大声でうそを言う
ナチスの宣伝担当のゲッペルスが言ったとか言わないとか、よくは知りませんが、「嘘も百遍言ったらほんとうになる」というのは真実かもしれません。
私は大阪の知事さんについてはほとんど何も知らなかったのですが、イソジンがどうしたこうした、という話になった時に、あの方のおっしゃることばを少しだけ読みました。その中でとても気になったのが「ある意味」という言葉を多用されることでした。「ある意味効果がある」というような言い回しをされるのです。失礼なことを申しますが、これは政治家としてはダメだと思います。詭弁の得意な安っぽい弁護士、あるいは悪徳弁護士のような表現です。「ある意味効果がある」というのは「効果がある」のかないのかまるでわからない、いいかげんな、自分自身の逃げ道を用意するような表現です。しかし一般的にはこう言われたら「ほとんどの意味では効果はないんだな」と思う人は希少で、「効果がある」というほうに注目するものです。「効果があるらしい、知らんけど」というごまかし言葉にも通ずるだろうと思います。逆に「ある意味効果はない」と言ったとすると、「ほとんどの意味では効果があるんだ」と肯定的に受け止める人は少ないでしょう。
のべつ幕なしに同じ人をテレビに出して同じことを言わせるのも危険なことです。テレビの、いわゆる
コメンテーター
という人は早口できっぱりと断言するタイプの人がうけるので、「そうですねぇ」といってしばらく考え込んでから発言する人など需要はないのではないでしょうか。しかし本当に信頼できる発言をするのはどちらかわかったものではありません。大きな声でギャーギャー言うと「まことしやか」に聞こえることもあるものです。また「・・に決まっています」「当然・・です」「明らかに・・です」などの言い回しを多用する人も私は怪しみます。
政治家とかコメンテーターとか、そういう人でなくても、身の周りにも誰がどう考えても嘘であることがわかるのにギャーギャーと
その場しのぎ
の嘘をいう人がいます。
そういう人間は、おそらくこれまでの人生で何とかその方法で生きてきたために、それがいつでも通用すると思っているのではないでしょうか。私はこういう人間が大嫌いです。もちろん、私自身も自分を守るためにそんなことをしてしまったことがありますが、そのときの私自身にも嫌悪感を抱きます。今はもう決してそういういいかげんなことは言うまいと思います。そして、他人に対しても、以前なら「またこんな見え透いた嘘を言っている」と不平を抱きながらも我慢していたところがあるのですが、今はそういう態度はとらないことにしています。
嘘であることを認めてくれれば、それは許すべきだと思いますが、概してこういう人間は認めません。そういう場合は「あなたの言うことは嘘だ」「詭弁に過ぎない」「言い逃れはやめなさい」と言うことにしたのです。そうすると自分に対しても「いいかげんなことは言うな」という縛りがかかってきますから、「嘘をつかない自分」を磨くこともできます。
もちろん、嘘も方便ということはあります。それは今でも認めます。しかし、方便でない嘘だけは許しがたい、とこれからもギャーギャー(?)言って行こうと思っています。
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野球のボール
大学院生の時、ろくに勉強もせず、ヘタクソな野球チームでときどき試合をしたりしていました。もちろんその時に使っていたのは軟式球(軟球)と呼ばれるボールです。硬式球(硬球)はコルクやゴムを糸で巻いたものに皮を108の縫い目で縫ったものですが、軟式球はゴム製で滑(すべ)らないようにディムプルが表面を覆っています。ボールは大学の娯楽用に貸し出してくれるものを使っていて、当然汚れたり傷んだりしますが、そんなことに文句は言っていられません。我慢して使うほかはないのです。
私は投手をしていましたので、多少の汚れはかまわないのですが、滑るのだけは困りました。直球でも困るのですが、変化球を投げるときなど、滑ったのでは思ったような扱いができないのです。
硬球の場合は縫い目に指をかけて、それによって自在にボールを操るのです。
縫い目(シーム)
にどのように指をかけるかで、同じような投げ方でも微妙な変化が生じます。ファストボール(速い球)でもツーシームとフォーシームでは違い、また、同じツーシームでも握り方によってまた微妙に違うようです。しかしまあ、そういうのは硬球の、レベルの高い人の話です。私などは低レベルの軟球ですから縫い目を模したデコボコをわずかに頼りにするくらいです。それでもカーブ、シュート、フォークは使い分けていました。それらを投げるためにはやはりあのデコボコ、ディムプルが明瞭でないと滑ってしまうのです。
フォークボールを投げる時はボールを挟むようにするので、うまく投げないと落ちないスローボールという、打者にとっては「待ってました」という球になってしまいます。落ちてくれると、逆に素人相手にはかなり有効な球種になるのです。ですから、いつもフォークを投げる時には
落ちろ!
と願いながら投げていました。
プロ野球は年間に30万個のボールを使うと言われています。特に最近は少しでもボールに土がつくとすぐに交換するようになりました。近ごろは落ちる球を多用するので、ワンバウンドすることも多く、そうなるといちいち交換するのです。内野ゴロやヒットが出るとそれも交換です。あそこまでする必要があるのかなと思うのですが。
私は以前1個だけプロの公式球を持っていました。それは西宮球場に行ったとき、加藤さんという阪急ブレーブズの選手が打ったホームランボールを拾うことができたからです。何しろ球場がガラガラですから、外野にいるとけっこうな確率でボールが手に入ったのです。
そのボールももうどこかにいってしまいました。
先日、かつてロッテ・オリオンズで主戦投手として活躍された村田兆治さんが、始球式に登場され、70歳にして山なりではないストレートを投げ込まれたのを映像で見ました。すごいものです。私もまたボールを投げてみたいです。
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- [2020/09/29 00:00]
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江戸落語を知らない(2)
江戸落語を知らないままだった私ですが、唯一と言ってもよいくらい感心した噺家さんというと、当時人気、実力ともに高かった古今亭志ん朝さんでした。話のうまさ、おもしろさもさることながら、この人にはひたすら「粋」を感じていました。粋の塊のような人、といってもよいくらいでした。「そばってぇのはね、つゆにじゃぶじゃぶつけるもんじゃないよ、ちょいとつけたかと思ったらそのままするするっと、おっと、噛んじゃいけねぇんだ、飲み込むようにしてそののどごしを味わうんだよ」などとそばを食べるにも美学のようなものがある、そういう粋を感じたのです。
ただ、どこかとりすましたような感じが強くて、上方の松鶴師や仁鶴師のような
泥臭さ
とは無縁だったような気がしていました。もちろんそれは個性であって、どちらがいいというものではありませんが。
そうやって、相変わらず江戸落語に「ハマる」ことのないまま、私の耳が病気になってしまい、とうとう縁の薄いままに終わってしまいました。
しかし、江戸落語にはすばらしい噺家さんがいらっしゃることはよくわかっています。今もチケットが取りにくいような実力派がいらっしゃるようですし、関西で独演会や上方落語の方との「二人会」などをなさってもよくお客さんが入るようです。
以前、秋田県の
康楽館
という芝居小屋で文楽の上演をするお手伝いをしたとき、技芸員さんらとの懇親会があったのですが、そのとき江戸の某落語家さんが来られていて、ずいぶんお話をしたことがあります。今でも覚えているのは「上方にはどうして人情噺がないんでしょうね」とその方がおっしゃったので、私はつい「その部分は文楽が担っているのかもしれませんね」などと言ってしまったことです。いくらかお話したと言っても、相手は著名人、こちらは無名人(笑)。それきりのご縁だと思っていました。大阪の文楽劇場で一度お姿をお見かけしたことがあるのですが、そのときは声をかけそびれてしまいました。ところが、何年か後にたまたま東京の国立劇場そばの店で隣り合わせたら、なんとその方が「お久しぶりです」といってくださってびっくりしました(実は私は最初その方だとは分からなかったのです)。そして最近またFacebookで出会うことがあり、やはりまだ覚えてくださっていてとてもうれしい気持ちになりました。
私より少し年少のこの人もなかなか実力のある人らしいのですが、ほんとうに江戸落語を知らないままに終わり、今も聴けないことが残念でなりません。
ただ、ひとつ気に食わないことがあります。この方とFacebookでやりとりしたとき、「康楽館で、『上方にはどうして人情噺がないんでしょうね』と申しましたら勘十郎さんが(!)『その部分は文楽が担っているのかもしれませんね』とおっしゃったのが印象に残っています」と言われたのです。それ、勘十郎さんじゃなくて、私です!(笑)
