fc2ブログ

玄冬に入る 

Facebookではある人の誕生日が来ると「今日は○○さんのお誕生日です」という通知があります。そして多くの人がおめでとうメッセージを送られます。私も最初の頃はそういうこともしたことがあるのですが、やめてしまいました。
何千人というFacebook友だちをお持ちの有名な方が、誕生日を公開している「友だち」すべてに対して(おそらく毎日複数の)メッセージを送られるのを知っています。ただ、どうしても多数になると丁寧には書けないので、書式が決まっているようで、見た目が味も素っ気もないのです。それでももらった方は嬉しいでしょうし、私はそういうご関係にケチをつける気などさらさらありません。ただ、自分に置き換えた場合、なんとなく

    煩わしい感じ

がしてしまって、私はそういうことはやめようと思ったのです。となると、(おめでとうメッセージをいただかないために)自分の誕生日を公開することもやめないわけにはいかず、ナイショにしています。
このブログではさらに不特定多数の方の目に触れる可能性もあります(実際はFacebookより少ないけど・・笑)ので、自分の誕生日を自分で祝うような記事は書かないことにしてきました。
今年も書きませんが、漠然と言いますと、私は晩秋の生まれなのです。まもなく冬になるという時期です。最近、そういう時期に生まれたことと、自分の人生がそろそろ

    冬に入る、

あるいはすでに入っている、と実感していることがダブって見えてきました。それで、漠然とではありますがここに書いておくのです。
五行の考え方では春は青、夏は朱、秋は白、冬は玄(くろ)の色が当てはめられます。古墳の内部の四方に描かれる四神が東(春)が青龍、南(夏)が朱雀、西(秋)が白虎、北(冬)が玄冬であるのが、まさに季節、方角、色のかかわりを示すものです。
人生も若いころは「青春」といって、青(実際は緑系統全般でしょう)が似つかわしい季節です。そして冬は「黒(玄)」なのです。ちょっと寂しいですけどね。
私の人生もそろそろこの冬に入りそうで、もうあまり表に出ずにご隠居を決め込む時期になってきたのかな、と思います。今年の誕生日には、そんな気持ちも手伝って、

  人の世を惑ひたどりて
   歌を詠み浄瑠璃を書く
    玄冬に入る

と詠んでみました。
人生を、井戸の中の鮒のように、あちらにうろうろこちらにうろうろしてきました。塩冶判官は鮒侍(ふなざむらい)と罵られましたが、私は鮒教師です。そして、冬の時期に及んで、歌を詠んだり浄瑠璃を書いたりするに至ったのだな、と思うのです。
冬が長いのかどうかはわかりませんが、春がもう巡ってこないことだけは確かです。
冬は冬らしく生きたいと思っています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

スポンサーサイト



空き家の歌 

晩秋になると、いろんなものが心に沁みて見えます。同じものを見ても季節によってこうも違うのかと思います。
先日ここに書きました阪神大震災以来の空き家は年々哀れを深めます。この家は、あの震災で塀が完全に崩れ落ち、その後、塀そのものは修復されたのですが、もう誰も住まなくなってしまっています。
道に面した石垣からは、その隙間に種が落ちたのか、どうやって成長したのかと思うような

    ランタナ

の花が長らく咲いています。あの草は生命力が強いそうですが、それにしてもわずかな隙間を見つけて花をつけるのは見事ですらあります。
先日も書きましたが石灯篭が見えるのです。もう誰もあれを愛でる人はいないのだな、と思うと切なく感じます。
夕陽が射すと西向きの家や庭が映えます。震災から二十五年、売られるわけでもなく、留守番の人が来るわけでもなく、ただ、古屋敷がじっと佇んでいるばかりです。
この空き家を歌に詠んでみたいと思っていました。
私が属している短歌の会の新年号の締め切りがきましたので、一気に七首詠んでみました。

  入り日さす浅茅生の庭
   柿の実の誰を待つとてたわわなるらむ
  閉ざされし窓隠さんと駆けのぼる
   蔦の朽ち葉に夕あかねさす
  廃屋の灰色壁を這ひのぼる
   茜色濃き蔦のもみぢ葉
  草の名も見分かぬ庭にひとむらの
   鶏頭ありて秋を哀しむ
  鶏頭の紅きをまもる石灯篭
   めでられもせぬ庭に佇む
  主(あるじ)なく宿の石垣寂しむや
   隙間破りてランタナの咲く
  震災に主は去れど二十五年
   茜に映えて古家は朽ちず

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

Leap before you look. 

浄瑠璃や短歌の創作を楽しみにしています。
短歌については、学生の頃は一日一首をノルマにしていたこともあるのですが、さすがに時間に余裕がなくていつの間にか途絶えてしまいました。その後は何かの機会に詠む程度でした。今年から一念発起してきちんと人さまの目に触れるような形で詠みたいと思うようになりました。自己満足だけでなく、この「目に触れる」ということが大事なことだと思うのです。そして、締め切りがあるので、この日までに必ず詠まねばならない、と自分を追い込むことも悪くはないと思っています。
そうは言いながら、このところは普段から詠み続けることが出来ていなくて、締め切り間際の

    2週間くらい

で詠んでいるありさまです。ただ、この2週間はかなり集中して言葉を考える時間を持っています。電車に乗っていても、ひたすら言葉を考えていて、今どこを走っているのかわからなくなることもしばしばです。家で寝ようとしていても、枕元に紙とボールペンを置いていつでも思いついたことを書けるようにしています。普段からこういうことをしておけば間際に慌てずに済むのに、まったく昔からちっとも変わらないぐうたら者です。
和歌を詠むのに必要なことは、とにかくそのときの思いを三十一文字にすることの繰り返し以外にないような気がします。もちろん、他人の歌を詠む、和歌の歴史を知るなどの勉強は必要ですが、それだけではとても歌は詠めないのです。できるだろうか、できないだろうかなどと言っていないで、まず読むことが大事です。

    Leap before you look.

というW.H.オーデンの詩があります。「見るまえに跳べ」ということで、大江健三郎の作品のタイトルにもなっています。
The sense of danger must not disappear:
(危険についての感覚はなくなってはならぬ)
The way is certainly both short and steep,
(道はたしかに急で険しい)
However gradual it looks from here;
(ここからは緩やかに見えるけれど)
Look if you like, but you will have to leap.
(見たければ見ればいい、でも君は跳ばねばならぬ)

慎重になり過ぎるあまり行動に出ないのはときとしてまずいことだと思います。私は最近、(自分ではあまり意識していないのですが)精神的な病があるようで、何か行動を起こすのが大の苦手になっています。だからこそ見るまえに飛ぶことは重要だという意識を持っています。
短歌を積極的に詠むことを通して、自らの精神衛生にもよきものになることと思っています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

源氏物語「少女」(9) 

年が明けます。光源氏三十四歳、紫の上二十六歳、夕霧十三歳、雲居雁十五歳です。

朔日(ついたち)にも、大殿は御ありきしなければ、のどやかにておはします。良房の大臣(おとど)と聞こえける、いにしへの例になずらへて、白馬(あをむま)ひき、節会の日、内裏(うち)の儀式をうつして、昔の例(ためし)よりも事添へて、いつかしき御ありさまなり。
二月(きさらぎ)の二十日あまり、朱雀院に行幸(ぎやうがう)あり。花盛りはまだしきほどなれど、三月(やよひ)は故宮の御忌月(きづき)なり。とくひらけたる桜の色もいとおもしろければ、院にも御用意ことにつくろひ磨かせたまひ、行幸に仕うまつりたまふ上達部、親王(みこ)たちよりはじめ、心づかひしたまへり。


正月一日にも、大殿(光源氏)は外出なさることもないので、のんびりとお過ごしになる。良房の大臣と申し上げた、昔の例になぞらえて、白馬を曳き、節会の日は内裏の儀式をそのままにして、昔の例よりも行事を加えて、荘厳な有様である。
二月の二十日過ぎ、朱雀院に行幸がある。花盛りはまだ早いころだが、三月は亡き宮(藤壺)の御忌月である。早咲きの桜の色もとても美しいので、朱雀院でもご準備をことさらにととのえ、飾り立てなさり、行幸に供奉(ぐぶ)なさる上達部、親王たちをはじめとして気をお使いになった。


新年になりましたが、太政大臣の光源氏は特に内裏の行事に参加することもなく、ゆったりとしています。「良房の大臣・・」は藤原良房が自邸で白馬を曳いたり節会同然のことをおこなったりしたということですが、歴史的事実としては不明です。白馬の節会は正月七日に行われた行事で、天皇が白馬を観るものです。白馬はもともと青馬と書いたようですが、十世紀前半あたりから白馬と書くようになり、しかし読みはそのまま「あをうま」と言ったようです。青馬といっても真っ青なわけではなく(そんな馬、いませんよね)、灰色のような色の馬と思われます。今でも灰色の鷺をアオサギといいますが、それと同じでしょう。青は五行では春の色です。「青春」という言葉はここから来ています(夏は朱、秋は白、冬は玄)。馬は陽の獣とされ、天皇が白馬(青馬)を観ることで一年の邪気を避けるという意味でおこなわれたものです。その行事を天皇でなく光源氏が観るようにしたのです。それ以外の節会(踏歌の節会など)も内裏でおこなうのと同じように実施したということで、光源氏が天皇に擬せられるほどの特別の地位であることを思わせます。
二月になると冷泉帝が朱雀院(上皇の御所)に行幸します。ここには光源氏の兄である前天皇が暮らしていますので、この人物は「朱雀院」と呼ばれるのです。当時、天皇が外出するというのは大変大きな行事ですから、日を選ばねばなりません。たとえば、一条天皇(『源氏物語』が書かれた当時の天皇)の第二皇子(藤原道長の娘彰子所生)が九月十一日に誕生したときのこと。出産は道長の邸で行われますから、天皇は男子誕生を伝え聞くだけです。九月二十五日に、新皇子が内裏に入る日が十一月十七日だと聞いた天皇は、「それでは日が遠すぎるから、自分が皇子に会いに行く」と言い出します。そこで二十六日に、道長は行幸に適当な日を陰陽師に占わせます。二十八日、陰陽師から十月十三、十六、十七日のいずれかならかまわないという返事がありました。早く行きたい天皇は十三日を希望しますが、道長邸も準備が大変で、結局十六日がよいということになり、天皇はその日に道長の土御門第に行幸するのです。父親が生まれたばかりの息子に会いに行くだけですが、行幸となると大変な騒ぎになるのです。
『源氏物語』に戻りますと、三月であれば花盛りでしょうから、そのあたりがいいのですが、三月は天皇の母后である藤壺の亡くなった「忌月」ですから、それを避けねばならず、二月になったのです。現代人の感覚からすれば、まことに面倒なことです。

人々みな、青色に桜襲を着たまふ。帝は、赤色の御衣たてまつれり。召しありて、太政大臣参りたまふ。おなじ赤色を着たまへれば、いよいよひとつものとかかやきて見えまがはせたまふ。人々の装束、用意、常にことなり。院も、いときよらにねびまさらせたまひて、 御さまの用意、なまめきたる方に進ませたまへり。
今日は、わざとの文人も召さず、ただその才かしこしと聞こえたる学生十人を召す。式部の司(つかさ)の試みの題をなずらへて御題賜ふ。大殿の太郎君の試みたまふべきなめり。臆(おく)だかき者どもはものもおぼえず、繋がぬ舟に乗りて池に離れ出でて、いと術(すべ)なげなり。


人々は誰もが青色の袍に桜襲の装束をお着けになる。帝は赤色のお召し物をお着けになった。お召しがあって、太政大臣参上なさる。同じ赤色をお召しなので、(それでなくても似ていらっしゃるのに)ますますそっくりで輝くように見えて見間違えるほどでいらっしゃる。人々の装束や心遣いは普段とは違って格別である。(朱雀)院も、年とともに美しさがまさられて、お姿もお心遣いも優美さを増していらっしゃった。
今日は、わざわざ文人をお召しにはならず、ただ学才にすぐれていると評判の学生十人をお召しになる。式部省試験(「省試」という)の題に擬して、勅題を下される。源氏の大殿のご長男の君(夕霧)が試験をお受けになるからのようだ。臆病な者たちは、うろたえてしまって、岸に繋がれていない舟に乗って池に放たれて、まったくどうしようもないという様子である。


供奉する(お供する)上達部や親王は麹塵(きくじん。青みがかった黄色)の袍を着けています。これが「青色」です。この色は、平素は天皇だけに許されるのですが、こうした晴れの儀式では供奉の人が着け、天皇と公卿の最上位の者(一の上卿=いちのしやうけい)は赤色の袍を着けました。ここでは光源氏が赤色を着けています。光源氏と帝は実は親子ですからそっくりなのです。二人だけが同じ色の袍を着けると、どちらがどちらかわからないほどです。三十七歳になった朱雀院は引退して雅やかなふるまいに磨きがかかったようです。
この日の趣向として、専門の学者をお召しにならずに、学生の中から優れたものだけを選び集めて詩を作らせることにしたのです。これは式部省の試験(これに合格すると文章生=もんじやうのしやう=になる)のかわりにおこなわれるもので、夕霧が挑むのです。この試験は「放島の試み」と言われるもので、試験される者が一人ずつ舟に乗せられてカンニングなどできないようにして詩を作らされるのです。不安な者はかなり動揺しているようです。

日やうやうくだりて、楽の舟ども漕ぎまひて、調子ども奏するほどの、山風の響きおもしろく吹きあはせたるに、冠者の君は、「かう苦しき道ならでも交じらひ遊びぬべきものを」と、世の中恨めしうおぼえたまひけり。「春鴬囀」舞ふほどに、昔の花の宴のほど思し出でて、院の帝も、「また、さばかりのこと見てむや」とのたまはするにつけて、その世のことあはれに思し続けらる。

日が次第に傾いて、楽の舟(龍頭鷁首=りようとうげきす=の二隻の舟)が漕ぎめぐって、調子(楽器の調子を合わせるために演奏する短い曲)を演奏するときに、山風の響きが風趣豊かにそれに合わせるように吹くので、冠者の君(夕霧)は、「こんなに苦しい道を歩まなくてもほかの人と交じらい楽しめように」と、世の中が恨めしく思われなさるのであった。「春鴬囀(しゆんあうでん)」を舞うときに、昔の花の宴の折のことを(光源氏は)お思い出しになって、院の帝(朱雀院)も、「二度とあれほどのものを見られるだろうか」とおっしゃるにつけて、その当時のことがしみじみと次々に回想されるのである。

音楽を奏でる舟が池をめぐります。この舟は二隻一対で「龍の頭」と「鷁の首」をデザインしたものです。龍はおなじみの水の神様ですが、鷁は鷺のような鳥で水難を避ける象徴とされました。『源氏物語』「胡蝶」巻にも「龍頭鷁首を唐のよそひにことごとしうしつらひて」という一節があります。山風が音楽に合わせるように吹いているのを聞くと、夕霧はまた「なぜ自分だけがこんなに苦労しなければならないのだろう」と思ってしまいます。「春鶯囀」は唐楽、壱越調の舞楽の曲で、「花宴(はなのえん)」巻で当時春宮であった今の朱雀院が光源氏に舞うように言ったことがありました。朱雀院はそのことを思い出して、あれほどの見ものは二度とあるまいというのです。「花宴」巻は短いものですが、この「春鶯囀」の舞とともに印象的に記憶される巻です。

舞ひ果つるほどに、大臣、院に御土器(かはらけ)参りたまふ。
鴬のさへづる声は昔にて
  むつれし花の蔭ぞ変はれる
院の上、
九重を霞隔つるすみかにも
  春と告げくる鴬の声
帥(そち)の宮と聞こえし、今は兵部卿にて、今の上に御土器参りたまふ。
いにしへを吹き伝へたる笛竹に
  さへづる鳥の音さへ変はらぬ
 あざやかに奏しなしたまへる、用意ことにめでたし。取らせたまひて、
鴬の昔を恋ひてさへづるは
  木伝ふ花の色やあせたる
とのたまはする御ありさま、こよなくゆゑゆゑしくおはします。
これは御私(わたくし)ざまに、うちうちのことなれば、あまたにも流れずやなりにけむ、また書き落してけるにやあらむ。


舞が終わった時に、源氏の大臣は院に御盃をさしあげなさる。
鴬のさえずる声は昔のままですが、
  遊び戯れた花の蔭が変わったように、
  私たちの居場所も変わりました。
朱雀院、
内裏からはるかに霞を隔てたこの住
まいにも、春が来たと告げて来る鴬
の声がします。
帥の宮と申し上げた方は、今は兵部卿で、帝に御盃をさしあげなさる。
昔のままを吹き伝えた管絃の音色に、
  さえずる鳥の音までちっとも変わり
ません。
あざやかにうまく奏上なさった心遣いは格別にご立派である。その盃をお受けになって、
鴬が昔を恋しく思ってさえずるのは、
  飛び移る木々の花の色があせたから
でしょうか。
とおっしゃる御様子は、この上なく風格豊かでいらっしゃる。
この催しが私的なうちうちのことだから、多くも盃が流れずに終わったのだろうか、あるいはまた書き落としてしまったのだろうか。


光源氏も朱雀院も、春鶯囀の舞を見ると昔が思い出されてならず、あの当時と今の自分たちの立場をふと考えてしまいます。あのころ春宮だった朱雀院はすでに引退して上皇となり、近衛中将であった光源氏は政治向きのことを内大臣に譲って太政大臣の地位にあります。光源氏は、お互いに立場が変わりましたね、と詠むと、朱雀院はこんな隠居ところにもあなたや帝が訪ねてくださいました、と寂しさと感謝がないまぜになった気持ちを返します。かつてはよかった、という空気が漂ったそのときに、二人の弟で今は兵部卿になっている親王(蛍兵部卿)が帝に盃を差して詠みます。管絃も、鶯のさえずりも栄えていた昔のままです、あなたさまの御代もすばらしいものです、とフォローするのです。帝を立ててその場を湿っぽくならないようにしたのはまことに気の利いた態度というべきでしょう。それに対して帝は鶯が飛び移る木々の花が色あせたように、私の治世が昔に比べて劣るのでしょうか、と謙遜して答えます。その態度がいかにも王者の風格で立派なのです。この四首の歌は、朱雀院や光源氏の公人としての人生が過去のものとなり、兵部卿宮を経由して帝の時代へと移り行く世界が感じられないでしょうか。もちろん光源氏が朱雀院同様に陰の世界に埋没するとは思えず、彼は新たな世界を切り開くことにあるだろうとは思われますが。
最後にこの催しが内々のものだから歌が多く詠まれなかったのか、もしくは書き落としたかのどちらかだ、といっているのは、本来なら公卿以下多くの人が詠んだはずの歌を省略するための技法です。

楽所遠くておぼつかなければ、御前に御琴ども召す。兵部卿宮、琵琶。内大臣(うちのおとど)、和琴。箏の御琴、院の御前に参りて、琴は、例の太政大臣(おほきおとど)賜はりたまふ。さるいみじき上手のすぐれたる御手づかひどもの、尽くしたまへる音は、たとへむかたなし。唱歌の殿上人あまたさぶらふ。「安名尊」遊びて、次に「桜人」。月おぼろにさし出でてをかしきほどに、中島のわたりに、ここかしこ篝火ども灯して、大御遊びはやみぬ。

楽所が遠くて音もはっきりしないので、御前に御琴をいろいろお取り寄せになる。兵部卿宮は琵琶。内大臣は和琴。箏の御琴は院の御前に差し出して、琴(きん)は、例によって太政大臣がお受けになる。このようなたいへんな名手のすぐれた技で精一杯演奏なさった音は、たとえようもない。唱歌の殿上人が多く控える。「安名尊」を演奏して、次に「桜人」。月がおぼろに出でて美しいころに、中島のあたりに、あちらこちらの篝火をいくつも灯して、大御遊びは終わった。

楽を奏でるところは庭の中なので、建物の中からはじゅうぶんに聞こえず、院たちは楽器を取り寄せて自ら演奏を始めます。内大臣は和琴、光源氏は琴(きん)の名手としてしばしば登場します。ここではそれらに加えて兵部卿宮が琵琶、朱雀院が筝を演奏します。名人ぞろいですから、また格別な演奏になるのです。唱歌を得意とする殿上人たちも加わり、催馬楽の「安名尊」「桜人」が演奏され、やがて月が出ると庭には篝火が焚かれて、この遊宴はおひらきになります。管絃の「遊び」を「大御遊び」といっていますが、もちろんこれは朱雀院や帝がいる場での遊びだからです。

夜更けぬれど、かかるついでに大后の宮おはします方をよきて訪らひきこえさせたまはざらむも情けなければ、帰(かへ)さに渡らせたまふ。大臣もろともにさぶらひたまふ。后待ち喜びたまひて、御対面あり。いといたうさだ過ぎたまひにける御けはひにも、故宮を思ひ出できこえたまひて、「かく長くおはしますたぐひもおはしけるものを」と、口惜しう思ほす。「今はかく古りぬる齢に、よろづのこと忘られはべりにけるを、いとかたじけなく渡りおはしまいたるになむさらに昔の御世のこと思ひ出でられはべる」と、うち泣きたまふ。

夜は更けてしまったが、こういうついでに、大后の宮(おほきさいのみや。弘徽殿大后。朱雀院の母)のいらっしゃるところを、避けてお訪ね申し上げないのも思いやりのないことなので、帰りみちに(帝は)お渡りになる。大臣も一緒に控えていらっしゃる。大后は喜んでお待ち受けになって御対面がある。ほんとうにすっかりお年を召されたご様子を拝するにつけて、亡き宮(藤壺)をお思い出し申し上げなさって、「このように命長くていらっしゃる例もおありであるものを」と、残念にお思いになる。「今はこのように老いたために、あらゆることが忘れられてしまったのですが、まことにありがたいことにおいでくださいましたので、あらためて昔の御世のこと(桐壷在世時のこと)が思い出されるのでございます」と、お泣きになる。

帝は、弘徽殿大后にも挨拶をして帰ることにします。「帰さ」(帰り道)とありますが、本によっては「かへ殿」とするものがあります。「かへ殿(柏殿)」は朱雀院にあった皇后の御所のことで、その本文に従うなら、弘徽殿大后は今ここにいるのだろうと解釈することもできるのです。弘徽殿大后にとって光源氏といえば、かつては憎しみの対象ですらあった人です。両者は複雑な思いで対峙していることでしょう。しかし大后はおそらくこのころは五十代の後半で、もう高齢です。からだとともに気も弱くなるころでしょう。いまさら光源氏に対抗するような態度を見せたところでどうなるものでもない立場です。光源氏はその姿を見て、なぜこの人がこのように長生きして、藤壺中宮が短命だったのか、そのことを理不尽に思っています。帝の来訪を喜ぶ大后は、亡き桐壷院の在世時を思い出してつい涙を流してしまいます。やはり老いて涙もろくなっています。

「さるべき御蔭どもに後(おく)れはべりてのち、春のけぢめも思うたまへわかれぬを、今日なむ慰めはべりぬる。またまたも」と聞こえたまふ。大臣もさるべきさまに聞こえて、「ことさらにさぶらひてなむ」と聞こえたまふ。のどやかならで帰らせたまふ響きにも、后はなほ胸うち騒ぎて、「いかに思し出づらむ。世をたもちたまふべき御宿世は、消たれぬものにこそ」と、いにしへを悔い思す。

「頼みにしておりました方々(桐壷帝と藤壺中宮)に先立たれまして以降、春の境目もわきまえられなかったのですが、今日心を慰められました。これからもまた何度も(うかがいます)」と申し上げなさる。大臣もしかるべき程度にお話し申し上げて、「次にはきちんとした形で参りまして」と申し上げなさる。ゆっくりとなさることなくお帰りになる余韻としても、大后はやはり胸が穏やかではいられず、「(昔のことを)どのように思い出されていることだろうか。この世を支配なさるはずのご宿運は消すことが出来なかったのだ」と、昔のことを後悔していらっしゃる。

帝は、「両親を失って憂鬱に暮らしていたが、今日あなたにお逢いして心がなく冷められましたので、これからもしばしばお目にかかりましょう」と挨拶をします。一方の光源氏は「今度また改めて」と奥歯にものの挟まったような、儀礼的な挨拶だけをして、ゆっくりと話すでもなく帰っていきます。大后は、かつて陥れようとした光源氏が結局は世の重鎮なる宿世だったのだ、と、自らが敗北者であることを認めないわけにはいかないのです。

尚侍(ないしのかむ)の君も、のどやかに思し出づるに、あはれなること多かり。今もさるべき折、 風のつてにもほのめききこえたまふこと絶えざるべし。后は、朝廷(おほやけ)に奏せさせたまふことある時々ぞ、御たうばりの年官年爵(つかさかうぶり)、何くれのことに触れつつ、御心にかなはぬ時ぞ、「命長くてかかる世の末を見ること」と、取り返さまほしう、よろづ思しむつかりける。老いもておはするままに、さがなさもまさりて、院もくらべ苦しう、たへがたくぞ思ひきこえたまひける。

尚侍の君(朧月夜)も、静かにあのころのことをお思い出しになると、胸にしみることが多い。今もしかるべき折には、ひそかなつてによってお手紙を差し上げなさることは絶えないようである。大后は、帝に奏上なさることのある時々には、朝廷から頂戴している年官、年爵、そのほかのことにつけて、思いどおりにならないときに、命長く生きてこのようなつらい世に遭うことだ、と、昔を取り返したく、万事につけて不愉快な思いでいらっしゃる。老いていかれるにつれて、ひがみ根性も募って、(朱雀)院も付き合いきれない思いで、耐えがたくお思い申し上げていらっしゃる。

