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十年目なのですが 

奈良市にお住いの奥様から文楽人形を幼稚園児に見せる催しができないかと言われたのは2010年の夏のことでした。あれから早くも10年が経ったことになります。
いろいろ考えたうえで、当時の学生さん4人にお願いして短い劇を演じてもらったのでした。彼女たちももう30代で、そのうち1人はもう母親になっています。ほんとうにあっという間です。あの時観てくれた幼稚園児も今は中学生なのですからね。
それ以後は、幼稚園児のお母さんたちを中心に、地元のコミュニティのみなさんのボランティアによってかなりの数の方が手伝ってくださるようになりました。作品も、繰り返し上演している

    古典(笑)

もありますが、何だかんだと言っているうちに6つの作品を書きました。
ごんべえさんとやまのかみさま
  いけにもぐったごんべえさん
  ごんべえさんのおむすびころりん
  ごんべえさんのおさむらいでござる
  ごんべえさんともものひめ
  ごんべえさんとおはなさん
「やまのかみさま」は三回、「おむすびころりん」は二回上演しましたので、全部で九回です。
そして、昨年実施した時に「来年は

    十回目ですね」

という話をしたのですが・・・。
今年はあらゆることに慎重にならざるを得ず、人形劇と言っても簡単ではありません。
まだ連絡は来ないのですが、私の見通しとしては無理ではないかな、と思っています。
いろいろなことがあって、今年で最後と思っていましたので、ひょっとするとこのまま終わってしまうのかな、という気持ちです。

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梅酒を飲みます 

何年かの間、梅酒を作ったのですが、この二年は梅の実がまとまって手に入らず(買えばいいのですけどね)、作りませんでした。しかし、梅酒のさわやかな味は捨てがたく、アルコールとはほとんど無縁になっているとはいえ、梅酒なら安上がりでいいだろうと、酒屋に行ってみました。
私など、飲むと言ってもロックで二~三杯も飲めば満足するので、1日せいぜい200㏄だろうと思います(暑くなると少し多く飲むかも)。酒屋に行くと、紙パックに入った2リットルと2.7リットル(中途半端やな)のものがありました。2.7リットルのものがやや高めで、それでも1000円もしませんでした。2リットルの方が600円ほどで、かなり割安。とりあえず

    安いに越したことはない

と思って(笑)、高級なお酒を買っていく若いお兄ちゃんに隠れるようにしながら(笑)、2リットルのものを買いました。
ちょっとばかり飲んでみたのですが、何となく味が薄くて、安物らしい味わい(笑)だと思いました。これで10日くらいもつとすると、1日60円という、まことに安価な「ぜいたく」です。
安っぽいとはいえ、やはり梅酒は梅酒。私の好みの味です。できることならもう少し酸味があってこってりした味がいいのですが、それはやはりワンランク上のものを買わないとダメみたいです。
思い起せば、私が作っていた梅酒のほうが

    濃厚で

香りもよかったような気がします。手前みそかなぁ。
次回は思い切ってワンランク上のを買ってみようかと財布と相談しているところです。

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久しぶりに観た『名月』(2) 

このお芝居は名月に乗せられるように豊かな日々を送る能勢の人たちを礼賛したもので、典型的なハッピーエンドです。芝居としてはこれで終わるのですが、彼らの人生はまだまだ続きます。あのあと登場人物たちは

    どんな人生

を送ったのでしょうか。登場人物というのは

 お熊
 冬吉(お熊の息子)
 お能(冬吉の妻。お熊の嫁いびりに遭う)
 周作(村の青年)
 桂(周作の恋人)
 晋吉(桂に横恋慕する庄屋のドラ息子)

です。お熊さんは改心して嫁にやさしい態度をとっていましたが、また手を変え品を変えていびるのではないでしょうか。冬吉というのは、当時はやった「冬彦」さんというテレビドラマの登場人物をもじったものなのですが、優柔不断ながらこつこつと農作業にいそしんでいくのかな。お能さんという名前には2つの意味があってひとつはおしゃべり友だちの「お勢さん」と組み合わせて「能勢」になる、ということなのですが、もうひとつは、彼女はやがてひげを生やして(だんだんあつかましくなって)「能」ではなく「熊」になる、つまり、今の姑と同じようになる、という意味を込めてつけました。きっと彼女は

    姑と同じように

息子の嫁をいびるのでしょう。周作と桂は子だくさんで、周作は子育て上手なパパさんになることでしょう。桂はぽっちゃりと肉がついて貫禄も出てきて。晋吉は親の七光で総理大臣、じゃなくて、庄屋になったものの、漢字もろくに読めず馬鹿にされながら長期政権を維持するのかもしれません。なお、「晋吉」の「晋」の字は、どこやらの総理大臣と同じですが、まったくの偶然で何の関係もありません(笑)。
要するに、人間は似たり寄ったりで大して変わるものではないのです。そして、それぞれの人生を能勢の里の土がはぐくみ、名月が空から見下ろしているのです。それをこれまでもずっと繰り返してきて、これからも繰り返します。この作品は200年前のイメージで書いたのですが、実は全く現代と同じことなのです。ということは、未来もまたあまりかわらない悲喜こもごもの営みが続くのでしょう。
ただ、ほかの街と違うのは、能勢には浄瑠璃がある、ということです。ラストシーンで

  能勢の浄瑠璃二百年。
  三百、五百、千歳の松
  北はみちのく三千年(みちとせ)に
  南東(みなみひんがし)津々浦々
  西は八代(やつしろ)八千代まで

と言っていますが、これは芝居の中の時代ではなく、現代から未来にかけてのことです。能勢の浄瑠璃は全国に知られますように、そしてそれがいついつまでも続き増しように、という思いです。
能勢よ、末永く豊かな土地であれ。

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久しぶりに観た『名月』(1) 

能勢町の浄るりシアターが7月18日から配信してくださっている(私は24日までだと勘違いしていました)新作浄瑠璃『名月乗桂木』。これまで何度も上演されていますが、映像は今から5年前の6月のもので、私も劇場で拝見した記憶がよみがえってきました。あのあと、8月には森之宮のピロティホールでも上演されました。ピロティは大きなホールですから、お客さんが入らずに寂しいのではないかと思ったのですが、思いがけず8割方の席が埋まっていてびっくりしたことを覚えています。
何度も上演されてはいますが、毎回演出を変えていただいて、笑いが強調されているようで、演技の指導や演出をなさっている

    桐竹勘十郎さん、

吉田簔二郎さん、吉田簔一郎さんには感謝の言葉も思い浮かばないくらいです。
私は当初、悲劇的な若者と喜劇的な中高年を対比させてかなりしつこいくらい若者の愁嘆場を書いたのですが、千歳太夫さんと清介さんがお考えになって喜劇的な部分を強調された補綴をなさったように思います。
ピロティで観たとき、周りのお客さんが声を挙げて笑っていらっしゃるのがよくわかり、ちょっとした感慨を覚えたものでした。まさか作者がすぐそばにいるとは思われないでしょうから、私への義理に笑ってくださったはずはありません。そして終演後、笑顔で語り合っていらっしゃるお客さんの姿を拝見して、さらに胸にグッとくるような喜びを覚えました。
私の目指したものは

    「幸せ浄瑠璃」

ですので、みなさんが幸せそうな顔をしてくださるのが何よりうれしいのです。
今回、観てくださった方が「お客さんの笑い声が大きかった」と言ってくださって、清介さんらの補綴は間違いではなかったと思いました。若い人が「おもしろい」と言ってくれたことも(お世辞半分だとは思いますが)嬉しいことでした。
ご覧下さった方々にはただただお礼を申し上げるばかりです。
また配信してくださった能勢の浄るりシアター関係者の皆様にも御礼申し上げます。

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99万 

このブログにはカウンターをつけています。
どれくらいの方が見てくださったかを自動的にカウントするものです。
パソコン画面では左側に見えます。スマホでは見えないのかな。
実はこのカウンタ-が、

    99万

を超えています。このブログは開始してしばらくの頃は結構人気があって(笑)、たくさんの方に見ていただいたので、カウンターの数字はうなぎのぼりでした。
しかし次第に人気は衰え、またSNSの多様化でブログそのものが低調になったこともあって、最近はなかなか数が増えません。
それでも毎日のように数が増えているということは見てくださる方がいらっしゃることの裏付けですから、大変ありがたく存じております。
文楽や平安時代のことをいくらか書きつつ、そのうえで自分の

    不平不満(笑)のはけ口

にさせてもらっています。
始めたのは今から15年くらい前で、そのころはまだいろんなことができた時期でした。
いまはかなり弱ってきて(笑)、あまり自由に何でもできるというわけではありませんが、少しでも自分を奮い立たせるようにという気持ちもあって続けてきました。書いた記事はすでに5000件を超えました。今は、カウンターが100万になるところまで書き続けようという気持ちです。
さてそのXデーはいつになるでしょうか・・・。

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短歌という器 

短歌をいくらか熱心に詠むようになって、改めて難しさを感じています。いったい誰がこんなものを考えたのだろう、と思うくらいうまくできています。もともとは5音と7音の組み合わせをいろんな形にして歌っていたものが、やがて5・7を二度繰り返して最後にもう一度7を置く、5・7・5・7・7の「短歌」という形に落ち着いたようです。連歌や俳諧が派生しても、王道の短歌は廃れずに今なお愛好する人は少なくありません。たった31文字の組み合わせなのに、限りない数の歌ができるのが不思議なくらいです。
私は学生時代に平安朝の和歌を勉強しました。ゼミでは『古今和歌集』の古注釈を何年も読み続けました。同時に自分でも詠みたいと思っていたのですが、そんなときにたまたま歌人の

     松平盟子さん

と知り合って、いっそう現代短歌への興味も増しました。
短歌は31文字なので、あっという間に詠めてしまいます。ところが、それでは詩にならないのです。一つ一つの言葉を吟味して、もっといい言葉はないかと探して、それでもなかなかうまくいかずに、文字通り「苦吟」します。なぜ歌人として名のある人はあんなに適切な言葉を見つけて

    短歌という器

に盛り付けることができるのだろうか、とただただ感心しています。
私が作ったものなどは、(詠んだそのときはそれなりに「これでいいかな」とは思うものの)箸にも棒にもかからないというか、ただ文字を31個並べているだけに思えるのです。
器からはみ出してはならず、器を余らせてもならず、器にふさわしいものを盛らねばならず、しかも恰好ばかりで味わいのない食品サンプルを盛ってもしかたがありません。誰も作らなかった味わいのものをいかに美しく盛り付けるか、考えれば考えるほど難しくなってきます。
私はテレビを観たり音楽を聴いたりしないので、普通の方よりも時間に余裕があるはずなのです。その時間を使って、これからも詠み続けたいと思っています。

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体内時計 

私はほぼ毎日5時前後に起きます。前夜の就寝時間が変わっても、起きる時刻はほぼ一定しています。
耳を悪くして、朝どうやって起きようか、というのは実はたいへん大きな問題でした。しかしよく考えたら、目覚まし時計なんてない時代の方が圧倒的に長かったのですから、その時代の人が起きられて私が起きられないことはあるまい、と、わりあいに楽観していました。そしてその楽観は当たっていたことになります。明日は○時に起きよう、と思ったら、割合にその時刻に起きます。休日の朝になると6時頃まで寝ていることもあります。
今思えば、学生のころなんて、下手をすると昼近くまで寝ていることもありました。今はあんなことはできません。むしろあの当時にはしなかった

    昼寝

をして睡眠不足をカバーするようになっているようです。ほんの5分か10分寝るだけでも目が冴えますから、私は眠いと思ったら我慢せずに寝るようにしています。
よく体内時計というのがあると説明されますが、実際、それによって動いているという感覚はあります。
ただ、どういうものか、ろくに仕事をしないのに、まちがって熱心に仕事をし始めると夢中になって

    時間を忘れてしまう

ことがあります。
最近はそういうことはしませんが、以前は夜仕事をしていると気がついたら外が白々と明けていた、ということもありました。
最近でも、昼間仕事をしていてふと気が付くと外が暗くなっていたということはしばしばあります。
自分だけのことなら問題ないのですが、何かの約束がある時はこの「うっかり」はまずいです。以前『源氏物語』の講座の日、仕事しているうちに夢中になって、ふと気づいたら定刻を過ぎており、LINEに講座の参加者の方から「時間ですよ」という連絡も入ってきました。
信用のおけない体内時計です。

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関西のチーム 

私は学生のころ草野球をしていましたので、野球には多少関心があります。私は背が高くて左利きですので、投手と一塁手を兼ねていました。
投手としては、すぐにバテますので(笑)、せいぜい5回まで。6回になると球威が落ちて突然打たれます(笑)。そうならないうちに交代して、あとは一塁手になります。昔、プロ野球で「100球肩」という言葉がありましたが、私の場合は「50球肩」でした。実際は「肩」ではなく「肘」を中心とした「腕」だと思いますが。
一塁手としては、とにかく内野手の投げてくるボールを受けるのが第一の仕事。みんな下手ですから、どこに飛んで来るかわかりませんし、ワンバウンドやショートバウンドもあって、なかなか大変でした。
打者としては「短距離打者」で、常にヒット狙いでせいぜい2塁打。ホームランを打ったことはありますが、それは野手の間を抜けるランニングホームランです。文学部のイチローと言われていました(笑)。
以前も書きましたが、子どものころから、今はもうなくなった

    阪急ブレーブズ

のファンで、足立、山田、今井、長池、大熊、高井、福本、簑田、加藤、マルカーノ、ウィリアムズ、ブーマー・・・といった人の名が浮かんできます。西宮球場にもしばしば出かけました。何しろ当時のパ・リーグはテレビ放送がありませんから、行かないと観られないのです。
兵庫県西宮市を本拠とするチームには阪神もありますから、当時は同じ市に二つのプロ球団があるという珍しさでした。
今は、大阪市(大阪府)のオリックス、西宮市(兵庫県)の阪神が関西の球団です。阪神は大阪市が本社で、昔は「大阪タイガース」と名乗っていたこともありますからイメージとしては大阪の球団ですが、本拠地はずっと兵庫県です。
この両球団、今年の出だしはそろって負け続けていて、仲良く両リーグの

    最下位

を争っていました。
どちらも主砲として期待された外国人が開幕以来あまり活躍せず、接戦をことごとく落としてきたように思います。
しかし徐々に調子が上がってきてこのところは勝ったり負けたりというところでしょうか。特に阪神はなかなかいい感じになってきました。
オリックスには山本といういきのいいピッチャーがいます。この選手を見るだけでも楽しみがあります。吉田という巧打者もいますので、実はなかなかおもしろいチームなのです。
いよいよ観客も入ってのシーズンです。甲子園は普段は満員ですから雰囲気が違うでしょうね。大阪ドームはいつも閑散としているので(^^;)見慣れた風景でしょうか。
どちらも頑張ってください。

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明日は河童忌 

明日、七月二十四日は芥川龍之介の命日、いわゆる「河童忌」です。

 たましひのたとへば秋の蛍かな
          (蛇笏)

飯田蛇笏は芥川の逝去を悼んでこのように詠みました。
私は文学少年ではありませんでしたが、それでも小学生のころに最初に取りつかれたのは芥川の作品でした。御多分に漏れず、最初に読んだのは「蜘蛛の糸」で、国語の教科書だったと思います。高校生がたいてい漱石の「こころ」や鷗外の「舞姫」の一部を知っているのと同じように、国語の教科書が

    文学作品を読ませる

意味は深いと思います。昨今は文学などやめて実務的なことを国語の授業で教えようという方向にあると聞きますが、この風潮は哀しいとしか言いようがありません。どうせほとんどの人が使うはずのない微分とかベクトルなどを学ぶくらいなら、高校数学ではひたすら「そろばん」の稽古をするのが実践的だ、というに等しい考え方だと思います。
それはともかく、私は何と言っても「蜘蛛の糸」の冒頭の文章の美しさに魅せられたのでした。

 ある日のことでございます。
 お釈迦様は極楽の蓮池のふちを
 独りでぶらぶら
 お歩きになっていらっしゃいました。

たったこれだけで吸いこまれるように作品内に導かれました。そして、

 池の中に咲いている蓮の花は
 みんな玉のように真っ白で
 その真ん中にある金色の蘂からは
 何とも云えないよい匂いが
 絶え間なくあたりへあふれておりました。
 極楽は丁度朝なのでございましょう。

という魔法のような美しい言葉が続きます。これはもう散文詩だ、とさえ思えるみごとさです。こういう感覚は芥川以外では

    樋口一葉

に対して持っているくらいです。
「蜘蛛の糸」以後は、少年少女向けの絵入りの芥川作品集を、わからないなりに次々に読んでいきました。中学生以降になると、次第に芥川の人生にも興味が出て、この人のことはどんなときにも忘れられないまま今に至っています。天才なるがゆえのぼんやりとした不安とはどういうものか、私には到底わかりませんが、これからもこの人の作品は繰り返し読むことだろうと思います。

 人生は花火か、
 あるいは一行のボオドレエルか
 明日は河童忌
       (栗木京子)

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能勢のオンライン浄瑠璃月間(2) 

人口の光で明るい夜を過ごしている現代人は月の光の恩恵を忘れがちです。あのロマンティックな光は太陽の何倍も詩人の心を刺激してきたように思います。太陽は、我々の生命にとってかけがえのないものですが、何と言っても明るすぎて、どんな顔をしているのかわかりません。それに対して月は実に表情が豊かなのです。ところが人工の光のために月を見る習慣が薄れていき、「夕べはどんな月でしたか」と聞かれて答えられる人はあまりいないのではないでしょうか。かく申す私も、実際のところかなり怪しげです。
人工の光は我々の生活を出来るだけ長く、あわよくば一日中、太陽の光を受けられるように企図されたものに思えます。そのおかげで我々の活動時間は増えたのですが、

    失ったもの

があるようにも思います。「花鳥風月」といいますが、どれほど今の暮らしの中に生きているでしょうか。都会にも花壇の花や鳥籠の小鳥は生きている、風なんてどこにでも吹いている、かもしれませんが、自然のままのものに限るといずれも怪しいのではないでしょうか。
私が幼稚園児のために作っている文楽人形劇にもしばしば月が出てきます。どうも私はかなり月に対する思い入れが強すぎるようです。
18日からYoutubeでこの拙作が配信されています。
ストーリーはじつにたわいないものですが、どこにでもあるよなぁ、こういう話、と思ってもらえたり、おもしろいところは笑っていただけたりしたらたいへんありがたいことです。

なお、この配信では、ほかにもたくさんの作品があります。
オリジナル作品では『能勢三番叟』『閃光はなび』『風神雷神』がありますし、古典では

    『絵本太功記』

『義経千本桜』『傾城阿波鳴門』なども登場します。
マチュアですから技量は当然プロに劣ります。しかしアマチュアならではの面白さもあると思います。
拙作は1時間程度のそんなに長いものではありませんので、よろしかったらご覧ください。私の作とは言いながら、文楽の竹本千歳太夫さんと鶴澤清介さんの筆が入っています。作曲は清介さんです。

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能勢のオンライン浄瑠璃月間(1)  

大阪府豊能郡能勢町というところは山あいの町ですが、農業が盛んで地酒もあり、人々の暮らしはなかなか満ち足りているように見えます。
その余裕が江戸時代以来二百数十年にわたる浄瑠璃の伝統として生きているのではないでしょうか。1998年には人形浄瑠璃の劇団が完成して第一回の公演をおこないました。その際上演されたのは『能勢三番叟』『名月乗桂木』でした。私はこのうち、後者の『名月』の本を書かせていただきました。この作品についてはこれまでのこのブログで書いたことがありますから、それと重複するかもしれませんが、このたび、事情があって、改めていくらか記しておくことにしたのです。
能勢町は豊かな街。でも何か鶍(いすか)の嘴(はし)のように食い違いがあるのが人の世の常。そのわずかなすれ違いは時として哀しみを産むこともあります。
家庭内の不和、純愛なるがゆえに思うままにならない男女の恋愛。「すれ違い」はもちろんそれ以外にもあるのですが、その代表例としてこの二つのケースを題材として本を書くことにしました。

    月が出る

ことに対して、明るい夜の街を知っている現代人はあまりありがたみを感じていないように思います。しかし、ほんの少し前までは、月の明るさはとても嬉しいもので、だからこそ十五夜にせよ十三夜にせよ、月見というものもしたのです。カレンダーがなくても、月を見れば今日が何日かもおよそはわかったほどで(江戸時代の暦はそうではありませんでしたが)、月は生活にも密着していたのです。満ち欠けがあり、色も折々異なることのある月は人の心と同じ、人生と同じ姿をしているともいえるでしょう。月はそのように大切なものだったのです。
だからこそ、悪天のために月の見えない日々が続くと、昔の人は現代人以上に憂鬱になったと思います。そこで私は雲間から「月が出る」瞬間を、

    能勢町の幸福、繁栄

に結び付けたお芝居を書きたい、と思いました。
人生のささやかなすれ違い、考え方の食い違い、人は些細なことでいさかいを起こしたりします。それを天から見下ろしている月。『竹取物語』にも見られるように、月には天人が住むと言われ、桂の木が生えているという伝説もあります。
太陽とは違った目で月はこの世を見下ろし、見守っています。
(この記事、明日に続く)

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源氏物語「朝顔」(5) 

今日は、朝顔の巻の最後の部分を読みます。

雪のいたう降り積もりたるうへに、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮に、人の御容貌(かたち)も光まさりて見ゆ。「時々につけても、人の心を移すめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折なれ。すさまじき例に言ひ置きけむ人の心浅さよ」とて、御簾巻き上げさせたまふ。

雪がひどく降り積もったうえに、今も舞っていて、松と竹の区別がおもしろく見える夕暮れに、源氏の君のご容姿もいっそう光りがまさるように見える。「その折々につけても、世の人が心を移すような花や紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄んだ月に、雪が光り合っている空こそ、色はないものの、不思議なほどに身にしみて、来世のことまで思いを馳せないではいられず、風流な点も心にしみる味わいも余すところのない時節です。興ざめするものの例としてこの時節を言い残したとかいう人の考えの浅いことよ」とおっしゃって、御簾巻き上げさせなさる。

