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赤とんぼ 

8月の初めから梅雨の第二弾のような、あわてんぼうの秋雨のような長雨がありました。気温が下がったのはありがたかったのですが、雨が長く続いたことと集中豪雨が災害をもたらしたのには閉口しました。楽しみにしていたペルセウス座流星群もまったく観ることができず、残念でした。
大雨に加えてウイルスの蔓延がさらに広がったという事情もあって、8月はあまり外を歩くことができませんでした。1日平均5000歩にも届かなかったくらいです。連日1万歩以上歩いていた2、3月を思うと雲泥の差です。かといって家でぼんやりしているわけにもいかず、テレビを観る習慣もありませんから、ものを書くのには絶好の条件だったと思います。さぞかし仕事がはかどったはずだ、と思うのですが、何とか最低限のことはできた、という程度でした。これで例年のような暑さだったら

    「なつやすみのしゅくだい」

は不合格だっただろうと思います。
そんなある日、8月の後半に入ったころの午後のわずかな時間ではありましたが、雲が切れて青空がのぞいたことがありました。このときばかりはホッとしたような感覚になり、少し外に出てみようと思いました。傘は用意していましたが、それを使うことはなく、それどころか青空がさらに広がっていったのです。そして驚いたのは、雲の様子が夏とは違っていたことでした。むくむくと盛り上がるような雲ではなく、空に刷毛をさっと刷いたような雲が出ていたのです。秋の雲でした。
例年ならまだ「秋来ぬと目にはさやかに見えねども」の時期なのですが、はっきりと秋らしさが目に入ったのです。そして、視線を下ろすとそこにはたくさんの

    赤とんぼ

が飛んでいました。1か月ほど季節が早く巡ってきたようで、感動なしとしませんでした。
そういう体験をしたのは近くの公園だったのですが、帰り道、家のそばまでくるとまた赤とんぼが飛んでいて、行く手を遮られるくらいでした。
考えてみると、子どものころは夏休みの終わりというのはこんな感じだったのでしょう。気温は30度以下になって、秋の風情が漂っていたはずなのです。ああ、もう終わりだ。宿題はできたっけ。8月下旬はそんな時期だったと思います。

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夏の甲子園 

オリンピックが開催されているときは灼熱の日々で、そのあと一気に気温が下がり、豪雨に見舞われました。なんだかもう、わけのわからない気候です。豪雨は、秋雨前線が列島の上に停滞したことによるそうですが、なんだか梅雨の延長のような感じでもありました。
雨による災害で命を落とされた方はもちろんのことですが、この夏はスポーツ選手にとっては災難のような気候だったと言えそうです。暑さでひどい目に遭ったのはオリンピック(特に屋外競技)の人たち、雨の被害を受けたのは高校球児でしょうか。
開幕直後から連日の雨で、延期に次ぐ延期。その結果、ずぶぬれになって試合をさせられたり、休日がつぶされたりしたようです。
私はもう何年も前から言い続けているのですが、

    夏の甲子園はやめた方がいい

と思います。35℃の炎天下で試合をしたり、日程消化のために大雨の中でプレイしたりするのは高校のクラブ活動の範囲を超えるような無理があると思うからです。雨天中止というのはありますが、高温中止というのはありません。しかし私はそれもあっていいと思うくらいなのです。
もちろんこの意見に反対する人は多いと思います。以前Facebookで「そんなことをしたら兵庫県の経済にとってマイナスになる」と言われたこともありました。地元の経済に詳しい人はそういう発想をされるのでしょうね。私には、経済のためなら子どもの健康に害があってもかまわない、という理屈に聞こえてしまい、「それがどうかしましたか」と言いたかったのですが、知らない人でしたので適当にごまかしておきました。
「夏の甲子園で汗を流してやるからこそ高校野球だ」という意見もあるようです。しかしそれなら甲子園がドームになったら、ほかの炎天下の球場で実施するのでしょうか。子どもの健康を考えたら、野球場にこだわる必要はないと思います。もともと高校野球(古くは中等学校野球)は豊中で始まり、鳴尾などで実施していて、大正13年に甲子園球場ができたことで今の形になったようで、「甲子園は

    高校球児の聖地」

なんていいますが、それはメディアが勝手に言っていることだと思います。こんな気候になっているのですから、雨にも高温にも影響されない球場、やはりドーム球場を借りる方が得策だと思います。オリックスにはその期間甲子園か神戸の球場(もちろんナイトゲーム)を使ってもらって高校野球は大阪ドームに移すのが一番現実的ではないかと思います。
春は雨も少ないですし気温に問題はありませんから甲子園でもいいと思うのですが、夏はもうダメではないでしょうか。
朝日新聞社は人命第一を訴えて今年のオリンピックの開催に明確に反対しました。それなら自ら主催する高校野球についても選手や応援する人たちの健康を考えて予防的に方策を練るのが当然でしょう。重大な出来事が起こらないと動かないのは大きな組織の悪いところだと思います。

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とてもリアルな夢 

夢を見ることはしばしばありますが、断片的にしか覚えていなくて「何だったかな」で終わることが多いのです。
この夏、朝起きた後もまざまざと覚えている夢がありましたので記録しておきます。
私が、仕事場に置いている2体の文楽人形を持って、子どもたちに文楽の話をしようとしているのです。そこはなぜか広島市で、しかも目の前に地方公演にやってきた文楽様御一行という宿がありました。折しも、中からぞろぞろと技芸員さんが現れて、親しくしてもらってきた人形遣いさんが

    今からアステールプラザです

と言って全員で準備をなさっていました(アステールプラザは広島に実在するホールで、文楽の地方公演がおこなわれます)。そのあと彼らは、昔の巡業みたいに大きなトラックに人形などを積み込んで彼ら自身も荷台に乗って移動していきました。それを見送った私がふと手許を見ると私の人形のうち、娘首のものがありません。どうやらそのトラックに誤って積み込まれたようなのです。これは困った、というので、あとを追いかけようと思うのですが、もうひとつのツメ人形が邪魔になるので、ひとまず私の下宿(なぜか私は学生なのです)に持ち帰ることにしました。ところがそれは広島ではなく、あきらかに東京の下町の下宿屋さんの多い地域なのです。私はそこに引っ越したばかりのようで、自分の下宿の場所に自信がなくてうろうろしていたのですが、見覚えのある道に出ましたので、そこから路地に入って2軒目(にあるはず)の私の下宿に入ろうとしました。すると、玄関が開いています。何だろうと思って入ってみると、そこに今の吉田文昇さんによく似た人がいるのです。人の部屋に黙って上がり込んでいるわけですから、「泥棒だ!」と思いますよね。そこで私は思わず

    「誰だッ」

と叫んで飛びついていました。文昇さんみたいな人はなかなか手ごわくもみ合いになったのですが、どうも私が下宿を間違えているような気がしてきました。すぐに謝って、自分の下宿を探しに行くのですが、まるで見当たりません。文昇さんみたいな人は実は親切な人で、一緒になって探してくれるのですが、どうしてもわからないのです。
・・・というところで目が覚めました。
広島と東京はどちらも私にとってはゆかりのある場所で、なぜその場所が出てきたのかの意味はわかります。子どもに文楽の話をするのも長らくやってきた活動ですので理解できます。文楽人形のうち、娘首を持って行かれたのも、最近修理のために預かってもらっていますので、その反映だろうと思います。技芸員さんがトラックで移動するのは、たしか、二代目桐竹紋十郎師匠がトラックの荷台で

    酒屋のお園

を遣われたことがあるという話を何かで読んだことがありましたから、その影響かも知れません。下宿を探すというのは、私は東京の私立大学にも合格していましたので、もしそこに入っていたら下宿を探すことはあり得たと思います。文昇さんは私と同世代の人形遣いさんの中では若々しい印象がありますから、学生になってもおかしくないような気がします。
そういうことがあれこれ重なっての夢かな、と、それぞれの断片に関しては理解できるのですが、では結局あの夢のテーマは何だったのだろうと考えるとわからなくなってきます。
また文楽の人と親しく話せるようになりたいな、という願望かもしれません。中止になっている幼稚園での文楽人形活動をしたい、という思いもあるのかもしれません。学生に戻って一から勉強したいという気持ちもあるのかもしれません。そういう、現在の思いがひとつの話としてつながったのかな、という感じです。

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浄瑠璃の文章に悩む 

浄瑠璃を書いています。
セリフの部分は、ある程度話が進んで登場人物の性根(しょうね)も明らかになってくると、私ではなく登場人物が勝手に語り始めるので苦痛は少ないのです。問題は地の文で、言葉ひとつを選ぶのにかなりのストレスを感じながら書いています。このストレスというのは、自分が断崖絶壁に追いやられて、振り返ると落ちそうなので無理に前を向いていてそれでも後ろが怖くて仕方がない、そんなイメージのものです。胸が苦しくなって意味もなく

    「ウアアアア」

と声を出したくなるような気分になります。声を出したら言葉が見つかるのかというとそんなものではありません。とにかく考えて、考えて、自分の持っている貧しい語彙から言葉を選び出すのです。子どものころ、祖父が印刷会社をしていましたので、そこに行くことがありました。いとこと一緒に会社の中に入りこんでよく邪魔をしたものです。そして、何しろ当時は活字をひとつずつ拾って版を組んでいたわけですから、熟練のおじさんがたくさんの小さな活字を見事に抜いていっては組んでいくのを見たことがあります。私が浄瑠璃の文章を書く場合は、何しろ熟練ではないので、どこにあるのだろう、いい言葉はないだろうかと探しつつ困惑しています。ところがときどきハッとした瞬間に見つかることがあり、頼りはその「ハッと」なのです。思いついた言葉は、忘れてはなるものかとばかりに、すぐ書きとめます。パソコンで浄瑠璃作成の作業中なら、その画面に書き込めばいいのですが、そうでない場合は何でもいいので

