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分かれた対応 

文楽4月公演の千秋楽は25日の予定でした。しかし、その25日に大阪府に緊急事態宣言が出たために1日繰り上げになりました。
普段なら「仕方がないか・・」で済んだかもしれないのですが、なにしろこの公演では吉田簔助師匠が引退されるわけで、1日でも多く舞台に立っていただいて多くのファンがそのお姿を目に焼き付けたいと思っていたわけです。いうまでもなく、千秋楽の予定だった25日のチケットは売り切れになっていました。
ところが、よりによってその日から緊急事態宣言ということになり、劇場には無観客が要請されたようです。劇場で無観客って・・・。そのチケットを握りしめていらした方はさぞかし落胆されたと思います。
何と言っても

    「国立」劇場

です。協力しないわけにはいかないのでしょう。東京の国立劇場、能楽堂、演芸場などが劇場を閉めるとなると、大阪も従わないわけにはいかないことと拝察します。
では25日はどこもかしこも閉場になったかというとそうではありませんでした。プロ野球は緊急事態宣言期間中の無観客を決めましたが、25日だけは混乱を避けるためにも観客を入れて開催しました。そもそもプロ野球の斎藤惇コミッショナーは、屋外の開催で、万全の対策で開催してきて、クラスターも出ていない野球が無観客にすることに反対のようでした。無観客を決めた時の会見で、「納得がいかない」「スポーツイベントが禁止されるということであれば、オリンピックともからんだ合理的な説明と経済的な補償がなければ簡単には受け入れられない」とまで発言したそうです。ここで「オリンピックともからんだ」という言葉を使っているのも注意したいところです。
緊急事態宣言下では万全の対策をとってもスポーツイベントは無観客になるということですから、オリンピックも観客を入れて開催することはできないでしょう。ましてオリンピックは大会の規模が大きく、室内競技もたくさんありますので開催そのものも危ぶまれるはずです。総理大臣は「オリンピックを開催することはIOCがすでに決めている」と、また責任を転嫁していますが、日本が「できません」といえばIOCも中止を決定せざるを得ないはずです。
それはともかく、プロ野球は25日に関しては観客を入れたことをもう一度確認しておきます。野球の場合は、テレビ中継などがあると収入もあるでしょうが、人気のないチームはそうはいかないでしょう。今回対象になったのは、オリックス、阪神、読売、ヤクルトの4球団の主催試合です。オリックスやヤクルトはかなり苦しいのではないでしょうか。
また、東京の寄席である鈴本演芸場、浅草演芸ホール、池袋演芸場、新宿末広亭は、

    社会生活の維持に必要なもの

は例外とする、という規定を用いて、観客を減らした状態で引き続き開場すると決めたそうです。これに対しては賛否両論あると思いますが、かなり思い切ったことをした、といえそうです(その後、圧力がかかって5月1日から閉場になる)。
文楽は簔助師匠の引退があってもスパッと閉場し、野球は異議を唱えながらも無観客を選び、寄席は開催を継続しました。
対応がこのように分かれたことからも、世の中の混乱ぶりがうかがえます。

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大型連休の目標 

「ゴールデンウイーク」略して「GW」という言葉はすっかり浸透していると思いますが、この言葉はもともと映画会社の大映がお客さんをこの時期に映画館に呼び込むために発案した言葉だそうです。それだけに、特定の業界の宣伝になるようなことはしないNHKでは、今でもこの言葉は使わずに「大型連休」と言っているようです。新聞でもしばしば「大型連休」の文字を見ますので、これは「お堅い」NHKだけのことではないのです。
さて、このご時世ですから、今さら連休も何もあったものではないのですが、一応4月29日から5月5日までの1週間を連休ということにして、少しでもしなければならないことをしておこうと思っています。
まずは書かなければならない原稿が締め切りも近くなってきましたので、この期間にざっと書いておこうと思っています。送るのはもう少し先でいいので、細かい修正はまだできるのです。
そして、

    短歌

を詠まねばなりません。ほんとうは日常的に詠む癖をつけなければならないのです。毎日何かを詠んで、そういうことをしているうちにいくらかでも上達すると思われます。しかし、まだ和歌を詠むことについての情熱が弱いのでしょうね。もっと炎を燃やさねばならず、この期間に少しでも多く詠みたいと思っています。
4月には仕上げようと思っていた

    創作浄瑠璃

がまだできていません。これは不覚でした。言い訳をするなら、あの腰痛が厳しかったということくらいです。しかしそんなことを言っていても仕方がありませんから、連休中に少しでも言葉を作っていきたいと思います。すでにストーリーはできていますので、あとは要するに言葉の工夫なのです。創作浄瑠璃というのは、散文ではありませんから、言葉を選びに選んで書かねばなりません。とはいえ、江戸時代の浄瑠璃作者のように古くていい言葉をたくさん知っているわけではありませんから、絞り切った雑巾をもう一度絞って水分を取り出すような難しさを感じます。
たかが1週間の連休ですから、そんなにたいしたことはできません。それでも課題はいつも追いかけてきますから1歩でも2歩でも進もうと思います。あ! 短歌の雑誌から前号の批評もしてくれと言われていたんだ!
頑張ります・・。

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改めて新作を思う(2) 

私は新作のことについて呂太夫さんの本にも書いたのですが、石割松太郎さんや武智鉄二さんなどは真っ向から新作を否定する立場でした。越路太夫師匠も「やはり古典でないと」とおっしゃっていました。
私も、古典として残るような新作はなかなかできるものではないと思います。山口廣一さんも、現代語や洋服はダメで、太棹三味線に合うものでなければならない、ということをおっしゃっていました。いまさら深刻な三段目風の悲劇を、あの義太夫節に合うような言葉を駆使して書けるような人がいるのか、というとかなり難しいと思うのです。そこで思うのは、鶴澤清介さんがおっしゃっていたように、

    喜劇的なもの

ならうまく行く可能性があるように思います。時代は過去に設定しても、現代の社会を諷刺するなど工夫を凝らせばおもしろいものができるかもしれません。今、繰り返し上演されている代表的なものと言えば、『夫婦善哉』『雪狐々姿湖』『瓜子姫とあまんじゃく』あたりでしょう。しかしこれに続くものはなかなかできません。わずかに小佐田定雄『かみなり太鼓』が再演され、井上ひさし『金壺親父恋達引』がテレビ上演に続いて舞台に上がったことが注目されるくらいです。
失敗もありうるだけに新作を作って上演しようという機運はあまり高まっていないかもしれませんが、若い人に訴えるためには、歌舞伎や能におくれを取るわけにはいかないのではないか、そんな危機感は持った方がいいように思います。
以前、夏休みの子ども向け演目で、親子の情愛の話だからいけるだろうというので『恋女房染分手綱』「重の井子別れ」を上演してさんざんだったことがあります。多くの子どもは意味が解らず、制作の勘違いだったと思うのです。
こんなことを言っていると、自縄自縛というか、身動きが取れなくなってきます。そこで逆転の発想で、「繰り返し上演することを意図しない企画」を立てるのはどうか、と思うのです。時代に迎合してもかまわないので若者に受けるような芝居、一発揚げたらあとは灰になる

    打ち上げ花火

のような演目があってもいいのではないか。そしてそれは40代以下くらいの若い技芸員さんばかりで上演するくらいでもいいと思います。お客さんも年輩の人を想定せず、学割で500円くらい、社会人でも年齢を証明するものを持ってくれば、30代までなら1000~1500円くらいで。失敗もけっこう、すべってもいい。でも一生懸命作る。若い作者にアイデアを出してもらう。舞台装置などは大げさなものはいらないと思います。そういうところにはお金をかけず、

    小劇場の芝居

のようなイメージで。
こういうことを言うと、文楽を何だと思ってるんだと言われそうです。そんなことは私だって百も承知です。だから何もしない、というのが問題だと思うのです。
昨今、上演時間があまり長くできないなどという事情もあって、技芸員さんをすべてうまく使いこなせないような状況になっているようです。それなら、本公演を劇場で上演しながら、小ホールで若手によるミニ公演の形で上演してもいい。文楽の公演は常に全員が出演しますが、それも絶対に守らねばならないルールではないと私は思っています。

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改めて新作を思う(1) 

文楽に新作はあってよいのかという問題については、さまざまな意見があると思います。しかし、現実にはなかなか上演されず、最近は子ども向けの作品にとどまっているように思います。
歌舞伎では、若者に人気のある漫画などを脚色して上演するという工夫があります。歌舞伎は役者さんがテレビドラマなどに出演しますし、勘九郎や海老蔵とその子どもなどのドキュメンタリーをゴールデンタイムに放送したりして、よく親しまれています。
能でも最近

    「アマビエ」

という作品が登場しました。もちろん疫病退散を祈念するという意味合いのものです。また、聞いたところによると、テレビ番組で能の家にまつわる若者に受けるような内容のドラマが放映されたこともあったとか。
歌舞伎や能狂言と違って東京に本拠のない芸能である文楽は、テレビで取り上げられるといっても、NHKでの「厳しい芸の追究」を主題とするような、あまり若者向けとは言い難い内容のものがせいぜい、というところでしょうか。
それでもいい、大切なのは伝統の保護である、というのはわからなくもないのです。好きな人は「寺子屋」や「すしや」や「封印切」が観たいのであって、今年の夏の公園のように「舌きり雀」が上演されてもあまり関心はないかもしれません。また、高校生や大学生くらいの若者(文学や芸能にあまり関心のない者)も今さら「舌きり雀」なんて観たくもない、というのが本音ではないでしょうか。『忠臣蔵』はわからないし、『孫悟空』では物足りないし、『夫婦善哉』ですら古めかしいし、という人たちに何かアピールするものはないのか、あるいはアピールする必要はないのか、ということをつらつら考えてしまいます。
私は高校生あたりから伝統芸能にかなり関心を持っていましたので、文楽って何かと言われてもまるで答えができない若者が不思議でさえあります。しかしそれは私が間違っているのであって、わからなくて当然だともいえるのです。
高校生に文楽を見せる

