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五代目竹本南部太夫さん 

思い出の太夫さんのおひとりに五代目竹本南部太夫師匠がいらっしゃくぃます。
ご本名は大盛二郎さん。大正五年(1916)のお生まれですから、四代目竹本津太夫師匠と同い年でいらっしゃいます。四代目の竹本南部太夫師匠に入門なさって二代目竹本越名太夫(初代越名太夫は師匠の四代目南部太夫の初名)として初舞台を踏まれました。
四代目南部太夫、二代目豊竹つばめ太夫(後の八代目竹本綱太夫)、豊竹小松太夫(後の四代目竹本越路太夫)、竹本津磨太夫、竹本叶美太夫、野澤勝平(後の二代目野澤喜左衛門)、六代目豊澤猿糸(後に歌舞伎の七代目豊竹岡太夫)、野澤勝芳(後の二代目野澤勝太郎)、野澤綱延(後の四代目野澤錦糸)、野澤勝之介とともに昭和十一年(1936)に

    新義座

を結成されて素浄瑠璃や乙女人形で巡業されました。
3年後に文楽座に復帰されて、戦後の昭和二十一年(1946)に師匠が亡くなり、四代目竹本織太夫(後の八代目竹本綱太夫)の門下になられました。昭和二十七年(1952)には五代目南部太夫を襲名され、昭和五十六年に九代目竹本文字太夫(後の七代目住太夫)と同時に切語りに昇進。そして昭和六十年(1985)に、まだ70歳になられる前に亡くなりました。
昔、文楽鑑賞教室では、技芸員の解説ではなく

    『映画 文楽』

を上映していました。
若き日の、というよりは少年時代の吉田簔太郎(今の勘十郎)さんが、桐竹紋十郎師匠の人形拵えをじっと見つめている映像がありました。簔太郎さんは丸坊主姿でした。
そして、太夫と三味線を紹介する場面では、野澤松之輔師匠のところに南部太夫師匠が稽古のお願いに行くという場面がありました。松之輔師匠が「こう語りなさい」とおっしゃると南部師匠は「はい」と素直に従ってお稽古を続けられます。その演目が『傾城阿波の鳴門』「順礼歌」で、南部師匠の見事なお声と節回しが今も脳裏に焼き付いています。やがてその語りに乗せて人形が登場するという演出の映画で、十郎兵衛を吉田玉昇さんがお遣いではなかったかと記憶しています。この映画は文楽劇場が開場してからもしばらく上映していたと思いますが、さすがに古くなりましたのでお蔵入りになりました。今観るとなかなか面白いと思いますが・・。
南部師匠というと、高い声の美しい

    艶もの語り

で、「順礼歌」のほか、『忠臣蔵』「一力茶屋」のおかる、『義経千本桜』「道行初音の旅」の静御前などが思い浮かびます。
文楽劇場の開場公演では「千本の道行」で、舞台に見事な花をお咲かせになりました。
『曽根崎心中』の「天満屋」を聴いた覚えもあります。これも堂島の退廃的ですらある美が感じられてとても色艶があったのを覚えています。『夏祭浪花鑑』「内本町道具屋」もわずかに覚えています。時代物の三段目などを語る方ではありませんでしたが、ああいう太夫さんはなかなか出てくるものではないように思います。
お弟子さんに竹本南都太夫、竹本南寿太夫(今の豊竹呂勢太夫)がいらっしゃいます。呂勢太夫さんがお継ぎになるという話も一時なかったわけではないようですが、南部太夫という名もせっかく五代まで続いたのですから、どなたかが名乗られたらいいのに、と思えてなりません。

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落ちているマスク 

昔は医療用のものというと「白」のイメージが強く、医者や看護師の服装も白衣というのが相場でした。しかし手術着は通常青色です。あれは手術中に血の色(赤)を見つめてしまうために、目をほかに移した時に手術着が白であれば血の残像で青っぽく見えてしまうのだそうで、それでは混乱して集中できないために青い色にしているのだとか。また、赤は興奮作用のある色ですから、落ち着ける意味でも周りの色は青の方がいいのだとか。手術室の壁の色も青にしているところがあるとも聞きます。私は何度も手術室にはお世話になっていますが、ほぼ意識がない状態で入っているためによくわかっていません。
それでもやはり医療の世界では白は基本の色でしょう。マスクも白が基本でした。白は汚れが目立ちますから、清潔が重要なマスクには重要なことのように思えます。
ところが最近は

    カラフル

と言ってもいいくらいいろんなマスクが出回っているようです。お召し物やアクセサリーと色をコーディネートなさる方もあるくらいで、おしゃれに縁のない私の目から見ると驚嘆するくらいです。ああいうのは何度も洗ってお使いになるものなのでしょうね。私が使っているマスクはごく普通の、ひとつ15円くらいの白い不織布製のものだけですが。
そんなマスクではありますが、最近しばしば道に落ちているのを見かけるようになりました。あれはなぜ落ちているのでしょうか。何かの事情で外した瞬間に落ちてしまってそれが放置されているのでしょうか。まさかいらなくなったからポイ捨てするというわけではないでしょう。いずれにしても落とした人は無責任ではないでしょうか。空き缶やたばこの

    ポイ捨て

はけしからん、と言われますが、マスクはポイ捨て状態になってもかまわないのでしょうか。空き缶もたばこもマスクも、人の顔、特に口に接したものですから、他人にとってはすべて同じように不潔感があります。だから、仮にゴミ箱のすぐそばに落ちていたとしても拾って捨てようという気にはならないでしょう。まして今のご時世であれば、そのマスクにウイルスが付着している可能性はゼロではないわけですから。
私はまだ落とした経験はないのですが、もし落としたらやはり自分で処理しようと思います。しかし他人のマスクが落ちていた場合、どうしてもそれを拾って捨ててやろうという勇気が持てないでいます。
ところで、落ちているマスクは決まって白です。それも、どうみてもひとつ15円くらいの使い捨て不織布マスクです。まあ、そうでしょうねぇ。

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「国」って何? 

「マイナンバーカードを作ってください」という政府広報がFacebookに登場してきました。「作った」「作る気になった」「作るつもりはない」など、このカードについての対応はそれぞれの方でさまざまだと思いますが、それについては、今は置いておきます。
この動画には人気俳優さんらしき人が登場して、ディスタンスを保ったマスク姿の(笑)人たちに向かって、あまり人気のないカードについての政府の言い分を代弁していました。そこではこんなことを言っていました。

  「なぜ国は(カードを)作ったのか」
  「国に聞いてわかりました」
  「このカードがあるのは
       国のためじゃない」


私が気になったのは、ここでいう「国」って何なのか、ということです。
カードを作ったのは「国」なのでしょうか。「『国』に聞いた」というのは具体的にどなたにお聞きになったのでしょうか。「国民のためであって国のためじゃない」という理屈は変ではないですか?
政府の広報なのですから、おそらく「国」=「政府」のつもりなのでしょう。仮に、ほんとうにこの方がお聞きになったとするなら、それは「政府(または担当省庁)の担当者」でしょう。しかしいつから「政府」は「国」になったのでしょうか。
今ここで言っていることはおそらく些末なことなのだと思います。また、便宜的に地方自治体に対して政府を「国」と呼ぶことがあることもわかります。それでも私は政府がこういう発想をすることはよくないと思っています。
ヴォルテールの『ルイ14世の時代』によれば、太陽王ことルイ14世は

 朕は国家なり(レタ・セ・モア)

と言い放ったと伝わります。史実かどうかはともかく、絶対王政のフランスならありえそうな話です。今の日本は「政府は国家なり」なのでしょうか。
権力というのはこうやって傲慢になっていくのではないかと危惧を覚えます。前の総理大臣など、自分は一国の主だと言わんばかりの態度でものを言っていました(少なくとも私にはそう思えました)。桜を見る会はさながら天皇の園遊会で、彼は自慢げに国王然としていました(少なくとも私にはそう見えました)。そのうちに国会の答弁で「朕は・・」と言い出すのではないかと思ったほどです。『妹背山婦女庭訓』の「太宰館」における入鹿のような感じです。
先の政府広報は、あのような台詞にするのが簡便だったのかもしれません。また、こんなことを気にする人は世界広しといえども私一人だけかもしれません。それでも私は言葉遣いをもう少し考えてもらいたい、と思っています。

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零式艦上戦闘機 

先日、街歩きのついでにあるお寺に行きました。古刹ではなく、有名なお寺というほどでもありません。
阪神淡路大震災でかなりひどい被害を受けたのだそうですが、そのダメージを感じさせないほどきれいに復興していました。境内にはどなたもいらっしゃらず、ひとりでぶらぶらしていました。
そこには関西の俳人である

    岡田指月

の句碑がありました。指月こと岡田幾(いく)女史は旧武庫郡良元村の村長をなさった方で、女性が自治体首長になったのは兵庫県では初めてだったとか。女性の俳人村長さん!
今は、文化を知らない、字もまともに書けない、哲学もない、口先だけの法律家あたりがしばしば政治の世界で幅を利かせていますが、岡田さんのような文人首長と果たしてどちらがいいのでしょうか。
指月の句碑に書かれていたのは「無為といふたゞそれのみや霜の聲」と読めました。
このお寺には変わったものがありました。それは第二次世界大戦で「活躍」した零式艦上戦闘機、いわゆる「ゼロ戦」の実物大模型でした。「お寺に戦闘機?」と思ってそのわけを調べたら、このお寺では「全国陸海空戦没者250万の英霊を祀る」のだそうです。
私は、(おもに保守系の)政治家が戦争犠牲者の慰霊をするときに

    英霊

という言葉を使うのがかねてから気になっていました。いや、気になっていたというより、嫌いな言葉なのです。「国のために命をささげてくれた勇敢な人たち」と言いたいのでしょうが、戦争はそんなきれいごとではないと思います。戦争犠牲者というのは、国のために、もっと具体的に言うと、時の権力者のために命を奪われた人たちなのではないか、そう思うと、「英霊」などという美化した表現は権力者の都合のいい表現にすら思えてなりません。もちろん、今の政治家が戦争を始めたわけではありません。しかし、歴史を繙けばいつの時代も権力を誇示する者が