    手元にある紙

に書きとめるようにしています。それを集めて、その中から使えそうなものを選んでいきます。しかし、思いついたつもりになっていてもボツになることは少なくありません。私が書いている短編浄瑠璃は概ね原稿用紙に7~8枚、つまり3000字前後なのですが、実際にはそれよりはるかに多くの言葉を書いて、その中から選択しては削っていくということになります。
今この記事を書いているのは、浄瑠璃に行き詰っているからです(笑)。この記事を書いているうちに何か思いつかないものかと期待していたのですが、ここまで書いても何も思いつきませんでした。しかし案外、頭を切り替えて別の文章を書いたら、そのあとアイデアが出ることもあるのです。今からまた浄瑠璃の画面を出します。さて、アイデアは出てくるでしょうか。

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せまじきもの 

高校時代に習った「古文」では平安時代も鎌倉時代も室町時代も江戸時代もほとんど同じように考えられがちなのですが、平安時代と江戸時代ではかなり言葉が違います。それはそうです。平安時代の初めから終わりまでが約400年、その平安時代が終わって江戸時代が始まるまでも400年ほどあります。それだけの年月を経ているのですから、言葉が同じであるはずがありません。古文では上二段活用、下二段活用というのを習いましたが、江戸時代になると上一段、下一段の活用があり、現代語と同じようになります。
古い言葉に

    まじ

という助動詞があります。「マジ」と書くと現代若者言葉ですが、そうではなく「帰るまじ」「行くまじ」「すまじ」などと言う場合の「まじ」です。これは終止形に接続する性質があって今挙げた例も「行く」「帰る」「す」はいずれも終止形です。よく似た意味の助動詞に「じ」があり、これは未然形について「帰らじ」「行かじ」「せじ」となるのです。
「まじ」はやがて「まい」に変化し、「じ」は文語では残るものの、口語では使われなくなっていきます。今でも「帰るまい」「行くまい」「するまい」という言い方はします。
「まじ」も「じ」も、言葉の成り立ちはともかく、打消推量(~しないだろう)や打消意志(~するつもりはない、~しないつもりだ)の意味を持ちます。
となると、めんどうなのでやがてどちらかに収斂していくことが考えられ、この場合は「まじ(まい)」に一本化しつつあるのです。
『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の名ぜりふである

    せまじきものは宮仕へ

は、いわゆる古典文法に照らすと不正確ということになります。「まじ」は終止形に就くのですから、「すまじき」が正しいのです。以前NHKで文楽の鑑賞講座のようなものが放送されたことがありました。そして「寺子屋」を取り上げるに際してタイトルは「すまじきものは宮仕へ」となっていました。さすがにNHKはインテリさんが多いので文法的に正しくない言葉はダメだということになったのかもしれません。しかし江戸時代の口語文法でいうなら、これは間違いではないのです。浄瑠璃を聴いていると、「~せまいがの」「~せまいて」などという言葉があたりまえのように出てきます。「まじ(まい)」が打消しの意味があるために未然形を呼び込むようになったのかもしれません。つまり「せず」という「未然形+ず」の形が「まじ」に応用されて「せまじ」になったと考えられると思うのです。国語学者ではありませんので正確ではないかもしれませんが。
学校で習った古典文法に固執するなら「せまじきもの」は間違いですが、そういうことを言い出すと現代語は古典文法的に間違いだらけになってしまいます。「せまじきもの」で意味が通じますし、実際そういう言い方をしたのですから、私がNHKのディレクターなら「せまじきもの」のままでタイトルにします。批判が気になるなら、番組の冒頭ででも「私どもが古典文法で習ったものとは違って江戸時代は『せまじ』なんて普通に言ったんですねぇ」と軽く触れておけばいいだろうと思います。

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大湯環状列石 

先月、世界遺産委員会があり(オンライン会議だったそうですが)、昨年中止になった分と合わせて2年分の新たな世界遺産の登録が決まりました。今は1年に各国1件ずつしか申請できませんが、日本からは2年分の2件が登録されました。
まず、自然遺産の「沖縄・奄美」の登録が決定しました。ヤンバルクイナ、アマミノクロウサギ、イリオモテヤマネコ、オキナワトゲネズミ、リュウキュウヤマガメ、クロイワトカゲモドキなど、とても珍しい動物が生息する地域です。稀に見る地域ですから、かなり以前から登録は確実だろうと言われていましたし、私もそう思っていました。
もうひとつ、文化遺産として「北海道、北東北の縄文遺跡群」の登録も決まりました。「遺跡群」ありますし、また地域も広いですから、いろいろな資産が登録されました。
この中で、私が実際に見たものがひとつあります。それは、秋田県鹿角市にある大湯(おおゆ)環状列石です。
以前、秋田県小坂町にある

    康楽館

という芝居小屋で文楽を上演したいと言い出した人(ある出版社の編集者)がいまして、私も協力を求められたことがあります(プログラムに解説のようなものを書きました)。文楽側の窓口になってくれたのは吉田勘彌さんで、主な出演は豊竹嶋太夫、鶴澤清介、吉田簔助、吉田簔太郎(現・桐竹勘十郎)、吉田玉女(現・玉男)といった名人揃いでした。
公演は2回おこなわれたのですが、その2回とも、私は小坂町の隣町にある鹿角市大湯にある大湯温泉(なかなかの名湯です)の某旅館に泊まりました。ここの若女将(私より6つばかり年少の人)は以前からの知り合いで、この人も文楽公演にずいぶん助力されていたのです。坊や(当時小学校6年生。今や30歳を過ぎているはず)は嶋太夫さんにかわいがられて、我々が皆「嶋師匠」とお呼びしているのに、彼だけは「嶋さん」と呼んでいました(笑)。このあと彼は少し義太夫の手ほどきまで受けた(嶋師匠から習ったのではありませんが)こともあるのです。「寺入り」を稽古してもらっている、と言っていました。残念ながらプロにはなりませんでしたが。
さて、夕方から技芸員さんの歓迎会をすることになっていましたので、それまで少し時間がありました。私は本屋があったら行ってみたいと思って女将に場所を聞きました。すると本屋というものはない、ショッピングセンターのブックコーナーがあるくらいだと言われて、地域差というものをしみじみ感じました。それでもまあいいかと思って「じゃあ行ってきます」と言ったら「私、今から買い物に行くので、一緒に行きませんか」とのこと。大体の場所はわかっていたとはいえやはり不案内ですから、この申し出は

    渡りに船

でした。
ありがたく美人女将の車の助手席に乗せてもらって、しばらく行くと、突然彼女が道端に車を寄せて車を停めたのです。何だろうと思ったら「あれ、ストーンサークルです」と指さして教えてくれました。私も話には聞いていましたが、まさか見ることができるとは思いませんでしたので興味津々でした。あいにく時間の関係などもあってそれ以上細かくは見ていないのですが、いい体験をさせていただきました。
ずいぶん話が遠回りになりましたが、大湯の環状列石(ストーンサークル)というと、この美人女将とセットになって(笑)思い出されるのです。

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おかみの悪口を言うから 

「お盆の時期は家を離れずにじっとしていましょう」と政府の方がおっしゃっていました。「誰がお前らの言うことなんか聞くもんか!」とそのお達しを無視して私は長距離の移動をしました。そうしたら、天罰覿面。雨にたたられてしまいました。
私がその地へ行った目的は
(1)行く先の家の庭を掃除すること
(2)ペルセウス座流星群を観ること
が大きかったのですが、いずれも雨のためにうまくいきませんでした。先日も書きましたように、庭掃除は、それでも雨の合間を縫っていくらかできましたが、曇っただけでも見えなくなる流星群はまるでダメでした。今年は観察するのにとても条件の良い年だったそうなので残念です。
しかしそれよりも何よりも、命ほど大事なものはありません。災害の情報はレベル5まであるそうですが、隣の町はそのレベル5まで行きました。幸い私のいたところは

    レベル3

だったのですが、このレベル3というのは高齢者やすばやく逃げるのに不自由な人は避難しなさい、というものだそうで、はて、私はどうすればいいのだろうと少し悩みました(笑)。
何しろ平均年齢の恐ろしく高い地域です(私なんて若者の部類です)のでご近所の皆さんはどうされているのだろうと思ったのですが、夜になると家々に灯りはついていますので、おそらく自宅でじっとしていらっしゃるのだろうと思って何となく安心しました。
それにしても、たまたま来たところでよりによってこんな災害に遭うとは、やはり私は普段のおこないが悪いのでしょう。とりわけ、おかみの悪口ばかり言っているのがいけないのだろうな、と、しみじみ

    反省

いたしました。
この期間中は政府のみなさんもウイルス感染者の著しい増加への対応に追われて外出などするはずもないでしょうし、ましてその担当大臣なんてきっと秒単位でお忙しいでしょうから、不要不急の外出をするなんてとんでもないことだろうとお察し申し上げておりました。
そんなときニュースが流れました。ウイルス担当大臣が靖国神社に参拝に行った・・・?