かつて光源氏が弘徽殿大后から憎まれる決定打となったのは朧月夜(弘徽殿大后の妹)との関係でした。その朧月夜はあの当時のことを思い出すと感慨無量なのです。そして、今なお光源氏との間にはひそかな交流が続いています。この二人の関係は、若菜下巻まで続き、光源氏にとって朧月夜は最後の愛人と言ってもよい人です。大后はなにかにつけて不機嫌なことが多く、年官(名目だけの地方官の下級官僚を任じて、その俸禄を天皇、上皇、太皇太后、皇后らの所得としたもの)年爵(名目だけの従五位下を任じて、その位禄を天皇、上皇、太皇太后、皇后らの所得としたもの)に不満があったりするとすぐに文句を言い出すのです。朱雀院も、そんな母親に対して手が付けられないような気持ちになっています。

かくて、大学の君、その日の文うつくしう作りたまひて、進士になりたまひぬ。年積もれるかしこき者どもを選らばせたまひしかど、及第の人、わづかに三人なむありける。秋の司召に、かうぶり得て、侍従になりたまひぬ。かの人の御こと、忘るる世なけれど、大臣の切にまもりきこえたまふもつらければ、わりなくてなども対面したまはず。御消息ばかり、さりぬべきたよりに聞こえたまひて、かたみに心苦しき御仲なり。

さて、大学の君(夕霧)は(放島試があった)その日の詩文を見事にお作りになって、進士になられた。年功を積んだすぐれた者をお選びになったのだが、及第の人はわずかに三人であった。秋の司召で、五位に叙せられて、侍従になられた。あの人のことを忘れる折とてないのだが、内大臣が必死に監視していらっしゃるのもつらく感じるので、無理をして対面なさることもない。お手紙だけをしかるべきつてによって差し上げなさって、お互いにお気の毒なご関係なのである。

夕霧は、あの放島試に参加した十人のすぐれた学生の中からわずか三人しか及第しなかった試験で合格を勝ち取り、晴れて従五位下に叙せられました。これで末端ながら貴族の一員です。もう「浅葱」ではないのです。天皇の職務を補佐する侍従にも任ぜられました。ではあの雲居雁との仲はどうなるのかということですが、なにしろ内大臣のガードが堅いものですから、すぐに事態が好転するわけではありません。この問題の解決にはまだしばらく時間がかかりそうです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

五七調と七五調 

短歌は57577の五句からできていて、一般的には575が上の句、77が下の句と言われます。百人一首のカルタをするときも、読み手は575だけを読んだり、そうでなくても575で少し間を空けて読んだりします。そして取り札は77だけが書かれています。しかし現実には第3句で切れるものばかりでなく、なんでもかんでも575で切って詠むと歌の意味としては奇妙に聞こえるのです。
古い歌の形式は57を何度か繰り返して7で結ぶというものでした。この「何度か」というのが3回以上になると長歌で、2回だと短歌です。
持統天皇の、
  春過ぎて夏来たるらし
    白妙の衣干したり
      天の香久山
は、最初の五・七で切れて、次の五・七でまた切れていますので、57・57・7という形式です。57を2回繰り返している、というのがよくわかります。これがいわゆる

    「五七調」

で、古い形の詠み方です。こういう歌は「春過ぎて夏来たるらし」で切って読む方が私としてはスムーズに意味が感じ取れます。百人一首のカルタで「春過ぎてぇ夏来にけらし白妙のぉ」で切られるとどうもしっくりこないのです。
  天の原ふりさけ見れば
   春日なる三笠の山に
     出でし月かも
という歌など、「ふりさけ見れば」で空を仰ぐように見て、「春日なる三笠の山に」で頭の中に故郷を思い浮かべて、「出でし月かも」でその二つの月がひとつになるので、やはり57・57・7と切って詠むとよく理解できます。
万葉集の時代は五七調の歌が多く、古今集の時代になると七五調が主流になってきます。それでもまだ
  人はいさ心も知らず
   ふるさとは花ぞ昔の
    香ににほひける
などは五七調です。
その後はしだいに七五調が勢力を増して、575で切る伝統がやがて連歌となり、俳句となっていきます。

    浄瑠璃の文章

も七五調が多く、義太夫節も七五調がなじむ節なのだろうと思います。
私が下手な浄瑠璃文を書く時も、基本は七五調です。私はいつも語りながら書いていますので、どうしてもそうなってしまいます。
ところが、最近短歌を多く詠むようになって、どうも五七調が合うような気がして来たのです。というより、無意識のうちに五七調の短歌を詠んでいることが多いのです。
先般短歌雑誌に送った七首の拙い歌を振り返ると、4つまでが五七調でした。
どうも私は、短歌は五七調、浄瑠璃は七五調と書き分けているようです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

忘年会に気を付けよう 


一時おとなしくなっていたウイルスがまた蔓延してきました。都市部だけでなく、全国的な広がりを見せているのはやはり旅行がいくらか活発になったことも影響しているのかもしれません。また、気温の低下や乾燥の度合いがウイルスに好都合、ということもあるでしょう。新聞に毎日掲載される「昨日の感染者数」を見ると、私の住んでいる県内もずいぶん多くなって、嫌な雰囲気です。
以前と違っていわゆる「ラッシュ時間帯」に電車に乗ることがありませんので、今その時間帯がどれくらい混んでいるのかは知らないのですが、やはり都市部ではすし詰め状態なのでしょうか。
私の予防法は相も変わらず手洗いに尽きます。しかし、意識的にしているわけではない

     「都会に出ないこと」

も自然に実践しています。京都も神戸も大阪も、ほんとうにご無沙汰しています。ましてや大幅な割引があるという旅行振興策など無縁そのものです。今月なら紅葉を観に各地に出ていく人がいらっしゃるのでしょうね。このあと十二月になると、クリスマス、忘年会などの季節ですから、またある程度はお金も落ちていくことでしょう。ただ、忘年会というのはどうしても

    羽目を外しがち

ですから注意が必要です。例年ならかくし芸だとか派手な踊りなどをされるところもあるのでしょうが、あまりドタバタはできないのでしょう。新聞などを見ると、会話の時はマスクをして、食べる時に外して、というようなことも書いてありますが、こうなると忘年会も命がけみたいに見えてきます。今年はいつもとは違った意味で、幹事さんの腕の見せ所になるかもしれませんね。
私個人としてはそういう会に出ることはもう20年以上ありませんので問題ないのです。おでかけのご予定の方は楽しさも中くらいの会になるかもしれませんが、それでもその範囲内でお楽しみください。理屈から言うと、感染していない人がいなければ大声で喚こうがどんな踊りをしようが関係ないのでしょうが、何しろ相手が目に見えないだけに・・・。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

『枕草子』と平安時代を読む(8) 

ほととぎすを聴きに行こうという風流な遠足は、高階明順の邸に行って珍しい農作業や作業歌を見聞きするという「社会見学」の様相をも呈しつつ、ほととぎすにもめぐりあえて、とりあえず目的は果たされました。しかし彼女たちは何かと大騒ぎをしているうちに歌を詠むことを怠りました。そして、その帰り道に卯の花を車にいっぱい飾りつけるという度が過ぎるほどに派手なことをして、誰かに見せつけようとしました。あいにくしかるべき人に会うことが出来ず、一条殿に住む藤原公信に見せようということになって案内を請いました。公信はくつろいだ姿をしていたとかで手間取り、そのうちに清少納言たちは逃げるようにしてその場を去りました。案の定、というべきか、公信は追いかけてきました。卯の花については清少納言のもくろみどおり、公信に見せることが出来ました。これで男たちの間でいくらかでも噂になるでしょう。そんな折に雨が激しくなってきたために、公信は去っていきました。その手には車から抜き取ったものと思われる卯の花が握られていたのです。

さて参りたれば、ありさまなどとはせ給ふ。うらみつる人々、怨じ心うがりながら、藤侍従の、一条の大路はしりつるかたるにぞ、皆笑ひぬる。「さていづら、歌は」とはせたまへば「かうかう」と啓すれば、「口をしの事や。うへ人などの聞かむに、いかでかつゆをかしきことなくてはあらむ。その聞きつらむ所にて、きとこそは詠まましか。あまり儀式定めつらむこそあやしけれ。ここにてもよめ。いといふかひなし」などのたまはすれば、げにと思ふにいと侘しきを、いひあはせなどする程に、藤侍従、ありつる花につけて、卯の花の薄様にかきたり。この歌おぼえず。

【語釈】
参り・・中宮の御前に参上する。
ありさま・・外出のよもやまの話。
うらみつる人々・・一緒に出かけたいと言いながら中宮に制せられていけなかった女房たち。
藤侍従・・藤原公信。
一条の大路走りつる・・公信は一条大路に面した一条殿の北門を出て少し西に走り、左折して東大宮大路を南に走ったのだが、特に南北に邸のある一条大路(東大宮大路は西側が大内裏の塀が続く)を人目も気にせず走ったことを強調するのであろうか。
いづら・・どうしたか、と相手に答えを促すときの言葉。
かうかう・・歌が詠めなかった事情を話す。
啓す・・中宮に申し上げることを「啓す」と言った。天皇に申し上げることは「奏す」。
いかでかつゆをかしきことなくてはあらむ・・どうしてまったくおもしろいことがないということで済ませられようか、の意。
聞きつらむ所・・ほととぎすの声を聞いたところ。明順邸。
儀式定めつらむ・・儀式ばって詠もうとすること。
げに・・なるほど中宮のおっしゃるとおりだ。
いひあはせなどする・・中宮が詠めというのに対してどうしようかと相談する。
ありつる花・・さきほどの花。持ち帰った卯の花。
卯の花の薄様・・卯花襲(うのはながさね)の薄い紙。「卯花襲」は表が白で裏が青。

そうして中宮様のところに参上すると、どんなようすだったかどをお尋ねになる。行けなかったことを恨んでいた人たちが怨みごとを言ったりつらそうにしたりするものの、藤侍従が一条の大路を走ったことを話すと皆笑いころげた。「それで、どうしたの、歌は」と(中宮様が)お尋ねになるので「こうしうしだいで(詠めませんでした)」と申し上げると、「残念なことね。殿上人などが(ほととぎすを聴きに行ったことを)聞いたら、どうして何も風流なことはしなかった、で済まされましょうか。その、聴いたところでさっと詠めばよかったのに。あまりにも本式にしようなどとしたのがよくないのです。ここででもいいから詠みなさい。まったくどうしようもないわね」などとおっしゃるので、なるほどそのとおりだと思うととてもつらくなるので、相談していると、藤侍従がさきほどの花につけて、卯の花の薄様の紙に書いてきた。この歌は覚えていない。

中宮にようすを問われたので明順の家での出来事やほととぎすを聴いたことを話すと一緒にいけなかった人はいかにもうらやましそうで不満げです。ところが公信が帯を結びながら息を切らせて一条大路を走ってきた話をすると一同爆笑したのです。中宮がさらに歌を問うと、珍しい農作業を見たり、雨に遭ったりしたこともあって詠めなかったと答えると、中宮は堅苦しく考えるからできなかったのだ、それなら今すぐここで詠みなさい、とご不興のようです。この部分、定子はわりあいに長い言葉をしゃべっています。懇々と言い聞かせるようにしたのでしょう。清少納言たちがどうしましょう、と話しているところに、あの公信から歌が届きました。卯の花につけて、卯花襲の紙に書くという、彼にしてみれば精一杯の工夫をしたのでしょう。それなのに、清少納言は「その歌おぼえず」とつれないことを書いています。公信はせっかく詠んだ歌を覚えてももらえなかったのです。どこまでもひどい扱いを受けています。本人は分かっているのかどうか・・。

これがかへしまづせむなど、硯とりに局にやれば、「ただこれして、とくいへ」とて御硯蓋に紙などしてたまはせたる。「宰相の君、かき給へ」といふを、「なほそこに」などいふ程に、かきくらし雨ふりて、神いとおそろしう鳴りたれば、ものもおぼえず、ただおそろしきに、御格子まゐりわたしまどひし程に、この事も忘れぬ。

【語釈】
これがかへし・・公信への返歌。
局にやれば・・下仕えの者に取りに行かせる。
御硯蓋に紙などして・・この部分、「御硯蓋(すずりぶた)に紙などして」と読む説と「御硯、蓋に紙などして」と読む説がある。硯の蓋に紙を載せたということなのか、硯とその蓋に紙を載せたものなのか、という違い。前者であれば「御硯の蓋に」と言いそうなところで、また紙だけをもらっても「とく(すぐに)」返事することはできないので疑問が残る。後者は「御硯、紙などたまはせたる」と言えば済みそうではあるが、こちらを取って解釈しておいた。
宰相の君・・藤原重輔の娘。中宮定子の女房で、清少納言と並ぶ才女。この部分、「宰相の君、『書きたまへ』といふを」と読むと、これが宰相の君の言葉になり、清少納言に書いてほしいと言っていることになる。
神・・雷。「神」が「鳴る」ので「かみなり」。
御格子まゐりわたし・・ばたばたと格子を次々に下ろしていく
この事も忘れぬ・・公信はまた忘れられる。

これの返事をまずしよう、などということになって、硯を取りに局に人を遣わすと、「ただもうこれを使ってすぐに返事しなさい」といって御硯と蓋に紙などを添えてくださった。「宰相の君、お書きください」というと、「やはりあなたが」などと言っているうちに、空を真っ暗にして雨が降って、雷がとても恐ろしく鳴ったので、気も動転して、ただおそろしいので御格子を隅から隅まで大慌てでおろしているうちに、このことも忘れてしまう。

返事をしようと言っていますが、なんとなく「やれやれ、公信さんは余計なことをしてくれる」という感じではないでしょうか。浮き立つような思いは見られません。中宮が自分のものを使ってもいいから早くしなさい、とまで言ってくれるのですが、宰相の君と押し付け合いをしています。やがて激しい雷鳴があって、誰もが怖がってばたばたと格子を下ろします。そんなどさくさに、この返歌のこともまたまぎれてしまったのです。

いとひさしうなりて、すこしやむほどには、くらうなりぬ。ただいま、なほ、この返りごとたてまつらむとて、とりむかふに、人々、上達部など、神のこと申しにまゐり給へれば、西面にいでゐて、もの聞こえなどするに、まぎれぬ。こと人はたさして得たらむ人こそせめ、とてやみぬ。なほ、この事に宿世なき日なめり、と屈(くん)じて、「今はいかでさなむいきたりし、とだに人におほく聞かせじ」など笑ふ。

【語釈】
なりて・・「鳴りて」であれば「長らく雷が鳴って」、「(~に)なりて」であれば「長い時間が経って」と読める。
この返事・・公信への返事。
人々・・女房たち。おそらく内裏女房。つまり天皇の使い。
神のこと申しに・・雷のことでお見舞いに来た。
西面・・西の廂。
まぎれぬ・・またまた公信への返事はまぎれてしまう。
こと人はた・・ほかの女房はやはり。あるいは「こと人、『はたさして‥』」と読むこともできるか。
やみぬ・・ついに返事はしないままになった。
この事に宿世なき日なめり・・今日は和歌に縁のない日のようだ。「宿世」はかなり大げさな表現。
屈じ・・気が滅入って。心がふさいで。
さなむいきたりし・・「さ」はほととぎすを聴きに行ったこと。

とても長い時間鳴って、少しおさまったころには、暗くなってしまった。すぐに、やはりこの返事をさしあげようというので、とりかかると、内裏の女房たちや上達部などが雷のことでお見舞いに参上なさったので、西廂に出てお相手などをしているうちに、まぎれてしまう。ほかの女房たちはやはり、名指しされて受け取った人がするべきでしょうといって、とうとうそのままになってしまった。やはり、和歌には縁のない日のようだ、と気がふさいで、「もう何とかしてほととぎすを聴きにったということさえ人にはぺらぺら申し上げるまい」などと笑う。

やっと雷が収まったと思ったら暗くなっていたので、早く公信への返事をしようと手を付けたら、方々から雷のことでお見舞いに来るので、清少納言は西廂で応対しなければならなくなります。内裏が職の御曹司の西側にあるからか、西廂を応対の場にしていたようです。ではほかの人が代わりに返歌をしてくれるかというと、やはり名指しされた清少納言がすべきだといって放置し、結局返事はしないで終わったのです。公信は歌を贈ったものの何の反応もないことで、無視された、という思いだったのでしょうか。なんとも気の毒な話です。結局この日は和歌を詠む機会を失ってばかりなので、もうほととぎすを聴きに行ったことすら誰にも言うまい、と言って、また彼女たちは笑っています。

「今もなどか、その行きたりしかぎりの人どもにていはざらむ。されどさせじと思ふにこそ」とものしげなる御けしきなるも、いとをかし。されど、「今はすさまじうなりにて侍るなり」と申す。「すさまじかべきことか、いな」とのたまはせしかど、さてやみにき。

【語釈】
今もなどか・・以下、中宮の言葉。
行きたりし人ども・・清少納言と一緒にほととぎすを聴きに行った人たち。
させじ・・(私がいくら言っても)それはするまいと思っているようね。
ものしげ・・「ものし」は「何やら心にかかって不愉快だ」の意。中宮がいかにも不満だという様子だという。
すさまじう・・「すさまじ」の「さま」は「冷め」「寒」と語源を同じくするとされる(岩波古語辞典)。やる気をなくした冷めた感情。
いな・・拒絶を表わす言葉。それはだめだ。

「今からでも、(ほととぎすを聴きに)行った人たちでどうして詠まないの。そういっても、もう詠むまいと思っているようね)とご不興の躰なのもとてもすてきだ。でも、「もう興が削がれてしまったのでございます」と申す。「興が削がれたなんてことがあるものですか。だめですよ」とおっしゃったが、そのままで終わってしまった。

中宮はそれでもなお「ほととぎすの歌を詠みなさい」と半ばあきらめ顔でけしかけます。そのご不興のようすについて、清少納言は「なんともすてきだ」とこんなところでも中宮を賛美しています。結局、中宮の再三の催促にかかわらず、歌は詠まれないままに終わったのです。しかし、この話にはまだ後日談があります。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

仏を崇める 

仏像関係の本をいくらか読んでいます。ただ、地元の図書館には、思いのほか多く入っておらず、物足りなく感じています。文句があるなら自分で買えばいいのですが。
本を読んでいるうちに、仏を崇めることは釈迦如来なり薬師如来なりを心中で思い描けば良さそうなのに、なぜかくも多くの見事な仏像が造られたのだろう、と根本的なところを考えることもあります。
仏像というのは「ほとけのかたち」のことですが、実は「ほとけ」ということばそのものに「ほとけのかたち」という意味があるのです。
釈迦の弟子の「舎利弗(しゃりほつ)」とか、僧侶の道具の「拂子(ほっす。一般的には『払子』と書く)」の読みからわかりますが、「弗」の字は「ほつ」と読むことがあり、それに「にんべん」をつけた「仏」「佛」も「ほつ」「ほと」なのです。それに形を意味する「け」が付いたのが「ほとけ」ということになります。
ということは、「ほとけ」ということばそのものが仏像のこととも言えそうです。
となると、仏教が伝わったときからすでに、それを信仰することは偶像である

    仏像を崇めること

でもあったのでしょう。
神社にも「御神体」というものはありますが、それは偶像とはいささかニュアンスが異なるように思います。私の家の近所の神社は素戔嗚命を祀っていますが、だからといって素戔嗚命の像が御神体として置かれているのではありません。それに対して、仏教は釈迦如来なり観音菩薩なりを本尊とするならその像を刻んで拝みます。
だから仏像はさまざまに造られ、仏教美術が盛んになったのだ、と感心するのです。仏師と呼ばれる人たちも工夫を重ねて芸術としての高みも目指したでしょう。
仏像の顔はさまざまで、特に観音くらいになると日本人モデルが感じられるものもあります。
法隆寺の

    救世観音

は聖徳太子の等身仏で、法華寺の十一面観音は光明皇后の姿を写したものと伝わります。
広隆寺の半跏思惟像(弥勒菩薩像)は素材から朝鮮半島で造られたものという説がありますが、そのやわらかな表情は日本風だとも言われます。
観音像はお堂の奥にじっと置かれたとは限らず、巷を巡って衆生を救うことを示すためにも、御神輿よろしく外に出されることがありました。人々がお寺に行って観音像を拝むのではなく、観音像が出てきてくれることがあったのですね。
傷がつきそうで、今ならあり得ないかもしれませんが、それも仏像を崇めるひとつの方法だったのですね。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

3つ目の波の中で 

SARS-CoV-2は昨年(2019年)11月に確認されたウイルスで、そのためにこのウイルスによる感染症はCovid-19と呼ばれます。昨年11月ということは、ちょうど1年経ったことになります。
中国でこんなことがあるらしい、と言っていたのが、またたく間に世界中に広がっていきました。
夏になったら嘘のように消える、と言ったのはどこかの大統領でしたが、正直に申しまして、私も似たような期待を持っていました。所詮私もあの人と同じレベルなんだなぁ。
消えるどころか、夏には

    第二波

が来て、それで収まるかと思ったら、また気温の低下を待っていたかのように3つ目の波が寄せてきました。
旅行に行こうキャンペーンは、一時評価されていましたが、果たしてどうだったのでしょうか。
そんな、よりによってとしか言いようのないときにIOCの会長が来て「観客を入れてオリンピックをおこなう」とぶち上げました。現実に目を塞いだきわめて政治的な発言だと思います。
グレタ・トゥーンベリーさんではありませんが、

    How dare you!

と言いたくなります。ウイルスに打ち勝った証とか何とか言いますが、そうではなくて、人類の反省を込めて中止する、という選択肢があってもいいのではないか。
今、あらゆることで無理をすると、そのしっぺ返しを受けるのは次世代の人たち。若者が派手で楽しそうなオリンピックや万博を観たいと思う気持ちはわかりますが、それが自分の世代の負担増になる可能性もあると覚悟する必要があるのではないでしょうか。
それなら、今、政治を担う高齢世代が、若者に嫌われてでも適切な判断をすべきではないだろうか。3つ目の波の中でそんなことを思います。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

蔦紅葉 

私の家の近所に、阪神大震災以後どなたも住んでいない空き家があります。といっても、小さな小屋のような家ではなく庭が広くて石灯篭が置かれているようなちょっとしたお屋敷なのです。
いったいどうなさったのか、まるで分らないのですが、外回りはときどき業者の人を雇って草などを取っていらっしゃるので、完全に放置されたわけではなさそうです。それでも庭は荒れ放題(私の目の高さからは塀越しに少し見えるのです)で、たわわに実っている

    

が寂しいです。
二階建ての家も雨戸の開く気配がなく、中はどうなっているのだろう、と他人ごとながら気にならないでもないのです。
私の家の近所は

    「売り土地」

の看板が出るとすぐに買い手がつくようなところで、最近もかなり広いお宅が土地を半分お売りになると、あれよあれよという間に医院が建ちました。
そんな感じで、空き地や空き家はめったにないので、その空き家はよけいに異様な感じがしています。
建物はいつしか伸びてきた

    

がわがもの顔に勢力を伸ばしています。二階の雨戸など、蔦で6割がた覆われてしまいました。
その蔦も、時節柄紅葉しています。いわゆる「蔦紅葉」です。枯れたものもありますが、そのそばで真っ赤になった葉がひときわ目を引きます。
正岡子規は蔦紅葉をよく俳句に詠んでいます。

  山賊のすみかをとへば蔦紅葉
  枯れ木とも知らずに蔦の紅葉かな

赤くて鮮やかな葉だけにいっそう侘しさも感じさせます。
式子内親王にも蔦紅葉の歌があります。

  秋こそあれ人はたづねぬ松の戸を
   いくへも閉ぢよ蔦のもみじ葉

やはりすさんだ情景に合うようです。
しゃれではありませんが、空き家の秋はほんとうにわびしさが募ります。いささか詩情をそそられますので、私もこれを主題に秋の短歌をいくつか詠んでみることにします。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

源氏物語「少女」(8) 

夕霧は十二歳の少年ですが、光源氏に当てはめると、葵の上との結婚の成立した年齢なのです。大体当時の貴族男子が元服するのは十二~十六歳くらいですから、そろそろ最初の結婚があってもおかしくはないのです。
そんな夕霧に、雲居雁の形代とはいえ、新しい恋愛が起こるかもしれません。雲居雁は内大臣の娘という超一流の家柄の娘ですが、こちらは受領の娘。まったく身分が違いますから、違った進展があるかもしれません。

やがて皆とめさせたまひて、宮仕へすべき御けしきありけれど、このたびはまかでさせて、近江のは辛崎(からさき)の祓(はらへ)、津の守は難波と、いどみてまかでぬ。大納言もことさらに参らすべきよし奏せさせたまふ。左衛門督、その人ならぬをたてまつりて、咎めありけれど、それもとどめさせたまふ。津の守は、「典侍(ないしのすけ)あきたるに」と申させたれば、さもやいたはらまし、と大殿も思いたるを、かの人は聞きたまひて、いと口惜しと思ふ。わが年のほど、位など、かくものげなからずは、請(こ)ひ見てましものを、思ふ心ありとだに知られでやみなむこと、と、わざとのことにはあらねど、うち添へて涙ぐまるる折々あり。

そのまま舞姫たちを皆おとどめになって宮仕えするようにという帝のご内意があったのだが、このたびは退出させて、近江守の娘は辛崎の祓、摂津守の娘は難波の祓、と張り合うように退出した。(按察使)大納言も改めて参入させることを奏上なさる。左衛門督は決めていた人でない娘を差し出したので、お咎めがあったのだが、それも内裏におとどめになる。摂津守は、「典侍が欠員ですから」と願い申し出たので、そのように世話をしてやろうか、と源氏の大殿もお思いになったのを、あの君(夕霧)はお聞きになって、とても残念だと思う。自分の年齢や位がこんなに頼りないものでなかったら、願い出て自分のものにしようものを、慕う気持ちがあるということすら知られないで終わるとは、と、どうしてもということではないけれど、(雲居雁のことに)加えて涙ぐまれることがしばしばある。

