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肖像画 

絵が好きなのですが、どうしてもジャンルによって好き嫌いは出てきます。
日本画は好きなのですが、あまり観る機会が多くなくて、正直なところ、まだ知らないことだらけです。それでも、たとえば去年の二月に東京の山種美術館で観た美人画はどれもすてきだと思いました。中ではやはり上村松園の絵に惹かれました。屏風絵や襖絵も観るのは好きです。枯れた、あるいは力強い水墨画もいいです。
西洋の絵画を観る機会はわりあいに多くあります。
宗教画は大好きで、特にキリスト教絵画はおもしろいと思っています。これは学生のころから聖書になじんできたことが大きな理由だと思います。
風景画も好きです。名も無き人を配した牧歌的な絵など観ていて気持ちのいいものなのです。
抽象画は、何のことやらわからなくて苦手でしたが、最近少し関心を持つようになってきました。
ところがあまり関心の高くないのが

    肖像画

なのです。なんとか王とか侯爵夫人とか、その手の人たちの絵は美化されることが多く、内面があまりにじみ出てこないような気がしてしまうのです。もっとも、それは宗教画でも同じで、キリストやマリアを醜く描くことはないと思います。それでも、愛とか苦しみとか裏切りとか、何らかの物語性がある場合が多く、私としてはおもしろく感じるのです。
展覧会に行くと、たいていキャプションに肖像画の人物をどのようにうまく描いているか、という点が人物の内面を含めて説明されています。なるほどなぁ、と思うのですが、どうもいまひとつ心に沁みてこないのです。先月観に行った「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」でもイギリスの肖像画を集めたところがあったのですが、もっとも印象の薄い部屋になってしまいました。レノルズの「レディ・コーバーンと3人の息子」、トマス・ローレンスの「シャーロット王妃」などは記憶に残っていますが、

    立ち止まって動けなくなる

というほどではありませんでした。
自画像は案外おもしろく思っています。今回は「オランダ黄金期」の部屋にレンブラントの「34歳の自画像」がありました。今回の展覧会とは関係ありませんが、ミケランジェロやラファエッロの自画像も忘れられないものです。また、ベラスケスの肖像画なら個性があっておもしろく思うことはあるのですが、今回のベラスケス作品は「マルタとマリアの家のキリスト」のみでした。
肖像画は注文主がいるわけですから、その人の気に入るようなものにしなければならないという問題がありそうです。下手に実物そっくりに描いたら「私はこんなばあさんではない」などと不興を買うかもしれません。そういえば、以前観た『宮廷画家ゴヤは見た』とかいうつまらないタイトルの(!)映画にそういう場面が出てきました。あの映画、原題は「Goya’s Ghosts」だったのに、なぜあんな邦題にしたのか、今なお疑問です。
それはともかく、依頼者の思わくと画家の忖度という点に妙にひっかかりを覚えて、肖像画におもしろみを感じることが多くないのだろうと思います。キャプションを書かれる学芸員さんのように観ることができない、絵を観る目が明らかに幼稚なようで、修行不足を感じた展覧会でした。

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神殿から商人を追い払うキリスト 

先月、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展でエル・グレコの「神殿から商人を追い払うキリスト」の絵を観て思い出しました。
以前このブログで倉田百三の『愛と認識の出発』や藤原師輔『九条殿遺誡』に触れたことがありました。
倉田百三はその中でヨハネの福音書2章13~16に書かれている話を取り上げています。エルサレムに入ったイエスが神殿の中で鳩や牛などを売る商人、あるいは両替人を見るや、細縄で打って追い出すという場面です。エル・グレコの絵はこの場面を描いたものです。
イエスともあろう人がずいぶん

    荒っぽいことをする

ものだという印象を持ったのは私のみならず百三も同じだったようですが、彼はすぐさまこのイエスの行為を彼なりに解釈しました。
「愛するならば責めねばならない」
「愛は闘いを含み得る。純粋なる愛の動機より、他人と闘うことができるようになるならば、その愛はよほど徹した内容を持っている」
というのです。
百三はまた
「他人がいかなる悪事をなしても、それは赦さねばならない。しかしいかなる小さな罪も責めねばならない。宗教はこの二つの性質を兼ね備えたものである」
とも言っています。
これを書いた時、百三はまだ30歳でした。その年齢をはるかに超えている私はなかなかここまで思い至らないのでしたが、最近やはり同じようなことを考えています。
平安時代の藤原師輔の

    『九条殿遺誡』

には「もし過ちを為す者あらば、暫く勘責すといへどもまた以て寛恕せよ」ともありました。最終的には赦さねばならないが、その前にはやはり責めねばならないという考えで、似た点があると思います。
ここまで書いたことは、以前(2017.11.10および2018.3.20)に述べたこととほとんど同じ内容です。
ただ、私はそれでも、やはり赦すことが第一だ、責めることはよほど相手の過ちに確信を持たねばならない、と、しり込みし続けてきたのです。しかし、今年になって(とても嫌なことなのですが)もはや責めねばならない、という思いを明確に持つようなことを複数目の当たりにする事態になってきました。
具体的なことは書けませんが、過ちと確信することに対して厳しく責める行動に出始めています。
エル・グレコに感謝しています。

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源氏物語「玉鬘」(8) 

「玉鬘」巻もいよいよ最後です。光源氏三十五歳の歳末になりました。新年を迎えるにあたっては装束も新たにします。六条院にやってきた玉鬘や女房たちに対しても光源氏は十分な心配りをするのです。

年の暮に、御しつらひのこと、人びとの装束など、やむごとなき御列に思しおきてたる。かかりとも、田舎びたることや、と、山賤の方にあなづり推し量りきこえたまひて調じたるも、たてまつりたまふついでに、織物どもの、我も我もと、手を尽くして織りつつ持て参れる細長、小袿の、色々さまざまなるを御覧ずるに、「いと多かりけるものどもかな。方々に、うらやみなくこそものすべかりけれ」と、上に聞こえたまへば、御匣殿(みくしげどの)に仕うまつれるも、こなたにせさせたまへるも、皆取う出させたまへり。

年の暮に、(玉鬘の居所の)飾りつけのこと、女房たちの装束などを、高貴な人たちと同列にとお決めになって取り計らわれる。これほどの人であっても、田舎びたところがあるのではないか、と、山賤のように軽んじて推量なさってととのえてあったのもさしあげなさるのだが、そのついでに、織物をあれこれ、職人たちが我も我もと、技を凝らして織って持参した細長や小袿の、色とりどりのものを御覧になると、「とてもたくさんになったことだね。御方々に、うらやましがられることのないようにするべきだったな」と、(紫の)上に申し上げなさると、御匣殿で用意したものも、こちらで調えさせなさったものも、すべて取り出させなさった。

新年を迎えるために、新参の玉鬘にはことさら気を付けてやらねばなりません。光源氏は、紫の上や秋好中宮らにも劣らないようにと準備させます。田舎の人だから、というので準備させていた者も合わせると大変な数になりました。そこで、紫の上にほかの女性方がうらやましがるようにすることはできないね、と話しています。「御匣殿」は、本来は内裏の装束を調える役所のことですが、貴族の装束を作るところの意味でも用いられます。ここは六条院の御匣殿で準備したものをいいます。

かかる筋はた、いとすぐれて、世になき色あひ、匂ひを染めつけたまへば、ありがたしと思ひきこえたまふ。ここかしこの擣殿(うちどの)より参らせたる擣物(うちもの)ども御覧じ比べて、濃き赤きなど、さまざまを選(え)らせたまひつつ、御衣櫃(みぞびつ)、衣筥(ころもばこ)どもに入れさせたまうて、おとなびたる上臈どもさぶらひて、「これは、かれは」と取り具しつつ入る。

(紫の上は)こういう方面のこと(染色の技術)もまたすぐれていらっしゃって、世にまたとない色合いやぼかしを染めつけなさるので、たぐいまれな人だと(光源氏は)お思い申し上げる。あちらこちらの擣殿(布に光沢を出すために砧で打つための場所)から差し上げたさまざまな擣物をお見比べになって、濃いものや赤いものなど、さまざまをお選びになって御衣櫃(衣を入れる櫃)や衣筥(櫃より小さい入れもの)に入れさせなさって、年かさの上臈女房がおそばにいて、「これはどのかた、あれはどなた」と取り揃えて入れる。

何事にも器用な紫の上は染色も得意です。花散里も家事一切が得意な人ですが、六条院の女主人は紫の上です。だからこそ彼女が万事を采配するのです。「擣殿」「擣物」という珍しい言葉が出てきました。貴族の生活が思いやられる言葉です。こういう言葉が出てくるのも、長編物語ならではといえるでしょう。こういう作業にはやはり「おとなびたる上臈」の力が必要なのです。細かいことを実に的確に描いています。

上も見たまひて、「いづれも、劣りまさるけぢめも見えぬものどもなめるを、着たまはむ人の御容貌(かたち)に思ひよそへつつたてまつれたまへかし。着たる物のさまに似ぬは、ひがひがしくもありかし」とのたまへば、大臣うち笑ひて、「つれなくて、人の御容貌推し量らむの御心なめりな。さては、いづれをとか思す」と聞こえたまへば、「それも鏡にては、いかでか」と、さすが恥ぢらひておはす。

(紫の)上もご覧になって、「どれも劣りまさりの違いが見えないものばかりのようですが、お召しになる方のご器量に合わせるように差し上げてくださいね。着たものがその人に似合わないのはみっともないようですね」とおっしゃるので、(源氏の)大臣は少し笑って「さりげなく女君たちのご器量を推し量ろうというお心のようですね。それならあなたはどれがいいとお思いなのですか」と申し上げなさると「鏡を見てもどうしてわかるものでしょうか」と、あのようにはおっしゃったが恥ずかしそうにしていらっしゃる。

紫の上は装束をそれぞれの女性方の特徴に合わせて差し上げてほしいというのですが、光源氏は「そうやってほかの女性方がどういう器量かを探るのですね」と意地悪なことを言います。『細流抄』は「人々の御かたち大かたしらんためにかくの給也」と言っています。そして紫の上自身にはどれがふさわしいのかと尋ねると、彼女は鏡を見てもわかりません、と恥じらっています。『細流抄』は「我身は鏡なとにて見るはかりにてはしりかたき事也是をも源にはからひ給へと也」(自分のことについては、鏡などで見るだけではわからないものです。私のことも光源氏に判断してくださいというのである)と言っています。ちょっとしたやり取りですが、それぞれの心理が垣間見えておもしろいと思います。

紅梅のいと紋浮きたる葡萄染(えびぞめ)の御小袿、今様色のいとすぐれたるとは、かの御料。桜の細長に、つややかなる掻練(かいねり)取り添へては、姫君の御料なり。浅縹(あさはなだ)の海賦(かいふ)の織物、織りざまなまめきたれど、匂ひやかならぬに、いと濃き掻練具して、夏の御方に。曇りなく赤きに、山吹の花の細長は、かの西の対にたてまつれたまふを、上は見ぬやうにて思しあはす。内の大臣の、はなやかに、あなきよげとは見えながら、なまめかしう見えたる方のまじらぬに似たるなめり、と、げに推し量らるるを、色には出だしたまはねど、殿見やりたまへるに、ただならず。

紅梅の模様がとてもよく浮いて見える葡萄染の御小袿と、今様色のとてもすばらしいものとは紫の上のお召し物。桜の細長に、つややかな掻練(やわらかく練った絹)を取り添えたのは、(明石の)姫君のものとなさったのである。浅縹(淡い藍色)の海賦(浜辺の風景を組み合わせたもの)の織物で、織り方はみずみずしい感じだが、華美ではないものに、とても濃い掻練を添えて、夏の御方(花散里)に。曇りなく赤い表着に、山吹の花の細長は、あの西の対(玉鬘)に差し上げなさるのを、(紫の)上は見ないふりをして推量なさっている。内大臣の、華やかでああ美しいとはみえるものの、みずみずしい感じがないのに似ているのだろう、となるほど光源氏の言うとおりなのだと推し量られるのを、顔色にはお出しにならないが、殿(光源氏)が目をお向けになるとただならぬ様子である。

具体的に、どの女性にはどのお召し物をと光源氏が決めていきます。一番に選ぶのは紫の上、次に明石の姫君、花散里、玉鬘と続きます。この順番も適当に並べているのではなく、やはり格の高い人から順番ということでしょう。明石の君などはなかなか出てきません。玉鬘のものについては光源氏がどんなものを選ぶのか、紫の上はさりげなく観察しています。選ばれたものから推測すると、玉鬘の実父の内大臣の華やかながらみずみずしい感じがないところに似ているのだろうと思えるのです。紫の上は玉鬘の素性を知っているのです。玉鬘が光源氏の実の娘であれば紫の上は嫉妬することはないでしょうが、そうではないことを知っているだけに、光源氏の目から見ると「ただならず」という様子をしているのです。ここも、紫の上が客観的に見てただならぬ様子をしているというのではなく、光源氏の目から見ると、と言っていることに注意したいものです。紫の上も嫉妬は隠せない、光源氏もどこかうしろめたい、そんな二人の心理が描かれているようです。

「いで、この容貌(かたち)のよそへは、人腹立ちぬべきことなり。よきとても、物の色は限りあり、人の容貌は、おくれたるも、またなほ底ひあるものを」とて、かの末摘花の御料に、柳の織物の、よしある唐草を乱れ織れるも、いとなまめきたれば、人知れずほほ笑まれたまふ。梅の折枝、蝶、鳥、飛びちがひ、唐めいたる白き小袿に、濃きがつややかなる重ねて、明石の御方に。思ひやり気高きを、上はめざましと見たまふ。空蝉の尼君に、青鈍(あをにび)の織物、いと心ばせあるを見つけたまひて、御料にある梔子(くちなし)の御衣、聴色(ゆるしいろ)なる添へたまひて、同じ日着たまふべき御消息(せうそこ)聞こえめぐらしたまふ。げに、似ついたる見むの御心なりけり。

「いや、このご器量になぞらえることはどなたかが腹をお立てになりそうです。どんなにすぐれていても、物の色は限度があり、人の容貌は劣っていてもまたやはり奥底がありますからね」といって、あの末摘花の御召し物に、柳の織物の、由緒のある唐草を乱れ織りしたものも、とてもみずみずしいようすなので、人知れずついほほ笑んでおしまいになる。梅の折枝、蝶、鳥、飛びちがい、舶来もののような白い小袿に、濃紫のつややかなものを重ねて、明石の御方に。(明石の君が身につけている様子を)想像するだけでも気品があるのを、上はおもしろからぬこととご覧になる。空蝉の尼君に青鈍(尼の着る色)の織物のとても趣味のいいものをお見つけになって、御料にある梔子(これも天の装束)の御衣、聴色(禁色の逆で、誰もが着てもよい色)のものをお加えになって、同じ元日にお召しになるようにというお手紙をお回しになる。なるほど紫の上の想像どおりに、装束と容貌の似つかわしさを見ようという(光源氏の)御心なのであった。

人の容貌というのは、劣っていても・・・といったところで末摘花の名前が出てきました。彼女にはとても由緒ありげなものを贈るのですが、あの人がこれを着ている姿を思い浮かべると、光源氏はつい笑ってしまうのです。こういう場面は読者も笑い飛ばしておけばいいのですが、現代の読者の目から見ると、女性の容貌をからかうような光源氏の態度は大変失礼だと非難されそうです。明石の君に贈るものを観ると、紫の上はまた嫉妬の気持ちが出てきます。空蝉は「関屋」巻で出家しましたが、その後光源氏の庇護を受けているようです。彼女には、尼にふさわしい色の装束を贈ります。これらを着せた女性たちの姿を見て楽しもうという光源氏の魂胆は紫の上にはお見通しです。

皆、御返りどもただならず。御使の禄、心々なるに、末摘、東の院におはすれば、今すこしさし離れ、艶なるべきを、うるはしくものしたまふ人にて、あるべきことは違へたまはず、山吹の袿の、袖口いたくすすけたるを、うつほにてうち掛けたまへり。御文には、いとかうばしき陸奥紙の、すこし年経、厚きが黄ばみたるに、「いでや、賜へるは、なかなかにこそ。
  着てみれば恨みられけり唐衣
  返しやりてむ袖を濡らして」
御手の筋、ことに奥(あう)よりにたり。いといたくほほ笑みたまひて、とみにもうち置きたまはねば、上、何ごとならむと見おこせたまへり。


どなたも、御返礼はひとかたならぬもので、御使への禄はそれぞれの心次第なのだが、末摘花は東の院にいらっしゃって他の方より離れているのだから何か趣向があっても当然なのに、きっちりとした人なので、(禄をするという)なすべきことは間違いなくなさって、山吹の袿の、袖口のひどくすすけたのを、下着なしでお被けになった。御手紙には、とても香ばしい陸奥紙の、すこし年を経て厚い黄ばんだものに、「さあどうでしょう、このように頂戴しましたのはかえって・・。『着てみるとつい恨めしくなりますこの衣はお返ししましょう、私の涙で袖を濡らして』」。筆跡の流儀は、ことに古風である。(光源氏は)ひどく苦笑なさってすぐにも下にお置きにならないので、(紫の)上は、どうなさったのだろうと思って目をお向けになった。

御礼の返事が来ます。みなさんそれぞれに個性あるものだったのでしょう。ところがあの末摘花だけは違っていました。彼女は二条東院に住まいをしていますので、何かそれなりの趣向のある歌を贈ってくるのが自然なのに、まるで違っていました。使者への被けものも袖口のどこか古びたもので「うつほ(重ねの衣もつけない形)」に与えました。そして光源氏への返歌も古くて黄ばんだ陸奥紙に書いてきました。歌は、技巧を凝らしてはいます。「うらみ」は「衣の裏を見る」に「恨み」を掛け、「かへし」には「衣の裏を返す」に「返却する」意味を掛け、「袖を濡らし」は涙を流すことを言っています。さらに「着」「裏」「返す」「袖」は「唐衣」の縁語になっているのです。技巧が多過ぎて、いかにも古風な、ぎくしゃくした感じですし、「末摘花」巻でも「唐衣君が心のつらければたもとはかくぞそぼちつつのみ」と詠んでいました。同じ趣向では芸がないといわれてもしかたがないでしょう。「また『唐衣』か」と読み手(光源氏)をがっかりさせるに足るものです。末摘花が「唐衣」という語を多用することについては「行幸(みゆき)」巻で光源氏から決定的にからかわれることになります。正月の装束の返礼に詠み込む言葉としても「恨み」とか「返す」というのはいかがなものでしょうか。あきれた光源氏はにやにやしてその手紙をなかなか下に置きません。紫の上もようすが変だと感じたのです。

御使にかづけたる物を、いとわびしくかたはらいたしと思して、御けしき悪しければ、すべりまかでぬ。いみじく、おのおのはささめき笑ひけり。かやうにわりなう古めかしう、かたはらいたきところのつきたまへるさかしらに、もてわづらひぬべう思す。恥づかしきまみなり。

お使いに与えたものを、とてもひどく粗末なもので不体裁なことだと(光源氏は)お思いになってご機嫌が悪いので、その使者はそっと退出してしまう。女房たちはめいめい、ひどくささやいて笑ったのである。このようにむやみに古めかしく体裁の悪いところがおありなのにこざかしいことをなさるのは、手に負えないと(光源氏は)お思いになる。恥ずかしくなるような目つきをなさっている。

粗末な禄を与えられた使者に対しても光源氏はけしからんと思っていますので、使者は遠慮してそっとその場を離れます。女房たちは皆つつき合って笑っているようです。光源氏は、こんな古めかしい人は禄を与えるなどという余計なことをしなければよいのだとさえ思うのです。最後の「恥づかしきまみ」はわかりにくいのですが、「御まみ」のことで光源氏の目つきと考えておきました。

「古代の歌詠みは、『唐衣』、『袂濡るる』かことこそ離れねな。まろも、その列ぞかし。さらに一筋にまつはれて、今めきたる言の葉にゆるぎたまはぬこそ、ねたきことは、はたあれ。人の中なることを、をりふし、御前などのわざとある歌詠みのなかにては、『円居(まどゐ)』離れぬ三文字ぞかし。昔の懸想のをかしき挑みには、『あだ人』といふ五文字を、やすめどころにうち置きて、言の葉の続きたよりある心地すべかめり」など笑ひたまふ。

「古めかしい歌詠みは『唐衣』、『袂濡るる』という恨みごとから離れないのですねえ。私もその類ですがね。その一筋にこだわるあまり、当世風の言葉に見向きもなさらないのは、またうらやましいことではありますが。人と人の中にいることを、何かの折や、帝の御前などでのわざわざおこなわれる詠歌に際しては、『円居』というのはは欠かせない三文字なのですよ。昔の懸想の風流な贈答には、『あだ人(の、を)』という五文字を、三句目に置いておくと、言葉の続き具合がうまく行くように思われるのです」などと言ってお笑いになる。