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草木の祟り 

この夏、多くの草木を伐ったり抜いたりしました。そしてそれらをゴミとして出しました。草木にすればいい迷惑です。何も悪いことをしているわけでもないのに、生えてきたというだけで罪であるかのように思われるわけですから。
そのせいか、私は草木の呪いというか祟りを受けたような気がします。
その1。雨が続いて作業を中断せざるをえなくなる。
八月なのに、梅雨のような天気になって、連日の雨、雨、雨。しかも小やみになったときに作業しようとするとすぐにまた降ってくるのです。「やめろー、やめろー」という草木の声が聞こえるようでした。全国の皆様。雨が続いたのは私のせいです。あしからず。
その2。作業をしていると土が目に飛び込んできて中断させられる。
花壇なのか菜園なのかわからないのですが、レンガで囲まれたところがあるのです。そこにもさまざまな草が生えていました。ここは徹底的に土を掘り返してふるいにかけて、花壇らしくしようと思ったのです。すると途中で土が跳ねてものの見事に

    目に命中

しました。早速洗って土を落としたのですが、しばらくは作業ができる状態ではありませんでした。そしてもういいかな、と思って再び作業に向かおうとするとまた雨が降ってきました。
その3。頭を強打する。
作業用の服に着替えようとしていた時です。ズボンを履こうとすると足がすっと中に入らずからまってしまい、ヨタヨタとして立っていられなくなりました。そのあげく後頭部を机の角でゴツンと打ったのです。けっこう痛かったです。これで頭痛がしたり嘔吐したりするとまずいなという感じでした。外傷はあって、わずかに出血していました。またたんこぶも出ていました。わずかに残っている(笑)髪の毛の中ですので絆創膏(バンドエイドなど)を貼るわけにもいかず、とにかくしばらく休もうと思って横になっていました。幸い少し眠るとわずかな吐き気もなくなっており、頭痛はありませんでした。その日はずっと休んでいましたのでまたまた作業はできませんでした。
こうなるともう祟りとしか言いようがなく、

    草木国土悉皆成仏

と唱えつつおとなしくしていたのです。
祟りなんて、と言われるのはわかっていますが、しかし世の中には何か偶然のような必然というものがあるような気がしています。

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夏の庭掃除 

こういう世の中ですから、この夏は家でじっとしていたかったのですが、浮世の義理というものがあり、はるか遠くの町まで行っていました。どういう義理かというと、人に会うとか墓参りをするとか、そういうことではないのです。長らく放置されている家のメンテナンス、はっきり言いますと「掃除」に行ったようなものなのです。
あちらに着くとまず家中の窓を開けて扇風機を全開にして空気を入れ替えることから仕事が始まります。私は大きなうちわがないかと探したのですが、まさか昔の海外の宮廷で使われたようなものはありません。やむを得ず代用品を探したところ、段ボールがありましたので、それを振って(笑)空気を外に出していました。家の中の「かび臭さ」がなくなるまでかなり長い時間そうやっていました。また、拭き掃除とか掃除機をかけるとか、そういうことも必要です。最近は勝手に動き回って掃除してくれる機械があるそうですが、そんなものを持っているわけもなく、昔ながらのガーガーとうなる掃除機をかけました。
何とか「かび臭さ」がなくなるまで、どれくらいの時間をかけてそんなことをしていたでしょうか。
翌日からは

    庭掃除

です。唖然とするほどみごとに荒れた庭です。雑草、などと言ったら昭和天皇に叱られるかもしれませんが、意図して植えたわけでもない草が私の背丈ほどの高さまで育っていました。梅雨を挟んでいますからね・・。とにかく、それらを処分しないと、「この家空き家です」と公言しているようなものですから、朝の早い時間を利用してかなりの量の草を抜きました。抜いただけではダメですから、ごみの日を調べて処分したのです。1度に大量に出すのは近所迷惑ですから、滞在した間に2度あった

    「燃えるゴミの日」

に分散する形で出しました。
朝早いといっても、汗びっしょりでした。
広い庭ではないのですが、裏庭もあるため、それなりの労働になりました。
昼間はさすがに猛烈な暑さですので熱中症にならないように外仕事はしませんでした。嬉しいことに、この家にはエアコンがありますので、そこにパソコンを持ち込んでせっせと物書きの仕事をしたのでした。

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蚊取り線香 

浄土真宗ではお盆に迎え火や送り火をすることはないようですが、私の家は宗派が違いますので毎年「おがら(麻幹、苧殻)」を焚いて玄関を開け、迎え、送る習慣があります。しかし、ご先祖様っていつごろまでさかのぼるものでしょうか。あまりにたくさんだと家に入りきらなくなるかもしれません。
今どきは夏でも家は密閉されていますからそういうことは減りましたが、昔はこの時期になるとどこからともなく線香のにおいやお経をあげる声が聞こえてきたことも覚えています
線香というのは「線香臭い」という言い方があるように不快なにおいと感じる人も多いでしょうが、「香」ですから本来はかぐわしい匂いなのです。
夏の線香というと、もうひとつは「蚊取り線香」があります。ピレスロイドという成分を持つ除虫菊の花や葉などを乾燥させて線香に練り込んだものだそうですが、この植物がアメリカから渡来し、それを和歌山の上山英一郎さんという方が粉末のものから線香の形にしたものが元祖蚊取り線香でした。上山さんがこの植物を知ったのは慶應義塾時代の先生であった福沢諭吉に教わったのだそうです。当初は棒状で、立てて使うものだったそうですが、それでは倒れる危険性があるために上山さんの奥様が渦巻き状にすることを思いつかれたという話があります。これがヒットしてやがて大日本除虫菊といういかめしい名の会社組織となって今に至っています。言わずと知れた、あの

    「KINCHO(金鳥)」

ですね。
この会社は今も社長さんが上山さんだそうですが、あの有名な鶏のマークには「上山」という印鑑のようなものがデザインされていて、子どものころはあれが何なのか不思議で仕方がありませんでした。
花火大会のスポンサーとしても知られていました。私の家の近くでかつて行われていた花火大会で、もっともよく覚えているスポンサーが「白雪」(小西酒造)と金鳥でした。「次の花火は金鳥(だったか、大日本除虫菊だったかは忘れました)の提供です」というようなアナウンスが流れて、美空ひばりさんの

    「金鳥の夏、日本の夏」

という声が会場に鳴り響いたのです。花火大会なのですから「ああ、ほんとうに日本の夏だな」と思わせる強烈な印象がありました。「白雪」の「山は富士なら酒は白雪」という歌とともに、花火大会になくてはならないものでした。
蚊取り線香は煙が出るために嫌われることもありますが、あの煙があるからこそ何となく効きそうな感じもするのです(実際は煙が蚊を駆除するのではないそうですが)。「電器蚊取り」というのもありますが、無臭無煙というのはメリットであるとともに何やら物足りなさを感じさせるような気がします。
それにしても、あの「渦巻状」というのはコロンブスの卵のようですばらしいアイデア、ノーベル賞ものの発明ではないかと思います。

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より派手に 

オリンピックも終わったようですので、以前から思っていることを書きます。ただしこれは今のご時世ならスポーツを差別するのか、という批判の対象になると思われる内容です。それを承知で書いてみます。
子どものころ、オリンピックの目指すものは「より速く、より高く、より強く」だと教わりました。この言葉からイメージされる競技というと「競走(陸上の短、中、長距離走、自転車)」「水泳」「高跳び(走り高跳び、棒高跳び)」「重量挙げ」「格闘技(レスリングなど)」「投擲(砲丸投げ、やり投げ、ハンマー投げ)」あたりがまず思い浮かびます。「より高く」には、「高い」わけではありませんが、「走り幅跳び」も含まれるかもしれません。多くは陸上競技で、続いて水泳、格闘技、重量挙げ、自転車というところでしょうか。私も、子どものころにそう教わったからかもしれませんが、いかにもオリンピックにふさわしいのは

    アマチュア選手

によるこれらの競技だろうと感じています。競うもの(速さ、高さ、強さ)が簡単で結果は一目瞭然というところに特徴があるように思います。また、実際は沓だとかウエアだとか必要な道具はあるでしょうが、走る、泳ぐ、飛ぶ、持ち上げる、格闘するなどは何も持っていなくてもできるもので、日常生活の延長のような競技も多いと思います。
ところが最近は種目が多様化してきて、一見するとどうすれば勝ちなのかわからないようなものも増えています。私が知らないだけなのですが、スケートボードとか、自転車のアクロバティックな競技(何というのか知りません)などがそれに当たります。勝敗のわかりにくいものは採点競技に多いですね。また、民族の数ほどある格闘技がいろいろ種目に入っても来ています。柔道もテコンドーも空手も。さすがにはだかで戦う

    相撲

は種目にはならないかもしれませんが。
一目瞭然に勝敗がわかるものでも、球技もまたどんどん増えてきたようです。サッカーは世界的に知られる競技ですが、バレーボールもそんなに歴史があるわけでもないですし、野球やソフトボールは環太平洋国のスポーツと言えそうなくらい地域的でヨーロッパやアフリカではあまり関心を引かないものではないでしょうか。実際、次のパリのように、オリンピックがヨーロッパで開催されるときにはあっさり外されてしまう種目です。野球などは、必死になっているのは日本くらいで、野球の本場のアメリカではメジャーリーグがそっぽを向いているわけですから、世界一を競う競技にはなっていません。
もちろんどの競技も選手は真剣ですし、技も力も見事なものなのだろうと思いますが、道具があれこれ必要で、わかりにくい競技は簡単には普及しないかもしれません。
総じて、競技種目が見た目に派手なもの、言い換えるとテレビ映りのよいものが増えてきているように思えてなりません。どうも私は種目を絞る時期に来ているのではないかと思えてなりません。こういうことを言うと、マイナーな競技関係の方には叱られそうですね。ただ、オリンピックは人間の可能性を追求するスポーツ大会だろうと思うのですが、その可能性を表わした言葉が「より速く、より高く、より強く」だろうと思うのです。オリンピックはあまりにショー化しすぎではないかと気になっているのです。競技だけではなく、開会式なんてどんどん派手になって無駄にお金を使っているだけのように感じます。高校野球のように市立西宮高校の女子生徒にプラカードを持ってもらって選手が行進するだけではダメなのでしょうか。ダメでしょうね。