帝は、五節の舞姫をそのまま内裏に留め置いて宮仕えさせるつもりでしたが、舞姫たちは祓のためにもいったん退出します。近江守良清の娘は近江の辛崎(琵琶湖の西岸)で、摂津守惟光の娘は摂津難波で祓をおこないました。五節の前後には祓をおこなうのがきまりだったようです。良清と惟光は、光源氏に近い受領ですから、張り合う気持ちも強いのでしょう。この部分を見ると、惟光の娘だけが光源氏の後援を受けていたというのが不自然な感じもします。按察使大納言の娘も後日出仕させることを約束して退出します。もうひとりの左衛門督については「その人ならぬをたてまつりて」というところがあまりよく意味がわかりません。あらかじめこの娘を出しますと言っていたのとは違う娘を出した、ということでしょうか。左衛門督はこのことで咎められたようですが、舞姫本人はそのまま内裏に残るようにと言われたようです。宮仕えとなるとどういう形がよいか、父親としてはできるだけきちんとした形にしてやりたいでしょう。惟光は今典侍が欠員になっているので、娘をそれに宛ててほしいと申上しましたので、光源氏はそうしてやろうと考えます。典侍は天皇のそば近くに仕える内侍司の女官で、尚侍(ないしのかみ)に次ぐ二等官です。その噂を聞いた夕霧は、そうなると内裏の手の届かない所に行ってしまうのでまた悔しい思いをします。もう少し自分が大人で、もう少し身分があれば、自分が世話したいと言い出すのに、と、彼はここでも六位の我が身を嘆きます。

せうとの童殿上(わらはてんじやう)する、常にこの君に参り仕うまつるを、例よりもなつかしう語らひたまひて、「五節はいつか内裏(うち)へ参る」と問ひたまふ。「今年とこそは聞きはべれ」と聞こゆ。「顔のいとよかりしかば、すずろにこそ恋しけれ。ましが常に見るらむもうらやましきを、また見せてむや」とのたまへば、「いかでかさははべらむ。心にまかせてもえ見はべらず。男(をのこ)はらからとて、近くも寄せはべらねば、まして、いかでか君達(きむだち)には御覧ぜさせむ」と聞こゆ。

(惟光の娘の)弟で童殿上している者が、常にこの君(夕霧)にお仕えしているのだが、いつもより親しげに相談なさって、「五節はいつ内裏に参るのか」とお尋ねになる。「今年中にと聞いております」と申し上げる。「美貌であったので、むやみに恋しいのだ。そなたが平素あの姿を見ているであろうこともうらやましいのだが、また会わせてくれるか」とおっしゃると、「どうしてそのようなことができましょうか。私も思いのままに会うことはできません。男きょうだいということで(親が)近くにも寄せませんので、ましてどうして高貴な方のお目に掛けられましょうか」と申し上げる。

惟光の娘の兄弟(「せうと」は姉妹から見た男きょうだい。ここでは「童殿上」している年齢なので弟と思われる)が作法見習いのために殿上で奉仕する童殿上をしています。この男子はちょうど父親同士が主従関係にあったように、夕霧に親しく仕えるようにしているのです。夕霧はこの男に姉に会わせるように頼みますが、惟光は普段から男きょうだいでもこの娘には近づけないので、とても夕霧を会わせるなどということはできないとのことです。惟光は、まさに深窓の娘として育てているようです。

「さらば、文をだに」とてたまへり。さきざきかやうのことは言ふものを、と苦しけれど、せめてたまへば、いとほしうて持て往ぬ。年のほどよりはされてやありけむ、をかしと見けり。緑の薄様の好ましき重ねなるに、手はまだいと若けれど、生ひ先見えて、いとをかしげに、
ひかげにもしるかりけめやをとめごが
天の羽袖(はそで)にかけし心は
二人見るほどに、父主(ちちぬし)ふと寄り来たり。恐ろしうあきれて、え引き隠さず。「なぞの文ぞ」とて取るに、面赤みてゐたり。「よからぬわざしけり」と憎めば、せうと逃げて行くを、呼び寄せて、「誰がぞ」と問へば、「殿の冠者の君の、しかしかのたまうて賜へる」と言へば、


「それならせめて手紙だけでも」とお渡しになった。以前からこういうことは(父がやかましく)言っているのに、と迷惑がっているのだが、どうしてもとお渡しになるので、おいたわしく思って持って行った。(娘は)年の割にはこういうことに慣れているのか、おもしろいと思って手紙を見た。緑の薄様の紙(薄い鳥の子紙)の、気の利いた同じ色を重ねたもので、筆跡はまだひどく幼いのだが、末頼もしく美しい字で、
  日蔭のかづらを着けていたあなたに
とっては、日の光によってはっきり
分かったことでしょう。舞姫の羽袖
に思いを掛けた私の心は
二人で見ていると、父君(惟光)が突然近づいてきた。おそろしく途方に暮れて隠すこともできない。「どういう手紙だ」といって取り上げると、顔を赤らめてじっとしている。「けしからんことをしたのだな」と非難すると、弟は逃げていくので、それを呼び寄せて、「誰の手紙だ」と尋ねると「殿の冠者の君がこれこれこのようにおっしゃってくださいました」というと、


夕霧はどうしても思いを伝えたくて、手紙を託すことにしました。この童にしてみれば、はた迷惑なのですが、さすがに気の毒な気持ちがして引き受けてしまいます。このあたりは光源氏が惟光に無理を言っていた過去と同じことをしているのかもしれません。すると、娘は男女のことにはまだ疎いはずが、年齢の割にはさばけているのです。「されて」というのは、男女のことに通じているようすを言います。夕霧の歌は、自分が思いを掛けていることをあなたはおわかりでしょうね、というものでした。するとそこによりによって父親の惟光が来たのです。普段から妙な文使いなどはするなと戒められていたのに、こんなことをしたのですから、二人は仰天しました。弟は逃げ出そうとしたのですが父親に咎められて白状するほかはありません。夕霧からの手紙だと知った惟光は・・。

名残なくうち笑みて、「いかにうつくしき君の御され心なり。きむぢらは、同じ年なれど、いふかひなくはかなかめりかし」などほめて、母君にも見す。「この君達(きむだち)の、すこし人数(ひとかず)に思しぬべからましかば、宮仕へよりは、たてまつりてまし。殿の御心おきて見るに、見そめたまひてむ人を、御心とは忘れたまふまじきとこそいと頼もしけれ。明石の入道の例にやならまし」など言へど、皆急ぎ立ちにたり。

(惟光は)うってかわってにっこりとして、「なんとかわいらしい若君のお戯れであろうか。お前などは同じ年なのに、どうしようもなく頼りないようだな」などと(夕霧を)ほめて、母君にも見せる。「この若君が少しでもものの数に入れてくださるなら宮仕えよりも、いっそ差し上げてしまおうか。殿(光源氏)のお人柄を拝見するに、いったん見染められた人をご自分からお忘れになるはずがないのがまったく頼もしいことだ。明石の入道のようになるかもしれない」などというのだが、ほかの人は皆、内裏に入る準備に奔走したのであった。

惟光は、夕霧からの手紙だと聞くと「なごりなく」つまりこれまでの怒りなど跡形もなくなったように相好を崩すのです。単純な親ばかです(笑)。しかも夕霧に比べておまえは頼りない、などとどういうわけか息子に八つ当たりさえするのです。そして、妻にも手紙を見せ、いっそのこと、宮仕えなどさせずに、夕霧の妻にしてもらおう、受領の娘であっても、光源氏が明石の君を大切にして娘を大切にしているように、自分も明石の入道(明石の君の父。もと播磨守)のように幸せ者になれるかもしれない、と勝手に思いを巡らせているのです。ここでけっさくなのは、そんなことを思っているのは彼ひとりで、ほかの人たち(当然妻を含む)は宮仕えの準備にあくせくしているというところです。完全に惟光の一人合点で、誰も相手にしていない、という感じです。滑稽な父親像が描かれているのです。しかし、惟光の考えはまんざら的を射ていないものではなく、この娘が将来産むことになる夕霧の娘のうち、六の君は美貌で知られ、光源氏が明石の姫君を紫の上の養女にしたように、落葉宮(朱雀院=光源氏の兄=の女二の宮。柏木=今の内大臣の子=の妻となるが、柏木の没後、夕霧が強引に自分の妻にする)の養女にして、匂宮の妻にするのです。まさに明石の入道並みの出世かもしれません。

かの人は、文をだにえやりたまはず、立ちまさる方のことし心にかかりて、ほど経るままに、わりなく恋しき面影にまたあひ見でやと思ふよりほかのことなし。 宮の御もとへ、あいなく心憂くて参りたまはず。 おはせしかた、年ごろ遊び馴れし所のみ思ひ出でらるることまされば、里さへ憂くおぼえたまひつつ、また籠もりゐたまへり。殿は、この西の対にぞ聞こえ預けたてまつりたまひける。「大宮の御世の残り少なげなるを、おはせずなりなむのちも、かく幼きほどより見ならして、後見おぼせ」と聞こえたまへば、ただのたまふままの御心にて、なつかしうあはれに思ひ扱ひたてまつりたまふ。

あの方(夕霧)は、お手紙さえお送りになれず、(惟光の娘より)思いのまさる人のことが強く心にかかって、時が経つにつれてむしょうに恋しい面影に二度と会えずに終わるのかと思う以外何もできない。大宮のところにも、ばつが悪く、つらい気持ちになって参上なさらない。(雲居雁の)いらっしゃったお部屋や長年遊び馴れたところばかりが、以前にもまして思い出されるので、その家までをつらくお思いになってまた(二条東院に)籠っていらっしゃった。(源氏の)大殿はこの二条東院の西の対の方(花散里)に依頼してこの君をお預けになったのであった。「大宮のご寿命も残り少なそうですので、亡くなられた場合はそのあともこうして幼いうちから親しんでおいて後見なさってください」とご依頼になると、おっしゃる通りに従うご性格なので、やさしく、心からお世話申し上げなさるのであった。

夕霧は惟光の娘を思いつつも、やはりより深く思いを寄せ、身分も高い雲居雁のことを忘れるはずもありません。そしてもう彼女のいない大宮の邸(三条邸)には行く気にもならず、以前のように二条東院で学問をするほかはなくなったのです。光源氏は花散里の人柄のよさを知っており、また彼女には子どももいませんから、夕霧の親代わりとして世話を委ねました。花散里も素直に引き受け、愛情豊かに夕霧の世話をするのです。

ほのかになど見たてまつるにも、容貌(かたち)のまほならずもおはしけるかな、かかる人をも人は思ひ捨てたまはざりけり、など、わが、あながちに、つらき人の御容貌を心にかけて恋しと思ふもあぢきなしや、心ばへのかやうにやはらかならむ人をこそあひ思はめ、と思ふ。

(夕霧は花散里を)ちらっとご覧になったりするにつけて、容貌はすぐれてはいらっしゃらないのだな、(父光源氏は)こういう人もお見捨てにならないのだ、とも、わたしが一途にあの薄情な人(雲居雁)のご容貌を思い詰めて恋しく思うのもつまらないことだ、人柄のこのように穏やかな人をこそ愛し合いたいものだ、と思う。

親代わりになってもらうだけに、夕霧は花散里の容貌を見る機会がないわけではありません。すると、この人は必ずしも美貌ではないとわかるのです。父光源氏はこういう人も見捨てないのだから、自分が雲居雁を思い詰めるのはばかげていると考えます。人柄こそ何よりも大切なのだ、と花散里が無言のままに教えてくれるのです。では夕霧はもう容貌などどうでもいいと思ったかというと・・。

また、向かひて見るかひなからむもいとほしげなり、かくて年経たまひにけれど、殿の、さやうなる御容貌、御心と見たまうて、浜木綿(はまゆふ)ばかりの隔てさし隠しつつ、何くれともてなし紛らはしたまふめるも、むべなりけり、と思ふ心のうちぞ恥づかしかりける。大宮の容貌ことにおはしませど、まだいときよらにおはし、ここにもかしこにも人は容貌よきものとのみ目馴れたまへるを、もとよりすぐれざりける御容貌の、ややさだ過ぎたる心地して、痩せ痩せに御髪少ななるなどが、かくそしらはしきなりけり。

一方また、向き合って見るに堪えないような人も困ったものだ、こうして長い年月を過ごされたのだが、殿(光源氏)はこういう御容貌、お人柄とおわかりになったうえで、浜木綿のように幾重にも隔てを置いて離れていながらも、何かととりつくろうように気を使われるようなのももっともなことだ、と思う心の中は大人も顔負けなのであった。大宮の容貌は、お姿は(尼姿に)変わっていらっしゃるが、まだとても美しくていらっしゃり、ここでもどこでも人は容貌の美しいものとばかり見馴れていらっしゃったのだが、もともとすぐれていらっしゃらなかった御容貌が、いっそう老けすぎたような感じで、痩せがちで御髪も少ないのが、このようにけちをつけたくなるのである。

性格がよい人とこそ親しくすべきだ、と思ったのもつかの間、やはりあまりにも不器量では困る、と夕霧は思い返すのです。そして光源氏がこの不器量な女性とつかず離れずうまく付き合っていることに納得する、というのはとても十二歳の少年とは思えないような考え方です。「浜木綿」は、葉が重なり合って成長することから「幾重にも重なる」の意味で用いられ、「み熊野の浦の浜木綿百重(ももへ)なる心は思へどただにあはぬかも」(拾遺集・恋一)のように詠まれます。身の周りの女性方はみな美しい人ばかりというところに育った夕霧ですから、ついこの花散里には難癖をつけてしまうのです。

年の暮には、正月(むつき)の御装束など、宮はただ、この君ひとところの御ことを、まじることなういそぎたまふ。あまたくだり、いときよらに仕立てたまへるを見るも、もの憂くのみおぼゆれば、「朔日(ついたち)などにはかならずしも内裏(うち)へ参るまじう思ひたまふるに、何にかくいそがせたまふらむ」と聞こえたまへば、「などてかさもあらむ。老いくづほれたらむ人のやうにものたまふかな」とのたまへば、「老いねど、くづほれたる心地ぞするや」と独りごちて、うち涙ぐみてゐたまへり。

年末には、正月の御装束などを大宮はただこの君(夕霧)ひとりのことを余念なくご準備になる。幾揃いもの装束をとても美しくお仕立てになったのを見るにつけ、(夕霧は)憂鬱にばかり思われるので、「一日などには、必ずしも内裏に参るつもりもないと思っておりますのに、どうしてこのようにご準備になるのでしょうか」と申し上げなさると、「どうして参内しないでよいものでしょうか。老いて気力を失った人のようにおっしゃるのですね」とおっしゃると、「老いてはいないが気落ちはしている」と独り言をおっしゃって、少し涙ぐんでいらっしゃる。

まもなく新年です。大宮は夕霧のためにせっせと晴れの装束を準備します。しかし華やかな気持ちとは程遠い夕霧は、それを見るとなおつらくなるのです。そして正月にも参内はしないと言い張ります。大宮が「落胆した年寄りのようだ」といっているのはこのときの夕霧の姿をよく表しているのではないでしょうか。夕霧は相変わらずめそめそしています。

かのことを思ふならむ、と、いと心苦しうて、宮もうちひそみたまひぬ。「男は、口惜しき際の人だに、心を高うこそつかふなれ。あまりしめやかに、かくなものしたまひそ。何とか、かうながめがちに思ひ入れたまふべき。ゆゆしう」とのたまふ。

あのことを悩んでいるのだろう、ととてもかわいそうで、大宮も泣きそうなお顔になる。「男は、つまらない身分の人でさえ気位を高くするものだそうです。あまりしんみりとして、このように落ち込まないでください。何をこのように物思いがちにふさぎ込んでいらっしゃるのでしょう。不吉なこと」とおっしゃる。

大宮も夕霧の気持ちがわかるだけに、ついもらい泣きしそうになります。しかしあまりめそめそするものではない、と励ましもするのです。身分の低いものですらプライドを持つのだから、あなたのような人(家柄のよい者)は沈み込んではいけない、というのですが、夕霧は六位の官位を嘆く身の上だけに、身分のことを言われるのはあまり効果がないかもしれません。最後に「ゆゆし」と言っていますが、物思いがちになると、物の怪などの入り込む隙を見せることになるので不吉なのでしょう。ストレスが病気を誘発するのはいつの時代も同じことですが、それを当時は物の怪のせいにしたのでしょう。

「何かは。六位など人のあなづりはべるめれば、しばしのこととは思うたまふれど、内裏へ参るももの憂くてなむ。故大臣おはしまさましかば、戯れにても、人にはあなづられはべらざらまし。もの隔てぬ親におはすれど、いとけけしうさし放ちて思いたれば、おはしますあたりに、たやすくも参り馴れはべらず。東の院にてのみなむ、御前近くはべる。対の御方こそ、あはれにものしたまへ、 親今ひとところおはしまさましかば、何ごとを思ひはべらまし」とて、涙の落つるを紛らはいたまへるけしき、いみじうあはれなるに、

「何の。六位などと人がばかにしているようですので、それはしばらくの間のこととは思っておりますが、内裏へ参るのも憂鬱でして。故大臣(夕霧の母方の祖父。大宮の夫。故太政大臣)がご存命でしたら、冗談であっても人にはばかにされませんでしょうに。(父光源氏は)隔ては置かれない親ではいらっしゃいますが、ひどく他人のように私を疎遠なものとお思いになっていますので、ご在所のあたりに、たやすく参ることもあまりないのです。東の院でばかり御前近くにひかえているのです。対の御方(花散里)は心から大事にしてくださいますが、親がもうおひとりいらっしゃれば、何を思い悩むことがあるでしょう」といって、涙の落ちるのをごまかしていらっしゃる様子はとてもかわいそうなのだが、

やはり夕霧は六位の身分に強いコンプレックスを抱いているのです。それが恥ずかしくて参内もしたくないのです。母(葵の上)を失った後も、その実家で育てられてきた夕霧は、祖父(故太政大臣)を頼りにしていたのですが、すでに亡くなりました。実の父の光源氏はどこか他人行儀です。古注釈の『細流抄』は「源は紫上のかたにいつもましますゆゑにおのつからけとほくなり侍ると也」(光源氏は紫の上のところにいつもいらっしゃるので、自然と疎遠になります、というのである)という注をつけています。花散里は親切ですが、やはり実の母親がいてくれたら、と思わないではいられません。

宮は、いとどほろほろと泣きたまひて、「母にも後るる人は、ほどほどにつけて、さのみこそあはれなれど、おのづから宿世宿世に、人と成りたちぬれば、おろかに思ふもなきわざなるを、思ひ入れぬさまにてものしたまへ。故大臣の今しばしだにものしたまへかし。限りなき蔭には、同じことと頼みきこゆれど、思ふにかなはぬことの多かるかな。内大臣の心ばへも、なべての人にはあらずと、世人もめで言ふなれど、昔に変はることのみまさりゆくに、命長さも恨めしきに、生ひ先遠き人さへ、かくいささかにても、世を思ひしめりたまへれば、いとなむよろづ恨めしき世なる」とて、泣きおはします。


大宮はいっそうほろほろとお泣きになって、「母親に先立たれた人は、身分それぞれにつけて、あなたのようにかわいそうなものですが、自然とそれぞれの宿世のとおりに成人したら、軽んじる人もないものですから、思い詰めないようになさいませ。故大臣がもう少しでもご存命でいてくださればねえ。際限のないほどに頼りになる方(光源氏)については、(故太政大臣と)同じことと信頼申しておりますが、思うようにならないことが多いものですね。内大臣の人柄も、ありきたりの人ではないと世間の人も讃えているようですが、昔とは違ったことばかりが増えていくので、命の長さも恨めしいのですが、将来の長いあなたまでが、このようにほんのわずかにでも世の中を沈鬱に感じていらっしゃるので、ほんとうに何もかもが恨めしい世の中です」といって、泣いていらっしゃる。

夕霧が母(葵の上)のことを言い出すと、大宮はかわいそうでならなくていっそう泣いてしまうのです。『岷江入楚』は「夕霧のかくの給ふさへ大宮の御心にかなしかるへきに葵の事をさへのたまふ故にいとゝほろほろとゝかけり」(夕霧がこのようにおっしゃることさえ大宮の御心にとっては哀しいのに、葵の上のことまでおっしゃるので、いっそうほろほろと、と書いている)と言っています大宮にすれば娘の葵の上も哀れであり、その遺児の夕霧もまた哀れなのです。それに加えて夕霧が一生懸命涙を隠そうとするところがいじらしくてしかたがないのです。母方で育てられるのが基本であったこの時代の貴族にとって、その母親が早くに亡くなることは後ろ盾を失うことにもつながります。光源氏も、紫の上も母親を早くなくしていました。しかし、それは成人するまでのことだから、と大宮は孫を慰めるのです。それにしても故太政大臣がいてくだされば、と大宮は夕霧と同じことを言ってしまいます。光源氏が面倒を見てくれるのは間違いないので頼れるはずなのですが、それも疎遠で思うようにはいきません。内大臣は以前とは違った様子になっていて、大宮に不平を言ったり、雲居雁を引き離したりするようになりました。内大臣にすれば自分の息子や娘が大切ですし、特に雲居雁は春宮妃にと考え始めた矢先の不祥事ですから、かなり感情的になってしまったのでしょう。しかしその結果、大宮からも夕霧からも距離ができてしまい、あてにならない存在になりました。こうして大宮と夕霧は誰を頼ればいいのかわからない、似た者同士になってしまったのでした。こうしてこの年も暮れていきます。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

手の長さ 

両手を広げた長さは大体その人の身長と同じくらいと言われます。この長さは「尋(ひろ)」という単位になり、「千尋(ちひろ)」というとはてしない海の深さを表現するときに用いられます。また、「尋」は手で次々に繰りながら縄の長さを測る時などにとても便利なものだったようです。
「一尋(ひとひろ)」は背の高さくらいなのですから、概ね5尺から6尺です。ところが、中には手の異常に長い人もいます。
平安時代初めの天皇である嵯峨天皇の皇后は檀林皇后(嵯峨に檀林寺を建立した)と呼ばれた橘嘉智子(786~850)という人でした。この人は深く仏教に帰依して、万人に諸行無常を知らしめ、悟りを求めるべく、亡くなるときに自分の亡骸を道端に放置させ、捨身の行を体現したという逸話が残っています。
父親譲りの美貌で皇后にまでなるのですが、この人の身体の特徴について当時の歴史書である『文徳天皇実録』嘉祥三年五月の記事(この年の五月四日に檀臨皇后は亡くなっています)が「后為人寛和風容絶異」と書いたあとに

    「手過於膝、髪委於地」

と記録しています。髪が長いのはまだわかるのですが、手が膝を超える、ということは、立って手を下に伸ばした時に膝を超える長さだったということでしょう。試みに、私も立って手を伸ばしてみました。すると、その指先から膝の中央までほぼ20㎝ありました。ではなぜ美貌の皇后の姿態にこんなことが書かれるのでしょうか。
膝を過ぎる手の長さというと釈迦の三十二相が想起されます。釈迦は身体的特徴が常人とはかなり違っていたらしく、その三十二に及ぶ特徴が「三十二相」といわれるものです。足が扁平であったとか、指の間に水かきのようなものがあったとか、歯が四十本生えていたとか、まことに不思議な姿だったというのです。その特徴の中に、「直立すると手が膝まで届くくらいだった」というものがあります。まさに檀林皇后そのものですね。言い換えると、檀林皇后は釈迦の三十二相にあたる特徴を持っていたことになります。釈迦の特徴に毛穴から芳香を出すというものもありますが、これは『源氏物語』の薫という人物にもうかがえるものです。光源氏の妻が夫以外の男性の子として産んだのが薫で、彼はその出生の秘密をうすうす知っていたために、子どもの頃からずっと悩みを持ち続け、その結果として現世をつまらないものと見て来世を志向するようになるのです。檀林皇后にせよ薫にせよ、釈迦の特徴と同じものを持つのは、外面的なものにとどまらず、その姿を持つ人物の仏性というか、悟りの境地に近い状態を表わすのでしょう。
仏像が作られるとき、その実物を知る人はいないわけですから、こういう特徴を生かして表現することが考えられます。ただ、釈迦の像は多くが座像で、また立像でも腕を曲げて手で印を作ることが多いので、私はこれまであまり手が長いという印象がありませんでした。
釈迦像ではないのですが、最近私が、軽~くハマっている観音像に手の長さを実感させてくれるものがしばしば見られます。観音像は、左手は水瓶を持っているのがひとつのパターンですが、右手は下げているものが見られ、その中にほんとうに膝の位置まで手が伸びているものがあります。たとえば岐阜県美江寺、滋賀県渡岸寺、福井県羽賀寺、奈良県法華寺などの

    十一面観音像

の右手はほんとうに長くて、ほんとうに膝に手が届くほどなのです。法華寺の像にいたっては、膝の少し上あたりで衣の裾を親指と中指でつまむような恰好をしており、その動きがあるためによけいに長さが感じられるように思います。
以上のことは、白洲正子さんの『十一面観音巡礼』に多くを頼んで書いたのですが、私も白洲さんのように観音巡礼をしたいという気持ちになってきました。仏性はとても持っているとはいいがたいのですが。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

オリンピックだ、万博だ 

昭和の話は、若者にしてもまったく通じません。何しろ歴史上の出来事ですから。それはそうです、私の世代だって、戦争の話などされても「そういうことがあったんだな」というだけで実感は持てないわけですから。
東京オリンピックというとどうしても昭和39年のことになってしまいます。あのころは国を挙げて何かに向かって邁進するという昂揚する気分があったのでしょう。私はまだそういうことは何もわかりませんでしたが、何となく、日本が世界に大きな顔ができるようになったのだろう、というくらいには思っていたかもしれません。
そして、その6年後には大阪府吹田市で万国博覧会があり、ますます世界に羽ばたく日本という雰囲気が作り出されていったように思います。
ちょっとした疑問なのですが、オリンピックにせよ万博にせよ、「アトランタオリンピック」「上海万博」のようにふつうは都市名を冠して呼ばれます。「ジョージア州オリンピック」「中華人民共和国万博」とは言わないですよね。神戸でオリンピックをすれば神戸オリンピックでしょう。ところがなぜか吹田市で行われた万博は