    罪もない人たち

を殺してきたのではないでしょうか。私はそういう思いが拭えなくて、今でも戦国時代やその時代の武将などが好きになれず、実は武将の名前もあまりよく覚えていないのです。『本朝二十四孝』『絵本太功記』『鎌倉三代記』『祇園祭禮信仰記』等々、文楽の世界にはいくらでも戦国武将が出てきますから、これで文楽愛好家といえるのだろうかと我ながら疑問に思うくらいです。今の政治家が始めたわけではないという理屈は、だから今後も権力者は戦争をしようなどとは言わないと保証してくれるものではないように思います。
このお寺には何の恨みもありませんが、あのゼロ戦はいささか趣味が悪いように思えてなりません。

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薄紙をはぐように 

最近は自筆で字を書かなくなっていることもあって、言葉や文字を間違って覚えがちのような気がします。
漢字など、パソコンで正しく変換してくれます(私はよく誤変換をしますが)から、覚えなくても、あるいは細かいところまではっきりと覚えなくても、何とかなることが多いのです。それで、いざ書きなさいと言われると「どうだったかな?」ということになってしまうのです。『源氏物語』を『原子物語』『源子物語』と書く学生さんがとても多かったのがひとつの例です。『原子物語』って、物理学か何かの話かと思ってしまいます。
言葉も、日常生活では前後の文脈によって想像できますから、発音が多少違っていても何となく通じることがあります。「あの人は大食漢で、放っておいたら

    永遠と

食べ続ける」などと書く人(若い人とは限りません)がけっこう多いのです。もちろん正しくは「延々と」です。たしかに発音は似ていますし、「永遠」も「いつまでも」の意味ですから、本人も間違っているとは思わないのです。パソコンで「えいえんとたべている」と打って変換してみると「永遠と食べている」と出てきますから、まったく正しいと思ってもしかたがないのかもしれません。
腰の痛みが毎日少しずつ好転していきました。昨日は痛くてできなかったことが、今日はできた、というように、ほんのわずかなことなのですが確実に回復していることを感じました。具体的に言いますと、座った姿勢から立ち上がる時、太ももに手を置いて少しずつ足の付け根に移動させながらその力によって立っていたのが、数日すると手は置いたままですがすっと立ち上がれるようになり、さらに手を置かなくても立てるようになる、という具合です。このようにキズや病気が日々少しずつ良くなっていくことを

    薄紙をはぐように

と言います。しかしこれもしばしば「薄皮をはぐように」と言い間違えられたり書き間違えられたりするようです。薄皮をはいだら痛いと思うのですが、確かによく似ていますので間違えてしまうのでしょう。また、「皮」は人体に関わるものですし、「紙」はそうではありませんから、つい「薄皮」と言ってしまうのかもしれません。
というわけで、腰痛に苦しめられましたが、どうやら日々回復してほぼ自由に歩けるようになりました。

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冷や水 

ちょっと調子に乗り過ぎたかもしれません。
呼吸器の状態の悪い時は歩くことすらままならないため、このところ調子が悪くないのでついしっかり歩いておこうと考えていました。ずいぶん長らく歩かない日が続いたので、足の筋力がかなり衰えたように感じていたのです。大腿四頭筋とかハムストリングスなどがどうもポヨンと(笑)しているようで、しまりがないなと思っていたのです。何も筋骨隆々を目指しているわけではないのですが、いくらか強くしておかないと、からだ全体の衰えにつながるような意識もありました。
それで、とにかく歩くようにしました。これなら天気さえよければいつでも手軽にできますし、田舎住まいのメリットとして交通事故にあまり神経を使わなくても済むのです。いろんな説があって、1日8000歩くらいで十分だとか、その半分くらいでもいいとか、あれこれおっしゃる方があって、どれが正しいのやらわかりません。それでともかくよく言われる

    1日1万歩

をめどに歩くことにしたのです。最初のころはなかなかそこまで行かなかったのですが、街道を歩くようにし始めると江戸時代の人になったようにいくらでも歩けそうな気になって、そのうちに軽く1万歩を超えるようになりました。
もうひとつ、足の筋肉を鍛えるためにスクワットを始めました。これは短時間でできるものでありながら、かなり筋肉を使うようで、いい運動になるようです。そのほかにも上半身の筋肉のためには鉄アレイを用いたりもしました。しかしあまりにもあれこれやろうとし過ぎたことが悪かったのか(何とかの冷や水とも言いますし)、それに他の理由も重なったこともあってか、ついに

    腰痛

を発症してしまいました。ほかの理由というのは、かなり重いものを一人で動かして腰に負担をかけたことと、膝を打ってそこをかばうように歩いたことなどです。
腰痛というと、パソコンを使い始めた30年ほど前に夢中になり過ぎて朝から晩までデータを入れているうちに腰に異変が生じたことがありました。今回はそういうことが原因ではなかったのですが、痛みに関しては、同じようなつらさがあります。
これからも、なにごともほどほどに(笑)、しかし継続して運動はしていきたいと思っています。

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吉田修一さん 

私は現代文学をあまり知りません。特に芥川賞作家(言い換えると「純文学」の人)があまり得意ではなく、敬遠しがちです。私の頭には概して難しすぎるのです。ですから、芥川賞作家の名前もあまり知りません。
そんなありさまなのですが、去年の秋ごろ、仕事上の都合で吉田修一さんのエッセーを読まねばならなくなり、2、3冊でしたがざっと読みました。それはそれで終わったのですが、せっかく接した作家なので、何か小説も読んでみようかという気になっていました。そこで思い出したのが、以前吉田さんが新聞に連載されていた歌舞伎役者の物語である

    国宝

でした。私は新聞連載の小説を毎日読むという習慣がなくて、後日加筆、出版されたものなら何度か読んだことがあります。この作品も連載中から気にはなっていたのですが、そのときは読む気にはなりませんでした。しかし単行本として刊行されていますので、上下二巻の長いものですが、これなら歌舞伎の話でもあるし興味がもてるだろうと思ったのです。この人は山本周五郎賞も受賞しているちょっと変わり種でもあり、小難しいことばかり書く人ではなく、なかなかおもしろい作家だと気付くことができました。そこで、続いて2、3読んでみようかという気になったのです。
手許不如意であり、また本を新たに買うことはしなくなっていますので、作家の方には顔向けができないのですが、すべて図書館で借りています。
前述の『国宝』(上下)のあとは、芥川賞受賞作の『パーク・ライフ』のほか、『橋を渡る』『女たちは二度遊ぶ』

    『東京湾景』

『悪人』『静かな爆弾』『flowers』『初恋温泉』『春、バーニーズで』『7月24日通り』『逃亡小説集』『犯罪小説集』『ひなた』『愛に乱暴』などは読みました。もう少しあったかもしれませんが忘れました(笑)。
推理やSFの要素も入り、長崎出身の人らしくご当地関連の話もしばしば登場し、九州弁がいい味を出しています。その一方で、しゃれた都会的なセンスに溢れた作品もあります。
評価が高いのはどの作品なのかは知らないのですが、私は先ほど大文字にした『東京湾景』を一番楽しく読みました。そのあとは『悪人』『パークライフ』『7月24日通り』『国宝』『初恋温泉』と続きます。
まだ図書館には5、6冊はあったと思いますので、ここまで来たら借りられるものは全部読んでしまおうかと思っています。

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庚申信仰 

街道歩きをしていると、祠にしばしば出会います。意識して旧街道を歩いていると、これまでいかに見落としていたかがよくわかりました。こんなにも多く残っているのか、というのが正直な気持ちです。ただ、阪神大震災がありましたから、それでいくらかはなくなったのではないかと思わないでもないのです。明らかに道標であったと思われるものがほぼ半分になって残されているものを見たことがあり、こういうものもひょっとすると震災で崩れたものかもしれません。
さて、祠の中をのぞくと、明らかに地蔵菩薩とわかるものが多くあります。それ以外に、なにやら石の塊のようなものが置かれているだけのこともあります。道祖神(どうそじん。さへのかみ)なのかとも思われます。それ以外にも石に「青面金剛」と彫られたものもありました。これは

    庚申信仰

の本尊である青面金剛(明王)のことです。
中国の道教の考え方で、人間のからだの中には三尸(さんし。上尸、中尸、下尸の三つ)という虫がいるとされます。庚申の日(60日に一度巡ってきます)に眠るとこの虫が体から出てきて天帝にその人物の悪事を伝えて寿命が縮むと言われています。そこで庚申の夜は徹夜をする習慣がありました。
一人で起きているのは大変ですから、平安時代の貴族であれば、この夜には歌合をしたりしました。今ならきっとゲームとかカラオケでしょうね(笑)。
この考え方が庶民にも広がって次第に姿を変えていき、人々が集まって宴会のようなこともしたようです。そして仏教と結びついた結果本尊とされた青面金剛が祀られるようになり、庚申塔、庚申堂などができました。「申」の字の縁からか、猿との結びつきも起こり、神道では猿田彦神が祀られます。そのために「見ざる言わざる聞かざる」のいわゆる

    三猿

も庚申塔に造られることも珍しくありません。京都市金剛寺の庚申堂(八坂庚申堂)の「くくり猿」は有名になりましたが、ここにも「三猿」があちこちにあります。
その庚申塔(庚申塚)を祀る祠もあります。私がこのたび見た二つの庚申塔はどちらも石に「青面金剛」の文字が書かれたものでした。多くの場合は青面金剛の像を彫り出したもの、猿の姿(三猿など)が彫り出されたもの(青面金剛像と三猿像がひとつの塔に彫られることも多い)、「庚申(塔)」の文字が彫られたものだと思います。もちろん「青面金剛」の文字の例はほかにもいくつもあります。
こういうところにも昔の人々の息遣いのようなものが感じられておもしろいと思います。