    鑑賞教室

というのがあります。若い技芸員さんの解説はなかなか人気があってわりあいにウケるようです。ところが、そのあと「寺子屋」などが始まると、「今日はもう終わった」とばかりに熟睡する生徒や先生(笑)が続出します。終わると「よかった、よかった、終わってよかった」という雰囲気を感じることもあります。
古典でないとダメ、という意見は正論かもしれません。しかし正論は時として虚しいものになりかねません。
このコロナウイルスパンデミックは、あらゆる人間に、あるいは人間の営みに与えられた試練のように思えてなりません。反省し、新たな未来を作るきっかけにしなければ、ただつらい日々をこらえるばかりに終わりそうに思うのです。
私はこの際、文楽のこれからの在り方にもいくらか落ち着いて考えるべきではないかと思うようになりました。

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私の好きだった吉本 

松竹新喜劇の魅力がまだわからなかった子どものころ、吉本新喜劇のはじけるようなおもしろさは、テレビ時代にふさわしいものとして楽しみでした。当時の吉本のメンバーというと、平参平、岡八郎、花紀京、藤井信子、奥津由三、片岡あや子、中山美保、船場太郎、原哲夫、桑原和男、山田スミ子などという人たちが思い出されます。その中に、異色のキャラクターとして浜裕二さんがいらっしゃいました。
浜さんは劇団の中で孤立した立場だったような噂もありますが、芝居でも主役にはならない、独特の立ち位置の方でした。
私が吉本から関心が薄れて以後に

    チャーリー浜

と名乗られるようになって、全国的な人気を得るようになったそうですが、私はそれも知りませんでした。そんなわけで、私にとっては浜裕二さんでしかないのですが、その浜さんが先日亡くなったそうです。
浜さんは「キザなおぼっちゃま」とか腕っぷしはからきしダメなヤクザなどを演じられましたが、どれも上品そうなお顔、ほっそりした体形(後年、太られたようですが)、声柄などがうまくマッチしていたように思います。
浜さんを初めてテレビで見たとき、私はまだ小学生だったと思うのですが、喜劇役者の大村崑さんとよく似ていらっしゃいましたので、てっきり崑さんご本人が出ていらっしゃるものだと思っていました。浜さんが亡くなった時にある方からうかがった話では、大村崑さんが主演されていた『とんま天狗』というテレビ番組(私もかすかに覚えています)で浜さんは吹替をなさったこともあるそうです。
チャーリーというお名前はなるほど浜さんにはよく映ると思います。チャラチャラしたアメリカかぶれという感じがこの名前にぴったりはまるようです。私はチャーリーさんになられてからはよく知りませんので、最近改名されたのだろうと思っていたら、30年以上前だそうで、びっくりしました。
私が吉本新喜劇を観ていた頃の役者さんたち、つまり最初に名前を挙げた方々ですが、亡くなったり引退なさったりした人が多く、今となっては

    桑原和男さん

がかろうじて唯一現役ということでしょうか。桑原さんは今年85歳だそうで、もうあまり無理はできないでしょうが、私が好きだった吉本の最後の役者さんと言えると思います。
吉本の歴代の役者さんで芝居勘のすばらしかった人だと私が思うのは、圧倒的に花紀京さんで、それに次ぐのは岡八郎さん、原哲夫さんかなと思います。
木村進さん、間寛平さんのころから、徐々に吉本新喜劇がおもしろくなくなり、テレビで放映されているのは知っていたのですが観なくなってしまいました。木村さんは能力があったのに、才能に溺れてしまったような気がします。寛平さんは味のある方ですが、人間味を感じさせる芝居というよりは孤高のギャグタレントを発揮する方のような気がしてなりません。
その後の役者さんはほとんどわからなくなってしまいました。
浜さんが亡くなって、また吉本が遠くなったように思います。

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2021年文楽四月公演千秋楽 

以下の記事は4月半ばに書いたもので、実際は昨日が事実上の千秋楽でした。

本日は4月公演の千秋楽であり、簔助師匠のラストステージでもあります。新型コロナウイルスのパンデミックという、思いも寄らぬ状態の中で、この日が迎えられることは誠におめでたいと申すほかはありません。簔助師匠も、人形遣い人生をともかくも全うされたことと拝察いたします。
ほんとうにおつかれさまでした。そしておめでとうございます。
さて、次は五月東京公演。

演目は
『心中宵庚申 』
『生写朝顔話』
『摂州合邦辻』『契情倭荘子 (蝶の道行)』
だそうです。
引き続き、無事に公演が行われますように。

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できない講座 

長らく『源氏物語』の講座を続けてきました。受講者のみなさんはとても熱心で、その熱意に応えるために私なりに一生懸命予習してはお話しして参りました。
ところが昨年の夏には講座の途中で打ち切りが命ぜられ、何とも中途半端な終わり方をしてしまいました。
そのために、このブログの中でせめてもの補填として『源氏物語』のお話を書いてまいりました。
普段のブログ記事とは違ってかなり長いもので、時間もかかりました。しかしあれはずっと続けるつもりではなく、せめて新年度に再開されるまでの

    つなぎ

のつもりでした。
さて、新年度が近づいてきた3月ごろ、そろそろ何らかの連絡があってもよさそうなものだと思って待っていたのですが、なしのつぶて。以前から学園はこの講座を積極的に推進する気はないようでしたのできっと新年度も「ウイルス蔓延につき」という理由で中止になるのだろうと予想していました。
そして、大阪府は全国一の(実際は検査数の少ない東京都のほうが多いのかもしれませんが)感染者を出すに至り、あっさり中止が決まったようです。学園にとっては、このパンデミックは好都合だったかもしれません(という言い方は嫌味ですが)。
それにしても何か言ってくれればいいのですが、決まったのに音沙汰がなくて、4月になってこちらから聞いてやっと中止の事実が判明したのでした。そして今後もウイルスがどうなっても、おそらく再開、継続しないだろうという感触です。大学の使命の一つに社会教育と言うか

    生涯学習

の支援があるのです。しかし、黒字にならないとやらない、という考え方らしく、落胆してしまいました。ずいぶん昔に勤めていた広島市の学校では、最初から赤字になることを分かったうえで実施していました。受講者はとても多くて、私の講座にも大きな部屋がいっぱいになるくらい来られました。
こういう講座は、大学の責任であると同時に、広報活動なのです。広報にお金がかかるのは当然のことなのですが、そういう発想はないようです。
と、ぶつぶつぼやいてしまった理由のひとつには、少ないながらも私の収入がまた減ってしまうこともないとは言えません。

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それでもやりたいのですか 

私はオリンピックを東京で実施するという話が出たときから、ずっと反対意見を持ってきました。もちろんあの当時はウイルスのパンデミックなんて考えもしませんでしたが。
昨年、とりあえず延期になったことはひと安心だったのですが、きっとこのまま中止の方向に向くはずだという甘い考えを持っていました。
メディアはスポーツ情報としてはオリンピック代表に決まった人たちのことを報じないわけにはいかないでしょう。しかしその一方で、かなり強い疑念を持っているメディアもあるように思ってきました。
賛成派の人たちも「目の当たりでオリンピックを体験したい」という純粋な気持ちから言っている人も多いと思います。そういう人が若い人たちにたくさんいることは私にも感じ取っています。
しかし、肝心の政治の世界はそんななまやさしいものではないでしょう。オリンピックと、支持率向上や選挙での勝利を関連付けているのは明らかです。

    お祭り気分の余韻

の中で選挙に突入して勝利しようという与党の考え方は作戦というにはあまりにもいやらしいものだと思います。しかしおそらく現実には、それは有効な考え方なのでしょう。もしオリンピックが開催されたら、きっと多くの国民はお祭り気分でこのまま与党に任せればいいという気分になってしまうのだろうと予想されます。
ウイルス対策がうまくいかないだけに、政府がオリンピックに頼ろうとするのは、(いい意味ではありませんが)政治家らしい判断でしょう。ウイルスの蔓延なんて経験した者がないだけに困難なことはわかります。しかし、日本のこれまでの手法や各国の対策を分析すれば、おおよその道筋は見えてくるように思うのですがなかなか方針が定まらないように見えます。毅然とした対策というのは、ひょっとしたら政権にとってまずいものになってしまうのでしょうか。
私は相変わらず同じことを言いますが、今、日本で夏季オリンピックができるのは

    北海道くらいしかない

ように思うのです。もともと無理なことをしようとしているのに、この騒ぎのさなかでもまだ強行しようとするのは、理解に苦しみます。SNSで見たのですが、「反対派の人は白血病から立ち直って水泳で代表になった池江さんに中止だと言えるのか」と筋違いなことを言っていました。中止を言う(発表する)のは反対派の人ではありません。政府か組織委員会か東京都でしょう。かわいそうだ、という感情論は置いておかねばなりません。高校球児も生涯たった一度の甲子園を諦めた人たちがいたはずです。それ以外にも苦しんでいる人はたくさんいるのです。オリンピック選手が特別というのは間違っていると思います。それに、そういう言い方で池江さんという人の名前を出すのは、彼女に対してもいいことではないと思います。
もうすぐ5月です。東京での感染拡大がまた近づいていると思います。次のパリが安全に行われるように考えるべきなのではないかと私は思っています。

