言わせてしまった
天皇は戦争の反省から政治的な発言をすることができない「象徴」という存在になりました。それだけに前の天皇(現・上皇)が退位の希望を述べたときも「退位したい」とは言えなかったわけです。現行の皇室典範には退位の規定はなく、それを変えるためには国会での審議、可決が必要です。いくら自分のことであっても、天皇が法律を変えろというわけにはいかないのですね。
自分の引退も自分で決められないなんて、因果な身分だと思います。
今の天皇とて「オリンピックは中止すべきだ」などと発言することはできません。しかし、世の中の感染事情を考えると黙ってはいられなかったのでしょう、6月24日に宮内庁長官が天皇の考えを「拝察する」という言い方で天皇の気持ちを伝えました。天皇は公に言えないことはわかっていながら「こういうことを言いたい」とでも話したのではないかと想像しています。宮内庁長官はもちろんそういうことは無理だと知っていますが、どうしてもということなら、長官自身の責任で天皇の気持ちを国民に伝えたいと考えたのかもしれません。
大きな
波紋
が広がることくらい、長官はわからないはずがありません。批判されることもわかっていたはずです。それでも伝えたかったということなのでしょう。
その発言については、法律の専門家から見ればきわめて危ういものに見えるでしょう。これを許しては国民主権が脅かされるということになりますし、天皇の発言が今後も世の中を動かすようなことになりかねず、そうなるとまた歴史を遡ることにもなりかねないでしょう。
ただ、今の国民はそういう法律家の懸念が無用なくらい、もはや天皇を神格化することはありますまい。私もこの記事で「天皇陛下」とも書かず、「ご発言あそばされた」とも書いていません。もし天皇がつまらないことを言ったら聞く耳は持たないと思います。
少なくとも一時は国民の多数が反対意見を表明し、その後「なし崩し的」に増えた賛成者もせいぜい3割程度です。内閣でも反対意見を言う人があったように伝わっています。しかし頑として中枢の人たちが動かない(これこそ国民主権に反するところかもしれません)ので、象徴たる天皇が改めて国民の思いを
代弁した
ということだと私は感じ取っています。
むしろ天皇にこういうことを言わせてしまった政治家は反省すべきなのではないかと思います。「あれは宮内庁長官の意見だ」と言った人もいましたが、それは言っている本人もわかっているはずの、かなりの強弁だと思います。そうとでも言わないと自分の立場がなくなります。
もう、オリンピックは止めようがないかもしれません。あの戦争が止めようがなかったように。メディアも何だかんだといっても「日の丸万歳」を唱えるのでしょう。多くの国民も結局テレビの前で歓喜の声を挙げるのだろうと思います。問題が起こらないように願うことしかできないのが庶民の悲しさです。
もちろん、私はオリンピックを観るつもりもありませんし、関心を持つこともありませんが。
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- [2021/06/30 00:00]
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ニンニクの値段
スーパーにはわりあいによく行く方だと思うのですが、不覚にしてこれまであまりニンニクの値段など気にしたことがありませんでした。というか、買ったことがないのです。しかし、私のニンニクを収穫した時に「国産はけっこう高いのです」と教えていただき、いったいどれくらい高いのだろうと次にスーパーに行くときに確かめてみようと思ったのです。
今、我々の身の回りにあるものは、ほんとうに国産が減りました。「中国産」「マレーシア産」「韓国産」「ベトナム産」など、アジア諸国で作られたものが多くなっているようです。
カロリーメイト
といえば大塚製薬のものですが、ドラッグストアに行くと、中味がひと回り小さくてほとんど同じものが、パッケージの仕様までそっくりな形で売られていました(色やデザインは違いますから、見た目ですぐにわかります)。値段は約半額。韓国産でした。綿棒を買っておこうと思って安いのを手に取るとマレーシア製。あれもこれも・・。
ニンニクについて「国産は高い」と言われたので、じゃあ外国産を売っているということなのか、と思って、スーパーに行ってみました。
私の作ったニンニクは大中小の大きさのものがあります。そのうちの「中」より少し小さめの大きさと思われるものがネットに3つ入れられていたものが目に入ってきました。値段が98円(税別)。え~、せっかくがんばって作ったのに、そんなもんなの! と思って値札を見てみると「中国産」とありました。
そしてその隣にまさに私の作ったものの内「中」サイズのものが1個198円で置いてありました。こちらは国産。青森だったと思います。まあ、そんなものかな、ととりあえず心を落ち着けました(笑)。
気を取り直して、もう一軒スーパーを訪ねました。やはり中国産はけた外れに安いですね。またそこには「スペイン産」というのもありました。これもかなり安いのですが、中国産よりは高いのです。そして少し上の棚にかなり大きな、私の作った一番大きいものよりもひと回り大きい感じの青森産ニンニクがありました。これがなんと、1個
398円
でした。大きさが違うとはいえ、あのネットに入った中国産に比べると10倍ほどの価格です。なるほど、「国産は高い」と教えていただいたことに納得が行きました。
となると、私の作った「国産・無農薬(ただし化学肥料は使用)」のものは大中小合わせて12個ありましたので、ひょっとすると大300円、中200円、小70円くらいと考えても、1,000円をはるかに超えそうです。なんだか、やたら嬉しくなりました(笑)。元手は450円くらいで、あとは肥料と土と水ですから、確実に元は取れたというか、上回る成果でした。いかにも単純な人間らしく、喜んでおります。
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- [2021/06/29 00:00]
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三角関係
『源氏物語』なんて古臭いもののどこがおもしろいのか、と思う人は少なくないでしょう。しかしちょっと待っていただきたい。「古くさいって、あなた読んだことがあるのですか?」「読んだとも、高校生の時に」「いや、それは古文の授業ですよね。そうではなくて、文学として全部とは言わないまでも、3つや4つの巻は読んでそうおっしゃるのでしょうか」「そんなもん、読まなくてもわかる」。
だいたいこういう水掛け論で終わってしまうのだと思います。
多くの方は光源氏というイケメン軟弱男が、蝶が花から花へと飛び移るように女性遍歴をする物語と思っていらっしゃるのですが、実際はそんな生易しいものではないのです。
その最たるものが光源氏と藤壺女御(のち中宮)の密通だと思います。父の妻である人と密通するのです。もちろん藤壺は光源氏の実の母ではありませんが、息子が母を恋い慕うエディプスコンプレックスすら感じられます。
この密通の結果、藤壺は懐妊して皇子を産むことになります。もちろん、光源氏の父帝の子として産むのです。彼は後に春宮となり、帝位に即(つ)きます。さて『源氏物語』「紅葉賀」巻にこんな話があります。藤壺の出産が間近な時に、帝はある行事の予行演習として藤壺に舞楽などを見せてやろうと計画しました。そして彼女の目の前で光源氏が舞楽
青海波
を舞います。鳥兜をつけて紅葉などをかざしにして太刀を着け、青海波模様の袍の片方の肩を脱いで袖を振って舞うのです。途中で舞人が詩句を詠ずる(「詠」という)ところがあって光源氏が声を出すと、それはもう迦陵頻伽(かりょうびんが。極楽浄土にいるという妙音の鳥)とまがうほどの美しさでした。その姿を観て声を聴いた藤壺は苦悶し、帝は何も知らずにほめたたえます。
これとよく似た話が古代中国前漢のころにもあります。平安時代の日本でもよく読まれたらしい『飛燕外伝』という書物にこんな話があるのです。成帝の皇后趙飛燕は舞の名手。ある時、成帝の前で歌舞が行われ、飛燕と秘密の恋愛関係にあった侍従の馮無方が笙を吹き、飛燕が舞います。強風が吹いて飛燕が飛ばされそうになると、無方はその袖を捉え、二人はひそかに恋をささやき合います。飛燕は
「故(ふる)きを去りて新しきに就かむ」
と言いました。成帝を捨てて無方と一緒になろう、と言っているわけです。
見事な舞を舞う人、秘密の恋にある人、何も知らない夫という関係は、舞人と恋人の男性・女性の違いはありますが、さきほどの『源氏物語』の場面とよく似ています。
紫式部は飛燕の話を下敷きに「紅葉賀」巻を書いたのかもしれません。いずれにしても、まことに切実で恐ろしくさえある話です。
三角関係というと、『万葉集』の額田王、大海人皇子、天智天皇の話もよく知られます。かつて恋愛関係にあった額田王と大海人皇子ですが、今額田王は天智天皇のもとにあります。あるとき、天智天皇は蒲生野に狩に行き、額田王も大海人も同行しました。そのとき、大海人が額田王に袖を振った(相手の魂を引き寄せようとする合図)ので額田王が「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(そんなことをしたら野の番人に見つかりますよ)と詠み、大海人が「紫のにほへる妹のにくくあらば人妻ゆゑに吾が恋ひめやも」(あなたが憎ければ人妻なのに恋したりするでしょうか)と返したというのです。かなり危険な歌のようですが、実際はふざけて詠み合ったものだったようです。しかしこれも男が「袖を振り」、女がそれを見て危機感を覚えるという点では『源氏物語』に似ているとも言えそうです。
『源氏物語』はおもしろいです。
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- [2021/06/28 00:00]
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三谷さんに学ぶ
三谷幸喜さんという脚本家は、脚本を本にして出版することを嫌う人です。私も「岸田賞」受賞作の『オケピ!』拝読をしただけです。岸田賞は受賞したら出版するという決まりがあって、三谷さんもやむを得ず出版に同意されたのでしょう。三谷さんは概して「あて書き」をされる方です。つまり役者さんを念頭に置いて台詞を作って行かれるのです。だから、活字の本を読んでもらっても意味がない、というお考えのようです。
しかし、三谷さんの本の秘密を知りたいものにとっては出版されないのはとても残念に思っていました。
先日、俳優の田村正和さんが亡くなりました。「阪妻(ばんつま)」こと「阪東妻三郎」のご子息で、ご令兄は高廣さん、ご令弟は亮さんでみなさん俳優さんです。さすがにご父君は存じませんが、お兄様の高廣さんはよく覚えています。もうおひとかた正和さんの二番目のお兄様がいらしたはずですが、このかたは役者にはなられませんでした。正和さんは私が子どものころからニヒルな役者さんとしてご活躍でした。
その追悼番組として
古畑任三郎
というテレビ番組が再放送されました。田村さんが出演されるということで大変人気のある番組であったことは知っていたのですが、私は本放送のころは観ていませんでした。
そして今回も、本放送で観ていないというだけの理由なら、特に観ようとは思わなかったのですが、なんとこの脚本を書かれたのが三谷幸喜さんではありませんか!
