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私の「ブログの書き方」(2) 

私がひとつの記事をどれくらいの時間で書いているか、とのことですが、これはもう記事によってさまざまです。文楽の記録(「2021年2月東京公演初日」など)の場合は間違いを避けるためにもわざと国立劇場のHPなどからコピペして若干編集することが多いので、5分もあればかけると思います。
一方、昨日話題にした「遊女かしく」の記事などは知らないことばかりですので、浄瑠璃の『八重霞浪花浜荻』を読んだり、内山美樹子先生の論文を拝読したり、摂津名所図会などの文献を調べたりして書きました。そういう手間を含めるとかなり時間はかかっています。もっとも、あのときは何日分も「かしく」をテーマにしましたから、1回平均にするとさほどではないかもしれませんが。
今書いているこの記事は、ご質問いただいたことに答えるだけですから、気がついたことをほとんど

    何も考えずに(笑)

文章にしていますので、短時間でできるだろうと思います(何分かかったかこの記事の最後にお知らせします)。
ほんとうは、文章のまずさや言葉遣い、漢字などの間違いを丁寧に見直さねばならないのですが、それはかなり横着になっていて、よくミスをしています。
一気に書き上げているのか、というご質問なのですが、たいていは一気に書きます。しかし、何か調べないと書けない場合などは、書きさして図書館に調べに行ったりしています。
文章を書くことがまるで

    苦にならない

どころか、とにかく好きですので、ここまで続いているのだろうと思います。何の意味もないことのようではありますが、ボケ防止になるだろうとは思っています(笑)。
最近はコメントをくださるのが、リアルでもよく存じ上げている3人様がほとんどですので安心なのですが、やはり難しい人からのコメントが入ることもありました。何かで検索してこられたのだろうと思うのですが、おっしゃっていることがよくわからなかったり、ただケチをつけられているだけに思えたり。もちろんスパムコメントに比べればありがたいのですが。
スパムコメントは全部英語の文章なので(笑)すぐにわかりますから、読むこともなく削除しています。
コメントをくださらなくても熱心に読んでくださる方もあります。昔、NHKからのアクセスが急に増えて(そういうこともわかります)、なぜなのかと思ったら、その直後に番組を作りたいと言われたことがありました。その方(ディレクターさん)は、コメントはくださってはいませんが、最初はファックスで、その後は直接何度もお目にかかってお話ししました。
このブログがきっかけになってお会いした人はけっこうな数になりました。特に初期のころは文楽ファンの方がたくさん来てくださいましたので、「今度文楽劇場で会いましょう」ということになることが多かったのです。そういう方は価値観や好みの合う方ばかりですので、楽しいです。
というわけで、昨日、今日の2日分の記事を書きましたが、全部でだいたい25分くらいでした。

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私の「ブログの書き方」(1) 

詳しい数字は3月1日の「ブログ創立記念日」に改めて書くことにしますが、私はこれまでにこのブログに5,000あまりの記事を書いてきました。飽きもせずに長く書いてるなぁ、とお思いの方もいらっしゃるようで、実は先日こんな質問をいただきました。

(1)どういう環境で、どういう道具で書いているのか
(2)一本の記事にどれくらい時間をかけて書いているのか
(3)一気に書き上げているのか、何度かに分けて書いているのか

というものです。
道具は、家に置いている中古パソコンがほとんどで、土曜、日曜など、少しゆったり時間があるときにまとめて書いているのです。早朝とか就寝前とか、新聞を読みながら気になるテーマを探しては書き始めることもあります。あまり真剣になって書いているわけではなく、あくまで気楽な筆任せ(キーボード任せ?)の書き方です。
ときには1か月先くらいまで予定記事が埋まっていることがあります。ブログの機能に「予約投稿」というのがあって、「○月○日○時○分○秒に公開する」という設定ができます。これを使って、ずいぶん先まで書いておくのです。ときどき、設定を間違えて公開しているつもりなのに下書き状態になっていることがあり、2,3日後にあわてて設定を変えてアップすることがあります。
実は、この記事を書いているのは1月28日です。今調べたら2月20日まで埋まっていました。ただ、この記事はあまり遅くなるとご質問くださった方に失礼ですので、本日(1月31日)に予定していた記事を後日に回してアップことにします。

    スマートフォン

で書くことはほとんどありません。やはり字数が多いのでパソコンが便利なのです。パソコンではワードで作成してためておいて、適当な日にまとめてブログの設定ページに移して「予約投稿」に設定しています。
ですから、1日に5日分くらい書くことがあります。そんな時間がよくあるね、と言われそうですが、テレビを観ませんし、音楽を聴きませんし、お酒もほとんど飲みませんし、パチンコもしませんし、勉強もしませんし(←それはあかん!)、時間は探せばあるものです。
テーマは「思いついたこと」としか言いようがありません。本とか、SNSでどなたかが発言していらっしゃったことを読んで、自分なりに考えたり調べ直したりしたものもあります。いつぞや

    「遊女かしく」

の記事を連続して書きましたが、ちょっとしたことがきっかけでいろいろ調べ始めて書きました。仏像のことをいろいろ書いた時は、やはり仏像の本を読んで、きになることをまた別の本で調べたりして、自分なりにまとめるようにしました。

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源氏物語「玉鬘」(4) 

玉鬘は、豊後介の勧めによって石清水八幡に行き、さらにそのあと長谷寺に参詣することになりました。長谷寺の観音は、石山寺(本尊は如意輪観音)、清水寺(十一面千手観音)とともに利益(りやく)があることで知られ、多くの参詣者があったようです。徒歩で行く方がご利益があるというので、苦しい思いをしながら歩みを進め、やっとの思いで椿市までたどりつきました。ここまでくるともうすぐ目的の長谷寺なのですが、さすがに疲れて足が動かないくらいです。それが偶然の出会いを産むきっかけにもなります。

歩むともなく、とかくつくろひたれど、足のうら動かれずわびしければ、せむかたなくて休みたまふ。この頼もし人なる介、弓矢持ちたる人二人、さては下なる者、童など三、四人、女ばらある限り三人、壺装束して、樋洗(ひすまし)めく者、古き下衆女二人ばかりとぞある。いとかすかに忍びたり。大燈明(おほみあかし)のことなど、ここにてし加へなどするほどに日暮れぬ。家主(いへあるじ)の法師、「人宿したてまつらむとする所に、何人のものしたまふぞ。あやしき女どもの、心にまかせて」とむつかるを、めざましく聞くほどに、げに、人びと来ぬ。

もうこれ以上歩むというのでもなく、何かと手当てをしたのだけれど、足の裏が動くこともできずどうにもならないので、しかたなくお休みになる。この頼りになる豊後介、弓矢を持っている者が二人、さらには下人、童など三、四人、女たちは全部で三人。壺装束をして、樋洗のような者、古くからの下女二人ほどがいる。とてもひっそりと隠れるようにしている。御燈明のことなどを、ここで新たに準備しているうちに日が暮れてしまう。家主人の法師は、「人をお泊めしようとするところに、どういう人がいるのか。賤しい女どもが勝手に」と不機嫌に文句を言うのを、失敬ではないかと聞いていると、なるほどそのとおり、人々がやってきた。

玉鬘は足が痛くて、歩くのがかなり苦痛のようです。午前中にここまで来ているのですから、あと一里なら午後に十分歩いていける距離です。しかしともかくも休憩せざるを得ません。一行は、少ない人数といっても男たちが六、七人、女は樋洗やその他のものを含めると六人くらいです。壺装束の三人の女というのは玉鬘、乳母、兵部の君でしょう。「樋洗」は便器の処置、掃除をする者のことです。このころは、おまるのようなものに排泄して、それを樋洗がきれいに洗浄するのです。長谷寺で仏前に供えるための燈明を準備したりしているともう夕暮れです。参詣者に宿を貸す仕事をしているこの家の主人は法師のようです。副業というのも変かもしれませんが、こういうこともしていたのですね。この法師が言うには、今日は先約があって泊まる人がいるのに、勝手に入り込んでいるのは何者なのだ、と言うのです。「宿したてまつらむ」と謙譲語がありますので、この客は賤しからぬ者なのでしょう。仮にも内大臣様のお嬢様です、という気持ちがありますから、いくらなんでもそれは失礼ではないかと思っていたら、たしかに予約していたらしい人たちが到着したのです。

これも徒歩(かち)よりなめり。よろしき女二人、下人(しもびと)どもぞ、男女(をとこをむな)、数多かめる。馬四つ、五つ牽かせて、いみじく忍びやつしたれど、きよげなる男どもなどあり。法師は、せめてここに宿さまほしくして、頭(かしら)掻きありく。いとほしけれど、また、宿り替へむもさま悪しくわづらはしければ、人びとは奥に入り、ほかに隠しなどして、かたへは片つ方に寄りぬ。軟障(ぜじやう)などひき隔てておはします。この来る人も恥づかしげもなし。いたうかいひそめて、かたみに心づかひしたり。さるは、かの世とともに恋ひ泣く右近なりけり。年月に添へて、はしたなき交じらひのつきなくなりゆく身を思ひなやみて、この御寺になむたびたび詣でける。

この一行も徒歩のようである。それなりの身分の女二人と下人たちは、男女それぞれ数多いようだ。馬四、五頭を牽かせて、ずいぶん人目を忍ぶように質素にしているが、こぎれいな男たちなどもいる。法師は、どうしてもここに宿ってもらいたいという気持ちで、頭掻きながら右往左往している。気の毒だとは思うのだが、今また宿を替えるのも具合悪く面倒なので、(玉鬘一行の)人々は奥に入ったり、ほかの部屋に姿を隠したりして、残りの人は片隅に寄った。軟障(室内を隔てるための仕切りの幕)などを引いて離れていらっしゃる。この、やって来た人も気が引けるほどではない。できるだけ声をひそめて、お互いに気を使っている。それが実は、あの何かにつけて(夕顔を)慕って泣く右近なのであった。年月が過ぎるにつれて、体裁の悪いお勤めが似つかわしくなくなっていくわが身を思い悩んで、この御寺にたびたび詣でたのであった。

あとからやってきた一行も同じように徒歩でやってきた女性たちでした。いやしからぬ人のようで法師としてはこの人たちに何としてもここに泊まってもらいたくて世話をしています。玉鬘一行も、その人たちの邪魔をする気はなく、遠慮がちにしていますが、軟障を隔てているだけで、声は潜めても何となくようすがわかります。その人物は、なんと、あの夕顔の侍女で、「なにがしの院」まで同行した右近だったのです。これはもう観音様のお引き合わせというほかはないようです。

例ならひにければ、かやすくかまへたりけれど、徒歩より歩みたへがたくて、寄り臥したるに、この豊後介、隣の軟障のもとに寄り来て、参り物なるべし、折敷(をしき)手づから取りて、「これは、御前に参らせたまへ。御台などうちあはで、いとかたはらいたしや」と言ふを聞くに、わが並の人にはあらじ、と思ひて、物のはさまより覗けば、この男の顔、見し心地す。誰とはえおぼえず。いと若かりしほどを見しに、太り黒みてやつれたれば、多くの年隔てたる目には、ふとしも見分かぬなりけり。

いつものことで馴れているので、身軽な旅装をしていたのだが、歩いてきたのでこらへがたくてものに寄りかかって臥していると、この豊後介が隣の軟障のそばに寄ってきて、食べ物であろう、折敷を自分の手で持ってきて、「これは、御前(玉鬘)にさしあげてください。台などが間に合わずに、まったくきまり悪いのですが」と言うのを聞いて、自分と同じような身分の人ではあるまい」と思って、物の隙間から覗くと、この男の顔はどこかで見た気がする。誰と思い出すことはできない。とても若かった頃に見たので、太り黒ずんで粗末な格好をしていたので、長い年月を経て見たかぎりでは、すぐにも見分けがつかなかったのである。

右近は、初瀬参りは慣れているとはいえ、徒歩の旅で疲れたために横になっていました。すると軟障の向こう側で男の声がします。食事をしかるべき身分の人に差し上げるようです。「折敷」は食物を置く角盆できちんとしたものではありません。本来なら「台」(高坏)に載せるべきところなのですが、ないようです。いかにも丁重な言い方なので、どういう人だろうと興味が湧きました。そして物の隙間からのぞくと、世話をしている男は見覚えがあるのです。

「三条、ここに召す」と呼び寄する女を見れば、また見し人なり。「故御方に、下人なれど、久しく仕うまつりなれて、かの隠れたまへりし御住みかまでありし者なりけり」と見なして、いみじく夢のやうなり。主とおぼしき人は、いとゆかしけれど、見ゆべくもかまへず。思ひわびて、「この女に問はむ。兵藤太といひし人も、これにこそあらめ。姫君のおはするにや」と思ひ寄るに、いと心もとなくて、この中隔てなる三条を呼ばすれど、食ひ物に心入れて、とみにも来ぬ、いと憎しとおぼゆるも、うちつけなりや。

「三条、こちらでお呼びだ」と呼び寄せる女を見ると、また見たことのある人である。亡き御方に、下人ではあったが、久しくお仕えして、あの身を隠されたお住まいまで一緒にいたものではないか、と認めると、まったく夢のようである。主と思われる人は、なんとか見たいのだが、見えるようにはしつらいをしていない。思ひあぐねて、この女に聞いてみよう。兵藤太といった人も、この男なのだろう。姫君はいらっしゃるのだろうか、と思いつくと、どうにもきがかりで、この仕切りのそばにいる三条を呼ばせるのだが、食べ物に気が向いて、すぐにも来ないのが何とも憎らしく思われるのも身勝手というものだ。

すると、豊後介が(姫君が)三条と言われる下女をお召しだ、と言い、その召された女を右近が見ると、これまた見覚えがあるのです。かつて夕顔が身を隠していたところ、つまり西の京の乳母の家や五条の住まいなどにも一緒に来ていた女なのです。となると彼らが主を仰いでいるのはひょっとして、と右近は見ようとするのですが、さすがに人から見られないようにしてありました。とにかくこの三条という女に聞いてみよう、世話をしている男はかつて兵藤太といっていた人なのだろう、と気がつきます。豊後介はかつては藤原氏の長男で兵部省に勤めていたので「兵藤太」と呼ばれていたのでしょう。右近は気もそぞろになって何とかこの三条を呼び寄せようとするのですがなかなかうまくいかないのです。

からうして、「おぼえずこそはべれ。筑紫の国に二十年ばかり経にける下衆の身を知らせたまふべき京人よ。人違へにやはべらむ」とて寄り来たり。田舎びたる掻練(かいねり)に衣など着て、いといたう太りにけり。わが齢もいとどおぼえて恥づかしけれど、「なほ、さし覗け。われをば見知りたりや」とて、顔さし出でたり。この女の手を打ちて、「あが御許にこそおはしましけれ。あな、うれしともうれし。いづくより参りたまひたるぞ。上はおはしますや」と、いとおどろおどろしく泣く。

やっとのことで、「思いがけないことでございます。筑紫の国で二十年ばほど暮らしていた下衆の身をご存じでいらっしゃる都の方なんて。人違いではございませんか」と言って寄って来た。田舎びた掻練に衣などを着て、すっかりひどく太ってしまっていた。自分の年齢もいっそう思い知られて気が引けるのだが、「かまわないから覗いてごらんなさい。私に見覚えがありますか」と言って、顔をさし出した。この女は手を打って、「あなたさまでいらっしゃいましたか。まあなんと、うれしいったらありません。どこから参詣なさったのですか。上(夕顔)はいらっしゃいますか」と、とても大げさなまでに泣く。

三条という女は、食べることに夢中でしたが、やっと気が付いて返事をしました。自分を知っている人などいるとも思えないのに、声を掛けられて不思議に思いつつも近づいてきました。「掻練」は練って柔らかくした絹のことですが、それに衣を着るというのがあまりよくわかりません。「かいねりの裳に衣着てといふへきを略したり」(『河海抄』)とか「上に薄衣を着たるへし」(『花鳥余情』)という注があります。右近は、今では田舎者らしく太ってしまった三条を見てわが身の年齢も感じます。彼女は夕顔の乳母子ですから、夕顔(生きていれば三十七歳)より少し年上か同い年くらいでしょう。そして自分の顔を三条に見せると、三条はすぐに気が付きました。手を打って「うれしともうれし」と言っているのが三条の気持をよく伝えていると思います。「あな、うれし」では済まないのですね。そして三条が気になるのは、やはり夕顔が一緒なのかどうかです。

若き者にて見なれし世を思ひ出づるに、隔て来にける年月数へられて、いとあはれなり。「まづ、おとどはおはすや。若君は、いかがなりたまひにし。あてきと聞こえしは」とて、君の御ことは、言ひ出でず。「皆おはします。姫君も大人になりておはします。まづ、おとどに、かくなむと聞こえむ」とて入りぬ。皆、驚きて、「夢の心地もするかな」「いとつらく、言はむかたなく思ひきこゆる人に、対面しぬべきことよ」とて、この隔てに寄り来たり。気遠く隔てつる屏風だつもの、名残なくおし開けて、まづ言ひやるべき方なく泣き交はす。

若い人として見馴れたころを思い出すと、それ以来過ぎて行った年月がつい数えられて、とても胸が詰まるようである。「ともかくも、乳母様はいらっしゃいますか。若君はどのようにおなりでいらっしゃいますか。あてきと申した人は」と言って、君(夕顔)の御ことは口に出さない。「皆いらっしゃいます。姫君も成人なさいました。まず、乳母殿にことの次第を申し上げましょう」と言って奥へ入った。皆、驚いて、「夢のような気がすること」「ほんとうに恨めしく、言いようもなくお思い申していた人に、対面することになるなんて」と言って、この隔てのところに寄って来た。様子のわからないように隔てていた屏風のようなものも、すっかり押し開けて、ともかくも言葉もなく泣き交わしている。

若いころ以来、久しぶりに会った人が年を取っているのは当たり前の事ながら、どうしてもイメージとしては若い姿の残像が浮かびますから、感慨深いものがあるのです。右近は、夕顔の事は言わずに、乳母、玉鬘、あてき(兵部の君)の安否を問います。右近は夕顔の乳母子ですが、母親の乳母はすでに亡くなっています(夕顔巻にその旨が記されている)ので、ここに登場する乳母とは関係ありません。右近がいることを乳母たちに伝えると「恨めしく思っていた人」に出会ったことを誰もが驚きました。右近は、夕顔の侍女たちから見れば、主人(夕顔)と一緒に姿を消した人物です。「右近がついていながら」「なぜ右近は事情を知らせてくれないのか」と、夕顔が姿を消した時から不満を持つ人は多かったのです。「夕顔」巻に「右近だにおとづれねば、あやしと思ひ嘆きあへり(夕顔が行方不明になったばかりか、右近までが何の連絡もしてこないのでおかしなことだと嘆き合っている)」「この家あるじぞ西の京の乳母の娘なりける。三人その子はありて、右近は異人(ことひと)なりければ、思ひ隔てて御ありさまを聞かせぬなりけりと泣き恋ひけり(この五条の家のあるじは西の京の乳母の娘なのであった。三人子があって、右近は他人なので、分け隔てをして夕顔の消息を聞かせてくれないのだと泣いて恋い焦がれた)」とあり、人々は右近に対して恨む気持ちを持っていたのです。間を隔てる軟障だけでなく、お互いの様子を知られないために立てていた屏風らしきものまですっかり取り払って涙の対面をすることになりました。とても見事な場面設定で、人々の動きが手に取るようにわかるのではないでしょうか。

