読んだのかな?
6年間短歌の雑誌に連載して参りました「源氏物語」に関する・・エッセイとは違うし、研究ではないし・・雑文もずいぶんたまってきました。もちろんこんなのはこれ以上どこにも発表することはないのですが、珍しいことに娘が「読んでみようかな」と言いました。そこで、読みやすいようにと少し編集、加筆して見せてやろうと思ったのです。
一体どれくらい書いてきたのだろうと思ってデータを引っ張り出してみると、10万字くらいになっていました。原稿用紙250枚分くらいです。これをひとつの本のようにするために整理したのですが、手元にあった中公新書が43字×16行でしたから、それに合わせてみました。これで170ページくらいでしたから、図とか写真を入れると薄めの本1冊分くらいでしょうか。
で、早速その形でプリントしたのですが、紙がコピー用紙ですので、少し厚めなのか、170ページにすると
ホッチキス
でとめるには分厚すぎます。というと、「ホッチキスでとめるのかい!」と首を傾げられる方もいらっしゃるでしょう。製本機があればいいのですが、そんなものは手元にありませんし、お金を使ってまで作るほどのものでもありません。
そこで半分ずつ2冊にして、それぞれ80数ページの内容と、数ページを使った登場人物の簡易系図を載せて、大きなホッチキスを使うとなかなかいい具合の厚みになりました。ただ、こんな手作業では手間がかかりますので、2冊を作るのは大変でしたが。表紙はかつて学生さんと文楽人形の小道具を作る材料にした色画用紙が残っていましたので、それを使いました。
こんな前時代的な作り方ですけれども、それでも昔に比べるとずいぶんきれいなものができるようになりました。
取り柄があるとすれば
世界で一冊だけの本(笑)
ということくらいでしょうか。
いざ作ってみると、もう1冊ずつ作っておこうかな、という気がしてきました(笑)。この「もう1冊」は何に使うかというと、今後の連載のための資料なのです。以前書いた内容と重複しないように調べたいときに、雑誌の形だとどこに書いていたかなんて忘れてしまいますから。さらに索引をつけると便利だろうと思うのですが、だんだん面倒になってきました(笑)。
ところで、うちの娘は読んでくれたのでしょうか。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/28 00:00]
- 平安王朝 和歌 |
- トラックバック(0) |
- コメント(4)
- この記事のURL |
- TOP ▲
祝日がわからない
2月11日に家にいたら、夕刊がないので「あれ?」と思いました。日曜じゃないよね、こんな時に祝日もないし、天皇誕生日はもう少し先だし・・、と思っていたらなんと祝日でした。
いわく「建国記念日」!
「建国」なんていうと、大国に占領されてそこから独立したとか、未開の地を切り開いて国家をうち建てたのかと思ってしまい、日本の場合は何だか違うな、と感じます。
あくまで個人的な感想ですが、あまたある祝日には、時には首をかしげたくなるものがあります。特に、昭和の日と並んで不思議なのがこの日です。なにしろ、神話の世界の日付を無理やりこじつけているのですから。
これまでにもここで書いたと思うのですが、私は昭和の日はなくすべきだと思っています。文化の日は11月1日の
古典の日
に移すべきだと思っています。4月29日と11月3日は早い話がどちらも過去の天皇の誕生日(昭和と明治))です。それを未練がましく祝日にこじつけるのはいかがなものでしょうか。天皇の誕生日を祝うのは今上だけにすべきだと思います。私に言わせると、昭和の日なんていうのは単なる昭和生まれのノスタルジー。あるいは自分たちが生まれた元号だから大事にしたいというエゴ。あるいはゴールデンウィークを残すための言い訳。前天皇(現上皇)の誕生日(12月23日)なんて、昭和生まれの政治家たちはあっさり平日にしても平気です。どうしても「激動の昭和」を省みたいのであれば8月15日にすべきだと思います。今さら4月29日に何を祝えというのでしょうか。
「建国記念日」にも同じような気持ちを持ちます。祝うものがありません。「神武天皇、ありがとう」と『古事記』に向かって言うのでしょうか。若い人たちに説明のつかない、もっというなら誤解される「祝日」です。天皇制を祝うのであれば(それはそれで意味がないとは言いません)その時代の天皇誕生日だけを祝えばいいのです。そもそも今の天皇の先祖を問題にするなら、せいぜい継体天皇あたりまでしか遡れないでしょう。神武天皇って・・。
それやこれやで何を祝えばいいかわからないので、「今日は祝日だったのか。で、何の日?」というような気持ちになるのだと思います。
どうしても2月11日を、というのであれば
神話の日