    大阪万博

と言っています。関西の人はともかく、今となっては吹田市で行われたことを知らない人が多いのではないでしょうか。吹田市が小さな町で、世界に通用しないというような事情なのでしょうか。なんだか「神戸オリンピック」ではなく「兵庫オリンピック」と言われるような感じでむずむずしてしまいます。
来年は、東京でオリンピックをおこなう予定になっています。もう先延ばしすることはないでしょうから、何が何でも、という気持ちの人が多いのでしょう。私はそもそも真夏にあんなところでオリンピックなんてとんでもないと思っていましたので、経済の問題を抜きにするならこんな我慢大会のような催しは理解不能でした。気候面から考えると、今の日本でオリンピックができるのはせいぜい札幌くらいではありますまいか。しかし世間はそんな夢物語に付き合っている暇はないのです。世の中では経済の問題こそが重要なのであって、多くの人を集め、多額の収入を見込んで計画、投資してきたオリンピックは、やめるにやめられないというジレンマに陥っているようです。
思えばオリンピックはすっかり

    変容して

しまいました。アマチュアの祭典であったものが、いつしかプロが出場するのが当たり前になりました。平和の催しであったものがお金儲けの手段に変わりました。アメリカの放送局の都合によって日程が決められるのが今や常識です。派手な演出、政治がらみの争い・・・。
私が楽しめたオリンピックはメキシコシティで終わりかもしれません(メキシコオリンピックの「メキシコ」は国名でなくて「メキシコシティ」を意味する都市名なのかな?)。あの頃は純粋に「アマチュアの祭典」らしい催しで、会社員選手の出場した日本のサッカーが銅メダルを取れるような時代でした。
一方の万博は今度こそ正真正銘の「大阪万博」を開催する予定だそうですね。私はそこまで生きているかどうかわかりません(^^;)し、仮に元気であっても興味がないので行くことはありません。それだけに、どういうことをする予定なのかも知りません。カジノに万博・・・こちらも何かと暗雲が漂っていて、大阪のさらなる地盤沈下にならなければいいのですが。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

『枕草子』と平安時代を読む(7) 

「五月の御精進のほど」の段の続きです。清少納言たちは四人で松ヶ崎の方に行って途中で高階明順の山荘のようなところに立ち寄ったのです。邸の作りは邸宅というよりは廊のように奥行きのないものでした。田舎風の三稜草の簾や網代屏風などがあって鄙びた風流を感じさせました。お目当てのほととぎすも鳴いていましたが、それよりも彼女たちは明順が見せてくれた農作業や作業歌に新鮮な驚きを覚えたのでした。

唐絵(からゑ)にかきたる懸盤(かけばん)してものくはせたるを、見入るる人もなければ、家のあるじ「いとひなびたり。かかる所に来ぬる人は、ようせずは、あるじ逃げぬばかりなど、せめいだしてこそまゐるべけれ。むげにかくては、その人ならず」と言ひてとりはやし、「この下蕨(したわらび)は手づからつみつる」などいへば、「いかでか、さ、女官(にようくわん)などのやうに着き並みてはあらむ」など笑へば、「さらば、とりおろして。例のはひぶしにならはせ給へる御前たちなれば」とて、まかなひさわぐ程に、「雨降りぬ」といへば、急ぎて車に乗るに、「さて、この歌は、ここにてこそ詠まめ」などいへば、「さはれ、道にても」など言ひて皆のりぬ。

【語釈】
唐絵・・中国風の絵。
懸盤・・食器を載せる台。唐絵に描かれているので、これも異様な姿に見える。
見入るる人もなければ・・すべてが異様な感じなので、誰も率先して食べようとしない。
家のあるじ・・高階明順。
いとひなびたり・・ここから明順のことば。なんと田舎じみた人たちでしょう、と解釈しておいた。ただし、「ここはとてもひなびた田舎です」「これはとても田舎びた料理です」という解釈が一般的。
かかる所に来ぬる人・・都の中心からこういう田舎に来た人は。
その人ならず・・あなたたちらしくありませんね。
とりはやし、・・座を取り持って。
下蕨・・何かの下蔭に生えた蕨のことと言われる。
手づから・・明順が自身の手で。
女官・・下級の官女。
着きなみてはあらむ・・並んで食べたりするものですか。
とりおろして・・懸盤から取って(食べてください)。
はひぶし・・腹ばいになって臥すこと。女房たちはこういう姿勢をとっていた。
この歌・・ほととぎすの歌。

唐絵に描いてあるような懸盤で食事を出してくれたのにだれも見向きもしないので、家の主が「なんと田舎者みたいですね。こういうところに来た人は、うっかりすると、主人が逃げてしまいそうなくらいに催促して食べるものなのに。まったくこのようになさるのは都会の人ではないのでしょう」と座を取り持って、「この下蕨は私自身が摘んだものです」などというので、「どうしてそんなふうに、女官などのように並んで座って食べられましょうか」などと笑うと、「それなら、盤から取りおろしてどうぞ。いつも腹ばいに伏すことに慣れていらっしゃるあなたがただから」といって、にぎやかに給仕しているうちに、「雨が降り出しました」と(お供の者が)言うので、急いで車に乗ると、「さあ、このほととぎすの歌は、ここで詠みましょう」などと言う人があるので、「まあいいわよ、道中ででも」などと言って皆乗った。

「いとひなびたり」については、まったく鄙びた食べものですが、と謙遜したことばと解釈されるのが普通です。ただ、「鄙びていること」とそのあとの「ここに来る人は争って食べられるのに、あなたがたはそうではない」という内容との結びつきが必ずしもしっくりしないので「あなた方は田舎者ですね。だって、都会の人なら争ってでも食べようとするのに」とつながることもあって、そのように理解しておいたのです。
女官のように並んで食べるなんて、というのは、現代に喩えると給食のようにみんな揃って並んで食べる様子を言うものでしょうか。そんなかっこうはできない、というのです。すると明順はいつも腹ばいになっている皆さんですからね、とからかうように言うのです。やがて雨が降ってきて、清少納言たちは車に戻ります。ほととぎすを聴いたのですから、常識としては歌を詠んで記録しておかねばなりません。しかしあわただしく帰ろうとする彼女たちはあとまわしにしてしまいます。

卯の花のいみじう咲きたるを折りて、車の簾、かたはらなどに挿しあまりて、襲(おそ)ひ、棟などに、長き枝を葺きたるやうに挿したれば、ただ卯の花の垣根を牛にかけたる、とぞ見ゆる。ともなる男(をのこ)どももいみじう笑ひつつ、「ここまだし」「ここまだし」と挿しあへり。

【語釈】
襲ひ・・車の覆い。屋根の部分。
棟・・牛車の屋形の上に渡した木。

卯の花がたくさん咲いているのを折って、車の簾、脇などに挿してなお余るので、屋根や、棟木などに、長い枝を葺いたように挿したところ、ちょうど卯の花の垣根を牛にかけたようだ、と見える。お供の男たちも大笑いして、「ここがまだですよ」「こっちがまだですよ」と挿しあっている。

時節柄、卯の花が咲いています。それを車のあちこちに挿したところ、卯の花を牛にかぶせたように見えるというのです。大笑いして挿しているお供の男たちも交えて、実に楽しげなようすです。「をのこ」は「をとこ」とは違って敬意の対象にならない男を指します。

人も会はなむと思ふに、さらにあやしき法師、下衆のいふかひなきのみ、たまさかに見ゆるに、いと口をしくてちかく来ぬれど、「いとかくてやまむは。この車のありさまぞ人に語らせてこそやまめ」とて、一条殿のほどにとどめて、「侍従殿やおはします。ほととぎすの声ききて今なむ帰る」といはせたる。つかひ、「『ただいままゐる。しばし、あが君』となむのたまへる。侍(さぶらひ)にまひろげておはしつる、急ぎたちて、指貫(さしぬき)たてまつりつ」といふ。

【語釈】
人も会はなむ・・直訳すると「人が(私たちに)会ってほしい」。誰かしかるべき人がこの車を見てほしい、ということ。精一杯卯の花を飾りつけたので、それを見て感心してほしい。
あやしき法師・・法師はそれでなくても無粋な存在で、まして「あやしき」者となれば見られても意味がない。要するに貴人の男性に見られたいという意識が強いのである。
人に語らせてこそやまめ・・この派手な飾りつけの車のことを、誰かに見せて、その人にうわさを広めてもらいたい、という発想。
一条殿・・一条通りにあるお屋敷。具体的には東大宮通りの東、一条尾通りの南にあった、もとの藤原為光邸(為光はすでに亡くなっている)を指すと思われる。藤原伊尹、その子為光、為光の娘と伝領され、佐伯公行(富裕で知られた人)が買い取って、東三条院(道隆の妹の詮子)に献上した。この翌年の長保元年に内裏が焼亡した後には、一条天皇の里内裏として用いられた
侍従殿・・藤原為光の六男の公信(977~1026)。このとき二十二歳。二年前の長徳二年(996)に侍従になっている。
あが君・・相手を親しみ敬っていう語。
侍・・侍所(さぶらひどころ)。三位以上の家の侍の詰め所。
指貫・・指貫の袴。ゆったりとした大きな袴で、裾をくるぶしのところで縛って用いた。

誰かに見てもらいたいものだ、と思うのだが、まったく賤しい法師や下衆のつまらない者だけが稀に見えるだけなので、とても残念に思いながら(大内裏の)近くまで帰ってきたが「どうにもこのまま済ませてよいものか。この車のようすを人の口にのぼるようにして終わりたいものです」というので、一条殿のあたりに停めて「侍従殿はいらっしゃいますか、ほととぎすの声を聴いて今帰るところです」と言わせた。使いの者は「『すぐに参る、しばしお待ちを』とおっしゃっています。侍所で服をはだけていらっしゃいましたが、あわてて指貫をお召しになりました」という。

せっかく卯の花でめいっぱい装飾したのだから、誰かに見てもらいたいと思うのですが、しかるべき人に会えないので「くちをし(残念だ)」と思っているのです。というと、このひとつ前の「くちをしきもの」の段が思い起こされるでしょう。「好ましうこぼれ出で、用意よく、いはばけしからず、あまり見苦し、とも見つべくぞあるに、さるべき人の、馬にても車にても、行き合ひ見ずなりぬる、いとくちをし(しゃれた出衣をして、趣向を凝らして、いわば度を越して、あまりに見苦しいと見えるようなかっこうをしているのに、しかるべき人が午でも車でも出会うことなく終わるのはとても残念だ)」とありました。あきらかに前段からの連想で書かれていることがわかります。こうなったら、こちらから押しかけてでも、誰かに見せて噂をしてもらおう、というので、やがてやってきた一条殿のそばに車を停めて、若い公信を呼び出そうとするのです。すると使いの者が、「すぐにおいでになります」と言えば済むことなのに、「今いいかげんな格好をしていらして、指貫を慌てて着けていらっしゃいます」などと、言わずもがなのことを伝えるのです。このあと、公信は徹底的に戯画化されていくのです。

「待つべきにもあらず」とてはしらせて、土御門(つちみかど)ざまへやるに、いつのまにか装束(さうぞ)きつらむ、帯は道のままにゆひて、「しばし、しばし」と追ひくる、供に侍三四人ばかり、ものもはかで走るめり。

【語釈】
土御門ざま・・一条通りの二つ南の道が土御門大路。大内裏の土御門大路に面したところに上東門(土御門)があり、清少納言たちはそこから大内裏に入る。よって、一条大路から東大宮大路を南下していることになる。
装束き・・「装束」を動詞化した語で「装束を着ける」の意。
しばし、しばし・・公信のことば。走りながら帯を結んで、声をかけている。
ものもはかで・・お供の者ははだしで走ってくる。『伴大納言絵巻』などの絵を見ても、当時は、はだしで道を行き来することは珍しいことではなかった。それにしても貴族のお供の者だけに、滑稽に見える。

「待つ必要はないわよ」といって車を走らせて、土御門の方に行かせると、いつのまに装束を着けたのか、帯は途中で結びながら「しばらく、しばらく」と追ってくる。お供に侍が三、四人、何も履かずに走ってくるのが見える。

一条殿は東大宮大路と一条大路の角にありましたので、清少納言たちはおそらく一条殿の北門から公信を訪ね、そのあと逃げるかのように東大路に出て南に下り、土御門大路に向かうのです。なんだか現代の「ピンポンダッシュ」みたいなことをしていますね。ここで、土御門大路について補足しておきます。この通りは、平安時代のごく初めには一条大路でした。つまりこの道が平安京の北辺だったのです。ところが、大内裏を北に広げたために、ふたつ北側に新たな一条大路ができました。中山忠親の日記『山槐記』の長寛二年(1164)六月二十七日条に「昔以土御門為一条大路、其後北辺二丁被入宮城(昔、土御門を以て一条大路と為す。其の後、北辺二丁、宮城に入れらる)」とあります。そして、元の一条大路から大内裏に入るために新たな門が造られ、上東門と呼ばれたのです。これは簡素な門で、屋根もなければ当然扁額もかかっていない、もともと土塀だったところを切って入口にしただけのものでしたから、通称「土御門」というのです。そしてその旧一条大路は「土御門大路」となったのです。「宮城十二門」と総称される大内裏の門がありますが、この門と、やはり旧一条大路の大内裏西側に新たに造られた上西門は「十二門」の中には含まれません。
さて、清少納言たちは、それなら待つまでのことはないと言って、車を出します。おそらく公信が慌てて指貫を着けて飛び出してくるのが予想されたのでしょう。この人物の性格などを見透かしたような意地悪と言えるでしょう。案の定、帯を結び結び、公信が走ってきて、お供の者ははだしで追いかけてくるのが見えるのです。車の中で彼女たちが笑い合っているようすが目に浮かぶようではありませんか。

「とくやれ」といとどいそがして、土御門にいきつきぬるにぞ、あへぎまどひておはして、この車のさまをいみじう笑ひたまふ。「うつつの人の乗りたるとなむ、さらに見えぬ。なほ降りて見よ」など笑ひ給へば、供に走りつる人、ともに興じ笑ふ。「歌はいかが。それきかむ」とのたまへば、「今御前に御覧ざせて後こそ」などいふ程に、雨まことふりぬ。

【語釈】
この車のさま・・卯の花を飾りつけた車のありさま。
なほ降りて・・車に乗っていたらわからないから、降りて見てご覧なさい。
歌はいかが・・ほととぎすを聴きに行ったということなので歌を詠んだはずだから、それが知りたい、という。
後こそ・・中宮にお伝えしてから申し上げましょう。あとに「聞こえめ」などが略された形。

「速く走らせて」といっそう急がせて、土御門に着いた時に、(公信は)息をはずませてあわてておいでになって、この車のありさまを大笑いなさる。「生身の人間が乗っているとはまるで見えない、まあ降りてこちらから御覧なさい」などとお笑いになると、お供をして走っていた人たちも一緒になっておもしろがって笑う。「歌はどうですか、それを聞きましょう」とおっしゃるので、「このあと中宮様にお目にかけたあとで」などといっているうちに、雨が本降りになった。

清少納言たちの意地悪が続きます。公信が追いかけてくる姿を見ると、車を急がせるのです。そして土御門(上東門)に着いた頃にやっと公信は息を切らせておいついたのです。そして卯の花で飾られた車の様子を見て大笑いします。清少納言の作戦は成功しました。これできっと公信は明日にでもこの車のことを噂して広めてくれることでしょう。公信はほととぎすの和歌を教えてほしいというのですが、清少納言たちは結局詠んでいませんでした。しかしここでも公信をからかうように「中宮様に見ていただいてから」とかわします。それにしても、公信はどうしてこんなに必死に追いかけてきたのでしょうか。まだ若い(二十二歳)彼にとって清少納言は一目置くべき存在だったことは想像に難くないのですが、それだけでなく、ほととぎすを聴いた帰り道だといわれて放置するのは風流に欠ける人物としてあとで何を言われるかわからない、という思いがあったのでしょうか。また、卯の花を飾った車を見せたいのに逃げるようにして車を急がせた清少納言たちは、公信が追いかけてくることがあらかじめわかっていたかのようです。貴族たちの行動様式をうかがうのにとてもおもしろい資料とも言えそうです。

「などか、こと御門御門のやうにもあらず、土御門しもかうべもなくしそめけむと、今日こそいとにくけれ」などいひて、「いかで帰らむとすらむ。こなたざまはただ遅れじと思ひつるに、人目もしらずはしられつるを、奥(あう)いかむことこそ、いとすさまじけれ」とのたまへば「いざたまへかし、内裏(うち)へ」といふ。

【語釈】
こと御門御門のやうにもあらず・・ほかの多くの御門のようでもなく。ほかの門には屋根がついていて、雨が降っても雨宿りができる。ただし、上西門も上東門と同じく屋根のない塀を崩しただけの門であった。
かうべもなくして・・頭(かうべ)もなくして。屋根のことを擬人的におもしろく言ったのであろう。一説に「かううべもなく」で、「このように道理(うべ)もなく」の意味とする。
今日こそ・・雨降りの今日こそ。雨が降ると屋根のない門が特に憎らしい。
いかに帰らむとすらむ・・直訳すると「(私は)どうやって帰ろうというのか」。雨の中で途方に暮れている。滑稽な描かれ方。
こなたざまは・・帰り道に対して、ここまでやって来た道のこと。
奥いかむ・・わかりにくい。「ここから先に行く(一条に帰る)」の意味か。岩波古語辞典は「なお先に行く」都説明しているが、用例がこの『枕草子』の文だけなのではっきりしない。
いざたまへかし・・さあいらっしゃい、と人を誘う言葉。
内裏へ・・実際に中宮のいるところは内裏ではなく職の御曹司なので単に「大内裏の中へ」という程度に言ったものとも言われるが、中宮の居場所ということで内裏に準ずる気持でこう言ったものか。

「どうしてほかの諸門のようでもなく、土御門に限って頭もない形に造ったのだろうか、と、今日ばかりは憎らしいよ」などと言って、「どうやって帰れというのだ。こちらに向かって来る時はただ遅れまいと思っていたので人目もはばからずについ走ってしまったのだが、このあとはどうすればいいのかと思うとまったく気乗りがしないことだ」とおっしゃるので「さあ、いらっしゃい、中宮様のところに」と言う。

公信は愚痴を言います。ほかの門には立派な屋根があるのに、よりによってこの上東門だけ屋根がないのはどうしたことか、と。そして帰れないじゃないかと途方に暮れている様子は滑稽極まりないのです。清少納言はじゃあこちらにいらっしゃい、と本心かどうかあやしいことを言います。

「烏帽子にてはいかでか」「とりにやりたまへかし」などいふに、まめやかに降れば、傘もなき男(をのこ)ども、ただ引きに引き入れつ。一条殿より傘持て来たるをささせて、うち見返りつつ、こたみはゆるゆるとものうげにて、卯の花ばかりをとりておはするもをかし。

【語釈】
烏帽子にてはいかでか・・公信は参内するつもりではないので冠ではなく烏帽子を着けている。直衣(平服)姿であっても、中宮の御前に行くのであれば冠が必要。
まめやかに・・本格的に。
傘もなき男ども・・清少納言のお供の従者たち。彼らも傘がないので早く帰りたい。
ただ引きに引き入れつ・・どんどん大内裏の中に車を引き入れた。
一条殿より・・公信の家来が一条殿から傘を持ってきた。
うち見返りつつ・・公信の恨めしそうな様子。
卯の花ばかりを・・車につけていた卯の花をいくらか持って帰った。

「烏帽子ではどうして参れましょうか」「(冠を)取りにおやりなさいな」などといっているうちに本降りになったので、傘もないお供の者は車をどんどん中に引き入れた。一条殿から傘を持ってきたのを差させて、振り返りながらこのたびはゆっくりと憂鬱そうに、卯の花だけを手に取ってお帰りになるのも滑稽だ。

公信のさんざんな様子が描かれます。烏帽子で中宮の前に出るのは非礼に当たるので、と、清少納言たちの誘いを真に受けた公信は遠慮しています。「ひとっ走り、誰かに取りに行かせればいいじゃない!」というのもそんなことをするはずもないことを前提にしてからかっているのでしょう。清少納言たちは中に入っていき、あとに残された公信はやっと傘(後ろから人に差させる長柄の傘)が届いたので、それを差させて何度も見返りながら慌てて走ってきたときとは打って変わってとぼとぼと歩いて帰るのです。手に卯の花を持ちながら。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

本を書くこと 

学生時代、やはりいつの日か自分の名前が載った本を書きたいと思っていました。恩師たちが次々に出版されるのを目の当たりにして、あそこまではいかなくても、せめて足元くらいには及びたいと思いました。学生時代に、恩師のお手伝いで変体仮名の読み方を調べるための手引書を作ったことはあります。名前は本の中にちょろっと出てきますが、とても著書と言えるものではありません。もっとも、これはけっこうロングセラーで(笑)、今でも売っているのではないかと思います。ただし、念のために申し添えておきますが、いくら売れても私には1円も入ってきません。契約の事はよくわかりませんが、印税は放棄することになっているのかな。なにしろ、国文学の出版社なんて本当にささやかな個人企業みたいなものですから。
やっと著書らしいものが世に出たのは

    20世紀も終わり近く

になったころでした。阪神大震災の時に最後の追い込みをしていたことを覚えています。この本は企画出版でしたので印税ももらっています(ただしすべてその本を買っていろんな方に差し上げました)。その後は不勉強のうえ、病気に見舞われたこともあって、学界から離れてしまい、そういう話が起こらなくなってきました。
それでも、今なお本を書くことへの思いは完全になくなったわけではありません。実際のところ、専門書というのはそうそう売れるものではなく、自費出版は珍しいことではないのです。以前書いたかもしれませんが、あるちょっとした冊子を作って、その費用を自分の裁量で決められる経費の中から出すように仕事場に申請したら、事務の人が会議直前の部屋に血相を変えて駆け込んできて「こんなもん、あきまへんで。

    これ売ってもうけよう

と思(おも)たはるんちゃいまっか」と面と向かって言ってきたことがあります。いくらなんでも言葉が過ぎるでしょう、と言いたかったのですが、事務の人は事情が分からないのでそう思われてもしかたがないのかもしれないと我慢しました。実際は、もうけるどころか役に立ててもらえる人に送るための送料などは全部自費なのです。そもそも売れるようなものではなく、ごく一部の人に使ってもらえるかもしれない資料集に過ぎないのですが、それは事務の人には見分けがつかないでしょう。相手は定年間近の老練職員で、私はまだ若手時代でしたので、その辺を話して、しかもきちんと責任者の印ももらっている費用なのでよろしくと伝え、結局はしぶしぶ(?)出してもらいましたが。前に勤めていた学校では事務の人がこういうことでクレームを付けるなど考えられないことでしたので、この学校は事務職員さんが大きな顔をするんだな、とびっくりしました。それ以後にも似たようなことがあったので、多分学校の伝統というか

    体質

のようなものだろうと思います。とにかく何かあると「事務の人に相談してくる」という人も多かったので不思議でした。
それはともかく、私の恩師たちも、リタイアされた後ずいぶん本を出されたものです。現役時代は時間がなくてまとめられなかったことを一気に本にして出版されたのです。教授時代は著書ゼロという先生も、お辞めになってから何冊も立て続けに出されました。うかがったところでは、毎年1冊出す計画だとおっしゃっていました。
私も、これまでに書いてきたものについて「これ本にしたらええで」と先輩の先生から何度か勧められたこともあるのですが、なにしろ金銭的な余裕がないとできないことですのであきらめてきました。ほんとうは「創作浄瑠璃集」だけでも残したいと思っているのですが、こんなものは売れるものではありませんから、当然自費です。やっぱり無理だな、と思わざるを得ません。
何とか本らしい体裁のものを作って、文楽劇場に寄付すれば、将来もの好きな人が見てくれる日が来るかもしれないな、と思わないでもないのですが(笑)。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

からだいっぱいの酸素を 

二年半ほど前に呼吸を楽にするための新薬を試したことがあります。これが見事に効果があって、私は一時このまま元気でいられるのではないか、と思ったくらいです。ところが、その3か月後に台風などの激しい風雨があって、仕事場の防水設備が吹っ飛んで、建物の中がかび臭くなったと思ったら、そのあとすぐにまた不調になりました。責任者は「カビはどこにでもいるものです」などといっていましたが、そんな詭弁を弄してどうなるのだろうと情けなくなりました。
それ以後は多少の浮き沈みはあるものの、ずっと体調不良が続いています。
からだ中に

    酸素がいきわたらない

感覚があって、最近は歩くのがきわめて苦痛です。なにしろ10分続けて歩くことがしんどいのです。最寄りの駅まで歩いて800歩くらいなのですが、一気に歩き通すのがなかなか大変です。駅に着いたらとても立ってはいられず、そのために電車では必ず座席に座っています。図書館に行くのも、以前なら往復50分、約5500歩を平気で歩いていたのですが、今はとんでもない話です。
まして、

     坂道や階段

があると絶望的な気持ちになります。
文楽劇場に行くためには、乗り換えが3回で、地下鉄の乗降には階段もあってつらいです。たどり着いたとしてもとても観劇できるような気分ではないと思います。これにマスクという苦行が加わりますから、この十一月公演は諦めざるを得ないだろうと思います。初春も見通しが立ちません。
胸をいっぱいに広げると、いくらでも肺に空気が入ってくる感覚が懐かしいです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

