2020文楽錦秋公演初日
10か月ぶりに文楽が日本橋に戻ってきました。
今日から文楽錦秋公演が始まります。
いわば非常時での上演です。戦争でなくてもこういうこともあるのだな、と思います。
第1部 午前10時30分開演
源平布引滝(矢橋、竹生島遊覧、九郎助住家)
第2部 午後2時開演
新版歌祭文(野崎村)
釣女
第3部 午後6時開演
本朝廿四孝(道行似合の女夫丸、景勝上使、
鉄砲渡し、十種香、奥庭狐火)
いらっしゃる方はなにとぞお愉しみください。
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源氏物語「少女」(5)
内大臣、すなわち昔の頭中将は有能で光源氏に勝るとも劣らない優れた人物です。ところが、少し年下の光源氏にいつも一歩遅れを取ってきました。スポーツの世界にシルバーコレクター(銀の収集家)という言葉があるそうです。いつも銀メダルばかり取っている、金メダルは取れない人です。この人はまさにこういう人なのではないでしょうか。光源氏さえいなければ第一人者なのに、競うようなことがあるといつも負けています。身分もそうですし、絵合にしても、このたびの娘の立后にしても後塵を拝していました。そしてもう一人の中宮候補の雲居雁まで、よりによって光源氏の息子に奪われそうになり、激しい怒りを見せています。光源氏への対抗心からも、これは許せないことでしょう。さて、彼はどういう行動に出るでしょうか。
姫君は何心もなくておはするに、さしのぞきたまへれば、いとらうたげなる御さまをあはれに見たてまつりたまふ。「若き人といひながら心幼くものしたまひけるを知らで、 いとかく人なみなみに思ひける我こそまさりてはかなかりけれ」とて、御乳母どもをさいなみたまふに、聞こえむ方なし。「かやうのことは限りなき帝の御いつき女もおのづからあやまつ例(ためし)、昔物語にもあめれど、けしきを知り伝ふる人、さるべき隙(ひま)にてこそあらめ。これは、明け暮れ立ちまじりたまひて年ごろおはしましつるを、何かは、いはけなき御ほどを、宮の御もてなしよりさし過ぐしても、隔てきこえさせむとうちとけて過ぐしきこえつるを、一昨年(をととし)ばかりよりは、けざやかなる御もてなしになりにてはべるめるに、若き人とても、うち紛ればみ、いかにぞや、世づきたる人もおはすべかめるを、夢に乱れたるところおはしまさざめれば、さらに思ひ寄らざりけること」と、おのがどち嘆く。
何も知らずに姫君は無邪気なごようすでいらっしゃるのだが、そのお姿を内大臣がお覗きになってとてもかわいらしいとしみじみと拝見なさる。「いくら若い人だからとはいっても、分別をおもちでない人だったとも知らず、まったくこのように人並みにして差し上げようと思っていた私こそこの人以上にあさはかだったのだ」と言って御乳母たちをお責めになるのだが、乳母たちはいいわけのしようもない。「このようなことはこのうえもない帝の愛娘でも、つい過ちを犯すという例が昔物語にもあるようですが、それはお二人のお気持ちを知って仲立ちをする人がうまく隙を伺うのでしょう。こちらは明けても暮れても長年ご一緒にお育ちになったのですから、まだ幼いお年ごろなのに、どうして宮のなさること以上に差し出がましく仲を隔てたりできましょうか、とうっかり見過ごしてまいりましたが、一昨年ごろからはけじめをおつけになるようになっていたようでしたのに、また、若い人といっても人に隠れて、どうしたものか色めかしいことをなさる方もいらっしゃるようですが、このかたはちっとも乱れたところがおありではないようでしたので、まったく思いも寄らなかったのです」とそれぞれに嘆き合っている。
親がこれだけ心配しているのに、娘ときたらまったく無邪気なものです。その姿を内大臣は「あはれ」に見るのです。この「あはれ」は今の言葉ではなかなか表現しにくいですが、「胸がきゅんとして」という感じでしょうか。そして彼は自分がばかだったのだと言いつつ乳母たちを責めます。乳母にしてみると自分たちは大宮のなさることにそうは逆らえないし、また世間の困った男たちと違ってこちらの若君(夕霧)はきまじめな方だけに妙なことにはなるまいと思っていたのですよ、とぶつぶつというばかりです。この乳母たちの言葉は途中で切って複数の人のことばと解してもいいと思うのですが、これだけの長々としたことを全体としてお互いに言い合っていたという程度に考えてここでは切らずに解釈しておきました。
「よし、しばしかかること漏らさじ。隠れあるまじきことなれど、心をやりて、あらぬこととだに言ひなされよ。今かしこに渡したてまつりてむ。宮の御心のいとつらきなり。そこたちは、さりとも、いとかかれとしも思はれざりけむ」とのたまへば、いとほしきなかにもうれしくのたまふと思ひて、「あないみじや。大納言殿に聞きたまはむことをさへ思ひはべれば、めでたきにても、ただうどの筋は何のめづらしさにか思ひたまへかけむ」と聞こゆ。姫君は、いと幼げなる御さまにて、よろづに申したまへども、かひあるべきにもあらねば、うち泣きたまひて、いかにしてかいたづらになりたまふまじきわざはすべからむと、忍びてさるべきどちのたまひて、大宮をのみぞ恨みきこえたまふ。
「まあよい、しばらくこういうことは漏らすまい。隠し通すことはできまいが、気をつけて、あらぬことですというようにしなさい。すぐにあちら(内大臣邸)にお移し申し上げよう。大宮のお心がとてもつらいことだ。そなたたちはいくら何でもこうなればよいとは思われなかっただろうな」とおっしゃるので、お気の毒ではあるもののうれしいことをおっしゃったと思って「まあとんでもないこと。大納言様(雲居雁の母の現在の夫)のお耳に入ることまで気を使っておりますので、どんな立派なお相手であっても臣下の家柄ではどうしてけっこうなお話と思うものでしょうか」と申し上げる。姫君はとても幼いようすでいらっしゃって、(内大臣が)あれこれ申し上げてもわかってもらえそうにないので、少しお泣きになって、何とかしてこの人をつまらない身の上にしないで済むようにと、ひそかにもののわかった女房たちに相談なさって、大宮ばかりをお恨みになる。
内大臣が、この事は内密にしておけと言いつつ、恨めしいのは大宮であって、まさか乳母たちは二人がうまくいけばよいなどとは思わなかったであろうな、と言ったものですから、乳母たちはここぞとばかりに「とんでもない」と否定します。乳母の調子のよさというか、自分が咎められなければ「うれしく」思うというふてぶてしくさえある様子があらわに描かれています。そして彼女たちは内大臣の気持ちに添うようなことを言って自分たちを守ろうとするのです。雲居雁の母の今の夫である按察使大納言にも妙なことが聞こえないように注意をしているくらいで、相手の男性がどんなに優れた人であっても臣下では物足りないと思っている、と内大臣にへつらうように言っています。雲居雁は年齢(十四歳)のわりには頼りなくて言って聞かせてもわかりそうにないので、内大臣は情けなく、自邸に引き取ることを女房たちと内密に語り合っています。女房や乳母たちは、しだいに夕霧の敵になっていくようです。このことは、あとで夕霧が彼女たちにからかわれる下地になっているようです。
宮は、いといとほしと思すなかにも、男君の御かなしさはすぐれたまふにやあらむ、かかる心のありけるも、うつくしう思さるるに、情けなく、こよなきことのやうに思しのたまへるを、「などかさしもあるべき。もとよりいたう思ひつきたまふことなくて、かくまでかしづかむとも思し立たざりしを、わがかくもてなしそめたればこそ、春宮の御ことをも思しかけためれ。とりはづして、ただ人の宿世あらば、この君よりほかにまさるべき人やはある。容貌(かたち)、ありさまよりはじめて、等しき人のあるべきかは。これより及びなからむ際にもとこそ思へ」と、わが心ざしのまさればにや、大臣を恨めしう思ひきこえたまふ。御心のうちを見せたてまつりたらば、ましていかに恨みきこえたまはむ。
大宮はとてもいたわしくお思いになる中でも男君のかわいさはまさっていらっしゃるのであろうか、このような恋心があったこともいじらしくお思いになるのだが、(内大臣が)思いやりもなくとんでもないことのようにお思いになり、またそうおっしゃるのを、どうしてそんなにひどいことだろうか、もともとそれほど大事になさることもなくて、ここまで大切にお世話しようともお考えでなかったのに、私がこのようにお世話し始めたからこそ春宮への入内のことを思いつかれたようだが、そのあてがはずれて臣下と結婚する宿世なら、この君(夕霧)にまさる人がいるだろうか。容貌や姿をはじめ、この人に匹敵する人があろうか、この姫君が及ばない身分の人にもふさわしいと思っているのに、と、ご自身の気持ちが姫君より男君に傾いているからか、内大臣をうらめしくお思い申し上げなさる。このお心の中を(内大臣に)お見せしたら、ましてどれほど(大宮を)お恨み申されようか。
二人ともかわいい孫ではあるのですが、大宮は雲居雁より夕霧贔屓です。『細流抄』は「夕霧をは猶大切に思給也」と記しています。もともと内大臣が雲居雁をあまり大切にしていなかったのに、弘徽殿女御の立后が叶わなかったからといって春宮に入内させる気持ちが強まったようだった。でも、それもうまくいきそうにないとなると夕霧以上の男がいるだろうかと思います。大宮の考えを信じるなら、内大臣はもともとは雲居雁を春宮に入れる気はなかったようで、結局立后の失敗でかなりあせって雲居雁に白羽の矢を立てて春宮妃にしようとしたことがうかがわれます。夕霧は、雲居雁以上の女性、ということは皇女などがふさわしいくらいなのに、とも思うのです。このあとの巻についてご存じの方は、夕霧が、かなり強引にではありましたが、朱雀院の女二宮(落葉宮)と結婚することも思い合わされるでしょう。『岷江入楚』はこうい大宮の考え方について「雲ゐ雁よりも夕霧に御心さしまされはかく色々に夕霧に理をつけ給ふなり」と言っています。
かく騒がるらむとも知らで、冠者の君参りたまへり。一夜も人目しげうて、思ふことをもえ聞こえずなりにしかば、常よりもあはれにおぼえたまひければ、夕つ方おはしたるなるべし。宮、例は 是非知らず、うち笑みて待ちよろこびきこえたまふを、まめだちて物語など聞こえたまふついでに、「御ことにより内大臣(うちのおとど)の怨(ゑん)じてものしたまひにしかば、いとなむいとほしき。ゆかしげなきことをしも思ひそめたまひて、人にもの思はせたまひつべきが心苦しきこと。かうも聞こえじと思へど、 さる心も知りたまはでやと思へばなむ」と聞こえたまへば、心にかかれることの筋なれば、ふと思ひ寄りぬ。面(おもて)赤みて、「何ごとにかはべらむ。 静かなる所に籠もりはべりにしのち、ともかくも人に交じる折なければ、恨みたまふべきことはべらじとなむ思ひたまふる」とて、いと恥づかしと思へるけしきを、あはれに心苦しうて、「よし。今よりだに用意したまへ」とばかりにて、異事(ことごと)に言ひなしたまうつ。
このように騒がれているとも知らずに、冠者の君(夕霧)が参上なさった。(笛を演奏した)先夜も人目が多くて心に思うことも申し上げられないままだったために、いつもより切なくお思いになっていたので、夕方においでになったのであろう。大宮は普段は理屈抜きでにっこりなさってお待ちになってお喜びなさるのだが、まじめにお話し申し上げなさるついでに「あなたのことで、内大臣が恨み言をおっしゃっていらして、とても困っているのです。よりによってだれの目から見ても感心できないことを思い始めなさって、私を悩ませなさるのがやりきれないのです。こんなことは申し上げるまいと思うのですが、内大臣のご不興という事情もご存じでないのでは、と思いまして」と申し上げなさると、いつも気にかけていることなので、すぐに思い当たった。顔が赤くなって「何のことでしょうか。静かなところにこもってしまいましてからは何かと人に会うこともありませんので、お恨みになるようなことはございますまいと存じます」と言って、どても恥ずかしいと思っている様子を、しみじみ気の毒に思って「まあよろしいでしょう。せめて今後は気を付けてください」とだけおっしゃって、ほかのことに話をそらしておしまいになった。
自分のことで騒動が起こっているとも知らず、夕霧がやってきます。大宮はいつもと違って深刻な顔をして話します。いとこ同士で親密になるのは「ゆかしげなきこと」(他者から見て好ましくないこと)だと大宮は夕霧を諭します。世間体のよくないことだというわけです。身に覚えのある夕霧は、ずっと二条東院で勉強しているので人との交流がないと言い訳しますが、言葉とは裏腹に赤面していかにもきまり悪そうです。大宮はさすがにこれ以上とがめだてする気にはなりませんでした。『岷江入楚』はその点について「つよくもえの給はす夕霧をいたはり給ふ心のみえたり」と言っています。
いとど文なども通はむことのかたきなめり、と思ふに、いと嘆かしう物参りなどしたまへど、さらに参らで、寝たまひぬるやうなれど、心も空にて、人静まるほどに中障子を引けど、例はことに鎖し固めなどもせぬを、つと鎖して、人の音もせず。いと心細くおぼえて、障子に寄りかかりてゐたまへるに、女君も目を覚まして、風の音の竹に待ちとられて、うちそよめくに、雁の鳴きわたる声の、ほのかに聞こゆるに、幼き心地にも、とかく思し乱るるにや、「雲居の雁もわがごとや」と、独りごちたまふけはひ、若うらうたげなり。
手紙などもこれまで以上にやり取りするのは難しいだろうと思うと、とても嘆かわしい。大宮はお食事などを差し上げなさるが、少しも召し上がらず横になられたごようすだが、心もうつろで人が寝静まったころに部屋の仕切りの襖を引くのだが、普段は特に錠などを下ろしたりはしないのに、しっかりと鎖して人が中にいる音もしない。とても心細く思われて襖に寄りかかってお座りになっていらっしゃると、女君も目を覚まして、風の音が竹に迎えられてさやさやと鳴るところに、雁が鳴いていく声がわずかに聞こえるので、子ども心にも何かと心が乱れるのであろうか、「雲居の雁はわがごとや」と独り言をおっしゃるご様子は幼くていじらしい感じである。
名場面です。誰の仕業か、錠がおろされていて、相思相愛の若い男女が隔てられてしまうのです。雲居雁のことを「女君」と書くのは例によって恋愛関係にある男女が描かれる場面、あるいは濡れ場に用いられる表現です。風が竹にあたって音を立て、空にはかすかな雁の声。何とも物悲しい状況設定です。風の訪れを竹が待ち受けるようにしているのは、夕霧の訪れを待つ雲居雁のようであり、また雁が鳴き渡るのは次の彼女のひとことにつながっていきます。すなわち、雲居雁は「霧深き雲居の雁はわがごとや晴れせずものの悲しかるらむ(霧の深い中、雲にいる雁は私のように心が晴れずに物悲しい気持ちでいるのだろうか)」の一節を口ずさむのです。たちこめる深い霧のように心が晴れない身の上を、今、空の彼方からわずかに鳴き声が聞こえてきた雁になぞらえているのです。風景と心情が密接につながっています。この歌は出典が明らかではなく、古注釈が引き歌として指摘しているものです。申すまでもなく、この一節によって彼女は「雲居雁」と呼称されることになるのです。
いみじう心もとなければ、「これ、開けさせたまへ。小侍従やさぶらふ」とのたまへど、音もせず。御乳母子なりけり。独り言を聞きたまひけるも恥づかしうて、あいなく御顔も引き入れたまへど、あはれは知らぬにしもあらぬぞ憎きや。乳母たちなど近く臥して、うちみじろくも苦しければ、かたみに音もせず。
さ夜中に友呼びわたる雁が音に
うたて吹き添ふ荻(をぎ)の上風
身にしみけるかな、と思ひ続けて、宮の御前に帰りて嘆きがちなるも、「御目覚めてや聞かせたまふらむ」とつつましく、みじろき臥したまへり。
とてももどかしい気がするので、「この襖を開けてください。小侍従は控えていないか」とおっしゃるが、返事がない。御乳母子なのであった。先ほどの独り言をお聞きになったのも恥ずかしくて、わけもなくお顔も夜具に引き入れなさるのだが、恋の情趣を知らないわけではないのは憎らしいことよ。乳母たちなどが近くに伏していて身じろぎするのもつらいので、お互いに声も立てない。
夜中に友を呼んでいる雁の声に加えて
いよいよ甚だしく荻の上を吹く風よ
身に染みることだと思い続けて、大宮のお前に戻ってため息が地になっているのも、(大宮が)目が覚めてお聞きになるだろうかとはばかられて身じろぎしながら横になっていらっしゃる。
夕霧はたまらず「開けてください」と呼びかけ、雲居雁の乳母子である小侍従を呼びますが応答がありません。雲居雁は姿を見られるわけでもないのに顔を夜具で覆ってしまいます。「あいなく」は何の意味もなくというニュアンスで、とても繊細に心の動きが彼女の動作として描写されているといえるでしょう。しかし、乳母が近くに寝ていて身動きするのが困るので、二人は何も言えません。この部分ややわかりにくいのですが、乳母たちがわざと身じろぎして「自分たちは起きていますよ、めったなことをしてはいけませんよ」と暗黙の裡に知らせているのだと考えられます。若い二人が思い切ったことをしようにも、その身じろぎの音を聞くと、そうはいかないのです。ただし、ここで身じろぐのは夕霧や雲居雁だとする説もあります。身じろぎをすると音を立てて気づかれそうになるのでそれもできずに苦しい思いをしている、という解釈です。しかし、文章としては乳母たちが「近く伏してうち身じろく」とありますので、普通に考えると主語の変更はなく、「身じろく」も乳母の行為と思われます。また、そのほうがハラハラドキドキするような面白みも感じられるように思います。夕霧はさきほど雲居雁が口ずさんだ歌に応じて、雁が友を呼ぶように私があなたを求めていると、荻の葉を揺らす風までもが悲しい音を立てる、というのです。「身にもしみける」は「吹きくれば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」(古今和歌六帖)によるものです。『細流抄』は「荻のうは風身にもしみけると書つゝけたるさま艶におもしろし」と言っています。また大宮のいるところに戻った夕霧はじっとしていられず身じろぎしています。煩悶しているのでしょうか。なお、現代語の「身じろぐ」は古くは「身じろく」であったともいわれ、ここではその形にしておきました。
あいなくもの恥づかしうて、わが御方にとく出でて御文書きたまへれど、小侍従もえ会ひたまはず、かの御方ざまにもえ行かず、胸つぶれておぼえたまふ。女はた、騒がれたまひしことのみ恥づかしうて、「わが身やいかがあらむ、人やいかが思はむ」とも深く思し入れず、をかしうらうたげにてうち語らふさまなどを、疎ましとも思ひ離れたまはざりけり。また、かう騒がるべきこととも思さざりけるを、御後見どももいみじうあはめきこゆれば、え言も通はしたまはず。おとなびたる人や、さるべき隙をも作り出づらむ、 男君も、今すこしものはかなき年のほどにて、ただいと口惜しとのみ思ふ。
どうしようもなく恥ずかしくて、朝早くにご自分のお部屋でお手紙をお書きになったが、小侍従にもお会いになれないし、あちらのお部屋に行くこともできず、胸の痛む思いをしていらっしゃる。女君はまた騒がれなさったことばかりが恥ずかしくて、自分はどうなるのだろうか、人がどのように思うのだろうかとも深くお考えにはならず、美しくかわいらしいようすで、乳母たちが話し合っているのを見ても、男君を疎ましく思う気持ちはないのであった。また、このように騒がれるほどのことともお思いではなかったのに、後見の女房たちが強くたしなめ申すので、手紙を交わすこともおできにならない。大人びた人なら適当な隙を作り出しもしようが、男君もさらに少し頼りない年齢なので、ただとても残念だとばかり思っている。
夕霧は手紙を書いてもそれを雲居雁に渡してくれるはずの小侍従に会うこともできず、ましてみずからがあちらのお部屋に行くことなど叶わないので、悲痛な気持ちになっています。一方の雲居雁はまだ心が幼く、恥ずかしい思いをしたことばかりが気になって、今後のことには思い至らないのです。どこか他人事のような彼女は、自分ではさほどの意識を持っていないのに、女房たちに咎められて、手紙のやり取りもできないでいます。夕霧はまだ十二歳ですから、何とかして逢う工夫もできず、沈んでいるばかりなのです。女房たちの目は夕霧に対してますます厳しくなりそうな予感がしないでしょうか。
大臣はそのままに参りたまはず、宮をいとつらしと思ひきこえたまふ。北の方には、かかることなむと、けしきも見せたてまつりたまはず、ただおほかたいとむつかしき御けしきにて、「中宮のよそほひことにて参りたまへるに、女御の世の中思ひしめりてものしたまふを、心苦しう胸いたきに、まかでさせたてまつりて心やすくうち休ませたてまつらむ。さすがに、主上につとさぶらはせたまひて、夜昼おはしますめれば、ある人びとも心ゆるびせず、苦しうのみわぶめるに」とのたまひて、にはかにまかでさせたてまつりたまふ。
内大臣はそれ以来参上なさらず、大宮のことをあまりにもひどいとお思い申し上げなさる。北の方にはこういうことがあるとは、そぶりにもお見せにならない。ただ、何かにつけてとても不機嫌なご様子で、「(秋好)中宮が格別に意義を整えて入内なさったので、弘徽殿女御が帝との関係で落胆していらっしゃるのを、おいたわしく胸が痛みますので、里下がりをおさせ申して、ゆったりと休ませてあげましょう。こういうことになっても上の御局にいさせなさって、帝は夜も昼もいらっしゃるようですので、おつきの女房たちも気が休まらずつらいと嘆いてばかりいるようですから」とおっしゃって、急に退出させなさる。
内大臣は相当ふてくされているようで、なんとか大宮のところから雲居雁を引き離したいと思います。しかしその口実が必要です。内大臣は雲居雁のことや大宮への不満を北の方(内大臣の妻で柏木や弘徽殿女御の母。雲居雁の母ではない。光源氏を陥れようとしたかつての弘徽殿大后の妹)にはおくびにも出しません。そして、秋好中宮におくれを取った弘徽殿女御のことを案じていると話します。弘徽殿女御はどうしても悲観的になっているので、この際、里下がりさせようというのです。実際は帝の寵愛は続いているのですが、内大臣には思わくがあります。それを口実に雲居雁を引き取る話に持って行くのです。
御暇も許されがたきをうちむつかりたまて、主上はしぶしぶに思し召したるを、しひて御迎へしたまふ。「つれづれに思されむを、姫君渡してもろともに遊びなどしたまへ。宮に預けたてまつりたる、うしろやすけれど、いとさくじりおよすけたる人立ちまじりて、おのづから気近きもあいなきほどになりにたればなむ」と聞こえたまひて、にはかに渡しきこえたまふ。
なかなか暇(いとま)のお許しも出ないのに、内大臣は不満そうな顔をなさって、帝はしぶっていらっしゃったのに無理にお迎えなさる。「たいくつでいらっしゃるでしょうから、あちらの姫君(雲居雁)をこちらに来させて、ご一緒に遊びなどなさいませ。大宮にお預けしているのは安心ではあるのですが、あちらにはこざかしくてませた人が出入りして、自然と近づきすぎるのです。そういうこともよくない年ごろになりましたのでね」と女御にお話しになって急に姫君(雲居雁)をお移し申し上げなさる。
帝が弘徽殿女御を離したがらないのに、内大臣は不満を表明して無理やりに里下がりをさせます。立后のことがあったので、内大臣には申し訳ない気持ちも持っていたかもしれませんし、三十代後半かと思われる政界の第一人者が不満な顔をするのですから、このとき十五歳の若い帝は引き下がらざるを得ないでしょう。そして内大臣は弘徽殿女御に向かって「遊び相手に雲居雁をこちらに移しましょう」と言います。このときの内大臣の言葉に注目したいところです。「いとさくじりおよすけたる人」と夕霧のことを苦々しく表現しています。「さくじる」というのは詮索することで、ここでは「何かと差し出がましいことをするやつ」というほどのかなり手厳しい表現だと思います。ついこういう言葉が出てしまうところにこのときの内大臣の気持ちや、この人物の本来の性格があらわれているようでおもしろいです。こうして雲居雁は大宮のところから移されて、夕霧はこれまで以上に彼女に会う機会を失うことになります。
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マスクの観劇
文楽11月公演が迫ってきました。
大阪での本公演は10か月ぶりです。本来なら二部構成で、時代物の通しを上演してもいいところなのですが、さすがにそうはいかないようです。今回は三部構成で『源平布引滝』『新版歌祭文』『釣女』『本朝二十四孝』だそうです。
三部構成になるのはまだいいのですが、すべての席のチケットを売ることはできず、依然として異常事態での上演という感じです。屋外のスポーツなどでは徐々に緩和されてきましたが、特に関東地方では今なお感染が減っていないようなので、まだまだ慎重にならざるを得ないようです。
それでも、文楽が帰ってくるというのはめでたいことです。こういうことを大阪の文化昂揚のきっかけにすればいいのですが、役所は住民投票をするらしくてそれどころではないのでしょうね。
座席は、一列目は空席、床の近くも空席、右側三列目も空席、それ以外はいわゆる
「市松模様」
です。チケット販売数が少ないことで、お客さんが「いつでも行ける」という状況にならないのではないか、という心配があります。もともと常時満席という劇場ではありませんから(笑)、あまり心配しなくてもいいのかもしれませんが。実は私個人としては、前後の席が空いていたり、横の席が空いたりするのは見やすいという意味では嬉しくはあります。しかしそんな暢気なことは言っていられないのですよね。
さて、ウイルス感染防止のために、劇場では観客にもいろいろ協力を求めています。37.5度以上の熱のある人、咳やのどの痛みのある人、マスクを着用していない人などは入場できないそうです。
そこまでの高熱があったら、平時でも行かないかなと思いますが、咳をしてはいけないというのは私にとってはきわめて苦痛なことです。申し訳ないのですが、ときどき、咳き込むことがあって、普段でも顰蹙を買っているのですが、今回はつまみ出されそうです。
とどめを刺されるのが、
「マスク着用」
です。いくら座っている状態でも、マスクを2時間も3時間も着けているというのはとてもつらいことです。我慢するくらいはできますが、芝居を我慢しながら観るというのはなんだか観劇のイロハから言って本末転倒のような気がします。私は、11月公演は諦めねばならないのではないか、と思っています。そして、おそらく今後もしばらくは無理なのではないか。それを考えると37.5度くらいの熱が出そうです。
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- [2020/10/29 00:00]
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なでしこ
この秋、近くの公園でいくつもの撫子(なでしこ。河原撫子。大和撫子)の花を見ました。
萩、女郎花、尾花(すすき)、藤袴などとともに秋の七草に数えられますが、実際の花期は長く、そのために「常夏」の異名も持ちます。『源氏物語』では「帚木」巻で夕顔という女性を「常夏」に喩えるほか、ずばり「常夏」という巻もあります。夕顔の娘の玉鬘を引き取った光源氏が、彼女の居所の前庭に撫子を色とりどりに植えています。季節は夏です。
楚々とした花で、濃いピンクのような色がまず思い浮かびますが、白いものもあってその両者を混色するとまたきれいなものです。
「なでしこ」(撫でた子)の意味から、古典文学では子供や女性を喩えることが多く、歌にもしばしば詠まれます。大和撫子を詠んだ有名な歌としては、
あな恋し今も見てしか