光源氏は、紫の上に向かって、歌の読み方についての考えを披露します。末摘花のように「唐衣」とか「袂(袖)が濡れる」という言葉ばかり用いるのはいかにも古くさい歌だと言います。といっても、古風な言葉を重視するあまりに現代風のものを無視するのは見事と言えば見事ではあるのです。たとえば、人が集まっていることを言う場合には、公的な場でそれを表現するなら「円居」という言葉が不可欠だと言います。さらに恋歌には「あだ人」をうまく三句目に使うと前後がうまくつながるというのです。こういうことは、今の短歌でもありうることでしょう。

「よろづの草子、歌枕、よく案内知り見尽くして、そのうちの言葉を取り出づるに、詠みつきたる筋こそ、強うは変はらざるべけれ。常陸の親王(みこ)の書き置きたまへりける紙屋紙(かみやがみ)の草子をこそ見よとておこせたりしか、和歌の髄脳(ずいなう)いと所狭(ところせ)う、病(やまひ)避(さ)るべきところ多かりしかば、もとよりおくれたる方の、いとどなかなか動きすべくも見えざりしかば、むつかしくて返してき。よく案内知りたまへる人の口つきにては、目馴れてこそあれ」とて、をかしく思いたるさまぞ、いとほしきや。上、いとまめやかにて、「などて、返したまひけむ。書きとどめて、姫君にも見せたてまつりたまふべかりけるものを。ここにも、もののなかなりしも、虫みな損なひてければ。見ぬ人はた、心ことにこそは遠かりけれ」とのたまふ。

「あらゆる草子や歌枕の内容を詳しく知り尽くして、その中の言葉を取り出すと、詠み慣れている筋のことはまったく異なるということはないでしょう。常陸の親王(末摘花の父)の書き置きなさったという紙屋紙(反故をすき直して作った紙。リサイクル紙)の草子を、ご覧くださいといってよこしてきたのですが、和歌の髄脳(歌学書)がぎっしりと詰まっていて、病(歌の欠点)を避けるべきだというところが多く書かれていたので、もともと苦手な方面のことで、いっそうかえって動きが取れないと思われましたので、厄介に思って返してしまったのですよ。よく歌についてお分かりになっている人の詠みぶりとしては平凡です」と言って、おかしくお思いになっているようすは、まったく(末摘花にとっては)お気の毒であるよ。(紫の)上は、とても真剣に、「どうしてお返しになったのでしょう。書きとどめて、(明石の)姫君にもお見せ申し上げればよかったでしょうに。私のところにも、何かの中に入っていたものも虫がすべてだめにしてしまいましたので。こういうものを読まない人は、なんといっても格別に理解がないのです」とおっしゃる。

末摘花の父の常陸宮が和歌について書いたものがあるというので末摘花が送ってきたことがあったようです。その草子には、歌の病(歌病=かへい)といわれる、修辞上の欠点が並べてありました。こういう読み方をしてはいけない、という内容です。こういうものは、伝統的な和歌の基準にうまく合っているかどうかを判断するのには便利でしょうが、逆にそこにこだわり過ぎると斬新な詠み方を否定することにもなるでしょう。光源氏はそういうことにこだわりをもちたくないようで、この本を返してしまったというのです。実際、こういうことにこだわりすぎるきらいのある末摘花の歌は凡庸なのです。紫の上はそれに対して、せっかくの歌学書を返してしまうのはもったいないと言います。これからさまざまに歌を詠んでいかねばならない明石の姫君にとっては参考書として有益だというのです。紫の上が所持していた歌学書は虫損が激しくて読めなくなってしまったとのことです。こういう書物を読まない人は心得がない人だ、というのが紫の上の考え方です。

「姫君の御学問に、いと用なからむ。すべて女は、立てて好めることまうけてしみぬるは、さまよからぬことなり。何ごとも、いとつきなからむは口惜しからむ。ただ心の筋を、漂はしからずもてしづめおきて、なだらかならむのみなむ、めやすかるべかりける」などのたまひて、返しは思しもかけねば、「返しやりてむ、とあめるに、これよりおし返したまはざらむも、ひがひがしからむ」と、そそのかしきこえたまふ。情け捨てぬ御心にて、書きたまふ。いと心やすげなり。
 「返さむと言ふにつけても片敷の
  夜の衣を思ひこそやれ
 ことわりなりや」
とぞあめる。


「(明石の)姫君の御学問にはまったく役立たないでしょう。総じて女は、とり立てて好むことを決めて熱心になるのはみっともないのです。何ごとについてもまったく取り付くすべがないというのは残念なことでしょう。ただ心の筋をふらふらせずにしっかりと定めておいて、おだやかにしていることこそが安心できる人なのでしょう」などとおっしゃって、(末摘花への)返歌は気にも留めていらっしゃらないので、「(あちらの歌に)『返しやりてむ』とあるようですのに、こちらからお返事をなさらないのも、よくないことでしょう」と、お勧め申し上げなさる。無情な気持ちになれない御気性なので、お書きになる。とても気軽なようすである。「返そうとおっしゃるにつけても、袖の片方だけを敷いて(ひとり寝をして)夜をお過ごしになるあなたを思いやっています。衣を返す(ひっくり返す)とおっしゃるのももっともですね」とあるようだ。

光源氏は、女性というのはある事だけに夢中になってはいけないと言い、明石の君になまじ歌学書などは読ませたくないと考えます。光源氏にとっての女性というのは、芯はしっかりしていながら、表面的には穏やかな人が理想なのです。紫の上はそんなことばかり言って末摘花への返事をしようとしない光源氏に対して「あちら様は『返しましょうかしら』とおっしゃっているのですから、あなた様も『返し(返歌)』はなさいませ」と、末摘花の歌の言葉に引っ掛けて返事を促します。光源氏もさすがにむげにはできないと考えて返事をしました。末摘花は「衣を返却する」の意味で「返す」と言っていましたが、光源氏はそれを「裏返す」意味に変えて、あなたは衣を裏返してひとりで寝られるのですね、そのことをおいたわしく思っています」と詠んだのです。まじめに受け取れば相手を思いやっているようですが、実際は「お気の毒ですねぇ」とからかい気味に詠んでいるのです。
末摘花の人物像は「末摘花」巻では戯画化されて笑いものになっていましたが「蓬生」巻ではしっかりしたいたわしい姫君として登場しました。しかしここにきてまたからかわれるような描写が目立ちます。かわいそうに、彼女は今後もまた古風一辺倒の女性としてからかわれることになります。
「玉鬘」巻は夕顔の娘の玉鬘が苦労して都に上り、運よく光源氏に救われることになった経緯を描きました。このあとは、彼女が色好みの男性たちからどのように求愛されていくかという興味を残したまま閉じられます。
これをもちまして、ひとまずブログでの源氏物語の講読を一段落にしようと思います。
新年度にまた講座が開けますことを願いつつ。

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ターナーの不思議な魅力 

ロンドン・ナショナル・ギャラリー展(国立国際美術館)では当然イギリスの画家の絵もいろいろ出ていました。イギリスの画家と言われるとまず思いつくのは、ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナーとジョン・エヴァレット・ミレイです。ミレイというと、かつて東京のBunramuraミュージアムで観た「オフィーリア」が忘れられません。この絵はテート・ブリテン所蔵ですので、今回は観ることはできませんでした。もう一人のターナーは、何とも言えない空気や光の表現が印象に残ります。ただ、何を描いているのかは私にはすぐにはわからないことがあります。以前観た

  「雨、蒸気、速度―
   グレート・ウェスタン鉄道」


という絵は、言われてみればタイトルそのままなのですが、何を描きたいのかわからないような、それでいて強く訴えるものがある不思議な絵でした。この絵はロンドン・ナショナル・ギャラリーにあるので今回も来てほしかったのですが、初来日のものではないという事情もあるのか、観ることはかないませんでした。
今回やってきたのは「ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス」でした。トロイア戦争から帰るときに、オデュッセウスは巨人ポリュフェモスによって洞窟に閉じ込められました。ところが、オデュッセウスは見事に脱出し、ポリュフェモスを嘲笑しているのです。
というところまでは解説を読めばわかるのですが、その知識をもってしても、一見してオデュッセウスが何をしていて、ポリュフェモスがどこにいるのか、私にはわかりませんでした。それよりも、

    太陽の光の鮮烈さ、雲の力強さ

など、自然の描写が印象的なのです。
さらに解説にしたがって注意して絵を観ると、なるほど、船で両手を上げている赤いマントの小さい男がいます。これがオデュッセウスだったのです。ところが巨大で目立つはずのポリュフェモスがどこにいるのか、これは解説を見てもわかりませんでした。やっと船の上のあたりに、雲のように見えていたのがそれだと知ることができたのです。もしポリュフェモスを明確に描いてしまったら、巨大なればこそ目立ちすぎてあの自然の光の印象は薄くなってしまったかもしれません。オデュッセウスは小さく、ポリュフェモスは茫漠としていますから「ポリュフェモスを嘲るオデュッセウスの場面を借りた太陽と雲」とでも言いたくなる絵でした。
ほんとうにターナーという人は不思議な魅力があります。もっと多くの絵を観たいと思っています。

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最初に出会った画家、コロー 

ロンドン・ナショナル・ギャラリー展(国立国際美術館)にはジャン=バティスト・カミーユ・コローの絵もありました。「西方より望むアヴィニョン」という作品で、絵のことがよくわからない私はパッと見ても彼の作品だとはわかりませんでした。本当のファンならタッチなどでわかるものなのでしょうけれども。
実は、私が美術を好きになるきっかけを与えてくれたのはコローだといってもよいのです。
大昔の話になるのですが、文学に興味があり、音楽はもともと好きなのに、あまりにも美術を知らないことに情けなさを感じて(それ以外にも理由はあったような気はするのですが)、とにかく何でもいいから美術展とやら言うものに行ってみよう、と思い立ったことがあるのです。すると、新聞記事か何かで、奈良県立美術館だったと思うのですが、

    バルビゾン派

の絵画展があることを知って、何もわからないまま出かけたのです。展示されていたのはミレー、クールベ、ルソー、トロワイヨン、デュプレらの絵だったと思います。今なら彼らの名前くらいはわかりますが、当時はミレー以外の人についてはほんとうに何も知りませんでした。コローの名もそのとき初めて知ったのです。
その絵画展に出ていたコローの作品の中にあったのが、

    モルトフォンテーヌの想い出

でした。どこがどうすばらしいのかとか、そんなことを言葉にできるほどの絵の評価はは私にはできません。とにかく、一度観てトロッととろけるような気持ちになったのです。それ以来、この人の名前は忘れられず、また何か観てみたい、と思ったのです。しかしまだ美術ファンと言えるほどではありませんから、その後コローの作品を観たとしても、何かの展覧会に行ったら偶然彼の作品が出ていた、ということが多かったのです。ところが、2008年のこと。神戸市立博物館で「コロー展」があったのです。このときは、「青い服の婦人」「真珠の女」「モルトフォンテーヌの想い出」を始め、多数の作品が展示されたのでした。
これはもう感激でした。このときに観た「青い服の婦人」と「真珠の女」で、私はいくらかコローの特徴を見つけたような気がしました。その後、たとえば京都市美術館で観た「コローのアトリエ」は、はじめて観たものでしたが、キャプションに頼ることなく、瞬時に「コローだ」とわかりました。
と言っても、今回のロンドン・ナショナル・ギャラリー展での「西方より望むアヴィニョン」は彼のものだとはわからなかったように、まだまだだめです。これからも多数の絵を観て、コローについて何かものが言えればいいなと思っています。

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フェルメール、16作品目の出会い 

私は以前、東京都美術館でフェルメールの「ヴァージナルの前に座る女」を観たことがあります。今回の国立国際美術館『ロンドン・ナショナル・ギャリー展』では、「ヴァ―ジナルの前に座る若い女性」が展示されました。この二つの作品は、どちらもヴァージナルの前に座る若い女性を描いているので、タイトルの使い分けがよくわかりません。本によっては違う書き方をしてあることもあり、たとえば一方から「若い」省くことも多いようです。それではどちらを省くのか、正式にはどう呼んで区別しているのかなど、美術の専門分野のことは、はっきりとは知りません。今回、主催者の題名表記としては「ヴァ―ジナルの前に座る若い女性」としていますのでそれに従い、もうひとつのほうは仮に「ヴァ―ジナルの前に座る女」としておきます。
私は特にフェルメールだけが好きなわけではありませんが、日本でのブームに乗せられるようにしてできるだけ観るようにしています。といっても、私が観たフェルメール作品はこれで16点目です。現存する彼の作品(またはそのように伝わるもの)は35点とも37点ともいわれますので、まだ半分にも到達していません。ロンドン・ナショナルギャラリーには「ヴァージナルの前に立つ女」というのもあってこれはまだ観たことがありません。
美術の鑑賞眼などありませんから、偽物を持ってこられても私にはわかるわけがないのですが、それでもやはりフェルメールが好んで使ったというウルトラマリンブルーで彩色された青色は魅力的だと思います。「ヴァージナルの前に座る若い女性」の衣装も見入ってしまいました。この絵には、あの「真珠の耳飾りの少女」や「少女」と同じように目のクリッとした若い女性が描かれています。
彼の晩年(といっても彼は43年しか生きませんでした)のものだそうで、この作品は描き方に雑なところもあるのだそうで(私なんて、言われないとわかりません)、あまり高い評価は受けていないように漏れ聞いています。

    ディルク・ファン・バビューレン

はオランダのカラヴァッジョ派の画家です。この人の絵に「取り持ち女」があります。身を売る女性、買う男性、そしてその仲介をするおばあさんが描かれています(フェルメールにも同じタイトルのものがあり、これは一昨年大阪市立美術館で観ました)。実は、バビューレンの「取り持ち女」がフェルメールの「ヴァージナルの前に座る若い女性」の画中画として描かれているのです。この絵(または複製、模写)をフェルメールの義母が所有していたのだそうで、フェルメール作品では「合奏」にもやはりこの絵が画中画として描かれています。
それにしても、上品そうな若い女性がヴァージナルを演奏しているのに、なぜその頭上に「取り持ち女」が描かれるのでしょうか。「取り持ち女」の娼婦は

    リュート

を持っています。ヴァージナルの前の少女と同じように音楽を演奏する姿勢なのです。にもかかわらず、このふたりはおよそかけ離れた暮らしをしているようです。
ヴァージナルの前の少女は楽器を見つめて演奏しているのではなく、我々鑑賞者に目を向けています。「取り持ち女」の娼婦からは目を背けているというか、歯牙にもかけないような態度でこちらを見つめています。
いったいフェルメールはどういう思いでこの少女と「取り持ち女」の絵を並べたのでしょうか。そういうことをあれこれ考えながら絵を観るのもおもしろいと思っています。

今回のものを含めて、これまでに観たフェルメール作の絵(またはフェルメール作かと言われている絵)と観た場所を一覧にしておきます。2008年以前については記憶が定かでなく、不明。2004年に神戸市立博物館で「絵画芸術」、2005年に兵庫県立美術館で「恋文」、同年同美術館で「窓辺で手紙を読む女」を観たかもしれないのですが、わかりません。それ以前については、私がまだフェルメールをさほど意識していなかったこともあって、まったく覚えていません。「聖プラクセディス」を観たはずだとずっと思っていたのですが、今回調べてみるとどうも観ていないような気がしますので省きました。記憶というのはいいかげんなもので、私は「少女」を観たとも思っていたのです。実際、美術館で観たのは確かなのです。しかしこの絵は日本には来ていないのです。ということは、私が観たのは何かの参考画像として展示されていた複製だったのでしょう。まったく我ながら情けなくなります。

2008 「ワイングラスを持つ娘」
      (東京都美術館)
   「マルタとマリアの家のキリスト」
      (東京都美術館)
   「手紙を書く婦人と召使い」
      (東京都美術館)
   「小路」(東京都美術館)
   「ヴァ―ジナルの前に座る若い女」
      (東京都美術館)
   「リュートを調弦する女性」
      (東京都美術館)
   「ディアナとニンフたち」
      (東京都美術館)
2009 「レースを編む女」
      (京都市美術館)
2011 「青衣の女」
      (京都市美術館)
   「手紙を書く女」
      (京都市美術館)
   ※「手紙を書く婦人と召使い」
      (京都市美術館)
2012 「真珠の耳飾りの少女」
      (神戸市立博物館)
   ※「ディアナとニンフたち」
      (神戸市立博物館)
2015 「水差しを持つ女」
      (京都市美術館)
   「天文学者」
      (京都市美術館)
2019 ※※「手紙を書く婦人と召使い」
      (大阪市立美術館)
   ※「手紙を書く女」
      (大阪市立美術館)
   ※「リュートを調弦する女」
      (大阪市立美術館)
   「恋文」(大阪市立美術館)
   ※「マルタとマリアの家のキリスト」
      (大阪市立美術館)
   「取り持ち女」
      (大阪市立美術館)
2021 「ヴァ―ジナルの前に座る若い女性」
      (国立国際美術館)
※は二度目、※※は三度目
(16点。延べ22点)

未見のもの(観たいもの順)
「デルフトの眺望」「牛乳を注ぐ女」「天秤を持つ女」「真珠の首飾りの女」「少女」「地理学者」「ヴァージナルの前に立つ女」「窓辺で手紙を読む女」「ギターを弾く女」「士官と笑う娘」「中断された音楽の稽古」「信仰の寓意」「婦人と召使い」「ワインを飲む女」「音楽の稽古」「眠る女」「絵画芸術」「合奏」「聖プラクセディス」「赤い帽子の女」「フルートを持つ女」(21点)

さてあといくつ観ることができるでしょうか。

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2021年文楽二月東京公演千秋楽 

この公演もつつがなく千秋楽を迎えたようです。
皆さんお疲れさまでした。なんだかもうひやひやしてしまいます。
この公演は初春公演に続いて鶴澤清治師の文化功労者記念と銘打ってのものでした。
清治さんは

    『伽羅先代萩』の「御殿」

を、呂勢太夫さんの語りで演奏されました。ほんとうなら、後半の「政岡忠義」の部分も続いて弾いていただきたいところですが、例によって「ぶつ切り」でした。
私が一番興味があったのは

    封印切り

だったのですがいかがだったのでしょうか。
さて、四月はまた大阪公演です。
久しぶりに「鳴門」が出るようですね。

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顔で判断してはいけない 

私が言うと悔し紛れに聞こえるかもしれません(笑)が、人を顔で判断してはいけません。それでも人は少しでもよく見られたいと思う心理がありますから、エステ、コスメ、サプリメント、服飾、宝飾などさまざまな健康美容装飾産業が盛んなのだと思います。
政治家も見栄えはとても大切にしているようです。いつもびしっと決まったヘアスタイルで、服もバッグも靴もブランド品。ネクタイすらほとんど持っていない私などその時点で政治家になれそうにありません(笑)。そもそも、今、スーツって持ってないような気がします(^^;)。
年齢が重なると、男性の多くは髪が減ります。私もかつての

    2割くらい

になりました(笑)。それが嫌な人も多く、残った髪で目いっぱい頭を覆う人やカツラのお世話になる人、あるいは増毛(どういうことをするのか知りません)を試す人、薬品に賭ける人などさまざまです。いずれもかなりのお金がかかるみたいで、私はいっさい手を出しませんが、それぞれの人のおしゃれだと私は考えており、自由になさればいいことだと思っています。現実に、芸能人など、おそらくかなりなさっているでしょうし。
私の苦手なお坊ちゃん政治家はマフィアのボスを気取った格好がお好きなようです。まるで似合ってない(笑)と思うのですが、本人が悦に入っているのであればとやかく言いますまい。
そういうファッションの問題は私など自分がセンスがないものですから人の批判をする資格がないのです。
ただ、私はどうにも好きになれない政治家に共通する外見上の点があるのです。それは、

    人相

としかいいようのないものなのです。「人品」なんて言ったら叱られるかなぁ。顔に現れる賤しさというか、どんなに家柄がよくても、どんなにお金持ちでも、どんなに権力があっても、それとは関係のない賤しさが感じられるのです。
今の総理大臣は人事で官僚を脅し、力をつけてきた人だと言われています。実際にお会いしたこともないわけですから、人間的にどんな人なのかは知る由もありませんが、いかにもそういうことをしそうだというのが顔に現れているように思えてなりません。
マフィアのボスもどきも、ウソばかりついてきた最長政権記録保持者も、観光屋の与党幹事長もおよそ好きになれない顔つきです。以前にも嫌いな政治家はたくさんいましたが、これほど人相の悪い(!)人たちが集まった時代はかつてないことのように思えます(しみじみ感じるのですが、私はいつの間にこんなに口が悪くなったのでしょうか?)。
他人事ではありません。私なんて、いかにも貧相な顔つきだと思われているはずで、自分でもそう思います。
顔で人を判断してはいけないのだと思います。でも、現れてしまうものはあるのだと感じます。