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- [2020/09/28 00:00]
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江戸落語を知らない(1)
子どもの頃から落語が好きで、当時はラジオで演芸番組がかなりありましたのでよく聴いていました。NHKラジオでは現役の噺家さんだけでなく、昔の方、たとえば初代春団治とか五代目松鶴とか、そういう人たちの落語もわりあいに放送されていました。春団治師の「黄金の大黒」とか松鶴師の「天王寺参り」は録音して何度も聴きました。
当時現役だった記憶にある人では三代目染丸、六代目松鶴、三代目米朝、三代目小文枝(のち五代目文枝)、三代目米之助、三代目春団治、四代目文紅、我太呂(のち三代目文我)……みなさん鬼籍に入られました。
ところが私は、江戸落語はさっぱり知りませんでした。
何しろ聴く機会がないのです。稀に聴くことがあるとしても、先代の林家三平さんのようにテレビでお目にかかる方だけ。あの方は落語ではなく話芸ショーのような感じで、とても人気が高かったのですが、私はさっぱりおもしろさがわかりませんでした。またあの頃から「笑点」という番組はありましたが、あの人気コーナーの「大喜利」は、(制作上やむをえないのでしょうが)あまりにも
ヤラセ感
に満ちていて、おもしろいとは思いませんでした。ある上方落語の若手(今ではもうベテラン)の方があの番組に出られたことがあって、それについて大阪のラジオで「完全に仕込みが入ってて、お客さんもサクラみたいなもんです」と暴露されていました。私はちっとも驚きませんでしたし、多くの方もそれを分かったうえで観ていらっしゃるのでしょう。この噺家さんが関西のテレビで同じような大喜利番組の司会をされていたことがあって、これも完全に仕込みがあったのですが、この人は「仕込んでるの、丸わかりでんな」と番組中に言っていました。これが大阪のホンネの物言いなのですね。
ともかく、そういう不幸な出会いでしたので、私の頭には「江戸落語は面白くない」という思い込みができてしまったのです。
結局、高校大学時代も上方一筋。江戸の人はまず聴きませんでした。その後、仕事でしばしば東京に行くようになって、浅草の演芸場とか末広亭とか池袋の演芸場とか国立演芸場などには行ったのですが、これといった人に出会うことがありませんでした。それだけならまだよかったのですが、テレビの人気者が出てこられて、まるできちんと話をせずに
「私は人気者です」
とアピールするだけのような哀しい舞台も観てしまいました。
ただ、これは演者の方に責任を負わせるわけにもいかないのです。何と言っても私の耳が江戸落語になじんでいなかったことが原因だと思うからです。事実、お客さんたちはその方が登場されるとひときわ大きな拍手をされて、とても喜んでいらっしゃいましたから。
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- [2020/09/27 00:00]
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動かない時計
私がまだほんとうに小さいころ、それだけにかろうじて覚えているくらいなのですが、家にあった掛け時計は鳩時計でした。今もアンティークとしてはないわけではないでしょうが、めったに見かけなくなりました。
なにしろ、60分ごとに鳩が出てきては「ポポッ」とその時刻の数だけ(つまり4時なら4回、10時なら10回)鳴いたのです。1時や2時なら「オッ、もうこんな時刻か」と気付かせてくれるので便利なものでしたが、あまりに数が多いとけっこううるさい(笑)ものでした。「文字盤を見たらわかるよ」「いちいち数えてられないよ」と突っ込みを入れたくなるような時計でした。
それ以後も、鳩は鳴きませんが、時刻の数だけ「ボーン」と音を立てるものがあり、同じようにうるさく感じることもありました。
今、私の家にある時計は
からくり時計
なのです。もうかなり前のことですが、うちの娘が英語のスピーチコンテストで賞をもらったことがあり、記念にというので買ったのです。実はたまたま使っていた掛け時計が壊れただけのことなのですが、せっかく買い直すのであれば多少のおあいそも込めて、少し余分にお金を出して時計の裏に彼女の名前と「受賞記念」の金文字を入れてもらったのです。
なにしろ「からくり時計」ですから、00分になると文字盤の下にある
きらきらした人形
が動き出してひとしきり踊って引っ込んでいくのです。
これも最初は面白がっていられるのですが、だんだん面倒になって、いつしかその機能を誰かが止めてしまいました(笑)。私個人は何らうるさくないので気にしないのですが、音のわかる人にはやはりわずらわしいのかもしれません。
ついこの間、この時計を何気なく見たら、秒針が動いていませんでした。電池が切れたのかな、と思って、時刻を見たらなんと正しい時刻を指しているではありませんか。それではたった今電池が切れたのかな、と思って、新しい電池を探して数分後にふたたび見直すと長針は進んでいるではありませんか。どうやら、秒針が動く音までうるさがった誰かが秒針の動きまで止める機能(そんな機能まであるのか?)を使ったようでした。というわけで、何のための「からくり時計」なのかわからなくなっているのです(笑)。
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- [2020/09/26 00:00]
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ストーリーズ
インスタグラムやFacebookの機能の一つに「ストーリーズ」がありますが、どうもいまひとつその面白さがわからないままでした。24時間だけ表示され、そのあとは消えてしまうので、せっかくアップしてももったいないような(笑)気がしていたのです。ストーリーズは上段のよく見える位置に出てきますから、興味がある人はすぐに見ることができます。むしろいつまでも残しておく必要はないものなどはここに載せるといいのかなということは分かるような気がするのです。もちろん、残しておくこともできるわけで、そういう使い方をしている人も見かけます。
しかしこれまでの私の発想では、SNSは日記としての
記録性
を重んじてきたので、画面トップに出るなんて、そんなに目立ちたくない(笑)という気持ちもあったものです。というわけで、ストーリーズという機能は知ってはいたものの、まったく使ってこなかったのです。
この夏、かつて教えた学生さんでフォロー関係にある人がなかなか二枚目の男の子とやたら睦まじくしている写真をストーリーズにあげていました。なんだか悔しくて(笑)、私もいっちょう挑戦してみるかという気になりました。もちろん、(皆さんご存じのとおり)なかなか美しい女性と睦まじくしている写真なんてありませんから、ストーリーズを使うことだけを真似ることにしたのです。
さてどんな使い方をしようかと思ったのですが、私のフォロワーはほとんどがかつて教えた学生さんですから、夏休みならではのものはどうだろうかと思いました。そこで、
夏休み雑学クイズ
を始めたのです。写真の1枚目で問題を出して2枚目で答えを示す。時には3枚目で補足説明をする、という感じです。
たとえば、1枚目に神戸の東遊園地にある歌碑の写真を出して、「この短歌はみなさんも知っている人が詠んだものです、誰でしょう」と文字を加えて、2枚目でその歌碑の作者名の書かれているところの写真を出して「前の皇后の美智子さんです」と答えを書きました。さらに3枚目には「この方は歌集も出されています」といって、実際に歌集の写真を出しました。
ある日は山口県岩国市の錦帯橋近くに置いてある、復元された古い自動車を出して「この自動車の燃料は何でしょう」という問題にしました。正解は「木炭です」ということで、その自動車のボディに書かれている「木炭車」という文字を明示したのです。これを2週間ばかり毎日続けました。
すると、過去も過去、ずいぶん昔の学生さんが、次々に閲覧してくれて、懐かしい気持ちになりました。8月いっぱいで終了したのですが、終わると同時に「おもしろかったです」とメッセージをくれた人が何人かあり、こういうのもかなりうれしいものなのです。
ストーリーズ、なかなか楽しいです。
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- [2020/09/25 00:00]
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もうひとりの松王丸
文楽ファンなら「松王丸」の名を知らない方はいらっしゃいません。『菅原伝授手習鑑』に登場する、四郎九郎(改名して白太夫)の子。梅王丸、桜丸とは三つ子の兄弟。悪人の時平の舎人となったために親兄弟と不仲になります。「車曳」「佐太村」「北嵯峨」「寺子屋」などで活躍しますが、中でも「寺子屋」では、主人を思って苦悩する武部源蔵のもう一つ上を行く苦しみを味わう人物として描かれ、観客の涙を誘います。あまりにも評判の作になったために、増補ものの「松王下屋敷」も書かれました。これは、「北嵯峨」から「寺子屋」の間に松王丸と妻の千代がいかにして菅秀才の身代わりに我が子を立てるに至ったかを、両人の苦悩と小太郎(身代わりになる子)の覚悟などが描かれるものです。