これはいいチャンス。三谷さんの脚本、それも喜劇の要素を知るのにはどうやらうってつけのようで、時間のある日には観て
いました(3作品ほど観ました)。テレビを観るだけなら三谷さんの舞台を見たって同じだろう、といわれそうですが、どっこい、今のテレビには
字幕
というのがあります。ですから、ほとんど脚本を読むような感覚で観ることができたのです。もちろん、田村正和さんの演技はおもしろかったですし、その田村さんに当て書きされた方法も学べますからよけいに楽しめました。それで感じたのは、実際にはそんなことはしないであろうこと、そんなことは言わないであろうことを三谷さんは平気で登場人物にさせ、言わせていらっしゃったことでした。不自然と言えば不自然、いかにも「ウソ」なのです。
たとえば、刑事(田村さん)が犯人ともうひとりの鉄道マンと一緒にいる場面で、その鉄道マンが心筋梗塞を起こすのです。すると犯人はすぐに駆け寄って介抱しようとするのですが、刑事は何もしません。そして犯人に「救急車を呼べ」と言われて、さらに少し会話があったあと、刑事はやっと119番に電話をかけるのです。これは絶対にあり得ないことです。刑事はこういう場合、すぐに駆け寄って状況を見て119番通報して、何らかの応急処置をするはずです。これは明らかに「ウソ」なのです。
またある人物が、自分の欲望のために人を突き飛ばすと、突き飛ばされた人が頭を打って亡くなるというシーンがありました。このできごとを終始「殺人事件」と言っていたのですが、これは殺人には該当しないのではないでしょうか。故意に人を殺害したのではありませんから、傷害致死になると思うのです。現場検証をした人たちも「これは事故だ」と言っているくらいで、意図的に人をあやめたのではないのです。
ただ、ウソを重ねるといつしかそれがウソとは聞こえなくなって、なるほどこういうことを言うかもしれない、するかもしれない、という妙な錯覚に陥ってしまうものですから、まさにマジックなのです。ああいうことは簡単に真似のできることではないと感じました。
芝居には、とくにああいう推理ものには仕込みが欠かせませんが、わかりやすい仕込みを入れておいて、その陰にほんとうに仕込みたいことを隠しておくような方法も感じました。
さすがに三谷さんと田村正和さんがタッグを組むと面白い番組になっていました。もっと観ておけばよかったと今さらながら悔いています。
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- [2021/06/27 00:00]
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LGBTの浄瑠璃(2)
LBGTの人たちを含むことで社会が成り立っているのです。歴史がそれを証明しています。ですから、LBGTの人たちを差別するならそれは反社会的な人たちだとすら私には思えます。よりによって、国会議員が反社会的な人物だとは、ほんとうに情けない気持ちになります。
話が変わるのですが、創作浄瑠璃の筆がまるで進みません。どうも、家でじっとしている生活では頭がうまく回転しない(落語の「ちょうず回し」ではありませんので、別に頭をぐるぐる回すわけではありませんが)ようで、歩いてみたり、本を読んでみたりするのですが、それでもはかどりません。なんというか、きっかけになるような
言葉ひとつ
が出てこない、という感じです。
人の心を描くのが浄瑠璃なので、私のような無神経な人間にはそもそも無理な仕事なのですが、それでもここまで、駄作ながらなんとか書いてまいりました。
今、頭の中にあるものは2つなのですが、そのうち一つはまだ資料集めの段階ですぐにどうこうというわけにはいかないのです。もうひとつはこれという言葉がひとつ出てくれば一気に書けそうな気もするのですが、浄瑠璃の神様はなかなか厳しいのです。一度、生國魂神社の中の浄瑠璃神社に行って祈願しないとダメかもしれません。
それとは別に、浄瑠璃のテーマを考えてみるのも気分転換になるかなと思っています。これまで私の書いてきたものは、力(腕力、権力)のある者に対する無力な者のせめてもの反抗をテーマにしたものが多かったのです。『江戸情七不思議』の「送り拍子木」「異聞片葉葦」「異聞置いてけ堀」や『名月乗桂木』『斎宮暁白露』などがそれにあたります。
それでふと、
LGBTをテーマにした
浄瑠璃があってもいいな、と思ったのです。これも、力のある者(多数は一種の権力者)に対する性的少数者のレジスタンスをという意味では、私のこれまでのテーマとも重なりそうです。
こういうことを思いついたら、つねにそれを頭に置いて、関連する資料を読んだり、人の意見をよく聴いたりすることが必要になってきます。そんなことをしていると、今、しなければならないことができなくなるのではないか、と思われるかもしれませんが、そうではなくて、頭の引き出しにいろいろ入れておくことでむしろはかどったりするのです。なぜなら「浄瑠璃頭」になれるからです。
頭よ、回れ!
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- [2021/06/26 00:00]
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LGBTの浄瑠璃(1)
今、世の中ではLGBT(最近はLGBTQとも)と言われる性的少数者への差別をなくそうという動きが強いうねりになっています。ところが「LGBTは種の保存に反する」とか「道徳的に許されない」といった国会議員がいたらしく、私はもうびっくりを通り越してめまいを起こしそうになりました。どういう判断基準をもってああいうことが言えるのか、信じられないのです。性的少数者というのはいつの時代もいらっしゃったのです。いつの時代もそういう人とともに世の中は成り立っていたのです。同性愛者については、江戸時代にはかなりあからさまに絵に描かれたりしていますよね。トランスジェンダーと言えば平安時代の『とりかへばや物語』もあります。バイセクシャルについても『源氏物語』の主人公の光源氏もそういうところがあります。こんなこと、挙げていったらきりがありません。それは文学、つまり虚構じゃないか、という人もあるかもしれません。しかし、文学は歴史の鏡です。
性的少数者は今後もなくなることは考えられません。だから、現在世の中のうねりとなっているのは、そういう人たちを
差別する
のはやめましょう、ということです。それなのにあたかも突然出現した異端児であるかのように考えているのか、性的少数者の存在を認めない、あるいは排斥しようとしているとしか思えない、とんでもないことを言い出す人がいるものです。こういう人がいくら大声をあげても、LBGTの人たちがなくなることはありません。
心が女性ならオリンピックの女性の競技に参加させるのか、というすっとぼけた反論をする人もいますが、まったく関係のない話。まともな反論になっていません。
学生さんとLGBTについて話したことがあります。そのとき彼女たちの中に嫌悪感を持つ人などまるでいませんでした。むしろ「そういう人と友だちになりたい」と言っていた人もいました。
学生の中にもそのうちのひとつに該当する人がいたことは知っています。またそれ以外にも同様の方を何人か知っています。つまり、私の周りで性的少数者に反感を持つ人はまずいませんし、私のように付き合いの少ない狭い交流の範囲内でも実際にそういう人はいらっしゃるわけです。
忽然と出現したわけではなく、これまでは沈黙していただけで潜在していたのです。今は堂々と告白する(最近は
カミングアウト
っていうのでしょうか)人が出てきていて、さらに理解は進んでいるはずなのです。ところが一部に理解しない人がいることは事実で、それはそれでもしかたないのです。世の中にはこういう物分かりの悪い人がいるのも常のことですから。しかし、そういう人がいても「しかたない」からといってそういう人を放置すると、こういう人に限って黙って見ていたりはしないで差別をするから問題なのです。その差別をやめようという話をしているときに差別を助長するような政治家がいるのは情けない気持ちになります。
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- [2021/06/25 00:00]
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権力者のボンボン(2)
藤原能信という人物は傲慢、勝気な面があったらしく、かなり後のことになるのですが、彼が三十二歳の万寿三年(一〇二六)七月に、法会のあとの饗宴の場で異母兄の関白頼通に雑言を吐いたこともあります。この時は頼通も怒って能信を激しく面罵し、父道長も叱責しました(藤原実資の日記の『小右記』同年七月八日条)。頼通とはその後も確執が続き、さらに後年、能信は摂関家と血縁にない後三条天皇擁立に動いて、結果的に摂関政治の終焉を導くことになるのです。
親の七光りを笠に着て普段から傍若無人のふるまいをする男にプライドを踏みにじられた伊成は、めでたい席で衆人の目にさらされながら、数日来の雨でぬかるんでいた地面にたたきつけられて笑いものにされたのです。ひょっとすると、先に手を出したということで、伊成は喧嘩の責めも一身に負わされたのではなかったでしょうか。誰も彼もが左大臣家に追従したのか、孤立無援となった伊成の
無念さと恥辱
を思うと、翌日出家するに至ったのも無理からぬことに思えてなりません。
道長はこの一連のできごとを日記に何と書いたかというと、まったく触れてもいないのです。なにもなかったかのように沈黙した道長ですが、彼自身能信の所業には眉をひそめるところがあったのではないでしょうか。
七夜、九夜の産養の日もそれぞれ伊成の涙のような雨が降りました。そして、彼の怒りが顕現したのか、藤原行成の日記『権記』によれば、産養の終わった翌日の五日の夜に雷鳴が轟き、蔵人頭公信が御卜(自然現象が意味する吉凶を占わせる)をさせるようにという天皇の仰せを伝えてきました。暖冬に加えての雷鳴が異変を感じさせたのだということです。そして七日には陰陽寮と神祇官に占卜(陰陽寮がおこなうのが「占」、神祇官がおこなうのが「卜」)が命ぜられ、夜になるとその返答が届きます。神祇官は「明春夏に疾疫がある」、陰陽寮は「辰巳(南東)、戌亥(北西)の方の大神の祟りで、天下に疾疫や兵革があり、天皇家には火事がある」と、いずれも
ゆゆしい結果
を報告してきたのです。陰陽寮に重ねてどの神の祟りかを占わせると、伊勢、祇園、平野だとの回答があり、早速実検使(実情を調査する使者)が遣わされました。
結局、十二月八日には二十一社に臨時奉幣が遣わされることに決まりました(『権記』同日条)。「二十一社」は国家的な大事のあった時に奉幣される、伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野などの主要神社を指し、皇子誕生早々の異変に内裏はかなり神経質になっていることが知られます。伊勢、祇園、平野の三神社の祟りという公式見解は出ているものの、巷間では「伊勢ではなく伊成の祟りじゃないのか」などとひそひそ話が交わされたのではなかったでしょうか(知らんけど)。