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神社の想い出 

このところ信心深くなった(笑)私は、散歩コースに近所の神社を入れています。3000歩コースなら神社に行って境内をぐるぐる歩いて少し遠回りして帰るのです。5000歩コースなら図書館に行って帰りに神社に寄ればいいのです。夏ですから、一気に長い距離を歩くことはやめるようにしており、10000歩コースはありません。
この神社は延喜式(10世紀)にも記載される、いわゆる「式内社」で、スサノヲノミコトを祀っています。最近私は正式の礼儀にのっとって参拝もしており、そのうちにご利益があってきっといいことが起こるでしょう(笑)。
実はこの神社には思い出があります。子どものころの宮司さんだったNさんの奥様と私の母親が友だち付き合いをしていたようで、行き来があったのです。しかし私は神社なんて興味はありませんでしたし、そこの子どもと同級生というわけでもありませんでしたから、特別な思いはありませんでした。ところが、どういう事情だったのかは覚えていないのですが、小学生の時に一度だけ社務所から繋がっているご自宅に上がったことがあるのです。そして、正月だったのかのかもしれませんが、子どもばかりで

    百人一首

をしようということになったのです。そこには四五人の子どもがいたはずなのですが、具体的に誰がいたのかほとんど覚えていません。ところが、唯一はっきり記憶にあるのは宮司さんの娘さんなのです。なぜそんなによく覚えているかというと、小学生なのに百人一首の歌をとてもたくさん知っていたからです。私より少し年少だと思うのですが、まるでかないませんでした。
宮司さんのお宅には男の子がいらっしゃらなくて、この神社はゆくゆく縁もゆかりもない人が後を継ぐのかな、と思うともなく思っていたところ、その宮司さんが若くして亡くなったのです。私が20代のころでしたから、親の世代である宮司さんはまだ50代でいらしたのだろうと思います。
そうなると、ほんとうにあの神社はどうなるのだろう、という疑問が湧きました。そのころ私はすでに日本文学や歴史を勉強する身の上でしたので、神社にも大きな関心を持っていました。なにしろ式内社ですから、ひょっとして由緒のある書物などが残されてはいまいかという興味もいくらかはあったのです。いっそ遅まきながら宮司の資格を取って

    養子

にしてもらいたいと思ったことがないかというと、実は心のどこかにそんな思いもあったのです。しかし思うだけでは物事は進まず、やがて私は仕事で広島に行くことになり、もうそんなことはすっかり忘れていました。
関西に戻って、うちの子の七五三に行くことになり、やはりその神社以外は考えられませんので行ったのです。するとあの娘さんが宮司になっていらっしゃるではありませんか。祝詞を挙げてくださったあとは実ににこやかにお話ししてくださいました。
さすがにお顔はまるで記憶にありませんでしたが、百人一首以来、20年あまりの歳月の間に、しっかりした宮司さんになっていらっしゃいました。何とも不思議な気持ちで百人一首の話などすることもなくお別れしました。
その後は神社に行ってもお会いすることはなく、今はまた別の方(男性)が宮司になっていらっしゃいます。この新しい宮司さんがどういうゆかりの方なのかは存じません。

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少食 

私はかなり体が大きいのですが、親の遺伝もあったかもしれません。父は170㎝くらい、母は160㎝くらいで、昔の人のわりには両親ともに背が高いほうです。では私はずっと大きかったのかというとそうではなく、たとえば高校1年生のときなど165㎝くらいで、クラスの真ん中あたりでした。細いのはずっと同じで、一番ひどかったときはBMIが17以下だったことがあります。もちろん「低体重」でした。今は、体重を測っていないのではっきりしたことはわかりませんがおそらくBMI21くらいではないかと思っています。これは標準体重の範囲です。
背丈は高校2年生でぐんと伸びたのですが、細いのは同じです。
そんな体格なのですが、どれくらい食べたのかというと、子どものころは兄よりもずっとよく食べたと思います。小さい茶碗とはいえ、ご飯なんて

    最低で3杯

は食べました。その後も質より量で、外食したら一人前では足りず、人の食べ残しまでいただくという、食い意地だらけの少年でした。成人してからもよく食べたのですが、やはり太ることはありませんでした。太っていたら減食したかもしれないのですが、ほんとうに長い間、食べに食べ続けました。
ところが、ここ数年、一気に少食になってきたのです。ご飯なんて、茶碗に一杯でじゅうぶん。おかずも以前なら1.5人前はないと不足でしたが、今や

    一汁一菜

に近づいています。さすがに現実には一汁一菜というわけにはいかず、ちょっとしたタンパク質と、野菜、それに納豆があれば夕飯はこと足りるようになったという程度です。こんな食事だと、一日のカロリーは朝食400、昼食400、夕食700くらいではないかと思います。私の基礎代謝量は1530kcalくらいらしく、ひょっとしたらそれに足りていない日もあるのではないかと思うほどです。以前ならこんな食生活をしているとすぐにやせたと思うのですが、やはり今は痩せなくなっています。
しかし、少食になるのはやむを得ないことでしょうから、これからも、好きなものを少しずつ、苦手なものも栄養を考えてそれなりに食べるような生活ができればいいかな、と思います。

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22世紀 

子どものころ、21世紀は夢の時代であるかのように言われていたように思います。いろんなものが機械化されて、苦労しなくても好きなことができ、病気になってもすぐに治せる時代が来るのだ、というまさに夢物語がおこなわれていたのです。ただ、あの当時、それはあまりにもはるか後の時代で、実際に21世紀などという日が来るのだろうか、と考えないわけではありませんでした。
しかし現実に21世紀はやってきたのです。そしてそれからもう20年が経ってしまいました。
夢の時代は来たのでしょうか。たしかに、多くの人は車を持ち、海外旅行をして世界中の食べ物を食べて、エアコンが家庭に普及して・・昔に比べればぜいたくをしていると思います。機械は発達して、電話がコードレスになり、果てはコンピューター機能も持つような携帯電話ができてきました。お金の支払いは現金を使わなくなり、駅ではいちいちきっぷにはさみを入れてもらうこともなくなりました。
その一方で、一億総中流と言われた時代から格差社会に移行して、エネルギー問題は深刻さを増し、環境問題に至っては

    一刻の猶予もない

という切羽詰まった状況に陥っています。
『ドラえもん』は22世紀からやってきたそうです。その時代になると「タイムマシン」「どこでもドア」「タケコプター」「桃太郎印のきびだんご」など摩訶不思議なものができているそうです。そもそもドラえもん自体が摩訶不思議な存在なのですが。
この漫画が初めて子ども雑誌に連載されたのは1969年だったそうで、その当時の子どもたち(1950年代~60年代生まれ)は21世紀すら遠い先のことと思っていたわけですから、22世紀なんて信じられないほどの未来だったのです。早い話がその子どもたちは22世紀まで生きることはないわけで、

    誰も見ることのできない世界

からやってきた猫型ロボットがドラえもんだったのです。21世紀はほとんどの子どもたちがまだ生きているわけですから、空想の世界からいくらか現実的な時代に思えたかもしれません。
ふと考えたのですが、今年生まれた子は80歳になれば22世紀です。つまり彼らはドラえもんに会えるかもしれないのです。「コエカタマリン」を使って自分の声を固まらせることができるかもしれないのです。「スモールライト」で身体を小さくすることもあり得ない話ではないのです。彼らはきっとあと5年もすればテレビなり映画なりで『ドラえもん』を知るようになるでしょう。作者の藤子・F・不二雄さんもさすがにそういう世代の人が『ドラえもん』を読んだり観たりする日が来るとは想像しなかったかもしれません。

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白内障の手術 

私は耳の手術を4回受けたのですが、その都度入院は3週間でした。入院翌日が手術。午後1時ごろに始まりますので、その少し前に麻酔が効きやすくなる、何という名前なのかは知りませんが、かなり痛い注射をします。これが眠気を催すらしく、その時点でもうろうとしました。1回は局所麻酔であとは全身麻酔。局所のときはぼんやりしているのですが、ドクターたちが何やらごそごそ言いながら耳を触っているのは感じていました。もちろん痛みはありません。ところが、長引いたために麻酔が切れ始め、私が呻いたらしく、「痛いですか。では今からもう一度麻酔の注射をします。痛いと思いますが」と言われました。痛くないためにする麻酔が痛いという話で「どういう意味?」と思う間もなく、耳に注射針が刺さり、涙があふれるほどの痛みが来ました。抵抗することもできませんから、とにかく我慢でした。結局その手術は