……というようなことは、釈迦に説法。今さらここに書くまでもないことなのです。
ところで、この松王丸と同じように悲劇的な人物として、まったく時代の異なる「もうひとりの松王丸」がいます。
ときは平家専横の頃。平清盛は福原(神戸市)の地に
大輪田の泊
を修築して日宋貿易を盛んにしようと考えました。大輪田の泊はすばらしい港だったのですが、高波などで苦しむこともありました。そこで彼は防波堤の役割をする人工島を造ろうと考えたのです。しかし工事はうまくいきませんでした。そこで、占いを行わせた結果、人柱を建てるとよいということになったのです。清盛は旅人などを捕えて人柱にしようとしました。まったく、権力者のすることと言ったら、目的のためには庶民の命などどうでもいいのですね。いつの時代も変わりません。
そのとき、清盛の小姓であった松王丸という者が、自分が人柱になるからほかの者を巻き添えにしないでほしいと嘆願して、結局この小姓が人柱となって命を落としたのだそうです。
神戸市兵庫区島上に
来迎寺(築島寺)
というお寺があります。この寺は小姓の松王丸を供養するために建てられたと伝わり、境内には彼の供養塔があります。
ついでながら、この寺には清盛の愛妾となったもののやがて忘れられる祇王とその妹の祇女の供養塔もあります。
私が清盛の小姓の松王丸のことを知ったのは今から25年近く前に『名月乗桂木』という新作浄瑠璃を書いた時です。拙作は能勢と尼崎に残る「名月姫」の伝承を下敷きにしているのですが、尼崎に伝わる話になんとこの松王丸が登場するのです。名月姫が能勢家包という人物に連れ去られた後、父の三松国春があちこち探しまわったときに、大輪田の泊の人柱のために捕らえられ、そのことを夢のお告げで知った名月姫が福原まで行くと、松王丸が親子の恩愛に打たれて身代わりになったという話があるのです(能勢の伝承には出てきません)。
この松王丸のことは『名月乗桂木』を書いた時に知ったと申しましたが、実はそれ以前に学生のころ私はここを訪ねたことがあったのです。神戸には清盛関係の遺跡がいくつもありますので、それを訪ねてのことでした。しかし松王丸の記憶はぼんやりしたものになってしまい、『名月乗桂木』のときに再会して調べているうちに「あれ、ここはひょっとして学生時代の・・」ということになったのです。物忘れの激しいのは昔からだったようです。
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- [2020/09/24 00:00]
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昔の口上
「とうざい このところ 義経千本桜 すしやの段 相勤めまする太夫 豊竹咲太夫 三味線 鶴澤燕三 人形出遣いにて相勤めます とうざい とうざい」
と文楽の口上は人形遣いさんが舞台上手で頭巾を着けたままおこなうしきたりになっています。『化競丑満鐘』のときに、舞台の古井戸から顔を出して、また井戸の中に入って行くようなことをなさっていたと思うのですが、基本的には目立たないように袖から出てきてまた去って行きます。
最近はどなたがなさっているのでしょうか。私が認識していた頃はもうかなり前のことで、玉英、文司、勘彌、勘緑というメンバーでした。声にもお人柄が現れていて、なかなか楽しいものでした。
いろいろと失敗談もお聞きしましたが、会場が静まり返るような失敗談をお聞きしたことがあります。住太夫師匠が絶頂期の頃、「相勤めまする太夫、
竹本綱太夫」
と言ってしまったそうです。頭を下げていた住師匠はひっくり返りそうな気持だったでしょう。これくらいの太夫さんになると、口上も少し声を張って「すみーたゆうぅぅぅ」と言いますから、それを堂々と「つなーたゆぅぅぅ」と言われたら、お客さんも拍手していいものかどうか迷われたのではないでしょうか。あとで口上の人形遣いさんがお詫びに行かれたら、「あんなん言われたら語られへんやないか」とおっしゃったとか。
ところでこの口上がどうもアナウンサー的になっているようであのころから気になっていました。
たとえば「よしつね」という場合、大阪の言葉では「よ」を強く言いますが、口上では「つ」を少し上げる発音をする人が多いと思うのです。
昔はどうだったのだろう、と知りたくなりますが、語りのレコードはあっても口上は付きませんからあまりよくわかりません。しかし、「すしや」だったか、何か忘れましたが山城少掾の劇場録音盤のレコードを聴いた時には口上も入っていました。
吉田兵次さん
だったかもしれません。
その発音はまさに大阪言葉でした。「よしつねぇ せんぼんー ざくらぁぁ」と節をつけるような言い方ではなく、淡々とした口調で、「よ」を強く高く言う「よしつね、せんぼんざくら」でした。「とよたけ」も「と」が強かったことを覚えています。「たけもと」なら「た」を強くおっしゃっていたでしょう。今、そういう言い方をするとかえって変な感じがするのかもしれません。大阪弁がしゃべれる人形遣いさんでも、わざわざ共通語イントネーションにしているのかもしれません。
最近のことを知りませんので「今はそんなことないよ」ということならご容赦を。
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- [2020/09/23 00:00]
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2020年9月文楽公演千秋楽
本日、文楽東京公演が千秋楽を迎えます。
これほど公演がつつがなく行われるかどうかが気になったことはありません。
初日と二日目のアクシデントはありましたが、その後は何ごともなく千秋楽を迎えられ、お慶びを申し上げます。
ともかくも、皆様お疲れさまでした。
次の本公演は大阪で、10月31日が初日だそうです。
大阪に無事に文楽が戻ってきますように。
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- [2020/09/22 00:00]
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風が強くて
ずいぶん前の話になりますが、今年の梅雨はほんとうに長かったです。よくもあれだけ降ってくれたものだと思います。九州などの各地で災害も起こりました。ここ何年かの豪雨は恐ろしい被害をもたらしています。
私の住まいのあたりはそれに比べればどうってことはないのですが、それでも短時間に集中的に降って一気に川が増水することはありました。
そして私は今年の梅雨からそれ以後にかけて、
風の強さ
に驚いています。テレビを観ないので話題になっているのかどうかは知らないのですが、私は近年にない(台風は除く)強さだったと思っているのです。
家にいることが多かったですから、風に吹き飛ばされそうになったという実感はありませんが、小さな被害は受けました。植えていたグラジオラスの葉が見事に倒され、引きちぎられてしまったのです。ある朝、植木鉢を見ると、無残な姿になっていました。
私は家の中にいると風の強さがほとんどわかりませんので、被害を予想して外に置いていたものを家の中に
避難させる
という判断もできなかったのです。
かろうじて風の影響を比較的受けにくいところに置いていたものが被害は小さかったのですが、それでも弱ってしまって、花茎が出ませんでした。。今年はグラジオラスの花を観ないままに終わり、さらには新しい球根も小さいままです。
風の影響かどうかはわかりませんが、朝顔の株のひとつが茎があまり伸びず、まったく花をつけないまま秋を迎えました。これもがっかりしていたのですが、なんと、彼岸の入りとともにいくつもの花を咲かせるようになったのです。
「君、彼岸花?」とツッコミを入れたくなるような朝顔が、今盛りです(笑)。
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- [2020/09/21 00:00]
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醜い老人(2)
学生が話していた「困った高齢者」の例でとても印象に残っているのはこんな話です。電車で、「ヘルプマーク」を付けている女子高生が優先座席に座っていると、高齢の男性が「若いのに、なにすわっとんじゃ、どかんかい!」と怒鳴っていたのだそうのです。「席を譲ってほしかったらそう言えばいいのに」と周りの誰もが思っていたことでしょうが、何となく凄みのあるそのオヤジに対して誰も声を掛けず、その女子高生もしかたなく立とうとしたようです。ところが、痛快なことに、私に話をしてくれた学生は「この子、ヘルプマーク付けてるし、しんどそうなん、見たらわかるやろ!」とたしなめた(叱り飛ばした?)そうです。するとその男性は彼女の剣幕に恐れ入ったらしく、ぶつぶつ言いながら隣の車両に逃げて言ったのだとか。
あっぱれじゃ!