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きわどい言葉 

先日、ある人から『桂川連理柵』「帯屋」で丁稚の長吉が用いる「みょうとごと」の意味について問われました。お尋ねになった方は文楽にとても詳しくていらっしゃいますので、もちろん実際は意味をご存じですから、意味を問われたというより確認されたという方が正しいかもしれません。丁稚の長吉は長右衛門の妻お絹に小遣いをもらって、お半と言い交わした中であると証言するように頼まれました。お半の書いた手紙のあて名の「長さま」というのは実は長右衛門のことですが、それを長吉のことだとごまかすためでした。
「みょうとごと」は歴史的仮名遣いで書くなら

    「めをとごと」

です。具体的な意味をはっきり言うのはためらわれることですから、こういう言い方をするのでしょうね。これを「契りを交わした」「実事があった」などと言い換えてもやはり漠然として、具体的なことは表現されません。
「○○ごと」という言葉は、たとえば「鬼ごと」「飯(まま)ごと」「旦那ごと」などという用例があり、これらは「○○のまねごと」「○○ごっこ」というニュアンスがあります。「めをとごと」も江戸時代の初めには「ひな人形で『めをとごと』をする」という用例があります。これは「夫婦のまねごと」あるいは「夫婦ごっこ」のようなことでしょう。
しかし江戸時代の時間が経つと「夫婦の交わり」のような意味が濃くなってくるように思われます。長吉はお半と「夫婦ごっこ」という遊びをしたのではなく、実事があったと言っているのです。

    「契る」

という言葉があります。「契りきなかたみに袖を絞りつつ末の松山波越さじとは」(清原元輔)のように「約束する」という意味ですが、もっと深い、単に口約束をするのではない意味でも用いられたようです。
こういうきわどい言葉は朧化しようとする傾向がありますから、「夫婦ごと」という言葉も生まれたのでしょう。
この言葉はいつごろまで生きていたのかはよくわかりません。大きな字辞書で調べたのですが、用例は江戸時代にとどまっていました。しかし、古風な人の日常語や色茶屋のようなところではもっと残っていたのではないかとも思うのです。
もう少し調べてみたいと思いつつ、このご時世、大きな図書館まで行くのはなかなか困難なのです。

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源氏物語「玉鬘」(7) 

光源氏は玉鬘を六条院の夏の町に入れることにして、紫の上にはきちんとその素性や母親の夕顔について話をします。六条院の主は光源氏ではありますが、それぞれの町の中心にいるのは女性方で、その中でも最も重要な位置にいるのが紫の上であることは間違いありません。六条院の秩序は彼女の存在抜きには考えられないと思います。のちに、女三宮が六条院に入ると、これまで最高の地位にいた紫の上のさらに上の身分の女性が入ったわけですから、秩序の乱れが起こってしまいます。それが紫の上の重病と女三宮の柏木との密通という形であらわれてしまいます。今は、紫の上が安泰で、花散里は謙虚。秋好中宮は独自の地位を持っていますから不安定要素ではありません。わずかに明石の君が紫の上にとっては気になる存在ですが、明石の姫君を養女にしたことである程度は抑えられています。そこに玉鬘という、紫の上にとってはよくわからない娘が入ってくるというのですから、光源氏は紫の上にきちんと理解しておいてもらう必要があったのではないでしょうか。そのために、他の女性方には特にことわりもせずに物事を進めているのに、紫の上にだけはきちんと説明しているのだと思うのです。

かくいふは、九月のことなりけり。渡りたまはむこと、すがすがしくもいかでかはあらむ。よろしき童女、若人など求めさす。筑紫にては、口惜しからぬ人びとも、京より散りぼひ来たるなどをたよりにつけて呼び集めなどしてさぶらはせしも、にはかに惑ひ出でたまひし騷ぎに、皆おくらしてければ、また人もなし。京は、おのづから、広き所なれば、市女(いちめ)などやうの者、いとよく求めつつ、率て来。その人の御子などは知らせざりけり。

こう話し合っているのは九月のことであった。(玉鬘が六条院に)お移りになることは滞りなくというわけにはなかなか行かない。てきとうな童女、若い女房などを探させる。筑紫ではそう悪くはない女房たちを、都から流浪してきた人を、つてを頼って呼び集めてお仕えさせてきていたが、突然慌てて出奔なさったどさくさに、皆あとに残してきたので、ほかに適切な人もいない。今日は広いところなので、自然に市女のような者がとてもうまく探して連れて来る。どなたのお子様であるということは知らせなかった。

話を決めたのは九月のことでしたが、だからといってすぐに玉鬘を移すことはできないのです。筑紫時代は都落ちしていた女たちを女房として使っていたのですが、あの太夫監から逃げるためにバタバタしているうちに皆あとに残してきたので、都に出てきてからも、適当な人がいませんでした。そこで市女などと言うものに頼んで人を連れてきてもらっていたのです。市女は本来物売りを生業とする者ですが、行商もしたせいか人脈があって女房をあっせんするようなこともしたのでしょう。

右近が里の五条に、まづ忍びて渡したてまつりて、人びと選(え)りととのへ、装束ととのへなどして、十月にぞ渡りたまふ。大臣、東(ひむがし)の御方に聞こえつけたてまつりたまふ。「あはれと思ひし人の、ものうじして、はかなき山里に隠れゐにけるを、幼き人のありしかば、年ごろも人知れず尋ねはべりしかども、え聞き出ででなむ、女になるまで過ぎにけるを、おぼえぬかたよりなむ、聞きつけたる時にだにとて、移ろはしはべるなり」とて、「母も亡くなりにけり。中将を聞こえつけたるに、悪しくやはある。同じごと後見たまへ。山賤めきて生ひ出でたれば、鄙びたること多からむ。さるべく、ことにふれて教へたまへ」と、いとこまやかに聞こえたまふ。

右近の里の五条に、まずひそかにお移し申し上げて女房たちを選び準備して、装束をととのえたりして、十月になってお移りになる。源氏の大臣は東の御方(花散里)にご依頼申し上げなさる。「いたわしく思った人がいやになってちょっとした山里に隠れ暮らしていたのですが幼い者がありましたので、長年人に知られないように探していたのですが噂に聞くこともできずに(その子が)一人前になるまで時が過ぎてしまったのですが、思いがけないところから聞きつけまして、せめて今からでもと思って、移らせるのです」と言って、「母も亡くなってしまいました。中将(夕霧)のことをお願いしましたが、うまくいったではありませんか。それと同じようにお世話ください。山賤のように成長していますので、田舎びたところが多いでしょう。しかるべく、何かにつけて教えてやってください」ととても丁寧に申し上げなさる。

九条の仮住まいから玉鬘をいったん右近の実家の五条に移して、そこで準備を整えたうえで六条院に入れることにしました。光源氏は花散里に玉鬘の世話を依頼します。花散里は、こういうことにかけては最高の女性というべきでしょう。ところで、ここで光源氏は玉鬘の事情を話していますが、玉鬘が自分の子であるように伝えています。紫の上にはあれほど明確に言ったのに、花散里に対してはごまかしているのです。やはり紫の上にだけは事実を伝えねばならないという考えがあるのでしょう。夕霧を預けてうまく行ったのだから、あなたなら信頼できる、と光源氏は花散里を立てることも忘れません。なお、夕霧は「少女巻」では侍従でしたが、ここではすでに中将になっています。近衛中将は従四位下に相当する官職です。元服したあとすぐに四位になってもおかしくなかった家柄の夕霧でしたが、あのときは六位にされ、雲居雁の女房からも馬鹿にされていました。しかし今や十四歳にしてここまで出世しているのです。これは花散里の力もあるでしょうから、光源氏の花散里への感謝はまんざらお世辞とは言えないのでしょう。

「げに、かかる人のおはしけるを、知りきこえざりけるよ。姫君のひとところものしたまふがさうざうしきに、よきことかな」と、おいらかにのたまふ。「かの親なりし人は、心なむありがたきまでよかりし。御心もうしろやすく思ひきこゆれば」などのたまふ。「つきづきしくうしろむ人なども、こと多からで、つれづれにはべるを、うれしかるべきことになむ」とのたまふ。殿のうちの人は、御娘とも知らで、「何人、また尋ね出でたまへるならむ」「むつかしき古者扱ひかな」と言ひけり。御車三つばかりして、人の姿どもなど、右近あれば田舎びず仕立てたり。殿よりぞ綾、何くれとたてまつれたまへる。

「なるほど、こういう方がいらっしゃったとは存じませんでした。姫君がおひとりいらっしゃるだけなのがものたりないことですから、けっこうなことですね」とおおらかにおっしゃる。「あの人の親であった人は気立てがめったにないほどよかったのです。あなたのお心も安心できると思っておりますので」などとおっしゃる。「私なりにお世話申しております方(夕霧)も手がかかりませんので退屈ですからうれしいことで」とおっしゃる。お屋敷の中の人たちは、娘御とも知らずに「どなたをまたさがしだしされたのでしょう」「やっかいな昔の女性をお世話なさること」と言った。御車三両ほどで、玉鬘の身なりも、右近がいるだけに田舎びないように仕立ててある。殿から綾だのなんだのと差し上げていたのであった。

花散里はやはり気立てのよい人です。嫉妬したり嫌味を言ったりすることもまったくなく、喜んで玉鬘を引き受けます。者の言い方が「おいらか(感情的にならないようす)」というのも彼女らしいでしょう。その一方、六条院の女房たちは光源氏の娘として入ってくる人であることもわきまえずに、また昔なじみの女でも探し出してこられたのでしょう、などと口さがない物言いをしているのです。花散里とは対照的です。本居宣長の『玉の小櫛』は「はやくかたらひ給ひし人を、尋ね出で給へるよしにてふるものとはいふ也(昔親しくなさっていた女性を探し出されたのだと思って「古物」といっているのである)」と注を付けています。車三両ということは十人ほどでやってきたということでしょう(車は通常四人乗り)。

その夜、やがて大臣の君渡りたまへり。昔、光る源氏などいふ御名は、聞きわたりたてまつりしかど、年ごろのうひうひしさに、さしも思ひきこえざりけるを、ほのかなる大殿油に、御几帳のほころびよりはつかに見たてまつる、いとど恐ろしくさへぞおぼゆるや。渡りたまふ方の戸を、右近かい放てば、「この戸口に入るべき人は心ことにこそ」と笑ひたまひて、廂なる御座についゐたまひて、「灯(ひ)こそいと懸想びたる心地すれ。親の顔はゆかしきものとこそ聞け、さも思さぬか」とて、几帳すこし押しやりたまふ。

お移りの夜、すぐに大臣の君(光源氏)がお越しになった。昔、「光る源氏」などというお名は、ずっとお聞き申していたが、長年そういうことと関係なく過ごして来たので、それほどにもお思い申し上げなかったのだけれど、ほのかな灯火に、御几帳の縫い合わせていないところからわずかに拝見したお姿は、まったく恐ろしいまでに思われるよ。お越しになる方の戸を、右近がさっと開け放つと、「この戸口に入ることのできる人は格別だね」とお笑いになって、廂に設けた御座に膝をおつきになって、「この灯火はとても色めかしい感じがする。親の顔はみたいものと聞いているが、そうもお思いにならないのか」といって、几帳をすこし押しやりなさる。

玉鬘が六条院の夏の町(東北の町)の西の対に入ると、光源氏はすぐにやってきます。興味津々です。玉鬘にずっと付き添っていた乳母たちは、「光る源氏」というニックネームをずっと知ってはいましたが、直接関係があるはずもないと思っていただけに、実感としてそれほど美しい人が現れるとは思わなかったのです。ところが、ほんのり薄暗い灯火に照らされた光源氏の姿が恐ろしいまでに美しいのを見て唖然とした様子です。几帳の帷子は縫い合わせるものですが、すべてを縫うのではありません。その縫っていないところを「ほころび」と言いました。けっしてボロボロに破れている、という意味ではありません。「光源氏」をずばり「光る源氏」と記すことは「帚木巻」の冒頭に「光る源氏名のみことごとしう」、「若紫巻」に「このよにののしりたまふ光る源氏」という例があります。さて、光源氏は「ここはいかにも懸想人が入るような戸口ではないか」と相変わらず冗談めかしていささか色めかしいことを言います。灯火がのんのりと薄暗いのに対しても「親の顔はみたいはずなのに」ともっと明るくすべきだというのですが、実際は自分が玉鬘の様子を見たいからこう言っていることは明らかです。「親」というのは光源氏が玉鬘を我が子として邸に入れたからで、邸内の女房たちにもそのように知らせてあります。わが子なのだから、という理屈で、光源氏は無遠慮に几帳をいくらか押し開けます。油断もすきもない男です。

わりなく恥づかしければ、そばみておはする様体など、いとめやすく見ゆれば、うれしくて、「今すこし、光見せむや。あまり心にくし」とのたまへば、右近、かかげてすこし寄す。「おもなの人や」とすこし笑ひたまふ。げにとおぼゆる御まみの恥づかしげさなり。いささかも異人(ことひと)と隔てあるさまにものたまひなさず、いみじく親めきて、「年ごろ御行方を知らで、心にかけぬ隙なく嘆きはべるを、かうて見たてまつるにつけても、夢の心地して、過ぎにし方のことども取り添へ、忍びがたきに、えなむ聞こえられざりける」とて、御目おし拭ひたまふ。まことに悲しう思し出でらる。

わけもなく恥ずかしいので、顔を横に向けていらっしゃるようすなどがとても好ましく見えるので、嬉しくて「もうすこし光を明るくしてくれないか。あまりに奥ゆかしすぎるぞ」とおっしゃるので、右近は燈心をかき立てて少し近くにする。「無遠慮な人だな」と少しお笑いになる。なるほどと思われる御目元のすばらしさである。まったく他人として距離を置くような物言いはなさらず、いかにも親らしくして「長年、あなたの行方を知らずに、心にかけないひとときとてないほど嘆いていましたが、こうして拝見するにつけても夢のような気がして、過ぎ去った日々のことも併せ考えるとこらえがたくて何も申し上げられないのです」といって目を押し拭いなさる。ほんとうに悲しく、自然とお思い出しになるのである。

玉鬘は「めやすく」見える人でした。「見た目がすばらしい」「見ていて安心できる」のが「めやすし」です。光源氏は自分でもっと灯火を明るくせよと言っておきながら、右近が燈心をかき立てて明るくすると「無遠慮だな」などとまた冗談を言います。まったく奔放なことばをまき散らす人だと思います。そして玉鬘に対して、これまでのことを思うと万感が迫ると言って涙を流します。この涙は、夕顔のことを思い出してのもので、けっして空泣きではないのです。

御年のほど、数へたまひて、「親子の仲のかく年経たるたぐひあらじものを、契りつらくもありけるかな。今はものうひうひしく若びたまふべき御ほどにもあらじを、年ごろの御物語など聞こえまほしきに、などかおぼつかなくは」と恨みたまふに、聞こえむこともなく、恥づかしければ、「脚立たず沈みそめはべりにけるのち、何ごともあるかなきかになむ」と、ほのかに聞こえたまふ声ぞ、昔人にいとよくおぼえて若びたりける。ほほ笑みて、「沈みたまひけるを、あはれとも、今はまた誰れかは」とて、心ばへいふかひなくはあらぬ御いらへと思す。右近に、あるべきことのたまはせて、渡りたまひぬ。

お歳がいくつになられたかを数えなさって、「親子の仲でこんなに長い年月離れていた例はないでしょうに、つらい宿縁ですね。今は、もの馴れない子どものようにしていらっしゃれるようなお年ごろではないのですから、長年のお話などを申し上げたいと思っていますのに、どうしてそんなにはっきりなさらないのですか」とお恨みになると、申し上げることもなく恥ずかしいので、「脚が立たないままに田舎に流浪しまして以来、何ごともはっきりわからないようすで」と、わずかに申し上げなさるお声は、亡き人によく似て若々しい。(光源氏は)ほほえんで、「田舎でお暮らしになったのをおいたわしいことと、今となっては(私以外の)誰がわかってくれるでしょう」とおっしゃって、心遣いもみっともないところのないお答えだとお思いになる。右近に、どのようにしてあげればよいかをご指示になって、お戻りになった。

玉鬘の年齢は、計算すればわかるのです。光源氏が十七歳だった時に玉鬘が三つだったことは右近から聞いていました(夕顔巻)ということはこのとき彼女はすでに二十一歳になっているのです。当時は十代での結婚が多いので、もうすっかり大人になっています。「親子の仲」と言っているのは、事実ではありませんが、光源氏はあくまで実の親子であるかのようにこの場では言い通すのです。そして、もういい歳なのだから、はっきりものを言ってください、と促します。もちろんぺらぺらしゃべるような人では困るのですが、どうしても彼女のものの言い方や声が聞きたかったのでしょう。玉鬘が「脚立たず沈み・・」といっているのはイザナギとイザナミの最初の子である蛭子(ひるこ)のことです。蛭子は三歳まで足が立たなかったので、両親は舟に乗せて流したという話があります。玉鬘はその蛭子のように「自分は不出来な娘で、親に見捨てられて流浪してきたのだ」というのです。やっと玉鬘の声を聴けた光源氏は、その声が亡き夕顔にそっくりで若々しいことに満足しました。もちろんものの言い方も、我が身を蛭子になぞらえた工夫も感心したことでしょう。満足した光源氏はこのあとのことを右近に指示して帰っていきました。

めやすくものしたまふをうれしく思して、上にも語りきこえたまふ。「さる山賤の中に年経たれば、いかにいとほしげならむとあなづりしを、かへりて心恥づかしきまでなむ見ゆる。かかる者ありと、いかで人に知らせて、兵部卿宮などの、この籬のうち好ましうしたまふ心乱りにしがな。好き者どもの、いとうるはしだちてのみ、このわたりに見ゆるも、かかるもののくさはひのなきほどなり。いたうもてなしてしがな。なほうちあはぬ人のけしき見集めむ」とのたまへば、「あやしの人の親や。まづ人の心励まさむことを先に思すよ。けしからず」とのたまふ。

見たところ安心できる人でいらっしゃるのを嬉しくお思いになって(紫の)上にもお話しになる。「あんな山賤の中で長年過ごしていたので、どんなにいたわしいようすだろうかとばかにしていたのだが、かえってこちらが恥ずかしいくらいに見えるのです。こういう者がいるとなんとか人に知らせて、兵部卿宮などの、この家を好ましく思ってくれる人の心を乱してやりたいものです。好き者連中がまったくまじめぶってばかりこの家に姿を見せるのも、こういう思いを寄せる相手になる者がいないからです。しっかりお世話したいものです。すまし顔に似合わぬ男たちの姿をいろいろ見てやろう」とおっしゃると「変わった親ですね。最初に人の心を奮い立たせることをお考えになるなんて。感心しませんね」とおっしゃる。

光源氏は実際不安もあったでしょう。田舎育ちで言葉も風情も教養もないつまらない娘になっていたらさぞがっかりしたことでしょう。しかしすべて満足のいくものであっただけに、嬉々として紫の上に報告しています。それにしても、光源氏は不思議なことを考えます。こういう娘がいると噂を立てれば、普段はまじめぶっている好色な男たちがどんな顔をしてやってくるだろうと試したいと思うのです。実の娘であればここまで考えるものでしょうか。紫の上もさすがにあきれているようです。

「まことに君をこそ、今の心ならましかば、さやうにもてなして見つべかりけれ。いと無心にしなしてしわざぞかし」とて、笑ひたまふに、面赤みておはする、いと若くをかしげなり。硯引き寄せたまうて、手習に、
 「恋ひわたる身はそれなれど玉かづら
  いかなる筋を尋ね来つらむ
あはれ」と、やがて独りごちたまへば、「げに、深く思しける人の名残なめり」と見たまふ。


「ほんとうに、あなたをこそ、あのころ今のような気持ちであったらそんなふうにして見るべきでしたね。無分別なことをしてしまいましたね」といってお笑いになるので、顔を赤らめていらっしゃるのは、とても若々しく美しい。硯をお引き寄せになって、いたずら書きのように「ずっと恋しく思ってきた我が身はそのままだが、あの娘はどのような筋を尋ねてここに来たのだろう。ああ、なんとも」とそのまま独り言をおっしゃるので、ほんとうに深くお思いになっていた人が後に残した人のようだ、と(紫の上は)ご覧になっている。