雪が積もって、さらに雪がちらついている夕暮れです。松と竹の区別がはっきりわかるというのは、松は雪を枝の上に持つからかもしれません。一般的に言って、季節でもっともすばらしいのは花咲く春と木々の紅葉する秋でしょう。しかしこういう冬の夜に月と雪がお互いを照らすような空は、単色のようにはみえるものの、宗教的な思いすら抱かせると光源氏は言います。「時々につけても」の部分は「春秋に思ひ乱れてわきかねつ時につけつつうつる心は(春と秋ではどちらがいいかと言われても分別できないそれぞれの時節でこちらがいいと思いが移るので)」(拾遺集・雑下・紀貫之)」を引いているのかもしれません。またその次の「花紅葉の盛りよりも」というところは「いざかくてをり明かしてむ冬の月春の花にもおとらざりけり(さあそれではこうして今夜は明かそう。冬の月は春の花には劣らないのであった)」(拾遺集・雑秋・清原元輔)も感じさせます。そしてその次にとても気になる一節があります。「すさまじき例に言ひ置きけむ人の心浅さよ」。こういわれると、我々はすぐに『枕草子』の「すさまじきもの」の段を思い出します。前回読んだところに、師走の月と老人の懸想を「よからぬもののたとへ」にしているという一節がありました。あそこで、『河海抄』などの古注釈が、『枕草子』の「すさまじきもの」に「師走の月」と「嫗の懸想」が挙げられている、と書いていました。現存する『枕草子』にはそういう本文はありませんが、あるいはこの言葉を含む本が伝わっていたのかもしれません。そしてここで紫式部は「冬の月を『すさまじき』例に挙げた人は何と考えの浅いことだろう」と光源氏に言わせているのです。あまり安易に断定することは避けたいのですが、紫式部は清少納言をあまり好ましく思っていなかったという考えが古くからあります。この部分はそういう紫式部の清少納言への対抗意識の反映だと見る向きもあります。清少納言は同じ一条天皇の時代の人とは言っても、中宮定子(藤原道隆の娘)に仕えた人で、もう道隆も定子もこの世の人ではなく、清少納言もすでに王朝文化の表舞台からは消えた人です。今さら対抗意識を燃やすほどではないかもしれませんが、ふたりとも漢学に優れた才女と言われた人だけにまったく無視できる存在ではなかったようには思います。少なくとも、華やかなもののみならず、宗教的な静寂の境地に関心を持つのは紫式部ならでは、ということはいえるのではないでしょうか。そのあとに「御簾上げさせたまふ」とありますが、これも『枕草子』に見える。「香炉峰の雪」の話を思い出させます。『白氏文集』に「遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き、香炉峰の雪は簾を撥ねて看(み)る」とあり、中宮定子が「香炉峰の雪いかならむ」と言ったときに、清少納言が何も言わずに御簾をあげた、という話です。このあたり、作者はどこまで『枕草子』を意識しているのでしょうか。

月は隈(くま)なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽(せんざい)のかげ心苦しう、遣水(やりみづ)もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童(わらはべ)下ろして雪まろばしせさせたまふ。をかしげなる姿、頭(かしら)つきども、月に映えて、大きやかに馴れたるが、さまざまの衵(あこめ)乱れ着、帯しどけなき宿直(とのゐ)姿、なまめいたるに、こよなうあまれる髪の末、白きにはましてもてはやしたる、いとけざやかなり。小さきは、童(わらは)げてよろこび走るに、扇なども落として、うちとけ顔をかしげなり。いと多うまろばさむとふくつけがれど、えも押し動かさでわぶめり。かたへは東のつまなどに出でゐて心もとなげに笑ふ。

月は隈なくさし出て、白一色に見渡されるのだが、しおれた植え込みの姿が気の毒な感じで、遣水もまったくひどくむせび泣くようで、池の氷もいいようもないほど寂しいようすなので、女童を庭に下ろして雪ころがしをおさせになる。かわいらしい姿や頭のかっこうなどが月に映えて、大柄でもの馴れた者が、さまざまな衵を無造作に着て、帯はしどけない宿直姿でみずみずしく見えるところに、格別に裾から余っている髪の末が白い雪にはいっそう引き立つようで、とても目立つのである。小さい者は、子どもらしく喜んで走っているうちに扇なども落として、無邪気な顔をしているのがかわいらしい。とてもたくさん転がそうと欲張っているのだが、押し動かすこともできずに困っているようだ。一方では、東の端に座ってじれったそうにして笑っている者もいる。

月と雪が白く輝き合っている中で、何かと物寂しげな感じがするので、女童たちを庭に下ろして雪転がしをさせます。雪だるまのようなものを作らせるのですね。女の子たちの黒髪が雪とのコントラストでとても美しく見えます。小さい童は走り回って何とかたくさんの雪を転がそうとするのですがなかなかうまくいきません。そこで、光源氏や紫の上のいる西の対の東の端に腰を下ろして「しっかりしなさい」とでもいうように笑っている者もいるのです。

絵入 朝顔3 雪まろばし

↑絵入源氏物語 朝顔
雪まろばし

「ひととせ、中宮の御前に雪の山作られたりし、世に古(ふ)りたることなれど、なほめづらしくもはかなきことをしなしたまへりしかな。何の折々につけても、口惜しう飽かずもあるかな。いとけどほくもてなしたまひて、くはしき御ありさまを見ならしたてまつりしことはなかりしかど、御まじらひのほどに、うしろやすきものには思したりきかし。うち頼みきこえて、とあることかかる折につけて、何ごとも聞こえかよひしに、もて出でてらうらうじきことも見えたまはざりしかど、いふかひあり、思ふさまに、はかなきことわざをもしなしたまひしはや。世にまた、さばかりのたぐひありなむや。やはらかにおびれたるものから、深うよしづきたるところの、並びなくものしたまひしを、君こそは、さいへど、紫のゆゑ、こよなからずものしたまふめれど、すこしわづらはしき気添ひて、かどかどしさのすすみたまへるや、苦しからむ。前斎院の御心ばへは、またさまことにぞ見ゆる。さうざうしきに、何とはなくとも聞こえあはせ、われも心づかひせらるべきあたり、ただこの一所や、世に残りたまへらむ」とのたまふ。

「先年、(藤壺)中宮の御前で雪の山が作られたのは、ありふれたことですが、やはりめずらしくもとりとめもないことをなさったことでしたね。何かの折につけても、(中宮がいらっしゃらないのは)残念で物足りないことですね。まったくよそよそしくお接しになられましたので、詳しいお暮らしぶりをよく拝見するということはなかったのですが、内裏にいらっしゃった頃は私を気のおけないものとお思いになっていたのです。私も何かといお頼り申し上げて、何かがあるたびに、どんなことでもお話し申し上げていたのですが、表立っていかにも物馴れたようになさるともお見えではなかったのですが、お話のしがいがあり、申し分ないほどにちょっとした技芸などもなさったことでしたよ。世の中にまた、これほどの人がいらっしゃるでしょうか。ふんわりとゆったりとなさっているものの品格が深く身についておいでのところなど、並ぶ者がないほどでいらっしゃいました。そして、あなたこそは何と言っても中宮のゆかりのかたで、そんなに違ってはいらっしゃらないようですが、いささかめんどうなところがおありで、とげとげしいところが目立っておいでなのが困ったことでしょうね。前斎院(ぜんさいゐん。朝顔の姫君)のお人柄は、また異なっているように見えます。物寂しい時に、何ということもなくお話しを交わしたりして私の方でもつい気を使うような人というと、ただこの方おひとりがこの世に残っていらっしゃるのでしょうか」とおっしゃる。

雪まろばしから、藤壺中宮の御前での雪山作りに話が移り、そこから藤壺その人に話題が広がります。光源氏は藤壺については詳しいお暮らしぶりは知らない、と言って、自分と藤壺は接点がないようにわざわざ言っています。別にそのようなことを言う必要はないのですが、そうでも言わないと藤壺についての話ができない後ろめたさがあるのでしょう。藤壺の人柄については「やはらかにおびれたる」人である一方、「深うよしづきたるところ」があると絶賛しています。「やはらか」はふわふわした感じで、あまりとげとげしくないようすです。「すべて女はやはらかに心うつくしきなむよきこと」(宿木巻)という一節もあります。そしてあなた(紫の上)は藤壺中宮の姪なのだから、さすがに大差ないすばらしい人だ、といいつつ「すこしわづらはしき気添ひて、かどかどしさのすすみたまへる」点が問題だというのです。「紫のゆゑ」は、ご存じだとは思いますが、「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」(古今集・雑上・よみびと知らず)によって縁のある人のことを言います。「わづらはしき気」というのはもちろん嫉妬深い点を言うのです。嫉妬深くてカリカリしている、というのを少し遠回しに言っています。こう言われたときの紫の上の表情はどんなものだったでしょうか。そして、朝顔の姫君(前斎院)については話のしがいのある人で、それでいて油断のならないところもある賢明な人だというのでしょう。

「尚侍(ないしのかみ)こそは、らうらうじくゆゑゆゑしき方は、人にまさりたまへれ。浅はかなる筋など、もて離れたまへりける人の御心を、あやしくもありけることどもかな」とのたまへば、「さかし。なまめかしう容貌(かたち)よき女の例(ためし)には、なほ引き出でつべき人ぞかし。さも思ふに、いとほしく悔しきことの多かるかな。まいて、うちあだけ好きたる人の、年積もりゆくままに、いかに悔しきこと多からむ。人よりはことなき静けさ、と思ひしだに」など、のたまひ出でて、尚侍(かむ)の君の御ことにも、涙すこしは落としたまひつ。

「尚侍(ないしのかみ。朧月夜)こそ、行き届いた才気があって品格豊かな面では人にまさっていらっしゃいます。浅はかなことには縁のなかったお人柄でしたのに、奇妙なことがいろいろとございましたけれども」と(紫の上が)おっしゃると、「そうですね。優美で美貌の女の例には、やはり引き合いにされるべき人なのですよ。そのように思うにつけても、お気の毒で悔しく思われることがいろいろありますね。まして、浮気っぽくて好色な人は、年齢を重ねるにつれてどれほど悔しいことが多いでしょうか。人よりはずっと落ち着いていると思っていた人でさえ(こうなのだから)」などと言い出されて、尚侍の君のことに対しても、涙を少しはお落としになった。

紫の上が応じます。「朧月夜尚侍こそ人にすぐれて才気があって浮ついたことなどなさらない方だ」と言っていますが、どちらかというと朧月夜は色っぽくて情にほだされやすいタイプでした。つまり紫の上は、知ってか知らずにか、わざとこのように言っているのでしょう。そのわりに変なこともあった、というのは、もちろん光源氏との恋愛騒動です。私は冷静に朧月夜のすぐれた点を見抜いていて、何も嫉妬などしていない、ところがあの方はうわついたこともなさいました、それはどなたのせいでしょうね、と光源氏に嫌味を言っているのでしょう。それに対して光源氏は「そうなのです」と肯定しながらも、紫の上が「らうらうじくゆゑゆゑしき」点をほめたのに対して、光源氏は「なまめかしう容貌よき」点を取り上げます。紫の上が「らうらうじくゆゑゆゑしき」朧月夜との関係もあったのだから、朝顔の姫君ともどうなるかわかったものではない、と言いたげなのに対して、光源氏は「優美で美人の朧月夜と朝顔の姫君は違う」と言おうとしているようです。狐と狸の化かし合いという感じでしょうか。

「この、数にもあらずおとしめたまふ山里の人こそは、身のほどにはややうち過ぎ、ものの心など得つべけれど、人よりことなるべきものなれば、思ひ上がれるさまをも、見消ちてはべるかな。いふかひなき際の人はまだ見ず。人は、すぐれたるは、かたき世なりや。東の院にながむる人の心ばへこそ、古りがたくらうたけれ。さはた、さらにえあらぬものを、さる方につけての心ばせ、人にとりつつ見そめしより、同じやうに世をつつましげに思ひて過ぎぬるよ。今はた、かたみに背くべくもあらず、深うあはれと思ひはべる」など、昔今の御物語に夜更けゆく。

「例の、ものの数にも入らないと軽んじていらっしゃる山里の人こそは、身分のわりにはすぐれてものの道理などを心得ているようですが、ほかの女性方と一緒にはできませんから、気位を高く持っている様子も何とも思わないのでございますよ。つまらない身分の人にはまだ見たことがありません。すぐれている人というはめったにいない世の中ですね。東の院で物思いがちにしている人の人柄も、昔のままいじらしいようです。あんな具合にはまたできないものですが、そういう面に関しての気立てのよさがあるからこそお付き合いを始めたのですが、それ以後も同じように遠慮しながら生きてきた人なのですよ。今はまた、お互いに裏切ることはできそうになく、しみじみと深く思っているのです」などと、昔や今のお話をなさっているうちに夜が更けていく。

「数にもあらずおとしめたまふ山里の人」は、もちろん明石の君のことです。この人に関しては紫の上の心が神経質ですから、光源氏としては「あなたとはくらべものにならないほどの身分の低さ」というのを前提にしています。そして、いくら気位を高く振舞っていても「見消ちてはべるかな(見ても相手にしない)」などと身もふたもないほど軽視しています。東の院でもの思いがちに暮らしている人というのは花散里です。花散里が物思いがちかどうかも事実と食い違うかもしれません。わざとこういう言い方をするところに光源氏の考え方があらわれているようです。花散里に関しては紫の上はあまり気にしていないことがわかっていますので、光源氏はそれなりに褒めて話を終えています。
この一連の女性に関する話題では、光源氏は藤壺と朝顔は別格として、ほかの人たちには敬語を用いず、軽く見ているかのように話します。

月いよいよ澄みて静かにおもしろし。女君、
こほりとぢ石間(いしま)の水は行きなやみ
    空澄む月のかげぞながるる
 外を見出だしてすこし傾きたまへるほど、似るものなくうつくしげなり。髪(かむ)ざし、面様(おもやう)の、恋ひきこゆる人の面影にふとおぼえてめでたければ、いささか分くる御心もとり重ねつべし。鴛鴦(をし)のうち鳴きたるに、
  かきつめて昔恋しき雪もよに
  あはれを添ふる鴛鴦のうきねか


月がますます澄んで穏やかで美しい。女君は「氷が閉じて石間の水は行き悩んで、一方空に澄む月影は流れています・・・閉じこもって暮らしている私はどのように生きるべきが悩んでいます。一方、あちこちに出歩いていらっしゃるあなたを見ながら私はつい泣いてしまうのです」。外に目をやって少し首をかしげていらっしゃるのは、何ものにも似ずかわいらしいようである。髪の具合やお顔立ちがお慕い申している人の面影かとふと思われて、すばらしいので、いくらかほかの人に分けられていた愛情もこれまで以上になることであろう。鴛鴦がわずかに鳴いているので、「いろいろなことがひとつになって昔が恋しい雪の折に、哀しみを添える浮き寝をする鴛鴦のつらい鳴き声だよ」。

紫の上の歌は技巧を凝らしたものです。「石間の水」は自身を、「月影」は光源氏を喩え、「行(ゆ・い)きなやみ」は「生き悩み」を掛け、「ながるる」は「流るる」「泣かるる」を掛けています。掛詞を多用することで自分の思いを内に秘めるように表現し、かえってその思いの深刻さを伝えています。氷に閉じられた石間の水、それはこれからも繰り返し紫の上に襲い掛かる哀しみの表徴でしょう。その悩ましくも美しい姿に対して、作者は光源氏の愛情はきっと元に戻るだろう、と言っていますが、それは紫の上にとってはあずかり知らぬこととも言えます。光源氏の歌は仲睦まじい鴛鴦を詠みこみつつもその哀しい鳴き声が今の二人の状況をあらわしているかのようです。
ここまでが朝顔の姫君の苦悩と紫の上の悲哀を描いた部分です。最終的に作者は光源氏の思いもきっと紫の上に返ってくると言っているのですが、さてどうなのでしょうか。

入りたまひても、宮の御ことを思ひつつ大殿籠もれるに、夢ともなくほのかに見たてまつるを、いみじく恨みたまへる御けしきにて、「漏らさじとのたまひしかど、うき名の隠れなかりければ、恥づかしう。苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」とのたまふ。御いらへ聞こゆと思すに、襲はるる心地して、女君の、「こは、などかくは」とのたまふにおどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて涙も流れ出でにけり。今も、いみじく濡らし添へたまふ。女君、いかなることにかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。
とけて寝ぬ寝覚さびしき冬の夜に
    むすぼほれつる夢の短さ
なかなか飽かず、悲しと思すに、とく起きたまひて、さとはなくて、所々に御誦経などせさせたまふ。


寝所にお入りになっても、中宮のことを思いながらおやすみになっていると、夢というのでもなくぼんやりとお姿を拝見すると、ひどくお恨みになっているごようすで、「漏らすまいとおっしゃっていましたが、つらい評判があらわになりますから、恥かしく思っています。苦患(くげん)を味わっているのにつけても、つらいことと(思われます)」とおっしゃる。お返事申し上げているつもりのときに、何かにおそわれるような気分になって、女君(紫の上)が、「これは、どうしてこんなことに」とおっしゃるのに目を覚まして、とても残念で胸がどうしようもなくどきどきするので、抑えていると涙も流れ出てしまった。今も、いっそうひどく袖を濡らしていらっしゃる。女君は、どういうことなのかとお思いになるが、身動きもせずに臥していらっしゃる。「うちとけて寝られない寝覚めのさびしい冬の夜に、わずかに見えた夢の短さよ」。かえって満足できず哀しくお思いになるので、早くにお起きになって、特に誰のためというのではなく、あちらこちらで御誦経などをおさせになる。

光源氏はなおも中宮のことを思いながら寝ます。すると夢なのか現(うつつ)なのかわからないように藤壺の姿が現れ、「誰にも言わないとおっしゃっていたのにあらわになってしまう。それが恥ずかしい」といい、さらには「あの世で苦しんでいるのであなたのなさり方が恨めしい」と付け加えます。この部分、「恥づかしう苦しき目」と続けて読むよりも、「恥ずかしい」という気持ちと現実に現世で犯した罪のために苦しんでいる(仏教語としては「苦患」という)からあなたが恨めしい、と解する方が適切ではないかと思います。光源氏は紫の上に藤壺との秘密を漏らしたりはしていません。しかし、密通云々については具体的には話されずとも、光源氏の口から自分の名前が出ることに対して過剰なまでに反応するのでしょう。光源氏が何かに襲われるような様子をしているので紫の上はどうしたのか尋ねます。その声で我に返った光源氏は夢から覚めたことが残念でなりません。涙を流す光源氏を見る紫の上は何ごとなのかわからず、じっとしています。介抱したり、人を呼んだりするのではなく、様子をじっとうかがっている紫の上は、目の前にいる夫が信じられなくなりそうな不安に駆られているのでしょうか。光源氏の「とけて寝ぬ」の歌は北村季吟の『湖月抄』「師説」には「源氏心中によみ給ふ也」としており、声に出した(紫の上に聞こえるようにした)のではなく、心の中で詠んだと解釈しています。この場面では光源氏と紫の上には心の交流がありません。さらに光源氏は誰のためにとも明らかにせず(実際は藤壺の追善のため)、朝早く起きて誦経をさせたりするのです。なんとも不気味な場面ではありませんか。

苦しき目見せたまふと恨みたまへるも、さぞ思さるらむかし。行なひをしたまひ、よろづに罪軽げなりし御ありさまながら、この一つことにてぞこの世の濁りをすすいたまはざらむ、と、ものの心を深く思したどるに、いみじく悲しければ、何わざをして知る人なき世界におはすらむを、訪らひきこえに参うでて罪にも代はりきこえばや、などつくづくと思す。かの御ためにとり立てて何わざをもしたまはむは、人とがめきこえつべし。内裏(うち)にも御心の鬼に思すところやあらむ、と、思しつつむほどに、阿弥陀仏を心にかけて念じたてまつりたまふ。「同じ蓮に」とこそは、
  亡き人を慕ふ心にまかせても
    影見ぬ三つの瀬にや惑はむ
と思すぞ、憂かりけるとや。


苦しい目にお遭わせになる、とお恨みになるのも、実際にそのようにお思いになっているということなのだろう。勤行をなさってすべてについて罪障が軽くなったご様子でありながら、この一つことのせいでこの世の濁りをおすすぎになれないでいらっしゃるのだろう、と、ことの次第を深くお考えになると、たいそう悲しいので、なんとかして、知る人もないあちらの世界おいでになるのであろうところをお見舞い申し上げに参ってお受けになっている罪に代わりたいものだ、などとじっとお思いになっている。あの方(藤壺)のためにことさらに何かをなさろうものなら、人が不審にお思い申し上げるであろう。帝も良心の呵責にさいなまれなさることがあろうか、と、はばかっていらっしゃるので、阿弥陀仏をいつも忘れずに念じ申し上げていらっしゃる。「同じ蓮に」とは思うのだが、「亡き人を慕う心のままにあとを追っても、あの方の姿の見えない三途の川で惑うことになるだろうか」とお思いになるのはつらいことであった、とか。

藤壺中宮は桐壷院が亡くなった翌年に出家して、囲碁は勤行に励んでいたために、罪障は軽くなったはずなのに、ほかのことはともかく、あの密通という過ちひとつのためにこの世での濁りを浄められずにいるのだ、と光源氏は考えます。仏教の考え方では、この世は「五濁」の世であり、藤壺はその濁りをすすげないまま迷っているのです。自分があの世に行って罪をお引き受けしたい、と光源氏ははかない思いを抱きます。だからといって、実母でも妻でもない藤壺のために特別の仏事をおこなうと世間の疑いを招きかねず、また帝(冷泉)も自分が生まれたからいけないのだ、というような自責の念に陥るかもしれません。光源氏ができることは、ただ阿弥陀仏を念じることだけだったのです。しかし、極楽浄土で同じ蓮に生まれたいと願っても叶うことではありません。「亡き人を」の歌はやはり光源氏の心内で詠まれた歌で、夫婦であったわけではないので、いくらあとを恋い慕っても三途の川(三つの瀬)で惑うことになるだろうと絶望するのです。