長谷川町子さんの漫画に
いじわるばあさん
がありますが、あれは漫画の世界だからこそ愛されるキャラクターなのです。もちろん、年を取るとあのようにわがままで人に対して遠慮会釈なくずけずけとものを言っては行動するおばあさんは実際にいないわけではありません。そこで長谷川さんはそれを誇張しつつ皮肉と漫画ゆえに許される笑いに持って行くところがおもしろいように感じます。「いじわるばあさん」が出現せざるを得ない世の中への諷刺もあるかもしれません。
問題なのは、長谷川さんの「いじわるばあさん」とは違って、傲慢で、人を見下し、暴言を吐き、時として暴力的な行動をとる「生身の人間」だと思います。
遠慮なくいってしまいますが、たとえば、性懲りもなく
副総理大臣
を続けている人を見ていると、あさはかで恥を知らず、どうすればここまで醜くなれるのだろうかと思うほどです。具体例は挙げるまでもないでしょう。あちこちで話題になって、今なお恥をさらし続けているのですから。このかた、本日(9月20日)で80歳だそうです。悲しくも情けなくもなります。
ただ、こういう人を馬鹿にして留飲を下げているだけではいけないので、肝心なのは反面教師とすることです。このようには老いたくないものだという典型を赤裸々なまでに見せてくれるこの方は、私にとってはその意味でたいへん価値ある存在です。ありがとうございます。
昨日今日、こんなことを書いたのは、身の周りでやはり80歳近いとんでもないおばあさんに接する羽目になったからです。世の中にこんな人がいるのかと思うようなずるい人間でした。嘘をつき、暴言を吐き、力のある人にはおもねる、守銭奴でした。
恥というのはさらすものではなく知るものです。
今年の夏は憂鬱なことが続きました。
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- [2020/09/20 00:00]
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醜い老人(1)
歳をとると、若いころのような肌の艶はなくなり、しわやシミが増え、体にハリがなくなり、体力は衰え、髪は抜け、目も耳も遠くなり・・・外面的には醜くなっていきます。「年を取らない」とか「アンチエイジング」とかいったところで、老いているからこそ少しでもそれに抵抗しようとしているだけに思えます。もちろん、アンチエイジングに努力されている方には何ら意趣はありませんので、どうぞ続けて美しくあり続けてください。
しかしいくら努めても限界はあり、それは誰しも同じことなので、悲しむほどの事ではないのです。醜いなりにさっぱりとして「年輪」を感じさせるように老いるのは潔くも見えるものです。
「美しく」か「潔く」か、どちらを取るかと言われたら、今の私は「潔く」を取りたいと思っています。「美しさ」にはもともと縁がありませんから(笑)。
「潔い」というと、高校生の時にヘミングウェイの
『老人と海』
を読んで、潔いまでの誇り高さを感じたことを思い出します。
誇りを持って生きるか、目の前のことに汲々とするあまりに適当なことを言って生きるか。
外面の醜さを潔さに変えるのに大切なのはやはり精神面でしょう。人間ができて誰からも愛されるようになるか、わがままが昂じて嫌われ者になるか。
学生がよくぼやいていました。バイトしていると、見た目はヤンキー風のお兄ちゃんが意外にきちんとしていて、人助けも積極的にするのに、高齢の人で文句ばっかり言っている人が少なくない、と。
最近の言葉でいう
カスハラ
でしょうか。以前、マスクや消毒液、ハンドソープなどが品薄になった時、高齢の女性がまだ開店前なのに店に入って来たとか、倉庫に入って在庫を確かめようとしたとか、それはまあいろいろな人がいるそうです。
もちろん高齢者はそんな不誠実な人ばかりではありません。中には親切でニコニコしていて、学生がレストランでバイトしていてレジを打っていたら「ありがとう」「おいしかったよ」と言ってくれる人もいるそうで、これは何ともほほえましい風景が目に浮かびます。
ただ、世の中にはほんとうに困ったことがあり、困った人がいます。
この夏ほどそれを感じたことはありませんでした。
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- [2020/09/19 00:00]
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木星に恥じないように
この夏、いろいろなことがあって、今さらながら人間不信に陥る思いをしました。その結果、いささか感傷的になることもあり、本日はその残滓のような、ちょっと気取った、かっこつけたようなことを書きます。
月は別とすると、夜空で一番明るく見える星は金星だそうで、最大の明るさはマイナス4.7等だそうです。明けの明星、宵の明星といわれるように、まだ空が明るくても見えることがあります。しかし夜の星となると、地球から見て太陽の反対側にある火星(同・マイナス3.0等)が一番のようです。そして木星(同・マイナス2.9等)もとても明るいのです。恒星で一番明るいのはシリウスですが、それでもマイナス1.46等。火星や木星の明るさがよくわかります。木星は、望遠鏡で見ると縞模様も見えますし、衛星も見えます。
ローマ神話に登場する主神は「ユーピテル」ですが、英語読みにすると
ジュピター
です。そして「ジュピター」には「木星」の意味もあります。この夏に観た木星は、「も・く・せ・い」というおとなしい響きの音ではなく、もっと鋭く輝きを感じさせる「ジュピター」という名にふさわしいものだったように思います。やはり「ジュピター」と称されるモーツァルトの最後のシンフォニー(K551)の輝きでした。
古代中国や古代日本では木星を「歳星」と呼びました。その他、火星は「熒惑(けいこく)」、土星は「鎮星」、金星は「太白」、水星は「辰星」と言いました。それを五行(木火土金水)に当てはめたのが我々の知る呼び名です。
この夏、夜の8時ごろに南側を見ると、私がいた山の中からほとんど目の高さくらいで煌々と輝いていたのが木星でした。目立つなどというレベルではないくらいの明るく鋭い輝きでした。すぐ隣に土星があったのですが、比較にならないほど明るいものでした。
こういうものを見つめていると、なんだか
恥ずかしく
なってきます。私が木星を見ているのではなく、木星に見られているような気持ちになるのです。こちらの姿を見透かされているようです。こういう時に、しっかり自分のしていることを省みて、それでもなお目を背けることなく、星を真正面から見つめられるようでありたいものです。
自分は何も間違っていないように思えても、実際はどうなのか、案外人間は分かっていないものです。特に、年を重ねれば重ねるほど自分を見失う人が多いように見えます。
木星(ジュピター)の煌々たるに真向かひて
やましからずと言ひ切るや我
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- [2020/09/18 00:00]
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ジョコビッチの失格
テニスは、学生の頃、少し遊んだ程度で、もうまったくご無沙汰しています。
あの当時、男子ではビョルン・ボルグ、女子ではクリス・エバートという選手がひいきでした。彼らに共通するのは、どこか求道者のような、あまり感情を露骨に表さないところでした。
大体、私はスポーツ選手に限らずそういう人が好きなのです。
彼らのあと、悪童とあだ名された選手や女子でもやんちゃな感じの選手が出てきて、私はちょっとテニスから興味を失いました。
最近は、相当激しくクレームをつける選手やラケットを叩き壊したり投げつけたりする人も多くなり、これも苦手です。
先だって、ニューヨークで全米オープンが行われ、ハイチ出身の父親と日本人の母親を持つ大坂なおみさんが優勝しました。なおみさんも敗れたアザレンカさんもスピーチはすばらしく、特にアザレンカさんは「また決勝で会いましょう」と、相手を称えつつ自らも鼓舞するように言いました。
無観客での全米でしたが、気持ちのよい結末でした。
その陰で、
ノバク・ジョコビッチ
選手が失格するという出来事がありました。悔し紛れに壁に向かって打ったボールが、ラインジャッジの首を直撃したのです。軽く打っているようでも世界一のジョコビッチの打った硬式球です。シャレを言っている場合ではありませんが、たまらないと思います。
最近のテニス選手では、ロジャー・フェデラーとかラファエル・ナダルなどは紳士的なことで有名ですが、ジョコビッチも非紳士的ということはないと思うのです。それでもやはり、ふとしたはずみにあんなことをしてしまうのですね。
先月ここに書いた、
負けましたの美学
は、やはり私は勝負事には必要なことだと思います。
ジョコビッチ選手は、失格を通告されて、潔く相手の選手や審判に握手を求めて去って行ったように見えました。あの態度はよかったと思います。
そのあとの会見を拒否したことが責められ、罰金も取られていましたが、動顛していたでしょうし、私はこの点についてはさすがに同情しました。
ジョコビッチ選手はしっかり反省して、きっとまた強くなって戻ってくると思っています。
そして、「負けましたの美学」を肚に持って、フェデラー選手やナダル選手に劣らぬ紳士的プレイヤーに成長してくれるとも信じています。
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- [2020/09/17 00:00]
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俤源氏物語(4)
雲の上のような存在の吉井勇氏のなさったお仕事にケチをつけるなどおこがましいにもほどがあります。
ここでは、ケチをつけるということではなく、私がもし『源氏物語』「夕顔」巻を浄瑠璃にするならどうするだろう、ということを考えておきます。
『源氏物語』は有名な古典文学作品ではありますが、だからといって誰もが知っているわけではありません。