1000年余り前の話です。しかし歴史は繰り返しています。
まったく、権力者のボンボンってやつは・・・。
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- [2021/06/24 00:00]
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権力者のボンボン(1)
ずいぶん前に書いたことがある話なのですが、少し違う角度からまた書きたくなりましたので申し述べます。
平安時代の中ほど、寛弘六年(1009)十一月二十五日に一条天皇の三番目の男子(のちの後朱雀天皇)が生まれました。当時の習慣では生まれて三、五、七、九日目にお祝いをすることになっていました。今でも「お七夜」という風習は普通にありますが、その元祖のような者です。そのうちの五夜、つまり十一月二十九日のことです。当日は雨が降っていたのですが、もちろんお祝いはおこなわれました。酒宴が繰り広げられ、禄が贈られ、
「攤(だ)」
という賭け事がおこなわれたりしています。現代でいうなら、儀式のあとの宴会で酔っ払った連中がトランプや花札で博打を始めた、という感じでしょうか。
このとき、藤原道長の息子の能信(十五歳)と藤原義懐の息子の伊成(書家で知られる行成の従弟にあたるが家柄は能信に劣る。能信より少し年長)の間に暴力沙汰があったのです。
能信と伊成は位としてはほぼ同格でしたが、能信は道長という権威が後ろ盾、最高権力者の「ボンボン」(ただし母親は道長の後継者の頼通とは別)なのです。それだけに、この二人の関係は、今こそ同等の身分とは言え、いずれ能信が圧倒的に上位に位置すると予想されます。
この出来事は、何やら伊成が能信から辱めを受け(何かのことで罵られたのでしょうか)、こらえきれずに能信の肩を笏で打ったのです。すると周りにいた蔵人藤原定輔が縁から伊成を突き落とし、能信は従者を召し集めて伊成を殴らせ、さらには踏み伏せてたいまつで打ったのです。原因はわかりませんが、酔った勢いで「攤」の勝ち負けなど些細なことから起こったつまらない喧嘩だったのではないかと私は想像しています。
雨の夜です。縁側から突き落とされたら泥まみれでしょう。しかもよってたかって殴らせたというのですから、
集団リンチ
のようなものです。
このときの伊成の悔しさは、単に暴力を受けただけでなく、相手が権力者のボンボンで誰もが自分の味方をしてくれない虚しさにあったのかもしれません。(道長の息子とはそんなに偉いものなのか)と切歯扼腕したのではないでしょうか。
伊成はこの翌日、若い身空で出家してしまいました。出家はあえて言うなら一種の自死行為です。もう現世に戻れないのですから。
道長の専横ぶりをあまり好ましく思っていなかったらしい藤原実資は「自分には子がいないが、なまじ子を持つとこんなできごとがあって嘆きの種になるだろう」と感慨にふけっています。
道長の権力が全盛の世にあっては、若い男が振りかざすものなど所詮蟷螂の斧に過ぎないのでしょう。
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- [2021/06/23 00:00]
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学者の良心
私は国会中継を観ることがないので、その様子は新聞でわずかに知るばかりなのです。しかし新聞では要点が書かれているだけで、やりとりの口調や表情、議場の雰囲気、ヤジの様子などはさっぱりわかりません。
この一年、国会でとても重要な役割を果たしてきた人に尾身茂さんという学者さんがいらっしゃいます。この人はもともとかなり優秀な方だったようですが、あえて自治医科大学に行かれてへき地医療にも力を尽くされたようです。旧厚生省の技官となってからは、東南アジアの感染症対策の仕事をなさるなどの豊かな経験もお持ちのようです。
今は新型コロナウイルス感染症対策分科会の会長をなさっていて、学者側の
提言の責任
を担っていらっしゃるようにお見受けします。
学者というのは、専門の立場からものを言うのであって、政策決定するのはあくまで政治家の役割です。これはそうあるべきだと私も思います。学者は専門的にはすぐれていても、世情全体を見渡して総合的に判断することは困難だと思うからです。
この方は元厚生官僚というキャリアがそうさせるのでしょうか、昨年あたりは政治家に直言する迫力に欠けていたように思います。当時の、あの小さなマスクをした総理大臣は周囲の人に「忖度」させる名人。尾身さんもその術中にはまったかのように、よくわかりませんが感じていました。その結果この人は
御用学者
とさえ言われていたように思います。政治家の政策に合わせようとするのではなく、独自の観点からものを言って政治家の心を動かしつつ政策決定に進ませる役割なのに、政治家のやりたいことを補強する役割を担ったように見られたのだろうと思います。政治家というのは油断もすきもなりませんので、都合のいい時は「学者がこう言っている」と利用し、都合が悪くなると学者の言うことなど歯牙にもかけません。
ところが今年になってからでしょうか、いくらか雰囲気が変わってきて、政治家が嫌がるようなこともおっしゃるようになったようです。特にオリンピックの開催については「普通はない」(普通に考えると、こういう状況では開催できない、というほどの意味?)とまでおっしゃいました。遅かったと言えば遅かったのですが、君子は豹変す。間違いに気づけば学者の良心に従って改めればいいのです。
ところが、最後になって尾身さんのオリンピックについての提言には
「中止すべきと考える」
という言葉はなかったようです。ここにきてまた諦めたような、「大人の判断」とかいうものが発揮されたのでしょうか。提言なのですから、「中止すべきと考える」といったうえで「もし強行するのであれば無観客にすべきだ。それでもなお医学の常識の範囲を超えて有観客にすべきだと言われるならよほどの厳しい基準を作らねばならない」とでもいえばよかったのではないか、と私は感じています。現実には「無観客が望ましいが、有観客なら基準を厳しくすべきだ」という「現実的」なところに落ち着いたようです。
「落としどころ」という政治的な言葉があります。学者にもそういうことは必要なのでしょうか。私はどうも釈然としません。
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- [2021/06/22 00:00]
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2021年文楽若手会
本来、19日、20日の二日間、文楽若手会の公演がおこなわれる予定でした。
しかし、よりによってこの日まで緊急事態宣言を延長する、と五月中に決まりましたので、土日は催しをおこなわないと決まり、この若手会も中止と決まりました。ところが、何とかしようということで、
今日、一日だけ
の若手会が行われるそうです。
桜丸切腹を芳穂太夫・清馗、宿屋を希・清丈'、人形は朝顔を玉誉、駒澤を玉翔、白太夫を簑紫郎、桜丸を紋吉その他だそうです。
どうか世の憂さを吹っ飛ばすような熱演を。
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- [2021/06/21 00:00]
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まんだが池物語(2)
この演目は作者の雨野士郎さんが江戸時代の読本である『莠句冊』(ひつじぐさ。都賀庭鐘・作)第五篇の「絶間池の演義強頸の勇衣子の智ありし話」から採られたものです。強頸・衫子の伝説は河内地方に伝わり、今もよく知られるものです。雨野さんの文章はとても美しいもので、なるほど長年浄瑠璃をお聞きになってきただけのことはあります。この方がどういう経歴の持ち主でいらっしゃるのか、私は知らないのですが、ただものではない、という感じがします。
さて都賀庭鐘も伝えた強頸・衫子の伝説というのは、
『日本書紀』
仁徳天皇十一年に見られるものです。茨田堤を造作するにあたって築いても崩れるところが二か所あったため、武蔵の人強頸(こはくび)と河内の人茨田連衫子(まむたのむらじころものこ)が人身御供に選ばれ、強頸は命を落としましたが、衫子は瓢(ひさご)を二つ川に浮かべて「うけひ」(上代におこなわれた占い)をしました。そして「もし私を人身御供として必要とするならこの瓢を沈めたあと浮かび上がらせないでください。もし瓢が沈まないなら私は自分の身を亡ぼす必要はない」と言ったのです。そして瓢を水に沈めましたが、強風が吹いて浮かび上がり、瓢は沈みませんでした。衫子はこうして助かり、堤も完成したというのです。
雨野さんはそれをもとに、強頸と衫子の確執やきららと竹麿の恋を取り入れ、自然破壊への警鐘とともに創作されたのです。
下の巻は次のような内容です。
強頸は衫子より早く完成させようと工事を急ぎ、工事に携わる人々は疲弊していました。完成間近になって堤が崩れることが重なり困っていると、白衣の行人(首は陀羅助)が現れ「これは川の神の祟りだ」と言います。一方、竹麿に恋い焦がれるきららは恋わずらいの床にいます。そこで下女の小えんがアイデアを出します。「恋に悩んで命を捨てる」という内容の手紙を父親(強頸)あてに書き、竹麿にも恋文を書き、きらら自身はひとまず小えんの実家に身を隠すというものです。もし竹麿が応じてくれたら強頸に話そうということにして、二人は屋敷を出ていきます。そのあと、山男が忍び込んで、なぜかきららの着物を盗み出しました。
さて竹麿は工事現場で笛を吹き、その音色の微妙な変化で堤の状態などを察知しては絵図面を作っていました。その作業は強頸の下の郡にも及び、その図面どおりにすれば上下の郡の仕事は完成するはずです。そんなところに下女の小えんが訪ねていきますと、竹麿は喜んで、下の郡の絵図面を渡して、「今夜大雨になりそうだから、絵図面に注記された場所に気を配るように」と伝えます。(ここまで「強頸屋敷より衫子館厨口」の段)
きららのもとに急ぐ小えんは途中で異形の男に襲われ強頸あてのきららの手紙と絵図面を奪われます。(「野道」の段)
その夜、大雨が降り下の郡の堤が崩れました。そこに山男がやってきて「これは川の神の祟りだ。人柱を捧げよ」と言います。さらにそこに現れた白衣の行人が幣を投げ入れるとそれが沈んでしまいます。そこに異形の男もやってきて小えんから奪った手紙を強頸に見せ、「きららはすでに人柱となるために身を投げた」と言い、証拠として彼女の着物を見せます。娘を亡くしたと絶望した強頸は思いあまってそばにいた白衣の行人を道連れに川に身を投げました。
