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一両の価値 

子どものころ、「一両って今のいくらくらいですか?」と聞いたら(誰に聞いたのかは忘れたのですが)、きっぱりと「一万円!」と言われたことがあり、なんとなくそう信じていました。私が聞いた人は、わからないからきっといいかげんなことを言ったのでしょうね。
しかし、まんざらでたらめというほどでもなく、「万」という桁になっているのはなかなかいい線だと思います。
この問題は、そう簡単に答えを出せるものではなく、何を基準に考えるかによってずいぶん数字は変わってくると思います。たとえば、18世紀の一両の価値を、「米の値段」を基準にすると6万円、大工の賃金を基準にすると35万円くらいになるようです(日本銀行貨幣博物館HPによる)。ただし、米を基準にした場合、江戸時代の初め頃なら一両は10万円くらい、中頃から後期にかけては6~8万円くらい、幕末になると4千円から1万円くらいで、長い江戸時代ですから、時期によってかなり幅があります(すべて同博物館HP)。
私が創作浄瑠璃を考える場合、設定は大体

    江戸時代中後期

なので、このHPはとても参考になります。私が江戸時代のことを調べる時に簡便な資料として使わせてもらう本に山本博文『大江戸事典』(集英社)がありますが、この本によれば、武家奉公人の年間給金の上限は2両2分と定められていたそうです。先ほどの米の値段で計算すると「年収15万円まで」、大工の賃金で計算すると「年収87万5千円まで」となり、感覚的には大工の賃金が合いそうな気がします。庶民の目から見る1両とお金持ちの見る1両ではかなり違いもあったでしょう。今だって私なら「35万円」と言われたら目の色が変わります(笑)が、政治家のAさん(何人か思い当たる人がいますが)あたりのお金持ちからみれば夕食代か子どもの小遣いのようなものかもしれません。
私はあくまで庶民目線ですから、

    1両=35万円

くらいの価値観を持って創作浄瑠璃を考えようと思っています。
大金持ちの家には千両箱というのがあったそうで、元文小判の重さは1枚13gくらいだそうですから、13g×1000=13㎏。収納箱は木箱ではありますが、金具がかなりついていますので、全部で15㎏はくだらなかったのではないでしょうか。1両35万円なら35万円×1000=3億5千万円!
曲亭馬琴の『大黒楹黄金柱礎(だいこくばしらこがねのいしすべ)』に、隠居する人が息子に財産を譲る場面が描かれている絵があるのですが、この絵には千両箱が山と積まれているのです。年収2両あまりの人がいるかと思えば何万両という財産を持つ人もいたのです。落語に「千両みかん」がありますが、息子のためなら千両くらいポンと出す人がいてもおかしくないかもしれません。
江戸時代もかなりの格差社会だったのですね。

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美顔パック 

ものを大事にするのはとてもすばらしいことだと思います。
最近はものをいかに捨てるかというのも重要だといわれていますが、私などなかなか思うようには捨てられないのです。多分もう読まないであろう文庫本など、処分してしまえばいいのに、かなり置いています。
本はそろそろ処分していかないといけないのですが、それなりに売れるものもありそうに思いますので、それはお金に替えようかなと思っています。古本屋で買った床本でひょっとしたら役に立つかもしれないものは文楽の太夫さんに差し上げようかなとも思っています。
昔の人はほんとうに無駄が少なかったと思います。平安時代の人はめったに風呂には入れませんので、髪などは汚くなりかねません。そこで活躍したのは

    米のとぎ汁

でした。お付きの女房がとぎ汁を「ゆする坏(つき)」という容器に入れて、それを奥様やお姫様の髪になじませて櫛で梳いていくのです。彼女たちの髪の長さは半端ではありません。なにしろ身の丈に余るほど伸ばすのですから。京都の西本願寺の東にある「ふう・ぞく・博物館」(実際は漢字で「風」の字のあとに「俗」を続けて書くのですが、このブログではこれを漢字で書くとNGワード扱いされる可能性があるのです)で、以前この髪を梳くようすが展示されていたことがあります。当時の人とて洗髪もしますが、そのときはとても自分ひとりではできないので、女房たちに手伝ってもらい、乾かすのもまたひと仕事だったようです。
今でも米のとぎ汁で顔を洗う人とか、廊下磨きに使う人などはいらっしゃるようです。つるつるピカピカになるようですね。
米のとぎ汁の効用は、何しろ今に伝わるのですから、江戸時代の人も重宝したようです。とぎ汁はしばらく置いておくと表面は透き通ってきますが、それは捨てるのだそうです。それでたまったものを乾燥させて、少し水で溶いて顔にパックするのです。そのまま寝て、朝顔を洗うと、あら不思議、

    つやつやのお肌

になっているという仕掛けです。
江戸時代にリンスはなかったのかというと、それに類するものはあったのです。布海苔(フノリ)とうどん粉を混ぜたものを髪になじませてそのあと洗い流すと光沢がでるのだそうです。
昔も美白というのは大切だったらしく、これについては植物性の薬も販売されていたようです。その点、米のとぎ汁はいわば無料ですから
こういうことは、すべて江戸時代に発行された『都ふう・ぞく・化粧伝』という本に書かれています。この本のタイトルも、実際は「風」という字のあとに・・・ああめんどくさい。

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風呂好き 

江戸の人は風呂好きだったといわれます。もともとは蒸し風呂でしたが、後には洗い場と湯船のある今の銭湯に近い形態の風呂屋になりました。古くは男女混浴の「入込(いりこみ)」だったそうですが、寛政の改革でおなじみの松平定信は風紀上問題だというので男湯、女湯に分けるように命じました(実際は「入込湯」も存続したそうです)。
東京の銭湯は今でも湯の温度が高いといわれますが、そうなのでしょうか。私は東京で銭湯に入ったのは1回だけ(学生時代、ユースホステルに泊まった時)で、よく覚えていません。
湯屋(銭湯)は朝が早く、夜が明けると営業を始めたのです。そんなに早くに開けて誰が入りに来るのかというと、夜遊びをした男たちがここでさっぱりするということがあったのです。今でも朝風呂を好む人は多いですが、下級の武士たちも午前中に入りに来たようです。働いている男たちは朝早くから仕事に出ることが多いですし、奥さんたちはそれを送り出したり掃除をしたり、食事の準備をしたりという家事一切がありますからなかなか早くに入るわけにはいかなかったようです。男湯の客は先述のようにそれなりにいたのですが、女湯がもったいないですよね。それで、奉行所のお役人などが女湯を利用したのだそうです。お役人が入ったあとの女湯には、やはり夜の仕事の女性たちが来て、うまい具合にローテーションができていたようです。
料金(湯銭)は江戸時代の中でも時期によって変動しましたが、当初はおとな六文だったそうで、それが八文になったりまた六文になったりと動き、物価が上がった江戸末期にはかなり高くなったそうです。それにしても六文というのはなかなか安いのではないでしょうか。さてその湯銭を払って風呂に入ると脱いだ衣服をかごにまとめて今のロッカーに当たるところに入れ、洗い場で

    ぬか袋

を使って洗います。ぬかは、米屋やぬか専門の店で売っていましたが、湯屋にもあり、それを買って自分用の袋に入れて用いたようです。からだを洗う場合、他人に洗ってもらうほど気持ちのいいものはありません(そんなことしてもらったことはありませんが)。ここで活躍するのが「三助(さんすけ)」と呼ばれた人です。彼らは女湯にも入ることができて、女性の背中や腕を流したのです。女湯では男前の三助が人気があり、こういう男前がマッサージなどもしてサービスすると料金のほかに心づけももらったのだそうです。三助の手を借りずに、手ぬぐいを背中に回して両端を持って洗う人ももちろんいました。一方、男性にサービスしてくれる女性のいる湯屋もありました。主に武士を相手にした、

    「湯女(ゆな)」

と呼ばれる女性がいるところです。この女性は、背中を流すだけでなく、湯上りの客を接待したのです。当然料金は高く取りました。
湯舟は見えないところにあります。湯の温度が下がらないように、洗い場との間に仕切りがあるのです。しかし全部仕切ったら湯舟に入れませんので、人がかがんで通れるくらいの空間が開いています。この入口を「柘榴口(ざくろぐち)」と言いました。
男たちは湯から上がってもすぐには帰りません。湯屋には二階があって、そこでくつろいだのだそうです(式亭三馬『浮世風呂』で知られます)。

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博打場 

IRというきれいな名前で、カジノというこれまたしゃれた名前の賭博場を誘致しようという話があり、最近では横浜市が現職以外のすべての候補者が誘致しないという公約を掲げて、結局現職は負けてしまいました。大阪市は相変わらず万博だ、カジノだ、金もうけだと息巻いていますが、さてどうなることでしょうか。
人が二人いると賭け事が始まります。「今年の野球はどこが優勝するか」なんてことでちょっとした賭けをするというのはかわいげのあるものでしょう。しかし、賭け事中毒になると財産を失うこともあるという、恐ろしい面も持っています。私はパチンコ、マージャン、競馬、競輪、その他まったくわからないのですが、少しくらいなら遊びの範囲なのでしょう。しかしこれらも深間にはまると大変なことになるようです。
しかし昔から勝負事、賭け事はなくなったためしがありません。江戸時代には、賭け事は禁止されていました。しかし、おかみが禁止してもはいそうですかとはいえない魔力があるのでしょう。
『長谷雄草紙』という絵巻物(鎌倉時代の終わりごろに成立)には、平安時代の人である紀長谷雄が鬼を相手に

