おほみき)あまたたび順(ずん)流れて、川のわたり危ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。
突然の御饗応だと大騷ぎして、鵜飼たちを呼び寄せると、海人のおしゃべりが自然と思い出されなさる。狩のために野で夜明かしした若者たちは、小鳥をかたちばかりに付けた荻の枝などを土産(みやげ)にして参上した。お杯が何度も廻って、川の近くで危ないようなので、酔いに紛れて一日ここでお過ごしになった。
最初に出てくる「あるじ」というのは、本来は「饗応の主人」ということですが、転じて「饗応」そのものを指すようになりました。「鵜飼」は平安時代どころか、もっと古くからおこなわれていましたが、平安時代には長良川ではなく(笑)大堰川(桂川)の名物でもありました。光源氏はその鵜飼の漁師のしゃべるのを聞くとかつて須磨明石で海人がしゃべっていた意味の分からない言葉を思い出すのです。なお、鵜飼は風邪の予防などでおこなう「うがい(嗽)」の語源にもなりました。
桂の生活者たちのことばが都のものの耳にはなじみがないというのは、後に安嘉門院四条(阿仏尼)が書いた『うたたね』にもそういう場面があります。「野にとまりぬる君達」というのは、小鷹狩(こたかがり。秋におこなわれる狩で、ハシタカやハヤブサのような小さな鷹を使ってうずらなどの小鳥を捕える。大鷹狩は雌鷹を使って冬におこなわれた)をして、野で夜明かしした若い公達のことです。どうやら不猟だったらしく、形ばかり小鳥を献上したようです。「苞(つと)」は「家づと」ということばで今でも使わないことはないと思うのですが、「つつむ(包む)」と語源を同じくする言葉で、包んだもの、というところから「みやげ」の意味になりました。「順(ずん)流れて」の「順」もおもしろい言葉ですが、盃の廻って来る順番のことを言います。川の近くなので泥酔すると危険ですから、院の中にいることになります。この場面、鵜飼の言葉、狩の不猟、乱痴気騒ぎによる危険など、滑稽ともいえる描写が続きます。
↑絵入源氏物語 松風
↑土佐光吉ほか 源氏物語画帖 松風
中央やや下の人物が、小鷹狩でかろうじて
捕えた鳥を差し出しています
おのおの絶句など作りわたして、月はなやかにさし出づるほどに、大御遊び(おほみあそび)始まりて、いと今めかし。弾きもの、琵琶、和琴ばかり、笛ども上手の限りして折に合ひたる調子吹き立つるほど、川風吹き合はせておもしろきに月高くさし上がり、よろづのこと澄める夜のやや更くるほどに、殿上人四五人ばかり連れて参れり。上にさぶらひけるを、御遊びありけるついでに、「今日は六日の御物忌明く日にてかならず参りたまふべきを、いかなれば」と仰せられければ、ここにかう泊らせたまひにけるよし聞こし召して、御消息あるなりけり。御使は蔵人弁なりけり。
「月のすむ川のをちなる里なれば
桂の影はのどけかるらむ
うらやましう」とあり。かしこまりきこえさせたまふ。
おのおのが絶句などを次々に作って、月が鮮やかに姿を見せたころに、管弦の遊びが始まって、まことに華やかである。絃楽器は、琵琶、和琴ぐらいで、笛は上手な人だけで、時節にふさわしい調子を吹き立てているうちに、川風が吹き合わせて風雅なところに月が高く上り、何もかもが澄んでいる夜がしだいに更けていくころに、殿上人が、四、五人ほど連れだって参上した。殿上の間に伺候していたのだが、管弦の御遊びがあった折に、「今日は六日の物忌みの明ける日なので、必ず参内なさるはずだが、どうしてこられないのか」と仰せになったところ、こちらにこのようにお泊りになった由をお聞きになって、お手紙があるのであった。お使いは蔵人弁であった。「澄んだ月の住むという川の向こうの里にいらっしゃると、月の光はさぞかしのどかなことでしょうね 羨ましいことです」とある。お詫び申し上げなさる。
こういう場合には、しばしば漢詩を詠み合うことがありました。それぞれが絶句(四句の漢詩)を作ったあと音楽の催しに移ります。笛を吹くと、川風がそれに呼応するように吹いてきます。「よろづのこと澄める」とあるのは、「すべての楽器(琴)」に「すべてのこと(事)」を掛けた表現です。
そこに内裏からのお使いがありました。帝が「今日は光源氏が来るはずなのになぜ来ないのか」と不審に思っていたところ、外出されていることが判明したので蔵人弁(くらうどのべん。弁官で蔵人を兼ねている者)が使者となって来たのです。帝の歌にある「月の住む川」は桂川のことです。「月の中には川があり、そのほとりに桂の木が生えている」と言われることによります。「住む」「澄む」を掛けるのは和歌の定石です。なお、「澄む」「住む」は、語源は同じで、動いていたものが一か所に落ち着くことを意味します。「澄む」は濁っていたものが沈殿して透明になる様子、「住む」は落ち着かなかった者があるところを住居に定めることです。男が女と同居することも「住む」と言いました。「桂」という場所は桂川の右岸(西側)ですから「川のをち(彼方)」と言っています。「桂の影」は月の光のことで「竹河」巻にも見える言葉です。帝というのは不自由なもので、自由に外出することはできません。三種の神器とともに内裏にいるからこそ帝なのです。今の天皇のように、海外にも出かけるなんて、あり得ない話で、帝は行幸しても泊りがけではなく帰らねばなりません。それだけに、退位した帝は解放感にあふれて頻繁に外出します。花山院(986年に退位)など、うろうろしていました(笑)。
使者には返事を託すとともに禄を与えねばなりませんが、そういうものがなく、光源氏は大堰の明石の君のところに何か適当なものはないかと尋ねると、速やかにしかるべきものを届けてきました。使者に女装束(こういう場合、女装束を贈るのが普通)を与えて、和歌も託しました。「久方の光に近き名のみして朝夕霧も晴れぬ山里」(桂は月の光に近いようですが、朝夕霧も晴れない山里なのです)。帝がいらっしゃらないと光(威光)がなく、つまらないところです、という気持ちなのでしょう。
桂にはべりけるときに、七条の中宮問はせ
たまへりける御返事(かへりごと)にたて
まつれりける
ひさかたの中に生ひたる里なれば
光をのみぞ頼むべらなる
(古今集・雑下・伊勢)
という歌が下敷きになっています。伊勢の歌はやはり桂にいたときに宇多天皇の中宮である温子からどうしているかと見舞いがあったときの返事です。「月の中に生えている桂という名を持つ里であなたさまのご威光を頼りにしております」という歌です。
行幸待ちきこえたまふ心ばへなるべし。「中に生ひたる」と、うち誦んじたまふついでに、かの淡路島を思し出でて、躬恒が「所からか」とおぼめきけむことなどのたまひ出でたるに、ものあはれなる酔ひ泣きどもあるべし。
めぐり来て手に取るばかりさやけきや
淡路の島のあはと見し月
頭中将、
浮雲にしばしまがひし月影の
すみはつるよぞのどけかるべき」
左大弁、すこしおとなびて、故院の御時にもむつましう仕うまつりなれし人なりけり。
雲の上のすみかを捨てて夜半の月
いづれの谷にかげ隠しけむ
心々にあまたあめれど、うるさくてなむ。
行幸をお待ち申し上げるお気持ちなのであろう。「中に生ひたる」と吟じられると、そのついでに、あの淡路島をお思い出しになって、躬恒が「所からか」といぶかしがったということなどを、話し出されたので、しみじみと酔い泣きする者もいるようだ。「月日がめぐり、私もまた都にめぐり帰って来て手に取るようにはっきりと見える月は、あの『淡路の島のあは』という歌のとおりに哀しみを持って見た月と同じ月なのだろうか」。頭中将は「浮雲に少しの間隠れていた月の光のようなあなた様が、月が澄みきっている夜のようにお暮らしになっているこの世はのどかだということなのでしょう」。左大弁は、少し年かさで、故院の御代にも親しくお仕えしていた人なのであった。「亡き院は雲の上のお住まい(内裏)をお捨てになってどこの谷にお姿をお隠しになったのでしょう」。思い思いに多く詠んだようだが、面倒なので・・。
光源氏が「中に生ひたる」(前掲の伊勢の歌)と口ずさむついでにまた明石のころを思い出して凡河内躬恒が「淡路にてあはとはるかに見し月の近き今宵は所がらかも(淡路で、ああ、あれはと、はるかに見た月が間近に見える今夜は場所柄なのでしょうか)」と詠んだことを言い出すと、酔った者の中には泣く者もいるのです。実は、明石巻で光源氏は淡路島を眺めながら躬恒の歌の「あはとはるかに」を口にして、「あはと見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める夜の月」と詠んだことがありました。そのことを回想して、「『ああ、あれは』とはるかに見た月」といっているのです。頭中将(この場面だけに登場する人物)の歌は「うき」に「浮き」「憂き」を「すみ」に「澄み」「住み」を掛けています。「のどけかるべき」は帝の歌の「のどけかるらむ」に対応しています。左大弁(「右大弁」とする本もあります。「右」と「左」はしばしば誤写が生じます)もここにしか登場しない人物ですが、年長で桐壷院時代からの人なので、まったく詠み方が異なっていて、桐壷院を回想する歌になっています。頭中将が「月」を光源氏に喩えたのに対して、左大弁は桐壷院に喩えています。
近衛府(このゑづかさ)の名高き舎人(とねり)、物の節(もののふし)どもなどさぶらふに、さうざうしければ、「その駒」など乱れ遊びて、脱ぎかけたまふ色々、秋の錦を風の吹きおほふかと見ゆ。ののしりて帰らせたまふ響き、大堰にはもの隔てて聞きて、名残さびしう眺めたまふ。御消息をだにせで、と大臣も御心にかかれり。
近衛府のよく知られた舎人や節などを心得た者などがお供しているので、もの足りないからというので「その駒」などを謡いはやして、脱ぎかけてお与えになる色とりどりの衣は、秋の錦を風が吹いて覆っているのかと見える。にぎやかにお帰りになるざわめきを、大堰では遥か遠くで聞いて、名残寂しく物思いに沈んでいらっしゃる。お手紙さえ出さなくて」と大臣も気にかけていらっしゃった。
近衛府の舎人は随身となって貴人の外出に同行するだけでなく、舞や管絃の仕事もありました。たとえば、一条天皇時代の近衛将監であった尾張兼時という人物は舞の名手として知られていました。「物の節」というのは文字通り節や譜に詳しくて巧みであったもののことです。近衛舎人にはそういう者がいたのです。「その駒」は神楽歌で、今から馬で帰ろうとするために歌ったようです。そういう下級役人には色とりどりの禄が脱ぎ掛けられます。それを風が吹いて秋の錦がからだを覆っているようだと表現しているのです。このように大きな音を立てて帰って行く様子は、大堰の明石の君のところまで聞こえ、彼女は物寂しく感じ、光源氏もまた申し訳ない気持ちになったのです。
