さようなら2020年
世界中が混乱した一年が終わろうとしています。
去年の今頃はまさかこんなことになるとは思いも寄らなかったはずです。試みに、昨年の十二月のこのブログの記事を振り返ってみたのですが、まだ平穏な雰囲気が漂っていました。以前の新型インフルエンザパンデミックのときも恐怖感はありましたが、今年のパンデミックは比較にならないものだと感じます。そしてこれからの世の中は、こういうことがいくらでもありうるのだと思い知らされたようでした。
人間はあまりにも
傲慢に
なってしまいました。自分は何でもできる、自分のしていることは間違いではない、と愚かにも思い続けて、その結果がこういう事態に結び付いたのではないかとさえ思います。
経済のことはさっぱりわかりませんが、忘れてはならないものは、田を耕し、水を撒き、稲や野菜を育て、自然に感謝して生きてきた過去の日本人の姿かもしれません。私もえらそうなことは言えないのです。事実今もこうしてパソコンに向かってキーボードをたたいているのですから。
それでも人間は、グレタ・トゥンベリさんの言葉を借りると
「夢物語」
ばかりを考えているようです。
来年もまだこのウイルスは落ち着きそうにありません。その油断の最たるものがオリンピックではないかと思うのです。前の総理大臣は「人類がウイルスに勝った証として2020年にオリンピックを」と言ってあえなく失敗しました。今の総理大臣はとにかく新しさがないので同じ言葉を使って同じようにまた来年の実施を訴えているようです。
彼はおそらく祈るような気持ちなのでしょうが、祈っているだけでは平安時代の政治と変わりません。
携帯電話の料金を下げれば支持率が上がって、何をやってもうまく行くと思っているのかもしれませんし、実際、ある程度は「支持する」と言い出す人もいるでしょう。しかし、目先の政策だけをひとつ成し遂げたというのであれば、実につまらないことだと思います。
マスメディアも、政治家にケチな「いちゃもん」をつけるだけでなく、本当の意味で
権力の監視
をするように強い信念を持ってほしいものです。どうも最近、週刊誌化しているように思えてなりません。
他人のことばかりは言っていられません。自分自身はどうだったのか。体調不良と精神不良を口実に、あまりにも何も言わずに、さまざまなことから逃げてきたのではないか。そのことを強く反省せねばなりません。
そんな2020年が暮れていきます。
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- [2020/12/31 00:00]
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2020年 私の十大ニュース
今年を振り返ろうにも、何もできなかったという思いがしてなりません。収入がまた減って、もう節約することも限界に近づいています。あとは趣味のプランター栽培をやめるくらいかな(笑)。
今年の10大ニュースを振り返るとしてもほんとうにニュースと言えることがないのです。
でも、何とか絞り出してみます。
1. 野澤松也師匠作曲、演奏による
創作浄瑠璃「異聞片葉葦」初演
2. 野澤松也師匠作曲、演奏による
創作浄瑠璃「異聞置いてけ堀」初演
3.約10年ぶりに新幹線に乗る
4.本所七不思議の跡を訪ねる
5.美術館にほとんど行けず
上村松園とルネ・ラリックは眼福
6.鉄砲洲稲荷などの富士塚を訪ねる
7.竹本錣太夫さんのお祝いに行く
8.とても残念な人を見てしまう
9.短歌の会に入り、拙い歌を掲載していただく
10.『源氏物語』についてのエッセイを書き続ける
1と2はどちらが先でもかまわないのですが、比較的お客様に喜んでいただけたらしい「片葉葦」を第1位に挙げました。
3は2月に「異聞置いてけ堀」の初演をしていただきましたので東京に行ったときのことです。本当に久しぶりに新幹線なるものに乗りました。いつの間にこんなに早くなったのかと思うほどあっという間に着きました。この車中では、隣の席の女性が2月なのに突然
ノースリーブ姿
になって何だかスマホとにらめっこをしていたのに出くわしたのがおもしろいできごとでした。なぜわざわざ上着を脱いでその格好に?・・とおうかがいしたいくらいでした。
4もその2月のことなのですが、七不思議の跡をすべて踏破するということで歩き回りました。
5については、今年は本当に残念でした。京都市美術館や神戸市立博物館が改装されて新しい展示が行われるはずでしたが、中止になったものが多く、結局私は関西の美術館には一度も足を運びませんでした。特に残念だったのは神戸市立博物館で開催予定だった「コート―ルド美術館展」「ボストン美術館展」が中止になってしまったことでした。ボストンは
吉備大臣入唐絵巻
がひさしぶりに里帰りするはずだったのです。この絵巻物は講座で取り上げたこともあり、なかなか面白いものです。私は久しぶりに出会えると思っていましたので、まことに残念でした。それでも東京に行ったときに国立新美術館、東京都美術館、都立庭園美術館、山種美術館などに出かけて、庭園美術館でルネ・ラリック、山種では上村松園らの絵を堪能できました。
6も東京でのことです。これまでに目黒富士などの富士塚の跡地は行ったことがあるのですが、今残っている富士塚をいくつか訪ねたいと思っていたのです。それで今年は鉄砲洲稲荷、富岡八幡宮、小野照崎神社を巡ったのです。また機会があれば品川富士などにも行きたいと思っています。
ここまで、1の「片葉葦」を除くと2月の3日間できごとです。それほどそれ以後には何もなかったのです。
7は1月のことです。津駒太夫さんの錣太夫襲名をぜひお祝いしたくて、出かけました。あいにく楽屋にはいらっしゃらず、ロビーでずらっと並ぶお客さんにサインをなさっていました。相変わらず誠実な方です。私も並んでひとことお祝いを申しました(サインはもらっていません)。
8は何のことかわからないですよね。これ以上詳しくは書けないのですが、世の中にはこんな人もいるのか、と思うような人と出会う羽目になって、ずいぶん嫌な思いをしました。
9は、長年考えていたことを実現したものです。短歌は好きなのですが、詠むのは下手。しかしいつまでも下手だと言っていたのでは埒があくまいと、思い切って入れていただいたのです。
10は連載で、とうとう5年、20回になりました。
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- [2020/12/30 00:00]
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司書さん
図書館には司書さんがいます。私は文学部でしたので、司書や学芸員の資格は取れないわけではなかったのです。しかしそういう仕事に就くことはないだろうと思ってひとつとして単位は取りませんでした。
司書は大変な仕事です。何しろ、自分の関心のある書籍に詳しいだけではいけないのです。私も、さすがに図書館の文学関係の書籍についてはどこにあってどう調べればよくて、ということは分かっているつもりです。しかし、専門外になるとさっぱりです。
学生がよく言っていました。「司書さんはどうしてあんなにすぐに
適切な本
を紹介してくれるのですか」と。たしかに、あらゆる専門の学生に対応できる能力をお持ちで、誰もが感心していました。
そうかと思うと、中には「司書なんて誰でもできる。だってバーコードをピッとやって『2週間以内に返却してください』というだけの仕事だし」と罰当たりなことを言う学生もいましたが。
かつて、国文科の教員であったころ、司書の資格を取る学生もいて、これがかなり大変だったみたいです。かりに単位が取れても成績は「可」が並んでいる、ということもあったように思います。
いつぞや、地元の図書館で本を探していたら、司書さんが飛んできて、声をかけてくれたことがあります。何だろうと思ったら、「私、先生の教え子です」とのことでした。よくよく顔を見たら「あれ、○○さん?」ということになって、その後彼女がそこで働いているときはよく話すようになりました。彼女は優秀でしたので、「可」ばかりではなかったはずですが。ほかにもかつての教え子で、図書館で働いている人はいます。ただ、
非正規職員
の場合が多いようで、気の毒な気もします。図書館は利益の上がるところではありません。それどころか、自治体が予算を削る場合、そのターゲットにされることも多いようです。最近は図書館のネーミングライツを売るところもあるようで、世の中の移ろいを感じます。
地元の図書館のバイトの募集が時々出ています。あれは特に資格がなくてもできるのだそうで、私は、カウンターはダメですが、本の整理などの仕事ならできるかもしれない、と思うことがあります。一度聞いてみようかな・・。
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- [2020/12/29 00:00]
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沖縄の人たち
私の中学校は、沖縄県人の人たちがまとまって住んでいる地域が校区になっていましたので、あの地域独特の姓の人たちがクラスに5人はいたように思います。金城さん、大城さん、仲宗根さん、仲間さん、喜屋武さんなどほんとうにいろいろありました。「まえだ」という姓は「前田」なら沖縄に限らずどこにでもある、あたりまえだ、というお名前ですが、これも「真栄田」と三字書きする人がありました。彼らは顔立ちもどこか違っていて、浅黒い人が多く、トロピカルな雰囲気もありました。
金城さんという姓は「かねしろ」「きんじょう」の両方がありました。「城」はあちらでは
「グスク」
ですから「大城」という姓は「おおぐすく」と読む人もあるようですが、そういう人には出会いませんでした。
沖縄の人たちはからだの頑丈な人が多く、同級生のK君という人は中学校時代にすでに180㎝ほどあって、体重は聞いたことがありませんが、おそらく80㎏を超えていたと思われる迫力がありました。筋力もけた違いに強く、腕相撲などをすると無敵、おまけに野球部のエースでした。顔立ちがやさしく、ニキビ面でしたが、女の子にはやはり人気があったように思います。高校もいわゆる「強豪校」に進んで、そこでもエースになって甲子園に行きました。きっとプロに進むのだろうと思っていたのですが、それは果たせなかったようです。
その一方、やんちゃな同級生もたくさんいて、卒業式の後は、先生たちが「お礼参り」に遭わないように逃げていたという噂も聞きました。また、高校時代に、どこかの高校に一緒に進学したのでしょうが、彼らが集団で何も入っていない(笑)のではないかというかばんを持ってたむろしているのを見かけたこともありました。卒業して一年目の同窓会では
タバコ
をふかしていたような気もします(笑)。
沖縄北部の今帰仁村(なきじんそん)は「美人の村」と言われるそうですが、今帰仁村に限らず、沖縄の人はエキゾチックな雰囲気があって、目が大きく、はっとするような顔立ちの方が多いように思います。
かつてそういう人たちが集まって住んでいた地域は、とても質素な住居ばかりだったのですが、今ではすっかり変わってしまって、ちょっとした住宅街になっています。
あの人たちはどこに行ってしまったのだろう、と思い出しています。
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- [2020/12/28 00:00]
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在日コリアン
在日コリアンだった後輩が亡くなったということを書きましたが、私は土地柄もあって、小学校のころから在日コリアンの同級生はかなりいたのです。今はもうなくなっているようなのですが、以前は彼らが集団で暮らす地域があって、その地域の校区が私の小中学校に入っていたのです。
クラスには必ず一人か二人、明らかにあちらの人と分かる姓の人がいました。金さん、姜さん、申さんなどなど。
在日コリアンの人はやはり生活の苦しい人が多く、小学校の同級生は、あたりまえのように
新聞配達
をしていました。自分の給食費は自分で稼いでいたようで、親がかりだった私などは甘えた暮らしをしていたのだな、と思います。
性格のいい人もいましたが、中にはその貧しさに耐えきれず、荒っぽいことをする人もいました。それがまた「在日コリアンだから」という陰口を産み、また悪さが増すという悪循環もありました。自分たちはどう頑張ってもまっとうには生きていけないのだ、という、悟ったような雰囲気を持っている人もいました。
そんな「ワル」ではなかったのですが、同級生の一人に、ちょっとやんちゃな在日コリアンがいました。やはり貧しかったらしく、中学を卒業したらすぐに働いたようです。あるとき、電気屋さんの店内で、店長らしき人にお小言を言われているのを偶然見てしまったことがあります。見習いのようなことをしていたのでしょう。
ここで働いているのか、と知ったと同時に、高校生だった私に比べ、彼はもう
社会人
になっているのだ、と複雑な気持ちになったことを思い出します。
また別の機会に、私が高校に行こうとして制服を着て歩いていたらばったりその同級生と出会ったことがあります。彼は当然私服で、仕事に行くところだったようです。そして私の制服姿を見ると「どこの高校、行ってんねん」と聞いてきました。「○○高校」と答えたら、彼はもう一度私の制服を見て「ふーん、ええなぁ」と言って軽く笑って去っていきました。
家庭が貧しく、高校には行けず、中学を出たらすぐに働かねばならず、しかもいい就職先などなかなかなかったのだろうと思います。あの電気屋さんにはいつまでいたのだろうか、何か技術を身につけて、それを生かした仕事に就いただろうか、結婚はしただろうか、子どもはいるだろうか、そして、今、元気に暮らしているのだろうか、と思うことがあります。
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- [2020/12/27 00:00]
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後輩の訃報