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「簑助」の名跡 

とてもデリケーリトな話なので、書くのをためらたのですが、遠慮せずに申します。

引退されても、簔助師匠は簔助師匠です。三代目相生太夫は引退されると同時にお弟子さんに四代目を譲ってご自身は相生翁と名乗られました。先代玉男師匠も一時は同じようなことをお考えになっていたみたいです。
さて、気になるのは、簔助師匠はこのお名前をどうしようとお考えなのだろうか、ということです。もともとこの名跡は三代目吉田文五郎(1869~1962)のご本名の巳之助から来ています。文五郎師匠は、初名を本名のまま吉田巳之助とおっしゃいましたが、その後「簔助」と改められ、桐竹亀松を経て三代目文五郎を襲名されました。そして二代目桐竹紋十郎師匠(1900~1970)が初代文昇から二代目簔助となり、その後、紋十郎を名乗られたのです。よって、我々の知る簔助師匠は

    三代目

ということになります。簔助師匠はこのお名前にとても愛着がおありと思われ、本当ならもっと大きな名前を襲名してもよさそうなのに、ついにこのお名前で現役を通されました。
引退されてもお名前を改められるとは伝わってきませんから、このままで通されるのでしょうか。そうだとしても、この師匠のことですから、四代目をどうするかということはお考えになっているのではありますまいか。
勘十郎、清十郎の名前を復活させた方であり、今の玉助さんの襲名のときに、名人の名跡というのは継いでこそ価値がある、という意味のことをおっしゃっていました。
とても

    華があり、

文五郎、紋十郎、簔助と名人三人が名乗られた名跡ですから、ぜひこのまま埋もれさせずに後世につないでほしいと私は思っています。
とはいえ、何と言っても人気実力ともに抜群の簔助師匠のお名前ですから、めったに継げるものではないでしょう。
今、どなたに継いでほしいということは言えないまでも、お弟子さん方も実力者揃いになってきました。どうかいい継承がありますようにと願わないではいられません。

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簔助師匠の引退(4) 

なんだかんだといっても、簔助師匠といえばやはり女形の人形が忘れられません。
これをいちいち挙げていたら日が暮れてしまうほど名演が数々あります。ここでは思いつくままにいくつかのみ書いておきます。すでに書きました「朝顔話」の深雪(朝顔)、「桂川」のお半については繰り返しません。
遊女では「河庄」の小春、「吉田屋」の夕霧、「曽根崎」のお初、「封印切」の梅川などがあります。小春もいいのですが、今の「河庄」は『心中紙屋治兵衛』のそれを使っていますので、全体的にあざとさがあって、小春の個性を浮き彫りにしきれていない恨みを感じています。そういうこともあって、私は梅川が一番好きなのです。封印切で興奮してしまった忠兵衛をたしなめるように、「なぜそのやうにのぼらんす」と声をかけ、自分はどうなってもあなた一人くらい面倒は見るとまでいう気強さ。遊女の色気を失わず、

    一本芯の通った女性

の魅力が鮮やかに描かれていると思います。そういう人物を描かせると、やはり簔助師匠の右に出る人形遣いさんは当代見当たらないように思うのです。
きりっとした女性には「三婦内」のお辰、「毛谷村」のお園、「引窓」のお早、「合邦」の玉手(お辻)、「城木屋」のお駒などもありました。
武家の姫君も一途で上品、可憐、いじらしさのある人形を遣われました。「妹山背山」の雛鳥、「金閣寺」の雪姫、「絹川村」の時姫、「十種香から狐火」の八重垣姫などです。
『忠臣蔵』では、腰元、田舎の女房、遊女と運命に翻弄されるようなおかるをそれぞれ場面にふさわしく表現されました。腰元おかるは勘平を松の木蔭に誘う積極的な今の言葉でいう「肉食系」のようです。山崎の女房おかるになると、母親に軽口をたたくなど、のどかな雰囲気も漂わせます。そして遊女になるととにかく色っぽい。二階で懐紙を団扇代わりにして

    酔いを醒ます姿態

は簔助師匠の独擅場という感じでした。あの魅惑に対抗できたのはやはり先代玉男師匠の由良之助ならではだと思います。
「千本の道行」の華やかさも忘れ難いものです。鼓を持つ姿の美しいことといったらありませんでした。文楽劇場開場公演では、先代勘十郎師匠が狐忠信。あんなすばらしいものがよくぞ観られたものだと今さらながら幸せを感じます。
いまでこそ三代目勘十郎さんの役になりましたが、「杉酒屋から金殿」のお三輪は、以前は簔助師匠のものでした。
いじらしい女性には「酒屋」のお園、「野崎村」のおみつ、「鬼界が島」の千鳥などがあります。
少し年を重ねた老女形になると、わきまえ、たしなみのある上品さがにじみ出ました。「山科閑居」のお石、「熊谷陣屋」の相模、「土佐将監閑居」のおとく、「豊島屋」のお吉、「太功記」の操、『ひらかな盛衰記』のお筆、「御殿」の政岡、「寺子屋」の千代や戸浪。
ほかにも、「袖萩祭文」の袖萩、「国姓爺」の錦祥女、「嫗山姥」の八重桐、「沼津」のお米、「岡崎」のお谷、「宵庚申」のお千代、景事では鷺娘など、本当にたくさんの名演を見せていただいたものです。
今後は、どうかお弟子さんなどにどんどんダメ出しをしていただいて、ますます文楽のためにご活躍いただきたいと願っています。

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簔助師匠の引退(3) 

もうお忘れだとは思いますが、簔助師匠は一時私のことを知っていてくださいました。
以前も書いた自慢話(笑)を繰り返します。
東京国立劇場の公演の時、平河町の横断歩道で信号待ちをしていたことがありました。何となく人の気配を感じたものですから、ふと振り返るとそこに簔助師匠がいらして、にっこりして「おはようさん」とおっしゃいました。もうびっくりして、「お、お、おはよう、ご、ご、ございます」としどろもどろにお返事したものでした。
吉田勘彌さんたちが立ちあげられた「十色会」の稽古にうかがったことがあります。簔助師匠や文吾さんらがいらっしゃっていましたが、ひとしきり演技が終わったあと、客席にいらした師匠が舞台に上がって手取り足取り、ほんとうに熱心に指導を始められたのです。怒鳴るような感じではなく、身振りを交えながら、懇切に指導なさっていました。私は稽古を見せてもらいに行ったはずなのに、簔助師匠の指導ぶりばかりが印象に残るような気持ちになりました。そして指導が終わって師匠がお帰りになろうとして客席に降りてこられました。ぼんやりしていた私は師匠がどんどん近づいて来られるのでなんとなく「これはまずい」と思っていたのですが、逃げるわけにもいかず、金縛りにあったようになっていました。すると師匠は私をご覧になって「おお、こんにちは」とまた愛想よく声をかけてくださったのでした。
簔助師匠の役はもう数限りなく、と言いたくなるほどの逸品ぞろいでした。女形のイメージが強いのですが、お弟子さんに伺ったところ、師匠は

    「ワシは女形遣いとちゃう(違う)」

とおっしゃっていたそうです。
私も印象に残っている立ち役があります。その代表は『菅原伝授手習鑑』「佐太村」の桜丸、『心中天網島』の治兵衛、『義経千本桜』「すしや」の維盛弥助、『新うすゆき物語』の奴妻平です。
四代目竹本越路太夫師匠の引退披露の公演(1989年)は「桜丸切腹」でしたが、あのときは先代玉男師匠の白太夫に簔助師匠の桜丸でした。越路師匠がなぜ引退されるのか不思議なくらいすばらしい語りで、しかも手摺が完璧に演じられ、すばらしい舞台でした。
奴妻平は、拝見するまではなぜ簔助師匠がこの役をなさるのだろう、といぶかしく思うくらいでしたが、清水寺の桜の中で奴の雰囲気も鮮やかに、いかにもきっぷのよい性根が描かれていました。実に存在感豊かな奴で、妻平ってこんなにいい役だったのか、と思い知ったものでした。
弥助(実は平維盛)は、

    文楽劇場の開場公演

で拝見しました。私はまだ二十代のころで、文楽の醍醐味なんてわかるはずもなかったのですが、弥助という人物がなんとも浮世離れしているというか、「雲居に近き御方」(お里のクドキ)にふさわしい性根がありありとうかがえたのでした。あのときは先代清十郎師がお里だったのですが、ご病気のために初日だけの出演であとは休演なさり、代役は一暢さんでした。空き桶を取りに行っていた弥助が戻ってくると、お里は嬉しくて「もしやどこぞへ寄つてかと気が回つた、案じた」と駆け寄りますが、そのときも弥助はどこか超然として「世話」のお里とは一線を画す「時代」の世界の人らしい性根が見えたのです。
この役は、規矩正しい演技の玉男師匠でも拝見しましたが、簔助師匠のものはもっと色気の匂う弥助だったように思います。
簔助師匠の立ち役というと、ほかにも「鑓の権三」の笹野権三、「長町裏」の義平次、「忠臣蔵」の大星、「すしや」の権太などがありました。
義平次は先代勘十郎師匠の追善公演で、当時の簔太郎(今の勘十郎)さんの団七に付き合われたのでした。油壷から出すような権三は簔助師匠その人のようで実によく映るものでした。ただ、玉男師匠が亡くなったあとに遣われた大星と権太はどうにも無理があったように思いました。

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簔助師匠の引退(2) 

引退はなかなか難しいものです。どうしても「まだできる」と思いたくなりますから。余力を残して、と見える引退は、最近では越路太夫、嶋太夫あたりでしょうか。嶋師匠はご本人の意思ではなかったように承っていますので、そうなると越路師匠お一人とも言えそうです。
簔助師匠も、余力を残して、と言えるのかどうか、何とも難しいところです。やはりあの大病がありましたから、50代のころのあの華やかさと憂いを兼ね備えた人形は復帰された後はさすがに影をひそめたと思うのです。こういうことを書きますと、そんな失礼なことを言うな、というご意見も出てくると思うのですが、とにかくそれほどに50代のころの簔助師匠の人形は鬼気迫るようなすばらしいものでした。ご病気のあとはどうしても何かのはずみで動きに不自然さがある場合も少なくなかったと私には思えてなりません。たとえば、『廿四孝』の