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膝の負傷 

都会の人は雪が降ったあとの道ですぐころぶ、という話を聞きます。なにしろ慣れていませんから、履物も底のつるっとしたもので、雪で凍った道を歩こうとしたりします。その結果滑って転ぶのです。私はこれまでそういう経験はありませんが、うかつにも雨のあとの道でやらかしてしまいました。
三月初めの雨の日でした。午前中はずっと家に閉じこもっていたのですが、午後からやんだので少し出歩きました。最近の道はうまくできていて、アスファルトでも昔のように雨水がたまることなくうまくしみ込んでいったりします。うまい具合にでこぼこもあって、滑らないようにもなっています。雪ならば凍りますから気を付けるのですが、雨の場合は油断してしまいます。
私は車の接近が異常に怖いのです。なにしろ、後ろから突然からだのすぐ横をすり抜けていく車(自転車なども)があって、運転している人は余裕を持っているのでしょうが、私はどきっとして

    冷や汗

が出るくらいなのです。ですから、しょっちゅう後ろを振り返って歩いているのですが、やはり油断してしまうこともあります。一番怖いのは、狭い道に車が停車していて、別の車がそれをよけようとして右側に寄ってくる場合です。ちょうど私がその位置にいると、ほんとうにすれすれのところを車が疾走していきます。電車でも、まだまだホームドアは少ないですから、特急の通過する駅にいてうっかりしていると猛スピードで電車がすぐわきを通り抜けることがあります。あれはほんとうに心臓によくないです。最近は絶対にホームのそばには立たないようにしています。
さて、雨の日の午後です。前から車が来たものですから、反射的によけようとして右足を一歩右横に踏み出しました。そこはある家の門の前だったのですが、道路とは違ってツルツルに磨かれた石で造られていました。
右足のごく一部がそこに着地した瞬間、横に滑り、止めようのない勢いでそのまま右方向に滑っていきました。手をつけば助かったのかもしれませんが、あいにく大きなものを持っていたため、タイミングが遅れ、左の膝を地面に打ち付けるような形になりました。
目から

    

が出るような、というのはこのことです。痛いなんていうものではありませんでした。血が出た、いや、内出血か、ひょっとすると骨が折れたかも。瞬時にそういうことが思い浮かびました。もう薄暗かったので、とにかく鬼界が島の俊寛よろしく足を引きずって家にたどり着き、おそるおそる膝を見てみました。幸い出血しておらず、内出血の様子もありません。あれだけゴツンと打ったにしては不幸中の幸いです。しかし階段を上り下りすることはできず、歩くのも憂鬱。スクワットは当分無理だろうと思いました。
効果のほどはわかりませんが、とりあえず冷やして湿布していると少し楽になりました。そして、翌日の夕方、少し居眠りしたらその間に一気に楽になって、結局その夜もスクワットは普通にできて、階段もほとんど不自由なく昇降できるようになりました。
今回はたまたま大けがにはなりませんでしたが、気をつけないと今後はどうなるかわかりません。小さなけがは自らへの警告の意味で時として必要なのかもしれません。

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スクワット(2) 

5秒で身体を下げて2~3秒停止するのでおおむね1回8秒くらいのスクワットをしています。これを10回繰り返してしばらく休みまた10回、また休んでから10回です。1分半くらい運動して30秒くらい休んで、また1分半、30秒、そして最後に1分半ですから、運動時間は10分もかかりません。それでも終わるとフ―ッと長い息が出ます。
身体を下げた時の姿勢になって、ふくらはぎ、太もも、臀部、背中などを触ると、どこもかしこもかたくなっていることがわかります。それだけ筋肉を使っているということでしょうね。これを継続すると

    筋肉量

が増えるのだそうで、その結果として代謝のよいからだになるといわれます。
なんでも、筋肉を動かすことによって細胞内のグリコーゲンが消費され、何とかそれを補給しようとして血の中にあるブドウ糖が用いられて血糖値も下がるのだそうです。私は特に血糖値に問題があると言われたことはありませんが、今度そうならないためにもいいかもしれない、と思っています。
代謝がよくなると、同じエネルギーを取り入れても消費の度合いが違うので太りにくくなるのだと思います。思います、っていいかげんですが、なにしろ医学的なことはさっぱりわかりませんので受け売りばかりです。
もし効果があるものならどうしても毎日何度もやりたくなるのですが、それはあまりよくないのだそうです。

    安静にしている時間

が大事で、この時間帯に筋肉が造られるのだそうで、そのために、48時間から72時間ほど開けるのがいいのだそうです。ですから、2日に1回で、7日目も休むとおおむねその時間を守ることになります。というわけで、私は月・水・金の課題にしています。
また、姿勢をきちんとしないとよくないということで、これもかなり意識しています。もし続けられそうだったら、負荷を強めることも考えるといいようで、たとえばバーベルをかついでおこなうなど。もっとも私はバーベルなんて持っていませんから、せいぜい小さなアレイくらいです。
何か効果を感じられたらまたご報告しますが、黙っていたらあまり効果がなかったと思ってください(笑)。

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スクワット(1) 

薬の副作用で脂肪が付きやすくなってずいぶんの年月になります。また、さほど多くのカロリーを摂取しているわけではないと思うのですがさすがに昔と比べるとエネルギーの消費量が減ってきているのか、その意味でも脂肪は付きやすいのだろうと思います。
今さらスタイルなんて気にするほどのことはないのですが、健康上の問題としては看過できず、あまり太らないようにという意識を持っています。そのためには摂取カロリーを減らす、運動して消費カロリーを増やす、もうひとつは筋肉をつけて代謝をあげる、というあたりでしょうか。
摂取カロリーはあまり減らすわけにもいかず運動はウォーキングをしていますが、いわゆる

    有酸素運動

は熱心に繰り返すと少ないエネルギーでできるようになるため、相当運動量を増やさねばならないのだそうです。
そこで登場するのが筋トレです。無酸素運動は短時間にエネルギーを消費するため、代謝があがり、痩せやすい体質になるそうです。痩せることは目的ではなく、無駄な脂肪を増やさないことを目的に少しずつ筋トレをするようにしています。といっても、スイミングやジムに行って立派な器具を使うような余裕はありませんから、ダンベルで腕や胸を鍛えるのと、もうひとつは

    スクワット

です。本来の意味は「しゃがむ」ことですが、運動用語としては下半身の筋肉を鍛える意味があります。
スクワットなら費用はゼロ(笑)ですので、私にはうってつけです。しかしこれがなかなかたいへんです。最初は簡単そうだと思っていたのですが、なまやさしいものではありませんでした。
私が試みているのは、両手を前に突き出して五秒で腰を落として太ももを床と平行になる位置まで下げて2~3秒そのままの姿勢でとどまり、そのあとすっと立ち上がる、というものです。これを10回・休憩30秒・10回・休憩30秒。10回の合計30回繰り返します。7日間で3日くらいの見当でこれを続けるのです。最初はきつくて30回なんてとてもできませんでした。筋肉がだるくなるだけでなく、呼吸も荒くなり、私にとってはけっこう厳しい運動で、これは長続きしそうにないと思いました。しかし2回目からは30回何とかできるようになりました。ところがその翌日には主に太もものあたりの筋肉痛がかなりのものでした。それでも、苦しいからこその爽快な気分も味わっています。せっかく始めたのでしばらく頑張ろうと思って、今は月、水、金の3日間実行しています。

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酸素飽和度 

Oxygen saturationという医学用語があります。「酸素飽和度」という意味で、サチュレーションと簡単に言うこともあります。赤血球のヘモグロビンのうち酸素と結合しているもの(酸化ヘモグロビン)がどれくらいあるかをパーセンテージで示すもので、それによって動脈血の中にどれほど酸素が含まれているかがわかるというのです。
以前は動脈に注射器を刺して実際に動脈血を採取してそれを検査室に持って行って調べていたのです。私も何度もそれをされました。あれは嫌なものです。からっぽの注射器を、手首の動脈めがけて垂直に刺して、うまく刺さると押し子の部分が勝手に上がっていってシリンダー内に血が入っていきます。動脈血ですから鮮やかな色です。ところが時には失敗することもあって、医者が「ごめん、もう一回」ということもありました。その際は反対側の手に行きます。それでも失敗すると「またあとで」ということもあり、足の付け根から採ることもありました。採血すると、静脈とはわけが違いますから、そこをしばらく強く圧迫しておかないと血が噴き出します。「10分ほど押さえていてください」と言われました。でもそうそうじっとはしていられず、少し動きます。そうなるとあとで腕が青あざ状態になります。
今はそういうことはしないのです。その値を簡単に教えてくれる機器に

    パルスオキシメーター

が普及したからです。こちらはゆるい洗濯ばさみのようなものを指に挟むようにして電源を入れるとまもなく数値が表示されます。実に簡単で痛くも何ともありません。
採血して測って得られた数値はSaO2(「2」は「O」の下付き)、パルスオキシメーターで測ったものは「経皮的」(percutaneous)ですのでSpO2と言うこともあります。SaO2とSpO2の数値は当然ながらほぼ同じです。血液を検査室に持って行く必要もなく、何よりも痛い思いをしなくて済むのですから、パルスオキシメーターのほうがいいに決まっています(笑)。
さてその数値なのですが、96%以上であれば問題なく、95%を下回るとやや苦しい感じ、90%を切ると呼吸不全の可能性があるのだそうです。数年前に、看護学の学生さんが実習でお互いのSpO2を測ったら、みんな97~99だったと言っていました。そりゃ元気ですからね。
昨年秋ごろの私は92~93%くらいで、あまり長い距離を歩くのは苦痛で、のぼりの階段や坂道を目の前にすると憂鬱な気分でした(実際、途中で立ち止まることが少なくありませんでした)。最近は96~98で、99が出たこともあります。以前は80%台で仕事をしていたこともありました。家から駅まで何度も休憩しながら歩き、坂道を登れませんからそこはバスを使い、部屋から教室に行くのも苦痛でした。これまで、最悪だった数字は78%で、