老い人は、ただ、「わが君は、いかがなりたまひにし。ここらの年ごろ、夢にてもおはしまさむところを見むと大願を立つれど、遥かなる世界にて、風の音にてもえ聞き伝へたてまつらぬを、いみじく悲しと思ふに、老いの身の残りとどまりたるも、いと心憂けれど、うち捨てたてまつりたまへる若君の、らうたくあはれにておはしますを、冥途(よみぢ)のほだしにもてわづらひきこえてなむ、またたきはべる」と言ひ続くれば、昔その折、いふかひなかりしことよりも、いらへむ方なくわづらはしと思へども、「いでや、聞こえてもかひなし。御方は、はや亡せたまひにき」と言ふままに、二、三人ながらむせかへり、いとむつかしく、せきかねたり。

老人(乳母)は、ただ、「わが君はどうなられたのですか。長年、せめて夢にでもお元気なところを拝見したいと大願を立てたのに、遥かな地にあって、風の噂にもお聞き伝え申さなかったのをとても悲しいと思っていたのですが、老いの身が生きながらえているのもまったくつらいことなのですが、お見捨てになった若君が、いじらしくいとおしくていらっしゃるのを、冥途に行くときの障りになろうかと困惑してまだ生きながらえているのです」と言い続けると、昔のあのとき、どうしようもなかったことよりも、お答えのしようもなく困ったものだと思うのだが、「いやもう、申し上げてもかいのないことです。御方は、とっくにお亡くなりになってしまいました」と言うや、二、三人がみなむせかえり、まったく厄介なまでに涙を抑えかねている。

乳母が気になるのはやはり夕顔のことです。辺地にいて、夢にでも見たかったのに、風の噂にも聞かなかったというのです。しかし彼女は以前「夢などにいとたまさかに見えたまふときなどもあり。同じさまなる女など添ひたまうて見えたまへば、名残心地あしくなやみなどしければ、なほ世に亡くなりたまひにけるなめり、と思ひなるもいみじくのみなむ(夢などに、ごくまれにお見えになるときもある。あの、同じ様子をした女などが一緒にいらっしゃるのがお見えになるので、夢が覚めたあとの気分が悪く患ったりしたので、やはりこの世にはいらっしゃらないようだ、と思うようになったのもとても悲しいことだ)」と、夢を見ていたのです。しかしそれは信じたくない不吉な夢でした。彼女が見たかった夢は元気な夕顔の姿だったのでしょう。「またたきはべる」というのはまだ目を閉じていないということで、『岷江入楚』の三光院説(三条西実枝の説)では「あるかなきにして消えやらぬ体也」といっています。右近はそれを聞いて、あのなにがしの院でのどうしようもないできごと以上に厄介な気持ちになるのですが、答えないわけにはいかず、遥か昔(十八年前)に亡くなりました、と伝えました。その次に「二、三人ながら」とあるのは、なぜ漠然と「二、三」というのかわかりにくくはありますが、乳母、兵部の君、三条あたりをいうのでしょう。

日暮れぬと、急ぎたちて、御燈明(みあかし)の事どもしたため果てて、急がせば、なかなかいと心あわたたしくて立ち別る。「もろともにや」と言へど、かたみに供の人のあやしと思ふべければ、この介にも、ことのさまだに言ひ知らせあへず。われも人もことに恥づかしくはあらで、皆下り立ちぬ。右近は、人知れず目とどめて見るに、なかにうつくしげなるうしろでの、いといたうやつれて、卯月の単衣めくものに着こめたまへる髪の透影、いとあたらしくめでたく見ゆ。心苦しう悲しと見たてまつる。

日が暮れてしまうからとあわてて御燈明のことなどをすっかり準備して急がせるので、かえってとても気ぜわしくて立ち別れる。(右近は)「一緒に行きましょうか」というが、お互いにお供の人が不審に思うであろうから(一緒にはいかないことにして)、この豊後介にもことの次第さえ言い知らせることが出来ないまま自分も相手も特に気がねもせずに皆外に出た。右近は、人知れず目をとめて見ると、その中にかわいらしい後ろ姿でとてもひどく質素な身なりで、四月の単衣のようなものに着こめていらっしゃる髪の透けて見えるのが、とてももったいないほどに立派に見える。いたわしく悲しいと拝見する。

ともかくも長谷寺への参詣は大切ですから、話はいったん置いてそれぞれに出発することになります。女性ばかりの場所なので、豊後介は右近との再会の場にいませんでした。右近が出ていく一行の姿を見ると、その中に際立って美しい人がいたのです。「卯月の単衣めくもの」という部分はこのままであれば四月に衣替えをしたときのような薄い単衣、ということと読めそうですが、なんとなくしっくりこないように感じます。一方、この部分には「のしひとへめくもの」という本文があります(河内本、肖柏本)。「のしひとへ」は糊をつけて火のしをあてて張った単衣のことで、薄いために透けて見えるものです。衣を通して髪が見えるという状況に合致するためこの本文を採りたくなるところです。

すこし足なれたる人は、とく御堂に着きにけり。この君をもてわづらひきこえつつ、初夜(そや)行なふほどにぞ上りたまへる。いと騒がしく人詣で混みてののしる。右近が局は、仏の右の方に近き間にしたり。この御師(おし)は、まだ深からねばにや、西の間に遠かりけるを、「なほここにおはしませ」と、尋ね交はし言ひたれば、男どもをばとどめて、介にかうかうと言ひあはせて、こなたに移したてまつる。

いくらか歩き慣れている人(右近)早くも御堂に着いたのであった。(もう一方の人たちは)この姫君に手を焼きながら初夜の勤行の頃にのぼられた。とても騒々しく、人が参詣していて混雑して大騒ぎになっている。右近の局はご本尊の右の方に、本尊に近い一間にしてある。玉鬘の祈祷層はまだ修行の浅い人だったからか、西の間で、本尊から遠かったのを、(右近は)「やはりこちらにおいでなさいませ」と、玉鬘を探し当てて言ってきたので、男たちをあとに残して、豊後介にかくかくと相談して、こちらにお移し申し上げる。

右近は初瀬寺に来るのは慣れていますので、玉鬘一行より早く御堂(本堂)に着きました。前述のように、椿市から長谷寺までは4㎞ほどですが、急な石段もあって、玉鬘の歩みが遅く難渋しています。やっと着いたのは「初夜」のころでした。「初夜」は一日を「晨朝」「日中」「日没」「初夜」「中夜」「後夜」を六つに分けた時間帯のひとつで、おおむね夜の八時以降に当たります。そのころの勤行にやっと間に合ったのです。長谷寺はとても信仰が厚い寺なので、多くの参詣者でにぎわっていました。右近は本尊の十一面観音から近いところで祈祷を受けていたのですが、玉鬘は祈祷層が修行の浅い人(あるいは玉鬘と親しくない人)であったために、据えられた場所が悪く観音を正面から見ることのできないところに局を設けられました。「局」は部屋というほどのものではなく、御堂の外陣のスペースに仕切りを設けただけのものです。そういう事情を知った右近は、一緒に来たわけではないけれども、やはりこちらでご一緒にどうぞ」と勧めてくれ、女たちはそちらに移ったのです。

「かくあやしき身なれど、ただ今の大殿になむさぶらひはべれば、かくかすかなる道にても、らうがはしきことははべらじと頼みはべる。田舎びたる人をば、かやうの所には、よからぬ生者(なまもの)どもの、あなづらはしうするも、かたじけなきことなり」とて、物語いとせまほしけれど、おどろおどろしき行なひの紛れ、騒がしきにもよほされて、仏拝みたてまつる。右近は心のうちに、「この人をいかで尋ねきこえむと申しわたりつるに、かつがつかくて見たてまつれば、今は思ひのごと。大臣の君の尋ねたてまつらむの御心ざし深かめるに、知らせたてまつりて、幸ひあらせたてまつりたまへ」など申しけり。

「こんなつまらない身の上の私ですが、今の大殿(光源氏)にお仕えしておりますのでこういう心細い道中でも、無礼なことはされるまいと気を強く持っています。田舎びた人は、こういうところでは、ふとどきなよからぬ生意気などもが見下げたふるまいをすることがあって、それも、畏れ多いことです」と言って、いろいろな語をもっとしたいとは思ったのだが、大仰な勤行に紛れて、騒がしさに追われるようにして仏を拝み申し上げる。右近は心の中で、「この方を何とかお探し申し上げようと祈願し続けてきたところ、ともかくもこうしてお目にかかったのですから、今は思いが叶いました。大臣(おとど)の君(光源氏)が、お探ししようというお考えが深いようでしたので、お知らせ申し上げて、幸いがこの方にあるようにしてください」などと祈願した。

右近は、今の身の上を少し話します。自分は光源氏に仕えているのでどこに行っても一目置かれているけれども、田舎の人は馬鹿にされることもあるのです、と言います。実際、玉鬘の素性(内大臣の娘)を知っていれば本尊がよく見えないようなところに追いやられることもなかったのでしょう。右近はここでいろいろな話をしたいとは思うのですが、なにしろ多くの人が祈願していて、あたりは騒然としていますので、ただ一心に仏に祈っています。ここで右近は玉鬘を光源氏に合わせて幸せな人生を送らせてあげたいと仏に念じます。長谷寺の観音の霊験はよく知られるところです。ここで右近が念じたということは、それが実現する可能性が高いことを暗示しているでしょう。

国々より、田舎人多く詣でたりけり。この国の守の北の方も、詣でたりけり。いかめしく勢ひたるをうらやみて、この三条が言ふやう、「大悲者(だいひざ)には、異事(ことごと)も申さじ。あが姫君、大弐の北の方ならずは、当国(たうごく)の受領(ずりやう)の北の方になしたてまつらむ。三条らも随分に栄えて、返り申しは仕うまつらむ」と、額に手を当てて念じ入りてをり。

いろいろな国から、田舎の人が多く参詣していた。当国(大和国)の守の北の方も参詣していた。威圧的なまでに偉そうにしているのをうらやんで、この三条が言うには「観音様には、ほかの事は申し上げますまい。大切な姫君が大弐の北の方かそうでなければこの国の受領(大和守)の北の方にして差し上げたいのです。そうすれば私も分に応じて出世しますから、そうなったら御礼を申し上げましょう」と額に手を当てて一心に念じている。
諸国から参詣者があるのは長谷観音がいかに信仰されていたかをうかがわせます。そして大和守の北の方も参詣していました。地元では圧倒的な威厳があり、威圧的なまでに偉そうにしているのをうらやんで三条はついせめてこの人くらいの幸せが玉鬘にあってもいいはずだ、と思うのです。そして観音に願ったのは、玉鬘が大弐の妻か大和守の妻くらいになれますように、ということでした。大弐は従四位下クラスで遠く離れた田舎暮らし、大和守は都に近い大国ではあっても従五位上クラスです。中流貴族でもかまわないというのです。大夫監の妻になること尾をもえばはるかに上位になりますが、内大臣の娘としてはあり得ないほど小さな願いと言えるでしょう。

右近、いとゆゆしくも言ふかな、と聞きて、「いと、いたくこそ田舎びにけれな。中将殿は、昔の御おぼえだにいかがおはしましし。まして、今は、天(あめ)の下を御心にかけたまへる大臣にて、いかばかりいつかしき御仲に、御方しも、受領の妻にて、品定まりておはしまさむよ」と言へば、「あなかま。たまへ。大臣たちもしばし待て。大弐の御館(みたち)の上の、清水(しみづ)の御寺(みてら)、観世音寺(くわんぜおんじ)に参りたまひし勢ひは、帝の行幸にやは劣れる。あな、むくつけ」とて、なほさらに手をひき放たず、拝み入りてをり。

右近は、まったく不吉なことを言うこと、と聞いて「ほんとうにひどく田舎じみてしまったのですね。中将様(今の内大臣)は昔のご信望でさえどれくらい高くていらっしゃいましたか。まして今は天下を意のままになさる大臣で、とてもご立派なご関係なのに、よりによって御方(玉鬘)が受領の妻になって身分が定まっておしまいになるなんて」と言うと、「お静かに。大臣とか言うことも少し待ってください。大弐の館の奥様が(筑紫の)清水の観世音寺に参詣なさったときのご威勢は、帝の行幸に劣ったでしょうか。ああいやなことを」といって、さらにいっそう手を離すことなくひたすら拝んでいる。

右近は三条の願いのあまりの小ささに、玉鬘はかつての頭中将の娘で、その中将が今は大臣なのだから、受領の妻などとんでもない、と言います。ところが三条は現実に都で内大臣がどのようにふるまっているのかは知りませんから、かつて大宰府で見た大弐(事実上の大宰府のトップ)の奥方が清水山普門院観世音寺(今の福岡県太宰府市の寺)に参詣した時の立派さを思い出して、あれほどの豪華さは都にもないはずだ、と言ってはまた一心不乱に祈願するのです。真剣に玉鬘を思いやっていることはわかりますが、井の中の蛙大海を知らずという、どこか滑稽な姿が描かれます。

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盗賊マスク 

文楽の技芸員さんは毎日劇場で発熱の有無などの管理をして本番に臨んでいらっしゃるようです。以前なら「熱を測る」場合にはわきの下に体温計を挟むことが必要でした。しかし今は非接触型の体温計が発達していて、ハンディなものを家庭にも備える人が増えてきました。図書館や病院に行くと、入り口に何やら機械が置かれるようになりました。これも体温計だそうで、「これ、なんだろう」と覗いたりすると、あっという間に数字が出てきます。私、以前29℃くらいでした(笑)。いや、これはきちんと測らなかったからですので、機械が悪いわけではありません。
病院では入口にそういうものが置いてあるのに、受付でもこめかみのへんに非接触体温計を近づけられます。受付の人も仕事が増えて大変です。もっとも、最近は病院に行く人が減っていて、Covid-19の治療をしていない病院はかえって暇だったりするのでしょうか。
でも、以前病院に行きましたらけっこう待たされたことがありました。診察のときにドクターが

    「予約外の人

が多かったのです」と言っていました。やはりこの時期ですから、風邪、インフルエンザなどで病院に来る人が多いのでしょう。おそらく発熱している人でしょうから、診察も慎重になるでしょう。
さて、文楽ではマスクをしながら演奏する、ということはないようですが、歌舞伎の世界では、太夫さんは独特のマスクをなさっています。普通の鼻と口をきっちり隠すタイプではなく、鼻から下にだらりと下げるような黒い布を着けていらっしゃるようです。どなたかが

    盗賊マスク

とおっしゃっていましたが、ほんとうにそんな感じで、異様な雰囲気があります。
マスクも品質によって性能に差があり、やはり一番いいのは(N95などは別として)不織布マスクのようです。布マスクやウレタンマスクはどうしても飛沫を通してしまうようです。そしてもっとも効果が薄いのは「マウスシールド」「フェイスシールド」だそうですが、テレビなどでは口の表情が見えるので重宝されているとも聞きました。
歌舞伎の太夫さんの「盗賊マスク」は布製でしょうか。床下の席を空席にするなどすれば、いっそ外してしまってもいいように思うのですが。

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100万 

このブログのアクセスカウンターが

    100万

を記録しました。
いつの間に、という感じです。

パソコンでご覧いただくと、画面の左側にきらきら光る数字が見えると思います。それがアクセスカウンターです。
このカウンターは同じ人が一日に何度もアクセスした場合、すべてがカウントされます。実際は100万人の人にご覧いただいたわけではありません(笑)。
しかし何となく、100万て、威勢がいいじゃありませんか。
私自身もしばしばアクセスしますが、それでも一日に5回も10回もするわけではありませんから、何らかの形でご覧くださっている方がそれなりの人数いらっしゃるのだと思います。ありがとうございます。
中にはスパム目的のようなものもあるでしょうから、歓迎しない人もいることになりそうです(笑)が、ほとんどの方は歓迎しております。
実はこのブログはまもなく15周年を迎えます。15年で100万ということは、年間平均6000あまり。月平均ですと500あまりになります。
いつまで続くのかはわかりませんが、もう少しの間、よろしくお願いいたします。

ご利用できません 

最近は劇場などで隣の人と距離を保つために、座席が市松模様になるようにチケットを販売することが多いようです。以前、天満繁昌亭では有料でお客さんの写真を撮ってそれをすぐにプリントしたものを販売しない席に置くようなアイデアを出していました。お客さんも協力の意味でお金を出されたようで、なかなかおもしろい工夫だったと思います。国立文楽劇場では、販売しない座席に文楽人形の衣装(をデザインしたもの)を掛けており、これもなかなか好評のようです。しかし、そこまで手が回らないところでは、

    使用不可

の意味の文字を書いたカバーのようなものを座席の背もたれに付けておいたりするようです。そういう場合、そこに何と書けばよいのかは悩むところだと思います。最近の傾向は日本語だけでなく、英語(時には中国語や韓国語も)を併記することがありますが英語であれば「not available」と書けば済むでしょう。これにあたる日本語は前述の「使用不可」だと思うのですが、最近は何でも丁寧に言わないといけないような風潮がありますので、これでは不興を買う可能性があります。
先日、Facebook友だちのかたが写真を上げていらっしゃったのですが、大阪の某博物館のホールでの催しで「not available」と並べて

    ご利用できません

と書かれていました。うるさいことを言いますと、「ご利用いただくことはできません」「ご利用いただけません」が正しいだろうと思います。「ご(お)・・する」は謙譲表現で、「お届けする」「ご奉仕する」などのように使います。それに「できる」をつけてもやはり謙譲表現にはかわりないのです。「お届けできません」は「(私が)届けることはできない」の意味、「ご奉仕できません」も同じです。よって、「ご利用できません」で「お客様がご利用になることはできません」の意味を表すことは無理だと思うのです。それなら「私がご利用できません」という言い方は謙譲表現になるかというと、これも変でしょう。そもそも「私がご利用する」という言い方はなく、それは「私がご受験する」「私がご購入する」などと言わないのと同じです。「ご奉仕できません」には「相手に対して奉仕する」の意味があるので違和感がないのだと思います。「ご訪問できません」「ご進呈できません」もいけそうです。これも「相手を訪ねる」「相手に差し上げる」の意味だからでしょう。謙譲語(相手に向かって・・する)と丁重語の違いともいえます。
座席の背もたれに書くのであれば短い文でなければならないでしょうから「ご利用になることはできません」などと書くことも難しいと思います。というわけで、できるだけ短くというのであれば「ご利用いただけません」くらいが適当かなと思います。

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トランプのあと 

狂気の宴が終わった、という感じがします。アメリカはこの4年間で世界の信頼をかなり失ったと思います。暴言を吐き、自己防衛に徹し、敵を作っては非難して支持者の団結を強固なものにする。日本でも見かけたような光景ではありますが、おそらく史上最悪として歴史に残る大統領がやっと退場しました。
選挙結果が出ても「不正があった」と騒ぎ立て、何とか自分が生き延びる方法を模索し続けました。時間切れになると、今度は支持者にデモ行進を勧めるスピーチをして、その結果彼らが議会に押し掛け、死者まで出るという騒ぎを引き起こしました。慌てた本人は議会に乱入した支持者に関して「暴力」「無法」「大混乱」であると他人事のように非難していました。これではまるで

    マッチポンプ

ではありませんか。自分が悪かった、という態度は示さず、「『平和的に行進してほしい』といったのに、暴徒化したのだから、これは自分の意思ではない」といわんばかりです。支持者にしてみれば、親分に忖度してやったことなのに、責任を負わされて、中には命まで落とした人がいるというばかげた結末でした。自分にとって不利になることになると逃げ隠れするなど言語道断だと思います。もっとも、日本でも「秘書がやったことなので私の意思ではない」と逃げて平然としている人がいましたから同じようなものですが。
さらに元大統領は、これまでの態度を一転させて「新大統領への政権移行に協力する、と言ったかと思うと「就任式には出席しない」と言い出すなど、