くらいでどうでしょうか。それぞれの民族はたいてい神話を持っています。自分たちがどこから来て、なぜここで同じ言葉を話しながら一緒に暮らしているのか、そういうことを(科学的にではないにせよ)解き明かす神話は価値のあるものだと思います。しかし、「神話の日」にするにしても、2月11日はやはりおかしいでしょうね。『古事記』ができた日とか、太安万侶の命日とか、そのあたりにしたほうが穏当かもしれません。
日本人は信教の自由というのがあるために、国民宗教を持たない(少なくとも政府がそれを認めることはできない)といえるでしょう。もしそれがあれば、例えば仏教なら釈迦の誕生日とか入滅の日とか、仏教伝来の日などが祝日にできると思うのですが。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/27 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(2)
- この記事のURL |
- TOP ▲
そうすけくんの短歌
新聞にはたいてい「短歌」「俳句」が週に1度掲載されます。一般から募って著名な選者が選ぶものです。
これも以前書いたと思うのですが、私は学生の頃から短歌に関心があって、当時購読していた毎日新聞の「毎日歌壇」に毎週のように応募していた時期があります。20代前半のことです。当時の選者は高安国世氏、窪田章一郎氏らでした。私はこのお二人によく選んでもらい、特に高安氏には20回くらい選んでもらったと思います。
大学院の学生の頃だったのですが、こんなのはめったに人目に付くものではないと思っていたので、わりあいに遠慮なく、知り合いに読まれたら恥ずかしいようなことであっても自分をさらけ出した歌を詠んでいました。当時高校の非常勤講師をしていたのですが、女子高生から呼び止められて、新聞をさっと出されたことがあります。まじめなおとなしい生徒さんでしたが、彼女は開口一番、
「これ、先生ですか?」
びっくりしたのなんの。いささか赤面するようなことを詠んだものでしたので、「あ、ははは」とごまかしたのですが、もちろん彼女は「やっぱり」と気づきますよね。きっとそのあと、クラスでその新聞をみんなに見せて笑われたのだろうなと思います。ほかにも大学の後輩から同じようなことをされたことがあり、短歌蘭なんて若者でも読む人がいるんだ、と認識を改めたのでした。
今、あの馬場あき子さんも選者をなさっている朝日新聞の短歌蘭には有名な小学生がいます。おかあさんが、短歌がお好きなようで、その娘さんと息子さんにも勧められたのでしょう、三人そろって選ばれることもあるくらいの「短歌ファミリー」です。お母さんの歌はフレッシュでありながら本格的な魅力があり、すでに朝日歌壇賞も受けられました。おねえちゃんと弟さんもいかにも小学生らしく、
学校での出来事
などをいい切り口で詠まれるのです。
先日、朝日新聞1面の鷲田清一氏の「折々のことば」の欄で、この弟さんの「やまぞえそうすけ」くんの歌が取り上げられていました。
ふうせんが九つとんでいきました
ひきざんはいつもちょっとかなしい
「ふうせんが十こありました。でも九つとんでいきました。あとにはいくつのこったでしょうか」とでもいうようなそっけない算数の問題なのに、「そうすけ」くんはそこに寂しさを覚えました。日常のささやかな出来事にも心が敏感に反応するのは歌人、もう少し広げて言うと詩人の感性です。もちろん「ちょっと」なのです。泣くほどではないのです。心の中にほんのわずかに穴があいたようなちょっとした寂しさがあるのです。それを彼は歌にしました。実にすばらしい。
その「ふうせん」は、「ふうせん」としての実体だけでなく、人が、たとえば「そうすけ」くんが心の中に大事に納めていたものと同じで、何かのはずみで消えていくことがあるのです。といっても、一瞬で割れてしまうのではありません。目には見えたまま少しずつ遠ざかっていくのです。でもそれは大空に向かって離れていくために、けっして戻ってはこないし、
手も届かない
のです。そこに「ちょっとしたかなしさ」があるのだと思います。
今年94歳になられる馬場あき子さんと、新年度から3年生になると思われる、つまり今年おそらく9歳になる「そうすけ」くん。80年以上の年齢差がありますが、どちらも短歌の担い手です。
「そうすけ」くんはこの繊細な心を大切にして、どんどん言葉を覚えて行ってほしいものです。言葉を知り、磨くことがどんなに人を豊かにするものかを自ら知って、人にも訴えられるようになってほしいと願います。
「そうすけ」くんのすばらしさに心打たれるとともに、おかあさんがとても大切なことをお子さんにお教えになったものだと感心します。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/26 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
人間の尊厳
Facebookの「友だち」の方からうかがったのですが、歌人の馬場あき子さんが毎日新聞2月9日付のインタビュー記事でこんなことをおっしゃっていたのだそうです。
★今の世の中は、法律で決まれば