これで「朝顔」の巻は終わります。

このブログで、4月24日から断続的に書いてまいりました「オンライン源氏物語講座」は一段落ということにいたします。私の手元にある『源氏物語』のテキストで約170ページを読んだことになります。平素おこなっている講座では1回につき5~6ページ読んでいますので、ほぼ30回分、つまり1年分に該当します。
約三か月にわたって、いい勉強をさせていただきました。このあと『源氏物語』は「少女(をとめ)」「玉鬘」「初音」「胡蝶」・・・と続いていくのですが、夏休み中は何かまとまったものを書きたいと思っており、しばらくお休みをいただきます。もしもう少し先まで書いてもらいたい、というご希望がございましたら、秋以降に「少女」巻から再開しようか、とも思っています。長らくお目を汚しました。

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西宮球場にて 

今はもうなくなった野球場のひとつに阪急西宮球場があります。
阪急電車の西宮北口駅からすぐでナイターのある日は電車からもカクテル光線が目の前に見えました。
ここを本拠地としていた阪急ブレーブスは、人気という点では12球団のうち最下位を争うレベル。全国的に見ればもちろん、関西でも(阪神タイガースがあるだけに)ファンに出会うことが難しいくらいでした。しかし、実力ある選手揃いで、営業努力もあって、徐々に上向きになるかな、というところで身売りされました。

    イチローさん

が入団するまで待っていたら、とつい考えてしまいます。
私はしばしばこの球場に出かけて、ひとりでぼんやり眺めるのが好きでした。
お隣の甲子園球場では大歓声を上げるのが当たり前ですから、私にとってこの球場はきわめて心地よい場でした。
今、ウイルス騒ぎで、観客数が制限され、あらゆる野球場が

    西宮球場状態

です。

もちろん、西宮球場にも応援団はいて、旗を振ってはトランペットも吹き、お客さんに手拍子を要求していました。しかし私は一度もその応援に加わったことはなく、離れた席で黙って観ていました。
昨今のスタジアムの応援の仕方を、私は数十年前に実践していたことになりそうです。

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『異聞片葉葦』の初演 

今日からYouTube で能勢の浄瑠璃の配信が始まります。
そして今日と明日、歌舞伎竹本三味線の野澤松也師匠のライブで拙作を初演していただきます。
このお話は、東京都墨田区両国につたわる七不思議のひとつで、

    駒留橋のあたりの葦は片葉である

という「不思議」をもとに創作したものです。
駒留橋は隅田川に架かる橋ではなく、その脇にある入堀に架かっていた橋で、今はありません。両国橋のすぐそばに位置しており、今ではわずかに案内表示板が立てられているだけです。
このあたりに生える葦が片葉なのは、「お駒」という娘に夢中になった「留蔵」という男が、彼女を殺して片手片足を斬ったためである、という言い伝えがあります。
私はそのお駒と留蔵の話をそのまま用いながら、殺人の

    後日談

として「お駒」の妹の「お里」という人物を設定したうえで、姉妹の愛情、美しい姉への妹の嫉妬を軸にした話にしてみました。
ストーリーがいささか窮屈になっているのが一番大きな欠点だろうと自分では思っています。
留蔵を追い払ったあとに、お駒の幽霊が妹のお里に歌を歌ってやる場面があるのですが、ここが一番書きたかったところです。誰からも愛されている美しい姉に対して、ひがむ気持ちもあって反発する妹。しかし実は姉は妹を思い、妹は姉を慕う。その二人の結びつきを、妹の作る十三夜の月見団子に託して歌にしてみました。
松也師匠は三下り歌にしてくださったそうです。

里の芋なら十五夜なれど
妹の里は十三夜
白玉か何ぞと人の問ふならば
そのうつくしき手のひらに
情けを包む十団子(とをだんご)
露と消えゆくこの姉を
恨みそ
恨みそ恨みやるな
お里かはいや
いとしや妹
百代八千代ののちまでも
葦の葉香る十団子

お客様がどのように聴いてくださるのか、楽しみと不安でいっぱいです。
なお、もうひとつ、『朝顔話』の「笑ひ薬」もあるそうです。

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プロアクティブに 

この時期に、かつて騒ぎになった新型インフルエンザ・パンデミックを簡単に振り返ってみたいと思うようになりました。
ただ、難しい本を読み解くほどの知性はありませんので、岩波新書の『パンデミックとたたかう』(押谷仁・瀬名秀明)なら対談形式だし、瀬名さんがいい聞き役になっていらっしゃるのでわかりやすいと思ってざっと読みました。
その中で、押谷さんは「パンデミック対策はつねに事態を先取りしてプロアクティブに動く必要があります」と言っています。起きたことに対して対応するリアクティブな動きばかりしていては対策としては不十分なのです。

    proactive

は簡単な辞書の説明では「積極的」と書かれていますが、もう少し詳しい説明では

(of a policy or person or action) controlling a situation by causing something to happen rather than waiting to respond to it after it happens
(政策や人、行動について)起こったあとに対応すべく待機するより、何かを起こすことで状況をコントロールする

ということです。新しい局面になったら何があるかわからないからその時に対応する、というのはリアクティブなのであって、結果的に間違っていたとしても待たずに行動を起こすのですね。
しかし、プロアクティブであろうとしてそれを広く説明しても、結果が説明したとおりにならないことが多いので、「この人の言うことは信用できない」ということになりかねないのです。
しかし、間違いが怖いから、リアクティブなことしか説明しない、というのではパンデミックには対応できないのです。

    情報の受け手

も、目先のことにこだわってはいけないのです。
この本を読んでいるうちに、目先のことにこだわってプロアクティブに動かないブラックな組織に思いを馳せてしまいました。
社会に潜む病患もまたウイルスと変わらないのだな、という思いをいだきました。

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源氏物語「朝顔」(4) 

まずは前回の『後拾遺和歌集』雑四の読みからです。

 緑竹不弁秋といふこゝろを
     大蔵卿師経
みとりにていろもかはらぬくれたけは
よのなかきをや秋としるらん
  永承四年内裏哥合に松をよめる
       前太宰帥資仲
いはしろのをのへのかせにとしふれと
まつのみとりはかはらさりけり

 緑竹不弁秋(緑竹秋を弁へず)といふこころを
     大蔵卿師経
緑にて色もかはらぬ呉竹は
よの長きをや秋と知るらん
  永承四年内裏哥合に松をよめる
       前太宰帥資仲
岩代の尾上の風に年経れど
松の緑はかはらざりけり

大蔵卿藤原師経(1009~66)の歌の題に「緑竹不弁(「知」とする本も多い)秋」とありますが、漢字五文字の題です。こういう場合、たいていは「句題和歌」、つまり漢詩の一句を題にして和歌を詠み合ったときのものです。緑色の竹は秋を認識していない、要するに普通の木であれば紅葉するところですが、竹はそうではない、というのです。歌の意味は「年中緑色で色も変わらない呉竹は夜の長いのを秋と知るのだろうか」ということでしょう。「よの長き」は「夜」と「節(よ)」を掛けて竹の縁語になっています。竹は秋を知らないかのように緑色のままだが、夜が長くなったら「ああ、秋が来た」と思うのだろうか、ということですね。
前太宰帥藤原資仲(1021~87)の歌は永承四年(1049)におこなわれた内裏での歌合で「松」の題で詠まれたものです。「岩(磐)代」は紀州の地名で、『万葉集』の有間皇子の絶唱「磐代の浜松が枝を引き結びまさきくあらばまたかへりみむ」が有名です。資仲の歌は「岩代の尾上の風に吹かれて長い年月が経つが、松の緑は変わることがないのであった」ということです。

では『源氏物語』に移ります。

西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむもいかがとて、一間、二間は下ろさず。月さし出でて、薄らかに積もれる雪の光りあひて、なかなかいとおもしろき夜のさまなり。「ありつる老いらくの心げさうも、良からぬものの世のたとひとか聞きし」と思し出でられてをかしくなむ。今宵はいとまめやかに聞こえたまひて、「ひとこと、憎しなども人伝てならでのたまはせむを思ひ絶ゆるふしにもせむ」と、おり立ちて責めきこえたまへど、昔、われも人も若やかに罪許されたりし世にだに、故宮などの心寄せ思したりしを、なほあるまじく恥づかしと思ひきこえてやみにしを、世の末に、さだすぎ、つきなきほどにて、ひと声もいとまばゆからむ、と思して、さらに動きなき御心なれば、「あさましうつらし」と思ひきこえたまふ。

西面では、御格子を下ろしているが、(源氏の君を)嫌っているように思われるのもいかがなものかというので、一、二間は下ろしていない。月がさし出て、うっすらと積もっている雪がそれと光り合って、かえってとても風情のある夜のありさまである。さきほどの老人の懸想めいた振る舞いも、良からぬものの世のたとへになっているとか聞いた、とふとお思い出しになって、おかしくお感じになる。今宵はとても真剣に訴え申し上げなさって、「ひとこと、憎らしいなどとでも人づてでなくおっしゃってくだされば、それをあきらめるきっかけにしましょう」と、身を入れて責め申し上げなさるのだが、(朝顔の姫君は)昔、私自身もこの方も、若くて何をしても許されたころでさえ、亡き父宮などが(光源氏との結婚を)期待もしていらっしゃったのを、やはりあってはならず、恥ずかしいこととお思い申し上げて終わってしまったのに、何年も経って盛りも過ぎ、似つかわしくない歳になって、ひと声もお聞かせするのは、まったくきまり悪いだろう、とお思いになって、、まったくゆるがないお心なので、(光源氏は)あきれるほどつらいことだ、とお思い申し上げなさる。

西面はもちろん朝顔の姫君の部屋です。そちらでは格子を下しているものの、嫌がっているよう見られるのはあまりにも思いやりがないと、一、二間の格子は上げたままにしています。これは女房たちが配慮するのでしょう。月と雪が光を出し合って、冬の夜は味気ないものだとは言われるものの、春や秋よりもかえって風情を感じさせるようです。この、冬の夜と、先ほどの源典侍はどちらもよからぬものと世間で入っているようなのです。古注釈の『河海抄』は「清少納言枕草子すさましきものおうなのけさうしはしの月夜と云々」と言っており、『枕草子』の「すさまじきもの」の段に十二月の月夜と嫗の懸想は興ざめのするものだと言っている、と注を付けています。しかし今残されている『枕草子』にはこういう文章がなく、失われた本文なのか、勘違いなのか、はっきりとはわかりません。これについては後でもう一度同じようなことが出てきますので、そちらでも問題にしようと思います。
光源氏は私のことを「にくい」とひとこと言ってくれれば諦めます、と言います。朝顔の姫君がまさかそんなことを言うはずがないということを知ったうえでの、よくある口説き文句ですね。ところで、この部分は「今はただ思ひ絶えなむとばかりをひとづてならでいふよしもがな」(『後拾遺集』恋三・藤原道雅。『百人一首』にも採られる)を下敷きにしているような表現です。光源氏がそういうって責めるのですが、朝顔の姫君は若かったころでさえ、父宮が結婚を期待していたのにこの人とは結婚するまいと思っていたのだから、とかたくなに拒みます。朝顔の姫君は光源氏と六条御息所の関係、および御息所の苦悩を知っていて、同じ轍は踏むまいと考えていました。「かかることを聞きたまふにも、朝顔の姫君は、いかで人に似じ、と深う思せば、はかなきさまなりし返りなどもをさをさなし(六条御息所の苦悩をお聞きになるにつけても、朝顔の姫君は、決してこの人のようにはなるまい、と深く思われたので、ちょっとしたお返事などもほとんどなさらない)」(「葵」巻)とあったとおりです。また、のちに朱雀院が娘の女三宮の将来を案ずる場面で「皇女たちの世づきたるありさまはうたてあははしきやうにもあり(皇女たちが縁づいたありさまを見ると、見苦しく浅はかなようでもある)」(「若菜上」巻)と言っているように、この当時皇女が結婚するのは必ずしも幸福にはつながらないという考えもあったようです。朝顔の姫君も、それと同じようなことを考えていたのでしょう。まして、今は年も取って結婚などに合わない年齢になっただけに光源氏が「ひとこと」だけでもとおっしゃったのに対して「ひと声」すら発するのはよくないだろうと考えています。

さすがにはしたなくさし放ちてなどはあらぬ人づての御返りなどぞ心やましきや。夜もいたう更けゆくに、風のけはひはげしくて、まことにいともの心細くおぼゆれば、さまよきほど、おし拭ひたまひて、
 「つれなさを昔に懲りぬ心こそ
人のつらきに添へてつらけれ
 心づからの」とのたまひすさぶるを、「げに」「かたはらいたし」と、人々、例の聞こゆ。
 「あらためて何かは見えむ人のうへに
    かかりと聞きし心変はりを
昔に変はることは、ならはずなむ」と聞こえたまへり。


そうは言っても不愛想に突き放すような真似はなさらず、女房を通してのお返事などはくださるので、それがまた気がもめるのである。夜もすっかり更けていくと、風が激しく吹くようすで、ほんとうにひどく心細く思われるので、品を損なわない程度に涙を袖でお拭いになって「あなたのつれなさを昔のうちに懲りなかった私の心では、あなたの薄情にもましてつらくおもわれるのです。『心づからの』」と、思うままにおっしゃるのを「おっしゃるとおりです」「きまりわるいこと」などと女房たちは例によって申し上げる。「どうして今さらこれまでの気持ちを改めてお逢いできましょうか。他人のこととして見ればこういうこともあるでしょうが、そんな心変わりは私にはできません。昔の態度と異なることは今もできません」と申し上げなさった。

朝顔の姫君はまったく心が揺れることはなかったのですが、そうは言っても光源氏を粗略に扱うことはできません。そういう気持ちがあるので、女房を介して光源氏にお返事はするのです。完全に突き放されたのならともかく、なまじ返事をくれるだけに光源氏はじりじりとしています。そして「あなたが釣れない人であることはとっくの昔に懲りているはずなのに、そうはいかなかったのです。だから私はいまもつらいのです」と訴えます。「心づからの」は「恋しきも心づからのわざなればおきどころなくもてぞわづらふ(恋しい気持ちは自分のせいなのだから、どうしようもなく困惑しております)」(中務集)を引きます。「のたまひすさぶる」というのは「言ひすさぶ(言いたいことを気ままにいう)」の尊敬語です。それに対して、女房たちは光源氏に同情的です。ここには女房の心の奥底が透けて見えるのです。彼女たちは安定した生活がしたい。そのためには、姫君が光源氏と結婚してくれるのが一番だと思っています。こういう女房の打算的な考え方はしばしば描かれるところです。夕霧の求愛を渋った落葉の宮(朱雀院の女二の宮)が小野から一条の宮に移るときの女房の、また中の君が匂宮との結婚で都に上るときの女房の、主人の悲哀を知らず顔に嬉々として引っ越しの準備をしている姿も思い合わされます。朝顔の姫君は昔の気持ちを改めることはできない、となおも拒否の姿勢を貫く歌を返します。この歌について古注釈の『弄花抄』は「斎院の貞なる心を何かはあらためて人の心のさためなきやうには見えんとよみ給ふ也(朝顔の姫君が、貞淑な心を改めて移りやすい人の心のようにはどうしてみられましょうか、と詠まれたのである)」と言っています。

いふかひなくていとまめやかに怨じきこえて出でたまふも、いと若々しき心地したまへば、「いとかく世の例になりぬべきありさま、漏らしたまふなよ。ゆめゆめ。いさら川などもなれなれしや」とて、せちにうちささめき語らひたまへど、何ごとにかあらむ。人々も、「あなかたじけな」「あながちに情けおくれても、もてなしきこえたまふらむ」「軽らかにおし立ちてなどは見えたまはぬ御けしきを」「心苦しう」と言ふ。

これ以上何を言ってもはじまらないので、心の底からお恨み申し上げてお立ちになるにつけても、どうにもおとなげない気がなさるので、「まったくこんな世間の語り草になりそうなありさまは、絶対に他言なさらないでくださいよ、『いさら川』などと申し上げるのもなれなれしいですね」とおっしゃって、しきりにひそひそと訴えなさっているが、それはいったい何ごとなのであろうか。女房たちも「まあもったいないこと」「どうしてむやみに思いやりのないお仕打ちをなさるのでしょう」「軽率に無体なことをなさるようにはお見受けしないごようすですのに」「おいたわしい」と言っている。

光源氏は今の言葉で言うなら「マジになって」恨んだのです。しかし言いたいことを言って座を立つのはやはり幼稚なふるまいだと気づき、「こんな、世間のもの笑いになるような私の情ない姿を人に漏らさないでください」と言います。「いさら川」は「犬上の鳥籠(とこ)の山なる名取川(いさや川)いさと答へよ我が名もらすな(犬上の鳥籠の山にあるいさや川のように『さあどうでしょうね』と答えてください。私の名は漏らしてはいけません)」(古今集・墨滅歌)によります。『古今集』では「名取川」としつつ「いさや川」の本文も挙げています。また、元永本などの『古今集』の伝本には「いさら川」ともあるのです。「犬上の鳥籠」は近江の国です。女房たちは相変わらず光源氏に肩入れをします。先帝の孫で式部卿の娘とは言っても、もうすでにそれらの人はこの世にはおらず、朝顔の姫君は必ずしも将来が安定しているとは言えない身の上です。その姫君に仕えている女房としては、光源氏という後ろ盾があるのと無いのとでは大きな違いがあるのです。

げに、人のほどのをかしきにも、あはれにも、思し知らぬにはあらねど、もの思ひ知るさまに見えたてまつるとて、おしなべての世の人のめできこゆらむ列(つら)にや思ひなされむ。かつは軽々しき心のほども見知りたまひぬべく恥づかしげなめる御ありさまを、と思せば、なつかしからむ情けもいとあいなし。よその御返りなどはうち絶えでおぼつかなかるまじきほどに聞こえたまひ、人づての御いらへはしたなからで過ぐしてむ。年ごろ沈みつる罪失ふばかり御行なひを、とは思し立てど、にはかにかかる御ことをしももて離れ顔にあらむもなかなか今めかしきやうに見え聞こえて、人のとりなさじやはと、世の人の口さがなさを思し知りにしかば、かつ、さぶらふ人にもうちとけたまはず、いたう御心づかひしたまひつつ、やうやう御行なひをのみしたまふ。御はらからの君達(きむだち)あまたものしたまへど、ひとつ御腹ならねばいとうとうとしく、宮のうちいとかすかになり行くままに、さばかりめでたき人のねむごろに御心を尽くしきこえたまへば、皆人、心を寄せきこゆるも、ひとつ心と見ゆ。

なるほど(光源氏の)お人柄のすばらしさも慕わしさもおわかりにならないわけではないが、ものの情趣をわきまえているかのように見られ申すとしても、世のありきたりの人がおほめ申すのと同列に思われるだろうか。一方では、行き届かなぬ心のほどもお見通しになるであろうほどに、こちらが気恥ずかしくなるような方なのだから、とお思いになるので、やさしい心をお見せするのもまったく不似合いなことだ。さしさわりのないお返事などは絶やさないで、ご無沙汰にならないくらいには申し上げて、女房を介するお返事など失礼のない程度にしてお付き合いしよう。長年仏道に背いていたつみが消えるくらいのお勤めを、とは決心なさるのだが、にわかにこういうご交際を嫌がるようにふるまうのもかえって人目に立つようなやり方だと世の人がとりなさないだろうか、と世間の口さがなさをよくおわかりなので、一方ではお仕えする女房にも気をお許しにならず、しっかり用心なさりつつ少しずつお勤めに励んでいらっしゃる。ご兄弟の君達は何人もいらっしゃるのだが、同腹ではないので、まったく疎遠で、お邸の中もとてもひっそりとしていくところに、あれほどご立派な人が懇切にお心をお寄せ申していらっしゃるのだから、女房たちはみな(光源氏に)お味方申しているのも思いはひとつなのである。

最初の「げに」はなるほど女房たちがいうとおり、という意味で、実際光源氏の人柄や魅力は朝顔の姫君とてわからないわけではないのです。しかし、光源氏の思いを理解しているような態度をとると、世間の人が光源氏を絶賛するのと同じように思われるのではないか、と姫君は考え、その一方、自分の軽はずみなおこないも見透かされそうだ、とも思い悩むのです。「よその御返りなどはうち絶えで」は恋愛がらみではない手紙への返事は途絶えないようにして、ということです。「絶えで」と読んでいますが、原文は当然「たえて」とあります。うっかりするとまったく意味が逆になる「絶えて」と読んでしまいそうです。朝顔の姫君は思慮深い人で、光源氏と絶縁するような態度をとるのではなく、適当な距離を持って付き合うことを考えます。この人物について考える時、こういう場面はとても重要だろうと思います。長年仏道をおろそかにしていた、という意味のことが書かれていますが、これは彼女が不熱心だったのではなく、斎院という、神に仕える立場にいたために仏道に励むことができなかったのです。伊勢の斎宮も同じですが、こういう経歴の人は斎院(あるいは斎宮)を下りたあと、熱心に仏道に励むようになるのです。だからといって朝顔の姫君は、光源氏を嫌がって仏道に励むふりをするとは思われたくありません。このような事情が重なって、姫君は周りの女房にも気を許さないまま少しずつ仏道にいそしみます。
朝顔の姫君に兄弟がいたかどうかについては物語には記されていません。しかしここで異腹の兄弟が何人もいることが明示されます。異腹だけに交流がなく(子どもは、通常母方で育つので、異腹であれば子供のころから交流は少ない)、この邸には男性の出入りがありません。そうなるとどうしてもひっそりとしてしまうのです。それだけに、女房たちはこの邸を守るために、そして自分たちの身を守るためにも、なんとか姫君が光源氏の思いを受け入れて結婚するに至らないものか、と、光源氏に肩入れするのです。