山男と異形の男は仲間とともに衫子のところに行きます。彼らは衫子にも人柱になるように言いますが、衫子は歯牙にもかけないのです。そして幣が沈んだというのも鉛を入れていたからだと看破します。そこに竹麿の笛が聞こえてきます。すると二人は力をなくし、仲間たちの姿は消えてしまいます。山男と異形の男の正体は狸とカワウソでした(白衣の行人も狐でした)。彼らは山の木を伐られて生きにくくなったことと、狩を好む強頸によって一族が殺されたために人の姿になって恨みを晴らそうとしたのです。衫子には恨みはないのですが、自然の敵は人間だ、という気持ちで敵意を抱いたのです。衫子はその告白に打たれて彼らを逃がしました。
やがて池はできあがり、衫子は上下の郡の長になり、竹麿ときららは結ばれることになりました。
以上のように、強頸・衫子の伝承を基にしつつ、『ロメオとジュリエット』あるいは『妹背山婦女庭訓』を思わせるような恋愛をからませ、人間の自然への横暴(無用な殺生、山林の破壊)を自然の側から追及するような形でまとめられた作品です。人物などは古いが主題は新しい、という新作浄瑠璃のありかたのひとつの形としてとてもうまく構成されていると思います。原作はもっと長いものであったらしいのですが、夏休みの親子劇場(当時はそういう名称はなかったのですが)で上演することもあって山田庄一さんがかなり
圧縮された
ようです。子どもたちにはいささか難しかったかなとも思え、ところどころで入れごとをするなどの工夫があったり、あらすじの説明があったりするとよかったのかもしれません。私もこの作品は拝見しましたが、お客さんの反応はよく覚えていません。おもしろいという印象もはっきりとは持てなかったのですが、それはおそらく初演の難しさだと思います。あるいはあの当時はまだ文楽評の仕事をしておらず、メモもあまり熱心に取っていなかったので、記憶に残らなかったのでしょう。
再演は難しいかもしれませんが、もう一度拝見して私なりの感想をきちんと持ちたいものだと思っています。
なおこの時の床は竹本織太夫(のち綱太夫、源太夫)・鶴澤清介、豊竹咲太夫・竹澤宗助、竹本千歳太夫・鶴澤燕二郎(現燕三)ほか、人形は桐竹紋壽、吉田文吾、吉田玉幸、桐竹一暢、吉田簔太郎(現桐竹勘十郎)、吉田玉女(現玉男)、吉田玉也、吉田玉輝、吉田文司ほかの方々。そして、作・雨野士郎、補綴・演出山田庄一、作曲・鶴澤清介、作調藤舎名生のみなさんでした。
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まんだが池物語(1)
1991年に募集がおこなわれた(同年10月末締切)「文楽なにわ賞」で最優秀賞を受賞したのは雨野士郎さんの『まんだが池物語』でした。応募されたときのタイトルは『茨田池物語』だったかもしれません。雨野さん(このお名前はペンネームかもしれません)は関東の方で、70代くらいだったと思います。文楽観劇歴は半世紀以上という「通(つう)」と言える方でした。
タイトルが平仮名で「まんだが池」になったのには理由があり、この作品が上演されたのは4年後の夏の公演の第一部、つまり子どもさんが来られる演目になったからです。内容も子どもにわかるようにということで、補綴された山田庄一さんが工夫されたようです。作曲は当時43歳だった
鶴澤清介さん
でした。
この作品は初演のみで長らく再演されておらず、今では忘れられつつあると思いますので、どういう作品であったかを振り返っておこうと思います。
茨田庄(まんだのしょう)の下の郡と上の郡は何かと衝突することがありましたが、その両方の郡で川の氾濫を防ぐためのため池を作ることになりました。工事の方法は下の郡の長(おさ)である強頸(こわくび。首は大舅)が主張した突貫工事に決まります。強頸は若いころから腕力自慢で、相撲で負けたことがないという、つわものでした。この工事を打診に来た都からの勅使に望まれて、その力を披露することになり、上の郡の若者相手に「首引き」をおこなうと、見事に勝ちました。
上の郡の長の衫子(ころものご。首は孔明)はそれどころではなく、もし工事の途中に嵐が来たらどうなるかを案じています。強頸はそんな衫子をあざ笑いますが、衫子は真剣です。そして家に伝わる工法を強頸に教えようとしますが、意地っ張りの強頸は無用だと強がり、衫子も不快になってそれぞれに工事をおこなうことになります。(ここまで「首引き」の段)
狩が好きで殺生ばかりしている強頸には娘のきらら(首は娘)がいました。きららは下女の小えんとともに神社に工事の成功を祈願に行きますが、その神社は父の強頸が信心を持たないために荒れ果てているのです。そのとき地鳴りが起こり、恐ろしい山男が現れ、きららを襲います。そこにあらわれたのが竹麿(たけまろ。首は源太)という若者で、竹麿は山男を追い払い、笛を吹くと地鳴りも収まります。竹麿はきららたちを送って帰りますが、その途中で山が荒れていることを嘆きます。このあたりは作者の
自然破壊に対する批判
が反映しているものと思われ(さらに明確な批判は下の巻に見えます)、それは20世紀末の世の中と重なるものでもあったのでしょう。
きららは竹麿に思いを寄せるのですが、実は彼は衫子の子で、都で宮仕えをする身で、笛の伝授を受けて実家に帰る途中だったのです。それを知ったきららは、この恋が成就するかどうかは難しいと思うのでした。(ここまで「奥山古社」の段)
以上が上の巻です。
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山上が岳
吉野に行きたいです。奈良県の吉野です。
『義経千本桜』「椎の木」「小金吾討死」「すしや」「道行初音の旅」「川連館」や『妹背山婦女庭訓』「山の段」の舞台になっています。
前回行った時はあまり体調がよくなくて、奥まで入るのを断念したのです。とても悔しい思いをしました。ほんとうは泊まりがけで行きたいくらいです。
吉野と言っても広く、下市の
弥助
があり、権太の墓なるものがあり、吉野川を上流へ行くと妹山、背山もあります。
山に入ってもそれはもうたくさんの史跡があるのです。
金峯山寺は壮麗な蔵王堂を持ち、吉水神社、勝手神社などが続きます。そして金峯神社。水分神社、義経の隠れ塔、西行庵、まだまだあるのです。
以前も申し上げたことがあるのですが、藤原道長が42歳の時に
御嶽詣で(金峯山参詣)
をしていて、そのあとをたどるのも私にとってはまだ課題として残っているのです。
道長という人は、けっして健康な人ではありませんでした。咳病、痢病、頭、腰などあちこちに病気を発症しています。晩年は糖尿病になったらしく、目もかなり不自由だったようです(兄の道隆も糖尿だったようで、43歳で亡くなっています)。また、病気になると気弱で、友人に「息子のことを頼む」と言ったり、天皇に「もう出家します」と言ったり。
そんな道長なのですが、彼は金峯山の山上まで、つまり大峯、山上ヶ岳に行ったとも途中までだったとも言われます。私の知人にも何人か山上ヶ岳に登った人はいますが、かなりきついと言っています。病弱の道長ではありますが、私は何とかして行ったのではないかと思っています。
西ののぞき
を体験した人もいます。「行きた心地がしなかった」と言っていました。さすがに道長はそういうことはしていませんが、それにしても行ったとしたらなかなかの頑張りだったと思います。標高は1719mです。
彼(ひょっとすると代理の者)は山上に行って、
子守三所権現
や護法、三十八所権現に詣で、そして本堂に詣でてお経を埋めています。この子守三所というのは本来「水分(みくまり)」がなまって「みこもり」になって「こもり」になったといわれています。子守大明神は地蔵菩薩の垂迹であるといわれ、女体神です。彼はここに詣でておそらく娘に子どもができるように祈ったのだろうと考えられています。
私はまだ山上ヶ岳に行ったことがありません。西ののぞきは高所恐怖症なので勘弁してほしいのですが、体力をつけてなんとか登れないものかと思っています。道長の追体験をしたいのです。登ったからといって何がわかるわけでもありませんが、そこに山があるから、というそれだけの理由で。
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2021年6月文楽鑑賞教室千秋楽
文楽鑑賞教室が本日千秋楽を迎えます。緊急事態宣言下での上演で、なんだかもう空襲警報発令中みたいな不安がありました。
しかし、特に大きな問題もなかったようで、無事に千秋楽を迎えたことはよかったと思います。
初日あたり、高校生がキャンセルだったのか、来なかったようで、お客さんの入りはよくなかったようですが、その後はどうだったのでしょうか。
5月にウイルスに感染した人形遣いさんも復帰されたそうで、その点も安心しました。
このあと、若手会が21日にあって、次は7月16日から夏休みの公演です。世の中、どうなっているでしょうか。
次の公演では、『うつぼ猿』で呂太夫さんのお弟子さんの豊竹薫太夫さん、錣太夫さんのお弟子さんの竹本聖太夫さんがデビューされます。期待したいです。
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野澤松之輔師匠(2)
松之輔師というと、もうひとつ近松ものの作曲も大きなお仕事でした。ただ、このお仕事については、賛否というか、毀誉褒貶があり、特に脚色に関しては「誉」「褒」よりもかなり厳しい「毀」「貶」のご意見があります。
たとえば『曽根崎心中』。昭和28年(1953)は近松門左衛門生誕300年でしたので、歌舞伎で『曽根崎心中』の復活上演がありました。宇野信夫氏の脚色で、義太夫の作曲は松之輔師です。この上演で中村扇雀(のち、四代目坂田藤十郎)のお初が絶大な人気を博したことはよく知られています。
松竹は、
文楽でも是非
と考え、2年後に上演されたのです。そのときの脚色、作曲をされたのがやはり松之輔師でした。歌舞伎では平野屋の久右衛門(徳兵衛のおじ)が「天満屋」に出てきますが、文楽でも最初は久右衛門を出すことにしていたそうです。番付には吉田玉助が久右衛門を使ったと書いてあります。しかし話し合いの過程で原作のようにしようということになり、実際の舞台には出てきません。今ももちろんそうですが、復活初演の時から出ていないのです。歌舞伎とは一線を画しています。
しかし、松之輔師の脚色はかなり大胆に書き換えを行っています。それについて松之輔師は「門左衛門の作品はむつかしく、今日では人形の動きもはっきりとは分らない。それを演劇的にするには、近松の精神を生かしつつ、新しい現代的なものにすることが大切だと思った」(吉永孝雄『私説 昭和の文楽』による)と言っていらしたそうです。
それは曲だけの問題ではなく、脚色もなさったわけですから、地の文も台詞もかなり変わっています。例えば、ラストシーンは原作では
「恋の手本となりにけり」
ですが、松之輔師は「森の雫と散りにけり」で結ばれました。私の考えでは、文学としてはやはり「恋の手本」であってほしいのですが、松之輔師はあえてそれを選ばずに、その方が現代の人にわかりやすいと考えられたのか、思い切って変更されました。これは一例ですが、全体としても松之輔師の脚色はかなり原作を改められているので、学者さんには「改悪である」という意見は少なくありません。