年末になると、いわゆる「喪中はがき」が届きます。今は年賀状を出すことが減りましたから、いきおい喪中はがきも減っていると思います。それでもぽつりぽつりと毎年届きます。今年は文楽の五十代のある技芸員さんが、お母様が亡くなったそうでそのご挨拶状をいただきました。それだけかな、と思っていたら、高校時代の後輩同士で結婚した、その奥様のほうからおはがきが届いたのです。なんと、「夫が亡くなりました」とのことでした。私より二年下の人だったので、さすがにショックでした。そういえば、何年も人工透析をしているといううわさは聞いていましたので、弱っていたのかな、と思います。
この後輩は、実は
在日コリアン
だったのですが、私は高校時代はまったく知らず、名前も日本名しか聞いていなかったのです。それだけに、彼らの結婚式に呼ばれたとき、本国のお名前で招待状が届いたのでびっくりしました。さらに、披露宴会場に行ってみると、挨拶をされる方がまったく意味の分からないあちらの言葉でしゃべられたり、あちらの歌を歌われたり、またお色直しでお嫁さんがチマチョゴリを着てこられたりで、なかなかの異国情緒でした。ただし、後輩はあちらの言葉はまったくわからないと言っていましたので、挨拶も歌も、私と同じように首をかしげていたのだろうと思います。披露宴はとても楽しく、在日コリアンのネットワークを生かした特色あるものでよかったと思います。
今でもそうかもしれませんが、あの当時、彼はそういう出自で苦労があったかもしれません。気のいい男の子、という印象があるのですが、その陰で
血筋ゆえの悩み
もあったのかな、と思います。そういう悩みや苦しみが、重い病気の引き金になったということはないのだろうか、とどうしてもそのことが気になります。最後は苦しかったのかな、などと思うと、さすがにしんみりしてしまうのです。
息子さんが二人いらっしゃるそうで、残された奥さんは息子さんと一緒に暮らしていらっしゃるとか。どうかご亭主の分まで長生きしてほしいと願わずにはいられません。
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- [2020/12/26 00:00]
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マリア観音
観音(観世音)というのは「(世の)音を観ずる」菩薩ということでしょう。言い換えると、「観音」とは我々が苦しみからの救済を求めて観音の名を唱えたときに、その声(音)を観じて救ってくれるもの、という解釈が成り立つかもしれません。
観音菩薩はそのイメージとしては男性とも女性とも感じ取れます。もともとは男性的なものだったのかもしれませんが、慈愛を以て救いの手を差し伸べてくれる姿は女性的な印象も強いものです。法華寺の十一面観音は、言い伝えではありますが、
光明皇后
の姿を写したものとも言われます。それが事実かどうかは別にしても、この観音像は実に優美で、私の頼りにならない眼力を持ってすると女性を感じる風姿に見えるのです。
仏教を守護する女神に「訶梨帝母(かりていも)」がいます。日本ではむしろ「鬼子母神(きしもじん」」として知られます。500人の子を持っていた訶梨帝母は、その子たちを育てるために、人間の子を食べて体力を維持していました。それを見た釈迦が、訶梨帝母の最愛の子であったピンガラを隠しました。訶梨帝母は我を忘れて探し求めましたが見当たりません。そして釈迦に相談に行くと、釈迦は「お前は500人もの子を持っているが、そのうちのたった1人の子を失っただけでそんなに悲しんでいるではないか。お前がこれまでにどれほど多くの母親を苦しめたかわからないのか」と諭しました。訶梨帝母は改心して戒を受け、ピンガラを返してもらったのです。訶梨帝母はこうして安産と子の守り神になりました。
この訶梨帝母の像が滋賀県の
三井寺(園城寺)
にあります。左手で子を抱き、右手には吉祥果を持っています。中国や日本ではざくろを持たせることが多いようです。訶梨帝母の像は京都の醍醐寺の画像(国宝。絹本著色)もあります。
三井寺の訶梨帝母像を見ると、人間の子を食い荒らしたという恐ろしい女神ではなく、ラファエッロの聖母子を思い出すくらい清らかな印象を受けます。
聖母マリアといえばキリスト教の禁教時代に密かに信仰されたという、
マリア観音
が目に浮かびます。
聖母マリアを観音に見立てて崇拝するのは、観音の女性的な慈愛のイメージがあるからでしょう。マリア観音像は各地に散在するようで、関西にも大阪府河内長野市や兵庫県篠山市にあるそうです。あいにく私は見たことがないのですが。
それら各地のものも大切なものではありますが、あの島原の乱以降の隠れキリシタンの歴史を持っている九州島原のマリア観音は特に印象深いものがあります。先日、何気なく西海道の関連の本を眺めていたら、その島原の項目のところに島原市蔵のマリア観音像の写真がありました。白磁の慈母観音の姿で、無垢な顔つきの像でした。
観音、訶梨帝母、聖母マリアとつい連想が働いてしまいました。
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- [2020/12/25 00:00]
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千手観音
観音はいろいろな姿をしています。本来の姿は「聖観音」といわれますが、それ以外に「変化(へんげ)観音」といわれるものがあります。
その中でもっとも派手(笑)なのはやはり千手観音ではないでしょうか。各地にこの観音の像がありますが、京都の清水寺の本尊は、
十一面千手観音菩薩
です。「千手」といっても、実際は41~42臂(本)であることが多く、清水寺も同様です。仏像に興味のない人に千手観音像の写真などを見せますと、「あんなに手があったらどの手で何をするかわからないんじゃないですか」「私、二本でいいです」などと言われます。気持ちはわかりますが、四十二本の手でごはんとお菓子を食べ分けるとか、そういう意味ではありませんので、心配してもらわなくてもかまわないのです。観音は人々を救済します。そのために無数の手を差し伸べている、それが千手であらわされるのでしょう。
清水寺の千手観音は正面で合掌して、頂上化仏を両手で掲げる形の「清水型」といわれるものです。ご開帳は33年に一度で、次は2033年ですので、残念ながら私はもう拝めないでしょう。もっとも、本尊の代わりに「御正体」と呼ばれる懸仏(銅板にレリーフであらわされた本尊)がありますので、そちらを拝めばいいのですが。
それにしても、四十二臂でもずいぶん数多く、数えているうちに(数えなくてもいいのですが)混乱しそうになりそうです。四十の手はそれぞれ印を結んだり、もの(持物)を持ったりしています。『千手経』にその詳細が記されているのですが、その中から持物をいくつか挙げてみますと、「如意珠」「羂索」「宝剣」「金剛杵」「宝弓」「数珠」「宝鏡」「錫杖」などがあります。ほかに施無畏印を示す手もあり、合掌する手もあります。また、手には眼も描かれており、そのために「千手観音」は「千手千眼観音」とも言われます。
前述のとおり、多くは四十臂程度なのですが、千手観音の名のとおり、千臂の手を実際に表現したものがあります。
たとえば
唐招提寺
金堂の本尊盧舎那仏の右脇(向かって左)に置かれる木心乾漆像がそれです。定印を結んだ手の上に宝珠を乗せて、そのうえで合掌しています。それらを含めて四十二の大手があり、それぞれに『千手経』に記された持物や印相があります。そして、それ以外に911本の小手があり、合計953本あるそうです(数えた方、ご苦労様でした)。おそらく本来は千本だったのでしょう。金箔が施されたものだけに、その金色が鮮やかだったころは、観音の身体から無数の光が発せられているように見えたことでしょう。
それにしても実際に約千本もの手を見ると圧倒されてめまいがしそうになってしまいます。
なお、大阪府藤井寺市の葛井寺(ふじいでら)にもやはり千臂を持つ「千手観音」(脱活乾漆像。八世紀)があります。
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- [2020/12/24 00:00]
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横山ホットブラザーズ(2)
横山ホットブラザーズの生みの親はアキラさんの父君でもある横山東六(本名登二)さん。昭和50年に引退された方ですから、私はこの方の現役時代もよく覚えています。
Wikipediaによると、昭和11年、東六さんは「横山トーロクショウ」や「横山トニー一党」と名乗るグループを立ち上げ、戦後に「横山ファミリーショウ」から「横山ホットブラザーズ」になったのだそうです。「トニー」というのはあるいは東六さんのご本名の「登二」をもじったものでしょうか。その後洋二さんというお弟子さんが加わったそうで、ひょっとすると私が子どものころに見たのはこの方が出ていらっしゃったときかもしれません。
とにかく、みなさん元気溌剌で、それほどおもしろいことをおっしゃるのではなくても、楽器を奏でながら、楽しい空気を醸し出されていました。まさに
リズムショー
でした。今どきは笑いが多い(笑いっぱなし)のが評価の対象になっているかもしれませんが、おもしろければ何をしても、何を言ってもいい、というのは、私はあまり好きではないのです。全然違うかもしれませんが、法に触れていなければ何をしてもいいというのと一脈通ずるような気がしてしまうのです。
ノコギリの芸があまりにも有名になってしまいましたが、あれはホットブラザーズの芸のひとつであって、ほかにも多彩な「楽器芸」を楽しませてくださいました。東六師匠がほうき(バイオリンのかわり)とハタキ(弓のかわり)を持ってこられて、バイオリンの音色を出されると、そのほうきの先の穴が開いているところをマコトさんが吹き始める。アキラさんがクラリネットを吹く頭の上と脇に木琴やチリトリ、フライパン、ホーンなどを置いてマコトさんが演奏する・・そんな形で思いがけないことを超絶技巧的に演奏されるのがお得意でした。そしてその演奏が、きちんとした形になっているからすばらしいのです。ほかにも、あほだら経というのもありました。
ただ、このようにすばらしい
芸の力
をお持ちなのに、思いのほか評価されていなかったのではないかと思えてなりません。伝統的な芸能でないという面もあるのでしょうが、ホットさんが人間国宝になるとか、文化功労者になるとか、そういう話は聞いたことがありませんでした。しかし、お役所から認められなくても、私にとっては、漫才のいとし・こいし(漫画トリオは解散しちゃいましたから省きます)と横山ホットブラザーズは芸人さんとして最高峰でいらっしゃいました。そして、究極の笑いとはけっして爆笑なのではなく、聴く人の心を豊かにするような楽しさを伴わなければならないこと、品を失ってはならないことなどを教わったような気がするのです。
私は、しろうとの手すさびに過ぎませんが、喜劇的なものを書くのが好きです。その源泉はいとし・こいし師匠とともに、子どものころにワクワクさせてくれた横山ホットブラザーズさんのおかげではないかと思えてなりません。
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- [2020/12/23 00:00]
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横山ホットブラザーズ(1)
今月9日、横山ホットブラザーズの横山アキラ(本名彰)さんが亡くなりました。88歳でいらっしゃったというのがどうにも信じられません。4年前まで舞台に立たれたそうですから、80歳を過ぎても楽しく若々しく活躍なさっていたことになり、驚愕に値する、いやそれどころか奇跡的にすら思えます。アキラさんの訃報がらみで知ったことですが、三男のセツオ(本名節雄)さんももう70歳を過ぎていらっしゃるのにもまたまたびっくりでした。次男のマコト(本名誠)さんはアコーディオンを実に鮮やかに奏でられましたが、あれはかなり重そうで大変だっただろうとお察しします。
あまり詳しいことは覚えていないのですが、子どものころ、クリスマスだったのかもしれませんが、子どものための催しがあって、それに参加させてもらったことがあり、そこで
びっくりするような芸
に出会ったのです。小学生ですから、難しいことはわかりませんが、呆然としてしまうほど、とてつもなくすごい芸だと思ったのです。それは横山ノック、フック、パンチの「漫画トリオ」と横山東六、アキラ、マコト、もうひとりお弟子さんで結成されていた横山ホットブラザーズだったのです。どちらも横山姓ですが、ホットブラザーズはご本名で、屋号ではありませんので、ノックさんたちとは芸脈の関係はありません。
横道にそれますが、子どものころ、もう一組、強い衝撃を受けたのは夢路いとし・喜味こいしのご両人でした。こちらは、芸風から言うと子ども向けの催しではなかったかもしれませんが、どこかで聴いているのです。普通のおじさんが普通にしゃべっているだけに見えるのですが、周りの人たちは爆笑するわけではないのに、
幸せそうに
話を聴いていてクスクス笑っている。私も同じような気持ちになりました。
漫画トリオや横山ホットブラザーズのほかに、はっきり子ども向けの催しで拝見したことを記憶(といってもかすかな記憶です)しているものでは、ゼンジ―北京さんを拝見したような気もしますし、松旭斎晃洋さんがダンディな奇術をなさっていたのを目の当たりにしたようにも思います。奇術は大人から子どもまで楽しめますからね。
漫画トリオは人気がありましたし、わかりやすく、けっして下品に流れることはありませんでしたのでおもしろかったです。そう、そうなのです、みなさん品位を保った芸だったのです。
その中で、子ども心に「おもしろい」というよりは「たのしい」という感覚を味わわせてくださったのは横山ホットブラザーズが一番だったかもしれません。
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- [2020/12/22 00:00]
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Eテレ?