    めちゃくちゃ

としか言いようがありません。
先代の平和ラッパ・日佐丸さんは漫才のオチは、
(日)「こんなアホ連れてやってまんねん」
(ラ)「気ィ使いまっせ」
(日)「それは僕が言うんやがな」
(ラ・日)「ははぁ、さいならっ」
でした。アメリカの人たちは4年間「こんな大統領連れてやってまんねん」と言い続けてきたのでしょうか。「ラッパ・日佐丸」さんは、毒こそあれシャレにあふれたおもしろい漫才でしたが、シャレでも何でもないアメリカの大統領の暴言など許されるはずがありません。どの口でノーベル平和賞に推薦してくれと言ったのかとさえ思います。
いや、他人事ではないのです。この国でも「こんなアホ連れて」と言いたくなる人がいるじゃないですか。

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2021年文楽初春公演千秋楽 

文楽初春公演が千秋楽を迎えます。
千秋楽まで無事に公演が続いたことがめでたいことだと感じないわけにはいかない、そんな気持ちでこの日を見つめています。
まさかこんなことになろうとは、と、もうこの言葉を何度言ったことでしょうか。
こんなご時世に芝居を見るなんて

    暢気なものだ

という人もあるようですが、精一杯感染に気を付けて上演していくことはやはり必要なのではないかと思います。
USJに行く人も、映画を観る人もやはり必要なのではないでしょうか。
さて、次の公演は2月東京公演。
あちらは大阪よりもっとひどい状態ですから、いっそう息は抜けないでしょう。
技芸員のみなさん、どうぞ気を付けて上演なさってください。
なんでも、当初の上演時間が変更になって、午後8時には終演するようになったとのことです。

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大金持ちのお坊ちゃま 

横山たかし・ひろしさんという漫才コンビがありました。2019年に亡くなったたかしさんは、キンキラの派手な衣装で現れ、ほらを吹くのが定番のネタでした。ただ、漫才のパターンはきちんと守られたもので、芸風は古風と言えるかもしれません。
たかしさんは「大金持ちのお坊ちゃま」を自称して、数々のほらを吹きます。自分は芦屋のお坊ちゃまだ、とか、飛行機に乗る時はいつもファースト(ビジネス)クラスだとか。しかし、ひろしさんがあまりのことに怒り出すと、たかしさんは一転して実はひどい貧乏なのだと本音を言い出し、

    つらいのぉ

と、泣きを入れるのです。お二人とも出身地は愛媛県だそうで、独特の方言が垣間見えました。
大金持ちのお坊ちゃまに憧れるのも、実は所詮貧乏人で「つらいのぉ」と嘆きたくなるのも、私も同じです。おそらく「たかし・ひろし」さんの漫才を聴いて笑う多くの方は多かれ少なかれ似たようなものでしょう。しかし、だからといって絶望するのではなく、そこに生きている実感を味わっているのではないでしょうか。たかしさんがほらを吹いている間は、お客さんも「自分もそんなことをしてみたいなぁ」と思い、泣き始めると「自分も泣きたいよ」と共感します。とてもよくできた漫才だと思います。
翻って、政治家などを見ていると、ふんぞりかえって

    薄ら笑い

を浮かべているようなのがなぜか権力の中心にいます。そういう連中はたいてい大金持ちのお坊ちゃまです。ひがんでいるわけではない(実は若干ひがんでいます)のですが、そういう輩の厚顔ぶりや薄ら笑いを見ていると嫌になってきます。どこがどう優秀で国会議員になっているのかがわからないし、さらにはなぜ大臣になってふんぞり返っているのかもわからないし、いつまでもその地位にあり続けるのもわからないし。
やはり私は、あんなご立派な連中よりは、ほらを吹くだけ吹いて、でも実はそうじゃないんだよな、といって「泣き」を入れている横山たかしさんに心を寄せてしまいます。

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源氏物語「玉鬘」(3) 

玉鬘は危機一髪なのです。しかし彼女の様子は一切描かれず、少弐一家の混乱ぶりばかりが話題になります。乳母は頼りになるはずの夫を失っただけにうろたえるばかり、長男は父の遺言を守って玉鬘を都に送ろうと考えてはいるのですが、まだ実行に移せません。次男と三男は大夫監に味方して、特に次男は腰巾着のようにくっついています。娘たちはすでに地元で結婚していますし、女性の身の上で大夫監に対抗するようなことはなかなか難しいのです。一方の大夫監は少弐一家の混乱などものともせず、自分は田舎者ではない、力もあれば和歌も詠めるすぐれた人間だと思って玉鬘を完全にわがものにする気持ちでいます。乳母も長男の豊後介も、もはや猶予はならなくなってきました。

次郎が語らひ取られたるもいと恐ろしく心憂くて、この豊後介を責むれば、「いかがは仕まつるべからむ。語らひあはすべき人もなし。まれまれの兄弟(はらから)は、この監に同じ心ならずとて、仲違(なかたが)ひにたり。この監にあたまれては、いささかの身じろきせむも、所狭(ところせ)くなむあるべき。なかなかなる目をや見む」と、思ひわづらひにたれど、姫君の人知れず思(おぼ)いたるさまの、いと心苦しくて、生きたらじと思ひ沈みたまへる、ことわりとおぼゆれば、いみじきことを思ひかまへて出で立つ。

次郎がまるめこまれたのもひどく恐ろしくつらい気持ちで、この豊後介を責めたてるので、「どのようにしてさしあげるべきだろう。相談できる人もいない。ごくわずかな兄弟は、この監に与(くみ)しないといって、仲が悪くなってしまった。この監に敵視されては、ほんの少し身動きするのも思うようにはいかないであろう。かえってつらい目に遭うことになろう」と、思い悩んでしまったのだが、姫君が人知れず物思いなさっている様子がとてもおいたわしくて、もう生きているまいと思い沈んでいらっしゃるのも道理と思われるので、思い切ったことを企てて出立する。

頼りになるのは豊後介ひとりです。とはいえ彼もまた弟たちと反目することになって協力者がなく、途方にくれます。そんなとき、玉鬘がいかにも憂鬱そうで、あんな男と結婚するくらいなら生きてはいるまいというような様子を見せますので、豊後介はとにかく実行あるのみとばかりに都に出立することにするのです。

妹たちも、年ごろ経ぬるよるべを捨てて、この御供に出で立つ。あてきと言ひしは、今は兵部の君といふぞ、添ひて、夜逃げ出でて舟に乗りける。大夫の監は、肥後に帰り行きて、四月二十日のほどに、日取りて来むとするほどに、かくて逃ぐるなりけり。

いもうとたちも、長年共に暮らした家族を捨てて、この方の御供として出立する。あてきと言った人は、今は兵部の君というのだが、(玉鬘と)一緒に、夜逃げ出して舟に乗ったのであった。大夫の監は、肥後に帰っていって、四月二十日頃に、日を定めて迎えに来ようとするので、こうして逃げるのであった。

もう四の五の言っている場合ではありません。実行あるのみ。豊後介の姉妹は家族を捨ててまで玉鬘と運命を共にします。「いもうとたち」とありますが、あとに記されるように、二人とも玉鬘に味方はするのですが、実際に都に同行するのは二人のうちの妹(兵部の君)だけです。男の力がなくてはできないこととは言いながら、男だけの力では姫君を動かすことはできません。だからといって高齢の乳母だけでは危険でしょうから、妹の力添えは大きな意味があったことでしょう。都に上るのは、かつて「あてき」といった人です。この呼称は童名と思われ、今は兵部の君といっているようですが、この女房名は豊後介がかつて兵部省の官人だったことによるのかもしれません。というのは、のちに豊後介は「兵藤太」と呼ばれることがあり、これ藤原氏の長男で兵部省の(せいぜい少丞くらいの)役人だったことによる呼称だと思われるからです。彼女が玉鬘を誘導する役割を果たして舟に乗ったのです。大夫監は何も知らずに、四月二十日頃の吉日を選んで再訪するつもりなのです。しかしいつ何時逃亡の事実を知るかもしれませんから、それまでにすばやく逃げねばなりません。

姉のおもとは、類(るい)広くなりて、え出で立たず。かたみに別れ惜しみて、あひ見むことの難きを思ふに、年経つるふるさととて、ことに見捨てがたきこともなし。ただ、松浦(まつら)の宮の前の渚と、かの姉おもとの別るるをなむ、顧みせられて悲しかりける。
  浮島を漕ぎ離れても行く方や
  いづく泊りと知らずもあるかな
  行く先も見えぬ波路に舟出して
  風にまかする身こそ浮きたれ
いとあとはかなき心地して、うつぶし臥したまへり。


姉のおもとは、家族が多くなって旅立つことはできない。お互いに別れを惜しんで、ふたたび相まみえることの難しさを思うにつけて、長年住んでなじんだ場所だからと言ってことさら見棄てがたいということはない。ただ、松浦の宮の前の渚と、この姉おもとと別れることだけは、ふと振り返るほど悲しいのであった。
  つらいことの多かった浮島を漕
ぎ離れて、これからどこへ行く
のか、またどこに泊まるのかも
わからないことよ
  行く先もわからない波路に舟を
出して風にまかせる身こそ頼り
ないことです
(玉鬘は)とても不安な気持ちになって、うつぶして臥していらっしゃる。


乳母の姉娘は家族を放り出すことはできないというので、あとに残ります。となると、この姉娘との別れもまた悲しいことなのです。母や妹が都に帰れば、おそらくもう二度と会うことはできないでしょう。船に乗った妹は、住み慣れたところだからと言って特に思い入れはないのですが、わずかに松浦の宮の海岸の美しさと姉との別れだけが心残りなのです。和歌にある「浮島」は島といってもふわふわといかにも頼りなげな名前で先行きの不安を感じさせ、また「憂き」を掛けた表現でもあります。これは妹(兵部の君)の歌でしょう。次の「行く先の」の歌は歌のあとに「うつぶし臥したまへり」と敬語を伴う動作が記されていますので、玉鬘の歌かと思われます。

かく逃げぬるよし、おのづから言ひ出で伝へば、負けじ魂にて追ひ来なむ、と思ふに、心も惑ひて、早舟といひてさまことになむかまへたりければ、思ふ方の風さへ進みて危(あや)ふきまで走り上りぬ。ひびきの灘もなだらかに過ぎぬ。「海賊の舟にやあらむ、小さき舟の飛ぶやうにて来る」など言ふ者あり。海賊のひたぶるならむよりも、かの恐ろしき人の追ひ来るにや、と思ふにせむかたなし。
  憂きことに胸のみ騒ぐひびきには
  ひびきの灘もさはらざりけり


こうして逃げてしまったということが自然と人の口にのぼって(大夫監に)伝わったら、負けてなるかときっと追いかけて来るだろうと思うと、心も惑乱して、早舟といって特別な装備をしていたので、また、期待通りの風で進んで、危いくらいに走るように都に上った。(播磨の)ひびきの灘も順調に過ぎた。「海賊の舟だろうか、小さな舟が飛ぶようにこちらに来る」などと言う者がいる。海賊の向こう見ずな者よりも、あの恐ろしい人が追ってくるのではないかと思うと落ち着いていられない。
  つらいことに胸ばかりが騒ぐ
  その響きに比べると、ひびき
  の灘も何ということはないの
でした。


自分たちが逃亡したことがすぐにでも大夫監に知られたら追いかけて来るのではないかと、疑心暗鬼を生ずるのです。しかし彼女たちの乗った船は「早舟」というものでした。これについては『花鳥余情』が「艪をおほく立つるを云ふ」と言っています。急ぎの場合はこのように艪(ろ)を余分につけて航海する手段があったのでしょう。おまけに風も順風で、舟は猛スピードで都に向かっていきます。播磨の難所に「ひびきの灘」がありましたが、そこも難なく過ぎたのです。「なだらかに」と言っていますが、もちろんこの言葉は直前の「灘(なだ)」に掛けた表現です。海賊という言葉が出てきました。実際、瀬戸内は海賊が出ることで知られていたようです。土佐から都に向かう船路を描く『土佐日記』にも「このわたり、海賊の恐りあり、といへば神仏を祈る」という一節があります。しかし今の彼女たちにとっては海賊より恐ろしいのが大夫監です。都に着くまでは安心できません。「憂きことに」の歌は誰が詠んだものか明記されていません。乳母とも兵部の君とも考えられますが、どちらと決めつけなくてもかまわないものなのでしょう。胸の高鳴り(ひびき)に比べたら、難所のひびきの灘もなんということはない、という歌です。

「川尻といふところ近づきぬ」と言ふにぞすこし生き出づる心地する。例の、舟子ども「唐泊より川尻おすほどは」と歌ふ声の情けなきもあはれに聞こゆ。豊後介、あはれになつかしう歌ひすさみて「いとかなしき妻子(めこ)も忘れぬ」とて、思へば、げにぞ皆うち捨ててける。いかがなりぬらむ。はかばかしく身の助けと思ふ郎等どもは皆率(ゐ)て来にけり。我を悪しと思ひて追ひまどはして、いかがしなすらむ、と思ふに、心幼くも顧みせで出でにけるかな、と、すこし心のどまりてぞあさましきことを思ひ続くるに、心弱くうち泣かれぬ。

「川尻というところが近づきました」と言うのですこし生きた心地がする。例によって、舟子どもが「唐泊より川尻おすほどは」と歌うのだが、その声の情趣のないのもしんみりと聞こえる。豊後介はしみじみと好ましい声で口ずさむように歌って「いとかなしき妻子(めこ)も忘れぬ」と言って、考えてみれば、ほんとうにすべてを捨ててしまったのだ、今ごろどうなっているだろうか、頼りになりそうでわが身の助けになりそうな家来どもは皆連れてきてしまったのだ。(大夫監が)私をにくい奴だと思って、家族を追い回してどんな目に遭わせているだろう、と思うと、大人げなくも振り向きもせずに出てきてしまったことだと、すこし心が落ち着いたからこそ思いも寄らなかったことをあれこれ思い続けると、気弱になってつい泣いてしまうのであった。

「川尻」は淀川の河口です。瀬戸内海の船路を終えて、神崎川(三国川)を経て淀川に入るのです。『土佐日記』では二月七日に「今日、川尻に舟入り立ちて漕ぎのぼるに・・」と見えます。都はもうすぐ、誰もが安堵するのです。船人たちは「唐泊から川尻に進む間は」という意味の歌を歌います。「唐泊」は播磨の福泊のこととも備前あたりとも言われます。このあと魚住泊、大輪田泊を経て川尻に至ります。船頭歌などおもしろくもないものなのに、豊後介は胸を突かれます。「とてもいとしい妻や子のことも忘れてしまう」と続く歌のようで、「難所を通って都に進むまでの間は妻子も忘れるほどだ」ということなのですが、これを口ずさんだ豊後介は。九州に残してきた妻子のことを思い出さずにはいられません。自分は妻子を捨てて、家来も引き連れてきてしまった、あとに残った者はどんな目に遭っているだろうか、そんなことを考えると、自分のしたことがあまりに子どもっぽく思われてくるのです。川尻まで来たことで、余裕ができたがゆえにここまでのことを思い返して、涙を漏らすのです。危機的状況にある時はそれに夢中ですが、安全圏に入ったと思ったらつい感傷的になる、というのは人間心理としてよくあることでしょう。

「胡(こ)の地の妻児(せいじ)をば虚しく棄(す)て捐(す)てつ」と誦ずるを、兵部の君聞きて、「げにあやしのわざや。年ごろ従ひ来つる人の心にもにはかに違ひて逃げ出でにしを、いかに思ふらむ」と、さまざま思ひ続けらるる。

「胡の地の妻児をば虚しく棄て捐てつ」と吟ずるのを兵部の君が聞いて、「ほんとうにおかしなことをしてしまった。長年従ってきた人(夫)の心にも突然背いて逃げ出してしまったことを今ごろどのように思っているだろう」と、ついさまざまに思い続けてしまう。

安全圏に入って冷静になると誰もが自分たちのしてきたことを軽はずみではなかったかと思うようになります。豊後介は『白氏文集』(白居易の詩文集)「縛戎人」の一節「涼原(りやうげん)の郷井(きやうせい)をも見ることを得ず、胡の地の妻児をば虚しく棄て捐てつ」を口にします。涼原を故郷に持つ男が捉えられて、胡(チベット)で月日を送り、その間に妻子も得たのですが、やっと逃げることが出来たのにまた捕えられ、江南に移される、その時の思いを詠んだ一節です。自分は故郷に戻ろうとしてもできず、胡の国に妻子を捨てるように残してきたのだ、と慨嘆します。その気持ちに今の自分を重ね合わせています。それを兵部の君が聞いてすぐさま自分のことも顧みることになります。「げに」というのは白居易の詩のとおり、ということです。兵部の君のような人でも知っている著名な詩だったのでしょう。豊後介が妻子を棄てたように、自分も長年連れ添った夫をあとに残してきたのです。玉鬘を都に戻すためには多くの犠牲者が出ているのです。

帰る方とても、そこ所と行き着くべきふるさともなし。知れる人と言ひ寄るべき頼もしき人もおぼえず。ただひとところの御ためにより、ここらの年つき住み馴れつる世界を離れて、浮べる波風にただよひて、思ひめぐらす方なし。この人をも、いかにしたてまつらむとするぞ、と、あきれておぼゆれど、「いかがはせむ」とて、急ぎ入りぬ。

帰るところといってもここといって落ち着ける馴染みの地もない。知り合いとして頼っていくようなあてになる人も思いつかない。たったおひとりのために長年住み慣れてきた土地を離れてあてもない波風に漂って、思案のしようもない。この方もどのようにしてさしあげようとするのか、と途方に暮れるのだが、いまさらどうしようもない、というので、急いで都に入る。

嬉しいはずの帰京ですが、長年田舎で暮らしてきた人にとって、前途は多難なのです。誰を頼るべきなのかもわからない状態で、ともかくも彼らは都に入ります。当時の人は、地方官として現地に赴任するときは元の家を誰かに預けて、帰京すればまたそこに戻るものです。『土佐日記』の紀貫之も、荒れてはいましたが、都に戻るとすぐに自分の邸に入っています。しかし豊後介は赴任して勤めを終えた後も土着していたため、もう京の家などは処分していたのかもしれません。

九条に、昔知れりける人の残りたりけるを訪らひ出でて、その宿りを占め置きて、都のうちといへど、はかばかしき人の住みたるわたりにもあらず、あやしき市女(いちめ)、商人(あきびと)の中にて、いぶせく世の中を思ひつつ、秋にもなりゆくままに、来し方行く先、悲しきこと多かり。豊後介といふ頼もし人も、ただ水鳥の陸に惑へる心地して、つれづれにならはぬありさまのたづきなきを思ふに、帰らむにもはしたなく、心幼く出で立ちにけるを思ふに、従ひ来たりし者どもも、類に触れて逃げ去り、もとの国に帰り散りぬ。

九条に、昔知っていた人がそのまま住んでいたのを探し出して、その宿を確保して、とはいえ都の中といっても主だった人の住んでいるあたりでもなく、賤しい市女、商人の中で、胸のふさがるような思いで世の中のことを思いつつ、秋にもなっていくにつれても、これまでのこともこれからのことも悲しいことが多いのである。豊後介というあてになる人も、ちょうど水鳥が陸に迷い込んだような気がして、所在なく経験のないありさまで何の手立てもないことを思うと、帰ろうにもそんなきまりわるいことはできず、無分別に出できてしまったことを思っていると、従って来た者どもも、親類を頼って逃げ去り、もとの国に帰りたりして散り散りになってしまう。