ただ、全体で80分あまりというコンパクトな形になっていることもあって、一般的にはわかりやすくテンポもよいと、評価する人も多いと思います。松之輔師がお考えになった「現代に受けるように作曲を新しくやっている」(吉永氏前掲書)という点は実現していると思うのです。
松之輔師は天才肌のところが感じられ、近松の改作についても独特で、それゆえに批判されることも多いのですが、今はもう『松之輔脚色曽根崎』として定着していて、文楽の財産になっているように感じます。
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- [2021/06/16 00:00]
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野澤松之輔師匠(1)
私が文楽の世界で今とても関心があって、しかしさっぱりわからない人が三味線の野澤松之輔師です。
松之輔師は昭和50年(1975)に亡くなったため、私はほとんど存じ上げません。ただし、そのお姿については、写真はもちろんですが、映像で拝見したことはあります。一番印象に残っているのは、昔、文楽鑑賞教室で放映されていた文楽の紹介映画です。この映画では桐竹紋十郎師が吉田簑太郎君(失礼! でも、十代半ばの少年だったので・・・)の目の前で人形の着付けをする場面もあったのですが、全体としては
傾城阿波の鳴門
をベースにして太夫、三味線、人形の紹介がおこなわれていました。今は若い技芸員さんがおもしろくお話をしてくださいますが、昔はこういう映画を見せて三業の紹介をしていたのです。
そして、松之輔師がいかにも大師匠らしくひかえていらっしゃるところに、まだ40代かあるいは50そこそこでいらしたであろう
竹本南部太夫師
が、「『鳴門』の役をいただきましたのでお稽古をお願い致します」と進み出ていらっしゃるのです。ちょっとわざとらしい演出でしたが(笑)。
まだ文楽の人たちをよく知らないころにこの映画を初めて観ましたので、そのときは「ふ〜ん、この三味線弾きさん、きっとえらい人なんだろうな」という印象だけでしたが、それがあの松之輔師であるとわかり、さもありなんと思ったのでした。
松之輔師の業績は三味線弾きさんとしてはもちろんなのですが、作曲(節付け)のお仕事を忘れるわけにはいかないのです。松竹がさまざまに試みた新作の作曲はこのかたが多く務められました。
そのお仕事では、ご本名が「西内重男」でしたので
西亭
と名乗られました。戦前戦中のいわゆる「時局もの」に始まり、『浅間の殿様』『お蝶夫人』『ハムレット』『椿姫』『暖簾』『名人豊澤団平』『明治天皇』『下田時雨』『白いお地蔵さん』『大阪繁盛記』『婦系図』『箕輪心中』など、すべて松之輔師の作曲、景事の『二人禿』『面売り』などは作詞作曲です。
三味線弾きさんの作曲というと三代鶴澤友次郎師の『花競四季寿』、二代豊澤団平師の『壺坂観音霊験記』『鳴響安宅新関』、初代鶴澤道八の『釣女』、四代鶴澤清六師の『雪狐々姿湖』、二代野澤喜左衛門師の『瓜子姫とあまんじゃく』『ほむら』などがあり、十代竹澤弥七師は八代竹本綱太夫師と工夫して近松ものの作曲などをなさいました。最近のかたでは五代鶴澤燕三、三代野澤喜左衛門、鶴澤清治、鶴澤清介各師などのお名前が挙がるでしょう。
しかし松之輔師の作曲のなんと多彩なこと。どうしてこんなに多くの作品をお作りになれたのか不思議でさえあります。浄瑠璃というものがきちんと頭に入っていなければできないことでしょう。
鶴澤清介さんが松之輔師に節付けについてお尋ねになったことがあるらしく、清介さんのお話によれば、松之輔師は30分ほどのものであれば一晩で節付けされたそうです。そして清介さんは松之輔師を「天才」だとおっしゃいます。
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吉田作十郎さん
思い出の技芸員さんとして人形遣いの吉田作十郎師(1920~2006)を挙げてみようと思います。
この方はご本名が小西作十郎とおっしゃるのだそうで、なんだかそのまま芸名になりそうな感じです。お歳は先代玉男師匠のひとつ下でいらっしゃいました。
三代目の吉田玉助師(今の玉助さんのおじいさん)がまだ玉幸を名乗っていらしたころに入門なさったようです。玉助師はご本名が作十郎師と同じ「小西」でいらっしゃるのですが、特に親戚関係という話は聞いたことがありません。
初名は玉枝。昭和二十四年に作十郎と名乗られたようです。分裂時代は三和会で、立役一筋という方です。
私が文楽を観始めたころはまだ脇役専門という感じで、玉男、勘十郎(いずれも先代)の影に隠れてあまり目立ちませんでした。文楽劇場の開場公演でも、玉男師が「知盛」と「いがみの権太」、勘十郎師が「狐忠信」を持たれたのに対して、作十郎師は
「梶原景時」
でした。維盛の首を受け取りに来る役ですね。
いつも苦虫を噛み潰したようなお顔をなさっていて(笑)、だからというわけではないのですが、『忠臣蔵』の高師直など悪役の雰囲気が強かったように思います。
たしか、玉男師匠が「自分や勘十郎君がいるのでなかなか主役は難しいかもしれないが、脇で行くのもひとつの道ではないか」というようなことを直接ご本人におっしゃったというのを何かで読んだことがありました。
そして先代勘十郎師が亡くなったあとは主役級の役も次々に回ってくるようになり、「新口村」の孫右衛門、「沼津」の平作、「すしや」の弥左衛門、『妹背山婦女庭訓』の大判事などの老人や渋みのある高齢の男性を演じられたのでした。私は特に孫右衛門や平作の情愛ゆたかな老父の役にこの方の円熟を感じました。
もうひとつ、作十郎師で思い出すのは、舞台の上でよく左遣いや足遣いのひとになにやらブツブツと
お小言
をおっしゃっていたことです。「・・せんかい!(「・・しなさい」の意)」など、前の席に座っているとけっこう聞こえてくるのでした。
お弟子さんはいらっしゃらず、お帰りになる時も重鎮なのにお見送りの方もないまま、そそくさとエレベーターに乗っていらっしゃったお姿を拝見したこともありました。人間国宝になられることもなく、栄誉には恵まれなかった方ではありましたが、記憶に残る人形遣いさんでした。
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- [2021/06/14 00:00]
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祝福されない慶事(2)
権力者が色を好むのは古今東西同じことでしょう。日本を見ても、昔の天皇の奔放さときたら我々の常識などまるで通用しないものと言えるでしょう。「女御更衣あまたさぶらひ」(源氏物語)というのが当たり前の時代があって、子どもが数十人などという天皇もいました。ところが今は皇族といっても一夫一妻。それだけにかえって「結婚は自由」だというと猛反発を受ける事態も起こってきます。反発する人の中には、「かしこきところ」であってもある程度自由に批判できる現代であるがゆえに、皇族を批判して留飲を下げているだけという人もいるでしょう。
もちろんこれは眞子内親王の現状を言っているのです。若い女性たちの意見を聞いたところでは、圧倒的に
「自由にさせてあげてほしい」
という声が強いのですが、皇族女性が結婚すると品位を保つためにという理由で(眞子さんの場合は1億円余り)一時金が税金から出ます、という話をすると途端に「それはダメ」という声を出す人も少なくありません。自由に結婚するならそれでかまわないから、自分たちで生活しなさい、ということなのでしょうか。眞子さんのこれまでの仕事を考えたら、退職金と言えなくもないのですが、なかなかそうは思ってもらえないようです。
眞子さんは今年30歳。今はこれくらいの独身女性は山ほどいますし、皇室内では彬子女王、瑶子女王、承子女王という30代の独身女性もいます。
私自身は、今の皇室典範の「皇位は男子のみが継承する」「女性皇族は皇族以外の人と結婚したら皇室を離れる」という定めがある限りは、女性皇族はある程度自由にしてもらえばいいと思っています。「ある程度」といったのは、やはり品位を保つには一時金だけでは無理なのであって、やはりそれにふさわしい相手が望まれる、という意味です。もし一般人と同じように「品位を保つ」ことが求められないのであればほんとうに自由だと思いますが、それなら一時金を受け取る根拠もなくなってしまいます。
眞子さんの場合は相手の人が主にネット民と言われる層に嫌われてしまって、そういう空気にはなかなかならないのが現実で、まことに気の毒だと思っています。
そしてもうひとつ、オリンピックが開催されようとしていますが、これもまた「祝福されない慶事」になるかもしれません。
しかし、IOCや政府の見込みどおり、「始まってしまえばこっちのもの」「国民は反対したことを忘れてテレビにかじりついて快哉を叫ぶ」になるのでしょうか。庶民なんて熱しやすく冷めやすいものだから、と高を括っている「お偉方」の思わくどおりになる可能性もまた否定できないように思えます。
これまでにもここに書きましたように、私はこの世界的なウイルスの流行という「人類への警鐘」をきっかけに、オリンピックのありかたそのものを考え直すべきだと思っているのです。そのために、今年の催しは何としても中止する必要があると考えています。もし今年開催してしまったら、
「人類は何ものにも打ち勝てる」
などという驕りが生まれてきそうに思えてなりません。
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- [2021/06/13 00:00]
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祝福されない慶事(1)
結婚のようなお祝い事というのは祝福されてこそ、という面があります。
ところが最近は個人の自由が尊重されるあまり、祝福は無用、勝手にやります、という風潮も強くなっているような気がします。昔の結婚のように家と家との結びつき、あるいは女性が男性の家に嫁入りする、という考えは通用しなくなっていますし、それはそれでかまわないも思うのです。実際、民法でも「結婚は両性の合意のみに基づいて」とありますし、結婚すると新たな戸籍を作るわけで、女性が男性の家に入るわけではありません。姓は今なお男性側に統一する傾向がありますが、これも届け出のときにどちらかを選べばいいわけです。また最近は夫婦別姓を望む声もかなり大きくなってきています。
ただ、そういう考えが行き過ぎたときに、慶事なのに何だか
祝いたくなくなる
ようなこともあるかもしれません。親は関係ない、本人が結婚するのであって、どんな相手と結婚しようと放っておいてください、結婚式は二人だけでしますし、結婚したら親との行き来はなくします、という感じになると、結果的に当人たちも不幸になってしまうのではないかとすら思うのです。