山がつの垣ほに咲ける大和撫子
(古今和歌集・恋四)
があります。「ああ恋しい、すぐにでも会いたいものだ。身分賤しい家に咲いていた大和撫子(のようなあなた)に」という恋歌です。
この歌が有名になったので、後の文学にも強い影響を与え、『源氏物語』「帚木」でも「山がつの垣ほ荒るともをりをりにあはれはかけよ撫子の露」のように詠まれることになります。この歌は後に夕顔と呼ばれる女性が、娘(撫子に喩えている)の父である頭中将(とうのちゅうじょう)に「私の家がどんなにみすぼらしくなっても、折々につけてこの娘には情をかけてやってください」と詠むのです。
かわいらしい女の子にぴったりの草花と言えるでしょうか。
『枕草子』は「草の花は」の段で真っ先にこの花を挙げます。
草の花はなでしこ。
唐のはさらなり、
大和のもいとめでたし。
とあり、唐撫子は言うまでもなく、大和撫子もとてもよいと言っています。
いかに王朝の人々に愛されたかがよくわかります。
大和撫子はいつしか日本風の女性の美称のようになり、今でも用いられているようです。
活発な女性には用いられないのかというとそうでもなく、サッカーの日本女子代表の愛称にも使われました。
私がいくつもの撫子を見た公園には藤袴や女郎花も咲いていて、秋を満喫出来ました。
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- [2020/10/28 00:00]
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『枕草子』と平安時代を読む(4)
次は「かたはらいたきもの」です。「かたはらいたし」についても、渡辺実「枕草子心状語要覧」(岩波新日本古典文学大系)」から説明を引用します。
まずいことを誰かがしていて、それを制
することが出来ない時、当人がまずいこ
とをしていると気付きそうもない時、な
どに、心を痛める困窮の気持を表わす語。
傍目(はため)にもはらはらするような見苦しさに困惑する気持ちですが、ひとことで現代語にするのはなかなか難しい語です。
かたはらいたきもの。客人(まらうと)などにあひてものいふに、奥のかたにうちとけ言(ごと)などいふを、えは制せで聞く心地。思ふ人のいたく酔ひて、同じごとしたる。
【語釈】
奥のかたに・・家人が奥で。
うちとけ言・・他人に聞かれたくないような内輪の話。
思ふ人・・愛する人、というほどの意味であろう。
同じごと・・前述の家人と同じような「うちとけ言」。酔って、聞きたくもないような内輪の話を始めるのを聴かされるときの気持ちが「かたはらいたし」。「同じこと」で繰り返し同じ話をする意味と解釈する注釈もある。
きまり悪いもの。客人などに会って話をしているときに、奥の部屋で内輪の気を許したような話をしているのを、制することもできずに聞いている気持ち。大切に思っている人(男性)がひどく酔って同じようにくだけた話をしているときの気持ち。
おそらく実家でのことでしょう。客が来ているのに、奥で内緒話のようなことを大きな声でしゃべっている声が聞こえてきて、注意もできずにきまり悪く思っているのです。今でもあり得ることだと思います。次の文については、すてきな男性がしらふの時とは違って、酔ってくだをまいて「そんなこと、ここで言わないでほしい」というような話を始めているのでしょう。さすがに注意もできずに、だからといって楽しそうに聴くわけにもいかず、きまりわるいのでしょう。単に繰り言を言っているだけなら、きまり悪いというのではないと思います。
聞きゐたりけるを知らで、人のうへいひたる。それは、何ばかりならねど、使ふ人などだにかたはらいたし。
旅立ちたる所にて、下衆(げす)どものざれゐたる。
にくげなるちごを、おのが心地のかなしきままに、うつくしみかなしがり、これが声のままに、いひたることなど語りたる。
【語釈】
聞きゐたりける・・噂になっている、その当人がじっと聞いていた。
何ばかりならねど・・噂の対象が大した人というのではないにしても。あるいは噂をしている人が大した人でないにしても。
ざれゐたる・・あるいは「されゐたる」。ふざけること。旅先で解放的な気分になってふざける様子。
にくげなるちご・・見た目に器量のよくない乳児。
おのが心地のかなしきままに・・自分の子だけに、(かわいくもないのに)かわいいと思って。
うつくしみかなしがり・・「うつくしみ」も「かなしがり」もかわいがること。無邪気なものを見てかわいく思うのが「うつくしみ」で、切ないくらいかわいく思うのが「かなしがり」。親ばかぶりを発揮して、この上なくかわいいと思うようす。
これが声のままに・・その乳児が出す声のとおりに。
いひたることなど語りたる・・乳児がこんなことを言った、などとうれしそうに人に話している様子。
本人がじっと聞いているのも知らないで、人の噂をしているの。それはどれほどの人でなくても、使用人の場合でもとても具合の悪いものだ。
旅に出た先で身分の低い従者がふざけているの。
かわいげのない乳飲み子を自分がかわいいと思うその気持ちのままに、大切にしてかわいがり、乳児の声をそっくりまねて、言っていることを話したりしているの。
よく喜劇の場面などにありますが、すぐうしろに当人がいるのに気づかず、その人のことを噂する滑稽さ。そしてそれを聞かされる人のきまり悪さを言っています。次の部分は噂をする人のことなのか、されている人のことなのか、どちらとも取れそうですが、噂をされている人が大した身分でなければ気に留めることもないようなものだが、それでもやはり気になる、という解釈をしておきます。
旅先というのはつい自由に何でもしたくなるものです。普段はおとなしくしている者でも悪ふざけをします。旅の恥はかき捨てとも言います。
次の一節は、ひどいな、と思うのです。あまりかわいくない子なのに親はかわいいと思っている、そしてその子の声まねまでしているのは、自分がいかに親ばかなのかを知らずにしている行為なので傍目に見て苦痛だというのです。しかし、わが子がかわいいのは当たり前ですから、認めてやってもいいのに、こういうことまで手厳しくはっきりと批判するのは清少納言らしいところと言えるでしょうか。
才(ざえ)ある人の前にて、才なき人の、ものおぼえ声に、人の名などいひたる。
ことによしとも覚えぬわが歌を、人に語りて、人のほめなどしたるよしいふも、かたはらいたし。
【語釈】
才・・学識。
ものおぼえ声・・わかったような口ぶり。
人の名などいひたる・・「ああ、あの人ねぇ」「誰それさんねね」などと著名な人の名をさも知り合いのように言う様子。
ことによしとも覚えぬわが歌・・格別に秀作であるとも思えないような自作の歌。
人のほめなどしたるよしいふ・・「あの人に褒められましてねぇ」などと自慢げに言う様子。
学識のある人の前で、学識のない人が、わかったような声を出して人の名などを言っているの。
特にうまいとも思えない自分の歌を人に話して、誰かに褒められたなどということを話しているのも見苦しいものだ。
少し違うかもしれませんが、例えば有名な小説家の前で、私のような無能でものを知らない人間が、「はいはい、あの作家の人ね、知っています、知っていますとも」なんて言っている姿を想像してみてください。恥ずかしいですよね。ここで清少納言は「もの覚え声」と言っていますので、声の調子が自慢げなのが、さらに傍目に悪いというのでしょう。
「こんな歌を作りましてね、大したことないのですが、歌人の○○先生に褒められたんですよ」などというのも恥ずかしい話です。
この「かたはらいたきもの」の段は、私のことを言われているような気になるところが少なくないので、けっこうこたえました(笑)。
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- [2020/10/27 00:00]
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スポーツ競技会
平安時代の人は、かけっこなどはしたのでしょうか。私は、庶民はしたと思っています。やはり速く走るのは自慢になるでしょうし、優越感も得られるでしょうから。私は、小学校時代は鈍足で、かけっこというと後ろから数えて何番目というのがいつもの成績でした。昨今は順位を付けなくなっているようなことを聞きますが、そういうのはもっと昔からやってよ(笑)、と思います。ただ、大学生の教養の「体育」では、何しろ文学部(体育は医学部も合同)の連中ですから、みんな本は読んでいても鈍足(笑)。私はずいぶん速い方でした。
平安時代の貴族の姿は走るような恰好ではありません。検非違使(警察)の下っ端連中は、犯人逮捕などで動き回りますから草鞋履きなどで活動的でも、ちょっとした身分以上の貴族はそうではなかったのです。彼らにとっての運動というと、
騎馬
が挙げられるでしょう。急ぐ時は何と言っても馬です。牛車はスピードが出ませんから話になりません。昨日書きました『伴大納言絵巻』にも、検非違使ではなく冠直衣姿の貴族が馬を走らせて、なかなかの手綱さばきを見せています。
貴族に取ってのたしなみだったでしょう。『源氏物語』でも、夕顔が亡くなったあと、東山に安置された夕顔の亡骸を光源氏が訪ねたことがありますが、このときも馬でした。ただし、哀しみのあまり、彼は馬から落ちそうになります。同じ『源氏物語』では、宇治を訪ねる薫や匂宮は馬で山道を進み、夜露に濡れたりもしています。
ほかのスポーツとしては、蹴鞠や弓矢があります。蹴鞠は今でも蹴鞠(しゅうきく)保存会などによっておこなわれることがありますが、輪になって鹿革の鞠を蹴り合います。『源氏物語』若菜下巻では、この蹴鞠の催しのときに光源氏の最後の妻である女三宮という人物を、かねてから慕っていた柏木と呼ばれる男が垣間見て、のちに密通を犯す契機となってしまいます。
弓も盛んでした。内裏でも、一月十七日に射礼(じゃらい)、十八日には賭弓(のりゆみ)がおこなわれました。賭弓は、紫宸殿の西南、校書殿と呼ばれる建物の東の廂のところに設けられた弓場殿で天皇の前でおこなわれました。これらのほか、「小弓」といって、建物の廊下でできるようなミニサイズのものもありました。『枕草子』「あそびわざは」には「小弓、碁、さまあしけれど鞠もをかし」とあって、小弓や蹴鞠はちょっとしたゲームという感じで捉えられています。
さらには
騎射
というアクロバティックなものもあって、これは競技としても楽しまれたようです。平安京には一条大路より北側に馬場があって、五月にはそこで騎射がおこなわれました。『枕草子』には、ほととぎすを聴きに行く清少納言たちに従者が「騎射を見ていきましょう」と誘われるのですがにべもなく彼女たちは断ります。好みの男性が登場するならともかく、そうでもなければ彼女たちはあまり関心を示さなかったのかもしれません。
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- [2020/10/26 00:00]
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走る人たち(2)
『伴大納言絵巻』は検非違使(警察)の姿に始まって検非違使に終わる絵巻物です。事件を描くこの話らしい描き方です。しかし最初の検非違使は火事に向かうだけに大慌て。末尾の検非違使は伴大納言を連行する一段なのでおごそかです。身なりも整え、従者たちも草鞋を履いての行進です。
では、貴族は走らなかったのか、というとそんなことはありません。
当時の貴族の行動は絵だけではなく、文献からもかなり事情が分かります。男性貴族の日記にはその仕事ぶりがいろいろ書かれていますし、女性日記にはそういう役人たちの平素の生活もうかがえ、また、彼女たちの衣服や趣味などの記述も多く載せられています。
『枕草子』
も貴族たちの生活をよく写しています。
後日このブログで紹介することになるのですが、「五月の御精進のほど」の段には清少納言にからかわれる若い貴族の姿が描かれます。詳細は後日に譲りますが、この男、藤原公信(ふじわらのきんのぶ)は、ほととぎすを聴きに行った帰り道の清少納言たちの突然の訪問を受けます。しかし暑い時期(五月は梅雨の頃)とあって、彼は袴もつけないようなくつろいだ格好をしていたのです。そこに彼女たちが来たものですから、あわてて袴を着けたりしています。ところが清少納言たちは「待ってなんかいられない」と車を進めさせるのです。いってみれば、平安時代版の
「ピンポンダッシュ」
をするのです。やっと袴(指貫=さしぬき)を着けて門を出てみると、すでに牛車はその場を離れています。かれは帯を結びつつ、追いかけるほかはなかったのです。牛車はいくら牛でもモウ(猛)スピードは出ません。それでも少し急かせるとそれなりの速さです。清少納言たちは従者に「急いで、急いで」と言います。公信に意地悪をしているのです。しかたなく公信は、天下の一条大路を、装束を着けながら走らされるというなんとも格好の悪いことをさせられたのです。牛車は、一条大路を東大宮大路で左折して大内裏の上東門に着き、そこでやっと公信は追いついたのです。まだ若い(公信は二十二歳)とはいえ、息を切らせています。やはり運動不足なのかもしれません。
公信は沓を履いていたでしょうから、なかなかうまくは走れなかったでしょうに、「せっかく訪ねたのにまともに応じなかった」などという噂をたてられたのではたまったものではなく、一生懸命だったのです。こういうところに、まだ若手のさほどの名家でもない家の貴族男性と中宮付きの女房との関係がうかがわれるようで面白く感じます。
雨が降っていたうえ、この上東門という門は「土御門(つちみかど)」とも呼ばれるとおり、塀を切っただけの門で、屋根がないのです。そんなところで多少のやり取りをしたものの、彼はずぶ濡れ、「内裏にお入りなさい」と清少納に言われたものの、かぶっているのは烏帽子で、冠ではないために憚られます。やっと自宅から傘を持ってきたものがいて、彼はすごすごと帰っていくのです。
こんな若者を、清少納言はこのあとも軽んじるように扱い、笑いの対象にしてしまいます。怖い女性たちです(笑)。
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- [2020/10/25 00:00]
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走る人たち(1)
平安時代の人がどういう生活をしていたのか、というのは興味がありながら不勉強であまりわかっていません。しかし長年平安時代のことを学んできたというだけのことで、少しずつ見えてくるものもあります。
京の庶民は自在に活動していて、家の脇に設けた畑で野菜を作ったり、賀茂川で捕えた魚を売り歩いたり、店を構えてコンビニのようにさまざまなものを売ったり。こういうのは昔の絵画資料から読み取ることが出来ます。男性は普段必ず烏帽子を着けて、寝る時には家に烏帽子かけのようなものがあって、それに引っ掛けたりしたようです。女性は腰あたりまで髪を伸ばすことが多かったようで、それをひっつめて仕事をしていたみたいです。それでも邪魔ではなかったのかな、といらぬおせっかいをしてしまいます。
子どもたちは、たとえば五月になると、腰に菖蒲を刀のように差して、チャンバラのようなことをしています。取っ組み合いをするのもいつの時代も同じです。有名な
伴大納言絵巻
では、子どもの喧嘩がきっかけになって、伴大納言が放火したことが露見します(史実は陰謀によって伴大納言が濡れ衣を着せられただけかもしれませんが)。
山城と摂津の境のところにある山崎(サントリーの工場やウイスキーの銘柄でおなじみ)あたりでは荏胡麻油が作られていたようで、それを作る道具も『信貴山縁起絵巻』に残っていたりして、生活の様子がうかがえます。
前述の『伴大納言絵巻』には、朝堂院の正門である
応天門
が炎上した時の貴族、庶民を問わぬ慌てっぷりが描かれて、生き生きとしています。応天門というのは大内裏の南門であった朱雀門(東西の二条大路と南北の朱雀大路に面している)を入ってしばらく少し北に行ったところにある門で、とても立派なものでした。
それが炎上したとあっては、誰もが観に行こうとします。野次馬ですね。貴族や警察(検非違使)は馬に乗ってくるのですが、その従者を含めて周りの者は走っています。消防隊はありません。火災があるともう誰も消せないのです。ただ状況を見に来て人々を整理したり怪しげなものを見張ったりする検非違使があるばかりです。
馬上の検非違使や貴族の多くは沓(くつ)を履いています(中には、慌てていたのか、裸足の者も)が、二条大路や朱雀大路を走ってきた庶民たちはたいていが裸足です。
今と違って、右足を出すときは右手を出して、ナンバ走りをしています。
朱雀門を入るまではどこかうれしそうな庶民たちですが、実際に火災を目の当たりにすると怯えたようになります。強風にあおられて烏帽子が飛ばないように抑えながら逃げようとする者もいます。
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- [2020/10/24 00:00]
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源氏物語「少女」(4)
弘徽殿女御が中宮になれなかったことをその祖母(大宮)と父(内大臣)が嘆いていました。しかし彼らにはもう一人期待の星があったのです。それが、やはり内大臣の娘で弘徽殿女御とは異母姉妹にあたる雲居雁でした。十四歳で前途有望。姿も実にかわいらしく、五歳年少の春宮とは不釣り合いではありません。光源氏の娘の明石の姫君もいますが、入内するなら雲居雁が先でしょうし、子どもを産むということになるとどう考えても雲居雁が有利で、男子が生まれれば中宮への道はおのずから開けるのです。そんなことを夢想していたかもしれない大宮と内大臣の前に夕霧がやってきます。
「こなたに」とて、御几帳隔てて入れたてまつりたまへり。「をさをさ対面もえ賜はらぬかな。などかく、この御学問のあながちならむ。才のほどより あまり過ぎぬるもあぢきなきわざと、大臣も思し知れることなるを、かくおきてきこえたまふ、やうあらむとは思ひたまへながら、かう籠もりおはすることなむ、心苦しうはべる」と聞こえたまひて、「時々はことわざしたまへ。笛の音にも古事は、伝はるものなり」とて、御笛たてまつりたまふ。
(内大臣は)「こちらに(来なさい)」とおっしゃって几帳を隔ててお入れ申し上げなさる。「めったにお目にかかれなくなりましたね。どうしてそのようにひたすら学問をなさるのですか学才が身分以上になり過ぎるのもつまらないことと、太政大臣もおわかりのことなのに、このようにおしつけになるのもわけがあるのだろうとは存じますが、このように閉じこもっていらっしゃるのはおいたわしく存じております」と申し上げなさって、「ときどきはほかのこともなさってください。笛の音などにも昔からの伝えはあるものです」とおっしゃって、御笛を差し上げなさる。
内大臣は夕霧を迎えますが、「御几帳を隔てて」つまり雲居雁と直接顔を合わすような形にせずに招き入れます。内大臣は夕霧がひたすら学問に励んでいることについて疑問も呈して、たまには楽器もなさい、と笛を吹くように勧めます。学問だけでなく、笛の音ひとつをとっても昔からの教えというものはその中に潜んでいるものだというのでしょう。事実、賢者は音楽を愛するものでした。
いと若うをかしげなる音に吹きたてて、いみじうおもしろければ、御琴どもをばしばし止めて、大臣、拍子おどろおどろしからずうち鳴らしたまひて、「萩が花摺り」など歌ひたまふ。 「大殿も、かやうの御遊びに心止めたまひて、いそがしき御政事どもをば逃れたまふなりけり。げに、あぢきなき世に、心のゆくわざをしてこそ、過ぐしはべりなまほしけれ」などのたまひて御土器参りたまふに、暗うなれば、御殿油参り、御湯漬、くだものなど誰も誰もきこしめす。姫君はあなたに渡したてまつりたまひつ。しひて気遠くもてなしたまひ、「御琴の音ばかりをも聞かせたてまつらじ」と、今はこよなく隔てきこえたまふを、「いとほしきことありぬべき世なるこそ」と、近う仕うまつる大宮の御方のねび人ども、ささめきけり。
とても若々しく美しい音色で吹き上げて、たいそうおもしろいものなので、絃の楽器はしばらく弾くのをやめて、大臣は笏拍子を大げさにではなく打ち鳴らされて「萩が花ずり」などとお歌いになる。「大殿(光源氏)もこのような音楽の遊びに心をお寄せになって忙しい政務からお逃げになったのですね。なるほどつまらないこの世では満足できることをして過ごしたいものです」などとおっしゃって、盃を傾けられるうちに暗くなったので、灯りをともして御湯漬けやくだものなどをどなたも召しあがる。姫君は別室にお移しになってしまう。しいて遠ざけなさって、(雲居雁の)琴の音もお聞かせ申すまいと、今はむやみに隔て申し上げなさるのを「お気の毒なことが起こりそうなお二人の関係ですね」と近侍する大宮の老いた女房たちがささやいている。
夕霧は笛がとてもうまくて内大臣の和琴と雲居雁の筝はしばらく手を止めて聞き入ることにしました。「萩が花ずり」というのは、催馬楽の「更衣(ころもがへ)せむや さきむだちや わがきぬは 野原篠原 萩の花ずりや さきむだちや」(「更衣」)によるものです。一説には夕霧が早く六位の装束から色が改まるように(出世するように)という意味を込めたとも言われますが、さていかがでしょうか。この催馬楽では萩の花で染色するように詠まれていますが、実際は「榛(はり)」のことではないかとも言われます。光源氏が政務から逃れたというのは太政大臣という職について事実上の政務を内大臣に譲ったことを言うのです。中宮争いで敗北した内大臣は太政大臣になって煩わしいことからのがれた光源氏を皮肉交じりにうらやんでいるようです。酒が入り、食事も出されましたが、内大臣は雲居雁をわざわざ遠ざけました。「渡したてまつりたまひつ」の最後の「つ」にはいかにも内大臣が意図的に雲居雁と夕霧を引き離したようすがあらわれています。内大臣は雲居雁を春宮に差し上げるつもりですから、いくら親しかろうとほかの男は近づけてはならないのです。昔から使えているのであろう老いた女房たちは「お二人(夕霧と雲居雁)にとってなんとも気の毒なことだ」とひそひそと話しているのです。夕霧は内大臣の夢を壊す存在かも知れませんが、内大臣もまた夕霧の恋を邪魔する存在になりそうです。
大臣出でたまひぬるやうにて、忍びて人にもののたまふとて立ちたまへりけるを、やをらかい細りて出でたまふ道に、かかるささめき言をするに、あやしうなりたまひて、御耳とどめたまへば、わが御うへをぞ言ふ。「かしこがりたまへど、人の親よ。おのづから、おれたることこそ出で来べかめれ」「子を知るは、といふは、そらごとなめり」などぞつきしろふ。
大臣がお帰りになったようなふりをしてこっそりと女房に逢おうとしてお立ちになったのだったが、そっと身を細めてお出になる途中でこういうひそひそ話をしていたので、不思議にお感じになって耳をとどめていらっしゃるとご自身の噂話を言っている。「賢明そうにしていらっしゃるけど、人の親よね。自然とばかげたことば起こるでしょうよ」「子を知るは、というのはうそのようですね」などとつつき合っている。
内大臣は帰ると言っておきながら、ある女房のところに行くのです。おそらく愛人なのでしょう。こういうことはあたりまえのように行われていました。女房で愛人のようになっている女性は「召人(めしうど)」といいました。内大臣の様子は「やをらかい細りて」とあるように、身をひそめています。すると女房たちの噂話が聞こえてきたのです。「内大臣も所詮親ばかなのですね。娘のことなんて何も知らない。きっと厄介なことになりますね」などと言っています。「子を知るは」というのはおそらくことわざのようなもので、「子を知るのは親に勝るものはない」というようなことわざを引き合いに出して、それは嘘に違いないと言っています。要するに「娘のことなど何も分かっていない。夕霧との間に厄介なことが起きるだろう」と言っているわけです。父親は娘の恋愛についてはおよそ何も分かっておらず、事実を聞かされて大きなショックを受ける、というのは今も昔も同じなのですね。「つきしろふ」というのは相手の袖を引っ張ったり、軽くたたいたりしながら噂話をひそひそとすることを言います。今でも同じようなことをしますね。
あさましくもあるかな。さればよ。思ひ寄らぬことにはあらねど、いはけなきほどにうちたゆみて。世は憂きものにもありけるかな、と、けしきをつぶつぶと心得たまへど、音もせで出でたまひぬ。御前駆(さき)追ふ声のいかめしきにぞ、「殿は今こそ出でさせたまひけれ」「いづれの隈(くま)におはしましつらむ」「今さへかかる あだけこそ」と言ひあへり。
あきれたことだ。そうなのか。感づかないことではなかったのだが、幼いのだからと油断して・・。この世はつらいものよ、と、事情をつぶさにご理解になったが、音もたてずにお出ましになった。前駆の声がいかめしく聞こえるので「殿は今お出ましになったのですね」「どこに隠れていらっしゃったのでしょう」「今になってなおこんな浮気な・・」と言い合っている。
内大臣は事の次第を察するのです。まだ子どもだからと油断していると、とんでもないことになるのだ、と今さらながら思い知ったのです。今の今まで雲居雁を春宮に入内させる夢を思い描いていたのに、それが壊されるかもしれない。しかもつい先ごろ弘徽殿女御の立后を妨げたあの光源氏の息子に・・。それでも女房たちを問い詰めるのではなく、そっと出ていくあたりも内大臣の複雑な心理が描かれているように思います。女房たちは前駆(先払い)の荘厳な声が聞こえてきたので、今お帰りなのだ、ということは今までそばにいらっしゃったのだ、と気付きます。もちろん彼女たちはすぐに「召人と逢っていたのだ」と察します。だから、彼女たちは話を聞かれたこと以前に内大臣の「あだけ(浮ついた心。浮気心)」をまず感じたのです。
ささめき言の人びとは、「いとかうばしき香のうちそよめき出でつるは、冠者(くわざ)の君のおはしつると こそ思ひつれ」「あな、むくつけや。しりう言(ごと)やほの聞こしめしつらむ。わづらはしき御心を」と、わびあへり。
ひそひそ話をしていた人は、「とても香ばしい薫物がそよそよと漂ってきたのは冠者の君(夕霧)がいらっしゃったのだとばかり思っていました」「なんとおそろしい。陰口をわずかにでもお聞きになってしまったでしょうか。気むずかしいお人柄なのに」とそれぞれに困惑している。
女房はやっと気づきます。あのいい香りは夕霧のものだと思っていたのに、そうではなかったのだ、ということは私たちが話していたことをお聞きになったのではないか、厄介な性格の人だからどんなことになるか知れたものではない・・。女房たちの不安は読者の不安でもあるでしょう。読者もここまで読むと、何か厄介なことが起こるに違いないと感じているはずです。
殿は、道すがら思すに、いと口惜しく悪しきことにはあらねど、めづらしげなきあはひに、世人も思ひ言ふべきこと。大臣の、しひて女御をおし沈めたまふもつらきに、わくらばに、人にまさることもやとこそ思ひつれ、ねたくもあるかな、と思す。
内大臣殿は、帰りの道すがらお考えになる。まったく残念で悪い話というわけではないが、珍しいわけでもないご縁談だと世間の人も思ったり言ったりすることだ。大臣(光源氏)が、無理やり(弘徽殿)女御を押さえつけられたことでさえつらいのに、ひょっとして人にまさることにもなろうかと思っていたのだ。妬ましいこと、とお思いになる。