テレビというものにほとんど縁がなくなってしまったのでタレントさんの名前は知らないし、トレンドのドラマも知らないし、テレビについてはあらゆることがわからなくなってきました。そして、時代遅れも甚だしいのですが、最近知ったのは、NHK教育テレビを今はEテレということ。昔、東京のJRで「国電(近郊電車)」を「E電」と呼ぼうという話がありましたが、ふとそれを思い出してしまいました。しかしEテレというのはかなり一般的になっているようで、「NHK教育」なんてもう化石みたいな名前なのですね。最近、人前で言ったことがないのが救いです。
最近、その「Eテレ」とやらの無用論があるらしくてびっくりしました。
どうやら、「Eテレ」がNHKの経営を圧迫しているというようなことがいわれているのだそうで、
数字
しか考えない人にとってはたしかにそうだろうなぁ、と想像がつきます。
これは私だけの問題なので一般化するつもりはさらさらありませんが、私と「Eテレ」の付き合いはかなり長いものです。高校生当たりのころ、文楽とかいう「難しそうな芸能」を初めて見たのは生の舞台ではなくテレビでした。当時はまだNHK総合(今はそうは言わないのかな)でも放映していましたが、多くは「教育テレビ」だったと思います。大学生になると本当にお世話になりました。英語会話、ドイツ語会話、韓国語会話などの語学番組をよく見ていました。英語と韓国語はラジオもよく聴いていたのですが結局どれ一つとしてモノになりませんでした(笑)。
そして当時は数か月に一度は文楽の放送がありましたから、よく観ていました。歌舞伎とか能とかそういうものに触れたのも、舞台よりはテレビのほうがはるかに数多いものでした。いつしか文楽の放送はほぼなくなりましたが、今度は子ども番組でお世話になりました。多くの人が体験するのが
おかあさんといっしょ
でしょう。これさえつけておけば、子どもはご機嫌、という番組です。花形は「うたのおねえさん」で、私が知っているのは「あゆみおねえさん」(茂森あゆみさん)でした。
その後はテレビそのものと疎遠になりましたので、「Eテレ」とも縁がなくなりました。それにしても、経営を圧迫しているのは「Eテレ」だから廃止すればいいというのはあまりにも暴論だと思います。なんのための公共放送なのか、情けない思いがします。ずいぶん前に私が出してもらった番組も「Eテレ」でしたが、あの番組の視聴率は0.3%くらいだったそうです(だいたいいつもそれくらいなのだとか)。そういう番組でも、作ること、放送することに意味があるのだと思います。私は、弱者は切り捨てよ、という昨今横行している暴論には与することはありません。
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- [2020/12/21 00:00]
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学問の街
商売の街と言われる大阪です。それは間違いないと思うのです。ただ、大坂商人たちはあくなき探求心を持つ人たちです。また、社会奉仕にも熱心だったと思います。
お金を儲けて贅沢な暮らしをすることだけが目的ではなく、商売をしながら自分のやりたいことに熱中する、というタイプの人も多かったように思います。
町人学者という人も随分いたようです。
大阪生まれの著名人など、それこそ掃いて捨てるほどいます(捨ててはいけませんが)。都賀庭鐘、上田秋成(曽根崎新地)、与謝蕪村(毛馬)、福沢諭吉(福島の中津藩蔵屋敷)、松瀬青々(北浜)、佐伯祐三(中津)、折口信夫(敷津)などの文化芸術教育などに携わった人たちも大阪生まれです。
江戸時代の学問に限定してみても、大坂ゆかりの人は本当にたくさんいます。
国学者で、大著『万葉代匠記』で知られる
契沖(1640~1701)
は、生まれは尼崎でした。しかし大今里の妙法寺において十一歳で出家して、高野山で修行し、各地を放浪したあとまた妙法寺に戻って『万葉代匠記』を完成しました。この書物は下河辺長流があの水戸黄門こと徳川光圀から依頼されて作るはずだったものを長流が病気のために、契沖が代わって書きました。『代匠記』というのは長流に代わって書いたものという意味があります。契沖は、晩年には空清町の円珠庵(墓もある)に隠棲しました。契沖に私淑した国学者には入江昌喜(1722~1800)がいます。
享保九年(1724)に、中井甃庵(なかい しゅうあん)らによって開かれた学問所が
懐徳堂
です。ここでは武士から庶民まで自由に教えたらしく、指導者には中井竹山、その弟の中井履軒、五井蘭洲らがいました。富永仲基、山片蟠桃らが門下生にいます。その山片蟠桃の師には麻田剛立(1733~1799)がいます。この人は大坂出身ではなく、豊後杵築藩の藩医だったそうですが、明和八年(1771)大坂に来て医者として働きつつ天文観測に励んだのだそうです。天文学の塾「先事館」を開いて、門下には蟠桃のほか、間長涯、高橋至時らがいます。
間長涯(はざま ちょうがい。1756~1816)は、長堀の質屋の息子で本名は重富といいました。家業を継ぎながら、天文学を志して麻田剛立の門下となろ、寛政七年に高橋至時とともに幕府から改暦の命を受け、二年後に寛政十年戊午乃新暦』を完成しました。
片山北海(1723~90)は越後生まれの儒学者です。大坂立売堀で孤雲館という塾を開き、明和二年(1765)に結成した混沌詩社には木村兼葭堂、中井竹山、篠崎三島、頼春水らが集まりました。北海の墓は前述の入江昌喜とともに天王寺区の梅松院にあります。
木村兼葭堂。1730~1802)
は酒造家の息子で、文学は片山北海、絵は池大雅、大岡春卜、本草学は津島桂庵らに学びました。書籍ばかりか、地図、標本、器物など、博物学者の名に恥じないとんでもないコレクターとして知られ、『日本山海名産図絵』などの著作があります。その邸宅跡は北堀江の大阪市立図書館のあたりで、今も図書館脇に石碑が建てられています。
橋本宗吉(1763~1836)はその北堀江の生まれです。貧しい生活をしていましたが、間長涯らの援助を受けて、江戸で学問をして大槻玄沢に蘭学を学びました。その際、数か月でオランダ語を数万語覚えたと言われ、やがて大坂に戻ります。蘭学塾「絲漢堂」を開き、門下生に中天游がいます。
中天游(なか てんゆう。1783~1835)は橋本宗吉の絲漢堂で蘭学を学び、みずからも文化十四年(1817)思々斎塾を開き、ここでは緒方洪庵らが学びました。
京町堀の醤油醸造業和泉屋の子の暁鐘成(1793~1860)は『摂津名所図会大成』で知られます。
広瀬旭荘(1807~)は豊後日田の生まれで、広瀬淡窓の弟。儒学者で詩文に優れ、天保七年(1836)大坂に出ました。
夭折した天才にこんな人もいます。儒医田中華城の子の田中金峰(たなか きんぽう1844~62)。病弱でしたが、十代半ばにして医学、儒学を教え、詩文にもすぐれていたそうです。しかしわずか十八年の生涯でした。
まだまだ書き落としている人はいます。しかし、このように、大坂には
学問を好む気風
があったのです。けっしてお金もうけを美徳とするだけではなかったのです。儲けたお金の使い道がとても生き生きとしていて、だからこそ文化が花開き、芝居街も栄え、街に活気があったのだと思います。
そんな大阪なのに、なぜ文化も経済も地盤沈下してしまったのでしょうか。
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- [2020/12/20 00:00]
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与力町、同心
「かしく」の墓の話から圓頓寺、太融寺にも触れました。せっかくなので、太融寺からさらに北ないしは東の方の旧跡などをご紹介しておきます。というより、また私自身がこのあたりを歩く時のための覚書なのですが。
太融寺の北にあるのが
綱敷天神社(北区神山町)
です。もともとは源融が父の嵯峨天皇を忍んで創建した神社だと言われます。北野天神とも言われます。周囲はごちゃごちゃしたところではありますが、なかなか立派な神社です。綱敷天神の名称のいわれは言うまでもないことです。例によって、というか、菅原道真が大宰府に流される途中でこの神社に来て梅を眺めるのに舟の綱を輪にして円座として用いたことによるのだそうです。
綱敷天満宮、綱敷天満神社などは神戸市東灘区、神戸市須磨区、愛媛県今治市にもあります。
堀川戎神社(北区西天満)
は社伝では6世紀半ばの創建だそうで、14世紀の半ばに現在地に定まったのだそうです。大阪の「えべっさん」というと南の今宮戎が有名ですが、北ではこの堀川戎でしょう。私はかつて初代豊竹呂太夫のことを調べるのにこのあたりをうろついたことがある(成果はありませんでした)のですが、そのときに行ったのが最後ですから、もう4,5年は訪れていないと思います。すぐ東側に今は阪神高速12号守口線がありますがその東側にある有名人の墓があります。
陽明学者で、大坂町奉行東組与力でもあった人物がその人です。この人は、三十代にして息子に仕事を譲ったあとは私塾の「洗心洞」で教育に専念していました。そのころ、凶作が続いて、米不足になっていました。貧民を救いたい、という気持ちと、無策の幕府に怒りを覚えたこの人物は、天保八年(1837)二月十九日に挙兵するに至ります。この反乱はすぐに鎮圧され、この人物と息子はしばらく逃亡しましたが、自ら命を絶つことになります。これすなわち大塩平八郎の乱で、首謀者は大塩中斎こと平八郎その人なのです。この平八郎父子の墓が堀川戎の近くの
成正寺(北区末広町)
にあるのです。
このあたりは東西に寺が多く、天神橋筋商店街をさらに東に行って与力町に入ると善導寺、天徳寺、栗東寺、宝珠院、九品寺、瑞光禅寺、龍海寺などが続いています。善導寺(帰宅与力町)には町人学者の山片蟠桃(やまがたばんとう)の墓があります。もともと両替商の番頭だったので「蟠桃」と名乗ったそうです。博学の人で天文、地理、制度、歴史などに亙る『夢ノ代』12巻があります。
隣接する天徳寺(北区与力町)には篠崎小竹(しのざきしょうちく)の墓があります。篠崎三島(しのざきさんとう)の塾で学んでいた加藤金吾という人物は優れた人で、三島は彼を養子にします。これが小竹です。小竹は江戸でも学び、大坂に戻ってからは梅花社(三島の開いた塾と同じ名)を今橋に開いて数多くの熟成を教えました。天徳寺には小竹のみならず、三島やその一族の墓があります。
さらに北に行って龍海寺(北区同心)には
緒方洪庵
とその一族の墓があります。岡山からやってきて中天游(なか てんゆう。邸宅は西区京町堀にあった)に思々塾で蘭学を学びました。さらに長崎で学んだあと天保九年(1838)に大坂で開いた塾が「適塾(適々斎塾)」です。適塾は、福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内など優れた人材を輩出しました
なお、中天游の墓も同じ龍海寺にあります。
大坂は商売の街と言われます。しかし、文学、歴史学、儒学、天文学、医学、経済学、その他あらゆる学問の栄えた学問の街でもあります。今はどうも商売にばかり熱心で、学問や文化の精神が失われつつあるように思えてなりません。
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かしく(6)
遊女「かしく」の話は、一部の好事家を除いては、今ではもうあまり有名とは言えないと思います。しかし、事件のあったころから大評判になって歌舞伎や浄瑠璃に仕立てられ、さらに尾ひれもついてさまざまな伝承もできたようです。すでに述べましたように「かしく」の墓は労咳や悪酒から救ってくれるという信仰めいたものまでが流布したほどでした。
改めて「かしく」の墓のあるお寺のことを書いておきます。大阪市北区曽根崎1丁目、梅田新道の北側にある
法清寺(ほうせいじ)
という日蓮宗のお寺がそれです。いつ創建されたかははっきりわからないようですが、明治の末年に再建された伽藍が、大阪空襲での戦災を免れて今に残っています。境内には「かしく」の墓のほか、以前書きました長谷川幸延の「酒の咎引き受け申しそろかしく」の句碑もあります。なお、参詣するのはけっこうなのですが、墓は以前のように削り取って持ち帰ることはできませんので、酒癖の悪い方もどうか妙なまねはなさいませんように(笑)。
『摂陽奇観』巻二十九にはこの墓について
一 三月十八日新屋敷油屋かし
く死罪 本名八重
北埜法清寺ニ石碑あり故ニ世俗
此寺をかしく寺と呼ぶ
本具妙暁信女 墓石の正面ニか
しく墓とあり
人ことに恋しく思ふ八重さくら
散てはかなき名は残りけり
施主万屋とめ油屋喜兵衞
と記されています。
ついでですから近辺の観光案内を(笑)。
法清寺から言うと新御堂筋を超えて西北西にお初天神として知られる
露天神社(曽根崎2丁目)
があります。もちろん『曽根崎心中』ゆかりの神社です。学問の神様ではありますが、「恋の手本」のお初、徳兵衛にあやかって今や恋愛の神様の雰囲気も濃く感じられます。
法清寺から5分ほど北北東に行くと、太融寺(たいゆうじ。真言宗。本尊は千手観音。太融寺町)があります。嵯峨天皇皇子の源融(みなもとのとおる)の名が寺号の由来だとも言われ、淀殿の墓というものがあります。
太融寺の西側には落語
「鷺とり」
の舞台となる円頓寺(えんとんじ。日蓮宗。太融寺町)もあります。このあたりは風景のよいところだったそうで、『摂津名所図会』には「いにしへ稲荷祠ありて風景の勝地なりしを後世圓頓寺といふ日蓮宗の寺院をうつして稲荷を以て鎮守となす境内に萩多く池には杜若ありて春秋ともに花の盛りには雅俗うち群れて美景を賞す」とあります。
ウイルス騒ぎで出不精になり、このところすっかり大阪の街にはご無沙汰しています。このあたりは梅田駅から歩ける範囲ですから、また世の中が落ち着いたら訪ねてみたいと思っています。
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かしく(5)
さて、豊(並木)丈助、安田蛙桂、豊正助、浅田一鳥作『八重霞浪花浜荻』(やへがすみなにはのはまをぎ)の内容ですが、およそ次のようなものです。
遊女の「かしく」は侍に身請けされていました。彼女の兄は七郎助という男に借金をしていました。好色な七郎助は、その借金の代わりに美貌の「かしく」に激しく迫ります。「かしく」はその要求に耐えかねて、七郎助を殺害しようと考え、酒を飲んで気を落ち着けて実行に移したのですが、誤って兄をあやめてしまいました。
お園と六三郎という恋仲の二人の話に変ります。肝煎りの梶の長兵衛はお園を七郎助に売ろうとしましたが、お園の婚約者であって舟越重右衛門という男伊達のはたらきで七郎助が盗賊であることがわかり、お園は救われます。
かしくと七郎助はどういう因縁なのか、共に死罪になり、刑場に連れて行かれ、長兵衛は所払いになります。
このあとが、豊竹島太夫が語って好評だったという
「新屋敷の段」
です。この段は以前内山美樹子先生の肝煎りで、早稲田大学のCOE公開講座で豊竹呂勢太夫、鶴澤清介の両師によって上演されたこともあります。
お園は病気で臥しています。彼女を引き取った色茶屋福島屋の清兵衛とお梶の夫婦は手厚く看護してやります。ある日、「かしく」の母がお園を訪ねてきます。母はお園に「かしく」が最後までお園と六三郎のことを案じていたことを語ります。母が帰ったあと、入れ違いに堺屋の丁稚がお園を「もらい」にきました。清兵衛は渋りますが、お園は行くと言います。清兵衛はお園を送り出す際に、盃をかわして「大坂だけに日が照るわけではないぞ」と言い含めて暇をやるようなそぶりを見せます。そこに六三郎がやってきます。清兵衛は二人を添わせてやる気持ちなのです。医者の見立てではお園はもうあまり長くはないとのことで、それなら一日でもお夫婦にさせてやろうと考えたのです。そんな話を夫婦がしているのを立ち聞きしていたお園と六三郎は手を合わせて感謝して駆け落ちするのです。
さて、所払いになった長兵衛は馬方になっています。そして、中山観音の無縁経に詣でる舟越重右衛門を神崎で襲います。重右衛門は反撃するうちにやむなく殺人を犯してしまいます。代官所に出頭しようとした重右衛門ですが、その途中で六三郎とお園が心中したことを聞くのでした。
この芝居は、「借屋敷」「若竹屋」「詮議」「道行」「新屋敷」「道行」「千日寺」「舟渡し喧嘩」から成って、島太夫のほか、百合太夫、此太夫、桝太夫らが語り、人形は、「かしく」とお梶を藤井小三郎、お園を豊松藤五郎、六三郎を豊松弥三郎などが遣ったようです。
この浄瑠璃の人気ぶりについては、すでに『浄瑠璃譜』に書かれていたものをご紹介しましたが、『摂陽奇観』もこのように書いています。
一 三月廿六日より豊竹座ニて浄留理大当
り右趣向は当十八日かしく死罪ニ相成候翌
十九日朝大工の弟子心中同日神崎の大喧嘩
宅平を船越十右衞門とす爰かしこの噂事や
一部の戯文とし即刻廿日ニ左の通りの外題
看板を出し纔ニ五六日の間に作者並木丈介
はいふニ不及一座の働き前代未聞殊に作文
章句もよろしく出来其節の大当りのミなら
ず今に浄留理の好人翫ふ事世に知る所也
三月二十六日から豊竹座で行われたこの芝居は大当たりであった。十八日のかしくの死罪、十九日朝の大工の弟子(六三郎のこと)の心中、同じ日の神崎での大喧嘩をまとめて二十日に外題を出し、わずか五六日で並木丈助は言うに及ばず、一座の人たちの奮闘は前代未聞のことであった。文章もよくできていて、その当時大当たりをとっただけでなく、今なお浄瑠璃好きが愛好していることは知られるとおりである、と言っています。
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かしく(4)
「かしく」が市中引き廻しにされるときに油揚げを所望したという逸話を紹介しましたが、それは江戸時代末期の西沢一鳳『伝奇作書』に見られるものです。一鳳は、浮世草子や浄瑠璃作者(『北条時頼記』など)、さらには『今昔操年代記』の著者として知られる西沢一風の曽孫に当たる人です。
これも内山美樹子先生が引いていらっしゃるのをお借りしますが、この『伝奇作書』の中にこんなことが書かれているのです。
かしくが引廻しの時永々の牢舎にて色
は透通る計白きうへ髪の艶よくうるは
しく誠に胡国に嫁す王照君の容もかく
やと惜まぬ者はなかりしとぞ此頃は科
人落着の日はひとつの願ひは御聞届あ
る事にて何にまれ好べしとありし時油
揚を三枚計望しゆゑ食する事と心得求
あたへられしをかしく戴取透上髪の上
へかの揚豆腐の油を絞り附しゆゑ色光
沢(つや)よく今死する身にいらぬ事
乍ら女の身だしなみなりしとぞ云しを
皆人聞て感ぜしとぞ
古代中国、漢の元帝の時代、匈奴王の呼韓邪単于(こかんやぜんう)が漢の女を要求した時に、親和のためにやむを得ず送られたのが
王昭君
でした。このときの経緯については、史実ではないようですが、後代の『西京雑記』が有名な逸話を伝えています。後宮の女性たちは自分の絵姿を絵師に賄賂を贈って美しく描いてもらっていたのですが、ほんとうは絶世の美人である王昭君は賄賂を使わなかったために醜い女に描かれていました。元帝は、匈奴に送るのに美しい女は惜しいと思って、その絵姿を取り寄せてもっとも醜い女遣わそうとして王昭君を選んでしまい、結局彼女は匈奴に旅立ったと言われます。
今から市中引き廻しに連れ出される「かしく」は、半年近くの牢暮らしで顔色が透き通るほど白く、それに対して髪はつやつやとしていたのでこの王昭君のようだと人々が惜しんだというのです。
このころ、死罪になる者は最後にひとつなんでも願いを聞いてやるという定めがあったようで、役人が「かしく」に何か望みはないかと問うと、
「油揚げを三枚下さい」
と奇妙なことを言いました。食べるのかなと思って願い通りに与えると、彼女はその油を絞って髪につけるや、さらに艶が出ました。そして「死ぬ身には無用のことですが、女の身だしなみですから」と言ったために誰もが感じ入ったというのです。『八重霞浪花浜荻』には、このエピソードは採られておらず、「髪はおどろにとき乱れ鉄漿(かね)も付けねば白歯となり、世のあだことに童も同然。賽の河原に迷ふといふ。どふぞ此義をおゆるしなされて下さりませい(髪が乱れてお歯黒もしていないので白い歯のままです。このままでは賽の河原で迷うのでどうか整えさせてください)」と願うだけなのです。これはまったく当てずっぽうに過ぎないのですが、油揚げの油で髪を整えるという趣向がもし伝わっていたのなら芝居に取り入れたくなりそうですので、この芝居のあとに考えられた趣向なのではないかと、私は思っています。
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2020年文楽東京公演千秋楽
文楽東京公演が千秋楽を迎えます。
鶴澤清馗さんが感染され、豊竹咲寿太夫さんが濃厚接触でお二人が休まれるというアクシデントがありましたが、何とかゴールにたどり着けたようで、ホッとひと息です。
今年の主な公演は終わり、次は新年の大阪公演。
今もどんどん感染が広がっていますから、安心などできるわけもなく、無事でありますように、と願わないわけにはまいりません。
菅原の三段目、白石噺、千本の道行、妹背山の四段目だそうです。
文楽のみなさん、大変な一年でした。また来年もよき舞台を!