その前提をしっかり認識しておく必要があると思います。さもないと、何だかわけのわからない妖怪が出現しただけの話に見えます。「紅葉狩」「一条戻り橋」もそんな感じではありますが、景事に類するものはそれでも成り立つでしょうし、
派手な立ち回り
を、ある程度の時間を使って見せれば面白みはあると思います。しかし、『源氏物語』の場合は、霊が現れるものの、何しろ相手が霊ですから「舟弁慶」のように「うちものわざにて叶ふまじ」というわけで、立ち回りがあるわけではなく、対抗手段は「数珠さらさらと押し揉んで」にあたる惟光の「弦打ち」があるのみです。そのため、一方的に霊が恨み言を言うだけになりかねません。「舟弁慶」はその点、いったん義経が戦いを挑み、そのうえで弁慶が登場します。
そもそも、『源氏物語』「夕顔」巻に出現するあやしい女は
「六条御息所の霊」とはいえない
のですが、浄瑠璃化するときにそのように設定するのはかまわないと思います。しかし、そうなると光源氏はこの霊と戦うわけにはいかない(御息所は敵ではないので)ので最初から刃を向けるわけにはいかないと思います。その意味では、やはり原作のように何ものかわからない怪しいものが出現して光源氏は必死に戦い、そのあとで霊が御息所を思って出現した次第を語るようにもっていくほうが迫力がありはしないか、と思います。それなら、仕込みの時点で「夕顔の家に何やら高貴な人らしき霊が見える」と言っていた阿闍梨と大弐の尼についても形を変える方がいいように思います。そして、御息所の悲哀を訴える言葉はもっとあった方がいい。あえて大胆なことを言うなら、前半の場所は
六条御息所の邸
でもいいと思います。そこで彼女が悩み苦しんでいるのを侍女が見て哀しむ。その侍女は、夕顔のことを「高貴な御方(御息所)を差し置いて、あやしげな女が光源氏を惑わすとはけしからん」と思う。その思いが秋の蛍のような魂と化して夕顔のところに飛んで行くまでを描くのはどうだろうかと思います。
そして後半は道行を捨ててでも、少し長めに、廃院(これは河原院と名付けるならそれでもかまいません。ちなみに、河原院は源融=みなもとのとおる=の邸であったものです)での話にすることもできると思います。長めにと言ったのは、ここで夕顔の哀しみをもっと切々と訴えてもいいと思うからです。「クドキ」の形で身の上話をさせてもいいでしょう。
もし私が吉井勇先生の書生で、先生から「君、こんなのを書いたんだが、何か意見はあるかね」と下問されたら以上のようなことを言って、その結果、先生の怒りを買って破門されるのがオチかもしれませんが。
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- [2020/09/16 00:00]
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俤源氏物語(3)
国立文楽劇場ができた後、『お蝶夫人』『おはん』『春琴抄』などが再演されましたが、あまり評判は芳しくなく、やはりこういう新作物は古典になれそうにはない、と思いました。すぐれた脚本家で浄瑠璃の文章が書ける人というのはなかなかいないものです。
再三上演されてきた昭和の新作というと『瓜子姫とあまんじゃく』『雪狐々姿湖』『夫婦善哉』あたりでしょうか。『ハムレット』『椿姫』などの「赤毛もの」は上演される気配もありません。
では、『俤源氏物語』も、昭和26年の歌舞伎による『源氏物語』ブームを受けたものに過ぎない「失敗作」だったのでしょうか。私のような『源氏物語』大好きという者は一度観てみたいと思うのですが、誰もが『源氏』愛好家であるはずはありませんから、冷静に考えると、今そのままの姿で再演したとしてもどれほど興味を持たれるものかはわかりません。
プログラムによりますと、上演時間は
80分
ほどだったそうで、飽きられることのない短さかな、と思います。
構成としては、前半で高貴な人の生霊がうかがえるという内容を仕込んでおいて、後半は激しい混乱を描く形になっています。道行は「虫」という目に見えないものを次々に描いていきますので、鳴き声を使い分けるなどの工夫をしたのかもしれません。しかし、蟷螂や蓑虫のように、言葉でしか表現できないものもありますから、どんな演出をしたのだろうと気になるところです。
この作品の魅力は何と言っても吉井勇の文章の格調の高さにあるだろうと思います。『源氏物語』の本文を適宜用いながら連ねていく文章は見事で、浄瑠璃作りのまねごとをしている私から見ますと、うらやましい才能だと思います。
ただ、そのすばらしい文章が、芝居としておもしろいものになり得たのかどうか、また、雷の場面の音響や照明がどの程度の効果を実現させたのか、など観た人の
劇評
がないとわかりません。何か批評が残っていないか、気になりながらまだ探してはいません。
また、大弐の尼と阿闍梨の使い方はこれでいいのか、夕顔が亡くなる場面の描き方にもうひと工夫あってもよいのではないか等々、浄瑠璃芝居としての完成度を問題にする場合、おそらく短期間で書いたのでしょうから吉井勇には工夫を凝らす余裕があまりなかったのではないかと想像しています。
こういうことは、70年近く経った今となっては知るすべもないことですが、昔を今になすよしもがな、と思わないではいられません。
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- [2020/09/15 00:00]
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俤源氏物語(2)
新作浄瑠璃については概して専門家はあまり評価しない傾向にあります(『文楽 六代豊竹呂太夫』p181以降にも書きました)。
『俤源氏物語』が上演された公演(昭和26年3月)のプログラムにも、辻部政太郎氏(関西演劇ペンクラブ員)が「新作への努力も、頭から否定はしないが、文楽の人形浄瑠璃のような既に古典として固まつたものに、新作で成功する場合は、稀有のことである。」と述べています。辻部氏はこの『俤源氏物語』についても「それだけでまとまつている抒情的な夕顔の巻の件りを選んだことは賢明であり、いつもの新作物よりは、若干の期待がもてる」と、期待しているようなやはりしていないような書き方をされています。
以下、あらすじを書いておきます。なお、プログラム所載の「床本」では「夕顔の宿の段」を「五條夕顔の宿の段」としています。
夕顔の宿の段
都の五条の町裏に主が誰ともわからないような、夕顔の咲いている住居があります。「降三世、軍荼利夜叉、大威徳、金剛夜叉、なまくさまんだはさらばた」という法の声が聞こえて、光源氏の乳母で隣家に住む大弐尼と阿闍梨が現れます。大弐の尼は、夕顔の侍女である右近に向かって「あやしい気配があり、高貴な人の生霊かと思われるので、修法をおこなった、もう安心なので、夕顔殿のところに通って来る男性には内密になさいませ」と言って、阿闍梨とともに去って行きます。夕顔は物思いをしながら、「いつぞやの夏の夕暮れに、夕顔の花をきっかけにやりとりをした人と、その後枕を交わすようになった。どなたともお名前を明かされないのであの人は妖怪変化ではないか。それでも高貴な人としか思えず、もしこのままお通いが絶えたら、どうやって訪ねていけばいいのだろう」と泣き沈んでいます。
そんなとき、光源氏の家来の惟光がやってきました。惟光は「今夜も殿(光源氏)のおいでです。しかし、何か子細があって、近くの河原院にいらしてほしいとのことです。殿がお待ちです」と誘います。夕顔はこのあとの運命も知らずに出ていくのでした。
道行蟲づくし
秋の虫が鳴く中を光源氏と夕顔は同車して河原院に着きます。
河原院怨霊の段
霧が深々と立ちこめる中、荒れ果てた河原院で光源氏は夕顔と二人きりになります。夕顔は「あなたは間違いなく光源氏の君ですね」と言いつつ、その高貴な人に釣り合わぬわが身を恨めしく思います。しかし光源氏は「今はそなた一人を思っている」と伝え、やがて二人は夢の世界に入って行きます。
そのとき、山颪が吹き、稲妻が光り、雷が鳴ります。灯火が消えると、たいそう美しい高貴な女性の姿が「われこそは六条の御息所の怨霊なり」と言って現れました。嫉妬に燃えて苦しみ、浮気な人を思うと憎らしく腹立たしく、呪いの念が深く、こうなったら鬼とでも蛇とでもなればいい、思い知れ、とばかりに床を踏み鳴らしては荒れ狂います。
しかし、駆け付けた惟光が弦打ち(弓の弦を打って魔性のものを退散させるまじない)をすると執念深い怨霊もやがて消え去りました。
御息所の怨霊に責めさいなまれた夕顔は、息も絶えて倒れています。光源氏は抱き上げて頬をすり寄せ、悲嘆の涙にくれますが、もはやこと切れていました。
侍女の右近が、胸騒ぎがして駆けつけてきました。惟光は右近に、嘆くことなく髪を下ろして夕顔の菩提を弔うように言います。
光源氏は、「このことが世上に伝わったら口さがない京童(きょうわらべ。口さがないことで知られていた)の噂の種になるだろう。そなた(惟光)の兄の阿闍梨が東山に住むと聞くがその人を頼んで野辺の送りをすることにしよう」と言って車を呼び寄せます。こうして夕顔の亡骸は鳥辺野を指して行くのでした。
明日と明後日は、若干の私見を述べます。
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- [2020/09/14 00:00]
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俤源氏物語(1)
作家の舟橋聖一(1904~76)というと『雪夫人絵図』『花の生涯』『絵島生島』などの作品がありますが、昭和二十六年(1951)には歌舞伎で『源氏物語』を脚色するという仕事もなさいました。
この芝居は、九代目市川海老蔵(後の十一代目団十郎)や七代目尾上梅幸らの出演で、大変な人気だったそうです。舟橋さん自身が「戦後あんなに客のはいった芝居は少ないといわれています」(小学館日本古典文学全集『源氏物語 四』月報における阿部秋生氏との対談)と言われるほどです。
松竹は、これなら文楽でもいける、と思ったのでしょうか、翌年三月(一日が初日)に
俤源氏物語(おもかげげんじものがたり)
を上演しています。この公演は大阪文楽会第五回公演で、「竹本綱太夫 竹澤弥七 毎日演劇賞受賞記念」と銘打っておこなわれました。綱・弥七は「城木屋」と後述する「河原院怨霊」を語っています。