    「これはあかん!」

と医者が声を挙げるレベルでした。
この機器はsars-cov-2 virus(新型コロナウイルス)の蔓延で肺炎をおこす人が増えたこともあってさらによく知られるようになり、家庭で購入する人も増えてきました。私も購入を考えたのですが、いいものだと数万円しますので、結局あきらめました(^^;)。

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PEF 

Peak expiratory flow rateという医学の言葉があります。略して「PEF」。「expiratory」というのは「呼気の」という意味ですので、(瞬間)最大呼気速度、最大呼気流量などと訳されることがあります。肺活量とは違って、瞬間的にどれくらいの呼気があるのかを測るもので、これによって気道が狭くなっているかどうかがわかるという、気管支ぜんそくの管理に用いられる数値なのです。
この数値を測る機器が

    ピークフローメーター

と呼ばれるものです。機器といっても簡便なもので、軽くて手軽に持ち運びできます。値段もそんなに高いものではない(数千円)ので、患者が自宅に持っていて、その数値を毎日記録することで、今の状態を知り、また好転しているか悪化しているかなどの動きを知ることができるのです。折れ線グラフにすると一目瞭然です。
私はこれで毎日4回(起床時、昼、夕、就寝時)測定しています。だから私が外出するときにはカバンの中にこの機器が入っていますし、何かの集まりがあっても、時間が来たら「ちょっと失礼」と座を外しては測定したりしています。旅行に行くときも持って行きます。
身長と年齢と性別によって基準値があって、私の場合、だいたい

    650

くらいあればいいのです(単位はリットル/分)。
ふつう、この80%以上の数字が出れば全く問題ないグリーンゾーンとされています。私の場合は650×0.8=520以上の数字が必要になってきます。50~80%、つまり325~520の範囲はイエローゾーン。要注意ということです。そしてレッドゾーンは50%以下、つまり325以下です。
去年の秋あたりは400前後でしたのでややレッドに近いイエローゾーンでした。これまででもっとひどかったときは250程度ということがありました。これだと38%に過ぎず、危機的な状況でした。
最近は500~570くらいで、77~88%くらいですので、なんとかグリーンゾーンで、まあまあ問題ないというレベルです。少なくともこれを維持したいと思っています。

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パソコンは苦手 

パソコンが文字どおり「個人」の手に普及するようになってきたころから使っています。ワープロを使い始めたのも早かったのですが、パソコンも同業者の中では早い方だったと思います。当時はNECのN5200シリーズのもので、今思えばバカでかいものでした。
あのパソコンに、5.25インチフロッピーディスクというふにゃふにゃした媒体を入れて、当時頼まれていた仕事で膨大なデータを記憶させていました。こんなに多くのデータが入るのか、と感動したことを覚えています。
あのころは、まだワープロも使っていない人が多かく、私は普通の人以上に電子機器には詳しかったはずなのです。
その後、仕事場で各教員1台のパソコンが入るようになり、授業でも使われ、さまざまなアプリが開発されていきましたが、それでも私は何とかくらいついていたのです。しょっちゅう大型家電の店に行っては新しいソフトを眺めたりしていました。同僚の教員からは「使い方がわからないから

    教えてほしい」

としばしば言われたほどです。
いつぞや自費でちょっとした資料集を作ったことがあるのですが、あれはAccessを使いました。かなりの量でしたが、五十音順に並べるべくEnterキーを押したときに一瞬にして並んでくれるあの爽快さはなかなかのものでした。学科の魅力を受験生に伝えるリーフレットはPubilisherで作りました。その他、物珍しそうにいろんなことをして遊んでいたように思います。
ところが、いつしかそういう仕事がなくなったこともあって、興味も薄れ、また、パソコンに向き合ってばかりいるのでは時間がもったいないような気もして、最近ではほとんどワード、エクセル、パワーポイントくらいしか使っていません。何と言っても、人との交流がほとんどなくなりましたので、そんな機能があるのか、こういう場合どういう機能を使えばよいかなどと相談することもできず、結局は孤島に取り残された感じになっています。
ワード、エクセル、パワーポイントも、実のところあまり難しい機能は使っておらず、入門レベルで停まっています。特に

    エクセル

は恥ずかしいほど初歩的な使い方しかしていません。もっとも、言い訳めいているのですが、私の勉強の成果から言うとあまりエクセルのご厄介になることはない、という事情もあるのです。
そういうわけで、かつては「パソコンが得意」だったはずなのに、今や「パソコンは苦手」になってしまいました。

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今年の確定申告 

税金は納めるのが当然だと思います。それによって保護されているわけですから、義務だと思っています。ただし、税金を自分たちの収入であるかのようにふるまう政治家や役人に対しては強い怒りを覚えます。きちんと国民に返すのが当然だからです。おめぇらの飲み食いのために払ってんじゃねえよ、と、つい東京弁で言いたくなるくらいです。
とえらそうに言ったものの、私とて払わなくてもいいのであれば払いたくないのは間違いありません。いったん払ったものでも、こうすれば返します、と言われたら必死になって返してもらうように努力します。もっとも、今のところ方法はひとつしかなく、それは確定申告における医療費控除による還付です。
私は、

    低収入、高医療費

ですから、毎年福沢諭吉さんが返ってきます。何しろ、収入の約1割が実際に支払った医療費なのですから。
早速、今年もパソコンに向かいました。ここ数年は、医療費の領収書をかき集めなくても、どれくらい使ったかはわかるようになっていて、しかも以前のように領収書の束を税務署に送る必要はなくなりました。あんな領収書の束を送られても税務署も困るのではないかといつも思っていました。
領収書を送らないからと言って、1円としてごまかすことなく申告します。その辺は馬鹿正直の真骨頂です(笑)。パソコンへの入力も簡単で、計算などする必要はありません。かつて、電卓を横に置いて領収書の束と格闘して手書きしていた頃がうそのようです。あのころは計算をし直すとたいてい間違いを犯していて、2回くらい書き直していたように思います。
今年もまた

    嫌になるくらい

の医療費を払っていました。
戻ってくるお金はやはり福沢さんが含まれます。払いすぎているわけですからけっして儲かるわけではないのですが、何となくうれしい気持ちにもなります。でも実際のところ、もうこんなに医療費を使うことなく、今年はめでたく還付がありません、ということになればいいのですが・・。

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二代目豊竹小松太夫さん 

ちょっとしたことがあって、豊竹小松太夫さんのことを思い出していました。「小松太夫」の名は四代竹本越路太夫師匠の初名でした。越路師匠は小松、つばめを経て四代越路を名乗られました。
その越路師匠まだつばめ太夫でいらした1954年1月に入門されたのが小松さんでした。つばめ師匠の一番弟子です。ちょうどそのころ、つばめ師匠はご自身の名前替えのことが古靭太夫師匠から打診されていたのだそうです(『四代竹本越路太夫』による)。「十代目竹本染太夫」はどうか、と言われていたそうです。しかしつばめさんは「九代目が引退されてから五十年近く経って」いたこともあって「実感がない」からというので、もし名前を継がせてもらえるなら

    「古靭太夫」がほしい

とおっしゃったそうです。すごいですね。師匠を目の前にしてあなたの名前が継ぎたい、というのはよほどの自負がないと言えないでしょう。
そのころ、1953年の5月に入門したいと言われたのが二代目小松太夫さんでした。小松さんは、ご自身のご尊父が小柄で痩身な方だったそうで、つばめ師匠とイメージが重なったそうです。そして入門されるにあたっては豊澤猿二郎さんが「小出君(越路太夫の本名は小出清)と苦労しろ」と勧めてくださったそうです。「つばめ師匠は私生活にも厳しいからすぐにやめるだろう」とさえ言われたそうですが、小松さんはまったく苦にならなかったとおっしゃっています。入門の願いから許可まで時間がかかっているのは、給料が安くて生活できないかもしれないから、という心配がある時代だったからではないかと小松さんは回想されています。
その小松太夫さんのお声を思い出すと、とにかくよく伸びるお声で、無理なく高いところにも届いて、どんな場でも、どんな人物でも語れるすばらしい太夫さんだったと思います。当代呂太夫さんも絶賛されていました(『文楽 六代豊竹呂太夫』)
ひとつ思い出すことを書いておきます。『仮名手本忠臣蔵』の

    「身売り」

をなさったとき、のどかな田舎の風景が浮かぶとともにまだ夫が殺されたことを知らないおかるの母、売られていくおかる、抜け目のない一文字屋、うしろめたい思いの勘平をあの見事なお声で語り分けられ、ほんとうにすばらしいと思いました。その後も嶋太夫師匠と競わされるように役が当たり、必ずいつか小松・嶋の時代が来るという予感がありました。
ところが、まだお若いのにご病気をなさって声がうまく出なくなり、惜しまれつつ亡くなりました。越路師匠の引退披露口上の時は進行役をなさいましたが、声が震えてほんとうにこちらまでつらくなるくらいでした。
小松太夫の名は初名でしたから、ほんとうならもっといい名を継いでいらっしゃってもよかったと思うのです。「つばめ太夫」の四代目でもよかったと思います。そして機が熟せばさらに大きな名前を名乗られるだけの方だったと思うのです。

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丸4年のアスパラガス 

私がアスパラガスの種を手に入れたのは4年前だったように思います。去年のブログにも4年前と書いていて、さてどうだっただろうと振り返るのですが、明確には覚えていないのです。ただ、去年は「4年目」の意味だったかもしれず、それなら今年が丸4年で5年目に入るということでつじつまが合います。
アスパラガスというのは、子どものころにその「ガス」という名前を聞いてなんとも「臭そうな」ものだと思いました。でも実際は「gas」ではなく

    asparagus

でした。Wikipediaによると、「アスパラガス」はギリシアの「アスパラゴス」を語源とするもので、「激しく裂ける」の意味だそうです。
しかし名前のイメージというのは案外強いもので、私はずっと臭い食べ物という気持ちがあって、まず食べなかったのです。ところが、どういうはずみかとてもおいしいてんぷらを食べたことがあり、アスパラってこんなものだったのか、と思い知ったのでした。
だからというわけでもないのですが、ひとつ育ててみようというわけで、ホームセンターに行ってみました。すると、苗というのでしょうか、根株というのでしょうか、あれを買ってきて植えれば早く収穫できるのだそうですが、ひとつ1000円以上するのであっさり断念して(笑)、種からスタートしたのでした。種から始めたらどういうことになるのかを知るのもいいじゃないかという理屈もこねてのスタートでした。
去年から収穫を初めたのですが、まだ少なめにしました。そして、満を持してというか、いよいよ今年から本格的に穫れるようになるはずです。
2月に少し土をきれいにしてやろうと思って、入れ替えなどをしました。そのうちに