イギリスのヘンリー(ハリー)王子が今、かなり苦境にあるような気がします。あの人の立場を考えてみると、将来英国連邦の国王になること可能性はほとんどないでしょう。チャールズ皇太子(王太子)の弟のアンドルー王子と同じ位置で、嫡流の兄に子どもができれば、王位継承順位はそちらが優先されますから、順位は下がる一方です。ハリー王子は子どものころは王位継承順位第三位でした(一位チャールズ王太子、二位ウィリアム王子)。しかし兄に子どもが三人できて、今は第六位になっています。
そういう、いわば
「気楽な立場」
だけに、彼はかなり自由に恋愛、結婚したような印象を持ちます。彼が選んだ結婚相手のメーガンさんはアフリカ系アメリカ人で、結婚後は、王室と距離を取るような姿勢になっていきました。英国国民の多くはメーガンさんの出自が何となく気に入らなかった様子がうかがえ、今の事態になって、さらに「あの結婚が悪かったのだ」という空気さえ感じられます。王族といっても一人の人間。自由にさせてあげればいい、という現代的な思考が、必ずしも通用しないのが保守的な伝統ある国らしいところなのでしょうか。もちろん英国王室の歴史をさかのぼれば、王はかなり奔放な結婚をしていて、イギリス人以外の女性と結婚したり、次々と別の女性に心を移したりという例は珍しいことではありませんが。
そもそもイギリス王だって、わずかでも血がつながっていたらヨーロッパのどこかの国から連れてくることもあり、英語の話せない英国王というのもいたくらいです。
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- [2021/06/12 00:00]
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育つのか、朝顔
昨年採取した朝顔の種を入れておいた袋がどこかに行ってしまいました。グラジオラスの球根などと一緒に決めたところに置いていますのでなくなるはずはないのですが、ないものはないのです。
残念ながら、今年の夏は朝顔を観ることはないのだな、とあきらめました。ところが、袋に入れた種とは別に、小さすぎて芽は出ないだろうから、と思ってはだかのまま放置していたものがあったのです。普通の種の半分くらいにしか見えない、ほんとうに小さなもので、まるでパワーを感じないものでした。
しかし、種であることには違いないのだから、ダメでもともと、蒔くだけ蒔いてみようかと思ったのです。
いつも私は朝顔の種を蒔くときは先端を少し削って芽を出やすくするのですが、この種はあまりに小さくて、指で押さえることも難しく、カッターで削ろうとしても、うまく削れないばかりか、手を怪我しそうな悪い予感がしました。
それで、しばらく
水につけて
芽が出やすくなるようにしました。一晩つけておこうと思ったのですが、うっかりして2,3日放置してしまい、気が付いた時には種の一部からほんのわずかに芽が出そうになっていました。
慌てて土に移し替えてやると、数日後にはけなげにも種を持ち上げるように芽が伸びてきました。やがて種の殻は落ちて、何となく弱々しげには見えるのですが、茎が伸びて
双葉
が開きました。ここまでは何とか朝顔らしい成長です。しかし、本葉がなかなか出てきません。こんなに暇がかかるものだったかな、と思うくらい姿を見せないのです。
しかしこれも何とか現れました。あの小さな種からここまで成長しただけでもうれしい気持ちになります。さてこのあと、ぐんぐん大きくなって花が咲くまでになるのでしょうか。
見た目にはまだ頼りなくて心配ですが、親はなくとも子は育つと言いますから、水やりに気を付けながらしばらく見守っていこうと思います。
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- [2021/06/11 00:00]
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ニンニクの収穫
昨年の9月に植えたニンニクが収穫のときを迎えました。ニンニク栽培は8か月半ほどの長丁場です。
ゴールデンウィークごろに葉ではなく花芽というのが出てきて、それから先は新たな葉は出てきません。あとは古い葉から順番に枯れていくばかりです。このときに、ニンニクは子孫を残すために葉が持っている力を精一杯種球に下ろしていきます。そして我々がスーパーなどで見かけるあのニンニク球のように大きくなっていくのだそうです。
最初のうちは葉を伸ばして上へ上へと成長し、最後は子孫を残すことに専念して葉は枯れていく。生物の持っているけなげともいえる姿だと思います。その姿を観ていると、私は
ちょっとした感動
を覚えます。単に食べ物を手に入れたというだけではなく、自分が枯れて行ったあとは子孫のために一生懸命栄養を残そうとする姿を目の当たりにするのですから。ニンニクが欲しければスーパーに行けば済むことなのです。素人が片手間にプロの真似をして栽培するほどのことはないのです。しかし収穫する以上のものを、たかがプランター栽培とはいえ、得ることができるのでなかなかやめられません。
先日書きましたように、今年は強風に晒して葉茎が折れてしまったために小さいままで収穫したものがありました。直径4㎝ほどのままごと道具のようなものでした。これはもともと植えた種が小さかったのに加えていささか窮屈に植えすぎたかなとも思っています。ニンニクはある程度くっつけて植えても大丈夫だそうですが、そこはやはりプランター、しかもあまり底の深くないものでしたのでよくなかったのかな、と思っています。もし今年も植えるとしたら、それを反省点にしたいと思っています。
そのあと、5月の末になって一部のニンニクの
葉が枯れて
きました。完全に枯れてしまってから収穫すると手遅れになって割れてしまうのだそうで、掘り出してみました。やはり前回収穫したものに比べると一回りも二回りも大きなものができていました。これはまずまず満足のいくものでした。ところがまだ葉がかなり緑色のままのものが残っていて、それはもうしばらく待つことにしたのです。ニンニクには限らないでしょうが、収穫は早からず遅からず、が大切です。
そして6月になって、ついにその葉も黄色くなり、最後の収穫をすることにしました。かなりしっかり根付いていますので、引き抜くにはそれなりの力が必要です。スポンと抜けるというよりはズボッと抜けるというイメージです。そして土の中から現れたものは、5月末に収穫したものに比べるとさらに大きなものでした。ニンニク栽培3年目にして何とかスーパーに売っているような大きさのものができました。
8か月余りの間、一緒に生きてきた、という思いが強いです。今は、「ニンニクよ、ありがとう」という気持ちでいっぱいです。
こうしてプランターは空っぽになってしまいました・・。
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- [2021/06/10 00:00]
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壊れそうなパソコン
パソコンを使い始めて30年あまりです。しかし、何の自慢にもなりませんが、私はいまだかつて自分でパソコンを買ったことがありません。使い始めたころは貧しくてとても自分のものを買うなんてできず、仕事場(広島時代)の教室にあったものを借りて使っていました。その後、電器店に物色に行ったことはあるのですが、目移りして何がいいのかさっぱりわからないのです。それに加えて、やはり財布の中味がなかなか決断させてくれません(笑)でした。そうこうしていると、「古いのがあるけど、いらない?」と何人もの方にいわれて、そのつど「はい、いります」ということで頂戴していたのです。
昨今はそうも甘えていられず、経費として落としてもらえるお金で(やっぱり甘えている)、
中古パソコン
を買って使うようになりました。私が使うアプリはワード、エクセル、パワーポイントがほとんどですし、マシーンのデザインなどには関心が薄いこともあって、メーカーや機種に特別の思い入れはありません。
1台目の中古パソコンはHP(ヒューレット・パッカード)製の15インチのものでしたが、私の扱いが悪く、あまり長持ちせずに使えなくなってしまいました。今持っているのは2台目でDELL製のもの。使い始めて2年半になります。やや重いのですが13インチの小型で、一応「モバイル」ということになっています。値段は、細かいことは忘れましたが、2万円台ではなかったかと思います。OSはWindows10ですし、ここまでは特に不都合もなく使えてきたのです。ところが、最近少し
変な具合
になることがあります。カーソルが行方不明になって、今自分が画面のどこにいるのかがわからなくなったりするのです。しばらく触っているとまた元に戻るのですが、不安定さは否めません。
しかしまあ、それくらいどうってことはないよね、と思いながら使っていると、先日は作業中に画面が消えてしまいました。何をどうしても元に戻らず、機械にはまったく弱いものですから原因などわかるはずもありません。しかたなく、最後の手段として再起動しました。すると普通に画面が現れ、動きも問題なく、事なきを得て今に至っています。
でも今後、このパソコンがいつまで使えるか不安になってきました。できるだけマメに文書などは保存して、万一の場合に備えています。
次に買うとしたらどんな中古パソコンにしようかな(←また中古か!)。
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- [2021/06/09 00:00]
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「邪魔」な花
小笠原諸島(東京都小笠原村)は世界自然遺産に登録されている島々です。母島、父島、姉島、兄島など安易というか不思議な名前がついています。ハハジマメグロとかオガサワラタマムシとか、珍しい動物もいて、海はきれいですし、すばらしいところです。しかし交通手段が東京竹芝桟橋から往復する「おがさわら丸」しかなく、丸1日船上の人にならねばならず、船に弱い人は大変ですね。
ここにいつしかグリーンアノールというトカゲの一種がペットとして持ち込まれ、それを誰かが放したために一気に増えて、400万匹ほどになったと言われます。それがオガサワラシジミなどの昆虫を捕食して壊滅的な被害を与えたために、今度は絶滅作戦が取られるという事態になりました。しかし迷惑なのはなによりもグリーンアノールでしょう。勝手に連れてこられて、放置されて、生きていくために昆虫を食べていたらけしからんと言われて駆除される。あまりに理不尽な話です。
外来種が持ち込まれて被害を受けるというと、琵琶湖の
ブラックバス
も思い出されます。あれも魚を食べるというので駆除すべきだと言われ、かなり減ったらしいのですが、だからといって元の魚の数は回復していないとも言われるそうです。
私の家の近所の川原に、とてもきれいな黄色い花が咲いています。この川はかなり深く掘られているため、下りることができないのですが、上から眺めていると、青々とした草の中に見るも鮮やかに群生しているのです。近くで見ることができず、また見ても私の知識ではどういう花なのかはわからない(笑)のですが、ひょっとすると