大臣(おとど)は、あながちに思しいらるるにしもあらねど、つれなき御けしきのうれたきに、負けてやみなむも口惜しく、げにはた、人の御ありさま、世のおぼえことにあらまほしく、ものを深く思し知り、世の人の、とあるかかるけぢめも聞き集めたまひて、昔よりもあまた経まさりて思さるれば、今さらの御あだけも、かつは世のもどきをも思しながら、むなしからむは、いよいよ人笑へなるべし、いかにせむ、と御心動きて、二条院に夜離(よが)れ重ねたまふを、女君は、たはぶれにくくのみ思す。忍びたまへど、いかがうちこぼるる折もなからむ。

やみくもにいらいらなさっているというのではないが、(朝顔の姫君の)つれないそぶりがいまいましいうえに、このまま引き下がってしまうのも残念に思われる。お人柄や世間の評判はなるほど格別で申し分なく、ものの道理も深くわきまえていらっしゃって、世の人のそれぞれの違いについてものみこんでいらっしゃり、昔よりも多くの経験を積んできたとご自身でもお思いなので、今さらの浮気沙汰も一方では世間の非難も気にされながらむなしいものになるのはますますもの笑いになるだろう、どうしたものか、と動揺なさる。そして、二条院に夜離れを繰り返しなさるのを、女君(紫の上)は冗談にならないことだとお思いになっている。こらえてはいらっしゃるが、どうして涙のこぼれる折がないはずがあろうか。

光源氏はあの紫の上を放置するほどに朝顔の姫君に入れあげています。自分でも若い時のように無分別ではなくなっていると自覚はするものの、拒否されればされるほど燃え上がってしまうようです。こんなことをしていると世間の非難を受けるだろう、と思いつつもあきらめきれない心の弱さ。かわいそうなのは紫の上です。頻繁な光源氏の夜離れをこらえつつも、つい涙が出てしまいます。

「あやしく例ならぬ御けしきこそ、心得がたけれ」とて、御髪をかきやりつつ、いとほしと思したるさまも、絵に描かまほしき御あはひなり。「宮亡(う)せたまひて後、上(うへ)のいとさうざうしげにのみ世を思したるも、心苦しう見たてまつり、太政大臣(おほきおとど)もものしたまはで、見ゆづる人なきことしげさになむ。このほどの絶え間などを見ならはぬことに思すらむも、ことわりにあはれなれど、今はさりとも心のどかに思せ。おとなびたまひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見知らぬさまにものしたまふこそ、らうたけれ」など、まろがれたる御額髪(ひたひがみ)ひきつくろひたまへど、いよいよ背きてものも聞こえたまはず。

「奇妙なほどいつもと違ったご機嫌なのがわけのわからないことですね」とおっしゃって御髪をかきやりながらいじらしいこと、とお思いになっている様子は絵に描きたいようなお二人の仲である。「(藤壺)宮が亡くなってから、帝がとても寂しそうにお思いになっているのも御いたわしいことと拝見しておりまして、太政大臣もいらっしゃらないので、仕事をお任せする人がいない忙しさでして。その間あまりこちらをお尋ねできなかったことをこれまでなかったことだとお思いになっているようなのも道理ですし、しみじみとおいたわしくは思うのですが、これからはそういうことがあってもゆったりと構えていてください。大人らしくなられたようではありますが、まだ思慮に欠けるところがおありで人の心もよくはおわかりにならないところがかわいく思うのですよ」などと、丸くもつれてしまった御額髪をつくろってさしあげなさるのだが、(紫の上は)いっそう背を向けて何もおっしゃらない。

例によってしらじらしい言い訳をする光源氏です。自分が夜離れがちなのは、母宮を失った帝が哀しみの日々を送っているうえに、太政大臣(葵の上の父。薄雲巻で死去)亡きあといっそう忙しくなった職務のせいである、というのです。そのうえ、あなたはまだ人の心の機微というものをわかっていないと言いたげです。光源氏にすれば、朝顔の姫君に熱心になっても紫の上を大事にする気持ちは変わらないと言いたいのでしょうが、それはやはり身勝手な考え方でしょう。「ゆったり構えていなさい」と言われても、傷心の紫の上が「はいわかりました」と言えるはずもありません「まろがれたる御額髪」とありますが、紫の上の額髪がもつれているのはなぜでしょうか。ほかの部分の髪よりも丸くなっているのです。これは明らかに涙に濡れたせいでしょう。

「いといたく若びたまへるは誰(た)がならはしきこえたるぞ」とて、常なき世に、かくまで心置かるるもあぢきなのわざや、と、かつはうち眺めたまふ。「斎院にはかなしごと聞こゆるや、もし思しひがむる方ある。それはいともて離れたることぞよ。おのづから見たまひてむ。昔よりこよなうけどほき御心ばへなるを、さうざうしき折々、ただならで聞こえ悩ますに、かしこもつれづれにものしたまふところなれば、たまさかのいらへなどしたまへど、まめまめしきさまにもあらぬを、かくなむあるとしも、愁へきこゆべきことにやは。うしろめたうはあらじとを、思ひ直したまへ」など、日一日慰めきこえたまふ。

「まったく、こんなに子どもっぽくていらっしゃるのは、誰がそうおしつけしたのでしょうか」とおっしゃって、この無常な世でこれほど心を隔てられるのもつまらないことだ、と一方では物思いをなさっている。「斎院(朝顔)にはちょっとしたことは申しましたが、それをひょっとして変にお思いになっているのですか。それはまったく見当違いですよ。そのうち自然にお分かりになるでしょう。昔から、あの方はひどく親しみにくいお人柄なのですが、もの寂しい折々にただならぬようなことを申し上げて困らせたりしたのですが、あちらも所在なくていらっしゃるところですから、時にはお返事などもなさるのですが、真剣なことではないので、こんなありさまですなどとあなたに訴え申すようなことではないのです。気がかりなことではないようだと思い直してください」などと一日中ごきげんをお取り申し上げていらっしゃる。

まったく子どもっぽい、というのはひょっとすると光源氏に当てはまるかもしれませんが、光源氏から見ると、すぐに嫉妬する紫の上は幼く見えるのです。ここでの光源氏の言い訳は、朝顔の姫君とは何の交渉もないというのではなく、とりとめもない手紙のやりとりに過ぎない、というのです。二条院を留守にするのは内裏での仕事が多端であるため、朝顔の姫君とはたわいない手紙のやりとりに過ぎない、という理屈です。しかし紫の上はお見通しです。

光源氏のすることは「性懲りもない」という言葉が似合いそうなほどですが、紫の上に対しては喧嘩腰にものを言うことはありません。のちに光源氏の息子の夕霧が雲居雁との関係が悪化した時、「御心こそ鬼よえいけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、えうとみはつまじ(あなたの御心は鬼も顔負けでいらっしゃるが、お姿は憎らしいところなどないのだからお見捨てするわけにもいきますまい)」だとけなしているのかほめているのかわからないような言い方をするのとはかなり違うようです。

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マスクがないと 

マスクについては、いろんな意見があります。私はある医学部の先生の言っていることがもっとも納得できます。簡単なことなのです。道を歩いたりジョギングしたりするときは周りにあまり人がいない道であればマスクをすることにはほとんど意味がない。むしろ熱がこもるなどの逆効果すらあり得る。逆に近い距離に人がいる場合は、自分が感染している場合、それを他人にうつさないための効果は認められる。ごく手短に言えばこういうことなのです。
私は今、道を歩くときはまったくマスクは着けません。しかし店に入るときには直前で着けて、店を出た直後にはずします。買い物中はずっと息苦しい感じがして、店を出てマスクを外す時は快感すら覚えます。
すれ違う人からの、「こいつ、着けてない・・」という視線を感じることはないとはいえません。しかし私は

    自信を持って

マスクは着けません。
しかし、ある若い女性がこんなことを言っていました。

「このあいだ、家を出てしばらくした時、マスクを持っていないことに気づきました。取りに返ろうとは思ったのですが、時間がなくてあきらめました。ところが、電車に乗ったら、周りの視線が怖くて、怖くて、ずっとうつむいて目を上げることができませんでした。マスクを着けないことがこんなに怖いものだとは知りませんでした」

彼女は電車の中で

    「マスク警察」

に怒鳴られたわけではありません。ただ自分が悪いことをしているように思えてきて、自責の念から恐ろしく感じていただけなのです。
本来はウイルスが怖くて着けているはずのマスクなのですが、今は人が怖くて着けているという状態になっているかのようです。
たしかに、満員電車であれば咳やくしゃみをしたくなった時、手が自由に動かせなくて口をカバーしにくいこともあるでしょう。そんなときに便利と言えば便利です。
別の人が言っていました。「メディアは『マスクをしないのは

    気のゆるみだ』

と報道している。でも着けられない人がいることはわかっているのだろうか」「このあいだ、あなた(私のこと)が『歩くときはマスクは着けない』と言っていたので私もやってみたけど、息が楽で、解放感に浸ったような気がする」と。
香港では「独立」を叫ぶだけで警察に逮捕されるそうですが、マスクを着けないだけで怒鳴られるというのは理不尽だと私は強く感じています。
なんだか世の中が妙な方向に言っているように見えます。

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哀しや香港 

私は貧乏人ですので(笑)香港なんて行ったことがありません。私が子供のころ、父親は仕事でよく行っていましたので、私も大人になったら香港なんて当たり前のようにいくことになるのだろうか、と思っていました。現実はまったくそうではありませんでした。
当時の香港は、美しく、楽しく、豊かな街、というイメージがありました。当時だけではありません。その後も憧れの街として観光客がひっきりなしに訪れていました。香港と言えば映画も思い出します。私の知り合いにずっと香港映画を愛し続けている人がいます。
その当時の香港は中華人民共和国ではありませんでした。そしてイギリスから返還されたときも、一気に変わるのではなく、50年間は1国2制度を維持することが決められていたそうです。それがにべもなく無視されて、

    独立

という言葉を使おうものなら、それだけでも中国政府から裏切り者扱いされるようです。権力は長く持ち続けると腐敗するものであることは歴史が証明し、また我々の目の前を見てもそういう例がいくらでもあります。
ただ、香港の悲劇を対岸の火事と見るのはどうも違うように思います。近ごろの

    大国

と言われる国々は、自分のことを考えるのに精いっぱいで、本来の「大国」の意味が失われているように感じます。大国というのは自らの大きさを誇るのではなく、その大きさをしっかりコントロールして、この狭い地球という星を安定的に長続きさせるかを考えるべきものです。それがいつの間にか原爆という恐ろしいものを保持することが大国の証明になり、無意味なまでに爆発の実験を繰り返し、それを見せつけることで

    世界に君臨している

かのように勘違いしています。
明らかに間違いであった明治以降の軍国主義的な国造りへの反省は、日本人にとってのみならず、新しい世界のあり方の範となるべきものだったのです。ところが反省がいつの間にかアメリカに隷従することと同義のようになり、今に至っているように思います。それは国だけの問題ではないと思います。私の知っていることで言うなら、国が大きな顔をすることで教育の当事者が苦しみ、それをさらに現場に押し付けるという構図があります。
香港の現状は見ているだけで胸が詰まります。しかし、どうもそれだけではない苦しみを私は共有してしまうのです。

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源氏物語「朝顔」(3) 

ではまず『後拾遺和歌集』の続きです。
画像はクリックまたはタップすると大きくなります。

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いかがでしょうか。ぜひお読みになってください。

『源氏物語』の中でも極めてユニークなキャラクターである「源典侍(げんのないしのすけ)」という人物のエピソードがここに挟まれていますので、今日はそれを読もうと思います。
この人物は『紅葉賀』巻に初めて登場するのですが、そこでは「家柄も悪くなく、気が利く、上品で信望もある人」と紹介されています。「源」というのですから、遡れば皇族の家柄だったのでしょう。ところがこの人はひどく好色な女性で、そういう方面ではまるで重みのない人なのです。当時十九歳だった光源氏は好色な女性と聞くとじっとしてはいられず、つい声をかけてしまいました。すると、源典侍は自分と光源氏はお似合いだとでも思っているようなのです。そういう態度を示されて、光源氏はさすがにすげない態度を取り始めるのですが、彼女はそれに対して若い娘のように恨めしがって見せます。
光源氏が内裏で偶然源典侍と会ったことがあります。その時の彼女の様子は、「まぶたはひどく黒ずんでくぼんでいて、髪もほつれて乱れて」いました。ところが彼女は光源氏を見るや色っぽく言い寄ってくるのです。光源氏が振り払おうとすると、ちょうどその時に桐壷帝が覗いていて、笑いだしてしまいます。
こういう噂を耳にした頭中将は、負けてなるものかと、源典侍に言い寄って深い仲になります。
しかし源典侍は光源氏にくびったけで、後日また言い寄ると、たまにはこういうのもいいかもしれないと思った光源氏はついに夜を彼女と過ごすのです。その夜遅くに、頭中将が忍び込んできて、戯れて太刀を抜いて光源氏を脅します。頭中将だと分かった光源氏は笑いながら源典侍を残して一緒にその場を去ります。このとき源典侍は五十七、八歳でした。
「紅葉賀」巻には以上のようなことが記されています。もう一か所源典侍が登場するのは「葵」巻です。葵の上と六条御息所の車争いがあったあと、光源氏は祭の本番を紫の上と同車して見物に行きます。ところが人が多くて車を停める場所がありません。すると場所をお譲りしましょう、と言ってくる女性があったのです。それが源典侍でした。ここでも源典侍は戯れて歌を送ってきます。このとき光源氏二十二歳、源典侍は六十歳または六十一歳です。「葵」巻はこの直後に六条御息所の激しい苦しみが描かれますので、この滑稽な女性を登場させることで、六条御息所の深刻さがさらに浮き彫りにされることになります。
老いた女性が若い二枚目に恋心を抱く話は『伊勢物語』にもあり、「百歳(ももとせ)にひととせ足らぬつくも髪我を恋ふらし面影に見ゆ(百歳に一歳足りないほどの白髪の女が私を恋しく思っているらしい。その姿が幻のように見える)」と主人公の男が詠んでいます。
血筋もよく、女房としても品格のある人でありながら、若い色男が好きで、年がいもなく接近しようとする、という今でもどこかにいそうな(?)女性像にも思えます。

宮には、北面の人しげき方なる御門は、入りたまはむも軽々しければ、西なるがことことしきを、人入れさせたまひて宮の御方に御消息あれば、今日しも渡りたまはじ、と思しけるを、驚きて開けさせたまふ。御門守(みかどもり)、寒げなるけはひ、うすすき出で来て、とみにもえ開けやらず。これより他の男はたなきなるべし。ごほごほと引きて、「錠のいといたくさびにければ開かず」と愁ふるを、あはれと聞こし召す。昨日今日と思すほどに、三年のあなたにもなりにける世かな。かかるを見つつ、かりそめの宿りをえ思ひ捨てず、木草の色にも心を移すよ、と思し知らるる。口ずさびに、
  いつのまに蓬がもととむすぼほれ
    雪降る里と荒れし垣根ぞ
やや久しう、ひこしらひ開けて入りたまふ。


桃園宮では、北面の人の出入りの多い御門は、お入りになるのも(ご身分柄)軽々しいので、西の門が堂々としているので、お供の者を入れさせなさって、女五の宮のところにご挨拶をすると、今日はおいでにはなるまい、とお思いになっていたので、驚いて開けさせなさる。御門の番をする者は寒そうにしてそわそわとして出てきて、すぐにも開けることができない。この男以外の者もまたいないようである。がたがたと引いて、「錠がひどくさびてしまったので開かない」とこぼしているのを、(源氏の君は)かわいそうにとお聞きになっている。昨日今日と思っているうちに、三年以上にもなってしまったのだな、こういうありさまを見ながら仮の宿りであるこの世を思い捨てることもできずに、草木の色にも心を移しているのだな、とお悟りになっている。口ずさみに「いつの間に蓬がからまるようになって雪の降る昔なじみの垣根になってしまったのだろう」。しばらくかかって、無理に引っ張って開けたので、お入りになる。

北の門は正式の門ではないので、誰もが出入りすることがあり、光源氏はそれを避けます。そして正門とも言うべき西門から入ることにしようとそちらに回り、お供の者に先にあいさつに行かせて西門を開ける手はずを整えさせるのです。このお供の者はあるいは北門から入って行ったのかもしれません。しかし、門番の男がぐずぐずして、しかもほかに頼りになる者はいないらしく、西門を開けるのに手間取っています。その時に光源氏が感傷に浸っている言葉に「三年以上になる」とありますが、具体的にどの時点から三年と言っているのかがよくわかりません。次の歌にいつの間にかこの屋敷が荒れてしまったことを詠んでいますので、そのきっかけになるようなことが三年余り前にあった、ということのように思われます。このあたり、朝顔の姫君との関係でやや何を書いているのかわからない点が散見し、判然としないことが目立ちます。次の歌は「雪ふるさと」に「雪降る」と「ふるさと(昔なじみのところ)」の意味が掛けてあることはお分かりになると思います。門番の動作には「うすすき(あわててやってくる)」「ひこじらひ(力づくで引っ張る)」など、あまり品のよいとは思えない行動が描かれます。

絵入 朝顔2 朝顔を訪問

↑絵入源氏物語
慌てて出てくる門番

 宮の御方に、例の御物語聞こえたまふに、古ことどものそこはかとなきうちはじめ聞こえ尽くしたまへど、御耳もおどろかずねぶたきに、宮もあくびうちしたまひて、「宵まどひをしはべればものもえ聞こえやらず」とのたまふほどもなく、鼾(いびき)とか、聞き知らぬ音すれば、よろこびながら立ち出でたまはむとするに、またいと古めかしきしはぶきうちして参りたる人あり。「かしこけれど、聞こし召したらむと頼みきこえさするを、世にある者とも数まへさせたまはぬになむ。院の上は、祖母殿(おばおとど)と笑はせたまひし」など名のり出づるにぞ思し出づる。

宮(女五の宮)のところで、いつものようにお話し申し上げなさるが、昔話の何ということもないことをはじめ、次々にお話になるが、(光源氏の)御耳にはとまることとてなく眠たいのだが、宮も少しあくびをなさって「宵のうちから眠気がさしてしまいますので、最後までお話ができませずに・・」とおっしゃったかと思うと、いびきとかいう聞き知らぬ音がするので、喜びながらお立ちになろうとすると、そこにまた古めかしい咳をして参った者がある。「畏れ多いことですが、(私がこちらにおりますことを)お聞きになっているだろうとあてにしておりましたのに、生きているものの数にもいれてくださらないので・・。院の上(桐壷院)は私のことを「おばば殿」とお笑いになっていましたが」などと名乗り出てきたのでお思い出しになった。

光源氏は建前上、まずは女五の宮にあいさつに行かねばなりません。すると彼女は昔話を延々とするのです。今でも、昔話をするのは老人の悪癖と相場が決まっていますが、当時から若い人には嫌われていたのでしょう。おまけに光源氏は朝顔の姫君のことが気になりますから、半ば聴いておらず、眠気すら覚えます。古注釈の『岷江入楚』は、この部分について「源は槿の上の方へはやくゆきたくおほすゆゑに御耳にもいらぬなり」と注を付けています。ところが五の宮もあくびをするのです。「宵まどひ」は「宵寝まどひ」ともいって、まだ宵のうちから眠くなることを言います。年を取ると早寝早起きになると言いますが(ちなみに、私もかなりの早寝早起きです・・笑)、それも的確に描写しています。そしてついには話の途中でいびきをかいてしまうのです。人にいびきを聴かれるのは恥ずかしいことであり、品のないことです。長話、あくび、そしてとどめにいびき。高貴な皇女にして普通の老人と何ら変わらない姿です。光源氏は喜んでその場を立とうと(つまり朝顔の方へ行こうと)しましたが、同じように年老いた声が聞こえてきました。亡き桐壷院はわたしのことを「おばば殿」とお呼びになっていましたが、おわすれですか。ひどいお見限りですね」というのです。最初は誰かわからなかった光源氏ですが、声の様子やものの言い方、そして桐壷院がおばばと呼んでいたというあたりから、その人物にはたと気づきました。

源典侍(げんのないしのすけ)といひし人は、尼になりて、この宮の御弟子にてなむ行なふと聞きしかど、今まであらむとも尋ね知りたまはざりつるを、あさましうなりぬ。「その世のことはみな昔語りになりゆくを、はるかに思ひ出づるも心細きに、うれしき御声かな。親なしに臥せる旅人と育みたまへかし」とて寄りゐたまへる御けはひに、いとど昔思ひ出でつつ、古りがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにたる口つき、思ひやらるる声づかひの、さすがに舌つきにて、うちされむとはなほ思へり。「言ひこしほどに」など聞こえかかる、まばゆさよ。今しも来たる老いのやうに、など、ほほ笑まれたまふものから、ひきかへ、これもあはれなり。

源典侍と言った人は、尼になってこの宮の御弟子として勤行に励んでいると聞いたが、今まで生きているとも尋ねもなさらず、ご存じでもなかったので、驚き、あきれてしまった。「その当時のことはすべて昔話になっていくので、遥かに思い出しても心細いだけに嬉しくもお声を聞くことです。『親なしに臥せる旅人』と思ってお世話ください」と言って物に寄りかかっていらっしゃるご様子に、いっそう昔のことを思い出しつつ、老人になり切れずにしっとりとした様子でしなを作って、ひどくげっそりとした口もとが思いやられる声づかいで、そうはいっても何を言っているのかわからないようすで、あだめいてやろうとは、なおも思っている。「言ひこしほどに」などと声をかけてくるのは目をそむけたくなるほどである。今、急に老いが来たように、などとついほほ笑んでおしまいになるものの、そういう気持ちとは打って変わってこの女もまたいたわしいと思うのである。