    株分け

もすればいいのかもしれませんが、まだどうすればいいのか調べてもいません。
だいたい3月半ばくらいに初めて茎が出るのを確認するのですが、今年は6日に見つけました。最初は白くて頼りない感じですが、すぐに紫色のようになり、さらに緑色の、いわゆる「グリーンアスパラ」になっていきます。
スーパーで買った方が結局は安いのかもしれませんが、なにしろ収穫してすぐに食べられるというのは家庭菜園のいいところです。
アスパラガスは10年くらい生きられるようで、私とどちらがあとまで生き残るかを勝負しています(笑)。

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官僚言葉 

ずっと100点(またはそれに近い点数)を取ってきた人の集まりがエリート官僚を構成しているのだと思います。私のように70点は合格というレベルとはわけが違います。だからこそ私の何倍も収入があるのでしょう。
しかし、そういう人でも現実には100点などはあり得ないのです。間違ってばかりなのが人間です。
政治家は必ずしも学業優秀な人ばかりではありませんから、「未曾有」を「みぞうゆう」という人も、「云々」を「でんでん」と読む人も、敬語を知らずに

    「息子に申し上げる」

と答弁する人もいます。御曹司とかたたき上げとかいう人はそんなものだろう、と諦めつつも情けない気持ちになります。
一方の役人は論理的で説得力のあることを言うのかと思うと、政策面ではある程度のことはできるはずですが、自分の不祥事を説明するという段になると、みじめなばかりにひどい言葉をお使いになります。
利害関係にあるはずの総理大臣の息子(放送関係)と何度も会って話をしていたという総務省の役人がいたそうです。あの総理大臣はご機嫌を損ねるとすぐに左遷するような人ですから役人も戦々兢々。ご子息様から会いたいと言われたら断るなんてもってのほか、ということでしょうか。週刊誌に現場を見られたり声を録音されたりした結果、「会ったけど仕事に関する話はしていない」というようなことを言って、さらに証拠が出てくると、「BS,CS,スターチャンネルに言及する発言は、

    あったのだろうというふうに受けとめて

おります」と言ったのだとか。それ、どういう意味なんですか。
「ございました」と言えば済むことを、「のだろう」(推量)「というふうに」(朧化)「受けとめて」(他人事)とごまかし言葉の三連発でした。
それに対して質問者はどう対応したのかは知らないのですが、私だったら「わかりやすい日本語で答えてください」とでも言うだろうと思います。
「こういうごまかし言葉を使ってこそ高級官僚なのだ」ということなのでしょうか。もしそうならばかげているとしか言いようがありません。あまりにも情けないではありませんか。
こうなると政治家なんて非情なものですから、「けしからん」と批判する側に寝返るのです。どちらにしても格下げになるわけですから、最初から正直に言えばいいのに、と思います。

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なつかしい旧作(3) 

受賞の連絡は劇場の企画制作課の方からお電話でいただいたのですが、私は優秀賞がもらえるかな、と思っていました。しかし、佳作ということで「ちょっとがっかりした」というのがそのときの本心です。
しかし、それが厚かましい気持ちであったことは今になるとわかります。今回改めて読み返してみると、あまりにも無駄の多い作品だと感じたのです。優秀作に選ばれなかったのも当然だと思います。もしこの作品そのままの形で上演したら、なんとも間延びのする印象をお客さんに持たれただろうと思います。もっとテンポの良いものにしたほうがよかったと思うのです。
ほかに、この作品の欠点として、表彰式のときに審査員の難波利三さんが

    「史実を曲げすぎている」

という意味のことをおっしゃいました。あまり議論する雰囲気ではなかったものですから何も言わなかったのですが、史実をどこまで曲げるかというのは時代物浄瑠璃の難しいところかもしれません。それにしても、審査員の講評が文字になって伝えられなかったことは残念でした。お一人お一人のご意見やご感想をいただければ、反省材料にもなりますし、将来への糧にもなったのですが。難波さんがひとことおっしゃったことだけが講評の一端なのだろうとは思いますが・・。
作品の内容を詳しく書くのはやめておきますが、ごくかいつまんで申し上げておきます。

恋愛の許されない斎宮という立場にある大伯皇女が密会していた梨原成麿という男性がいました。しかし成麿の訪れが絶えて、彼女は悲しんでいたのです。そこに成麿の使者として横手黒人なる人物がやってきます。黒人によると、大津皇子が謀反を起こし、成麿もトラブルに巻き込まれたくないために大伯皇女との関係を断つことにしたというのです。黒人はかねてから大伯皇女に横恋慕しており、大伯皇女の侍女の村崎から「何でも言うことを聞くから大津皇子を救う方法を教えてほしい」と言われたのをよいことに、身代わりのアイデアを教えたうえで、大伯皇女への手引きを命じます。危機一髪というところで、村崎の機転によって黒人は追い出されましたが、大津皇子の問題はどうしようもないのです。そこに当の大津皇子が夜陰に紛れてやってきます。身代わりの話をしているうちに村崎が思いがけない行動に出ました・・・。

最後の部分は略しましたが、こんな感じのお話です。内容や形式、文章は古めかしいのですが、主題は姉弟の愛情という普遍のものを扱ったつもりです。また、話のあちこちにふざけた内容を取り入れ、チャリ場としつつそれが物語に深く関わるようにしました。
この作品を振り返ってみて、いろいろ反省することがあるのですが、原作そのままではなく、手を入れて(できるだけ短くするつもりです)来年あたりに公開しようかと考えています。

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なつかしい旧作(2) 

登場人物は、大伯皇女、大津皇子、侍女村崎、侍女鈴鹿、右近将監横手黒人、医者の丹波算庵、下女など、という面々ですが、人形に当てはめると、首はこんな感じです。
大伯皇女(娘)
大津皇子(若男)
村崎(娘)
鈴鹿(八汐)
横手黒人(大団七)
丹波算庵(祐仙)
大伯皇女は二十代後半ですから「老女形」でもいいのですが、斎宮という神秘の世界に生きる未婚の女性を表現するには「娘」の方がふさわしいように思います。村崎も斎宮と年恰好が似ていますので、「老女形」の年齢ですが、斎宮より少し老けた感じの「娘」がいいかな、と思っています。大津皇子は二十代半ばですから「源太」が合いそうなのですが、姉と似ていることが問題になりますので、「源太」だと少し顔つきが明確になり過ぎるように思います。もう少しぼやけた、というか、どこか謎めいた雰囲気が欲しいので「若男」を当ててみました。鈴鹿は意地悪なおばさんらしく「八汐」。横手黒人は大きな人形をイメージしていますが「口アキ文七」のような国崩しではありませんから「大団七」。丹波算庵は端場だけに登場するチャリがかった人物ですから「祐仙」。
伊勢の斎宮というのは、未婚の皇女が任ぜられるもので、神宮(伊勢神宮)の北西に設けられた館で神に奉仕するのです。天武天皇皇女の

    大伯皇女

は史実として伊勢斎宮になっています。
天武天皇が亡くなったあと、後継者を立てねばなりません。天武の皇子で鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ。天智天皇皇女、天武天皇皇后、後の持統天皇)所生の草壁皇子が即位することが考えられますが、異母弟の大津皇子(母は鸕野讃良の同母姉の大田皇女)が謀反を企てたことになっています。このあたりは史実としてどう考えればよいのかはよくわかりません。しかし、わからないからこそ、創作するときには恣意的に解釈することも許されると思うのです。
大津皇子は学才に優れ、詩歌も巧みでした。一方、草壁皇子は能力としてはかなり劣っていたようです。しかし母親が健在で後ろ盾があること(大津の母の大田皇女は早く亡くなっていた)や大津より年長であったことから、草壁が後継になることに決まっていたのです。もし大津が謀反を企てたのであれば、自分より能力的に劣る草壁の後塵を拝することをよしとしなかったことも考えられ、また、大津を支援する者もいたのではないでしょうか。もし大津が謀反を起こしてはいなかったとすれば、

    陰謀

でしょう。世評の高い大津をそのままにしておけば、草壁側は不都合だった可能性があります。このあたりの歴史的なことについてはあまり深く立ち入るほどは勉強していませんのでこれ以上は申しません。
さて、天武天皇が亡くなった直後に、大津皇子は伊勢の大伯皇女のところに行っているのです。そしてすぐにまた都に戻っているらしく、そのときの大伯皇女の歌が『万葉集』巻一に残っています。
わが背子を大和へやると
さよふけて暁露に我立ち濡れし
(私の愛しいあなたを大和に見送るうちに夜が更け
て暁となり、私は立ったまま露に濡れています)
二人行けど行き過ぎがたき秋山を
いかにか君が一人越ゆらむ
(二人で行っても越えにくい秋の山を、あなたは
どうやって一人で越えていくのでしょうか)
この二首の歌を、大伯皇女一人のものではなく彼女と大津皇子の歌と仮定して拙作の最後の場面に置くことにしました。
こうして、私の浄瑠璃はこの二つの歌に収斂するようなものとして書き進めることになったのです。

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なつかしい旧作(1) 