オオキンケイギク
ではないかと思うのです。この花は北アメリカ原産で、明治のころに日本にやってきて、とてもきれいなので緑化するときに植えられたりして長らく愛されてきたようです。ところが、これはWikipedeiaで知ったのですが、カワラナデシコなどの在来種に悪影響を与えることが指摘されたのだそうで、2006年に特定外来生物に指定されて、栽培したり販売したりすることができなくなりました。そして今は駆除の対象にもなっているようです。
この花にしても、人間の身勝手の被害者だともいえそうです。アメリカで咲いていたら日本に連れてこられて、きれいだきれいだとほめそやされたかと思うと手のひらを返したように悪者扱いされるようになったのですから。
外来種を持ち込むのはやはり慎重にしなければならないという例でしょうね。被害を受けるカワラナデシコも気の毒ですし、オオキンケイギクだってかわいそうなものだと思います。
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- [2021/06/08 00:00]
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県議選
地元で県会議員補欠選挙がありました。先だって市長選挙があり、それに自民党と維新党の県会議員が2人辞職して出馬したためです。市長選挙ではその県会議員は見事に負け、このところ続いている女性市長が誕生しました。私は妥当な結果だったと思っています。
そしてその欠員となった2人分の選挙が行われることになったのですが、自民党の人はどうやら引退したらしく、新しい人が出ていました。もうひとつの党の人は、なんと、市長選で負けたにもかかわらずまた出馬したのでした。法的には何の問題もありませんけどね。しかし大阪発祥のこの党は今や私の地域にも浸透しつつあるようで意外に強くて、市長選挙でも自民候補を上回る得票をして今回の選挙でも悠々当選していました。それにしても、辞職して別の選挙に出て、負けたからまた元に戻る選挙に出て、と
目まぐるしい人
です。まあ、選挙ポスターも基本の部分は使いまわしできますからお金もかからないのかもしれませんが(笑)。
私はこのところ、選挙には必ず行くようにしています。もちろん、私の1票なんて何の価値もないほど小さなものですが、とにかく妙な人が議員になるのを黙って見ているのはどうにも困ると思っているからです。
しかし、現実問題として、市会議員や県議会議員のレベルだと、ほとんど地元の商店街の役員をしている人とか青年会議所(?)の役職の人とか組合の幹部だとか、そんな人が多くて、組織にバックアップされていれば当選することが多いのです。
うちの近所に市会議員だった人がいるのですが、この人はある政党に属しており、何期かその党の力と地元に多くの土地を持っているという「地主さん」の力をもって市会議員選挙に出るとほぼトップ当選でした。ところが、まだそれほどの歳でもないのに議長にしてもらったところで引退するという、判で捺したようなお決まりのコースの議員人生を送られました。そして同じ政党のアイスクリーム屋の店長さんに順番が回って、その方も何の苦もなく当選されたのだったと思います。そういうのを見ていると、政党にも属さず、商売をしているわけでもない者としてはむなしい気持ちになってしまったのです。そんなわけで、これまではあまりにもつまらないと思って投票には行きませんでした。
しかし、今回の県議会議員選挙には私も心を改めて投票に行こうと思って少し人物を調べたりしました。もっとも、私は、
あの党とあの党とあの党(笑)
には絶対に入れないことにしていますので、最初からそれらの人は除いて(今回は「あの党」からは誰も出ていませんので、「あの党」と「あの党」を除いて)、3人から選ぶことになりました。
市長選挙では女性に入れましたので、今回もそうしようか、あるいは市長選挙が女性だったから今回は男性にしようか、ということも考えました。あとは政策や人柄を見て、ということでした。結局誰に入れたかは内緒ですが、実はその人は落選し、結局「あの党」と「あの党」の候補者が当選してしまいました。
私が投票すると落選するというジンクスは長らく続いていて、先の市長選挙でそれが途絶えたのに、また繰り返されてしまったのでした。
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- [2021/06/07 00:00]
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もし「成功」したら
子どものころ、オリンピックは「平和の祭典」だと教わりました。アマチュアの人たちが「勝利」ではなく「集う」ことに意義があるものだとも言われていました。超人的な力を持った選手ばかりでなく、けた外れに弱い選手も必ず出場していて、たとえば長距離のトラックレース(1万mなど)だったら何週も遅れてゴールする人もいました(今も少しはいるでしょう)。それもまたオリンピックの楽しさだと思いました。
しかし、メキシコオリンピックを前に亡くなった円谷さんというマラソン選手の苦悩を知った時、選手には「日の丸を背負う」とか「国を代表して」という重圧がかかるのだと、驚きをもって理解したのでした。
さらにそのうちに政治が絡み、お金が絡み、なんだか変だぞと思っていると、ミュンヘンオリンピックでは悲惨な
テロ事件
が起こり、モスクワオリンピックでは西側の多くの国がボイコットしました。
プロ選手が出場するようになり、アマチュア選手も強化、勝利のために多額のお金が支払われるようになり、マラソンでは「日本記録を出したら1億円」という報奨金が出たこともありました。
私は次第にそんなオリンピックがおもしろくなくなり、このブログに何度か書いたのですが、国民的人気のあった柔道選手が金メダルを取った瞬間に相手選手を踏み越えるようにして歓喜したのを見たとき、一気に
熱が冷めてしまった
のでした。
前回のリオデジャネイロはまったく観ませんでしたし、平昌は女子500メートルスピードスケートの小平さんだけ、たまたまテレビがついていたので観たくらいです。
今年の東京が強行されようとしています。それでなくても関心の薄い私は、もし実施されたとしても、テレビはもちろん、新聞もネットも、一切観るまいと思っています。
推進派の人からは「あなた一人ぐらい何の影響もありませんからどうぞご勝手に」と言われるでしょう。たしかに、何の力もない私が蟷螂の斧よろしくつまらない抵抗をしたところで意味がないことはよくわかっています。でも、もし強行されてテレビや新聞が大騒ぎして、それに乗せられるように「やっぱりオリンピックを実施してよかった」「ニッポン万歳」「コロナに打ち勝った」という世論が沸き上がるとするなら、私はなんだか空恐ろしいものを感じないわけにはいかないのです。
今やオリンピックは
金と権力の祭典
になってしまいました。もし東京が「成功」しようものなら、そのありかたを見直す機会が失われそうで、私はそこをとても危惧しています。
私はもともと、今回のオリンピックには反対でした。真夏の東京で開催するなんてまともな神経ではないとすら思いましたし、「復興五輪」などという当時の総理大臣の詭弁が腹立たしくて仕方がなかったのです。そこにこのウイルスのパンデミックが起こり、何とかこれをきっかけに権力者(IOCや政治家など)が立ち止まってくれることを願っていました。
そんな願いはやはり虚しいものに終わるのか、と残念でなりません。
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- [2021/06/06 00:00]
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卅三間堂棟由来
芝居の題は奇数文字、しかも多くの場合は五文字か七文字というのがきまりです。『本朝二十四孝』ではなく『本朝廿四孝』と書きます。『加賀見山旧錦絵』というタイトルも『加賀見山故郷錦絵』と書いてもよさそうですがそれはダメなのですね。『石切梶原』は四文字ですがこれは通称で、本外題は『三浦大助紅梅靮』(『梶原平三誉石切』)です。近松時代の作品はそうでもないようで、『世継曽我』『出世景清』『卯月紅葉』『生玉心中』は四文字です。
『卅三間堂棟由来』も普通なら『三十三間堂棟木由来』でしょうが、この場合奇数とはいえ七文字にしようとしたのでしょう、「三十」を「卅」、「棟木」は「棟」一文字にしてしまいました。
初めて『卅三間堂』を観たのはいつのころか、さすがにもう忘れてしまいました。「平太郎住家」が物語の山場で、お柳のクドキやみどり丸との子別れなど見どころ、聴きどころもあります。お柳の
「母は今を限りにて
もとの柳に戻るぞや。
必ず草木成仏と回向を頼む
夫(つま)よ子よ。
離れ難なや悲しや」
という訴えは柳の精が人間の姿になったがゆえの哀しみにあふれています。
今は「鷹狩」や「平太郎住家」の老母殺しの場面が省略されることが多く、私もそれらを含む上演は数えるほどしか観ていません。「平太郎住家」で平太郎がみどり丸を連れて家を出る場面ではまだ老母は生きています。そのあと彼女は殺害され、いったん戻ってきた平太郎がその姿を見て、改めて柳が切られる場に行きます。そのため、「木遣り音頭」の段切では「『孫よ孫よ』と夕べまでいとしがつたる老母さへ道の巷に葬らむ」と母はすでに亡くなっていることになっていて、実はつじつまが合いません。
「平太郎住家」の前半と「木遣り音頭」には「進の蔵人」という人物が登場しますが、確かこの役は先代勘十郎師の最後の役だったように思います。
この「木遣り音頭」は歌としても魅力があって、勇壮で華やかな雰囲気がありながら、この
切なく悲しい場面
にもよくマッチしています。最後に平太郎が歌う木遣りは「無残なるかな幼き者は、母の柳を都へ送る、もとは熊野の柳の露に育て上げたるそのみどり子が」で、これは「都へ送る」といいつつ、実は「野辺送り」だとも言えるでしょう。
いろんな名演がありますが、私にとっては五代目呂太夫さんが随一で、よく伸びるお声でしかも哀感たっぷりに語られました。
私が創作浄瑠璃のラストシーンでしばしば歌を書く(「異聞片葉葦」「落葉無き椎」)のは、自分ではあまり意識していなかったのですが、この木遣り音頭に影響されたのかもしれません。
この6月の文楽鑑賞教室はこの『卅三間堂棟由来』がプログラムに入り、五代目呂太夫師や嶋太夫師の薫陶を受けられた呂勢太夫さんが藤蔵さんの三味線で語られる(ほかは藤太夫・宗助、織太夫・燕三、靖太夫・錦糸)というので大いに期待されます。
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- [2021/06/05 00:00]
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大関の休場