    八重垣姫

では「十種香」のしっとりとした雰囲気のあと、「奥庭狐火」では左遣いも足遣いも一瞬の油断もできないほど華やかに、自在に動かれました。しかしその後、NHKの古典芸能鑑賞会で拝見した八重垣姫は、かなり動きを省いたものだったのです。
そうは言うものの、人形にこめる魂はますます深遠さを増して、動きの不足を補って余りあるような境地に到達なさったと思うのです。いつぞや拝見した『朝顔話』の「浜松小屋」で簔助師匠の朝顔、文雀師匠の浅香を拝見した時は、感動で震えたほどでした。簔助・文雀というと「千本の道行」で簔助師匠の静御前、文雀師匠の忠信というのもありましたが、どうも息が合わないような気がして消化不良だった覚えがあります。ところがこの「浜松小屋」は合うも合わないもなく、それぞれに人形の性根が実に明確にうかがえて、あの名人お二人の

    姿が消えた

ような気にすらなったのです。あんな感動的な「浜松小屋」があっただろうか、と思うほどの名演だったと今も信じています。
『生写朝顔話』のヒロインは、深雪時代の可憐な様子と、朝顔となってからのはかなくも一途な姿は下手をすると違った人物のように描いてしまいかねませんが、簔助師匠の朝顔はどの場面をとっても深雪であり朝顔でありつつ、同じ一人の人間であることが間違いなくうかがわれたものです。
『艶姿女舞衣』「酒屋」のお園は、あまりにもあのクドキが有名であるだけに、そこを思いきり派手に見せたくなるように思うのです。簔助師匠のお園は「今ごろは半七つあん」で行灯に手をやって、心の奥底でつぶやいているかのようです。あのクドキを聴いて親たちが感動するわけですから、実際は声に出しているのでしょうけれど、簔助師匠のお園はつぶやいているのか、声にならない声で思い詰めているだけなのか。私はどちらともいえない、ちょうどその間のように受け止めていました。

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簔助師匠の引退(1) 

文楽の吉田簔助師匠が引退されるそうです。
これくらいの方であれば、この公演を引退興行の形をとって開催してもいいと思うのですが、公演半ばにしての発表でした。
どうやら、派手に引退することをお嫌いになって、ひっそりとやめていきたいというのが師匠のお考えのようです。それで公演の始まるころに内々にはおっしゃっていて、公演の後半になるに際して公表なさったようです。これはこれで、簔助師匠の美学ですからこれまでの功績を考えた場合、そのお考えを重んじるほかはないと思います。公表の時期も、ひょっとしたら簔助師匠は公演終了を待って、とでもお考えではなかったか、それはいくら何でも、というので公演半ばになったのではないか。・・というのはまったく私の邪推に過ぎません。
私はまだどの技芸員さんが何というお名前の人かわからずに文楽を観ていた時は別として、それでも昭和五十年代の前半から

    40年以上

にわたって拝見してきました。
当時まだ40代でいらっしゃった簔助師匠は、先代清十郎師匠とともに主に女形の花形であり、また最高峰として活躍されていました。
当時の人形の番付は、玉男(先代)、勘十郎(先代)、清十郎(先代)、簔助、文雀、文昇(先代)という順で、亀松、玉五郎という古老が番付の中軸と別書き出しにいらっしゃいました。この中では簔助師匠が一番お若く、実際、他の方々はすでに鬼籍に入られました。
あの当時、亀松さんが八十代前半のお歳でしたが、人形がかなりぎくしゃくしたり、大きな動きはできなくなっていたりしていました。八十代で人形を遣うなんて無理だろう、と、まだ学生だった私は思ったものでした。しかしその後、寿命が延びて、七十代なんてまだまだ、という感じになってきています。
ただ、簔助師匠は脳梗塞に倒れられ、懸命のリハビリでやっと復帰されたのでした。復帰公演は1999年の夏の公演で、

    『桂川連理柵』のお半

でした。私にとっては、この公演は別の意味で忘れられないものなのです。雑誌『上方芸能』で文楽表を担当されていたのは当時毎日新聞にいらした宮辻政夫さんでしたが、この直前にお辞めになりました。一方、私はそういうことと関係なく、ずっと文楽の感想をメモする習慣があったのですが、それを同誌の編集部の方に知られたために(笑)、後継をするように言われたのです。私なんてそんな能力はありませんから、とんでもない話だといってお断りしましたが、すったもんだの挙句「それでは一度書いてみますので、編集部で判断してください」と簔助師匠復帰公演から筆を起こしたのです。すると、あっさりそれがそのまま雑誌に載ってしまい、いつしか私がそのまま続ける羽目になってしまったのです。
私は、「帯屋」でお半が暖簾の間から顔をのぞかせ、やがて簔助師匠が姿を現されたときの万雷の拍手が忘れられず、そのことから書き始めたのでした。文楽劇場であれほどお客さんがからだをゆすったり涙を流したりしながら拍手されたのは観たことがありませんでしたから。(続く)

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時事短歌 

昨日書きましたように、短歌に政治的な内容を詠まれると、その政治家や政策についての意見が歌のよしあしにまで影響してしまうように感じます。
たとえば昨日上げた前の総理大臣について「晩節を汚した」という歌がある場合、それを人が集まって歌会で批評し合うようなときに「あの人は世界に誇れる総理大臣だった」という人もいれば「無能でうそつきの最悪の総理大臣だった」という人もありそうです。批評の場で、いつの間にか「いやすばらしい人だった」「とんでもない人だった」「それはひどい」「そっちことむちゃくちゃだ」などと言い合い始めたら、もともとの短歌はどこかに行ってしまいそうです。
私自身はそういう内容の歌は詠まないのですが、

    時事短歌

というのを否定するものでもありません。朝日新聞の「歌壇」のページを見ると、しばしばこういう政治がらみの短歌が採られています。ただ、私は時として「これが『歌』なのだろうか」と思うようなものもあるのです。たとえばオリンピックの前の組織委員長や選挙違反の当事者の国会議員に対する抗議の内容の短歌が入選したりしていますが、ほとんど批判の言葉を三十一文字連ねたように見えることもあります。これが保守系の新聞だったら載らないだろうな、と思うようことが多いのです。実際のところ、読売新聞や産経新聞がどのような短歌を載せているのか知らないのですが、一度同じような内容のものをそれらの新聞の「歌壇」のページに送ってみようかと思うくらいです(もちろんハガキ代がもったいないのでそんなことはしませんが)。
江戸時代には

    狂歌

というのがありました。教科書にも載っている有名なものとしては「太平の眠りをさますじやうきせんたつた四はいで夜も寝られず」があります。「上喜撰」(宇治の茶)に「蒸気船」を、茶を「四杯」に蒸気船が「四杯(隻)」を掛けたもので、実におもしろいものです。掛詞を用いて表ではお茶の飲み過ぎで夜も寝られないといいつつ、実際は黒船のために不安で眠れないという意味を詠むわけです。このように、狂歌は時事的なことを表現するのにふさわしいと思うのですが、さて短歌はどうなのだろう、と考えてしまいます。
短歌は花鳥風月の美しさだけでなく、そこに投影する人の心を詠むべきだと思います。それなら、社会問題を詠み込む場合も詠み手の心がにじむような歌がいいと思います。オリンピックの組織委員長が「女性は話が長い」というようなことを言ったとき、朝日新聞の「歌壇」に、それを批判するだけでなく「批判する自分もまた同じことを考えている」という立場から詠んだものがありました。ああいうのは詠み手の心がにじむので悪くはないと思いました。

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短歌の批評 

所属している短歌会では平素は歌会をおこなっているようです。題詠(ある題が提示されて、それについて詠む)と自由題の2首を提出して、それが出席者に匿名の形で提示され、批評をしていくのです。名前があると、どうしても気を使ってしまいますから、匿名にするのはいいと思います。
しかしこのご時世で、この歌会の実施できない状態が続いています。
そこで、紙上歌会として、あらかじめ提出された歌を会員に配布して、それに感想や批評を書き込んでもらい、作者にフィードバックするのです。
私は、まだ新米ですので、つい遠慮してしまって、これまでは歌も出していませんでしたし、感想も送りませんでした。
しかし、いつまでもそういう状態では会員になった意味がないように思い、今回は、歌は出さなかったのですが、せめて意見だけは述べようと思って、

    40首ほどの歌

について全部意見を書いて送りました。
何だか偉そうなことを言っているなぁ、と思いつつも、切磋琢磨するためですから、あまり遠慮せずに書いたのです。
それが代表の先生によってまとめられて送り返されてきました。短歌はわずか31文字ですから、時として意味を取り違えてしまうこともあり得ます。それを恐れてはいたのですが、どうやら大丈夫だったようです。
ただ、中には政治的状況を詠む歌があって、これは社会詠としてはありだと思いますが、純粋に文学としての面白さ以外の要素が入ってくるのでどのように評価すべきか難しい面もあります。簡単に申しますと、支持政党の違いで同じ歌に対する評価がまるで違ってくるということもあるわけです。
このたびの短歌の中に、前の総理大臣について

    「晩節を汚している」

という意味のものがあったのですが、私はつい「そうだそうだ」と言わんばかりのことを書いてしまいました。ところが中には「世界に誇れる総理大臣だった」と書いていらっしゃる方もあって、もちろんそうお思いになるのは自由なのですが、作者の思いを考えた場合、批評の言葉としてはどんなものかと思いました。
「橋本さん」にエールを送る歌もありました。これはおそらくオリンピックの組織委員会の聖子さんだろうと思います。敵を作らないことで知られる彼女ですから、この歌に対してはやはりみなさん悪くはおっしゃいませんでした。
短歌としてどうかという意見なら思ったことをはっきり書くことができるのですが、このように政治的、社会的なことを詠まれた場合、違う評価が入ってきてしまいますので、意見の書き方が難しいものだと感じました。