殿におはして、とばかりうち休みたまふ。山里の御物語など聞こえたまふ。「暇聞こえしほど過ぎつればいと苦しうこそ。このすき者どもの尋ね来て、いといたう強ひとどめしに引かされて。今朝はいとなやまし」とて大殿籠(おほとのごも)れり。例の、心とけず見えたまへど、見知らぬやうにて、「なずらひならぬほどを思しくらぶるも悪きわざなめり。我は我と思ひなしたまへ」と、教へきこえたまふ。暮れかかるほどに内裏(うち)へ参りたまふに、ひきそばめて急ぎ書きたまふは、かしこへなめり。側目(そばめ)こまやかに見ゆ。うちささめきて遣はすを、御達(ごたち)など憎みきこゆ。
お邸にお帰りになってしばらくの間お休みになる。山里のお話など申し上げなさる。「お暇をいただいた期間が過ぎてしまったのでまったく心苦しくて。あの風流人たちが探し求めて来て、どうにも無理に引き止めたのにひかされて。今朝はとても気分が悪い」と言っておやすみになった。例によって、不機嫌でいらしたが、気づかないふりをして「比較にならない身分をお比べになるのも、良からぬことです。自分は自分と思っていらっしゃい」とお教え申し上げなさる。日が暮かかるころに、参内なさるが、脇に隠して急いでお書きになるのはあちらへのものなのであろう。傍目(はため)に見るとこまやかに書かれているように見える。小声で命じて遣わすのを、女房たちは、憎らしいと思い申し上げる。
やっと二条院に戻りました。紫の上のご機嫌はやはり芳しくありません。ここで光源氏は、あなたとあちら(明石の君)では身分が違うのだから、自分は自分だと思っておきなさい、と言います。なるほど、播磨守の娘と親王の娘ではまるで違うのです。しかし、それでおいそれと納得できるものでないでしょう。しかも、内裏に出かける直前にこそこそと手紙を書いて、ひそひそと使いのものに命令して遣わすのです。もちろん、すぐに手紙を書くのは礼儀であって、書かないわけにはいかないのですが。ここでは「御達など憎みきこゆ」と言っていますが、紫の上は悲しみで憎むこともできないのかもしれません。
その夜は、内裏(うち)にもさぶらひたまふべけれど、とけざりつる御けしきとりに、夜更けぬれどまかでたまひぬ。ありつる御返り持て参れり。え引き隠したまはで御覧ず。ことに憎かるべきふしも見えねば、「これ破(や)り隠したまへ。むつかしや。かかるものの散らむも今はつきなきほどになりにけり」とて御脇息(けふそく)に寄りゐたまひて、御心のうちにはいとあはれに恋しう思しやらるれば、灯(ひ)をうちながめてことにものものたまはず。文は広ごりながらあれど、女君見たまはぬやうなるを「せめて見隠したまふ御目尻(まじり)こそわづらはしけれ」とて、うち笑みたまへる御愛敬、所狭(ところせ)きまでこぼれぬべし。
その夜は、宮中に宿直(とのい)なさるはずであったが、とけなかったご機嫌を取るために、夜が更けたが退出なさった。先ほどのお返事を持って使いの者が参っている。お隠しになることができずに御覧になる。特別に読まれて困るような点も見えないので「これは破って始末してください。厄介なことだ。このような手紙が人に見られるのも今では不似合いな齢になってしまったよ」と言って、御脇息に寄り掛かりなさって、お心の中では、とてもしみじみと恋しく思いやらずにはいられないので、灯火をぼんやりとご覧になって特に何もおっしゃらない。手紙は広げたままそこにあるが、女君は御覧にならないようなので、「無理に見て見ぬふりをなさる眼つきがやっかいなのです」と言って、微笑みなさる魅力はあたり一面にこぼれるほどである。
紫の上のご機嫌はなかなか直らないので光源氏は宿直の予定をキャンセルしてまで戻ってきました。すると、早くも大堰からの返事が届いたのです。手紙はできるだけ急いで届けねばなりませんから馬を使ったのでしょう。その手紙を真ん中に置いて駆け引きをする二人の描写は、家庭内のちょっとしたもめごととして、どこにでもある風景といえるでしょうか。
さし寄りたまひて、「まことは、らうたげなるものを見しかば、契り浅くも見えぬを、さりとてものめかさむほども憚り多かるに、思ひなむわづらひぬる。 同じ心に思ひめぐらして御心に思ひ定めたまへ。いかがすべき。ここにて育みたまひてむや。蛭(ひる)の子が齢(よはひ)にもなりにけるを、罪なきさまなるも思ひ捨てがたうこそ。いはけなげなる下つ方も紛らはさむなど思ふを、めざましと思さずは引き結ひたまへかし」と聞こえたまふ。
そばにお寄りになって、「実は、かわいらしい姫君が生まれたので宿縁は浅くも思われないのですが、そうかといって一人前に扱うのも憚りが多いので困っているのです。私と同じ気持ちになって思案して、あなたのお考えでお決めになってください。どうしましょう。ここでお育てになってくださいませんか。蛭の子の齢にもなっているのだが、無邪気な様子も放って置けないので。幼げな腰のあたりを、取り繕ってやろうなどと思うのだが、嫌だとお思いでなければ、腰結いの役を勤めてやってくださいな」とお頼み申し上げなさる。
明石の姫君の将来を考えた場合、母方の家柄が重要です。播磨守の娘のままではどんなに優れた娘でも中宮になることはおぼつかないのです。のちに、光源氏の息子の夕霧が、やはり中流貴族の娘である藤典侍が生んだ我が娘(六の君)を内親王である落葉宮の養女にするのも同じ発想です。「蛭の子の齢になる」というのは、イザナギとイザナミの最初の子である蛭子が三歳になっても足が立たなかったという伝承から、三歳になることを言います。「いはけなげなる下つ方も・・」というのは、まだ袴を着けていないために下半身が幼く見えるので、袴着(はかまぎ。ちやくこ)をさせたいということです。袴着は三歳から七歳の間におこなわれる儀式で、光源氏自身も三歳のときにおこなっています。その腰結(こしゆひ。腰ひもを結う役)を紫の上につとめてほしいというのです。この役は、一族の中で重要な人物が担当するのが常で、後の裳着(もぎ)のときも同じようにおこなわれます。
「思はずにのみとりなしたまふ御心の隔てを、 せめて見知らず、うらなくやはとてこそ。 いはけなからむ御心には、いとようかなひぬべくなむ。いかにうつくしきほどに」とて、 すこしうち笑みたまひぬ。児(ちご)をわりなうらうたきものにしたまふ御心なれば、得て抱きかしづかばや、と思す。
いかにせまし、迎へやせまし、と思し乱る。渡りたまふこといとかたし。嵯峨野の御堂の念仏など待ち出でて、月に二度(ふたたび)ばかりの御契りなめり。年のわたりには立ちまさりぬべかめるを、及びなきことと思へども、なほいかがもの思はしからぬ。
「思ってもいない方にばかりお取りになるお心の隔てを、つとめて気づかないふりをして、無心に振る舞っていてはよくないとは思えばこそなのです。幼い姫君のお心には、とてもお気に召すことでしょう。どんなにかわいらしい年頃なのでしょう」と言って、少し微笑みなさった。子どもをひどくかわいがるご性格なので、「引き取ってお育てしたい」とお思いになる。
どうしようか、迎えようか、とご思案なさる。お出かけになることはとても難しい。嵯峨野の御堂の念仏の日を待って、一月に二度ほどの逢瀬のようである。年に一度の七夕よりは勝っているようであるが、これ以上は望めないことと思うものの、やはりどうして嘆かずにいられようか。
「思はずにのみとりなしたまふ御心の隔て」というのは、光源氏が紫の上を嫉妬深いと嫌がっていることを「思いがけないことだ」といっているのです。紫の上は「あなたは私をいつも嫉妬深いをおっしゃるけれど」と、このあとの巻でも繰り返し光源氏に言い返すことになります。そして、「幼い姫君は私のような幼稚なものがぴったりかもしれませんね」と、光源氏に対して皮肉も込めた言い方をします。そして彼女は「すこし」微笑んだのです。まだうちとけきってはいないものの、少しだけ余裕ができたようです。子ども好きの紫の上は、自分に子どもができないので、育ててみたいという気持ちに傾いていきます。
一方、光源氏は姫君を迎えとるべきかどうか、まだ迷っています。大堰に行けるのはせいぜい月に二度です。すでに書かれていたように、嵯峨の御堂で十四日に普賢講、十五日に阿弥陀の称名があり、さらに三十日に釈迦の称名をおこなうので、月の半ばと月末だけに行けるのです。「年の渡りには」というのは「たまかづら絶えぬものからあらたまの年のわたりはただ一夜のみ(絶えないとは言っても、おいでになるのは年に一夜だけ)」(後撰集・秋上・よみびと知らず)によって、七夕の逢瀬と比較しているのです。
姫君を二条院に迎えるということは、明石の君から引き離すことにほかならないので、一筋縄ではいかないことです。
「松風」巻では、明石の君の心情についてはあまり多くは語られませんでした。彼女の控えめな性格のあらわれでしょうか。
こうして、『源氏物語』は次の「薄雲」巻に続きます。
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- [2020/06/11 00:00]
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The Tale of the Bamboo Cutter(1)
英語のタイトルで恐縮なのですが、これが何を意味しているかおわかりでしょうか。「竹を切る人の物語」。そうです、『竹取物語』なのです
この作品には英訳がいくつかあり、最近のものでは日本文学研究家として著名なドナルド・キーンさんが翻訳されたものがあります。
キーンさんのものはやはり専門的というか、原文をきちんと読んで翻訳したものです。
その一方、そういうものではない、ごく簡単な翻訳もあります。私の手元に、そういうものが一冊あるのですが、これを読んでみると、原文に忠実に訳したものでないからこそともいえる、興味深いことがいくつかあります。David Lear編のものです。
冒頭はこんな感じです。
Long ago there lived an old bamboo cutter. He and his wife were very poor, and to their dismay they had never been blessed with children.