九条は京の南の果てです。朱雀大路には羅城門があり、東寺、西寺がありました。ここから北が都ではあるのですが、当時このあたりに住む者と言えばほとんどが物売りの者などの庶民です。かろうじてそのあたりに宿は確保したのですが、そんな者たちの中にいてもどうにもなりません。肥前の国から都までは1か月ほどかかります。彼らが都にたどり着いたのは五月ごろと思われ、あっというまに秋になってしまったのです。唯一頼りになるのは豊後介ですが、この人とてどうすればよいのかわからないありさまで、だからと言って今さら肥前に帰ることもできず、後悔ばかりしているうちに、主人に見切りをつけた従者たちは去っていきます。この家来は「はかばかしく身の助けと思ふ郎等ども」でしたから、彼らを失うこともかなりの痛手です。しかし彼らにも生活はあり、いつまでも主人にしたがってはいられません。

住みつくべきやうもなきを、母おとど、明け暮れ嘆きいとほしがれば、「何か。この身は、いとやすくはべり。人一人の御身に代へたてまつりて、いづちもいづちもまかり失せなむに咎あるまじ。我らいみじき勢ひになりても、若君をさるものの中にはふらしたてまつりては、何心地かせまし」と語らひ慰めて、「神仏こそは、さるべき方にも導き知らせたてまつりたまはめ。近きほどに、八幡の宮と申すは、かしこにても参り祈り申したまひし松浦(まつら)、筥崎(はこざき)、同じ社なり。かの国を離れたまふとても、多くの願立て申したまひき。今、都に帰りて、かくなむ御験を得てまかり上りたると、早く申したまへ」とて、八幡に詣でさせたてまつる。それのわたり知れる人に言ひ尋ねて、五師とて、早く親の語らひし大徳残れるを呼びとりて、詣でさせたてまつる。

都に住みつくすべもないのを、母御前(乳母)は明け暮れ嘆いては(玉鬘を)気の毒に思っているので、(豊後介は)「何も心配はいりません。私はとても気楽な思いです。姫君おひとりの身にかえてどこまでもにげていくことに責められることはありますまい。私たちがたいそう豊かになっても姫君をあのような者(大夫監が)の中に放置し申し上げるようなことになってはどんな気持ちがするでしょうか」と話しては慰めて、「神仏がしかるべきところにお導きくださるでしょう。この近くでは八幡の宮と申すところは、かの地でも参詣、祈願申した松浦、筥崎が同じ社です。あの国をお離れになる時も多くの願をお立てになりました。今、都に戻ったのですから、このようにご利益を得て上洛しましたと早くお礼の言上をなさいませ」と言って八幡への参詣をおさせになる。そのあたりを知っている人に声をかけて尋ねて、五師といって、以前親が親しくしていた大徳が残っていたのを呼び寄せて参詣をおさせ申し上げる。

乳母が激しく動揺しているのを見た豊後介は安心させようとして頼もしいことを言います。玉鬘が大夫監と結婚することを思えば今の方がまだ幸せだと言い、このうえは神仏に祈願しようと言い出します。八幡というのは石清水八幡宮のことです。松浦、筥崎(福岡市箱崎の筥崎八幡宮)と同じ八幡宮だから、あちらで祈願したことの願ほどき(お礼参り)をしましょう、と誘うのです。神頼みしかない彼らの境遇を思わせます。かろうじて人を介して、亡き少弐と親しかった五師(寺務をおこなう五人の僧)を呼んで参詣を果たすのです。八幡宮に僧侶というのは奇妙に思えるかもしれませんが、神仏混淆の時代ですから、石清水の極楽寺の僧侶が八幡宮の仕事もしていたのです。

「うち次ぎては、仏の御なかには初瀬なむ日の本のうちにはあらたなる験(げん)現したまふと唐土(もろこし)にだに聞こえあむなり。まして、わが国のうちにこそ、遠き国の境とても、年経たまへれば、若君をばまして恵みたまひてむ」とて、出だし立てたてまつる。ことさらに徒歩(かち)よりと定めたり。

「引き続き、仏の中では初瀬が日本では霊験あらたかなところだと唐土でも評判だそうです。まして我が国で、はるかな地ではあっても長らくお暮らしなのですから、きっと姫君をいっそう憐れんでくださるでしょう」といって、出かけさせなさる。ことさらに徒歩でと決めた。

引き続き、初瀬に参詣するのがよい、ということばは豊後介のものと思われるのですが、五師の発言、あるいは五師の勧めによる発言と見ることもできそうに思います。いかに辺境の地で過ごした人であっても、日本の国なのだから、御利益があるに違いないというのです。そしてあえて徒歩での参詣と決めました。信心深さを示すためには徒歩がよいと言われるからです。それにしても宇治から木津、奈良、椿市を通って初瀬まで行くのは70㎞もの行程で、徒歩で行くのは生半可な距離ではありません。長谷寺(本尊は十一面観音)が唐土でも評判が高い、ということについては、『長谷寺霊験記』にこんな話があります。唐の僖宗皇帝の第四夫人の馬頭夫人は顔が長いことを気にしていましたが、長谷観音に祈願したところ、美しい容貌になったというのです。『三宝絵』にも「利益あまねく、霊験唐土にさへ聞こえたり」と見えます。「徒歩より」というのは「徒歩によって」と方法手段を表わす決まった言い方です。

ならはぬ心地に、いとわびしく苦しけれど、人の言ふままに、ものもおぼえで歩みたまふ。いかなる罪深き身にて、かかる世にさすらふらむ。わが親、世に亡くなりたまへりとも、われをあはれと思さば、おはすらむ所に誘ひたまへ。もし、世におはせば、御顔見せたまへ、と、仏を念じつつ、ありけむさまをだにおぼえねば、ただ、親おはせましかば、と、ばかりの悲しさを、嘆きわたりたまへるに、かくさしあたりて、身のわりなきままに、取り返しいみじくおぼえつつ、からうして、椿市(つばいち)といふ所に、四日といふ巳の時ばかりに、生ける心地もせで、行き着きたまへり。

(徒歩は)慣れないのでとてもつらく苦しいのだが、言われるままに、ものもおぼえで歩みたまふ。どんな罪深さのために、このように世に流浪するのでしょうか、母君がこの世にいらっしゃらないとしても、私をかわいそうだとお思いになるのでしたら、そのいらっしゃるところにお誘いください。もし、この世にいらっしゃるならお顔をお見せください、と、仏を念じつつ、お目にかかっていた時の様子も覚えていないので、ただ、もし母君がご健在でいらっしゃったら、と、そればかりの悲しさを、嘆き続けていらっしゃるのだったが、このように、今さしあたっての自分の身の上のたまらないつらさゆえに、あらためて悲しく思われて、やっとのことで椿市というところに、四日目の巳の時ごろに、生きた心地もしないありさまでお着きになった。

参詣する場合、貴婦人は車で行ったり、馬に乗ったりすることもありました。外を歩くなどということのめったにない玉鬘にとってはさぞかしつらかったことでしょう。当時の女性は、歩くときは壺装束(つぼさうぞく)でした。長い髪が邪魔になりますので、それは袿の中に入れてその袿は腰の部分で結んだりしました。頭には市女笠をかぶり、虫垂れ衣を垂らしたり、衣を頭からかぶる「衣(きぬ)かづき」にしたりしました。玉鬘としては言われるままに歩くほかはありません。その間も、行方の分からない母夕顔に遭いたい、という思いを仏に念じるとともに、今の自分の境遇ことも嘆くのです。このあたりについて『湖月抄』は「以前は親の事をのみ嘆き給ひしに、今は身の上のたづきなさをとりそへて悲しきと也」と言っています。椿市は今の桜井市で、三輪山の麓です。長谷寺に参詣する人は、残り一里ほど(約4㎞)のこの地に泊まり、最後の準備をして出かけました。ここから初瀬川沿いに東に向かうと長谷寺です。京から椿市までは牛車で行くと三日かかるとされますが、それより少し遅れて四日目の朝、巳の時(午前10時前後)に着きました。

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見えすいたウソ 

ボヤキ漫才というジャンルがあります。
世の中のおかしなことをぼやいてお客さんと共感しつつも、どこかでとんちんかんなことを言ってしまって笑いを誘ったりします。
昔の漫才師に人生幸朗・生恵幸子というコンビがあり、上方のボヤキ漫才のまたとなき存在でした。
幸朗師匠がボヤキを始めようとすると、幸子師匠が「そろそろぼやき始めましたでぇ」」と突っ込みを入れたりされました。
私もこのブログではよくぼやきますが、新年初が本日です。「そろそろぼやき始めますでぇ」。

権力者というのは沈黙と見えすいたウソが通用する人だと思います。都合の悪いことには黙りこみ、口を開けば平気でうそをつく。ウソ、ごまかし、詭弁。
こんなことは本来通用しないし、させてはならないのですが、権力を使ってそれを通用させてしまうのでしょう。
私もこれまでに見えすいたウソをついたことはあります。ウソをついているときは「今、自分はウソをついている」と自覚するのですが、不思議なことに、しだいに「ひょっとしてこれはウソではないのではないか。実は自分の言うことが真実なのではないか」と感じるようになりました。そうなると、強弁を重ねても平気になり、自分が他人から

    うそつきだ

と軽んじられていることにも気が付かなくなって堂々たる正論を吐いているように錯覚したのです。こういうことを重ねていると、自分は何から何まで正しいことを言う人で、また、何でもできる人であるかのように思えてくるのです。我ながら恥ずかしい話です。
昨今世界で同時多発的に起こっている権力者の自己防衛、自己伸長手法としてこの見えすいたウソをつき続けることがあると思うのです。その周辺には必ずこのウソに加担する人がいます。ウソが真実になるのは魔法であり、その魔法を目の当たりにする取り巻きの人たちは、恍惚としてますますその「ご教祖様」を信奉するようになり、彼らの間には強い

    「絆」

ができます。そして、真実を語ろうとする人たちを「敵」として激しく攻撃します。怪しげな宗教と同じです。敵を持った時の人間はものが見えなくなりますので、怒鳴りながらやみくもに棒切れを振り回し、ますます周りが見えなくなります。真実派の人たちは格別強い絆で結ばれているわけではない(真実を語ろうとするのに強い絆はいらない)ので、虚偽派は全体の3割もいれば世の大勢を占めているかのように見え、本人たちもそのように錯覚してしまいます。
民主主義は不完全なものですから、こういう形で本来の理想からかけ離れたものになってしまいます。民主主義を利用した独裁者はなかなか絶えるものではありません。これはもうパンデミックと言ってよさそうに思います。

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娘に引かれて大塚国際美術館参り(4) 

大塚国際美術館の絵は写真撮影も自由ですので、たくさんの方が撮っていらっしゃいました。私は一つ一つの絵については特に自分で撮った下手な画像を観るくらいなら、ネット上に氾濫しているものを味わった方がよほど見事ですから、ほとんど写真は撮りませんでした。ただ、観客と一緒に(もちろん後ろ姿ばかりです)写したものがいくつかあります。どれくらいのスケールなのを知るためです。
その代表例が、レオナルド・ダ・ヴィンチの

    最後の晩餐

です。この絵があるために「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ修道院」は世界文化遺産になっています。ナポレオンのミラノ侵攻や第二次世界大戦によって傷を受けながらも、こんにちまで生き残ったすぐれた絵画です。レオナルドはどういうわけかこの壁画をテンペラ画で描いたために剥落が激しく、かなりひどい状態になっていました。しかし、20世紀の終わりに20年ほどをかけて修復が行われ、できうるかぎりレオナルドの描いたものを復元することに注力されました。
この修復とともに、コンピューターを使っての復元もあって、いろいろなことがわかったのでした。たとえば、イエスの口が開いていること。これは「この中に私を裏切る者がいる」という言葉を表しているのでしょう。そしてその直後に弟子たちがそれぞれの反応を以て驚愕する様子が描かれます。実際はイエスが言った後に人々は驚愕するわけですから、いわばこれは異時同図法なのではないでしょうか。ペトロは持っていたナイフをイエスとは逆の方に向けるようにしてヨハネに耳打ちをしています。バルトロマイはテーブルに両手をついて挑むような表情で「それはいったい誰なのか」と言っているように見えます。フィリポは優しい手を見せながら、「それは私だとおっしゃるのではないでしょうね」とでも言っているようです。大ヤコブは興奮する人たちを抑えるように両手を広げています。実に豊かな表現力です。
そして、裏切り者である

    イスカリオテのユダ

は裏切りの報酬である銀貨三十枚の入った布の袋をぎゅっと握りしめてのけぞっています。
大塚国際美術館の「最後の晩餐」はこの修復前と修復後を壁の両面に展示するというものです。幅9mあまりということは知っていましたが、やはり原寸大で観てみるとそのスケールはほんとうに大きなものでした。
理屈は勉強すればわかりますが、観ないとわからないことはたくさんあるのだ、ということを教わった体験でした。
娘には感謝しています。

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娘に引かれて大塚国際美術館参り(3) 

あまりにも多い大塚国際美術館の絵画を見て回るには1日では足りないだろうと思います。私は午前中から夕方の5時近くまでいましたが、最後は疲れてゆっくり観ることはできませんでした。それくらい多くの名画が展示されています。
ラファエッロの作品も、観ることができてよかったです。聖母子を描いたものはもちろんすばらしいのですが、「アテナイの学堂」はあそこまで大きなものだとは知らす、なかなかの感動でした。彼が尊敬したというレオナルド・ダ・ヴィンチをプラトーンとして描き、また自分の顔はほんの片隅にちらりと描いています。アリストテレスやユークリッドも描かれていて、とてもおもしろいものです。
私が最も関心のあるのはやはりルネサンス期のものですが、それ以外にも好きな絵はさまざまです。それらもまとめて観ることができておもしろく感じました。

    フェルメール

の絵は、一か所にまとめられていて、一度原寸大で観たかった「デルフトの眺望」を観ることができたのが何よりでした。ほかにも「牛乳を注ぐ女」「ヴァ―ジナルの前に立つ女」「小路」「手紙を読む女」、そして「真珠の耳飾りの少女」なども観ることができます。
フェルメールの展示があると同じオランダの画家ということでしばしばヤン・ステーンの絵が合わせて展示されます。この人の絵は教訓や皮肉があっておもしろいのですが、大塚国際美術館にも「乱れた家族」がありました。今の悦楽を謳歌するばかりで、それ以外に目が向かない、どこか、今の世界あるいは日本への皮肉のような気がしてならないのです。
カラヴァッジョの作品もさまざま楽しめました。
私がひそかに愛好している

    コロー

の「モルトフォンテーヌの想い出」「真珠の女」などもあり、あまり多くの人は関心を寄せないかもしれませんが、私は満足しました。
ミレイの「オフィーリア」は東京・渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで観たときの感銘を思い起こしました。
ゴッホの「ひまわり」は兵庫県芦屋市で焼失したものも含めてまとめて展示されており、そのとりどりの魅力も味わえました。
ルノワール、ゴヤ、シャガール、ファン・ダイク、ピカソ、ミレイ、ダヴィッド、ターナー、ゴーギャン、ラ・トゥール、セザンヌ、ローランサン、ルソー・・・。こんなことを書いているときりがありません。しかし、もう一つ、どうしても書いておかねばならない作品があります。

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娘に引かれて大塚国際美術館参り(2) 

システィナホールで長時間を費やした後、さまざまな絵画を見て回りました。本物ではないとわかってはいるものの、実物を観る「疑似体験」はできます。
以前、東京国立博物館まで行って実物を観た、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」もありました。私は上野の近くに宿を取って、3回だったか、4回だったか忘れましたが、繰り返し観ました。当たり前のことではあるのですが、そのときに観た実物に比べると、大塚国際美術館のものは、聖母マリアの装束の襞などがどうしても見劣りしてしまいます。努力は認めますが、やはり限界は感じてしまいます。それでも、それでもすばらしいものでした。
「受胎告知」の絵は多くの画家によって描かれています。大塚国際美術館には、ティントレット、マルティーニ、リッピ、ボッティチェリ、アンジェリコ、クリヴェッリ、ベッリーニ、エル・グレコ等々。それらを一堂に集めているのですから、やはり驚くべき美術館です。
ほかの作品に比べて独自の境地を感じさせるものには、

    ロレンツォ・ロット

の「受胎告知」があります。突如として現れた大天使ガブリエルに対して、ほかの作品では冷静に受け入れるものもあり、いささか驚くものもありますが、ロットの作品はあまりのことに逃げ出すようなマリアを描いています。初めて見たときにはかなり驚いたものです。マリアと同じように狼狽している猫がまたおもしろいのです。『源氏物語』若菜下巻で、光源氏の妻である女三宮と密通を犯した柏木という男が猫の夢を見る場面があり、これは懐妊を寓意するものと考えられています。洋の東西を問わず、猫は女性とその懐妊を表わす不思議な動物なのでしょうか。
受胎告知と言えば、ティツィアーノの作品を、以前大阪中之島の国立国際美術館で観ましたが、これは大塚国際美術館にはありませんでした。あれも圧倒的な絵でした。
大塚国際美術館の魅力のひとつは、原寸大で観られることでしょう。
レンブラントの

    夜警

も私は現物で観たことはありませんでしたが、こういうスケールなのか、と圧倒される思いでした。
モネの睡蓮の屋外展示にも圧倒されます。私が言ったときは、ほとんどだれもいませんでしたので、独占状態で見学しました。

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娘に引かれて大塚国際美術館参り(1) 

私の長女は、あまり勉強しませんでしたが、大学での専門はキリスト教絵画だったのです。彼女は演劇部で活動もしており、興味、関心が合います。これで古典文学に関心を持ってくれたら私の持っている本なども生かしてもらえたのですが、そっちにはほとんど関心がないようで残念です。
彼女が勝手に計画を立てて、徳島県鳴門市にある

    大塚国際美術館

に連れていかれることになりました。これまでにも行ってみたいと思ったことはあるのですが、機会を得られず、この際思い切って誘いに乗ってみました。
このご時世、あまり移動はしたくなかったのですが、車も持っていますのでお世話になりました(私は一切運転していません)。
私は高速道路も美術館も半額になりますので、さほどお金はかかりません。
大塚国際美術館の絵はもちろんすべて「偽物」です。しかし、現地に行かないと観られないもの、あるいはめったに海外に出ないために観るのが難しいものを、現物に近い形で楽しめるのはおもしろい試みです。
とにかくよくもこれだけお金をかけたものだと思います。
長い、長いエスカレーターを上がるといきなりシスティナホール。バチカン市国にある、サンピエトロ(聖ペトロ)大聖堂のシスティナ礼拝堂を模したものです。これまで写真ばかりで観てきましたから、そのスケールがわからず、体感できてよかったと思います。
ミケランジェロの

    最後の審判

の仕事がいかに大変なものであったかが想像されました。彼は本来彫刻家ですから、この壮大な壁画、天井画を託されたことについては複雑な気持ちもあったのではないか、と感じました。足場を組んで殿上に向かって少しずつ描いているときの気持は、さてどんなものだったのでしょうか。
イエスの姿は高い位置にありますので仰ぎ見るばかりでしたが、たとえば、渡し守カロンとか、儀典長ビアージョの顔を使ったと言われる地獄の番人ミノスなどはすぐ目の前で観ることができました。地獄ばかりを目の当たりにした感じです。
皮剥ぎの刑に遭ったというバルトロマイの「皮」とそこに描かれたミケランジェロの自画像と言われる顔がどれくらい目立つものかも感じ取れました。そこだけを切り取って観るのと、全体の中で観るのとではこうも違うものかと思いました。
天井画も、首が痛くなるほど眺めました。太陽、月、植物の創造とか、アダムの創造、エヴァの創造、楽園追放などのほか、ダビデとゴリアテ、ユディトとホロフェルネスなど、ここだけでどれくらいの時間をかけたことかと思います。