私が浄瑠璃をいうものを書いてみようと思ったきっかけは、昔、大阪市教育委員会と国立文楽劇場が募集された「文楽なにわ賞」という新作浄瑠璃の公募(担当部署は教育委員会が文化財保護課、劇場は企画制作課)でした。
400字詰め原稿用紙60枚以内で床本形式の脚本を募集するというもので、文楽の可能性を探り、書き手を求める意味があったのでしょうか。いずれにせよ、大阪市もまだ文楽を盛り上げようという機運があったのだと懐かしく思い出します。
わけあって、この作品を久しぶりに取り出しましたので、応募の経緯や作品の内容について書いておこうと思います。
平成4年10月31日が締め切りで、選考委員は石濱恒夫、圡田衛、富岡多恵子、難波利三、山田庄一の各氏。ほかに当時の大阪市教育長と日本芸術文化振興会理事のかたがおひとりずつ加わっていらっしゃいました。応募総数88編。応募者の最高齢は90歳、最年少は22歳だったそうです。
私は、『万葉集』の中でとてもドラマティックな要素を持つ

    大伯皇女と大津皇子

の和歌を素材にしたものを書いて応募しました。その結果、最優秀賞は該当者なし。優秀賞はご年配の女性。そして佳作として当時の科学技術庁原子力局長(のちに科学技術事務次官)でいらしたかた、入選者の中でもっともご高齢だった書籍の編集か何かをなさっていたかた、そして私の作品が選ばれました。
原子力局長さんは、事務次官を退任された後、東京大学の客員(?)教授をされたり北陸の大学の理事長をなさったり、という、本来なら私など歯牙にもかけていただけないようなセレブな大先生でした。こういう経歴だけを拝見すると、偉そうにそっくり返っている人、という感じがするかもしれませんが、実際は腰の低い、にこにこと丁重な物言いをされる温和な紳士で、あの日もずいぶんお話ししましたし、今までずっと年賀状のやり取りが続いているくらいなのです。
受賞者が発表されたときも、「エリート官僚が書いた創作浄瑠璃」という話題性は圧倒的というほかはなく、新聞記事にも優秀賞の方ではなく、局長さんが写真入りで掲載されたほどでした。
さて、私の書いたものは

   斎宮暁白露(いつきのみやあけのしらつゆ)

と題したもので、前述のように大伯皇女と大津皇子の物語です。それ以外には、架空の人物として侍女村崎、侍女鈴鹿、右近将監横手黒人、医者の丹波算庵らを創作しました。
募集要項にあった「60枚以内」というのは、小説であればとくに多い枚数ではありませんが、浄瑠璃なら上演に3時間は要する大作に近いのです。「以内」ですから、20枚でもかまわないのですが、やはり少しでも内容の濃いものを、と思うと、それでは気が済まないのが書き手の気持ちです。
場面転換も大事な要素なのですが、私は舞台を変えずに、太夫替わりだけをイメージしたものにしました。もし実際に舞台にかけられたら、変化に乏しいものになっていたかな、と今になって思います。太夫さんの分担としては、口、中、次、切、の四つの場面になると思います。咲太夫さん一門に語っていただくなら(勝手なことを言ってすみません。実は咲太夫さんにはちらっと見ていただいたことがあるのです)咲寿、南都、織、咲という感じです。

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資格 

私は(当時の呼称でいうと)「高等学校教員(国語) 1級」の免許を取得しています。自動車の普通免許(原付を含む)も持っています。しかし、それ以外は何も持っていません。検定も、中学生の時に英語検定(3級)を取得しただけで、漢字検定は新しいものだけに「受ける」という発想すら持ったことがありません。
私の知っている人で、「資格マニア」を自称して、すでに30種以上の資格を取得していらっしゃる方があります。しかも単に趣味で取得するのではなく、仕事にもきちんと生かしていらっしゃるからたいしたものです。毎年何らかの資格を新たに取っていらして、世の中には

    いろんな資格があるものだ

と、そんなことも思い知らされます。
話を私自身のことに戻しますと、英語検定はもうこれ以上は無理(笑)と思ってやめましたし、漢字検定というのは「今さら受けることもない」という気持ちでした。もし受けたら、準1級はなんとか通るかもしれませんが、1級は多分無理です。だからこそ、受けるとするなら1級以外になく、そのために勉強するのは意味のないことではないと思います。
語学では、少しかじっただけで、今後もやってみたいものは韓国語くらいですが、何度トライしても思うように上達しなかった過去があるものですから、これも半ばあきらめています。どうも語学の才能がないようです。韓国語では「ハングル能力検定」というのが一番ポピュラーな検定のようです。
一般の資格というと、よく新聞に挟み込まれていた(最近あまり見かけません)資格講座のチラシに載っているものがまずは思い浮かびますが、あれはほんの一部に過ぎないのですね。
ちょっと調べてみただけなのですが、たとえば

    IT関係の資格

だけでも大変な数があるようです。私が知っているだけでも「マイクロソフトオフィススペシャリスト」「上級システムアドミニストレータ」などがありますが、それどころではない、大量の資格があるようです。ただし、廃止されたものが多いのもこういう資格の特徴でしょうか。
ほかの資格としては「樹木医」「木材乾燥士」「外国人雇用管理士」「交通事故専門士」などという珍しい(と私には思える)ものもあり、検定も「天文宇宙検定」「電卓技能検定」「日本城郭検定」「入浴検定」・・・と百花繚乱です。
資格は仕事がらみが多いかもしれませんが、検定は趣味の意味があってもいいと思うのです。漢字検定も勉強して知識を増やす励みにするために受検するということでもいいはずです。天文宇宙検定もそれによって宇宙開発の仕事に参画するというのではなく、宇宙について知ること自体を目的にすればいいのだと思います。それにしても「入浴検定」というのはかなり不思議なものです。どうやらお風呂に入ることで健康にどういう影響を与えるかとか、温泉の泉質だとか、そういうことが問題になるようです。受けてみたいような、まあいいかな、と思うような・・。
私の場合、障害のために取りたくても取れない資格もあります。以前、タクシードライバー免許が取れるかどうかを調べたことがありますが、やはりダメでした。バスも当然ダメでしょうね。そりゃそうです。お客さんの命を預かるのですから。
また、私はそもそも「試験を受ける」ということ自体が困難で、特に語学の検定試験ではリスニングというのがありますので、やはりもはや資格や検定とは縁がないと諦めるほかはないのでしょう。

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容器の形 

なんとなく2リットルのペットボトルを見ていたのです。今は分別に便利なようにラベルは薄いプラスチックを巻いているだけで、すぐに取り外せるようになっています。それでいて、プラスチックの印刷はとてもきれいで感心してしまいます。小さな文字まで鮮明ですし、カラーも鮮やかです。
きっちり2リットルの液体が入ればどんな形でもいいかというとそれは違いますよね。店頭に並べるのに不都合がないように、運搬のときにトラブルが起きないように、できるだけ効率の良い形が追求されているのだろうと思います。
以前はなかったものに、親指と中指を当てるための

    くぼみ

があります。最初に作った人はよく考えたものだと思います。1リットルのものは重みがなく、容積も小さいので持ちにくさがありません。しかし2リットルだと大きくて重いですから、不安定になってしまい、こういう工夫をされたのでしょうね。
このくぼみの意味は私のような素人でもわかるのですが、ほぼ全体(上のすぼまったところ以外)に横筋がついているのはなぜなのでしょうか。やはり滑らないようにする意味があるのでしょうか。出荷するときに箱に積むのに摩擦を避けるという意味でもあるのでしょうか。
商品のデザイナーさんというのは、より多く売れるように、というだけでなく、さまざまな角度からものの形、配色、絵、文字のフォントなどをお考えになるのでしょう。私にはまったくできない仕事です。最近はエコという問題もありますので、さらに難しくなっているのかもしれません。

    牛乳の容器

も以前ならほとんどが瓶でしたが、私が子どものころから紙パックが増えて、今では牛乳のみならず、油、お酒、ワインまでがうまく工夫されて(紙容器による欠点を克服して)用いられているようです。
私は日本酒を飲む場合は800円以下(笑)の2リットル紙パックで、それを何日かけて飲み干すかはその時の体調次第です。梅酒の2リットル入りを買ったことがあるのですが、これはだいたい2週間かかりました(笑)。日本酒はもう少し早いかもしれませんが、10日はかかると思います。
それにしても、紙パックだけでなく、缶、瓶、ペットなどいろんなものが世の中にあふれています。昔ならビール=瓶のイメージがありましたが、今では家庭で瓶ビールを飲む人のほうが少ないのではないでしょうか。あれはあれでいいんですけどねぇ。
というわけで、本日の結論は、また瓶入りのビールが飲みたい、ということでした。

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宝塚小旅行(3) 

もうやめるつもりだったのですが(笑)、何となく気になりましたので、西宮街道を歩いてみることにしました。前回は伊孑志の渡しまででしたが、そこから阪急電鉄仁川駅までをひとつの目安として歩くことにしたのです。
伊孑志の渡しを渡ったところから、どういう行き方で街道に入ったのかが今ひとつわかりませんでした。目安になったのは弥勒寺というお寺で、その前を通って伊和志津神社(式内社)に向かい、その前を経て阪急電鉄逆瀬川駅から市役所の方に向かう道を横切ります。このあたりも区画整理の結果なのか、微妙に旧街道がなくなっているような気がします。しかし、少し歩いたあたりで「これだ」と思う道に出会い、あとはくねくねしてはいますが、一本道です。途中に地蔵堂や道標が残っています。道の曲がり具合がいかにも街道という感じでおもしろいのです。「何がおもしろいの?」と思われるかもしれませんが、いわく言い難い魅力があるのです。
このあたりの土地を持つ一族が集まって住んでいる地区があり、あちらにもこちらにも同じお名前の表札があります(珍しいお名前です)。そしてやがて阪急小林駅の少し東側に着きます。ここで良元(りょうげん)街道とひとつになります。そこからもさらに南に一本道。しばらく行くと