まあ、どうっていうことのない書き出しです。竹取翁夫妻が子どもに恵まれない貧しい人であるという紹介で、こうしておくとスムーズかつ簡略にこのあとの話が説明できると思います。そして翁が手のひらにのるほどの大きさの女の子を見つけて
Lady Kaguya
と名付けて育てたことが記されます。翁の名(原典では「さぬきのみやつこ」)やかぐや姫の名付けをした人物(三室戸斎部秋田)などは触れられません。
『竹取物語』の前半は、かぐや姫に求婚する五人の貴公子への難題の提示とその失敗譚が中心で、これがなかなか面白いのですが、この本ではかなり簡単に描かれています。
The first nobleman(最初の貴公子。原典では石作皇子)はBuddha(釈迦)その人が使ったというstone begging bowl(仏の御石の鉢)を持ってくるように言われたのですが、それが不可能であることを悟ってにせものの鉢を持って行きます。しかしLady Kaguyaはそれがまったく光を持たないことで男が騙そうとしていることを悟るのです。原文もおおむねそういうことなのですが、どこにあった鉢なのか、偽物と言われて男はどんな反応を示したのか、などはこの本には書かれていません。
ここまで読んだ時、私はなかなか詳しく書いていると思いました。ところが、二番目の貴公子からはきわめて簡略にしか記述がないのです。
The second nobleman(原典ではくらもちの皇子)はa distant land(原典では蓬莱山)に行って金の枝と銀の根と玉の実を持つ木の一枝を求められます。かれもまた騙そうとしますが、he too was found out.というわけであっけなく終わります。原典では彼は成功する寸前まで行くのですが、そういうスリリングなことは一切書かれていません。
The third nobleman(原典では阿部右大臣)はflame-proof(火に耐える)ねずみの皮衣を、The fourth nobleman(原典では大伴大納言)は龍の珠を求められますが、そんなものを求めることはばかげていると悟ってあきらめるのです。原典では、阿部右大臣は中国の商人に偽物をつかまされ、大伴大納言は龍を求めて海に乗り出しますが、大嵐に遭って息も絶え絶えになります。そういう話は一切記されていません。The fifth nobleman(原典では石上中納言)は燕の子安貝を要求されますが、lost his life in a far off land.と記されています。異郷で命を落とした、というのですが、原典では大内裏の一角の大炊寮(おほひづかさ)でのできごとなのです。
というわけで、一人目の、原典では
一番面白くない(笑)話
である石作皇子を代表としていくらか紹介するだけで、ほかの貴公子たちの失敗についてはほとんど描かれていませんでした。
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- [2020/06/10 00:00]
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五代目竹本彌太夫のはなし
昔、初めて広島県尾道市に行ったとき、たまたま海龍寺というお寺に足を入れました。するとそこには文楽軒と初代竹本彌太夫の墓がありました。何も知らずに行ったものですからびっくりしました。
かの地は海運の町ですし、大坂とは行き来も多かったでしょうから、浄瑠璃愛好家もたくさんいらしたのでしょう。文楽軒や彌太夫は指導に行っていたらしく、その没後に在所のお弟子さん方がこの墓を建てられたものと思われます。
ついでながら、尾道市生口島の耕三寺には四代目竹本南部太夫の見台というのもあったと記憶します。
初代彌太夫は文政三年(1820)に亡くなりましたので、今年は
没後200年
にあたります。
二代目彌太夫は初代の弟子で、以下、三、四、五、六代目まで、それぞれに弟子が名を相続しています。この名前も埋もれてしまったのが残念です。
木谷蓬吟は『文楽史』の中で「馬方彌太夫」と言われた四代目について紹介しています。好んで端場を語った人で、御簾内で語った『千本』の「椎の木」を得意とした切場泣かせの人だったとか。
そして、五代目については奇妙な話を書いています。不潔な話とも言えますので、苦手な方はこれ以後は読まないでください。
五代目が1906年に満69歳で亡くなったとき、革文庫に大切にしまわれていた、カチカチに固まった古い
木綿の裂(きれ)
が見つかりました。後に、彼の日記にこの古裂について書かれていたことがわかり、それによると彼の最初の師匠である三代目竹本長門太夫(のち長登太夫)が痰を拭くための布だそうです。ある日、長門太夫が語っている途中、何かのはずみでこれを投げてしまい、たまたま白湯を汲んでいた彌太夫(当時は小熊太夫か長子太夫)がそれを拾ってそのまま持ち帰ったのだそうです。そして彌太夫は日々それを拝みながらうまく語れるように祈念したそうです。木谷蓬吟はこの五代目彌太夫を生まれつきの悪声で小音だったと記し、修業には困難を極めたと言っています。そのため、彌太夫は日記に
しんの闇、みえも恥をもいとはずして、
けいこば二階にひとり泣くらむ
という短歌のようなものを書きつけていたそうです。
蓬吟によって手厳しくも愛情を感じる紹介をされたこの五代目竹本彌太夫、本名は木谷伝次郎と言いました。え? 木谷? そうなのです。この人の息子さんが木谷蓬吟(本名は正之助)その人なのです。
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源氏物語「松風(まつかぜ)」(3)
大堰の明石の君住まいを訪ねた光源氏は、造園のことなど何かと指図もするのですが、明石の君には「あまりきれいにしても、長く住むわけではないのだから、ここを出る時に心が残ってしまうだろう」と話したりしています。その姿をのぞき見る尼君は老いも忘れて心が晴れるような気持ちでつい微笑んでしまうのです。
東の渡殿の下より出づる水の心ばへつくろはせたまふとて、いとなまめかしき袿姿(うちきすがた)うちとけたまへるを、 いとめでたううれしと見たてまつるに、 閼伽(あか)の具(ぐ)などのあるを見たまふに、思し出でて「尼君はこなたにか。いとしどけなき姿なりけりや」 とて、 御直衣召し出でてたてまつる。 几帳のもとに寄りたまひて「罪軽く生ほし立てたまへる人のゆゑは、御行なひのほどあはれにこそ思ひなしきこゆれ。いといたく思ひ澄ましたまへりし御住みかを捨てて、憂き世に帰りたまへる心ざし浅からず。 またかしこには、いかにとまりて思ひおこせたまふらむと、さまざまになむ」と、いとなつかしうのたまふ。
東の渡殿の下から流れ出る遣水の風情をつくろわせなさろうとして、とても優美な袿姿でくつろいでいらっしゃるのを、まことに立派で嬉しいことと拝見していると、閼伽の道具があるのを御覧になると、お思い出しになって「尼君はこちらにいらっしゃるのか。まことみっともない姿でしたね」とおっしゃって、御直衣を取り寄せてお召しになる。几帳の側にお寄りになって「何の気になるところもなくお育てくださった、そのわけは、お勤めの殊勝でいらっしゃるからと存じます。ほんとうに深く心を澄ましていらっしゃったお住まいを捨てて、このつらい世にお帰りになられたお気持ちは浅からぬものです。またあちらには、あとに残ってどのようにこちらを思っていらっしゃるのだろうと、あれこれと……」と、とても優しくおっしゃる。
遣水はふつう東の対と寝殿の間の「東の渡殿(渡り廊下)」の下から池に流れ込みました。そのあたりを整備させていた光源氏は、袿姿(男子の袿は直衣や狩衣の下に着けるもの)というくつろいだかっこうをしていたのです。ところが閼伽(仏に供える物)の道具があるのを見て明石の君の母の尼がすぐ近くにいることに気づきます。そしてすぐに身なりを整えて、姫君を育ててくれたことや都に戻ってきてくれたことへの感謝を述べ、さらには入道の思いやりも見せています。
「棄てはべりし世を、今さらにたち帰り思ひたまへ乱るるを推し量らせたまひければ、命長さのしるしも思ひたまへ知られぬる」と、うち泣きて「荒磯蔭に心苦しう思ひきこえさせはべりし二葉の松も、今は頼もしき御生ひ先と祝ひきこえさするを、浅き根ざしゆゑやいかがと、かたがた心尽くされはべる」など聞こゆるけはひ、よしなからねば、昔物語に、親王の住みたまひけるありさまなど語らせたまふに、つくろはれたる水の音なひ、かことがましう聞こゆ。
「棄てました世の中ですのに、また改めて帰って来て思い悩みますのをご推量くださいましたので、長生きしたからこそと嬉しく存じられます」と、泣き出して、「荒磯の蔭でお育てしたことをお気の毒にお思い申していた姫君も、今では頼もしい将来をお祝い申しておりますが、母方の素性の賤しさゆえに、どのようなものかと、何かと心配せずにはいられません」 などと申し上げるようすは風情がなくもないので、昔の思い出話として、中務親王がお住まいになっていた様子などを話させなさっていると、手入れのできた遣水の音が、訴えるかのように聞えて来る。
尼君は、姫君の将来を期待するものの、家柄のことを気にしています。これは単なる謙遜ではなく、実際に姫君の将来を考えた場合、母方の家は重い意味を持ちます。たとえば、葵の上(父は左大臣。母は桐壷院の妹)の生んだのが夕霧でなく女児であったとしたら、明石の姫君よりもはるかに格上の扱いがなされるでしょう。また、まだ若い紫の上(二十三歳くらい)に女児が生まれれば、どう考えてもかなうわけがありません。
このよう状況を考えると、尼君の懸念は至極当然のこととも言えるでしょう。
尼君の言葉の中の「荒磯蔭」「二葉の松」「生ひ先」「浅き根」はすべて海辺の松にかかわる「縁語」仕立てになっています。そういう物言いがいかにも風情があるので、光源氏はこの人が皇族の血を引く(中務宮の孫)ことを思い出し、昔話もするのです。すると、修理が終わって遣水の音が文句を言うように聞こえてきました。次の尼の和歌からもわかるように、遣水が「昔話をするなら、私(遣水)のことも言ってくれ。私はここに長くいるのだから」と自分がこの屋敷の主のように文句を言っているように聞こえるのです。
「住み馴れし人は帰りてたどれども
清水は宿の主人顔なる」
わざとはなくて言ひ消つさま、みやびかによし、と聞きたまふ。
「いさらゐははやくのことも忘れじを
もとの主人や面変はりせる
あはれ」と、うち眺めて立ちたまふ姿、にほひ、世に知らず、とのみ思ひきこゆ。
「以前住み慣れていた私は帰って来て、昔話をしていますが、遣水はこの家の主人のような顔をして音を立てています」。わざとらしくはなくて言葉尻ははっきりさせない様子は、優雅ですばらしい、とお聞きになる。「遣水は昔のことも忘れてはいないでしょうに、もとの主人が姿を変えてしまったのか、忘れているのでしょう。 ああ・・」と、ちらりと眺めてお立ちになる姿、美しさは、世の中で見たこともない、とばかりお思い申し上げている。
「住み馴れし」は尼君の歌です。かごとがましく遣水が音を立てたので、ここにかつて住んでいた私は昔のことを何とか思い出そうとしているのに、遣水が主人顔をしています、と詠んだのです。水の音に耳を止めてその音の意味を読み取ろうという風雅な心による歌だと思います。彼女の詠み方は、言葉の終わりをはっきりさせないような慎みがあってそこがまた優雅に感じられます。光源氏は、それはあなたが尼の姿になったからでしょうか、と答えるのです。なお「いさらゐ」というのは「ささやかな湧き水」のことで、ここは遣水をさしています。「いさら」は「ちょっとした」の意味を持つ和歌に用いられる言葉(歌語)で、「いさら川」「いさら水」「いさら波」のように水に関して用いられます。そして光源氏は立ち上がるのです。