内大臣は、夕霧との縁談であれば、とんでもない話というわけではないと思うのです。しかし世間はありふれた縁談だと思うだろうとも危惧します。春宮に差し上げるということになれば「ありふれた」ものではないのです。光源氏の家との縁組は大臣同士の子女の結婚としてはありふれたものなのでしょう。それにしても、弘徽殿女御の立后を妨げた光源氏だけに、もし雲居雁が入内して、将来中宮になれば鼻を明かせることができるという気持ちもあったでしょう。それなのにまた、してやられた、という思いを抱いています。
殿の御仲の、おほかたには昔も今もいとよくおはしながら、かやうの方にては、挑みきこえたまひし名残も思し出でて、心憂ければ、寝覚がちにて明かしたまふ。大宮をも、さやうのけしきには御覧ずらむものを、「世になくかなしくしたまふ御孫にて、まかせて見たまふならむ」と、人びとの言ひしけしきを、めざましうねたしと思すに、御心動きて、すこし男々(をを)しくあざやぎたる御心には、しづめがたし。
大臣同士の仲は、だいたいは昔も今もとてもよくていらっしゃるのだが、このようなことになると張り合われた経緯を思い出されて憂鬱なお気持ちになるので目覚めがちに夜をお明かしになる。大宮もそういうそぶりについてはご覧になっているであろうに、「このうえなくかわいがっていらっしゃる御孫で、自由にさせておせわなさっているのでしょう」と女房たちが言っていたようすを、心外で妬ましいこととお思いになると、御心が動揺して、いくらか荒っぽく何ごともはっきりさせなければ気の済まないご性格なので我慢がおできにならない。
光源氏と内大臣は子どもの頃から仲は悪くないのです。しかし何かというと張り合う気持ちが、特に内大臣に強く、たとえば「絵合」巻で、斎宮女御(梅壺女御。秋好中宮)に負けてなるものかと精一杯の対抗心を燃やしていたことが思い出されるでしょう。そんなことを考えると寝られなくなってしまうのです。大宮も知らないはずはないのに、そう言えば女房たちが「自由に遊ばせている」というようなことを言っていたな、などと考えると、もともと気の強い、曲がったことの嫌いな融通の利かない人ですからいらいらしてくるのです。現代でも、普段は自分も娘を放置しているのに、現実に身近で育てている者(子の母だとか祖母だとか)が目を光らせていないのが悪いと言いたげな父親はしばしば見かけるように思うのですが、いかがでしょうか。
二日ばかりありて参りたまへり。しきりに参りたまふ時は大宮もいと御心ゆき、うれしきものに思いたり。御尼額(あまびたひ)ひきつくろひ、うるはしき御小袿(こうちき)などたてまつり添へて、 子ながら恥づかしげにおはする御人ざまなれば、まほならずぞ見えたてまつりたまふ。大臣御けしき悪しくて、「ここにさぶらふもはしたなく、人びといかに見はべらむと、心置かれにたり。はかばかしき身にはべらねど、世にはべらむ限り、御目離れず御覧ぜられ、おぼつかなき隔てなくとこそ思ひたまふれ、よからぬもののうへにて、恨めしと思ひきこえさせつべきことの出でまうで来たるを、かうも思うたまへじとかつは思ひたまふれど、なほ静めがたく おぼえはべりてなむ」と、涙おし拭ひたまふに、宮、化粧(けさう)じたまへる御顔の色違(たが)ひて、御目も大きになりぬ。
二日ほどして(内大臣は大宮邸に)参上なさった。頻繁に参上なさるのは大宮もご満足で、嬉しいこととお思いになっている。尼削ぎの額髪をつくろって立派な小袿を重ねてお召しになり、わが子ながら気恥ずかしくなるような人柄なので、直接顔を合わせるのではない形でお会いになる。大臣はご機嫌が悪く、「こちらにうかがいますのもきまり悪いことで、女房たちはどんなふうにみていますやら、と気が引けるのです。私はたいした人間ではございませんが、この世におります限りはご無沙汰することなくお目にかかり、気がかりになるような分け隔てなどしないでおこうと思っておりますが、ぶしつけな娘のことで恨めしいことと申し上げねばならないことが起こりましたので、このように考えたりはするまいと一方では思っておりますが、やはり心を鎮めることができませんので」と涙をお拭いになるので、大宮は化粧をなさったお顔の色も変わって目も大きく開かれてしまった。
「二日ばかりありて」とありますが、この二日間、内大臣は思い悩んでいたのかもしれません。一週間ほどして、では間延びしますし、翌日すぐにというのでは衝動的に過ぎるでしょうから、「二日ばかりありて」というのも無意味な表現ではないと思います。大宮は息子の来訪を喜び、身なりを整えて迎えるのですが、内大臣はご機嫌斜めです。あの陰口を聞いたからには、疑心暗鬼を生じて女房が自分を見下しているようにすら思えるのでしょう。そういう心理がうかがえます。内大臣は、娘のことで困ったことが起きているようだ、ということを恨みがましく言って涙ぐんでいます。大宮は驚いて、化粧をして整えていた顔色も変わり、目を見開くほどでした。「宮、驚きたまひぬ」と言えば済むことかもしれませんが、作者はあえて大宮の顔色や見開いた眼を描写して「驚く」という言葉を用いずに彼女の心を表現して見せます。
「いかやうなることにてか、今さらの齢の末に、心置きては思さるらむ」と聞こえたまふも、さすがにいとほしけれど、「頼もしき御蔭に幼き者をたてまつりおきて、みづからはなかなか幼くより見たまへもつかず、まづ目に近きが、交じらひなどはかばかしからぬを見たまへ嘆きいとなみつつ、さりとも人となさせたまひてむと頼みわたりはべりつるに、 思はずなることのはべりければ、いと口惜しうなむ。まことに天の下並ぶ人なき有職にはものせらるめれど、親しきほどにかかるは、人の聞き思ふところも、あはつけきやうになむ何ばかりのほどにもあらぬ仲らひにだにしはべるを、かの人の御ためにもいとかたはなることなり。さし離れ、きらきらしうめづらしげあるあたりに、今めかしうもてなさるるこそをかしけれ。ゆかりむつび、ねぢけがましきさまにて、大臣も聞き思すところはべりなむ。さるにても、かかることなむと知らせたまひて、ことさらにもてなし、すこしゆかしげあることをまぜてこそはべらめ。幼き人びとの心にまかせて御覧じ放ちけるを、心憂く思うたまふ」など聞こえたまふに、
「どういうわけで、老いた歳になって心を隔てなさるのでしょうか」と申し上げなさるのも、内大臣はさすがにおいたわしくは思うのだが、「心底頼れる方だと思って幼い娘をお預けして私自身は父親なのに幼い頃から面倒も見られませず、まず身近な者(弘徽殿女御)がうまく立后できなかったことを目の当たりにして嘆いては何とかしようとしており、いくらなんでもこちらの娘(雲居雁)は一人前にしてくださるにちがいないとご信頼申し上げてまいりましたのに、思いがけないことがございましたのでとても悔やんでおります。(夕霧は)まことに天下に並ぶ者のない学識者ではいらっしゃるようですが、(従姉弟という)親しい関係の者がこのようなことになるのは、世間の人の聞き思うところも、さほどの身分でもない者の場合でも浅はかなことと考えていますのに、あの人(夕霧)の御ためにもまったく見苦しいことです。縁のない人できちんとした目新しい家に、はなやかに迎えられるのがよいことなのです。親戚同士で馴れあうのはまともではないことで、大臣(光源氏)もお聞きになったらそうお思いになるでしょう。それにしても、こういうことがあるとお知らせくださって、ことさらに体裁を整えていくらかでも世間が納得するような形にするのがよいでしょうに。幼い人の心のままに放置されていらっしゃったことをつらいことに存じております」などと申し上げなさると、
内大臣は母親の大宮に対して雲居雁の養育の放任主義をなじるのです。自分は弘徽殿女御のことで手いっぱいだったために雲居雁については大宮に任せきりにしていたが、それはきっと娘を一人前にしてくださるだろうと信頼していたからこそだ、それなのに従姉弟同士で馴れ合いのように深い関係になるというなど世間体があまりにも悪いではないか、夕霧は学問のできる人ではあるが、血縁の濃い関係でこのようなことになるのはどちらにとっても不都合なことになる、光源氏もよくは思われないだろう、どうして事情を知らせてくれなかったのか、放任されるのもほどほどにしていただきたい、と延々と愚痴をこぼすのです。彼は世間体をとても重視していますが、実際は、春宮に入内されるつもりなのに、それがダメになってしまいそうなことが何よりも口惜しいのではないでしょうか。いとこ同士の結婚はこの当時は珍しいことではなく、光源氏と葵の上も従姉弟です。
夢にも知りたまはぬことなれば、あさましう思して、「げに、かうのたまふもことわりなれど、かけてもこの人びとの下の心なむ知りはべらざりける。げに、いと口惜しきことは、ここにこそまして嘆くべくはべれ。もろともに罪をおほせたまふは恨めしきことになむ。見たてまつりしより心ことに思ひはべりて、そこに思しいたらぬことをも、すぐれたるさまにもてなさむとこそ人知れず思ひはべれ。ものげなきほどを心の闇に惑ひて、急ぎものせむとは思ひ寄らぬことになむ。さても、誰かはかかることは聞こえけむ。よからぬ世の人の言につきて、きはだけく思しのたまふも、あぢきなくむなしきことにて人の御名や穢(けが)れむ」とのたまへば、
夢にもご存じではないことなので、意外なこととあきれられて「なるほど、このようにおっしゃるのも道理ですが、私は誓ってこの人たちの心の中は知らなかったのです。ほんとうに残念なことといったら、私の方こそもっと嘆きたいのです。同罪のようにおっしゃいますのは恨めしいことです。(雲居雁を)お世話し始めたときから格別に心をかけて、あなたが思い至ることがおできにならぬようなことまでも立派に育ててあげようと人知れず思っておりました。まだ一人前にもなっていない人たちなのに、孫かわいさの心の闇に眼がくらんで、急いでことを運ぼうなどとは思いもよらないことです。それにしても、誰がこんなことを申し上げたのでしょう。よからぬ世間の噂話を真に受けて手厳しくお考えになってはこのようにおっしゃるのもつまらなくいいかげんなことで、姫君の御名が穢れましょう」とおっしゃると、
大宮はびっくりしました。自分も知らなかった孫たちの恋愛について聞かされたのですから。自分としては雲居雁を一生懸命育ててきたし、男親にはわからないようなことまでこまごまと教えてもきた、という自負もありますから、内大臣があまりにも頭ごなしにとがめるものですから反論もしたくなるでしょう。そしてそれは無責任な噂に過ぎないでしょうと、興奮している息子をなだめるように言います。
「何の浮きたることにかはべらむ。さぶらふめる人びとも、かつは皆もどき笑ふべかめるものを、いと口惜しく、やすからず思うたまへらるるや」とて、立ちたまひぬ。心知れるどちは、いみじういとほしく思ふ。一夜のしりう言の人びとは、まして心地も違ひて、「何にかかる睦物語をしけむ」と、思ひ嘆きあへり。
「どうしてでたらめなんかでありましょうか。お仕えしている女房たちも、一方ではみなあしざまに言って笑っているようですのに。まったく残念で心配に思われるのですよ」といってお立ちになった。事情を知っている女房たちはたいそうおいたわしいことと思う。先夜陰口をたたいていた人たちはまして動揺して、どうしてあんなふざけた話をしたのだろう、と思い嘆き合っている。
内大臣はいいかげんな話ではなく、女房たちが陰でこそこそ笑っているのだと、なおも厳しく言います。それだけを言うと、ぷいと立ち上がります。この部分を『岷江入楚』は「内府鬱憤散せさるのさま也(内大臣が鬱憤を晴らせないようすである」と言っています。内大臣の厳しい言葉におののいたのは女房たちです。若い二人の恋心を知っている人は、気の毒なことになりそうだ、と思い、先日ひそひそ話をしていた女房たちは後悔しているのです。
さて、若い二人の運命やいかに。
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- [2020/10/23 00:00]
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下戸にまっしぐら(2)
昨日書いた横山大観と言えば、酒豪で知られ、広島県三原市のお酒である「酔心」を愛したことで知られます。大観は、もともとは下戸だったそうですが、岡倉天心に「お酒の一升くらい飲めないとだめだ」というようなことを言われ、実際に一日に一升も二升も飲めるようになったそうです。ほんとうに下戸だったのでしょうかね? 大観は自分のことを「酒豪」ではなく「酒徒」だといったと伝わりますが、その彼が愛したのが「酔心」だということです。大観は「酔心」の社長とは親しくなって、社長は大観にずっとお酒を提供したのだとか。私も4年間広島にいたときは、「賀茂鶴」とか「賀茂泉」とかこの「酔心」とか、あちらの銘酒をいろいろいただきました。
関西のお酒というと灘の酒が有名で、西宮、神戸、伊丹などでは今でも酒造が盛んです。
その中で異彩を放つのが池田のお酒である
呉春
ではないでしょうか。桂枝雀さんも愛されたそうですが、私も一時興味を持ったことがあって、なかなか手に入らないこのお酒を、わざわざ池田まで買いに行ったことがあります。「池田の酒買い」です。その後、生産量が増えたのか、このお酒はずいぶん出回るようになって、家の近くの酒屋でもいつも置いてあります。しかしこれも贅沢なので次第に私の口には入らなくなりました。
ところが先日、スーパーでこの「呉春」を発見したのです。しかも、一升瓶が1000円(税別)! 在庫処分なのかとは思いますが、こういうことをされると買わないわけにはいかないでしょう。
早速入手して、これで5日は楽しめそうだと思っていたのです。
栓を開けるといい香りがします。醍醐味ですね。飲んでみると在庫処分であろうが何だろうが、呉春は呉春です。やはりおいしいのです(あまりよくわかっていませんが)。
ところが、
一合
も飲まないうちに満足してしまって、その日は終わり。
次の日も同じくらいでじゅうぶんでした。
下戸になるにもほどがある! と思いつつ、これなら10日楽しめるわけなので、けっこうな話じゃないかと思うようになりました。
‥で、結局2週間かかってしまいました(笑)。
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- [2020/10/22 00:00]
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下戸にまっしぐら(1)
私は学生の頃はけっこうお酒を飲みました。兄はまったく飲めないのですが、私は父親の血筋らしく、初めて飲んだ高校生の頃(←コラ)から平気でした。その後も酒席は大好きで、いろんな方と交流が持てたのもお酒のおかげという面があったと思います。
最高でどれくらい飲んだのかはわかりませんが、先代桐竹勘十郎師匠のように夜行列車でビール66本などというわけにはいかないのですが、弱い方ではありませんでした。
しかし、酒席に出なくなって、家でもほとんど飲まなくなりましたので、弱くなる一方です。文楽の愛好家の方々と「両輪」さん、「福家」さんでご一緒したのを除くと、仕事場の集まりや忘年会、新年会の類、何かの打ち上げなど、すべてキャンセルしてきました。
20年ほど前
までは毎晩ビールを飲んでいたのですが、どんどん収入が下がっていったために(笑)ビールが発泡酒になり、発泡酒が第三のビールになったところで、どうにもおいしいと思わなくなり、やめてしまったのです。
私の知る「第三のビール」に比べると、最近のものはきっとおいしくなっているのでしょうが、初めて飲んだ時の味がトラウマのようになっていますので、今もまったく触手が伸びません。ただでも飲まない・・という自信はありませんが、お金を出してまでは飲む気になりません。
最近、税率が上がったという噂も聞きますので、ますます遠い存在になりました。
スコッチも好きでしたが、これももういつ以来だろうと思うくらい記憶の彼方です。ワインは、最近安いのも多く、何かの時に奮発して780円くらいの(笑)ものを買うことはあります。
日本酒と言えば、一時は
白鷹
を愛して少し高くても買っていました。日本酒の良さというか、違いなどほとんどわからないのですが、「私の愛飲しているのは白鷹です」なんて、格好をつけるために(笑)もこれに決めていました。よくあるじゃないですか、「横山大観の愛した『酔心』」みたいなの。
これもその後は日本盛や白鹿の紙パック入りになり、最近は寒い時限定で、さらに安価な(笑)聞いたこともないような銘柄の紙パック入りを飲むことがあるくらいです。
ところが先日、スーパーで思いがけないお酒を発見しました。
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- [2020/10/21 00:00]
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『枕草子』と平安時代を読む(3)
楽器にまつわる話が続きました。次は「ねたきもの」です。「ねたし(妬し)」の語義について渡辺実先生の「枕草子心状語要覧」(岩波新日本古典文学大系)」から説明を引用します。
「にくし」が、責任は一切相手にある、
という攻撃的な不愉快感であるのに対し
て、これは、自分の備わりの不足に原因
があると認める不快感。すなわち自分の
能力や、注意力などが、もう少し立派で
あったならば防げたかもしれないのに、
それが十分でなかったために、不快な事
態の生起を許してしまったといった思い
を表わす。つまり相手への攻撃によって
不快感から解放されようというのでなく、
自分の内を省みつつ攻撃に出ない所に基
本線があるような感情と言えよう。
単に「癪なもの」「ねたましいもの」と解釈するだけでなく、深くその後の意味を知ったうえで読むと、また味わいが違ってくるかもしれません。
ねたきもの。人のもとにこれよりやるも、人の返事(かへりごと)も、書きてやりつるのち、文字一つ二つ思ひなほしたる。とみの物縫ふに、かしこう縫ひつと思ふに、針をひきぬきつれば、はやくしりをむすばざりけり。また、かへさまに縫ひたるもねたし。
【語釈】
人のもとにこれよりやる・・こちらから出す手紙
人の返事・・人からもらった手紙に対する返信
文字・・ことば。あの言葉はこう書くべきだった、と考え直す
かしこう縫ひつ・・うまく縫った。「つ」は、し終えたというニュアンス。
しり・・糸の、針の反対側。最初に結ばずに縫ったのですべて糸が抜けてしまった
かへさま・・「反し様(かへしさま)」のこと。裏返し
いまいましいもの。人のところにこちらから送る手紙でも、返事の場合でも、書いて送ったあとで言葉をひとつふたつ考え直したの。急ぎのものを縫うのに、うまく縫えたと思って張りを引き抜いてしまったところ、なんとまあ、糸の先を結んでいなかったのだった。また裏表に縫った時もしゃくにさわる。
自分のしでかしたことだけに誰にも文句は言えないのですが、癪に障ることってありますよね。手紙を送ったあと、こう書けばよかったと思ってももう手遅れです。自分が悪いのですが後悔します。現代でも、ポストに手紙を落とした瞬間に「あ、こう書けばよかった」と思ったときなどは悔しいです。そして、縫物をするときに、糸の先を丸めて玉にしなければならないのにうっかり忘れて縫い、できたと思ってスーッと抜いたら糸が全部抜けた、なんて、私も経験のあることです。当時の女性たちにとっても、裁縫は重要な仕事で、『源氏物語』でも花散里という人物などはこれが得意でした。
南の院におはしますころ、「とみの御物なり。誰も誰も時かはさず、あまたして縫ひてまゐらせよ」とて給はせたるに、南面にあつまりて、御衣の片身づつ、誰かとく縫ふと、近くも向かはず縫ふさまも、いとものぐるほし。命婦の乳母、いととく縫ひはててうち置きつる、ゆたけの片の身を縫ひつるが、そむきざまなるを見つけで、とぢめもしあへず、まどひをきて立ちぬるが、御背あはすれば、はやくたがひたりけり。
【語釈】
南の院・・東三条殿の南院。後述。
時かはさず・・次の時にならないように。たとえば今が午(うま)の剋なら未(ひつじ)の剋にならないうちに。
南面・・邸の南側。南の廂の間か。
誰かとく縫ふ・・誰が一番早いか、と競争する様子。
近くも向かはず縫ふ・・向き合っているとおしゃべりをしたりするので、そういうこともせずに黙々と針を動かす様子。
ものぐるほし・・狂気じみている。殺気立った様子であろう。
命婦の乳母・・不詳。「御乳母の大夫の命婦」の段で日向国に下る人物と同じ日とかとも言われる。中宮の乳母か。一説に高階光子(中宮の母方の叔母)のこととも。裁縫がすばやいわりに、裏表にしてしまい、かつ結ぶことを怠るような高齢を思わせる粗忽さがあり、あと始末を若い者にさせようとするわがままなところから、高齢で古参の人物と想像される。
ゆたけ・・裄丈。命婦の乳母は裄丈の片身頃を縫った。
とぢめ・・縫いどめ。
御背あはすれば・・反対側(命婦の乳母が右半分ならこれは左半分)と合わせてみると。
はやくたがひたりけり・・「はやく」は驚きの気持ちを意味する言葉で「なんともまあ」「もののみごとに」というような意味。
(東三条殿の)南院に(中宮様が)いらっしゃるころ「急ぎの(中宮の)お召し物です。誰も皆、時を移さず大勢で縫ってさしあげなさい」といって(布を)くだされたので、南面に集まってお召し物の片方ずつを、誰が早く縫うか、というので、近くに向き合うこともせずに縫う様子と言ったらまったく正気の沙汰ではない。命婦の乳母はとても早く縫い終えてそこに置いたのだが、裄丈の片方を縫ったのだが、裏返しなのに気づかずに、結びどめもしないうちにあわてて立ったのだが、(もう一方と)背を合わせると見事に違っていた。
「南の院」というのは東三条殿という広大な屋敷の南側の建物のことです。この邸は二条通りの南、西洞院の東の南北二町(通常の寝殿造りの邸の二倍。後の藤原道長の土御門殿も同じ南北二町)の邸で、中宮定子の父道隆はこの南の院を自邸としていました。そして長徳元年(995)四月六日に道隆は病のためにこの邸で出家し、同じ日に中宮定子は南の院にやってきましたが、その四日後の四月十日に道隆は亡くなったのです。そして『枕草子』のこの場面は、道隆薨去後すぐのことではないかという説があります。これについては次の文章のところでもう一度書きます。さて、急な縫物の要請が来たのですが、「とみの御物」と「御」が付いていますので、中宮の着るもののようです。女房たちが集まって、競争するようにお互い顔を見合わせることもなくせっせと針を動かしています。その様子は「狂気の沙汰」のようだ、と清少納言は言います。そして、見事トップを飾ったのは命婦の乳母という人でした。縫い終えたものを置いて彼女はさっと立ち上がったのです。いかにも縫物ならお任せ、と言わんばかりのプライドの高さを感じさせます。ところがその出来上がったものは裏返しでしかも結びどめをしていない中途半端な仕上がりでした。その片身頃をもう一方のものと合わせてみるとみごとに違っていたのです。
笑ひののしりて、「はやくこれ縫ひなほせ」といふを「誰あしう縫ひたりとしりてかなほさむ。綾などならばこそ、裏を見ざらむ人もげにとなほさめ、無紋の御衣なれば、何をしるしにてか。なほす人誰もあらむ。まだ縫ひ給はぬ人になほさせよ」とて聞かねば、さいひてあらむやとて、源少納言、中納言の君などいふ人たち、もの憂げにとりよせて縫ひ給ひしを、見やりてゐたりしこそをかしかりしか。
【語釈】
笑ひののしりて・・「ののしる」は大声をあげること。誰もが大笑いしている。してやったりと思っていた命婦の乳母にしてみれば恥をかかされたような気持ちになるだろう。
誰あしう縫ひたりとしりてかなほさむ・・間違って縫ってあるなんてどうせ誰にもわからないのだから、縫い直すことはない、と強がりを言う。
綾などならばこそ・・綾織物であれば表裏は分かるから縫い直すが、これは無紋(文様がない)なのだから表か裏かなど、何を目当てにそれに気付くだろうか、と強弁する。
なほす人誰もあらむ・・直すのであれば、誰でも直せばいい。かなり捨て鉢な表現。
さいひてあらむ・・急ぎのものだけに、いつまでもこんなことをいっているわけにはいかない、というので。
源少納言・・不詳。中宮の女房であろう。
中納言の君・・藤原忠君の娘とされる。
もの憂げに・・わがままを言う命婦の乳母のしりぬぐいをするのでいかにもしぶしぶという様子。
見やりてゐたりし・・命婦の乳母が源少納言らの縫い直しを見ている。
をかしかりしか・・この「をかし」は滑稽なようすだろう。いい歳をして自分の失敗を素直に認めず若い人の仕事を増やす老女房のぶざまな姿。
大きな声で笑って「すぐにこれを縫い直せ」というのを(命婦の乳母は)「間違って縫ってあるとわかる者はいないのに直すものですか。綾などなら裏を見ないような人でもなるほどしかたないと直しましょうが、無紋のお召し物なのだから何を目印にわかるでしょうか。縫い直す人は誰でもいるでしょう。まだ縫っていらっしゃらない人に直させなさいよ」と言って聞かないので、そんなことばかり言ってもいられないというので源少納言や中納言の君などという人たちが、面倒くさそうに取り寄せてお縫いになったのを(命婦の乳母が)じっと座って見ていたのはおもしろいことであった。
この場面が道隆薨去後すぐのこととするのに疑問を投げかけたくなるのは、このときの女房たちの態度ゆえなのです。急のお召し物でしかも無紋(文様がない)というのは喪服のことだろうと考えられているのですが、それにしては女房たちが大きな声で笑い合っていることや、命婦の乳母がいかにも面倒だと言わんばかりの投げやりな態度でものを言ったり仕事をしたりしているところなどがこの悲痛な時の言動としては違和感がありはしないでしょうか。それでも、中宮ともあろう人がそう簡単に父の邸に行くということはありえませんので、悲しい中で女房たちも混乱しているからこその出来事と見るほかはないかもしれません。
おもしろき萩、薄(すすき)などを植ゑて見るほどに、長櫃(ながびつ)持たるもの、鋤(すき)などひきさげて、ただ掘りに掘りていぬるこそわびしうねたけれ。よろしき人などのある時は、さもせぬものを。いみじう制すれど「ただすこし」などうちいひていぬる、いふかひなくねたし。
【語釈】
萩、薄・・秋の草花
植ゑて見る・・移植して観賞する。
長櫃・・直方体の入れ物。上に棒を差し込んで二人でかついでいく。この長櫃に萩や薄を入れて持ち去る。
ただ掘りに掘りて・・勝手にどんどん掘って。権力者が家来に命じて勝手に抜いていくのであろう。
わびしうねたけれ・・制止できないので、どうしようもなく癪に障る。
よろしき人・・ちょっとした男性。女の身の上ではなかなか制止できないが、多少身分の低い者でも、男がいれば文句の一つも言えるだろうに、という歯がゆさ。
ただすこし・・「少しだけだから」と清少納言らの声を無視するように持って行こうとする。いかにも女だからと軽んじられているようで癪にさわる。
美しい萩、薄などを植えて観ている時に、長櫃を持っている者が鋤などを引っ提げてどんどん掘って持って行ってしまうのは、どうにもできずにいまいましい。それなりの者がいる時ならそんなことはさせないのだが。きつく制したのだが、「少しだけ」といって持ち去ってしまうのはいいようもなく癪だ。