    双六

をして美女を得る話が見えます。双六は長らく賭け事に用いられた代表的な遊びでした。今の絵双六と違って盤双六ともいわれるもので、西洋のバックギャモンによく似たボードゲームです。
江戸時代になるとそんな面倒なことはせずに、すぐに結果のわかる「さいころ博打」がはやります。
落語の「狸賽(たぬさい)」はサイコロひとつを使う「ちょぼいち」という博打で狸が恩返しのためにサイコロに化けてこちらの言うままの数字を出してくれるという話です。むしろ時代劇などによく登場するのはサイコロふたつの「丁半」でしょう。これは賽の目の数を当てるのではなく、出た目の数字の合計が奇数か偶数かで勝負するものです。
しかし、丁半博打というのは、実はかなりルールの厳しいものでした。壺振りに向き合って中盆という人が座り、この人物が壺を振るタイミングに「壺」、壺を開けるときには「勝負」と声を掛けます。丁(偶数)に賭ける人は中盆の側に座り、半の人は壺振りの側に座って、ここがポイントなのですが、壺が振られた後、丁半の賭け金が同じになって初めて「勝負」になったのです。
そんな面倒なことをせずに、適当に壺を振って(賭ける人が交代で振ったりする)、賭ける人が例えば丁に偏ってもそのまま勝負するやりかたもありました。時代劇に出てくるのはむしろこちらではないでしょうか。
こういう賭場は、真っ赤に焼けた鉄のように誰もが興奮するために

    鉄火場

とも呼ばれました。
博打にいかさまはつきもの。時代劇で、床下に隠れた人物がわずかなのぞき穴から賽の目を読んで針のようなものでつついて決まった目に変えるというのがありますが、あれはほんとうにあったそうです。ほかにも、サイコロの奇数なら奇数の目に針を仕込み、その音で聞き分けるという高等技術もあるようです。
簡単なトランプ手品に、カードのどこかにちょっとした印をつけて裏からその数字を読み取るというやり方がありますが、こういうのは花札博打でもおこなわれたのだそうです。
博打は、江戸時代には禁止されていたのですから、博打場(賭場)になったのはおかみの目の届かないところでなければならなかったのです。例えば足軽と小者の中間の身分であった「中間(ちゅうげん)」が住む武家屋敷内の部屋(中間部屋)はうってつけの場所だったようです。
私は、創作浄瑠璃の『無灯蕎麦屋』『足洗ひ屋敷』で博打場に出入りする人物を取り上げました。

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番太郎 

創作浄瑠璃『送り拍子木』を書いた時には、番太郎について少し調べました。
江戸の町は、町ごとに木戸が設けられて夜中には通行ができませんでした。
あの『伊達娘恋緋鹿子』では、お七が盗まれた天国(あまぐに)の剣を見つけたのに、九つになって木戸が閉まったために吉三郎に届けることができず、やむを得ず半鐘を打って木戸を開けさせるという場面が「火の見櫓の段」として頻繁に上演されます。
木戸には自身番屋が置かれていて、消防設備(といっても水桶とかはしごですが)が設置されていました。そしてここには町役人が詰めています。自身番屋は時代劇、特に「捕物帖」では必ず登場する場所ですね。事件があるとひとまず自身番屋でちょっとした詮議をしたりする場面がよく出てきます。
番屋の雑用をするのは

    木戸番

で、木戸のすぐそばに小さな家を持ち、家族で住みました。木戸番は蔑称のようないいかたではありますが、「番太郎」「番太」とも呼ばれ、「火の用心」という夜回りの仕事もしました。私が『送り拍子木』で登場人物としたのはこの番太郎の息子でした。番太郎が殺害され、その息子が代わりに夜回りをしているとそこに犯人が現れて息子を襲います。しかしどこからともなく特徴ある番太郎の拍子木が聞こえてくる・・という話です。
『伊達娘』では「夜中限り江戸の門々を閉めては大切な用ある人も往来ならぬ厳しいお触れ」といいますが、用がある場合は「町送り」といって、番太郎が隣町まで送っていく、ということがありました。
番太郎と言えば、大坂の話ですが、『心中天網島』「大和屋の段」の冒頭に登場して、拍子木を打ちながら火の用心を唱えて通り過ぎていく場面がありますね。
番太郎は町の費用で雇うものでしたからきわめて薄給だったようで、収入を補うために、ちょっとした

    売店

を営んでいました。そこでは草履、鼻紙、駄菓子などを売ったらしく、焼き芋を商うところもあったようです。
こういう、社会の底辺のようなところで生きている人にも光を当てた浄瑠璃を、と思って書いたのが『送り拍子木』でした。

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江戸の排泄物 

本日は尾籠な話に終始します。トイレで読んでくださる方ならぴったりです。
私の家は血のつながらない祖父(明治生まれのずいぶん年の離れた人で、私はお会いすることもありませんでした)が建てたものでした。座敷から池と小さな築山を作って、見渡すと本当の山があってそれが借景になっている、という造りでした。私は、子どものときはそういう家に住んでいたのです。そんな家でしたから、トイレは古いものでした。そして、庭では畑も作っていたらしく、その名残として私もかすかに庭でできた野菜を食べた記憶があります。そしてその野菜の肥料はトイレから持って行ったものでした。それを母親がひとりで汲みだして庭に掘った穴に入れていました。兄も妹も絶対それを手伝わなかったのですが、私は意外に平気で、必ず「手伝って」と言われたものでした(なんといい子だったのでしょうか!)。
しかしその家も古くなって立て替えられ、そこは当然水洗で、とても嬉しかったことを覚えています。
そういう思い出話はさておき、江戸の人たちも排泄物は必ず出ますから処理する必要がありました。江戸時代の初めごろは川のそばなど水の流れているところの真上に小屋を建てて厠として、まさに水洗にしていたところが多かったそうです。しかしこれは不潔だというので禁止されるようになります。長屋では共同の厠があり、そこに排泄物は溜められました。また、「辻雪隠」という有料の公衆トイレもあったようです。

    『北斎漫画』

には、そういうトイレで武士が用を足している姿を描いたものがあります。では、この溜めたものはどうしたかというと農家が使ったのです。
長屋であれば大家さんが管理して農家に持って行ってもらったようです。今はもうあまりないでしょうが、ひと昔前ならよくバキュームカーと呼ばれた屎尿汲み取り車がお金を取って回収していきました。ところが江戸時代は農家がお金を払って持って行ったのです。ですから大家さんの副収入になりました。
ある本によりますと、その値段は、

    一荷で三十二文

だったそうですが、次第にその値段は上がっていったとのことです。
一荷(いっか)というのは、落語の「壺算」にも「一荷入りの壺」「二荷入りの壺」という言葉が出てくるあの単位です。天秤棒でかついだ桶ふたつ分のことで、その重量は60㎏だったとも言われます。三十二文というと、食べ物にあてはめるのも変ですが、そば2杯分ですね。
戦国時代に日本に来たポルトガルの宣教師フロイスは日本では屎尿を肥やしにしていることに驚き、またそれをお金を取って処理してやるのではなく、お金を出して買っていることにも驚いたといいますから、江戸時代より前からそういうことがおこなわれていたことがわかります。

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江戸の屋台 

『無灯蕎麦屋』(あかりなしそばや)という創作浄瑠璃を書いた時、屋台の蕎麦屋の実態をいくらか調べて実際の場面をイメージするようにしました。
ただ、調べるといっても、江戸時代の専門家ではありませんから、実際に資料にあたったわけではなく、他人様の研究調査の恩恵を受けているだけなのですが。
私の書いた浄瑠璃は、江戸本所の南割下水(みなみわりげすい)あたりを舞台にしました。南割下水は湿地であった本所の土壌からいくらかでも水分を抜いて大川(隅田川)に流すように掘られた水路です。今はもうこの水路はなく、北斎通りという道になっています。
このあたりに蕎麦屋が出たとすると、まさかとなり合って出すことはなかろうと思って、「○○橋のたもと」とか「○○屋敷の前」という具合に場所を勝手に定めたりもしました。
十七世紀には、そばそのものはあっても、江戸に蕎麦屋というのはなかったようで、18世紀に入ってから次第に増えて行ったようです。
芭蕉が江戸深川の

    芭蕉庵

に住み始めたのは延宝八年(1680)で、八百屋お七が吉三郎と出会うきっかけになった火事(1682年)で芭蕉もまた焼け出され、芭蕉庵は再建されますが、そこにじっとはしておらず、さらに芭蕉庵から奥の細道に旅立ったのは元禄二年(1689)のことでした。その後元禄五年にはまた芭蕉庵に住みますが、元禄七年に江戸を離れ、そのまま大阪で不帰の人になりました。回りくどいことを書きましたが、そうなると、芭蕉は江戸の「蕎麦屋でそばを食べる」ということはしていないかもしれないのです。
上方落語の「時うどん」は江戸では「時そば」。二人合わせて十五文しか持ち合わせがないので二人のうち頭の切れる男が、蕎麦屋のおやじを騙して一文ごまかして食べます。翌日同じことをしようとした間抜けな方の男は失敗して三文損をした、という話です。つまり屋台のそばは