光源氏は嵯峨のお堂に行きます。そして毎月十四日の普賢講、十五日の阿弥陀如来称名、三十日の釈迦如来称名の念仏三昧などについて、またそれ以外にもあれこれと指示をします。そして月の明るい頃に再び大堰の明石の君のところに戻りました。
二、三日出かけてくる、と紫の上には言いましたが、一日目は紫の上のご機嫌を取るために出立が遅れ、大堰に着いたのは夕方でした。そしてこの日は邸内の造作を指図したり尼君のご機嫌を取ったりしてそのあと嵯峨のお堂に行って諸事を指揮し、また大堰に戻るというあわただしさです。
ありし夜のこと思し出でらるる折(をり)過ぐさず、かの琴(きん)の御琴さし出でたり。そこはかとなくものあはれなるに、え忍びたまはで掻き鳴らしたまふ。まだ調べも変はらず、ひき返し、その折今の心地したまふ。
契りしに変はらぬことの調べにて
絶えぬ心のほどは知りきや
女、
変はらじと契りしことを頼みにて
まつの響きに音を添へしかな
と聞こえ交はしたるも、 似げなからぬこそは、身にあまりたるありさまなめれ。こよなうねびまさりにける容貌(かたち)、けはひ、え思ほし捨つまじう、若君、はた、尽きもせずまぼられたまふ。
明石での夜のことをお思い出しになる、その折をのがさず、あの琴(きん)を差し出した。なんとなくしみじみとした気持ちになるので、源氏の君はこらえきれずに掻き鳴らしなさる。絃の調子もまだもとのままで、あのころに戻って、たった今のようにお感じになる。「約束したとおりにかわらない琴の調べで、とぎれることなくあなたを思い続けていた私の心がお分かりいただけましたか」、女は「変わらないと約束してくださったことを頼みとしてお待ちして、松風の音に泣く声を添えていました」と詠み交わし申し上げたのも、不釣り合いでないのは、身にあまる幸せのようである。あのころよりきわだって立派になった器量や物腰は見捨てがたく、若君はまた、飽きることなく見守らずにはいらっしゃれない。
かつて光源氏が明石から都に戻るに際して、「京よりもておはしたりし琴(きん)の御琴取りに遣はして、心ことなるしらべを、ほのかにかき鳴らしたまへる、深き夜の澄めるはたとへんかたなし(都から持っていらっしゃっていた琴を源氏の仮住まいのところに取りにつかわして、格別なしらべを、わずかにかき鳴らしていらっしゃる。深き夜の澄んだ音色はたとえるものとてない)」(明石巻)ということがあったので、それを思い出して明石の君は琴(きん)を差し出します。この楽器は、光源氏が「琴(きん)はまたかき合はするまでの形見に(琴はまた合奏するまでの形見として)」と言って明石の君の手元に置いていったものなのです。光源氏は感興を覚えてかき鳴らします。「まだ調べも変はらず」というのは明石での別れに際して光源氏が「逢ふまでの形見に契る中の緒のしらべはことにかはらざらなむ この音(ね)違(たが)はぬさきに必ずあひ見む(また逢う日までの形見として約束する中の緒の調べは特に変わらないでもらいたい。私たちの仲もかわらないでいましょう。 この音色が変わる前に必ず会いましょう)」と言ったことを受けます。
光源氏の「契りにし」の歌では「こと」が「(約束を違えない)言葉」と「琴(の調べ)」の意味を掛けられています。明石の君の歌は同じく「こと」に「言」「琴」を、「まつ」に「(頼みにして)待つ」に「松(の響き)」を、さらに「松の響きに音を添へ」に「松風の響きに琴の音を添える」意味と「松風の響きに泣く声を添える」意味を掛けています。
ここで明石の君のことを「女」と言っていますが、こういう男女の親密な場面では「君」「御方」などと呼ばれずに「男」「女」と言います。
光源氏は明石の君が以前にもましてすばらしいことに感銘を受け、もちろん姫君のかわいらしさはまたとないものなのでとてもこのままにしておくわけにはいかないと思います。
いかにせまし。隠ろへたるさまにて生ひ出でむが心苦しう口惜しきを、 二条の院に渡して心のゆく限りもてなさば、後のおぼえも罪免れなむかし、と思ほせど、また、思はむこといとほしくて、えうち出でたまはで、涙ぐみて見たまふ。幼き心地にすこし恥ぢらひたりしが、やうやううちとけて、もの言ひ笑ひなどしてむつれたまふを見るままに、匂ひまさりてうつくし。抱きておはするさま見るかひありて、宿世こよなしと見えたり。
どのようにしようか。隠し子のよういしてお育ちになるのが気の毒で残念なので、二条院に移して満足のいく限り世話したならば、後になって世間の人々からとやかく言われなくて済むだろう、とお考えになるが、また一方で、(二条院に引き取ったら明石の君が)悲しむであろうことも気の毒で、口に出すこともおできにならず、涙ぐんで御覧になる。幼な心に、少し恥ずかしがっていたが、だんだん打ち解けてきて、何か言ったり笑ったりして、なついてこられたのを見るにつけ、ますます美しくかわいらしい。抱いていらっしゃる様子はいかにもすばらしく、宿縁はこの上ないものだと思われた。
光源氏は悩みます。このまま明石の君に育てさせたら、どんなにすぐれた娘になろうとも、やはり日陰者で終わってしまいかねないのです。二条院に連れて行って皇族の血を引く紫の上の養女にすれば、格が上がり、将来は開けてくるはずです。しかしそんなことを母親である明石の君には言い出しにくいのです。姫君は時間とともに光源氏になじんできます。さて、どうすればいいのでしょうか。
翌日は京に帰らねばなりません(大堰は「京」ではないのですね)。それだけに光源氏は少し寝過ごします。帰らねばならないなら早起きするのではないか、というとそうではないのです。しばしの別れになると思うと、夜中まで明石の君と語らっていたはずですから寝過ごすのです。さりげなく、そういう様子を伝える表現方法です。さあ帰ろうと思ったところ、桂の院(光源氏の別邸)に人々が多く集まっていて、この大堰の屋敷にも人々がやってきたというのです。光源氏が桂の方に行かれたという噂が広がって、「それでは桂の院で宴だ」と勇んで大勢の人が集まってきたのでしょう。そしてこの大堰の屋敷にまで迎えの者が来たのです。光源氏は「見つかるはずのない場所だと思ったのに」と嘆きながらも付き合わねばならないのです。
心苦しければ、さりげなく紛らはして立ちとまりたまへる戸口に、乳母(めのと)、若君抱(いだ)きてさし出でたり。あはれなる御気色にかき撫でたまひて「見ではいと苦しかりぬべきこそいとうちつけなれ。いかがすべき。いと里遠しや」とのたまへば「遥かに思ひたまへ絶えたりつる年ごろよりも、今からの御もてなしのおぼつかなうはべらむは心づくしに」など聞こゆ。若君手をさし出でて、立ちたまへるを慕ひたまへば、突いゐたまひて「あやしう、もの思ひ絶えぬ身にこそありけれ。しばしにても苦しや。いづら。などもろともに出でては惜しみたまはぬ。さらばこそ人心地もせめ」とのたまへば、うち笑ひて、女君にかくなむと聞こゆ。なかなかもの思ひ乱れて臥したれば、とみにしも動かれず。
女君がおいたわしいので、さりげなく紛らわして立ちどまられると、その戸口に乳母が姫君を抱いて出ている。しんみりとしたお気持ちになって姫君をお撫でになって「見ないではひどくつらいだろうなどというのは浅はかな話だ。どうしたものか。まったく『里遠し』だな」とおっしゃると、乳母は「はるかな地であきらめておりましたこの何年かよりも、今後どのようにお扱いになるのかがはっきりしませんのが心をすり減らすばかりでして」などと申し上げる。姫君は手をさし出して、立っていらっしゃる父君をお慕いになるので、ひざをお突きになって「不思議なまでに、もの思いの絶えぬ身だな。しばらくのあいだでもつらいものだ。母君はどこだ。どうして一緒に出てきて名残を惜しんで下さらないのだ。そうしてくだされば人心地もつくのだが」とおっしゃるので、乳母は少し笑って、女君に「こうおっしゃっています」と申し上げる。お会いしたがゆえにかえって物思いに心が乱れて臥していて、すぐにも動くことはできない。
光源氏は乳母の抱いている姫君を撫でて別れを惜しみます。「里遠し」というのは「里遠みいかにせよとかかくのみはしばしも見ねば恋しかるらむ(この里は遠いので、どうせよというのか。しばらくでも会わないと恋しいことだろう)」(元真集)による表現と思われます。乳母は「遠いとおっしゃいますが、明石よりは近いのですから」という気持ちで今後の庇護を光源氏に迫ります。光源氏に手を出してくる姫君の何といじらしいことでしょうか。乳母は光源氏が「人心地がつく」と言ったのを「なんと調子のいいことを」とでも思って笑うのでしょうか。しかし当の明石の君はなまじ逢ったためにかえってつらい気持ちで心が乱れています。
ところで、このあたり、明石の君には敬語がついていません。ここも「臥したまへれば、とみにしもえ動きたまはず」とは書かれていません。彼女の立ち位置を感じさせるようです。
女房たちに促されて少しだけ出てきた明石の君はとても優美で品格があり、皇女と言っても何の不足もないほどです。
ここで明石の気が見送る光源氏の姿が描かれています。
いたうそびやぎたまへりしが、すこしなりあふほどになりたまひにける御姿など、かくてこそものものしかりけれと、御指貫(さしぬき)の裾までなまめかしう、愛敬(あいぎやう)のこぼれ出づるぞあながちなる見なしなるべき。
背がとてもすらりとしていらっしゃったのだが、少しつりあいのよいくらいになられたお姿など、これでこそ重みがあるというものだ、と指貫(くるぶしを紐で縛るようにした袴)の裾まで優美で魅力にあふれているというのは、女君のひいき目というものであろう。
最後は、あまりにもほめ過ぎなので、明石の君のひいき目だ、と言っているのですが、ここに30代になった光源氏の重厚さが描かれています。以前はすらっとした感じだったのが、多少肉がついて体のバランスがよくなってきたので、中年の貫録を感じさせるというのです。
さて、ここで、ちょっとした挿話が描かれます。空蝉の弟でかつて光源氏を手引きした「小君」がいました。この人物は蔵人右近将監(その時は六位)であったのですが、五位になるはずのところが叶わずに官職も失って光源氏に同行して須磨に落ちていた(須磨巻)のですが、光源氏が都に戻ってから「靫負(ゆげひ。衛門府の三等官)」になって蔵人にも戻り(澪標巻)、この年(澪標巻の二年後)に念願の五位に叙せるまでになっていたのです。以下、この人物(ここでは「靫負」と呼んでおきます)のエピソードです。
昔に改め、心地よげにて御佩刀(はかし)取りに寄り来たり。人影を見つけて「来(き)しかたのもの忘れしはべらねど、かしこければえこそ。浦風おぼえはべりつる暁の寝ざめにも驚かしきこえさすべきよすがだになくて」と気色(けしき)ばむを、「八重たつ山は、さらに島隠れにも劣らざりけるを、松も昔の、とたどられつるに、忘れぬ人もものしたまひけるに頼もし」などいふ。「こよなしや。我も思ひなきにしもあらざりしを」など、あさましうおぼゆれど、「いまことさらに」とうちけざやきて参りぬ。
昔とは打って変わって気持ちよさそうに太刀を取りにそばに来た。人影を見つけて「以前のことを忘れてはおりませんが、畏れ多いので参れなかったのです。明石の浦風を思い出した暁の寝覚めの折にもご連絡申し上げるつてもなくて」と気取って言うので、「雲が八重に立つ山は、明石の島隠れにもけっして劣らないものでしたから、『松も昔からの友ではないのだから』と迷うばかりでしたが、忘れない人もいらっしゃったのだ、と思いますと頼もしいです」などと言う。「私も好きでなかったというわけでもなかったのに」などと、あきれたような気持ちになるのだが、「そのうちにあらためまして」ときっぱりと言って参上した。