    5時間

もかかったのでした。ドクターも大変だったと思います。
全身麻酔のときはさすがに何もわからず、気が付いたら元の部屋のベッドに寝ていました。翌日からは毎朝傷口を調べて、1週間後に抜糸。さらにそのあとは連日のガーゼ交換。これがまた涙を流しながらの苦行でした。耳の中が燃えるような、焼けた火箸を突っ込まれているような感じになるのです。このときにはハンカチを持って行くことにしていました。あらかじめそれを握っておいて、痛みが来るとそれを強く握りしめてこらえるのです。
2週間ほど経つと、ガーゼ交換も問題なくなり、ほとんど何もしないような感じで、経過を見て退院時期を決めるという様子でした。毎日が退屈で、本を読んでは病院の屋上にウォーキングにいきました。からだは元気ですから、歩きに歩きました。屋上ですからせいぜい1周200mくらい。それでも10周では終わらないほど歩きましたから、なかなかの距離だったと思います。
同じ病室には眼科の患者さんが半分以上で、こちらは白内障の手術の人が多かったのです。手術して1週間様子を見て、また反対の目を手術して、という具合で2週間ほど入院していたような気がします。
この白内障の手術というのはどんどん進歩していて、今や

    日帰り手術

が珍しくなくなっています。
私の所属している短歌の雑誌の代表の先生が、この夏、両目の白内障の手術をされました。国立大学の医学部の附属病院だったそうですが、日帰りではなく、以前と同じように2週間ほど入院されたそうです。昔ながらの慎重なやり方ですね。さぞかしきれいに見えるようになったのだろうと思っていたのですが、その先生はからだに、しかも目に異物を入れることの恐怖が強くて、見えるとか見えないとかいう問題ではなく、その恐怖感ゆえに精神的に参ってしまったそうです。「手術したことを後悔しています」とまでおっしゃっていました。幸い、その後は慣れたとおっしゃっていましたが。
やはり歌人ともなるとデリケートな神経の持ち主なのでしょうか。無神経な私はそういう意味でも歌人にはなれそうにありません。

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観戦自粛が呼びかけ 

私は時折自分の日本語の感覚に自信がなくなってしまいます。世間で通用している日本語と自分の日本語が合わなくなっているからです。わかりやすくいうと、世間の日本語にケチをつけたくなることが増えたのです。以下、今どきこんな細かいことにケチをつけるほうがおかしいのかもしれないと不安な気持ちを抱きつつ書きます。
あわただしい今の時代は、短い言葉でものごとを表現する必要があります。ツイッターなんてその典型です。ネットニュースもきわめて少ない字数で見出しを書かねばならないので、削りに削って表現します。
以前も書いたことがあると思うのですが、そういう時代ならではの言葉に「○○が開催」「○○が発売」という言い方があります。「○○が開催された」「○○が発売された」という「受身」の意味のつもりなのでしょうが、私にとっては気持ちの悪い言葉なのです。
先日は、愛知県の新聞(実際に見たのはネット上です)の見出しにこういうものがありました。

    沿道に人!人!人!
    観戦自粛が呼びかけも、
    「トライアスロンを
    見に来ました」


意味するところは、「人がたくさん出ています。観戦自粛が呼びかけられているにもかかわらず、沿道の人は『トライアスロンを見に来ました』といっています」ということでしょう。これを読んだ瞬間、「観戦自粛が呼びかけも」というところで、めまいがするほど気分が悪くなりました。やたら「!」を使うのも安易な表現ですし、見出し全体に私はひどい拒絶反応を起こしてしまいました。スポーツ新聞だったと思いますので、一般紙に比べるとこういう表現は許容されるのでしょう。そういう事情もあって、おそらくほとんどの読者は何の抵抗もなく普通の文章としてお読みになるのだろうとは思いましたが、私はまったくダメでした。
昔、永六輔さんだったと思うのですが、NHKのテレビで、まさにその

    NHKのアナウンサー

を批判していらしたことがありました。昔々のNHKのアナウンサーというと、口をきれいに開けて正確で耳に心地よい発音でニュースを伝えるものでした。ところがバラエティ番組もずいぶん多くなって、そういう几帳面な言葉を使う人が少しずつ減ってきていたのです。母音の無声化や鼻濁音の使い方といった技術的なことだけでなく言葉そのものが乱暴になってきたということもあります。私もNHKのアナウンサーで口をきれいに開けずにもごもご話す人を観たことがありますし、バラエティ番組の中であったとはいえ、べらんめぇ口調を使った人も記憶にあります。
永六輔さんは「アナウンサーは言葉に対しては保守的でなければならない」というようなことをおっしゃっていたのです(永さんだという100%の自信はありませんので、間違っていたら申しわけありません)。
私もできるだけ言葉に関しては保守的な態度を取ろうと思っています。革新的なのは若者と詩人だけでいような気がするのです。私はおいしいものを食べて「やばっ」とは言いませんし、「めっちゃおもしろい」という言い方もしません。「今日もブログがアップ」なんて気持ち悪くて言えたものではありません。やっぱり時代遅れなのでしょうか・・。

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終戦の日 

今年も終戦の日になりました。
2021年ですから、1945年からいうと76回目ということになります。
戦争を知っている人たちがどんどん少なくなっていきます。
間違ったことをしました。もう二度と過ちは繰り返しません、と誓ったはずです。
それでも、なんとなく形を変えて今も同じようなことをしているような気がしてなりません。
歴史は「繰り返そう」というエネルギーを持っています。その歴史が悲惨なものであればそれを抑えねばなりません。素晴らしいものであれば繰り返すまいとする人たちから守らねばなりません。
たとえば前者は権力の横暴を止めることであり、後者は文化を破壊から守ることです。
終戦の日というのであれば、もう終わりにしなくてはならないのです。
77年目の日本が間違った道に進みませんように。

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夕立 

アルビン・トフラーの『第三の波』が世に出たのは1980年のことでした。トフラーによれば、我々はこれまでに二つの大きな波に直面してきました。第一は農業革命。第二は産業革命。世界史の授業でおなじみのあの大変革です。そして今後は第三の波として情報化社会がやってくると言ったのです。農業革命は人類が狩猟生活から農業を覚えて自然を破壊しつつ食糧を産むようになったことです。産業革命は工業の驚異的な進歩を産むと同時に、燃料の莫大な消費、そして二酸化炭素排出をもたらしました。その産業革命以後、地球の高温化は進み、パリ協定では、産業革命以後の世界の平均気温の上昇を1.5度までに抑えることを目標にしています。さもないと暑いだけではなく洪水や干ばつの危険性がずいぶん高まるのだそうです。たしかに、私の子どものころと今では、夏の暑さは比較にならないほど厳しくなりました。昔は30度が真夏の目安で、文字どおり「真夏日」でした。悲鳴を上げるような気温でもせいぜい32度くらい。もちろん家にエアコンなどありませんでしたが、そんなもの必要もなかったのです。暑ければ家に一台しかなかった扇風機の前に座ってしばらくすると消す。それでじゅうぶんでした。今のもわーっとする暑さはなかったように思います。地球の高温化は異常だと思います。
今年の七月は昨年に比べるとましだったと思うのですが、それでも後半の

    土用

あたりはさすがに厳しかったです。今年の小暑は7月7日で、そこから立秋までが「暑中」ですが、今年に関しては土用こそが「暑中」だったと思います。暑中と言えば以前は暑中見舞いのはがきがよく届きました。今はほんとうになくなりましたね。
土用につきものなのは丑の日のウナギですが、私はこのところまったく無縁で、いつ以来食べていないのか忘れてしまったレベルです。ウナギは絶滅の危惧があるそうで、庶民はもう食べなくてもいいのかもしれません。お金持ちの方だけが高級ウナギ料理店で召し上がっていただいたらいいのではないか。スーパーで売ったりしなくてもよさそうな気がしてなりません。土用の丑の日にウナギを食べる習慣は平賀源内が考えたとも言われますが、源内さんもまさかこんな事態になるとは思いもしなかったでしょうね。
夏の自然現象で子どものときと違うと思うものに夕立もあります。昔はよく夕立があって、それも

    ゲリラ豪雨

の類ではなく、「おしめり」と呼ばれるような気持ちのいいものでした。入道雲がむくむくと湧きあがり、「くるぞ」と思ったら雷が一閃。ゴロゴロドンドンとなったかと思うとザーッと降ってものの30分もすれば上がってしまいました。水に濡れた地面(まだアスファルトではなく土の地面も多かったのです)がさながら「自然の打ち水」で、ひんやりとして気持ちのいいものでした。もちろんまったくなくなったわけではなく、今年も何度か降りましたが、少なくなったのではないかと思えてなりません。
『第三の波』から思わぬ方向に話が移ってしまいました。

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むくんだ足 

最近、靴が小さくなったような気がしました。図書館に入って仕事をしていると足が痛くなり、靴を脱いで向き合っているイスに足を投げ出すように伸ばしたりしています。
今さら成長するわけはありませんので、太ったのだろうかとのんきなことを考えていました。ある日、足首から下を見ると異様に大きくなっていました。むくみでした。なぜすぐに気が付かなかったのか、我ながら不思議です。
そういえば最近足首がうまく機能しないと思うことおあり、これも単に衰えたのだろう緒と思っていました。アキレス腱のあたりもなんだかしっくりこない感じがありました。
要するに

    水がたまった

ということなのでしょうが、以前も2度、膝や足首あたりに水が溜まって抜いたこともありました。今回はそれほど極端ではないので、とりあえずマッサージをしてみました。こういう場合最近は本当に便利で、「むくみ」で検索するとたくさんのマッサージ方法が読めます。どれでもいいのではなく、できるだけ医学的に信頼のおけそうなページを見てやってみました。
足の指をもんで、足裏を刺激し、アキレス腱をやわらかくして、くるぶしから膝にかけて何度も水を流すようなつもりでさすり上げます。次に太ももを足の付け根の方にさすっていきます。イスに座って膝を90度に曲げた状態のままかかとを持ち上げます。どれもこれも最初は痛いくらいの刺激がありますが、繰り返しているうちにすっきりしてきます。
最初、