出ました! 源典侍です。光源氏の青年時代に年がいもなく接近してきたあの人物です。光源氏が十九歳のときに五十七、八歳でしたから、あれから13年経った今は、すでに70歳を過ぎています。彼女は尼になって女五の宮の弟子としてともに仏事に励んでいるのですが、光源氏はその消息を知らないままでした。彼が最初に思ったのは「まだ生きていたのか!」ということでした。しかし光源氏は「しなてるや片岡山に飯(いひ)に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし」(拾遺集・哀傷・聖徳太子)を引いて、親のない私ですから、どうかいつくしんでください、と声を掛けます。そういって物に寄りかかっている姿の美しさに、源典侍は心がときめいたのか、老いを忘れて色っぽい雰囲気を漂わせます。しかし、葉が抜けているのか、口元がげっそりとしたような声で、下の動きもよくわからないような物言いですがなおも好色な様子を見せています。「すげむ」は歯が抜けて頬がこけることで、「舌つき」は舌足らずな物言いをすることです。どちらも珍しい言葉です(いずれも『源氏物語』の中ではここにしか用いられていません)が、それはやはりこの物語ではこういう女性のこういう振る舞い自体が珍しいからでしょう。
「言ひこしほどに」は引き歌があるのでしょうが、よくわかっていません。古注釈の『弄花抄』は「人の上と思ひし老の身の上になりぬるを言ふへき所也」と言っており、他人事だと思っていたら自分も老いてしまった、という内容の歌があるのではないか、と想像しているようです。このあとに光源氏の気持ちとして「今しも来たる老いのやうに」とありますので、なるほどそういう考え方はできるだろうと思います。光源氏は、つい源典侍を馬鹿にしたくなるのですが、最後に「これもあはれなり」といっているのは、光源氏の「この人もまたかわいそうなのだ」という達観したような気持ちとも読めそうですし、筆者がこういう女性もまた気の毒なものなのだ、と言っているようでもあります。

この盛りにいどみたまひし女御、更衣、あるはひたすら亡くなりたまひ、あるはかひなくて、はかなき世にさすらへたまふもあべかめり。入道の宮などの御齢(よはひ)よ。あさましとのみ思さるる世に、年のほど身の残り少なげさに、心ばへなども、ものはかなく見えし人の、生きとまりて、のどやかに行なひをもうちして過ぐしけるは、なほすべて定めなき世なり、と思すに、ものあはれなる御けしきを、心ときめきに思ひて若やぐ。
  年経れどこの契りこそ忘られね
    親の親とか言ひし一言
 と聞こゆれば、疎ましくて、
「身を変へて後も待ち見よこの世にて
    親を忘るるためしありやと
 頼もしき契りぞや。今のどかにぞ聞こえさすべき」とて、立ちたまひぬ。


この盛りのころに競い合っていらっしゃった女御、更衣は、あるいは跡もなく亡くなられ、あるいは生きていくかいもなくはかないこの世で落ちぶれていらっしゃる人もあるようだ。(お若かった)入道の宮のお歳よ。あまりのことだとお思いになるこの世で、年齢的に人生も残り少なそうで、心がまえなども頼りなげに見えた人が、生き残って、ゆったりと勤行して過ごして来たというのは、やはり不定の世というものだ、とお思いになるのだが、そのしみじみとした風情豊かな(光源氏の)ご様子を、胸をときめかせて若やいでいる。「年月は経ちましたが、私はあなた様とのご縁が忘れられないのです。親の親とかいうひとことがありますから」と申し上げると、「生まれ変わって、来世で待って見ていてくださいこの世で子が親を忘れる例があるかどうかと。頼もしいご縁ですよ。そのうちに落ち着いてお話し申しましょう」といってお立ちになってしまう。

最初に「この盛りに」とあるのがよくわかりません。源典侍の得意の時期に、という意味かもしれません。そうであれば桐壷院が帝のころ、ということかもしれません。その桐壷院の女御更衣たちは、亡くなった人も多く、また落魄した人も多いのです。「桐壷巻」に「女御更衣あまたさぶらひたまひける中に」とあった、あの人たちです。光源氏の母の桐壷更衣に意地悪をした人たちでしょうね。落ちぶれた人がいる、というのは意外かもしれませんが、女御更衣と言っても、帝が亡くなれば頼るのは実家でしょうから、その実家も、父親が早くに亡くなっていたりしたら不安定で、落ちぶれることもあり得たのでしょう。それにもまして気の毒なのはまだ若くして亡くなった藤壺中宮です。ところが、もういい歳で人間的にもどうということのない人に限って長生きをして、そういう人がかえって落ち着いて勤行などができるというのは、光源氏から見ると、なんとも理不尽に思えるのです。そのような気持ちを抱いてしんみりとしている彼の様子を見た源典侍は、この期に及んで胸をときめかせて若い気持ちになっています。「年ふれど」は源典侍の歌です。「この契り」の「こ」は「子」を掛けています。「親の親とか」は「親の親と思はましかば訪ひてまし我が子の子にはあらぬなるべし(私のことを親の親と思うなら訪ねてくれたでしょうに、あなたは私の子の子ではないようです)」(拾遺集・雑下・重之母)によった表現です。私のことを年寄りだのおばあさんだのと思っているのでしょうが、親の親と思うならきっと訪ねてくれるでしょうね、と、今後もまた逢おうという誘いなのでしょう。それに対して光源氏はやはり前掲の歌の後半を使いながら、子が親を見棄てるかどうか、今はともかく、あの世で待って見ていてください、と、ずいぶんひどいことを言います。二枚目というのはこういうことを言っても許されるものなのでしょうか。
お騒がせのために出てくるかのような源典侍が「紅葉賀」「葵」に続いて登場しました。紫の上の苦悩、朝顔の姫君の困惑という状況で、女五の宮の老いて衰えた様子から、華やかな朝顔の姫君に話が移るその間につなぎ役として、なんだかからかわれるために登場したような感じです。さて、このあと、光源氏と朝顔の姫君はどうなるのでしょうか。

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雑誌に載った短歌 

私はこれまでにいろんなものを書いてきました。活字にしていただいたものは、一流の学者さんに比べたら極めて少ないものではありますが、塵も積もれば、ということでそれなりの数になりました。
しかしそれらの中に「短歌」というのはほとんど含まれていません。学生のころは新聞の短歌欄に30回くらいは掲載してもらいましたが、それはもう今ではどこかに行ってしまいました。それ以外には単発的に活字にしてもらってはいてもほんとうにわずかなのです。
しかしこのたび、普段からお世話になっている短歌の雑誌

    「橙(おれんじ)」

に初めて載せていただくことになったのです。そして、その雑誌が先日手元に届きました。何だか、小学生が文集を作って、自分の書いたものが冊子になった時のような感じです。
もちろん、歌そのものは腰折れの駄作に過ぎませんが、短歌を詠むことは脳を刺激するような気がして、若返りとまではいわないにしても、

    老化防止

に有益なのではないかと思っています。
せっかく初めて載せていただきましたので、これからも、できることなら毎号掲載していただけるように頑張りたいと思っています。

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宝塚大植物園の跡地 

先日、兵庫県宝塚市の宝塚大植物園の跡地を歩いてきました。
1910年に箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)が開業し、同年箕面動物園、翌年宝塚新温泉(のちのファミリーランド)、13年には新温泉にあった室内プールを閉鎖して(人気がなかったそうです)、プール部分を客席とした舞台を作り、宝塚唱歌隊(現宝塚歌劇団)を結成するなど、着々とこのあたりの開発は進みました。やがて箕面有馬電気軌道は阪神急行電鉄となり、そのあとしばらくして大植物園ができたことになります。
大植物園は今の手塚治虫記念館の東側あたりで、

    ボート遊び

ができるほどの池もあったようです。
やがてこのあたりはファミリーランドとして、動植物園と遊園地を持つ、総合レジャーランドとなりました。しかし、少子化という時代の波には抗えず、またUSJのような大規模遊園地もできて、愛すべきファミリーランドは2003年にその役割を終えて閉園されました。
その後、植物園地域は

     ガーデン・フィールズ

という名で公開された時期があったのですが、それもすでになくなってしまいました。私が歩いてきたのは、その名残をとどめるところで、昔ながらの石の欄干があったり、水辺に植物が植えてあったりするところです。手塚治虫記念館と宝塚市立文化芸術センターの間に位置します。
私も植物園は知りませんが、今はもう、ファミリーランドも知らない世代が増えてきました。
阪神急行電鉄はさらに京都への路線を広げて京阪神急行電鉄となり、通称阪急電鉄、今は正式名も阪急になりました。
昔を知るものとして、感慨深く歩いてきました。

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豪雨 

先日熊本で大変な豪雨があり土砂崩れも起きて被害が出ました。この国は災害とともにあると言ってよいほど毎年のように何らかの自然災害に見舞われているように感じます。
普段はおとなしく感じる川でも、突然のように増水して氾濫することもあります。あの京都の桂川でもそんなことがありました。水の勢いと力はすさまじいものですから、逃げるほかはないでしょう。
私個人はこれまでに、そこまでひどい目に遭ったことはありませんが、以前広島にいたとき、台風で道路に水があふれ、住んでいたアパートの玄関を出ると目の前は小川のようになっていた、という経験があります。あの時は風の強烈さがむしろ問題で、

    厳島神社の能舞台

が海に崩れ落ちたことと塩害で停電したこととが印象として強すぎてあまり増水への恐怖の記憶はないのです。
その後も岡山の倉敷、真備のあたりとか、広島の北の地域とか、さまざまなところで河川の決壊や土砂崩れなどがあって、住宅を巻き込む大きな被害が出ました。
この時期、避難生活となると、もしウイルス感染している人があった場合、そこで広がることも考えられ、何かと心配の種は尽きません。
九州にはほとんど知り合いがなく、「あの人は」というのはないのですが、気になることには違いありません。
今はテレビのニュースよりも早く、SNSで

    現場の映像

が流れてきます。
「こんな状態だからヘリの救援が欲しい」などという生々しいコメント付きの映像も見ました。ほとんどリアルタイムと言える形で、テレビなどを通さずに被害者が自らの声とともに伝えてくるのですから、ほんとうに訴える力が違います。
残念なことに、亡くなった方もあったようで、またも災害の恐ろしさを感じることになってしまったのです。二次災害もありますので、何かと心配です。
私などはもし同じような目に遭ったら、ろくに逃げることもできないでしょう。家の近くにも川はありますので、いつ何時被害者になるかわかりません。地震とともに今後も注意しなければならないと思っています。

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源氏物語「朝顔」(2) 

ではまず、前回の読みからです。

六条中務親王の家に子日の松をう
へてはへりけるをかのみこみまかりて
のちそのまつをみてよみ侍ける
       源為善朝臣
きみかうゑしまつはかりこそのこりけれ
いつれのはるのねのひなるらむ

     ノ或
 けふ中 子とはしらすやとてともたち
 なりける人の松をむすひておこせ
 て侍け(れ)はよめる  馬内侍
たれをけふまつとはいはんかくはかり
わするゝなかのねたけなるよに

六条中務親王の家に子日の松を植
ゑてはべりけるを、かの親王みまかりて
後、その松を見て詠み侍りける
       源為善朝臣
君か植ゑし松ばかりこそ残りけれ
いづれの春の子の日なるらむ

 今日、中の子とは知らずや、とてともだち
 なりける人の松を結びておこせ
 て侍りければ詠める  馬内侍
誰を今日まつとはいはんかくばかり
忘るるなかのねたけなるよに

六条中務親王は村上天皇第七皇子の具平親王です。中務卿で、六条宮とも言われました。寛弘六年七月に四十六歳で亡くなっています。
正月の子(ね)の日に長寿を願って引く小松が「子の日の松」で、それを植えたにもかかわらず親王が亡くなったので詠んだ歌です。あなたが植えた松だけが残りました、いったいこの松はいつの春の子の日に引くものなのでしょうか。
次の歌の最初の部分には「中」と「子」の間に小さな○印があります(この記事では省いてあります)。これは文字を補う意味で、補う文字を右側に書くのです。右側には「ノ」とあって、「中の子」と読ませるようです。その下(この画面では右)に「或」の字が見えます。これは「或る本」のことで、「或る本には『ノ』が入っている」と言っているわけです。馬内侍(斎宮女御徽子女王らに仕えた歌人)が友から松を送られたときに、「今日は中の子の日だとだと知らないのですか」といって松を結んで送ってきたことに対して贈った歌です。「中の子の日だからといって誰を待つというのでしょうか、これほどにあなたが私を忘れてしまった関係になったのが癪に障る世の中なのに」ということでしょう。「まつ」は「松」に「待つ」を掛け、「仲の妬げなる」の中に「中の子」を隠して詠んでいます。

では『源氏物語』に移りましょう。
式部卿宮が亡くなったあと、光源氏はその妹にあたる女五の宮を訪ねました。光源氏三十二歳の秋の終わりです。彼のほんとうの目的は、賀茂斎院を退いて同じ邸に住む朝顔の姫君を訪ねることでした。年をとってくどくどとものを言う女五の宮と話をした後、さりげなく光源氏は朝顔の姫君のところに行きました。若いころから思慕してきたこの女性に対して、今なお恋心を訴える光源氏ですが、姫君は受け入れることはありませんでした。

心やましくて立ち出でたまひぬるは、まして、寝覚めがちに思し続けらる。とく御格子参らせたまひて、朝霧を眺めたまふ。枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれにはひまつはれて、あるかなきかに咲きて、匂ひもことに変はれるを、折らせたまひてたてまつれたまふ。「けざやかなりし御もてなしに、人悪ろき心地しはべりて、うしろでもいとどいかが御覧じけむと、ねたく。されど、
  見し折のつゆ忘られぬ朝顔の
  花の盛りは過ぎやしぬらむ
年ごろの積もりも、あはれとばかりは、さりとも、思し知るらむやとなむ、かつは」など聞こえたまへり。おとなびたる御文の心ばへに、「おぼつかなからむも、見知らぬやうにや」と思し、人びとも御硯とりまかなひて、聞こゆれば、
 「秋果てて霧の籬にむすぼほれ
  あるかなきかに移る朝顔
似つかはしき御よそへにつけても、露けく」とのみあるは、何のをかしきふしもなきを、いかなるにか、置きがたく御覧ずめり。青鈍の紙の、なよびかなる墨つきはしも、をかしく見ゆめり。人の御ほど、書きざまなどに繕はれつつ、その折は罪なきことも、つきづきしくまねびなすには、ほほゆがむこともあめればこそ、さかしらに書き紛らはしつつ、おぼつかなきことも多かりけり。


がっかりしてつらい気持ちになってお立ちになった源氏の君の御心としては、姫君にもまして寝覚めがちにあれこれお考えになっていらっしゃる。朝早くに御格子を上げさせなさって、朝霧をおながめになる。枯れたいくつもの花の中に、朝顔があれこれのものに這いまつわり、はかなげに咲いて、色つやも特に移ろったのを折らせなさって、(朝顔姫君に)差し上げなさる。「とりつく島もないようであったおあしらいに、きまり悪い思いがしまして、私の後ろ姿もどう御覧になったのかと、いっそう妬ましくて。それでも
以前お目にかかったときのけっしてわすれられないあなたの朝のお顔は、この朝顔の花のように盛りを過ぎたのでしょうか
長い年月のうちに積もった私の思いも、かわいそうだといくくらいは、いくらなんでもおわかりくださっているだろうと、一方では(あてにしています)」などと申し上げなさった。いかにも大人らしいお手紙の風情なので、お返事せずに源氏の君の気をもませるようにするのもわきまえがないようではないかとお考えになって、また女房たちも御硯を用意してお返事をお勧め申すので
秋も果てて霧の立ち込める垣根にまとわりついて弱々しくうつろっている朝顔のような私なのです
私に似つかわしいたとえをなさったことにつけても、涙でつゆがちになって」とだけ書かれているのは、とりたてて趣向もないのだが、(源氏の君は)どういうお気持ちなのか、下に置くのもためらわれるようにご覧になるようである。
(手紙というのは)その人の身分や書き方によってとりつくろわれて、その当座はどうということはないことでも、それをもっともらしく伝えようとすると、間違ったこともあるようだから、勝手に書き繕っているので、いいかげんなことも多いのである。


最初の出てくる「心やまし」という言葉は、敗北感をこらえながらつらく思う気持ちを意味します。そのあとに「出でたまひぬるは」とありますが、この「は」は奇妙な表現です。無理に解釈しておきましたが、一節には「よ(夜)」の誤写ではないかとも言われます。光源氏は姫君以上に寝覚めが地のまま夜を明かします。早いうちに格子を上げさせて朝霧をぼんやり眺めています。朝霧を「見る」のではなく「ながめ」ているのですね。「ながめ」の語源は「長目」で、「長い間じっと見る」ということです。すると晩秋ということで、枯れた草花がいろいろ目に入ります。その中に朝顔もありました。朝顔という花はもともとは桔梗のことだったと言われ、のちに大陸から入ってきたムクゲがそう呼ばれるようになり、さらに平安時代にやはり大陸から薬用として渡来した牽牛子(けにごし)の花を称美したのをそう呼んだと言われます。この牽牛子が今の朝顔です。ここでも秋の終わりにかろうじて花をつけている牽牛子の朝顔を言っているのだと思います。いろいろなところに這いまつわっているものの、もう弱々しげにしか咲いていません。光源氏はそれを折って姫君に贈るのです。その歌を読むと、なんとも失礼な言いようではありませんか。かつてあなたと逢った(実際には逢ったことはないはずです)ときの朝の顔(光源氏は彼女の寝起きの顔など見ているはずもないのにわざとそういいます)も今では盛りを過ぎたのでしょうか、あなたもおばさんになりましたね、という感じです。そんないいぐさがあるでしょうか。しかし朝顔の姫君はブチギレするなどということはありません。「おぼつかなからむも」というのは古注釈の『岷江入楚』に「返事なくは源のおほつかなくおほさん也」(返事をしなかったら光源氏がまちどおしくお思いになるだろう)とあるとおりだと思います。姫君は高ぶった表現もせず、自分はたしかに衰えた花である、と言ってのけます。そういう姫君の対応に、光源氏はその返事をしたにおくこともできず見ています。青鈍色の紙を使っているのは、もちろん喪中だからです。
そのあとに語り手(作者)は妙なことを書いています。手紙というのは高貴な人だからという理由で許されることもあるけれど、それを書き伝えようとするとこれはいったいどういうことなのだ、と思われることがある。そこで私(作者)が適当に書き紛らわしてしまうので、はっきりしないこともあるものだ、というのです。光源氏の、無礼ともいえる歌に対する弁護のような、いいわけのような文と言えそうです。「ほほゆがむ」というのは口元がゆがむことで、事実と違った言い方になることを言います。

朝顔1

↑絵入源氏物語 朝顔 手紙を書く光源氏
手元に盛りを過ぎた朝顔の花

立ち返り、今さらに若々しき御文書きなども、似げなきこと、と思せども、なほかく昔よりもて離れぬ御けしきながら、口惜しくて過ぎぬるを思ひつつ、えやむまじくて思さるれば、さらがへりて、まめやかに聞こえたまふ。

昔に返って、今さら若々しいお手紙を書くのも似合わないことだとお思いになるのだが、やはりこのように昔からお避けになるわけではない姫君のなさりようでありながら、不本意なままに過ぎてしまったことを思いつつ、あきらめきれずにいらっしゃるので、また蒸し返して真剣に訴え申し上げなさる。

光源氏は、この歳になって若者のようなことを言うのもどうかと思うのですが、姫君が必ずしも突き放したりはしないので、どうにも諦めきれずに、元の木阿弥で何かと恋心を訴えるのです。「さらがへり」という珍しい言葉がありますが、「更に返る」のことで、「再び元に戻る」というほどの意味です。

東(ひむがし)の対に離れおはして、宣旨(せじ)を迎へつつ語らひたまふ。さぶらふ人びとの、さしもあらぬ際のことをだに、なびきやすなるなどは、過ちもしつべくめできこゆれど、宮は、そのかみだにこよなく思し離れたりしを、今はまして、誰も思ひなかるべき御齢、おぼえにて、はかなき木草につけたる御返りなどの折過ぐさぬも、軽々しくやとりなさるらむ、など、人の物言ひを憚りたまひつつ、うちとけたまふべき御けしきもなければ、古りがたく同じさまなる御心ばへを、世の人に変はり、めづらしくもねたくも思ひきこえたまふ。

東の対に離れていらっしゃって、宣旨をお呼びになってご相談になる。(朝顔の姫君に)お仕えしている女房で、それほどの身分でない男のことでさえなびきやすい者は、過ちも犯してしまいそうなくらい源氏の君をおほめ申し上げるのだが、宮(朝顔)は(まだ若かった)あの当時でさえまったくもって心は離れていたのだから、今はましてどちらも色恋などないような年齢で、世評も高くなって、ちょっとした木草につけての折節の風情を過ごさぬお返事も軽々しく取り沙汰されるだろうか、などと、人の噂をはばかりなさって、打ち解けなさるようなそぶりもないので、源氏の君は、相も変わらず同じようなご気性を、世間の人と違って珍しくも妬ましくもお思い申し上げなさるのである。

光源氏は二条院の東の対に宣旨(朝顔の女房)を呼んで相談します。まさか紫の上のいる西の対に呼ぶわけにはいかないでしょう。姫君の女房で、たいしたこともない男に安易に心を寄せてしまう程度の者は、まして姫君の相手が光源氏ともなると、手引きでもしてしまいそうなくらいなのです。しかし当の姫君が若かりし折からその気になっていませんし、今となっては自分(姫君)も光源氏もお互いにいい歳になってしかも世間の見る目も重いものになってきているので、些細なやりとりですら噂になりかねないと思って、まったく取り付く島もないのです。

世の中に漏り聞こえて、「前斎院をねむごろに聞こえたまへばなむ女五の宮などもよろしく思したなり。似げなからぬ御あはひならむ」など言ひけるを、対の上は伝へ聞きたまひて、しばしは、さりとも、さやうならむこともあらば隔てては思したらじ、と思しけれど、うちつけに目とどめきこえたまふに、御けしきなども例ならずあくがれたるも心憂く、まめまめしく思しなるらむことを、つれなく戯れに言ひなしたまひけむよと、同じ筋にはものしたまへど、おぼえことに昔よりやむごとなく聞こえたまふを、御心など移りなば、はしたなくもあべいかな、年ごろの御もてなしなどは立ち並ぶ方なく、さすがにならひて人に押し消たれむこと、など、人知れず思し嘆かる。