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かしく(3)
さて、「かしく」は三月十八日に死罪となったのですが、そのころに「かしく」とは直接関係のない出来事があり、それらを綯い交ぜにして早速浄瑠璃作者が作品に仕立てたのです。
『浄瑠璃譜』に
此間中山無縁経にて神嵜に於て御駕籠
の十右衛門といふ者多くの馬士と口論
なし手をおはせる是三月十八日十九日
のおこと也同廿日に外題看板を出す
とあるように、中山観音で今も行われる無縁経に行く際、十右衛門という人物が喧嘩をして相手にけがをさせるという事件がありました。内山美樹子先生「「八重霞浪花浜荻」考」に引用されている
『自宝永四年至寛延三年 大阪市中風聞録』
には、
神崎にて馬方廿人斗と大坂御城代御乗
物かきの頭人中山寺へ参詣致候処右馬
方廿人斗口論致し馬方一人切殺し二三
人に手を負せ神崎川之渡し舟乗人共殊
の外さわぐ所船頭かいを持つきはめ脇
差は川中へ落候よし後に沙汰有之は馬
方共欠落致候者も親方より尋ね出し船
頭は右落せし脇差を尋上げ申候様に被
仰付候乗物かさは随分いたわり候様に
被仰付候よし乗物かき十右ヱ門は人殺
し候へ共申訳立たすかり候由
と、さらに詳しい事情が書かれています(『摂陽奇観』にも記事あり)。
また、かしくの兄殺し、神崎での喧嘩に加えて、『摂陽奇観』に
三月十九日朝 介右衛門橋心中
男は生国和泉の者内町大工の弟子六三
郎女は道頓堀新屋敷の女郎おその助右
衛門橋東詰の浜に而相対死
とあるように、六三郎とおそのという男女の心中事件もありました。
これらを総合して浄瑠璃作者たちが一気に芝居に仕立てたのです。
その芝居というのが、
八重霞浪花浜荻
です。
『浄瑠璃年表』掲載の番付によりますと、「借屋敷」「若林屋」「詮議」「道行」「新屋敷」「道行」「千日寺」「舟渡し喧嘩」で、眼目の「新屋敷」は豊竹島太夫、のちの二代若太夫でした。
その人気ぶりについては、『浄瑠璃譜』に、
右新浄瑠璃かしくの趣向は三月十八日
十九日の事なりしを廿日にかんばんい
だし廿六日初日古今稀なる早きことと
大坂中こそつての評判也是作者並木宗
輔および惣太夫操り申夜を日につゐて
の出精前代みもんのこと共也と大坂は
云ふに不及近国よりも大入りをなせし
とぞ
とあります。
なんと、「かしく」が死罪になった二日後、神崎の喧嘩や助右衛門橋心中の翌日の寛延二年三月二十日にはすでに看板を出して、二十六日が豊竹座での初日だったというのです。「古今稀なる早きこと」というのは誇張ではなさそうです。作者名が「並木宗輔」になっていますが、正しくは「丈助(輔)」です。前代未聞の大当たりで、大坂の人だけでなく、近隣の国からもお客さんが押し掛けたようです。
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かしく(2)
すでに書きましたように、「かしく」は酒癖が悪かったうえに殺人まで犯したというのですから、本来なら毛嫌いされてもよさそうなものです。しかしその美貌とか、女っぷりとか、そういうところに独特の魅力があったうえ、芝居の主人公にもなって犯罪そのものが美化されると、庶民は一転してもてはやすようになるのです。美人とか、優美とか、そんなこと犯罪とは関係ないでしょ、というのは正論なのですが、そこが人間の浅はかなところで、今でも庶民の目というのは似たようなところがあるのではないでしょうか。
「かしく」が人々にご利益(りやく)をもたらす、という、なんだか神格化されたような話が伝わっています。それは「かしく」の墓にまつわるものなのです。
「かしく」の墓は大阪市北区曽根崎1丁目の
法清寺
にあります。法清寺についてはWikipediaにも説明があるのですが、本日現在の記述を見ると、失礼ながらいささか荒っぽい内容で間違いもあるように思われます。
さてそのエピソードです。
実は彼女の墓には多くの人がやってきたのです。といっても、菩提を弔いに来たわけではありません。『摂陽奇観』にこんな記事があります。
願懸重宝記云 労痎を治するには此墓の
手向水や受帰り其水ニ而薬を煎じ病人に
服さすべし忽平癒す又悪しき癖ある酔狂
人の酒を止んにはその本人の知らざるや
うに手向水を飲せバ酒を嫌ふやうに成り
といひ伝ふ
『願懸重宝記』は文化十三年刊の浜松歌国の書物ですが、手元になく、確認していません。『摂陽奇観』からの孫引きで申し訳ありません。
労痎を治すには、この墓の手向けの水を持って帰って、その水で薬を煎じて病人に飲ませるとすぐに平癒する、というのが一つ目の効能。もうひとつは酒癖の悪い人の酒を止めるためには、酒乱の本人にわからないようにその手向け水を飲ませると酒を嫌うようになる、というのです。
一方、悪酒断ちをしたい場合は、もうひとつ方法があったと言われます。彼女の
墓石を削って
酒に混ぜて飲むとよいという言い伝えもあったらしいのです。その噂が広まると、多くの人が墓石を削りに来たと言われます。そして、よほどお酒で困っていた、あるいは困らされていた人が多かったらしく、次々に削っていかれて墓石が激しく損傷したため、鞘堂を作ってその中で墓石を保存するようになったというのです。そういうことがあったので、作家の長谷川幸延が「酒の咎引き受け申しそろかしく」と詠んでいます。「お酒の間違いはお引き受けいたします。かしく」と「かしく」に人名と手紙の結語を掛けて詠んでいるわけです。とてもしゃれていますよね。
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かしく(1)
ちょっとしたことを考えているうちに、大阪曽根崎の遊女「かしく」の話に行き着いて、ずるずると調べるともなしに調べてしまいました。私の悪癖(?)で、本来の目的と関係のないことでも、気になり始めると蟻地獄に落ちるように放置できなくなるのです。といっても、実際に調べたのは手元にある資料だけのごくわずかなことに過ぎないのですが(笑)。
ともかく、こういう場合、どこかにまとめておかないとすぐに忘れますので、ここにメモしておきます。
大坂、北の新地の遊女に「かしく」がいました。後述のように『摂陽奇観』は新屋敷(北新屋敷)の遊女としていますが、『浄瑠璃譜』に従って新地としておきます。『天網島』の河庄があったのは「北の新地」で、蜆川が流れていたあたりです。それに対して「新屋敷」というのは新地の北東側、後に述べます「かしく」の墓のある法清寺のあるあたりで、『摂陽奇観』はそれとの混同で「新屋敷」としたのかもしれません(後述する内山美樹子先生のご論文でもそのように推測されています)。
今でも女性が手紙の末尾に書かれる「かしこ」という語があります。「あなかしこ」のことで、「ああ、畏れ多い」というような意味です。その「かしこ」の音変化したのが「かしく」で「かしこ」と同じように用いられたのですが、それを名に持つ遊女がいたのです。
この人物が起こした事件とそれが浄瑠璃『八重霞浪花浜荻』に昇華した次第については
『浄瑠璃譜』
が簡潔にまとめていますので、まずそれを読んでみます。本文は東京大学附属図書館霞亭文庫所蔵のもので、「電子版霞亭文庫」に公開されているものによります。なお、『浄瑠璃譜』は、ほかにも『燕石十種』などに翻刻があります。
爰に北ノ新地白人かしくといふぜんせいの
女郎ありしが去家敷方の客に根引せられ八
重と名を替へ天満老松町邊に妾宅となる此
八重酒を呑ば前後を忘れしやうたいなきが
病也兄に絞りを結て渡世する吉兵衛といふ
者あり此者正直ものにて折々妹にだしやく
なる酒の事を異見せしに或時言ひ募り兄弟
喧嘩にて刃物ざんまいをなし兄吉兵衛に手
を負す直さま入牢あつて言訳立がたく寛延
二年己巳三月十八日大坂中引廻し千日寺に
て獄門となる
これがかしくの起こした刃物沙汰の経緯です。わかりやすく書き直してみます。
ここに北の新地、白人かしくといふ全盛の女郎ありしが、さる屋敷方の客に根引きせられ、八重と名を替へ、天満老松町邊に妾宅となる。この八重、酒を呑めば、前後を忘れ、正体なきが病なり。兄に、絞りを結ひて渡世する吉兵衛といふ者あり。この者正直者にて、折々妹に惰弱なる酒の事を異見(意見)せしに、ある時言ひ募り、兄弟喧嘩にて刃物三昧をなし、兄吉兵衛に手を負ほす。すぐさま入牢あつて、言ひ訳立ちがたく、寛延二年己巳三月十八日、大坂中引廻し、千日寺にて獄門となる。
北新地の遊女「かしく」がある武家に身請けされて、八重と名を改めて天満老松町あたりで暮らしていたのです。この人は酒を飲むと前後不覚になってしまうのが病気だったのです。この人の兄は実直な人で、しばしば八重に酒が過ぎると意見したのですが、それが昂じて兄妹の喧嘩になって、八重は兄を傷つけました。すぐに牢に入れられて、言い訳もできないまま、寛延二年三月十八日に、大坂中引廻しのあげく千日寺で獄門となりました、という意味です。
この事件があったのは、内山美樹子先生の「「八重霞浪花浜荻」考」によれば前年の閏十月二十五日頃と考えるのが妥当だそうです。この論文に引用されている『自宝永四年至寛延三年 大阪市中風聞録』では
同二年己三月十八日天満十一町目借座
敷に居申時去る侍にかこわれ居申右之
侍が江戸へ被参候留守之間女の兄を殺
し候かく(かしく?)本名八重と申事
罪科により三郷引廻し道頓堀にて獄門
にかかり候
とあるそうで、「かしく」を身請けした武士が江戸に出ているときに兄殺しがあったというのです。
お酒は人格を変えてしまうことがあって恐ろしいです。
かしくは市中引廻しに成る際に「油揚」がほしいといいます。何をするのかというと、油揚げの油を髪になでつけて身だしなみを整えたとも伝わります。
単なる酒癖の悪い殺人犯ではなく、
遊女あがりで
普段はおとなしく
酒が入ると感情が高ぶり
最後まで身だしなみを忘れない
人として、人気が出るのです。いわゆる「男好きのするタイプ」のように思えるのですがいかがでしょうか(笑)。
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久々の運動
薬によって、一時的にではありますが、呼吸が楽になっています。
このところ、歩くのが億劫で家に閉じこもりきりになることが多かったのです。ウイルスに感染することがないだけいいのかもしれませんが、やはりからだがなまるような気がしてなりませんでした。
それだけに、こういうときくらい、しっかり歩いてみようと思っています。ただ、人ごみに入る気はさらさらなく、朝早く近くを歩く程度です。幸い田舎ですので、あまり人に会うこともなく、マスクなんてまったく必要ありません。
この秋は、少し歩いただけで
胸が苦しくなる
ような状態でしたが、11月の末に至ってそれがなくなったのでほんとうにありがたいです。家から30分ばかり歩いて戻ってくるという勝手に設定しているコースがあるのですが、調子が良ければさらに遠回りして、いろんなことを考えながら歩いています。
歩くと脳が活性化されるということはあるのでしょうか。よくわかりませんが、いろんなことを考えることが出来るような気がしています。
室内でもちょっとした
ダンベル
を用いた運動をすることがあります。これもこのところずっと調子が悪くて、少し持ち上げただけで胸が苦しくなることが多かったのです。しかしこのところはうそのように何の問題ありません。
といっても私が使うのは3㎏のものですから、たいして負荷になるものではありません。道具がひとつしかありませんので(笑)、右腕と左腕で交互に各100回上げ下ろしをするだけのことです。
こんなことができるようになったのは、実は精神衛生上もいいと思うのです。胸が苦しいと前かがみになりますので、気持ちもふさぎ込んでしまいます。その苦しみがなければ文字どおり前向きになれるのです。
いつまでこの調子が続くかわかりませんが、からだと心と頭の体操だと思って頑張ります。
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廃仏毀釈(3)
廃仏毀釈の結果、廃寺となったところは少なくありません。廃仏毀釈の激しかった薩摩(鹿児島県)ではすべての寺院がなくなったほどです。結果的には失われずに済んだものの、あの興福寺の五重塔もあわや焼かれてしまうところでした。
こんな例もあります。山口県の下関にある
赤間神宮
といえば「耳なし芳一」で知られますが、この神社は、もとは阿弥陀寺という寺院でした。平安時代の創建で、源平合戦の壇ノ浦の戦いで亡くなったとされる安徳天皇を祀る御影堂が建てられ、そのこともあって勅願寺として崇敬も受けたのです。この寺にいた盲目の琵琶法師が芳一で、墓場で平家の怨霊たちに琵琶を弾いて『平家物語』を聴かせたあげくに耳を取られる話があるのはご存じのとおりです。ところがこの由緒ある阿弥陀寺は廃仏毀釈によって廃寺となり、神社に姿を変え、その名称は天皇社、赤間社から赤間神宮となったのです。
ところで、奈良県桜井市の
聖林寺
は地蔵菩薩を本尊としますが、むしろ有名なのは十一面観音像(国宝。奈良時代後期)でしょう。この像はもともと大神(おおみわ)神社の神宮寺のひとつの大御輪寺の本尊であったものをやはり明治の「神仏判然令」の際に移したものと言われています。この像は評価が二分されるそうですが、あのアーネスト・フェノロサが激賞したことで知られ、和辻哲郎も「偉大な作だ」「神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現はされてゐる」(『古寺巡禮』)と絶賛しています。私は審美眼がありませんのでよくわかりませんが、初めて見たときに、優美というよりは謹厳実直な、凛然としたその姿に感じ入るものがありました。2mを超すこの木心乾漆像が聖林寺に置かれていることについては、まことしやかな伝承があります。廃仏毀釈のときに聖林寺の住職が草むらに棄てられていたこの像を持ち帰って寺に置いたというのです。
和辻哲郎『古寺巡禮』はこの件について「どれほど確実であるかはわからないが」と断ったうえで、「路傍に放棄せられるといふ悲運に逢つた」「幾日も、幾日も、この気高い観音は埃にまみれて雑草のなかに横たはつてゐた」「或日偶然に、聖林寺といふ小さい真宗寺の住職がそこを通りかかつて、これは勿体ない、誰も拾ひ手がないのなら拙僧がお守を致さう、と云つて自分の寺へ運んで行つたといふのである」と述べているのです。実際は前述のような事情で移されたものらしく、この伝承は事実ではないようですが、廃仏毀釈の恐ろしさが感じられるエピソードに思えます。