    片足だけ

を重点的にやってみました。
そして、あおむけになってマッサージしたほうの足を、伸ばしたまま持ち上げるとすーっと上がりました。次に、マッサージしていない方を同じように上げるととても重い感じがしました。ほんのわずかなことなのに、ずいぶん楽になるものだと思いました。
夏は、特に家にいると水分を摂りすぎることがあります。お酒の飲みすぎもいけないようです(私の場合、これは大丈夫)。暴飲暴食もダメだそうです(これも大丈夫)。運動不足もよくないようですが、これはなかなか解消できません。

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十首の歌 

全国的な短歌雑誌というと、角川書店の「短歌」や短歌研究社の「短歌研究」があります。私はどちらも定期購読はしていないのですが、やはりちらちらとは拝見しています。こういう雑誌になりますと、冒頭に著名な歌人が三十首とか五十首などという数の短歌を一気に掲載することがあります。それが仕事とはいえ、たくさんの短歌を詠むのは大変だろうと思います。一首31文字ですから、三十首だと900字くらい。そんなのどうってことないでしょ、なんてとんでもない。私など頭を下げて頼まれてもお断りすると思います。
私もこのところコンスタントに発表しているとはいえ、たかだか7首を年に4回。つまり

    1年に28首

に過ぎません。それを一気に三十首だの五十首だのを読むのはかなりの力がないとできないと思います。

私も学生のころは1日に1首詠むというのを決めごとにしていたのですが、長くは続きませんでした。
江戸の俳諧師で浮世草子作者の井原西鶴は矢数俳諧の記録で1日に23500句を吟じたといわれますが、つまらない言葉の羅列もあったでしょうが、それでも信じがたいような数字です。
私が属している短歌結社では毎回7首の短歌が掲載されるのですが、毎回4人だけ、10首を詠むことになっているのです。そして今回は私がその順番に当たってしまいました。
いつも7首で今回は10首。まあどうってことはないでしょ、と高を括って引き受けてしまいました。
ところがこれが

    しんどいの

なんの。先ずはどういう主題で詠もうかを決めるのにかなり時間がかかりました。生活の中で胸に響くようなことがあればそれを素材にしようと思ったのですが、何しろ変化のない暮らしをしていますので難しかったのです。しかし苦しんだあげくやっと方針は定まりました。次は実際に歌を詠むのですが、3つ4つはわりあいに簡単に大枠は決まりました。あとは言葉の工夫をすればできあがるという感じでスムーズでした。
そのあとも、主題に沿って素材を考えた結果、やはり3つ4つは何とかなりそうな感じがしてきました。これでだいたい7首。つまりいつもならこれでほぼ終わりなのです。ところが、このあとが苦しくて苦しくて。鶴女房が自分の羽をとっては機を織る気持ちがいくらかわかりました。最初少し羽を取るくらいはまあどうってことはないのですが、だんだん苦しみは増して、未知の数にやってきたときに一気に大きな壁の前に立たされたような感じでした。
それでも何とか2首はできたのですが、残る1首に何時間かけたかわかりません。素材を考えて、言葉を合わせていって、やはりダメだと振出しに戻り。というのを何度も繰り返したのです。
できたときはホッとしたとともにもう十首は今後断ろうか(笑)と思ったくらいでした。先輩のみなさんはよくこういうことができるものだとあらためて感心したのでした。

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私はナルキッソス 

ギリシャ神話に登場するナルキッソスは水面に映った自分の姿に恋をしてその場を離れられなくなり、そのまま死んでしまったとも水の中に落ちて水死したとも言われます。そのあと、そこに咲いた花は水仙でした。ナルキッソスを愛するニンフのエコーがやせ細ってしまったために、それを憐れんだ女神ネメシスがナルキッソスを水仙にしたともいわれます。
いずれにしても、どんな美少年だったのかとうらやましくなります(←今さらなにを!)。昔から美少年というのは男性にも女性にも愛される存在だったようです。ちなみに、私自身は美少年にはほとんど関心がありません。
それはともかく、フロイトの心理学では、ナルキッソスのように自分に陶酔する、すなわち自己愛の強い精神状態を「ナルシシズム」といい、そういう傾向にある人が

    ナルシシスト

またはナルシストと呼ぶことはよく知られています。
思春期のころには多かれ少なかれこういう気持ちになるのは珍しいことではないでしょう。しかしこれがその後も続くと「自己愛性パーソナリティ障害」にもなりかねません。こういう人は自分の成し遂げた仕事を誇張し、自分は特別なすぐれた人だと考え、自分より劣ると認識した者に対して高慢になり、嫉妬心が強く、一見冷淡に見えるなどの症状を呈するようです。三島由紀夫もこの障害を持っていたと考えられるそうです。
私は、もうちょっと自己愛を持った方がいいのではないかというくらい自虐性が強い(笑)ので、この障害は持っていないだろうと思います。
しかし最近、私もナルキッソスの気(け)があるかもしれないと感じることがあるのです。
劇作家で歌人でもあった

    寺山修司

が、「短歌を詠む人間はたいていナルシシストだ」というようなことを言っていました。自分にうっとりしないと短歌など詠めないということなのでしょう。なんとなくその言わんとするところはわかるような気がします。自分に酔い、自分の言葉に酔う感じ。
しかしよく考えたら、私はやはりナルシシストではないような気がします。もしナルシシストならもうちょっとましな短歌が詠めるでしょうから(←自虐的)。

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語彙を増やすためには 

学生の多くは「自分は語彙がない」と言っていました。そして健全なことに多くの学生は「語彙を増やしたい」と言っていたのです。自分の弱点を知ってそれを克服しようとするのですから、これはたいへんけっこうなことです。
しかしどうすれば語彙は増やせるのか、これはなかなかの難題です。
ここで登場する質問はやはり「本を読めば語彙が増えますか」というものです。たしかに、本を読むと知らない言葉が出てきますし、未知の言葉の用法にはっとすることもあります。語彙を増やす一助にはなるでしょう。ただ、あまり文章の巧みでない人の本を漫然と読んで、わからない言葉は放置していると大して役には立たないと思います。本と言ってもいろいろありますしね。
私も語彙には自信がありません。ただ、一般の方と違うのは、

    古い言葉

を余分に知っていることだろうと思います。これが案外大事なことで、古い言葉は新しい言葉につながりますから、今も生きているのです。今のことばに古い意味を重ね合わせることで、言葉の持つ重層性が増すという感じです。
語彙は、古い言葉を忘却して新しい言葉がそれを補うのに追いつかない状態にあるときに貧困化することがあると思います。ほんのわずか昔(昭和のころなら普通に使われていたようなもの)の言葉がもう若者の間から消えている(消しているのか?)ということもあるようです。消すことと自分で作ることに躍起になるだけではいけないのだと思います。詩人と呼ばれるような人は言葉の探索者ですが、だからと言って彼らは古い言葉を知らないのではありません。それらを知ったうえで新しい言葉をどのように使えば詩になるのかを工夫しているのだと思います。
しかし今さら若者に古典を勉強しろといってもそう簡単にはいかないと思います。そんな暇はないと一蹴されるのがオチです。それならせめてきれいな言葉を本で読んだり年長者から聞いたりして、それを自分でも

    使ってみる

ことが必要だと思います。
学生は言葉を全然知らないわけではありません。ところがそれを使えないのです。「申し上げます」という日本語は彼女たちも知っています。ところがそれはどういう場合にどういう具合に用いればよいのか、それがわからないのです。私はよく「知らない言葉を覚えることも大事ですが、『使える語彙』を増やすことも考えましょう」と言ってきました。使える語彙を増やすと、言葉の持つ魂が知られるようになります。そしてその言葉の美しさにも気が付くようになります。やがて言葉を使うことがどれほどすばらしいことか、どれほど人と人の心をつなげるものか、ということも理解できるようになるのです。他人に対してすぐに「バカ」とか「マヌケ」とか「補助金出さん」とかいうような言葉遣いをする者こそが言葉も心も貧困なのだと思います(私もすぐにこういう悪口を言うのですが)。

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文章が上手になるためには 

学生さんからよく相談されました。「語彙を増やすにはどうすればいいですか」「文章がうまくなるにはどんなくふうをするべきですか」と。「本を読めば語彙が増えたり文章はうまくなったりしますか」とも聞かれました。その質問の裏には「簡単に」という言葉が潜んでいたように思います。「簡単に語彙を増やしたい」「簡単に文章が上手になりたい」と。
世の中に『文章読本』というものがあります。谷崎潤一郎、菊池寛、三島由紀夫、丸谷才一などの名文家たちが書いています。私も学生のころひととおり読みましたが、ではそれを読んで「さあ私は文章が上手になったぞ」と言えるのかというと、そういうものではないのです。何よりの証拠は、私がそんなに上手にはなっていないことです。ただ、なんらかのヒントになることはあります。だらだらした文章はダメなんだな、とか、同じ言葉を繰り返してかくとうるさく感じられやすいんだな、とか。谷崎だったと思うのですが、志賀直哉の