土仕事 

十月下旬に、プランターを空けてもらうために朝顔をおしまいにしました。最初はなかなか咲いてくれなかったのですが、秋になって勢いが出てきましたので、よかったと思っています。
そのあとの土は廃棄するにもなかなか方法がなくて、復活してもらうことにしました。土をひっくり返し、根っこをきれいに取り出し、ふるいにかけ、何日か天日に干し、土の改良をし、さらに肥料を混ぜました。これでいいのかどうかは知りませんが(笑)。
これだけのことなのですが、干したり混ぜたものを土になじませたりするためには、やはり何日もかかってしまいます。朝早くその日にすることをして、置いておく、ということを繰り返しました。
土の改良というのはなかなかたいへんなようですが、私は市販のリサイクル材とパーライト、石灰くらいを使いました。リサイクル材の効能は微生物の働きによって老廃物を分解したり土を団粒化したりすることだそうです。
とにかくできることだけはして、土が

    復活した

と信じるほかはありません。
以上のことに加えて、土というのは意外に減るものですから、新たに培養土を一袋用意してそれで増し土もしておきました。
これだけの作業でも、今の私にとってはかなりの重労働です。腰痛になるほどの仕事はしていませんが、途中で息が切れるのがつらいところです。畑を作る人はどれだけ大変なのだろうとお察しします。
こうして、復活したはず(!)の土を使って、残っていた

     ニンニク

を植えることにしました。まだ9つありましたので、ちょうどプランターひとつにおさまります。
すでに植えてあるニンニクは、次々に新しい葉が出ていて、すでにかなり伸びています。植え付けの時期をずらしたのはプランターが空かない、ということもあるのですが、意図的に時間を置くことでどんなふうに成長に違いが出てくるのかを調べてみたいという思いもあったのです。最初に植えたものからほぼ1か月後に最後のものを植えたことになります。通常、六月に収穫するのですが、さてどうなるでしょうか。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

源氏物語「少女」(7) 

夕霧と雲居雁はとうとう引き離されてしまいました。若い頃は、こういう目に遭ったらもはや夢も希望もないかのように絶望しがちなものです。彼らはこれ以後どうなるのか、読者にとっての関心事はいったん先延ばしにされることになります。一連の出来事について、光源氏はまったく関知しませんでしたが、当時子どもというのがいかに母方との縁が濃いかがよくわかるようにも思えます。夕霧は光源氏と葵の上の子ですが、ここで登場したのは母方の祖母(故太政大臣の妻。葵の上の母)の大宮、葵の上の兄弟(通説では兄)の内大臣、内大臣の娘の雲居雁、ということで、故太政大臣家の中の出来事として描かれていることになります。一方、光源氏と夕霧の関係は、公的な面(官位や教育については光源氏が決めていました)では親密でも、プライベートな生活ではかなり希薄な関係なのです。それにしても官位を六位(貴族とは認められない官位)にとどめられ、恋愛はうまくいかず、若き夕霧にとっては公私ともに鬱屈するほかはない悲惨な青春期を送ることになります。
さて、話は光源氏の周辺に戻ります。今の勤労感謝の日の由来となった新嘗祭(天皇即位の年は大嘗祭)は旧暦の十一月におこなわれました。その祭に彩を添えるのが五節の舞姫です。「天つ風雲の通ひ路吹き閉ぢよをとめの姿しばしとどめむ」(古今和歌集・良岑宗貞)は『百人一首』では宗貞の出家後の名前である「遍照」の作となっていますが、これは彼がまだ在俗のときに五節の舞姫を見て詠んだ歌です。江戸時代の川柳は「遍照が乙女に何の用がある(出家している遍照が若い女性に何の用があるのか。興味を持つのはおかしいじゃないか)」と皮肉なことを言いますが、実際は出家前でしたので、まだ乙女に用があったのです(笑)。

大殿には、今年、五節たてまつりたまふ。何ばかりの御いそぎならねど、わらはべの装束など近うなりぬとて急ぎせさせたまふ。東の院には、参りの夜の人びとの装束せさせたまふ。殿には、おほかたのことども、中宮よりも、童(わらは)、下仕への料(れう)など、えならでたてまつれたまへり。過ぎにし年、五節など止まれりしが、さうざうしかりし積もり取り添へ、上人(うへびと)の心地も常よりもはなやかに思ふべかめる年なれば、所々いどみて、いといみじくよろづを尽くしたまふ聞こえあり。按察使大納言(あぜちのだいなごん)、左衛門督、上(うへ)の五節には、良清(よしきよ)、今は近江守にて左中弁なるなむ、たてまつりける。皆止めさせたまひて、宮仕へすべく、仰せ言ことなる年なれば、娘をおのおのたてまつりたまふ。

源氏の大殿は、今年五節の舞姫を差し上げなさる。とりたててのご準備というのではないが、童女の装束などを、時期も迫ったというので急いでお作らせになる。二条東院では参入の夜(中の丑の日)の付き添いの人たちの装束を作らせなさる。二条院では全体的なこと、中宮からは童女や下仕えの装束などをなみなみならず用意して献上なさった。昨年は五節などが差し止めになったのが物足りなかったので、その気持ちも加わって殿上人も例年よりはなやかに思っているような年なので、(舞姫を出す)家それぞれが競い合って、実にすばらしい善美をお尽くしになるという評判である。按察使大納言、左衛門督、殿上人の五節としては、今は近江守で左中弁の良清が差し上げた。みな、内裏におとどめになって宮仕えするようにという仰せごとのある年なので、娘をそれぞれ差し上げなさる。

光源氏が今年は五節の舞姫を差し出すことになりました。五節の舞姫は新嘗祭(天皇が交代した最初の年は大嘗祭)の花形ですが、大嘗祭のときの舞姫は位が授けられたのに新嘗祭ではそれがなく、いきおい舞姫になることを希望する人も少なかったそうです。しかしここでは前年が中止だった(天皇の母である藤壺中宮が亡くなったため)ことに加えて、すべての舞姫に宮仕えするようにとの仰せがあったため、華やぎのある五節になるのです。
十一月の中の丑の日(二番目の丑の日)に五節の舞姫が内裏の常寧殿に置かれた「五節所」に入ります。その日は天皇が常寧殿まで出向いて舞を見ます(いわば予行演習)。これを「帳台試(ちやうだいのこころみ)」といいました。翌日の寅の日には「御前試(ごぜんのこころみ)」といって、清涼殿で天皇が舞を見ました。この日の夜には「殿上の淵酔(てんじやうのゑんずい)」という、酒宴が清涼殿でおこなわれました。さらに翌日の卯の日には天皇が五節の舞姫の介添えをする童女を見る「童女御覧」がありました。また、この日が新嘗祭でした。そして翌日の辰の日には天皇が豊楽殿または紫宸殿に出御して新穀の膳が供される(天皇が食べる)「豊明節会(とよのあかりのせちゑ)」がありました。このときに国栖奏(くずのそう。くにすのそう。「国栖」は土着の人のこと。独特の歌や楽器の演奏)や五節の舞が披露されたのです。四日間にわたる儀式ですが、五節の舞姫や介添え役の童女はずっと緊張した日々を送り、中には体調を崩す人もあったほどです。
その準備として、二条東院、つまり花散里のところで、付き添いの女房の装束、二条院では全体的な準備、中宮からは童女や下仕えの装束と分担して用意させるのです。花散里はこういうことは得意ですね。ここで花散里、紫の上、秋好中宮が登場しますが、この三人は後の六条院の主要なメンバーです(あと一人は明石の君)。光源氏にとって最も重要な女性たちなのでしょう。
四人の舞姫を出すのは光源氏のほかは、按察使大納言(雲居雁の母の現在の夫)、左衛門督(内大臣の異母弟)、良清でした。良清は若紫巻に初登場する人物ですが、明石巻では「少納言」、澪標巻では「靫負佐(ゆげひのすけ)」として名が挙がります。「上の五節」というのは殿上人(公卿ではない)ということで、彼が受領(国司)として舞姫を出すことを言うのです。「近江守にて左中弁なる」とありますが、普通は「左中弁が近江守を兼ねる」のであって、「近江守が左中弁を兼ねる」のではありません。しかしここでは「近江守」を先に書いています。あるいはこれは受領として五節を出すからこのように書いたのかもしれません。

殿の舞姫は、惟光朝臣の、津守(つのかみ)にて左京大夫かけたるが娘、容貌(かたち)などいとをかしげなる聞こえあるを召す。からいことに思ひたれど、「大納言の、外腹の娘をたてまつらるなるに、朝臣のいつき娘出だし立てたらむ、何の恥かあるべき」とさいなめば、わびて、同じくは宮仕へやがてせさすべく思ひおきてたり。舞習はしなどは、里にていとよう仕立てて、かしづきなど親しう身に添ふべきはいみじう選(え)り整へて、その日の夕つけて参らせたり。

殿の舞姫は摂津守で左京大夫を兼任する惟光朝臣の娘で、容貌がとてもかわいらしいという評判の者をお召しになる。(惟光は)困ったことだと思ったのだが、「(按察使)大納言殿が外腹の娘を差し上げられるそうだから、あなたが大切な娘を差し出したとして何の恥ずかしいことがあるでしょう」との責め立てに困惑して、いっそそのまま宮仕えさせるようにしようと決心した。舞を習わせたりするのは自邸でしっかり仕上げて介添えの者など近くに付き添うはずの者は厳選して当日の夕方に参らせた。

五節の舞姫は公卿から二人、受領から二人の舞姫を出すことになっています。先に按察使大納言、左衛門督、近江守良清が出すことが書かれていましたが、この三人では受領の舞姫が一人足りません。そこで、惟光の娘が受領の娘として差し出されたのだ、というのが一般的な説で、この場合、光源氏は後援者に過ぎないという考え方です。たしかに、「津守(摂津守)にて左京大夫かけたる」という書き方は、左京大夫(従四位下相当)が本官で摂津守(従五位下相当)を兼任しているのに、摂津守を前に出しているところは(先述の良清と同様に)受領であることを強調しているように見えます。ただ、そういう場合に「殿の舞姫」という言い方をするものだろうかという疑問は残ります。「按察使大納言は外腹(妾腹の子)とはいえわが娘を出すのだから、そなたの娘を出すのは恥ずかしいことではない」という言い方を考えると、これはあくまで光源氏の舞姫として出すという考え方ではないかと思えるのです。舞姫を出すと言っても、自分の娘である必要はないのです。『枕草子』にも中宮が舞姫を出すという話が出てきますが、このときの舞姫は右馬頭源相尹の娘でした。惟光が困ったことだと思ったのは、良清のように自分の娘を自分が出すならともかく、光源氏の舞姫として出すのは過分だと思ったのではないでしょうか。「大納言の、外腹の」の言葉は誰の言葉でしょうか。周囲の人が言ったことでしょうか。これは光源氏が惟光を責め立てたのだと思います。「さいなむ」には敬語が付いていませんが、この言葉は上位の者が下位の者を責め立てるということなので、敬語が付かないこともあります。「(天皇は)馬の命婦をもさいなみて」(『枕草子』「うへにさぶらふ御猫は」)などがその例です。惟光はしぶしぶこのかわいらしい娘を出すことにします。そして、内裏に入る日の夕方に光源氏の邸に連れて行くのです。あくまで光源氏の出す舞姫だからでしょう。

殿にも、御方々の童(わらは)、下仕へのすぐれたるをと御覧じ比べ、選り出でらるる心地どもは、ほどほどにつけて、いとおもだたしげなり。御前に召して御覧ぜむうちならしに、御前を渡らせてと定めたまふ。捨つべうもあらず、とりどりなる童女の様体(やうだい)、容貌(かたち)を思しわづらひて、「今ひと所の料(れう)をこれよりたてまつらばや」など笑ひたまふ。ただもてなし用意によりてぞ選びに入りける。

二条院でも、御方々の童女や下仕えの者で器量のすぐれた者をとお見比べになったのだが、選び出された者の気持ちとしては、分相応に面目躍如なのである。帝の御前にお召しになってご覧になるのに慣らせるために、殿の御前を歩かせようとお決めになる。捨てがたいものばかりの童女の姿態や容貌なので選びかねなさって、「もう一人の舞姫の介添えをここからさしあげたいものだな」などとお笑いになる。ただ身のこなしや気配りのしかたによって選に入ったのであった。

舞姫に付ける介添え役の者も器量よしがいいのです。それらを「御方々」の童女などから選びます。「御方々」は光源氏の周りの女性たちのことですから、具体的には紫の上、花散里、あるいは秋好中宮も含まれるかもしれません。そこに仕える童女や下仕えから選抜するのです。それだけに選ばれるのは名誉でもあるわけです。帝がお召しになって童女を見るというのは先述の「童女御覧」のことです。その予行演習として光源氏の前でオーディションをするのです。この童女御覧はかなり緊張するもので、「(童女)御覧の日の童の心地どもはおろかならざるものを」(『紫式部日記』)と言われるほどです。いずれ劣らぬ器量よしなので、別の舞姫の童女としてもいいくらいだとご満悦の光源氏は冗談を言います。「料」というのは「あらかじめ用意されたもの」というほどの意味で、ここでは別の舞姫のための童女」ということです。最後の決め手となったのは、容貌ではなく、身のこなしや舞姫を助ける気配りができるかどうかだったというのです。

大学の君、胸のみふたがりて、物なども見入れられず、屈(くむ)じいたくて、書(ふみ)も読までながめ臥したまへるを、心もや慰むと立ち出でて紛れありきたまふ。さま、容貌はめでたくをかしげにて、静やかになまめいたまへれば、若き女房などは、いとをかしと見たてまつる。上の御方には、御簾の前にだに、もの近うももてなしたまはず。わが御心ならひ、いかに思すにかありけむ、うとうとしければ、御達(ごたち)なども気遠きを、今日はものの紛れに入り立ちたまへるなめり。

大学の君(夕霧)は胸が詰まるばかりで何も目に入れることもできず、ひどく鬱屈して書物も読まずにぼんやりとして臥していらっしゃるのを、心が慰むかもしれないと思って目立たないように外出なさる。そのお姿や容貌はご立派で美しくて、おちついて優艶でいらっしゃるので、若い女房たちはなんてすてきな方でしょう、と拝見する。紫の上のいらっしゃるところには、御簾の前にすら近づけることはおさせにならない。ご自分のお心の癖があるので、どうお考えなのか、疎遠に扱われるので、そちら(紫の上側)の女房たちも親しみがないのだが、今日は(舞姫参入の)紛れに乗じてお入りになったのであろう。

悩める少年の再登場です。勉強も手につかずに憂鬱な日々を過ごしている夕霧は、気が紛れるかもしれないと思って二条院にさりげなく入って行きます。しかし紫の上のいる西の対には光源氏の考えで一切近づけないのです。光源氏は自分が義理の母である藤壺中宮と密通した経験があるため、夕霧と紫の上に何かあってはならないと思うのです。このとき夕霧は十二歳で、紫の上は光源氏より十歳若いと考えると二十三歳です。しかしこの日は舞姫参入のために何かとあわただしく、人が注意を払っていない隙に、夕霧は西の対に入り込んでいきます。

舞姫かしづきおろして、妻戸の間(ま)に屏風など立てて、かりそめのしつらひなるに、やをら寄りてのぞきたまへば、悩ましげにて添ひ臥したり。ただ、かの人の御ほどと見えて、今すこしそびやかに、様体などのことさらび、をかしきところはまさりてさへ見ゆ。暗ければこまかには見えねど、ほどのいとよく思ひ出でらるるさまに、心移るとはなけれど、ただにもあらで、衣(きぬ)の裾を引き鳴らいたまふに、何心もなく、あやしと思ふに、
「天(あめ)にます豊岡姫の宮人も
   わが心ざすしめを忘るな
みづがきの」とのたまふぞうちつけなりける。若うをかしき声なれど、誰ともえ思ひたどられず、なまむつかしきに、化粧(けさう)じ添ふとて、騷ぎつる後見(うしろみ)ども、近う寄りて人騒がしうなれば、いと口惜しうて、立ち去りたまひぬ。


舞姫を大切に(車から)降ろして妻戸の間(ま)に屏風などを立ててかりそめの設備にしてあるのだが、そこにそっと近づいてお覗きになると、疲れたようすでものによりかかって臥している。ちょうどあの方(雲居雁)とおなじくらいの年かっこうに見えて、もう少し背が高く、姿はことさら美しくしていて魅力的なところはあの方にまさって見える。暗いので細かいところは見えないが、全体的にあの方を思い出させるようなありさまで、心移りするわけではないが、心中穏やかでなく、衣の裾を鳴らしなさると、何のことかもわからず妙だなと思っているところに、
  「天にいらっしゃる豊岡姫に仕える
あなたですが、私が思いを寄せて注
連を張っている(わがものと思って
いる)ことを忘れないでください。
ずっと昔からお慕いしていました」とおっしゃるのもあまりに唐突なのであった。若々しく美しい声ではあるが、考えても誰なのかもわからず、薄気味悪いとおもっているところに、もう少し化粧しようというので、騒いでいた介添えの者たちが近くに来て騒がしくなったのでとても残念に思いながらお立ち去りになった。


「妻戸」は建物の四隅にある両開きの戸です。そこに屏風を立ててほんのかりそめの控室のようにしているのです。夕霧はそこに近づいて隙間から中をのぞくと、舞姫は早くも疲れて横になっています。舞姫は突然なれないことをさせられるわけですから、気苦労が大変で、実際、内裏に入ってからも体調を崩す人がいたのです。惟光の娘はまだ内裏にもいかないうちに早くもくたびれているようです。夕霧の見たところ、ちょうどあの雲居雁のような年ごろで、少し背が高くてしかし見た目の美しさはまさるような感じがします。雲居雁と二重写しになったこの舞姫に対して、夕霧は思わず自らの着物の裾で音を立てて注意を引きます。もしこの場面をテレビや映画で放送するなら、一人の女優さんに二役を兼ねてもらうか、映像技術を駆使して雲居雁役の女優さんの顔を惟光の娘役の女優さんにオーバーラップさせて撮影することになるかもしれませんね。
彼女は何だろうとは思うのですが、無警戒です。夕霧の詠んだ歌は『拾遺集』神楽歌に見える「みてぐらはわがにはあらずあめにます豊岡姫の宮のみてぐら」を下敷きにして詠まれたもののようです。「豊岡姫」は天照大神のこととする説(『花鳥余情』)があり、それに仕える「宮人」というのは舞姫のことを指します。舞姫に向かって、あなたを自分のものにしたいと思っている者がここにいることをわすれないでほしい」というのです。そのあとに「みづがきの」とあるのは「をとめごが袖振る山のみづがきの久しき世より思ひそめてき」(拾遺集・雑恋)を引いており、「ずっと以前からあなたを思い始めたのだ」という意味です。これを十二歳(今で言うなら小学校5年生)の少年が詠むのです。「『ずっと以前』って、いつから好きだったというの?」と聞きたくなるほど生意気なやつです(笑)。しかも惟光の娘にしたら疲れて休んでいたところに、いきなりこんな歌を詠まれたのですから、びっくりでしょうね・・と思ったら、作者も「うちつけなりける(唐突なことだ)」と言っていますね。夕霧はとても美しい声で詠むのですが、惟光の娘は誰だろうといぶかしく感じるばかりです。そこに化粧直しに来た女房たちの声がしたので、夕霧は仕方なく去って行きます。

浅葱の心やましければ、内裏(うち)へ参ることもせず、もの憂がりたまふを、五節にことつけて、直衣(なほし)など、さま変はれる色聴(ゆる)されて参りたまふ。きびはにきよらなるものから、まだきにおよすけてされありきたまふ。帝よりはじめたてまつりて、思したるさまなべてならず、世にめづらしき御おぼえなり。

浅葱色の袍を着ける身分(六位)であることが不満で、内裏に参ることもしないで憂鬱に思っていらっしゃったが、五節にかこつけて、直衣などで(浅葱とは)異なる色を許されて参内なさる。まだ年端もゆかぬきれいなお姿であるが、まだそんなお歳でもないのに大人ぶって、戯れてお歩きになる。帝をはじめとして大切にされていることは並々ではなく、たぐいまれなご評判である。

夕霧は六位の袍を着けて参内するのがいやなので、あまり内裏には行かなかったのです。しかし五節の日は直衣を着けることが許されるので、袍のように色に決まりはありません。そこで、思い切って参内するのです。すると、いくらか大人びたふるまいをして(例えば女房たちに冗談を言いかけるなど)います。なんだかんだといっても誰からも一目置かれている若君なのです。

五節の参る儀式は、いづれともなく、心々に二なくしたまへるを、舞姫の容貌(かたち)、大殿と大納言とはすぐれたり、とめでののしる。げに、いとをかしげなれど、ここしううつくしげなることは、なほ大殿のには、え及ぶまじかりけり。ものきよげに今めきて、そのものとも見ゆまじう仕立てたる様体などの、ありがたうをかしげなるを、かうほめらるるなめり。例の舞姫どもよりは、皆すこしおとなびつつ、げに心ことなる年なり。

五節の参入の儀式は、どの人が格別というのでなく、思い思いにこの上ない準備をなさったのだが、舞姫の容貌は源氏の大殿と按察使大納言の出された人がすぐれていると大きな声で讃えている。なるほどとてもすばらしいのだが、おっとりとしてかわいらしいという点ではやはり大殿の出された舞姫には及びうるはずもなかった。どことなく美しくて華やかで、そういう者(受領の娘などという身分の者)とも見えないほどに装いたてた姿かたちなどがめったにないほど魅力的なので、このように褒められるようだ。だれもが例年の舞姫よりも少し大人びていてなるほど格別な年なのである。

四人の舞姫が参入すると、どうしても品定めがおこなわれます。どの娘が一番美しいとかかわいらしいとか、そういう話になるのです。下品だとかけしからんとか言ったところで、こればかりはどうしようもない現実です。そして惟光の娘と按察使大納言の娘の評判がよく、しかも惟光の娘は受領階級とは思えない魅力があったというのです。受領(地方官)階級の娘というと、たとえば紫式部その人がそれにあたります。清少納言も和泉式部もそういう身分の人です。やはり上流貴族と比べると何かにつけてワンランク下に見られるのですが、美貌であればまた格別なのでしょう。舞姫たちはまだ十代のみずみずしい世代の女の子たちです。
受領階級の男子はめったに大出世をすることはありません(もちろん例外はあります)が、女性はその点身分の高い男と婚姻が成り立ち、子どもを産むようなことになるとその子が出世することもあり得るのです。藤原道長の父親は藤原北家師輔流で摂政に至った兼家ですが、その正妻格となったのは時姫と言われる女性で、彼女の父中正はやはり藤原北家の傍流の子孫で、中正の父山蔭は中納言にまで至りますが、中正は摂津守や左京大夫などを務めた受領階級です。ところが時姫は兼家と結婚して道隆、道長らを産んだために名が残ることになったのです。摂津守と左京大夫というと惟光とまったく同じです。紫式部に何らかの意図があったのか否かはわかりませんが。

殿参りたまひて御覧ずるに、昔、御目とまりたまひし少女(をとめ)の姿思し出づ。辰の日の暮つ方つかはす。御文のうち思ひやるべし。
  をとめごも神さびぬらし天(あま)つ袖
    古き世の友よはひ経ぬれば
年月の積もりを数へてうち思しけるままのあはれを、え忍びたまはぬばかりの、 をかしうおぼゆるも、はかなしや。
かけて言へば今日のこととぞ思ほゆる
    日蔭の霜の袖にとけしも
青摺りの紙よくとりあへて、紛らはし書いたる、濃墨、薄墨、草がちにうち交ぜ乱れたるも、人のほどにつけてはをかしと御覧ず。


源氏の大殿が参内なさって(舞姫を)ご覧になると、昔、目を留められた舞姫の姿をお思い出しになる。辰の日の暮の頃にお手紙を遣わす。その内容については想像にお任せします。
  あのときの舞姫もお年を召された
でしょう。袖を振って舞ったあの
頃からの古い友だちである私も年
齢を重ねてしまったのだから。
年月の重なりを数えて思いつかれたままの感慨を、胸に収めきれずに贈られただけのものだが、それが(女にとって)すばらしいと思われるとしてもはかないことである。
  今日の五節をきかっけにお言葉を
かけていただきますと、私が「日
陰のかづら」をつけて、日に当た
った霜がとけるようにあなた様に
心奪われたのが今日のことのよう
に思われます。
青摺りの紙をうまく取り合わせて、誰の筆跡かわからないように書いた濃い墨、薄い墨、草仮名をまぜて散らし書きにしているのも、その人の身分を考えるとすばらしいものとご覧になる。


光源氏が参内して舞姫を見ます。すると彼の脳裏にはある舞姫の姿が思い浮かぶのです。筑紫の五節と言われるこの舞姫は、花散里、須磨、明石巻にちらちらと名前の見える人物で、太宰大弐の娘です。しかしこの女性との具体的な関係については物語には出てきません。おそらく、かりそめの恋愛の相手だったのでしょう。花散里巻は光源氏二十五歳ですが、その時すでに過去の女性として名前が挙がっているので、この少女巻(光源氏三十三歳)の時点からいうなら十年またはそれ以上昔のことでしょうか。
辰の日は豊明節会(とよのあかりのせちゑ)で五節の正式の舞が行われる日です。その暮の頃、光源氏はその女性に手紙を送るのです。
「をとめごも」という光源氏の歌は、舞姫を天女に見立てて「神さび」「天つ袖」という語を用いています。「ふるき」は「袖を振る」に「古」を掛けています。
今さらこんな歌を贈ったからと言って、相手の女がどうなるものでもないでしょうが、その女性からは返歌が届きます。この歌は「日陰(舞姫が用いる日陰のかづら)」に日の光の意味を掛けるなど技巧を凝らして、あなたに心がとけたあの日が今日のことかと思われる、と返したものです。彼女の使った紙は青摺りで、これは舞姫の装束に合わせたものです。また、文字も筆跡のわからないように書いたり、墨も濃淡を混ぜたり、草仮名(平仮名より漢字に近い仮名)を使ったりするなど、太宰大弐の娘にしてはたいしたものだ、と光源氏は見ています。