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あわてた年賀状 

年賀状についてはそろそろ引き時かな、とここ数年考えています。ふと思い出すと、文楽のある師匠(故人)が「今年限りにします」とおっしゃったのが80歳を過ぎられたころでした。やはりあの世界の人は長年お書きになるのだと感心します。もちろん別の大師匠は亡くなる年までお書きになっていましたから、さらにすごい人はいらっしゃるものです。
ただ、私は文楽の師匠がたのようにいつまでも現役でいられるような身の上ではなく、今や

    世捨て人(笑)

のようなものですから、もうそろそろやめようかな、という気持ちが高まっています。
そんなわけで、このたびの年賀状で昨年の内にお出ししたものはごくわずかでした。昨年年賀状が来なかった方はもう省きましたし、ときどき途切れる方なども失礼かなと思いながらやめました。長年の友人(といっても年賀状のみの付き合い)もここ数年来なくなり、彼ももうやめる気持ちかなと察して私から出すのもやめました。その他、もうくださらないだろうな、と想像した方々にはあえてお出ししませんでした。私が出さなければあちらもおやめになるだろうと思ったからです。
ところが田舎から帰ってきてびっくり。あの人からもこの人からも届いていたのです。「えっ! この人まで!」という方からも来ていて、ひょっとするとここ数年で一番たくさんいただいたかもしれません(笑)。すぐさまお返事を差し上げるために残っていた年賀状を取り出したのですが、まるで足りませんでした。あわてて郵便局に行き、「無地のものはもうありません」といわれたので、印字するわけでもないのにインクジェット用のものを買ってきました。
私は特別なお知らせのある場合を除くと

    自筆の

薄汚い(笑)年賀状を書きますので、「無地」を愛用しているのです。
寒さで手がかじかんで字は震え、しかも枚数がけっこうありましたのでなかなかはかどらず、結局翌日までかかってしまいました。
今年いただいた年賀状に最も多く書かれていた言葉は、「大変な」の3文字だったように思います(計算していませんが)。「大変な世の中」「大変な出来事」「大変な時代」などなど。私は言忌みをしようとして一切書かなかった(と思う)のですが、やはり昨年はほんとうに「大変な」一年でしたから、どなたも書かずにはいらっしゃれなかったのだと思います。
それでいて、「コロナ」の言葉を直接書かれた方は思いのほか少ない感じでした。やはりこの言葉は忌まれたのかもしれません。こういうところに、言霊を信じてやまない日本人らしい気持ちがうかがえるように思います。

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源氏物語「玉鬘」(2) 

玉鬘は九州の田舎で暮らすことになったのですが、父親がかつての頭中将ですし、母親は夕顔ですから、どちらの血筋も美形です。そのうえ都の生まれですから、九州の人には失礼ですが、掃き溜めに鶴というか、土地に似合わぬ美しい娘として成長したのです。しかしそれだけに、かぐや姫さながらにあちこちから求愛もあります。
とはいえ、誰も彼もが田舎の人なので、玉鬘にふさわしい人などそうそういるものではありません。
そして、本日読むところでは、とんでもなくむくつけき男が求愛してくるのです。

娘どもも男子(をのこ)どもも、所につけたるよすがども出で来て、住みつきにたり。心のうちにこそ急ぎ思へど、京のことはいや遠ざかるやうに隔たりゆく。もの思し知るままに、世をいと憂きものに思して、年三(ねさう)などしたまふ。二十ばかりになりたまふままに、生ひととのほりて、いとあたらしくめでたし。この住む所は、肥前国とぞいひける。そのわたりにもいささか由(よし)ある人は、まづこの少弐の孫のありさまを聞き伝へて、なほ、絶えずおとづれ来るも、いといみじう耳かしかましきまでなむ。

娘たちも息子たちも、土地にふさわしい縁が結ばれて、住みついてしまった。心の中ではあせっているのだが、京のことはいっそう遠ざかっていくように距離ができる。姫君は分別がおつきになるにつれて、世の中をとてもつらいものとお思いになって、年三などをなさる。二十歳くらいになられるころには、すっかりおとならしくなって、まったくもったいないほどすばらしい。この人たちの住むところは肥前の国と言った。そのあたりでもいくらかでも一人前と言える人はまずこの少弐の孫のようすを聞き伝えて、相変わらず絶えることなく手紙を寄せてくるのだが、それもひどくやかましいくらいで。

少弐の子どもたちはそれぞれに土地の者と結婚して土着してしまいます。乳母としては京都に戻りたいのですが、彼らが助けてくれることが難しくなったためにどんどんその願いは離れていくようです。玉鬘はその間も成長して、分別が付く年ごろになるのですが、そうなると逆に世の中をつらいものと思う知恵までがついてしまいます。そこで彼女は「年三(ねさう)」などをするというのです。この「ねさう」の解釈には二つ有力な説があります。ひとつは「年三」で、年に三回、一月、五月、九月の月の前半に長精進することを言います。もうひとつの説は「年星」でその人の属星を祀ることを言います。属星というのは、人それぞれの運命を支配する星のことで、生まれ年によって北斗七星の星のいずれかの星が決まっています。どちらと解釈しても問題はなさそうなのですが、玉鬘が分別がつく年になって行うもの、ということから、「年三」の方がふさわしいようにも思えます。もう彼女はニ十歳ばかりになっています。当時の常識から言うと、この年齢で未婚というのは遅い方です。乳母一家はなぜか肥前国(今の佐賀、長崎)に住んでいます。そちらに行っても、相変わらず玉鬘に対して男たちが言い寄ってきます。もう身動きの取れないありさまで、このままでは玉鬘はこの片田舎で埋もれてしまいそうです。しかし、事態を打開してくれたのは、皮肉なことに男たちの中でも忌むべき嫌な人間だったのです。

大夫監(たいふのげん)とて、肥後国に族(ぞう)広くて、かしこにつけてはおぼえあり、勢ひいかめしき兵(つはもの)ありけり。むくつけき心のなかに、いささか好きたる心混じりて、容貌(かたち)ある女を集めて見むと思ひける。この姫君を聞きつけて、「いみじきかたはありとも、我は見隠して持たらむ」と、いとねむごろに言ひかかるを、いとむくつけく思ひて、「いかで、かかることを聞かで、尼になりなむとす」と、言はせたれば、いよいよあやふがりて、おしてこの国に越え来ぬ。


大夫の監といって、肥後の国に一族が栄えてその地方では名声の高い、威勢の強い武士がいた。無骨な心の中にいくらか色好みの心が混じって、器量のよい女を集めて自分のものにしようと思っていた。この姫君のことを聞きつけて、「ひどい不具があっても、私は見ないふりをして、妻にしよう」ととても熱心に言い寄ってきたのを、とても気味悪く思って、「どうにかしてこういうお話は聞かずに尼になってしまおうとしているのです」と言わせたところ、いっそう気が気でなくなって、強引に肥前にやってきた。

大夫監というのは、大宰府の三等官である「監」で、五位(大夫)になった者のことです。大宰府の役人は帥(多くは親王が任ぜられて都にいる)、大弐、少弐、大監、少監、大判事、少判事と続き、大弐と少弐が二等官、大監と少監が三等官です。大弐は従四位下、少弐は従五位下、大監は正六位下、少監は従六位上、大判事が従六位下、少判事が正七位上に相当します。しかし何らかの功績があって、官位が上回ることもあり、この大夫監は本来正六位下相当であるのに五位に任ぜられたものということです。しかしこの人物は肥後に住んでおり、大夫監の任期を終えた後、やはり土着した者かもしれません。その地ではかなり権勢家らしいのですが、何と言っても「つはもの」であり、田舎に土着した者ですから、都の人の目から見ると近づきたくない人物なのです。大夫監は美しい女性を集めたいという欲望があって、肥後にいながら、肥前の玉鬘の噂を聞くや、仮に彼女に身体的な障害があったとしてもかまわないと言い寄って、ついには肥前までやってくるのです。

この男子(をのこ)どもを呼びとりて語らふことは、「思ふさまになりなば、同じ心に勢ひを交(か)はすべきこと」など語らふに、二人はおもむきにけり。「しばしこそ、似げなくあはれと思ひきこえけれ、おのおの我が身のよるべと頼まむに、いと頼もしき人なり。これに悪しくせられては、この近き世界にはめぐらひなむや」「よき人の御筋といふとも、親に数まへられたてまつらず、世に知らでは、何のかひかはあらむ。この人のかくねむごろに思ひきこえたまへるこそ、今は御幸ひなれ」「さるべきにてこそは、かかる世界にもおはしけめ。逃げ隠れたまふとも、何のたけきことかはあらむ」「負けじ魂に、怒りなば、せぬことどもしてむ」と言ひ脅せば、いといみじ、と聞きて、中の兄なる豊後介なむ、「なほ、いとたいだいしく、あたらしきことなり。故少弐ののたまひしこともあり。とかく構へて、京に上げたてまつりてむ」と言ふ。

少弐の息子たちを召し寄せて、相談したことには、「わしの思うようになったら、心を同じくして権勢をともにふるえるぞ」などと話し合って、二人の息子は従ってしまった。「しばらくは、似つかわしくなくて(姫君が)かわいそうだとお思い申し上げていたのですが、私たちそれぞれのお頼みする方としては、とても頼りになる方ですよ」「この人に憎まれたら、このあたりで生きて行けるでしょうか」「貴い方の血筋といっても、親から子供の数に入れてもらえず、世間に埋もれているのではどうしようもないでしょう」「この人がこうして熱心にお思いくださっているのは、今となっては幸せというものです」「こうなる宿命でこんな田舎にいらっしゃったのでしょう。逃げ隠れなさったとしても、何のよいことがあるでしょうか」「監が負けん気を起こして怒ったらきっととんでもないことをしますよ」といって(乳母を)脅すので、これは大変なことだと(乳母は)聞いていると、三人兄弟の長男の豊後介が「やはりそうなったら面倒なことですし、もったいないことでもあります。亡き少弐(豊後介の父)のおっしゃったこともあります。何とか工夫して上洛させてあげましょう」と言う。

大夫監は、搦め手から攻めてきます。少弐の息子たちに「もしうまく玉鬘と結婚出来たら、今後は権勢も共有できるぞ」と誘いかけるのです。これは裏を返すと、「もしそうさせてくれないならただでは済まないぞ」という脅しにも聞こえます。大夫監の誘いに二人が乗ってしまいました。あとでわかるように、次男と三男です。彼らは次々に母(少弐の妻、夕顔の乳母)に向かって大夫監と玉鬘を結婚させる必要性を訴えます。彼らにしてみれば玉鬘は血の通う妹でも、娘でもなく、彼女がどんな人生を送ろうと痛くもかゆくもないのです。それよりは下手なことをして肥後の豪族ににらまれるより、仲良くする方が身の安全に利すると判断したのです。この部分について『岷江入楚』は「はしめはさすかいかゝと思ひつるか監にかたらはされて結句しかるへきさまにいひなし又いひおとしなとするなり(最初はさすがにどんなものかと思ったものの、監に相談されて、最終的には結婚させるべきだというように言い、また脅したりするのである)」と注を付けています。特に、彼らの言い分の中で、いくら元は立派な人の娘でも、父に見捨てられたも同然でこんなに田舎に来ているのだから、今となっては幸せな話というべきだ、と言っている点はまんざら当たっていないとも言えないでしょう。この部分については、本居宣長の『玉の小櫛』が「今はとは、やむことなき人の御子ながら、かくさすらひ給へる、今の御身にてはといふ意也」と言っています。乳母は大変なことになった、と思うのですが、ただ一人長男が味方してくれるのです。この人物は豊後介ですが、今は肥前に住んでいるようで、やはり元豊後介で、そのままこちらに居ついた人物かもしれません。彼が気にするのは父の「ただこの姫君、京に率(ゐ)てたてまつるべきを思へ」という遺言です。自分の供養はいいから、玉鬘を都に返すことだけを考えてほしいと言ったのです。そこで豊後介はこの危機を、玉鬘を都に返すチャンスにしようと考えたのです。

娘どもも泣きまどひて、「母君のかひなくてさすらへたまひて、行方をだに知らぬかはりに、人なみなみにて見たてまつらむとこそ思ふに、さるものの中に混じりたまひなむこと」と思ひ嘆くをも知らで、我はいとおぼえ高き身、と思ひて、文など書きておこす。手などきたなげなう書きて、唐の色紙、香ばしき香に入れしめつつ、をかしく書きたりと思ひたる言葉ぞ、いとたみたりける。

娘たちも泣きうろたえて、「母君が行方が分からなくなってしまわれてどうしようもないのですから、そのかわりに何とか人並みになられるようにとお世話しようと思っていますのに、そんな者と一緒になっておしまいになるなんて」と思い嘆いているとも知らずに、(大夫監は)自分は声望豊かな者だと思って、手紙などを書いてよこす。筆跡などは汚いというほどでなく書いて、唐の色紙に香ばしい香りをたっぷりとたきしめて、見事に書いてのけたと思っている言葉は、ひどく訛っているのであった。

乳母の娘たちもこれまで一生懸命玉鬘を一人前にしようと頑張って来たのに、あんなむくつけき男にとられるなんて、と慨嘆しています。『岷江入楚』は「夕顔上の行ゑなく成給へるかはりに此君をせめて人めかし見なし奉らてと皆々おもふ也(夕顔の君が行方知れずになられたかわりにこの姫君をせめて一人前にしてさしあげずにはおくものか、と誰もが思っているのである)」と注を付けています。そのように馬鹿にされているとも知らずに、大夫監は、自分は大ものだと思い込んでいます。筆跡はまあまあで、紙も工夫してはいるのですが、なにしと言葉が訛っています。現代なら、方言は魅力だと思うのですが、当時の都の人にとっては品のないものと思われたようです。「たみたりける」の「たみ」というのは「ゆがんでいる」ということで、言葉がゆがむ、つまり訛っていることです。

みづからも、この家の次郎を語らひとりて、うち連れて来たり。三十ばかりなる男の、丈高くものものしく太りて、きたなげなけれど、思ひなし疎ましく、荒らかなる振る舞ひなど、見るもゆゆしくおぼゆ。色あひ心地よげに、声いたう嗄(か)れてさへづりゐたり。懸想人は夜に隠れたるをこそよばひとは言ひけれ、さまかへたる春の夕暮なり。秋ならねどもあやしかりけりと見ゆ。

大夫監本人も、この家の次男を抱き込んで一緒にやってきた。三十歳くらいの男で、背が高くてどっしりと太って、汚らしいわけではないが、そう思って見るからか、疎ましくて荒々しいふるまいなどは見るだけでも忌まわしく思われる。顔色がよくて元気そうで、声はひどく嗄れて、聴いてもわけのわからないことを言っている。懸想人というのは夜に密かに来てこそ「よばひ」とは言ったものだが、これはまた一風変わった春の夕暮れである。秋ではないが「あやしかりけり」と見える。

大夫監は少弐の次男を言いくるめて味方につけて乗り込んできます。その風貌は都の人間がイメージする地方豪族の典型であり、それを嫌悪する気持がよくうかがえます。「思ひなし疎ましく」の「思ひなし」は、無骨な地方豪族という先入観を持って見るからか嫌な感じがする、ということです。縦にも横にもめっぽう大きい、最近の若者風の言い回しを使いますと「無駄に大きい」という感じでしょうか。立ち居振舞いも無骨で優雅さはなく、声ががらがらとしていて方言がよくわからないのです。「さへづる」という言葉は鳥が歌うように鳴くことですが、外国人や田舎の人がわけのわからないことをピーチクパーチクしゃべることをも言います。『源氏物語』では「明石」巻で地元の海人がしゃべることばを「そこはかとなくさへづる」と言っており、「浮舟」巻にも「(下男たちが)品々しからぬけはひさへづりつつ」とあります。「懸想人は夜に隠れたるをこそよばひとは言ひけれ」とありますが、「よばふ(求婚する)」は語源としては「呼ぶ」を繰り返すことですが、「夜・這ふ」と理解されることがありました。『竹取物語』に、かぐや姫への求婚者たちが「夜はやすきいも寝ず闇の夜に出でても、穴をくじり、垣間見、惑ひあへり。さる時よりなむ『よばひ』とはいひける」とあるように、男たちが夜にもかかわらず女の家のあたりをうろうろすることを「夜這ひ」というようになったというわけです。「さまかへたる春の夕暮」というのは、本来懸想人は「夜」に来るべきなのに、夕暮れに来ており、また次の引き歌にあるように人恋しきなるのは秋なのに今は春(三月)だから風情がない、と非難しているのです。「秋ならねどもあやしかりけり」は「いつとても恋しからずはあらねども秋の夕べはあやしかりけり」(『古今和歌集』恋一・よみびと知らず)を引いた表現です。この歌はいつもあなたのことが恋しいが、秋の夕べは不思議なまでに恋しさが募る、と言っているのです。その「あやしかりけり」をここでは「不思議なことをする人だ」という意味に転換しています。

心を破らじとて、祖母(おば)おとど出で会ふ。「故少弐のいと情けび、きらきらしくものしたまひしを、いかでかあひ語らひ申さむと思ひたまへしかども、さる心ざしをも見せ聞こえずはべりしほどに、いと悲しくて、隠れたまひにしを、その代はりに、一向(いかう)に仕うまつるべくなむ、心ざしを励まして、今日は、いとひたぶるに、強ひてさぶらひつる。このおはしますらむ女君、筋ことにうけたまはれば、いとかたじけなし。ただ、なにがしらが私の君と思ひ申して、いただきになむささげたてまつるべき。おとどもしぶしぶにおはしげなることは、よからぬ女どもあまたあひ知りてはべるを聞こしめし疎むななり。さりとも、すやつばらを、人並みにはしはべりなむや。わが君をば、后の位に落としたてまつらじものをや」など、いとよげに言ひ続く。

機嫌を損ねないようにしようと、祖母殿(実際は玉鬘の母の乳母)が出て会う。「亡き少弐殿がとてもお情け深くご立派でいらっしゃいましたので、何とかお目にかかってお話ししたいと存じていたのですが、そういう気持ちもお示ししませんうちにとても悲しいことにお隠れになったわけですが、その代わりにひたむきにお仕えしようと意を決して、本日はただ一途に思い切ってこちらに控えているのです。こちらにいらっしゃるらしい女君は、血筋が格別でいらっしゃると承っておりますので、まことに畏れ多いことです。ただもう、私の秘蔵の君とお思い申して、頭の上に押し頂くようにしましょう。あなたさまも渋っていらっしゃるそうですが、それは、つまらぬ女どもたくさん置いておりますのをお聞きになって疎まれるのでしょう。たとえそうであっても、あんな奴らを、こちらの方と同じようにするものですか。こちらのわが君を、后の位以下にもするまいと存じておりましてね」などと、ぺらぺらと話し続ける。

少弐の妻(夕顔の乳母)のことを「祖母おとど」と言っているのは、大夫監に向き合う時の彼女の立場が「玉鬘の祖母」だからでしょう。大夫監は目いっぱい少弐へのおべんちゃらを言ったうえで、その代わりに玉鬘にお仕えしたい、という理屈を言ってきます。「いただきになむささげたてまつる」とは何とも大げさな表現ですが、これについて『岷江入楚』は「監かゐなかひいふさま也(大夫監が田舎者らしく言っている様子である)」と注を付けています。大夫監は玉鬘のことを「筋ことに(血筋が格別でいらっしゃる)」ことを聞いているようですが、これはくだんの次男あたりが耳打ちしたことなのでしょう。「私の君」というのは公的な主君ではなく、内々の個人的な主君というほどの意味です。乳母が渋っているのを、たくさんの女を抱えているからだと推測して、そんな女と同列には扱いません、というのです。最初は言葉遣いもまずまずでしたが、ここに至って「すやつばら」などという粗野な言い方をしていて、いかにもお里が知れるというありさまです。「わが君をば、后の位に落としたてまつらじものをや」という言い方はしらけるばかりですが、そんなことに気が付くような人物ではないのです。この「后の位に・・」という言いかたについては『湖月抄』師説に「帝の后にもおとらぬやうにかしづかんと也。我身を高く思ひあがりて云ふ也」と見えます。ここまで、大夫監は調子に乗ってしゃべり続けたようです。