秋の草花を観賞しようとしていると、長櫃を持って鋤を使って掘っては持って行く者があります。現代なら信じられないような光景ですが、こういうことはあり得たのでしょう。当然、この場所は中宮の居所であるはずがなく、清少納言の家なのではないでしょうか。そもそも、草花は種を蒔いて育てるというよりは、野に咲くものを持ってきて植えこんで観賞することがありましたので、清少納言にしてもどこかから持ってきた草花かもしれません。そして、身分の高い者が、清少納言のところにきれいな萩が咲いているという話を聞いて、「それではそれを持ってこい」などと家来に命じることもできたわけです。『源氏物語』「夕顔」では光源氏は夕顔の家に咲いて花の夕顔を家来にひと房持ってこいと、家主に断りもせずに言っています。そういうことが平気で行われていたとすると、清少納言クラスの家でも勝手に持って行く者がいても不自然ではないと思います。ここでは「ねたきもの」ですから、そういう連中が憎らしいというよりは、彼らに対して何もできない自分たちがいまいましい感じです。きつく制止してくれる男がいればいいのですが、女性では表に出ていって奪い返すわけにもいかないのです。
受領などの家にも、ものの下部(しもべ)などの来(き)て、なめげにいひ、さりとて我をばいかがせむなど思ひたる、いとねたげなり。見まほしき文などを、人のとりて庭に下りて見たてる、いとわびしくねたく思ひていけど、簾のもとにとまりて見立てる心地こそ、とびも出でぬべき心地こそすれ。
【語釈】
ものの下部・・それなりの立派な家の下部。
なめげにいひ・・高飛車なものの言い方をする。
さりとて・・偉そうに言っているからとはいえ。
我をばいかがせむ・・権門の家来である自分に文句は言えないだろう、と思っている。虎の威を借る狐。
いとねたげなり・・まったくいまいましい。
見まほしき文・・読みたいと思っていた手紙。待ちわびていた手紙が来たのであろう。
人のとりて・・その手紙を取り上げて庭に下りて読むのだから男であろう。
いけど・・男の後を追うのだけれど。
簾のもとにとまりて・・庭に下りるわけにもいかず、簾のそばで手を拱いてみているほかはない。
見立てる・・見て立っている。立って見ている。
とびも出でぬべき心地・・今にも庭に飛び出してしまいそうな気持ち。
受領(地方官)などの家でも、立派な家の下部などが来て、無礼な口をきいて、下部だからといって自分をどうすることもできないだろうと思っているのはとても癪だ。読みたい手紙などを、人が取って庭に下りて立って読んでいるのはまったくどうしようもなくいまいましいと思ってそちらに行くのだが、簾のそばに立ち止まって見ている気分ときたら、今にも飛び出したくなるな感じだ。
虎の威を借る狐のように、ご大家の下部は主人の権威をかさにきて乱暴な物言いをします。そして「おれは○○様の家来だぞ」といって反論もさせないので、そういう連中が癪に障るのです。今でもいそうな、いやなタイプの人間です(笑)。
手紙を読もうと思ったら、人(男でしょう)が取って庭に下りて勝手に読んでいるのです。追いかけて取り返したいのですが、女性の身の上でそう簡単に庭まで下りることもできません。それで簾のところまで行って「返して」と言ってもどうにもならず、癪に障るのです。これも相手の行動そのものを責めるのではなく、どうにも身動きできない自分がいまいましいという気持ちなのでしょう。現代人の考え方なら、日との手紙を勝手に読むなんてあり得ないですが、こういうこともあったのですね。『源氏物語』「夕霧」巻では落葉の宮の母である一条御息所から来た手紙を夕霧が読もうとしていると、ラブレターだと思った夕霧の妻(雲居雁)が背後から奪って隠してしまう、という場面があります。「若菜下」巻では柏木から女三宮あてに届いたラブレターを見つけた光源氏が、女三宮が寝ているときに勝手に読んでしまうという場面もあります。
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- [2020/10/20 00:00]
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奈良に行きたい
例年、奈良市の幼稚園に社会活動のつもりで出かけています。文楽人形を持って行って、地元の皆さんに稽古していただき、園児たちに人形劇を見てもらっているのです。
しかし、今年はやはりそういうわけにはいかず、中止が決まりました。まことに残念ですが、やむを得ないことと思っています。
幼稚園に行けば旧知の人に会うこともできます。年に一度のことですので、それも楽しみなのですがしかたがないことです。
奈良に行くのは、幼稚園だけが目的ではありません。この幼稚園は奈良市といってもかなり西の方なので、あまり遺跡などは多くはないところです。でも、せっかく奈良に行くのですから、中心部を訪ねることもしばしばありました。折しも、この時期は
正倉院展
が行われる頃です。私が行くのは平日ですので、あまり混まずに済みますから、何度か行きました。あの有名な瑠璃坏も観に行きました
今年は入場のためには予約が必要で、1時間当たりの人数が制限されるそうです。どちらにしても行けなかっただろう、とあきらめることにしました。
奈良と言えば、もちろん博物館だけではありません。近鉄奈良駅からすぐのところにいくらでも旧跡や寺社があります。いつぞやは6月だったと思うのですが、博物館で信貴山縁起絵巻を観たあと、春日大社から東大寺などを回ってまた博物館に戻って、そのあとは興福寺だの猿沢池だのまあとにかく歩き回ったことを覚えています。
今年は、
仏像の鑑賞
についての本を少し読みましたので、その知識を忘れないうちに新薬師寺とか東大寺あたりにも行ってみたかったのです。なるほどこうなっているのか、ということを今なら確認できそうなのに、惜しいです。
奈良というとしばらくご無沙汰しているのが西の京の方です。唐招提寺にも薬師寺にもずいぶん長らく行っていません。
平城京跡は、実は通過するばかりでまともに歩いたことがありません。
京都ならある程度は分かるのですが、奈良というところは実はあまりよくわかっていないのです。
来年、行けるかな、それまで元気でいられるかな、と不安を抱きながら、いくらか期待しています。
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- [2020/10/19 00:00]
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仏像を知らない(2)
仏像の入門書はいろいろ出ています。そこで、中学生になった気持ちで写真の多い、しかも持ち運びの簡単な軽い解説書を求めて図書館に行きました。
毎日新聞社の「めだかの本」シリーズの「魅惑の仏像」が何冊か置かれていました。100ページほどで写真が多く、すぐに読めそうでしたので、まずはこのあたりから、と出発しました。
宇治平等院の阿弥陀如来、飛鳥法隆寺の釈迦三尊像、奈良新薬師寺の十二神将、奈良東大寺の四天王の順に読みました。
像の話、それぞれの仏神の話、寺の話のほか、塑像、木造、金銅像などさまざまな
像の作り方
の解説もあって、入門には便利でした。
私は不器用で、工作というのがまるでダメ。小学校の図画工作の時間は自分の無能を思い知る時間でした(涙)。中でも、石膏細工なんていうのはきれいにできたことがありません。高校の芸術科目(音楽、美術、書道)の選択では、一番に美術を外したほどです(悪筆を少しでも普通に近づけたいと思って書道を取りました)。
塑像というと、現代なら石膏像やブロンズ像にする原形のようなイメージがありますが、たとえば新薬師寺の十二神将などは土で作ったものがそのまま完成作品になっています。土は乾燥したら縮んでしまうでしょうし、その結果割れてしまうこともあります。そこをうまく工夫して塑像が作られたのです。
このたび学んだのですが、骨組みにあたる心木に大体の姿を決める荒土をつけていって、その上に形を決める中土をつけるそうです。これにはもみ殻などが混ぜられていて、それが土痩せを防ぐのだそうです。そしてその上に仕上げ土できれいに整えていくのだとか。その際に、目には
ガラス玉
をはめ込んで、これで一気に生命感が出るのですね。さらに白土を塗って、いよいよ彩色をします。像そのものは亀裂もなく残っていることが多いようですが、この彩色はどうしても剥落してしまいます。ただ、それはそれで歴史の深みを感じさせるようで美しくすらあると思います。
金銅像や木造の作りについても学べておもしろく感じました。寄木造については何となくわかってはいましたが、きちんと説明してもらうとうまくできているものだと感じます。
このあと、もう少し続けてこのシリーズを読んで、できればいくらか専門色の強いものも勉強したいと思っています。
ただ、そのころには塑像ってどうやって造るんだっけ? と早くも忘れているような予感があります(笑)。
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- [2020/10/18 00:00]
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仏像を知らない(1)
平安時代、特に『源氏物語』の時代を勉強していると、貴族たちの間に広まった浄土思想を放置してはおけません。ところが私は宗教がどうも苦手で(実は苦手なものだらけなのですが)、あまりよくわかっていないのです。
藤原道長は晩年法成寺という壮大な寺を建立し、そこに無量寿院(阿弥陀堂)を置きました。九体阿弥陀仏の安置されたこの阿弥陀堂は「中河御堂」とも呼ばれ、後代道長のことを「御堂殿」などと称する由来になっています。
彼の栄光を中心に描いた
『栄花物語』
という作品があります。これによると、道長は亡くなるときに、
目には阿弥陀如来の相好を
思い浮かべて、耳には尊い
念仏を聴き、心では極楽を
思いやり、手には阿弥陀如
来と結ばれた糸を持ち、北
枕で西向きになった。
という意味のことが書かれています。
もう長くないと誰もが判断するようになったとき、天台座主であった心誉が勧めて、道長は阿弥陀堂の正面の間に床を置き、金色の九体阿弥陀仏に向き合ってこのような最期を遂げたというのです。ただ、事実がそんな平穏なものであったかというと、疑問符がつきます。道長研究の泰斗朧谷寿先生は「苦しみの喘ぎのなかでの悶絶死」であった、とまでおっしゃっています。
道長を理想化して、阿弥陀如来に導かれて
西方極楽浄土
に赴いたかのごとくに『栄花物語』は語っているわけです。事実がどうこうというのとは別に、これが当時の人の浄土思想の理想であったことがうかがわれます。
そういう時代の文学作品を読む場合、どうしても仏教や経典、仏像などの知識が欲しくなってくるのです。これまで、何か言わねばならない時は、付け焼刃でものを言ってきたようなところがあり、まことにお恥ずかしい次第です。
経典は、学生の頃から読むようにはしていたのです。しかし、仏罰が下りそうですが、私にとっては退屈なものでした。その点、仏像は美術品としても見られますので、興味がないわけではなかったのです。
しかし、この仏はこういうものを持っている(西洋絵画でいうアトリビュート)という「持物」についても何度も覚えたはずなのにすぐに忘れてしまいます。この仏にはどういう脇侍がいるとか、この仏はどういうことを念じているとか、果ては印の意味するところまで、頭の中に定着してくれません。
そんなわけで、今からでももう少し勉強しないとなぁ、と思っているところです。
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源氏物語「少女」(3)
夕霧の学問は順調に進んでいます。その一方で、光源氏一家と右大将(かつての頭中将)一家の間に新たな波風が立とうとしています。
かくて、后ゐたまふべきを、「斎宮女御をこそは、母宮も後見と譲りきこえたまひしかば」と、大臣もことづけたまふ。源氏のうちしきり后にゐたまはむこと、世の人許しきこえず。「弘徽殿の、まづ人より先に参りたまひにしもいかが」など、うちうちにこなたかなたに心寄せきこゆる人びと、おぼつかながりきこゆ。兵部卿宮と聞こえしは、今は式部卿にて、この御時にはましてやむごとなき御おぼえにておはする、御女、本意ありて参りたまへり。同じごと、王女御にてさぶらひたまふを、「同じくは、御母方にて親しくおはすべきにこそは、母后のおはしまさぬ御代はりの後見に」とことよせて、似つかはしかるべくとりどりに思し争ひたれど、なほ梅壺ゐたまひぬ。御幸ひの、かく引きかへすぐれたまへりけるを、世の人おどろききこゆ。
このようなことがあって、また、后がお立ちになるはずだが、「斎宮の女御を、亡き母宮(藤壺)も帝のお世話役にとお譲り申していらっしゃったことだから」と、大臣(光源氏)も藤壺の意向を尊重なさる。ただ、源氏(皇族の系統)が引き続いて后にお立ちになることは、世の人も納得しかねている。弘徽殿女御が誰よりも先に入内なさったことはどうなるのか、などと、内々に斎宮女御方、弘徽殿方にそれぞれ心をお寄せしている人たちは気をもんでいる。兵部卿宮と申しあげた方は、今は式部卿で、今の御代には以前にもまして帝のご信任が篤くていらっしゃるのだが、その姫君がかねてからのお望みのように入内なさった。斎宮の女御と同じように王女御(皇族出身の女御)として伺候なさるので、「同じ王女御なら、帝とは母方の緑でつながるので親密でいらっしゃるはずだ。母后がいらっしゃらないので、その代わりのお世話役にということで似つかわしいだろう」と、それぞれの思いを抱きながら競われたのだが、やはり梅壺女御が立后なさった。そのご幸運がこのように母君とは違ってすぐれていらっしゃったことを世の人は驚き申している。
話が変わって、立后のことになります。藤壺中宮が亡くなって、冷泉帝の中宮を立てる必要が出てきました。皇族出身者から続いて后が出るのはおかしいから、次は藤原氏の后だ、と、弘徽殿女御側は思っています。藤壺中宮は源氏ではありませんが皇族なので、源氏と同じ立場です。このたびも光源氏の養女である斎宮女御が立后するのは異例だというわけです。この問題は、いずれ明石女御(光源氏の娘)が立后するときにも議論になります。弘徽殿女御は何と言ってもいち早く入内していますし、帝の寵愛も厚い人ですから、彼女が立后してもおかしくないことは言うまでもありません。また、かつての兵部卿宮(藤壺の兄)が娘を入内させていて、帝から見ると母の兄の娘という近さですから、斎宮女御が立后するくらいなら、こちらの方がふさわしい、というわけです。こうして、光源氏、右大将(かつての頭中将)、式部卿宮の競い合いがあったのですが、ついに光源氏方の斎宮女御が中宮となりました。以後は秋好中宮と呼ぶことにいたしましょう。新中宮は母の六条御息所に比べて幸せな人だと世間の誰もが噂をしています。六条御息所は大臣の家に生まれて春宮に入内しながら、男子を産むことのないまま、まだ若かったはずの春宮に先立たれ、その後光源氏の愛人のような立場に置かれた挙句、葵の上との車争いがあり、出産間際の葵の上を生霊となって苦しめ、娘に同行して伊勢に下向しました。やっと都に戻ったと思ったら、あえなく命を落としたのでした(葵、賢木、澪標巻など)。
大臣(おとど)、太政大臣(だいじやうだいじん)に上がりたまひて、大将、内大臣になりたまひぬ。世の中のことどもまつりごちたまふべく譲りきこえたまふ。人がら、いとすくよかにきらきらしくて、心もちゐなどもかしこくものしたまふ。学問を立ててしたまひければ、韻塞ぎ(ゐんふたぎ)には負けたまひしかど、公事にかしこくなむ。腹々に御子ども十余人、おとなびつつものしたまふも、次々になり出でつつ、劣らず栄えたる御家のうちなり。女は、女御と今ひとところなむおはしける。わかむどほり腹にて、あてなる筋は劣るまじけれど、その母君、按察使大納言(あぜちのだいなごん)の北の方になりて、さしむかへる子どもの数多くなりて、「それに混ぜて後の親に譲らむ、いとあいなし」とて、とり放ちきこえたまひて、大宮にぞ預けきこえたまへりける。女御にはこよなく 思ひおとしきこえたまひつれど、人がら、容貌など、いとうつくしくぞおはしける。
源氏の大臣は太政大臣にお昇りになって、大将が内大臣になられた。世のまつりごとをお執りになるように、実務をお譲り申し上げなさる。この内大臣のお人柄はとても剛直で、派手なことを好まれ、心遣いなども賢明でいらっしゃる。学問をことに熱心になさったので、かつて韻塞ぎでは(光源氏に)お負けになったが、政治に関しては賢人なのである。何人もの女性との間にお子様が十人余りあって、成長なさった方は次々に出世されて(光源氏の家に)劣らず栄えたご一族である。娘としては、弘徽殿女御ともうおひとりいらっしゃった。王族の女性のお産みになった人で、高貴な家筋という意味では(女御に)劣るまいけれど、その母君は按察使大納言の北の方になって、そちらでの子どもの数が多くなって、その中に一緒にして義理の父に任せるのはまったく不都合だというので、母親からお離しして大宮にお預け申し上げなさったのであった。(内大臣は)女御に比べるとひどく軽くお扱いになるのだが、そのお人柄やお顔立ちなどはとてもかわいらしくていらっしゃるのであった。
「薄雲」巻で光源氏は太政大臣になるのを辞退していました。太政大臣というのは大臣の中では別格で、高潔で規範となるべき人だけが任じられる(だから、適任者がなければ任じられない)官職です。それだけに、任命されようとした場合、辞退するのが常識で、それでも、どうしても、といわれたときに初めて受けるものでした。光源氏はついにそれを受け、内大臣の位は右大将(かつての頭中将)に譲ります。新内大臣は一本気な性格で曲がったことが嫌い。また華やかなところがあります。こういう彼の性格はかつて「絵合」巻で必死になって光源氏に対抗していたところにもよく表れていました。のちに「柏木」と呼ばれる長男をはじめとして子だくさんで、薄眼はその中で二人だけ。一人は弘徽殿女御ですが、もうひとり、「わかんどほり(王の系統の人)」の生んだ子がありました。ところがこの母親が按察使大納言の北の方になったため、娘の立場が微妙になってしまいました。あちらの子どもたちと一緒になると、何かと面倒なことも起こりかねないので、内大臣は引き取って大宮(内大臣の母)に預けることにしたのです。内大臣は女御かわいさのあまり、この子についてはやや軽く扱うところがありました。しかし、この娘は性格も顔立ちもとてもかわいらしいのです。これがのちに「雲居雁」と呼ばれる人です。
冠者(くわざ)の君、一つにて生ひ出でたまひしかど、おのおの十に余りたまひて後は、御方ことにて、「むつましき人なれど、男子(をのこご)にはうちとくまじきものなり」と、父大臣聞こえたまひてけどほくなりにたるを、幼心地に思ふことなきにしもあらねば、はかなき花紅葉につけても、雛遊(ひひなあそ)びの追従(ついしよう)をも、ねむごろにまつはれありきて、心ざしを見えきこえたまへば、いみじう思ひ交はして、けざやかには今も恥ぢきこえたまはず。
冠者の君(夕霧)は同じお邸でお育ちになったのだが、それぞれが十歳をお過ぎになってからは、お部屋は別になって「親しい人であっても、男子には馴れ馴れしくすべきではないものだ」と父大臣が申し上げなさって、疎遠になってしまったが、子ども心にも慕う気持ちがないわけではないから、ちょっとした花や紅葉につけても、人形遊びでご機嫌を取るのにも、一生懸命おそばにいて、思いのほどをお示しになるので、お互いに思いを寄せ合って、(雲居雁は)はっきりとは恥じるような様子をお見せにはならない。
再び夕霧の登場です。内大臣の娘の雲居雁は祖母の大宮のもとで育てられましたから、夕霧とはいつも一緒にいた、従姉弟(このとき雲居雁は十四歳、夕霧は十二歳)、というよりは幼馴染なのです。しかし何ごとにも厳しい内大臣は、十歳を超えた男女が、いくら親しい間柄だと言っても一緒に暮らすのは間違いだ、と主張したため、部屋は別々になってしまいました。
しかし、夕霧はこの従姉が気になってしかたがなく、何かの折にはあとを付け回すようにして恋心をそれとなく示していたのです。それに対して雲居雁も逃げ隠れするようなことはありません。この最後の部分について『岷江入楚』は「父おとゝはけとほくとおほせとひとつ所なれはおのつから今もみかはし給ふなり(父大臣はけ遠くと思せど、ひとつところなれば、おのづから今も見交はしたまふなり)」と言っています。
御後見どもも、「何かは、若き御心どちなれば、年ごろ見ならひたまへる御あはひを、にはかにも、いかがはもて離れ はしたなめはきこえむ」と見るに、女君こそ 何心なくおはすれど、男は、さこそものげなきほどと見きこゆれ、おほけなく、いかなる御仲らひにかありけむ、よそよそになりては、これをぞ静心なく思ふべき。まだ片生ひなる手の生ひ先うつくしきにて、書き交はしたまへる文どもの、心幼くて、おのづから落ち散る折あるを、御方の人びとは、ほのぼの知れるもありけれど、「何かは、かくこそ」と、誰にも聞こえむ。見隠しつつあるなるべし。
お世話をする女房たちも「まあまあ、まだどちらも子どものようなお心なのですから、長年親しくして来られたご関係なのに、どうして突然疎遠になってばつの悪い思いをおさせするものでしょうか」と様子を見ていたが、女君のほうは無邪気でいらっしゃるのだが、男君はいかにも半人前のようにお見えになっていても、そのお歳に不相応なほどに何かお二人の間にあったのだろうか、疎遠になってからは落ち着いてなどいられるものだろうか。まだふじゅうぶんではあるが将来が楽しみな筆跡で書き交わされたお手紙が、まだ子どもだけに、自然とそのあたりに散らかってしまうこともあるので、姫君の女房たちはそれとなく知っている者もあったのだが、どうして「こんなことがありました」と人に言えようか、と見て見ぬふりをしているようである。
女房たちの目から見ると、まだ子どものような二人なのです。しかし雲居雁よりも夕霧の方が何やら行動を起こしたようです。「女君」「男」という言葉が出てきますが、こういう表現は物語の中では二人の人物が親密な男女関係にある場面で用いられることが多いのです。つまり、もはや子ども同士ではなく、「男と女」になっていることを暗示します。「おほけなくいかなる御仲らひにかありけん」は直訳すると「分不相応に、どういうご関係になったのだろうか」ということですが、まだ分別のない年ごろなのにいつのまにか深い関係になっていた、という意味深長な一節です。『岷江入楚』はこの部分について「夕霧雲居雁のあひたる事おもはせて書けり」(夕霧と雲居雁が男女関係になったことを匂わせて書いている)と言っています。ぼんやりしている女房たちに比べ、内大臣の予感は的中していたことになります。そういう関係になっているだけに、二人は引き離されて落ち着いた心ではいられないのです。恋文も交わしたのですが、それはしばしば女房の目に触れることがありました。さすがに女房の中には事情を察するものもいたのですが、まさか「一大事です」とご注進に及ぶわけにもいかず、知らん顔を決め込んでいます。
所どころの大饗(だいきやう)どもも果てて、世の中の御いそぎもなく、のどやかになりぬるころ、時雨うちして、荻(をぎ)の上風(うはかぜ)もただならぬ夕暮に、大宮の御方に内大臣(うちのおとど)参りたまひて、姫君渡しきこえたまひて、御琴など弾かせたてまつりたまふ。宮はよろづのものの上手におはすれば、いづれも伝へたてまつりたまふ。「琵琶こそ女のしたるに憎きやうなれど、らうらうじきものにはべれ。今の世にまことしう伝へたる人、をさをさはべらずなりにたり。何の親王(みこ)、くれの源氏」など数へたまひて、
それぞれの大臣の大饗も終わって、朝廷に関する行事のご準備もなくのんびりとしていたころ、時雨がさっと降って荻の上風も風情豊かな夕暮れに大宮のところに内大臣が参上なさって、姫君をそちらにお呼びになって楽器をお弾かせ申し上げなさる。大宮はあらゆる楽器の名人でいらっしゃるので、すべてご伝授申し上げなさる。「琵琶というのは女が弾くと憎らしく感じられるものですが、うまく弾くと魅力のあるものです。今の世でその奏法を正しく伝えている人はほとんどいなくなってしまったのでございます。何々親王やなにがしの源氏・・」などを数えなさって、
大臣が任ぜられると「任大臣大饗」という催しがあります。大臣になりましたという披露宴のようなものです。光源氏が太政大臣に、右大将が内大臣になりましたので、その両者(ところどころ)で大饗がおこなわれたのです。それも終わり、宮廷行事もさほど忙しくない頃、内大臣が大宮のところにやってきます。例によって、自然描写が状況を暗示します。時雨がさっと降って荻の葉の上を吹く風も心をゆるがすかのような夕暮れです。この「荻の上風もただならぬ」は「秋はなほ夕まぐれこそただならね荻の上かぜ萩の下露」(義孝集)を引く表現です。内大臣は雲居雁を呼んで楽器を演奏させます。大宮があらゆる楽器に通じた人で、雲居雁もそれを教わっていますので、上達ぶりを聴いたのでしょう。内大臣は、琵琶について語り始めます。琵琶は演奏するときの楽器を抱える格好が女性に向かないと考えられたようで、『宇津保物語』「初秋」も「女のせむに、うたて憎げなる姿したるもの」と言っています。それでも音色は「らうらうじきもの」だと言います。「らうらうじ」は「物馴れていて巧みだ」という意味ですが、そこから「洗練されている」「気が利いている」「魅力がある」などの意味を持つようになります。誰が弾いても同じなのではなく、うまい人が弾くと深みがある楽器なのでしょう。だからこそ今はあまり名手がいなくて、内大臣は指折り数えてみると「何とかの親王」「源の誰それ」などが思い浮かんだのです。この部分、「何くれ」ということばを分けて「何の親王、くれの源氏と言っています。
「女の中には、太政大臣の山里に籠め置きたまへる人こそいと上手と聞きはべれ。物の上手の後にはべれど、末になりて、山賤(やまがつ)にて年経たる人の、いかでさしも弾きすぐれけむ。かの大臣、いと心ことにこそ思ひてのたまふ折々はべれ。こと事よりは、遊びの方の才はなほ広う合はせ、かれこれに通はしはべるこそ、かしこけれ、独り事にて、上手となりけむこそ珍しきことなれ」などのたまひて、宮にそそのかしきこえたまへば、「柱(ぢう)さすことうひうひしくなりにけりや」とのたまへど、おもしろう弾きたまふ。「幸ひにうち添へて、なほあやしうめでたかりける人なりや。老いの世に持たまへらぬ女子(をむなご)をまうけさせたてまつりて、身に添へてもやつしゐたらず、やむごとなきに譲れる心おきて、こともなかるべき人なりとぞ聞きはべる」など、かつ御物語聞こえたまふ。
「女の中では、太政大臣(光源氏)が山里に隠していらっしゃる人こそたいそうすぐれていると聞いています。名人の子孫ではございますが、末流になって山奥に暮らして何年も経つ人がどうしてそのように巧みに弾いたのでしょうか。あの大臣は、とても格別なものと思ってそうおっしゃる折々がございます。ほかの技芸に比べて、音楽の技というのはいろいろな人と合奏してうまく合わせることが大切なのです。それを独学して名手となったとかいうのは珍しいことです。などとおっしゃって、大宮に琵琶をお勧めになると、「柱をさすことも億劫になってしまいました」とおっしゃりはするのだが、すばらしくお弾きになる。「(明石の君は)幸いなこともあったうえにやはり不思議なほど立派な人なのでしょうか。(光源氏が)お年を召されるまでお持ちになれなかった娘をお産み申し上げて、自分のそばに置いてみじめに育てるのではなく、高貴な人に譲る心がけは落ち度もない人だと聞いております」などと、演奏しながらお話し申し上げなさる。