    鹿塩

という珍しい地名のあたりに入ります。ずいぶん前(高校時代かも)に調べたことがあるのですが、地名由来伝説があります。奈良の春日から遣わされた二頭の鹿のうち、牝鹿が行方不明になり、牡鹿が一生懸命探すのです。牡鹿が水を飲みたくなって井戸を覗き込むとそこには鹿の姿がありました。ここにいたのか、と思って牡鹿は飛び込んで死んでしまいました。井戸には自分の姿が映っていたのでした。地元の人はかわいそうに思って鹿を塩漬けにして春日に返してやったそうです。
そのあたりで道が二つに分かれているところがありました。だいたいこういう場合は細くてくねくねした道が街道なので、そちらに行きました。しかし、このあたりには特に何かが残っているということはなく、やがてゴールと思っていたあたりに着きました。
何もなかったな、と思っていたら、すぐ近くに小さなお堂がありました。地蔵堂と書かれていたのですが、すぐ横に置かれていた石に

    青面金剛(しょうめんこんごう)

と判読できる文字がありました。ということは庚申堂でしょうか。この日は雨がぱらついてきたのですぐにその場を離れてしまいました。後日もう一度確認に行きたいと思っています。
伊孑志の渡しからここまで、5000歩あまり。一歩75㎝とすると4㎞くらいでしょう。小一時間で着くことになります。街道はここからさらに南へ行くのですが、それはまたいつの日か。

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宝塚小旅行(2) 

市立歴史民俗資料館をあとにして、次は小浜宿に行きました。ここは摂津国川辺郡小浜町といったところで、江戸時代に有馬街道、京伏見街道、西宮街道の交差する宿場として栄えたところです。今は完全に内陸部なのですが、このあたりは「浜」の名のとおり、大昔は海辺だったのだそうです。
毫摂寺(ごうしょうじ。今は浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来)は小浜の核のような存在で、15世紀の終わりに建てられた立派なお寺です。有馬温泉に行った豊臣秀吉は千利休とともにこのお寺に泊まり、名水「玉の井」で茶を点てたのだそうです。この地域は大堀川という小さな川が周囲を迂回しているため、ちょっとした城塞のようになっていて、一向宗の拠点ともなったそうです。
江戸時代の小浜は、前述のように有馬温泉に行く人たちの宿場として栄えたほか、酒造も行われ、小浜流という製造法もありました。特に有名なのは山中家という家で、この家は三代にわたって酒造業を営みました、しかしその後は医業に転じたらしく、酒造りは絶えてしまったようです。その山中家は阪神淡路大震災で被害を受け、そこを

    市立小浜宿資料館

としました。ここも無料でした。タダのところばかりに入っています(笑)。
付近は江戸時代の趣を残すような形で整備されているのですが、このあたりも交通が不便で、いささか行きにくいかもしれません。小浜宿の南門を出て西宮街道に向かいます。西宮街道はこのあとすぐに武庫川を渡らねばなりません。そこで渡し場がありました。「伊孑志(いそし)の渡し」と言います。今の宝塚市立宝塚中学校の北西端のあたりから右岸にわたって、伊孑志、良元(りょうげん)、鹿塩、神呪(かんのう)、門戸厄神などを経て西宮の広田に至るのが西宮街道です。酒造のための米などを運ぶ道だったそうで、馬で運びますので「馬街道」とも言われます。
その武庫川の手前(小浜側)に

    首地蔵

という不思議なものがあります。文字どおり、首だけの地蔵なのです。しかも大きい!
首地蔵の手前の街道沿いには力士の谷風岩五郎の墓があります。谷風はこのあたりの米穀商の出身で、子どものころから怪力だったそうです。明治時代に大関にまで至った人です。谷風というと江戸時代に横綱になった谷風梶之助が有名ですが、その人とは時代も異なる別人です。

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宝塚小旅行(1) 

先月、橋本関雪の別邸を見学するために兵庫県宝塚市売布(めふ)まで行ってきたのですが、ほかにも回ったところがありますので、追記しておきます。
このあたりは坂道だらけですので、脚に自信のない方にはあまり散策をお勧めできません。関雪の別邸も坂道に沿って建てられており、ご本人が邸内を散策されるときはしんどくなかったのか、と余計な心配までしてしまいます。関雪別邸の石練塀に沿って坂道を登ると途中で塀越しに三重塔が垣間見えます。うっかりすると見逃すのですが、九輪が見えるので気が付くと思います。坂を登りきったところに中国自動車道をまたぐ橋があります。それを渡って(かなり高くて、高所恐怖症の私は怖いのです)振り返ると、森のような関雪別邸の大きさが改めてわかります。とはいえ、このお屋敷は建てられた当初からはかなり狭くなっているのだそうです。その理由は、まさにこの自動車道にあります。高速道路を作るので、ということで、一部を売却されたようなのです。元はどれだけ広かったのか・・・。
次に目指したのは

    売布神社

でした。実はここに行ったのは初めてだったのです。鳥居はいささか不自然に補強されていました。よく知らないのですが、やはり阪神淡路大震災で被災したためではないでしょうか。鳥居は倒れやすいです。
鳥居をくぐってしばらく行くと、嫌になるほど急な階段が見えてきました。呼吸の苦しい時ならすぐに諦めます。しかしこの時はわりあいに普通に呼吸していましたので、登ることにしました。すると、十人近くの人がせっせとそうじをしていらっしゃいました。階段の手すりを拭いている人、社殿のあちこちを拭っている人、境内を掃き清めている人。お姿から察するに地元の人のように思えました。神社の森は竹林もあってそれなりの広さでしたが、社殿そのものは大きなものではありませんでした。
神社に別れを告げて、もう一度関雪別邸の横の道を通り、南南東の方向に向かって歩きました。途中、阪急電鉄とJRの線路を超えます。古い道であることがすぐにわかるようなところを通っていきました。このあたりは米谷(まいたに)というところなのですが、この地名は何かの当て字のような気もします。「前谷」あたりの転訛かな、と思ったのですが、帰ってから調べたら「米種(まいたね)」のことという説もあるようです。
次の目的地は

    宝塚市立歴史民俗資料館

でした。ここは旧和田家住宅で、市内に残されているかなり古い家ということで、和田さんから市が建物を寄付してもらって資料館として開放しているのです。ここも初めていきました。さすがは市立で、無料でした。入口で案内を読んでいると、中に係の人がいて、これに記入してくださいと言われました。名前と連絡先だけでしたが、やはり蔓延している新型コロナウイルスのためでした。ここに来てから2週間以内にCovid-19であることが分かったらすぐに(管轄の)教育委員会に連絡してくださいとも言われました。
建物の中は自由に見学させてもらいました。柱や梁などはなかなか立派なもので、寝室が一段高くなっているところにも歴史を感じました。風呂は丸い釜。納戸は生活感にあふれていました。オルガンが置いてあったのは子どもの部屋なのかもしれません。奥の部屋には屏風が置いてあって、それには扇の地紙が貼りまぜにされていました。書かれているのは王朝の和歌でした。庭を眺める座敷には、床の間もきちんとしてありました。建築のことに詳しくないものですから、正しくお伝えすることができないのが残念です。庭には蔵があり、古文書が収められているようです。何か文学関係のおもしろいものがあればいいのですが、これもよくわかりません。道標が庭に置かれていました。「右 西の宮 兵庫 道」(「西の宮」と「兵庫」は二行書きされています)とありました。西宮街道がありますので、そこにあったものでしょうか。
係の人が出口に案内してくれて、お礼を言ってお別れしました。見学者は私一人で、ひょっとしたら、あの日一日、誰も行かなかったかもしれません。係の人は、マスク姿ではっきりとはわかりませんが、年輩の男性でした。リタイアされて嘱託でここの事務をされているのかな、という感じでした。ああいうのも第二の人生としてはいいかもしれません。

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来賓挨拶 

私は以前、事務職員の人から、大変失礼な言い方になるのですが「ばかばかしいこと」を依頼されたことがあります。「卒業式での、理事長や来賓のあいさつ文を考えてくれ」と言われたのです。どうやら日本語のプロ、文章のエキスパートだと誤解されたようです。そんなもの、自分で考えろよ、と思うのですが、できないらしいです。「みなさんお忙しいので」って・・・「ああそうですよね、どうせ私はヒマですから」と皮肉のひとつも言いたくなりました。
明確に申し上げておきますが、私は人さまに偉そうなことを言えるほど日本語を知り尽くしているわけではありませんし、まして

    文章の達人

などではありません。このブログでもよく字を間違えますし、文章のつながりがおかしいところを後日発見することもありますし、語彙は少ない、漢字は知らない、文章の推敲なんて何度繰り返しても不満が残ります。
ところが、日本の文学を勉強しているのだからあいさつ文など簡単に書けるはずだ、と思われたようです。そりゃ、優秀な人ならできるでしょうが・・・。それでも「どうしても」と言われるので、「ヒマな私」はしかたなくいささか美文に堕したあいさつ文を考えて謹呈いたしました。卒業式に行ってみると、私が書いた文章を棒読みしている方のお姿を拝見しながら、ひとりでクスクスと笑っていました。
というわけで、けっして日本語の達人ではないのですが、そんな私から見ても、政治家の日本語に対する知識の不足は目を覆いたくなるばかりです。このところの総理大臣には、以前のようなそつのない官僚出身政治家はいません。官僚政治家がすべてよいとは思いませんが、彼らはやはり知識はありました。今は二世、三世議員が地盤を受け継いであたりまえのように議員になって総理大臣になりますので、必死に勉強した経験があるのだろうか、という疑問を持つことがあります。
学校を出ていなかった田中角栄(以下、敬称略)が総理大臣になった時は「平民宰相」と言われると同時に、

    党人宰相

というのも話題になりました。つまり官僚出身ではないことが話題になり得たのです。田中角栄に前後する池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘、宮澤喜一らは官僚出身でした(三木武夫、竹下登らの党人もいましたが)。宮澤さん以後はいわゆる官僚宰相はいなくなりました。官僚出身者は実務派大臣として内閣には入っても、総理にはなれない時代になったのでしょうか。
日本語を知らないということにかけては、特に今の与党の、最近の数人の総理大臣は目も当てられません。「みぞうゆう」の人や「でんでん」の人のように、漢字の読み間違えをするというのも恥ずかしい話ですが、それよりも何よりも、態度が傲慢で、言っていることに詭弁、欺瞞の類が目立ち、一部の支持者からは熱烈に持ち上げられても、それ以外の人たちからはどんどん信頼を失っていきました。
今の総理大臣に至っては、表情に精彩も覇気もなく、本人が書いたわけでもない文章を読むだけの、

    「卒業式の来賓あいさつ」

と何ら変わらないような印象を持ちます。普段はわりあいによくしゃべる人なのだそうですが、むしろ逆に普段はおとなしくても人前に出た時はきちんと説得力のある話し方ができる人のほうがいいと思います。私は直接観たわけではありませんが、テレビでSars-Cov2の蔓延に関して、国民に向けて「マスク着用、手洗い、密を避けることをお願いして私のご挨拶とさせていただきます」とか何とか言ったらしくて、多くの人の失笑を買ったそうです。やっぱり「来賓あいさつ」なんですね。
いや、権力者の悪口を言って留飲を下げているだけではいけません。こういう時こそ、彼らの言行を他山の石として我が身を振り返らねばなりませんね。

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大鵬さんは小さかった? 