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接待 

私は仕事柄、接待というものを受けたことがありません。いや、同業者でも接待される人はされるのだと思いますが、私はそんな大物ではありませんので経験がないのだと思います。企業との関係の深い理系や経済系の学者さんはやはり多いのかもしれません。もっとも、劇場関係の人に「経費で落としますから」と言われてコーヒーをおごってもらった(笑)という程度のことはありましたが。
よく、仕事で文楽劇場に行っていましたから、そのときは「木戸御免なんでしょ」と思われていたふしがあるのですがとんでもない。ほとんど自腹で、招待券をもらったのは数回です。某雑誌の仕事をしていた時も、チケット代は出ませんので、完全に赤字で原稿を書いていました。そんなものだと思っていましたので不満はありませんでしたけれども。
昨今、「会食か接待か。それが疑問だ」というハムレットみたいなことがお役人の世界で話題になっているようです。高給取りなのですから払えないはずはありませんが、おごってもらえるとなると人間誰しも拒否したくはありませんよね。しかしそれが原因で仕事を辞めざるを得なかった人もこのところ何人かいたようで、まさに

    タダほど高いものはない

というのを見せつけられた思いがしました。もっともあの人たちは辞職したからと言って流浪するわけではなく、天下り先がいろいろあるらしいのでそういう意味では心配してあげることもないのですが。
天下りというのは受け入れる方にするとありがたいことなのでしょうか。大学にも、学問系の出身でない人が人寄せパンダ的に入ってきたり、元はどこかの有名大学の偉い先生だった人が定年で辞めたあとの隠居仕事としてやってきたりすることもあって、正直なところ迷惑もしました。なにしろ、ろくに働かないのですから(笑)。
閑話休題。接待ということでごくささやかなことを思い出しました。昔、文楽関係の仕事の話で、私の共住地の市役所の文化の部署の部長さんだったと思うのですが、そういう方が家に来られたことがありました。私がその人を接待する理由などありませんから、お茶だけを出して話をうかがったのです。
ところがその、いかにも

    きまじめなお役人さん

というイメージの方は、お茶にいっさい手を付けず、申しわけ程度に出していたお菓子にも見向きもしませんでした。そして用件を済ませると、家の前に停めていた軽自動車に乗ってそそくさと帰って行かれたのです。あの車、細かいことを言うと駐車違反でしたが、市役所の名前が入っていましたからもし警察に見つかっても大丈夫でしょうね(笑)。
単に遠慮深い性格の方だっただけかもしれませんが、仕事で出向いたところでは何も口にしない、という意味だったのかな、と、思わないでもなかったのです。
話をしていてもにこりともせず、愛想がいいとはお世辞にも言えない人ではありましたが、清廉という意味ではなかなかたいしたものだったと思い出すのです。

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始末の極意 

昔、家の近所にお菓子屋さん、というよりむしろ「あられ屋さん」というべきお店がありました。そこでは昆虫採集のケースの大型みたいなガラスの入れ物がずらっと並んでいて、その中にさまざまな「おかき」「あられ」「せんべい」が入っていました。販売方法は量り売りで、「100g○○円」というような札が置いてありました。お客さんが「このあられを200gちょうだい」というと、お店の人がガラスケースのふたを取って小さなスコップのようなもので紙の袋に詰めて重さをはかり「5gおまけしとく」とかなんとかいって売っていました。紙の袋は薄いもので、それをくるくるっと回して上の部分をひねるようにして渡していました。
買った人はそれを家に持ち帰ると

    湿気を避ける

ためにあられを入れる木製の丸い容器(あれ、なんていうのでしょうか。ご飯を入れるおひつの小型のようなものです)に移し替えていました。食べるときはその容器のふたを開けて食べて、また閉めておく、ということを繰り返して湿気を防いでいたのです。おそらく当時のホームドラマや映画を観れば、そういう場面があるでしょう。
今や、そんな風景は見られず、プラスチックの袋に入ったスナック菓子がスーパーなどに山積みされています。大袋であれば途中で食べ終わったら上部を少し巻くようにしてせんたくばさみ(笑)でとめておけば湿気はかなり避けられます。いや、今やそんな必要はありません。中の空気を出来るだけ抜いて上部にあるレールのようなものをプチプチッ、キューッと押さえておくとそれでOK。まったく便利というか、横着というか。もっとすごいのは「個包装」で、大袋の中に小袋が入っていてその中にお菓子が入っているという仕組みです。もうプラスチックだらけ。念の入ったことです。
去年の夏からでしたか、スーパーなどのレジ袋が、できるだけ使わないように、という意味で

    有料化

されました。世の中、プラスチックだらけですから、それだけではたいした効果はないでしょうが、それでも少しでも減らすことは必要だろうと思って協力しています。
阪急百貨店の店員さんが言っていましたが、マイバッグあるいはエコバッグというのでしょうか、自前の袋を持ってこなかった人が買い物に来てレジ袋を要求され、「3円いただきます」と言ったら「阪急ともあろうものがそんなけちくさいこというな。ひとつくれ」と言われて困ったそうです。その店員さんは肚の中で「けちくさいのはどっちやねん!」と怒鳴ったそうです。でも規則なのでどうしようもない、と返事をしたら、その人は「もういらん!」と言ったかと思うと、買ったものをはだかのまま

    両手で抱えて

帰ったそうです。昨日までタダだったものを有料化されると、3円でも嫌がるという、不思議な人間心理ですね。
私も当初はマイバッグを持って行くのを忘れてよく3円払っていましたが、最近はどこへ行くにも「何か買うことがあるかもしれない」と思って袋を持って行きます(笑)。このバッグというのがよくできていて、とても小さくたたむことができます。かさばらないのでポケットにも入るくらいです。
しかし、あのレジ袋はゴミ捨てに重宝しましたので、私の家では無駄にすることはありませんでした。今はやむを得ず専用のゴミ袋を使っていますから、私の家に限るとあまりプラスチック削減にはなっていません。でも、多くの人はコンビニで何かを買ってすぐに食べてレジ袋もポイと捨てていたはずですから、やはりかなりの効果があったのでしょうね。
もっとも、こういうことをいちいち環境省から言われなくても、なにごとも常に各自で始末するべきなのです。そういえばもう「倹約する」という意味の「始末する」という言葉ももはや若い世代の人には伝わらないかもしれません。落語に「始末の極意」がありますが、あれは時代を先取りした提言だったのかもしれません。

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約束を守らない人たち 

緊急事態宣言で、不要不急の夜の外出は避けること、とお触れが出ていたのに、一部の政治家たちはどこかで飲み歩いていたようです。また、宣言を終えてからも夜遅くの長時間の多人数での飲食は避けてくださいと言っていたはずの厚生労働省の役人が夜遅くに長時間にわたって多数で送別会をしていたのだとか。所詮政治家も官僚も弱くてつまらない人間ですから、模範的であれなどと言っても虚しいことなのかもしれません。しかし、それならば自分たちは特別、などという特権意識も持たないでいただきたい。

    平安時代

の話です。
当時も結婚は一夫一妻なのに、貴族はおかまいなし。女性は政治に参加しません。女官はいますが、大臣、大納言、中納言、参議という「公卿(くぎょう)」はもちろんのこと、役人と名の付くものはすべて男性でした。だから、男性の身勝手な論理は通用してしまったのです。
結婚できる年齢は男子十五歳、女子十三歳と「令(りょう)」の規定にありますが、例えば後一条天皇に藤原道長の娘威子が入内した時、天皇は十一歳でした。もちろん、天皇自身が結婚したいと言ったわけではありません。藤原道長がわが娘を強引に入内させたのです。ちなみに後一条天皇は威子の甥で、9歳年少でした。今で言うなら、大学1年生の女の子と小学4年生の男の子と結婚ということです。
また、これはフィクションではありますが、『源氏物語』では明石の姫君という人が春宮の子を十三歳で産んでいます。
賀茂祭の日には華美にすぎること(「過差」といいました)が多くて、何度も自粛のお達しが出されました。貴族たちは、しばらくはそれに従っても、のど元過ぎればまた同じことを繰り返しました。
藤原師輔という人は最高クラスの貴族でしたが、子孫に厳しく生活するように戒め(以前ここでご紹介した「九条殿遺誡」)を残したのに、きちんと守った形跡はありません。
今の一部の政治家を見ていると、さながら

    平安貴族

です。「誰それの子(あるいは子孫)である」ということが世に出るもっとも有効な手段で、能力などなくても「お坊ちゃま」であれば注目されて議員になどすぐになれます。メディアも世襲を批判すると言いながら、そういう連中を話題にして事実上の援護射撃をすることが少なくありません。
まれに世襲以外の人が頭角を現すことはあります。しかし、苦学して実力だけで成長した「たたきあげ」ならまだしも、「お坊ちゃま」の腰巾着になってその意に沿うような振る舞いに明け暮れ、何かの偶然で少しでも地位を得たらその権力を横暴に使うような「成り上がり」ではどうにもなりません。

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深夜の娯楽 

映画『黒蜥蜴』を観たのはテレビの深夜番組だったのですが、深夜のテレビやラジオを視聴するのは昔からあまり得意な方ではありませんでした。
小学生のころは9時に就寝と言われていましたので私はそのとおりに寝ていました。中学生になると少し遅くまで起きていることはありましたが、せいぜい10時過ぎ。ところが、同級生の多くはラジオの深夜番組を聴いていて、私は流行に後れていることがわかりました。今なら平気ですが、当時はちょっと悔しくて、がんばってラジオを聴こうと思いました。古くなってもういらないからという理由で下げ渡された(笑)ほんとうに古いラジオが私の宝物でした。今の子どもたちとは雲泥の差の生活でした。聴いていたのはもちろんAMラジオです。関西では桂三枝(現文枝)さんや笑福亭仁鶴さんが大変な人気を誇っていました。ところが「深夜」番組ですから、11時過ぎから始まり、相変わらず早寝の習慣のあった私は始まるころには寝ているということも多かったのです。しかも、三枝さんらの