世間に漏れ聞こえて、「(源氏の君が)前斎院に熱心に言い寄られたので、女五の宮も悪くはない話だとお思いになっているそうだ。お似合いでないとは言えないご関係だろう」などと言っていたのを、対の上は人づてにお聞きになってしばらくの間は、いくらなんでもそのようなことがあれば隠し立てはなさるまいとお思いになったのだが、すぐさま注意してご覧になっていると、お振る舞いなどもいつもと違って心ここにあらずといった様子に見えるのもつらくて、真剣に思っていらっしゃることを、そしらぬ顔をして冗談めかしてごまかしなさったのだ、と、あの方(朝顔)も同じ皇族ではいらっしゃるけれど、世間の評判は格別で、昔から大切な方としてお付き合いあさっているので、御心が写ってしまったら、体裁の悪いことになるだろう、年来、私を大事に扱ってくださることについては並ぶ人とてなく、さすがに馴れてしまって、ほかの人に負けるようなことなろうとは、などと人知れずお嘆きになっている。

光源氏が朝顔の姫君に執心であることが噂になって紫の上に伝わりました。物語の中に、しばしば、「世間の噂になったら困る」「世間の取沙汰が恐ろしい」などという言い方が出てきますが、実際にこういうことがあるので侮れないのですね。しかも、女五の宮のお考えまでが噂になっているというのですから、かなり真実味があるように聞こえます。紫の上はさっそく光源氏のようすを中止するのですが、心なしかぼんやりしていて、様子が変なのです。いくら東の対でこっそり宣旨と打ち合わせをしても顔に出るのです。男の浅はかさですかね。紫の上は、朝顔の姫君が世評もすばらしい人であると知っているだけに、自分が気おされてしまうと不安な気持ちになります。

かき絶え名残なきさまにはもてなしたまはずとも、いとものはかなきさまにて見馴れたまへる年ごろの睦び、あなづらはしき方にこそはあらめ、など、さまざまに思ひ乱れたまふに、よろしきことこそ、うち怨じなど憎からず聞こえたまへ、まめやかにつらしと思せば、色にも出だしたまはず。端近う眺めがちに、内裏住みしげくなり、役とは御文を書きたまへば、げに、人の言葉むなしかるまじきなめり。けしきをだにかすめたまへかしと、疎ましくのみ思ひきこえたまふ。
 
すっかり絶えてしまってそれきりというふうなお扱いはなさらないとしても、頼りなげな私の身の上だけに、長年親しんでくださったそのお慈しみゆえに見下げられてしまうのだろう、などとさまざまに思い乱れていらっしゃると、さほどのことでない場合はうらみごとなどをかわいらしげに申し上げたりなさるのだが、このたびは真剣につらいこととお思いになっているので、顔色にもお出しにならない。源氏の君は端近にぼんやりなさっていることが多く、内裏にお泊りになることが頻繁になり、なさることといったらお手紙をお書きになることで、なるほど人の噂はうそではないようだ、それならせめてそぶりにもみせてくださればよいのに、とうとましくばかりお思い申し上げなさる。

紫の上の悩みは深刻です。何と言っても、相手が高貴な人だけに、光源氏がもし正式に結婚すると言い出したら、自分は見下されるようになるのではないか、と思います。しかもその懸念が間違いなさそうなのは、光源氏の行動からも明らかだと思われるのです。そして、それならそうと言ってくれればまだしも、何も言わずに手紙を熱心に書いたり、ぼんやり庭を眺めたりされたのでは自分が軽んじられているように思えて仕方がないのでしょう。明石の君は身分の点では紫の上より格下ですが、光源氏は明石から「こういう人とわりない中になってしまった」と紫の上に告白していました。今回はそういうこともないのです。光源氏にしてみたら、朝顔の姫君とは実際には何事もないわけで、いわば片思いの状態なのですから、そういうことを紫の上に言うわけにはいかない、という感じでしょうか。紫の上の不安はこのあともさらに大きくなることがあり、若菜上・下の巻ではその苦悩がピークに達して命にかかわるような事態も引き起こすことになります。その予兆がここに現れていると言えるでしょう。朝顔の姫君は『源氏物語』の中では主役級とは言えませんが、物語をさらに深化させる役割を担う人物とも言えそうです。

夕つ方、神(かむ)わざなども止まりてさうざうしきに、つれづれと思しあまりて、五の宮に例の近づき参りたまふ。雪うち散りて艶なるたそかれ時に、なつかしきほどに馴れたる御衣どもを、いよいよたきしめたまひて、心ことに化粧(けさう)じ暮らしたまへれば、いとど心弱からむ人はいかがと見えたり。さすがに、まかり申しはた聞こえたまふ。「女五の宮の悩ましくしたまふなるを、訪らひきこえになむ」とて、ついゐたまへれど、見もやりたまはず、若君をもてあそび、紛らはしおはする側目の、ただならぬを、「あやしく御けしきの変はれるべきころかな。罪もなしや。塩焼き衣のあまり目馴れ、見だてなく思さるるにやとて、とだえ置くを、またいかが」など聞こえたまへば、「馴れゆくこそ、げに、憂きこと多かりけれ」とばかりにてうち背きて臥したまへるは、見捨てて出でたまふ道もの憂けれど、宮に御消息聞こえたまひてければ出でたまひぬ。

神事などが中止されて物寂しいある夕方、たいくつだとお思いになるあまり、女五の宮の邸に、例によって近づき参られる。雪が舞って風情豊かなたそがれどきに、やさしげに着なれたお召し物に、いっそう入念にお香をたきしめなさって、格別に身づくろいなさって日をお暮らしになっていたので、すぐに男になびくような者はどうして(なびかないであろう)、というお姿である。そうはいっても、外出のご挨拶は申し上げなさる。「五の宮がご病気がちでいらっしゃるそうなので、お見舞いに」とおっしゃって跪いていらっしゃるが、(紫の上は)目もお向けにならないで、若君をあやしてごまかしていらっしゃる。その横顔がただならぬご様子なので、「ちかごろ妙にご機嫌斜めですね。屈託もないこと。『塩焼衣』のように、あまり見馴れると見栄えがしないとお思いになるのではないかと、絶え間を取っていますのに。またどのように(お考えなのやら)」などと申し上げなさると、「『馴れゆく』というのはなるほどつらいことが多いものです」とだけおっしゃって、あちらを向いて臥していらっしゃるのを見棄ててお出かけになるのもつらいことではあるが、五の宮にお便りを申し上げていたのでお出ましになった。

冒頭に「夕つ方」とありますが、「冬つ方」とするものもあります。「ゆふ」と「ふゆ」の見間違いによる誤写でしょうか。神事が中止になっています。もちろん藤壺が亡くなったからです。それだけに、することがなくて所在ない気持ちの光源氏はまたしても女五の宮を訪ねようとします。「例の」といっていますが、ある程度女五の宮の邸を訪ねる(もちろん朝顔の姫君目当てで)のは習慣的になっていたような書きぶりです。「近づき参り」というのは単に「参り」ではないところが気になりますが、古注釈の『岷江入楚』は「槿(あさがほ)へをとすれたき故に女五宮へまいり給へはちかつきまいりとはおもしろくかきなせり」と言っています。「朝顔の姫君を訪ねたいという気持ちで女五の宮に参上なさるので『近づき参り』とおもしろい表現をしている」ということでしょう。
光源氏の身づくろいは実に入念で、男になびきやすい女であればすぐに参ってしまうであろうほどすばらしいのです。紫の上に後ろめたい気持ちがあるとしても、さすがに外出の挨拶だけはします。「女五の宮がご病気なので」と、またまた白々しいことを言います。そんな要件の者がそこまでおしゃれするわけがないでしょう、と当時の読者は「突っ込み」を入れたかもしれませんね。紫の上は明石の姫君をあやしたりしながら、知らんふりをします。その横顔が尋常でないのです。ちょっと怖いですね。文楽人形の「ガブ」のようなもので、美しい女性が嫉妬すると恐ろしい形相になります。角が生えていたかもしれません。「御けしきの変はれるべきころかな」の「へき」は「つき」の誤写ではないかという説もあります。そうであれば「ご機嫌の悪いことがこの何か月も続きますね」というほどの意味でしょう。次の「罪もなしや」は「あなた(紫の上)はなんと無邪気な方なのでしょう」というほどの意味に解されますが、「私(光源氏)には何の罪もありませんがね」とする説もあります。「塩焼き衣」は源伊行の古注釈『源氏釈』が「須磨のあまの塩焼衣なれゆけばうとくのみこそなりまさりけれ」を引くとしています。慣れ親しんでしまうと段々他人のようになってしまうものだ、というのです。光源氏は、いつもべったりではいけないと思ってわざと離れるようにしているのですよ、とますます苦しい言い訳をしています。紫の上は「馴れゆくは憂き世なればや須磨のあまの塩焼衣間遠なるらむ」(新古今集。恋三・徽子女王)を引いて、夫婦仲なんてつらいばかりなので、海人(あま)が塩を焼くときに着る目の粗い衣のように間遠になってしまうのでしょうか、とぽつりと漏らしてそっぽを向いてしまいます。扱いかねた光源氏は、このまま放っていくのもどんなものかとは思いながら、女五の宮には連絡をしていたのでやはり出ていくことにします。

かかりけることもありける世を、うらなくて過ぐしけるよ、と思ひ続けて、臥したまへり。鈍(に)びたる御衣どもなれど、色合ひ重なり、好ましくなかなか見えて、雪の光にいみじく艶なる御姿を見出だして、まことに離れまさりたまはば、と忍びあへず思さる。御前など忍びやかなる限りして、「内裏(うち)よりほかの歩きは、もの憂きほどになりにけりや。桃園宮の心細きさまにてものしたまふも、式部卿宮に年ごろは譲りきこえつるを、今は頼むなど思しのたまふも、ことわりに、いとほしければ」など、人々にものたまひなせど、「いでや。御好き心の古りがたきぞ、あたら御疵なめる」「軽々しきことも出で来なむ」など、つぶやきあへり。

こういう事も起こる夫婦の仲なのに、うかうかと過ごして来たことよ、と思い続けて臥していらっしゃる。鈍色のお召し物だが、色合いや重ねの具合がかえって好ましく見えて、雪の光に映えて優艶な(光源氏の)お姿を見送って、ほんとうに離れてしまわれたら、とこらえきれないお気持ちでいらっしゃる。前駆などはひそかなお出かけの時の者ばかりで、「内裏に上がる以外の外出は億劫な歳になってしまったよ。桃園宮(女五の宮)が心細げにしていらっしゃるのも、式部卿宮に長年お任せ申し上げてきたが、今は頼りにしているなどとお思いになり、またそうおっしゃるのも道理で、おいたわしいので」などと人々に言いつくろっていらっしゃるが、「さあどうでしょう。好色な御心が相変わらずなのが惜しいことにこの方の欠点のようで」「軽率なことが起こるでしょうよ」などとつぶやき合っている。  

「かかりけること」は光源氏がほかの女性に心を移すことです。紫の上は改めてそういうことはあり得るのだと思い知ります。「うらなくて過ぐしけるよ」は油断していたことだ、という気持ちですが、この言葉はこれまでにも紫の上の気持ちとして用いられたことがあります。かつて光源氏が明石にいたとき、明石の君という人と出会ったことを手紙で正直に紫の上に伝えたことがありました。そのとき紫の上は「うらなくも思ひけるかな契りしを松より波は越えじものぞと」という歌を返事として送ったのです。「松より波は越えじ」は『古今和歌集』の「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」による表現で、浮気心を持つことを「波が松山を越える」というのがこの当時の常識です。そこで、「浮気心は持たない、とお約束しましたのに、うかうかと過ごしてしまいました」と詠んだわけです。光源氏の服装は「鈍びたる」ものですが、これは藤壺の喪に服するためものです。ただし、彼は藤壺とは実の親子でもまして夫婦でもないので「軽服(程度の軽い服喪)」です。しかしその服装がかえって素晴らしく見えるので、それを見送る紫の上としては、これ以上に離れて行ってしまわれたらどうしよう、と悲しみをこらえきれないのです。一方の光源氏は、お供に連れて行くのも大げさにはせずに、女五の宮を訪ねる事情について又いいわけのようなことを言っています。この中で、式部卿宮に女五の宮のことは任せっぱなしにしていたが、あちらから『今後はあなたを頼りにしています』と言われたのだ」という意味のことを言っていますが、どうもあやしいです。なおこのことばは「人々」に言ったものですが、これはお供の人なのか、女房たちなのか、両説あります。お供の者にこんな言い訳をするはずがない、という考えもできるでしょうし、すでに出かけようとしているうえ、従者のことを言った直後にこのことばがあるのだから、女房たちに言うとは取れない、とも思えます。ただ、光源氏が御供の者にこんな言い訳をするはずがないし、「人々」がもしお供の者を指すのであれば、彼らが「相も変わらぬもの好きな方です」「間違いが起きなければいいのですが」などと言うだろうかかと感じられ、その意味ではこの「人々」は女房を指すという見方が強まります。

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初夏の日々 

4月後半から5月、6月にかけての日々は、勉強面ではまずまず充実していました。おおむね「初夏の日々」と言えばいい時期です。何と言っても『源氏物語』の「蓬生」から「朝顔」までの6つの巻を丁寧に読んだことが大きかったのです。これまで、『源氏物語』は何度も通読しているのですが、「明石」巻までは一気に進むのですが、このあたりは何となく斜め読みのようになっていたのです。それをじっくり読めたことはいい勉強になりました。このあとは「少女」「玉鬘」「初音」「胡蝶」と続くのですが、秋以降にでも同じようにじっくり読めればと思っています。
自宅ワークの時から、短歌を詠もうと思うようになって、数はまだ少ないのですが、詠もうという姿勢が

    習慣化

してきたのもよかったと思います。具体的には、いつも手帳を持ち歩いて気になることを書きとめたり、散歩するときは歩くだけでなくできるだけまわりを見るようにしたりするようになりました。これまでにも歌を詠むことはあったのですが、いつも単発で長続きしませんでした。今度は少し違うかもしれません。短歌の雑誌に始めて7首の歌を投稿してみました。
あいにく体調が今ひとつで、十分に歩けなかったのは残念でした。毎日1万歩というのは現実にはなかなか難しいものですね。6月の1か月間は、196,880歩でした。30日ですので、

    1日平均6,563歩

ということになります。1万歩は遥かかなたです。一日の最高が15,578歩、最低は1,707歩でした。5月は平均6,790歩でしたので、平均200歩ばかり少なかったことになります。今月はさらに勉強しつつ、わずかでもいいので多く歩こうと思っています。
できなかったことといえば、創作浄瑠璃に手が付けられなかったことです。いつも頭には置いているのですが、こればかりは集中して書かないとなかなかできるものではないのです。今月から来月にかけての課題にします。

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まだやってるの? 

世界の権力者たちが一斉に自分の立場を守るために汲々としているように見えます。
40代で大統領になったロシアの人は憲法を変えてでも80代までやる気満々(今67歳)。彼が抜群の能力を持っているとしても、長すぎると必ず軋みが生じます。まだやってるの?
中華人民共和国の総書記はこれまた憲法を変えていつまでもその地位にしがみつくつもりのように見えます。まだやってるの?
アメリカの大統領は最近出版された元側近の回顧録によれば、驚くほど

    知性に欠ける人

で、感情に任せて権力を振るう困り者だとか。そして今は次の大統領選挙以外眼中にないような印象を受けます。まだやってるの?
小国ではありますが、北朝鮮は世襲で権力を独占し続けています。民主国家ではありません。まだやってるの?
国家などという大げさなところでなくても、私の周りでも、ルール無視で長く「長」の座に居座っている人を見かけます。まだやってるの?
かつて熊本県知事だった細川護煕氏は

    「権不十年」

と言って知事を辞めました。権力を持つことは十年も続けるものではない、というほどの意味でしょうが、出典は知りません。「権十年腐(権、十年にして腐る)」の方が正しいようにすら感じます。
日本の総理大臣も「まだやってるの?」という感じです。本当かどうかは知りませんが、新聞記事によると最近あの総理大臣はうつろな表情をしばしば見せるのだとか。
もう、ほんとうに早く辞められるべきだと思います。まだやってるの?

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源氏物語「朝顔」(1) 

今日も『後拾遺和歌集』の続きを載せます。
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読み方はまた次回に。

「朝顔」巻は光源氏三十二歳で身分は内大臣です。つまり「薄雲」巻と同じころの話で、主要な登場人物は「朝顔の姫君」「朝顔の斎院」と呼ばれる人です。この人は、「薄雲」巻で亡くなった光源氏の叔父にあたる「式部卿宮」の娘です。つまり彼女は光源氏のいとこにあたるのです。家柄もよく、年恰好もふさわしいので、光源氏の正妻になってもおかしくないような人です。光源氏が十七歳の「帚木」巻で、彼女に朝顔の花と和歌を送ったことが記されており、「葵」巻では「朝顔の姫君」と呼ばれています。朝顔の姫君は、六条御息所が光源氏とうまくいかずに悩んでいるときに自分だけはこうなってはいけない、と思い、光源氏から手紙などが来ても返事もしないのです。警戒心が強く、思慮深い女性です。桐壷院が亡くなった時に、当時賀茂の斎院であった女三宮(桐壷院の三女。後に登場する朱雀院の女三宮とは関係ありません)が退下し、その代わりとして朝顔の姫君が斎院になりました(「賢木」巻)。賀茂の斎院は賀茂神社に仕える未婚の皇女で、近親者が亡くなるとその地位を離れることになるのです。朝顔に対しての光源氏の思いは、拒まれるからこそ強まるものがあり、すでに15年以上慕い続けていることになります。その斎院が、父式部卿が亡くなったことによって斎院を下りることになったのです。

斎院は、御服にて下りゐたまひにきかし。大臣、例の、思しそめつること、絶えぬ御癖にて、御訪らひなどいとしげう聞こえたまふ。宮、わづらはしかりしことを思せば、御返りもうちとけて聞こえたまはず。いと口惜しと思しわたる。
長月になりて、桃園宮に渡りたまひぬるを聞きて、女五の宮のそこにおはすれば、そなたの御訪らひにことづけて参うでたまふ。故院の、この御子たちをば、心ことにやむごとなく思ひきこえたまへりしかば、今も親しく次々に聞こえ交はしたまふめり。同じ寝殿の西東にぞ住みたまひける。ほどもなく荒れにける心地して、あはれにけはひしめやかなり。


斎院は服喪のために退化なさったのですよ。源氏の大臣は、例によって思い初めた人のことは忘れない癖でいらっしゃるので、お見舞いなどをとても頻繁に申し上げなさる。朝顔の宮は面倒であったことをお思いになるとお返事もうちとけて申し上げることはなさらない。源氏の君はとても残念だと思い続けていらっしゃる。
長月になって、桃園宮にお移りになったことを聞いて、女五の宮(桐壷院、式部卿宮、葵の上の母大宮の妹。朝顔の姫君の叔母)がそこにいらっしゃるので、そちらのお見舞いにかこつけて参上なさる。亡き桐壷院がこの御子たち(女五の宮たち)を格別に大切にお思い申し上げなさっていたので、今も親しくご交際なさっているようである。同じ寝殿の西と東に住んでいらっしゃる。式部卿宮が亡くなって間もないころなのに、荒れてしまったような感じがして、悲しいことにその様子はしんみりとしている。


光源氏は一度思い始めたらあとには引かない性格ですから、式部卿宮が亡くなると朝顔の姫君にここぞとばかりにお見舞いの手紙を送ります。しかし朝顔は嫌な思い出もあるのでお返事はおざなりです。九月になると朝顔が桃園宮(式部卿宮の邸。女五の宮も住んでいる)に移ったと聞いた光源氏は、五の宮を見舞うという口実で朝顔を訪ねることにします。例によって抜け目のない人です。二人の女性は寝殿の西と東に住んでいます。

宮、対面したまひて、御物語聞こえたまふ。いと古めきたる御けはひ、しはぶきがちにおはす。このかみにおはすれど、故大殿の宮は、あらまほしく古りがたき御ありさまなるを、もて離れ、声ふつつかに、こちごちしくおぼえたまへるも、さるかたなり。「院の上、隠れたまひてのち、よろづ心細くおぼえはべりつるに、年の積もるままに、いと涙がちにて過ぐしはべるを、この宮さへかくうち捨てたまへれば、いよいよあるかなきかに、とまりはべるを、かく立ち寄りとぶらはせたまふになむ、もの忘れしぬべくはべる」と聞こえたまふ。

女五の宮が対面なさって、お話を申し上げなさる。たいそうお歳を召されたごようすで、咳き込みがちでいらっしゃる。年長でいらっしゃるが、亡き大殿の宮(葵の上の母)は誰しもこうありたいと思われるほど老いを知らないごようすでいらっしゃるのに、この宮はまるで違って声は太くごつごつした感じでいらっしゃるのも、それなりのわけがある(女五の宮は独身で華やかな生活をしてきたわけではない)のである。「(桐壷)院がお隠れになったあと、何かにつけて心細く思われましたが、年を重ねるにつれてひどく涙を流しがちに過ごしておりました。それなのに、この(式部卿)宮までがこのように私をお見捨てになるように先立たれましたので、いっそう生きているのかどうかわからないようすでこの世にとどまっているのですが、こうしてお立ち寄りのうえお見舞いくださいますと悲しみも忘れてしまいそうでございます」と申し上げなさる。

女五の宮は姉の大宮(葵の上の母)とは違って、当時の皇女の常として独身を通し、ひっそりと生きてきた人です。それだけに老いて弱々しくなっています。ゴホゴホと咳き込み、声にも華やかさがなく、くどくどと愚痴っぽいものの言い方をしています。光源氏の心は西隣にいる朝顔の姫君にあるのですが、そんなことはおかまいなしに話しているようです。