ついでにこの時の公演情報を書き添えておきます。第一部(『祇園祭禮信仰記』「金閣寺」、『恋娘昔八丈』「才三勘当」「城木屋」「鈴ヶ森」、『安宅関』「勧進帳」)と第二部(『俤源氏物語』「夕顔の宿」「道行」「河原院怨霊」、『源平布引滝』「実盛物語」、『碁太平記白石噺』「吉原揚屋」)は十二日から昼夜入れ替えでした。一等席はすべて税込みで300円、二等席150円、三等席100円、一幕券50円でした。ただし、初日に限り、一部の料金(例えば一等席なら300円)で
通しを観ることができた
そうです。
さて、『俤源氏物語』は、吉井勇作、西亭(野澤松之輔)作曲・演出、山村若振付、大塚克三装置で筝曲は菊原初子社中でした。タイトルは厳密に言うと『俤源氏物語 夕顔の巻』で、「夕顔の宿の段」「夕顔光源氏道行 蟲づくし」「河原院怨霊の段」から成っています。演者も記しておきます。
夕顔の宿の段
竹本南部太夫
豊澤 広助
道行蟲づくし
豊竹 松太夫
豊竹 宮太夫
竹本織の太夫
竹本織部太夫
野澤 松之輔
野澤 八造
野澤 錦糸
鶴澤 寛弘
豊澤 新三郎
河原院怨霊の段
切 竹本 綱太夫
竹澤 弥七
八雲 鶴澤 寛弘
(人形)
光源氏 吉田 玉助
夕顔 吉田 栄三
六条御息所怨霊 吉田玉五郎
惟光 吉田 玉男
下家司 吉田 兵次
阿闍梨 吉田 登一
右近 吉田 光次
牛飼童子 吉田 光枝
大弐尼 桐竹紋太郎
随身 大ぜい
という人たちです。
内容は、『源氏物語』をご存じの方ならおよそ想像していただけると思うのですが、光源氏と夕顔が「なにがしの院」(文楽では「河原院」)にでかけたとき、何者かわからない(文楽では「六条御息所」)霊のようなものが現れて夕顔が頓死してしまうという場面です。
このあと3日間、もう少し詳しく書きます。
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- [2020/09/13 00:00]
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美人なんて面の皮一枚(2)
『源氏物語』の末摘花の姫君はもともと親王のお嬢様です。父親は常陸宮と呼ばれた人で、おそらく常陸の大守であったのでしょう。ところが早くに亡くなって、そうなると残された姫君は母方を頼るほかはないのですが、その母方にも恵まれない場合(母が亡くなって、親戚が冷淡であるなど)は、零落することがあったのです。この姫君はまさにそれで、光源氏はそういう姫君の中にこの上なく魅力的な人がいるという、シンデレラを期待する気持ちで接していたのです。ところが逢い始めたときからどうも違和感があるのです。当時の男性は夜に女性の家を訪ねて暁ごろ(夜明け前のまだ暗い時間帯)に帰りますので、共に過ごしてもろくに顔も姿も見えないのです。聴覚や嗅覚で感じることもあるでしょうが、触覚、つまり手触りがその人を一番よく感じさせてくれるのです。
髪の美しさや豊かさ
は、手触りである程度わかります。末摘花は、髪はとても豊かで長く、その抜け毛は「かもじ」にすれば欲しがる人がいるくらいです。
ところがその手触りで、光源氏はなんだか異様な感じを持っていました。座っている彼女に触れるとずいぶん大きいのです。横になるとさほどでもない。つまりかなりの胴長なのです。そういうことが、ほかの女性では感じられないこととして記憶に残っていたのです。
雪の朝、光源氏はどうしても彼女の姿を見ようとして、少し出ていらっしゃい、と簀子(縁側)近くに誘い出し、雪明りでその姿を見てしまいます。たかが面の皮一枚といっても、まだ十八歳(今の高校2年生の年齢)の光源氏はかなりのショックを受けたのです。
このあと、光源氏は自分の邸に帰って、最近連れてきたばかりのまだ幼い若紫(のちの紫の上)と戯れる時に、末摘花の容貌をからかうようなこともします。まだ人の
上っ面
しか見ることのできない、頼りない若い男そのものです。
しかし、作者は決してこの女性をからかい続けるのではありません。彼女が気の毒でいたわしい女性だ、というのはよくわかっているのです。後に光源氏がこの女性と再会する「蓬生」巻では、彼も二十九歳になっていて、ものの見方が変わっています。この十年ほどの間に、須磨、明石に流謫の日々を送るなどの人生を経験して、人を見る目も成長しています。そして、苦労をし続けた末摘花も精神的に強くなっています。「蓬生」巻での末摘花は、相変わらず美貌ではないでしょう。しかし精神的にすっかり大人になった二人の関係は、新たな道を進むことになります。光源氏はこの人を見棄てたりはせず、自分の屋敷の隣に建てた立派な家に彼女の居場所を設けて安定した生活を約束するのです。
『源氏物語』はうわついた色恋の話に終始するのではありません。むしろ、そういうことをとおして、人間はどのように苦しみ、楽しみ、ダメになり、あるいは成長していくのかが無限の巻物のように描かれていきます。
おもしろいです。
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- [2020/09/12 00:00]
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美人なんて面の皮一枚(1)
容貌で人を判断してはいけないというのは、私も絶対にそのとおりだと思います。それでもなお美男美女に対する無条件の憧れは人を惑わせることがあります。私が最近書いた「異聞片葉葦」という短い浄瑠璃に、姉の美貌にコンプレックスを持つ妹が「何さ、美人だの何だのったって、そんなの面(つら)の皮一枚のことじゃないか」というせりふがあります。これを書いていて、しみじみこの妹に共感してしまいました(笑)。映画俳優ならともかく、「面の皮一枚」なんかで評価されたくないと感じることは、私もしばしばあります。
十一世紀に書かれた藤原明衡の
『新猿楽記』
に、猿楽見物に出かけた右衛門尉一家の十三女がいかに不美人であるかを描く一節があります。いわく、
髪は乱れて額が狭く、
歯が見えていてあごが長く、
耳が垂れていて頬が高く、
頬から下は痩せこけて、
歯には隙間があって舌の動きが悪く、
鼻筋が曲がっていて鼻が詰まったように話す。
背骨が湾曲して鳩胸で、
腹が蛙のように出ている。
首が短く背は高く、
手は熊手のようで
足は柄(え)を取った鍬のように
平たくて大きい・・
と、よくもまあ、これだけ悪く書いたものです。
ただ、どういうわけか、目の大きさや形には言及がありません。このあたりの美意識は現代人とは異なるといえるかもしれません。
『源氏物語』
「末摘花」巻には、末摘花と呼ばれる女性の容貌について、
座高が高く胴長で、
何より醜いのはその鼻。
普賢菩薩の乗り物、すなわち象のようだ。
あきれるほど高くて、
長く伸びて先端が垂れて色がついている。
顔色は雪にも劣らぬ白さで真っ青に見え、
額が広くしもぶくれの顔は
気味が悪いほどの面長らしい。
痩せていることといったら気の毒なほどで、
骨ばって、肩の骨が衣の上まで透けて見える。
と、これまたさんざんに描写されます。芥川龍之介『鼻』の禅智内供は五六寸の長さがあったそうで、さすがにそこまでではありませんが、「普賢菩薩の乗り物」とは読者の爆笑を誘ったことでしょう。人の容貌を笑うとはけしからん、というのはそのとおりです。だからこそ、こういう虚構の世界で思い切って誇張された場面を笑うのは許されてもいいのではないかと思います。いや、許すも何も、おそらく当時の読者は「気の毒なお姫様だ」と同情するのではなく、膝を叩いて笑ったものと私は想像しています。
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苦手な食べ物
私は味音痴で、給食も質より量でしたから、あまり好きなものはありませんでした。
少し下の世代の人に聞いたところではカレーライス、ハンバーグを挙げる人がいました。私のときはそんなものはありませんでしたから、うらやましいです。鯨の竜田揚げという人も少なからずありました。
私が苦手だったのはすでに書きましたように餃子と脱脂粉乳ですが、それでふと思い出しました。
以前にも似たようなことを書いた気がするのですが、物忘れをいいことにまた書きます。
私は今でも食べ物を残すことを潔しとしませんので、多少お腹がいっぱいになっても、残っているものがあると浚えてしまおうという気持ちになります。あさましい、いじましい、と思われるかもしれませんが、やはり「もったいない」という意識が強いのです。食べれば栄養、捨てればゴミ。
学生がレストランでバイトしているときの話を聞いたことがあります。今のような世の中の状況ではありませんから、インバウンドの方々がしばしば来られたそうです。そこで困るのが、食べ残しの多さ。中国の人はたくさん注文して食べ残すことをよしとするそうですが、これがバイト店員さんにとっては奇妙に見えてしまうのです。何しろ注文したまま手つかずで残される場合もあるのだそうです。「残すんやったらはじめから
注文せんかったらええのに」
と何人もの学生さんが言っていました。
私はいつもそういう学生さんには「そんな時は私を呼んでくれたらきれいに片づけてあげますよ(笑)」と言っていました。
では私は好き嫌いがなくて何でも食べるのかというと、実はそうではないのです。肉類はあまり好きではありませんが、特に鶏肉は一切食べません(臭みと見た目がどうにも・・・)。野菜では茄子が苦手です。かつてはブロッコリーもダメでした(今は何ともありません)。
ただ、そんなわがままが許されないことがあります。入院した時の病院食です。メインディッシュに鶏のから揚げなどが出てきた場合、まさかそれを残してご飯とみそ汁で済ますわけにはいかないのです。そんなことをしたら、おなかが減って仕方がありません。そこでしかたなくこれまた飲み込むようにして食べるのです。
もっとも苦手なのは
ロールキャベツ
です。こればかりは、メインディッシュに出てきたら泣くほかはありません。どうしても食べられないので、かつて給食で初めて餃子に出会ったときのように、箸で切り刻むようにして、原形をとどめず、味も何だかわからないようにして食べるのです。せっかく栄養士さんが一生懸命調理してくださったものなのに、申し訳ないことこの上ないのです。