何ということもない話なのですが、かつて須磨明石の生活を共にした靫負は明石の君の女房と知り合うきっかけがあったのです。今、靫負は光源氏の家来として自信満々に太刀を受け取りに来たのですが、覚えのある女房の姿を見つけて、無沙汰の挨拶をします。その挨拶が以前よりえらそうな感じに聞こえるのでしょう、女房は引き歌のオンパレードのような返事をします。「八重立つ山」は「白雲の絶えずたなびく峰にだに住めば住みぬる世にこそありけれ」(古今集・雑下・惟喬親王)の第二句を「八重立つ山の」とする本文があったらしく、古注釈の『源氏釈』が引き歌として(四句は「住めば住まるる」)」挙げています。「島隠れ」は以前にもご紹介した「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ」(古今集・羇旅・よみびと知らず)です。そして「松も昔の」はおそらく皆さまお分かりだと思いますが「誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに」(古今集・雑上・藤原興風。『百人一首』にも)を引きます。これは女房がわざと気取って言っているのです。靫負は「こりゃだめだ」とばかりに逃げるようにして光源氏のところに行ったのです。
何でもないような話なのですが、光源氏と明石の君の出会いと別れと再会の蔭に、従者同士のささやかな恋愛と再会があり、しかしこちらはなんとも気楽な感じなので、主人同士の哀しみが際立つようです。
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- [2020/06/08 00:00]
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文楽公演はいつから
夏休みの文楽公演も中止になったそうです。
劇場も、どうすればよいのかわからないという状況でしょうか。大夫さんは、譜を研究したり、さほど大きな声でなければ声を出したり、それなりに稽古はできるのではないでしょうか。三味線弾きさんは師匠と向き合って稽古するのも必ずしもできないということはないでしょう。
やっかいなのは
人形遣い
さんです。あの人たちは本番が稽古のようなものですし、三人がぴったりくっつきながら演ずるので、今どきの「密」の考え方では難しいのでしょう。そもそも人形を持ちたくても手元に人形のある人ばかりではないはずですから、できることと言ったら公演の映像を見ることとか、イメージトレーニングとか、からだをなまらないようにすることとか・・・、あまりないですよね。そして怖いのは、稽古できないことによって持たれるであろう。
不安
がどんどんますのではないか、ということです。なにしろ、2月以降半年は人形が持てないのでしょうから。
こういうときにこの伝統芸能に理解のある力のある人、たとえば政財界の人たち、がいてくれるとありがたいのですが、見向きもされないのでしょうね。文楽の方々はもちろん、裏方さんの生活などは大丈夫なのか、気になるところです。秋には再開できるのでしょうか。早ければ9月の東京公演、遅くとも11月の大阪公演は何らかの形で実施されますように。
ついでに申し添えますと、大阪府能勢町で行われる可能性のあった拙作の浄瑠璃作品も中止になってしまいました。こちらは年に一度のことですから、来年上演してもらえたらいいのですが・・・。
※と書いてきましたが、9月から始まりそうだ、という噂が・・。
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- [2020/06/07 00:00]
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失礼ばかりしています
先日、あるところから原稿料というのをいただくことになりました。私の書くものなどお金にしてはいけないような気がするのですが、せっかくのことなのでありがたくいただくことにしました。
が!
待てど暮らせど届きません(振り込みではないのです)。
うっかり忘れられたのならもうそれでいいや、という気持ちにもなったのですが、受け取ったらお礼を申し上げなければならないので、困りました。届いてもいないのに「ありがとうございました」といって、向こうが「あ、送るのを忘れていた」ということであればかえって変なことになりそうで、さてどうしたものだろう、と悩みました。
たまたまそこに別の用があってメールすることがありましたので、思い切って聞いてみました。すると、やはり
「送った」
とのことでした。
これはこちらのミスである可能性が高くなりました。しかし家人に聞いても記憶にないというのです。いったいどうなってしまったのだろう、と思いつつあちこち探したのですがやはり見つかりません。
その直後に資源ごみの日がありました。私はたまっていた古新聞をせっせとまとめていました。するとその隙間からぽとんと落ちてきたものがあります。
なんと、
現金書留
でした。トイレットペーパーとなる寸前に救出したことになります。
見つけたのはいいのですが、お詫びを入れなければなりません。精一杯へりくだったメールをお送りして了承してもらいました。
誰かが受け取っていたのですが、誰も受け取った覚えはないという、間の抜けた一家なのです。いや、ひょっとしたら、私が受け取っていたのかもしれません。しかし今なおまるで記憶にないのです。
本当に失礼してしまいました。
ほかにもこういうことをしているのではないかと、とても不安になるような出来事でした。
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- [2020/06/06 00:24]
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五代目春太夫のはなし
昔の文楽の太夫さんにはなかなか異色の方があって、その人間像を知るだけでも面白いものです。
昔の人ですから、その人物像を知っている人の証言が役に立ちます。古い文楽関係の本を読む楽しみの一つはそこにもあるのです。
昔の太夫さんの話で好きなもののひとつに五代目竹本春太夫のエピソードがあります。主として木谷蓬吟『文楽史』によってそれをここに挙げておきます。この本は昭和18年に全国書房から出たもので、今でもわりあいに古書として流通しているようです。五代目竹本春太夫(1808~77)は
力自慢
で、素人相撲もしていたようです。
堺の鍛治屋町の生まれですが、二十二歳(おそらく数え年)といいますから、まだ幕末という感じも薄い頃に大阪に出て、天満で湯屋の三助をしていました。そして四代目竹本氏太夫に浄瑠璃を習い、この世界に入ったようです。昔の人というと、何となく子供のころから修行して、二十二歳なんて、もうひとかどの語りができて当たり前、というイメージがあるのですが、全然違いますね。昨今大学出身の人が珍しくありませんが、ちょうどそれと同じような年齢です。
この人は「春太夫」という優雅な名前とは裏腹に
豪放磊落
なところがあって、大勢の人を引き連れて茶屋や料理屋に押し掛けたのだそうです。親分肌なのでしょうか。あるときは鰻丼を150人前注文したとかで、店のほうがびっくりしたそうです。どんなお金の使い方をしていたのでしょうか。
この人のおもしろいエピソードに奥様が顔を出されます。この奥様は画家で明清楽(みんしんがく。日本で演奏された近世の中国音楽)も教えていたという才女で、春太夫は彼女を「先生」と呼んでいたのだとか。そして、春太夫が亡くなるとき、奥様が彼の顔を描こうとしていました。するとパッチリ目を開けた春太夫が「なるだけ男ぶりに描いてや」といったのだとか。
春太夫は「さの太夫」から「文字太夫」になり、4代目春太夫の養子になって五代目を相続しました。明治に文楽座が松島に移転した時に紋下になったのがこの人です。
この人の功績の一つには、三代目竹本大隅太夫や六代目竹本春太夫すなわちのちの摂津大掾を育てたことがあります。
木谷蓬吟は「洒脱春太夫」と書いています。
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- [2020/06/05 00:00]
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源氏物語「松風(まつかぜ)」(2)
明石の君が上洛します。第三者の目から見ると幸せとも思える旅ですが、父と娘の別れ、おそらく二度と会えないと予想される別れは父娘の独特の愛情を感じさせます。近松門左衛門の『心中宵庚申』「上田村」では、嫁ぎ先から出戻った娘をふたたび送り返す時に、父の平右衛門が門火を焚いて「灰になっても帰るな」と声を掛ける場面があります。ほんとうはずっと一緒にいたい父親の切ない気持ちが胸に響きます。
入道は娘に向かって「自分が都を棄てて田舎暮らしをするようになったのはあなたのためだったのだ」と告白します。明石入道は都で近衛中将まで出世していたのですが、望んで播磨守になったのです。そのほうが収入は豊かです(播磨は大和、常陸、越前などとともに「大国」でした)から、娘のためになると考えたのです。しかし、いろいろなことがあって、もう都に帰っても都の人とまともな交じらいもできそうになく、親の名誉に泥を塗るようなこともしたくないと思っているうちに、結局は播磨に下向したことが出家への道だったのだと人からも言われるようになってしまったのです。そして、成長していく娘を見るにつけても、わが子をこのような田舎に置いておかざるを得ない自分の愚かさを嘆き続けていたのです。ところが、そんな折に光源氏との出会いがあり、姫君まで授かって、その子が都に上ることが叶うことになりました。入道は「最初こそ悲しみでうろたえることもあろうが、自分は世を棄てた身であり、あなたや姫君がいずれこの世を照らす存在になられることも期待できるのだから、この別れの苦しみも、天上界に生まれる人が一時期は苦しみの世界に陥ることがあると言われるのになぞらえることにしましょう」と言います。「あなたや姫君がこの世を照らす」というのは、ゆくゆく姫君が中宮になることを暗示しています。これについてはのちに「若菜上」巻でこの暗示の根拠が示されます。「天上界に生まれる人が・・・」というのは、『正法念経』に見られる、天上界に生まれる人が果報が尽きると三悪道(畜生道、餓鬼道、地獄道)に陥ることがあるという話によるものです。入道はこのあと「煙とならむ夕べまで、若君の御ことをなむ六時の勤めにもなほ心きたなくうちまぜはべりぬべき(自分が煙となる夕べまでは、六時の勤行に際しても、やはり未練がましく若君のことをお祈りすることにしましょう)」と言って眉根にしわを寄せて泣きべそをかくような顔をするのです。
御車は、あまた続けむも所狭(ところせ)く、かたへづつ分けむもわづらはしとて、御供の人々もあながちに隠ろへ忍ぶれば、舟にて忍びやかにと定めたり。辰の時に舟出したまふ。昔の人もあはれと言ひける浦の朝霧隔たりゆくままにいともの悲しくて、入道は心澄み果つまじくあくがれ眺めゐたり。ここら年を経て今さらに帰るもなほ思ひ尽きせず、尼君は泣きたまふ。