かしこくも古りたまへるかな、と思へど、うちかしこまりて、「院隠れたまひてのちは、さまざまにつけて同じ世のやうにもはべらず、おぼえぬ罪に当たりはべりて知らぬ世に惑ひはべりしを、たまたま朝廷(おほやけ)に数(かず)まへられたてまつりては、またとり乱り暇(いとま)なくなどして、年ごろも、参りていにしへの御物語をだに聞こえうけたまはらぬを、いぶせく思ひたまへわたりつつなむ」など聞こえたまふを、「いともいともあさましく、いづ方につけても定めなき世を、同じさまにて見たまへ過ぐす命長さの恨めしきこと多くはべれど、かくて、世に立ち返りたまへる御よろこびになむ、ありし年ごろを見たてまつりさしてましかば、口惜しからましとおぼえはべり」と、うちわななきたまひて、「いときよらにねびまさりたまひにけるかな。童(わらは)にものしたまへりしを見たてまつりそめし時、世にかかる光の出でおはしたることと驚かれはべりしを、時々見たてまつるごとに、ゆゆしくおぼえはべりてなむ。内裏(うち)の上なむ、いとよく似たてまつらせたまへりと、人びと聞こゆるを、さりとも、劣りたまへらむとこそ、推し量りはべれ」と、長々と聞こえたまへば、ことにかくさし向かひて人のほめぬわざかな、とをかしく思す。

もったいないことだが老け込まれたものだ、と思うのだが、恐縮して「院がお隠れになってこのかた、何かにつけて昔と同じ世のようでもございません。思い当たらぬ罪に当たりまして、見知らぬところに流浪いたしましたが、思いがけず朝廷から数に入れていただきまして、そうなりますとまたあれこれと忙しくなったりしましてこの何年かもこちらに参りましてせめて昔のお話だけでも申し上げられず、またお聞かせいただけないのを胸がふさがるように思っておりまして」などと申し上げなさるのに対して「まったくもってあきれるほどどちらを見ても無常の世の中ですが、相も変わらずそんな世を眺めて過ごしている命の長さが恨めしいことが多くございますが、こうしてあなた様が世の中にお戻りになったことのお喜びにつけても、あの何年かを拝見できずに命終わっておりましたら残念だっただろうと思われます」と声を震わせなさって「とてもお美しくご成長なさいましたこと。まだ童でいらっしゃったのを初めて拝見した時、この世にこのような光が出現なさったなんて、と驚かれましたが、折につけて拝見するたびに不吉なまでに美しくなられると思われまして。(冷泉)帝がとてもよく似ていらっしゃると人々が申し上げるのをそうはいってもあなたよりは劣っていらっしゃるだろうと推し量っております」と長々とお話し申し上げなさると、ことさらに、こうやって向き合ってほめるものではないだろうに、と滑稽にお思いになる。

老人の話は長い、というのが相場です。光源氏は無実の罪で官位をはく奪されたことを話題にしながら長らくのご無沙汰のお詫びをすると、あなたは子供のころから光り輝くような人だったなどと、中年の光源氏が鼻白むようなことを言い出します。そして、よく似ているという評判ではあっても、冷泉帝の美しさもあなたにはかなわないだろうとまで言います。光源氏はいくら何でもほめ過ぎだと「をかしく」思うのですが、この「をかし」は現代語の「滑稽」に近いように思います。

「山賤(やまがつ)になりて、いたう思ひくづほれはべりし年ごろののち、こよなく衰へにてはべるものを。内裏(うち)の御容貌(かたち)は、いにしへの世にも並ぶ人なくやとこそ、ありがたく見たてまつりはべれ。あやしき御推し量りになむ」と聞こえたまふ。「時々見たてまつらば、いとどしき命や延びはべらむ。今日は老いも忘れ、憂き世の嘆きみな去りぬる心地なむ」とても、また泣いたまふ。「三の宮うらやましく、さるべき御ゆかり添ひて、親しく見たてまつりたまふを、うらやみはべる。この亡せたまひぬるも、さやうにこそ悔いたまふ折々ありしか」とのたまふにぞ、すこし耳とまりたまふ。「さも、さぶらひ馴れなましかば、今に思ふさまにはべらまし。皆さし放たせたまひて」と、恨めしげにけしきばみきこえたまふ。

「山賤になってひどく鬱屈しておりました年月ののちは格段に衰えましたが。帝のご顔立ちは昔の世にも並ぶ人はなかろうと思われるほどまれに見る美しさと拝見いたします。めっそうもないご推量です」と申し上げなさる。「時々お目にかかれば、いっそう命が伸びることでございましょう。今日は老いも忘れ、つらい世の中の嘆きがすべて去ってしまったような気持ちで」といってまたお泣きになる。「三宮(葵の上の母の大宮のこと。女五の宮の姉)がうらやましく、しかるべきゆかりの方も加わって、親しくお世話申し上げなさっているのをうらやんでおります。このたび亡くなった方もそのように後悔なさる折々があったとか」とおっしゃると、少し耳をお傾けになる。「そのような形でお近づきにしていただいておりましたら、今ごろどんなにか幸せでしょうか。どなたも私をのけものになさって」とうらめしそうに真顔で申し上げなさる。

光源氏が、自分は田舎暮らしで衰えてしまっただけに、冷泉帝のほうがすばらしいですと謙遜すると、女五の宮は「今日はあなたと話せてよかった」と泣きだします。これで終わりかと思うと、彼女はなおも話し続けます。自分の姉である女三宮(葵の上の母)はあなたのような人を婿にして孫(夕霧)まで持って幸せ者だ。亡き式部卿も(あなたを婿にしなかったことを)後悔なさっていましたよ」と言った瞬間、光源氏はそれまで適当に話を聞いていたのに耳がダンボのようになりました。目もキラキラと輝いたことでしょう。式部卿が婿に従っていたということは朝顔の姫君との結婚はまんざら捨てたものではないからです。今からでもなんとかなるかもしれない、という思いが湧いたのでしょう。もし式部卿宮の婿になっていたら今ごろは幸せでしょうに、宮も姫君も私をお嫌いになりまして、と言います。
女五の宮の話はいわゆる「老いの繰り言」で、光源氏はうっとうしい気持ちで聴いていたかもしれません。しかし話がお目当ての朝顔の姫君に移ることで、次の展開が期待されます。

 あなたの御前を見やりたまへば、枯れ枯れなる前栽の心ばへもことに見渡されて、のどやかに眺めたまふらむ御ありさま、容貌(かたち)もいとゆかしくあはれにて、え念じたまはで、「かくさぶらひたるついでを過ぐしはべらむは心ざしなきやうなるを、あなたの御訪らひ聞こゆべかりけり」とて、やがて簀子より渡りたまふ。暗うなりたるほどなれど、鈍色の御簾に、黒き御几帳の透影あはれに、追風(おひかぜ)なまめかしく吹き通し、けはひあらまほし。簀子はかたはらいたければ、南の廂に入れたてまつる。

あちらの御前の庭を見やりなさると、枯れかかった植え込みの風情も格別に見渡されて、のんびりと眺めていらっしゃるであろう方ご様子やお顔立ちも気になって心はしんみりとして、こらえきれずに「こうしておうかがいしましたついでを逃しましては思いやりがないようですから、あちらにもお見舞いを申し上げねばならないのでした」といって、そのまま簀子からお移りになる。暗くなったころではあるが、鈍色の御簾に黒い御几帳が透けて見えるのが心にしみるようで、お香の匂いを送る風が優艶に吹いてきて、その雰囲気はあらまほしいばかりである。簀子では不都合なので、南の廂にお入れ申し上げる。

「あなたの御前」は朝顔の姫君の暮らす寝殿の西側の前のことです。そこに受けられた植物の風情を見ると、それを眺めていらっしゃるはずの姫君の姿までが光源氏のまぶたに浮かんできます。そして、光源氏はついに辛抱しきれずに、「あちらにもご挨拶しなければならないところでした」と、ふと思い出しでもしたかのように言い出して、そそくさと簀子を西へ移っていきます。女五の宮の居所は寝殿の東側ですから、簀子を少し歩けば朝顔の姫君の部屋の前です。父親を亡くした姫君は、当然喪に服していますので、御簾は鈍色で、それを通して(外が暗くなりつつありますから、比較的中が見えやすいのです)黒い几帳も見えます。そのむこうに姫君はいるのでしょう。「追風」は「背後からの風」という意味ですが、こういう場合はたきしめたお香の薫りを漂わせるために起こす風のことです。なお、「追ひ風」は、本来は「負ひ風」であったという説もあります。普通なら簀子にいて女房を介して話しますが、さすがに光源氏の訪問ということで、廂の間に入れられます。

 宣旨、対面して、御消息は聞こゆ。「今さらに若々しき心地する御簾の前かな。神さびにける年月の労(らう)数へられはべるに、今は内外(ないげ)も許させたまひてむとぞ頼みはべりける」とて、飽かず思したり。「ありし世は皆夢に見なして、今なむ覚めてはかなきにやと、思ひたまへ定めがたくはべるに、労などは静かにやと定めきこえさすべうはべらむ」と、聞こえ出だしたまへり。げにこそ定めがたき世なれ、と、はかなきことにつけても思し続けらる。

宣旨が対面してお取り次ぎ申し上げる。「今さら御簾の前に据えられるとは若者になったような気がします。長い年月の間お慕いしてまいりました功労がありますから、自由に御簾の中に出入りさせていただけるだろうとあてにしていたのです」といって不満にお思いである。「昔のことはすべて夢のように思っていて、今、目を覚ましてそのはかなさを感じるのかと自分の心を思い定めにくく存じますが、『労』とおっしゃるのはおだやかに定めるのがよいのでございましょう」とお口になさった。なるほど定めない世ではある、と、源氏の君はちょっとしたことにつけてもつい思い続けておしまいになるのである。

宣旨というのは朝顔の姫君の女房で、おそらく姫君の側近のような人でしょう。「宣旨」は天皇の命令(宣旨)を取り次ぐ女房という意味があり、この人物も斎院として奉仕していた朝顔に天皇の言葉を取り次いでいたのかもしれません。光源氏は「今なお御簾の外に置かれるのは分別のない若者のような扱いですね」と言います。たいていの男はこういうことを言ったのでしょう。次に「神さびにける」とあるのは「古びる」という意味を持つ語で、姫君が最近まで賀茂斎院であったことを念頭に用いられた言葉でしょう。もう長らくあなたを慕ってきたのですから、「内外」をゆるしてほしいと言います。「内外をゆるす」というのは自由に出入りすることを許す」ということです。姫君は、父宮の在世時のことがすべて夢のように思っていて、今それがさめたような気がしてかえってはかなく感じられる、と今の思いを述べます。光源氏が「労」と言っていたことに対してはさりげなくかわしてしまいます。姫君は「定めがたく」(自分では結論付けにくい)と言ったのですが、光源氏はその言葉からつい「定めがたいほど無常の世の中」という意味を連想してしまいます。


 「人知れず神のゆるしを待ちし間に
    ここらつれなき世を過ぐすかな
今は、何のいさめにか、かこたせたまはむとすらむ。なべて、世にわづらはしきことさへはべりしのち、さまざまに思ひたまへ集めしかな。いかで片端をだに」と、あながちに聞こえたまふ。御用意なども、昔よりも今すこしなまめかしきけさへ添ひたまひにけり。さるは、いといたう過ぐしたまへど、御位のほどには合はざめり。
なべて世のあはればかりを問ふからに
    誓ひしことと神やいさめむ
とあれば、「あな心憂。その世の罪は、みな科戸の風にたぐへてき」とのたまふ愛敬も、こよなし。「みそぎを、神はいかがはべりけむ」など、はかなきことを聞こゆるも、まめやかにはいとかたはらいたし。世づかぬ御ありさまは、年月に添へてももの深くのみ引き入りたまひてえ聞こえたまはぬを、見たてまつり悩めり。


「人知れず神がお許しくださるのを待っていた間にあなたに会えないままの長い時を過ごして来たことです。 今はもう何のいさめにかこつけようとなさるのでしょうか。およそ世の中に面倒なことがございまして以来、いろいろな悩みを重ねてきたことです。せめてその一端でも」としいて申し上げなさる。その心配りなども、昔よりはもう少し優美な様子を加えていらっしゃるのであった。それにしても、すっかりお歳はおとりになったが、御位の高さには合わないような若々しさでいらっしゃるようだ。
「ひととおりの世の中の悲しいことだけをおたずねするとしても『誓ったことだから』と神はお諫めになるでしょう」とあるので「なんとつらいことを。あのときの罪はすべて『科戸の風にまかせて祓ってしまいました』とおっしゃるのは魅力も格別である。「禊を神はお受けになったのでしょうか」などとたわいないことを(宣旨が)申し上げるのも、まじめな話、まことにきまり悪いのである。男女の仲にうとくていらっしゃるお人柄で、年月が経つとともに深く引っ込み思案になられて、お返事もなされないのを拝見して心を痛めている。


光源氏が詠んだ「人知れず」の歌の「神のゆるし」については一条兼良の『花鳥余情』が「斎院にては男女の道はゝかりあり退出し給ふを神のゆるしとよみ侍るなり」と注を付けています。斎院にいるときは、男女関係はご法度ですが、退化(斎院を下りること)したら神は許してくれる、というわけです。その神の許しを待っている間に長い年月が経ったといいます。そしてもう今は何の障害もないのだから、せめて須磨退去の苦悩の日々についてなりともお話ししたい、というのです。それに対して朝顔の姫君は「なべて世の」の歌を返します。ごくひととおりのことであっても神はお諫めになるでしょうから、須磨に退去されたときにお見舞いすることも許されなかったというのです。次の光源氏の言葉に言う「科戸(しなと)の風」というのは本来「息(し)な門(と)」で、風が吹きおこるところの意味です。「科戸の風」は単に「風」と言ってしまってもよいのですが、あえてこう言ったのにはわけがあります。何しろ相手がついこのあいだまで斎院だった人ですから、さかんに神に関する言葉が用いられるのです。ここは、「皇御孫の命の調停を始めて、天の下四方の国には罪といふ罪やはあらじと科戸の風の天の八重雲を吹き放つ如くに・・・」(『延喜式』「祝詞」の「六月の晦の大祓」)という祝詞の一節を引いているのです。須磨の時の罪は、科戸の風が空の八重の雲を吹き払うように祓われたのだ、といっているわけです。「みそぎを神は・・」は宣旨のことばでしょう。これは「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかな」(『伊勢物語』65段)を踏まえた言葉です。これは宣旨が勝手に言ったのでしょうが、彼女は今は姫君の言葉の代弁者ですから、このことばも姫君が光源氏に言っているように思われるなら、まじめな話、姫君にとってはきまりわるいことです。

「すきずきしきやうになりぬるを」など、浅はかならずうち嘆きて立ちたまふ。「齢(よはひ)の積もりには、面(おも)なくこそなるわざなりけれ。世に知らぬやつれを、今ぞとだに聞こえさすべくやはもてなしたまひける」とて、出でたまふ名残、所狭(ところせ)きまで、例の聞こえあへり。おほかたの、空もをかしきほどに、木の葉の音なひにつけても、過ぎにしもののあはれとり返しつつ、その折々、をかしくもあはれにも、深く見えたまひし御心ばへなども、思ひ出できこえさす。

「色めいた話になってしまいました」など、深くため息をついて(源氏の君は)お立ちになる。「年を取ると臆面もなくなるものでした。世に類のなき、このやつれた姿をせめて今だけでも恋するものの成り果てた姿と申し上げられるくらいには私を扱ってくださったでしょうか」といって出られた、その名残があたり一面に漂うのを、例によって女房たちはほめあっている。それでなくても空の様子が美しい時節で、木の葉のたてる音につけても、過ぎ去った日々の切ない思い出をよみがえらせて、その折々に赴き深くも心にしみいるようにも心深くお見えになった源氏の君のお人柄などもお思いだし申し上げていらっしゃる。

光源氏は無体なことをするわけでもなく、立ち上がります。「今ぞとだに」というのは、古注によりますと「君が門今ぞ過ぎ行く出でて見よ恋する人のなれる姿を」という『住吉物語』の歌を引くとしています。あなたの家の門を今過ぎていきます。出てきて見てください。恋する男のなれの果ての姿を」という意味で、この場面によく合いますので、おそらくこの引き歌で正しいのでしょう。彼が出ていくとその残り香がたちこめますので、女房たちはいつものようにほめそやします。それでなくても空の様子の美しい晩秋です。朝顔の姫君は、これまでの折につけての光源氏のふるまいを回想しています。これまでのふるまいというのは、たとえば葵の上が亡くなったあとの時雨のころに歌を詠みあったこと(葵巻)、光源氏が雲林院に行ったときに斎院がすぐそばにあるのでやはり歌のやり取りをしたこと(賢木巻)などがあります。

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しんどそう? 

最近、Facebookを見ていると、なんだかみなさんお疲れ気味に感じます。何と言っても記事が減っています。「友だち」が少ないだけ、というわけではないのです。その少ない「友だち」の方々があまり書かれないように思うのです。
かく申す私も、必ずしも元気とは言えません。やはりあの4、5月の憂鬱な日々は思いのほか心身にストレスを与えるものだったように思うのです。
内容も、やはり生活の窮屈さというか、思うに任せぬ日々を書く人が多く、SNSもまた世の中の

    縮図

だと感じます。
世の中の多くの人が今なおマスク姿で出歩いていますので、表情を見ることができません。どこやらのお店のコピーに「マスクの下は笑顔です」というのがありましたが、やはり味気ない感じがします。何だか人間が無機質に見えてしまいます。
こんな情景を見ました。仲のよいママさん友達なのでしょう、若いお母さん世代の人が道で会うと、お互い

    マスクを外して

話し始めたのです。感染云々の理屈から言うと逆ですが、気持ちはとてもよくわかりました。マスクしたままでは失礼な感じで、また、お互いに笑顔で話したいという気持ちがあるのでしょう。しんどい日常がパッと解放されるような喜びを感じて話していらっしゃるのかな、と思いました。
ブラジルの大統領がマスクを付けずに公の場に出るというので裁判所から着用命令を出されたとか。アメリカの大統領もマスク嫌いのようです。やはり責任ある立場の人は、私的な場ではともかく、公的なところでは、実際に効果があるかどうかはともかく、ウイルス問題に挑んでいる姿勢を示すためにも付けた方がいいのかなと思います。会見の時など、必要に応じて外してもいいとは思うのですが。
ふと思ったのですが、日本の総理大臣はアメリカの大統領の下僕のようなものですから、ご主人様に日本のマスクを2枚くらい上げたらどうでしょうか。日米の首脳を自認する二人が揃って同じマスクというのもいいかもしれません。しかし、あの大統領の顔の大きさでは、小さすぎるかもしれませんね。

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花手水 

自分で言うのもどうかと思いますが、私は最近とても信心深くなりました。
六月の末の日曜日、夏越の祓には少し早かったのですが、三十日は都合が悪いため、早めに用意されている茅の輪をくぐりにいきました。
少し前に書きましたように、茅の輪は蘇民将来の伝承があって、小さなものを腰に付ける風習とともに、いつしか茅の輪をくぐるという習慣もできました。人によっては『古今和歌六帖』の「水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶといふなり」を唱えながらくぐるそうです。
私は、この歌の作者には申し訳ないのですが、少し変えて
  水無月の夏越の祓する我は千歳の命延ぶべかりけり
といってくぐってきました。
ところで、この季節、神社にちょっとした工夫があります。
手水鉢に紫陽花の花などを浮かべるところが増えているようなのです。
大阪府池田市の

    久安寺(真言宗)

では先代のご住職のころから池に咲き終える紫陽花を浮かべるようになさっています。いつしか名所のようになって、多くの人が訪れるのだとか。
それと関係があるのかどうかは知りませんが、神社の手水鉢にもおなじようなことをなさるところがあるようです。「花手水(はなちょうず)」というようですね。私が行ったところは、紫陽花だけでなく、というよりは、メインがダリアでした。なぜダリアなのかというと、この町には

    ダリア園

という名所があり、球根の出荷では全国有数なのだとか。そして、その地域から神社に奉納されたものを何日か水に浮かべるようです。もちろんきれいなのですが、根や葉から離れた、言ってみれば、首だけのダリアが諸行無常すら感じさせるようでした。
ナポレオン・ボナパルトの妻であるジョセフィーヌは薔薇が好きだったそうですが、ダリアも大好きで、それが原因でもめ事も起こすくらいでした。ついそんなことを思いながら、手水鉢のダリアを眺めていました。

  御社の水に浮かべる
ジョセフィーヌの愛せし花の終の命か

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義太夫のオンライン講座 

文楽の豊竹藤太夫さんが義太夫節のオンライン講座を始められたそうです。新聞にも紹介され、藤太夫さんの意気込みはすさまじいものとお見受けします。
藤太夫さんが盛んにおっしゃっているのは、オンの使い方、密息の方法。密息というと、中村明一氏の『「密息」で身体(からだ)が変わる』という本があります。
禅でも、武道でも、あるいは書道や茶道をするときも呼吸はとても重要だと思います。
その意味でも、忘れられた日本人の呼吸法―密息―をしっかり学んでみたいですし、オンの使い方は義太夫節のカギになるものなので、自分でもきちんと(というのは無理かもしれませんが)できるようになりたいとは思うのです。
いろいろなところで

    七代目竹本住太夫師匠

が「オンを使う」という言葉をおっしゃったのを、私も何度も何度も聴いたり読んだりしました。これがすべてだ、というのは言い過ぎかもしれませんが、「オン」なくしては、義太夫節は成り立たないのは間違いないでしょう。
そういうことを、画面を通してではあっても、対面で現役の文楽の太夫さんから学べるのは貴重なことだと思います。
藤太夫さんご自身も当然おわかりだと思いますが、人さまに教えると、必ず

    自分の勉強

になります。これは絶対に間違いないことです。藤太夫さんのご活動は、その意味でもとても意義深いものだと思います。ともかくも藤太夫さんにご連絡をすれば、受講の可否はもちろん、受講の仕方もとても丁寧に教えていただけるようです。
このブログで勝手に藤太夫さんの連絡先などを書くわけにはまいりませんが、6月27日付の産経新聞にはメールアドレスも載っていましたし、Facebookで検索する手もあります。
こんなにすてきな講座なのですが、私個人は、家ではZOOMを使うこともできず、まして人さまから話を伺って教えていただくことができない身の上で、あきらめざるを得ません。
興味のある方はどうぞお調べになってください。