    ヤングタウン

はいささか肌が合わないというか、あまりにも騒がしい感じがしてほとんど知らないのです。また、先代春蝶さん、仁鶴さん、小米(のちの二代目枝雀)さんらの番組もありましたが、遅くまで続くトーク番組なので、付き合いきれないままでした。ああいうのを聴いておけば話術の勉強になったかな、とは思うのですが。同じ時間帯に比較的穏やかに音楽を流していたのが「ヤングリクエスト」という番組で、こちらは「次の曲が終わったら寝よう」ということができましたので、11時に始まって11時半には寝る(笑)ということができました。
テレビの深夜番組は、当時はいわゆる「大人の番組」でしたから、とても観ることはできませんし、興味もありませんでした。
大学生くらいになって、やっと11時頃から1時頃までの

    名作映画

などをちらちらと観るようになったのです。その中に『黒蜥蜴』も入っていたのです。
その後はテレビそのものから離れた生活をしていました。下宿していた頃はテレビを持っていませんでしたので、友だちの話題についていけませんでした。広島で一人暮らしを始めたときはさすがにテレビもないのはまずいような気がしましたので、手に入れてスポーツ番組などを観ていましたが、相変わらず夜は早寝でした。
テレビで放送される映画もゴールデンタイムに放送されていましたから、

    風と共に去りぬ

とか『ベン・ハー』とか、そういうかつての名作は眠くならないうちに観ることができました。
いわゆる「夜遊び」もめったにしませんでしたし、思えば、私は深夜の娯楽というのをほとんど知らないまま生きてきたことになります。
かろうじて、徹夜でディスコに行ったこととか、コンパのあと家に帰れずに神戸の街中で夜明かししたこととか、そういうのはありましたが(笑)。

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江戸川乱歩 

兄が小学校の高学年のころ、そろそろ少年ものの本を読むというので江戸川乱歩の『少年探偵団』シリーズを親に買ってもらっていました。私は兄とは三つ違いますのでさすがにまだ早かったかもしれないのですが、ついでに読んでみました。数冊あったと思うのですが、どれもひとりで読んでいると不気味で寒気がする場面があったように思います。
江戸川乱歩という不思議な名前は「ペンネーム」というもので、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーをもじっているのだというのも兄に教わりました。乱歩の本名は平井太郎というのだそうで、このご本名で怪奇作品を書かれてもあまり怖くないかも(笑)。
私が初めて読んだ乱歩作品は「少年探偵団」ですから、小林少年とか

    ポケット小僧

らが活躍するものでしたから乱歩という人は少年対象の専門作家くらいに思っていました。しかしそうではないということもおいおい知るようになり、少し難しそうな作品があることもわかってきました。ただ、中高生の時代はあまり乱歩のような傾向の作品は好きではなく、ほとんど読まなかったと思います。
ただし、中学生のころだったかもしれませんが、丸山(美輪)明宏主演(明智は天地茂だったか?)の『黒蜥蜴』の舞台をテレビで観たことがあり、とてもおもしろいと思いました。二人が割り台詞で思いを述べ合う場面は明瞭に覚えています。
大学生のころに三島由紀夫の作品をまとめて読み、その中には『黒蜥蜴』の脚本もありました。あのとき観た『黒蜥蜴』は三島由紀夫の脚色だったのか、と知って改めて興味を持ちました。小川真由美、中山仁の舞台も観ました。井上梅次監督(京マチ子、大木実)と、深作欣二監督(丸山明宏、木村功)で映画にもなっており、私はテレビの深夜映画(笑)だったと思うのですが、どちらも観たことがあります。
あとは単発的に『パノラマ島奇談』とか

    『人間椅子』

とか『D坂の殺人事件』などをポツポツと読んだように思いますが、すでに古典文学に傾倒していましたので、乱歩に熱中するという時期はありませんでした。
この3月に図書館に行ったとき、腰痛でしたので、あまり難しい本を読む元気がなく、何かおもしろそうなものはないかと探したところ、江戸川乱歩の没後50年のときに刊行された作品集がありました。
パラパラと見たら、『人間椅子』などが入っていて、久しぶりに読んでみるか、ということで借りてきたのです。
今読んでもやはりおもしろいものですね。『D坂の殺人事件』の「D坂」は東京の団子坂のことですが、この作品で明智小五郎が初めて登場したということを今回知りました。
しかし、よく考えてみると、私はこれまで『黒蜥蜴』の舞台や映画は観ているのに原作は読んだことがないのでした。
前述の作品集には入っていませんが、文庫本などで図書館にあることがわかりましたので、三島脚本とどう違うのかに興味もあり、一度読んでみようかなと思っています。

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4年ぶりの骨密度 

薬の副作用で骨が普通の人より弱くなっている可能性があります。いわゆる「骨粗鬆症」になっているかもしれないという危惧があるのです。
それで、今から4年前に「一度骨密度を検査しておきましょう」と言われ、測ったのですが、そのときは「まったく問題はない、同年代の人と比較すると平均またはそれ以上である」という結果が出ていました。また若年成人の平均値と比較してもほぼ互角でした。もともと骨は強い方だと思っていましたので、そんなにひどくはないだろうと自信があったのですが、その

    自信が裏付けられた

感じでした。
ところが、この3月に腰を痛めたのはさらにそのときよりも骨が弱っているせいではないか、という疑いを医師は持ったようです。これは内科の医者も整形外科の医者も同じことを言っていました。
それで、久しぶりに骨密度を計測することになりました。X線といっても、肺ではないので「息を吸って、止めて」という必要がなく、何の苦痛もありません。
結果はすぐに出ます。私の骨密度(カルシウム量)はやはり4年前より下がっていました。当然、若者との比較でも数字は低くなっています。さすがにちょっとショックでしたし、副作用が出ているのか、腰痛もこれが原因なのかと不安になったのですが、よく考えたら加齢に比例して骨密度は落ちていくわけで、4年経てばそれなりに低くなっても問題はないわけです。
大事なのは

    同年代の人

との比較です。
腰椎と大腿骨(頸部)を測りますが、腰椎は同年代比約106%、大腿部は約116%だそうで、これは4年前(腰椎は100%、大腿骨は109%)よりかなり高くなっています。ということは、4年前に比べると数字そのものは下がっているにもかかわらず、加齢によって下がった度合いはほかの人に比べると少なかったということでしょう。
その意味では喜ぶべきなのかもしれませんが、あたりまえもことながら、もう若者と同じというわけにはいかないのだな、と加齢の哀しみをひしひしと感じたのでした。

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勘彌さんおめでとうございます 

少し前の話になりますが、国立劇場の文楽賞が発表されました。例年は4月公演の舞台上で表彰式が行われるのですが、今年は感染予防の見地から中止だったのだそうです。
それでも賞を受けた方に対するお祝いは申し上げたいと思います。
大賞は竹本千歳太夫さん。もう私にはさっぱりわかりませんが、もともと力のある人で、しかも勉強家ですから、いよいよ花開いたという感があります。このところ四段目をよく語っていらっしゃった印象がありますが、声柄から言うと三段目の人だと思っていましたので、その本領は今後示されるのではないかと思っています。
千歳太夫さんももう還暦を過ぎられましたし、力量から言うと切語りに匹敵するものをお持ちなのではないかと想像しています。間違いなく今後の文楽を支えていく人でしょう。
文楽優秀賞には「またか」と思うくらい表彰を受け続けていらっしゃる桐竹勘十郎さん、そして吉田勘彌さんも同じ賞を受けられました。勘十郎さんについては、もう完全に脂が乗りきっていて、

    飛ぶ鳥を落とす

勢いとも言えそうです。
奨励賞は豊竹希太夫さん、豊竹靖太夫さん(このお二人は同期でしたっけ?)。そして特別賞は文化功労者になられた鶴澤清治さんでした。
同時に発表される若手の表彰である文楽協会賞は竹本碩太夫、鶴澤燕二郎、桐竹勘次郎のお三方でした。この中で私がわかるのは勘次郎さんだけですが、私は以前からこの人はきっとものになると思っていましたので、ますます期待が高まります。碩太夫さんや燕二郎さんはファンの方々がずいぶん期待なさっているようですので、きっとすばらしい才能をお持ちなのでしょう。どうか大成されますように。
さて、この表彰者の中でも私がもっともうれしいのは勘彌さんの受賞です。勘彌さんはもう30年来のお付き合いですが、当時はまだ左遣いの修行中で、どんな人形遣いさんになられるか楽しみではありましたが、まだ評価のしにくいころでした。しかし、あのころ勘彌さんが中心になって始められた

    十色会

での成果が、今になって実を結んだと言えそうです。勘彌さんは、十色会について、「自分が60代になって、『主役をやれ』と言われたとして『できません』とはいえないから、やはり今のうちに体験しておくべきだと考えている」というようなことをおっしゃっていました。酒席でとても熱っぽく語っていらっしゃったことを覚えています。
そして今は見事に主役クラスの人形を遣っていらっしゃいます。
樋口とか知盛のような大きな人形を遣うタイプではないと思います。私が勘彌さんの人形で好きなのは、何を考えているかわからないような不思議な人物、たとえば維盛弥助とか求馬とか。そして女形ではゆくゆく政岡を遣うようになってほしいと思っています。
ますますの研鑽を願っています。