冠者の君も、人の目とまるにつけても、人知れず思ひありきたまへど、あたり近くだに寄せず、いとけけしうもてなしたれば、ものつつましきほどの心には、嘆かしうてやみぬ。容貌はしも、いと心につきて、 つらき人の慰めにも、見るわざしてむやと思ふ。

冠者の君(夕霧)も人(惟光の娘)が目に留まるにつけても、人知れず思いを寄せてうろうろなさるのだが、そば近くにさえ寄せつけず、取り付く島もないのでなんとなく遠慮してしまう幼い心には、嘆くばかりで終わってしまった。その美貌は胸に焼き付いて、あのつらい方(雲居雁)とうまくいかない慰めにも、この人と逢いたいものだと思う。

一方、夕霧も惟光の娘を見ると心がときめきます。親子そろってそれぞれの世代の五節に心を奪われているのです。血は争えないですね(笑)。ただ、夕霧はまだ子どもですから、思いをうまく伝えられず、ため息をつくばかりなのです。それでも彼の心には雲居雁の形代としてでも、この娘をわがものにしたいという思いが芽生えているのです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

魂を掘り出す 

文楽人形の首は檜の塊を彫って造ります。大江巳之助さんのような名人と言われた人が精魂込めて彫った首は今も大切に用いられています。巳之助さんはノミを入れる時にどんな思いをもっていらっしゃるのか、一度うかがってみたかったと後悔しています。
文楽人形に魂を入れるのは人形遣いだと言われますが、私はやはり人形師さんが魂を込めるのだと思っています。ただし、それは人形遣いさんによって引き出されるようにしか造られていない。人形のままで明らかに魂が見えるようにはできていないし、そんな造り方をしたのでは動かしてこそ意味のある文楽人形にならないのだと思います。そのあたりの思いを巳之助さんにうかがってみたかった、と残念に思うのです。
仏像には塑像、木像、金銅像などがありますが、木造の場合は丸太を仏像の形に削っていくことになります。寄木造りの場合は像の一部分を造って合わせていいますが、一木造りであれば、丸太から仏像全体を彫り上げます。こういうことにまったく才能のない私などが考えますと、奇跡のような技です。
以前、ある仏師の方がおっしゃっていましたが、木を刻んで何もないところから仏像の姿を造っていくのではなく、はじめからその木の中におわします仏さまを掘り出すような気持ちなのだ、と。それでこそ

     魂のある仏像

が造れるのだ、ということでしょう。プロの話はなるほど傾聴すべきだと思います。私はこの話を聴いた時に、口幅ったいのですが、教育の仕事もつまりは同じことだと悟りました。こちらから一律に「これだけを覚えなさい」と言ってそれを覚えていれば合格、というのは真の教育ではない。それぞれの園児、児童、生徒、学生には個性があり、ほかの誰にもないたったひとつの魂があります。社会的に「悪人」と言われるような人でも、必ずきらめくような魂があるはずです。それを掘り起こすのが教育なのだろうと思うようになりました。

    いはんや悪人をや

というのは教育の場にあるものの忘れてはならない基本だと思います。いつだったか、学生がこんなことを言っていました。「高校の特別進学コースの先生は学力優秀だった。でも、普通コースの先生や生徒のことをいつもバカにしていた。私はこの先生に習ったが、とても尊敬できる人ではなかった」と。子どもたちはこのように見抜いているのですが、当の教師がわかっていないのです。
こんなことをあれこれ考えていると、もう一度今から修行し直して、教師になってみたいです。手遅れも甚だしいですが。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

どいつもこいつも 

私の子どもの頃は、選挙があると、有権者の多い(つまり都市部の)選挙区では翌日開票が多かったように思います。選挙が終わったら投票箱を集めて翌日まで保管して、夜が明けたら一斉に開票する、という感じで、当然、結果は選挙翌日の午後とか夜にならないとわからなかったはずです。
その点、今はどんな大都市でも即日開票で、おおむねその日のうちに大勢がわかるようになりました。もっとも、中には投票締め切りの午後9時の時報とともに

    当選確実

の人が表示されるという摩訶不思議な現象もありますが。選挙はそれに深く関われば関わるほどワクワクする祭であり、ゲームであり、ギャンブルでもあるようです。競馬で自分が支援した馬が鼻の差で勝った(負けた)ときのギャンブラーの狂喜、落胆ぶりは選挙事務所からのテレビ中継にも見られます。また、選挙は今やビジネスとしても成り立つらしく、テレビ番組は視聴率を競うように特番を作って他局より早く確実な「当確」を打つのに必死のようですし、巷には選挙コンサルタントと名乗る人までいるようです。
アメリカの大統領選挙とて、早く結果を出そうとするはずですが、それにしても現実はほんとうにひまがかかりました。世界の注目を長引かせようとしてわざとあんなことをしているのではないかと思うくらいの長丁場でした。
アメリカでは1千万人になんなんとするウイルス感染のために郵便での選挙がきわめて多く用いられたのだそうですね。非常時だけにやむを得ないのでしょうが、本来はこういう形は締め切りの問題とか、ほんとうに本人が投票しているのかとか、いろいろ問題がありそうでよくないのでしょうが、それでも実施しないわけにはいかなかったのでしょう。そこで現大統領がクレームをつけてくるというドタバタ劇で世界の

    笑いもの

になってしまいました。え? 誰も笑ってない? 私だけ?
これが、どちらかの候補が圧倒的多数であればさほど問題にならなかったのかもしれませんが、僅差の州もあったようで、よけいに時間がかかったのでしょうね。
私もさすがにトランプという人物には辟易していますが、一方のバイデンという人もどういう人なのかいまだによくわかっていません。とにかく今後に期待するばかりです。
それにしても、世間を二分してきわどい判定で一方が勝つ、というのは何だか既視感もありました。そして負けた方が性懲りもなくギャーギャーいって「負けてないもん!」という態度に出るのもそっくりでした。裁判に訴えるという者があれば、勝手な条例を作って勝ったも同然にしようとする者もあります。まったく、どいつもこいつも・・・。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

『枕草子』と平安時代を読む(6) 

次は「五月の御精進のほど」の段ですが、これはかなり長い段ですので、四回に分けて書きます。

五月(ごぐわち)の御精進(みさうじ)のほど、職(しき)におはしますころ、塗籠(ぬりごめ)の前の二間なる所を、ことにしつらひたれば、例様(れいざま)ならぬもをかし。

五月の御精進のころ、(中宮様が)職にいらっしゃるころ、塗籠の前の二間であるところを、とくに精進のために飾り立てていたので普段とは違っているのもおもしろい。

【語釈】
五月の御精進・・一月、五月、九月は「斎月(いもひのつき)」とされ、精進した。14世紀ころの有職故実事典である『拾芥抄』下「斎月」に次のように記されている。「此月月帝釈対南閻浮提勘記衆生善悪也 将断五味持戒精進、称仏菩薩名 一切罪業消滅災難無起命終之後往生十方浄土(この月々、帝釈(たいしゃく)南閻浮提(えんぶだい)に対(むか)ひて、衆生の善悪を勘記するなり。将に五味を断ち、戒を持ち、精進し、仏菩薩の名を称ふれば、一切の罪業消滅し。災難起ることなく、命終(は)つるの後、十方浄土に往生せんとす)」。およその意味は、「一月、五月、九月には帝釈が南閻浮提に向かって人々の善悪を調べて記す。そこで五味を断って精進し、仏菩薩の名号を称えればあらゆる罪は消滅し災難は起こらず、命が終わったあとは十方浄土に往生するであろう」ということで、この月々に精進すると罪業が消滅して往生できると考えられたのである。「南閻浮提」は須弥山の南にあり、人間界という意味も持つ語。
職・・中宮職。中宮に関する役所。定子は何度もここを仮住まいにしている。ここは、記事の内容から長徳四年(998)五月のことと考えられる。
塗籠・・四面を壁で覆って妻戸から出入りする部屋。調度を置く場として用いられ、寝室にすることもあった。
二間・・母屋の塗籠の南側に当たる一角を精進するところとして定めたのであろう。二間とあるので、東西二間(柱と柱の間が一間。その二倍の広さ)を用いた。

前の段(「くちをしきもの」)で物詣でや見物などで、風流に装った車で外出する話がありましたが、この段はその連想によって、車で外出した時の思い出を書いたのかもしれません。かなり派手に車を飾る場面が出てきます。
しかし、最初の部分はその時の状況を語る前提のような短い一節です。中宮が職の御曹司にいたころ、精進のために二間を飾りつけていた様子が思い浮かんだのです。
ここに描かれる内容は長徳四年(998)五月のことと思われますが、中宮定子の父道隆が亡くなって三年、兄の伊周や弟の隆家はすでに実権を失い、世の中は道長の時代(長徳二年に左大臣に就任)になっています。では世の中は落ち着いて道長政権も盤石だったかというとそうではなかったのです。正暦五年(994)以後、しばしば疫病が流行し、道長もこの長徳四年三月(三十三歳)には大きな病気のために再三天皇に辞表を出して出家を願っています。しかし以下に読む『枕草子』の記述はそんなことを感じさせないような内容だと思います。
中宮職における定子の居所は本来なら母屋に定めるべきでしょうが、「職の御曹司におはしますころ」の段に「母屋は鬼ありとて、南へ隔て出だして南の廂に御帳立てて、又廂に女房はさぶらふ(母屋には鬼が住むというので、南に離して南の廂に御帳を立てて孫廂に女房は控えている)」とあり、中宮は南の廂を居所としていたのです。そこで、その一部分の二間(東西二間の部屋)を精進所として設営したのだと思われます。「ことにしつらひたれば」というのは、たとえば持仏の像や絵を飾ったり、持経や供え物を置いたりしたのでしょう。「持仏」は守り本尊として身近に持っている仏のことで、持仏堂に置いたり小さな像を身につけたりしました。「持経」は身近に置いて常に読誦するお経のことで、女性は女人往生を説く『法華経』を持経とすることが多かったようです。

ついたちより雨がちに曇りすぐす。つれづれなるを、「ほととぎすの声たづねに行かばや」といふを、我も我もと出で立つ。賀茂の奥に、なにさきとかや、たなばたの渡る橋にはあらで、にくき名ぞ聞こえし。「そのわたりになむほととぎす鳴く」と人のいへば「それはひぐらしなり」といふ人もあり。

月初めから雨がちで、ずっと曇っている。たいくつなので「ほととぎすの声を求めて出かけたい」と私が言ったら、我も我もと出発することになる。賀茂の奥に「なんとか崎」という、たなばたが渡る橋ではなくて、憎らしい名前のところがあった。「そのあたりにほととぎすが鳴いている」とある女房が言うので「それはひぐらしでしょう」という人もいる。

【語釈】
ついたち・・「五月一日」の意味とも「五月の初め(「一日」とは限らない)」とも考えられる。「ついたち」は「月立ち」のこと。「一日」であることを明確に示したい場合は「ついたちの日」ということもある。
なにさき・・「松ヶ崎」を指すと思われる。
たなばたの渡る橋・・たなばたが天の川を渡るときにかささぎが翼を並べて橋になるといわれる。

五月は精進の月であり、また五月雨(梅雨)とほととぎすとあやめに代表される時節でもあります。この年は月初めから雨が降り、すっきりしません。今でも同じことですが、雨の日はつれづれ(所在ない)で、『枕草子』にも「雨など降り、つれづれなる日」(「過ぎにしかた恋しきもの」)「雨いたう降りて、つれづれなりとて」(「御仏名のまたの日」)などと記されています。
そこで清少納言が「ほととぎすを聴きに出かけたい」というのです。ほととぎすを聴きに外出するというのは、たとえば「殿上のこれかれ山里にほととぎすの声聴きに行きたるところにて」(『実方集』135詞書)「四月のつごもりに右近の馬場にほととぎす聴かむとてまかりて侍りけるに、夜更くるまで鳴き侍らざりければ」(『後拾遺和歌集』夏・180・堀川右大臣=藤原頼宗)のように、男性たちがよくおこなっていたようです。屏風絵にも描かれたらしく、その絵を題材に和歌が詠まれることもありました。
いわばハイキングですから、「私も行きたい」という声が続々とあがります。賀茂の奥にある「○○さき(崎)」といってそのあとに「たなばたの渡る橋」ではなくて、と続けていますが、これは「さき」という言葉の遊びで、かささぎのように二人の仲を取り持ってくれるものではなく、嫌な名前を持っている「さき」だというのです。これは「松ヶ崎」を言うものと思われ、「まつ(待つ)」という名なので、男女が逢うどころか、男の訪問を「待つ」ばかりで逢えないという嫌な名前だ、ということでしょう。「なにさきとかや」というのはその地名を忘れたのではなく、「かささぎ」と対比させるために「待つ」を隠した表現ということなのでしょう。「松ヶ崎のあたりに行けばほととぎすが鳴いていますよ」という女房に対して、「『待つ』のだからむしろ『ひぐらし(蜩。一日中の意味を持たせる)』でしょう」と別の人が答えたというのです。この部分、「今来むと言ひて別れしあしたより思ひくらしの音をのみぞなく(すぐにまた来るよと言って別れた朝から、その人のことを思って一日中ひぐらしのように声を挙げて泣いている)」(古今集・771・遍照)を念頭に置いているという解釈が多いのですが、特にこの歌を引き合いに出さなくてもよさそうにも思います。ところで、「それはひぐらしでしょう」と答えたのは別の女房、ということになっていますが、あるいは清少納言自身なのではないかとも思われます。

そこへとて、五日のあしたに宮司(みやづかさ)に車の案内(あない)こひて、北の陣より、五月雨はとがめなきものぞとて、さし寄せて四人ばかり乗りていく。うらやましがりて「なほ、いまひとつして、同じくは」などいへど、まなと仰せらるれば、聞き入れず、なさけなきさまにて行くに、馬場といふ所にて人おほくてさわぐ。

【語釈】
そこへ・・松ヶ崎へ(行きましょう)。
車の案内こひて・・車を中宮職の職員に準備させる。「案内を乞う」は「事情を尋ねる」というのが本来の意味で、車が用意できるかを尋ねること。実際は車の用意を頼むことである。
北の陣・・一般的に「北の陣」というと内裏の北の門である「朔平門」またはその門の詰め所のこと。そう考えると、その陣から車を用意させたということになる。一説には、中宮職の北門のことで、そこを通って出かけたこととされる。
とがめなきもの・・高貴な人が車に乗るときは、車の後部を建物に寄せて直接(庭に下りずに)乗るが、女房だけの場合はそういうことは許されない。しかし今は五月雨の季節(庭に下りると濡れる)なので、咎められることはないから、というので簀子に車を寄せた。「五月雨のそらおぼれするほととぎす時に鳴く音は人もとがめず」(公任集)によるという説もあるが、特に関係はないだろう。
四人ばかり・・ひとつの車には、だいたい4人が乗った(6人の場合もある)。
いまひとつして・・あと一台用意して。
まな・・禁止する言葉。
馬場・・あとに記される内容によれば、ここは左近の馬場。一条大路の北、油小路北末(北の果て)の北西側にあったと思われる。南北に長い馬場。

そこに行きましょうというので、五日の朝に中宮職の官人に車の手配を頼んで、北の陣から、五月雨のときは咎められることはないからというので、車を寄せて四人ほどが乗っていく。うらやましがって「やはりもう一台車を使って同じことなら(一緒に行きましょう)」などというのだが、「だめですよ」と(中宮が)おっしゃるので、(私たちは)耳にも留めずに容赦なく出かけると馬場というところで人がたくさん騒いでいる。

結局、松ヶ崎を目指すことになりました。先ず一条大路(大内裏の北端にあたる)に出て、そこから東に行くコースを取ります。五月五日の朝のことです。「五月雨なんだから車を寄せても誰も文句を言わないわよ」、とかなりいい加減なことをしています。気分が高揚しているのでしょう。一緒に行きたがる人もいたのですが、中宮が止めたのでそれは無視して、四人は意気揚々と出発します。大宮大路を一条大路に出て東に向かおうとしますと、左近の馬場というところで人が集まって騒いでいます。何があるのでしょうか。

「なにするぞ」と問へば「手結(てつがひ)にて、馬弓(まゆみ)射るなり。しばし御覧じておはしませ」とて、車とどめたり。「左近中将、みなつき給ふ」といへど、さる人も見えず。六位などたちさまよへば、「ゆかしからぬことぞ、はやくすぎよ」といひて、いきもてゆく。道も祭りのころ、思ひいでられてをかし。
【語釈】
手結・・五月五日に左近の馬場で行われる「真手結(まてつがひ)」。射手を組み合わせて(つがえて)矢を射るのが手結。正式の騎射の予行演習。左近の馬場では五月三日に「荒手結(あらてつがひ。略式の手結)、五日に「真手結」(騎射の当日におこなわれる正式の予行演習)。がおこなわれた。
馬弓射る・・騎射が行われる。このあたりのようすは『年中行事絵巻』にも描かれている。
左近中将・・この時の左近中将には藤原斉信、藤原正光、藤原頼親らがいた。
つき給ふ・・左近中将らが大殿屋(おとどや)に着座していらっしゃいます。
さる人・・そういう人。つまり左近中将。
ゆかしからぬこと・・興味を持てないこと。観たいと思わないこと。
祭りのころ・・賀茂祭。賀茂斎院一行が斎院(紫野にあった)から一条通りを通って賀茂神社に向かう。

「何をしているの」と尋ねると「手結で馬弓を射るのです。しばらく御覧なさいませ」といって、車を停めた。「左近中将らが座にお着きです」と言うが、そういう人は見当たらない。六位などがうろうろしているので、「興味はないわ。早く通り過ぎなさい」と言って進んでいく。道も祭りのころが思い出されておもしろい。

お供の男たちが車を停めます。「手結がありますよ」と言うのです。ひょっとすると、この男たちは自分が観たいから停めたのかもしれません。しかし女性方が興味を持つかどうかわからないので、「左近中将様たちがいらっしゃいますよ」と関心をそちらに向けようとしたのではないでしょうか。自分たちは真手結を楽しみ、女性方は左近中将の姿を見て喜ぶ、というもくろみだったかもしれません。清少納言たちがもし興味を持つとすると、左近中将の中では斉信でしょう。「かへる年の二月二十余日」の段で、斉信は「絵に描き物語のめでたきことにいひたる」姿として描かれており、あこがれの的のようでした。ところがそれらしい人が見当たらず、そうなると女性たちは手結などに興味はないらしく、出発を命じます。お供の男たちの舌打ちが聞こえるようです。一条大路は賀茂祭の行列が進むところですので、自分たちがその行列に加わっているように思えてわくわくするのでしょう。

かくいふ所は、明順(あきのぶ)の朝臣の家なりける。「そこもいざ見む」といひて、車よせておりぬ。田舎だち、ことそぎて、馬のかたかきたる障子(さうじ)、網代屏風(あじろびやうぶ)、三稜草(みくり)の簾(す)など、ことさらに昔のことをうつしたり。屋(や)のさまもはかなだち、廊(らう)めきて、端近にあさはかなれどをかしきに、げにぞかしがましと思ふばかりになきあひたるほととぎすの声を、くちをしう御前にきこしめさせず、さばかりしたひつる人々を、と思ふ。

【語釈】
明順の朝臣・・高階成忠の子。中宮定子の母方の伯父。この家は明順の別邸。
田舎だち・・田舎風で。田舎めいて。「体言+た(だ)ち」で、あることの属性が目立つことを言う。「田舎家だち」(『源氏物語』「帚木」)という例もある。
ことそぎて・・簡略にして、簡素にして。
馬のかたかきたる障子・・馬の姿を描いた衝立(ついたて)障子。
網代屏風・・檜皮を網代に編んだ屏風。「山里びたる網代屏風」(『源氏物語』「椎本」)のように、鄙びた風情がある。
三稜草の簾・・三稜草の茎で編んだ簾。三稜草は「草は」の段にも記されていた。
廊・・建物に奥行きがないために廊のように見える
あさはか・・奥行きがなくて端が近いようす。
御前・・中宮。
さばかりしたひつる人々・・もう一台車を用意して同行したいと言っていた女房たち。

このあたりが明順の朝臣の家なのであった。「そこも、さあ、見ましょう」と言って、車を寄せて降りた。田舎ふうで、簡素にして、馬の絵を描いた衝立、網代屏風、三稜草の簾など、ことさらに昔のようすを再現している。建物のようすも質素で、廊のように見えて、奥行きがないのだが風情があってなるほどうるさいと思うほどに鳴き交わしているほととぎすの声を、残念なことに中宮様のお耳に入れられず、また、あれほどついていきたいと言っていた女房たちだったのに(気の毒だ)と思う。

一条大路から松ヶ崎に進んでいるうちに、そういえばこのあたりが明順の別邸(あるいは山荘に近いもの)であった、と思い出し、立ち寄ることにしました。わざわざ立ち寄るのは、明順の家がおもしろい作りだという噂があったからかもしれません。それにしても、一条の北東側になると、都の中心(大内裏は一条から二条の間)に住む人から見るとすでに田舎びた山里だったのですね。今でもあちらにいくと烏丸四条などの喧騒はないと思いますが、交通が便利になっているだけに、さほど田舎という感じはしないのではないでしょうか。しかし昔は、都の北辺は一条大路であって、それより北は条里制の枠からもはみ出した地域であったことは間違いありません。明順の家はいかにも鄙びた山里風に作ってあり、これは明順の好みなのでしょう。馬の絵が描かれた衝立とか、網代屏風とか、三稜草の簾などいかにも山荘風なのです。『かげろふ日記』天禄二年七月に藤原師氏の所有していた(師氏はこの前年に死去)宇治院の様子が描かれる場面があり、そこに「三稜草簾、網代屏風、黒柿(くろがい。柿材のひとつで、材質が固い)の骨に朽ち葉の帷子(かたびら)かけたる几帳どももいとつきづきしきもあはれとのみ見ゆ」とあり、三稜草の簾や網代屏風が宇治という地方に「つきづきし(似つかわしい)」と筆者(道綱母)が感じていることがうかがわれます。
明順の家ではほととぎすの声がやかましいくらいに聞こえます。それにつけて思うのはやはり中宮のこと。その身分からして、いったん内裏に入ってしまうと、出産のようなことがない限りめったに外には出られませんから、聴かせてあげたかった、と思うのです。そして、一緒に行きたいと言っていた女房にも申し訳なく思います。

所につけては、かかることをなむ見るべきとて、稲といふものをとりいでて、若き下衆(げす)どもの、きたなげならぬ、そのわたりの家の娘などひきもて来て、五六人してこかせ、また、見もしらぬくるべくもの、二人してひかせて歌うたはせなどするを、めづらしくて笑ふ。ほととぎすの歌よまむとしつる、まぎれぬ。

【語釈】
所につけては・・こういう田舎に来たのだから、田舎らしいものを見るとよいだろう、という。
稲といふもの・・「といふもの」とあるので、米は知っていてもそのもとの形である稲穂は見たことがない、という表現。
若き下衆ども・・このあとの部分、「若き下衆どものきたなげなる」と「そのわたりの家の娘」を続けて読む解釈が多い。一方、「若き下衆どものきたなげなる」は男で、「そのわたりの家の娘」とは別の人たちを指すという説もある。
こかせ・・稲こきをさせる。稲の穂からもみを取らせる。農作業の実演を見せる。
くるべくもの・・くるくると回るもの。
歌うたはせ・・作業歌をうたわせる。

田舎に来たのだから、こういうことも見るとよい、というので、稲というものを取り出して、若い下衆どもで小ぎれいな者や、そのあたりの家の娘など弾き連れてきて、五六人で稲こきをさせ、また、見たこともないくるくる回るものを、二人で挽かせて歌をうたわせたりするのを、新鮮に思って笑う。ほととぎすの歌を詠もうとしたのに、うやむやになってしまう。

現代でもしばしばおこなわれている農作業体験とか工場見学のようなもので、明順が米はどうやってできているのかを見せてくれるというのです。清少納言たちにとっては、米というとあの小さな白い粒にすぎず、稲というものは見たこともありませんでした。近くの若い者を呼んで目の前で稲こきをさせます。さらに、不思議な器械を二人でくるくる回して作業歌を歌わせるという実演も見せてもらいました。それがあまりに物珍しくて、思わず声を挙げて笑ってしまうのです。このくるくる回る器械というのは、おそらく米を挽くためのもので、碾磑(てんがい)と言われるものではないかとされます。石臼にもみ米を入れて、薬研(やげん)のような形のものでそれを挽くのですが、薬研のように前後に動かすのではなく、それに棒をつけて、その棒を押すようにして石臼の周りを歩き回るのだろうと考えられています。その棒を二人で押すのでしょう。
この実演は、ほととぎすの歌を詠もうと言っていたのがうやむやになるほど興味深いものだったのです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

方弁? 