光源氏はまた冗談を言います。紫の上を引き取った時に、今の自分の気持であれば、もっと男たちを騒がすことが出来ただろうに、というのです。「無心にしなして」というのは、思慮もなく自分の妻にしてしまった、という冗談です。それを聞いて恥ずかしがっている紫の上は、二十代後半とは思えないほどの若々しい美しさを持っています。光源氏はふとお思いついた歌を書きました。夕顔を恋しく思い続けてきた自分は昔のままだが、あの娘はどういう道筋をたどってここまで来たのだろう、と思いやっています。「いづくとて尋ねきつらむ玉鬘我は昔の我ならなくに」(後撰集・雑四・源善)をふまえて詠まれたものです。本来なら内大臣のところに行くはずの玉鬘が、どういう因縁があってこちらに来たのか、と思っています。申すまでもなく、この歌に詠みこまれた「玉鬘(「筋」を導く序となっている)」がこの巻の名、そしてこの娘の呼称の由来となっています。紫の上は、光源氏がこの歌をつい口に出してまで詠んだことが、夕顔への思いの深さゆえだろうと感じています。

中将の君にも、「かかる人を尋ね出でたるを、用意して睦び訪らへ」とのたまひければ、こなたに参うでたまひて、「人数ならずとも、かかる者さぶらふと、まづ召し寄すべくなむはべりける。御渡りのほどにも、参り仕うまつらざりけること」と、いとまめまめしう聞こえたまへば、かたはらいたきまで、心知れる人は思ふ。心の限り尽くしたりし御住まひなりしかど、あさましう田舎びたりしも、たとしへなくぞ思ひ比べらるるや。御しつらひよりはじめ、今めかしう気高くて、親、はらからと睦びきこえたまふ御さま、容貌(かたち)よりはじめ、目もあやにおぼゆるに、今ぞ、三条も大弐をあなづらはしく思ひける。まして、監が息ざしけはひ、思ひ出づるもゆゆしきこと限りなし。

中将の君(夕霧)にも、「こういう人を見つけ出したので、心を配って親しくしてお尋ねしなさい」とおっしゃったので、こちら(玉鬘のところ)に参上なさって、「ものの数にも入らぬ者とは言え、こういう者が控えていると第一にお召し寄せくださればよろしかったのに。こちらにいらっしゃったときにも、何のお世話も致しませんでしたことです」ととてもきまじめに申し上げなさるので、事情を知っている人はそばで聴いていてきまり悪く思っている。精一杯の工夫をしたお住まいではあったが、あきれるほど田舎びていたのも、比較にならないものだとつい思い比べてしまうのである。部屋のしつらいをはじめとして、当世風で品があって、親きょうだいとして親しくしていらっしゃるありさまや御容貌はをはじめとして、目にもまばゆいほどなので、今となっては三条も太宰大弐を軽んずる気持になるのであった。まして大夫監の息遣いやありさまは思い出すのも不吉に思われることと言ったらこのうえないのである。

夕霧は、姉に当たる人だから仲良くしなさいと言われて、何しろきまじめな人ですから、若い女性が来たといっても妙な興味を持つようなことはせず、かしこまって挨拶をしています。そばにいる乳母や兵部の君は玉鬘と夕霧が実の姉弟ではないことを知っていますから、夕霧に対して気の毒な感じもしています。この部分については、『孟津抄』が「夕霧は誠のおとゝひとと心得を心しれる人はをかしく思也」(夕霧は自分が実の弟だと思っているので、事情を知っている人はおもしろく思っている)と注をつけています。九州の太宰少弐の館は心をこめて作られたものではありましたが何と言っても田舎びていて、おそばにいるもの(乳母など)はついこの六条院と比較してしまいます。三条(玉鬘の下女)はかつて長谷寺で「(玉鬘が)太宰大弐か大和守の奥方にでもなれますように」と祈願していました。つまり太宰大弐と言えば彼女にとっては最高級の人だったのです。しかし今こうして光源氏の元にやってくると、太宰大弐など何でもない身分なのだと思い知られるのです。いわんやまして、大夫監の振る舞いやものの言いようなどは思い出しただけでも不快になるほどです。

豊後介の心ばへをありがたきものに君も思し知り、右近も思ひ言ふ。おほぞうなるは、ことも怠りぬべし、とて、こなたの家司ども定め、あるべきことどもおきてさせたまふ。豊後介もなりぬ。年ごろ田舎び沈みたりし心地に、にはかに名残もなく、いかでか、仮にても立ち出で見るべきよすがなくおぼえし大殿のうちを、朝夕に出で入りならし、人を従へ、事行なふ身となれば、いみじき面目と思ひけり。大臣の君の御心おきての、こまかにありがたうおはしますこと、いとかたじけなし。

豊後介の気質を、めったにないものと君も思い知りなさって、右近も同じように思って口に出す。いいかげんにしていたら何かとうまくいくまいというので、こちら(玉鬘)の家司たちを定め、しかるべきことをいろいろお言いつけになる。豊後介も家司になった。長年、田舎暮らしてつらい思いをしていたところに、突然うってかわって、かりそめにも目にすることができるご縁もあるとは思えなかったお邸の中を朝夕自由に出入りして人を連れてものごとを処理する身となったのは、たいへんな名誉だと思ったのである。大臣の君のご配慮がこまやかでめったにないほどでいらっしゃるのも、たいそう畏れ多いことである。

豊後介の働きは大きなものでした。彼が玉鬘に精一杯心を尽くしたのは誰もが知るところでした。光源氏は玉鬘方の家司を定めて、その中に豊後介も取り入れました。彼は長年の田舎暮らしで、どうしても鬱屈していたのですが、こうして都の華やかなところで人を使って仕事をさせてもらえるのは大変ありがたいことだと思うようになりました。
こうして玉鬘とその周辺の人たちは六条院に落ち着きました。この巻は、もう少し新年の準備に筆が割かれて閉じられることになります。

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もうひとつの能勢の浄瑠璃 

大阪府豊能郡能勢町は古くから浄瑠璃語りが盛んでした。農業をする方が多い土地柄ですので、農閑期などに楽しまれたのでしょう。大坂からは能勢街道があり、丹波、能勢、池田などの農産物などがこの街道を通って大坂に送られました。「十三の渡し、三国の渡しと渡しを二つ越える。服部の天神さん尻目に岡町から池田・・・」というのは落語「池田の猪買い」ですが、あれは能勢街道を歩いて行ったのです。池田からは木部、多田、一の鳥居などを経て妙見山に至ります。
そんな土地柄ですので、大坂とも縁が深く、浄瑠璃語りが発展したのは自然だったと言えるかもしれません。そして山あいの町ですので、いくらか閉鎖的なところもあり、これが伝統を失わずに済んだ理由のひとつではないでしょうか。
その土地に人形劇団「鹿角座(ろっかくざ)」ができて、今では毎年6月(昨年は中止)に二日間の公演がおこなわれます。これは文楽の技芸員さんを指導に迎えてのかなり本格的なものです。
それに対して、同じく義太夫語りの人が出演する会に

    「幸会(みゆきかい)」

があります。
2月10日(水)の午後に、大阪府箕面市のメイプルホールで第三回幸会が行われましたので、少しだけ覗いてきました。
演目は素浄瑠璃で「尼崎」の十次郎出立と「酒屋」の宗岸来訪からお園のクドキまで。人形入りで『伽羅先代萩』「御殿」「政岡忠義」、『壺阪観音霊験記』「土佐町松原」「沢市内より山」でした。
会場は当然マスクが必要ですから、私はとても最初から最後までお付き合いするのは難しく(予定では3時間15分でした)、「尼崎」と『先代萩』のみ拝見しました。観客は60~70人だったでしょうか。能勢の方が多いのかな、と感じました。
今年が第3回だそうで、会場はいつもメイプルホールのようです。メイプルは紅葉。箕面は滝道があり、紅葉の名所。また箕面の名物と言えば

    紅葉の天ぷら

です(関西ではけっこう有名)。
舞台は、中央に幅3mくらいの手すりを置いて、そこで人形が動きます。床は上手側に設置してありました。上手側といっても、文楽のような位置ではなく、舞台上です。そこに口上というか、説明係のような方が、場がかわるたびに出入りされますので、上手側がずいぶん窮屈でした。こういうところは、客席から見て指示を出す舞台監督がいた方がよさそうに思いました。
語りはまったくわかりませんので何も申し上げることができません。
人形は普通の文楽のものとはまったく違った、首の大きなもので、独特の雰囲気がありました。政岡、千松、鶴喜代君、八汐だけは人形がありましたが、沖の井、栄御前、小巻は板を人形の形にこしらえてそれに着物を着せているような感じで、動きもほとんどないものでした。
やはり浄瑠璃が聴けないと面白みは80%減という感じでした。
入場料は無料でしたので、会場費、人形の制作費、プログラムの制作費などを考えると、かなりの赤字が出るのだろうと思います。それでも浄瑠璃の灯をともし続けるという熱意は気高いものだと思いました。
皆様、ほんとうにお疲れさまでございました。

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たばこの自販機 

散歩はしてみるものです。車で街を素通りするだけでは見えないものが見えてきます。
昨日書きましたように、いくらか呼吸が楽になって調子に乗ったために、12月と1月はいささか歩きすぎてしまいました。12月は32万歩弱、1月は34万歩強でした。ただしこれは家の中でちょろちょろするとか、ごみを出しに行くとか、そういうものも全部含まれていますけれども。
散歩していると、季節を感じることが多いものです。といっても、私は花の名前を知りませんので、この花が咲いているからこの季節というのがダイレクトに結びつきません。それでも何となく「秋らしい花だ」とか「冬の寒さにもめげずけなげに咲いている」とかそういうことは感じることがあります。
地元の方がなさっている畑を見ると季節感はよくわかります。
冬なら

    白菜や大根

をしばしば見かけます。にんにくやたまねぎの葉も育っています。
そんな感じでうろうろ歩いているのですが、先日はふと自動販売機に目が留まりました。飲み物ではなさそうで、何だろうと思ったら「たばこ」でした。
私は人生の中で、たばこだけは一度も吸ったことがありません(もちろん、アヤシイ薬も吸っていません)。
学生のころ、友だちの大半は吸っていました。人前で吸うのはほとんど男子学生でしたが、コンパでお酒が入ると女子学生も次々に吸い出して、目を丸くしたことがあります。何度も「吸う?」と差し出されたことがありますが、すべて断ってきました。あの頃、200円だか220円だか、それくらいの値段だったような気がします。200円とすると、1日1箱なら月額6000円! 文庫本なら20~30冊買える時代でしたから、そちらの方が有益だと思っていました。あの頃はゲームセンターもあちこちにできていた頃で、やはり友だちの中には入りびたっているのがいました。あれは1回いくらくらいかかったのでしょうか。
さて、先日散歩していて見つけたたばこの自販機を見てびっくりしました。セブンスターが

    560円

だったのです。ずいぶん高くなったものです。最近は喫煙率がずいぶん下がってきているようで、JT(日本たばこ産業)といえば飲料や医薬品の会社というイメージも強くなってきています。
自販機といっても誰でも買えるわけではなく、何か証明カード(?)のようなものを持っていないとダメみたいで、あの自販機はどれくらいの売り上げがあるのだろうかと心配になりなりながら(もちろん買うはずもなく)その場をあとにしました。

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神戸東京間 

浅野内匠頭長矩が江戸城中で刃傷に及んだことを伝える第一報は、早水藤左衛門と萱野三平を乗せた早駕籠によってもたらされ、江戸から赤穂まで4日半だったと言われます。その距離600㎞以上。今、赤穂と相生の間にある高取峠には当時の早駕籠のようすを模した像があります。4人の男がひとつの駕籠を担いでいます。体重60㎏の人を乗せているとして、一人15㎏の重量を肩に感じながら走るという離れ業です。担ぐのも大変ですが、乗るのも苦痛きわまりないことでしょう。あんなものに乗せられて上下動を繰り返して進むのですから、酔うなんて生易しいものではないでしょう。
しかし、昔の旅人は、たいてい歩いていたのです。江戸から京までざっと2週間で歩いたといわれます。これもすごいです。ざっと500㎞ですから、1日平均35㎞くらい。マラソンの8割くらいの距離を毎日歩いていたことになります。
江戸時代の旅人に比べると、現代人は

    まったく歩かなく

なりました。
車を持ってしまうと、買い物に行くのに荷物を持たなくていいですから、近くでも車に乗ってしまいます。私も以前はそういう傾向にあって、仕事場まで車で行って、仕事をして多少うろうろしてまた帰ってくる、という生活でした。あのころは1日に2,000歩くらいしか歩いていなかったように思います。しかし車が壊れて、新車は(中古も)買えないので、それ以後は歩くほかはありませんでした。もともと歩くのは大好きですので、気にはならないのですが、体調不良の時はかなり苦しい思いをしていました。坂道や階段を見るとうんざりして、途中でいったん止まってしまうこともありました。最近は呼吸の苦しさが少ないので、そういうことが全くなくなっています。
ところが、そのせいで、調子にのって歩きすぎの傾向があります。私は1日8000歩を目安にしているのですが、12月と1月はそれを超えて、2か月間で65万8千歩あまり歩いてしまったのです。
歩幅は普通に歩けば80㎝くらいかと思うのです。とすると、65.8万×0.8m=52万6400m。すなわち

    526.4㎞

ということになります。これはいったいどれくらいの距離かというと、仮に神戸を起点として道路の距離(直線距離ではない)で調べると、第二東海自動車道と新東名高速道路を走った場合、東京までが524.7㎞だそうで、ほぼ一致します。
江戸時代の旅人には及ぶべくもありませんが、東京まで歩いたのか、と思うとちょっとした感慨があります(笑)。
しかし、歩きすぎも行けないかもしれませんので、あまり無理はしないようにと思っています。

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橋本関雪(2) 

橋本関雪の墓は滋賀県大津市大谷町の「瑞米山 月心寺(ずいべいさん げっしんじ)」にあります。この寺は関雪の持っていた広大な敷地の一角で、彼の別邸としては同地に走井居(はしいりきょ)があります。
別邸というと、関雪には兵庫県明石市二見町東二見に「蟹紅鱸白荘」(かいこうろはくそう。今は「白沙荘」といわれます)があり、きれいに保存されています。
もうひとつ、兵庫県宝塚市売布にも

    「冬花庵」

があります。ところがこちらは阪神淡路島大震災でかなりの傷を受けてしまいました。宝塚市では震災の影響の大きな地域がこのあたりだったのではないでしょうか。
先日、ふと思い立って、この冬花庵を訪ねてみました。
宝塚市の武庫川左岸は有馬街道があって古くは右岸より栄えたところです。小林一三が最初に電車を敷設したのも宝塚少女歌劇もこちら側でした。有馬街道から少し離れますが、その近辺に中山寺、売布(めふ)神社、清荒神といった社寺があり、今はそのあたりの道を「巡礼街道」と名付けています。今でも各地から安産祈願に訪れる人がいらっしゃるのが中山寺。本尊が十一面観音ですので「中山の観音さん」と親しまれています。稲作と織物を下照姫(したてるひめ)に教わった人々がこの地に下照姫を祀ったという伝承があるのが売布神社です。清荒神(清澄寺)はかまどの神様。富岡鉄斎の絵を集めた鉄斎美術館を持っています。
関雪の冬花庵は阪急電鉄売布神社駅と清荒神駅の間の「巡礼街道」沿い。坂道が多く、歩くのはやっかいではありますが、それだけに閑静なところだったことでしょう。今も近隣を見渡すとところどころに石の道標があったり、立派なお屋敷が散見されたり、ひょっこり八阪神社に出会えたりするのですが、新興住宅もずいぶん増えています。あの震災の影響もあろうかと思います。冬花庵の東北側すぐ横を中国自動車道が通っており、そちらを見るといささか興ざめしてしまいますが。
「冬花庵」の東側角に「橋本関雪別邸」という案内が出ており、中国自動車道と並行する「巡礼街道」には「橋本関雪邸前」というバス停があります。
門の前には枝垂桜があり、その季節にはまた行ってみたいと思いました。しかし、門は見るかげもなく荒れていて、中をうかがうこともできません。もちろん、どなたもお住まいではないのです。ただ、「巡礼街道」から「冬花庵」を見ると、木々の間から

    三重塔

が見え、これには驚嘆してしまいます。邸宅の中にしかるべき大きさの三重塔があるのですよ。
このお屋敷、今は橋本家のものではなく、大阪のある会社の所有なのだそうです。以前は公開もしていたのですが、阪神大震災のあとは中止になりました。それにしても、このままにしておくのはまことにもったいなく思われます。いささか行きにくい場所ではあるのです(歩くには坂道が多く、車で行くと駐車場がない)が、市が買い上げるなどして、何とか整備して公園のようにできないものかと感じました。

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橋本関雪(1) 

日本画家の橋本関雪(1883~1945)は逢坂の関の雪からその号がつけられたようです。「逢坂の関の雪」というのは、平安時代の貴族で藤原道長の父である兼家にまつわる、『江談抄』に見える話から来ています。兼家は師輔の三男として生まれましたが、長兄の摂政伊尹に重んじられすぎたために次兄の兼通に恨まれることになり、伊尹が早く亡くなると兼通との間に跡継ぎ争いが生じました。この兄弟の確執はかなりひどいものでした。先に関白となった兼通が重病に陥ると、兼家の車が兼通の屋敷に近づいてきました。兼通はいくら仲が悪いといっても自分の命が危ういと聞いて見舞いに来てくれたのだろう、といくらか嬉しさも感じたのです。ところが兼家の車は素通りして内裏に行ってしまいました。兼通は

    怒り心頭に発し、

重体の身でありながら内裏に行き、除目(じもく。人事のこと)を敢行しました。自分の代わりに関白を頼忠(兼通の従兄。父の兄の子)という人物に譲り、兼家は降格させてしまいました。
こういう経緯で、兼家はもう摂政関白の地位には就けないかもしれないという時期があったのです。
大納言兼家は六月のある夜、夢を見ました。逢坂の関を通り過ぎるとき、雪が降ってあたりは真っ白であったというのです。夢解き(夢の意味を判断してくれる人)に問うと、人が白い馬を献上してくれる意味だというのです。兼家は喜んで夢解きに褒美を与えました。その後兼家が学者の大江匡衡にこの話をすると、「その夢解きから褒美を取り返した方がいいですよ。白い馬を献上してくれるなんていう話じゃありません。関で白い雪をご覧になったのですから『関白』になるという夢です」といったのです。翌年兼家は関白になったとさ・・という話です。史実とは関係ないことではありますが、ともかく天下を取る吉相として「(逢坂の)関の雪」の話として伝わったのです。
この話をもとに、学者であった橋本関雪の父海関が、息子にこの号を与えたのだそうです。
関雪の絵には『琵琶行』(橋本関雪記念館)『遅日』(足立美術館)『寒山拾得』(林原美術館)『長恨歌』(京都市美術館)『秋桜老猿』(橋本関雪記念館)などがあります。
このうち「橋本関雪記念館」というのは、京都市の慈照寺(銀閣の寺)から遠からぬ白沙村荘にあります。関雪のアトリエでもあった白沙村荘というと、素晴らしい庭園でも知られ、一般公開されています。昭和の人は(笑)宇野重吉と石原裕次郎の出ていた、

    清酒「松竹梅」

のテレビCMの撮影現場になったことをご存じかも知れません。
しかし、これくらい人になると、この広大な屋敷だけで暮らしていたわけではないのです。
自分の家というものを持たない私から見るとうらやましい限りなのですが、かれには別荘もありました。

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高野山金剛峰寺の襖絵 

私はほんとうにテレビを観ないのですが、1月には何となく大相撲を何度か観てしまいました。以前から噂になっていた「背筋ピン子さん」の姿を観たいという願望もあったのですが(笑)、欠場者の多い場所が果たしておもしろいのだろうか、という妙な野次馬根性もありました。最初に見たときに大栄翔と阿武咲の元気さに見惚れて、その後も数回5時過ぎから観ることがありました。あいにく千秋楽は観ることができず、大栄翔の優勝決定のシーンは知らないのです。
大相撲以外は相変わらずテレビとは無縁だったのですが、たったひとつNHKスペシャル「高野山襖絵に挑む」という番組だけは偶然ではあったのですがほぼ最初から最後まで観ました。
画家の

    千住博さん

の取り組みでした。千住さんと言えば、私はやはりご令妹の真理子さんを先に思い出してしまうのですが、今となっては真理子さんより博さんのお仕事が身近に感じられるのです。東京芸術大学の日本画出身の人ですが、自然の壮大なスケールを独自の技術で表現して、世界に発信しようとする意欲的な画家でいらっしゃいます。
この襖絵は長い年月金剛峯寺に置かれるはずのものですから、その意気込みはすさまじいものです。日本から送られてきた紙が分厚すぎるからやり直し、滝の絵がつまらないと納得できずにやり直し。最終的に用いた和紙は越前和紙。表具や京都の老舗。そういう人たちの協力を得ながらお大師様(空海)が自分に何を描かせようとしているのかを考えて仕上げるまでの6年間を追ったのがこの番組でした。
崖を描いているときに、千住さんが「ここに樹を描いてくれと