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道頓堀残照 

カフェから道頓堀を思い出すのはどうも最近ノスタルジックになりがちな心境のなせるわざかもしれません。
私は大阪の人間ではありませんから、道頓堀は子どものころは遠い町でした。わずかに「くいだおれ」の人形という不思議なものがあることは知っていましたが。
その道頓堀に、親に連れられて行ったことがあり、そのときには、とても人の多いところで、あの「くいだおれ」の人形は巨大なものだった、という印象を持ちました。もちろん実際は自分が小さかっただけのことで、大人になって見てみると「こんなものだったのか」と拍子抜けしましたが。
子どものころは道頓堀というとそれくらいの印象しかなく、まさか文楽があそこでおこなわれていたとは知りませんでした。
高校生くらいになって文楽をテレビでチラチラ見るようになってからも、まだ

    朝日座

という言葉も覚えていなかっただろうと思います。
明治のころには、東から弁天座、朝日座、角座、中座、浪花座があって、にぎわったようです。この朝日座は文楽の朝日座ではなく、私が道頓堀を知るようになったころは東映の映画館になっていたところです。文楽の朝日座は、もとは弁天座でした。
私はこの中で多分映画館の朝日座には入ったことがないと思います。角座は入らなくても毎週テレビで

    道頓堀アワー

という番組があって、寄席中継をしていました。浪花座は、私の場合寄席の劇場として行きました笑福亭呂鶴さんの独演会などに行った覚えがあります。
中座は歌舞伎。弁天座は文楽の朝日座になっていました。あのころは、道頓堀を歩いていて、「文楽は綱太夫の『日向嶋』が評判やな」「中(中座)では若手の吉右衛門が来たはるで」「角(角座)覗いて見よか。六代目(松鶴)の看板が出てるわ」などと言って品定めしながらどこかに入る、という楽しみがあったはずなのです。私もかろうじてそういうことをした経験があります。これが芝居街の醍醐味です。
浪花座の位置には

    竹本座跡

の碑がありますが、なんだかもうあたりの喧騒に埋もれてしまったようにすら感じられます。
道頓堀は、大阪が芝居街であったときの名残をとどめる大事な場所でした。中座の火災が文楽劇場建設より先にあったのであれば、文楽劇場はその跡地に建てればよかったのですが、それは今さらいってもしかたのないことです。何も伝統芸能だけにこだわることはないのです。もっと新しい芝居も上演させるような活気のある街に持って行けばよかったと思います。
道頓堀川も「赤い灯青い灯」がゆらめく色香漂う場所だったのに、いつしか「めでたいことがあると若者が飛び込む川」になってしまい、あげくには「プールにして遠泳選手権をしよう」とさえ計画されました。
今は、西の端に「芝居街道頓堀」の残照のように松竹座がありますが、あとは見るかげもなくなってしまいました。
「文化の香り」などというと、大阪の議会の人あたりからはせせら笑いを受けるかもしれませんが、私はやはりそういう香りが懐かしくて仕方がありません。

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カフェ 

「喫茶店」という語はもう死語になっているのでしょうか。どうも「カフェ」という語が事実上それにとってかわっているように思えるのですが。こういうアバウトなことしかわからないのは、私はもう「喫茶店」にも「カフェ」にもまったく入らなくなってしまったからなのです。
私が「カフェ」と言われると思い出すのはやはり

    道頓堀行進曲

です。「赤い灯 青い灯 道頓堀の川面にあつまる恋の灯に なんでカフェーが忘らりょか」でしたっけ。
細かいことを言うと「カフェ」はアルコールの提供ができる店のことで、喫茶店はそれができないところだそうですが、どうもあいまいになっているように思われます。学生さんも「カフェでバイトしています」とよく言っていましたが、あれはアルコールありの店だったのかどうか。
古くは「昭和初期、女給のいた西洋風の酒場」(旺文社国語辞典)が「カフェ」でしたから、いわゆる「喫茶店」とはずいぶんイメージが違います。
私などは、「カフェ」と言われると「何だか古くさい」と感じるのですが、今は逆で「喫茶店」が古くさいのでしょうか。
同じ道頓堀行進曲の「酔うてくだまきゃ あばずれ女 すまし顔すりゃカフェーの女王 道頓堀が忘らりょか」というと、どうしても文楽の

    夫婦善哉

で豊竹嶋太夫師匠がお歌いになっていたのを思い出してしまいますが、カフェーの女王はすまし顔をするものだったのですね。
私の学生のころは「喫茶店」とは言わず「茶店」でした。といっても「ちゃみせ」ではなく「さてん」です。「サテン」とカタカナで書いた方がイメージが湧きやすいです。
「学生街の喫茶店」という歌もありましたが、けっして「学生街のカフェ」ではありませんでした。
学生のころ入った店は当時親しかった人の好みで名曲喫茶(クラシック喫茶)が多かったかもしれません。ほかにもジャズ喫茶もありました。今はもうコーヒー自体もあまり飲まなくなってしまいましたが、あのころは少し酸味のある苦めのコーヒー(もちろん砂糖など入れません)が好きで、気取って飲んでいました。
独りでコーヒーを飲みながら考えごとをする、なんてかっこいいのですが、もう今後はそういうこともないでしょう。

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役者らしい役者 

私は歌舞伎をもうすっかり観なくなってしまいましたので、何も語る資格はありません。もともと、チケット代が高価なこともあって、かろうじて見ることができるのは二階や三階の奥とか、いい席で観るとすればそれはたいてい自治体が後援する地方公演や学生対象の鑑賞教室でした。早い話が、チケット代が滅法安い場合に限られたのです。それらの公演は神戸文化ホール、大阪厚生年金会館(今のオリックス劇場)、広島のアステールプラザなどで拝見しました。鑑賞教室はいつも我當さん一門の会でしたが、個人的に行ったこともあったものの、ほとんど学生の引率という形でした。その場合は仕事でしたので自腹を切ることはありませんでした。
歌舞伎役者さんを見ていると、かなり

    こき使われている

のではないかと心配になってきます。だからというわけでもないのかもしれませんが、十二代目団十郎、十八代目勘三郎、十代目三津五郎といった、まだこれからというような人たちが若くして亡くなりました。また、歌右衛門を襲名するという話になったかと思うと当代福助丈も倒れられました。私が最初に関心を持った役者さんであった澤村藤十郎丈ももう舞台に上がることはなくなりました。当代仁左衛門丈も、孝夫時代に重い病気をされて大変苦労なさいました。
もちろん、ある程度の年齢になったら誰しも病気のひとつくらいはするものです。歌舞伎役者の場合、一般サラリーマンの定年以後も主役として舞台で動き回り、また指導もしなければなりませんから大変なことです。それはわかるのですが、負担が重すぎないだろうかという思いもあるのです。
これまで私が少ないながらも拝見してきた役者さんで、もっとも役者らしい役者というと、播磨屋、

    二代目中村吉右衛門丈

です。
テレビでも活躍されましたので一般的にもよく知られた役者さんですが、背は高く、声も姿もよく、とにかく芝居上手。同年生まれの当代仁左衛門丈よりも早く人間国宝に認定もされました。初めてこの人を舞台で観たのは、私がまだ学生のころで、南座の顔見世で「大石最後の一日」をなさったときでした。このときはほかにも十七代目勘三郎の「松浦の太鼓」「身替り座禅」、十三代目仁左衛門の「野崎村」などもありましたが、圧倒的に印象に残ったのが播磨屋の大石でした。幕切れで切腹の場に向かうべく花道にかかったときに、この芝居のテーマである「初一念を通す」というセリフをおっしゃった場面は私のわずかな歌舞伎鑑賞の中でも出色のひとコマです。
その播磨屋さんが今年は体調不良で正月から休演なさり、案じられていた矢先、3月28日に救急搬送されたというニュースが流れてきました。以前、80歳で『勧進帳』の弁慶をやってみたいとおっしゃっていたように思います。
まったく事情は分かりませんが、どうか無事回復なさいますように。

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錣太夫さんのお弟子さん 

竹本錣太夫さんと初めてお話ししたのはもう30年以上前のことです。私は当時広島の短大に勤めていたのですが、錣さんは広島県のご出身ですから、そんなことがきっかけになったのだろうと思います。あの当時からとても謙虚な方で、私よりずっと年長でいらっしゃるのに、丁寧な物言いをしてくださったものでした。
四代目竹本津太夫師匠のお弟子さんでしたが、津太夫師匠が「ものすごく高い声の出る弟子がいる」とおっしゃっていたことがあり、あれは多分錣さん、当時の津駒太夫さんだったのだと思います。師匠がそうおっしゃるくらい、高いところに声が届く方ですが、その一方、水も滴るまろやかさがあったかというとあまりそうは感じられず、艶物語りというイメージは持ちませんでした。しかしお若いころは掛け合いでお姫様などを語られたり、道行で女性を担当されたりしていたように思います。何だか違うなぁ、というのが私の印象でした。あるとき、素浄瑠璃で時代物の語り(「勘平腹切」など)を拝聴した時、やはりこの方は「声屋」さんではなく