    十六文

だったわけです。「二八そば」というのがあります。これはそば粉八割につなぎの小麦粉を二割まぜたものだと説明されることがあります。しかし実際は十六文であったために「二八十六(2×8=16)」というのが語源だったようです。十四文であれば「二七」ということになります。
屋台は蕎麦屋だけではありませんでした。天婦羅屋もそのひとつです。前が海だからというので江戸前といえば魚介類。江戸前寿司は、東京湾の魚を獲って日本橋本船町の魚河岸に引き上げ、そこで取引されたものを用いました。天婦羅屋も同じで、もっぱら食材は魚介。イカとかアナゴなどを揚げたもののようです。屋台ですから、当然庶民が味わえる値段のものでした。

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江戸の物売り 

今日から、断続的になるかもしれませんが、江戸時代の江戸に住んだ庶民の日々について書いておこうと思います。これらは、私が創作浄瑠璃を書くときに調べたことを基にしています。かなり忘れてしまいましたので(笑)、ここにまとめておこうと思います。
江戸時代の庶民は多くは農民でしたが、都市部ではさまざまな職業の人がいました。商売人は今もそうですが、さまざまなスケールで稼いでいました。駿河町の越後屋(三越)のように間口三十五間の本店と向かい側の間口二十一間の向店を構える巨大と言ってもいい呉服屋もあればささやかな店構えのところも当然ありました。しかし店を持つ人はまだたいしたもので、裏長屋に住んで毎日天秤棒をかついで物売りをする人たちは零細もいいところでしょう。
なにしろ、からだが資本ですから、病気になったらもう収入がないのですからたいへんなことでした。長屋は、隣の人の顔も知らないような今のマンションとはちがって、共同体という側面がありましたから、

    困ったときはお互い様

という助け合いがあったようですが、それでも甘えてばかりはいられないので、日々重労働をしていました。江戸時代の銭に銭形平次も使った寛永通宝がありました。このお金は足尾銅山などで作られましたが、その足尾製のものには「足」の字が彫られていましたので、これを「お足」といい、今でもお金のことをそう呼ぶことがあります。これが1枚で1文(もん)。そして公式のレートでは4貫文すなわち3600〜4000文が1両に当たりました(実際のレートは変動したそうで、1万文が一両という計算もできるようです)。今のお金に換算するのはとても難しいのですが、これについては後日改めて書きます。
天秤棒をかついで物売りをする人を「振り売り」とか

    「棒手振り(ぼてふり)」

といいました。できるだけ多くの野菜や魚を仕入れてそれを売って回ります。19世紀初めごろの記録では、野菜売りは600文で仕入れて、その倍の値段で売り、うまくさばけたら600文が収入になります。これで棒手振りに課された税(年1両)や家賃(2間×9尺の裏長屋なら月額300~400文くらい)を払い、家族を養うことになります。元気で毎日働けたら何とか生活でき、つつましく生活すれば、いくらかのお金もたまってやがて自分の店を持つことも夢ではないかもしれません。
魚や野菜というと料理の材料ですが、手っ取り早く食べられる煮売りもありました。移動総菜屋みたいなものですね。
おもしろいのは、飴売り、味噌売り、醤油売りなどは壮健な若者がすることは許されず、15歳以下の子どもか50歳以上の老人だけが許されたことです(障害者も可)。若者には体力で勝てない人たちにも棒手振りの仕事ができるようにした、言ってみれば弱者救済なのですね。こうしてみると、江戸という町は意外に福祉都市だったといえるかもしれません。

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痛かった手足 

今年の前半はとてもよく歩きました。一日2万歩などというのが珍しくなく、1月から6月までの歩数計を見てみると、総計215万歩でした。181日ですから1日平均11,878歩。1歩を70cmとすると、150㎞以上歩いています。え? 違うかな。70cmは0.0007㎞ですから、それに2,150,000を掛けると・・1505㎞だ!
ということは、鹿児島から福島県くらいまで歩いた感じでしょうか。6か月かかったとはいえよく歩きました。よく、若者がリュックひとつにテントを入れて徒歩旅行していることがありますが、私もやってみようかな(笑)。
能因法師は

都をば霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の関


と詠みました。実際は都にとどまって虚構として詠んだのだといわれますが、事実としみると春に都を出て秋に福島県の白河に着いたことになります。半年で京~白河ですから、私の勝ちですね(笑)。
・・なんてのんきなことを言っている場合ではありません。
実は、8月ごろ、あまり歩くのが自由ではなかったのです。足のあちこちが痛くて、階段を下りるのが憂鬱でした。指先、足裏、足首、アキレス腱、ふくらはぎがどこか痛いのです。春から初夏にかけてかなり歩きましたので、酷使しすぎたかなと思っていました。すると痛みが手にも及び、手指、手首あたりが痛いのです。何か悪い病気だろうかと心配になるくらいでした。暑さのため、どちらにしても8月はあまり歩けない時期です。今年は長雨がありましたので、よけいに歩けませんでした。それで、あまり手足を使わないので、医者にも行かず放置していたのです。
しかしだんだん心配になってきて、明日は整形外科に行ってみようかな、と思って、ふと手許にあった

    ロキソプロフェンテープ

を試しに貼ってみようと思ったのです。ロキソプロフェンテープはロキソニンテープの同じ効果がある、少し安価な痛み止めのパップ薬です。別の理由で買ったのですが、そのときも一発で効いたのでほとんど残っていたのです。そこでそれを使ってみることにしました。
すると翌日、見事に痛みが引いていました。
ちょっと、効きすぎじゃない? と思うくらいで、また次の日は悪くなるかも、と警戒したのですが、特に反動はなく今に至っています。
あの長かった痛みは何だったのでしょうか・・。

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2021年9月文楽東京公演千秋楽 

本日、文楽東京公演が千秋楽を迎えます。
緊急事態宣言下、つつがなく千秋楽を迎えられることは喜びとすべきでしょう。
次は秋の巡業を経て錦秋大阪公演ですね。っ次回も無事に幕が開きますように。

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漬物 

昔の家庭にはぬか漬けの壺やバケツのようなものがありました。私もかすかに記憶にあります。母親がその中からキュウリを取り出して水洗いしているのを遠目に見て、なんだか不気味なものだな、と思っていました。あの中に手を突っ込んで混ぜたり、中から漬物を取り出したりするのはあまりやってみたいとは思いませんでした。てざわりがもうひとつですし、においもきついですから、あまり近づきたくないとすら思いました。壺のような陶器の容器を使うなら毎日かき混ぜることが必要でしょうから、なかなか手のかかるものです。タッパーであれば冷蔵庫に入れておけば数日は放置してもいいようですが。
塩分が多い食べ物なのが気になりますが、何も一度にきゅうり1本丸ごと食べなくてもいいわけで、ふたかけらほどをお茶と一緒に食べるなんて、なかなか風情のあるものです。その程度なら塩分もたいしたことはないでしょう。
私は子どものころから辛いものが好きで、たくあんとかきゅうりとか、漬物が大好きでした。生活のレベルがばれてしまいますが、残ったご飯を

    お茶漬け

にして、漬物の塩辛さで食べるだけでもごちそうでした。
もちろん、家で漬けなければならないわけではなく、漬物屋があります。京都の漬物屋は今でもあちこちで立派な店を持っていて、お土産にもなります。日常的には、家の近所にあった「市場」にも個人の漬物屋さんがあって、そういうところから買うことができました。記憶違いかもしれませんが、ひとまとまりの市場に二軒の漬物屋さんがあったと思うのです。
今や漬物というとスーパーで買ってくることが多いのではないでしょうか。私も何度も買ったことがあります。一人暮らしのときはそれ以外に漬物を食べる方法がなかったとも言えます。
娘がお弁当を作り始めたのですが、この人が私に似て漬物が好きで、小さい時から好んで食べていました。どうやらそのお弁当の中に漬物を入れたいらしく、やはりパックに入ったスーパーの漬物を買っていました。
・・と思ったら、最近プラスチック容器に入った1.2㎏の

    ぬか床

が置いてあったのです。横長で底が平らになっているもので、中には間違いなくあの強烈なにおいのぬかが入っています。ある日、かわりに混ぜる仕事をしたのですが、やはり手触りのいいものではありません。それにしても、そこまでしてぬか漬けの野菜が食べたいと思う執念はなかなかたいしたものだと思います。

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次の浄瑠璃は 

歌舞伎竹本三味線方の野澤松也師匠が創作浄瑠璃をなさっているのを初めてうかがったのは2015年のことでした。当時書いていた呂太夫さんの本の編集者とお会いした時、「松也さんが台本を書いてくれる人を探していらっしゃる」と承り、立候補したのです。その後、松竹座に出演していらっしゃった松也師匠とミナミの「アラビヤコーヒ」でお会いして、まずは江戸・本所の七不思議をテーマにしたものを書くことになりました。そしてなんともう6年がたったのです。その間に書いたものはわずか7つ。この夏、やっと8つ目を書いて、これで

    江戸情七不思議

は完結しました。
とても師匠に語っていただけるようなものではないはずなのですが、いい曲をつけてくださることでこれまでもう何度も何度も各地で上演していただいています。どちらかというと初心者向けというよりは浄瑠璃が好きな方に聞いていただくような感じで作っていまして、初めてお聴きくださった方は「なんだかよくわからん」とお思いになるのではないかと心配です。
いちおう、当初のお約束は果たせたのですが、「今後もまた何か書けるものがあったら書いてみてほしい」とありがたいお言葉をいただいています。
ひとつ考えているのは絵巻物の浄瑠璃化です。『信貴山縁起絵巻』『粉河寺縁起絵巻』などを浄瑠璃にできないだろうかと思っています。夢は信貴山朝護孫子寺と粉河寺のお堂で上演することです。
江戸の七不思議が終わったので、