政治が煽動、先導するヴァンダリズム(芸術文化などを破壊する蛮行)。こんなの150年前のできごとだろ、もう終わったことじゃないか・・で済めばいいのですが、文化をないがしろにする政治家なんて、今もごろごろいそうではありませんか。
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- [2020/12/10 00:00]
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廃仏毀釈(2)
廃仏毀釈というのは「仏を廃して釈迦(の教え)を毀(こぼ)つ」ことです。
日本に仏教が入ってきたときにも、物部氏などがこの異国の宗教に対して取り入れるべきでないという態度を取りました。しかし物部氏が崇仏派の聖徳太子や蘇我氏に敗北し、仏教は次第に浸透していきました。
ちなみに、聖徳太子は物部氏との戦いが膠着状態のときに四天王の像を造って、「勝利したら四天王をおさめる寺を造ります」と誓願を立て、戦勝ののち、その約束を果たすために立てたのが
四天王寺
です。
このあと、仏教は国家を挙げて信仰の勢いを増して、多くの人の心をとらえることになりました。聖武天皇は疫病の流行などを目の当たりにしたこともあって仏教に傾倒し、国分寺建立の詔を出し、また東大寺毘盧遮那仏を造るようにも命じました。
その後も、日本古来の神と仏教を混淆するという方便もあって、私が主に勉強している平安時代など、仏教思想抜きにはものが言えないくらいです。
極楽往生
を願う浄土思想もあれば、現世利益を求める観音信仰もあり、建築や仏像も日本独自の美術的価値のあるものが造られていきました。
ずっと後のことになりますが、キリシタン大名がやはり仏教寺院を弾圧する態度を取ったことがあり、江戸時代になると、儒学者などを中心に仏教に対する否定的な考え方があり、寺院への弾圧的な行為はあったようです。
そして迎えた明治の廃仏毀釈運動です。「運動」と言えば聞こえがいいのですが、ちょっとしたテロ、あるいは「芸術文化などを破壊する蛮行」を意味する
ヴァンダリズム
のような性格があるでしょう。
長らく仏教の陰に隠れるような位置に置かれ、僧侶に押さえつけられていたという不満を持った神官たち、あるいは江戸時代の仏教政策(寺請制度など)に嫌気のさしていた庶民は、ここぞとばかりに仏像を破壊し、経典を焼き、寺を廃しました。その結果として大切な文化財も失われることが多かったのです。ただし、一方的に仏教側が被害者であるとも言い難く、江戸時代に長らく特権階級のようになっていた僧侶たちのありかたが反感や憎悪を産んだという事情もあったものと思われます。
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『枕草子』と平安時代を読む(10)
長徳四年五月のほととぎすの和歌にまつわる話の次は、中宮が職の御曹司に八月のことです。中宮が職の御曹司にいた時期で、八月というと長徳三年(997)、四年が考えられます。もし前段と連接するように書かれているのであれば、長徳四年(998)の八月ということになります。
職(しき)におはしますころ、八月十余日の月あかき夜、右近の内侍に琵琶ひかせて、端近くおはします。これかれものいひ、笑ひなどするに、廂(ひさし)の柱に寄りかかりて、ものもいはでさぶらへば「など、かう、音もせぬ。ものいへ。さうざうしきに」と仰せらるれば「ただ秋の月の心を見侍るなり」と申せば「さもいひつべし」と仰せらる。
【語釈】
職・・中宮職。中宮定子が職の御曹司を居所としていた頃のこと。
右近の内侍・・内裏女房。ここにいるのは帝の使いとしてやってきたのか。
端近く・・中宮は職の御曹司の母屋ではなく南廂にいた。よって、「端近く」は南廂のさらに南の孫廂寄りのところ。
これかれ・・あれこれの女房たち。
廂の柱に・・清少納言が孫廂とその外側(南側)の簀子の間にある柱に寄りかかっている。
ただ秋の月の心を・・「東船西舫悄言無、唯見江心秋月白」(白居易「琵琶引(琵琶行)」)。あちらこちらの船の人たちは悄然として言葉もなくただ秋の月の白いのを見ている。
職の御曹司にらっしゃるころ、八月十日過ぎの月の明るい夜、右近の内侍に琵琶を弾かせて、端近くにいらっしゃる。女房たちが話をしたり笑ったりしているときに、(私が)廂の柱に寄りかかって何も言わずに伺候していると「どうしてそんなに黙っているの。何か言いなさい。ものたりないから」とおっしゃるので「ただ秋の月の心を見ております」と申すと「たしかにそうも言えそうね」とおっしゃる。
八月十日過ぎは中秋の名月の目前です。月は明るく輝いています。右近の内侍は帝つきの女房ですが、しばしば中宮のところにやってきますので、『枕草子』の中にその名が散見するのです。「上にさぶらふ御猫は」の段では、痛めつけられて形相の変わった翁丸という犬を見知っているものとして登場します。中宮は彼女に琵琶を弾かせて、普段より外側に出てきています。清少納言が少し離れたところで黙ってじっとしていると中宮が「何か言いなさい」と声を掛けるのです。すると清少納言はぽつりとひとこと言いました。しかしそれは「秋の月を見ているのです(だから何も言えないのです)」ということで、ものを言ったというよりはものを言わないわけをつぶやいたことになります。右近の内侍が琵琶を弾いている、という時点で、『枕草子』のこれまでの書き方を思い起こせば白居易の「琵琶引」(琵琶行)がまた影を落とすのではないかと予想されないでしょうか。「御仏名のまたの日」の段で歯源道方が琵琶を弾いてその演奏が終わると定子の兄の藤原伊周が「琵琶声やんで物語せんとすること遅し」と言っていました。これは「琵琶引」の「琵琶声停欲語遅」を言ったものでした。また「上の御局の御簾の前にて」の段では、中宮が琵琶を縦に持って姿を隠そうとしたことに対して、清少納言が「なかば隠したりけむは、えかくはあらざりけむかし」と言いました。これも「琵琶引」の「猶抱琵琶半遮面」によるものでした。琵琶と言えば白居易の詩がそれほどに思い出されるものだったのですね。「琵琶引」では「秋の月の白きを見る」と言っていますが、清少納言は「秋の月の心を見る」と少し言い換えています。彼女は月の姿を見ていたのではなく、月の心を察していたのです。表面上はそれだけの意味なのですが、深読みをするなら、「中宮様の御心をお察ししております」とでも言いたげに感じられなくもないのです。このとき中宮の置かれている状況は、すでに父道隆は亡くなり、伊周、隆家の兄弟は左遷(すでに召喚されていますが)の憂き目も見て、道隆一家、つまり中関白家(なかのかんぱくけ)の凋落は火を見るよりも明らかになっているのです。古代中国「後漢」の明徳馬皇后の宮殿を長秋宮と言いましたが、そこから皇后(中宮)の御殿、さらには皇后その人のことを「長秋宮」「秋の宮」「秋宮」ということがあります(皇太子が春宮といわれるのと対をなします)。それらしいことは書かれていませんので、あまり深読みはしない方がいいかもしれませんが、清少納言が中宮に対して「あなたさまのお心をお察し申し上げているのです」と言っているようにも感じられるのです。
次の段に行きます。前段との関連性というと、清少納言が「廂の柱」に寄りかかっているところに中宮から何らかのアクションがあったという、よく似た状況が挙げられます。それではやはり職の御曹司での出来事なのでしょうか。中宮の身内の人たちが多く集まっているという状況を考えると、内裏の方がふさわしいようにも思えます。清少納言が中宮定子に出仕したのは正暦四年(993)のことと推定されていますが、それからさほど時間の経っていないころではないかという意見もあります。
御方々、君達、上人など、御前に人のいとおほくさぶらへば、廂(ひさし)の柱によりかかりて、女房と物語などしてゐたるに、ものをなげ給はせたる。あけて見たれば、「思ふべしや、いなや。人、第一ならずはいかに」と書かせ給へり。
【語釈】
御方々・・中宮定子の身内の女性方。妹など。
君達・・兄弟たち。
上人・・殿上人
人、第一・・次の中宮の言葉に「人に一に・・」とあるのを簡単に言い表したもの。あなたは人に一番に思ってもらわないと意味がないと言っていたわね、という。
御方々、君達、殿上人など、中宮様の御前にとてもたくさん伺候しているので、廂の柱に寄りかかって女房と話などをしていると、何かをお投げになった。開けて見ると、「大切に思うべきか、そうでないか。『人、第一』でなければどうなの」とお書きになっていた。
中宮の御前がにぎやかなので、清少納言は遠慮して廂と簀子の間の柱に寄りかかっています。すると中宮が何かを投げたというのです。「投げ」というのは遠くにものを放ることですが、具体的に中宮が清少納言めがけて投げつけてきたのでしょうか。あるいは実際は誰かに命じて手渡したのでしょうか。いずれにせよ、紙を丸めたようなものが届けられたのです。そこに書いてある言葉は謎のような言葉で、次の文を読まなければ意味がよくわかりません。中宮は、きょうだいたちと何か清少納言について話していたのでしょうか。そしてきょうだいたちの前で彼女を試そうとしたのかもしれません。
御前にて物語などするついでにも、「すべて、人に一に思はれずは、なににかはせむ。ただいみじうなかなかにくまれ、あしうせられてあらむ。二三にては死ぬともあらじ。一にてをあらむ」などいへば、「一乗の法ななり」など、人々もわらふことのすぢなめり。
【語釈】
御前にて・・上の部分の話の前提となる、出来事を以下に書く。以前、中宮様の御前でお話をしたときに、ということ。
すべて・・清少納言が中宮の御前で語った言葉。
人に一に思はれずは・・人から一番に思われないのであれば。
なかなかにくまれ・・一番出ないならかえって憎まれた方がよい。
二三にては・・二番や三番では。
死ぬともあらじ・・死んでもいやだ。
一乗の法・・「十方仏土中唯有一乗法、無二亦無三(十方仏土の中に唯、一乗の法有り、二無くまた三無し)(『法華経』「方便品」。「乗」は乗り物のことで、仏の教えが人を悟りの境地に導くのはその乗り物である法華経だ、ということ。
(いつぞや)御前でお話をするついでに、「まったく、人から第一に思われないのであればつまらないことです。そうでないならひどく憎まれて粗略な扱いを受ける方がましです。二番や三番というのは死んでもそうなりたくないものです。一番でありたいのです」などと言ったら、「一乗の法のようですね」などと女房たちも笑った、あの話の流れのようなのである。
中宮の謎のような言葉は、以前清少納言が「一番でなければ嫌なのです」と言って、ほかの女房たちに「一乗の法」のようだと笑われたことにかかるようなのです。上の文の最後に「すぢなめり」と推定の「めり」を使っていますように、清少納言も「どうやら、あの話ようだ」とここで納得しているのです。女房たちが「一乗の法」といったのは清少納言の「二三にては・・」をうけて『法華経』の「無二亦無三」を連想したのです。これを読んだ当時の読者も、「ああ、あのときのことね」と思い出せるような書き方になっているのでしょう。
筆紙など給はせたれば、「九品蓮台(くほんれんだい)の間には、下品といふとも」など書きて参らせたれば、「むげに思ひ屈(くん)じにけり。いとわろし。いひとぢめつることは、さてこそあらめ」とのたまはす。「それは人にしたがひてこそ」と申せば、「そがわろきぞかし。第一の人にまた一に思はれむとこそ思はめ」と仰せらるる、いとをかし。
【語釈】
九品蓮台の間には・・極楽にいられるのでしたら、という気持ち。
下品・・極楽浄土には「上品上生 上品中生 上品下生 中品上生 中品中生 中品下生 下品上生 下品中生 下品下生」という九つの階級がありそれらを九品という。そのうちの下品であっても(満足だ)。
言ひとぢめ・・「言ひ閉ぢめ」。きっぱりと言い切って。
さてこそ・・そのままであってこそ。あのとき「一でなければ嫌だ」ときっぱり言ったのだから、最後までそれを押し通すべきだという。
筆や紙などをくださったので、「九品蓮台の間であれば、下品であっても」などと書いて差し上げると、「ひどく意気地がなくなったのね。まったくよくないことです。言い切ったことは押し通すのがよいでしょうに」とおっしゃる。「それは相手によるのでしょう」と申すと「それがよくないのです。第一の人に、また第一に思われようと思うのがよいのです」とおっしゃるのはとてもすてきなことだ。
清少納言は女房たちに「一乗の法」のようだと言われたので、「九品の蓮台」「下品」という仏教語を出してきたのです。あの時みなさんに「一乗の法のようだ」といわれましたが、私は極楽ならどこでもけっこうです、ということでしょう。この部分、実は慶滋保胤が極楽寺建立(正暦三年)の際の願文に見える「十方仏土之中、以西方為望、九品蓮台之間、雖下品応足(十方仏土の中、西方をもつて望みとなす、九品蓮台の間、下品と雖もまさに足るべし)」(『和漢朗詠集』所収)によるものです。清少納言がずいぶん卑下したことを言うのは周りにいる人たちへの遠慮もあるのでしょうか。すると、中宮は第一の人に第一に思われてこそでしょう、と言い切ったのです。なるほど見事です。清少納言が「いとをかし」という気持ちもわかるような気がします。
中納言殿まゐり給ひて、御扇たてまつらせ給ふに、「隆家こそいみじき骨は得て侍れ。それを張らせてまゐらせむとするに、おぼろけの紙は、え張るまじければ、もとめ侍るなり」と申し給ふ。「いかやうにかある」と問ひ聞こえさせ給へば、「すべていみじう侍り。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり』となむ人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ。」と、ことたかくのたまへば、「さては扇のにはあらで、海月(くらげ)のななり」と聞こゆれば、「これは隆家が言(こと)にしてむ」とて、笑ひ給ふ。かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「ひとつな落としそ」といへば、いかがはせむ。
【語釈】