男性では○○親王などの名前を思い浮かべた内大臣ですが、女性で琵琶を弾く人としては第一に光源氏が隠し住まわせているあの女性を挙げています。もちろん大堰にいる明石の君のことです。明石の君の父(明石入道)は、音楽の奏法を醍醐天皇の三代目として伝えていることが「明石」巻に記されています。しかしそういう家柄であっても、衰えた家であり、奏法の伝承についてもすでに末流になっていて、さらに長らくの明石住まいで洗練されているはずがないと思われるのに、なぜすぐれているのか不思議だと内大臣は思っています。光源氏も普段から明石の君の琵琶については自慢げに語っているようです。本来、音楽というのは合奏することでうまくなっていくものなのに、独学で名手になったのは奇特なことだと内大臣は引き続き語ります。そして大宮に琵琶の演奏を勧めると大宮は遠慮しながらも弾き始めます。そして明石の君について女の子を産むという幸いを持っただけでなく、その子を紫の上に預けるという賢明なことをした点について称賛しています。なお大宮は明石の君に対して敬語は使っていません。光源氏の子を産んだ人とはいっても、大宮(内親王で桐壷帝の妹)の目から見るとやはり播磨守(明石入道)の娘など、身分の低い人に過ぎないのです。
「女はただ心ばせよりこそ世に用ゐらるるものにはべりけれ」など、人の上のたまひ出でて、「女御を、けしうはあらず、何ごとも人に劣りては生ひ出でずかしと思ひたまへしかど、思はぬ人におされぬる宿世になむ世は思ひのほかなるものと思ひはべりぬる。この君をだにいかで思ふさまに見なしはべらむ。春宮の御元服、ただ今のことになりぬるをと、人知れず思うたまへ心ざしたるを、かういふ幸ひ人の腹の后がねこそ、また 追ひ次ぎぬれ。立ち出で たまへらむに、ましてきしろふ人ありがたくや」とうち嘆きたまへば、
「女というのは人柄次第で世間で重んじられるものだったのですね」などと人の噂を言い出されて「(弘徽殿)女御を悪いところもなく何ごとについてもほかの人に劣って成長したということはないものと思って参りましたが、思いがけない人に圧倒されてしまった運命で、世の中は思いがけないことになるものだと感じたのでした。せめてこの姫君(雲居雁)は何とかして期待どおりになってほしいものと思っています。春宮の御元服がもう近いことになりましたので、と、ひそかに考えてそういうつもりになっているのですが、今申しました幸運な人(明石の君)のお産みになった后になられそうな人がまた追いついてきました。もし入内なさったら、まして張り合う人はめったにいないことでしょう」とため息をついていらっしゃると、
内大臣は、娘の弘徽殿女御が秋好中宮に先を越されたことを悔やんでいます。何も劣るところのない娘なのに、と娘自慢の父親ならではの考え方です。実際、弘徽殿女御は帝との仲もよく、家柄も問題ないわけですから、彼の考えは間違っているわけではないのですが。その長女の不運を、侍女である雲居雁にはみせたくない、と思う内大臣は、春宮(朱雀院の皇子。母は承香殿女御)に入れようともくろんでいるようです。このとき春宮は九歳で、雲居雁より五歳年少ですが、不釣り合いではないでしょう。しかし、明石の君の生んだ姫君(後の明石中宮)の存在が気になります。数年中に春宮は元服すると見込まれます(実際には二年後に元服)から、雲居雁はそのとき十代後半、明石の姫君はこの時点で八歳です。雲居雁が春宮の元服と同時に入内すると、明石の姫君は少し遅れるでしょうが、光源氏の実子で紫の上の養女ですからまた追い抜かれることになりかねないのです。
「などかさしもあらむ。この家にさる筋の人出でものしたまはで止むやうあらじと、故大臣の思ひたまひて、女御の御ことをもゐたちいそぎたまひしものを。おはせましかば、かくもてひがむることもなからまし」など、この御ことにてぞ太政大臣(おほきおとど)をも恨めしげに思ひきこえたまへる。姫君の御さまの、いときびはにうつくしうて、箏の御琴弾きたまふを、御髪(ぐし)のさがり、髪ざしなどの、あてになまめかしきをうちまもりたまへば、恥ぢらひて、すこしそばみたまへるかたはらめ、つらつきうつくしげにて、取由(とりゆ)の手つき、いみじう作りたる物の心地するを、宮も限りなくかなしと思したり。掻きあはせなど弾きすさびたまひて、押しやりたまひつ。
「どうしてそんなことがあってよいものか。この家からそういう筋の人(中宮)が出ないはずがないと故大臣もお考えで、(弘徽殿)女御のことも何かとご準備になっていたのに。もしご存命であればこのような非道なことにはならなかったでしょうに」など、このことについてだけは太政大臣(光源氏)に対して恨めしげにお思いになっている。姫君(雲居雁)のご様子が子どもっぽくてかわいらしく、筝の琴をお弾きになるのだが、そのときの髪の下がり端(さがりば)や髪のかっこうなどが上品でみずみずしいのを(内大臣が)じっとお見つめになっていると、恥ずかしがって少し横を向かれたその横顔がとてもかわいらしげで、「取由」(筝曲の技法のひとつ。右手ではじいた絃を左手でつまんで動かすようにする)の手つきが巧みにこしらえた人形のような感じがするのを、大宮もこのうえなくいとしいとお思いになっている。掻き合わせ(調子を合わせるための小曲)などを形だけお弾きになって筝を押しやりなさった。
大宮は光源氏に対して何の恨みも不満もないのですが、このたびの立后のことについてはさすがに恨めしく思っています。亡き夫(前の太政大臣)が生きていたらこんな筋の通らないこと(弘徽殿女御を差し置いて斎宮女御=秋好中宮を立后させるようなこと)はさせなかったのに、と。そういう思いを抱きながら、雲居雁の琴を弾く姿を見るとまことにかわいらしく、内大臣も大宮もこの子なら、と期待をかけているのでしょう。
大臣、和琴ひき寄せたまひて、律の調べのなかなか今めきたるを、さる上手の乱れて掻い弾きたまへる、いとおもしろし。御前の梢ほろほろと残らぬに、老い御達など、ここかしこの御几帳のうしろに、かしらを集へたり。「風の力蓋し寡し」と、うち誦じたまひて、「琴(きん)の感ならねど、あやしくものあはれなる夕べかな。なほ、あそばさむや」とて、「秋風楽」に掻きあはせて、唱歌したまへる声、いとおもしろければ、皆さまざま、大臣をもいとうつくしと思ひきこえたまふに、いとど添へむとにやあらむ、冠者の君参りたまへり。
内大臣は和琴をお引き寄せになって、律(りち)の調べのかえって当世風のものをこの方のような名手がくだけた感じでお弾きになっているのはとてもおもしろい。御前の梢がはらはらと残らず散って、老いた女房たちはそこかしこの御几帳の後ろで頭を揃えている。「風の力蓋(けだ)し寡(すくな)し」と口ずさまれて、「『琴(きん)の感』ではないのですが、不思議にしみじみと悲しい夕暮れですね。もう少しお弾きになりませんか」とおっしゃって、秋風楽に調子を合わせて曲の旋律を口ずさまれるお声はとても素晴らしいので、(大宮は)それぞれに、内大臣をもとてもいとおしいものだとお思い申し上げなさると、さらに花を添えようというのであろうか、冠者の君が参上なさった。
内大臣は和琴の名手ということになっています。和琴は日本でできた六弦の琴です。それを手元に引き寄せて、内大臣は即興のような演奏をします。老い女房たちは頭を寄せ合うようにして聴いています。老い女房ですから、内大臣がまだ若いころ、あるいは子どものころから知っている者かもしれません。内大臣が口ずさんだ「風の力蓋し寡し」というのは「落葉は微風を俟ちて以て隕(お)つ。風の力蓋し寡し(落葉はわずかな待って落ちる。風の力はおそらく少ないのだ)」」(『文選』)によるものです。続く「琴の感」も同じ『文選』の一節で「孟嘗は雍門に遭ひて泣けり。琴の感は以て未だし」によります。内大臣は雲居雁にもう少し演奏しましょうと勧め、「秋風楽」という曲に合わせてメロディを口ずさんだりしています。大宮はわが子の内大臣、孫の雲居雁を見て目を細めています。内大臣がじっと見つめている場面は彼の心理がよく描かれているでしょう。それにしても、一家のとてもいい雰囲気が描かれています。そこに入ってきたのが夕霧でした。これは実にうまく書かれていると思います。大宮も内大臣も目の前にいるかわいらしい娘をゆくゆく春宮に入内させ、次の中宮にしようと夢見ているわけですが、その幸せな空気を一変させるように夕霧が現れるのです。あたかも彼らの夢を打ち砕くためにやってきたかのように。
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四天王
四天王という言葉から何を連想するか、人によってさまざまです。
ずばり、大阪市天王寺区にある四天王寺を思い出すという方もいらっしゃるでしょう。
何らかの分野で際立って優れた人について、三人なら御三家、四人なら四天王ということもあります。
徳川御三家は尾張、水戸、紀州。徳川四天王は酒井、本多、榊原、井伊。
私は学生時代、同学年で平安時代文学を専攻する友人が二人いたのですが、先輩方から私を含めて「御三家」と呼ばれていた・・・というのは嘘で、「三バカ」と言われていました(笑)。
上方落語の四天王と言えば松鶴、米朝、小文枝、春団治、の各師匠でしたが、本来の四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)は
仏教界の守護神
です。なんでも、仏教の世界観では広大な海の上に大蓮華が咲き、その上がまた海で、そこには小蓮華が咲いていて、さらにその上に海があって、その中心に須弥山(しゅみせん)があります。須弥山の周りの海には東勝身洲、南贍部洲、西牛貨洲、北倶盧洲という四つの島があって、我々はこのうちの南贍部洲(なんせんぶしゅう)にいるのだそうです。それらの島に囲まれるところに、七金山という、七重になった金の山があり、中央に高々とそびえるのが須弥山です。須弥山の麓には二龍王が、その上には夜叉神が、その上には四天王が、その上には帝釈天などの三十三天がいます。三十三天のいるところは忉利天といいます。夜叉神は麓から登ろうとする悪魔から須弥山を守り、四天王は前述の四つの島を守り、三十三天は上空にある仏界を支えるように守っています。
というわけで、四天王は四つの島を守るべく、
東西南北
を向いているのです。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天です。となると、彼らが彩色されるときの色も決まってきます。青龍、朱雀、白虎、玄武と同じように、持国天は青、増長天は赤、広目天は白、多聞天は黒ということになるのです。
それぞれに得意分野もあって、持国天は国造り、増長天は豊かな宝、広目天は広く世の中を見る、多聞天は多くを聴いて学ぶということらしく、政治、経済、社会、文化のような感じです。私はもっぱら広目天と多聞天に関わりがありそうです。
この四天王、仏像を守るときに周囲に置かれることがあります。そのご本尊は南向きに安置されることが多く、増長天が定位置の南側に置かれると、参拝者が本尊を拝むのには失礼ながら邪魔になります。そこで、位置をずらして、持国天は南東に、増長天は南西に、広目天は北西に、多聞天は北東に置かれるそうです。
こういうことを覚えてから仏像を観に行くといくらかでも面白みが出るかな、と思っています。
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弁天のことば(2)
吉田修一『国宝』に登場する脇役の一人である「弁天」という男は大阪のチンピラの出身なのですが、「おもろい」ことにかけては天下一品。ひょんなことから喜久雄や徳次と知り合い、最初はあたりまえのように殴り合いもするものの、不思議な縁で結ばれていきます。この男はやがて芸人になって、一世を風靡し、テレビの寵児となるのです。
「唯一王様を笑えんのが芸人の特権やで。それが王様になってどないすんねん」と痛快極まりないことを言うこの男は、作品の終盤近くになると、毎日のようにテレビに出ている人気者になっています。そして若い芸人が媚びへつらうのはもちろんのこと、
総理大臣
までが自分の好感度を上げようとするために彼の冠番組に出たがるほどなのです。何だかどこかで聞いたような話です。どこぞの新喜劇に「特別出演」のような形で面白くもない姿をさらしたり、歌手のツイッターでの呼びかけに反応して自分の映像を歌に乗せてアップして顰蹙を買ったり・・。作者は時代を敏感に読み取っているのです。
この男、それでは権力者におもねって増長しているかというと、そうではないのです。あるとき彼はこんなことを言います。
俺たちみたいに口の達者な奴のほうが
偉い世の中なんて、俺はまっぴらやわ。
……俺は、いっこもおもんなくても、
口下手な奴のほう信じるわ。
大阪弁としてはいささか疑問もありますが(笑)、これまた今の時代を冷徹なまでに描写した言葉だと思います。
飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍しているのに、彼は「三日もテレビに出えへんかったら世間に忘れられるんちゃうかて恐ろしゅうなんねん」と感じています。そして「ただただ、みんなテレビに出たいだけ。テレビに出られるんやったら政治家にでもニュースキャスターにでもなんにでもなんねん。でも、こんなん続かへんで。こんなインチキな世の中続くわけないで」とまで言うのです。
私は以前、このブログに
「大声でうそを言う」
という記事を書きました。これは9月30日付でアップしたのですが、実は8月の終わりか9月の初めごろに書いたものなのです。その中で私はこんな意味のことを言いました。「早口の大きな声で分かったようなことを言う人間とじっくり考えてからものを言おうとする人間とでは、例えばテレビのコメンテーターにするなら前者が好まれるのでしょう。しかし、本当に信頼できる発言をするのはどちらかわかったものではないと思います」。これを書いたころ、私ははまだ吉田修一さんの本は読んでいませんでした。
「弁天」の言うことを読んだとき、これは私だけでなく、実は多くの人が感じ取っていることなのだと確信しました。「弁天」は、あるいは吉田修一さんは、それをみごとに言葉にしました。
この小説、おもしろかったです。
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- [2020/10/14 00:00]
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『枕草子』と平安時代を読む(2)
2回目です。どう書けばいいのかわからないことも多々ございますので、少しずつ改善できればと思っております。
前回触れたことの中で、藤原道長の日記『御堂関白記』の記事をかなり端折って書きましたので、ここにもう少しきちんと書いておきます。
寛弘六年(1009)十一月二十五日、一条天皇第三皇子で、道長の娘彰子の生んだ子としては二人目の敦良親王が誕生しました。そして五十日(いか)の祝いをまさに五十日目にあたる翌年一月十五日におこなうことになりました。その直前の一月十一日の『御堂関白記』にこんな記事があります。
従華山院御匣殿許得横笛【歯二】
只今第一笛也左宰相中将志和琴
是故小野宮殿第一物【鈴鹿】頼
親朝臣献筝【螺鈿】
華(花)山院の御匣殿の許より
横笛を得たり【歯二】。只今第
一の笛なり。左宰相中将、和琴
を志す。これ、故小野宮殿第一
の物【鈴鹿】。頼親朝臣、筝を
献ず。【螺鈿】
と読めそうです。
「花山院御匣殿(かざんいんのみくしげどの)」から道長は「歯(葉)二」という横笛を入手しました。これは当代第一の笛です。また、左宰相中将(源経房)からは和琴が贈られました。これは亡き小野宮殿(藤原実頼)の宝物で「鈴鹿」という名です。さらに、(藤原)頼親朝臣が「螺鈿」という筝を献上しました。この日の記事はこれだけなのですが、楽器、しかもすぐれた名器が集まってきたのは何のためなのでしょうか。
その答えは一月十五日の敦良親王五十日の祝いの記事にあります。一条天皇が住まいとしていた一条院内裏(大内裏の北東にあった)が前年十月に火災に遭ったため、このころ、仮の内裏になっていたのは枇杷殿という邸でした。そこで五十日の祝いがおこなわれたのです。申(さる)の時に帝が出御し、敦良親王に餅を含ませる儀式をおこないます。そして華やかな宴がおこなわれ、帝の御入(部屋に帰る)となります。そのとき、道長は三種の贈り物をするのです。
事了御入間御送物三種笛御筥
笙横長【歯二】新羅笛入有裹
枝筝御琴和合(琴?)
事了りて御入の間、送り物三
種、笛の御筥、笙、横長【歯
二】、新羅笛、入る、裹(つつ
み)枝有り、筝の御琴、和琴
事が終わって、帝がお入りになるときに、帝にサプライズプレゼントをするのです。それは笛と筝と和琴でした。笛は笙と横笛と新羅の笛で箱に入れられていました。「横長」は横笛の異称あるいは通称なのでしょう。ここに道長は「歯二」(はふたつ)という字を書いています。本来は笛の胴の部分に葉の模様のようなものがふたつあったのでそう呼ばれると伝わりますし、ほかの文献でもほぼ「葉二」と表記しています。ところが道長は一月十一日の記事でも「歯二」と書いていますから、そう思い込んでいたと考えるのが自然でしょう。そのあとに筝と和琴が出てきますが、これはまず間違いなく「螺鈿」と「鈴鹿」でしょう。こうして道長は十一日に集めた名器を一条天皇に差し上げたのです。
『枕草子』では御物として「葉二」の名前を挙げていますが、このときは花山院御匣殿が持っていたことになります。花山院は寛弘五年に亡くなっていますので、御匣殿が形見として受け継いだものかもしれません。『枕草子』が御物と言っているのは、花山天皇の頃にあったもの、という意味とも考えられます。それを退位ののちも所有し続け、御匣殿に下賜され、それをまた道長が手に入れて一条天皇に献上したという道筋が考えられます。
上の御局の御簾(みす)の前にて、殿上人、日一日、琴笛吹き遊びくらして、大殿油(おほとなぶら)まゐるほどに、まだ御格子(みかうし)はまゐらぬに、大殿油さし出でたれば、戸のあきたるがあはらなれば、琵琶の御琴をたたさまに持たせ給へり。
【語釈】
上の御局・・弘徽殿の上の御局。後述。
琴笛・・絃楽器と管楽器。管絃。具体的には筝、和琴、琵琶、笛(横笛)、笙、篳篥などがある。
大殿油・・御殿でともす灯火。油を用いた。
まゐる・・本来は尊いところ(神社、内裏、高貴な人の邸など)に行くこと。そこから一般的に「参上する」の意味となり、また「物を差し上げる」の意味も持つようになった。大殿油を「まゐる」というのは、灯火を準備して差し上げる、というほどの意味。次の「御格子はまゐらぬ」というのは「格子をしかるべく準備する」ことなので、朝は「上げる」、夕刻は「下ろす」両方の意味を持つ。ここは夜も近づいたので「下ろす」の意味。
戸・・局の中を仕切るもの。中宮のいるところ(局の奥)と簀子に近い端近のところを隔てる。ここでは簀子で行われている音楽を楽しむためにも、それを開け放している状態。
琵琶の御琴・・「琴」は絃楽器の総称。
たたさま・・「たてさま」に同じ。「さま(様)」は漠然とした方向を表わす「さ」に接尾語の「ま」が付いたもの。
上の御局の御簾の前で、殿上人が日がな一日琴笛を吹いては演奏して、灯りをともすころに、まだ御格子は下げていないところに大殿油を差し出したので、戸の開いているところがあらわに見えるので、琵琶の御琴を縦にお持ちになった。
前回の「無名といふ琵琶の御琴を」の段の連想で、やはり琵琶の登場する話です。『枕草子』は、無秩序に並べられているのではなく、前の段との何らかの連想が働いて書かれていることが多いのです。
「上の御局」は弘徽殿(こうきでん、こきでん)の上の御局のことです。内裏清涼殿は南北に長く東向きに建てられていますが、その北東側(仁寿殿の北側)に後宮の七殿五舎(承香殿、弘徽殿、登花殿、常寧殿、貞観殿、宣耀殿、麗景殿、飛香舎=藤壺、凝香舎=梅壺、襲芳舎=雷鳴壺、淑景舎=桐壷、昭陽舎=梨壺)があります。これらの殿舎に中宮、女御らが住まいましたが、それとは別に天皇のすぐそばに控えるための部屋がありました。これを「上局(うへつぼね)」「上の御局(うへのみつぼね)といいました。具体的には清涼殿の天皇の寝所である「夜の御殿」のすぐ北側に「藤壺の上の御局」「弘徽殿の上の御局」が並んで置かれました。以前はこの二つの部屋の間にもう一つ「萩の戸」という部屋があったと考えられていましたが、実際は「藤壺」と「弘徽殿」の二部屋が隣り合っていたようです。定子はこのうち「弘徽殿の上の御局」を使っていました。ここはその御簾の前(外側)での管絃の遊びということになります。一日中そんなことをしていて、やがて夕暮れになって大殿油(御殿でともす灯火の意)に火を入れる時間帯になります。ところが、格子をまだ下ろしていない(簾だけがかかっている)ところに、灯火を中宮の近くに差し出したものですから、室内がパッと明るくなって、部屋の中の遣戸も開いていたため、御簾の外にいる男性貴族たちに中宮の姿が見えてしまいそうになるのです。すると中宮は琵琶を縦向きに持って自分の顔や姿を隠そうとしました。普通、顔を隠すというと扇が思い出されるでしょうが、彼女はあえて琵琶を用いたのです。ただ話をしているときであれば琵琶で顔を隠すのはかえって不自然でしょうが、一日中音楽を楽しんでいる人たちを前にしているので、とっさにこのような動作に出たのでしょう。それにしても、この行為には何かいわくがありそうです。それはあとで明らかになります。
くれなゐの御衣どもの、いふも世のつねなる袿(うちき)、また、張りたるどもなどをあまた奉りて、いとくろうつややかなる琵琶に、御袖をうちかけて、とらへさせ給へるだにめでたきに、そばより、御ひたひのほどの、いみじうしろうめでたくけざやかにて、はつれさせ給へるは、たとふべき方ぞなきや。
【語釈】
くれなゐの御衣・・中宮の装束。紅(くれなゐ)は「呉の藍(くれのあゐ)」の縮まった言葉で、ベニバナで染めた鮮明な赤色。以下、琵琶の黒と中宮の額の白が描かれて、色の対比が鮮やか。
いふも世のつねなる・・口に出して言うとありきたりになってしまうようなこと。どのように表現してもつまらないほどすばらしいものであること。
袿・・女性の場合は重ねて着る衣のことで、清掃する場合はこの上に唐衣(からぎぬ)を着ける。「内側に着るもの」のではなく「かりそめにちょっと着るもの」の意ともいわれる。
とらへさせ給へる・・中宮が琵琶をしっかり捕まえていらっしゃる
そば・・琵琶の脇。隠し切れないので額などがのぞく。
はつれさせ給へる・・琵琶から外に出てしまっていらっしゃる。額が少しのぞいて見えるようす。
紅のお召し物で、口にするとありきたりになってしまうようなみごとな袿、また、糊張りしたものを幾重にも身に着けられて、真っ黒で艶のある琵琶にお袖をかけてお持ちになっているだけでもすばらしいのに、脇から額のあたりがとても白くすばらしく、くっきりと琵琶からのぞいておいでなのは喩えるものもないのである。
中宮の装束が描かれます。とても華やかな装束に身を包んでいます。みごとな袿に、糊張りしている柔らかくないものをいくつも着ています。その鮮やかな姿が真っ黒でつやつやとした琵琶の蔭に見えるのです。そして中宮は袖を琵琶に掛けるようにしてこの楽器を持っているのです。しかし、琵琶の胴ではなく、細い棹の部分で隠すので、はみ出てしまいます。彼女の額の色の白さがいかにもくっきりと美しいのが琵琶から外れて見えるのは比類ない、と清少納言は感嘆します。ほんの一瞬の出来事でしょうが、中宮のすばらしい姿態は、写真に撮ったかのように清少納言の脳裏に定着したのでしょう。
近くゐ給へる人にさし寄りて「なかば隠したりけむは、えかくはあらざりけむかし。あれはただ人にこそはありけめ」といふを、道もなきにわけまゐりて申せば、笑はせ給ひて、「別れは知りたりや」となむ仰せらるるもいとをかし。
【語釈】
近くゐ給へる人・・すぐそばに控えていらっしゃる同僚の女房。「給へる」と尊敬語がついているので上臈の女房。
なかば隠したりけむは・・後述するように白居易の『琵琶引(琵琶行)』による表現。
ただ人・・一般人。身分の低い者。『琵琶引』によれば楽人の娘。
道もなきに・・女房が大勢控えているので足の踏む場もないようす
別れは知りたりや・・中宮のことば。後述。
(私が)近くに座っておいでの女房に近寄って「(昔の詩に)『半ば隠した』とかいうのもこんな風ではあり得なかったでしょうね。あれは賤しい者だったのでしょうから」と言うと、(その女房は)人がたくさんいて通る道もないのをかき分けて(中宮のところに)参って申すと、お笑いになって、「(そう言った清少納言は)『別れ』は知っているのかしら」とおっしゃるのもほんとうにお見事だ。
琵琶で顔を隠したというのは単に音楽の場にふさわしいからということではありませんでした。清少納言は中宮のしぐさを見てすぐに『白氏文集』(白居易の詩文集)にある「琵琶引(琵琶行)」の一節を思い出したのです。というよりも、中宮のなぞかけに答えたというほうが正しいかもしれません。琵琶で姿を隠すのは普通に考えると奇妙な行動です。しかし中宮はわざとそれをして、女房の中で誰かこの謎を解ける者はいないか探ったのではないでしょうか。すると、清少納言がたちどころに答えました。
「琵琶引」は左遷された白居易が、ある秋に長江のほとりで友人を見送るときに別れの宴で管絃もないのが寂しいと思っていたところに、琵琶の音が聞こえてきますそこでどなたが弾いているのですかと尋ねるのですが、なかなか返事がありません。そこにこんな一節があります。
千呼萬喚始出来
(千呼萬喚して始めて出で来るも)
猶把琵琶半遮面
(なお琵琶を抱へて半ば面を遮る)
何度も繰り返し呼ぶと、やっと女が姿を見せた。それでもなお、この女は琵琶を抱えて半ば顔をさえぎるようにしているということです。ひとしきり演奏したあと、女は物思いに沈んで身の上話をしました。それによりますと、彼女は十三歳で琵琶を習得して誰からも称賛される腕前でした。いつしか容貌も衰えて、歳をとってから商人と結婚したのですが、夫は利を重んじるばかりで妻をあまり顧みないのです。そんなこともあって、若いころを思い出すと涙が止まらないと言います。この人は『琵琶引』の序文に「本是長安倡家女(もとは長安の楽人の娘であった)」とあります。そこで、清少納言は『琵琶引』の女性のように琵琶で顔を隠されても中宮と楽人の娘では身分が違い過ぎると言ったのです。ここで彼女は中宮の行為が『琵琶引』を真似てのものであることを見破っていることがわかるのです。このことを近くにいた女房に呟くと、その女房は居並ぶ人たちをかき分けるようにして(早く伝えようとして気がせいていたのです)中宮のところに伝えに行きました。すると中宮は笑いました。この笑いは、清少納言が見破ったことへの満足の笑いでしょうが、同時に清少納言が「中宮と楽人の娘では比較にならない」と言ったことにおもしろさを感じてのことではないでしょうか。さて、そのあとに「別れは知りたりや」という中宮のことばがあるのですが、実はこの意味については私自身きちんと説明できないのです。多くの注釈書を見ても、納得のいくものに出会いません。中宮の謎かけが『琵琶引』によるものであることはすでに解決していますので、中宮は清少納言が「あれはただ人にこそはありけめ」と言った部分に関して何らかの反応をしたのだろうと考えたいのですが、「別れ」では意味がわかりません。注釈書類は『琵琶引』の前後の詩句に見える「別」の文字から説明しようとするのですが、どうもすっきりしません。原文は「わかれはしりたりや」とあるわけですから、「別」の字を当てるのではない解釈ができないだろうか、とも思います。たとえば「れ」は「那」を字母とする「な」に似ていますので、「わが名は知りたりや」と読めないこともないでしょう。それでも、「(楽人の娘と一緒にはならないというけれど)私が誰だか知っているのですか」あるいは「私の名を知っていたのですね」、という解釈ができるかどうか。というわけで、今のところこの部分についてはお手上げの状態です。