「仕方ない」と黙って従い、面
倒を避けて誰かに黙ってついて
いく風潮が見られる
★人間の尊厳が失われつつある
★人を卑しめず、その人のいいと
ころ、その人が何を考えている
かを大事にしなきゃだめだね
まったくそのとおりだと思います。
そのきわめてわかりやすい例が、近畿財務局にお勤めだった赤木さんという方の奥さんに対する政府の仕打ちでしょう。自分たちの
間違いを認めない
ためなら何でもするのが浅はかな権力者のすることです。これは私の周りにもいますのでよくわかります。
赤木さん(奥様)が真実を知りたいと裁判を起こしたら、お金だけ払って「これで法律的には何の問題もない」と言い張る。何ともみっともないことをしています。今は権力で抑えつけていても、必ず歴史がその愚行を指弾することでしょう。多分このブログで何度も言っていると思いますが、権力を持つ側が「法律的に問題ない」と言い出したらたいていそれは彼らがブラックな時です。ブラック企業と呼ばれるところと同じなのです。そしてさらにひどいことには、苦しい思いをしている人をこそ黙らせようとするのです。馬場さんのおっしゃる「人間の尊厳」を踏みにじるようなものだと思います。「コンプライアンス」と「法の横暴」は違うものです。法はむしろ弱い人を守るためのものです。この人たちはほんとうに法学部で学んだのだろうか、あるいは法学部ではこんなことを教えているのだろうかと首をかしげます。
政府のあのやり方を考え付いたのは、
「有能な」
役人だったのかもしれません。そういう「自分たちにとって都合のいいアイデア」を出すことで政治家の寵愛が増すとでも思っているのでしょうか。しかし、考え付いたのが誰でも、決めたのは政治家でしょう。私は面と向かってそういう人たちに「法」と「人の尊厳」とどちらが為政者にとって大事なのか、と尋ねてみたいものです。しらッとした顔をして「法だ」と言おうものなら横っ面のひとつも張り飛ばしたいくらいです(彼らの大好きな法によって暴行の現行犯で逮捕されますが)。儒教の哲人が述べた「仁義礼智」はなぜこの順番なのかを知らねばなりません。
歌人というと「のんきに花鳥風月を愛でている人」と思っている人がいるのですが、とんでもない。ほんものの歌人はしっかり勉強し、社会を見つめ、自らを磨き、言葉を尽くして言うべきことを言うのです。昭和の初めにお生まれになった馬場さんですが、今なお矍鑠として短歌や能についての講演をなさったりしています。これからも、戦争を知る世代としてもっともっと発言していただきたいものです。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/25 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
銀行に行って
お金がどんどんなくなっていきますので、せっかく貯めたものですが、長期の預金を下ろす必要が出てきます。なんだかちょっと残念なのですが、いつまでもそんなものを抱えていることもあるまいと思って、あっさり解約しようと銀行に行ってきました。
銀行はほんとうに様変わりして、対応窓口は2つだけ。ATMの方は機械が7つくらいあってそれでもお客さんであふれているのに、こちらは用のある人はわずかでした。窓口の2人と案内係の2人はいらっしゃるのですが、ほかの職員さんはどこに行ってしまったのか(衝立の向こうなのでしょうけれど)客の目からは見えないのです。ただ、時間のかかる人とか何らかの理由のある人は別のコーナーがいくつかありますのでそこに案内されます。
私が「えーと、
どこへ行けばいいのかな」
と見渡していたら、案内係の人がやってきて用件を聞かれました。
いくつか聞かれたことに答えて待っていると、くだんの「別のコーナー」に案内されました。案内係の人が「簡単に処理できますから」というので私は3分もあれば帰れるかな、と思っていたのです。職員さんが示すタブレットの該当するところをタップしていきます。しかし、印鑑も保険証も移してもらう普通預金のカードも出して待機しているのに、なかなか進みません。「通帳はお使いですか」「いえ、使いません」「でも使っていることになっていますからウェブにしておきましょうか」「そうしてください」などと話が別の方にも行きました。すると職員さんが
「もう一つ口座をお持ちですね」
と意外なことを言い出しました。「ああ、それなら、この銀行が合併した時に、その両方の銀行の口座を持っていたのでそれがのこっていたのですね」「両方お使いですか」「いや、もうひとつの方はほとんど使っていません」「ではひとつにおまとめになりますか」「そうしてください」・・というわけで、私は思いがけず別口座を持っていたことに気づかされたのです。
ではどれくらい入っているのかというと・・・。0円でした(笑)。
要するに、もうひとつにまとめてしまおうというわけでその口座のお金を全部を下ろしたまま、口座だけが残っていたというのが実際のところだったのです。
残念!!