    上方の七不思議

もいいのではないか、と、これは松也師匠から言われていることです。七不思議というのは各地にあるもので、京都にも大阪にもあります。そういうものに材を取って書くのもおもしろいと思います。
子どもさん向けの作品もありうると思います。奈良市の幼稚園で少し練習していますので、書けそうな気はしています。
ほんとうは、書いたものを聴いてそれによって反省点を見つけて次に生かすのがいいと思うのです。しかし私の場合はすべて自分の頭の中だけで創作も反省もしなければならず、こわいのは「これでいい」という慢心です。最近、パターンが決まってきつつあるので、それを打破するような形も必要だろうと思っています。
あれこれ考えているだけでは進みませんので、どこかにフォーカスしてアイデアを練り始めたいと思っています。

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月下美人 

阪急ブレーブズの福本豊さんはほんとうにすごい選手でした。私も何度も西宮球場で拝見しましたが、盗塁するときは、走るスピードももちろんなのですが、スタートが誰にもまねのできないような速さだったのです。上田コーチ(のち監督)とずいぶん走塁の練習を繰り返されたようですが、勉強熱心で投手の癖を見事に盗んで走られました。入団されたのは「加藤秀司(のち「英司」)さんのおまけ」だったそうです。お二人とも社会人野球の松下電器に所属していらしてスカウトが加藤さんを見に来られて、そのついでに「あの小さな選手も取っておこうか」ということになったと福本さんご自身がおっしゃっていた記憶があります。ところが2500本を超える生涯安打はその加藤さんを超えるものでした。天才的な加藤さんと努力家の福本さん、という感じでした。今なら何億円ももらえる選手だったと思います。
いろんなエピソードの持ち主で、引退する予定ではなかったのに、上田監督がうっかり言い間違えて「引退する福本」とおっしゃったために「ほんならしゃあないから辞めるわ」というので引退されたという話も伺いました。野球のテレビ解説でアナウンサーを笑わせるという特技もお持ちです。
その福本さんのエピソードの中に、ひょっとすると私の記憶違いかもしれないのですが、毎朝

    サボテンジュース

を飲んでいらっしゃった、というのがあったと思うのです(違っていたらごめんなさい)。サボテンというと、メキシコあたりの乾燥地帯に生えているトゲトゲの愛想のない植物だと思っていたのですが、種類によっては花が咲いて実がなってジュースにして飲めるものがあるとそのときに知ったのでした。
サボテンの花は真っ赤、濃いピンク色、真っ白などさまざまな色があるようで、栽培される方も多いのだとか。
サボテン科の植物には、イースターカクタス、エビフィラム(エビフライではない)、ドラゴンフルーツなどとともに

    月下美人

があります。夏の夜に数時間だけ花をつけるという、幻のような花です。真っ白で、芳香があり、妖しい雰囲気も持っている花です。
9月2日の夜、私の家の月下美人が咲き、しばし観賞する機会がありました。

雨多き夏の果(はた)ての雨の夜に
真白に咲ける妖(あやかし)の花

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秋に植えるもの 

今年は朝顔がびっくりするほどよく咲きました。一番多かった日は1株から10輪の花をつけました。7月の終わりに第1号が咲いて、そのあと約50日間、まったく休むことなく毎日3~5輪ほど咲き続けましたから、総数は軽く150を超えたでしょう。なぜこんなに咲いたのがよくわからないのですが、タイミングよくリン酸を多く含む肥料を与えたことがいくらかでも奏功したのでしょうか。リン酸は三大栄養素の

    NPK(窒素・リン酸・カリウム)

のうち、花や実を多くするのに効果のある栄養素です。あとは、昨年少し水はけが悪かったので、プランターと土を変えてきちんと水はけを確認したうえで種を蒔いたのもよかったかもしれません。
花が多かった分、タネもほんとうにたくさん採れそうです。タネは花のあとにまんまるに膨らんだ袋の中に1~4つくらいできますが、今すでに袋が60個くらいできていますので、これまた100個以上のタネが採れそうな計算になります。
気をよくしたところで、空いているプランターには何か植えたいと思っています。昨年ニンニクを植えた土は続けて同じものを植えるのはあまり好ましくないようなので、土を変えてまたニンニクを植えるか、あるいは

    イチゴ

を植える手もあると思ったりもしています。ただし、ニンニクのようにほとんど何もしなくてもできるものと違ってイチゴはちょっと難しいみたいで、さてどうしようか、というところです。
もうひとつ、実はここ数年タマネギに関心があるのです。でも、ホームセンターに行くとたくさんの株をひとくくりにして売っているので、いつも悩むのです。そんなにたくさん植えられないし、かといってあまったものを捨てるなんてもったいないし。10株くらいでいいんだけどなぁ。
それやこれやで、結局また

    ニンニク

に行くかもしれません。ニンニクは、いくらか要領がわかってきたような気がします。あまり肥料をやり過ぎず、ここぞというときに与える。春にはあまり窒素の多いものではなくリン酸、カリウムの多いものがよさそうです。去年は虫がついて少し困ったのですが、今年はそれがありませんでした。これは偶然だったのか、あるいは何かうまく言った理由があるのか、これもまた検討に値します。
まずは土作り。石灰を撒いて堆肥を少し入れて、準備を調えます。こういうことで悩むのもまた楽しみでもあるのです。

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わけあり 

今年の夏は雨が多く、降らない時は暑く、加えて体調が必ずしもよくないこともあってあまり歩きませんでした。8月の1日平均の歩数は5000歩にも届かなかったのです。春に比べると半分以下です。もっとも、もっと体調が悪く、もっと暑かった去年の8月は平均2000歩くらいでしたから、それに比べればましではあるのですが。
春頃は歩くと時折スーパーに行って生活必需品を買うこともありました(あまり重いもの、かさばるものは買えませんでしたが)。洗剤とか、乾麺とか、せいぜい牛乳とか。スーパーに行くと、どうしても

    特売品

に目が行くのは哀しい性(さが)です(笑)。真夏は歩いて持って帰る(いつも徒歩25分くらいのところに行きます)と食べ物は傷むことがあるのであまり買えませんが、それでも安いものを見ると手が伸びそうになります。そもそも赤札シール付きのものは消費期限が迫っているから安くなっているわけで、それを真夏に30分近く持って歩くのはあまり好ましいことではないでしょう。
夏でなければ、特価品やシール付きをどうしても買ってしまいます。歌人の河野裕子さんが「スーパーで安売りをよく知っているのはむしろ高齢男性だ」というようなことをおっしゃっていました。そういう人が集まる時間帯というのがあるのだそうで、「そんなときにスーパーに行くと男性の方が多い」とまで河野さんはおっしゃっていたと思います。私が行く時間も、ひょっとしてそういう時間帯なのでしょうか(笑)。ほかに安い商品というとPBつまりプライベートブランド商品ですね。パッケージなどはそっけないものでも中味はいいよ、という商品です。
特価品と並んで注目を浴びるのは

    わけあり

という商品です。形が悪いとか、欠けていて見栄えが悪いというものです。おせんべいなど「われせん」というのがあります。割れたものを安く売るというのです。ただ、以前新聞の川柳欄で、わざと割っているように見える、という意味の作品が載っていたことがありました。確かにそんな気がしないでもないのですが(笑)。明太子でもそうなのですが、過剰生産して余ったものを売る手段としてわざと傷つけているのではないか、などと意地悪なことを考えてしまいます。それでも割れていると安そうで、私のような浅はかなものはつい手を出してしまうのですが。
私だけではなく、うちの誰もが「わけあり」は好きなようです。今、私の手元に梅干しがあるのですが、これが「紀州南高梅」なのです。何という高級品、と思ったらきっちり脇に「訳あり」という文字がありました。おそらく大きさが不ぞろいなのか、つぶれているのか、だいたいそのあたりの理由なのでしょう。きれいじゃないけど味はいいよ、というものです。こういうのもまた、つい買っちゃうんですよねぇ。

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若い女性皇族の行方 

秋篠宮家の眞子さんがやっと結婚なさるそうで、何だかホッとしました。皇族といっても若いお嬢さん。何ひとつ悪いことをしたわけでもないのに世間の批判にさらされて、気の毒に思っていました。しかしその一方で、若いお嬢さんといっても皇族。この一家は「国民」ではないので選挙権もなく、職業も何でもできるというわけではなく、看護師になりたいとか小学校の先生になりたい、というのは多分ダメでしょう。大学も、「ちょっと下宿します」というわけにはいかないですから、東京都の大学に制限されるでしょう。
眞子さんも、何をしても「前例」になってしまうので、難しい人生を送って来られました。父の秋篠宮さんは「結婚の自由」は憲法で保障されているという理由で「この結婚を認めます」と言いました。秋篠宮さんご自身が