大相撲五月場所は、特に大きな感染問題も起きることなく、東京という全国最大級のウイルス蔓延地域で23日に千秋楽となりました。関係者のみなさんはよく努力されたことだと思います。
そんな中で、ひとつの汚点として残ったのは大関の休場でした。何でも非常事態宣言下で、相撲界は特に厳しく「不要不急」の外出を禁じていたにもかかわらず、「キャ・・」というところに通っていたというのです。この「キャ・・」というところは、私は行ったこともなく、具体的にどういう場所なのかもわかりません。ネットで調べてもいまひとつ明確なイメージがつかめません。「キャ・・」などと不明確な表記をしたのは、禁止ワードに含まれるかどうかはっきりしないからです。禁止ワードになると、パソコンから見られない可能性もあるので、こんな言い方にしました。お分かりと思いますが、うしろに「バクラ」という言葉がつきます。
大関といっても、若い男の子(しかも年齢の割にお金を持っている)ですから、
遊びたい気持ち
もあるでしょうし、贔屓筋に招かれることもあるでしょう。また、若いエネルギーを持て余す気持ちもわかるような気がします。何もないときであれば、これくらいのことは問題にすることはないとも思っているのです。むしろ「お相撲さんはもてますねえ」と笑っているのが粋なのではないか、とさえ考えています。ただ、今は時期が時期です。以前、ある親方がやはりこの状況下で繰り返しマージャン店に入り浸っていたというので問題になり、ついに退職されるという出来事もありました。今、大関は事実上一番高い地位でしょう。いくら若者だからといっても、その人が模範を示さないのは問題だろうと思います。
ただ、昨今ありがちなことですが、彼を非難(いわゆる「バッシング」)して快哉を叫んでいるだけというのはよくないでしょう。
過ちは赦すべき
だと思います。相撲愛のある人ならば特にそういう思いを持つべきだと思います。ただそれだけでは単なる甘やかしにつながりかねないので、同じことを繰り返したら今度はもう赦されないよ、ということを伝えたうえであまり責めないでほしいと私は考えています。
私は、相撲はあまり熱心に観る方ではないのですが、なんでもかんでも「不祥事」が起こるたびにバッシングに明け暮れているネット民の一種の「閉塞感」に嫌気がさしていることもあって、大関に対する思いを述べてみました。
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- [2021/06/04 00:00]
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2021年文楽鑑賞教室初日
先月、吉田簑二郎さんのことを書いたとき、私は夏の公演の配役を知りませんでした。そして、簑二郎さんには「笑ひ薬」の祐仙を遣ってほしいと書きました。最近、夏の公演の配役を見たら、簑二郎さんがまさに祐仙で、びっくりしました。
きっとおもしろいと思います。床は咲さんですが、私は千歳さんでもおもしろいだろうと思います。千歳さんは宿屋なのですね。宿屋は錣さんで、錣さんの三婦内を咲さんでも・・などと無責任なことを考えています。
さて、コロナウイルスの蔓延による緊急事態宣言が延長されて開催が危ぶまれた文楽鑑賞教室が本日初日を迎えます。
残念ながら土日は休演とのこと。うまくいかないものですね。平日は高校生、土日は文楽ファン、という感じがありますので、私の知り合いの文楽ファンもたくさんの方が「行けない」とぼやいていらっしゃいました。
また、高校生のキャンセルは出ないのか、心配しています。
演目は
『五条橋』
『卅三間堂棟由来』(平太郎住家より木遣り音頭)
で、間に解説の入るいつもの構成です。
最近の解説は変わってきているでしょうか。以前は、技芸員さんが人形体験などを楽しくやってくださっていましたが、私は後半のお芝居の解説があってもいいな、と思っています。能勢町の浄るりシアターがその形をとっており、あれを参考にされたらどうか、と思うのです。
「平太郎住家」は藤太夫・宗助、呂勢太夫・藤蔵、織太夫・燕三、靖太夫・錦糸です。靖太夫さんは私のわからない太夫さんなのですが、最近いい語り場がついてきましたね。人形はお柳が清十郎、簔二郎、勘彌、一輔。平太郎が玉也、玉志、玉助、玉佳。みどり丸は玉彦、勘介、玉路、和馬。
どうか無事に千秋楽が迎えられますように。
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- [2021/06/03 00:00]
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小学校時代の懺悔(2)
小学校時代のことを思い出すなんて本当に少ないのですが、今の時代に見られるさまざまな理不尽に出くわした時にフラッシュバックが起こるように思います。
私は障害を持つようになって、改めて差別やハラスメントについて考えるようになりました。これらは自分が被害者にならないとなかなかわからないものだと思います。セクハラをした人が訴えられたときに「まさか自分のしたことがセクハラになるとは思わなかった」と言ったりしますが、あれは多くの場合本心だと思うのです。加害者側にはさほど悪気がないだけに「なぜ訴えられるの?」という気持ちになるのでしょう。しかしそういう人が軽い気持ちでしたこと、言ったことが被害を受けた側からすると許しがたいことなのです。このことを今になってしみじみ感じるのです。
私は、子どものころ、いじめっ子ではありませんでした。どちらかというと
いじめられる方
で、よほどのことがないと喧嘩もしないし、不快なことがあっても怒ることすらほとんどしませんでした。そして、これはうぬぼれかもしれませんが、人の悪口を言っている同級生がいた場合、それに乗っかるようにして同じように悪口を言うようなこともあまりしなかったと思うのです。自分がいじめられるタイプだったから、いじめることをよしとしなかったのだろうと思い返しています。そしてその自分に満足もしていたのだと思います。ところが・・。
5年生か6年生の図画工作の時間でした。私は絵や工作が大の苦手でいつも憂鬱だったのですが、この日は
校庭で写生をする
ことになっていたので、開放感があって少しは気が晴ればれとしていました。私は画板と画用紙を持って適当な場所に腰を下ろしました。
するとたまたま声が届くくらいの距離のところに、少し知的障害のある同級生の女の子が座っていたのです。彼女は勉強も運動もうまくできず、表情が乏しく、着ているものがいつも同じようなあまり上等と言えないものだったところから考えると家庭も貧しかったのだろうと思います。同級生の「悪ガキ」たちはそんな彼女をからかっては喜んでいました。私はそれを咎めるほどの勇気は持ち合わせていませんでしたが、苦々しくは思っていたのです。そう思うことで自分には「いくばくかの正義感」があるのだと信じたかったのかもしれません。
私は彼女とは普段からほとんど話したこともありませんでしたので、写生の時も特にその存在を意識していませんでした。すると彼女が何か言いかけてきたのです。その言葉はよくは思い出せないのですが、私にとっていささか不愉快なものでした。それにカチンときたのか、晴天の下でいくらか興奮していたのか、その直後、私は彼女に
ひどい言葉
を浴びせてしまっていたのです。自分でもびっくりするような、ここには書けないような差別的なことを言っていました。
彼女はきっとショックだったと思うのです。そのあと、私に何も言い返すことなく黙ってしまいましたから。私はその瞬間、あの「いくばくかの正義感」が吹っ飛んで、「結局自分もクラスの悪ガキと同じ差別をしているじゃないか」と思い知ったのです。
あの時の彼女の顔は今もよく覚えています。無表情だった彼女が鼻でふっと息を吐いて一瞬にして悲しそうになったあの顔を思い返すと、嫌なことをしたものだと申し訳ない思いでいっぱいになり、今でも涙が出そうなくらいです。
心から懺悔します。
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- [2021/06/02 00:00]
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小学校時代の懺悔(1)
懐古癖が強くなってきたかもしれません。
最近、小学校時代の出来事を二つ、何の脈絡もなく思い出していました。
ひとつは4年生のときです。私は平凡で、何の特徴もないような子どもでした。勉強がずば抜けてできるわけでもなく、スポーツ万能でもなく、リーダーシップもなく、歌や絵もへただったのです。いつもクラス委員を務めるタイプの優秀な同級生をうらやましく思って見上げていました。
たまたまそういうタイプの同級生が二人、私の目の前で机を並べていました。というか、あのころはひとつの机が二人分(つまりかなり横長)くっついていたものでしたので、その二人分の机に彼らも座っていたのです。今でも名前を覚えています。M君とK君でした(笑)。二人とも成績優秀なだけでなく、いい意味でとてもはっきりとものを言う人で、何となく周辺に人が集まるような快活な人気者でした。
ある日、理科のテストがありました。今でもはっきり覚えているのですが、
「てこの原理
を使った身の周りの道具を3つ答えなさい」という問題が出ました。私は、2つ(「はさみ」と「くぎぬき」だったかな)はすぐに思いついたのですが、あと一つは何だろう、と考えていました。そのとき、目の前の二人がなんだかこそこそ話しているような気がしたのです。そして彼らの視線の先を見ると、そこには開かれた教科書がありました。どうやら彼らも私と同じように悩んでいたと見えて、こっそり教科書を開いてカンニングしていたのです。「まさかこの優秀な二人がカンニングするなんて!」とわが目を疑いました。
今思えば、ちょっとした「子どものいたずら」のようなものですから、まあそう目くじらを立てるほどでもないよ、と、笑って済ませることもできますが、あのときは「優秀」と「カンニング」の
不釣り合い
に大きなショックを受けたのです。
こんなことを思い出したのはなぜだったのでしょう。思い当たることとしては、最近しみじみと世の中の「エライ人」って結局私のような凡人と何ら変わらないんだ、と感じることが増えてきたことくらいです。それがあの思い出と二重写しになるのだと思うのです。彼らも普通の子どもだったんだな、と。
さて、私はあの時どうしたのでしょうか。「先生! M君とK君がカンニングしています!」と言ったのか。「君たち、そういうことはおやめなさい」と諭したのか。
実はどちらでもなかったのです。彼らが見ていた教科書に載っていた「てこの原理を使った道具」のうち、私が思いつかなかった「せんたくばさみ」という文字を見つけ、「あ、そうか」と思って答案用紙に「せんたくばさみ」と書いたのでした。
懺悔します。
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- [2021/06/01 00:00]
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