かの岸に心寄りにし海人舟の
背きし方に漕ぎ帰るかな
御方、
いくかへり行きかふ秋を過ぐしつつ
浮木に乗りてわれ帰るらむ
思ふ方の風にて、限りける日違へず入りたまひぬ。人に見咎められじの心もあれば、路のほども軽らかにしなしたり。
お車は、いくつも続けるのも仰々しいし、少しずつ分けるのも厄介だというので、お供の人たちもできるだけ目立たないようにしているので、舟でひそかにと決めた。辰の時(午前8時前後)に舟出なさる。昔の人も物悲しいと言った浦の朝霧の中を遠ざかって行くにつれて、とても物悲しくて、入道は煩悩を断ち切ることもできず、ぼんやりと眺めている。長年過ごして、今さら都に帰るのも、やはり感慨は尽きることなく、尼君はお泣きになる。「彼岸に思いを寄せていたこの尼が捨てたはずの都に帰って行くことよ」
御方は、「何年も繰り返し秋を過ごして来たが、この頼りない舟に乗って私は帰って行くのでしょう」。
思いどおりの順風で、予定していた日に違わず都にお入りになった。人に気づかれまいとする考えもあるので、道中も質素に装っていた。
晴れて都に上る、といっても、実際は西のはずれの大堰などというところにいくわけで、また表立って行列を作っていくというような身の上でもありません。一行はひっそりと明石から難波まで舟で行きました。昔の人が物悲しいと言った浦の朝霧、というのは「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ」(古今集・羇旅・よみびと知らず)によるものでしょう。「あはれ」という言葉は出てきませんが、「舟をしぞ思ふ」はまさに「あはれ」の情感です。なお、この歌は『古今集』の左注(歌の左に付した注)によると柿本人麻呂の作とも伝えられます。心を澄まして見送るべきところですが、さすがに入道はうろたえています。尼君の歌は、「かの岸」に「彼岸」の意味を持たせ、「海人(あま)」には「尼」を掛けて自分自身をなぞらえています。海人があの岸に思いを寄せるように、尼である私は「彼岸」のことを考えていたはずなのに、背いたはずの此岸に戻っていくのだ、と複雑な心境になります。明石の君の歌は舟を「うき木」といったところが眼目でしょう。ゆらゆらと頼りなげに海に「浮き木」に身を任せていくほかはなく、彼女は「憂き」思いを抱いて未来に不安を感じているようです。
都には予定通りに着きましたが、人目を避けるかのような道中でした。
↑絵入源氏物語 松風
大堰の屋敷はなかなか風流なところで、前には川が流れていることもあってかつての海辺の暮らしと似たところもあり、まだ明石に住んでいるような錯覚を覚えるほどです。
光源氏はさっそく訪ねたいのですが、なかなかその口実がありません。それゆえに明石の君はかえって悲しいをもいをすることになります。
捨てし家居も恋しうつれづれなれば、かの御形見の琴(きん)を掻き鳴らす。 をりのいみじう忍びがたければ、人離れたる方にうちとけてすこし弾くに、 松風はしたなく響きあひたり。尼君、もの悲しげにて寄り臥したまへるに、起き上がりて、
身を変へてひとり帰れる山里に
聞きしに似たる松風ぞ吹く
御方
ふるさとに見し世の友を恋ひわびて
さへづることを誰れか分くらむ」
捨てた明石の家も恋しく、所在ないので、あの御形見の琴(きん)をかき鳴らしている。秋という時節柄、とても堪えがたいので、人けのない所で、気ままに少し弾いてみると、松風がきまりわるいほど響き合っている。尼君はもの悲しそうに物に寄り掛かっていらっしゃったが、起き上がって「尼となって一人帰ってきた山里に、かつて明石で聞いたような松風が吹いている」。
明石の御方は、「かつて住んだ明石で昔親しんだ人を恋い慕って弾く、あの田舎人の意味の分からないことばのようなこの琴の音を誰が分かってくれるでしょうか」
形見の琴というのは、光源氏が明石を離れる時に残していったものです。松風が琴の音に響き合うというと「琴の音に峰の松風かよふらしいづれの緒よりしらべそめけむ」(拾遺集・雑上・斎宮女御)が思い出されます。明石の君の歌にある「さへづる」という言葉は、本来は酉が鳴くことですが、そこから田舎の人が早口で意味の分からないことを言うことも言うようになりました。「明石」巻にも、須磨の海人たちが「聞きも知りたまはぬことどもをさへづりあへる」とあります。光源氏の耳には地元民の言葉がわからないのです。
ここに「松風」という言葉が見え、尼君の歌にも詠みこまれます。この巻の名のいわれとなった部分です。「松風」は大堰の住まいのわびしさを象徴するものと思われます。
↑絵入源氏物語 松風
かやうにものはかなくて 明かし暮らすに、大臣(おとど)、なかなか静心なく思さるれば、人目をもえ憚りあへたまはで渡りたまふを、女君は、かくなむとたしかに知らせたてまつりたまはざりけるを、例の、聞きもや合はせたまふとて、消息聞こえたまふ。「桂に見るべきことはべるを、いさや、心にもあらでほど経にけり。とぶらはむと言ひし人さへかのわたり近く来ゐて待つなれば、心苦しくてなむ。嵯峨野の御堂にも飾りなき仏の御とぶらひすべければ、二、三日ははべりなむ」と聞こえたまふ。
桂の院といふ所、にはかに造らせたまふと聞くは、そこに据ゑたまへるにや、と思すに、心づきなければ「斧(をの)の柄(え)さへ改めたまはむほどや、待ち遠に」と、心ゆかぬ御けしきなり。
「例の、比べ苦しき御心。いにしへのありさま名残なしと、世人も言ふなるものを」。何やかやと御心とりたまふほどに、日たけぬ。
このように心細いようすで日を過ごしているが、大臣もかえって落ち着いた気持ちではいられないようにお思いになるので、人目を気にすることもおできになれずに、お出かけになるのを、女君には、こういうことだとはっきりとはお知らせ申していらっしゃらなかったので、例によって、ほかからお耳になさることもあろうかと思って、ご挨拶申し上げなさる。
「桂に用がございますが、いやはや、心ならずも日が過ぎてしまいました。お訪ねしようと言っておいた人までが、あの辺り近くに来ていて、待っているというので、気の毒でね。嵯峨野の御堂にも、まだ飾り付けのできていない仏像のお世話をしなければなりませんので、二三日はあちらにいることになるでしょう」 と申し上げなさる。
桂の院という所を急に造らせなさっていると聞いているのは、そこにその人を住まわせていらっしゃるのだろうか、とお思いになると、おもしろくないので、「斧の柄まで付け替えるほどのことでしょうか、待ち遠しいこと」と、ご機嫌が悪い様子である。
「例によって、ご機嫌を取りにくいお心ですね。昔の好色な心は、すっかりなくなったと、世間の人も言っているというのに」。何かとご機嫌をとっていらっしゃるうちに、日が高くなってしまった。
光源氏はすぐにでも大堰に行きたいとは思うのですが、気になるのは、紫の上です。内緒で行った場合、ひょっとして誰か別の人から話を聞いたら厄介だと思って、あらかじめ話をしておくのです。「桂に用がある」というのは、光源氏が桂に別邸を持っていて、そこに行くということのようです。例によって「用がある」ということを言い訳に使うのです。用があるから行くのだけれども、たまたまそのあたりに「とぶらはむと言ひし人」(明石の君)が来ているので、放っておくのも気の毒だ、嵯峨野の御堂にも用があるので、二、三日留守をします、とあくまで桂の別邸と嵯峨野の御堂に行くことが本来の目的であるかのように言います。紫の上は、桂の院というのを急に造営(主に修理でしょう)させていらっしゃるというのは、その人の住まいとするのだろうかと疑います。「斧の柄さへ」というのは、晋(しん)の王質という人が、山中で童子が囲碁を打っているのを見ているうちに斧が朽ちてしまったので、驚いて帰ると、七代あとの子孫がいた、という話による言葉です。知らず知らずのうちに長い年月が経つことを言います。紫の上の嫉妬心です。光源氏はもう昔のような色好みなことはしませんよ、とまたいいかげんなことを言っています。あちらを立てようとするとこちらが立たない。自業自得ではあるのですが。
忍びやかに、御前疎きは混ぜで、 御心づかひして渡りたまひぬ。たそかれ時におはし着きたり。狩の御衣に やつれたまへりしだに世に知らぬ心地せしを、まして、さる御心してひきつくろひたまへる御直衣姿、世になくなまめかしうまばゆき心地すれば、思ひむせべる心の闇も晴るるやうなり。めづらしうあはれにて、若君を見たまふもいかが浅く思されむ。今まで隔てける年月だに、あさましく悔しきまで思ほす。大殿腹の君をうつくしげなりと、世人もて騒ぐは、なほ時世(ときよ)によれば人の見なすなりけり。かくこそはすぐれたる人の山口(やまぐち)はしるかりけれと、うち笑みたる顔の何心なきが、愛敬づき匂ひたるを、いみじうらうたしと思す。
お忍びで、御前駆も事情を知らない者は加えず、心遣いをなさっておでかけになった。夕暮れのころにお着きになった。狩衣に身をやつしていらっしゃったお姿でさえ、またとない心地がしたのに、まして、こういう折にふさわしく装っていらっしゃる御直衣姿は、世にまたとないほど優美でまぶしいような気がするので、むせび泣いていた子を思うつらさも晴れるようである。源氏の君も、めずらしくかわいいものと若君を御覧になるにつけても、どうしていいかげんな気持ちでいらっしゃれようか。今まで離れていた年月でさえ、あきれるほど悔しいとまでお思いになる。大殿の上がお産みになった若君をかわいらしいと、世間の人がもてはやすのは、やはり時勢におもねようとしてそのように思いなすのであったよ。このように優れた人は、今から行く末がはっきりわかるものであった、と、ほほえんでいる顔の無邪気さが愛敬があって赤みがさしているのを、たいそうかわいらしいとお思いになる。
事情を知っている者だけを連れてやっと大堰に行ったときは、もう日暮れ時でした。明石で狩衣姿を見た時も素晴らしいと思っていたのに、いまこうして直衣姿を拝見するとさらに立派なので、明石の君は喜ぶのです。ただ、はじめて光源氏が明石の君を訪ねた時は「御直衣たてまつりひきつくろひて」(明石巻)という装束でしたので、まったく知らないわけではないのですが。ここでの彼女の心は「心の闇も晴るるやうなり」というもので、これは「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(後撰集・雑一・藤原兼輔)による表現でしょうから、あくまでも母親としての気持ち、娘をいとしく思う気持ちでこれまでは嘆いていたことになります。
光源氏は姫君を見て、そのかわいらしさに驚きます。大殿の上(葵の上)が生んだ子(夕霧)を「かわいい」と世間がいうのは、光源氏の権勢ゆえに人々がそう思いなそうとするのだ、と気づきました。しかしこの姫君のかわいらしさは将来が見通せると思うのです。もちろんもっとも期待される将来というのは「中宮になる」ということでしょう。それにふさわしい人だと感じるのです。なお、ここに、「山口」という言葉が出てきます。本来はもちろん「山の入り口」のことですが、転じて「もののはじめ」というほどの意味で用いられています。また「匂ひ」というのは、「丹(に)秀(ほ)ひ」で、「丹」は赤い色のことですから、姫君(このとき数え年3歳)のつやつやと赤みのある顔を言うのでしょう。