「いかがは。かくのたまふを、いと幸ひありと思ひたまふるを、宿世つたなき人にやはべらむ、思ひ憚ることはべりて、いかでか人に御覧ぜられむと、人知れず嘆きはべるめれば、心苦しう見たまへわづらひぬる」と言ふ。「さらに、な思し憚りそ。天下(てんげ)に、目つぶれ、足折れたまへりとも、なにがしは仕うまつりやめてむ。国のうちの仏神は、おのれになむ靡きたまへる」など、誇りゐたり。「その日ばかり」と言ふに、「この月は季の果てなり」など、田舎びたることを言ひ逃る。

「どうして(渋ったりするものですか)。このようにおっしゃってくださいますのを、とてもこううんなことだと思っておりますが、宿世に恵まれぬ人なのでございましょうか、憚られることがございまして、なんとか人さまのお目にかからないように、と、人知れず嘆いているようでございますので、その姿を見ていたわしいことと困っているのです」と言う。「けっしてご遠慮などなされますな。万が一、目がつぶれ、足が折れていらっしゃるとしても、拙者がお世話して治してあげましょう。わが国の中の仏神は、私の言うことをお聞きくださるのです」などと自慢している。「ではその日に」と言うので、「今月は季の果てですから」などと、田舎びたことをいってその場しのぎをする。

乳母もめったなことを言って報復されては困りますから、大夫監がいやなのではなくて、こちらに困難な事情があるのだ、と言います。しかし、そういう心の機微はこの男には通用しないのです。自分の国の仏神は何でも言うことを聞いてくれるのだと豪語して、自分が直してやるとまで言うのです。「天下に目つぶれ」以下の言い方も、あまりに露骨な表現で、粗野というほかはありません。こうお言う言葉遣いを聞くたびに乳母は眉をひそめたことでしょう。最後にはもう有無を言わせず、「何月何日に迎えに来る」と言って出ようとします。傍若無人とはまさにこのことです。乳母は、田舎の風習なのか「季の果て(今月は三月で春の終わり)は婚姻は避けるそうですから」となおも逃げようとします。乳母の立場は攻撃ができないので守勢一方、ところがその姿勢が無神経なこの相手には通用しませんので手の施しようがないのです。

下(お)りて行く際(きは)に、歌詠ままほしかりければ、やや久しう思ひめぐらして、
 「君にもし心違はば松浦(まつら)なる
  鏡の神をかけて誓はむ
この和歌は、仕うまつりたりとなむ思ひたまふる」と、うち笑みたるも、世づかずうひうひしや。あれにもあらねば、返しすべくも思はねど、娘どもに詠ますれど、「まろは、ましてものもおぼえず」とてゐたれば、いと久しきに思ひわびて、うち思ひけるままに、
  年を経て祈る心の違ひなば
  鏡の神をつらしとや見む
とわななかし出でたるを、「待てや。こはいかに仰せらるる」と、ゆくりかに寄り来たるけはひに、おびえて、おとど、色もなくなりぬ。


(大夫監が階を)下りて帰る際に、歌を詠みなくなったので、少し長めに思案して、
「姫君に対してもし心変わりを
するようなら松浦にある鏡の
神に約束をして誓いましょう。
この和歌は、うまくできたと思います」と、にやりと笑ったのも、世間並みとはいえず初心なことである。(乳母は)生きた心地もしないので、返歌などできそうにも思わないので、娘どもに詠ませようとするが、「私は、もっと人心地がしません」といってじっとしているので、あまり長く時間がかかるので思いあぐねて、思いついたままに、
 「長年祈ってまいりましたこと
が思うようにならなかったら、
鏡の神を恨めしく思うことで
しょう。
とふるえた声で言うと、「待て。これは何とおっしゃったのか」と、ぶしつけに近寄ってきた様子に怯えて、祖母殿(乳母)は顔色も失せてしまった。


よせばいいのに、大夫監は腰を下ろしていた簀子から下りて帰るときに、歌を詠もうとします。しかし、この男のことですから「やや久しく」思案しないとできない(作者がチクリと嫌味を言っている)のです。「心変わりがしないことを鏡の神(今の唐津市にある鏡神社)に誓います」という程度の歌にしておけばまだよかったのですが、「もし心変わりするようなら」と言ったうえで、「誓いましょう」と続けたのでは意味が通りません。本人は「心変わりしたらどんな罰でもお受けしますと誓いましょう」とでも言いたかったのかもしれませんが。うまいとか下手とかいうよりも、歌になっていないのです。ところが本人は悦に入っていて、肥前の鏡神社を詠み込んで、
「鏡」に「かけ」という縁語を配したことに自信満々なのかもしれません。「この和歌は」と言っていますが、これについて本居宣長の『玉の小櫛』は「うたといはずして和歌といへる、ゐなか人の詞也」と言っています。私などまるでそんなことには気づかなかったのですが、宣長のことばに対する繊細な感受性は見事なものだと思いました。どう対応すればよいものかわからない乳母もその娘も返歌などできそうになく、しかたなく乳母が適当に詠んで返しました。この乳母の和歌は何が言いたいのでしょうか。彼女が「長年祈ってきたこと」というと玉鬘を都に連れ戻すことです。それがうまく行かなかったら鏡の神を恨めしく思う、というのであれば、大夫監がいぶかるのももっともです。彼は「何だと」と言わんばかりの剣幕で近づいてきました。なにしろこのでかい図体で迫ってくるのですから、乳母は真っ青になります。

娘たち、さはいへど、心強く笑ひて、「この人の、さまことにものしたまふを、引き違へ、いづらは思はれむを、なほ、ほけほけしき人の、神かけて、聞こえひがめたまふなめりや」と解き聞かす。「おい、さり、さり」とうなづきて、「をかしき御口つきかな。なにがしら、田舎びたりといふ名こそはべれ、口惜しき民にははべらず。都の人とても、何ばかりかあらむ。みな知りてはべり。な思しあなづりそ」とて、また、詠まむと思へれども、堪へずやありけむ、往ぬめり。

娘たちは、人心地がしないとはいっても気強く笑って「この人(玉鬘)が不具でいらっしゃるので、もしあなたとのお約束を違えましたら、どのように思われるでしょうかということを、やはり、老いぼれた人が、神を引き合いにして言いそこねたようですね」と説明して聞かせる。「おう、そうだな、そうだな」と頷いて、「うまくおっしゃったものだな。拙者などは、田舎びているという噂もござるが、なさけない庶民というわけではござらぬ。都の人といっても、どれほどのことがあろうか。すっかりわかっております。ばかにはなさいますな」と言って、また、詠もうと思ったのだが、うまくできなかったのだろうか、去っていったようである。

娘たちは必死に愛想笑いをして、いいわけをします。もしあなた様と結婚するという約束を違えたらどんなことになるかという意味なのに、母は老いぼれていますのでうまく言えなかったのでしょう、とごまかします。すると大夫監は納得してしまって、自分は「口惜しき民」ではない、と強調するのです。「口惜しき」は「がっかりするような」ということです。最近の若者言葉で「残念な人」という言い方がありますが、あの「残念な」にあたると言えそうです。「民」は被支配者の人民のことで、大夫監は「自分はつまらぬ庶民ではない」と言いたいのです。そして、もう一首詠もうと考えたのですが、それはできずに帰ってしまいます。この男は最後まで戯画化されるのです。

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正月は田舎で(6) 

私はマスクをするのが相変わらず苦痛です。しかし厳島神社ではそういうわけにもいかず、ずっと着けていました。神社を出ると最初にしたことは人のいないところに行ってマスクを外すことでした。数分間深呼吸(笑)。往復の船では(暖かい客室に入らずデッキの隅っこの方にいたのですが)またマスク、降りると外す、それの繰り返しでした。例年に比べてかなり人が少なかったので、その意味では屋外で外して歩いても気が楽でした。
この正月休みは肝心の懸案事項を解決することができず、フラストレーションのたまった状態でしたが、それでもいくらか気分よく過ごすことができました。

    もみじ饅頭

は一つだけ食べました。
昔は「つぶ餡」と「こし餡」それに「クリーム」「チョコ」「抹茶」が変わり種としてあったくらいですが、最近はいろいろなものが出ているようです。
今はやっているのは「揚げもみじ」と「生もみじ」だそうですが、伝統的な「つぶ餡」を愛する私は食べていません。
あちらでは新聞がなく、都会の正月の風景なども何も知りません。持って行った『源氏物語』を読んだり西行のことを少し学んだりしながら過ごしました。ワインを一本あけたのですが、ビールも日本酒も一滴も飲んでいません。その点でも少し物足りない気がしました(笑)。
滞在した古家は人が常に住んでいるわけではありませんので、あちらに行くと必ずいくらかでも

    庭掃除

をするのです。今年は体調不良のためにあまり大きな仕事はできませんでしたが、大きなゴミ袋2つ分の庭草を取ったり、「空き家です」と思われない程度に庭木の剪定のまねごとをしたりしました。それでも、まだ枯れ草や枯れ葉が残っており、さほど広い庭でもないのに、ため息が出ました。1週間くらい毎日掃除しないとだめだろうな、という感じです。
三が日はゴミの収集がありませんので、ゴミ出しだけのために(笑)もう1日滞在して、生活ゴミや枯れ草などの「燃えるゴミ」をごっそり出してきました。
こうして年末年始の田舎暮らしは終わりました。

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正月は田舎で(5) 

私が厳島神社に行った日は午後1時から二日祭の舞楽があったのですが、やはりかなり人出が予想されることもあって遠慮しました(実際に行ったのはその2時間後くらいです)。
ここの舞楽は桃花祭、菊花祭などで何度も拝見しましたし、あの台風直後の1992年には一月三日の元始祭の舞楽にも行きました。だからもういいや、という気持ちもあったのですが、もし世の中がこのような不穏なものでなかったらやはり行ったかもしれません(←未練がましい)。
そんな残念な面もあるにはあったのですが、本殿祓殿に、工事中の大鳥居から外された

    扁額

が展示されていたのは望外の喜びというほかはありませんでした。明治に八代目(九代目とも)として建てられた今の鳥居には、有栖川宮熾仁親王染筆の二枚の扁額が掛けられているのです。一般的に、鳥居の扁額は参拝者が入ってくる方に、表札のように(?)一枚掛けられているだけですが、この鳥居には社殿側と沖側にそれぞれ一枚ずつ掛けられているのです。本来鳥居は中に入ってから眺めるためのものではないでしょうが、ここは特別なのですね。沖側にあるのは本来の扁額の掛け方ですが、参拝者が海に浮かぶあの美しい鳥居を見るのは多くの場合は社殿側からですから、なかなかうまく考えられているとも言えそうです。その扁額の文字は

    「伊都岐島神社」(社殿側)

    「厳嶋神社」(沖側)

です。普段なら、社殿から見る場合はやはり遠いですし、干潮時に鳥居のそばまで行ってもはるかに見上げるだけです。鳥居を楽しみにして来られた方には気の毒ですが、私はもう何度も見ていますので、扁額を間近で拝見できたほうがよかったとも言えます。いずれも黒漆の額縁で「厳島神社」のほうには昇り龍と下り龍が彫刻されていました。
宮島には鹿がたくさんいますが、奈良と違って「鹿せんべい」などはどこにも売られていません。野生の習性を忘れさせないように、鹿にはせんべいのみならず食べ物を与えることは禁じられています。奈良で見慣れた風景はここにはありません。
日も暮れてきましたので、ほかにもいくつかの場所を回って帰ることにしました。何でも、夜になるとこの工事中の鳥居がライトアップされるそうで、足場などがとても神秘的に見えるそうです。それを目的に来る人もあるらしいのですが、ライトアップにあまり関心のない私はそそくさと(笑)桟橋に向かいました。折しも夕陽が沈むころで、その茜色がとても美しく、ライトアップよりもいいものを見ることができました。
ステイ・アット・ホームを遵守されている方には合わせる顔がないのですが、空いた時間を使っての厳島の半日はなかなかすてきなものでした。

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正月は田舎で(4) 

厳島神社の能舞台を倒した、あの悲惨な台風から30年。歳月はあっという間に過ぎていきます。
それにしてもこの神社は何度行っても魅力的なところです。
鬼界が島に流された平康頼が流したという千本卒塔婆のひとつがこの神社に流れ着き、それがゆくゆく彼らの赦免にもつながることが『平家物語』にも記されています。
厳島神社にはそれが流れ着いたといわれる

    卒塔婆石

なるものがあり、説明板もあります。私が行ったときは干潮でしたので、卒塔婆石がはっきり姿を見せていました。しかし小さな板一枚には多くの説明を書けないこともあって、ほとんどの人が「わけがわからん」というごようすでその場を離れられます。いや、そもそも立ち止まる人もあまりいらっしゃらないように思えます。せっかくのエピソードですから、もう少し何とかわかりやすく説明すればいいのに、と思います。
石の奥には康頼が後に奉納したと伝わる

    康頼燈籠

もありますが、これもさらにわかりにくく、説明版も双眼鏡が欲しいくらいです。平康頼は鬼界が島に俊寛や藤原成経(丹波少将)とともに流されたあと、熊野三所権現を勧請して成経とともに帰洛を祈願していました(俊寛は加わりませんでした)。そして康頼は卒塔婆に

  薩摩潟沖の小島に我ありと
    親には告げよ八重の潮風
  思ひやれしばしと思ふ旅だにも
    なほふるさとは恋しきものを

という歌を書きつけて流したのです。その一本が厳島神社に流れ着き、それを見つけた僧が都の康頼の家族に届け、さらに後白河法皇の知るところともなりました。卒塔婆はその後平重盛から清盛にも伝えられたと言います。折から、高倉天皇中宮(清盛の娘徳子)が懐妊したこともあって、その安産平癒のためにも康頼と成経は赦免されたのでした。そういう話もうまく伝えられたらいいと思うのです。最近は美術館でイヤホンガイドがありますが、それに類するものがあればと思わないのでもないのです。
厳島神社には、ほかにも客人社とか天神社とか反り橋とか、もちろん能舞台、高舞台、平舞台、楽房などなどさまざまな見ものがあります。
ただ回廊を歩いてお土産を買っていくだけではもったいないような気がします。

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正月は田舎で(3) 

田舎に行った目的は結局果たせず、その意味での収穫はゼロでした。しかしそのために時間が空いてしまいました。そこで、このご時世だけにいささか気になったのですが、一度だけ遠出をしました。
安芸の宮島、厳島神社に行ったのです。例年なら舟から人があふれんばかりだと思うのですが、今年はさすがに少ない人出でした。船賃は180円。この金額で10分間の海の旅をさせてもらえるのは安すぎると言いたいくらいです。数100円払ってジェットコースターに乗るくらいなら、私は断然こちらを選びます。
本土側の桟橋の前はずいぶん整備されていて今後もその整備は続くようでした。次に来るとき(機会はあるのか?)はまた様変わりしているかもしれません。
一昨年から神社は工事をしていて、特に残念なのは

    大鳥居

がほぼ見えないことです。
実は船に乗っていると、20歳前後かと思われる、まったく知らない男の子が(おそらく)「あの、鳥居はどこあるんスか?」と聞いてきました。「突然失礼いたします。お尋ねしたいのですが、厳島神社の大鳥居はどこにあるのでしょうか」とはけっして言っていませんでした。
私は足場が組まれている方を指さして「あそこですよ」というと、「えっ」という顔をして、礼も言わずに(笑)友だちの方に駆け寄って(おそらく)「あれだってよ」「つまんねぇの」「写真撮れねぇじゃん」とか何とか言っていたようです。君たち、私のせいじゃないからね。
ここもさすがに感染対策ということで、警備の人がたくさん出ていました。アルコール消毒をして、マスクを着けて、密にならないように、という、今どきあたりまえではありますが、

    「注文の多い神社」

でした。
私はここに来ると、今から30年前の1991年9月を思い出します。激しい台風が襲来したのです。とくに風が強くて、海岸近くの電線が塩害に遭って停電するという事態を引き起こしました。私はそのころ、まさにその停電した地域に住んでいたのです。
情報はラジオと新聞だけ。そのラジオからびっくりするようなニュースが流れてきました。厳島神社が壊滅的な被害に遭ったというのです。居ても立ってもいられなくなった私はすぐに神社に向かいました。涙も出ないほどのひどさで、特に能舞台が完全に倒れてしまって、海の上に屋根が浮いているような感じでした。
あの日のことは今でも忘れられず、今回も能舞台を見るとついあの悲惨な風景を思い出してしまいます。

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正月は田舎で(2) 

実は、大みそかはあまり元気がなくて、ほとんど一日中動きませんでした。その日の歩数計はわずか220歩を記録しただけでした。
しかし、休んだせいか、少し気分がよくなり、元日は早朝から少し歩いてみようという気になったのです。
近くにある、と言っても、徒歩で10分近くかかるのですが、他に何もありませんので、一番近くの旧跡(寺と神社)を訪ねるべく、歩いていきました。そこまではほぼ平坦な道ですので苦しさはありません。ただ、神社はなくて急な階段を登らねばならず、これはいささか苦痛でした。
その途中にあった畑にはみごとな白菜や大根が植えてありました。すると、一人の男性がどこからともなくあらわれて、畑の中をうろうろしたあげく、これと決めた大根を

    ぐいと引き抜いて

持って帰って行かれました。いいなぁ、私もやってみたいな、と思ったのですが、もちろんそんな不届きなことは致しておりません。あれは雑煮の中に入れるのかな、などと想像しつつ神社に参り、さらにそのあと寺にも行って、さらにあてもなくあぜ道のような狭い道を歩いていきました。なお、神社は神官の方もいらっしゃいません。本殿は勝手に上がって参拝してもいいようになっている感じでした。お寺も勝手にくぐり戸を開けて入っていけばいいようでした。
もう一つ目立ったのは廃屋でした。若い人が後を継がずに都会に出て、残された高齢の方が亡くなったりしたのでしょうか、とにかく家が傾いて、屋根瓦が崩れ落ちて、雨戸は外れてしまっているのです。庭は枯れ草で荒れ放題。このあたりだと、土地を売りに出しても

    買い手がつかない

のではないかとさえ思えます。
道行く人もすっかり少なくなったように思います。以前は高齢の方がときどき杖を突きながらでも歩いていらっしゃるのにすれ違いましたが、ほんとうに人がいません。もちろん、住んでいる人はいるのです。ただ、正月でもあり、また今年は特別な状況で引きこもりがちということもあり、みなさんでてこられないのかもしれません。結局、小一時間歩いて、見かけた人は大根を抜いていた人も含めて2人。あとはすれ違った車が5,6台だったと思います。
中には立派な家があって、門から玄関まで数10mありそうなお屋敷がありました。建物もとても立派なもので、屋根がとても高いのです。庭には見えるだけで5台くらい車があって、家族一人につき1台なのかもしれません。
この日はもう一度外に出たのですが、その時には自転車に乗った中学生くらいの子どもがいました。その姿に何とも言えない安ど感を覚えたのでした。

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正月は田舎で(1) 