キャベツは好き、ひき肉も特にダメではありません。でもロールキャベツになるとまるでダメなのです。
病院食も給食のひとつ。給食への思いはさまざまです。
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給食(2)
私が給食を食べ始めたころは、パンといっても「コッペパン」または「食パン」で、それに小さなマーガリンやジャムが付いていました。コッペパンは堅いですから、手でちぎって必死に噛み砕いていました。食パンも安っぽくて、当世流行の「ふわふわもちもち」なんて夢のような話です。紙パックの牛乳は、当初「テトラパック」という、三角錐の形をしたものでしたが、中学校ではすべて瓶入りになっていました。おかずは大きなバケツに入れられた八宝菜とかカレーシチューとか煮物とか。これも当番がひとりずつのアルミ食器に入れていくのです。それにときどきバナナ半分(笑)など、何らかのデザートのようなものが付いていた気がします(全部あやふやな記憶です)。
小学校高学年のころのぼんやりした記憶なのですが、1か月の給食費が
700円~800円
くらいではなかったか思うのです。月曜から金曜まで食べますから、だいたい20日間。ということは1日あたり40円くらいだったことになります。今は大体月額4000円くらいだそうで、月額700円~800円だったという私の記憶が間違っていなければ5倍くらいになっているということです。
私の時代はすべてパンでしたが、その後、米飯による給食が始まってカレーライスなども可能になったようで、あと何年か遅く生まれていたら楽しみは増していただろうと思います。
私は、今でもそうなのですが、食べ物を残すという習慣がなく、多少苦手なものでも食べました。ところがたったひとつ、食べられなかったものがあります。
それは
餃子
なのです。家ではそんなものを食べたことがなかったので、ポンと置かれた、カチカチのにおいがきつくて冷えた「謎の塊」を初めて口に入れたとき、いや、その直前に鼻の近くに持って行ったとき、「なんだ、これは!」と思いました。そして口に入れてみると、とても食べられたものではありませんでした。それでも、原則的に「出されたものは残してはいけない」という学校のルールがありました(今よりもはるかに「もったいない」という意識の強い頃でしたから)ので、小さく刻んで無理やりに流し込んだ覚えがあります。「脱脂粉乳で流し込む餃子」というのはちょっとした地獄でした。それ以後、馴れるかなと思ったのですが、やはりダメで、とうとう私にとっては唯一食べ残しをするものになってしまったのです(食べ残したら家に持って帰れと言われ、しかたなく餃子を持って帰ったことがあります)。
のちに成長して、「餃子を食べよう」と言われたとき、何しろトラウマがありますから、あんなまずいものは御免蒙りたいと思ったのです。ところが無理やりに目の前に出された餃子は温かくやわらかで臭みもなく、私の知っているそれとはまるで違うものでした。それ以後、餃子は大好物ですが、あの小学校時代の餃子というのはなんだったのだろうと思います。
脱脂粉乳と餃子、どちらも強烈なにおいが私の記憶にはあります。給食は安くて栄養価も高いのでしょうが、苦い思い出もあるのです。
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給食(1)
突然思い出したようにこんなことを書くのですが、たまたま仕事がらみで『子ども白書』(日本子どもを守る会)の学校給食について書かれた短い文を読む必要がありました。「なんでまたそんなものを読むのか」と言われそうですが、「いろいろあるのです」としか申し上げようがありません。
まったく知らなかったのですが、学校給食というのは何と明治時代に起源があるのだそうです。明治二十二年(1889)山形県鶴岡町の小学校で、貧困家庭のために無料で
米の飯
を提供したのが元祖だそうです。おにぎり二つと干し魚と野菜だったと言われます。たしかにこれも給食と言えば給食ですが、これはあくまで「歴史をたどれば給食と言える」ということであって、我々に馴染みのある、学校で全員が同じものを食べる形の本格的な給食は、ずっと後のことになります。
第二次大戦後の、世の中がまだ貧しかったであろう昭和二十四年(1949)、ユニセフから脱脂粉乳が、翌年アメリカから大量の小麦粉が贈られたのだそうで、これによってパンと牛乳という給食が始まったようです。ところが昭和二十六年(1951)の日米講和条約のあと、アメリカからの支援がなくなり、給食は中断。しかし昭和二十九年(1954)には
学校給食法
ができ、今に続いている給食が始まりました(すべて読んで知ったことです)。
私の「給食時代」はいくら何でも戦後の貧しい時期ではありませんからユニセフは関係ないと思うのですが、それでもあのまずい脱脂粉乳の洗礼を受けています。文字通り、牛乳から脂肪を除いたものを乾燥、粉末化したものです。
あれは本当に臭くて、どうしてこんなにまずいものを飲まされなければならないのかと我慢して飲んだものです。たしか、大きなポット状のものにクラスの人数分の脱脂粉乳が入っていて、それを「給食当番」がアルミ食器に注いでいくのです。当然、こぼすこともあります。そんな場合、早く拭き取らないとにおいがあとまで残ってしまいます。飲むときにも、うっかりこぼすと机にしみ込んだり、服やビニールシート(初期の給食ではトレーなんてなくて、各自がビニールシートを敷いたのです)が汚れたりしました。のちに紙パックや瓶の牛乳になった時は本当に嬉しかったです。
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深川江戸資料館
今年の2月に東京に行ったとき、行きたかったのに行けなかったところがいくつかありました。三菱一号館美術館、出光美術館、江戸東京博物館などがそれですが、江東区白河にある深川江戸資料館にも行けませんでした。
同じ江東区の隣町である清澄(きよすみ)の錣山部屋や大嶽部屋の前は通った(笑)のですが、夕方でしたので、もう一歩のところで資料館には行けなかったのです。江戸時代のものについては江戸東京博物館には何度も行っていますのでいくらか学んではいるのですが、深川のものはまた違う魅力があるでしょうから、行ってみたかったです。
実は、私はこの資料館についての知識はなかったのです。ところが、ここで
野澤松也師匠
が演奏をされているというのをちらっと聞いていたものですから、興味が湧いたというのがほんとうのところなのです。
なんでもここには、火の見櫓とか屋台の蕎麦屋などが置いてあるのだそうで、そんな江戸情緒豊かな雰囲気の中で創作浄瑠璃を語っていらっしゃったのです。これまでは、私が書いたものではない「本所七不思議」の中の「置いてけ堀」「片葉の葦」を語っていらっしゃるようで、今年が三年目だそうです。そのうち、私の作品も語ってほしいな、と思っていたのですが、やっと順番が回って来たみたいです!
今年は
無灯蕎麦屋(あかりなしそばや)
を語ってくださることになったのです。ところが、例のウイルスの問題で見学者を入れることはできないとのことでした。このあたりのことについては以前もいくらかここに書きました。そして、松也師匠の語りを撮影して何らかの形で配信されるようだ、ということも申しました。
ただ、そのときは具体的にどういう形で配信されるのかが分かっていませんでしたので、改めてここで申し上げます。8月の半ばに収録されたそうで、それをいくらか編集されたうえで
YouTube
の、深川江戸資料館のチャンネルで今月初めから公開されています。
このお話はタヌキと人間の交流の話で、住む場所を奪われて食べ物にも苦労するようになったタヌキの母子が蕎麦屋のおやじと親しくなるという話です。
もしお目に留まるようでしたらぜひご覧ください。
https://youtu.be/rkLcodg9kSE
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- [2020/09/07 00:00]
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宿題はひとまず
先日、ひとつ原稿を出しました。これでこの夏、自分に課していた宿題は終わりました。ただ、「自由研究」ともいうべきものは残されたままです。早い話が、創作浄瑠璃です。
今、頭の中にあるのは『(タイトル未定)』「佐波川の段」と『異聞おくり提灯』です。
前者は平氏による焼き討ちにあった東大寺大仏殿の再建のために今の山口県で奔走する重源を軸に、架空の人物3人を配して、材木をいかだとして佐波川を下す話です。まだ手探り状態ですが、ヒーローの奇跡を描くような時代ものではなく、あくまで世話、
庶民の話
として作ってみたいと思っています。
後者は、例によって野澤松也師匠に作曲していただけるように書くものです。今回は亡夫を慕う老婆(といっても五十代を想定しています)を主人公にして、亡夫の霊を登場させて、「老女の恋心」を描いてみたいと思っています。老女になったことがありません(笑)から、その気持ちはわかりませんが、何とか近づいてみたいと思っています。舞台は江戸本所の大横川。ときは七夕の夜で、織女(「こと座」の一等星ベガ)と牽牛(「わし座」の一等星アルタイル)をこの老女と亡夫になぞらえるつもりですが、実は一番重要な星は「はくちょう座」の
アルビレオ
なのです。
この星については最近書きましたが、青と黄色の美しい二重星です。望遠鏡で見ると陶然とするような美しさを感じることができます。これを素材にして作りたいと思っています。
これらは楽しい仕事(?)ですが、憂鬱な仕事も待っています。しかし憂鬱な方は小銭稼ぎになります(笑)ので、これはこれで頑張ります。
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2020年9月文楽公演初日
東京では今年の2月以来、文楽の公演はありませんでした。7か月ぶりの舞台です。
もっとも、大阪では1月が最後で次は11月ですからさらに長い間ご無沙汰なのですが。
本日は東京公演初日です。