光源氏が明石に遣わして、このたび同行して上洛した乳母は、もともと不遇な人でした。両親を失い、男に大事にされないまま子を産んでひっそり暮らしていた人だった(澪標巻)のですが、とても生き生きとした姿になっていました。光源氏はこの乳母にも感謝していたわりの言葉をかけました。そして明石の君には「かねて用意しているところにいらっしゃい」と言います。二条東の院の東の対をこの人のためにと思って準備していたことはこの松風巻の最初の部分に書かれていました。明石の君は「まだ都のことに不慣れなので」と少し待ってもらいたい旨を話します。
直前に紫の上の嫉妬が描かれていたのに対して、明石の君についてはその感情があらわにうかがえるような言動がほとんどないのです。長らく明石に放置されたことを恨む言葉、今後の不安、姫君の処遇に対する希望など、何か言ってもよさそうですが、作者は何も描いていません。それどころか、乳母の苦労をねぎらうことがわざわざ書かれていて、明石の君の存在感が希薄にすら感じられないでしょうか。
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- [2020/06/04 00:00]
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85cm
5年以上前(10年くらい前かも)だと思うのですが、私はベルトに着けるタイプの歩数計を使ってよく歩いていました。しかしそれがダメになって以来、歩数計というものを持ちません。そのうちに、携帯にインストールすればいいということを知ったのですが、何となく「正しく測れるの?」という疑いを持っていました(笑)ので、長らくインストールしませんでした。しかし、この外出自粛の生活による運動不足が気になっていたため、やっと先日、携帯歩数計デビューしました。
やはり歩数計があると少しでも数字が上がるようにしたくなるもので、歩く張り合いにもなります。
最初の日に1万歩を目指してスタートしたのですが、何とかそのノルマは果たしました。およそ11,000歩でした。しかし、私のこれまでの認識では、
1分に110歩
くらい歩くと思っていましたので、これなら100分、すなわち1時間40分くらいのはずなのです。ところが歩数計には約2時間半つまり約150分という数字が出ています。150分で11,000歩なら、1分につき70歩そこそこでしょう。たしかに途中で花を見たり景色を眺めたりしていますから、ずっと110歩/分というわけにはいかないでしょうが、それでも90歩くらいは歩いているのではないかと思っていましたから、ほんとうにそんなもんかな? といささか奇妙に感じていました。
そして歩いた距離を見て、もうひとつ不思議に感じました。
約9㎞
と出ているのです。確かにそれくらいには感じるのですが、しかしそうすると1歩あたり82㎝ということになります。それは多すぎでしょう。だって、これまでに自分の歩幅を測ったことがあってそのときは1歩60~65㎝だったからです。
おかしいな、と思って、試しにもう一度歩幅を測ってみました。60㎝ちょっと。ほら、やっぱり。
・・と思ったのですが、ちょっと待てよ、この測り方、おかしくない? 私は右足から踏み出す場合、左足の爪先から踏み出した右足のかかとまでを測っていました。よく考えたら、爪先から爪先まで測らないとおかしいですよね。そうすると、25㎝ばかり増えますから85㎝。
やはり歩数計は正しかった・・・
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- [2020/06/03 00:00]
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運動不足
呼吸器の持病のために、激しい運動はできなくなりました。走るのも苦痛です。おまけにこの2月以降は声を出す仕事もほとんどなく、悪い意味で疲れというものを感じなくなっていました。
そして決定的に運動不足を強いられたのはCOVID-19の流行でした。
しかしこのままでは不健康になりますので、せめて歩くことだけはしようと思い続けています。人さまは気安く「スイミングクラブに行って水中歩行をするといい」なんて言ってくださるのですが、経済的に余裕のない身としましては(笑)なかなかそこまではできません。
やっと携帯に歩数計も入れたことですので、今はそれを気にしながら歩くようにしています。
1日1万歩が目標ですが、私の場合だいたい1分に110歩くらいですので、
90分強
歩かなければ到達しません。一度にそれだけの距離を歩くのはなかなか大変ですので、1日2回、朝夕歩くようにしています。これならさほど苦痛にならずに1万歩を達成できます。
もともと太っているほうではないのですが、最近はだんだん太りやすくなっていると感じます。運動不足の上に三度の食事以外に何かを食べると、それだけでも太ってしまいます。栄養を摂りながらカロリーは控えめにすることも大事だろうと思います。
私がこれまでに試みたダイエット方法は、歩くことと
間食しない
ことの二本立てです。これでかなりうまくいったものです。
最近はどうかというと、どうしても家に居て何もすることがないと口が寂しくて何かをつまんでしまいますので、意識してやめようと思います。
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- [2020/06/02 00:00]
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源氏物語「松風(まつかぜ)」(1)
「松風」巻は、「絵合巻」と同じく光源氏三十一歳、身分は内大臣です。内大臣というのは、もともとは内臣(うちつおみ)と言い、あの中臣鎌子(鎌足)がはじめて任ぜられました。天智天皇のころに内大臣と称されるようになって、左右の大臣より上に置かれたのですが、やがて廃止に至りました。ところが奈良時代の終わりに左右大臣の下に置かれるようになり、その後平安時代にもしばしば置かれたのです。ただし、令の規定にはない、いわゆる「令外官(りやうげのくわん)」です。『源氏物語』の時代は、左大臣藤原道長、右大臣藤原顕光に対して内大臣として藤原公季がいました。それ以前には藤原伊周もその任にありました。
「絵合」巻で光源氏が将来の出家に備えて堂を造作することが記されていました。しかし彼は面倒を見なければならない人たちがいます。
東(ひむがし)の院造りたてて、花散里と聞こえし、移ろはしたまふ。西の対、渡殿などかけて政所(まどころ)家司(けいし)など、あるべきさまにしおかせたまふ。東の対は明石の御方と思しおきてたり。北の対は、ことに広く造らせたまひて、かりにてもあはれと思して、行く末かけて契り頼めたまひし人々、集(つど)ひ住むべきさまに、隔て隔てしつらはせたまへるしも、なつかしう見どころありて、こまかなり。寝殿は塞(ふた)げたまはず時々渡りたまふ御住み所にして、さる方なる御しつらひどもしおかせたまへり。
東の院を造営して、花散里と申した方をお移しになる。その西の対から渡殿にかけて政所の家司などをしかるべきさまにお置きになる。東の対は明石の御方と東の対は明石の御方とお考えになっている。北の対は、特に広く造らせなさって、かりそめにであっても心を寄せて、将来をお約束になって自分を頼りにさせていらっしゃった女性がたが、集まって住めるように、隔てをじゅうぶんになさったのも、好ましくすばらしいもので、こまやかに配慮がある。寝殿は使わせないようになさって、時々お渡りになるときのお座所として、それにふさわしい調度を整えさせておかれた。
「東の院」は光源氏の住まいである二条院の東に建てられたものです。「澪標」巻に「二条院の東なる宮、院の御処分(みしようぶん)なりしを、二なく改め造らせたまふ。花散里などやうの心苦しき人々住ませむなど、思しあててつくろはせたまふ(二条院の東にある宮は、桐壷院の遺産であったが、それをまたとなく改修させなさる。花散里などのような気がかりな人たちを住まわせようなどと心づもりをなさって造営なさる)」と見えます。かねてから花散里などの居所にすることを念頭においていたようです。予定通り、花散里を西の対に住まわせます。そこから渡殿にかけてのところに、政所(家政を司るところ)を置くのは、花散里がこの屋敷のもっとも重要な人物、あえて言うなら女主人であることを意味します。東の対は明石の君(ここにあるように、この人は「明石の御方」と呼ばれることも多いのです)のためにと心づもりしています。そして北の対には多くの女性たちを住まわせるように、プライバシーに気を使いながら造作しています。末摘花や空蝉が想定されます。寝殿はどなたの居所ともせず、光源氏が訪問するときの居場所のためにあけてあります。
明石には御消息絶えず、今はなほ上りぬべきことをばのたまへど、女はなほわが身のほどを思ひ知るに、「こよなくやむごとなき際の人々だに、なかなかさてかけ離れぬ御ありさまのつれなきを見つつ、もの思ひまさりぬべく聞くを、まして何ばかりのおぼえなりとてかさし出でまじらはむ。この若君の御面伏せ(おもてぶせ)に数ならぬ身のほどこそあらはれめ。たまさかに這ひ渡りたまふついでを待つことにて、人わらへにはしたなきこといかにあらむ」と思ひ乱れても、また、さりとて、かかる所に生ひ出で、数まへられたまはざらむも、いとあはれなれば、ひたすらにもえ恨み背かず。親たちもげにことわりと思ひ嘆くに、なかなか心も尽き果てぬ。
明石にはお便りが絶えず届き、もう、今となっては都に上るようにということをおっしゃるのだが、女はやはりわが身のほどを思い知っているので、「このうえなく高貴なご身分の方々でさえ、なまじ離れてしまわれないでいて、つれないご様子を見ては、もの思いが重なるようだと聞いているので、まして自分はなんらご寵愛があるわけでもないのに出しゃばることができようか。この若君の不面目として、私のものの数にも入らない身のほどが明らかになるだろう。まれにおでましになる機会を待つだけで、もの笑いになってきまりの悪いことがどれほどあるだろう」、と思い乱れながらも、また、だからといって、このようなところでご成長になって、人並みに扱われなさらないとしたら、それもとてもおいたわしいので、きっぱりお恨みしたり背いたりもおできにならない。親たちも、なるほどそれも道理だと思ってはため息をついているので、かえって思案も尽きるのであった。
「澪標」巻(2年前。光源氏29歳)で、明石の君は三月の初めごろに女児を出産しました。光源氏はその時、かつて宿曜(すくえう。星の運行によって人の運命を占う術)で「子どもが三人できる。帝と后と太政大臣になる」と占われたことを思い合わせ、この女児が后となる運命の人だと思ったのです。そしてその秋に光源氏は住吉に参詣しますが、同じ時に明石の君も参詣に来ていました。しかし光源氏の威勢に圧倒された明石の君は立ち去るほかはなく、光源氏と歌だけは交わしたものの、自分の身のほどを思い知らされたのです。それ以来の明石の君の登場です。
彼女は父方の祖父が大臣で、母方の曾祖父は中務宮(なかつかさのみや。皇族で中務卿となった人)という、それなりの血筋の人なのです。しかし、父は望んで播磨守となり、彼女自身は「田舎育ち」なのです。そういう自分の身のほどを考えると、光源氏から上洛を勧められても安易に応諾することはできません。その一方、田舎にいては娘の将来が案じられるのです。そのジレンマに陥ってしまって、親たちまで思案が尽きるありさまです。