あまり口をはっきり開けずにしゃべると、もごもごとして発音も不明確になります。また、しっかりきれいな言葉を使う人に耳を傾けないと、あやふやな言葉を覚えてしまいます。
そういうことを痛感するのが最近のSNSなどに見られる若者の言葉の誤りです。「スーパーの定員」という言葉はあきらかに「店員」なのですが、普段から「ていいん」と発音しているからこういう間違いが起こってくるのでしょう。この「enin」を「えいいん」あるいは「えーいん」と発音するものには「原因」「全員」などいくつもあります。たしかに発音しにくい言葉で、早口でさっと言い流せば意味が通じてしまうので誤りに気づかなくなります。あげくには「原因がわからない」という文を書こうとして「geiin ga wakaranai」とキーボードを打ち、変換したら「鯨飲がわからない」などになってしまったりするのです。そして「このパソコン、おかしいんじゃないか」と機械のせいにする人もいるようです。こういう誤りについては、きちんと説明すると分かってもらえるのですが、先日「これは関西の

    方弁

なのでしょうか」と言われてまたビックリでした。どうも近ごろは「方言」のことを「方弁」というらしいのです。字も「方弁」と書くそうです。「大阪弁」「東京弁」などの「弁」に引きずられて、「うそも方便」の「方便」と混同してこのような言い方が増えてきたのかもしれません。
「~せざるを得ない」を「~せざる負えない(追えない、終えない)」と書く人が増えていることなども併せて考えると、「ことばの音」に関して敏感さがなくなっているのではないかと思ったりします。
表記がいいかげんなのはもちろん日本人に限ったことではありません。最近は英語圏でも、特にSNS上などでは「How r u?」などという表記がどんどん浸透しているようです。
「btw」「rgr」「u 2」「c u」など、ほとんど

    判じ物

のような感じです。
「How r u」は「How are you(ごきげんいかが?)」、「btw」は「by the way(ところで)」、「rgr」は「roger(了解)」、「u 2」は「you too(君も同じだね)」、「c u」は「see you(またね)」ですが、パッと見た瞬間はわかりません。
言葉を崩すのは面白いものです。詩だって、言葉をぎりぎりまで崩す技ともいえると思います。ただ、従来の言い方を踏襲しているつもりでそれができていないのはやはりまずいでしょう。
うるさいなぁ、と思われつつも、今後もいろいろ苦言を呈したいと思っています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

半跏思惟 

あらゆる仏像の中で、「美しい」という言葉がまず口を突いて出るのは広隆寺の半跏思惟像ではないでしょうか。
釈迦入滅後の五十六億七千万年後に兜率天から我々の生きる娑婆世界に下生する、つまり出現するとされるのが弥勒菩薩です。弥勒菩薩はそのあと如来となって一切衆生を救ってくれるのだそうです。できればそんな先ではなく、来年あたりに救ってほしいのですが(笑)。
広隆寺の半跏思惟像はこの弥勒菩薩だと言われます。弥勒菩薩は釈迦との約束で、兜率天でその気の遠くなるような長い期間修行して、やがて娑婆世界に下りてくるのです。弥勒菩薩像は、信仰の盛んだった朝鮮半島でよく造られたのですが、その朝鮮からの渡来人が多数日本に帰化しました。その中に「うづまさ」を名乗ることになる秦氏があります。その一人である

    秦河勝

についてこんな伝承があります。
「皇太子諸々の大夫に謂ひて曰く、我に尊き仏像有り。誰か是の像を得て、以て恭しく拝め、と。時に、秦造河勝進みて曰く、臣、拝みまつらむ、と。便ち仏像を受けて、因て蜂岡寺を造る」(『日本書紀』推古天皇十一年十一月)。
聖徳太子が仏像を与えるから誰か尊崇する者はいないかと問われ、秦河勝が進み出てそれを賜り、京都の西の地に蜂岡寺(広隆寺)を建てて安置したというわけです。この像こそが今我々が目にする半跏思惟像だとも言われます。
この像は、日本では木像の材料にはしない赤松で造られていて、それゆえに朝鮮半島で造られたものが献上されたのではないかとも言われています。また、渡来人が朝鮮半島から持ち込んだ赤松材で彫り上げたものだという意見もあるようです。
いずれにせよ、首筋には三道といわれる皺(しわ)があり、少し体を前に傾けて、左足の上に右足を乗せ、右の肘をついて折り曲げ、人差し指と中指を頬につけるようにして、薬指だけは曲げて

    やわらかい笑顔

でじっと思惟しているこの姿は美しいとしか言いようのないものです。菩薩像であれば何らかの装飾がありそうで、実際腰には腰佩と呼ばれる装飾品がつけられていますが、胸や腹の瓔珞は残っていません。その痕跡はあるそうですので、元はもっときらびやかだったのでしょう。それらのない今の像は、かえってこの像の静謐さを感じさせるようでもありますが。
六十年ほど前に、あの何とも魅惑的な薬指が、ある学生の若気の過ちによって折られたことがありました。今は修復されていますが、美しいものに対してそれに触れたい、自分だけのものにしたいという願望を抱かせるに足る仏像だともいえるでしょうか。それにしても、拝む人がいてこその仏像でありながら、親しく拝めることで傷つけられる可能性も孕んでいるのも事実であり、文化財を守ることは本当に難しいものだと思います。「一切衆生を救うのだ、そのためにはどうすればいいのか」と思惟を重ねる弥勒の邪魔せずに、感謝の気持ちで見つめることにしたいものです。
五十六億七千万年、この像はこうして思惟し続けるのでしょうか。そうであれば、この像の時間は止まっているのではなく、刻々と時を刻んでいるのだとも思えます。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

十一面観音立像の口元 

少しずつではありますが、仏像に興味を持ち始めています。こういうことは学生時代にしておかねばならなかったのですが、今からでも何も勉強しないよりはいいだろうと思っています。
仏像にはさまざまなものがありますが、個性豊かなものだと改めて感じます。中でも面白い雰囲気を持っていると思ったのが奈良県室生にある室生寺の

    十一面観音像

です。室生寺の金堂には所狭しと二体の如来と三体の菩薩が置かれています。不思議なことに大きさなどに統一性がなく、一見して奇妙な印象を持つのです。中央にある本尊は釈迦如来とも薬師如来とも言われます。向かって右隣りには小ぶりの薬師如来、その右に地蔵菩薩、向かって左隣には文殊菩薩、左端に十一面観音菩薩という配置です。もう一度言いますと、向かって右端から地蔵、薬師、釈迦(または薬師)、文殊、観音が並んでいるのです。
しかし、どうやらこれらは本来の形ではなく、もともとは薬師、地蔵、観音の三つの像だったのではないかと言われているのです。しかも地蔵菩薩は現在置かれているものではなく、近くのお堂にある地蔵菩薩が本来は室生寺にあったものだと推定されているらしいのです。
さてその十一面観音なのですが、一木の彫像で、左手には持物である水瓶、右手は与願印になっています。そしてそのお顔は、一度見たら忘れられないのです。目は細めて、頬は少し膨らんで、口はとがらせ気味。菩薩らしく装飾(瓔珞)もさまざまでそれらは金具です。
この、膨らませた頬ととがらせた口はどういうことを意味するのだろう、と思ったのですが、あまりきちんと解説されているものが見当たりませんでした。その中で、西村公朝氏の解説が気になったのでここにメモしておきます。
釈迦が会得した呼吸法に

    アナパーナサチ

があります。これは一気に息を吸って、ゆっくり吐き出すもので、1分間に1~1.5回くらいしか呼吸しないのだそうです。試みに私もこの呼吸法の真似をしてみたのですが、息を吐いているうちに無我の境地に入れそうな気持になりました。そして、この十一面観音もみずからの法力をこの呼気によって拝礼するものに吹き付けているというのです。この像のみぞおちの部分にはくっきりと二本の線が刻まれていますが、これは息をすべて吐き出した時のものなのだそうです。
もっとさまざまな解説書を読まないと詳細はわからないのですが、このようにいわれてみるとこの十一面観音像の姿がいきなりダイナミックなものに見えてきました。向き合う人を細い目で見て、すっと息を吸ったかと思うとふーっと吐き出してそのエネルギーを与えてくれるような気がするのです。実物を拝見したことがありませんので、一度拝んでみたいものだと思います。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

源氏物語「少女」(6) 

内大臣という人は、どうも理屈っぽく意固地になるところがあるようです。そしてやりかたが嫌味な感じもします。雲居雁を自邸に迎えるのに、わざわざ弘徽殿女御を里下がりさせて、その遊び相手(音楽の合奏をするなどでしょう)のために雲居雁を呼び入れるという形を取ります。これは北の方(弘徽殿女御の母、雲居雁の母ではない)のご機嫌を損ねない方法でもあるのでしょうが、ずいぶん回りくどいことをするものです。大宮に対しても、無理に連れていくのではなく弘徽殿女御のためなのだ、という理屈を建前にするのでしょう。

宮、いとあへなしと思して、「ひとりものせられし女亡くなりたまひてのち、いとさうざうしく心細かりしに、うれしうこの君を得て、生ける限りのかしづきものと思ひて、明け暮れにつけて、老いのむつかしさも慰めむとこそ思ひつれ、思ひのほかに隔てありて思しなすも、つらく」など聞こえたまへば、うちかしこまりて、「心に飽かず思うたまへらるることは、しかなむ思うたまへらるるとばかり聞こえさせしになむ。深く隔て思ひたまふることはいかでかはべらむ。内裏(うち)にさぶらふが、世の中恨めしげにて、このころまかでてはべるに、いとつれづれに思ひて屈しはべれば、心苦しう見たまふるを、もろともに遊びわざをもして慰めよと思うたまへてなむ、あからさまにものしはべる」とて、「育み、人となさせたまへるを、おろかにはよも思ひきこえさせじ」と申したまへば、

大宮はどうしようもないこととお思いになって、「ただひとりいらっしゃった娘(葵の上。光源氏の妻で夕霧の母)が亡くなったあと、とても寂しく心細かったのですが、うれしいことにこの姫君をお預かりできて生きている限りは大切にお育てしようと、また、明け暮れにつけて年を取ったがゆえのつらい気持ちも慰めようと思っていましたのに、思いがけず引き離そうとお考えになるのもつらいことで」と申し上げなさると、(内大臣は)恐縮して「納得がいかないことを、このように思っておりますと申し上げただけでございます。深く隔てるなどということがどうしてございましょうか。内裏におります女御が帝との仲もうまくいかないようで、先だって里下がりしてまいりましたが、ひどく所在ないようすで沈んでおりますのでおいたわしいことと拝見しておりまして、一緒に音楽や遊戯(囲碁など)をしてお気を紛らわせてもらいたいと思いまして、ほんの少しの間お移しするのです」と言って「これまで育てて一人前にしてくださったことをおろそかにはけっして思っておりません」と申し上げなさると、

大宮は悲しみのあまり、生きがいのような雲居雁を奪われるつらさゆえに、内大臣の心の隔てを悲しく思っていると訴えます。それに対する「心に隔てがないからこそ、思っていることを言っただけではありませんか」という返事は、いかにも内大臣らしいものです。ああいえばこういう、理屈をこねると天下一品。弁護士向きでしょうかね、この人(笑)。しかもこのあと、自分の仕業であることを隠して、弘徽殿女御が「帝とうまくいかないから帰ってきた」と、いいかげんなことを言っています。さらには「ほんの一時的に連れて行くだけです」と心にもないことを言っています。悪徳弁護士向きでしょうか。

かう思し立ちにたれば、止めきこえさせたまふとも、思し返すべき御心ならぬに、いと飽かず口惜しう思されて、「人の心こそ憂きものはあれ。とかく幼き心どもにも、われに隔てて疎ましかりける ことよ。また、さもこそあらめ、大臣の、ものの心を深う知りたまひながら、われを怨じてかく率(ゐ)て渡したまふこと。かしこにて、これよりうしろやすきこともあらじ」と、うち泣きつつのたまふ。

これほど決心してしまわれたことなので、おとどめ申しても考えを改めるようなお人柄ではないのだから、まったく不満で残念なこととお思いになって「人の心というのはほんとうにつらいものです。幼い二人の気持ちにしても、私に隠し立てをしたようでいやなものでした。それはまた、幼いのだから仕方がないとしても、大臣であるあなたが、ものの道理を深くおわかりになっていながら、私を恨んでこうやって連れて行っておしまいになるとは。あちらでは、ここより安心ということもないでしょうに」と泣きながらおっしゃる。

大宮はわが息子の気性を知っていますから、こちらの言うことを聞いてあきらめてくれるはずもないと思い、愚痴ばかり言います。夕霧と雲居雁も私に何も言わずに親密になったのは残念に思うがそれはまだ若いものだから仕方がない、あなたはいい年をして……、といったあとに、雲居雁にとっては、継母(内大臣の北の方)のいるところより実の祖母(大宮自身)のところの方が安心だろうに、とあてこすります。継母と継娘の関係は当時からうまくいかないことが多いとされ、『源氏物語』の中でもまだ幼かった若紫(紫の上)が継母のもとで異腹の姉妹とまじるよりはというので祖母と一緒に暮らしていたことが思い合わされます。当時は母方で育てられますから、その母親が亡くなった場合、そこの子ども、特に娘は微妙な立場に置かれることになります。

折しも冠者(くわざ)の君参りたまへり。もしいささかの隙(ひま)もやと、このころはしげうほのめきたまふなりけり。内大臣(うちのおとど)の御車のあれば、心の鬼にはしたなくて、やをら隠れてわが御方に入りゐたまへり。内大殿(うちのおほとの)の君達、左少将、少納言、兵衛佐(ひやうゑのすけ)、侍従、大夫(たいふ)などいふも皆ここには参り集ひたれど、御簾の内は許したまはず。左兵衛督、権中納言なども、異御腹(ことおほむはら)なれど、故殿の御もてなしのままに今も参り仕うまつりたまふことねむごろなれば、その御子どももさまざま参りたまへど、この君に似るにほひなく見ゆ。大宮の御心ざしも、なずらひなく思したるを、ただこの姫君をぞ気近うらうたきものと思しかしづきて、御かたはらさけず、うつくしきものに思したりつるを、かくて渡りたまひなむがいとさうざうしきことを思す。

ちょうどその折、冠者の君が参上なさった。ひょっとして隙(すき)があるかもしれないと、最近はしきりに顔をお出しになるのであった。内大臣の御車があるので、気が咎めて体裁が悪く思われ、そっと隠れてご自分のお部屋にお入りになった。内大臣の子息たち、左少将、少納言、兵衛佐、侍従、大夫などという人たちもみなこちらに参集しているが、御簾の中に入ることはお許しにならない。左衛門督や権中納言なども異腹(つまり大宮の子でない故太政大臣の息子たち)ではあるが、亡き太政大臣のご意向があって今も参上してねんごろにお仕えしているので、そのお子様方もさまざまに参上なさるが、皆この君(夕霧)に似る美しさはないと見える。大宮のお気持ちとしても、比類ないほどこの君を大事になさっていたが、(夕霧が二条東院に移ってからは)この姫君だけをいつも親しくかわいいものとして大切にお育てして遠ざけることなくいとしいものとお思いになっていたのに、こうしてお移りになってしまうのがひどく寂しいこととお感じになる。

以前夕霧が大学に入る際、普段は二条東院で勉強して「一月(ひとつき)に三たびばかりを参りたまへ(一か月に三度ほどは大宮のところに参上なさい)」という取り決めをしたことがありました。しかしこのごろは雲居雁に逢えるチャンスを狙ってそれ以上に頻繁にやってくるのです。ところがこの日は内大臣の車がありました。内大臣に会いたくはありません。「心の鬼」は良心の呵責のようなことで、『岩波古語辞典』は「人目を忍ぶ恋をさとられないかとおそれる場合に使った例が多い」と説明しています。平素、内大臣の息子たちがこの邸には出入りしていますが、彼らは夕霧とは違って御簾の中には入れてもらえない待遇です。また、故太政大臣の息子ではあるものの大宮の子ではない左衛門督や権中納言の子たちも出入りしていたのですが、夕霧の美貌に並ぶ者がありません。夕霧が大宮のところではどれほどかわいがられているかがうかがわれます。なお、内大臣の息子のうち、最初に書かれている「左少将(左近少将)」はのちに柏木と呼ばれる男子かと思われます。さて、その夕霧が二条東院に移ってからは雲居雁だけを大切にしてきたのに、今こうして連れていかれるのは大宮にとってなんとも悲しいことなのです。

殿は、「今のほどに内裏(うち)に参りはべりて、夕つ方迎へに参りはべらむ」とて、出でたまひぬ。いふかひなきことを、なだらかに言ひなして、さてもやあらまし、と思せど、なほ、いと心やましければ、人の御ほどのすこしものものしくなりなむに、かたはならず見なして、そのほど、心ざしの深さ浅さのおもむきをも見定めて、許すとも、ことさらなるやうにもてなしてこそあらめ。制し諌むとも、ひと所にては、幼き心のままに見苦しうこそあらめ。宮も、よもあながちに制したまふことあらじ、と思せば、女御の御つれづれにことつけて、ここにもかしこにもおいらかに言ひなして渡したまふなりけり。

内大臣殿は「今は内裏に参りまして、夕方にお迎えに参りましょう」といってお出かけになった。今さら何を言ってもしかたがないから、穏便に話をつけて一緒にさせてやろうか、とお思いにはなるが、それでもなおいらいらするので、あの人(夕霧)の身分がいくらかしっかりしたものになったときに、これなら不満足ではないということにして、その時の愛情の深さ浅さの様子を見定めて、許すことになったとしても、ことさら改まった形にしてからにするのがいいだろう、制して咎めだてしても、同じところに置いていては子ども心のおもむくままに不都合な事も起こるだろう。大宮もまさかむりやりにそれを止めようとはなさるまい、とお考えになるので、女御のご退屈にかこつけて、大宮にも北の方にも角を立てずに話をつけてお移しになるのであった。

内大臣は大宮の前ではいろいろ言いましたが、一人になると諦める気持ちも湧いてくるのです。これも今も昔も変わらぬ父親の本心でしょう。しかし馴れ合いで一緒になるような形だけは避けたい。形式を重んじるのはこの人らしいところです。雲居雁を自邸に引き取ったうえで、しかるべき時期が来て、なおも二人の愛情に変わりがなければ大宮の邸の中でいつの間にか深い仲になったというのではなく、内大臣家と光源氏家の結婚としてきちんとしようと考えます。とても微妙な男性心理が描かれています。紫式部の洞察力、そしてそれを表現する力はやはりたいしたものだと思います。

宮の御文にて、「大臣こそ恨みもしたまはめ、君はさりとも心ざしのほども知りたまふらむ。渡りて見えたまへ」と聞こえたまへれば、いとをかしげにひきつくろひて渡りたまへり。十四になむおはしける。かたなりに見えたまへど、いと子めかしう、しめやかにうつくしきさましたまへり。「かたはらさけたてまつらず、明け暮れのもてあそびものに思ひきこえつるを、いとさうざうしくもあるべきかな。残りすくなき齢のほどにて、御ありさまを見果つまじきことと、命をこそ思ひつれ、今さらに見捨てて移ろひたまふやいづちならむと思へば、いとこそあはれなれ」とて泣きたまふ。

大宮(から雲居雁へ)のお手紙で「内大臣は私をお恨みもなさるのでしょうが、そうはいってもあなたは私の気持ちはおわかりでしょう。こちらにいらっしゃってお顔を見せてください」と申し上げなさると、とてもかわいらしいようすに身づくろいなさっておいでになった。十四歳でいらっしゃる。まだ大人っぽさはうかがえないが、とてもあどけなくておしとやかでかわいいようすでいらっしゃる。「そばをお離しせずに明け暮れの心の慰めと思っておりましたが、今後は本当に寂しくなるでしょう。人生も残り少ない年齢になって、あなたの行く末を見届けることはできまいと、寿命のことを思うのです。今さら私を見棄ててお移りになる先はどこなのかと思うととても悲しいのです」といってお泣きになる。

雲居雁が別れの前に大宮に呼ばれて姿を見せます。今十四歳であることが明記されます。まだ「かたなり」(未成熟)ではあるのですが、とてもかわいらしいのです。そして大宮は、自分の命も残り少ないだけにこの子の将来をいつまでも見ることができないと悟っており、そのことを悲しみます。そしてこれから行くところがどこかと言うと、よりによって継母のところではないか、とそのことをいたく案じています。

姫君は、 恥づかしきことを思せば、顔ももたげたまはで、ただ泣きにのみ泣きたまふ。男君の御乳母、宰相の君出で来て、「同じ君とこそ頼みきこえさせつれ、口惜しくかく渡らせたまふこと。 殿はことざまに思しなることおはしますとも、さやうに思しなびかせたまふな」など、ささめき聞こゆれば、いよいよ恥づかしと思して、物ものたまはず。「いで、むつかしきことな聞こえられそ。人の御宿世宿世、いと定めがたく」とのたまふ。「いでや、ものげなしとあなづりきこえさせ たまふにはべるめりかし。さりとも、げに、わが君人に劣りきこえさせたまふと、聞こしめし合はせよ」と、なま心やましきままに言ふ。

姫君は(夕霧との)恥ずかしいことがいけないのだとお思いになるので、顔もお上げにならず、ただ泣いてばかりいらっしゃる。男君の乳母の宰相の君が現れて、「あなた様を(夕霧と)同じくご主人様だとお頼み申してまいりましたのに、悔しくもこのようにお移りになるなんて。内大臣様はほかの人と結婚させようとお考えになることがおありでも、そのように心をお移しなさいますな」などとささやくように申し上げると、(雲居雁は)ますます恥ずかしいとお思いになって、何もおっしゃらない。「これ、面倒なことを申し上げなさいますな。人の運命というものはまったく定めがたいものです」と(大宮は)おっしゃる。「いいえ、(内大臣は夕霧を)一人前ではないと軽んじていらっしゃるようでございます。今はそうであっても、実際わが君(夕霧)がほかの人に劣っていらっしゃるかとどなたにでもお聞きになってください」と、(宰相の君は)なんとなく腹立ちまぎれに言う。

夕霧の乳母の宰相の君は、夕霧をいたわしく思うあまり、雲居雁にほかの男になびかないでほしいと言います。「なびかせたまふな」という言い方はいささかきつい感じがします。そして、大宮がそういう言い方を咎めても、なおも夕霧を軽んずる内大臣が許せないと主張します。乳母にとって、自分が育てた子を馬鹿にされるのはたまらないものなのでしょう。

冠者の君、物のうしろに入りゐて見たまふに、人の咎めむも、よろしき時こそ苦しかりけれ、いと心細くて、涙おし拭ひつつおはするけしきを、御乳母、いと心苦しう見て、宮にとかく聞こえたばかりて、夕まぐれの人のまよひに対面せさせたまへり。かたみにもの恥づかしく胸つぶれて、物も言はで泣きたまふ。「大臣の御心のいとつらければ、さはれ、思ひやみなむと思へど、恋しうおはせむこそわりなかるべけれ。などて、すこし隙ありぬべかりつる日ごろ、よそに隔てつらむ」とのたまふさまも、いと若うあはれげなれば、「まろもさこそはあらめ」とのたまふ。「恋しとは思しなむや」とのたまへば、すこしうなづきたまふさまも幼げなり。

冠者の君(夕霧)は物陰に隠れてご覧になっているが、見とがめられてもこれまでならつらいというだけだったが、今は心細くて、涙をぬぐいながらそこにいらっしゃるのを、乳母はとてもお気の毒だと思って大宮に何かとご相談したので、大宮は夕暮れの人があわただしくしている紛れに対面させなさった。お互いに何やら恥ずかしく、胸もどきどきして何も言わないで泣いていらっしゃる。「内大臣のお心がひどく恨めしいので、もうよい、あきらめてしまおう、とは思うのですが、そうすると恋しくなるのがたまらないことです。どうして、いくらか機会があった時によそよそしくしてしまったのでしょう」とおっしゃる様子も、とても幼く悲しいようすなので、「私もそう思うでしょう」とおっしゃる。「わたしを恋しいとお思いになってくださいますか」とおっしゃると、すこし頷かれるのようすもまだ幼いようである。

乳母の宰相の君が訴えたこともあって、大宮は二人を対面させてやります。夕方には雲居雁は出ていきますが、その直前は女房たちも何かと準備で忙しく、いい機会だと思ったのです。対面させたのは「せさせたまへり」と敬語が付いていますので、乳母ではなく大宮の考えによるのです。二人はしばし何も言わずに泣いていましたが、夕霧がやっと口を開きました。あきらめようと思っても、どのみち恋しくなるあなたなのだから、どうにもならない。もっと親しくお会いすればよかった、といかにも子どもらしく言います。すると雲居雁も、私も同じです、と答えるのです。まだ幼い自分の力ではどうしようもないだけに、二人は嘆くばかりではありますが、お互いの気持ちを確かめることはできました。

御殿油(おほむとなぶら)参り、殿まかでたまふけはひ、こちたく追ひののしる御前駆(さき)の声に、人びと、「そそや」など怖(お)ぢ騒げば、いと恐ろしと思してわななきたまふ。さも騒がればと、ひたぶる心に、許しきこえたまはず。御乳母参りてもとめたてまつるに、けしきを見て、あな心づきなや。げに、宮知らせたまはぬことにはあらざりけり、と思ふに、いとつらく、「いでや、憂かりける世かな。殿の思しのたまふことは、さらにも聞こえず、大納言殿にもいかに聞かせたまはむ。めでたくとも、もののはじめの六位宿世よ」と、つぶやくもほの聞こゆ。ただこの屏風のうしろに尋ね来て、嘆くなりけり。

灯りをともすころ、内大臣殿が内裏から退出なさってこられるようすで、ものものしく先払いする声がするので、「それそれ」となどとおどおどしながら騒ぐので、(雲居雁は)ひどく恐ろしいと思ってふるえていらっしゃる。(夕霧は)騒がれるなら騒がれてもよい、と一途な気持ちで(雲居雁を)お離しにならない。(雲居雁の)乳母が参ってお探し申し上げると、この様子を見て、なんとけしからぬことでしょう。なるほど内大臣様がおっしゃるように大宮様はご存じでないわけではなかったのですね、と思うと実につらいことなので「いやもう、いやなお二人です。内大臣様のお考えやおっしゃることは申すまでもなく、大納言様(雲居雁の実母の今の夫)もどのようにお聞きになるでしょうか。立派な方であろうとも最初にお付き合いされた人が六位などという宿世では」とつぶやくのもわずかに聞こえる。二人のいる屏風のすぐ後ろまでやってきて嘆いているのであった。