    「皇族でも結婚は自由」

という「前例」を作られましたから、そういわざるを得ないでしょう。
しかしこのたびの結婚は「ネット民」の猛烈な批判にさらされてしまいました。会ったこともない人なのに「もうちょっとましな男を選べ」という口調で激しく非難する書き込みを多数見ました。はっきり言うなら単なる「やっかみ」をぶつけているだけでしょう、といいたくなる意見も多かったと思います。
秋篠宮さんの結婚のときは、相手が「家柄」も悪くなく、海外で暮らした経験も豊かで上品そうで物おじしない女性であったこともあって、あまり世間はうるさくなかったと思います。今の天皇の妹の清子さんの結婚は、相手の「家柄」はお父様がもういらっしゃらなかったこともあって特筆するようなお宅ではなかったかもしれませんが、ご本人が公務員であること、お兄さんの秋篠宮さんの同級生で気心が知れていたこと、そして清子さんが晩婚だったこともあってこれまたあまりとやかくは言われなかったと思います。
その後、高円宮家の次女、三女さんも結婚されましたが、皇族の中ではあまり知られない「女王」の身分でいらしたことやお相手が生活は安泰な方でしたから、ほとんど問題はなかったような気がします。
今の皇族で、若くて注目を浴びるのが秋篠宮家のお二人の娘さんだけに、このおふたりはいささかかわいそうだと思うのです。
眞子さんの結婚は結納にあたる「納采の義」や天皇に結婚を報告する「朝見の儀」などの儀式を省くそうで、届けだけを出してアメリカに行かれるという話が出ています。建前上は感染が収まらない世の中の事情を鑑みて、ということでしょう。しかし、駆け落ちというわけではありませんが、

    逃避婚

のようにも映るいささか寂しい結婚になりそうです。選挙権も職業の自由も持つ一般人になられるので、もうあまりうるさいことは言わないでほしいと、何となく父親の気分で思うのです。
今後は妹の佳子さんの結婚もあります。彼女もどうやら結婚したいと思っているようですので、数年内に、ひょっとすると来年早々にでも、そういう話が出てくるかもしれません。
皇族の若い世代の女性は、このほかに三笠宮家の彬子さん(今年40歳)、瑶子さん(今年38歳)、高円宮家の承子さん(現在35歳)、そして天皇家の愛子さん(今年20歳)がいらっしゃいます。みなさん、結婚されると皇籍を離れるのが今の皇室典範の決まりです。そうなると、今後皇室はますます先細りすることが懸念されます。長寿、晩婚化、女性の職業意識のたかまり、皇室タブーからの解放・・「皇室典範」が定められたころには想像もされなかったであろうことが起こっています。長寿が進むと天皇の退位が問題になります。晩婚が進むと少子化につながります。「皇室典範」は改めなければならない時期なのではないか、法律のしろうととしてそんなことを思います。

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できた宿題 

例年、夏休期間中に自分に宿題を出してそれを実行するようにしてきました。今年もそれに倣っていくつかなすべきことを決めていました。思いがけず私のライフワークになってしまった創作浄瑠璃の活字化作業は今年で3回目になります(『江戸情七不思議』『名月乗桂木』に続く)。いずれもすでに書いたものの活字化ですから簡単な面もあるのですが、今回のものについては原作にかなり筆を入れているので手間がかかりました。ただし、今回の場合は添削の「添」よりも「削」を熱心にしたのです。無駄の多い作でしたので、すっきりさせたい、という気持ちでした。それに加えて創作の経緯なども書き加えましたので、それなりの時間がかかってしまいました。この作業は今後も『フィガロの結婚』『ルター』と続いて、ひょっとしたら新作を加えることで、あと2~3年で完結すると思います。
別に、どなたかに読んでいただきたいというわけではなく、ましてこの原稿を基にして上演されることもないわけですから、いわば自己満足の仕事です(私の場合、論文を書いても同じようなものですが)。
続けて書いている『源氏物語』のエッセイは「紅葉賀巻」を終えることができました。次回は「花宴」巻、そのあとはいよいよ「葵」巻となります。
趣味の短歌は「十首歌」といって、通常の7首よりも少し多めに発表するページをもらいましたので

    夏の早朝

をテーマに詠みました。ほかにも、他の人の短歌へのコメントを書く(これがけっこう大変なのです)必要もあって、それなりに時間を取られました。
それらより、もっと難しい課題は創作浄瑠璃を作ることでした。アイデアはかなり前から持っていたのですが、集中して書かないとできないものですから、ついついあとまわしになっていたものです。それを8月の下旬からかかりきりになること2週間あまり。何とか形になりました。たかだか2500字くらいなのですが、何と言ってもボキャブラリーが少なく、とても時間がかかります。字数は、厳密にいうと2516字で、原稿用紙7枚だろうと思ったら8枚目にかかりました。
これまでに『江戸情七不思議』を7つ書いてきたのですが、そのうちの「おくり提灯」という作品は、最初に書いたもので、手馴れていないということもあってあまり評判がよくありません。もちろん私にとっては「短編の第一作」として大事な作品なのですが、やはり上演していただかないと意味がないのが浄瑠璃の宿命です。そこで、まったく違った内容の「おくり提灯」を書くことにしたのです。題して

    異聞おくり提灯

です。
以前から書いて見たかった「老女の恋」をテーマにしたものです。といっても、亡き夫を恋い慕うというもので、若い男に夢中になるというものではありません(そういうのがあってもいいとは思うのですが)。
この中には、私がかねてから浄瑠璃の中で使いたいと思っていたものが登場します。それは、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』で使っていた「はくちょう座」のくちばしにあたる二重星

    アルビレオ

なのです。エメラルド色と金色の、寄り添うように輝く二つの星なのですが、三等星ですので、肉眼ではひとつに見えます。しかし望遠鏡を使うととても美しい二重星が見えるのです。私はこの星が大好きで、見るたびに感動して望遠鏡から離れる気になりません。
この星を用いた浄瑠璃を書きたいとずっと思っていましたので何とか出来上がってホッとしています。
これを野澤松也師匠にお贈りしますが、はたして曲をつけていただけるものかどうか。いつもと同じような不安を抱いています。
とりあえず、考えていたものはすべてできたということになりました。今年はいささか課題が少なかったのかな?

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わずか4年で 

平成生まれの人が30歳を過ぎて、社会でも重要な役割を果たす時代になりました。もうすぐ21世紀生まれの人がそうなっていきます。昭和の人、20世紀の人は次第に社会の中核から離れて、やがて姿を消すことになります。それはあたりまえのことですが、子ども時代をずっと「昭和」で過ごして来たものとしては、昭和はいつまでも続くような、ありえない錯覚があったのです。子どものころ読んだ漫画に(どういう内容だったのかは全く覚えていないのですが)

    昭和1000年

という言葉が出てきたことがあって、何だかそれがあまり不自然に思えなかったことを思い出します。
明治は1868年、大正は1912年に始まりました。明治100年は1967年で、大正100年は2011年でした。つまり今年は明治154年で、大正110年ということです。「降る雪や明治は遠くなりにけり」は草田男の句ですが、明治100年のときはこの句がよく取り沙汰されました。
文楽の技芸員さんでいうと、明治生まれの方で私が拝聴、拝見したのは鶴澤叶太郎、桐竹亀松、吉田玉五郎さんで、それ以外にも太夫三味線で拝聴した方はいらっしゃったと思うのですが、なにしろ文楽を観始めたころは誰が誰やら知りませんでしたので、どなたの演奏を聴いていたのかわかりません。二代野澤喜左衛門、六代鶴澤寛治、十代竹澤弥七といった方々は聴いていたのかもしれません。
大正生まれの方こそが私が感動した文楽技芸員の中では最長老と言えます。四代竹本越路太夫師が大正2(1913)年、四代竹本津太夫師が大正5年(1916)年、初代吉田玉男師が大正8(1919)年、七代竹本住太夫師が大正13(1924)年のお生まれですから、ご健在ならそれぞれ108歳、105歳、102歳、97歳になられるわけです。何だか信じられないような気持ちになります。
しかしみなさん、私から見たら相当な年長者ですから、それは仕方がないよね、と納得するのですが、よく考えたら昭和だって1926年に始まっているわけですから、あと4年で

    昭和100年がやってくる

のですね。えええ、っていう感じです。
1967年というと明治末年の生まれの方はまだ50代でいらっしゃったわけですから、多くの人がご自分の生まれた元号の100年目を目の当たりにされたわけです。昭和はさらに長かったですから、昭和の末年生まれの人は4年後なんてまだ30代。昭和100年を体験できる昭和生まれはとても多いでしょうね。私も頑張ってその年まで元気でいたいと思っています。

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老眼 

私は老眼鏡というのを使ったことがありません。また、使ってきた眼鏡は近視用で、いわゆる「遠近両用」ではないのです。
眼鏡なんてなかなか買えないのですが、それでもこれまでに4つか5つ買いました。めったに買わないのは、単にお金がないからというだけではなく、普段は持っているだけで、車を運転する時くらいしか使わないというのも大きな理由です。今は車が壊れて運転の機会もなくなりましたから、かろうじて必要なのは今なお持っている運転免許の更新の時くらいでしょうか。最初に買ったのは30代のころで、そのあと、10年に1度くらい(笑)買っています。一番新しいのは数年前に免許の更新があった時、ボロボロになっていた前の眼鏡では危ないかもしれないというので安いものを手に入れたのです。
もともと視力はよくて、勉強もろくにしませんでしたから(笑)ずっと1.5を維持していました。大学院のころは眼鏡をかけている人はそれほど多くなかったので、私は普通だと思っていたのですが、彼らはたいていコンタクトレンズを入れていたのです。しかし世の中がパソコン時代に入って、どうしても少しずつ悪くなっていきました。それでもなぜか老眼とは縁がなく、小さい字を見るのはほとんど苦にならないのです。
以前学生さんから「私たちが提出するものを読むとき、