    『城崎にて』

を例に挙げて、たったひとことで万感の思いを伝える技術を称賛していました。なるほどそれはうまく書かれていると思うのですが、それを自分の文体にどのように援用できるかとなると、そう簡単にはいかないと思います。要は、そういう上手い文章をしっかり味わって感動できるような教養を磨くことではないかと思います。芸術に感動できるというのはすばらしい教養だと思います。私なんて絵のよさがさっぱりわからなくて、高校時代には絵画展などに行ったこともありませんでした。落語や文楽はそろそろおもしろいと思っていましたが、雅楽や能はまだまだでしたし、歌舞伎も特に興味はありませんでした。浪曲なんて何をうなっているのだろう、というくらいにしか思っていませんでした。それはすなわち

    私の教養がなかったから

なのです。高校生が文楽の鑑賞教室に行くとたいてい寝ていますが、それはしかたがないと思います。問題は一緒になって寝ている先生の方ではないか(笑)と感じます。そういえば文楽を観て「グッとくるものがない」とかなんとか、評論家ぶったことを言っていた政治屋さんがいましたが、あれを聴いた時、私は「あなたの無教養を露呈しているだけですよ」と思いました。
文章も同じことで、しっかりと教養を身につけて美しい文章を読んで美しいと思えるようになることで自分の身につくのではないかと思います。そのうえで自分の文章を工夫する習慣をつければ、きっと上達するだろうと思います。
「だーかーらー。そんな悠長なことを言ってないで、『簡単に』上手に書ける方法を教えてっていっているでしょ」という学生さんの声が聞こえてくるようです。

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「!」マーク 

新聞のテレビ欄を見ていると番組のタイトルなどにとてもたくさんの「!」「?」「!?」のマークがついているのに驚きます。ある日の某局の欄(早朝から深夜まで。「明朝」の欄を除く)だけを見てみると「開幕!」「目がテン!」「クギズケ!」「不眠!?」「○○の街に!?」「誇りを守れ!」「ガラパゴス!?」「最強!!」「発覚!!」「え!?」「ぬるい!?」「ようやく!」「復帰!」「バンキシャ!」「ザ!」「鉄腕!」「DASH!!」「発見!」「イッテQ!」「闘牛!」「絶縁!?」「失礼発言!!」「衝撃真実!」「金は?」と、なんと24例もありました。最も多いのは「!」で少ないのは「?」です。「この番組がいかに観る価値のある

    衝撃的な番組

であるか」ということを、できるだけ強く訴えたいという意識があるのでしょう。疑問符の場合でも単独で「?」とするのではなく、「!?」の形が目立ちます。ほんとうは「!」か「!!」にしたいところなのに、断定するわけにはいかない、というところで「!?」が用いられているようです。
時間帯でいうと、早朝や深夜の番組にはあまり使われていません。
「!」にしても「?」にしても日本の文字ではないわけですから、それだけでも強い印象を与えることができますし、ましてびっくりしたようすや首をひねるありさまを示す記号であることを子どものころから教わってきた現代人には有効なのかもしれません。あまり多用されるとありがたみがなく、ライターの語彙の貧弱さをさらすことにもなりかねません。
こういうことを見習って、というわけではないかもしれませんが、最近の若者はちょっとした文章でも同じように「!」「?」を多用します。とても便利で、自分の思いをうまく表現できる

    簡易記号

という感じがします。以前書いたことがあると思うのですが、最近SNSでよく見かけるおもしろい表記に「・・するよ?」というのがあります。「・・する?」ならわかるのですが、「・・するよ、知らんけど」のような感じでしょうか。
えらそうにいっている私も「(笑)」とか「(涙)」などをこのブログでも使っていると思いますが、外国の記号である「!」「?」はあまり好きではなく、このブログでもめったに使わないはずです。まして、手紙の文章などの場合はこういう記号を使うことはありません。やはり少し気取った文章を書くときにはふさわしくないように考えるからです。学生にも同じようなことを話してきました。
さて、新聞のテレビ欄なのです。まさかNHKはこういう書き方はしないだろうと思っていましたが、今どきそんなことはないのですね。同じ日のテレビ欄を見ると「金なるか?」「新種目!」「座を狙う!」「飛び出すか?」「活躍は?」「イッキ見!」の6つがありました。それでもさすがにというか、いかにもおとなしめのNHKらしく数は少ないですし、「!?」「!!」はなく、番組名に付けるのはひとつだけ(「イッキ見!」)でした。
テレビ欄でもありますので、私はこういう記号を使ってはいけないというつもりはないのですが、ある程度は抑えてほしいと思っていますし、記号に頼らずに表現する方法も考えてほしいを感じることがあります。特に、語彙に自信がなくてもっと豊かにしたい、あるいは表現力を着けたいと思っている人は文章を書くときにあまり用いない方がいいと思います。

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老女の恋(3) 

「典侍」というのは、天皇のおそばに仕える内侍所という役所の次官です(長官は尚侍)。とても華やかで名誉な仕事で、『枕草子』は「女は典侍」といい、また「しかるべき家柄の娘は、世間を知らせるためにも、しばらく典侍などにさせたいものだ」とも言っています。
さて『源氏物語』の源典侍はすばらしい人だったようなのですが、根っからの好色という別の顔を持っていたのです。いい歳をしてどれほどの好色なのだろう、と考えた、まだ十九歳(高校三年生の年齢)の光源氏が試みにちょっかいを出してみると、源典侍は光源氏と自分が釣り合わないと思っていないように甘えてくるのです。これはほんものですね。
あるとき、源典侍が天皇の用を済ませたあと、ひとりでいるところを光源氏が見つけます。なかなかこぎれいで装束なども華やかにしているのものですから、光源氏はまたちょっかいを出しました。ところが源典侍が流し目を送ってきた様子をよく見ると、扇で隠した顔から覗いた目のあたりが、

    黒ずんで

落ち込んでいたのです。光源氏は少し話をしたのですが、こんな不似合いな人と語らっているのを人に見られては具合が悪いと思って立ち去ろうとすると、彼女はよよと泣き崩れて「こんなつらい思いをしたことはありません」と言い出す始末です。この様子を見ていたのが光源氏の父の桐壷帝です。源典侍は見つかって恥ずかしく思うのですが、光源氏となら何かあったと濡れ衣を着せられてもかまわないという気持ちもあるのです。
彼女は琵琶の名手です。琵琶という楽器は男性のものというイメージが強く、『源氏物語』の女性で琵琶の名手と言えば明石の君とこの源典侍が挙げられるくらいです。明石の君の父親の入道は醍醐天皇の琵琶の技を伝える人で、その娘もやはり皇族の伝統を身に着けているのです。源典侍も源氏ですから皇族の血を引く人。琵琶はそういうイメージの強い楽器です。
そんな彼女がある夜にひとり琵琶を弾いているところに光源氏が行き合うのです。彼女は声もきれいで。光源氏はうっとり聴いています。やがて彼女に誘われてその夜を共にするのですが、それをみつけたのが光源氏のライバル

    頭中将

でした。ひとつ脅かしてやれ、と思った頭中将が入りこむと、光源氏は彼女の愛人が来たのかと思って慌てます。おかしさをこらえながら、頭中将は刀を抜いて脅すふりをしますので、中に入った源典侍はうろたえてしまいます。二十歳前後の若者との三角関係に陥ったかのような彼女は実はもう五十七、八歳だったのです。光源氏は頭中将であることを見破って、ふたりはお互いの着物を破ったりして、恨みっこなしのままその場を立ち去るのです。
跡に残された源典侍は、すでに自分が失ってしまった「若さ」という強烈なエネルギーをまのあたりにして、呆然と二人を見送ったでしょう。
老女の恋は「いい歳をして」と揶揄されがちだと思うのですが、私は老いてもなお心から男性を慕う人の美しい心を浄瑠璃にできないものかとずっと考えているのです。

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老女の恋(2) 

『伊勢物語』や『うつほ物語』のほかにも、『新猿楽記』というユニークな読み物にも、年老いてなお枯れることなく色気をたぎらせる女性が登場します。右衛門尉の複数の妻のうち、最初の妻というのは右衛門尉が二十歳くらいのときに結婚した、母親ほどの年齢差のある人だったのです。妻の実家の財産に目がくらんで二十年も年長の女性と結婚したのです。財産目当ての結婚というのは『源氏物語』にも見られ、この当時は実際にあったことだと思われます。当時は嫁入りではなく、婿取りですから、男の経済的な面倒は妻の家がみることが多く、資産のある女性に目がくらむことがあり得たのです。
年月は経って、この妻はすでに六十を超えました。「紅顔漸衰(容色は次第に衰えている)」のに、今なお男が大好き。夫は若くて美しい妻がいますのでそちらに夢中なのですが、そんなことにはおかまいなしという元気いっぱいの人なのです。右衛門尉はさすがに「只悔年齢懸隔(ひたすら年が離れていることを悔いている)」のです。
このように、平安時代の老女の恋はいささか

    揶揄の対象

になっているように見受けられ(もっといろいろ探してエッセーにまとめてみたいと考えたりしています)、かわいそうな気もするのです。男女が逆なら珍しいことでもなく、有名な話としては『今昔物語集』にある藤原国経とその妻の話があります。国経はもうすぐ八十歳という歳になって、二十歳を過ぎたばかりの若くて美しい妻を持っていたのです。ただ、この話には哀れな結末が待っています。美貌の妻を持つ叔父をうらやんだ国経の甥の時平(『菅原伝授手習鑑』で「しへい」として登場するあの人です)は、何とかしてこの若い女性を手に入れようとして奸計を企てます。時平は国経の家で共にお酒を飲み、国経をべろべろになるまで酔わせるのです。そして帰り際に「最上の引き出物が欲しい」と願います。酔っぱらった国経は「うちにある宝物というと妻が最高のものですから、これを差し上げましょう」と口を滑らし、そのまま奪われてしまうのです。
この話は谷崎潤一郎の