今年に関しては正月といえどもどこにも行きたくはありませんでした。しかし事情があって、悩んだ結果行くことにしました。夏にも同じところに行ったのですが、いわばその時に残した宿題を少しでも片付けるため、という感じです。
どうせ私の場合、あちらでも家にいるだけでうろうろすることはありませんし、人口密度のけた外れに少ないところだけにめったに人に会わず、会うとしたら相手は車に乗っています。こちらがウイルスを持って行ったとしても、ばらまきようがありません。実際、私はちょっとした用を除くと、何冊か持って行った本を読んでいるか、愛用の

    中古パソコン(笑)

で何か書いていることくらいしかできそうにありません。
ともかくも、平素の住まいの掃除を(かなり)適当に済ませたあと、年末に出発して、新年の三日まで逗留しました。
西に向かって出かけたのですが、その日の車窓はなかなか見晴らしがよくて快適で、寒さもさほど厳しくありませんでした。
散歩するにも、山道ですのであまり長い距離を歩くことができません。平地であればある程度の時間を歩けるのですが、上り坂はどうしても息苦しさが伴います。着いた翌日はあいにくの雨模様。しかしやがてそれが止むときれいな虹がかかっていました。虹というのは遥か彼方に見るものと思っていたのですが、とても大きな、手でつかめそうな虹でした。
大みそかは雪がわずかにちらついたようです。翌朝、つまり元日に外に出てみると、

    南天の葉

にうっすらと積もっているのが見えました。
  南天の葉に積む雪の寂光土
   年立ち返る朝の小庭に
こうして私の2021年が明けました。

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源氏物語「玉鬘」(1) 

年が明けて早くも一週間が過ぎました。このシリーズでは初めてですので、改めて新年のお慶びを申し上げます。
『源氏物語』の講座ができない一年でした。その代わりにこの場所で、「蓬生」巻から「関屋」「絵合」「松風」「薄雲」「朝顔」「少女」と七つの巻を読んでまいりました。だらだらと書いているだけなのですが、私にとってはとても勉強になるもので、ありがたく存じております。
年明けも、10回をめどに書いていきたいと思っています。
まずは第二十二帖の「玉鬘」巻です。光源氏三十五歳のことですが、夕顔の娘である玉鬘の前半生の回想が挟み込まれます。

年月隔たりぬれど、飽かざりし夕顔を、つゆ忘れたまはず、心々なる人のありさまどもを、見たまひ重ぬるにつけても、あらましかばと、あはれに口惜しくのみ思し出づ。

年月が経っても思いの尽きない夕顔を、(光源氏は)けっしてお忘れにならず、それぞれに性格の異なった女性たちを何人もご覧になってこられるにつけても、もし生きていたら、としみじみと残念にばかりお思い出しになるばかりである。

「玉鬘」巻の冒頭です。光源氏が十七歳の時に短い期間関係を持った人、夕顔の思い出です。あれからすでに十七年余りが経過しています。それでもなお光源氏は忘れられないというのです。「思へどもなほ飽かざりし夕顔のつゆにおくれし心地を年月経れど思し忘れず」。これは「末摘花」巻の冒頭です。とてもよく似ています。「つゆ」というのは「けっして(~ない)」という意味で用いられますが、夕顔の縁で「露」を響かせ、またその露のようにはかない彼女の命を連想させるものです。夕顔のことを思い出すと、それ以後に出会った数々の女性たちとは違っていて、もし彼女が生きていれば、と思わないではいられないのです。「心々なる人の・・」について『岷江入楚』は「夕顔の上のやう成もなきとおほす源ノ心也(夕顔の君のような女性もいないことだ、とお思いになる光源氏の心である)」と注を付けています。
なお、「あらましかば」について、「世の中にあらましかばと思ふ人亡きが多くもなりにけるかな(世の中に生きていればと思う故人が多くなってしまったことだ)」(拾遺集・哀傷・藤原為頼)を引くと考える注釈が多いのですが、この歌の「多くもなりにけるかな」が夕顔一人を悼む気持ちと一致しないので、引き歌とは見ませんでした。

右近は、何の人数(ひとかず)ならねど、なほ、その形見と見たまひて、らうたきものに思したれば、古人(ふるびと)の数に仕うまつり馴れたり。須磨の御移ろひのほどに、対の上の御方に、皆人びと聞こえ渡したまひしほどより、そなたにさぶらふ。心よくかいひそめたるものに、女君も思したれど、心のうちには、故君ものしたまはましかば、明石の御方ばかりのおぼえには劣りたまはざらまし。さしも深き御心ざしなかりけるをだに、落としあぶさず、取りしたためたまふ御心長さなりければ、まいて、やむごとなき列にこそあらざらめ、この御殿移りの数のうちには交じらひたまひなまし、と思ふに、飽かず悲しくなむ思ひける。

右近は、たいした身分のものではないが、やはりあの人の形見とご覧になって、いじらしいものとお思いになったので、昔からの女房の中に入ってずっとお仕えしている。須磨へのご退去の時に対の上の方に女房たちを皆お預けになったときから、そちら(紫の上方)に伺候している。気立てがよくて控えめな者と女君(紫の上)も思っていらっしゃるが、(右近の)心の中では、亡き君がご存命でいらっしゃったら、明石の御方くらいのご寵愛には劣ることはおありではなかっただろう、(光源氏は)それほど深い思いのない女性でさえ落ちぶれさせることなくお扱いになるお心の長さなので、まして、高貴な人の列には入らなくても、このたびのお屋敷替わりの数の中にはきっとお入りになっただろう、と思うと、あきらめきれずに悲しく思ったのであった。

右近というのは夕顔の侍女で乳母子でもありました。かつて光源氏がなにがしの院に夕顔を連れ出す時に同行し、彼女が頓死したあとは二条院に引き取られて光源氏の女房になりました。そして、光源氏が須磨に落ちたとき、彼女は紫の上付きの女房になり、それなりに信頼も得ていたようです。「かいひめたる」というのは「掻い秘めたる」のことで、目立たないように意識して抑えることです。女房の異動については「須磨」巻にも「さぶらふ人々よりはじめ、よろづことことみな西の対に聞こえわたしたまふ(お仕えする女房をはじめあらゆることはみな西の対の紫の上に委任して移らせなさる)」とありました。右近は、亡き主人を明石の君くらいにご寵愛はあったはずだと思い、それゆえに六条院への転居に際しても、秋好中宮や紫の上に並ぶとは思えないものの、明石の君並みには扱われたはずだ、と思うのです。六条院に移らなかった人としては末摘花や空蝉がいますが、それ以上だと思っているのです。今なお諦めきれないでいる光源氏の心を考えると、右近の考えも思い上がりとは言えないのではないでしょうか。

かの西の京にとまりし若君をだに、行方も知らず、ひとへにものを思ひつつみ、また、「今さらにかひなきことによりて、我が名漏らすな」と、口がためたまひしを憚りきこえて、尋ねてもおとづれきこえざりしほどに、その御乳母の夫(をとこ)少弐になりて行きければ、下りにけり。かの若君の四つになる年ぞ筑紫へは行きける。

あの、西の京に残された若君までも、行方が分からず、(一連の出来事について)ひたすら口をつぐんで、また(光源氏が)
今はもう何を言ってもしかたがないのだから、私の名を漏らすな」と口止めなさったので遠慮申し上げて、探してお便りを申し上げることもないでいるうちに、その御乳母の夫が太宰少弐になったのに同行して下ってしまった。あの若君の四つになる年に筑紫に行ったのである。


話が夕顔の娘に変わります。「女にていとらうたげになむ(女の子でとてもいじらしいほどかわいい)」(帚木巻)というこの娘は、このあと「玉鬘」と呼ばれることになります。ここでも、これ以下はその名で呼ぶことにします。夕顔と玉鬘は頭中将の妻(右大臣の娘。朱雀院の母である弘徽殿女御の妹)側からの嫌がらせがあって、「西の京に御乳母住みはべりけるところになむはひ隠れたまへりし」という追いつめられた暮らしをしていたのです。そこからさらに別のところに移るつもりで、いったん母子が別になったときにあの五条あたりの夕顔の宿で光源氏と出会ったのでした。右近自身何も語らず、光源氏も「わが名漏らすな」といっていましたので、彼女は口を閉ざして玉鬘とは会えないままでした。「わが名漏らすな」というのは「犬上の鳥籠(とこ)の山なるいさや川いさと答へよわが名漏らすな」(古今和歌集・恋三の墨滅歌)を引くのでしょう。そうこうしているうちにその乳母(夕顔の乳母)の夫が太宰少弐(任期は五年)になって筑紫に下ることになったので、玉鬘も同行したのです。四歳ということなので、夕顔が亡くなった翌年に当たります。

母君の御行方を知らむと、よろづの神仏に申して、夜昼泣き恋ひて、さるべき所々を尋ねきこえけれど、つひにえ聞き出でず。さらばいかがはせむ。若君をだにこそは、御形見に見たてまつらめ。あやしき道に添へたてまつりて、遥かなるほどにおはせむことの悲しきこと。なほ、父君にほのめかさむ、と思ひけれど、さるべきたよりもなきうちに、「母君のおはしけむ方も知らず、尋ね問ひたまはば、いかが聞こえむ」「まだ、よくも見なれたまはぬに、幼き人をとどめたてまつりたまはむも、うしろめたかるべし」「知りながら、はた、率て下りねと許したまふべきにもあらず」など、おのがじし語らひあはせて、いとうつくしう、ただ今から気高く清らなる御さまを、ことなるしつらひなき舟に乗せて漕ぎ出づるほどは、いとあはれになむおぼえける。幼き心地に、母君を忘れず、折々に、「母の御もとへ行くか」と問ひたまふにつけて、涙絶ゆる時なく、娘どもも思ひこがるるを、「舟路ゆゆし」と、かつは諌めけり。

母君の御行方を知ろうとして、あらゆる神仏に祈願して夜昼泣き焦がれて、心当たりのあるところをあちこちお尋ね申したのだがとうとう聞き出すことはできなかった。こうなったらどうすればいいだろうか。せめて若君だけでも形見としてお世話申し上げよう鄙に行く道にお連れ申して、遥かなところにいらっしゃるというのは哀しいこと、やはり父君(もとの頭中将。)にそれとなくお知らせしようと思ったのだが、しかるべきつてもないので「母君がどこにいらっしゃったのかもわからないのに、もし(父君が)このこと(母君が行方不明であること)をお尋ねになったらどのようにお答えしよう」「まだよくもなじんでいらっしゃらないのに、幼い人をお引き取りくださっても、気がかりなことでしょう」「事情がお分かりになったら、どう考えても連れて鄙に下れとはお許しになるはずもない」など、それぞれが話し合って、ほんとうにかわいらしく、今のうちから気高く美しいお姿の若君を、これといった設備もない舟に乗せて漕ぎ出す時は、ほんとうに悲しいことと思われたのである。幼心に、母君を忘れず、折々に「母のいらっしゃるところに行くのか」とお尋ねになるにつけて、涙の絶える時もなく(乳母の)娘たちも(夕顔を)恋い焦がれるのを、「舟路なのに縁起でもない」と一方では諫めるのであった。

幼い玉鬘を目の当たりにする夕顔の乳母(太宰少弐の妻)たちは、まずは夕顔の行方を知るために自分たちのできる範囲で最善を尽くしたのです。しかし、どうしても限界はあります。玉鬘の父(頭中将)に知らせたいといってもそういう便宜がなく、また仮に知らせてもその後うまく行くだろうかという不安もあります。何と言っても、かつて夕顔は当時の頭中将の妻からの脅迫に耐えかねて乳母のいる西の京に逃れたという経緯があります。そんな人のところに連れて行って玉鬘が幸せになるだろうかという思いもあるのでしょう。「知りながら、はた・・・」というところについて『細流抄』は「かくと案内申てはしり給なからは中ゝ下国の事はゆるし給ましきと也(こういう事情ですとお知らせしたら、その事情をお分かりになりながらはかえって西国に下ることはお許しにならないだろうというのである)」と注を付けています。乳母たちはさんざん話し合った結果、やはり玉鬘を九州まで連れて行くことにしたのです。しかし、舟旅は恐ろしくつらいものです。「ことなるしつらひなき舟」というのは「そさうなる舟のさま成へし」(岷江入楚)というとおり、「そさう(粗相)すなわち設備の何もない舟、ということです。幸福な世界が待っているわけでもない所にこのかわいらしい女の子を連れて行く気持ちは都育ちの人たちにとってはたまらなく悲しいものだったでしょう。当の玉鬘は無邪気に「今からお母様のところに行くの?」と何度も尋ねるのです。幼い子どものこういう言葉を読んだ読者は涙を誘われたのではないでしょうか。『湖月抄』はこの玉鬘の言葉に対して「哀情思ひやるへし」と言っています。乳母の娘たちも(おそらくは読者と同じように)涙を流しますので、乳母は「縁起でもない」と諭します。しかしそう言っている乳母もまたまったく同じ気持ちなのは疑いのないところです。「舟路ゆゆし」については『岷江入楚』が「船路は一段物いまひする事也」と言っています。「船路はほかの時よりもいっそう物忌みするものである」ということで、涙は不吉なのです。

おもしろき所々を見つつ、「心若うおはせしものを、かかる道をも見せたてまつるものにもがな」「おはせましかば、われらは下らざらまし」と、京の方を思ひやらるるに、かへる波もうらやましく、心細きに、舟子どもの荒々しき声にて、「うらがなしくも、遠く来にけるかな」と、歌ふを聞くままに、二人さし向ひて泣きけり。

景色のよいあちらこちらを見ながら「(夕顔は)気の若い方でいらっしゃったから、こういう船路もお見せ申し上げたいものです」「もしご存命なら私たちは下向しないでしょうよ」と京の方がつい思いやられるので、返る波もうらやましく、心細い折に、船頭たちが荒々しい声で「悲しいことに遠くまで来てしまったこと」と歌うのを聞くと、二人の娘は向き合って泣いたのである。

瀬戸内海は多くの島がありますので、風景は美しいのです。「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」(人麻呂集))は明石から海を見た情景ですが、朝霧の中を舟が次々に島に隠れながら進んでいく情景が美しいと謳っています。その舟に乗っている者たちにとっても、移り行く島影が美しくないはずがありません。また、噂に聞いているだけであった名所に出会ったりすると感嘆の声を挙げたであろうことは想像に難くありません。夕顔が気の若い人、というかどこか愛すべき稚気のある人だっただけに、こういう風景を見たら無邪気に喜んだだろう、と想像してみたり、でもあの方がいらっしゃったら、そもそも私たちはこんな船旅はしていない、という思いも湧いてくるのです。「かへる波もうらやましく」というのは「いとどしく恋しきかたの過ぎゆくにうらやましくもかへる波かな」(『伊勢物語』七段。『後撰和歌集』羇旅・業平)による言葉です。この歌は、海辺にいたり、船旅をしたりすると誰もが思い起こすような一首です。『源氏物語』「須磨」でも須磨に下向する光源氏の様子について「渚に寄る波のかつ返るを見たまひて、『うらやましくも』とうち誦じたまへるっさま・・」という記述があります。この歌を思い出していたその時に、風流とは縁のない(と都の人なら思っていたでしょう)はずの船頭が舟歌を歌いました。「うら悲しくも遠く来にけるかな」。歌の内容も悲しさを誘うものではありますが、この歌詞は「うらやましくもかへる波かな」ととてもよく似ています。「うらがなしくも、よぉ~」などと歌ったときには「うらやましくも」がそのまま連想されたでしょう。そしてそのあとに「返る波かな」と来るのかと思ったら、「遠くに来てしまった」と歌ったのです。「(都へ)返る」とはまったく逆の方向性を持つ言葉に、今から自分たちが行かねばならない鄙(都の反対側)への思いが募ったことでしょう。「鄙(ひな)」は「みや」の反対語です。だから、「鄙び」は「みやび」に対する言葉なのです。都の対極、雅(みやび)の対極に彼女たちは向かっているのです。現代でも船旅は深い旅情に誘われるものですが、当時の人の心に寄り添ってみると、この場面の切なさが深く感じられることでしょう。

舟人もたれを恋ふとか大島の
うらがなしげに声の聞こゆる
  来し方も行方も知らぬ沖に出でて
  あはれいづくに君を恋ふらむ
鄙の別れに、おのがじし心をやりて言ひける。



  舟人も誰を恋しく思うというのか。
  大島の浦で悲しげに声が聞こえる。
  どこから来たのか、どこへ行くの
  かもわからない沖に漕ぎ出して、
  ああ、どこに向かって私たちはあ
  なたを恋い求めているのでしょう。
と、鄙への別れに、それぞれに気を晴らそうとして詠んだのであった。


思いがけなくも、舟人が自分たちと同じような思いを歌ったので、私たちは夕顔様を恋い慕っているが、お前は誰が恋しくてそんな悲しい声の歌を歌うのかと詠み、都はすでに遠く、今から行くところは見知らぬ土地なので自分たちはどこにいてあの夕顔を恋い慕えばいいのか、とも詠んでいます。「大島」というのは、このあとの文章から判断すると、すでに九州を目の前にした、今の福岡県宗像郡にある大島を指すものと思われます。ここは先年世界遺産に登録された宗像大社の中津宮があるところです。遥か北方にある沖之島(世界遺産)を遥拝するための島でもあります。「鄙の別れに」というのは「思ひきや鄙の別れにおとろへて海人(あま)の縄たき漁りせむとは(思いも寄らなかった。都と別れて鄙での暮らしに落ちぶれて釣り縄を繰って漁をするようになろうとは)」(『古今和歌集』雑下・小野篁。隠岐に流されたときの歌)を引いたものです。

金の岬過ぎて、「われは忘れず」など、世とともの言種になりて、かしこに到り着きては、まいて遥かなるほどを思ひやりて、恋ひ泣きて、この君をかしづきものにて、明かし暮らす。夢などに、いとたまさかに見えたまふ時などもあり。同じさまなる女など、添ひたまうて見えたまへば、名残心地悪しく悩みなどしければ、なほ、世に亡くなりたまひにけるなめり、と思ひなるも、いみじくのみなむ。

金の岬を過ぎて、「我は忘れず」など常の口癖になって、目的地に着いてからは、まして遥かな都からの距離を思いやって慕い泣き、この姫君を大切に養育しなければならない人として明かし暮らしている。夢などに、ごくまれに(夕顔が)お見えになるときもある。あの、同じ様子をした女などが一緒にいらっしゃるのがお見えになるので、夢が覚めたあとの気分が悪く患ったりしたので、やはりこの世にはいらっしゃらないようだ、と思うようになったのもとても悲しいことだ。

「金の岬」は今の福岡県玄海町にある鐘崎のことです。三韓(古代朝鮮半島の南の三つの部族国家)から運んできた鐘がこのあたりで強風のために海に沈み、竜神が奪ったものだ、という「沈鐘伝説」が残っています。今も潮流が激しいところです。「我は忘れず」は「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも我は忘れじ志賀の皇神(すめかみ)」(万葉集・1230)によります。「志賀」はあの「漢委奴国王」の金印が発見されたことで有名な志賀島です。荒れ狂う金の岬は過ぎたとしても、私は忘れるまい、志賀の海神を、というほどの意味です。しかし、彼女たちが本当に忘れないのは夕顔のことでしょう。次の「世とともに」の部分については『岷江入楚』が「夕顔の上の事をのみつねのことくさにいふ也我は忘れすといふも皆夕顔事心にあり(夕顔の君の事ばかりを口癖のように言っているのである。『我は忘れず』というのも、すべて夕顔のことが心にあるのだ)」といっています。こうして彼らは那の津(現在の福岡市中央区那の津)から陸路大宰府に向かいます。そして大宰府に着いてからも、ただただ都のことを思いやって、玉鬘を養育することに専心するのです。乳母の夢には、たまに夕顔が現れることがありました。しかしそのそばに「同じさまなる女」がいるのです。これはいったい誰なのでしょうか。あの時と同じ様子の女。「夕顔」巻で夕顔が光源氏とともに「なにがしの院」にでかけたとき、光源氏の夢や目覚めたあとの目の前にあやしげな女が出現して、夕顔はその直後に頓死しました。その女なのでしょう。読者はそれを思い起こしますが、もちろんそんなことを乳母が知っているはずがありません。何か妙な女が一緒にいて、その夢が覚めると気分が悪くなっているという不思議な現象なのです。しかし乳母はどうやら夕顔様はすでに亡くなっているようだと感じ取るのです。