明石の入道は思い出したことがあります。妻(明石の君の母)の祖父である中務宮の持っていた屋敷が大堰川のほとり(嵐山の近在)にあるのです。今ではすっかり荒れているので、そこの宿守(管理人)のようになっている男を呼び出して、その屋敷を住めるように改修するように命じたのです。長らく自分のもののようにして住んでいたこの男は嫌な顔をして「最近お近くに内大臣様(光源氏)がお堂を建てていらして騒がしいですから、静かなところをお望みならほかを当たられたらどうですか」とそれとなく拒否します。このあたり、既得権を守ろうとするこの男のいやらしさが描かれています。少し読んでみましょう。
「みづから領(らう)ずるところにはべらねど、また知り伝へたまふ人もなければ、かごかなるならひにて、年ごろ隠ろへはべりつるなり。御庄(みさう)の田畑(た はたけ)などいふことの、いたづらに荒れはべりしかば、故民部大輔の君に申し賜りて、さるべきものなどたてまつりてなむ、領じ作りはべる」など、そのあたりの貯(たくは)へのことどもをあやふげに思ひて、髭がちにつなし憎き顔を、鼻などうち赤めつつはちぶき言へば、「さらにその田などやうのことはここには知るまじ。ただ年ごろのやうに思ひてものせよ。券などはここになむあれど、すべて世の中を棄てたる身にて、年ごろともかくも尋ね知らぬを、そのこともいま詳しくしたためむ」など言ふにも、大殿のけはひをかくれば、わづらはしくて、その後、ものなど多く受け取りてなむ急ぎ造りける。
「そりゃ、私の持っている土地ではございませんがね、ほかに伝領なさってる人もありませんから、ひっそりと長年住み慣れているのでございますよ。荘園の田畑なんていうのは役にも立たないほど荒れてましたんでね、亡くなった民部大輔様にお願いして下げ渡していただきまして、ちゃんとしかるべきものは差し上げたうえで、自分の土地として耕作していますんで」など、そのあたりの財産権などのことを不安に思って、髭がちの憎らしい顔つきで、鼻などを赤らめて不平そうに言うので「その田などのことは、私はとやかく言うまい。ただこれまでのように勝手にするがよい。地券などは私の方にあるが、すっかり世の中を棄てたる身で、長年どうなっているかはわからないから、そのこともすぐに詳しく整えよう」などと言う言葉の中にも、大殿(光源氏)と関わりをにおわせるので、面倒になって、男はその後、多くのものを受け取ったうえで急いで改修した。
いかにも自分の権利を主張するばかりの、クレーマータイプのずる賢そうな男です。髭がちで、赤い鼻で口をとがらせて権利を主張するのです。「はちぶく」は「蜂吹く」で「蜂を吹き払う」のこと。口をとがらせて不満な口吻でものをいうようすを言います。こんなおっちゃん、今もいますよね。管理人の言葉に「故民部大輔」が出てきますが、これは中務宮の子なのでしょう。「民部大輔」といえば通じる人物なのです。実は、ここは古注釈以来、実在の人物がイメージされた書き方だと言われます。「中務宮」は大堰に別荘を持っていた中務卿兼明親王(914~987。醍醐天皇の皇子)で、民部大輔はその子の源伊行を指すのであろうというのです。さて、この文句言いの髭おやじに対して、入道は「耕作地は好きにするがよい、こちらは地券を持っている」と法的にはこちらのものだ、と反論します。そして言葉の端々に光源氏の縁があるようにいうので、さすがの男もしぶしぶ、しかし改修のための費用はきちんと受け取ったうえで造営することにしたのです。土地の権利をめぐるなまなましいやりとりです。『源氏物語』は時としてこういうことが書かれるのもおもしろいところです。
光源氏は明石入道のこういう思わくを知らずにいたのですが屋敷の改修が終わると入道から連絡がありました。すると光源氏は早速腹心の部下、惟光(これみつ)を使者としてさらに立派に改築させます。この屋敷は川のほとりなのですが、光源氏が造営しているお堂は「大覚寺の南に当たりて、滝殿の心ばへなど劣らずおもしろき寺なり(大覚寺の南にあって、滝殿の風趣などは大徳寺のそれに劣らず風流な寺である)」ということになっています。大覚寺は、今は右京区嵯峨大沢町で、いわゆる「なこその滝」がありました。藤原公任が「滝の音は絶えて久しくなりぬれど」と詠んだものです。公任の時代、ということは『源氏物語』の書かれた時代ですから、このころには、この滝は「絶えて久しく」なっていたのです。『源氏物語』はひと時代前に時代を設定していますから、この滝がまだあったということなのでしょう。この光源氏のお堂は、このあたりにあった醍醐天皇皇子の源融(みなもとのとほる)の栖霞観(せいかくわん。のちに寺となって栖霞寺)をイメージして書かれたのだろうと言われます。なお栖霞観(寺)は後に建てられた清凉寺に含まれる形で名残をとどめています。
親しき人々、いみじう忍びて下し遣はす。のがれ難くて、いまはと思ふに、年経(へ)つる浦を離れむことあはれに、入道の心細くて独りとまらんことを思ひ乱れて、よろづに悲し。すべてなどかく心づくしになりはじめけむ身にかと、露のかからぬたぐひうらやましくおぼゆ。親たちも、かかる御迎へにて上る幸ひは年ごろ寝ても覚めても願ひわたりし心ざしのかなふといとうれしけれど、あい見で過ぐさむいぶせさの、たへがたう悲しければ、夜昼思ひほれて、同じことをのみ、「さらば若君をば見たてまつらでははべるべきか」と言ふよりほかのことなし。
腹心の者をごく内々に明石に遣わす。もはやのがれようもなくて、いよいよこれでと思うにつけても、長年過ごしてきたこの浦を離れることがしみじみと悲しく、入道が心細いようすで独りあとに残ることを思って心が乱れ、何かにつけて悲しいのである。およそ、なぜこのように心をすり減らすような境涯になり始めた我が身なのかと、源氏の君のお情けを受けることのない人がうらやましく思われる。親たちも、このような御迎えをいただいて都に上る幸いは、数年来、寝ても覚めても願い続けていた思いが叶うのだとたいそう嬉しいのだが、お互いに会うことなく過ごすことの気がかりさが耐え難いほどに悲しいので、夜も昼もぼんやりとして、同じことばかり、「そうなったら若君を拝見できずに過ごすことになるのか」という以外に何も言うことはない。
舞台は明石に移ります。これまでは上洛をためらっていた明石の君ですが、父が大堰の屋敷を整備してくれて、光源氏からは迎えもよこしてきました。もはや選択肢は一つしかありません。田舎とはいえ、住み慣れたところであり、また都に行くということは父との別れを意味します。そして、これでもう会えない可能性が高いのです。いっそ光源氏と出会わなければよかったとさえ思うのです。親にしてみれば、娘が光源氏のそばに行くという夢がかなうわけですから、理屈からすれば嬉しいことですが、肉親の情というのはそれでは済まないのです。「猛虎の孫とも会えないのか」とぼんやりするというのは、時代を越えて理解される心情でしょう。
明石の君の母尼はこれまでも夫の入道とは庵室を異にしていましたので、娘がいなくなると寂しさは一入深まるのです。かといって都に同行するのは、夫を見捨てるようでもあります。偏屈な夫ではあったものの、長らく共に暮らしてきただけににわかに別れるのもつらいのです。若い女房たちは田舎暮らしを逃れられることは嬉しいのですが、やはり住み慣れたところを去るのは悲しさも伴うのです。
秋のころほひなれば、もののあはれとり重ねたる心地して、その日とある暁に、秋風涼しくて虫の音もとりあへぬに、海の方を見出してゐたるに、入道、例の後夜(ごや)より深う起きて鼻すすりうちして行ひいましたり。いみじう言忌(こといみ)すれど、誰も誰もいと忍びがたし。若君は、いともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、袖より外(ほか)に放ちきこえざりつるを、見馴れてまつはしたまへる心ざまなど、ゆゆしきまでかく人に違(たが)へる身をいまいましく思ひながら、片時見たてまつらでは、いかで過ぐさむとすらむ、とつつみあへず。
「行く先をはるかに祈るわかれ路に
たへぬは老いの涙なりけり
いともゆゆしや」とて、おしのごひ隠す。尼君、
もろともに都は出できこのたびや
ひとり野中の道に惑はむ
とて泣きたまふさま、いとことわりなり。ここら契り交はしてつもりぬる年月のほどを思へば、かう浮きたることを頼みて棄てにし世に帰るも、思へばかなしや。御方、
「いきてまたあひ見むことをいつとてか
かぎりもしらぬ世をば頼まむ
送りにだに」と切にのたまへど、かたがたにつけてえさるまじきよしを言ひつつ、さすがに道のほどもいとうしろめたなき気色なり。
秋の時節なので、しみじみとした哀しみが重なる気持ちがして、旅立ちの日の暁に、秋風が涼しくて、虫の音もこらえきれないような時に、御方が海の方を眺めていると、入道が、いつもの後夜のお勤めよりまだ夜深いうちに起きて、鼻をすすりながらお勤めをなさっている。固く言忌みをしている(不吉なことを言わないようにしている)が、誰もかれもまったくこらえがたい。若君は、ほんとうにほんとうにかわいらしくて、夜光ったとかいう玉のような気がして、袖からはお放し申さなかったのだが、よくなじんでそばからお放しにならなかった心のほどは、忌まわしいほどこのように人とは違った身なので慎まねばならないとは思いながら、片時の間も拝見せずにはどうして過ごすことができようか、と抑えることができないでいる。
「将来をはるか先まで祈るこの別れ路にこらえきれないのは老いの涙であったよ まったく不吉なことで」
といって涙を拭って隠す。尼君は、
「一緒に都は出できましたが、今度の旅はひとりで野中の道にまようことになるでしょう」といってお泣きになるようすは、まったく道理である。夫婦として契りを交わして長らくつもり重なった年月を思うと、このように不確かなことをあてにして棄てた世間に帰るのも、思えば悲しいことである。明石の御方は、
「生きてまたふたたびお会いする日を、いつのことかもわからない世を頼みにするのでしょうか せめて見送りだけでも」としきりにおっしゃるのだが、何かと事情があってそれはできないことを言いながら、そうはいっても旅の途中のことがとても気がかりなようである。
季節は秋、寂しいころです。虫の声も哀しみを誘います。入道は後夜(晨朝、日中、日没、初夜、中夜、後夜という一日を六つに分けた「六時」の最後の時間帯)のお勤めを普段より早く始めます。おそらく眠れなかったのでしょう。鼻をすするのは冷えるからではないでしょう。姫君の様子は比類ないかわいらしさで、「夜光る玉」に喩えられています。これは中国でいうところの「夜行珠」で、夜でも光る珍重すべき宝玉のことです。このかわいい孫娘をもう見ることができないと思うと、いくら言忌みしてもこらえられません。入道の歌の「行く先を」は、旅の安全を祈る意味に姫君の将来を願う気持ちを掛けています。尼君の歌は、夫と一緒に都から明石に来たのに、このたび(「旅」を掛ける)は一人だから途中で迷いそうだといいます。明石の君の歌の「いきてまた」は「京に行きて」と「生きて」を掛けています。いつ再会できるともわからないこの別れを悲しんでいます。そして「せめて都まで一緒に来てください」と頼むのですが、入道はいろいろな事情で行けないと言います。その事情とは、出家の身であること、明石を留守にはできないこと、老いて旅がつらいことなどでしょうか。
別れの場面はもう少し続くのですが、長くなりましたので、また次回にいたします。
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- [2020/06/01 00:00]
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