    絵が言っている」

というようなことをおっしゃいました。私はポンと膝を打ちました。まことに口幅ったいことを申しますが、私も浄瑠璃の言葉を書いているとき、最初は言葉ひとつひとつがちっとも出てこなくて泣きたくなるほどなのですが、次第に登場人物が「ここでは私はこういうことを言う」と教えてくれるようになることがあります。千住さんと一緒にするのははなはだおこがましいことなのですが、私は何となくその気持ちがわかりました。
千住さんが描いたのは「崖」と「滝」。滝は千住さんがこれまでにもモチーフにしてきたものでした。崖は険しく、滝は暖かく。
お描きになっていた時のアトリエに置かれた作品と、襖となって「切り取られつつ繋がる」形になったものとではご自身にも違いが発見できたのではないでしょうか。しかも置かれたところは空海の本拠で、入定の地です。空海は今もここに生きて瞑想し続けているのです。そこに置かれたからこそ生じた意味や価値もあると思います。
千住さんは滝の奥には「空(くう)」がある、とおっしゃっていました。できあがった滝の襖絵の奥の部屋に案内された千住さんはそこで思いがけないものをご覧になりました。非公開の空海の像でした。千年以上瞑想し続けている空海がまさに滝の奥に存在したのです。ディレクターが寺といろいろ話をするうちに最後に千住さんに観てもらおうということになったのかもしれません。
この襖絵そのものは高野山に納められる前に各地で展覧会の形で展示されていましたが、私は観ていないのです。怠けておいて偉そうなことを言うのは不届きですが、やはり襖絵は襖絵として観るのがいいかな、と思っています。
ぜひ一度拝見したいものだと思います。

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源氏物語「玉鬘」(6) 

十一面観音を本尊とする長谷寺は霊験あらたかなことで知られる寺です。「こもりくの泊瀬(はつせ)」といわれますが、この枕詞の「こもりくの」は「両側から山が迫っている」ということです。このあたりは、今は近鉄大阪線が初瀬川沿いに走っており、その名も「長谷寺」という駅を降りると、そこから寺までは直線距離で1㎞くらいです。右近が三日間の参籠を含めて七日で往復していることからもわかりますが、都からの手ごろな小旅行先で、楽しみながら行けるところでもあったのでしょう。『かげろふ日記』の道綱母や『更級日記』の菅原孝標女なども参っています。右近と玉鬘との出会いはやはり長谷観音のご利益なのでしょう。わらしべ長者もこの観音のご利益で出世したと伝わっているように、現世利益を叶えてくれる観音として愛され、親しまれ、頼られていましたから。この奇跡のような邂逅を、右近は誰よりも光源氏に伝えたいと思いました。昔親しんだ女性の子どものことですから、大きな声で言えることではありませんでしたが、やっとそれを伝える時がきたのです。

大殿油など参りて、うちとけ並びおはします御ありさまども、いと見るかひ多かり。女君は、二十七八にはなりたまひぬらむかし、盛りにきよらにねびまさりたまへり。すこしほど経て見たてまつるは、またこのほどにこそにほひ加はりたまひにけれ、と見えたまふ。かの人をいとめでたし、劣らじと見たてまつりしかど、思ひなしにや、なほこよなきに、幸ひのなきとあるとは隔てあるべきわざかな、と見合はせらる。

灯火などをつけさせてうちとけて並んでいらっしゃる(光源氏と紫の上の)ご様子は、ほんとうに拝見していてもお見事なものだ。女君は、もう二十七八にはなられたであろう、今が盛りと美しく際立って成熟なさっている。しばらく時を置いて拝見すると、また、この間にたしかに色艶がましていらっしゃる、とお見えになる。あの人(玉鬘)をとてもすてきだ、見劣りするまいと拝見したが、思いなしであろうか、やはりこのうえなくていらっしゃるので、幸いのない人とある人では違いがあって当然なのだな、とつい見比べてしまう。

灯りをつけて並んでいる二人、というとぼんぼりに桃の花を添えられるひな人形のようです。紫の上の年齢は光源氏との出会いのとき(光源氏十八歳)に「十ばかりにやあらむ」(若紫巻)とあり、八歳ほど違うと考えられていますが、ここではほぼそのとおり(このとき光源氏は三十五歳)になっています。「若菜下」巻には光源氏四十七歳の時の紫の上の年齢を「今年は三十七にぞなりたまふ」としていますが、これは彼女の重病を厄年に重ね合わせるための錯誤であろうかと思われます。その、どこまでも美しい紫の上を間近に拝見すると、右近は玉鬘がこの方にも劣るまいと思ったことをやはり間違いだと思わざるを得ないのです。そしてそれは人生の幸不幸がなせるわざだと感じるのです。

大殿籠もるとて、右近を御脚参りに召す。「若き人は、苦しとてむつかるめり。なほ年経ぬるどちこそ、心交はして睦びよかりけれ」とのたまへば、人びと忍びて笑ふ。「さりや。誰か、その使ひならいたまはむをば、むつからむ」「うるさき戯れ事言ひかかりたまふを、わづらはしきに」など言ひあへり。「上も、年経ぬるどちうちとけ過ぎ、はた、むつかりたまはむとや。さるまじき心と見ねばあやふし」など、右近に語らひて笑ひたまふ。いと愛敬づき、をかしきけさへ添ひたまへり。今は朝廷(おほやけ)に仕へ忙しき御ありさまにもあらぬ御身にて、世の中のどやかに思さるるままに、ただはかなき御戯れ事をのたまひ、をかしく人の心を見たまふあまりに、かかる古人をさへぞ戯れたまふ。

(光源氏は)おやすみになるというので、足をさすらせるために右近をお召しになる。「若い女房はくたびれるといっていやがるようでね。やはり年寄り同士が、心が通い合って仲良くしやすいものだ」とおっしゃるので、女房たちは忍び笑いをする。「そうでしょうか」「誰が、そのようにいつもお使いになることをいやがるものでしょうか」「めんどうなご冗談をおっしゃるのが厄介だからです」などと言い合っている。「(紫の)上も、年寄り同士が仲良くし過ぎたらまたご機嫌斜めになられるでしょうね。そんなふうにはなさるまいとは思えない(機嫌を悪くしないことはあり得ない)ので危いのだよ」など、右近におっしゃってお笑いになる。とても魅力的で、そのうえにおもしろいところまでお持ちでいらっしゃるのである。今は朝廷に仕えて忙しいというきご境遇でもない御身の上で、世の中についてものんびりとお考えになっているので、ただたわいない冗談をおっしゃったり、おもしろがって人の心を判断なさったりなさる度が過ぎて、こういう古参の人(右近)にまで冗談をおっしゃる。

そろそろ寝ようというので、光源氏は右近に足をさするように言いつけます。こういうことは若い女房は嫌がるので、年寄り(といってもまだ三十代同士ですが)のあなたに頼もう、というのです。足をさすらせるのは純粋にそれだけの用事である場合もあるでしょうが、そのまま同衾することも珍しいことではなかったようです。紫の上のいるこの場ではそういうことはないのでしょうが。ほかの女房たちはそれを聞いて、嫌な冗談ばかりおっしゃるからです、と逆襲します。光源氏は、右近とあまり仲良くすると、怖い人がいるからね、とさらに冗談を続けます。紫の上は嫉妬深い、といつも光源氏にからかわれます。すでに公務の多忙さから解放されて悠々自適になっているだけにとりとめもない冗談を言ったり、人の心を推測しておもしろがったりするのを楽しみにしているようです。

「かの尋ね出でたりけむや、何ざまの人ぞ。尊き修行者語らひて、率て来たるか」と問ひたまへば、「あな、見苦しや。はかなく消えたまひにし夕顔の露の御ゆかりをなむ、見たまへつけたりし」と聞こゆ。「げに、あはれなりけることかな。年ごろはいづくにか」とのたまへば、ありのままには聞こえにくくて、「あやしき山里になむ。昔人もかたへは変はらではべりければ、その世の物語し出ではべりて、堪へがたく思ひたまへりし」など聞こえゐたり。

「その、探し出したとかいうのはどういう人なのだ。尊い修行者と仲良くなって連れてきたのか」とお尋ねになるので、「まあ見苦しいことを。あえなく亡くなりました夕顔の露のゆかりの方を見つけたのです」と申し上げる。「なるほど、胸に響くことだな。長年の間どこにいたのだ」とおっしゃるので、ありのままには申し上げにくくて「辺鄙な山里でして。昔なじみの人もいくらかは変わらずにお仕えしておりましたので、あのころの話をし始めまして、堪えがたい気持ちになりました」などとじっとしながら申し上げた。

光源氏が右近に足をさすらせたのはもうひとつ目的があったのでしょう。さきほど言いさしていた「探し出した人」の正体を知ることです。光源氏は右近の「恋バナ」(「恋愛についての話」の若者言葉です・・笑)でないことくらいは分かっています。そうではなく、何か光源氏にゆかりのある人を探し出したことを察知していると思うのです。そこでうまく話させようとするためにわざと「山寺の坊さんとねんごろになったのか」などというふざけた言い方をするのです。こう言えば「そんなんじゃありませんよ」と事実を言ってくるだろうという光源氏の作戦ではないでしょうか。それに乗せられるように、右近は白状しました。しかし、いくらなんでも、玉鬘の苦難をそのままいうと光源氏がどう対応してくれるかわからないという不安があったのか、右近は少しぼかして話します。そして、夕顔の話をし始めるとつらい気持ちになった、というところまで話したのです。

「よし、心知りたまはぬ御あたりに」と、隠しきこえたまへば、上、「あな、わづらはし。ねぶたきに、聞き入るべくもあらぬものを」とて、御袖して御耳ふたぎたまひつ。「容貌(かたち)などは、かの昔の夕顔と劣らじや」などのたまへば、「かならずさしもいかでかものしたまはむと思ひたまへりしを、こよなうこそ生ひまさりて見えたまひしか」と聞こゆれば、「をかしのことや。誰ばかりとおぼゆ。この君と」とのたまへば、「いかでか、さまでは」と聞こゆれば、「したり顔にこそ思ふべけれ。我に似たらばしも、うしろやすしかし」と、親めきてのたまふ。

「もういい、事情をお分かりになっていない人(紫の上)のそばでは」と、隠し申し上げなさると、上は、「まあ、めんどうな。眠くて耳に入るはずもありませんのに」と言って、御袖で耳をおふさぎになってしまう。「器量などは、あの昔の夕顔に劣らないであろうか」などとおっしゃると、「きっとあの方ほどはいらっしゃるまいと存じたのですが、このうえなく成長なさったとお見えでした」と申し上げると、「おもしろい話だ。どなたくらい美しい人だ。この君(紫の上)と比べるとどうだ」とおっしゃるので「いくらなんでもそこまでは」と申し上げると、「得意げに思っているようだな。もし私に似ていたら安心だよ」と、親のようにおっしゃる。

右近が夕顔の話をし始めたので、紫の上の手前、光源氏はいったん制止します。しかし紫の上は耳をふさいで聞かないふりをします(実際は聞いているのではないでしょうか)。光源氏は早速玉鬘の器量について尋ねます。右近は玉鬘を光源氏に何とか救ってもらいたいという思いがありますから、悪いことは言えません。実際玉鬘は美しい人なので、夕顔以上といってもよいと言い、それでも紫の上には及ぶべくもないとそつのない返事をします。おそらく、右近も光源氏も紫の上は聞いているだろうと思っていますので、「紫の上と比較して」とか「いくら何でもそこまでお美しくはありません」とうまくタッグを組んで紫の上におべんちゃらを言います。そのあとに光源氏が「私に似ていたら」と親のように言うのはなぜなのでしょうか。以前、長谷での話し合いで、内大臣に取り次いでほしいという乳母の言い分に対して、右近は、光源氏が「かの御かはりに見たてまつらむ、子も少なきがさうざうしきに、わが子を尋ね出でたると人には知らせて(夕顔の代わりにお世話したい。子どもも少なくて寂しいから、自分の子を探し出したと人には知らせたうえで)」と言っていました。光源氏は玉鬘を養女にしたいと思っているのです。そこで、かつての明石の姫君のように、「自分に似た美しい姫君」であれば紫の上も納得してくれるかもしれないという考えが働いたのかもしれません。いずれは正直に話すとしても、内大臣の子を連れてくるといきなり言うのはさすがに憚られるのではないでしょうか。

かく聞きそめてのちは、召し放ちつつ、「さらば、かの人このわたりに渡いたてまつらむ。年ごろ、もののついでごとに口惜しう惑はしつることを思ひ出でつるに、いとうれしく聞き出でながら、今までおぼつかなきもかひなきことになむ。父大臣には何か知られむ。いとあまたもて騒がるめるが、数ならで、今はじめ立ち交じりたらむがなかなかなることこそあらめ。我は、かうさうざうしきに、おぼえぬ所より尋ね出だしたるとも言はむかし。好き者どもの心尽くさするくさはひにて、いといたうもてなさむ」など語らひたまへば、かつがついとうれしく思ひつつ、「ただ御心になむ。大臣に知らせたてまつらむとも、誰れかは伝へほのめかしたまはむ。いたづらに過ぎものしたまひし代はりには、ともかくも引き助けさせたまはむことこそは、罪軽ませたまはめ」と聞こゆ。「いたうもかこちなすかな」と、ほほ笑みながら、涙ぐみたまへり。

いったんこのように聞いたあとは、(右近を)他の者と放してお召しになっては、「それでは、その人はこの屋敷にお移し申し上げよう。長年、何かのついでのたびに残念なことに行方知れずにしてしまったと思い出していたのだから、とてもうれしいことと聞き出したのだが、今までどうしているのかわからなかったのもつまらぬことであった。父大臣には知られないようにしよう。とても多くの子どもがいて騒がしいようなのだから、ものの数にも入らず、今はじめてその中に入ったとしたらかえって不都合になるだろう。私はこのように(子どもが少なくて)寂しいので、思いがけないところから探し出したとでも言っておこう。色好みの男たちに気をもませる種として、しっかりお世話しよう」などとお話しになるので、(右近は)一方ではうれしく思いながら、「ただ御心に従いまして。大臣にお知らせ申し上げるとしても、どなたがそれをわずかにでもおできになれるでしょうか。むなしく亡くなられた方のお身代わりに、どのようにでも引きあげてお助けになってこそ、あの時の罪も軽くなることでしょう」と申し上げる。「ひどく私を悪く言うのだな」と、ほほ笑みながら、涙ぐんでいらっしゃる。

光源氏は、紫の上やほかの女房には聞かれないようにして、右近と玉鬘の処遇について相談します。内大臣には子が多いので、今さら新たに「私も娘です」と名乗って出たところで大した扱いはされないから、子の少ない自分がたまたま立訪ねあてた子ということにして世話をしようと言い出すのです。光源氏と玉鬘の年齢差は十四年ですから、いささか無理もありますが。ここで光源氏は、「好き者どもの心尽くさするくさはひにて、いといたうもてなさむ」と言っています。色好みの男たちの心を惑わせてやろうというのです。実際、彼は弟の蛍兵部卿宮に玉鬘を見せたりして、楽しんだりします。その一方、自分もまだまだ関心がないわけではないのですが。右近はもし光源氏が玉鬘に救いの手を差し伸べたら、夕顔を死なせた罪も軽くなる、と言います。光源氏は「悪者扱いするんだな」と冗談を言いつつも涙を流しています。夕顔のことを思い起こすとどうしても哀しみが湧き出るのでしょう。

「あはれにはかなかりける契りとなむ年ごろ思ひわたる。かくて集へる方々のなかに、かの折の心ざしばかり思ひとどむる人なかりしを、命長くて、わが心長さをも見はべるたぐひ多かめるなかに、いふかひなくて、右近ばかりを形見に見るは、口惜しくなむ。思ひ忘るる時なきに、さてものしたまはば、いとこそ本意かなふ心地すべけれ」とて、御消息たてまつれたまふ。かの末摘花のいふかひなかりしを思し出づれば、さやうに沈みて生ひ出でたらむ人のありさまうしろめたくて、まづ、文のけしきゆかしく思さるるなりけり。ものまめやかに、あるべかしく書きたまひて、端に、「かく聞こゆるを、
  知らずとも尋ねて知らむ三島江に
  生ふる三稜(みくり)の筋は絶えじを」
となむありける。


「しみじみとはかなかった縁であったと長年思い続けてきたのだ。こうして(この六条院に)集まっている方々の中に、あのときの思いほど愛情を持った人はいなかったが、長生きして自分の気の長さを思い知るような人が多いようだ。その中でも、今さら何を言ってもはじまらないようになって、右近だけを形見として見るのは残念でね。忘れる時とてないのだから、そうやって(玉鬘が)ここにきてくださるならまったく願いが叶う思いがするだろうよ」と言って、お手紙を差し上げなさる。あの末摘花がどうにも言いようのない人であったのをお思い出しになると、そうやって沈淪して成長したのであろう人のありさまが気がかりで、まず手紙の書きぶりが知りたいとお思いになるのであった。きまじめに、こういう場合にふさわしいようにお書きになって、手紙の端に、「このように申し上げるのを『 どうしてなのかおわかりにならなくても、お尋ねになれば理解なさるでしょう。三島江に生える三稜の筋のように縁は絶えずにあるのですから』と書かれていた。

光源氏は、夕顔との縁がはかないものに終わってしまったことを忘れることがなかったのです。今、六条院に集めている女性方の中に、あの人ほどの人はいなかったとまで言います。「集へる方々」と敬語が用いられていませんので、紫の上や花散里とは違う身分の人たちでしょう。夕顔は三位中将の娘でしたから上流の末端くらいの出身ですが、父を亡くしていましたから実際は中流程度です。それでも、その中では最高に愛情を持った人だけに、その娘である玉鬘が来るのであれば、夕顔を六条院に呼びたかったという思いが叶うと思うのです。ただ、田舎育ちの娘で、見たこともない人ですから、とんでもないセンスの、歌も満足に読めないような人ではないかという疑いは持ってしまいます。それにしても、こんなところに引き合いに出される末摘花はかわいそうに思えてなりません。光源氏はどんな返事を書く人だろうかとテストするつもりで、玉鬘に手紙を送ります。色恋ではありませんから、こういう場合にふさわしいきまじめさを持った文章でした。そしてその最後には言葉から続けて和歌を書き添えています。この和歌は玉鬘の素養を調べるための課題の意味もありますから、「三島江に生ふる三稜の」を「筋」を導く序詞として用いて技巧も凝らしています。これに対してどのように返事してくるのでしょうか。なお「三島江」は摂津国の歌枕で、今の大阪府高槻市、淀川の右岸です。「三稜」は沼沢に自生する植物で『枕草子』「草は」の段にも見えます。葉に筋が多いので「筋」を導く序としたのです。

御文、みづからまかでて、のたまふさまなど聞こゆ。御装束、人びとの料などさまざまあり。上にも語らひきこえたまへるなるべし、御匣殿などにも、設けの物召し集めて、色あひ、しざまなど、ことなるをと、選(え)らせたまへれば、田舎びたる目どもには、まして珍らしきまでなむ思ひける。

お手紙は、右近自らが退出して(光源氏の)おっしゃったことなどとともにお伝えする。(玉鬘のための)御装束、女房たちのためのものなどさまざまに贈られる。(紫の)上にもお話し申し上げられたようである。御匣殿(装束を用意するところ)などにも用意してある品々をお取り集めになって色合いや仕立てなどの格別なものを、とお選びになっているので、田舎びた人たちの目から見ると、(都の人が見てもすばらしいのに)まして珍しいほどに思ったのであった。

右近が直々に光源氏の手紙を、伝言とともに持って行きます。そして光源氏は玉鬘だけでなく、女房たちのためにも装束を送るのです。長らく鄙びたところで暮らしていた人たちですから、これまで見たこともないようなみごとなものでした。しかし、玉鬘が都を訪ねてきたのはあくまでも実の父、つまりこのときの内大臣を求めてのことです。ところが、なるほど右近が今お仕えしているという事情はあるとしても、光源氏からさまざまなものが届くのは不可解ですらあったでしょう。

正身(さうじみ)は、ただかことばかりにても、まことの親の御けはひならばこそうれしからめ、いかでか知らぬ人の御あたりには交じらはむ、と、おもむけて、苦しげに思したれど、あるべきさまを、右近聞こえ知らせ、人々も「おのづから、さて人だちたまひなば、大臣の君も尋ね知りきこえたまひなむ。親子の御契りは、絶えてやまぬものなり」「右近が、数にもはべらず、いかでか御覧じつけられむと思ひたまへしだに、仏神の御導きはべらざりけりや。まして、誰(たれ)も誰もたひらかにだにおはしまさば」と、皆聞こえ慰む。

ご自身(玉鬘)は、ただ申しわけ程度の事であっても実の親からのお沙汰であれば嬉しいだろうが、どうして知らない人のところに入っていけるだろう、と思いを漏らして、苦しそうになさっているのだが、どうすればよいのかを右近がお知らせ申し、女房たちも「そのようになさって一人前になられましたら、内大臣の君も自然に御耳に入れられてご理解くださるでしょう。親子のお約束というのは切れたままでは終わらないものです」「右近が人数にも入らないのになんとかしてあなた様にお会いできるようにと思っておりましたのでさえ、仏神のお導きがございましたでしょう。まして、あなた様もあちら様(内大臣)もご無事でいらっしゃったら(お目にかかれるでしょう)」と皆が申し上げてお慰めする。