中納言・・藤原隆家。長徳元年四月六日十六歳で権中納言。同二年四月二十四日出雲権守に左遷される。
御扇たてまつらせ・・隆家が中宮に差し上げる。
いみじき骨・・すばらしい扇の骨。
張らせて・・骨に紙を張らせて。
おぼろげの・・並大抵の。ありきたりの。
いかやうにかある・・隆家が「いみじき骨」と漠然とした言い方をしたので、どのようにすぐれているのか、と中宮が聞いた。
さらに・・あとに打消しを伴って「まったく~ない」。
ことたかく・・たからかに。自慢げに。
海月のななり・・「海月の(骨)なるなり」のこと。海月の骨のようだ。
かたはらいたきこと・・自慢しているようで、ここに書くのはきまりが悪いこと。
ひとつな落としそ・・ひとつとして話を書き洩らすな。
いかがはせむ・・どうしようもない(ので書くことにした)。
中納言殿が参上なさって、御扇を差し上げなさる時に「私はすばらしい骨を手に入れました。それに紙を張らせて差し上げようと思うのですが、並大抵の紙は張るべきではないと思いますので、探しているのです」と申しなさる。「どのようなものなの」とお尋ね申しあげなさると「まったくすばらしいのです。『これまでに見たこともない骨のありさまです』と人も申しています。ほんとうにこれほどのものは見たことがありません」と自慢げにおっしゃるので、「それでは扇の骨ではなく、海月の骨のようですね」と申し上げると「これは私が言ったことにしよう」といってお笑いになる。このようなことを書くのはきまり悪いものの中に入れてしまうのがよいのだが、「一つも書き落とさないで」と人が言うのでどうしようもなくて。
藤原隆家はのちには太宰権帥として武勇を誇る人なのですが、このころはまだ若いのです。彼が権中納言になったのはまだ十六歳。今の年齢で言うなら中学三年生で、言葉も足りず、漠然としか表現できません。「とにかくすごいのです」としか言えないのです。そこで姉の定子が「どうすごいのか言ってごらん」というと、相変わらず「まったくすごい」「見たことがないと誰もが言う」と、具体的な表現ができていません。そこで、「見たことがない骨なら海月の骨ですね」と清少納言が冗談を言ったのです。隆家はおもしろいと思って、「自分の言葉にしよう」と言っています。どこかでこの冗句を吹聴するつもりでしょうか。
ところで、最後にこの話は自慢話に聞こえるから書かないでおこうと思ったのだが、皆が書けというので書いた、ということが記されています。ということは、『枕草子』は清少納言がひそかに書き上げたものが一斉に公開されたのではなく、読者の声を反映しながら書き継がれていたのでしょう。「草の花は」の段にで、撫子、女郎花、桔梗などを次々に挙げた後で、こんな一節が記されていました。「これにすすきを入れぬ、いみじうあやし、と人言ふめり」。この「草の花」の中にすすきを入れないのはおかしい、と皆が言うようだ、というのです。つまりこれも草の花についていろいろ書いたものを読んだ人が「なぜすすきを入れないのか」と言ってきたのでそれについて書き足していることになります。『枕草子』はこのようにして成長していったのです。
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- [2020/12/08 00:00]
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廃仏毀釈(1)
昨今の事情は分かりませんが、私の高校時代の日本史の授業はとても時間が足りなくて、近代史にはほとんど触れられませんでした。卒業間際の1月になって申しわけ程度に「明治以後の概観」のような話があっただけだったように思います。といっても、1月は8日に始まって31日にはすべて終わったわけで、正味2週間というところでしょうか。高校の先生は少ない授業時間で歴史全部を教える必要があるので大変なのです。物理的に言ってできるわけのない仕事です。そんなわけで、明治維新の功罪、特に
「罪」について
も知りたかったのですが、授業ではそこまでの余裕はありませんでした。私は数学や理科が苦手でしたので何としても大学入試では国語と社会で点を取らねばならず、特に日本史は命綱でしたから、自分では昭和史まで徹底的に勉強して頭に叩き込みました。しかし、所詮それは皮相なもので、いつ何が起こったということを覚えただけのことでした。そしていつしかそういう知識もどこかへ行ってしまったようにも思います。
このように、近代史をきちんと勉強しなかった私などがまさにその一人であったことは否定のしようもないのですが、明治維新を「近代化を実現したもの」と肯定的にえるのみで、その
影の部分
を見落としている人は少なくないのではないかと思うことがあります。
政治史でも、天皇を中心とした富国強兵が軍国主義に至る原点になったのでしょうから、批判されるべきところは多いはずです。
文化史においても、明治になって大切に伝えられてきたものが危機に瀕したことがあります。能楽は江戸時代には武士によって支えられた面がありますが、明治以後はどうだったでしょうか。大名たちが伝えてきた重宝が、彼らの身分の崩壊によって行き場を失って海外に多く流れたこともありました。
明治政府は王政復古を実現せねばなりませんから、その精神的支柱として神道を重視することにしました。そこで、神仏判然令(神仏分離令)を出して、神社と寺を切り離すことにしたのです。
政府としては特に仏教を排斥することを意図したわけではなかったといわれますが、この神仏分離令の意図は曲解されて、やがて廃仏毀釈運動に発展してしまいすが、政府はそれを傍観していたように思えます。
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- [2020/12/07 00:00]
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叱ってくれる仏像
「今ごろになって」としか言いようのない遅い勉強ですが、仏像についていくらか学び始めて、その面白みの一端がわかるようになってきました。
まだ歴史的なことも俯瞰できるほどは身についておらず、飛鳥仏と天平仏の違いとか、仏像の造形の伝統や発展とか、わからないことだらけです。
最近は、仏像を間近に拝めるのは博物館、ということも多いのです。「○○寺の名宝」とか「○○時代仏像の粋」などという展覧会はとてもありがたいものではあるのですが、やはり博物館に置かれた仏像はありがたみを感じません。
以前、兵庫県西宮市の夙川カトリック教会でおこなわれたテレマンアンサンブルの宗教音楽を何度も聴かせてもらったのですが、コンサートホールとはまるで違った趣があって、宗教音楽というのはこういうところで演奏されるために造られたのだろう、と感じました。「お寺で観る仏像」は、それと似たような風情があると思います。
京都の禅林寺(永観堂)で
見返り阿弥陀
を観たときは、不思議に永観(ようかん、えいかん。1033~1111)その人になったような気持ちを抱きました。ある日永観が行道していると、本尊の阿弥陀仏が須弥壇から降りてきて一緒に行道を始めたので、永観はびっくりして固まってしまいました。すると阿弥陀が振り返って「永観遅し」と言ったのだそうです。それで、禅林寺の阿弥陀像は左向きに振り返るような形で造られています。何ごとにも行動の遅い私は、何をぐずぐずしているんだ、と叱られるような気持ちになりました。あれが博物館であれば、そんな気持ちは抱かなかったと思うのです。お堂の中で仏像と向き合うことはやはり重要なことだと思います。
私は信仰心というものを持たないのですが、神社に行くと最近は作法どおりに参拝しています。お寺に行ってもお堂に入れば頭を垂れます。それはご神体や仏像を崇める気持ちというよりは
自分に向き合う
つもりなのです。そういう時間を持つことで決断できることもあります。
政治家が神社に行くというと靖国神社を思い出してしまいますが、そのとき彼らはたいてい「英霊の鎮魂」「過去の過ちへの反省」と言っているように思います。そうではなくて、現在自分がしていることに思いを致すことも重要だと思います。
古典と向き合うことも同じです。長く生きてきた古典と呼ばれるものは、生きてきただけの意味や価値があるのです。普段からそれに接することで自分が見えてきます。仏像を見るのも、古典に接するのも、突き詰めて言えば自分を見直すことにほかならないのです。その意味でとてもありがたいものなのです。少し仏像について勉強してきて、改めてそのことを思います。
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- [2020/12/06 00:00]
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眞子さんの恋(2)
秋篠宮家の眞子さんの結婚に関してはお相手の青年が頼りなげで軽い印象を持たれるのか、そのあまりにも「あたりまえ」すぎる人物像、言い換えると「どこにでもいるような男の子」という印象に対する激しい嫉妬ややっかみがあるように思います。母子家庭で一流大学出身というわけでも堅実な職業についているわけでもない人のようです。おまけに何でもお金の問題だのお母さんの生活などを週刊誌に取り上げられたりしたようです(私、週刊誌を読まないのでさっぱりわかっていません)。母子家庭だの大学の偏差値だの職業だの、そんなことが
人間の価値
を決めると考える方がおかしい、と普段は言っているような人でも、いざとなると「そんなこと」を並べてでも批判したくなるのだと思います。「『どこにでもいるような女の子』がプリンセスになるのがシンデレラストーリーなら、この青年は『逆シンデレラ』だから、それでいいじゃないか」・・と世間は言ってくれないのでしょう。「皇族の結婚なのだから」という決まり文句で一蹴されるのがオチかも知れません。男性が外に出て働いて奥さんや子どもを養うのが当たり前という考えはまだまだ根強いものがありそうです。
皇族女性が結婚する場合、品位を保持してもらうために、という理由で、満額(たとえば黒田清子さん)で1億5千万円余り、天皇嫡流でない内親王である眞子さんの場合はその90%、女王(今なら三笠宮家、高円宮家のお嬢さん)の場合は70%くらいの、いずれにしても億という数字のつくお金が渡されます。そのことに対しても、あたかも相手の男性の懐にポンと入るような受け止め方をされるために、「あんな男に税金から1億円も出すのはけしからん」という声が起こってきます。
話が飛びますが、イギリスの二代前の王であるエドワード8世(現・エリザベス女王の伯父)はウォリス・シンプソンさんとの恋愛と結婚のために王位を捨ててウィンザー公爵になりました。いわゆる
「王冠を賭けた恋」
です。あとを継いだのは映画『英国王のスピーチ』でも取り上げられたジョージ6世(エリザベス女王の父)でした。エドワード8世の恋は多くの人に迷惑もかけたでしょうし、批判の対象にもなりました。失礼ながら、ウォリスさんという人は、目を瞠るような美貌というのではありませんが、何でも社交術に優れた人だったらしく、男性を手玉に取るタイプで「お金持ちと結婚する」ことに強い執着のある人だったともいわれます。プレイボーイとして鳴らしたエドワード(当時はまだプリンス・オブ・ウェールズ)と出会ったのも何かの定めなのでしょうか。ウォリスさんはすでに2度の結婚をしており、プリンス・エドワードと出会ったとき、年齢はすでに40歳を過ぎていました(エドワードより1歳年少)。また彼との関係はまだシンプソン氏と婚姻関係にある時期からのもの(要するに不倫。エドワードは独身)であっただけに非難されることも多かったのではないでしょうか。それでも、「王冠を賭けた恋」と言われるとなんだかとてもロマンティックで、意志を貫いたことはすてきだという意見も少なくありません。
眞子さんは、不倫ではありませんから何も後ろ指をさされることはないはずですが、実際のところ世間からかなり強い批判を浴びているようです。さて彼女はすべてを賭けてこの恋愛を成就させるのでしょうか。
私は当たり前のことながら、お相手の方を知りませんから、賛成だとか反対だとかを申す気持ちはありません。人格の立派な人なら多少不満はあっても構わないのではないか、という程度のことしか言いようがありません。
ただ、今おそらく眞子さんが感じているであろう、あまりにも大きなプレッシャーにつぶされないか、それを心配もしています。
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源氏物語「少女」(10)
「少女巻」は朝顔の姫君が頑なに光源氏を拒むところから始まり、夕霧の元服と大学での学問、斎宮女御の立后(中宮になる)と内大臣の不満、内大臣の雲居雁への期待、夕霧と雲居雁の悲恋、夕霧の惟光の娘への懸想、朱雀院への行幸、そして夕霧の五位昇進と続いてきました。そして、いよいよ彼は念願の六条院造営を成し遂げるのです。
大殿、静かなる御住まひを、同じくは広く見どころありて、ここかしこにておぼつかなき山里人などをも、集(つど)へ住ませむの御心にて、六条京極のわたりに、中宮の御古き宮のほとりを、四町をこめて造らせたまふ。式部卿宮、明けむ年ぞ五十になりたまひける御賀のこと、対の上思しまうくるに、大臣も、げに過ぐしがたきことどもなり、と思して、さやうの御いそぎも、同じくめづらしからむ御家居にて、と、いそがせたまふ。
大殿(光源氏)は、静かなお住まいを、同じことなら広く見どころのあるところにして、あちらこちらにいて気がかりな山里の人などをも集めて住ませようというおつもりで、六条京極のあたりに、(秋好)中宮の古いお邸のそばを、四町を占めて造営させなさる。式部卿宮が明年五十歳になられるので、その御賀のことを対の上(紫の上)がご準備になっているが、源氏の大臣も、なるほど見過ごせないことだとお思いになって、そのようなご準備も、同じように目新しいお邸で、と造営を急がせなさる。
光源氏は二条院を本拠として、その西の対に紫の上を住まわせながら、花散里は二条東の院、明石の君は大堰と、離れ離れに暮らしています。そういう人たちをひとところに集めようという考えを持つようになり、秋好中宮の実家である六条の邸(かつて六条御息所が住んでいたところ)を含む四町を造営して壮大な邸宅を作り始めます。通常上流貴族の邸は一町(およそ110m四方)で、藤原道長の京極殿(土御門殿)や東三条殿など規模の大きいもので二町でした。四町となると引退した天皇の住まい(後院)となった冷泉院の大きさに該当する、約5万㎡という巨大な邸宅です。