    『少将滋幹の母』

にも描かれます。
それはさておき、若い男が好きな老女というと、『源氏物語』にも登場します。
光源氏の父親である桐壷帝は好色な人なのですが、だからこそ帝の周りには有能で美しい女性が集まってくるのです。当時の考え方ではこれは悪いことではありません。むしろ聖代であることの証といってもよいくらいなのです。
その中に、家柄がよく、才気煥発で、気品もあって人望豊かな典侍(ないしのすけ)がいました。源氏の出身(ということは皇統につながる人)なので「源典侍」
と呼ばれます。

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老女の恋(1) 

山本かね子は年老いてできなくなることとして「相対死をするほどの恋」を挙げて寂しそうにしていましたが、老女も恋愛をするのは不自然ではないと思います。平安時代のいくつかの物語を見ると、老いてなお男性(主に若い男)に魅力を感じて接近する女性の話が散見されます。
有名なのは『伊勢物語』でしょう。この話には主人公の男が「在五中将」として登場します。『伊勢物語』の中でこれほど明確に在原業平を示す段はありません。在原業平は近衛中将になった人で、「在」の字は申すまでもなく彼の姓を指します。当時は中国風に姓を一字で表現することが多かったのです。「藤」は「藤原」「江」は「大江」「菅」は「菅原」「野」は「小野」という具合です。大江氏出身の和泉式部は「江式部」とも呼ばれることがあります。『菅原伝授手習鑑』で道真を「菅丞相」と呼ぶのも同じです。『伊勢物語』に戻りますと、男子を三人持つ女性が情けのある男と逢いたいものだと願うのです。子どもたちはすでに成人していますので、おそらく四十歳を過ぎた女性でしょう。当時ならもう孫のいる年代です。息子のうち、三男がいい男と逢わせてやりたいと思って「在五中将」に頼み、中将は一時のことと思って逢ってやります。しかしすぐに訪れなくなると、女が彼の家にきて中をのぞくのです。それを知った中将は、

    ももとせにひととせ足らぬつくも髪
       我を恋ふらし面影に見ゆ


と読みます。いい歳をした白髪のばあさんが私を恋しく思っているらしい、なんだか幻に見えるよ、と、まあひどいことをいうのです。「つくも髪」というのはよくわかりませんが、「白髪」のことと考えられています。そうは言いながら、哀れに思った中将はまた逢いに行ってやるのですが、やはり長く続く関係ではあり得ないのです。
『うつほ物語』「忠こそ」にも高齢の女性が息子のような年代の男に思いを寄せる話があります。故左大臣の北の方が、最近奥さんを亡くしたばかりの右大臣に懸想するのです。北の方はすでに五十代、右大臣はまだ三十代なのです。最初のうちは右大臣との仲がうまくいくようにと神仏に祈願するだけだったのですが、ついに告白してしまいます。右大臣は、相手が高貴な人だけにあまりそっけなくするわけにはいかないと思って北の方のところに通うことになりました。北の方は大喜びで、下にも置かぬ

    「お・も・て・な・し」

をします。どうせ自分の財産なんて国民から税金をふんだくったんだから、と思ったかどうかは知りませんが、湯水のごとく使って右大臣に尽くすのです。しかし右大臣は義理と同情で通い始めたようなものですから、だんだんいやになります。その様子を知った北の方はかわいさあまって憎さが百倍。右大臣とその子「忠こそ」に意趣返しをしようとしますが、結局は零落してしまうのです。

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もはや叶はぬことばかりなり 

老いるのは楽しいことでもあります。いろんなことがわかってきて、若いころには見えなかったものでも、いとも簡単にその真実の姿を見破ることができるようになります。
私のような世間知らずの人間でも、自分でも驚くほど「うそ」が見破れて、詭弁や欺瞞があらわに見えるようになりました。ときには、あまりにはっきり見えるので目を覆いたくなることもありますが・・・。
しかし世の中には年老いてもものが見えないままだったり、老いることでいっそう見えなくなったりする人もいるのではないかと感じないではいられません。何らかの力を持った人ほどそういう面が色濃いようにも思います。私も、何の力も持ってはいませんが、常に自戒するつもりです。
その一方、老いることで失われること、できなくなることも多々あります。体力は一気に衰えますし、認知能力も減退します。また、

    若さゆえの美しさ

もなくなってしまいます。最近はアンチエイジングというのがはやりだそうですが、それは現に美しさが失われていることを証明する現象にほかならないでしょう。
山本かね子さんという、昨年の1月に亡くなった歌人がいらっしゃいます。この方の歌に

もはや叶はぬことばかりなり
なかんづく相対死をするほどの恋


があります。
年老いると、もはやできないことばかりになってしまう、特に相対死をするくらい激しい恋など、ということでしょう。
文楽ファンの方には釈迦に説法ですが、「相対死(あいたいじに)」は「情死」「心中」のことです。男女がお互いの真意を証明するためにさまざまなこと(誓文を交換する、髪を切る、爪をはがす、など)をした、その極限の行為が「相対死」でした。
年老いるとそんなことまでするほどの激しい恋愛はあり得ない、とかね子は言うのです。もちろん、広い世間ですから例外はあるでしょうが、一般的には「そうだよなぁ」というほかはないでしょう。しかし、もう心中するほどの

    苦しい恋愛

などしなくてもよいのだ、とも考えられます。あんな苦しみはもうごめんだ、という気持ちを持つ高齢者は多いのではないでしょうか。何かに追い立てられるように髪をピンクに染めたり奇抜な服装をして注目されようとしたりする若い女性を私は長らく目の当たりにしてきました。老いるともうそういうこともしなくて済むのです。あとは自分のあとに生きる人たちがより心豊かな人生を送れるように心を配ればいいのだろうと思います。

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2021年文楽夏休み公演千秋楽 

暑い中、無事に千秋楽を迎えられたことをお慶び申し上げます。
この夏は子どもさんがあまり多くおいでにならなかったように聞いているのですが、どうだったのでしょうか。『舌切雀』に関連してフエキノリさんがお土産を用意してくださったそうですが、余ったのではないでしょうか。何なら私がひとついただきますが(笑)。
『靭猿』でデビューなさったお二人の太夫さんはいかがでしたでしょうか。
大阪の夏といえば『夏祭浪花鑑』。今回はずいぶん中を飛ばした構成だったそうですが、「三婦内」から「長町裏」は文句のないおもしろさがあるだけにじゅうぶん見ごたえもあったようです。
文楽の次の公演は九月の東京。このところいつも「そのころは世の中がどうなっているだろうか」とばかり考えてしまいます。どうかつつがなく初日が迎えられますように。

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夏の花 

朝顔は、初夏に種を蒔いて晩夏から秋にかけて咲く花です。育てるのはあまり難しくはなく、葉は勢いよく伸びて花も次々に咲きますので身近な花としてとても愛されてきました。江戸時代にも浪人のアルバイトとして朝顔の苗を育てて売るというものがありました。個人ホームセンターですね。
何とか少しでも日光をさえぎってもらいたいという思いもあって、私もここ何年か育てています。ところが昨年採ったタネを入れていた袋が行方不明になって、ひとつぶだけ残っていた、ゴマよりひと回りほど大きい程度の小さなタネを蒔いてみました。いくらなんでも育たないだろうと半ばあきらめながらの栽培でした。しかしわからないものです。これまでで一番勢い良く育って、葉がとても大きく、花も次々に咲いているのです。180㎝まで伸びたところで摘心して次々に脇芽を伸ばしていますので、それがどんどん横に広がって窓を半ば覆ってしまう勢いです。
今年は

    やたけたの熊さん

からいただいたタネも蒔いたのですが、最初に蒔いたのがまるで育たちません。タネの皮の硬い朝顔は、発芽を促すためにタネの一部を削ってから蒔くといいということは知っていましたが、横着をしてしまったのがいけなかったのだろうと申しわけないことをしてしまいました。熊さんからはたくさんタネをいただきましたので、しばらくしてからもうひとつ蒔きました。そちらはタネに傷をつけたかいがあってか、すぐに芽を出しました。最初に蒔いた私のタネよりもかなり遅れての播種でしたので、今日現在まだ花は咲いておらず、それでもすでに数10㎝のつるが伸びています。私のタネとは違った種類の花が咲くようですので楽しみにしています。と思っていたら、なんと、熊さんからいただいたタネの最初に蒔いた方が芽を出してきて双葉が開いたのです。かたい皮を破るのに時間がかかったのでしょうか。それにしてもなんとのんびりした成長ぶり!
もうひとつ、夏の花として植えているのは

    グラジオラス

なのです。以前このブログに書きましたが、去年強い風の中を放置して葉が折れてしまったために、球根が育たず、小さいものしかできなかったのです。これも育たないかな、とかなり心配しながら植えました。しかしこちらは残念な状況になっています。ほんとうならそろそろ花が咲くはずなのですが、まったくその気配がありません。4つ植えたのですが、すべて小さい球根でしたから葉が伸びるのみ。花茎が出る気配もありません。
やはり今年は無理かもしれず、今は球根を大きく育てるつもりで見守っています。

朝顔の赤紫の彩りに
うしろめたくも枯るる下葉か

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