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- [2020/10/13 00:00]
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弁天のことば(1)
少し前に、吉田修一さんの小説をいくつか読んでいました。この人は大衆文学と純文学の垣根などないとばかりに、多様な作品を生み出します。迫力のある描写もできる人ですし、ピリッとワサビのきいたような言葉を登場人物に吐かせては、巧みに文章も操る人です。
この人は芥川賞の受賞者ですが、山本周五郎賞も受けていることから、作風の柔軟さが感じ取れるようにも思います。全日空の機内誌「翼の王国」に長らく連載もされたエッセイもなかなかおもしろいものです。
そして、3年ばかり前に朝日新聞に連載されていた歌舞伎役者を主人公にした小説があり、私は連載時から気になってはいたのです。ただ、私は新聞小説を毎日読み続けるという習慣がなく、これ以前にも三日坊主でやめたことが何度もあるのです。そんなわけで、この作品についても単行本になってからのことにしようと思っていました。そして、2018年5月に連載が終わって、
『国宝』
というタイトルの小説が上下二巻の大作として刊行されたのです。
読者の息を継がせないように次々に起こるアクシデントもさることながら、登場人物が実におもしろい人たちなのです。
長崎のやくざの息子である主人公の立花喜久雄は、歌舞伎の家の出身でもないのに、もって生まれた美貌と芸の才能、それにたゆまぬ努力を重ねてですばらしい役者になっていきます。それでいて、背中に彫り物をしていることに象徴されるように、その出自がちらちらと見え隠れする、危うい面も持っています。「娘道成寺」や「藤娘」などを舞わせると比類ない美しさを見せる、しかし背には刺青のある女形役者です。結末は書くべきではないと思いますが、人間が芸そのものになってしまったような、狂気すら感じられるものです。
一方、この作品で注目すべきもうひとつの点は、個性にあふれて生き生きと描かれる
脇役たち
です。喜久雄のライバルとして描かれる梨園の御曹司の俊介は一時期流浪するのですが、苦難の時期を経て復帰します。しかしその時期のすさんだ生活が災いしたのか、やがて両足を失うという悲劇に見舞われ、本来なら絶頂期に至るはずの時期に亡くなります。
喜久雄と同じやくざの世界で育った徳次は、大部屋役者になって、恩義を感じている「ぼっちゃん」である喜久雄を誠心誠意支えつつも自分の夢を追いかける無鉄砲で不撓不屈の人物。最後は大立者になります。
喜久雄の母、恋人、妻、祇園の愛人、娘など、女性の人物たちも個性にあふれていて、しかもなかなかしたたかな人が多く、読んでいて飽きることがありません。
そしてもう一人、とてもユニークな人物として、大阪のチンピラであった弁天という男が登場します。この男はなかなか痛快なことを言ってのけるのです。
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苦労人
日本人だけではないかもしれませんが、苦労話が好きな人は多いと思います。この人はこんなに大変な人生を送ってきたのか、と感動する話です。私も小学生の時に、野口英世の伝記を読んで、「やけどで手が不自由になってまわりの子どもたちから馬鹿にされてきたにもかかわらず、勉学に励んで立派な医師になった」という話を読んで感動した覚えがあります。勉学に励んで立派な医師になったというところはたしかにすばらしいのですが、子ども時代の苦労話が大きくクローズアップされるところがいかにも子ども向けの伝記ということでしょうか。野口英世は借金をしたり大酒のみだったり、という話も伝わりますが、私が子どもの頃に読んだ伝記にはそういうことは触れていなかったように思うのです。それは「苦労話」ではないからでしょう。
中年くらいになって人気の出た芸人さんというと、
下積み
の苦労話がつきもののようになっています。実際、苦労はしているでしょうが、苦労がすなわち人気の原因かというとそうでもないと思うのです。苦労したままで終わる人のほうが多いはずだからです。
新しく総理大臣になった人は、「集団就職で東京に出て、苦労したあげくに政治家を志した」という、いかにも立志伝に書き加えたくなるような経歴を売り物にしているようです。東北本線で上野駅に降り立った田舎の少年が、工場で働きながら苦学した結果、立派になっていった、という話です。ご本人なのか周辺の人たちなのかは存じませんが、国民の心の琴線に触れるようなイメージを作ることをお考えになったのでしょう。実際は田舎で農業をするのが嫌で東京に出てきたということのようですが、話は作れば作れるものです。
効果はてきめんで、支持率の高さはこのところの総理大臣の中でもまずまず高い方だそうです。前の総理大臣は、典型的な
お坊ちゃま育ち
で、苦労も勉強もせずに親の七光りで議員になったという印象が拭えなかったと思うのです。それとはまるで違って、「たたき上げ」であることが支持率の高さに反映されたようです。
この方がたいへんな苦労をされたのであれば、それは文字どおり「ごくろうさま」というばかりなのですが、多少の苦労は誰もがすることなのです。それをことさら看板にしなくても、わかる人にはわかります。肝心なのはこれからですのでどうぞご奮闘くださいますように。
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- [2020/10/11 00:00]
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元○○
平安時代、大臣というのは相撲の横綱のようなもので、一度その地位に就いたら落ちることはなく、本人が辞めるというまでクビにされることはまずなかったのです。どうしても邪魔で排斥したい人間が大臣の地位にいる場合は、陰謀で左遷したりするわけです。菅原道真がその例であることは申すまでもないでしょう。道真のような有能な人ほど煙たがられることがあり、しかも彼は菅原氏で、藤原氏から見ると嫌な存在なのです。
逆に、箸にも棒にもかからないような無能大臣はけっこう長続きするのです。いや、平安時代の話ですよ。ついこの間の人のことではありません。左大臣、といいますと最高の地位ですが、この地位に昇った藤原顕光という人は無能で知られています。
「至愚之又至愚」(バカの中のバカ)
とまで当時の貴族日記に書きつけられるような人でした。しかもこの人、長生きしたものですから、25年間大臣であり続けたのです。この年数はあの藤原道長(顕光の従弟にあたる)より長いのです。あとに続く人から見ると迷惑だったでしょうね。
平成時代の総理大臣はコロコロ変わりました。連立政権や民主党政権の総理大臣はあっという間に変わりましたし、自民党でも短い人は少なくありませんでした。だから現職の議員の中には「元首相」が4人もいます。そしてそういう人たちの肩書をメディアが書く場合、たいてい
○○元首相
と肩書をつけるように思うのです。総理大臣時代の仕事やスキャンダル(笑)などを問題にする場合は分からなくもないのですが、そういう場合は○○首相(当時)とでもするはずです。ヒラの議員になっている人をなぜいつまでもそういう肩書で呼ぶのか、もうひとつよくわからないのです。首相だけではなく、もろもろの大臣でも、同じではないでしょうか。引退した人、故人になった人ならそういう呼び方をするのもわかるのですが。
私は、今はもう肩書なんてほぼ使いません。名刺もありませんし、何かでプロフィルを問われた場合、ぼかして書くことにしています。呂太夫さんの本を書いた時も「大学教員として平安時代を専攻する」と何ともあやふやな書き方でした。あれは私が望んであのようにしてもらったのです。今後も「元○○大学教員」なんて肩書は絶対に名乗るまいと思っています。
名刺を作る予定はありませんが、作るなら「浄瑠璃作者」としてやろうと思っています(笑)。
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- [2020/10/10 00:00]
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源氏物語「少女」(2)
光源氏は、夕霧を大学に入れて六位から始めさせることにしました。夕霧の祖母である大宮は冷遇ともいえるその処置をひどく悲しみ、夕霧本人も子ども心に憂鬱な気持ちになりました。ダメな息子であれば勉強なんてするものか、と反抗するところでしょうが、さて、この少年はどうするのでしょうか。
字(あざな)つくることは東の院にてしたまふ。東の対をしつらはれたり。上達部、殿上人、珍しくいぶかしきことにして我も我もと集ひ参りたまへり。博士どももなかなか臆しぬべし。「憚るところなく、例あらむにまかせて、なだむることなく厳しうおこなへ」 と仰せたまへば、しひてつれなく思ひなして、家より他に求めたる装束どもの、うちあはず、かたくなしき姿などをも恥なく、面もち、声づかひ、むべむべしくもてなしつつ、座に着き並びたる作法よりはじめ、見も知らぬさまどもなり。
字をつけることは、二条の東の院でなさる。東の対を式場として準備なさった。上達部、殿上人はめったにないことでどういうものだろうかと思って我も我もと参集なさった。博士たちもかえって気後れしてしまうであろう。「遠慮することなく、慣例があろうからそれに従って手加減せずに厳格にしてくれ」とおっしゃるので、無理に平然としたようすをして、自分の家でないところから用意した装束がうまく合わず、みっともない姿なども恥とせず、顔つきや声の出し方を格式正しくふるまいながら、着座して並んでいる作法をはじめとして見たこともないようなありさまである。
当時は中国の例にしたがって、本名のほかに名乗る字(あざな)を持つことがありました。特に大学の学生(がくしやう)となった場合は古くから付けられるのが慣例で、例えば橘広相は「朝綾」、藤原菅根は「右生」という具合でした。やがて、姓の一字(藤原氏なら「藤」、小野氏なら「野」、菅原氏なら「菅」、大江氏なら「江」など)と、もう一文字の漢字をもって「字(あざな)」とするようになりました。紀長谷雄は「紀寛」、源扶義は「源叔」という具合です。おそらく夕霧も「源★」と名乗ったのでしょう。その命名の儀式を、花散里の住む二条東院の東の対でおこなうことになりました。上流貴族の子弟が大学に入学するなどめったにないことなので、いったいどういうことになるのかと、多くの上達部や殿上人がやってきました。文章博士たちはさぞかし緊張することでしょう。光源氏は、彼らに向かって、遠慮せずにしきたりどおりに儀式をおこなってほしいというのですが、何しろ最高級の家柄での儀式ですから、荷が重く感じられたことでしょう。そのあとに「家よりほかに求めたる装束」とありますが、博士と言っても貧しいので、装束は借り物なのです。そうなると、サイズも合わず不細工ですらあります。それでも博士というのは格好をつけたがるもので、いかにも子細ありげな様子で参列しています。当時の博士はもっとも高い地位の文章博士でさえ従五位下相当。明経博士は正六位下相当、明法博士は正七位下相当、算博士に至っては従七位上相当という身分で、生活も貧しかったのです。もっとも、大学の教員が貧しいのは今も同じことですが。
若き君達は、え堪へずほほ笑まれぬ。さるは、もの笑ひなどすまじく、過ぐしつつ静まれる限りをと、選り出だして、瓶子なども取らせたまへるに、筋異なりけるまじらひにて、右大将、民部卿などの、おほなおほな土器とりたまへるを、あさましく咎め出でつつおろす。「おほし、垣下あるじ、はなはだ非常に はべりたうぶ。かくばかりのしるしとあるなにがしを知らずしてや、朝廷には仕うまつりたうぶ。はなはだをこなり」など言ふに、人びと皆ほころびて笑ひぬれば、また、「鳴り高し。鳴り止まむ。はなはだ非常なり。座を引きて立ちたうびなむ」など、おどし言ふも、いとをかし。
若い君達はこらえきれずについ微笑んでしまう。とはいえ、笑ったりはしないでいるような落ち着いた者ばかりをと選び出して瓶子を取らせて酌をさせたりなさるのだが、いつもと違った宴なので右大将、民部卿などが何の遠慮もなく盃をお取りになるのを、博士たちがあきれるほどに咎めだてしてこき下ろしている。「およそ垣下」(かいもと、ゑんが。饗宴の相伴役のこと)の方々はまったく非常識でいらっしゃいます。このように著名な私をご存じでなく、朝廷にお仕えしていらっしゃいますのか。はなはだ愚かなこと」などと言うので、人々が皆吹き出して笑ったところ、「騒がしいこと。静粛になされませ。はなはだ非常識だ。座をお立ちいただきましょう」などと脅すように言うのもとてもおもしろい。
この場面は世間知らずの学者のプライドばかり高いようすがおもしろく描かれています。先ず言葉遣いですが、「おほし」「はなはだ」「非常」「たうぶ」「垣下」「しるし」「鳴り高し」など学者独得の表現をしています。いずれも漢文訓読調であったり、古風な言い方であったりします。「鳴り高し」は現代でいうと教室で教師がおしゃべりをしている学生に向かって「静かにしなさい」と言っているような感じです。作者はあえてこういう表現を用いて、一般の貴族から見ると「学者バカ」にしか見えない彼らの姿を描いているのです。さらに博士たちは右大将(従三位相当)や民部卿(正四位下相当)のお歴々に対してもえらそうな口をききます。から威張りとしか聞こえないのに、当の本人は真剣に声を挙げているのです。それがまた貴族たちにとっては滑稽に聞こえるのです。実に生き生きとした描写だと思います。貧乏学者のくせに(笑)偉そうに発言する人は今も昔も変わらずにいるのですね。なお、右大将はかつての頭中将です。
見ならひたまはぬ人びとは、珍しく興ありと思ひ、この道より出で立ちたまへる上達部などは、したり顔にうちほほ笑みなどしつつ、かかる方ざまを思し好みて、心ざしたまふがめでたきことと、いとど限りなく思ひきこえたまへり。いささかもの言ふをも制す。なめげなりとても咎む。かしかましうののしりをる顔どもも、夜に入りては、なかなか今すこし掲焉(けちえん)なる火影(ほかげ)に、猿楽(さるがう)がましくわびしげに、人悪げなるなど、さまざまに、げにいとなべてならず、さまことなるわざなりけり。
見慣れていらっしゃらない人たちは、珍しく興味深いことと思って、また、大学の道から立身なさった上達部などは得意顔でほほえんだりしながら、学問の方面のことを源氏の大臣が好ましくお思いになって、この道にご子息を進ませなさろうとこころざされたことをご立派なことだと、いっそうこのうえないこととおほめ申し上げる。博士たちは少しでもものを言うと制する。無礼だと言って咎める。やかましく大声をあげている博士たちの顔も、夜に入るとかえってはっきりと見える火影に映えて道化のようだったり、わびしげだったり、体裁の悪いようすであったりなど、さまざまにまったく尋常でなく、異様なのであった。
引き続き、博士たちの滑稽なまでの様子が描かれます。こういうありさまを見馴れていない人は物珍しげで、また大学寮出身の上達部は普段はあまり大きな顔ができないのに、ここぞとばかりに得意顔をしています。大学寮を出ているということは学問だけで成り上がってきた大江氏や菅原氏出身の上達部でしょう。普段は藤原氏の大臣や大納言に牛耳られているだけに、こういう場は馴れたものですから、得意げなのです。そして光源氏が夕霧を大学に入れてくれたことで自分たちと同じ経歴になること(実際はすぐに追い抜かれるわけですが)が嬉しいのでしょう。このあたりも実に生き生きとした描写です。博士たちは相変わらず、おしゃべりをする人を制したり無礼者扱いしたりしています。そしてその顔が夜に入って灯火のために昼間よりはっきり見えるのですが、これが実に体裁の悪いもので作者は「さま異なるわざ(異様な雰囲気)」とまで言っています。今でも、学者はビジネスマンの人たちから見ると異様な雰囲気を持っているかもしれません。何年前につくったスーツなのかわからないのを着て、ネクタイのデザインもセンスがなくシャツは皺だらけ・・・などということが珍しくないでしょう。
大臣は、「いとあざれ、かたくななる身にて、けうさうしまどはかされなむ」とのたまひて、御簾のうちに隠れてぞ御覧じける。数定まれる座に着きあまりて、帰りまかづる大学の衆どもあるを聞こしめして、釣殿の方に召しとどめて、ことに物など賜はせけり。
源氏の大臣は「ひどくだらしなく、それが改められない私はこっぴどく叱られてしまうでしょう」とおっしゃって、御簾の中に隠れてご覧になっていた。座の数が決まっているので着席できなくて帰って行く大学の学生たちがいるのを源氏の大臣はお聞きになって、釣殿のほうに呼びとどめなさって、特に引き出物などをお与えになった。
光源氏はその様子を見て「自分のようにだらしない者はひどく叱られそうだ」と冗談を言います。しかも注意したいのは、この冗談の中に「けうさう」という言葉が出てくることです。「けうさう」は「喧噪(けんそう)」のことと考えられ、あまり用いられない言葉です。本居宣長は『玉の小櫛』の中で「たはぶれてことさらに儒者詞をつかひたまふと聞こえたり(ふざけてわざと学者言葉をお使いになるのであろう)」と言っています。光源氏は戯れに学者の真似をしたのです。そんな光源氏ですが、居場所がなくて帰ろうとする学生たちには気を使って、釣殿(寝殿作りのいちばん南の端にあたる、池に面したところ。夏にはここで涼んだりする)に集めて接待し、きちんと引き出物を与えるのです。こういうところはさすがによく気が付く人です。席のなかった学生たちも感激したことでしょう。
事果ててまかづる博士、才人ども召して、またまた詩文作らせたまふ。上達部、殿上人も、さるべき限りをば皆とどめさぶらはせたまふ。博士の人々は、四韻(しゐん)、ただの人は、大臣をはじめたてまつりて、絶句作りたまふ。興ある題の文字選(え)りて、文章博士たてまつる。短きころの夜なれば、明け果ててぞ講ずる。左中弁、講師(かうじ)仕うまつる。容貌(かたち)いときよげなる人の、声づかひものものしく、神さびて読み上げたるほどおもしろし。おぼえ心ことなる博士なりけり。
儀式が終わって退出する博士や才能ある学者をお召しになって、またまた詩をお作らせになる。上達部、殿上人もその方面に能力のある人はみな呼び止めてその場に同席させなさる。博士たち学者は五言律詩、それ以外の人は大臣をはじめとして絶句をお作りになる。興趣のある題の文字を選んで文章博士が献じる。短夜のころなので、夜がすっかり明けてから披講する(読みあげて披露する)。左中弁が講師をお務めする。顔立ちのたいそうきれいな人で、声の使い方も堂々として神々しいようすで読み上げたのはとてもすばらしい。世評も格別な学者なのであった。
儀式が終わるとその名残で漢詩の会が行われます。学者側は四韻、つまり四つの韻を踏む詩を作ります。これは八句から成る五言律詩です。七言律詩は初句にも韻を踏むので四韻とは言いません。一方、それ以外の、いわば素人たちは比較的作りやすい絶句を詠みました。詩の題は文章博士が考えました。夜が明けて、作品を読み上げますが、その担当者である講師は左中弁(学者出身)が担当しました。この人は講師にふさわしく、容貌もよく、声も美しいのです。今で言うなら人気歌手のようなものでしょうか。
かかる高き家に生まれたまひて、世界の栄花にのみ戯れたまふべき御身をもちて、窓の螢をむつび、枝の雪を馴らしたまふ心ざしのすぐれたるよしを、よろづのことによそへなずらへて、心々に作り集めたる、句ごとにおもしろく、唐土(もろこし)にも持て渡り伝へまほしげなる夜の詩文どもなり、となむそのころ世にめでゆすりける。大臣の 御(おほむ)はさらなり。親めきあはれなることさへすぐれたるを、涙落として誦(ず)じ騷ぎしかど、女のえ知らぬことまねぶは憎きことをと、うたてあれば漏らしつ。
(夕霧は)このように高貴な家柄にお生まれになって、世の栄華に耽ってばかりいることもできる御身でありながら、窓の蛍、枝の雪を友とする学問の道を志すことがどれほどすぐれたことであるのかを、さまざまな故事になぞらえて思い思いに作り集めたのだが、どの句もおもしろく、唐土に持って行って伝えたくなるような作品ばかりだと、その当時、世間でほめそやしたのであった。大臣の御作は言うまでもなく、親らしいしみじみとした心まで優れて詠まれているのを感涙にむせびながら吟じたのだが、女の私が理解できるはずもないことを書くのは憎らしいことだと嫌な感じになるので書き洩らした。
人々によって詠まれた詩の内容は、高貴な家柄に生まれながらも刻苦勉励する道を選んだ夕霧を礼賛する内容で、故事を踏まえたものでした。車胤の「窓の蛍」の故事、孫康の「枝の雪」の故事は、いわゆる「蛍雪の功」のことです。そして光源氏の作品は、親心も交えてのものだけに、人々の涙を誘うものでした。最後に「女のえ知らぬこと・・」とあるのは、当時の女性は漢詩には詳しくない(少なくともそういう建前であった)ので、生意気なことを書いては嫌な女だと思われそうなので、書き洩らした、という作者(語り手)の言葉です。
うち続き、入学といふことせさせたまひて、やがて、この院のうちに御曹司作りて、まめやかに才(ざえ)深き師に預けきこえたまひてぞ、学問せさせたてまつりたまひける。大宮の御もとにも、をさをさ参(ま)うでたまはず。夜昼うつくしみて、なほ児(ちご)のやうにのみもてなしきこえ たまへれば、かしこにてはえもの習ひたまはじとて、静かなる所に籠(こ)めたてまつりたまへるなりけり。「一月(ひとつき)に三度ばかりを参りたまへ」とぞ、許しきこえたまひける。
引き続いて入学の礼という儀式をおさせになって、そのままこの院(二条東院)の中にお部屋を作って学才の深い師にお預け申し上げなさって真剣に学問をおさせになった。大宮(夕霧の母方の祖母)のところにもほとんど参上なさらない。(大宮は)これまで夜も昼もかわいがって、今なお(夕霧を)子どものようにお世話なさろうとするので、あちらでは学問などおできにならないだろうというので、静かなところに閉じこめなさったのであった。一か月に三回くらいだけは参上しなさいとお許し申し上げなさった。
次に入学の礼というのをおこないます。師弟関係が結ばれ、師には謝礼を贈ります。そして、花散里が住んでいるこの二条東院に夕霧が学問する部屋を設けます。祖母の大宮はこれまでも夕霧を目の中に入れても痛くないようなかわいがりかたをしてきましたので、そちらに置くと甘やかすことになりかねないという判断です。光源氏の厳しい教育方針は徹底しています。そして祖母を訪ねるのは月に三回と決められます。
つと籠もりゐたまひて、いぶせきままに、殿を、つらくもおはしますかな。かく苦しからでも、高き位に昇り、世に用ゐらるる人はなくやはある、と思ひきこえたまへど、おほかたの人柄まめやかに、あだめきたるところなくおはすれば、いとよく念じて、いかでさるべき書(ふみ)どもとく読み果てて、交じらひもし、世にも出でたらむ、と思ひて、ただ四五月(よつきいつつき)のうちに、『史記』などいふ書は読み果てたまひてけり。
(夕霧は)そこにじっと籠っていらっしゃって、気が晴れないままに、殿(光源氏)を、つらい仕打ちをなさるものだ。こんなに苦しい思いをしなくても高い位に昇り、世間で重用される人がないわけではないだろうに、とお恨みになるが、この人はおよそ人柄がまじめでうわついたところはなくていらっしゃるので、ほんとうによく辛抱なさって、何とかして読まねばならない書物を早くに読み終えて官人の仲間入りをして出世しようと思って、わずか四、五か月のうちに『史記』などという書物はすっかり読んでおしまいになったのであった。
夕霧はさすがに父の仕打ちをひどいと思うのです。世の中には楽をして出世する人間がいくらでもいるではないか、なっぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないのか、と。その気持ちはなるほどよくわかります。今の世でも、政治家になると思って一生懸命勉強している人の目から見ると、親が政治家というだけで、本人はろくに勉強もせずに地盤を受け継いで悠々と選挙に勝ち、また若いうちに要職に就くこともできる。そういう理不尽を紫式部はよりによって正解の第一人者の息子の気持ちとして表現していることになります。しかし夕霧はここで腐ってしまうかというとそうではありません。根がまじめなのです。この「まめやか」なところは夕霧の性質としてこれからもしばしばよくも悪しくも描かれていきます。彼は人一倍努力をして、読まなければならない書物、つまり試験に出るようなものについては早く読み終えて試験を突破して出世しようと考えます。今で言うなら国家試験のようなものでしょう。そして、司馬遷の『史記』百三十巻を四、五か月のうちに読破してしまうのです。
今は寮試受けさせむとて、まづ我が御前にて試みさせたまふ。例の大将、左大弁、式部大輔、左中弁などばかりして、御師の大内記を召して、『史記』の難き巻々、寮試受けむに、博士のかへさふべきふしぶしを引き出でて、ひとわたり読ませたてまつりたまふに、至らぬ句もなく、かたがたに通はし読みたまへるさま、爪じるし残らず、あさましきまでありがたければ、さるべきにこそおはしけれと、誰も誰も涙落としたまふ。大将はまして「故大臣おはせましかば」と、聞こえ出でて泣きたまふ。
もう寮試を受けさせようというので、まず源氏の大臣の御前で試験の予行をおさせになる。例によって大将(夕霧のおじ。もとの頭中将)、そのほか左大弁、式部大輔、左中弁などだけで、師の大内記をお呼びになって『史記』の難しい巻々について、寮試を受けた場合文章博士が反問してくるようなところどころを取り出して、ひととおりお読ませになったところ、いいかげんなところもなく、音訓自在にお読みになるありさまと言ったら、爪じるし(あやふやなところに爪で印をつけること)も残らず、驚くほどたぐいまれな成績でいらっしゃるので、こういう素質でいらっしゃったのだ、と誰もが感涙を落とされたのである。大将はまして「亡き大臣(大将の父、夕霧の母方の祖父)がご存命ならば」と言い出してお泣きになる。
順調に勉学が進んでいるので早くも夕霧に寮試を受けさせようということになります。寮試というのは「大学寮試」のことで、これに合格すると擬文章生(ぎもんじょうしょう)になります。このあとさらに式部省試に合格すると文章生になるのです。まずは光源氏の前で模擬試験をしてみようということになります。右大将はもちろんのこと、左大弁、式部大輔、左中弁といった学問のできる人たちを呼びます。そして夕霧の師匠の大内記(学者で文章の巧みな者が任ぜられる中務省の役人。身分は低く、正六位上相当)を招いて、『史記』の難解なところなどを試験で問い詰められそうなところについて読ませるのですが、これが見事で、問題のありそうなところを爪で印をつけるまでもないのです。右大将はもし亡き父がいればどれほど喜ぶだろう、と思います。
殿も、え心強うもてなしたまはず、「人のうへにて、かたくななりと見聞きはべりしを、子のおとなぶるに、親の立ちかはり痴れゆくことは、いくばくならぬ齢ながら、かかる世にこそはべりけれ」などのたまひて、おし拭ひたまふを見る 御師の心地、うれしく面目ありと思へり。大将、盃さしたまへば、いたう酔ひ痴れてをる顔つき、いと痩せ痩せなり。世のひがものにて、才のほどよりは用ゐられず、すげなくて身貧しくなむありけるを、御覧じ得るところありて、かくとりわき召し寄せたるなりけり。身に余るまで御顧みを賜はりて、 この君の御徳に、たちまちに身を変へたると思へば、まして行く先は、並ぶ人なきおぼえにぞあらむかし。