折しも、紫の上の父である式部卿宮(以前の兵部卿宮)が来年五十歳になるので、その賀(祝い)を新しい邸で行おうと工事を急がせているのです。式部卿宮は光源氏とは必ずしもうまく行っているとは言えない関係です。娘(紫の上)を無理やり連れだしたという事実があり、その後光源氏が須磨に流謫した時にはかなり冷淡な態度を取りました。光源氏もそれを恨むかのように復帰してからは好意的な態度はとらないままだったのです。さらに最近では、冷泉帝の后争いで、式部卿宮の娘の王女御は光源氏の養女の斎宮女御(=秋好中宮)に敗れています。そういった、両者の間に蓄積されていた澱のようなわだかまりを一掃するためにも、光源氏は精一杯の祝賀をおこなおうと考えます。これが光源氏の処世術なのでしょう。
年返りて、ましてこの御いそぎのこと、御としみのこと、楽人、舞人の定めなどを、御心に入れていとなみたまふ。経、仏、法事の日の装束、禄などをなむ上はいそがせたまひける。東の院に分けてしたまふことどもあり。御なからひ、ましていとみやびかに聞こえ交はしてなむ過ぐしたまひける。
年が改まって、なおさらのこと、この(式部卿宮の五十賀の)ご準備のこと、精進落としのこと、楽人、舞人の定めなどを、熱心に指示なさる。経、仏、法事の日の装束、禄などを(紫の)上はご準備になった。東の院(花散里)でも手分けなさることもあれこれある。(紫の上と花散里の)仲は、これまで以上にとても風雅にお心を交わしてお過ごしでいらっしゃった。
年が改まって、光源氏は三十五歳です。式部卿宮の五十の賀に関して光源氏は一生懸命采配を振るいます。賀の祝いの場合、法会をおこなって長寿を願ってから祝宴をおこないますので、その祝宴を「御としみ(精進落とし)」といっているのです。「経、仏、法事の日の装束、禄」というのは、その法事の際の飾りつけや人々の装束、禄の品のことです。これらは紫の上が準備しますが、こういうことになると力強い味方は花散里です。おそらく紫の上から丁寧な依頼があって、花散里もそれを快く引き受けたのでしょう。この二人の関係はライバル関係というものではないこともあって、きわめて好ましいものでした。
世の中響きゆすれる御いそぎなるを、式部卿宮にも聞こしめして、年ごろ、世の中にはあまねき御心なれど、このわたりをばあやにくに情けなく、事に触れてはしたなめ、宮人をも御用意なく愁はしきことのみ多かるに、つらしと思ひ置きたまふことこそはありけめ、と、いとほしくもからくも思しけるを、かくあまたかかづらひたまへる人びと多かるなかに、取りわきたる御思ひすぐれて、世に心にくくめでたきことに思ひかしづかれたまへる御宿世をぞ、わが家まではにほひ来ねど、面目に思すに、また、かくこの世にあまるまで、響かし営みたまふは、おぼえぬ齢の末の栄えにもあるべきかな、と喜びたまふを、北の方は、心ゆかずものしとのみ思したり。女御、御まじらひのほどなどにも、大臣の御用意なきやうなるを、いよいよ恨めしと 思ひしみたまへるなるべし。
世の中が大騒ぎをするほどのご準備なのだが、式部卿宮もお聞きになって、長年、(光源氏は)世の中に広く思いやりをなさるお心だったが、私(式部卿宮)のところにはむやみに薄情で、何かにつけてみじめな思いをさせ、この屋敷に使えている人に対してもお心配りがなく、つらいことばかり多かったのだが、それは私を恨めしくお思いになることがおありだったのだろう、と、いたわしくもつらくもお思いになったのだが、このように多くかかわりをお持ちの女性がいらっしゃる中で、とりわけご寵愛が深くてまことに奥ゆかしく立派なまでに大切にされていらっしゃる方(紫の上)の御宿世を、その余光はわが家までは及ばないものではあるが、晴れがましいことだ、とお思いになっていたのだが、また、このようにこの世にまたとないほど立派にご準備くださっているのは、思いがけぬわが人生の末の名誉であろうとお喜びになるのを、北の方はご不満で、不愉快だとばかりお思いになっていた。女御(式部卿宮の娘)の入内のときなどにも、源氏の大臣のお心遣いがなかったようであったのを、いっそう恨めしいことと心からお思いになっているのであろう。
光源氏がこのように熱心に式部卿宮の五十賀の準備をしていることは当の式部卿宮の耳にも入ります。思えば、長年光源氏都は何かぎくしゃくした関係でした。誰に対しても恵みを与えるような人なのに、わが一家には冷たかったという思いもあるのです。しかしそれは自分のしたことが招いたのかもしれない、とさすがに年功を積んだ人らしく冷静に考えるようになっています。それにつけても多くの女性と関りを持つ人なのに、自分の娘である紫の上を一番大事にしてくれているのは間違いありません。その恩恵が自分にまでは届かないものの、やはり娘の栄光は晴れがましいのです。縁の薄い娘であっても、それが父親の気持ちなのです。そのうえに、このたびこうして賀の祝いを計画してくださっているのは残り少ない自分の人生の中でも晴れがましいことではないかと感じます。一方、式部卿宮の北の方は、紫の上の実母ではありませんから、どれほど紫の上が寵愛を受けようと彼女の知ったことではないのです。それよりも、実子の王女御の立后を妨げた恨みを持っているだけに、光源氏に対しては胸に一物を抱いているのです。
八月にぞ、六条院造り果てて渡りたまふ。未申(ひつじさる)の町は中宮の御古宮なれば、やがておはしますべし。辰巳(たつみ)は殿のおはすべき町なり。丑寅(うしとら)は東の院に住みたまふ対の御方、戌亥(いぬい)の町は明石の御方と思しおきてさせたまへり。もとありける池山をも、便なき所なるをば崩し変へて、水の趣き、山のおきてを改めて、さまざまに御方々の御願ひの心ばへを造らせたまへり。南の東は、山高く、春の花の木、数を尽くして植ゑ、池のさまおもしろくすぐれて、御前近き前栽、五葉、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅などやうの、春のもてあそびをわざとは植ゑで、秋の前栽をばむらむらほのかに混ぜたり。
八月になってついに六条院の造営は完成して、お渡りになる。未申(南西)の町は(秋好)中宮の旧邸なので、そのまま中宮がいらっしゃるはずである。辰巳(南東)は殿(光源氏)のいらっしゃるはずの町である。丑寅(北東)は東の院にお住まいになっている対の御方(花散里)、戌亥(北西)の町は明石の御方とお決めになった。もともとあった池や山も、不都合なところのものは崩して場所を変え、水の趣き、山のたたずまいを改めて、御方々のそれぞれのご希望の趣を造営なさった。南の東は、山を高くして、春の花の木の多くの種類を植え、池のようすもおもしろくすばらしく、御前近くの前栽は、五葉、紅梅、桜、藤、山吹、岩つつじなどのような、春に観賞するものを目立っては植えないで、秋の前栽をあちらこちらにわずかに混ぜてある。
光源氏三十五歳の八月、前年の秋からざっと一年をかけて造営した六条院が完成しました。四町の敷地を大きく四つに分けて、「春の町」と呼ばれる南東の町は光源氏や紫の上の住まい、「夏の町」の北東の町は花散里、「秋の町」の南西は秋好中宮、「冬の町」の北西は明石の君が女主人として、彼女たちの願いを聴いたうえで庭づくりをします。そのうち、春の町は、春の花の木、といいますから、桜、梅、藤などを数々に集めていますが、すぐそばの前栽にはそういったものだけではなく、秋の草木も交えて植えています。
中宮の御町をば、もとの山に、紅葉の色濃かるべき植木どもを添へて、泉の水遠く澄ましやり、水の音まさるべき巌(いはほ)立て加へ、滝落として、秋の野をはるかに作りたる、そのころにあひて、盛りに咲き乱れたり。嵯峨の大堰のわたりの野山、むとくにけおされたる秋なり。
中宮の御町については、もとからの山に、紅葉の色濃くなるであろう植木をあれこれ添えて、泉の水をはるかに美しく流し、水の音がまさるように巌を新たに置き、滝を落として秋の野をはるか見渡すように作ってあるのは、この時節に合って今を盛りと咲き乱れている。嵯峨野の大堰のあたりの野山が、何の観るかいもないほどに圧倒されている秋なのである。
秋好中宮の秋の町です。ここはもともと彼女の実家ですから、美しく造営されていたのです。それに加えて、さらに紅葉の季節に色濃く見えるような木々を植えます。水の音がはっきり聞こえるように、大きな岩を置いて、そこから滝として水を落とし、秋の野が一望できるように作られています。折しも今は秋の盛りで、美しい花の咲いている様子は、秋の風景では随一とされる大堰にもまさるものです。「むとく(無徳)に」というのは「なんのかいもない」ということで、さしもの大堰も抵抗できないほどのすばらしさだというのです。秋を好むと以前言っていた彼女にふさわしい作りになっています。
北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の蔭によれり。前近き前栽、呉竹、下風涼しかるべく、木高き森のやうなる木ども木深くおもしろく、山里めきて、卯の花の垣根ことさらにしわたして、昔おぼゆる花橘、撫子(なでしこ)、薔薇(さうび)、くたになどやうの花、草々を植ゑて、春秋の木草、そのなかにうち混ぜたり。東面は、分けて馬場(むまば)の御殿(おとど)作り、埒(らち)結ひて、五月の御遊び所にて、水のほとりに菖蒲(さうぶ)植ゑ茂らせて、向かひに御厩(みまや)して、世になき上馬(じやうめ)どもをととのへ立てさせたまへり。
北の東は、涼しそうな泉があって、夏の木蔭を意識している。御前近くの前栽は、呉竹を、下を通る風が涼しいようにして、背の高い木々が森のようになっているのも風情豊かで、山里のようにして、卯の花の垣根をことさらにめぐらすようにして、昔が思い出される花橘、撫子、薔薇、苦丹などのような花、草々を植えて、春秋の木草をそのなかに混ぜてある。東面は、一部を割いて馬場の御殿を作り、埒をもうけて、五月の(競馬の)御遊び所として、水辺には菖蒲を植え茂らせて、向かいに厩を作って、世にまたとないほどの駿馬をたくさん用意していらっしゃる。
北東の夏の町の様子です。花散里は夏に登場することの多い人でした。「花散里」巻がそうでしたし、その後も夏の人というイメージがあります。彼女にふさわしいのはやはりこの季節でしょう。それは真夏の暑いころというよりは、五月の橘、菖蒲、ほととぎすなどの季節という感じです。橘というと「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今和歌集・よみびと知らず)で知られ、「昔おぼゆる花橘」といっているのもこの歌による一節です。「くたに」はリンドウのこととも言われるのですが、季節が合わず、「苦丹」で牡丹の類だとされます。
夏の町の建物は、やはり中宮や紫の上の町に比べるといささか規模の小さなものにして、東側は馬場や馬場殿(競馬を見るところ)を設けています。五月には左近、右近の馬場で騎射などがありますが、それをここでも行おうということのようです。
西の町は、北面(きたおもて)築(つ)き分けて、御倉町(みくらまち)なり。隔ての垣に松の木しげく、雪をもてあそばむたよりによせたり。冬のはじめの朝、霜むすぶべき菊の籬(まがき)、われは顔なる柞原(ははそはら)、をさをさ名も知らぬ深山木どもの、木深きなどを移し植ゑたり。
(北の)西の町は、北側に築地(塀)で区切って、御倉町にしている。区切るための垣には松の木を多く植えて、雪を賞翫するために都合よくしている。冬のはじめの朝に霜をむすぶであろう菊の籬、得意顔の柞の原、ほとんど名も知らぬ深山木どもの茂っているものなどを移し植えてある。
「西の町」というのは、先ほどの花散里の町が「北の東」でしたから、それに対して「北の西」というほどの意味です。明石の君の「冬の町」はさらに規模が小さくて、まず北側にはさまざまな倉庫を建てています。その倉庫群を隔てるための垣として松の木を多く植えているのは、冬になって雪が降った時に、それに積もらせるようにしているのです。菊は晩秋に咲きますが、衰えた菊もまた愛され、冬の初めに霜が降りているのも風情があると思われました。「心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花」(古今集・秋下・凡河内躬恒)で知られるように、朝霜との相性もいいのです。「柞」はナラやクヌギのことと言われ、「母」に掛けて和歌に詠まれることもありました。そのため、古注釈には、明石の姫君の母親である明石の君の町であることと関係づけて解釈するものがあります。「はゝそは姫君あれはなり(柞というのは、姫君がいるからである)」(『孟津抄』)などがそれです。
彼岸のころほひ渡りたまふ。ひとたびにと定めさせたまひしかど、騒がしきやうなりとて、中宮はすこし延べさせたまふ。例のおいらかにけしきばまぬ花散里ぞ、その夜、添ひて移ろひたまふ。春の御しつらひはこのころに合はねど、いと心ことなり。御車十五、御前四位五位がちにて、六位殿上人などは、さるべき限りを選らせたまへり。こちたきほどにはあらず、世のそしりもやと省きたまへれば、何事もおどろおどろしういかめしきことはなし。今一方の御けしきも、をさをさ落としたまはで、侍従の君添ひて、そなたはもてかしづきたまへば、げにかうもあるべきことなりけりと見えたり。女房の曹司町(さうじまち)ども、当て当てのこまけぞ、おほかたのことよりもめでたかりける。
彼岸のころにお移りになる。一斉に、とお決めになっていたのだが、騒がしいようだというので、中宮はすこし日延べなさる。例によっておっとりとして気取ったりしない花散里が、その夜、(紫の上に)従うようにお移りになる。春の設営はこの時節には合わないが、とても格別なのである。御車十五両、御前は四位や五位が主なもので、六位の殿上人などは確かなものだけをお選びになった。大げさというほどではなく、世間の非難もあるかもしれないと簡素になさったので、何ごとも人目を驚かすようないかめしいことはない。もうおひとりの方(花散里)のご様子も、ほとんど格を落としたりはなさらずに、侍従の君(夕霧)が付き添って、そちらのお世話をなさったので、なるほどこのように扱われるはずの人だったのだ、とうかがわれた。女房の部屋に宛てられるところは、誰にどこを当てるかという細かいことがほかのことにも増してすばらしいことであった。