玉鬘には、父でもない人から厚遇されることへのとまどいがあります。光源氏の思わくとは違って、玉鬘の願いは父内大臣に会うことです。右近はこれからどうすればよいかを言い聞かせます。もちろん、光源氏の言葉にしたがって六条院に入ることです。周りの女房たちも、一刻も早い身の安全、安心を求めて、右近の持ってきた話に従うことを勧めます。現実的な女房と、あくまで親を求める玉鬘の微妙なずれがあります。

「まづ御返りを」と、責めて書かせたてまつる。いとこよなく田舎びたらむものを、と恥づかしく思いたり。唐の紙のいと香ばしきを取り出でて、書かせたてまつる。
 数ならぬ三稜(みくり)や何の筋なれば
  憂きにしもかく根をとどめけむ
とのみ、ほのかなり。手は、はかなだち、よろぼはしけれど、あてはかにて口惜しからねば、御心落ちゐにけり。


「まずは(光源氏への)お返事を」としいてお書かせ申し上げる。ひどく田舎びていますのに、と恥ずかしい気持ちになっていらっしゃる。唐の紙のとても香ばしいものを取り出してお書かせ申し上げる。「ものの数にも入らぬわが身は、三稜の筋ならぬどういう筋道があってつらくもこのように生まれてきたのでしょうか」とだけ、かすかに書かれている。筆跡は頼りなげでふらついているけれど、上品で見苦しくはないので(光源氏は)安堵したのであった。

光源氏に返事を書かねばなりません。しかし当の玉鬘は田舎育ちの自分の歌が通用するのか、自信がないのです。それでも無理やりに書かされた歌は、光源氏の歌の「三稜」「筋」を用いつつ、「みくり」に「身」を掛け、「うき」には「埿(うき。沼地)」を掛けたもので、まずは無難な出来でしょう。ただし、筆跡にはいくらか難があったようです。このあと、玉鬘が蛍兵部卿宮と和歌を交わす時に、「手を今すこしゆゑづけたらば(筆跡がもう少し趣のあるものだったらすばらしいだろうに)」(蛍巻)と記されるように、書はあまり得意ではなかったのです。それでも落胆するようなものではなかったことに光源氏はひとまず安心しました。

住みたまふべき御かた御覧ずるに、南の町にはいたづらなる対どもなどなし。勢ひことに住み満ちたまへれば、顕証(けしよう)に人しげくもあるべし。中宮おはします町は、かやうの人も住みぬべく、のどやかなれど、さてさぶらふ人の列にや聞きなさむと思して、すこし埋れたれど、丑寅の町の西の対、文殿にてあるを、異方へ移して、と思す。あひ住みにも、忍びやかに心よくものしたまふ御方なれば、うち語らひてもありなむ、と思しおきつ。

お住まいになるのにふさわしいところをお考えになると、南の町には空いている対などもない。威勢も格別で多くの人が住んでいるので、人目について人も多いだろう・中宮のいらっしゃる町は、こういう人も住めそうで、落ち着いているが、そうするとお仕えする人と同列だと聞く人もいるだろう、とお思いになって、すこし引っ込んだところではあるが、丑寅の町の西の対が文殿になっているのをほかのところに移して、と思いになる。一緒のところに住むにしても、ひっそりと気立てのよい人のいらっしゃるところだから話し合ったりもするだろう、とお決めになった。

玉鬘を六条院に移すにあたって、どこを使わせればよいかと光源氏は思案します。一番身近なのは紫の上のいる南の町(南東の町。春の町)ですが、適当な場所がないうえ、あまりにも紫の上の威勢が強すぎるし、何と言っても人が大勢いて目立ってしまいます。かといって秋好中宮の南西の町(秋の町)では玉鬘が女房格のように見えてしまってふさわしくないと思います。そこで、花散里のいる丑寅の町(夏の町)の西の対が文庫になっているので、それを移して、そこに住まわせようと思いつきます。同じ町に住むのが花散里であれば嫌味なこともしないだろうし、仲良く話したりもできるだろうという考えです。

上にも、今ぞ、かのありし昔の世の物語聞こえ出でたまひける。かく御心に籠めたまふことありけるを、恨みきこえたまふ。「わりなしや。世にある人の上とてや、問はず語りは聞こえ出でむ。かかるついでに隔てぬこそは、人にはことには思ひきこゆれ」とて、いとあはれげに思し出でたり。「人の上にてもあまた見しに、いと思はぬ仲も、女といふものの心深きをあまた見聞きしかば、さらに好き好きしき心はつかはじとなむ思ひしを、おのづからさるまじきをもあまた見しなかに、あはれとひたぶるにらうたきかたは、またたぐひなくなむ思ひ出でらるる。世にあらましかば、北の町にものする人の並みには、などか見ざらまし。人のありさま、とりどりになむありける。かどかどしう、をかしき筋などはおくれたりしかども、あてはかにらうたくもありしかな」などのたまふ。

(紫の)上にも、今になってあの昔のいきさつについてお話し申し上げなさった。このように心に秘めていらっしゃることがあったのを、(紫の上は)お恨み申し上げなさる。「それはどうにもならぬことです。この世に生きている人の話だからといって、尋ねられもしないのにお話しできるものでしょうか。こうおいうついでに心を隔てずにお伝えするのは、あなたを特別に思っているからですよ」といって、とてもしんみりと記憶をたどっていらっしゃる。「他人のことでも多くを見てきたことですが、それほど熱心に思わない関係でも、女というものの愛執の深さを多く見聞きしましたので、けっして好き心は持つまいと思ってきましたが、自然とそういうわけにもいかなかった人を多く見た中でも、心に沁みるほどひたすらかわいいという面ではほかに類を見ないものと思い出されるのです。もし健在であれば、北の町にいる人(明石の君)くらいにはお世話しないでいたでしょうか。人のありさまというのはそれぞれなのでした。才気があるとか風流だとか言う点では劣っていましたが、品があってかわいい人でした」などとおっしゃる。

玉鬘を迎え入れるに際して、光源氏は過去の夕顔とのいきさつを紫の上に話します。「人の上にてもあまた見しに」と言っていますが、もちろん自分もそれを体験しているのです。『弄花抄』は「源氏の我うへの事とのたまはぬなり憚て也(源氏は自分のこととはおっしゃらないのである。紫の上に遠慮してのことである)」と注記しています。「女性の愛執の恐ろしさを知っているだけに、好色な態度は取るまいと思いつつも、そうもいかなかった人がいる」として、夕顔はその中でもかわいい人であったと回想します。すでに亡くなった人なればこそこうまではっきり言えるのでしょう。もし今生きていれば明石の君くらいの扱いはしていたと思う、というのは、けっしてあなた(紫の上)と同等な人ではない、という気持ちがにじみ出ています。くりかえし夕顔のことを「らうたし」と言っている点にも注意されます。

「さりとも、明石の並みには立ち並べたまはざらまし」とのたまふ。なほ北の御殿をば、めざましと心置きたまへり。姫君の、いとうつくしげにて、何心もなく聞きたまふが、らうたければ、また、ことわりぞかし、と思し返さる。

「それでも明石の方と同列にはなさらないでしょうよ」などとおっしゃる。今もやはり北の御方を目障りな人だと心を隔てていらっしゃる。(明石の)姫君がとてもかわいらしいようすで無心にお聞きになっているのがいじらしいので、一方では、それも道理なのだ、と思い返していらっしゃる。

紫の上は、明石の君に対して今なお隔意があります。あなたは夕顔を明石の君と同列にするとおっしゃるが、明石の君は格別な扱いをしているから、同列にはなさらないでしょうよ、という皮肉がこもっています。しかし、目の前にいる明石の姫君のあどけなさを見るにつけ、こんなにかわいい人を産んだのだから、それもしかたがないだろうと思い返したりもしています。嫉妬深さと無類の子供好きの紫の上の人柄や複雑な心理がよくうかがえるでしょう。

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批評を受ける 

私は昨年、短歌の同人に正式に入れていただいたのですが、その同人は年に4回歌誌を発行しています。
歌誌というのは、ただ歌を掲載するだけではありません。お互いに批評し合う場でもあります。
私の所属している同人では、前号の作品についての批評が出るのですが、すべての歌が俎上に載せられるわけではなく、作者の居住地域によって分けられるグループを巡回するように(今号は○○地域の人の歌、というように)載せられるのです。私が最初に作品を出した次の号は私のグループではなかったのでまったく触れられませんでした。
ただ「私の好きな歌十首」というコーナーがあり、ここには地域も関係なしに6人の会員が気に入った歌を選ぶことになっているようです。どなたかお1人くらい私の歌を選んでくれないだろうか、と厚かましい気持ちで次の号の雑誌を開いたのですが、ものの見事に

    ひとつとして

ありませんでした。やっぱり新米はダメか、と諦めつつも、少しばかりショックでした(笑)。ところが、よく聞いてみると、この「私の好きな歌十首」は前々号の歌を対象にするのだそうで(何か事情があるのでしょうが、詳しいことは知りません)、落胆するのは早かったようです。
さて、先日、最新号が届きました。この号は、私のグループが批評されるうえ、「私の好きな歌十首」の対象にもなる最初の号なので、ハラハラドキドキでした。
おお! 載ってる! 「私の好きな歌」に!
小学生のようにうれしかったです。ただ、おもしろいもので、自分ではさほど気に入ってはいなかったものが選ばれていました。
そして、

    合評

のページには・・おお! こちらにもありました!
ただ、こちらでもやはり自分で気に入った歌はほとんど触れられていませんでした。
なんか複雑(笑)

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藤十郎 

如月さんから、「四代目坂田藤十郎」「五代目豊竹呂太夫」「竹本緑太夫」についての話を書いてほしいとも言われました。どこかに書いているかもしれませんが、せっかくですのでまた思いつくことを書いておこうと思います。
私がこのブログで自分のハンドルネームを「藤十郎」としたのは坂田藤十郎の四代目が襲名された後ですので、山城屋さん(坂田藤十郎)にあやかって名乗ったようですが、実は全く関係ないのです。
私がもし文楽の人形遣いになったらどんな名前を名乗りたいかな、と思ったのです。そして行き着いたのが

    桐竹藤十郎

という名前でした。厚かましいことこの上ないのですが、何だか華があってきれいだなと思ったのです。文楽には紋十郎、勘十郎、清十郎などの名跡があり、作十郎という方もいらっしゃいました(作十郎さんはご本名でした)。歌舞伎でも団十郎、藤十郎、宗十郎などがあり、「○十郎」というのは重厚で大名跡らしくてすてきです。それで、自分も「○十郎」をハンドルネームにしようと思って、その○の中に一字入れることにしたのです。そして、山城屋さんのことはまったく念頭にないままに「藤」の字を思い浮かべたのです。平安時代を専攻していますので、「藤」は藤原氏の名前で親しみもあり、また藤の花はとても好きなので、これにしたのです。もちろん山城屋さんと同じであることはわかっていましたが、あちらは歌舞伎ですので、まあいいか、と適当に考えていました。
山城屋さんといえば扇雀時代に父君の二代目鴈治郎と昭和28年に上演された『曽根崎心中』で大人気になったそうです。私はまだ生まれていませんでしたので知る由もありませんが、天満屋の段切で徳兵衛とお初は逃げ出す時、お初が先に出て徳兵衛を引っ張っていくような形で演じたのが斬新だというので話題になったそうです。ただ、山城屋さんの本だったかもしれませんが、あれは本番での偶然だったと読んだことがあります。
私が拝見した『曽根崎心中』はご子息の智太郎さん(現・四代目鴈治郎)とのコンビで、大阪松竹座での公演でした。このときは当代片岡仁左衛門の

    「義賢最期」

や中村魁春襲名の『京鹿子娘道成寺』もあって、かろうじて声もわかったころでしたので、どの演目も興味深く拝見しました(もちろん3階席)。
『曽根崎心中』は、文楽で見慣れた私にとってはどうしても大げさに過ぎて、感情がダイレクトに伝わってくるだけにあとに残るものが少なかったのを覚えています。文楽であればもっとあっさりしているというか、義太夫節の内容を視覚的に表現するような役割なので、そのときもしみじみと感じるのですが、終わった後に自分のからだの中に近松の文章が充満しているような感覚を覚えます。私が、概して丸本歌舞伎が好きでないのはそういう点に理由があります。役者さんたちの魅力はしっかり見せていただいたのですが、感動という意味ではさほど大きなものではありませんでした。ただし、文楽と違って最後は徳兵衛がお初を刀で突こうとするところで幕になります。また同じ野澤松之輔師匠の作曲とはいえ、原作で語られるので、「森の雫と散りにけり」ではなく

    「恋の手本となりにけり」

で結ばれます。原作どおりというと、文楽では鶴澤清治さんがあらたに作曲されたものがこの形(原作どおり)でした。文楽の本公演では清治さんヴァージョンは上演されていません。かねてから、松之輔師匠の脚色に関しておもしろさと物足りなさを感じることがあるのですが、この部分については、私は物足りないのです。歌舞伎のように「恋の手本となりにけり」でないと、近松作品の感動は薄れてしまうと思っています。そういう意味では、歌舞伎の『曽根崎心中』もなかなかのものだったと言えます。今後は今の扇雀さんがお初を継がれるのでしょうか。ぜひ、五代目の襲名も視野に入れるくらいのつもりで頑張っていただきたいものです。
山城屋さんがまだ成駒屋の鴈治郎でいらしたときに、私が非常勤講師をしていた兵庫県尼崎市の女子大に来られたことがありました。一般の人も無料で入ることができましたので、非常勤講師なら問題なかろうと思って私も入れてもらったのです。講堂が一般の方でいっぱいになっていたことを覚えています。お話は忘れました(笑)。最後にひとさし舞われたことは覚えているのですが、あれも何だったのかは忘れました。
山城屋さんの成駒屋時代というと、

    近松座

の活動も思い出されます。私はまだ大学院の学生だったのですが、文楽劇場に近松座の『女殺油地獄』を観に行ったことがありました。当時の成駒屋が与兵衛で澤村田之助さんが豊島屋女房お吉でした。成駒屋もよかったのですが、紀伊国屋さんも迫真の演技で、こんなにすごい役者さんだったのかと感じたものでした。成駒屋さんの与兵衛はふてくされた感じがよくて、そのくせ甘えるようなだらしなさもありました。ただ、最後は与兵衛が逮捕されて花道を連行されていくのですが、その姿がどうも堂々とし過ぎていて、ヒロイックに過ぎると見えたのです。なんだかちょっと違うな、と当時の私は思いました。
山城屋さんについてはあまりあれこれ思い出はないのですが、松島屋さんとはまた違った上方歌舞伎の重鎮であったことは間違いないと思います。
これはかなわぬことはわかっているのですが、仁左衛門さんももう七十歳をはるかに過ぎられましたので、この際上方に戻っていただいて、南座、松竹座を中心に新たな仁左衛門歌舞伎を見せてもらえないものかと思っています。江戸には年に一度くらいで、あとはすべて上方で公演や指導などをしていただけないものかと。無理なのはわかっていますがずっとそんなことを思っています。
山城屋さんが亡くなって、上方歌舞伎の灯火がまた危うくなってきたように思います。

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長い文章を書くこと 

先日、このブログのコメント欄で如月さんから長い文章を書くコツはありますか、と聞かれました。私ごときが如月さんにコツをお教えするなんてとんでもない話ですが、私なりの書き方を申し上げることはできるかなと思い、以下に記しておきます。
このブログの記事など、たかだか800字とか1000字とか、そのあたりですから特に長いわけではありません。
これくらいの分量であれば、私は大体「オチ」というか、最後にこういうことを言おうと考えて、そこに持って行く内容を工夫します。例えば文楽の感想を書くとすると、誰のどういう役がよかったとか、今回の番組の構成はどうだったとか、そういうことを次々に書いていってもいいのですが、それだと何となくとりとめのない文に終わってしまう可能性があります。そこで私なら、最終的にこの公演ではどういうところに感動したか、あるいは次の公演ではどういうことを期待したいか、など、自分の言いたい結論を最後に置いて、そこから逆にその結論を導くに至った理由を交えつつ感想を書いていくだろうと思います。言い換えると、感想すべてが結論と何らかの結びつきがあるように文章を構成するということです。
源氏物語のエッセイなら、首尾を呼応させて、最初に「今回はこんなお話をします」と匂わせておいて、ストーリーや登場人物について書いていき、結びの部分で最初に匂わせたことを解き明かすようなこともします。
浄瑠璃を書くときも、私は最後から書くことが多いのです。こういう形で終われるようなものを書こう、という発想です。

    『異聞片葉葦』

という作品では、まず結末部分の歌があって、そのあとどのように終わろうかを考えて、そう終わるためにはどんな仕込みをすればいいかを考えるような順序でした。冒頭は季節や場所や状況設定をするのですが、最初の一節だけは早めに決めて、それ以外はあとまわしでした。
どこかで少し寄り道するようにもします。「序破急」「起承転結」の「破」「転」の部分ですね。寄り道は少し長めにすることもあります。しかしその場合も、本筋を外すのではなく、あくまで寄り道です。本筋にかかわりを持たせながら、意図的に少しわき道にそれるのです。
具体的な話を書き込むこともするようにしています。こんな経験があります。「実習に行った場合、御礼状を書くのですが、どう書けばいいですか」と学生から聞かれたのです。そのとき、学生から聞いたのですが、「『便箋に2枚も3枚も書くのは失礼だから1枚におさめなさい』とネットに出ていたのですが、それでいいですか」と言われました。「一筆箋」ならともかく、通常の便箋に1枚って、そっちの方が失礼じゃないの? と私は思いました。そんなものでは「ありがとうございました」「今後ともよろしく」で終わりそうです。「手紙の書き方」というのは最近どうなっているのでしょうか? 私はその学生には「具体的に実習で経験したことを書いて、それが自分にとってどれほど勉強になったかを書いたらどうですか」と話しておきました。
・・・今書いたことがこのブログの記事の寄り道です。長い文章を書くということからいささか横にそれましたが、完全に本筋からは外していないと思うのです。

    字数を決めて書く

のもいいと思います。以前、新聞に文章を依頼されたとき、「○○字×○○行でお願いします」と言われました。新聞ですから、実に厳密でした。最初は字数を気にせずに、言いたいことを、起承転結を意識して書くと、あっさり字数オーバーになってしまいました。そこで少しずつ削って言って1行たりとも違えずにまとめることができました。雑誌の連載でも、数行は足りなくてもいいのですが、私はぴったり書くようにしています。そういう訓練をしているうちに、大体これくらいのペースでここまで書けば最後はいい具合に収まりそうだ、というのがわかってくると思うのです。
起承転結の構成は絶対条件ではありませんが、形が整いやすいので使うと便利です。
思いつくままに私がいつもしていることを書いてきたのですが、結局は文章にどれだけハートを込められるかということだと思います(←これが私の結論です。ここに持ってくるためにいろいろ書いてきました)。

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ジョギングwithマスク 

昨年の秋ごろの息苦しさはなくなってきました。駅まで徒歩5分くらいなのですが、当時は10分以上かけて歩いていくこともありました。今はおおむね普通のスピードで歩いています。それでも、息を吐く強さは普通の方の7割程度で、もう気管支がぼろぼろになって回復しないのだろうと思います。医者もそれらしいことを言っています。それなら、これ以上無駄に薬を使っても副作用が怖いですし、費用も余分に掛かりますので、あまり積極的に治療はするまいと思うようになっています。
こんな状態ですから、今もマスクは最低限しかしません。店に入る時は必ず着けています。電車に乗る時も、混雑しているときは着けるようにしています。ただし、がらがらのときはほかの人から離れてマスクは外しています。
散歩するときは一切着けていません。田舎の道を歩くだけですから、そんなに人とすれ違うことはありません。そんな状態ならさすがに

    意味がないだろう

と思います。
日曜日などに近所の公園に行くと、子ども連れの人が昨年の「緊急事態」のときよりもはるかに多く来ています。遊具のところに行くとウイルス感染などどこへやら、という状態でかなりの人がマスクなしで遊んでいます。子どもたちが野球やアメリカンフットボールなどの練習をしていますが、これはさすがに誰も着けていません。コーチのような人たちも着けていないようです。ところが、ジョギング、ウォーキングの人たちがかなりの割合でマスクをしています。感染云々と言うなら、