    時代物の太夫さん

だと確信しました。津太夫門下には緑さん、津駒さん、津国さん、津梅さんなどがいらっしゃいましたが、緑さんは三段目の方で、津駒さんは四段目語りだろうと思いました。「河連法眼館」「金閣寺」「神崎揚屋」「十種香」などですね。
その意味では、津太夫師匠亡きあとに先代呂太夫師匠に入門されたのもむべなるかなという感じがします。
謙虚な方なので、お名前をいつまでも津駒のままになさって、私は思いあまって津太夫師匠の前名である「濱太夫」は継げないのですか、と申し上げたこともありました。そして、本来なら「津太夫」の継承者となられたであろう緑太夫さんが亡くなったのですから、津駒さんが津太夫にもっとも近い人だとも思っていました。
最初の師匠の津太夫師匠の相三味線だったのが六代目寛治師匠。そのご縁なのか、七代目鶴澤寛治師匠が津駒さんの三味線をお弾きになるようになって、寛治師匠が預かっていらっしゃった錣太夫の名をお継ぎになりました。これはこれでいいことだと思いました。何と言っても寛治師匠に見込まれたわけですから。
錣さんはファンも増えて、どんどん大きな場をお語りになるようになりました。それでももの足りなかったのはお弟子さんがいらっしゃらなかったことです。やはり弟子を持つことは重要です。若い人を教え育てることで自分もまた成長できますし、口幅ったいことを申しますが、浄瑠璃の味も深まるだろうと思います。
このたび、めでたく錣太夫さんにお弟子さんができました。愛知県の知立文楽で学ばれたそうですが、澤井君という若者で、研修を終えてこの春に入門されました。芸名は

    竹本聖太夫(たけもとさとたゆう)

だそうで、なかなか元気そうな青年のようです。
どうか、錣さんから多くのことを学びつつ、また錣太夫さんご自身もさらに円熟の境地に達して近いうちに誰もが認める「切語り」になられるように期待しています。

  義太夫の聖き教へを身にまとひ
   語り伝へよ深き情けを

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呂太夫さんの新しいお弟子さん 

文楽にはなかなか新しい人が入ってきません。昔は舞台を見て、楽屋に師匠を訪ねて入門したいと言って来る人もいたと聞きますが、最近は少ないように思います。
今は研修生になって入門するのが当たり前になってきたと言えるでしょう。それはそれでもかまわないので、とにかくプロになったら頑張ってくれさえすればそれでいいのでしょう。
今年、その研修を終えてプロデビューする太夫さんがお二人いらっしゃいます。どうか頑張って文楽の未来を作り上げてください。
私がかねて存じ上げていた文楽ファンの方がいらっしゃいます。このかたのご子息がかねてから声楽のレッスンをされていたとかでお声に自信もおありだったのでしょう、また文楽ファンのお母様の影響もお受けになってのことかもしれませんが、文楽の研修生になられたのです。
さきほど今年プロデビューする人がお二人いらっしゃると申しましたが、そのうちのお一人で、このたび豊竹呂太夫師匠に入門されて、

    豊竹薫太夫

と名乗ってプロになられました。
大学を出て暫くしてからの入門で、年齢的にはやや高すぎるのですが、今は太夫さんの寿命も長くなっていますので、今後60年は活躍できることでしょう。おそらく声楽で鍛えられた立派なお声の持ち主だと思われます。私はもう若い太夫さんのことはわかりませんが、ちょっとしたご縁のある方でもありますので、最後に応援する太夫さんとしてエールを送りたいと思っています。

  浄瑠璃の薫る言の葉うつくしみ
    語り伝へよ人の心根

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2021年文楽四月公演初日 

本日、文楽四月公演が開幕します。これまで、国立文楽劇場でも国立劇場でも、また地方公演の会場でも感染のクラスタが発生したという話を聞きません。文楽のお客さんはきちんと感染対策に協力してくださるのでしょう、
さて、この公演はやはり三部形式で、次のような番組です。

第一部(午前11時開演)
花競四季寿(万才、海女、関寺小町、鷺娘)
恋女房染分手綱(道中双六、重の井子別れ)
第二部(午後2時開演)
国性爺合戦(平戸浜伝ひより唐土船、千里が竹虎狩り、
楼門、甘輝館、紅流しより獅子が城)
第三部(午後6時開演)
傾城阿波の鳴門(十郎兵衛住家)
小鍛冶

久しぶりに板に乗るのが「鳴門」です。昔の人なら「ととさんの名は阿波十郎兵衛、かかさんはお弓と申します」なんてよくご存じでした。素人の浄瑠璃語りの人も好んでお語りになったのではないでしょうか。私はこの演目から一番に思い出すのは豊竹咲太夫師匠がまだお若いころになさった、文楽劇場小ホールにおける

    「咲太夫の会」

です。このとき、咲太夫師匠がお弓を語られ、何と、小学校3年生だった豊竹咲甫太夫くん(今の六代目竹本織太夫)がおつるを語られたのです。会場は100人余りのお客さんでしたが、みなさんかわいくもいじらしい咲甫くんの語りに涙を流していらっしゃいました。もう40年近く前のことになりますね。
人形浄瑠璃としては、私は秋田県の

    康楽館

で観て以来かもしれません。あれももう20年ほど前のことになるでしょう。こちらは嶋師匠に清介さん、お弓の人形は簔助師匠でした。これまた会場は涙を流す人が続出で、一緒に観ていた、某人形遣いさんの奥さんになられた方はお顔をぐちゃぐちゃにして泣いていらっしゃいました。
この四月公演では千歳さん・富助さんから靖さん・錦糸さんだそうで、お弓は勘十郎さんですね。
この四月公演もどうかつつがなく千秋楽を迎えることができますように。

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卒業式の花 

もうほとんど忘れてしまいましたが、小学校1年生のときの国語の教科書は「たろうさん はい はなこさん はい」で始まるのだったかな?
もっと古い教科書では、「サイタ サイタ サクラガサイタ」だったそうで、カナカナで始まるのが時代を感じさせます。1ページ目かどうかは知りませんが、「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」「コイ コイ シロ コイ」「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」「モシ モシ ユキコ サン デス カ ハイ サウ デス」というのもあったようです。「コイ コイ・・」というのは「来い、来い、シロ(犬の名前)来い」のようです。「モシモシ・・」は糸電話で話している様子のようです。この糸電話の会話はすごいですよ「アナタ モ アソビ ニ イラッシャイ マセン カ」「ハイ アリガタウ。スグ マヰリマス」と敬語がきちんと使われているのです。こんな年齢でこういう言葉を習っていたのですね。昔の人の言葉遣いがどうしてあんなにきれいだったのかもわかるような気がします。
1年生のときにどんな勉強をしたのかなんてもはや記憶の彼方ですが、あの当時の(今も似たり寄ったりでしょうが)入学式が

    4月8日

であったことは間違いないと思います。
当時の子ども向けのカレンダーというと、1月は「お正月」2月は「雪合戦や雪だるま」、3月は「ひなまつり」、そして4月は「満開の桜の中でおこなわれる入学式」が定番でした。
実際、おおむね入学式のころが桜の満開で、時にはまだ咲ききっていなかったこともあったと思います。それが20年ほど前くらいでしょうか、4月の初めくらいに満開になって、入学式は花吹雪の中でおこなわれることもあったように思います。
しかし、今やそんな生易しいことでは済まないようです。今年、ソメイヨシノを最初に観たのは3月16日でした。近くの公園にわずかに咲いていたのです。それにしてもびっくりしました。そして一週間ほど経ったころには五分咲きくらいにはなっていたでしょう。
私がもうひとつ小学校のことで覚えているのは、卒業式が3月23日だったことです。ほかの学年は25日が終業式だったのに、6年生は2日早く春休みに入りましたから、得をしたような気になったのです。
ということは、今年に当てはめるとソメイヨシノはいつのまにか

    卒業式の花

になりつつあるように思えるのです。これはけっして喜ばしいことではないでしょう。それだけ気象が急速に変化しているのだろうと思われるからです。
もういまさらソメイヨシノを「入学式の花」に戻すのは難しいのでしょうか。関西では「お水取り(東大寺二月堂修二会)が終わると春が来る」といわれますが、お水取りの直後に桜を見るのはいくらなんでも早すぎます。

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ひどい目に遭った3月 

日頃のおこないが悪いと災難がやってきます。弱り目に祟り目とか泣きっ面に蜂とかいいますが、この3月はそういう月だったようです。
3月3日に雨上がりの道で足を滑らせて膝を強打。骨折や内出血を覚悟していましたが、それは免れました。それでもしばらくは膝をつくと痛くて収まったのは月末でした。
月の半ばにスマホを紛失しました。電話を掛けてもらってありかを探ると、なんと、寝所の隙間深いところに落ち込んでいました。手を伸ばしても届かず、やむを得ず家具の大移動をしました。そのときに痛めたにしてはタイムラグがあるのですが、あの膝の打撲からそれからちょうど2週間後に襲ってきたのが腰の痛みでした。疲れがたまっていたのでしょうか、とにかく身動きするのもつらく、横になった状態からは、何かつかまるものがないと起き上がれません。
たまたま翌日が病院に行く日だったので、相談すると、やはり

    整形外科

に行けとのこと。やむを得ず行ったらMRIは予約がいるのですぐにはできないから、というのでCTを撮りました。この病院のCTはなかなか立派なもので、被曝量もきわめて少ないすぐれものだそうです。結果は異状なし。「2週間後に痛みが残っていたらもう一度来てください、MRIを撮りましょう」とのことでした。しかしCTに加えてMRIとなると合わせて1万円くらいはかかりそうで(笑)勘弁してほしいのです。そのため2週間の間に何とか回復してくれと念じたのですが、一進一退。咳をすると響き、くしゃみをすると痛み、湿布なんて役に立ちません。
既にその日から10日目になりました。もうだめか、と思っていたところ、なんと、一気に楽になってきたのです。おかげさまでMRIは免れました。これも月末のことでした。
とどめは

    黄砂

でした。29日に、空を見上げると晴れているのか曇っているのかわからない空模様です。地面を見ると陽は射しているはずなのに、空が青くありません。私は黄砂の中を長い時間歩くのが恐ろしいので、この日はじっとしていました。それにしても砂漠の砂って無尽蔵なのでしょうか。高校野球で選手が持って帰る甲子園の土にもいくらかは黄砂が混じっているのかもしれません。
結局、この1か月は何もできず、今年の「春休みのしゅくだい」は不合格でした。
4月は何かいいことがありますように。

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