殿もこらえることがおできにならず、「他人のこととして見苦しいものだと見聞きしていたのですが、子が成長して親がそれに代わるように愚かになっていくのは、私はまだそれほどの歳でもないが、こういうのが世のならいだったのですね」などとおっしゃって、涙を拭っていらっしゃるのを見る師(大内記)の気持ちとしては、うれしく面目を施したと思っている。大将が盃をおさしになるのですっかり酔っぱらっている師の顔つきは、ひどく痩せこけている。この人はひねくれもので、学才の豊かさに比べて重用されず、人付き合いもできず、貧しいのであったが、大臣のめがねにかなってこうしてわざわざお召し寄せになったのである。身に余るほどの恩顧をちょうだいして、この君のおかげであっというまに生まれ変わったようになったことを思うと、まして将来は並ぶ人もないほどの世評を受けることになるだろう。
光源氏は、これまで子が立派になって親が愚かになっていくのを見てきて、見苦しく感じていたので、自分がそうなるということはこれが世間の常識なのだと思い知ったと言います。光源氏、このときまだ三十三歳です。こうして弟子の見事な成長を目の当たりにした大内記は面目を保つことができました。盛んに右大将から盃を進められるのですっかり酔ってしまったのですが、その風貌はいかにも貧相な学者風なのでした。学者というのは、学問はあってもなかなか出世もできず、生活もままならないのです。しかもこの大内記はひねくれもので世間づきあいも得意ではない人だったのですが、光源氏が見出したことによってこのような名誉を受けることになったのです。まして将来夕霧がもっと立派になったら「夕霧の師」として声望が高まることは必定です。
大学に参りたまふ日は、寮門に、上達部の御車ども数知らず集ひたり。おほかた世に 残りたるあらじと見えたるに、またなくもてかしづかれて、つくろはれ入りたまへる冠者の君の御さま、げに、かかる交じらひには堪へず、あてにうつくしげなり。例の、あやしき者どもの立ちまじりつつ来ゐたる 座の末をからしと思すぞ、いと ことわりなるや。ここにてもまた、おろしののしる者どもありて、めざましけれど、すこしも臆せず読み果てたまひつ。
大学寮に参上なさる日は寮の門に上達部の御車が数知れないほど集まった。およそ世間に残ってい人はあるまいと見えるのだが、この上なく大切にされて世話を受けながらお入りになる冠者の君(元服したばかりの君。夕霧)のご様子は、なるほどこのような学生たちの仲間入りをするにはふさわしくないほど上品でかわいらしいようすである。例によってみすぼらしい者どもがごちゃごちゃとやってきて席に着いている座の末席に着くのをつらいとお思いになるのはまったく道理というものである。ここでもまた大きな声で叱り飛ばしている者共がいて不愉快なのだが、少しも臆することなく最後まですっかりお読みになった。
寮試を受けるために夕霧が大学にやってきました。その日は上達部たちがもう誰も残っていないだろうと思われるくらい集まってきました。「たかが」寮試があるだけなのに、大騒ぎと言えるでしょう。夕霧の立派なようすはほかの学生とは比較になりません。「かかるまじらひにはたへず」というところに、『岷江入楚』は「あやしきさましたる学生ともの中へ夕霧の不相応なると也」と注を施しています。字(あざな)を着ける儀式のときと同じように学者が偉そうにしています。何かがあるとすぐに怒鳴りつける者もいるのですが、夕霧は何の気後れもせずにすらすらと難しい文を解読していきます。
昔おぼえて大学の栄ゆるころなれば、上中下の人、我も我もと、この道に志し集れば、いよいよ、世の中に、才ありはかばかしき人多くなむありける。 文人擬生などいふなることどもよりうちはじめ、すがすがしう果てたまへれば、ひとへに心に入れて、師も弟子も、いとど励みましたまふ。殿にも、文作りしげく、博士、才人ども所得たり。すべて 何ごとにつけても、道々の人の才のほど現はるる世になむありける。
昔の良き時代を思わせる大学の栄えているころなので、身分の上下を問わず、我も我もとこの道を志望して集まってくるので、いっそう世の中には学才のある有能な人が多く輩出するのであった。擬文章生などとかいう試験をはじめ、すんなりと合格なさったので、あとはひたすら熱心に、師(大内記)も弟子(夕霧)もいっそう励みなさるのである。光源氏邸(二条院)でも漢詩の会がしばしばおこなわれて博士や詩才のある者どもは得意になっている。すべてなにごとにつけても、それぞれの学問の道の才が認められる世なのであった。
平安時代初期には大学はずいぶん重んぜられていたようで、このころはその往時に勝るとも劣らない学問の隆盛する時だというのです。それだけに、大学の門をたたく人が多く、学才豊かな人が世に出ています。夕霧は、寮試などはあっさり合格してその後はさらに勉学に励みます。光源氏も漢詩の会を催すなど学問に熱心なので、博士たちは自信満々の顔をしています。学問の栄える時代というのは聖代ともいえる時期なのです。ちなみに、紫式部の父藤原為時も文章生出身の学者官僚です。
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- [2020/10/09 00:00]
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哀しい大阪市
大阪市をなくして特別区に四分割するという案がまた出てきました。たしか、以前否決されたはずですが、ゾンビは復活するのですね。ただ、前回の否決ゆえに今回はその反動が来るかもしれず、しかも前回反対していたある政党が選挙区事情で考えを変えるという、私の目から見ると無節操でさえあることを言いだしたとやらで、事前の世論調査では可決の見通しが立っているとか。
大阪市民でも府民でもない私にとっては直接関係のない話で、市民の方が「もう大阪市はいらない」というのであれば、どうしようもないことです。
しかし私にはとても信じられない話です。仮にこれを兵庫県神戸市に置き換えて考えてみると、
神戸市をなくして
兵庫県中央区とか兵庫県灘区などにするのを神戸市の人が素直に首肯するとは思いにくいのです。神戸は神戸。この大切なブランドをどこへやるつもりだ、と。
名古屋市の人が愛知県瑞穂区なんて、イメージが湧くでしょうか。横浜市の町が神奈川県緑区って、そんなことあり得るのでしょうか。
もちろん、名前の問題だけではありません。
大阪市を解体した場合に、経済は豊かになり、住民サービスが行きわたり、などという、バラ色の未来が待っているように言われるのってほんとうなのでしょうか。私は、政治や経済のことはわかりませんが、今の大阪府政を担っている政党はどうも信用できないのです。これまでにも中途半端なことをしては世間を混乱させたり、無駄遣いをしてきたりしたと思うのです。自分の都合で市長をやめて選挙をしてまた市長になるとか、このうがい薬にはあっと驚くような効果がありますとか、川をプールにして遠泳選手権をしようとぶち上げては何もなかったことにして終わるとか、それでいて、「そんなことは言っていない」だの「無意味なことではない」だのと、
何も過ちを認めない
ようで、言い方は悪いかもしれませんが、安っぽい弁護士のようなことをしているように見えてしまいます。
事情の分からない者が余計なことを言うことはないのですが、私はいいかげんなことを言って、詭弁を弄して、自分の思うことを成し遂げようとするのは卑怯者のすることだと思っていますので、もし私が大阪市民なら反対します。
で、もし可決されたら、以前否決されているので1勝1敗。決選投票があるのですか。
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- [2020/10/08 00:00]
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今年もやってみます
二年続けてニンニクを育ててみました。一年目はまったく要領がわからず、種苗会社のHPや趣味で育てている人のHPなどに載っている「育てかた」を見て、一番信用できそうなもの(笑)をそのまま真似るようにしていました。また、平素「栽培博士」と呼んでいる知人にいろいろとアドバイスをもらいましたので、それも参考にしながら育てたのです。結果的にはやや小ぶりで、失敗とまではいかなくても、「所詮は初心者」という成果でした。
二年目はいくらか要領がわかりましたので、多少成果も上がり、かなりしっかりした、とても香りの高いものができました。
しかし、一部に虫が付いたり、生育も不十分なものがあったりと、まだ不満が残りました。それで、もう一回やってみようかな、今度はタマネギに挑もうかな、と悩んでいたのです。しかし、9月の初めに用があってホームセンターに行ったとき、去年よりしっかりした植え付け用ニンニクを見つけて、迷わず購入したのです。こうして、結局
ニンニク三年目
ということになりました。九州産の暖地系ニンニクで、植え付け期間は「8月下旬~11月上旬」と説明書に記載されています。ずいぶん長い期間が記されていますが、8月と11月はやめようと思って、まず9月20日に第一弾を植えました。そして今月には第二弾を植え付けるつもりです。時期をずらしたのは、どちらがどんな風に育つかの観察のためで、それ以外の意味はありません。
買ったのは、3個入り(1個売りもあったのですが、あまりいいものがなかったのです)で、8片ニンニクなのでひとつにつき8つまたはそれ以上の
種球(鱗片)
があります。
しかし、小さいものは成長しないことは学習済みですので、残念ですが廃棄します。そしてしっかりしたものを選んで、最初に植えたのが7つ。今月は9つくらい植えられそうです。それでも丸1個分余ってしまいます。小さな植木鉢に1個ずつ植えてもなお余ります。なにしろプランターを置く場所もない(笑)ので、もったいないですが、廃棄することになりそうです。どなたか必要な方がいらっしゃいましたら郵送いたします(笑)。
全部で17,8個植えるつもりですが、やはり大きくならないものもあるかもしれませんので、10個くらい収穫できれば大成功、と思っています。
なにしろ、9月下旬に植え付けて収穫は6月初めくらいですから8~9か月の長丁場です。しかし、のんびりと観察するのにはとてもいいと思います。
また時々ここに途中経過を書くかもしれません。
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- [2020/10/07 00:00]
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『枕草子』と平安時代を読む(1)
今年はついに対面での講座を実施することはできませんでした。秋からもダメだと言われています。『源氏物語』については毎週1回講座代わりのものを書き続けていますが、もうひとつ『枕草子』についても何かしたいと思っておりました。結局は同じように、読むだけ読んでみようということにしました。ただ、現代語訳をするだけならいまどきネット上にいろいろありますので、ここでは平安時代の歴史にも注目しながら書いていくことにします。
従来『枕草子』の講座は火曜日にしておりましたので、同じように毎週火曜日にここに書いていこうと思います。この講座は2年間実施して、「内裏は五節のころこそ」の段まで読み進めたのです。そこでその続きから書いていこうと思います。自分の勉強のためですので、どなたも読んでくださらなくてもかまわないのです。興味がない方は、どうぞ火曜日は飛ばしてください(笑)。
何かご意見などございましたら、下のコメント欄にお名前(仮のお名前、いわゆるハンドルネームでけっこうです)とともにお書きください。
本日は「無名といふ琵琶の御琴を」の段を取り上げます。『枕草子』は注釈書によって段の切り方が異なるのですが、88段、89段あたりです。大体全体の3分の1くらいを終えたところです。
無名(むみやう)といふ琵琶の御琴を、上の持てわたらせ給へるに、見などしてかきならしなどす、といへば、弾くにはあらで、緒などを手まさぐりにして、「これが名よ、いかにとか」と聞こえさするに、「ただいとはかなく、名もなし」とのたまはせたるは、なほいとめでたしとこそおぼえしか。
「無名」という琵琶の御琴を帝がお持ちになっていらっしゃったので、見たりしてかき鳴らしたりするかというと、弾くわけではなくて絃などを手まさぐりにして「これの名ですが、何というのでしょう」と申し上げると、「ただまったくつまらないもので、名も無いのです」とおっしゃったのは、やはりとてもすばらしいと思われたことだ。
楽器の名についての話です。すぐれた楽器には、一つ一つにそれぞれの名が付けられました。まずは「無名」という名の琵琶です。帝が持っている、いわゆる「御物」ですが、あるときそれを一条天皇が中宮のところに持ってきたようです。ということは、これは内裏の中での出来事でしょう。女房たちはそれを眺めてかき鳴らしたりするのかというとそういうことはしないで、ただ絃に触ったりしているのです。この部分、解釈が分かれるところで、「見などしてかきならしなどす」を女房の言葉とする説が多く見られます。この言葉の直後に「といへば」とあり、普通に考えると、「といへば」の直前は会話文ですから、今申しましたような解釈が行われるのです。しかし「見たりしてかき鳴らしたりする」という言葉は会話として奇妙ではないでしょうか。国語学者で平安時代文章の専門家の渡辺実先生はこの「といへば」を「~するのかというとそうではなくて」と合理的に解釈されました(岩波新日本古典文学大系)。私も渡辺先生にしたがって解釈しておきました。
さて、この話の眼目は、この楽器の名前を問われた中宮が「名も無し」と答えたところにあるのはお分かりだと思います。単に「無名」を「名も無し」といっただけでなく、「名は何か」と問われたのに対して「名は無い」といいつつ「無名」という名を答えているところがおもしろいのです。
「無名」という琵琶は十三、四世紀の有職故実の辞典である『拾芥抄』に玄上(象)、牧馬、井手、渭橋などとともに「十名物」として名を挙げ、「上東門院名物也、或説、蝉丸琵琶、上東門院住済時亭之時為回禄焼失畢(上東門院彰子所持の名品である。あるいは蝉丸の琵琶とも言われる。上東門院が済時邸にいたとき、火災のために焼失してしまった)」としています。ただし、『江談抄』では「済政三位三条亭令御座之間、焼亡了【ト】云々(済政の三位の三条亭におはしませしむるの間、焼亡し了んぬと云々)」とあり、おそらく「済政」の方が正しいのでしょう(【 】の文字は小書きされたものです。以下同じ)。上東門院は藤原道長の娘彰子のことで、一条天皇の中宮となった人です。一条天皇の中宮は定子でしたが、父道隆が亡くなったあと、弟伊周の不祥事のために彼女は出家したため、中宮としての勤めが果たせないという理由で、彰子を中宮にして定子は本来中宮と同じ意味の皇后ということにされるのです。このとき定子のもとに置かれていた「無名」の琵琶は、のちに天皇のもとに返され、さらに彰子の手に渡ったのでしょう。ところがその後焼失してしまったのです。なお『拾芥抄』に見える「回禄」というのは中国の火の神で、そこから火災のことを言うようになりました。
淑景舎などわたり給ひて、御物語のついでに、「まろがもとに、いとをかしげなる笙の笛こそあれ。故殿のえさせ給へりし」とのたまふを、僧都の君、「それは隆円に給へ。おのがもとにめでたき琴(きん)侍り。それにかへさせ給へ」と申し給ふを、聞きも入れ給はで、こと事をのたまふに、いらへさせ奉らむと、あまたたび聞こえ給ふに、なほものもたまはねば、宮の御前の、「いなかへじと思したるものを」とのたまはせたる御けしきのいみじうをかしきことぞかぎりなき。この御笛の名、僧都の君もえ知り給はざりければ、ただうらめしう思いためる。これは、職の御曹司におはしまいしほどの事なめり。上の御前に、いなかへじといふ御笛の候ふ名なり。
淑景舎(定子の妹原子)などがおいでになって、お話をなさるついでに「私のところにとてもすぐれた笙の笛があります。亡き殿がくださったのです」とおっしゃるのを、僧都の君(定子の弟で原子の兄の隆円)が「それはこの隆円にください。私のところにすばらしい琴がございます。それと替えてください」と申されるのに、耳もお貸しにならずほかの話をなさるので、何とかお返事していただこうと繰り返しお願いなさるのだが、やはり何もおっしゃらないので、中宮様が「いなかへじ(いや、交換するつもりはありません)とお思いになっているのに」とおっしゃったごようすのとても魅力的なことといったら限りないのである。この御笛の名は僧都の君もご存じでなかったので、ただ恨めしいとお思いだったようだ。これは職の御曹司にいらっしゃった頃のことである。帝のお手元に「いなかへじ」という御笛がある、その名なのである。
淑景舎(しげいさ)は内裏後宮の北東隅にある殿舎で「桐壷」とも呼ばれます。そこを住まいにしていたのは春宮居貞親王妃で定子の妹の原子(981~1002)でした。その原子や隆円(980~1015)が定子を訪ねていた時の、さきほどの「無名」とよく似た話です。ただしこれは内裏での話ではなく職の御曹司での出来事のようだと清少納言は書いています。職の御曹司は内裏の東にあった中宮職の役所で、中宮定子はここを住まいとした時期がありました。よって「無名」の琵琶の話とは内容は近接していますが時期は異なるものです。
よもやま話のついでに原子が「亡き父(道隆。長徳元年=995=に薨去)がくださった秘蔵の笙がある」いうのです。笙に限らず管楽器は(肺活量を必要とするという性格もあって)概して男性が演奏するもので、さっそく隆円が欲しいと言い出します。彼が交換条件としたのは琴(きん。七絃の楽器。琴柱がなく、左手で絃を押さえて右手で弾く)で、こちらは奏法が難しく次第に演奏する人が減っていったのですが、女性も演奏するものです。『源氏物語』ではこの楽器の名手として描かれる光源氏が、彼の最後の妻である女三宮に伝授しています。ところが隆円の申し出に対して原子は見向きもしないのです。隆円は食い下がりますが、妹にあしらわれるばかり。するとそのとき定子が「『いなかへじ(否、替へじ)』と思っているのだから」というのです。清少納言はまたも中宮の機知に感心します。何のことか意味の分からない隆円でしたが、実はやはり御物に「不々替(いなかへじ)」という名の笙があり、中宮はそれを原子の気持ちを代弁するのに用いたのです。この奇妙な名の笙については『江談抄』がこう書いています。「不々替、是笙名也、唐人売之、千石【ニ】買【ト】云【ニ】、伊奈加倍志砥云介礼波、以之為名云々(いなかへじ、これ、笙の名なり。唐人売るに、千石に買ふと云ふに、いなかへじと云ひければ、もって名となす云々)」(『江談抄』巻三・55)。不々替というのは笙の名である。唐人が売るので千石で買うというと「いなかへじ(いや、その値では替えられない)」と言ったのでそれを名としたというのである、というほどの意味です。「不々替」は「不、不替(いな、かへじ)」のことです。
御前に候ふものは、御琴も御笛も、みなめづらしき名つきてぞある。玄上(げんしやう)、牧馬(ぼくば)、井手(ゐで)、渭橋(ゐけう)、無名など。また、和琴なども、朽目(くちめ)、塩竃(しほがま)、二貫(ふたぬき)などぞきこゆる。水龍(すいろう)、小水龍(こすいろう)、宇陀の法師、釘打(くぎうち)、葉二(はふたつ)、なにくれなど、おほく聞きしかどわすれにけり。「宜陽殿(ぎやうでん)の一の棚に」といふことぐさは、頭中将こそし給ひしか。
帝のお手元にあるものは絃の楽器も管の楽器もすべて珍しい名前が付いている。玄上、牧馬、井手、渭橋、無名など。また、和琴なども、朽目、塩竃、二貫などと言われる。水龍、小水龍、宇陀の法師、釘打、葉二、等々たくさん聞いたが忘れてしまった。「宜陽殿の一の棚に」という決まり文句は頭中将がおっしゃったのでした。
以下、御物の名器の名が並べられます。玄上、牧馬については「玄象(玄上に同じ)、牧馬者延喜聖主御琵琶歟、件御時、琵琶上手玄上ト云モノアリ云々」(『江談抄』巻三・57)という記述があります。この二つの楽器はどちらも延喜の聖主、すなわち醍醐天皇の持ち物だったであろうか、と『江談抄』の語り手である大江匡房は言います。醍醐天皇の時代に琵琶の名人で玄上(はるかみ)という者がいたというのです。『江談抄』はこの直後に、玄上が紛失した時の話も書いています。それによれば、行方不明になった玄上は朱雀門の楼の上から見つかったようなのです。これは朱雀門の鬼のしわざと伝わっているそうです。
井手、渭橋については、やはり『江談抄』に「琵琶者井手【ト】云琵琶高名物也、延喜孫【ニ天】十五宮子【尓】愛宮【ト】申人【ノ】琵琶、伝今在宇治宝蔵、渭橋又高名琵琶也、三条式部卿宝物也(琵琶は、井手といふ琵琶は高名の物なり。延喜の孫にて、十五宮の子に愛宮と申す人の琵琶。今に伝わりて、宇治の宝蔵に在り。渭橋はまた高名の琵琶なり。三条式部卿の宝物なり)」とあります。井手は醍醐天皇の孫で十五宮(醍醐天皇の十五男)の子で愛宮と申す人の琵琶である。今に伝わって、宇治平等院の宝蔵に現存しているものです。一方の渭橋は三条式部卿(誰を指すのか不詳)の宝物だというのです。
朽目と宇陀(多)法師は、『江談抄』巻三・64に「井上」「鈴鹿」「河霧」「斎院」とともに和琴の名器として名前が挙がっています。あとに笛と並べて書かれているため、清少納言は笛だと思っているのかもしれませんが、「宇陀(多)法師」については『江談抄』巻三・65に「宇多法師寛平法皇御和琴也」とあり、宇多天皇の御物の和琴であったということです。塩竃について『拾芥抄』は筝であるとしており、和琴かどうかはっきりしません。この混乱があるからか、江戸時代の『楽家録』には和琴と筝の両方としています。笛の名器として水竜(大水竜に同じか)、小水竜、釘打、葉二が挙がります。『江談抄』巻三・48には笛の名器として「大水竜、小水竜、青竹、葉二、柯亭、讃岐、中管、釘打、庭筠」が挙げられています。また『江談抄』巻三・49には「横笛者大水竜、小水竜、天暦御時宝物也」としています。
葉二は『江談抄』に藤原道長がらみのエピソードが残っています。
「葉二者高名横笛也、号朱雀門之鬼笛是也、浄蔵聖人吹笛、深更渡朱雀門、鬼大声感之、自爾此笛【乎】給件聖人云々、其後次第伝之、在入道殿、後一条院御在位之時、以蔵人【某】召此笛、蔵人不知笛名、只はふたつ参らせさせ給へと申【ニ】入道殿、何事【モ】可承【仁】歯二こそえかくましけれ若此葉二笛歟【ト天】令進給云々」(『江談抄』巻三・50)
葉二は名高い笛で、「朱雀門の鬼笛」というのはこれである。浄蔵聖人が笛を吹いて夜遅くに朱雀門を通ると、鬼が大きな声を挙げて感激した。そこでこの笛(聖人が吹いていた笛ではなく、鬼の持っていたもの)は聖人に与えたものだということである。その後伝領されて、入道殿(道長)のところにあった。後一条院が位にいらっしゃったとき、ある蔵人に命じてこの笛をお召しになった。蔵人は笛の名を知らずに、ただ「は、ふたつをください」と申したので、入道殿は「何ごとも仰せに従いますが、歯二本を欠くことはできそうにありません。あるいはこの葉二の笛のことですかな」といって差し上げたということだ。
藤原道長と楽器についての余談ですが、『御堂関白記』(道長の日記)寛弘七年一月十一日、十五日の記事に「葉二」「鈴鹿(和琴)」「螺鈿(筝)」の名が見えます。これらは道長が所有者から集めて、敦良親王の誕生五十日のお祝いの席で一条天皇(敦良親王は天皇の第三皇子)に贈ったものです。おもしろいことに、道長はこの日記で「葉二」のことを「歯二」と書いています。『江談抄』が伝える逸話は、あるいはこういうところから誰かが創作したものかもしれません。この『御堂関白記』の記事につきましては、次回細かくご紹介します。
『枕草子』に戻ります。「宜陽殿の一の棚に」というのは当時の決まり文句だったようですが、この「宜陽殿」というのは紫宸殿の東にあった殿舎で、ここの母屋には類題の御物が収められていました。そこの一の棚に置かれている、ということで、とびきりの宝物というような意味があったのでしょう。頭中将はおそらく藤原斉信(967~1035。為光の子)だと思われます。この人物は斉信が蔵人頭であったのは正暦五年(994)八月二十八日から長徳二年(996)四月二十四日まででした。この人物は、のちには藤原道長に親昵して藤原行成、源俊賢、藤原公任とともに「四納言」と呼ばれるのです。しかしそれ以前、定子の中宮時代に蔵人頭(天皇の側近)であったことから、清少納言とも親しい関係にあり、『枕草子』にもしばしば登場します。漢詩に優れた人物で、とても風雅な姿態の持ち主でもあり、「絵に描き物語のめでたきことにいひたる、これにこそは」(絵に描いたり物語ですばらしい姿だと言っているのはこの斉信様のお姿なのだろう)と絶賛する場面もあります(「返る年の二月二十余日」の段)。
なお、頻繁に引用した『江談抄』というのは、知識人として知られた大江匡房の話を藤原実兼という人物が筆録したもので、12世紀のはじめの成立です。岩波新日本古典文学大系に原文、訓読、注が掲載されています。
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- [2020/10/06 00:00]
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ファーストネーム(2)
私は、自分の子の名を付ける時はかなりいろいろ考えた方です。長男は、昔の人物がしばしばそうしたように、漢籍から文字を取ってくることを考えました。紀貫之は『論語』ですし、徳川家斉は『大学』から取った名前です。皇族、貴族あるいは大名などはかなり多くの人がこういう名付け方をしているはずです。今の皇族も、天皇直系の人はたいてい漢籍から取っています。天皇も、秋篠宮も、愛子さんも。
そういう人たちの真似をするのも畏れ多い(笑)かもしれませんが、私はそんなことを気にする人間ではありませんので、長男は『論語』から付けたのです。あのときは一生懸命『論語』を読み続けたものでした。娘は和歌から取ることにしていましたので、『古今和歌集』などからつけました。こちらは比較的得意なので、わりあいにすっと名付けられました。
ただ、その名前を本人が気に入ってくれているかどうか、やはり気になります。すると先日、長女がこんな話をしていました。
娘の名前を、先生が呼ぶとき、「名前、何やったかな」といってファーストネームを聞いてきたのだそうです。すると彼女は普通に「○○です」と言ったのですが、先生が何を思ったのか「覚えられへんから、もう
△△にしとけ」
と言ったのだそうです。冗談なのか、ほんとうに面倒だと思ったのかはわかりませんが、そのとき娘はカチンときたそうです。彼女は先生に逆らうタイプの子ではないのですが、「親が一生懸命考えてつけてくれた名前を粗雑に扱われた」というわけで、そのときだけは真正面から「私の名前は△△ではありませんから返事しません」と啖呵を切ったそうです。すると売り言葉に買い言葉だったのか、その先生が「返事しないならそこにいることはないから帰れ」と言ったそうです。こうなると娘も意地です。「じゃあ、帰ります」と言ってほんとうに帰ったのだそうです。その先生もあっけにとられたのではないかと思いますし、その後二人の関係はどのように修復されたのか、よくは知りません。
私はこの話を今まで知らなかったので、びっくりしました。
昔の親なら、帰ってくるとは何事か、と叱ったのかもしれませんが、私は思わず
いいね!