子どものころ、とてつもなく強い力士がいました。白系ロシアのきれいな顔をされた大鵬さんでした。当時、子どもの好きなものは「巨人・大鵬・卵焼き」と言われていたのですが、あまのじゃくだった私はさほど関心がありませんでした。というより、あんな大きなからだで相撲を取ったら小さい人が勝てるわけがないから応援したくない、と思っていたのです。
どちらかというと小柄な、あまり力のなさそうな人を応援したくなる、そういう言葉は知らなかったかもしれませんが、

    判官びいき

だったのです。
ところが、昔の写真を見ると、十両に上がったころの若き日の大鵬関はとてもほっそりしているのです。そして、私が巨大なからだだと思っていた横綱になってからの身体も、今見ると決して太っているという感じではありません。Wikipediaによると(以下、力士の体重はすべてWikipediaによる)、体重は140㎏台と記されており、せいぜい150㎏程度だったのでしょう。今ならごく普通の体重と言ってもよいくらいです。ライバルと言われた柏戸関も140㎏台だったようで、当時はそんなものだったのですね。私はあまり覚えていませんが、同時代に横綱になった栃ノ海関という人は110㎏だったそうです。その後はやはり重量化が進んで、軽いと思っていた千代の富士関でも125㎏、千代の富士関くらいかと思っていた北勝海関(今の理事長)は150㎏と記されていました。
大鵬さんは身長が高く(187㎝)、その身長で150㎏くらいと言ったら、今ではすらっとした力士に見えるかもしれません。
義ノ花(よしのはな)関だったと思うのですが、この人は大鵬さんよりはるかに体重のある人で、あんなからだで生活するのは苦しくないかなと思うほど太っていたのです。ところがこの人も172㎏だったそうで、たしかに、私もこの人が170㎏台だったことをかすかに覚えています。
つり出しの名人だった明武谷(みょうぶだに)関は189㎝113㎏。この身長であれば今なら細すぎると言ってもいいでしょう。
最近の力士はとても大きくなりました。

    200㎏

を超える人がしばしばいますし、普通の大きさと思っても160㎏くらいあります。もちろん、舞の海さんとか現役の炎鵬関のように小柄な人もいますが、ほとんどの力士は150㎏を超えるような体重で、いくら何でも大きすぎないでしょうか。
初場所で優勝した大栄翔関も181㎝161㎏だそうですが、大関を目指すためにさらに体重を増やすのでしょうか。相撲に詳しくもない赤の他人がとやかく言うことでもありませんが、これくらいで維持されたらどうなのかな、と思うのです。あの回転のいい突っ張りを生かすためにはあまり大きくなりすぎて膝や腰に悪影響が出ては元も子もないような気がします。
大関の貴景勝関は175㎝でさほど背は高くないのに180㎏を超えるようです。初場所に2,3番観たのですが、前に落ちやすく、粘り腰もないような気がしました。少し体重を落とした方がいいのではないでしょうか。
好きな力士ではないのですが、192㎝151㎏だという白鵬関はほとんど大鵬さんと同じような体格で、さすがに均整の取れた体をしていると思います。

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潔さはどこへ? 

私は熱心な相撲ウォッチャーではありません。それでも、まれにテレビを観ることがあります。昨年の十一月場所(通常は九州ですが、ウイルス感染防止のために東京の両国でおこなわれました)のときに、とてもよくテレビに映る位置(時計係審判の、向かって左。南東側、つまり赤房下)にきちんとお座りになって微動だにせず(と見える)わずかに胸の前で静かに拍手をなさるワンピース姿の女性がSNSで話題になっていました。「背筋ピン子」さんとか、「溜席の妖精」と呼んでいる人もありました。お召し物も所作も姿勢も美しいのです(お顔はマスクに隠れてわかりません)。今場所もいらっしゃるのだろうか、という興味もあって(笑)、初場所もちらちらと観ていました。いらっしゃっていました(笑)。 先日の朝日新聞の読者の俳句ページに「溜席の美人佐保姫かも知れず」という伊丹市の保理江さんという方の句がありました。秋(五行では西)の龍田姫に対して佐保姫は春(東)の女神。東の溜まりにいらした彼女を句にされたのです。ただし、赤房下なので夏、あの位置なら初夏(?)のイメージではありますが。
ところで、最近の相撲でとても美しくないものがあります。横綱(初場所は幸いにも休場でした)のうちの一人の相撲に向きあう態度には以前から問題があると思っていましたし、懸賞金を受け取る時の手刀の切り方もきちんとしない人がいます。さらに私はこのところ、

    仕切り

の態度に不満を持っています。仕切りというのは、お互いが息を合わせて蹲踞し、同時に手をついてにらみ合って、その回数を重ねるごとに闘志をかき立て合うものだと感じていました。しかし、今はそういう態度の人が以前に比べると少ないように思います。相手が蹲踞してもお構いなしで、マイペースでぐずぐずしていつまでも突っ立っている。相手が手をつこうとしているのに、足で土を払ったりしながらじらすような態度を取る。あんなことをして、自分が大物に見えるとでも思っているのでしょうか。なぜ正々堂々と相手に合わせて闘志を見せようとしないのでしょうか。
何よりも、あれではちっとも

    美しくない

のです。相撲というのは美しく見せねばなりません。なぜ行司はあんな大げさな格好をしているのか。なぜ呼び出しはあんなに丁寧に土俵を掃き清めるのか。よく考えてもらいたいのです。力士自身も柏手を打って四股を踏んでという所作を繰り返しているではありませんか。
ずいぶん昔の話ですが、初代貴ノ花(のちの藤島、二子山親方)は四股を踏むだけで美しくて、ある哲学者さんが相撲中継のゲストに呼ばれたとき、「貴ノ花の足の裏を観るのが楽しみだ」という意味のことをおっしゃっていました。仕切りをしているうちに闘争心がかき立てられて時間前に立つ人もいました。
負けたら相手を小突いたり、ぐずぐずした仕切りを繰り返したり。そこには

    潔さ

がありません。
親方たちはそれを何とも思わないのでしょうか。「立ち合いは手をつくこと」というのは以前からうるさく指導されていたようですが、それ以前の所作にも注意すべきではないでしょうか。
あんな醜態を見せられるくらいなら、仕切りの間はワンピースの女性をずっと映してくれる方がどれほどありがたいかわかりません。

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浄瑠璃作品の活字化 

私がこれまでに書いた浄瑠璃作品には『斎宮暁白露』『名月乗桂木』『江戸情七不思議』『ルター』があり、浄瑠璃を含む創作に『フィガロの結婚』があります。
もう埋もれてしまってもよいのですが、往生際が悪いものですから、これらを何とか活字にして残せないものかと思っています。『斎宮暁白露』や『名月乗桂木』は賞に応募したもので、その作品集が活字になっているのですが、一般に配布されるものではありません。また、『斎宮暁白露』は作曲もなされておらずお蔵入りですし、『名月乗桂木』の上演台本は上演されるたびにたいてい活字になっていますが、私の原作とはかなり違ったものです。
それで、野澤松也師匠とのコンビで書いてきた

    『江戸情七不思議』(全七編)

を嚆矢として、順次活字にしようという計画を立てています。この活字化したものとてあまり世間に知られるものではないのですが、興味を持っていただける方にはお贈りしたりしています。
そしてこのたび、『名月乗桂木』の原作(上演台本ではないもの)の活字化ができました。
『江戸情七不思議』も『名月乗桂木』も単に作品を載せるだけでなく、若干の解説というか、創作の経緯や意図を書き加えたりしています。
どちらも400字詰め原稿用紙にして50枚程度だと思います。
次には『斎宮暁白露』を公開しようかと考えています。これはもう古い作品(30年ほど前)ですから、自分で読み返しても

    恥ずかしい気持ち

になりますが、そこはしかたがありませんので、最低限の加筆(というより訂正)にとどめてあえて公にしたいと思っています。この作品はいささか長すぎて、作品だけで400字詰め原稿用紙50枚分以上はあると思います。
そのあとは『ルター』と『フィガロの結婚』という「洋物」(笑)をまとめて公開し、続いて新作を発表したいと思っているのです。あと3~4年かけて完成させるつもりです。
これだけでおそらく400字詰め原稿用紙250枚程度になりそうですので、もし資金に余裕があったらその後に非売品の単行本にして、国立国会図書館、文楽劇場、伝統芸能情報館などに寄付しようかと思っています。ほかの図書館はいらないでしょうから、ごくごく少部数でいいのです。装丁も簡単、写真は入れない。編集の必要もあまりないでしょう。それでもお金の問題がありますので実現は困難ですが、大阪の芸能のものですから、大阪市や大阪府に補助金を出してくださいと頼んでみましょうか。「文楽関係の作品集です」といったら中味も見ずにあっさり門前払いされるのかな(笑)。

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