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源氏物語「薄雲」(6) 

前回の読み方です。まず1枚目。

河原院にてよみ侍ける
          大江嘉言
さと人のくむたにいまはなかるへし
いはゐのしみつみくさゐにけり

 河原院にて詠み侍りける
          大江嘉言
里人の汲むだに今はなかるべし
石井の清水水草ゐにけり

土地の人が汲むことさえ今はないようだ。石井の清水は水草が生えてしまった。

荒廃した河原院の様子です。河原院は源融(みなもとのとほる)が建てた壮大な別荘です。

次に2枚目。

 おなしところにて松をよみ侍りける
           江侍従
としへたるまつたになくはあさちはら
なにかむかしのしるへならまし
 もとすみはへりけるいゑをものへまか
 りけるにすくとて松のこすゑのみえ
 侍けれはよめる  右衛門北方
としをへてみし人もなきふるさとに
かはらぬまつそあるしならまし

同じ所にて松を詠み侍りける
       江侍従
年経たる松だになくは浅茅原
何か昔のしるべならまし

 もと住み侍りける家をものへまか
 りけるに過ぐとて、松の梢の見え
 侍りければ詠める 
    右衛門(左衛門督)北の方
年を経て見し人もなきふるさとに
変はらぬ松ぞあるじならまし

ひとつめは、赤染衛門の娘の江侍従(父が大江匡衡なので「江」の字が付く)の歌です。詞書にいう「同じ所」はひとつ前の歌の河原院のことです。
長い年月を生きてきた松がなかったらこの荒れたところは何が昔の(河原院の)ゆかりのものであろうか。
やはり河原院の荒廃を詠んでいます。
ふたつめは、以前住んでいた家を、外出の折に通り過ぎて、松の梢が見えたので詠んだ歌。作者は「右衛門北方」とありますが、「左衛門督の北の方」だろうと思われます。
長い年月が経って知った人もいないふるさとでは、昔に変わらぬ松がこの家の主人なのだろう。
以上です。

秋の草木の美しい中で、光源氏に思いがけず恋心を訴えられた斎宮女御でしたが、だからと言って今の立場の彼女がそれを真に受けることなどできるはずもありません。光源氏とて、自分の意思で冷泉帝の女御としたのですから、いまさら無体なこともできません。それでもなお彼女のそばを離れられない光源氏です。何と浅はかな人間なのだといわれてもしかたがないでしょう。しかし人間誰しも弱いもので、理屈で分かっていることでも思うように動けないことがある――それをこの高貴な人物を通して描いているかのようです。
そして光源氏は、斎宮女御に対して明石の姫君への厚情を願ったあと、さらに話を転じて季節の風情を話題にしようとします。

「はかばかしき方の望みはさるものにて、年のうちゆきかはる時々の花紅葉、空のけしきにつけても、心の行くこともしはべりにしがな。春の花の林、秋の野の盛りを、とりどりに人争ひはべりける、そのころのげにと心寄るばかりあらはなる定めこそはべらざなれ。唐土には、春の花の錦に如(し)くものなしと言ひはべめり。やまと言の葉には、秋のあはれを取り立てて思へる、いづれも時々につけて見たまふに、目移りてえこそ花鳥の色をも音(ね)をもわきまへはべらね。狭(せば)き垣根のうちなりとも、その折の心見知るばかり、春の花の木をも植ゑわたし、秋の草をも堀り移して、いたづらなる野辺の虫をもすませて、人に御覧ぜさせむと思ひたまふるを、いづ方にか御心寄せはべるべからむ」と聞こえたまふに、

「そういう実際的な面での望みはそれとして、一年の移り行く折々の花紅葉、空の風情につけても、心の晴れることもしたいものです。春の花の林、秋の野の盛りを、それぞれに人が言い争いをしてきたのでございますが、それについて『なるほど』と賛成できるほどはっきりとした結論はないようでございます。唐土では、春の花の錦に及ぶものはないというようでございます。和歌の言葉では、秋の情趣を格別なものと考えておりますが、どちらもその折その折に見ますと、目移りして、花の色、鳥の声の優劣を区別することなどできません。狭い垣根の中であっても、その折の風情を見知るほどに、春の花の木を広く植え、秋の草をも堀ってきては移し植えて、誰聞くとも知れぬ野辺の虫をも住ませてお目にかけようと思うのですが、あなた様はどちらにお心をお寄せになるのでございましょうか」と申し上げなさると、

「はかばかし」は「いかにも予定されたことが進む感じだ」「順調にできそうなくらい頼りになる」ということなのですが、風流な遊びに対して「実際的、実務的なことに堪能である」という意味にもなります。ここで「はかばかしき方の望み」といっているのは「あなた(女御)が一門を広げてくださるようにという実際的な方面のことへの期待」というほどの意味です。
「年のうちゆきかはる時々の花紅葉‥」という部分については、中世の注釈書の『弄花抄(ろうかしょう)』が「六条院つくるへき心さし也(六条院を作ろうという考えである)」と言っています。そろそろ光源氏の心に人生の後半生を過ごすための壮大な構想が芽生えていると注釈をつけているのです。
「春の花の林、秋の野の盛りを・・」というのは、いわゆる「春秋優劣論」のことで、春と秋はどちらが素晴らしいか、と昔から議論になっていることを言います。「そのころのげに」とあるのは意味が判然としません。「そのことの」「そのろん(論)の」などの間違いでしょうか。「唐土には・・」とあるのは何らかの漢詩によるのでしょうが、よくわかりません。「やまと言の葉には・・」は「春はただ花のひとへに咲くばかりもののあはれは秋ぞまされる」(拾遺集・雑下・よみびと知らず)や「(春はすばらしいけれども)秋山の木の葉を見ては黄葉(もみぢ)をばとりてそしのふ青きをば置きてそなげくそこし恨めし秋山そわれは」(万葉集・巻一・額田王)などを念頭に置くのかもしれません。
いずれにせよ、春と秋のいずれがよいかはそれぞれの好みというものがあるので、優劣を結論づけることはできそうにありません。
そして光源氏は春の花や秋の草や虫を住まわせるところをお目にかけるなら、あなたはどちらを選びますか、と尋ねています。六条院の四季の屋敷の構想が感じられます。

いと聞こえにくきことと思せど、むげに絶えて御いらへ聞こえたまはざらむもうたてあれば、「ましていかが思ひ分きはべらむ。げにいつとなき中に、あやしと聞きし夕べこそ、はかなう消えたまひにし露のよすがにも思ひたまへられぬべけれ」と、しどけなげにのたまひ消つも、いとらうたげなるに、え忍びたまはで、
 「君もさはあはれをかはせ人知れず
わが身にしむる秋の夕風
忍びがたき折々もはべりかし」と聞こえたまふに、いづこの御いらへかはあらむ。 心得ず、と思したる御けしきなり。このついでに、え籠めたまはで、恨みきこえたまふことどもあるべし。


とてもお答え申し上げにくいこと、とお思いになるのだが、すっかりひとこともお返事申し上げなさらないのも本意ではないので、「私などがましていどうして判断などできましょうか。なるほどいつということもございませんが、『あやし』と聞きました秋の夕べこそ、はかなく亡くなりました母とのわずかな縁があるように思われるようでございます」と、無造作におっしゃって言葉を飲み込まれるのも、とてもいじらしいようなので、源氏の君はこらえきれずに、「それならあなたも私と心を交わしてください。人知れず、私の身には秋風が身にしみるのです。こらえきれない折々もございますので」と申し上げなさると、どういうお返事ができようか、わけがわからない、とお思いになっているご様子である。このついでに、源氏の君は胸におさめきれずにお恨み申し上げなさることがあれこれあるようだ。

春秋の議論という昔から答えの出ていないことに、光源氏さえわかりかねるものを自分などが分別できるはずもない、と思うのですが、秋の終わりから冬にかけて病に臥して亡くなった母御息所への恋しさを思うと、「いつとても恋しからずはあらねども秋の夕べはあやしかりけり」(古今集・恋一・よみびと知らず)という歌に重ね合わせて秋に思いがあると言います。しかし彼女は「のたまひ消つ」とあるように、口にしながらすぐに言葉をやめてしまいました。その様子がまた光源氏の心をときめかせて、「君もさは」の歌を詠みます。秋に心を寄せられるなら、私の思いもわかってほしい、とまたしても恋情を訴えます。困惑する女御に対して光源氏はなおもあれこれと訴えています。
なお、ここで女御が秋を好むことを表明したことによって、彼女は後に「秋好中宮」と通称されるようになります。

今すこし、ひがこともしたまひつべけれども、 いとうたてと思いたるもことわりに、わが御心も、若々しうけしからず、と思し返して、うち嘆きたまへるさまのもの深うなまめかしきも、心づきなうぞ思しなりぬる。やをらづつひき入りたまひぬるけしきなれば、「あさましうもうとませたまひぬるかな。まことに心深き人はかくこそあらざなれ。よし、今よりは憎ませたまふなよ。つらからむ」とて渡りたまひぬ。うちしめりたる御匂ひのとまりたるさへうとましく思さる。人々、御格子など参りて、「この御しとねの移り香、言ひ知らぬものかな」「いかでかく取り集め、柳の枝に咲かせたる御ありさまならむ」「ゆゆしう」と聞こえあへり。

もうすこし、誤ったことをなさりそうではあったが、女御がまったくいやなこととお思いになっているのも道理で、ご自身のお気持ちとしても、若い者のようでけしからぬこと、と思い返されて、ため息をついていらっしゃる様子の深みがあってしっとりとしているのだが、女御はそれも不愉快なことと思うようになっていらっしゃる。そっと中にお入りになった様子なので、「あきれるほどお嫌いになったのですね。ほんとうに思慮深い人はこんなふうにはならないそうですが。まあいいでしょう、これからはお憎みになりますな。つらいでしょうから」とおっしゃってその場をお離れになった。女御は、しっとりとした匂いがあとにのこっているのまで、うとましくお思いになる。女房たちは格子などをおろして「この御敷物の移り香は、いいようもないほどすてきなこと」「どうしてこのように何もかもが揃って、『柳の枝に咲かせ』たようなごようすなのでしょう」「不吉なくらい」とお噂申し上げている。

光源氏はあわや無体なことをしでかしそうになるのですが、さすがにあの藤壺と犯した間違いは繰り返すべきでないという思いもあって自制しました。光源氏三十二歳。かろうじて分別もついてきたようです。その光源氏の様子は、はためにはすばらしいのですが、女御の目には不快なものでした。いつまでも若い色男ぶっていても、若い(といっても女御は二十三歳ですが)純情な女の目には中年のいやらしさを感じさせるのでしょうか。女御はそっと奥に入って行きます。光源氏はさすがに自分がもう青年ではないことを思い知らされたでしょうか。それにしても光源氏はここで間違いを起こしていたら、とんでもないことになっていたでしょう。九歳しか歳の違わない養女とはいっても、わが娘です。実の子の冷泉帝の女御でもある人です。六条御息所との約束もあります。
女御の心とはうらはらに、女房たちはあいかわらず光源氏を絶賛しています。このことは、女御の清純派のイメージを浮き彫りにするでしょう。「柳の枝に咲かせ」というのは「梅が香を桜の花ににほはせて柳が枝に咲かせてしかな(梅の芳香を桜の花に漂わせて、それを柳の枝に咲かせたいものです)」(後拾遺集・春上・中原致時)によります。「ゆゆしう」というのはあまりにも美しい人は薄命で不吉だという考えによります。

 対に渡りたまひて、とみにも入りたまはず、いたう眺めて、端近う臥したまへり。燈籠(とうろ)遠くかけて、近く人びとさぶらはせたまひて、物語などせさせたまふ。かうあながちなることに胸ふたがる癖のなほありけるよ、とわが身ながら思し知らる。これはいと似げなきことなり。恐ろしう罪深き方は多うまさりけめど、いにしへの好きは、思ひやりすくなきほどの過ちに仏神も許したまひけむ、と思しさますも、なほ、この道はうしろやすく深き方のまさりけるかな、と思し知られたまふ。

(紫の上の住む)西の対にお渡りになって、すぐにはお入りにならず、じっと物思いをなさって端近に横になっていらっしゃる。燈籠を遠くにかけて近くに女房をすわらせて話などをおさせになる。こんな身勝手なことで胸がいっぱいになる癖がなおもあったのだ、と自分のことながら思い知られなさる。これはまったく不似合いなことなのだ。おそろしく罪深いという意味では上回っていたけれども、昔の好色だったことは思慮の足りない頃のあやまちとして仏神もお許しくださっただろう、と心を静めなさるのも、やはりこの男女の道は危険なことがないように深い思慮が身についてきたことだと思い知られなさるのである。

光源氏は紫の上のところに行くのですが、すぐには中に入れません。たった今、女御にあのようなことを言っただけに、平気な顔をしていられないのでしょう。しかたなく、女房をそばに控えさせて話をさせています。微妙な心理が描かれます。その際は燈籠を近くにはかけさせません。情けない時分の姿や顔色を女房に見られたくないのでしょう。こういうところの細やかな心理が彼の動作として描かれています。自分はこんな年になっているのにまだこんな好色な気持ちを持ってしまうのか、と思い知ります。しかし、もうこういう恋愛は自分には似合わないことで、罪の深かったあの藤壺との逢瀬は若気の至りとして神仏も大目に見てくださろう、と何とか心を落ち着けています。そして、我ながら以前に比べて無茶をしなくなったことだと自覚するのです。

 女御は、秋のあはれを知り顔にいらへ聞こえてけるも、悔(くや)しう恥づかし、と御心ひとつにものむつかしうて、悩ましげにさへしたまふを、いとすくよかにつれなくて、常よりも親がりありきたまふ。女君に、「女御の、秋に心を寄せたまへりしもあはれに、君の、春の曙に心しめたまへるもことわりにこそあれ。時々につけたる木草の花によせても、御心とまるばかりの遊びなどしてしがな」と、「公私(おほやけわたくし)のいとなみしげき身こそふさはしからね、いかで思ふことしてしがな」と、「ただ、御ためさうざうしくやと思ふこそ心苦しけれ」など語らひきこえたまふ。

女御は、秋の情趣を分かったような顔をしてお答え申し上げたのも悔しく恥ずかしいことだとご自分の心の中だけで不快に思われ、ご気分が悪いようにまでしていらっしゃるのだが、源氏の君はまったく平気な様子でそしらぬふうを装って、普段にもまして親のようにふるまっていらっしゃる。女君(紫の上)に「女御が秋に心を寄せていらっしゃったのも情趣深いですが、あなたが春の曙に魅せられていらっしゃるのも道理です。折々につけての木草の花を口実に、あなたの御心が留まるような遊びなどをしたいものです」と、あるいは「公私ともに忙しい身ではうまくいかないのですが、なんとか考えていることを実現したいのです」とか、「ただあなたにとって物足りないのではないかと思うと心苦しいのです」などとお話し申し上げなさる。

女御は、光源氏の問いかけについ秋に心惹かれるようなことを言ってしまったものの、そのために恋歌めいた歌を光源氏に詠まれたことが不快でもありました。そして体の具合まで悪いような気がするのですが、一方の光源氏は何ごともなかったかのようにふるまっています。中年の厚かましさでしょうか。どこおt泣く滑稽な姿でもあります。
そして紫の上に対して、あなたが春の曙に惹かれているのも当然だと言います。紫の上が春の曙に関心があるというのは特にこれまでには書かれていませんでした。しかしここで、秋を好む斎宮と春を好む紫の上を対置して、六条院の構想の基幹部分ができつつあると言えそうです。

山里の人もいかに、など絶えず思しやれど、所狭さのみまさる御身にて渡りたまふこといとかたし。世の中をあぢきなく憂しと思ひ知るけしき、などかさしも思ふべき。心やすく立ち出でておほぞうの住まひはせじと思へるを、おほけなしとは思すものから、いとほしくて、例の不断の御念仏にことつけて渡りたまへり。

山里の人(明石の君)もどうなさっているだろう、などと絶えず思いやっていらっしゃるのだが、窮屈さばかりがまさる身の上でいらして、お出かけになることはとても難しい。二人の関係をつまらなくつらいものだと思い知っている様子だが、どうしてそのように思うのであろうか。気軽に(明石の君が二条院に)出てきてありふれた暮らしはするまいと思っているが、それも思いあがったことだ、とはお思いになるものの、いたわしくて、例によって不断の念仏にことよせてお出かけになった。

明石の君のことも気になる光源氏ですが、帝の後見をする内大臣として窮屈な身の上で、なかなか訪問することはできないのです。明石の君は、自分と光源氏の関係を諦めきっているようなそぶりを見せているのですが、光源氏はどうしてそこまで思う必要があるものか、と感じています。明石の君の心の奥底まではなかなかわからないのでしょう。また、明石の君には二条院に来て暮らせばよいと言っているにもかかわらず、そんなことをして、いかにも囲われた愛人のような形で生きていくのはいやだといわんばかりの態度を示すのも、それは思い上がりというものだろう、と光源氏は考えてしまいます。それでもやはり彼女のことが気の毒な気持ちになるので、「つごもりの日おこなはるべき普賢講、阿弥陀・釈迦の念仏の三昧」(松風巻)にかこつけて光源氏は大堰を訪れました。

住み馴るるままに、いと心すごげなる所のさまに、いと深からざらむことにてだにあはれ添ひぬべし。まして、見たてまつるにつけても、つらかりける御契りのさすがに浅からぬを思ふに、なかなかにて慰めがたきけしきなれば、こしらへかねたまふ。いと木繁(こしげ)き中より、篝火(かがりび)どもの影の、遣水(やりみづ)の螢に見えまがふもをかし。「かかる住まひにしほじまざらましかば、めづらかにおぼえまし」とのたまふに、
「漁(いさ)りせし影忘られぬ篝火は
    身の浮舟や慕ひ来にけむ
思ひこそ、まがへられはべれ」と聞こゆれば、
「浅からぬしたの思ひを知らねばや
なほ篝火の影はさわげる
誰(たれ)憂きもの」と、おし返し恨みたまへる。おほかたもの静かに思さるるころなれば、尊きことどもに御心とまりて、例よりは日ごろ経たまふにや、すこし思ひ紛れけむとぞ。


住み馴れるにつれて、とても寂しげな土地柄なので、さほど深い事情がなくてもわびしさが加わるであろう。まして、源氏の君とお会いするにつけても、つらかった宿縁が、そうはいっても浅からぬものであることを思うとかえって悲しくて慰めがたいようすなので、源氏の君もご機嫌を取りかねていらっしゃる。深く茂った木立の中から篝火の光が遣水の蛍と見間違えるのも風情がある。「もし(明石での)このような住まいに馴れていなかったら、珍しい風景だと思っただろうに」とおっしゃると、「漁をするときの篝火が忘れられないのですが、その篝火は浮舟がここまでついてきたのでしょうか。私の身の憂さがあの時のままであるように。あのときと見間違えてしまいそうです」と申し上げると、「水の浅からぬことを知らない篝火が騒ぐように、浅からぬ私の胸の奥を知らないからだろうか、あなたは心騒いでいるのです。『誰も憂きもの』です。言い返してお恨みになる。およそ物静かにお思いになる時節なので、仏事に御心が留まっていつもより何日か長く経ったであろうか、少しは女君のお悩みもまぎれたことだろう、とやら。

大堰は住み慣れるといっそう寂しさが募り、姫君と別れたというような特殊な事情がなくてもわびしい気持ちになりそうなところです。光源氏と会うと、つらい宿縁ではあったものの姫君を産むという宿縁が浅からぬものであったことを考えると、その姫君のいない今となっては明石の君は悲しみが抑えきれず、光源氏もなかなかなだめることができないでいるのです。明石でこれと同じようなすまいになじんでいなかったらこの景色も珍しく感じられるでしょうね」と二人に共通の思い出を語って慰めようとします。「しほじむ」という語が見えますが、本来は「塩気がしみ込むこと」で、そこから「なじむ」「馴れる」「経験を積む」という意味で用いられるようになりました。「明石」巻で明石入道が詠んだ歌に「世をうみにここらしほじむ身となりてなほこの岸をえこそ離れね(世の中がいやになって長い年月海に近いところで住み慣れて塩気がしみついた身となって、それでもなおこの岸を離れられないように此岸―この俗世―を離れられないのです)」がありますが、そこではまさに「塩」が身に沁み込むという意味が主になっていて、田舎暮らしになじんだという意味をも含ませています。
「漁りせし」の歌は古注釈の『細流抄』が「此歌古来称美の歌也(この歌は古来称賛を受けてきた歌である)」といい、「第四句殊に感あり」とも言っています。「身のうき舟」は「身の憂き」に「浮舟」を掛けています。「浅からぬ」の歌は「篝火の影となる身のわびしきは流れて下に燃ゆるなりけり(篝火の影のようになったわが身のわびしさは、篝火の影が水に流れてその下で燃えているように、つい泣かれて心の中で燃えているのであった)」(古今集・恋一・よみびと知らず)を下敷きにして詠まれています。「思ひ」に「火」を掛けるのは和歌の定石です。「誰憂きもの」は「うたかたも思へば悲し世の中を誰憂きものと知らせそめけむ(かりそめにも考えると悲しいものだ。世の中を誰がつらいものと知らせ始めたのだろうか)」(古今和歌六帖・三)を引きます。ここでは光源氏が明石の君に、誰があなたに世の中をつらいものだと教えたのでしょうか、と言っているのです。光源氏は彼女の哀しみをおもえばこそ、仏事に励むということでしばらく滞在します。こうして、明石の君はいくらか思いが紛れたでしょうか、とこの巻は最後に付け加えています。
「薄雲」巻は明石の君が二条院に行かない気持ちを持っているために、姫君を紫の上のところに移すことから始まっていました。そしてこの巻の結末はまたしても明石の君の寂しい暮らしを描いています。首尾の呼応が感じられます。

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