さまざまな文化的な催しが厳しい状況に置かれていますが、文楽ももちろん例外ではありません。
なんと、この公演は4部構成だそうです。
ともかくも、無事に千秋楽を迎えられますように願っています。
演目は次の通り。
第一部(午前11時開演)
寿二人三番叟
嫗山姥 (廓噺)
第二部(午後1時45分開演)
鑓の権三重帷子
(浜の宮馬場、浅香市之進留守宅
数寄屋、伏見京橋妻敵討)
第三部(午後5時開演)
絵本太功記(夕顔棚、尼ヶ崎)
第四部(午後7時45分開演)
文楽入門~Discover BUNRAKU~
解説 文楽をはじめよう
壺坂観音霊験記 (沢市内より山)
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西の旅(8)
5月後半から歩数計を使っています。6月は1か月で20万歩近く歩きました。1日平均6,600歩くらいです。ところが7月になると体調が下降気味で13万歩あまりになってしまいました。1日平均4,000歩あまりです。さらに8月になると暑さもあって激減し、6万5千歩あまり。1日平均2,000歩とちょっとです。特に西の旅に行ってからはほんとうに歩くことがありませんでした。
やはりこのご時世ですので、よそ者としましては、地元の人と
あまり会いたくない
という思いが強かったのです。いつぞや、青森かどこかで「どういうつもりで帰省したんだ。早く帰れ」という意味の紙が投げ込まれたとか貼られていたとかいうニュースを見ました。幸い、私の場合は嫌味を言われることも、いたずらされることもなく過ごせましたが、見たこともない奴が歩いている、と、白い目で見られていたかもしれません。
もうひとつ、歩くことの障害になるのは、なにしろ山あいの土地ですので、日を遮るものがなくどこへ行っても直射日光にさらされることです。そんなところを真夏に歩き回るのはむしろ不健康でしょう。
ちなみに、私のいた家の庭は草が伸び放題だったのですが、それもそのはず、信じられないほど日当たりがいいのです。朝から夕方までほとんど日が当たっていました。これで適度に雨が降ろうものなら、どこからともなく飛んできた種が根付いて繁殖してもおかしくないと思いました。こんなところで
野菜
を作ったら育ちそうだとも思いましたが(笑)。
いっそ老後はあちらに転居して念願の野菜自給生活を果たそうかと半ば本気で思っています。
もっとも、かの地は交通が至って不便ですので、車がないと生きていけません。いや、車があっても自分で運転しないとどうしようもないのです。免許の更新をやめようなんて言っていられなくなります。
そんなことをあれこれ思いながら旅の日々を過ごしたのでした。
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西の旅(7)
田舎に行っていて、毎日のように星を眺めていました。旧暦の六月末から七月初めにかけての頃でしたので月がほとんどなく、星がとてもよく見える時期でした。足元が真っ暗で危ないうえ、万が一、人に出会ったら不審者と思われそうで(笑)、長い時間見るわけにはいかなかったのですが、十分に楽しめました。そうそう、もうひとつ長く見ていられない理由がありました。この季節はどうしても「ベガ」と「アルタイル」と「デネブ」という、いわゆる「夏の大三角」を見ようとしますので、私の星座ウォッチングタイムである夜の9時から11時ごろというと天頂近くを見上げる形になって首が痛くなる(笑)のです。とくに「ベガ」が高い位置にあるので大変です。
私は星を眺めること自体が好きなのですが、今回一生懸命見ていたのにはわけがあります。短歌の題材にすることもさることながら、ずっと考えている創作浄瑠璃に、天の川と「はくちょう座」を使いたくて、その姿をしっかり目に焼き付けて浄瑠璃のイメージを膨らませたいと思ったのです。なにしろ、自宅では天の川の「あ」の字も見えませんから、おもしろくも何ともありません。「夏の大三角」は普段でも見えますが、その周辺にある星たちはあまりよくわからないので味も素っ気もありません。「はくちょう座」のくちばしの星である
アルビレオ
も、何となくしかわかりません。そんなこともあって、星のよく見えるところに行ってじっと眺めていたいと思ったのです。
この時期は南の方に「木星」と「土星」が並んで見えて、そのそばに「いて座」、さらに南西側に行くと「さそり座」があります。夏の大三角は「木星」からずっと目を上げて行ったところに「わし座」の「アルタイル」、ほぼ真上に「こと座」の「ベガ」、そしてその間を流れる天の川を泳ぐようにして、美しい
北十字
が見えるのです。「北十字」というのはおもに南半球で見える「南十字」に対して言われるのですが、これこそが「はくちょう座」(厳密に言うと「はくちょう座」の一部)です。そのしっぽの星が「デネブ」です。
前述の「アルビレオ」は宮沢賢治が「サファイア」と「トパーズ」に喩えた二重星ですが、さすがに二つの星が重なっているところは望遠鏡できちんと観察しないときれいには見えません。
センチメンタルに過ぎるので笑われそうなのですが、私はこの「北十字」をじっと見ていると涙が出てきそうになります。この気持ちをかんとか浄瑠璃に生かしたいと思っています。
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西の旅(6)
旅先からひとつ郵便物を送らねばならなかったのです。あらかじめ、原稿用紙と封筒は用意していたのですが、さあ、そこは間の抜けた私のことです。便箋と切手を忘れていました。
そんな田舎に郵便局はあるのか、というご心配は無用です。なんと、徒歩1分ほどのところにあるのです。もちろん本局ではありませんが、5台くらい停められる駐車場があって、中はきれいでけっこう広々としたところです。私の自宅の近くの郵便局は駅のそばで便利ではありますが、いかにも狭苦しくて人がごちゃごちゃしているところなので、まるでイメージが違いました。私が行ったとき、お客さんは1人だけで、ソファには誰も座っていません。待ち時間なんてなさそうです。局員さんは2人で、1人は手持無沙汰。私が何かしゃれた切手はないかと探していたら、わざわざ近づいてきて見本が入っているファイルを見せてくれました。
「地元の切手は
ありませんか」と聞いたところ、そのファイルを一生懸命探してくれたのですが、あいにく置いていないとのことでした。結局、国宝建築のシートをひとつ買うことにしました。興福寺の北円堂、醍醐寺の五重塔、中尊寺の金色堂などの切手です。封筒などがあったので、「便箋は置いていないのですか」とお尋ねしたのですが、「ありません」とのことでした。
「では切手だけいただいていきます」ということにしたのですが、オマケにポケット・ティッシュをくださいました。デザインされているのはいかにも今どきのもので、
アマビエ
でした。応対してくれた局員さんは、30代くらいの男性で、とても人の好さそうな、ニコニコと愛想のいい人でした。
郵便局で切手を買う、というだけのことなのに、なんだかとってもほんわかした気持ちになりました。
いや、ほんわかしている場合ではありませんでした。便箋がないのです。締め切り間際なので、早く送りたいのに、送り状が書けません。
はなはだぶしつけなことになってしまったのですが、余っていた原稿用紙に便箋がなかった事情を書いてお詫びしたうえで送り状としました。
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西の旅(5)
一日に一首短歌を詠む、ということを学生時代にしていました。しかしこれがなかなか大変なのです。私の知っている歴史学の大先生はこともなげに毎朝犬の散歩をするついでにいくつかの歌を詠まれます。ご本人は「歌くず」とおっしゃっていますが、こういう詠み方はそれでいいと思うのです。しかし私は歌想がパッと思い浮かぶ、というような才能がなく、また言葉の推敲にどうしても時間をかけてしまいますので、毎日何首も詠むなんてなかなか難しいのです。
実は、この数か月、短歌に関してはおろそかになっていて、あまり数多く詠んでいませんでした。ところがいつもお世話になっている短歌の雑誌の代表の先生から、「次の号にも必ず提出しなさい」と言われて、逃げることが難しくなりました。そこで、この3か月ばかりの間に詠んだわずかなものから選んで送ろうと思っていたのです。ああ、それなのに、その短歌を書きとめておいたノートを忘れてきたのです。締め切りは旅先にいる間なので、どうしようもありません。
こうなったら旅先で
一気に詠む
しかありません。
そこで、題を定めて丸二日ほどをかけて無い知恵をしぼりました。いや、知恵ではありません。感じる力を研ぎ澄ましてそこに言葉をぶつけていくのです。こうなると短歌を詠むのはどこかスポーツのようなものです。
題は「田舎の闇、満天の星」としました。地上は真っ暗で何も見えません。ところが天上を仰ぐと何万あるともしれない星が輝いているのです。
闇の中にわが身を置いて空を見上げる。そこから生まれ出る感情を言葉に置き換えて次々に書きとめます。そして、そのあとそれらの言葉を何度も何度も推敲して整えていきました。
「苦吟する」という言葉があります。創作能力が乏しいだけに、ほんとうに苦しみながら言葉を積み上げてはまた崩し、崩した中から発掘し、また積み上げては形作るのです。ところがそうやって自分では「できた!」と思った歌を書いて眺めてみるとたいていは「なんじゃこれは!」「つまらん!」ということになってしまうのです。
歌人
って、すごいものだと思います。文学の世界に生きる人たちの中で、小説家、随筆家に比べると、詩人、歌人、俳人というのはやはりマイナーでしょう。歌集がベストセラーになるなんて例外的なことです。しかし歌人のみなさんは、真剣にご自身が選ばれた器に言葉を盛りつけられるのです。すばらしいお仕事だと思います。
そういう歌人の方々には恥じ入るばかりですが、この西の旅で詠んだ腰折れから少しだけ挙げておきます。
田舎路の闇を歩けば我はなく
スマホばかりが光りさまよふ
天漢の雫受けたる北十字
祈る八月十五日、夜
恋星を隔つる天の川の瀬に
流星ひとつ文使ひする
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