彼岸は旧暦八月です。完成してまもなくの移住ということになります。騒々しくならないように、中宮が遅れて入ることになります。さすがに中宮の行啓となるとただ事ではすみませんから。まずは紫の上です。そして彼女のお供をするかのように、花散里が移ります。中宮がいかにも大げさな行列になりかねないのに対して、この謙虚な人らしい行動です。あまりにも大げさなことをすると、世間の目もありますので、お供するものも控えめにして、二条院から六条院までの2㎞ほどの道中です。それにしても、ここでは明石の君については何も書かれません。彼女はそういう身の上の人なのです。花散里は控えめにして移ったのですが、だからと言って差別されたわけではなく、しかるべき待遇での転居となりました。養子格の夕霧がきちんと世話をしているので、この人はこの人でしかるべき待遇がなされているとわかるのです。そして女房がどこに住むべきかといったことまでことこまかに定められているために着いてからドタバタすることもないのがとても落ち着いた立派なようすだったというのでしょう。
五、六日過ぎて、中宮まかでさせたまふ。この御けしきはた、さは言へど、いとところせし。御幸ひのすぐれたまへりけるをばさるものにて、御ありさまの心にくく重りかにおはしませば、世に重く思はれたまへること、すぐれてなむおはしましける。この町々の中の隔てには、塀ども廊などを、とかく行き通はして、気近くをかしきあはひにしなしたまへり。
五、六日過ぎて、中宮が退出なさる。このときの模様はまた、簡素にするとはいってもたいそう盛大なのである。ご幸運ひのすぐれていらっしゃることはもちろんのこと、お人柄が奥ゆかしく重厚でいらっしゃるので、世の中で重々しく思われていらっしゃることといったら、すばらしいのであった。これらの町々の間の隔てのところには、多くの塀や廊などを行き来ができるようにして、親しく好ましい関係になるようにご配慮になっているのである。
この転居のメインは、身分柄やはり中宮でしょう。紫の上と花散里の移住からご六日して、満を持するように彼女は内裏から退出する形で六条院の秋の町(南西側)にやってきます。行啓ですので、いくら質素にするといっても限界がありますから、どうしても派手にならざるを得ません。それもこれも、ほかの女御に勝って中宮となった運のすばらしさとともに彼女の人柄がそのようにさせるのです。ではこれらの町々は互いに対立牽制し合うような、形になっているかというとそうではなく、光源氏の配慮によって行き来ができるように作られているのです。もちろん、そう簡単に女性方がほかの女性のところに遊びに行くというようなことはできないでしょうが。
長月になれば、紅葉むらむら色づきて、宮の御前えも言はずおもしろし。風うち吹きたる夕暮に、御箱の蓋に、色々の花紅葉をこき混ぜて、こなたにたてまつらせたまへり。大きやかなる童(わらは)の、濃き衵(あこめ)、紫苑(しをん)の織物重ねて、赤朽葉(あかくちば)の羅(うすもの)の汗衫(かざみ)、いといたうなれて、廊(らう)、渡殿(わたどの)の反橋(そりはし)を渡りて参る。うるはしき儀式なれど、童のをかしきをなむえ思し捨てざりける。さる所にさぶらひなれたれば、もてなしありさま他のには似ず、好ましうをかし。
長月になると、紅葉があちらもこちらも色づいて、中宮の御前は何とも言えず風情がある。風が少し吹いた夕暮に、箱の蓋に、色とりどりの花紅葉をとり混ぜて、こちら(源氏のいる春の町)に差し上げなさった。大きな童女の、濃い衵に紫苑の織物を重ね、赤朽葉の羅の汗衫を着けて、とても物馴れたようすで、廊や渡殿の反橋を渡って参る。きちんとした儀式ではあるが、かわいらしい童女をご自分のお考えでお使いになさったのであった。きちんとしたところにお仕えすることには慣れているので、身のこなしや、姿まで、ほかのところの童とは違って好ましく美しい。
九月になると紅葉がいっそう鮮やかになります。早速中宮の居所のあたりが一年で一番華やかに見える時節です。そこで中宮は「このように美しいところです」といわんばかりに、紅葉や秋の花をしかるべき箱に入れて紫の上に見せようと送り届けてきます。中宮からの使者ですから、正式の儀式にのっとって、本来なら女房がお使いに出るところでしょうが、大柄で美しい童女を選んで使いに出します。さすがに中宮付きの童女ですからしつけが行き届いており、めったなことで礼式をはずすようなことはありません。ほかのどこにいる童女よりもまさっているのです。
御消息には、
心から春まつ園はわが宿の
紅葉を風のつてにだに見よ
若き人々、御使もてはやすさまどもをかし。御返りは、この御箱の蓋に苔敷き、巌などの心ばへして、五葉の枝に、
風に散る紅葉は軽し春の色を
岩根の松にかけてこそ見め
この岩根の松も、こまかに見れば、えならぬ作りごとどもなりけり。とりあへず思ひ寄りたまひつるゆゑゆゑしさなどををかしく御覧ず。御前なる人びともめであへり。
お手紙には、
そちらのお好みによって春を待つ
お庭には、こちらの紅葉をせめて
風のつてにでもご覧ください。
若い女房たちが、このお使いをもてなす様子も風情がある。御返事は、この御箱の蓋に苔を敷いて、巌などの風情にして、五葉の枝に、
風に散る紅葉は軽いものです。春
の美しさを岩根の松に託してご覧
ください。
この岩根の松も、こまかく見ると、何とも言えない美しさの作りものなのであった。このようにとっさにお考えつきになった品格豊かなようすなどを(中宮は)おもしろくご覧になる。御前の女房たちも褒め合っている。
今が盛りの秋の風情を紫の上に見せるのは、春秋の優劣を争う趣向です。かつて紫の上が春を好むといったとき、中宮(当時は女御)は秋を好むといったのでした(「薄雲」巻)。中宮からは、「あなたは自分で好んで春の町にいらっしゃいますが、今はその春を待つばかりでご退屈でしょうから、せめてこの美しい秋の風情をご覧ください」と言ってきたのです。何も喧嘩をしているわけではなく、こうして優劣を競って楽しむのです。すると紫の上からは中宮から贈られた箱の蓋に苔を敷いて巌のイメージにしてそれに五葉の松をつけて「紅葉は散ってしまうものですから軽々しいものです、春の風情をこのいつも変わらぬ緑の松で味わってください」とやり返したことになります。しかもその松も実はとっさに用意した作りものだったという手の込んだものだったのです。この返歌について『細流抄』は「ねたます様にの給へともちとも卑下せすしての給也(相手を妬ませるようにおっしゃっているが、少しも卑下せずにおっしゃっているのである)」と注を付けています。さすがにすばらしい趣向で返事をしてきたことについては、中宮の女房たちも感心するのです。
大臣、「この紅葉の御消息いとねたげなめり。春の花盛りにこの御いらへは聞こえたまへ。このころ紅葉を言ひ朽さむは、龍田姫の思はむこともあるを、さし退きて花の蔭に立ち隠れてこそ強きことは出で来め」と聞こえたまふも、いと若やかに尽きせぬ御ありさまの見どころ多かるに、いとど思ふやうなる御住まひにて聞こえ通はしたまふ。
源氏の大臣は「この紅葉のお手紙はしてやられたようですね。春の花盛りにこのお返事をなさいませ。この時節に紅葉を悪く言ったりすると、龍田姫のご不満に思われるであろうこともありますから、一歩下がって、春の花の後ろに立ってやりこめるような歌もできるでしょうから」と申し上げなさるのも、とても若々しく尽きることのない美しい見どころの多いお姿で、以前に増して理想的なお住まいとしてお便りを交わしたりなさるのである。
秋好中宮のところにいた光源氏は、紫の上をたたえつつ、いずれ春になったら仕返ししてやりなさい、と中宮に言います。龍田姫は、龍田山にいる、秋を司る女神です。あまり秋のことでやり合っては龍田姫のご機嫌を損ねるので、というわけです。こうして、御方々は四季折々にやりとりができるようにして、これまでばらばらであった光源氏の周囲の主だった女性たちが六条院という枠の中に入ってひとつの秩序を作るようになっていくのです。
大堰の御方は、かう方々の御移ろひ定まりて、数ならぬ人はいつとなく紛らはさむ、と思して、神無月になむ渡りたまひける。御しつらひ、ことのありさま劣らずして渡したてまつりたまふ。姫君の御ためを思せば、おほかたの作法もけぢめこよなからず、いとものものしくもてなさせたまへり。
大堰の御方(明石の君)は、こうして方々のご移住がおさまってから、ものの数にも入らない自分のような者はいつ来たのかというようにわからないようにして行こう、とお思いになって、神無月にお移りになった。(光源氏は明石の君の)お部屋のしつらいや、お渡りの行列もほかの人に劣らないようにしてお移し申し上げなさる。姫君の御ためにということをお考えになると、およその作法も差別することなくとても重々しくお扱いになった。
残る一人は明石の君です。この人は身分を弁えていますので、元の春宮の娘で今の中宮(秋好中宮)、式部卿宮の娘で押しも押されもせぬ光源氏最愛の人(紫の上)、麗景殿女御の妹で夕霧の親代わりになっている人(花散里)と同列に移り住むのは控えようとするのです。いかにも謙虚なこの人らしい姿勢です。八月の彼岸の頃に紫の上と花散里、それから五、六日して秋好中宮が移りましたが、明石の君はなんと十月まで待つのです。それでも光源氏は差別しないように体裁を整えて迎えてやります。何と言っても光源氏唯一の娘の実母ですから、ないがしろにはできません。
これで「少女」巻は閉じられます。太政大臣となって政治の第一線からは退いた光源氏が、王朝文化の精髄を集めたような六条院という壮大な邸宅を築き上げ、主な女性たちを集めたのです。光源氏はまだ三十五歳ではありますが、これで彼の人生にひとつの区切りがなされたというべきでしょう。
物語は次なるヒロインを求めるようです。それは、光源氏が若き日に心を燃やしたあの夕顔の遺児である玉鬘なのです。
この続きは、年明けに書いていくことにいたします。
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- [2020/12/04 00:00]
- 平安王朝 和歌 |
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2020年文楽東京公演初日
ウイルス感染の収まらない中ではありますが、本日から文楽東京公演と鑑賞教室が始まります。
文楽公演
【第一部】
仮名手本忠臣蔵(二つ玉、身売り、早野勘平腹切)
【第二部】
桂川連理柵(六角堂、帯屋)
文楽鑑賞教室
社会人のための文楽鑑賞教室
二人禿
解説 文楽の魅力
芦屋道満大内鑑(葛の葉子別れ)
というプログラムです。
ともかくも、無事に千秋楽が迎えられますように。
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- [2020/12/03 00:00]
- 文楽 浄瑠璃 |
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眞子さんの恋(1)
秋篠宮家のお嬢さんである眞子内親王の結婚問題がとやかく言われています。先日の文仁親王の誕生日会見では結婚してもいいけれども、きちんとした態度を取りなさい、というような感じだったと思います。
皇族女性の結婚というのは昔からとても難しい問題でした。律令時代の「令」の規定では、天皇の妃になる人は内親王だけで、また、内親王は臣下と結婚することはできませんでした。ところが、実際には天皇の妃に続々と藤原氏の娘が入るようになり、しかも臣下と内親王の結婚は身分上の問題で控えねばならないという考えが根強く、独身のまま生涯を送る内親王たちが多くなってしまったのです。その結果、平安時代前期に結婚した内親王は
2割に満たない
というありさまでした。
『源氏物語』には朱雀院の皇女である女二宮(落葉の宮)とその異母妹の女三宮がそれぞれ柏木、光源氏と結婚し、不幸な運命に巻き込まれていきます。
それは1000年以上前のことですし、『源氏物語』はフィクションですから、今の皇族の問題と一緒にならないのは当然のことです。それでも、内親王の結婚が相手の問題もあって難しいことに変わりはないようです。家柄がどうのこうの、勤務先がああだこうだ、見た目がいくらなんでも、性格がこうでないと、などと言い出すとほとんど相手がいなくなってしまいそうです。以前の内親王が結婚した相手は姓を見ただけで、「いかにも」という方と結婚される人が多かったようです。東久邇さん、鷹司さん、島津さん、千さん等々。
今の天皇の妹の清子さんもいろんな噂がありましたが、結婚となると難しかったのか、30代半ばまでひとりでした。三笠宮家のおふたりの女王はすでに30代後半、高円宮の長女さんも30代半ばですが、今もまだ独身です。
もちろん、今どきは「結婚が女の幸せだ」という考えを持たない人も多く、独身で生きていかれるならそれでもいいのですが、結婚しようと思っている人にとっては気の毒な面もあります。
眞子さんも、若い若いと思っていたら、来年
30歳
になります。いまどき、30歳の独身女性など珍しくありませんが、彼女は早い時期の結婚願望が強いようです。我々のような庶民であれば自由に考えられるのに、と、いささか同情を禁じ得ません。
以前は適当な人を紹介するという形で一種のお見合いのような形で知り合われることが多かったのでしょう。しかし最近は、自由が重んじられるようになっているのですから、ごく普通の恋愛をしてごく普通の相手と結婚したいと思うのは自然の成り行きだろうと思います。
「世論」と言われるものの中にも、相手の青年へのやっかみのようなものが感じられますし、無署名で皇族を責めることで留飲を下げようとする感情もあるでしょう。以前は結婚そのものに否定的な意見が多かったようですが、最近は「一時金を辞退してさっさと結婚すればいい」「結婚しても皇居には足を踏み入れさせないようにすべき」のような方向に変わってきたように思います。
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- [2020/12/02 00:00]
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