    接触プレー

のある球技の方が危ないでしょうから、理屈は合いません。みんなで外せばなんとやら、で、むしろ個人で散歩しているほうが、周りの目が気になるのではないでしょうか。
私も人の視線が気になることはあるのですが、今はもう意識して着けないようにしています。ジョギングをしていると、当然息は荒くなるでしょう。そんな状態でマスクをするのはかえって健康に良くないのではないかと思います。自分の吐いた息をまた吸うということは二酸化炭素濃度の高い空気を吸っていることになるように思います。
そんなわけで、最近の私は、他人の目を無視することなく、堂々とマスクを外して散歩して、人とすれ違う時に(これも所詮ポーズに過ぎないかもしれませんが)顔を背けたり手で口を覆ったりしています。
ああ、めんどうな世の中になってしまいました。

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オリンピックの行方 

どこで誰が言うのか。
オリンピックは中止します、と。
大変な損害であることはわかります。巨額の投資をしてきたはずです。それに見合うだけのお金が戻ってくると見越した景気浮揚策としての招致でもあったのでしょう。それを今さら中止するのは次世代に借金を残すことになると思われ、それは避けたいと思うのも理解できます。しかし、国破れてオリンピックあり、というわけにはいかないのもまた事実です。そもそも、真夏の東京でオリンピックができると考えて、しかもなぜかそれが震災復興を旗印にするという、私に言わせればめちゃくちゃな政治家の思い付きといいたくなることを考えたのが間違いだったのかもしれません。
世論調査を見ると、今年オリンピックをすることに積極的に賛成だという人は、今や

    1割をいくらか超える

くらいだそうですね。
1964年の東京オリンピックの開催が決まったときのことは私も覚えていませんが、これで日本は世界の仲間入りができるという昂揚感があったのではないかと想像します。当時、開催半年前に「あなたはオリンピックの開催に賛成ですか」という世論調査をしたら、圧倒的多数で「賛成(にきまってるだろ!)」という声が挙がったのではないでしょうか。
こんな時期に新型ウイルスのパンデミックが起こるなんて、ほとんど誰も想像していなかったに違いありません。しかし実際に起こってみると、これは天の配剤というか、神の思し召しというか、運命というか、そもそも無理な話だったのだという感じもしてくるのです。
新しいアメリカの大統領が、ウイルス対策は

     「政治ではなく科学」

で対応するという意味のことを言っていました。オリンピックについても、冷静に、政治ではなく科学を中心に判断する方がいいのではないかと思います。
2024年にずらしてもらいましょう、と都合のいいことを言う人もいるようですが、パリにはパリの都合があります。仮に2016年のリオデジャネイロオリンピックのときにパンデミックがあったとして開催できず、翌年に「2020年にずらしたいので、東京は譲ってください」と言われたとして、2020年のつもりで準備していた東京があっさり「はいわかりました」と言えたでしょうか。
もし懲りない人が再びオリンピックに立候補しようというなら、ささやかなアマチュアの祭典として、早くて2032年を目指すほかはないように思います。しかしその年はすでにインドが実施を考えているらしく、まだ開催した経験のない国だけに優遇されるでしょう。となると、直近で2036年という、はるかかなたの話になってしまいます。しかも、もう東京はダメでしょう。そもそも、今、日本で真夏にオリンピックができる気候といえばぎりぎり北海道くらいだと思います。札幌オリンピック、あるいは広域開催できるなら北海道東北オリンピックくらいにしないと、また何が起こるかわかりません。アマチュアの祭典なら秋に開催してもできなくはないと思うのです。こんな狭い国では、夏季オリンピックはもうあきらめた方がいいと思います。

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2021文楽東京公演初日 

文楽東京公演が幕を開けます。
今回も精一杯の感染予防をしながらの上演です。
終演時刻を8時までにするために、開演を30分前にずらすようです。
演目は次のとおり。

第一部(午前10時30分開演)
五条橋
伽羅先代萩 (竹の間、御殿)

第二部(午後1時50分開演)
曲輪文章(吉田屋)
菅原伝授手習鑑 (寺入り、寺子屋)

第三部(午後5時30分開演)
冥途の飛脚 (淡路町、封印切、道行相合かご)

呂勢太夫・清治から錣太夫・藤蔵の「御殿」、呂太夫・清介から藤太夫・清友の「寺子屋」、千歳太夫・富助の「封印切」。
政岡は和生、伊左衛門は玉男、夕霧は清十郎、松王丸は玉助、千代は簑二郎、忠兵衛は勘十郎、梅川は勘彌です。

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源氏物語「玉鬘」(5) 

玉鬘一行は右近との再会は果たせましたが、都に上って幸せな暮らしをするという実感は持てないのでしょう。三条と呼ばれる女はできれば玉鬘には太宰大弐や大和守の妻にでもなってほしい、と言っていました。その意味では右近との間にまだ齟齬があるのです。さて、右近はどのように動き、玉鬘の新しい人生はどう展開していくのでしょうか。

筑紫人(つくしびと)は、三日籠(こも)らむと心ざしたまへり。右近は、さしも思はざりけれど、かかるついで、のどかに聞こえむとて、籠るべきよし、大徳(だいとこ)呼びて言ふ。御あかし文など書きたる心ばへなど、さやうの人はくだくだしうわきまへければ、常のことにて、「例の藤原の瑠璃君(るりぎみ)といふが御ためにたてまつる。よく祈り申したまへ。その人、このころなむ見たてまつり出でたる。その願(ぐわん)も果たしたてまつるべし」と言ふを聞くも、あはれなり。法師、「いとかしこきことかな。たゆみなく祈り申しはべる験(しるし)にこそはべれ」と言ふ。いと騒がしう、夜一夜(よひとよ)おこなふなり。

筑紫の人たちは、三日参籠しようというつもりであった。右近はそうは思わなかったのだが、こういうついでに、ゆっくりとお話し申し上げようと、籠るつもりだということを、僧を呼んで言う。願文などを書いた趣旨などについて、こういう人は細かくわきまえているので、いつものこととして、「藤原の瑠璃君という人の御ために、例によって差し上げます。よくお祈り申してください。その人は近ごろ御探し当て申したのです。その願ほどきもいずれいたしましょう」と言うのを聞くにつけても胸にしみいるようである。法師は、「たいそうけっこうなことでございますな。私どもがたゆまずお祈り申しております効験でございましょう」と言う。とても騒がしく、一晩中勤行しているようである。

玉鬘たちは三日間の参籠を計画していましたので、右近もそれに合わせるようにしました。そして馴染みの僧侶(「大徳」というのは本来「高僧」ということですが、一般的に僧侶のことも言うようになります)にその旨伝えます。右近の願いは「藤原瑠璃君」についてのものでした。もちろん玉鬘のことですが、彼女は幼いころこのように呼ばれていたのか、あるいは右近が仮にそう名付けて祈願したのかもしれません。そして右近はその人は最近見つけたのだと言います。最近も最近、すぐ先ほどのことですが、ぼかして言っています。法師はそれは自分たちの祈願のおかげですよ、と言いたげで、勘繰るならばお布施はしっかり出してくださいと暗黙の裡に伝えているのかもしれません。

明けぬれば、知れる大徳の坊(ばう)に下りぬ。物語、心やすくとなるべし。姫君のいたくやつれたまへる、恥づかしげに思したるさま、いとめでたく見ゆ。「おぼえぬ高き交じらひをして、多くの人をなむ見集むれど、殿の上の御容貌(かたち)に似る人おはせじとなむ、年ごろ見たてまつるを、また、生ひ出でたまふ姫君の御さま、いとことわりにめでたくおはします。かしづきたてまつりたまふさまも、並びなかめるに、かうやつれたまへる御さまの、劣りたまふまじく見えたまふは、ありがたうなむ。

夜が明けたので、知りあいの僧の坊に下がった。話をするのに気やすくということであろう。姫君がひどく質素な身なりをしていらっしゃるのを、恥かしそうにお思いになっているようすがとてもすばらしく見える。「思いがけず身分の高い方の中で暮らして、多くの人を見てきましたが、殿の上(紫の上)のご器量に匹敵する人はいらっしゃるまいと長年拝見しているのですが、また成長なさっている(明石の)姫君のお姿が、道理とはいえすばらしくていらっしゃいます。大切にご養育なさっているごようすも並ぶものがないようですが、こうして質素になさっている(玉鬘の)お姿がひけをとることはあるまいとお見えになるのは奇特なことです。

右近は気安く話をするために、親しい僧の部屋を借ります。あらためて玉鬘の容貌を見ると実に立派に見えます。右近は、「自分はこれまでに多くの高貴な人を見てきたが、その中では紫の上ほどの人はいないと思う。光源氏の娘だから当然ではあるが、その次には明石の姫君がどんどん美しくなられている。しかし、玉鬘はそういう人に劣ることもないほどすばらしいと讃えます。

大臣の君、父帝の御時より、そこらの女御、后、それより下は残るなく見たてまつり集めたまへる御目にも、当代(たうだい)の御母后と聞こえしと、この姫君の御容貌(かたち)とをなむ、『よき人とはこれを言ふにやあらむとおぼゆる』と聞こえたまふ。見たてまつり並ぶるに、かの后の宮をば知りきこえず、姫君はきよらにおはしませど、まだ、片なりにて、生ひ先ぞ推し量られたまふ。上の御容貌は、なほ誰か並びたまはむと、なむ見えたまふ。殿も、すぐれたりと思しためるを、言に出でては、何かは数へのうちには聞こえたまはむ。『我に並びたまへるこそ、君はおほけなけれ』となむ、戯(たはぶ)れきこえたまふ。

源氏の大臣様は、父帝(桐壷帝)の御代から、多くの女御、后、それ以下の人は残らず拝見なさっていて、その目からご覧になっても、当代の御母后(藤壺)と申し上げた方と、この(明石の)姫君のご器量を、『美しい人とはこういう人を言うのだろうと思われる』と申し上げていらっしゃいます。そういう方と見比べ申しました場合、その后の宮のことは存じませんが、(明石の)姫君は美しくてはいらっしゃいますが、まだじゅうぶん大人というわけにもいかず、将来が楽しみというところでいらっしゃいます。(紫の)上のご器量は、やはり誰がこの方に並ぶ人があるとご覧になるでしょうか。殿(光源氏)も、すぐれているとお思いになっているようですが、口に出してはどうしてその数の中にお入れ申し上げることが出来るでしょう。『私にお並びになるなんて、あなたは身のほど知らずだ』と冗談を申し上げなさっています。

光源氏は常々藤壺中宮と明石の姫君を美人の典型だと言っているようです。そして、藤壺中宮は右近が知るはずもありませんし、明石の姫君はまだ大人にはなりきっていませんから、玉鬘もひけをとることはないと感じているようです。ただ、紫の上に関しては比類ない人だと言います。光源氏は口では紫の上のことを美人の数に入れずに、自分の妻でいられるのがおかしい、と冗談まで行っているようです。しかし内心は紫の上の美貌を認めていないわけがありません。『岷江入楚』は「源の心にも紫はすくれたりとおほせと紫に対してかたりたまふ事なれは此かそへのうちへは何かは入給はんとそなり(光源氏の心の中でも紫の上はすぐれているとはお思いになっているが、紫の上に対してい話していらっしゃることなので、この美人の数の中にはどうしてお入れになれるでしょうか、というのである)」と言っています。

見たてまつるに、命延ぶる御ありさまどもを、またさるたぐひおはしましなむやとなむ思ひはべるに、いづくか劣りたまはむ。ものは限りあるものなれば、すぐれたまへりとて、頂(いただ)きを離れたる光やはおはする。ただ、これを、すぐれたりとは聞こゆべきなめりかし」と、うち笑みて見たてまつれば、老い人もうれしと思ふ。

拝見していると寿命が延びそうな(光源氏や紫の上の)お姿を、ほかに匹敵する方がいらっしゃるでしょうか、と思っておりますが、(玉鬘は)どこが劣っていらっしゃるというのでしょうか。ものには限りがあるものですからば、いくらすぐれていらっしゃるといっても、(釈迦のように)頭から放たれる光がおありということはありません。ただ、この方を、すぐれていると申し上げるべきんとお見受けするのですよ」と、にっこりとして拝見するので、老人(乳母)もうれしく思う。

右近が玉鬘の容貌をひたすらほめたたえます。彼女は普段から光源氏と紫の上(あるいは明石の姫君も含めて)という美しい人たちを見ていて、比類ない方々だと思っているのですが、目の前の玉鬘も劣ることはない、と言います。釈迦の頭からは「百宝無畏光明」(楞厳経)を放つとされます。まさかそこまではいかないにしても、玉鬘の美しさは間違いないと、仏を持ち出して冗談まで言ってほめるのです。さすがに乳母は嬉しくなってきました。

「かかる御さまを、ほとほとあやしき所に沈めたてまつりぬべかりしに、あたらしく悲しうて、家かまどをも捨て、男女(をとこをむな)の頼むべき子どもにも引き別れてなむ、かへりて知らぬ世の心地する京にまうで来し。あがおもと、早くよきさまに導ききこえたまへ。高き宮仕へしたまふ人は、おのづから行き交じりたるたよりものしたまふらむ。父大臣に聞こしめされ、数まへられたまふべきたばかり、思し構へよ」と言ふ。恥づかしう思(おぼ)いて、うしろ向きたまへり。

「このような美しいお姿でいらっしゃるのに、あわやというところでみじめなところに落ちぶれさせ申し上げるところでしたが、それがもったいなく悲しくて、家もかまどをも捨てて、頼りにすべき息子や娘たちに別れて、かえって知らない土地であるかのように思う都にやってきたのです。あなた様、早くよいようにお導き申し上げてください。高貴なところに宮仕えなさっている人は、自然と交際の便宜というものがおありでしょう。父大臣のお耳に入って、お子様の数に入れていただけるような工夫をお考えになってください」と言う。(玉鬘は)恥かしくお思いになって、顔を背けていらっしゃる。

右近に褒められて、乳母は勢いづきます。彼女が望むのは、玉鬘の実の父である内大臣との出会いです。光源氏に仕えているのであれば内大臣にも連絡ができるだろうから、何とか工夫してほしいと依頼します。いよいよ父との出会いが現実になるかもしれないと思う玉鬘はその瞬間を想像して恥ずかしく思うのでしょう。見覚えのない、今を時めく実の父へのあこがれを抱く乙女の恥じらい、というところでしょうか。

「いでや、身こそ数ならねど、殿も御前近く召し使ひたまへば、ものの折ごとに『いかにならせたまひにけむ』と聞こえ出づるを、聞こしめし置きて『われいかで尋ねきこえむと思ふを、聞き出でたてまつりたらば』となむのたまはする」と言へば、「大臣の君は、めでたくおはしますとも、さるやむごとなき妻(め)どもおはしますなり。まづまことの親とおはする大臣にを知らせたてまつりたまへ」など言ふに、ありしさまなど語り出でて、「世に忘れがたく悲しきことになむ思して、『かの御代はりに見たてまつらむ。子も少なきがさうざうしきに、わが子を尋ね出でたると人には知らせて』と、そのかみよりのたまふなり。

「いやあ、私は数ならぬ者ですが、殿も御前近くに召し使ってくださいますので、何かの折ごとに、『(玉鬘は)どうなっておしまいになったでしょう』と話題にしたりするのですが、それをお聞きとめになって、『私は何とかお探ししたいと思っているのだが、もし何かお聞きするようなことがあったら』とおっしゃるのです」と言うと「大臣の君は、立派な方でいらっしゃるとしても、れっきとした高貴な奥様方がいらっしゃると聞いています。まず、実の親でいらっしゃる大臣にお知らせ申し上げてください」などと言うので、ことのいきさつなどを話し出して「ほんとうに忘れられず悲しいこととお思いになって、『あの人の代わりにお世話申しあげたい。子も少ないのが物足りないので、わが子を探し出したと世間には知らせて』と、あのころからおっしゃっているのです。

右近は常日頃から玉鬘のことを口に出したりしていて、そうすると光源氏は何とか探し出したいとおっしゃっている、と伝えます。乳母は光源氏のところに行くよりも、まずは実の父に会わせたいと主張するのです。そこで右近は「ことのいきさつ」、つまり、光源氏と夕顔の出会いや夕顔の最期のことなどを話して、以下に光源氏が玉鬘を必死に探しているかを語ります。

心の幼かりけることは、よろづにものつつましかりしほどにて、え尋ねても聞こえで過ごししほどに、少弐になりたまへるよしは、御名にて知りにき。まかり申しに、殿に参りたまへりし日、ほの見たてまつりしかども、え聞こえで止みにき。さりとも、姫君をば、かのありし夕顔の五条にぞとどめたてまつりたまへらむとぞ思ひし。あな、いみじや。田舎人にておはしまさましよ」など、うち語らひつつ、日一日、昔物語、念誦などしつつ。

私の考えが幼かったのは、何かと胸に収めておきたかった頃で、お探しすることもできずにいたのですが、少弐になられたことは、お名前で知ったのです。赴任のご挨拶に、殿(二条院)に参上なさった日、わずかにお姿を拝見したのですが、何も申し上げられずに終わったのです。そうはいっても、姫君はあの夕顔の五条の宿りにお残し申し上げなさったのだろうと思っていました。ああ、たいへんなこと。田舎人としてお暮らしになりそうだったとは」などと話し合いながら、一日中、昔の話をしたり、念誦をしたりして・・。

右近は、あの出来事に関与したのが自分だけだという後ろめたさもあったのでしょう、自分の胸ひとつに納めておきたいと思ったことがあったのです。かろうじて接点があったのは、乳母の夫が太宰少弐になって、少弐が光源氏にいとまごいのあいさつに来たときでした。しかしその時もついに何も言えずじまいだったのです。玉鬘は五条の家に残していただろう、というのは右近の希望的観測に過ぎないでしょう。それにしても、まさか大夫監の妻になって田舎で生涯を送ることになりそうだったとは、右近にしても驚きだったようです。

参り集(つど)ふ人のありさまども、見下(みくだ)さるる方なり。前より行く水をば、初瀬川といふなりけり。右近、
「ふたもとの杉のたちどを訪ねずは
  ふる川のべに君を見ましや
うれしき瀬にも」と聞こゆ。
  初瀬川はやくのことは知らねども
  今日の逢ふ瀬に身さへ流れぬ
と、うち泣きておはするさま、いとめやすし。


参詣のために集まる人たちのようすを、見下ろせるところである。前を流れて行く川を初瀬川というのであった。右近、
「二本の杉の立っているところを訪
ねなかったら古川のほとりであな
たにお会いできたでしょうか。
うれしき瀬にも」と申し上げる。
  流れのはやい初瀬川を前にして、
昔のことは知りませんが、今日あ
なたとお会いしたことで、我が身
が流れ、いえ、つい泣かれてしま
いました。
と、少し泣いていらっしゃるようすは見た目がとても美しい。


外を見ると、初瀬川が流れています。右近の歌は「初瀬川古川の辺(へ)に二本(ふたもと)ある杉年を経てまたもあひ見む二本の杉」(『古今和歌集』旋頭歌)を下敷きにしています。旋頭歌は5・7・7・5・7・7という句から成る歌です。この長谷に来たからこそあなたに会えたのだ、というのです。「ふたもとの杉」は『源氏物語』「手習」巻で、浮舟が尼から長谷寺に誘われてそれを断るのに「はかなくて世に古川のうき瀬には訪ねも行かじふたもとの杉」と詠んだ例もあります。「うれしき瀬にも」は「祈りつつ頼みぞわたる初瀬川うれしき瀬にも流れあふやと」(『古今和歌六帖』・川)によります。次の歌は玉鬘の返歌です。
「初瀬川はやく」は頭韻も美しく、また「はやく」は流れの速さを言いつつ、「以前のこと」「昔のこと」を導きます。そして、あなたが「うれしき瀬」とおっしゃるように、「今日の逢ふ瀬」があって、流れの速さのために身が流れるかのように「泣かれる」というのです。相手の歌に応じつつ、見事に返した歌だと言えるでしょう。

容貌(かたち)はいとかくめでたくきよげながら、田舎び、こちごちしうおはせましかば、いかに玉の瑕ならまし。いで、あはれ、いかでかく生ひ出でたまひけむ、と、おとどをうれしく思ふ。母君は、ただいと若やかにおほどかにて、やはやはとぞ、たをやぎたまへりし。これは気高く、もてなしなど恥づかしげに、よしめきたまへり。筑紫を心にくく思ひなすに、皆、見し人は里びにたるに、心得がたくなむ。暮るれば、御堂に上りて、またの日も行なひ暮らしたまふ。

容貌はこのようにとても美しいけれども、田舎びて、ごつごつした感じでいらっしゃっていたらどれほど玉の瑕だっただろうか。いで、ああ、どうしてこんなに(すばらしく)ご成長になったのだろう、と、(育ててくれた)乳母殿をうれしく思う。母君(夕顔)は、ただめっぽう若々しておっとりとして、やわらかくなよなよとしていらっしゃった。この方は気高く、ふるまいなどはこちらが恥ずかしくなるほどで、気品がおありでいらっしゃる。筑紫をおくゆかしいところだと思ってみるのだが、他のこれまでに出会った人は皆、田舎びているので、合点がいかないのである。日が暮れると、御堂に上って、次の日も一日中勤行なさる。