    虫メガネを使いますか」

と真顔で聞かれたことがあって、驚いたことがあります。「裸眼ですよ」といったら今度は逆に彼女たちが驚いていました。同い年の人がチケットの座席番号が読めないと言って困っているときにそのチケットを覗き込んで「○-▽×番ですよ」と言ったら「読めるの?」と言われたこともありました。やはり人によって違うのだ、とつくづく感じました。
細かい字を見る必要のある店などに老眼鏡が置いてあって

    「ご自由にお使いください」
というのを見たことがありますが、もちろん使ったことはありません。ホームセンターにも安い老眼鏡が売られていますが、いちどあれをかけてみて、どんな風に見えるのかを試してみたいと思わないのでもないのですが、これまた未体験です。
そんなわけで、今もまだ老眼鏡とか遠近両用メガネというのは持っていません。しかし、以前に比べると、さらにものが見えにくくなっていることは事実です。私にとって目は耳の役割も兼ねていると言えます。いずれ白内障にもなるでしょうし、目は大事にしなければならないとしみじみ感じます。

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画中画のクピド 

フェルメールの絵のひとつ『窓辺で手紙を読む女』(ドレスデン国立古典絵画館所蔵)は2005年に兵庫県立美術館に来ました。あの当時はもうかなり絵に興味があったので観たかもしれないのですが、どうも記憶が定かではありません。フェルメールの絵は画集などでしょっちゅう観ますので実物を観たような気になることがあるので、混乱してしまいます。私はこれまでに16作品を観たことは確かで、それは今年の2月23日のこのブログの記事に一覧にしてあります。その中にはこの絵は含めておらず、「まだ観ていない」ものとしています。
この絵は以前から壁にクピド(キューピッド)の絵が描かれて、上塗りされて消されていたことが知られていました(X線透視によって判明していた)。おそらくフェルメールがなんらかの事情で消したのだろう(そういうことはしばしばあります)と言われてきて、私もそう思っていました。カーテンとか窓とかいろいろあってごちゃごちゃすると思ったのかな、とまったくいいかげんなことを考えていたのです。ところが、

    別人

が上塗りしたものであることがわかったそうで、2018年から「塗られた部分の絵の具を落としていく」形の修復が始まりました。それがこのたび終わって、9月からドレスデンで公開されるのだそうです。
画中画はしばしばその絵の意味を決定づけることがあります。フェルメールの『天秤を持つ女』は、背後に見える『最後の審判』の絵が天秤を持って何かの重さを測っている女の行為の意味を暗示するのです。『最後の審判』でしばしば画面中央下に描かれる、魂の公正さを測る大天使ミカエルの位置から抜け出たような形でこの女性は天秤を持っているのです。言い換えると、彼女が立っているためにミカエルが描かれている部分が彼女の姿で覆われています。ミカエルが絵から抜け出して魂の公平さを測っている・・。彼女は、この絵を見ている見物人(たとえば私)の魂が正しいものかどうかを測っているのかもしれないのです。怖いです(笑)。画中画があればこそそういう意味を持つことになります。
フェルメール作品でいうなら、ほかにも『手紙を書く婦人と召使い』には「モーセの発見」が、『ヴァージナルの前に座る若い女性』(ロンドンナショナルギャラリー)には「取り持ち女」が、『ヴァージナルの前に立つ女』には『クピド』が描かれています(ほかにもいろいろあります)。
『取り持ち女』の絵は「卑俗な愛」であるのに対して『クピド』は

    「忠実な愛」

を意味するものです。その絵を画中画に用いたことが窓辺で手紙を読んでいる女性の行為に無関係なはずがありません。この点についての専門家の解説が知りたいものです。
さて、ドレスデンの『窓辺で手紙を読む女』は来年、東京都美術館(1月22日~4月3日)、北海道立近代美術館(4~6月頃)、大阪市立美術館(7月16日~9月25日)で公開されるそうです。修復の模様も紹介されるのではないでしょうか。とても楽しみです。

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させていただきたい 

同じようなことを以前も書いたと思いますが、政治家がしばしば使う言葉に「させていただきます」があります。はっきり「する」と言えばいいものを「私は傲慢な人間ではありません」「私は謙虚なのです」とアピールしたいのだと思います。しかしこういう言葉を使われると、私のようなあまのじゃくはかえって「ほんとは傲慢じゃないの?」と思ってしまいます。
「させていただく」というのは本来「相手の許可を必要とすること」について用います。たとえばSNSで他人の投稿した写真を使いたいという場合などには許可を求める必要がありますから「使わせていただけませんか」という必要があります。
以前「○○法案に賛成させていただきました」といった政治家がいました。「この法案を出させていただきます」と語った総理大臣もいました。こういう場合は「賛成いたしました」「提出いたします」で十分だと思います。

    言葉の無駄遣い

です。
今の総理大臣はうちわではとても傲慢な人だという噂があります。ところが人目に付くところでは「謙虚に受け止めさせていただきます」という言い方をします。自民党の幹事長は傲慢を隠そうともしないので、その意味では正直な人といえそうです(ただし私はこの人をまるで評価しませんし好きでもありません)。
今の総理大臣は何を言っているのかわからない発言があとを絶ちませんが、その一因は自分の言葉で語ることをしないからだと思います。
ところで、自民党の

    総裁選挙

が始まります。何しろこのご時世ですから、選挙なんてやってる場合か、という声もあり、現職の人は「無投票でおらが続けるだよ」というのが願うところだったのではないでしょうか。主な立候補者は現総理大臣と広島の岸田さんという人のようです。その出馬宣言での言い方は、「出馬させていただきたい」(総理大臣)「立候補することを決意した」(岸田氏)という違いがありました。「させていただきたい」って・・・。情けなくて涙が出てきます。

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からかうためのコメント 

このブログでは、コメントをくださった方には失礼なのですが、私が「管理者ページ」というところで承認したものだけを公開しています。といっても、普通のコメントはすべて公開していますが。こういうことをするのは、いわゆるスパムコメントを排除するためです。時によっては毎日10通くらいのスパムが来ます。それは管理者ページですべて削除することにしています。
最近、Facebookを見ていますと、投稿にまったく関係のない「コメント」が入っているようです。私はそういう被害に遭ったことはありませんが、すべてのコメントの返信に詐欺なのか何なのかは知りませんが意味不明のコメントが入って、いちいちそれを削除するのに困っている人がいらっしゃるようです。この方は「まるで

    モグラたたき

のようだ」とおっしゃっていました。消しても消しても現れる、ということでしょう。
かと思うと、「コメントに対するコメント」の形でひどいことを書く人もいるようです。先日は、ある商品の宣伝記事に対して「私はこういうのは買いたくない」と言った人(Aさん)に対して「お金がないの?」とからかうように「返信」している人(Bさん)がいるのを見ました。最初はAさんとBさんが友だちで、ふざけ合っているのかなと思ったのです。ところが、ほかにも商品への不満を書いたコメントがいくつもあったのですが、それらに対してもことごとくと言っていいくらいBさんは「あなた、買うお金がないんでしょ」というふざけたことを書いていたのです。
このBさんというのはいったい普段どういう投稿をしている人なのだろうと思って見に行ったら何も書かれておらず、プロフィルも白紙状態。

    人をからかうため

だけにFacebookのアカウントを作っているのではないかと思うくらいでした。
自分が快感を覚えさえすればいい、自分にも自由に発言する権利がある、という考えで、他人の気持ちを慮れないのだろうと思うのです。中学生くらいならそういうことをしても「子どもだから」と笑って済ませることもできそうですが、実際はいくつくらいの人なのでしょうか。
最悪なのは、自分と異なった意見を持った見知らぬ人に対して、反論を述べるならともかく、悪口雑言で相手をやっつけようとする人でしょう。ああいうのは、自分に自信がないから声を荒らげないと勝てない人なのでしょう。人間、ときには怒鳴ってもいい時があるとは思います。間違ったことを改めない相手に向かってなら、最終的にそういうことも必要かもしれません。しかし単なる悪意で自分を守るために怒鳴る人間ほど弱く見えるものはありません。
もっとも最近はそういう怒鳴り散らすタイプ、えらそうにものを言うタイプの人がおもしろがられる傾向にあるようではありますが。

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お弁当 

給食制度は、子どもの栄養不足を補う目的で公立の小中学校では普及しています。以前書いたことがありますが、私も小中学校でお世話になりました。小学校では悪名高い「脱脂粉乳」の洗礼を受けたことがあります。
高校になって給食がなくなり、生徒は弁当を持って行くか食堂でちょっとしたものを食べるかでした。高校1年生のときは小さな食堂で、麺類くらいしかなかったのではないかと思います(カレーはあったかも)。何しろ

    食べ盛り

ですから、弁当のない連中はうどんなら2杯は食べていました。栄養がどうのこうのなんて言っていられません。とにかくお腹がすくのですから。
2年生か3年生のときに食堂が新しくなってメニューも増え、むしろ弁当ではなく食堂を選ぶ生徒も増えたような気がします。私は親に作ってもらった弁当を欠かさず持って行きました。当時は作ってもらって当たり前だと思っていましたが、今思えば母親も毎日毎日ご苦労様だったと思います。
大学生になると、もう学食専門でした。大学院生になったころには学食が拡張されて、朝食も夕食も食べることができました。
仕事をするようになってからもずっと学食で、学生さんと一緒に食べるのも楽しみでした。
最近、娘が突然

    弁当を作る!