少弐、任果てて上りなどするに、遥けきほどに、ことなる勢ひなき人は、たゆたひつつ、すがすがしくも出で立たぬほどに、重き病して、死なむとする心地にも、この君の十ばかりにもなりたまへるさまの、ゆゆしきまでをかしげなるを見たてまつりて、「我さへうち捨てたてまつりて、いかなるさまにはふれたまはむとすらむ。あやしき所に生ひ出でたまふも、かたじけなく思ひきこゆれど、いつしかも京に率てたてまつりて、さるべき人にも知らせたてまつりて、御宿世にまかせて見たてまつらむにも、都は広き所なれば、いと心やすかるべしと、思ひいそぎつるを、ここながら命堪へずなりぬること」と、うしろめたがる。男子(をのこご)三人あるに、「ただこの姫君、京に率てたてまつるべきことを思へ。わが身の孝(けう)をば、な思ひそ」となむ言ひ置きける。

少弐は任期を終えて上洛しようとしていたが、道が遥かで、とりたてて裕福でもない人で、ぐずぐずして思い切って出立もできないでいるうちに、重い病気になって死にそうな気持であっても、この姫君が十歳くらいになられたありさまが不吉なまでに美しいのを拝見して、「私までがこの人をお見捨てして、これからどのように流浪されることだろうか。こんな鄙びたところで成長なさるのも畏れ多いこととお思い申し上げるのだが、早く京にお連れ申し上げてしかるべき方にもお知らせ申して、あとはご運にまかせてお世話申そうにも、都は広いところだから、まったく安心だろうと思って準備していたのだが、こんなところで命が持たなくなってしまうとは」と気がかりに思っている。三人いる息子に「ただこの姫君を京にお連れ申し上げねばならないことだけを考えよ。私の後世の弔いのことは考えなくてもよい」と言い残したのであった。

太宰少弐の任期は五年でした。その間の事は何も記されずに、それだけの年数が経ったのです。この少弐という人物は清廉で、あこぎに蓄財するというタイプではなかったようです。こういう清く正しい人間ほど生きづらいのがこの世である、というのは今も昔も同じでしょう。都までの遥かな道を、多くの人を伴って旅をするだけの旅費もないのです。何しろ現地で任務の引継ぎをしたら放り出されるようなものですから。そうこうしているうちに少弐は重病になります。そして彼が気に留めるのはやはり玉鬘のことです。たぐいまれな美しい少女に成長しただけに、自分が命を落としてこの人を見捨てることになるのが残念なのです。少弐は玉鬘に対して敬語を用いています。誠実な人というべきでしょう。早く都にお連れしてしかるべき人、つまり彼女の父親(かつての頭中将)にも事情をお伝えしておけば、あとは広い都の事、いろいろなすぐれた男性もいますから、結婚するにしても安心でしょう。ゆくゆくは高貴な人の娘としてしかるべき人と結婚させるために、あと数年(今はまだ十歳くらいです)お世話すればいいはずだ、というのが彼の思いでした。ところが都に帰ることすらできずに自分の寿命が絶えてしまいそうになるのです。さぞかし無念でしょう。せめて玉鬘のことは息子に託そうとして、遺言をするのですが、三人の息子たちはそれを守るのでしょうか。

その人の御子とは、館(たち)の人にも知らせず、ただ、孫のかしづくべきゆゑある、とぞ言ひなしければ、人に見せず、限りなくかしづききこゆるほどに、にはかに亡(う)せぬれば、あはれに心細くて、ただ京の出で立ちをすれど、この少弐の仲悪しかりける国の人多くなどして、とざまかうざまに、怖(お)ぢはばかりて、われにもあらで年を過ぐすに、この君、ねびととのひたまふままに、母君よりもまさりてきよらに、父大臣の筋さへ加はればにや、品高くうつくしげなり。心ばせおほどかにあらまほしうものしたまふ。

どなたのお子様ということは館(官邸)の人にも知らせず、ただ孫で大切にするべきわけのある人、と言いつくろっていたので、誰にも会わせずにこの上もなく大切にお世話申し上げていたが、突然亡くなったので、悲しく心細くて、ただ京に旅立とうとしたのだが、この少弐と仲の悪かったこの国の人が多くいて、何かと怖がったり遠慮したりして生きた心地もしないままに年を過ごすと、この姫君は成長なさるにつれて母君にも勝って美しく、父大臣の血筋も加わるからか、気品があってかわいらしいようすである。性格はおっとりとしてこのうえなくていらっしゃる。

少弐は、玉鬘の素性を誰にも言いませんでした。これは彼女をこの田舎の人にさらしたくないという思いがあるからでしょう。自分の孫ではあるが、特別に大事な人だ、とだけ言っていたのです。ところが、彼はにわかに亡くなってしまいました。残された人たちは哀しくも心ぼそく、こんな田舎で生きていくのは難しいだけに、とにかく都に戻りたいと思うのですが、少弐は土地の豪族などとあまりうまく行っていなかったというのです。彼は清廉な人ですから、かえって地元民とうまく行かなかったのかもしれません。そんなこともあって、少弐亡きあとはその人たちの目が恐ろしくて、身動きも取れないような気持ちになったために、乳母たちは無駄に年月を過ごしてしまうのです。その間にも成長する玉鬘は、夕顔以上の美貌で、父大臣の高貴な血筋も引いて、品格豊かな女性になっていったのです。ここではすでに父親のことを「大臣」と書いています。彼は「少女」巻で内大臣になっていますので、そのころを念頭に置いているものと思われ、実際、このあとに玉鬘が二十歳くらいになっていることと呼応するようです。彼女の性格はおっとりとしているのですが、夕顔も「人のけはひいとあさましくやはらかにおほどきて」「いとらうたげにあえかなる心地して」「細やかにたをたをとして」「いとらうたく見ゆ」(いずれも夕顔巻)という人でした。

聞きついつつ、好いたる田舎人ども、心かけ消息がる、いと多かり。ゆゆしくめざましくおぼゆれば、誰も誰も聞き入れず。「容貌(かたち)などは、さてもありぬべけれど、いみじきかたはのあれば、人にも見せで尼になして、わが世の限りは持たらむ」と言ひ散らしたれば、「故少弐の孫は、かたはなむあんなる」「あたらものを」と、言ふなるを聞くもゆゆしく、「いかさまにして、都に率てたてまつりて、父大臣に知らせたてまつらむ。いときなきほどを、いとらうたしと思ひきこえたまへりしかば、さりともおろかには思ひ捨てきこえたまはじ」 など言ひ嘆くほど、仏神(ほとけかみ)に願を立ててなむ念じける。

次々に噂を聞いては色恋に夢中になる田舎者どもで、思いを寄せて手紙を送りたがる者がとても多い。いまわしく、あきれたことと思われるので、どの人からの求愛も聞き入れない。「容貌などはまあまあと言えるが、たいへんな不具のところがあって、誰とも結婚させずに、尼にして私が生きているうちは手元に置くつもりだ」と言いふらしたので、「亡き少弐の孫は不具なのだそうだ」「もったいいことよ」と噂しているのを聞くにつけても不吉な感じがして「何とかして都にお連れして父大臣にお知らせ申し上げよう。幼いころはとてもかわいらしいものと思い、またおっしゃってもいたのだから、いくら何でもおろそかにはお見捨て申し上げはなさるまい」などと言ってため息をついているのだが、その間にも仏神に願いを立てて祈ったのであった。

このあたり、なんとなく『竹取物語』の「世界の男あてなるもいやしきもいかでこのかぐや姫を得てしがな、見てしがなと音に聞きめでて惑ふ」というあたりを想起してしまいます。さすがにかぐや姫のように難題を出すことはありませんが、田舎の男たちの申し出は徹底的に拒否しています。そのいいわけには、からだのどこかが不自由だということにしているのです。しかし逆に「あそこの娘はからだが悪いらしい」などという噂を聞くと、そう言いふらしたは自分なのに、やはりいい気持ちはしません。とにかく早く都に連れて行きたいという思いが募ります。内大臣は玉鬘がまだ幼いころに「かの撫子のらうたくはべりしかば、いかで尋ねむと思ひたまふるを」(帚木)と言っており、かわいく思っていたのです。だからきっと粗略に扱われることはないだろうというのが乳母の思いです。その日が来ることを願って、彼女はひたすら神仏に祈っています。乳母の真情はよくわかるのですが、彼女は願うこと、祈ることが限界で、実際に行動を起こすのはなかなか難しいようです。そうこうしているうちに、妙な男が出現します。

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障子の張り替え 

年末に数年ぶりに障子を張り替えました。障子は破れないかぎり、何となく何年もそのままにしてしまいがちなのですが、やはり汚れがつきますから、年に一度くらいは替えるといいのでしょう。
私の家の障子も破れているわけではなかったのですが、しばらく替えていないと気付き、思い切って張り替えてみました。
最近はホームセンターなどで「糊はがし」というのを売っているようで、それを使うといいのだろうと思うのですが、何事も節約の私としましては旧式ながら霧吹きに水を入れてそれを吹きかけてはがしました。布に水をしみこませて叩くようにするやり方もあるようですが、何度もバケツの水につけなければならないような気がしまして、それなら片手でシュッとすればいいだけの霧吹きを使いました。ところがこれがばかにできません。握る力がけっこうたいへんなのです。

    握力を鍛える

運動をしたような感じでした。
さほど濡れるわけではありませんが、やはりいくらか桟に水がかかりますので、乾かしました。朝から始めればよかったのに、午後になってスタートしたものですから、乾かすのも夕方近くなってきました。しかも日が陰りだしましたので、よけいに時間がかかったのです。やっと乾いたのがもう日も暮れようかという時間。そこから狭い部屋に持ち込んで張り始めました。こんなの、糊をつけてさっと伸ばしたらおしまいでしょ、と思っていたのですが、これがなかなか手間がかかります。いや、実際は簡単なのかもしれませんが、なにしろ

    不器用

なものですから、はかどりません。縦150㎝の障子を4枚と20㎝ほどのものが4枚なのです。結局半分できたところで夕飯を食べることにして、その夜はいったん中止。残りは翌日に回しました。
カッターで縁を切っていくのもなかなかまっすぐには行かず、時間がかかり、そうこうしているうちに糊が乾いてしまうという情けなさ。結局4枚目を張るころになってやっと要領がわかったのです。
できあがった時はほんとうにくたびれました。
しかし、こうやって、何かに夢中になって黙々と作業をするというのはなかなかいいものだと思います。職人さんというのはこういうものなんだろうな、と、ほんのわずかながらその体験ができたように思います。

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歩きすぎました 

運動をするといっても歩くことくらいなので、ついついそれに夢中になってしまいます。
電車に乗っていると、その速さに目が追い付かず、いろいろなものを見過ごしているように思います。その点、歩くのは自分の動きですから自然にものが見えるように思うのです。
自由に止まれるのも歩くことのメリットです。電車だと「ちょっと止まって」というわけにはいかないのです。
何かを見つけてふと立ち止まる、というのがいいのです。こんなところにこんなものがあったのか、という発見もいろいろできます。私の家の近所でいうなら、市の貸農園があることに気づいたのも歩いていたからです。それを見つけて以来、しばしばそのあたりまで散歩しています。

    図書館

に行くのには徒歩20分余りですので、ひと仕事という感じです。歩ける体調の時はできる限り足を使っています。
昨年の6月以降、歩数計を使っているのですが、体調が思わしくなくて、8月などは65,000歩くらい。つまり一日平均だと2000歩程度しか歩きませんでした。一番よく歩いたのは6月で、197,000歩くらい。これだと一日平均6600歩くらいです。
よく一日1万歩と言いますが、私は

    8000歩

を目安にしています。
1か月24万歩歩けばそれを達成することになります。ところが、昨年12月はいくらか歩ける体調でしたので、調子に乗り過ぎました。31日で31万7000歩あまり歩いてしまったのです。
つまり毎日1万歩歩いた計算になるのです。ちょっと歩きすぎたかな、という気がしています。
今年も、8,000歩/日を目安にマメに歩こうと思っています。

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反骨精神 

四代目竹本越路太夫師匠は偏屈で反骨精神がある人、という意味で「偏骨の人」だと奥様がおっしゃっていたのだとか(『四代 竹本越路大夫』)。
私など、人間の格としては越路師匠の足元にも及ぶものではありませんが、いささか似たところがあるように思います。私も、自他ともに認める、かなりの偏屈です(笑)。「性格がかたよりねじけていること」と『広辞苑』に説明されてしまうと、何だか残念な人間だなと思わざるを得ないのですが、自分ではさほど悪くは思っていないのです。そして、あまりそうは思われていないかもしれないのですが、反骨精神も強い方です。権力という名の暴力が嫌いで、蟷螂の斧ではありますが、真っ向からはむかうこともしばしばです(だいたい空振りするのですが・・笑)。
朱子学の奨励された江戸時代にテキストのように用いられた本に、劉子澄が編んだ

    『小学』(1187年成立)

があります。その中の「善行」の章に
  汪信民嘗言、人常咬得菜根則百事可做
  胡康侯聞之、撃節嘆賞
とあります。訓読すると
  汪信民嘗て言ふ。人、常に菜根を咬み
  得ば則ち百事做すべし。胡康侯これを
  聞きて、節を撃ちて嘆賞せり。
となり、「汪信民がかつて言った。人はふだんから菜根を噛めるようであれば何ごともできる、と。胡康侯はこれを聞いて膝を打って嘆賞した」というほどの意味でしょう。胡康侯(胡安国。1074~1138)は宋の時代の人で、汪信民(汪革)もおそらく宋代の人です。
菜根は固くて筋が多く、なかなか噛めません。しかし、これを噛める人こそがその真の味を知りうるのだ、ということでしょう。また、貧困生活に耐えうる人こそが人生のあらゆることを成し遂げられるのだ、という解釈もできるようです。いずれにしても、なかなか味のある言葉です。
この言葉をもとにして明(みん)の時代の末の人である洪自誠が書いたものに

    菜根譚

があります(岩波文庫所収)。儒教を中心に、仏教、道教の考え方を取り入れた356条から成る処世訓のようなもので、中国よりも日本でよく読まれたようです。
この書物は前集と後集から成りますが、その前集の九十条はこう言います。
  天薄我以福 吾厚吾徳以迓之
  天労我以形 吾逸吾心以補之
  天阨我以遇 吾亨吾道以通之
  天且奈我何哉
訓読すると、
  天、我を薄くするに福を以てせば
  吾、吾が徳を厚くして以てこれを迓へん
  天、我を労するに形を以てせば
  吾、吾心を逸にして以て之を補はん
  天、我を阨(やく)するに遇を以てせば
  吾、吾が道を亨らしめて以て之を通せん
  天、且つ我をいかんせんや
でしょうか。
天が私に幸福をあまり与えてくれないなら私は徳を厚くして対抗しよう。天が私の身体を苦しめるなら私は心を楽にして補おう。天が私の境遇を行き詰まらせるなら、私は道を貫いて通そう。そうすればいくら天でもわたしをどうすることもできないだろうよ。
というほどの意味でしょう。偏屈と反骨の人間としては、胡康侯のように膝を打って嘆賞したいところです。

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めでたさも・・・ 

どんなお正月を過ごされたでしょうか。
楽しいことはいろいろございましたでしょうか。
世の中が不穏な状態だけに、多くの方がなかなかそうもいかないかもしれませんね。
このところ、私はほとんど元号を使うことがなくなったのですが、今年は

    パンデミック2年

という感じがします。
そんなわけで、この正月は多くの方が遠出をなさらなかったかもしれません。自分が罹患するのも嫌ですが、万一自分がすでに感染していた場合、ウイルスを拡散させたくないという思いを持つのも当然でしょう。
私もできることならじっとしていたいと思っていました。
しかし、どうにもならない事情があって、しばらく田舎に行っていました。
楽しいことがあっていくのであればともかく、実はそうでもないことでしたので、めでたさも中ほどの「おらが春」なのでした。
仕事としては、年末に渡された

    校正

がありますので、それを見たり、書かねばならないものを書いたりもしていました。
朝からお酒を飲んでパーッと発散できるような正月は来ないものでしょうか(笑)。
もっとも、いくら正月でも習慣として朝から飲むことはしないのですが。
年末年始はとても寒かったです。
いろんなことがうまくいって、身も心も温かな日がやってきますように。

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2021年文楽初春公演初日 

年が明けて最初の文楽です。
今年はどのように上演されるでしょうか。まだまだ恐る恐るにならざるを得ませんが、12月の公演で感染者が出たもののすぐに対応できたことはいい前例にもなったのではないでしょうか。
さて、今月の公演は

第1部 午前11時開演
菅原伝授手習鑑(車曳、茶筅酒、喧嘩、訴訟、桜丸切腹)

第2部 午後2時30分開演
碁太平記白石噺(浅草雷門、新吉原揚屋)
義経千本桜(道行初音旅)

第3部 午後6時開演
妹背山婦女庭訓(道行恋苧環、鱶七上使、姫戻り、金殿)

というプログラムです。
どうかつつがなく上演されますように。

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今年の目標 

小学生じゃあるまいし、「一年の計は元旦にあり」と力むこともないじゃないか、と思う一方、逆に小学生に戻ったつもりになって(書初めこそしませんが)目標を立てるのもいいかなと思います。
実は昨年、ものを言ったり、メールを読んだりすることに恐怖感があって、ほんとうに他人様との交流ができませんでした。交流ができないだけならまだしも、しなければならない返事をしなかったり、出すべき書類を忘れたりして、ご迷惑もずいぶんおかけしました。
日々不安の中で生きていますが、それはどなたも似たり寄ったりでしょう。心をもっと元気にしなければ、このままずぶずぶと沈んでしまいそうです。

    言いたいことは言う

という気持ちを持っているのに、まだじゅうぶんにはできていません。しっかり勉強して口に出そうと思っています。
それが一番の目標というか、必ず達成しなければ、ほんとうにおしまいだぞ、と自分に言い聞かせてもいます。
もう少し気楽な目標は、やはりものを書くことです。
短歌を改めて詠み始めていますが、今のところ、「棄てる歌」つまり失敗作が少ないのです。失敗作がないのはいいじゃないか、ということにもなるのですが、やはり100の歌を詠んでそのうち2つか3つ気に入ったものがあって、あとはあえて捨ててしまう、というくらいでもいいかもしれないと思います。「プロの歌人」ではありませんので失敗を重ねながら、少しでもいいものを詠みたいと思っています。

    創作浄瑠璃

は必ず書かねばなりません。いくつか頭に浮かんでいるアイデアはあるのですが、言葉にするのはまったく別の作業で、集中して書く必要があります。
最低2つ、できれば3つ書くつもりです。
論文ではないのですが、ちょっとした注釈をしたいとも思っています。
どこまでできるかわかりませんが、今年が最後のつもりで頑張ろうと思っています。

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