夕方、もう暗くなり始めて灯りを入れるころです。内大臣が内裏から戻ってくるのが前駆の声でわかります。その声が大きければ大きいほど、抗うことのできるはずのない内大臣の権威が近づいてくるようで、雲居雁は怯えます。夕霧は、ナイトのように、この人を離すものか、と雲居雁を抱いているのです。そこに、雲居雁の乳母がやってきて、やはりほんとうのことだったのだ、とあきれ返ります。そして「もののはじめの六位宿世よ」というひどい憎まれ口を吐くのです。いくら光源氏の息子であっても、所詮六位などという、姫君とはおよそ釣り合わない身分じゃないか、というわけです。乳母は内大臣の味方ですから、夕霧相手でも容赦がありません。なにしろ春宮に入内させようとまで考えていたのが六位の若造ですから。当時、五位以上が広い意味での貴族であって、上流階級のものから見ると六位などはものの数にも入らないのです。それにしても、その乳母の声を聞いた夕霧の屈辱はいかなるものだったでしょうか。ここで乳母に言われたことは、夕霧はけっして忘れることはないのです。

男君、我をば位なしとてはしたなむるなりけり、と思すに、世の中恨めしければ、あはれもすこしさむる心地して、めざまし。「かれ聞きたまへ。
くれなゐの涙に深き袖の色を
浅緑にや言ひしをるべき
恥づかし」とのたまへば、
いろいろに身の憂きほどの知らるるは
    いかに染めける中の衣ぞ
と、物のたまひ果てぬに、殿入りたまへば、わりなくて渡りたまひぬ。


男君は、自分を位が低いと言って辱めるのだな、と思うと、世の中が恨めしいので、姫君への思いも少し冷めるような気がしてしゃくにさわる。「あれをお聞きなさい。
  血の涙で深く紅色に染まった私の袖を
  浅緑といっておとしめてよいものか
恥ずかしい」とおっしゃると、
  いろいろなことでわが身のつたなさが知られるのは
  どのように定められた私たちの仲なのでしょう
とおっしゃることばが終わらないうちに殿が邸に入ってこられたので、どうしようもなくて戻って行かれた。


とてもかわいそうな場面です。読みながら涙ぐむ読者もいた(あるいは今もいる)のではないでしょうか。自分が六位だからと言って馬鹿にする世の中なんて、と世間を恨む気持ちにもなる夕霧です。「くれなゐの」の歌は、「紅涙」すなわち「血の涙(激しい悲しみで流す涙)」を流して紅色に染まる衣を「浅葱」(六位の着ける袍の色)だなんて言ってよいと思っているのか、と悔しさをぶつけたような詠み方です。雲居雁の「いろいろに」の歌は夕霧の歌を受けて「色さまざまに染める」という言葉を用いつつ、何かとつらい自らの宿運の拙さを嘆くものです。しかしその歌を詠み終えるか終えないかのタイミングで内大臣が邸内に入ったことがわかりました。いくら夕霧が盾になってもどうなるものでもありません。しかたなく雲居雁は自室に戻っていくのです。

男君は、立ちとまりたる心地もいと人悪く、胸ふたがりて、わが御方に臥したまひぬ。御車三つばかりにて忍びやかに急ぎ出でたまふけはひを聞くも、静心なければ、宮の御前より、「参りたまへ」とあれど、寝たるやうにて動きもしたまはず。涙のみ止まらねば、嘆きあかして、霜のいと白きに急ぎ出でたまふ。うちはれたるまみも、人に見えむが恥づかしきに、宮 はた、召しまつはすべかめれば、心やすき所にとて、急ぎ出でたまふなりけり。道のほど、人やりならず、心細く思ひ続くるに、空のけしきもいたう曇りてまだ暗かりけり。
  霜氷うたてむすべる明けぐれの
    空かきくらし降る涙かな


男君はとり残された気持ちもひどく体裁が悪く胸が詰まって、ご自分のお部屋で横になってしまわれる。御車三両ほどで、前駆もひそやかに、急いで出ていかれる気配を聞くにつけ、落ち着いた心にもなれないので、大宮の方から「こちらへおいでください」と知らせがあったが寝たふりをして身動きもなさらない。涙がどうにも止まらず、嘆きながら夜を明かして、霜の真っ白な頃に急いで邸をおでましになる。泣きはらした目元も人に見られるのが恥ずかしく、宮がまたおそばにお呼びになりそうなので、心置きなくしていられるところに、と思って急いで出られたのであった。道すがら、誰のせいでもないのだと心細く思い続けていると、空のようすもひどく曇ってまだ位のであった。
  私を苦しめるように霜も氷も結んでいる、
  そんな明け方の暗い空をいっそう暗くする
ように、私の涙までが降ることだ


車三両ほどで、女性の車だけに前駆の声も忍びやかにして雲居雁は行ってしまいました。あとに残された夕霧のやるせない気持ちは、若者の恋愛にはありがちな、この世の終わりのように悲痛なものです。夕霧はもう大宮から呼ばれても行く気にはなれません。夜明けのまだ霜の白く降りているころに人目を忍んで二条東院に帰って行きます。空は曇って、明け方といってもまだ暗いのです。もちろんそれは彼の心の風景に等しいものです。最後の和歌については『細流抄』が「三四句殊勝々々」と言っています。
こうして、夕霧と雲居雁の話は、悲恋のまま一段落します。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

歩くべきか歩かざるべきか 

それが疑問だ、ということなのです。
呼吸器の調子が悪いと、歩くのがきわめて苦痛です。階段や坂道なんて見ただけでぞっとします。以前車を持っていた時は、しんどいときはどこに行くのも車を使っていました。今はそれがありませんので、行動範囲がずいぶん狭くなってしまいました。
ところが、あまりじっとしているのはかえってよくないと看護師さんに言われたことがあります。毎日多少は歩くようにしないと肺機能がもっと弱くなりますよ、とのことです。医者はともかく、看護師さんの言うことはわりあいに素直に聞くことにしています(笑)ので、それ以後特に歩くことは大事にしようと思っています。ただ、むやみに長距離を歩くのはこれまた乱暴だと思いますので、今は歩数計の一日の目標を

    8000歩

に設定しています。そして、実際は1日平均6000歩を目指しています。6月は見事に達成したのですが、7月は雨の日が多かったこともあってやや下降し、8月に至っては、何しろあの暑さで、体調もかなり悪かったので、平均2000歩あまりでした。9月は多少盛り返して4000歩くらいでした。
もともと歩くことは大好きで、文楽劇場なんて梅田から歩いていきました。いつぞやは天六から歩いたこともありました(笑)。脱水症状さえ気を付けておれば、脚は平気なのです。
ただ、最近はあまり体調がよくないので、少しでも歩こうとすると、

    息切れ

することもあります。
そんな状態でも、休みながら歩く方がいい、とくだんの看護師さんが言っていましたので、このごろはあそこまで歩けばベンチがある、あそこまで行けば公園だ、などと目安をつけてそこまでは頑張って歩いて、しっかり休憩してから次のポイントまで歩いて、というようなことをしています。
日によってはどうしても長い距離を歩かなければならないことがあり、そういう日は家に帰るとへたばります。
ふつうに呼吸できる人が何ともうらやましい限りです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

立役とか女遣いとか 

文楽の人形遣いさんは、ある程度「ニン」というものがあって、荒物遣いか二枚目系か女形かなどいろいろタイプがあるように思います。
先代玉男師匠(当代も)は、基本は立ち役。簔助師匠というとどうしても女形がイメージされます。しかし簔助師匠も『菅原伝授手習鑑』の桜丸、『新うすゆき物語』の妻平など、立ち役のすばらしいものもいくつも見せていただきました。玉男師匠の女形というと『心中天網島』(あるいは『天網島時雨炬燵』)の女房おさんとか『加賀見山旧錦絵』の尾上がよく知られます。母親の情愛をにじませると右に出るもののなかった文雀師匠も『仮名手本忠臣蔵』の判官や『義経千本桜』のすしや弥左衛門などがありました。
やはり人形遣いさんはどんな人形も遣えて当然で、しかも得意分野があるということでしょうか。

    ケレン

も人形浄瑠璃の魅力のひとつですが、先代勘十郎師匠(当代も)の狐忠信の宙乗りは今も脳裏に焼き付いています。簔助師匠も孫悟空を何度も持たれて劇場の上空を飛んでいらっしゃいました。
昔の人形遣いさんはそれこそなんでもなさったようです。人形で初めて紋下となった

    初代吉田玉造(1829~1905)

は、当時の中村梅玉や市川米十郎らとの交誼もあったそうで、そういうところからも芸を取り入れる(この当時、歌舞伎では宙乗りや早替わりなどが盛んにおこなわれていたそうです)こともできたようです。ついでながら、玉造は初代鴈治郎(人形遣いとしての名は吉田玉太郎)との縁も深かったようです。
玉造は荒事が得意だったそうですが、チャリものも、あるいは動物でも何でもござれだったと言われます。狐忠信、玉藻前、孫悟空などは当たり役だったそうで、明治五年、文楽が松島に行ったときに七化けという超人的な早替わりも見せたそうです。木谷蓬吟『文楽史』はこの人について「まるで軽業師のようなことまでした」と言っています。
とにかく人を楽しませることに関しては何でもやってみようという精神だったのでしょう。
私の知る限りでは先代勘十郎師匠がそんな感じだったかな、と思います。型にはまらない人形遣いさん(太夫さん、三味線さんも)というのも文楽にはいてほしいと思っています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

『枕草子』と平安時代を読む(5) 

今回は、一段があまり長くありませんので、「あさましきもの」「くちをしきもの」の二つの段を読もうと思います。「あさまし」「くちをし」につきましても渡辺実「枕草子心状語要覧」(『岩波新日本古典文学大系 枕草子』)に解説がありますので、一部抜粋します。
「あさまし」については次のようにあります。
  思いもかけない事態に遭遇した時の、あ
っけにとられた気持を表わす。その事態
のもつ意味さえ十分にのみこめていない、
とっさの気持を表わし得るが、実際の用
法としては、その事態を、思いもかけな
い事態として受け取っている、という心
状を表わす場合が多い。
また「くちをし」については次のように記されています。
  他に対して期待する所、あるいはみずか
  らたのむ所、いずれにしてもそれが大き
  いのを第一の条件とし、にもかかわらず
  その期待や自負を満足させる方向に事態
  が展開しないことを第二の条件とする、
  不快感覚語。
これらの説明を頭に置いて、読んでまいりましょう。

あさましきもの。挿櫛(さしぐし)すりてみがくほどに、ものにつきさへて折りたる心地。車のうちかへりたる。さるおほのかなるものは、所せくやあらむと思ひしに、ただ夢の心地してあさましうあへなし。

【語釈】
挿櫛・・女性が正装するときに着けた装飾用の櫛。細工してあるために、こすったり磨いたりする必要があるのだろう。
ものにつきさへて・・何かに突き当てて。
折りたる心地・・大切な挿櫛を折ってしまったときの呆然とした気持ち。
車のうちかへりたる・・牛車がひっくり返っているのを見たときの気持ち。
おほのかなる・・大規模な。大げさな。
所せくやあらむ・・あたりが狭くなるほど大げさであることが「所せく」。とても倒れるとは思えないことをいう。
あへなし・・取り返しのつかないことに対して、もうどうしようもないと思う気持ち。

呆然とするもの。挿し櫛をこすって磨いているときに、何かに突き当てて折った時の気持ち。牛車がひっくりかえったの。牛車のような大きなものは、周りが窮屈なくらい大仰で、倒れるはずもないものだろうと思ったのに、ただもう夢のような気がして、あきれてどうにもならないと思う。

挿櫛は晴れの場に出る時に髪に挿すもので、『枕草子』「頃は」の段(第2段)にも出てきます。正月七日に白馬(あをうま)を見に行こうというので、車をきれいに仕立てて出かけ、待賢門の敷居を越える時に車がガクンと揺れると、挿櫛が落ちて、折れたので笑った、という話です。この話では挿櫛が折れることまで笑いの対象になっていますが、「あさましきもの」の段ではうっかり折ってしまってあんぐりと口を開いている様子がうかがえます。もうひとつ、牛車がひっくり返ったのを見たときも呆然とすると言っています。直接の関係はないかもしれませんが「頃は」の段もここも「挿櫛」と「揺れる(その結果転覆する)牛車」が出てきます。清少納言の頭の中でこの二つは何か結びつくものがあるのでしょうか。

人のために恥づかしうあしきことを、つつみもなくいひゐたる。かならず来(き)なむと思ふ人を、夜一夜起き明かし待ちて、暁がたに、いささかうち忘れて寝入りにけるに、烏(からす)のいと近く「かか」と鳴くに、うち見開(みあ)けたれば、昼になりにける、いみじうあさまし。

【語釈】
人のために・・その当人にとって。
いひゐたる・・「ゐたる」とあるので、じっと腰を据えて言っているというニュアンス。
暁がた・・一般的に男性は「宵」に女のところに行き、「暁」に帰る。「暁」は「あかとき」の転訛した言葉で、まだ暗い時間帯。
かか・・烏(からす)の鳴き声の擬音語。鷲(わし)の鳴き声にも用いられる。『万葉集』に「かか鳴く鷲」という表現がある。
見開け・・烏の鳴き声を聞いてはっと目を開けると。「見上げ」と読む説もあるが、その場合は「烏が鳴いていたので端近に出ていって空を見上げると」ということであろう。この二つの解釈では、烏の声を聴いてから「見あけ(げ)る」まで時間のずれがある。
昼になりにける・・こんな時間まで寝ていたのか、と自分のしていることにあきれ返っている様子。

その人にとっては恥ずかしく具合の悪いことを、遠慮なく言っているの。必ず来るだろう、と思っている男を、一晩中起き明かして待って、暁ごろについ忘れて寝入ってしまって、烏がすぐ近くで「か、か」と鳴いているので、ふと目を開けたら昼になってしまっていたなんて、まったくあきれることだ。

何か、本人にとっては言われたくないことがあるとして、それを無遠慮に言っている人を見ると、「けしからん」とか「ひどい人だ」と思う前に、まず「あさまし」とあきれてしまうのです。「何ということを言うの!」と感じた後で「ひどい人だな」という気持ちになるのでしょう。その「何ということを」の時点が「あさまし」なのです。男が来るはずだと思って寝ずに待っていたら、来なくて、ついに暁の頃にそんなことを忘れてしまって寝てしまい、昼間で目を覚まさないなんて、と、来なかった男への怒りや憎しみ以前に、自分の行動に呆れかえるのです。

見すまじき人に、外(ほか)へ持ていく文見せたる。むげにしらず見ぬことを、人のさしむかひて、あらがはすべくもあらずいひたる。物うちこぼしたる心地、いとあさまし。

【語釈】
見すまじき人・・その手紙を見せてはならない人
むげにしらず見ぬこと・・まったく身に覚えのないこと
あらがはすべくもあらずいひたる・・こちらが抗弁する余地も与えないほどに一方的にまくしたてる。

見せてはならない人に、よそに持って行く手紙を見せたの。まったく知らず、見たこともないことを、人が目の前で、いいわけもさせないように言っているの。何かをこぼしたときの気持ちはとてもあきれるようだ。

見せると具合の悪いものなのに、うっかり勘違いしてそれを人に見せた時にまず感じる、冷や汗が出るような気持ち。失敗だったとか、見せた自分が愚かだったとか、そういう理性的な判断をする前のことです。
何だかわけのわからないことを人が膝詰めで責め立ててきて、それは私ではありません、と言いたいのに、それも言わせないくらいの剣幕である場合。相手に対して不快感を覚える以前に呆然とするような気持ちになります。「ここにあったお菓子、あれ、お客さんに出すものなのに、なんで食べたの」とか何とか言われて、「食べてないよ」と言いたいのに決めつけられてひとしきりまくしたてられた感じでしょうか。よく見たらすぐ横で猫が「ああおいしかった」と笑っている(?)というような話です。
ものをこぼした時もあやまる以前にパニックになってしまいます。レストランで店員さんがうっかり水をこぼした時の感じでしょうか。

くちをしきもの。五節、御仏名(みぶつみやう)に雪ふらで、雨のかきくらしふりたる。節会などに、さるべき御物忌のあたりたる。いとなみ、いつしかと待つことの、さはりあり、にはかにとまりぬる。あそびをもし、見すべきことありて、よびにやりたる人の来ぬ、いとくちをし。

【語釈】
五節・・十一月の中の丑の日(二番目の丑の日)から始まる四日間にわたる五節舞姫の行事。帳台の試み、御前の試み、童女御覧、豊明の節会での五節の舞と続く。
御仏名・・十二月十九日からの三日間、諸仏の名号を唱えて罪障を懺悔する行事。仏名懺悔(ぶつみやうさんげ)とも。
かきくらし・・かき乱したようにあたり一面を暗くして。
節会・・五節句や白馬の節会、豊明の節会などの行事。
さるべき御物忌・・中止に匹敵するような内裏の物忌み。「御」があるので、家庭の物忌みではない。
いつしか・・「いつか」に強めの意味を持つ「し」を加えた語。「いつ・・か」「いつになったら・・か」「早く・・にならないものか」と待望する気持ちを込めて用いられる。

残念なもの。五節、御仏名のときに雪が降らないで雨が一面暗く降っているの。節会などに、節会が中止になるほどの内裏の物忌がぶつかったとき。準備をして、早くその日になってほしいと待っていることが、支障があって急に中止になってしまうこと。音楽もして見せたいものがあって呼びにやった人が来ないのはとても残念だ。

期待していたことが実現しない時の満たされない気持ちを表わすのが「くちをし」です。冬の行事である五節や御仏名のときは雪が似合うと清少納言は思っているのです。天女のような舞姫の姿にも似合い、罪障を浄める行事にもよく映るのが雪で、雨ではダメなのです。「春は曙」の段でも「雪の降りたるはいふべきにもあらず」と言っていましたし、「職の御曹司におはしますころ」の段では雪山を作ってそれがいつまで消えずに残っているかを予想して競い合ったこともありました。清少納言だけではないでしょうが、心を浄めるような雪はとても愛されたのです。一方、雨はあまり好まれません。「春は曙」の段には、夏の夜に関して「雨など降るもをかし」とありましたが、夏の夜は、月でも闇でもかまわないと言い、また雨が降るのもまたおもしろい、といっているのですから、雨を好んでいるというわけではないでしょう。節会という楽しみがあるときに、重大な内裏の物忌みがあった場合、中止になることがあります。それもまたがっかりです。また節会に限らず、待ち望んでいたことが急遽中止になったり、接待の準備を整えて待っていたのに招待するはずの人が来ない時なども実に残念なものです。「くちをし」は不満な気持ちではあるのですが、だからといってどうしようもなくてその不満を飲み込まざるを得ない時に用いられる言葉のようです。雪か雨かは天のみぞ知ることですし、物忌みも避けられないものです。待っていた人が来ないのは「にくし」のようでもありますが、これだけ準備しているのだからきっと来てくれるだろうと考えていたら来なかった、ということで、相手のせいではないのでしょう。「にくし」は明らかに相手に責任があるときに、その人(あるいはもの)にぶつける感情です。

男も女も、法師も、宮仕へ所などより、おなじやうなる人もろともに寺へまうで、ものへもいくに、このましうこぼれ出で、用意よく、いはばけしからず、あまり見苦しとも見つくべくぞあるに、さるべき人の、馬にても車にても、ゆきあひ見ずなりぬる、いとくちをし。わびては、すきずきしき下衆(げす)などの、人などに語りつべからむをがな、と思ふもいとけしからず。

【語釈】
法師も・・法師か華美にするというのは奇妙ではある。能因本はそのせいか、「法師も」がない。
おなじやうなる人・・宮仕えの同僚など。
ものへもいく・・寺社に限らず名所に出かけたりするのであろう。
このましうこぼれ出で・・出し衣をしゃれたように見せて。「出し衣」は車の簾の下から裳や袖をわずかに出して見せること。
いはばけしからず・・自分たちとしてはおしゃれのつもりだが、少し華美に過ぎるくらいなので、あえて言うなら常軌を逸しているほどだという。
さるべき人・・自分たちが精一杯見せている趣向を分かってくれるような人。風流な人。
ゆきあひ・・ばったり出会うこと。偶然出くわすこと。
わびては・・せっかくのおしゃれを見てもらえないことに対して落胆しては。
すきずきしき下衆・・しかるべき人がいないなら、せめて風流のわかる身分の低い者が「すばらしい車だった」と吹聴してくれないものかと思う。
いとけしからず・・下衆に期待している自分がまともではない、という。

男も女も、法師も、宮仕えする所などから、同じような人と一緒に寺に詣でたり、見物に行ったりするのに、しゃれたようすで出し衣をして、じゅうぶんに準備して、言ってみれば華美に過ぎて、あまりにも見苦しいとも見られてしまいそうなのに、わかってくれる人が、馬でも車でも途中で見かけずに終わってしまったのはとても残念だ。落胆して、風趣を介する下衆などで、人などに話してくれるものとでも出会いたい、と思うのもまったくどうかしている。

【語釈】にも書きましたが、「男も女も」はわかるのですが「法師も」というのはいささか異様です。あるいは、まったく風流に関係しないような法師であってすらこんなことがあったら残念だろう、とでも言いたいのでしょうか。当時の女性たちは、寺詣でや祭り見物などは大きな楽しみだったと思われます。なにしろあまり外出しないのですから、ハイキング気分もあったのではないでしょうか。『源氏物語』「葵」で家にばかりいるのが退屈だからというので女房たちが盛んに斎院の御禊の行列見物に出たいと言って葵の上を誘い出す場面があります。『枕草子』にも稲荷詣での記事もありますし、『かげろふ日記』『和泉式部日記』『更級日記』などにも石山寺や長谷寺などに参詣する様子が描かれています。
そんなときに、注目を浴びようとして出し衣を派手過ぎるくらいにして出かけるのですが、期待に反して誰も見てくれない、そんなときは誰のせいでもなく「くちをし」なのです。ただ、あまりに残念なので、高貴な人でなくてもいいから、風流のわかる身分の低い者にでも出会えば、あとで噂をしてくれるのではないかとまで期待してしまうのです。
おしゃれをして出かけたのに、パーティで「壁の花」になってしまうのは残念でしょうね。シンデレラのお姉さんたちも何も実りがありませんでした。
さて「ねたきもの」「かたはらいたきもの」「あさましきもの」「くちをしきもの」と続いてきたのですが、すべてなんらかの不満を抱かせるものでした。清少納言の批評精神がよく発揮されていると思います。私もかなり耳の痛いことがありました。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

明るい北朝鮮 

やたけたの熊さんに教わったのですが、あるジャーナリストの方が、「日本は今『明るい北朝鮮化』している」という意味のことをおっしゃったのだそうです。
「明るい」というよりは「浮かれた」と言い換えた方がいいのではないかと思うこともありますが、どちらにしても、勘違いも甚だしい政治家の横暴によって、この言葉がずしんと響いてくるように感じます。
世界の潮流を見ても、大声で怒鳴るようなひとりの、あるいはひと握り(ひとりの人間とその周辺にいるごくわずかの人たち)の人間の考えによって物事が

    奇妙な方向に

進んでいく傾向にあるような気がしています。
こういうことがおこなわれた結果、私もひどい目に遭ったことがありますので、身にしみてわかります。
決める時は一人、あるいは数人で決めればいいんだ、という理屈は分かります。しかし、それまでに反対意見をどれだけきちんと聞けるかが問題です。そこをないがしろにするから間違いが起こるのです。
現実に生きている人間のことを考えずに、組織を守るためには犠牲者が出るのは当たり前、という発想はいつの時代も庶民を苦しめてきました。戦争がまさにそれだと思います。性懲りもなく、それが正しいと信じて権力をふるう輩は今も変わらず存在します。
そして、そういう輩に対しては、不思議なことに、

    熱狂的な支持

をする人が一定数いるのです。某国(いくつもあります)しかり、関西の某府しかり。
冒頭に書いた「明るい北朝鮮」のことを若い人に話してみました。すると、(失礼ながら)およそ政治に関心を持っていそうにないと思っていた人たちが、「私もそう思います」「思い当たります」「まさに今の日本はそういう方向に進んでいるようで危険です」などと言ってきたのです。
こちらがたじろぐくらいはっきりとそういわれて、私は驚くと同時に心強くも感じました。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう

十三夜のムーンロード 

先月は中秋の名月と十三夜がありました。
しかし、どちらかというと、月内に十五夜が二度あることが話題になって、十三夜は影が薄いように感じました。1か月に2度満月があることをブルームーンともいうそうですね。青くなくてもいいのですね。
私は偏屈ですから、そのブルームーンとやらよりも十三夜の方を待ち焦がれていました。
十三夜といえば私がまず思い出すのは樋口一葉の小説です。

 例(いつも)は威勢よき黒ぬり車の、それ門(かど)に音が止まつた娘ではないかと両親(ふたおや)に出迎はれつる物を・・

と始まる『十三夜』は何度も読みました。内容はもちろんですが、文章が好きで、つい声に出してしまいます。
十三夜というのは、一説によると、平安時代の

    宇多法皇

が「今夜月無双」と言ったのを濫觴とすると伝わります。いずれにしても、日本独自の美意識です。
中秋の名月の日は、近所の月のきれいに見える場所はスマホカメラを構える人でいっぱいでしたが、この夜は、そんな酔狂な人間は私一人。
ただし、スマホカメラではきれいには撮れませんので、私は中秋の名月の時と同じように、川の水に映る

    ムーンロード

を撮ろうと思っていました。あいにく、この日は連日の晴天で水量がなく、月の光はきれいな道を作ってはくれなかったのですが、ぼんやりとそれらしいもの(笑)が撮れました。
十三夜は、私が書いた創作浄瑠璃のひとつである「異聞片葉葦」にも使いました。それだけに、満月に勝るとも劣らない愛着を感じます。
きれいな円形ではなく満ち足りてはいないのに、なぜか心惹かれる十三夜。
秋の終わり近くにふさわしいもののようにも感じます。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
KatayamaGoをフォローしましょう