見た目の美しさに反して、もし気品のない人であったらさぞかし興ざめすることでしょう。ところが歌の詠みぶりと言い、その姿態と言い、まったく非の打ちどころのないようすに、右近は感心します。「こちごちし」は「骨々し」でごつごつして洗練されていないようすを言います。そしてここまで育ててくれた乳母に感謝の気持ちも持つのです。夕顔はただただなよなよとしているような感じでしたが、娘の玉鬘はいかにも名門の人らしい様子が感じられるのです。筑紫というところはきっとこういう人を育てる土地柄なのだろうと考えてみるのですが、ほかの筑紫育ちの人でこういう人は見たことがないので、右近は不思議にさえ思っています。

秋風、谷より遥かに吹きのぼりて、いと肌寒きに、ものいとあはれなる心どもには、よろづ思ひ続けられて、人並々ならむこともありがたきことと思ひ沈みつるを、この人の物語のついでに、父大臣の御ありさま、腹々の何ともあるまじき御子ども、皆ものめかしなしたてたまふを聞けば、かかる下草頼もしくぞ思しなりぬる。出づとても、かたみに宿る所も問ひ交はして、もしまた追ひ惑はしたらむ時と、あやふく思ひけり。右近が家は、六条の院近きわたりなりければ、ほど遠からで、言ひ交はすもたつき出で来ぬる心地しけり。

秋風が谷から遥かに吹き上げてきて、とても肌寒いのだが、なんとなくしみじみとした気持ちになっている人たちには、さまざまなことがつい思い続けられて、人並になることもむずかしいことだと鬱屈していたのだが、この人(右近)の話のついでに、父大臣のごようすや、さまざまな女性に生まれた特に何ということもないお子様方を、皆一人前にして出世させていらっしゃることを聞くと、こんな下草のような身でも頼もしくお思いになったのである。寺を出るときにも、お互いに宿る所も尋ね合って、ひょっとしてまた行方が分からなくなった時は、と、不安に思ったのであった。右近の家は、六条の院に近いあたりであったので、それほど遠くもなく、相談事をするにもよき手掛かりになったように思ったのである。

参籠も終えて、これまでの苦労が思い出された玉鬘一行の人たちは、内大臣がどんな人との間にできた子でも大事にしているようだという話を聴いて安心したのです。「かかる下草」以下は「思しなりぬる」と敬語がついていますので、主語は玉鬘なのでしょう。そこまでは筑紫の人たちすべての人の気持ちでしたが、突然主語が変わったようです。内大臣の子としては、女子に弘徽殿女御(母は、もとの右大臣の四の君。夕顔を威嚇した人)、雲居雁(母は、今は按察使大納言の北の方になっている人)があります。また男子には「少女」巻に五人の人物が挙がっています。とりあえずこの場は別れることになりますが、京の住まいについてお互いの居場所を教え合います。玉鬘は「九条に昔知れりける人の残りたりける」宿でした。一方右近は六条院から遠からぬところだということです。少し後の部分には「右近が里の五条」とあります。一条、二条あたりではかなり遠いのですが、五条、六条近辺なら九条からでもさほど遠くはありませんので、都合がよかったのです。こうして右近と玉鬘はひとまず別行動をとることになりました。

右近は、大殿に参りぬ。このことをかすめ聞こゆるついでもやとて、急ぐなりけり。御門引き入るるより、けはひことに広々として、まかで参りする車多くまよふ。数ならで立ち出づるも、まばゆき心地する玉の台(うてな)なり。その夜は御前にも参らで、思ひ臥したり。

右近は、大殿(六条院)に参上した。このことをそれとなく申し上げる機会はないかと思って急ぐのであった。御門から車を引き入れるとすぐに、あたりのようすが違っていて広々として、出入りする車が多くうろうろしている。ものの数に入らない身の上で出入りするのもまばゆい気持ちになる玉の台である。その夜は御前にも参上せずに、思案しながら横になった。

右近はさっそく六条院に入りました。何とかして玉鬘と出会ったことを伝える機会を見つけねばなりません。紋を入ると広々としているというのは二条院との違いでしょう。出入りする車もまだ戸惑っている様子です。おそらく六条院に慣れていないのでしょう。その夜はすぐに光源氏の御前には上がらず、さてどのようにお伝えしようかと考えながら、眠りについたのです。

またの日、昨夜(よべ)里より参れる上臈(じやうらふ)、若人(わかうど)どものなかに、取り分きて右近を召し出づれば、おもだたしくおぼゆ。大臣も御覧じて、「などか、里居(さとゐ)は久しくしつるぞ。例ならずや。まめ人の、引き違へ、こまがへるやうもありかし。をかしきことなどありつらむかし」など、例のむつかしう戯(たはぶ)れ事などのたまふ。「まかでて七日に過ぎはべりぬれど、をかしきことははべりがたくなむ。山踏(やまぶみ)しはべりて、あはれなる人をなむ見たまへつけたりし。「何人ぞ」と問ひたまふ。ふと聞こえ出でむも、まだ上に聞かせたてまつらで、取り分き申したらむを、のちに聞きたまうては、隔てきこえけりとや思さむ、など思ひ乱れて、「今聞こえさせはべらむ」とて、人々参れば聞こえさしつ。

翌日、昨夜里から参上した上臈、若い女房たちの中で、特に右近を召し出されたので、晴れがましく思われる。大臣(光源氏)も(右近を)御覧になって、「どうして長らく実家にいたのだ。いつもと違うではないか。まじめな者が、思いもかけず若返ることもあるのだな。さぞおもしろいことがあったのだろう」などと、例によって人を困らせるように冗談などをおっしゃる。「退出して七日が過ぎましたが、おもしろいことはなかなかないもので。山歩きをしまして、いたわしい人を見つけました。「どういう人だ」とお尋ねになる。いきなり申し上げるのも、まだ(紫の)上のお耳にも入れないで、殿にだけ申し上げたら、(紫の上が)あとになってお聞きになったら、分け隔てしたとお思いになるのではないか、などと思い悩んで、「そのうちに申し上げましょう」と言って、他の女房たちが参上したので最後までは申し上げなかった。

翌日になって、光源氏が里から戻ってきた女房が何人もいたのです。右近より身分の高い女房、若い女房などもいるのですが、光源氏はまず右近を召し出しました。それに対して右近は誇らしい気持ちになっています。こういうところも、女房たちの微妙な心理が描かれていると思います。光源氏は、右近に対して冗談を言いかけます。きまじめなお前が長らく戻ってこないということは、よほどいいことがあったのだろうな、というのです。この口吻からすると、いい男でもやってきたのか、と言っているようでもあります。右近は三十代後半ですから、普通に考えるとそういうことは考えにくいでしょう。そういう、厄介な問いかけに対して、右近は思わせぶりな返答をします。七日間(長谷まで行って帰り、現地で三日の参籠をした)そんないい話はないのですが、と言っておいて(こういうところは人生経験豊富な老練女房と言えるでしょう)、実は山に出かけていて、思いがけない心打たれるような人に会ったのです、とだけ言いました。おそらく光源氏は膝を乗り出したでしょう。しかし、右近は紫の上の女房です。こういうデリケートなことを光源氏にだけ耳打ちするようなことをしたらあとになってお叱りもあろうかと思います。だからといって紫の上の目の前で大きな声では言いにくいのです。そしてほかの女房たちが上がってきたので言いさしたままにしたのです。

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ロンドン・ナショナルギャラリー展(4) 

この展覧会では、「ひまわり」や「ヴァージナルの前に座る若い女性」がリーフレットに大きく取り上げられていました。その印象が強くてあまり注意を払っていなかったのですが(主催メディアは読売新聞なので、私は情報をあまり得ていませんでした)、第5室に当たる「スペイン絵画」の部屋もとても魅力的でした。ベラスケス「マルタとマリアの家のキリスト」はとてもおもしろい視点で描かれていました。ほかにもムリーリョ「窓枠に身を乗り出した農民の少年」「幼い洗礼者聖ヨハネと子羊」、ゴヤ「ウェリントン公爵」などがあって、特にムリーリョの「ヨハネ」の前ではしばし足が止まりました。子羊を抱えるようにしている幼いヨハネが描かれています。ラクダの皮衣を着て、足元には十字架の杖が置かれています。ヨハネのアトリビュートです。そしてヨハネは鑑賞者の方をとても魅力的な目で見つめています。魅入られそうになる、というのはこういうことだろうと感じました。
そして度肝を抜かれたのはエル・グレコ

    「神殿から商人を追い払うキリスト」

でした。以前エル・グレコ展で別の同題作品を観たことがありますが、まさか今回これに出会えるとは。エル・グレコはこのテーマでいくつも描いており、ワシントン・ナショナルギャラリー、ミネアポリス美術研究所、フリック・コレクション、バレス・フィサ・コレクション、サン・ヒネス聖堂などにあります。私が以前観たのはバレス・フィサ・コレクションのものです。あの時もとても印象的な絵だと思ったのですが、今回のロンドンの作品もまったく同じ構図ではありますが、新鮮な印象を持ちました。背景にわずかに「楽園追放」と「イサクの犠牲」の浮き彫りを見つけたのですが、これはエル・グレコのすべての「神殿から・・」に描かれているものでしょうか(調べてない!)。
「スペイン絵画」の部屋はとてもすてきでした。
第6室は「風景画とピクチャレスク」。ニコラ・プッサン「泉で足を洗う男のいる風景」、サルヴァトゥール・ローザ「道を尋ねる旅人のいる風景」、ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナー「ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス」(これについては後日書きます)など。
そして「フランス近代美術」の部屋。アンリ・ファンタン=ラトゥールといえば静物画が知られますが、今回は「ばらの籠」でした。私の好きな画家であるコローの絵は「西方より望むアヴィニョン」という小品でした。この絵は知りませんでした。ルノワールは「劇場にて」。舞台を見つめる少女の姿が美しいです。ドガの「バレエの踊り子」、モネの「睡蓮の池」、セザンヌ「ロザリオを持つ老女」、ピサロ「シデナムの並木道」など。
そして展示の掉尾を飾るのはヴィンセント・ファン・ゴッホの

    「ひまわり」

でした。ここも、そろそろ閉館時間が迫っているという事情もあったのでしょうが、閑散としていて、ゆっくり味わえました。「ひまわり」は全部で7つあって、そのうち一つは日本で焼失しましたので、今残っているのは6つ。そのうちのひとつをこうして独占して観ることができたのは感激でした。
すべてが日本初公開ということですが、これまでに写真や大塚国際美術館の展示などで何度も観たものがあり、かなり多くの作品に既視感があります。それでも初めてほんものを観る喜びは不思議に湧き出てくるものです。
この展覧会、やはり行ってよかったと思います。

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ロンドン・ナショナルギャラリー展(3) 

私が国立国際美術館に行った日は火曜日の夕方でした。SARS-Cov2(新型コロナウイルス)の蔓延のために、ほかの多くの美術館と同様、時間を区切って予約による入場者制限をしていました。入口と出口を明確に分けて、入口には職員さんが「こちらからお入りください」とか何とか、大きな身振りを交えて言っていたようです。あれをずっとやっているのは大変だろうと思いました。入り口を入ってすぐのところには、当然のようにアルコール消毒液。必ずそれを使ってくれと指示されます。
私は別枠で入れていただきましたので、予約なしの飛び込みでした。それだけに、入れるかどうかは、美術館に行かないとわかりません(予約でいっぱいになると入れないこともあるのだそうです)のでひやひやしていましたが、杞憂でした。「ゴッホの『ひまわり』が展示される」とあれば「立ち止まらずに歩きながらご覧ください!」などと言われるのではないかと思っていたのですが、まったくそんなことはなく、中に入ると閑散としていました。
入口近くのクリヴェッリ「聖エミディウスを伴う受胎告知」ではかなり長い時間観ていたのですが、その間、どなたも来られませんでした。クリヴェッリ作品があった部屋はルネサンス期の作品ばかりだったのですが、ボッティチェリ「聖ゼノビウス伝より初期の四場面」、ギルランダイオ「聖母子」、ティントレット「天の川の起源」などの作品があってびっくり。これでティツィアーノなんかがあれば最高だけどね、と思っていたら、ティツィアーノの

    「ノリ・メ・タンゲレ(私に触れるな)」

があって、思わず「ウォォ」と声をあげそうになるくらい興奮してしまいました(どんな作品が来ているのか、ほとんど知らずに行ったのがかえってよかったかもしれません)。復活したイエスがマグダラのマリアに言った言葉がラテン語でいうと「ノリ・メ・タンゲレ」でした。アンジェリコやコレッジョにも同じ題の絵があります。マグダラのマリアを描いたものにはジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルドの「マグダラのマリア」もありました。もっとも、私はこの画家を知りませんでしたが(^^;)。
次の部屋はオランダ絵画。ということは、もうレンブラントやフェルメールが観られるのかな、と思いつつ部屋に入るとこれまたガラガラでした。フェルメールの作品があれば人だかりができているはず、と思っていたのにそういう状態でしたから、別の部屋に特別に展示してあるのだろうと油断していました。ところが、なんと、人だかりなどまるでないところにフェルメール「ヴァ―ジナルの前に座る若い女性」(題名の表記は主催者による)があるではありませんか! これもたっぷり観賞することができました。フェルメールの中ではあまり高い評価を受ける作品ではありませんが、画中画の「取り持ち女」の存在などの寓意があり、また彼らしい青色もすてきな絵でした。美術的な価値云々はわかりませんが、私はけっこう好きな絵でした。ネットに出ている写真の鮮やかに過ぎるものよりも、ややくすんだ感じさえ受けた実物の方が見まさりすると感じました。
振り返るとそこにはレンブラントの

    「34歳の自画像」

がありました。「いかにもレンブラント」という、圧倒的な存在感でした。しかしここにも当然のように観客は立ち止まっておらず、おかげでゆっくり楽しめました。なんだか拍子抜けがするほどでした。ほかにもフランス・ハルス「扇を持つ女性」、ヤン・ステーン「農民一家の食事」などもありました。ヤン・ステーンというと「この親にしてこの子あり」のように乱痴気騒ぎを描いた諷刺的な絵が思い浮かぶのですが、今回のものは一見そうではありませんでした。食事の前に一家(両親、男児、女児)が敬虔な気持ちで祈りをささげているのかというと、それぞれの人たちのしていることがバラバラなのです。男児は鑑賞者に視線を向けて祈っているとは思えません。女児は手を合わせてはいるものの、じっと食べ物を観ています。画面下の犬に至ってはすでにペロペロと大きなボウルをなめています。両親はそれらに無関心であるかのように食事の支度をしています。油断のならない画家です。
三つ目の部屋は「ヴァン・ダイクとイギリス肖像画」。やはりイギリスの美術館の展示ですから、イギリスの作品は大事だと思います。トマス・ローレンス「シャーロット王妃」、ジョシュア・レノルズ「レディ・コーバーンと3人の息子」など。
次の部屋は18世紀の絵画。ロンギ「ヴェネツィアの占い師」、カナレット「イートン・カレッジ」などでした。

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ロンドン・ナショナルギャラリー展(2) 

昨年11月からおこなわれているロンドン・ナショナルギャラリー展は1月31日をもって終了しました。開幕のころ、私はかなり体調が悪くて、とても大阪まで出かけられる状態ではありませんでしたから、この展覧会は諦めていたのです。ところが少し調子が上向いたために色気が出てきました。そんな折に大坂では感染爆発の事態となり、またまた意気消沈。しかし、こんなことを繰り返しているよりも、精一杯対策をして出かけるのもいいのではないかと、平日の夕方に、予約状況を確認して出かけることにしました。
ナショナルギャラリーはロンドンのトラファルガー広場に面して建てられている美術館です。この美術館の所蔵品からすべて初来日になる61点がやってきました。
中に入るとすぐ左側に展示されていたのがカルロ・クリヴェッリの

    聖エミディウスを伴う受胎告知

でした。この絵は一度観てみたかったものです。先だって大塚国際美術館で「偽物」(悪く言っているつもりはありません)を観てきましたが、今度は「ほんもの」です。写真では到底味わえない質感があります。「受胎告知」はこれまでにもいくつかの名作を観てきましたが、クリヴェッリの絵はまた独特の面白さがあります。レオナルド・ダ・ヴィンチなどの「受胎告知」であれば大天使ガブリエルとマリアだけが描かれるのですが、この絵には司教の聖エミディウスが、大事な役目を持ってやってきたガブリエルと並んで町の模型を持っているほか、背景に何人もの人物が描かれています。1500年の時と空間を超えた、現代画の中に受胎告知のテーマをはめ込んだような絵です。
実は、この絵は

    アスコリ・プチェーノ

というローマ教皇領の街が自治権を得たときの記念に修道院の祭壇画として描かれたものとのことです。1482年の、まさに受胎告知の日に届いたニュースだったようです。約1500年の時は過ぎているにせよ、ガブリエルが受胎を告知したその同じ日にアスコリの街に自治の告知がなされたその両方の祝われるべきできごとが1枚の絵にこめられました。
絵の下には「LIBERTAS ECCLECIASTICA」という文字。「LIBERTAS」は「自由」、「ECCLECIASTICA」は「教会」を意味し、ローマ教皇シクストゥス4世によって街に自由が与えられたことをいうようです。その横に描かれる3つの紋章はアスコリの街、ローマ教皇、司教のものなのだとか。る聖エミディウスはこの町の守護聖人だそうです。
ガブリエルはマリアに受胎を告げており、マリアは受け入れのポーズをとっています。これだけなら型通りのものですから、むしろそれ以外のものがこの絵の魅力と言った方がよいのかもしれません。
孔雀は不死の象徴と言われます。手前に置かれているリンゴはやはりアダムとエヴァの禁断の木の実を思わせます。人間は堕落するのです。そしてその横にあるウリは贖罪の象徴なのだとか。
マリアの、向かって左側は閉ざされていて、これは彼女の純潔を意味します。そのわずかな穴から差し込む天上の光。精霊の象徴たる鳩が見えます。小さく描かれる人々には、いかにも町の人らしい人物のほか、僧侶が見えますし、法曹の人もいます。
ちょっと盛り過ぎじゃないかと思えるほどの高さ2メートル以上の魅力的な絵です。出会えてよかったです。

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ロンドン・ナショナルギャラリー展(1) 

一番頻繁だったころ、文楽に週3日通ったことがありました。私にしたら大散財でした(笑)。技芸員さんから「定期券買った方がいいんじゃないですか」とからかわれました。文楽に関わる仕事が終わり、聴力がさらに落ち込み、経済状態の悪化にとどめを刺されるようにして劇場から足が遠ざかるようになりました。
美術館は、私の場合こまめに足を運ぶのではなく、大きな展覧会に一度だけ出かけるという程度でしたが、それでも関西にいると京都、神戸、大阪、奈良などに立派な美術館がありますから、けっこう頻繁になりました。ところが、もっとも身近な神戸市立博物館や京都市美術館が改装のために長く休館になったため展覧会通いの回数がガクンと減りました。
そんな折のSARS-Cov2のパンデミックでした。
改装後の目玉展覧会であった神戸市立博物館のコート―ルド美術館展やボストン美術館展が中止になったのは痛恨と言ってもよいくらい残念でした。
徐々に展覧会や公演は行われるようになりましたが、美術館や劇場があるのは都会です。そこまで出るだけでもたいへんなのに、美術館でも劇場でもマスクが必須条件になってしまいました。それでなくても呼吸が安定しないのに、

    酸欠

に拍車をかけるようなものを着用してまで出かける意欲は失せてしまったのです。文楽は、それでも少し顔を出すことはありますが、美術館はかなりご無沙汰です。今は「混雑を避けるために」ということで、入館の予約をすることもあるらしく、思いついた時にふらりと出かけるということもしにくくなりました。最後に行ったのは、大塚国際美術館は別とすると、昨年2月に東京に行ったときに通った国立新美術館、東京都美術館、東京都立庭園美術館、山種美術館、東京国立博物館かもしれません。
この春、東京の国立西洋美術館で

    カラヴァッジョ

の「キリストの埋葬」などが観られるはず(実際は昨年の予定でしたが、今春に延期になっていました)だったのですが、これも中止になったそうです。(あたりまえのことですが)私はこれまでは写真でしか観たことがない絵です。もし事情が許せば多少無理をしてでも行きたいと思っていましたが、残念でした。しかし、このご時世、無理に開催するのはご法度というべきでしょう。下手に開催されて指をくわえているのなら、いっそ中止になってくれた方が諦めがついていいかもしれません(笑)。
そんな鬱屈した思いを抱いていたのですが、午後が空いた日があり、思い切って大阪の国立国際美術館に行ってきました。ロンドン・ナショナルギャラリー展でした。

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