と返事してしまいました。実は私もどうしても気に入らないことがあったらテーブルをひっくり返してでもその場を出ていくタイプの人間なのです。そんなところは似ないでほしかったのに、「似てる」と思いました。
で、よく聞いたら、自分の名前がとても気に入っているので、それをないがしろにされるのが我慢ならなかったとのことです。
『古今和歌集』に感謝しています。
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- [2020/10/05 00:00]
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ファーストネーム(1)
子どもの名前を付けるのは、考えすぎるのもよくないかもしれませんが、適当につけるのも場合によってはかわいそうなことになりかねません。いつぞや、「王子様」と名付けられた人が、成年に達して改名を申し出てごく普通の名前になられた、という話題がありました。
親にとっては王子様でも、いずれその人は王子様ではなくなるので、名前としてはさてどんなものだろうか、と私も思います。
私が教えてきた女性たちを思い返しますと、私がまだ二十代の頃は「○子さん」という名前が多かったように思います。その後、徐々にそういう名前は減っていつの間にか
キラキラネーム
の時代に突入したのです。もちろん今でも10人に一人くらいは「○子さん」はいますが、今や「古風な名前」と言われているようです。
昨今、女子学生同士ではたいていお互いをファーストネームで、呼び捨てにしたり「ちゃん」を付けたりして呼び合っています。私が学生の頃の女性たちはまだ姓で呼んでいたことも多かったと記憶しますので、その辺も変わってきていると思います。姓で呼ぶと友だちという感じがしないのでしょうか。また、自分のことをファーストネームで呼ぶ人も少なくありません。ただ、これについては、子どものようだと感じる人も多く、そういう学生本人が「そろそろやめたほうがいいのかな」と相談してくることも少なくありませんでした。私はそういう場合「家ではかまわないから、まずは目上の人にきちんと『わたし』というところから始めたらどうですか」と言っています。そのうちに「わたし」が日常化するかもしれませんから。
男性同士では、私が高校時代などはほとんど姓を呼び捨てにしていました。大学でもまず同じでした。スポーツ選手などがわりあいに早くからファーストネームの呼び捨てをしていたかな、と思いますが、やはり男性同士では恥ずかしいというか、
甘えた感じ
がするのかもしれません。
昨今はそれこそスポーツの世界では男性同士もたいていファーストネームで、先輩を呼ぶ場合はそれに「さん」をつけるような呼び方をしているようです。
そういう場合、本人がそのファーストネームを気に入っていればいいのですが、先ほど挙げた「王子様」のような場合は「呼ばれたくない」という意識もあったのかもしれない、と勝手な想像をしています。
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首が回らない
「借金で首が回らない」ということばがありますが、あれはどういう意味なのでしょうか。首が回らないということは、からだが金縛りに遭ったように固定されてしまって身動きが取れないことを言うのでしょうか。
単にからだが固まってしまっただけなら「腕が回らない」「膝がまがらない」でもいいのですが、首が回らないとまっすぐ前しか見えず、いかにも身動きが取れない感じはします。そんな意味で首を用いた表現なのかな、とも思うのですが、実際のところはよくわかりません。
……と書き始めたのですが、別に
借金で困っている
わけではないのです。どうか「いくらか寄付しようか」などとはお考えにならないでください(考えてくださってもいいですが…笑)。私は借金というのが苦手で、ローンを組んだことすらありません。「借金できるのは甲斐性があるからだ」とも言われますから、わたしはやはり甲斐性なしなのでしょう。
実は、このところ、首が痛くて、ほんとうに首が回らないことがあるのです。回らないというより横を向いたり傾けたりすると痛む、という方が正しいかもしれません。
どうしてもパソコン仕事で前のめりになってそのままの姿勢を長い時間保ったりしています。それがいけないのかなとは思うのですが、何しろ仕事をしているときは夢中で気が付かないのです。やはり時々立ち上がってからだを動かさないといけないのでしょうね。
それはともかく、さしあたってこの痛みをなんとかしたいのです。整形外科に行くとか整体に行くとか、いろいろありそうですが、それ以前に自分でできることはないだろうかと考えました。やはり思いつくのはストレッチです。そこでNHKの“くらしの情報サイト”
「らいふ」
に出ていたストレッチを実践することにしました。
首を曲げる運動だけでなく、腕や手をうまく使った方法で首を前後左右斜めに動かして伸ばします。何度か繰り返したり、数十秒その姿勢をキープしたりしますのでけっこうな刺激になります。すると驚き桃の木山椒の木。痛みがすぐに緩和されました。
もちろん一度だけでは効果は薄いでしょうから、しばらく続けてみたのです。するとほんとうに楽になりました。
からだ全体も固くなっているので、これからはからだ全体のストレッチもしたいものだと思っています。
NHKさん、ありがとうございました。
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- [2020/10/03 00:00]
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源氏物語「少女」(1)
秋になれば『源氏物語』の講座が始められるという期待を持っていたのですが、やはり許可されませんでした。私としては、ぜひとも対面で、みなさんがお集まりになっていただける形で実施したかったのですが、このご時世ではダメだということのようです。
ダメと言われたらダメなので、何の力もない私には口の出しようもありません。まことに残念です。あるいはこのままこの講座は閉じてしまうことになるかもしれません・・。
でも、ここで恨み節をうなったところで仕方がありませんので、どうすればいいものかを前向きに考えることにしました。
春から夏にかけて、週に2回を基本として『源氏物語』の本文を挙げつつ、解釈を施し、さらに鑑賞や補足をするという形でこのブログに書き続けてきました。同じようなことを続けても読んでくださる方がいらっしゃるかどうかわからないという問題もあり、躊躇していたのですが、関東地方にお住いのある方から「また始めてほしい」と言われましたので、お一人は見てくださるかもしれない、というのを力に書いてみようかと思います。
そもそもこれは自分の勉強のために書いているものですから、読者ゼロでもかまわないのですけれども。週に2回にするほどの余裕はなさそうですので、普段の講座と同じペース、週に1回、分量も講座と同じくらいにして書いてまいります。曜日については、この口座が従来金曜日に実施されていましたので、それに合わせて基本的にこの曜日にアップする予定です。
これまでに書いてきたのは
蓬生(4回)、関屋(1回)、絵合(4回)、松風(4回)、薄雲(6回)、朝顔(5回)の計24回です。
次は
「少女(をとめ)」
です。「をとめ」に漢字をあてる場合、「乙女」もありますが、『源氏物語』の善本とされる「大島本」の表記にしたがって「少女」の文字を選んでおきます。いずれにしても遍照の歌にある「をとめの姿しばしとどめむ」と同じで、五節(ごせち)の舞姫のことです。
「朝顔」巻の翌年、光源氏三十三歳の夏から三十五歳の秋にかけての話です。この巻で、光源氏が後半生を過ごす「六条院」という広大な邸が完成します。
年かはりて、宮の御はても過ぎぬれば、世の中色あらたまりて、衣がへのほどなどもいまめかしきを、まして祭のころはおほかたの空のけしきここちよげなるに、前斎院はつれづれとながめたまふ。御前なる桂の下風なつかしきにつけても、若き人々は思ひいづることどもあるに、大殿(おほいとの)より「禊の日はいかにのどやかにおぼさるらむ」と、とぶらひきこえさせたまへり。「今日は、
かけきやは川瀬の波もたちかへり
君がみそぎの藤(ふぢ)のやつれを」
紫の紙、立て文すくよかにて、藤の花につけたまへり。をりのあはれなれば、御返りあり。
「藤衣着しは昨日と思ふまに
今日はみそぎの瀬にかはる世を
はかなく」とばかりあるを、例の、御目とどめて見おはす。
年が改まって、藤壺宮の一周忌も過ぎたので、世の人の服装が常の色に戻って、衣更えのころも、華やかな様子だが、まして祭のころは一体に空の風情も心地よさそうなのに、前斎院(朝顔の姫君)は所在なげに物思いをなさっている。御前の桂の下風の心地よさにつけても、若い女房たちは思い出すこともいろいろある、そんなときに大殿(光源氏)から「禊の日は、(今年は)どんなにのんびりとお思いになっていることでしょう」とお見舞い申し上げなさった。「今日は、『思いも寄りませんでした。川瀬の波が立ち返るように、またもあなたが除服のための禊をなさるなんて』」。
紫の紙で立て文にきちんとして、藤の花にお付けになっている。時節に叶った情感に満ちているので、お返事がある。「『喪服を着たのはつい昨日のことと思いましたのに、今日はもう禊をするときとなるなんて』はかないことで」とだけあるのを、例によって目をとどめてご覧になっている。
「朝顔」巻の末尾では藤壺中宮が光源氏の夢枕に立って恨みごとを言う場面がありました。そして朝顔の姫君に対する思いを遂げることはできず、紫の上にもつらい思いをさせていました。あの人も好き、この人も好き、もちろんこちらの人も。そのこと自体は悪いことではないでしょうが、それ以上を望むことで好きな女性たちを苦しめることになるのですから、罪作りな男と言うべきかもしれません。
さて、年が改まって、光源氏は三十三歳になりました。前年三月に亡くなった藤壺中宮の一周忌も終わり、初夏を迎えます。衣更えは四月一日で、その直後に賀茂祭(葵祭)があります。祭日は四月の中の酉の日(二番目の酉の日)です。父桃園式部卿宮を亡くした前斎院(朝顔の姫君)は、物思いがちな日々を送っています。桂の下を吹く風に対して、女房たちは斎院住まいのころのことを思い出しています。賀茂祭の装飾としては葵がよく知られますが、桂も同じように用いられたからです。
そういう時節を逃さず、光源氏から手紙が届きます。「川瀬の波」は「立ち返り」を導く役割があり、禊(川でおこなう)の縁語にもなります。そして「藤(ふち)」は「淵」と掛けていますので、「淵」と「瀬」が対になっています。去年までは賀茂祭で禊をなさっていましたが、今年はご尊父の喪明けの禊をなさって、藤衣(喪服)を脱がれるなんて、思いもよらないことでした、というお見舞いの歌です。この歌を書いた紙は紫色。もちろん、藤の色です。それをきちんと「立て文」は手紙を包んで上下をひねった形式です。さすがに折を違えぬ心にしみるような歌に、朝顔の姫君は返歌をします。この歌も「藤」に「淵」を掛けて「瀬」と対比しています。「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」(古今集・雑下・よみびと知らず)がもとになって、「淵瀬」は世の無常を意味する言葉として用いられました。光源氏は、この歌をじっと見つめています。
御服直しのほどなどにも、宣旨のもとに、所狭(ところせ)きまで思しやれることどもあるを、院は見苦しきことに思しのたまへど、をかしやかにけしきばめる御文などのあらばこそとかくも聞こえ返さめ、年ごろもおほやけざまの折々の御とぶらひなどは聞こえならはしたまひていとまめやかなれば、いかがは聞こえも紛らはすべからむ、と、もてわづらふべし。
喪服を常の服に改めるころなどにも、宣旨(朝顔の姫君の女房)のところに置き場がないくらいのお志の品々が贈られたのを、院(前斎院の意)は見苦しいこととお思いになり、またそうおっしゃるのだが、さも風情ありげに色めいたお手紙などがあったら何とか理由を着けてお返ししようけれど、年来、斎院としての公的な行事の折にはずっとお見舞いをなさっていて、このたびもたいそうまじめなものなので、どうして言い紛らわしてお返しなどできようかと思い悩んでいらっしゃるようである。
朝顔の姫君の、父式部卿宮の喪明けの時には、光源氏から多くのお見舞いの品々が届きます。宣旨に宛てる形で送られてきました。宣旨は朝顔の姫君の女房で、光源氏が何とか仲を取り持ってもらおうとした人です。「所狭きまで」というのはあふれかえるほど充満している様子です。今の言葉でいうと「山のように」というところでしょうか。さすがに朝顔の姫君は困り果てて、返したいとは思うのですが、これまでにも斎院としての公的な行事がある時には何かと支援の品を贈ってもらっているだけに、突き返すこともままならないのです。
女五の宮の御方にもかやうに折過ぐさず聞こえたまへば、いとあはれに、「この君の、昨日今日の児(ちご)と思ひしを、かくおとなびて訪(とぶ)らひたまふこと。容貌(かたち)のいともきよらなるに添へて、心さへこそ人にはことに生ひ出でたまへれ」と、ほめきこえたまふを、若き人びとは笑ひきこゆ。こなたにも対面したまふ折は、「この大臣(おとど)のかくいとねむごろに聞こえたまふめるを、何か今始めたる御心ざしにもあらず。故宮も筋(すぢ)異(こと)になりたまひて、え見たてまつりたまはぬ嘆きをしたまひては、『思ひ立ちしことをあながちにもて離れたまひしこと』など、のたまひ出でつつ、悔しげにこそ思したりし折々ありしか。 されど、故大殿の姫君ものせられし限りは、三の宮の思ひたまはむことのいとほしさに、とかく言添へきこゆることもなかりしなり。今は、そのやむごとなくえさらぬ筋にてものせられし人さへ亡くなられにしかば、げに、などてかは、さやうにておはせましも悪しかるまじとうちおぼえはべるにも、さらがへりてかくねむごろに聞こえたまふも、さるべきにもあらむとなむ思ひはべる」など、いと古代に聞こえたまふを、
女五の宮の御方にも、このように折を違えずにお見舞い申し上げなさるので、とても感じ入られて、「この君が、昨日今日まで子どもだと思っていたのに、このように一人前にお見舞いくださることよ。お顔立ちがとても美しいうえに、心まで人に優れてご成長になっている」と、おほめ申し上げなさるのを若い女房たちは笑い申し上げる。朝顔の姫君と対面なさる折には、「この大臣がこうしてとても懇切にお見舞いくださるようですが、いえなに、今に始まった御心ざし(求愛)でもありません。亡き宮もあなたが(斎院という)特別のお立場になられて(婿として)お世話申し上げられないことを嘆いていらっしゃって、『私が決心していたことをかたくなに拒まれたことよ』などとお口に出されては悔しそうにお思いになっていた折々があったことよ。それでも亡き大殿(故太政大臣)の姫君がご存命でいらした頃は三の宮(葵の上の母の大宮)が気になさるであろうことがお気の毒なので、私も口添えをすることはなかったのです。今は、その高貴でのっぴきならない血筋でいらっしゃった方までが亡くなられたのですから、故宮(式部卿宮)のおっしゃるようになることも、どうして悪いはずがあるものでしょうかと思われるのですが、昔に戻ってこのように熱心にご求婚申し上げなさるのも、そういう因縁でもあろうかと思います」など、いかにも古風にお勧めなさるので、
光源氏は「将を射んと欲すれば」ということか、女五の宮(朝顔の姫君の叔母、式部卿宮の妹)にも丁寧なお見舞いをします。次の女五の宮の「(三十を過ぎている光源氏に対して)まだまだ子どもだと思っていたのに」というあたり、いかにも老人のような言い方と言えそうです。それを聞いている女房たちは、苦笑するほかはありません。「何が子どもなものですか」という感じでしょうか。そして女五の宮は、朝顔の姫君に対して、光源氏との結婚について、式部卿宮の考えていたことを含めて話をします。「葵の上の生前は、なかなかはっきりとは勧められなかったものの、亡くなった今となっては、もう障害もなくなったではないか」というのです。ここで気になるのは、女五の宮の頭の中に紫の上の存在がないことです。正室を失ってそのまま今日に至っている、という考えのようで、紫の上の立場が必ずしもこういう高貴な老人たちには認識されていなかったことがわかります。紫の上が、朝顔の姫君の存在におびえるのもゆえなしとはしないと言えるでしょう。
心づきなしと思して、「故宮にもしか心ごはきものに思はれたてまつりて過ぎはべりにしを、今さらに、また世になびきはべらむも、いとつきなきことになむ」と聞こえたまひて、恥づかしげなる御けしきなれば、しひてもえ聞こえおもむけたまはず。宮人も、上下、みな心かけきこえたれば、世の中いとうしろめたくのみ思さるれど、 かの御みづからはわが心を尽くし、あはれを見えきこえて、人の御けしきのうちもゆるばむほどをこそ待ちわたりたまへ、さやうにあながちなるさまに、御心破りきこえむなどは思さざるべし。
(朝顔の姫君は)不愉快なこととお思いになって、「亡き父宮にも、そのように強情な者と思われて過ごしてまいりましたが、今さらまた世の習いに従いますのもまったく似つかわしくないことで」と申し上げなさって、取り付く島もないご様子なので、無理にはそのようにお勧め申し上げない。お仕えする女房たちも身分の上下を問わず誰もが(光源氏に)お味方申し上げていたので、周りがとても気がかりにばかりお思いになるのだが、あちらの光源氏ご自身は、誠意をこめてまごころを表して、姫君の御心が和らぐ時をお待ちになってはいるが、そのような強引なことをして姫君の御心を傷つけようとはお思いになっていないようである。
女五の宮の勧めを聞いて、朝顔の姫君はにべもない返事をします。「恥づかしげなる御けしき」というのは、「恥ずかしそうな様子」の意味ではなく、「こちらが恥ずかしくなるほど毅然とした様子」というほどの意味です。周りの女房たちも光源氏びいきですから、いつなんどき手引きをするかもしれない、と姫君は不安も覚えるのですが、当の光源氏はそこまでのことをしようとは思っていないのです。
大殿(おほいとの)腹の若君の御元服のこと思しいそぐを、二条の院にてと思せど、大宮のいとゆかしげに思したるもことわりに心苦しければ、なほやがてかの殿にてせさせたてまつりたまふ。右大将をはじめきこえて、御伯父の殿ばら、みな上達部のやむごとなき御おぼえことにてのみものしたまへば、主人方にも、我も我もと、さるべきことどもはとりどりに仕うまつりたまふ。おほかた世ゆすりて、所狭き御いそぎの勢なり。
大殿の姫君(葵の上)のお産みになった若君(夕霧)の御元服のことをご準備になるのだが、二条院でとはお思いになるが、大宮(葵の上の母、夕霧の祖母)がとてもその様子を見たがっていらっしゃるのも道理でおいたわしいので、やはり今住んでいるところそのままにあちらのお邸(故太政大臣邸)でおさせ申し上げなさる。右大将(大納言兼右近大将。もとの頭中将。故太政大臣の子、葵の上の兄弟)をはじめ、伯(叔)父の殿方はみな上達部で帝のご信任も篤い方々ばかりでいらっしゃるので、主人方(右大将の家)でも、我も我もと必要なことはそれぞれにご奉仕なさっている。およそ世の中が大騒ぎになるほどたいそうなご準備の勢いである。
話が変わります。葵の上所生の若君、夕霧がいよいよ元服します。この年、十二歳です。当時の元服は、おおむね十二歳から十六歳ころの間におこなわれましたので、まずは順当な年齢でしょう。光源氏自身も十二歳で元服しました。夕霧は、生まれてからずっと故左大臣邸、つまり母方で育てられていました。これはこの当時の常識的な子育ての在り方です。そこで、目に入れても痛くない孫の元服を目の当たりにしたいと願っている大宮の希望をかなえる意味でも、儀式は故太政大臣邸でおこなわれることになったのです。右大将ほか、夕霧の伯父、叔父にあたる人たちが何かと準備もしてくれます。
四位になしてむと思し、世人も、さぞあらむと思へるを、「まだいときびはなるほどを、わが心にまかせたる世にて、しかゆくりなからむも、なかなか目馴れたることなり」と思しとどめつ。浅葱にて殿上に帰りたまふを、大宮は飽かずあさましきことと思したるぞことわりにいとほしかりける。御対面ありてこのこと聞こえたまふに、
四位にしようと(光源氏は)お思いになり、世人もそう尾いうことになるだろうと思っていたのに「まだ全く幼いのだから、自分の思うままになる世の中だと、そんなにあわてて高位に就けるのもかえってありふれたことだ」と思いとどまられた。浅葱色で改めて殿上に昇られたのを、大宮(夕霧の祖母)は納得できないとんでもないこととお思いになったのは道理であり、またおいたわしいことであった。(大宮が光源氏に)ご対面になってこのことを申し上げなさると、
当時、一世源氏(臣下に下った初代の源氏)の子が元服すると、従五位下に、親王の子は従四位に叙せられるのが通例でした。夕霧は一世源氏の子ですが、光源氏は格が高いので親王と同じような扱いを受けるのが当然という空気だったのでしょう。光源氏自身も当初はそう思い、世間もそれで何も不満は起こらないような状況だったのです。ところが、四位どころか、五位でもなく、夕霧は「浅葱」で大人の仲間入りをするのです。「浅葱」色の袍は六位の色です。誰もが驚くような低い扱いです。大宮はあまりのことに悲嘆を隠せません。そこで、光源氏に対面した時、その真意を追及しないわけにはいかなかったのです。
「ただ今、かうあながちにしも、まだきに老いつかすまじうはべれど、思ふやうはべりて、大学の道にしばし習はさむの本意はべるにより、今二、三年をいたづらの年に思ひなして、おのづから朝廷(おほやけ)にも仕うまつりぬべきほどにならば、今、人となりはべりなむ。みづからは九重のうちに生ひ出ではべりて、世の中のありさまも知りはべらず、夜昼、御前にさぶらひて、わづかになむはかなき書(ふみ)なども習ひはべりし。ただ、かしこき御手より伝へはべりしだに何ごとも広き心を知らぬほどは、文(ふみ)の才(ざえ)をまねぶにも、琴笛(ことふえ)の調べにも、音(ね)たへず、及ばぬところの多くなむはべりける。はかなき親に、かしこき子のまさる例は、いとかたきことになむはべれば、まして、次々伝はりつつ、隔たりゆかむほどの行く先、いとうしろめたなきによりなむ、思ひたまへおきてはべる。
「今すぐにこのように無理にあわてて一人前らしくすることはないのですが、思うことがございまして、大学の道にしばらく学ばせようというかねてからの思いがございましたので、あと二、三年は無駄な時を過ごしたと思うようにして自然と朝廷にお仕えできるようになりましたらそのうち一人前になるでしょう。私自身が宮中で成長しまして、世の中の実情というものを知りませず、昼夜帝の御前に控えてわずかにちょっとした学問なども致しました。ただ、畏れ多い帝から受け継ぎましたことでさえ、何ごとも狭い視野で見ておりましたうちは、漢詩文を学ぶことはもちろん、琴笛の調べを学ぶにも音がふじゅうぶんで及ばぬところが多くございました。このようなつまらない親に立派な子がまさるという例ははなはだ難しいことでございますので、まして次々に世代が移るにつれて、遠い将来がたいそう気がかりでございますので、決心したのでございます。
光源氏は、夕霧を六位から始めさせることについて、その理由を語ります。これはいわば教育論のようなものです。光源氏は夕霧を大学で学ばせることにしました。今の大学と違って、上流貴族の子弟が行くところではありません。苦学しなければ出世できないものが行くところです。明法道、明経道、紀伝道、算道の学問があり、それぞれの道の博士が指導に当たりました。おもに古代中国史などを学ぶ紀伝道が次第に重視されるようになり、ここでは漢詩文も学びました。そこで、紀伝博士は文章博士にとってかわられることになります。歴史学博士が文学博士になったようなものです。文章博士は菅原氏、大江氏が任ぜられ、この下に文章得業生、文章生、擬文章生がいました。夕霧は、文章博士を目指すわけではなく、ただ学問を修めることが目的で入学したのです。光源氏は、息子をここで学ばせて、二、三年を無駄にしたと思って基礎を身につけさせようとするのです。今でも政治家の子は政治家ということが多いのですが、親はこのように子育てをしているでしょうか。そんなことを思いますと、光源氏の教育論は今に通用するかもしれません。彼自身、内裏のなかで成長したために、このような温室育ちではものを見る目養えない、という思いがあったようです。カエルの子はカエルといいますが、それ以下になることが多いものだ、という考えもうかがえます。そして、子孫がどんどん衰えていくかもしれない、という危機感を彼は持っていることになります。
高き家の子として、官爵(つかさかうぶり)心にかなひ、世の中盛りにおごりならひぬれば、学問などに身を苦しめむことは、いと遠くなむおぼゆべかめる。戯れ遊びを好みて、心のままなる官爵(くわんしやく)に昇りぬれば、時に従ふ世人の、下には鼻まじろきをしつつ、追従し、けしきとりつつ従ふほどは、おのづから人とおぼえてやむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人に立ちおくれて、世衰ふる末には、人に軽めあなづらるるに、 取るところなきことになむはべる。なほ、才(ざえ)をもととしてこそ、大和魂(やまとだましひ)の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。さしあたりては、心もとなきやうにはべれども、つひの世の重しとなるべき心おきてを習ひなば、はべらずなりなむ後も、うしろやすかるべきによりなむ。ただ今は、はかばかしからずながらも、かくて育みはべらば、せまりたる大学の衆とて笑ひあなづる人もよもはべらじと思うたまふる」 など、聞こえ知らせたまへば、
家柄のよい子弟として官位は思うままになり世の中での栄華に馴れてしまうと、学問などでわが身を苦しめることは、まったく自分とは関係ないものと思われるようです。たわけた遊びを好んで、思いのままになる官爵に昇ってしまうと、権力に従う世人は、内心では馬鹿にしていても、追従し、ご機嫌を取りながら言いなりになっている間は、自然と一人前に思われて立派なようではありますが、時勢が衰えてしかるべき人に先立たれて、権力が衰えたその果てには、人に軽んじられ馬鹿にされてもどうしようもないのでございます。やはり、学問を基本してこそ実際の仕事をする能力が世間で重用されることも強くなるのでございます。さしあたっては頼りないようではございますが、将来、国の柱石となるための心がまえを習得しましたら、私の亡きあとも安心でございましょうから。ただいまは頼みがいのないありさまでも、私がこうして面倒を見ている限りは、貧しい大学の学生といって嘲笑する人もまさかあるまいと思っております」などと説得申し上げると、
この部分は、いつの時代も権力者が自分の子を養育するときに心がけるべきことではないでしょうか。どうせ勉強などしなくても親の七光りで大きな顔をして生きていけるのだ、と思っていると、まだ力のあるうちは追従する人も多いでしょうが、頼るべき親などが亡くなった場合、馬鹿にされることになるだろう、というのです。「才(ざえ)をもととしてこそ、大和魂(やまとだましひ)の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」という言葉は、光源氏の教育論として記憶されるべきものだと思います。「大和魂」というのは、「漢才(からざえ)」に対して、日本の国情に合わせた実際の仕事ぶりのことです。学問なんて意味はない、実際に役に立つことこそが大事なのだ、というのは現代の風潮でもあります。最近は特に、文学、それも古典文学なんて世の中で何の役にも立たないと言われることが多くなっています。しかし、漢学(文学)、歴史、哲学などを修めてこそ実務にも有益なのだと言っています。私など、まことに心強い思いがいたします。回り道のようであっても、基礎をしっかり身につけさせることで将来世の柱となるときに役に立つという考え方です。そして、夕霧は自分の子だから、世間でも馬鹿にされることはないだろう、と光源氏は大宮を安心させるのです。ただ、この見通しはいささか甘く、夕霧はこのあと女房にばかにされる憂き目にあうのです。それについては、もう少し先に読むことになります。
うち嘆きたまひて、「げに、かくも思し寄るべかりけることを。この大将なども、あまり引き違へたる御ことなりと、かたぶけはべるめるを、この幼心地にも、いと口惜しく、大将、左衛門の督の子どもなどを、我よりは下臈と思ひおとしたりしだに、皆おのおの加階し昇りつつおよすげあへるに、浅葱をいとからしと思はれたるに、心苦しくはべるなり」と聞こえたまへば、うち笑ひたまひて、「いとおよすげても恨みはべるななりな。いとはかなしや。この人のほどよ」とて、いとうつくしと思したり。「学問などして、すこしものの心得はべらば、その恨みはおのづから解けはべりなむ」と聞こえたまふ。
(大宮は)ため息をおつきになって、「なるほどそのようにお考えになるのも当然でしたね。こちらの大将(右大将。もとの頭中将)も、あまりに非常識ななさりようだ、と首をかしげていたようですが、当人(夕霧)も子どもなりにとても悔しく、大将や左衛門督(右大将の弟)の子どもたちを、自分より身分の低いものと心の中で見下していた者でさえ、皆それぞれに加階のうえ昇進して生意気になって行くのに、六位の浅葱をとてもつらいと思っていらっしゃるので、いたわしくてならないのです」と申し上げなさると、少しお笑いになって、「(夕霧は)まったく生意気にも恨んでいるようですね。つまらないことです。その程度なのですね」と、とてもかわいいものだとお思いになっている。「学問などをして少しでもものの道理を理解するようになれば、その恨みはおのずから解けることでしょう」と申し上げなさる。
「獅子はわが子を千尋の谷に落とす」という言葉がありますが、父親は息子に対して厳しいものです。自分の弱さを知っているために、轍を踏まないでほしいと願うゆえなのですが、息子にしてみれば、なぜ父は自分に冷酷なのだろうか、と思います。それに対して、孫をかわいがる祖母は情が篤いですから、あまりにも厳しく育てることを嫌うのです。今も変わらぬ家庭の風景です。夕霧から見ると、右大将の息子(たとえばのちに柏木と呼ばれる子など)やまして左衛門督の子などは自分より下だと思っていたのに、(おそらく彼らは慣例通りに五位からスタートして昇進していくのでしょう)自分は浅葱色の袍を着けねばならないのが屈辱なのです。光源氏はわが子のそういう気持ちを一笑に付すのですが、夕霧の気持ちもまんざらわからないでもないでしょう。
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- [2020/10/02 00:00]
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