と宣言して、自分の分だけですけれども(笑)、作るようになりました。家事全般ができない人だと思っていましたので、何となくうれしいというか安心したような気になりました。それも、ミートボールとミニトマトを詰めるだけ、というようなものではなく、材料を買ってきてはこまめに手作りをしているのです。今どき、家事のできない女性はダメだ、なんていうのは時代遅れではありますが、彼女も結婚して子どもができたらお弁当作りは必要になる可能性があります。どうかしっかり工夫しておいしいものを作ってほしいです。
そして、これまでなら後片付けもいいかげんにしていたのに、自分の弁当箱はもちろん、食器とか使ったフライパンなどをきれいに洗うようになっているのにもびっくりしました。やはり自分で作ることによって苦労がわかるようになるのでしょうね。ついでに私のも作ってくれるといいのですが(笑)。

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女子の野球 

以前なら「この競技は女性には無理」と言われていたスポーツに次々と挑戦する人が増えました。その最たるものはマラソンでしょう。単純に「女性が42㎞も走れるわけがない」と思われていたはずです。しかし、今や2時間20分を切るタイムで走る人がいるのですから、無理だと思っていた人(私を含む)はびっくりしているでしょう(はい、しています)。
体育という授業は、いつも男女は別でした。さすがに普通の女性は筋肉量がどうしても男性より少ないために、男子に交じって激しい競技をすることはできませんでした。
高校時代、体育の授業で男子がラグビーやサッカーをしているとき、女子は体育館でダンスのようなことをしていたようです。強烈な化粧をした(「名誉革命」=1688年に起こった革命=というあだ名がついていました)おば(あ)さん教諭がいたのですが、きっと彼女が担当していたのだと思います(もちろんほかの教師もいましたが)。当時の私にはおばあさんにしか見えなかったのですが、いくつくらいだったのか、よくわかりません。
女子の球技というと

    バレーボール

が主なもので、それも激しいスパイクとか飛び込んでレシーブするとか、そういうのではなかったと思います。
ところが、このところ、これまでは男子の競技とされていたものに次々に女子が参加してきました。サッカーは一時大ブームを巻き起こしました。まさかと思っていたラグビーも盛んになってきました。私の家の近所の河川敷ではラグビーやサッカーの子どもチームがよく練習しているのですが、女の子と姿がちらちら見えます。
野球に関しては、以前は「男子は野球で女子はソフトボール」という固定観念がありました。そしてバッターが打ちやすいようなボールをアンダースローでこわごわ投げ、バッターは必死に当てるだけ、という姿をよく見ました。しかし一流の女子ソフトボールのピッチャーは時速100㎞以上のボールを投げるそうで、これは普通の男性が野球のボールを目いっぱい早く投げたときのスピードに匹敵します。アンダースローでこのスピードですから、あの人たちが野球のボールを投げたらどれほどのスピードボールを投げるのでしょうか。
最近は、ソフトではなく野球そのものを楽しむ女性が増えてきているようです。これまでなら「カープ女子(広島カープのファン)」「オリ姫(オリックスのファン)」のように応援団として興味を持つ人が注目されていましたが、なんと硬式のボールで実際にプレイするようになっています。
8月に、

 「全国高校女子硬式野球選手権大会」

がありました。最近始まった大会なのだろうと思っていたら、なんと第25回だそうです。準決勝までは兵庫県篠山市で行われていたらしく、男子の甲子園に比べると影の薄い存在なのです。ところが今年の決勝戦は甲子園で開催されたそうです。女子スポーツがどんどん認知されていることの証だろうと思います。
私は残念ながら観ることはできなかったのですが、見事な試合だったとSNSなどで話題になっていました。男子の高校野球はテレビ放送がありますが、こちらはニュースでわずかに紹介される程度(ネット中継はされたそうです)。もしテレビ放送があれば私も観たと思うのですが。主催は朝日新聞社でしたが、今後はせめて決勝戦だけでもテレビで生放送すべきだと思います。甲子園が使えるということは、男子が使っていない時間帯なのですから、テレビもその時間は余裕があるはずです。民放が「視聴率がとれない」とでもいうなら、せめてNHKが放送してどれくらい観てくれるのか調べてほしいくらいです。
高校の女子の体育の時間も、さすがにアスリート並みのことはできないでしょうが、今後はこれまでとは違った種目も授業内容に含まれるようになるのではないかと思えてなりません。

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不徳の致すところ 

政治家には決まり文句があります。「もし誤解を与えたのであればお詫びする」なんて、世間では通用しない言葉の代表のようなものではないでしょうか。「詫びる理由はないけれども、もし私の言っているまともなことを誤解して不愉快に思う人がいるのであればごめんなさい」とでも解釈できそうな言いぐさです。しかもふてくされた表情でそれを言うのですから、心から詫びていないことは明らかです。ところが当の本人は「詫びたからもういいだろう」と意に介さないのです。
「じゃあ、聞いた方が誤解しているのであって、自分の言ったことは間違っていないと思ってるんですね」と突っ込みを入れる新聞記者がいてくれればいいのですが、それは無理なのでしょうね。
「遺憾に思う」というのもよくわからない言い方です。外交のレベルでも使われている言葉のようですが、奥歯にものの挟まったような感じがします。「遺憾」というのは、「物事が思うように進まなくて残念に思う気持ち」というのが本来の意味ですが、どうもそういうニュアンスではないように思えます。「遺憾に思う」というのは相当古くから使われていたようで、青島幸男さんが作詞(作曲は萩原哲晶さん)してクレージーキャッツが歌った歌に

    遺憾に存じます

というのがありました。「学生時代は優等生」だったのに、「今じゃしがねぇサラリーマン」になって、「こらまたどういうわけだ、世の中間違っとるよ、誠に遺憾に存じます」と結ばれる歌です。1965年の歌だそうで、当時からこういう言い方を政治家がしたのでそれをパロディにしたのでしょうね。後に青島さんは政治家になりましたが、このフレーズはさすがに使えなかったでしょうね。
選挙に負けると必ず使う言葉に「不徳の致すところ」があります。「周囲のみんなは頑張ってくれたのに、自分の責任で失敗(落選)してしまった」という意味ですね。なかなか謙虚な態度です。内心では何を考えているのかは知りませんが。「不徳」は「徳がないこと」というほどの意味でしょう。つまり「自分に徳がなかったことがこういう結果を導いた」ということで、「いたす」は

  「(あるできごとを)引き起こす」

というほどの意味です。
八月の終わりに大阪府の某市でおこなわれた市長選挙がありました。この選挙は、前の市長がさまざまな問題を起こしたというので辞職に追い込まれたために実施されたものでした。何を思ったのか、その人物がまた立候補したのですが、さすがに最下位で落選していました。
実は、この人は問題を起こした時の発言を知った時に、どういう言葉だったか忘れたのですが、妙な言葉遣いをしていたことがあるのです。しかし今回は「不徳の致すところ」という政治家言葉を使ってつつがなく敗戦の弁を語った・・かと思ったのですが、何と彼は「不徳の致すところが多かった」と言ったそうです。「この結果は私の不徳がもたらしたものが多かった」ということになって、何だかわからない言葉でした。言わんとするところはわからなくはないのですけどねぇ・・。
この人に限らず、最近の政治家はどうも言葉遣いが不正確で、それは当人の考え方がきちんとしていないからなのではないかと思えてなりません。
そういえば、与党の幹事長が、もともと自分の党から立候補した議員(離党したあと辞職)の買収問題について「他山の石として対応しなくてはならない」といって「よそごとのように言うな」と批判されていました。この幹事長は「これくらいの表現は許される」と自分で合格点をつけていましたが。
政治家だけではありません。私も他山の石といたします。

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どうして正直に言わないの? 

自民党の総裁選挙は、もうすぐ告示されるそうです。
現総裁は「立候補するのは当然」と言って、人事を断行したうえで選挙に臨むというあり得ない手を打とうとして挫折し、不戦敗の覚悟を決めました。
あの人が逃げるだろうとは十分に予想されたことで、そう書かれている新聞もありましたし、私もそう思っていました。
総理大臣としての支持率がどんどん下がってきて、8月の世論調査ではすべてのメディアの調査をまとめてみると、30%をわずかに切ったところでしょうか。とても衆議院議員選挙に臨める状況ではなく、追い込まれての退陣のようです。
私はここで選挙の展望などを書く力はありませんし、そんなつもりもありません。
私がとても気になったのが、退陣理由でした。曰く、

    コロナ対策に全力を尽くすため

だそうです。
しらじらしいと思います。選挙運動とウイルス対策は両立できないから、天秤にかけて「国民のために選挙にはでない」とのことでした。こんな幼稚な、夢想のようなきれいごと、誰に教わったのでしょうか。こんなことを言いそうなのは若い環境大臣くらいしか私は思いつきませんが、いくらなんでも彼に教わったわけではないでしょうね。
国民のためだとほんとうに思うなら、選挙運動をおろそかにしてでも、仕事をし続ければいいのです。それが最高の選挙運動になるからです。
最後まで、言葉の重みを大事にせず、中味のないことを言って終わった、と感じました。
せめて「自分の力及ばずウイルス対策に成果を上げられなかったため、党員から評価を得るのは困難だと思うに至った」とでも言うべきだと思います。
もっと端的に言うと

    総裁選に勝てる見込みがない

と判断したから辞める、ということでしょう。
権力者というのはどうしてこんなに自分を美化しなければ気が済まないのでしょうか。アフガン撤退に際してのアメリカの大統領も同じように感じました。
つい最近、もっと身近なところで同じようなことがありました。
私が長年実施してきたもののウイルスのために延期になっていた一般の方向けの講座が中止になる、という連絡がありました。理由は「ウイルス蔓延」だそうです。
それは正しい判断だ、と思われるかもしれません。私もこれまではそう思って延期もやむなしと考えていました。ところが、その連絡をもらった日、学校には子供向けプログラムとかで、子どもと学外の外国人を三百人ばかり集めていたのです。今や感染は講座に来られる高齢者より子どもに多いのに、これでは言行不一致ではないかとと抗議しました。
正直に「稼げるプログラムは実施、そうでないのは中止」と言えばいいのに。
建前ばかりで中味がない言い方に腹を立ててしまいました。

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2021年9月文楽東京公演初日 

文楽東京公演が初日を迎えます。緊急事態宣言下の公演、心配は尽きません。

演目は
第一部(10時45分開演)
寿式三番叟
双蝶々曲輪日記 (難波裏喧嘩、八幡里引窓)
第二部(14時15分開演)
卅三間堂棟由来 (平太郎住家より木遣音頭)
日高川入相花王 (渡し場)
第三部(17時15分開演)
伊賀越道中双六 (沼津、伏見北国屋、伊賀上野敵討)
です。
どの作品も中味が中途半端になってしまうのはやむをえないでしょうね。
ともかくも千秋楽までの無事をお祈りします。

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木の実 

秋が近づくと、木々は実をつけ始めます。今年は8月上旬から中旬にかけては秋のような気温でしたので、いささかあわてた木もあったようで、早いうちに実をつけるのを見ました。
私は木の種類もよく知りませんので、いちいち「あれは何の実」と指摘することはできません。「赤っぽい実」「ずいぶん小さい実」というレベルです(笑)。かろうじて分かったのが、近所の家にある

    ヤマボウシ

でした。赤くてデコボコしていますので、一見毒でもあるのではないかとたじろぎそうになるのですが、実際は無毒どころかとても甘いのだそうです。
木から落ちるころがおいしいという話もあるのですが、何しろ他人の家の実ですから、常に監視して落ちそうなところをさっと受けて持って帰るというわけにはいかないので残念です。
家に帰ると、親が植えたものなのでしょう、ゆずの木があります。「桃栗三年柿八年柚の大馬鹿十八年」ともいわれるように、成長まで時間がかかるのだそうですが、家にあるものはもう一人前で毎年実をつけています。この時期はまだ

    緑色の実

ですが、やがて黄色になって熟していきます。この実は、いつもほったらかしにしていまして、地面に落ちてつぶれてしまうか、せいぜい冬至に柚子湯を焚くときに使うくらいのものです。いつも「もったいないな」と思うのですが、面倒くさくて放置しています。
まさか私が柚子入りパウンドケーキなんて作れるわけもありませんので、今年はせめて鍋物につかったりしようかな、と思っていました。
そんなとき、何かの拍子に

    ゆず酒

という文字が目に入り、これもいいかも、と思うようになりました。梅酒の実績はありますので、道具は揃っています。梅酒の残りの氷砂糖もあります。ホワイトリカーさえあればOK。
晩秋のころ、忘れていなければ挑戦してみようかな、と思っています。

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ワンバウンド 

高校野球というのはほとんど観ないのです。
そもそも私の高校はごく普通の公立高校で、野球部は1回戦か1回戦でくじ運が良くてさらに弱いチームに当たったときでもせいぜい2回戦どまりが常でした。私が高校の非常勤講師をしていた時、そこも公立でしたが、なかなか強い時期があり、秋の県大会でベスト8までいったことがあったはずです。あと2つ勝てば決勝戦で、それに負けても春の選抜に選ばれる可能性があったため、盛り上がったことがありました。しかし結局ベスト4には残れず、夢は断たれたのですが。
それ以後もどういうわけか関心が薄く、近くの球場でやっているのにめったに見物にも行きませんでした。ただ、以前は外野席が無料でしたので、他の用があって近くまで行ったときなど、ふらっと立ち寄って、30分ほど見物して帰る、ということはあったのですが。
というわけで、テレビ観戦もめったにせず、今年の夏もわずかに1度だけ30分ほど観た程度でした。
そのときに、あらためて高校野球はプロ野球とは似て非なるものだと感じました。何と言っても選手の動きが早く、投球間隔も短く、抗議もなく、2時間あれば終わる試合が多いのです。プロであれば、今や2時間半だと早い方で、3時間を超えるのも珍しくありません。実はこれを書いているのは8月23日なのですが、この日の朝刊によれば、高校野球の試合時間は1時間48分、1時間59分、2時間1分、2時間29分で、平均すると

    2時間4分

です。一方、プロ野球は2時間16分、2時間54分、3時間8分、3時間16分、3時間23分で、平均すると2時間59分でした。1試合、異常に早く終わっている試合がありますので、それを除く平均は3時間10分ほどです。
しかし、変化球の多さには驚きます。直球、カーブ、シュート、スライダー、せいぜいフォーク、という時代ではないのですね。スライダーも以前のように横滑りするようなものではなく、縦に割れるようなものもあります。そんなこともあって、投球がワンバウンドすることが少なくありません。
これがプロ野球ならワンバウンドするたびにボールを交換し、打球が飛ぶごとに交換し、イニングがかわるごとに交換します。しかし高校野球にはそれがありません。ワンバウンドしてボールに土がついたら、キャッチャーは

    ユニフォームで拭き取って

ピッチャーに返します。内野ゴロでもヒットでも土がつきますが、それも同じようにピッチャーに返されて、野手かピッチャーがきれいに拭ってそのまま使います。練習のときには黒っぽくなったボールを使うのがあたりまえですから、高校生は多少の汚れは当たり前だと思っているでしょうけどね。
昔のプロ野球も同じようにしていたのですが、今は変化球全盛で、土がついたら変化のしかたがかわるというので交換することになっているようです。それにしても1試合でどれくらいのボールを使うのでしょうか。両チーム合わせて54のアウトを取って試合は終わりますが、1アウトを取るのに3球ずつ使うとすると162個必要になります。ヒットもファウルも打ちますから、実際はもっと多いかもしれません。もちろん廃棄するわけではありませんが、なんだかもったいないなと思ってしまいます。
私がテレビを観た日は、雨は降らず、気温は28度くらい。とてもいい気候だったと思います。

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大谷選手はすごい 

オリンピックの期間もアメリカの大リーグは我関せずとばかりにリーグ戦をおこなっていました。ネット上で、どなたかが「大リーグはオリンピックに参加すべきだ」とおっしゃっていたのですが、私は反対で、彼らにとってオリンピックが価値のないものなのであれば出場なんてしなくていいという考えです。アメリカチームはせいぜい3Aクラスの選手だったと思いますが、それでも日本の精鋭のチームと互角に戦っていたのはさすがでした。
日本人がメジャーに行ったというと、古くは村上投手がいましたが、やはり本格的な活躍をしたのは野茂さんだったでしょう。それ以後、投手では黒田、ダルビッシュ、田中ら、野手ではイチロー、松井らが活躍しました。中でもイチロー選手はメジャーだけで

    3000本以上

のヒットを打つという偉業を成し遂げました。内野安打が多いなどと悪口も言われましたが、やはりたいしたものでした。
しかし今やそれらの選手をはるかに凌駕するような人物が現れました。もちろんあの大谷選手のことです。からだはメジャー選手に勝るとも劣らないほど大きいし、投手としてはパワーも技もあり、野手としてはホームラン打者に成長してしかも盗塁もできるという多才ぶりです。しかもまだどう考えても発展途上の選手だと思うだけに末恐ろしくさえ感じます。
私は、彼がアメリカに行ったとき、160km/hを超える投球は通用するとしても、あちらの投手に対応するには相当課題があるだろうと思ったものですから、打者としては一流にはなれないと思っていたのです。ですから、

    投手に専念

して、ナショナルリーグ(指名打者制ではない)のチームに入って、投打で出場できるくらいで我慢する方がいいと思っていたのです。しかし、所詮はしろうと考えで、大きな誤りでした。アメリカンリーグのエンゼルズに入ったうえ、いわゆる「二刀流」を続け、今年に関して言えばむしろ打者としての活躍の方が目立ったくらいですから。
イチロー選手がどちらかというと不愛想なまでに表情を出さなかったのに対して、大谷選手は明るさも感じられ、また笑顔の「かわいさ」もあるからでしょうか、アメリカでの人気はかなりのもののようです。
こうなると、来年以降彼はどれくらいの報酬を得るのか、他人のフトコロながら気になります。私が1000年くらいかかって稼ぐお金を1年で手に入れてしまうのだろうな、と思うと、うらやましいやらあほらしいやら(笑)。しかしますますいい成績を上げてほしいと応援しています。

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