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/24 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
羽生さんと藤井さん
私は、将棋はまったくわかりません。新聞に棋譜が載っていても、どちらがどのように有利なのか理解できません。おもしろい人にとってはほんとうにおもしろいものなのだろう、と傍観しているだけです。家に将棋盤はありませんし、最近流行のAIとの対戦なんてまるで興味がないのです。
今を時めく棋士といえば藤井聡太さんでしょう。十代でさまざまなタイトルを取って、どこまで強くなるのかわからないような逸材だろうと思います。まだB級にいるので名人戦には挑戦できませんが、新年度になればA級への昇格が有望視されていて、いよいよ最高峰の「名人」の地位にも近づいているといえるでしょう。
飛ぶ鳥を落とす勢い
という言葉がありますが、まさに今の彼にふさわしいものではないでしょうか。藤井さんはどこかとぼけたような表情をしていますが、先を読み通す力は今は日本一なのでしょうか。
その若手の活躍の蔭で、羽生善治さんがA級から陥落するというニュースがありました。もし藤井さんがA級に昇格すれば、この上なく象徴的な交代劇になるのではないでしょうか。
やはり十代の頃から注目されて数々のタイトルを取り、記録を塗り替えてきた羽生さんですが、やはりこういう日が来るのだ、という感慨があります。昇る陽はやがて沈みます。
一般社会でいうといよいよ脂がのってくる頃といえそうな
50歳
を過ぎて、勝てなくなった羽生さんを見ていると、やはり将棋の厳しさがひしひしと感じられます。
スポーツ選手ならもっと早く終わりが来ますが、将棋盤に向かって沈思する将棋の世界も体力も必要で、経験だけでは勝てないのですね。羽生さんはA級復帰を目指してB級1組で戦うのか、あるいは森内俊之さんのように順位戦を出てフリークラスに行くのか、どうされるのでしょうか。
藤井さんもいつの日かそういう日が来るのでしょうが、それまではどうか鍛錬して羽生さんの記録を塗り替えるつもりで頑張っていただきたいと思います。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/23 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
2022年2月文楽東京公演千秋楽
綱渡りのようだった文楽の東京公演が千秋楽を迎えます。
技芸員の皆様お疲れさまでした。
今や東京や大阪にいれば感染するなんて何も珍しいことではなく、無症状感染者がそのあたりを普通に歩いているというのは間違いないでしょう。
そんな状況の中で、おそらくあまりお客さんも入らないままに上演され、ほんとうに大変だっただろうと思います。
吉田文司さんがずっとご病気だったそうですが、いささか気になりました。
次の本公演は大阪で、春たけなわにおこなわれます。その時期は何ごともありませんように。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/22 00:00]
- 文楽 浄瑠璃 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
佐渡金山
日本政府は佐渡金山の世界遺産登録に向けて推薦することを決めました。
かつては黄金の国ジパングとまで言われたそうですが、その金を産出した代表的な金山が佐渡でした。
私の佐渡に対する一番のイメージは、むしろ能舞台です。金には縁がない(笑)こともあるかもしれませんが、佐渡に行くなら何よりも能舞台を訪ねたいと思うのです。ほかにも文弥やのろまなどの人形芝居、あるいは鬼太鼓(おんでこ)などの芸能の盛んなところです。
しかし、今でも佐渡=金山というイメージは強いもので、観光地としてもそれを前面に押し出して金山の様子が人形を用いて展示され、金の採掘体験もできるようになっています。これが世界文化遺産に登録されれば、島民の方々の誇りにもなるでしょうが、何よりももっと多くの観光客を誘致できるという思わくもあるのだろうと思います。
日本海に浮かぶ佐渡島は淡路、四国、九州、本州、対馬、壱岐、隠岐とともに大八島のひとつで、古くから知られていた島です。
しかし、やがては
流罪の地
となり、承久の乱では順徳院が、室町時代には世阿弥が流されました。日蓮も一時佐渡送りになりました。そして江戸時代にもその歴史は続きました。
鎌倉時代から戦国時代までは本間氏が中心となって支配しており、能舞台も本間家能舞台などいろいろあります。私も以前教え子に本間さんという人がいたのですが、彼女は佐渡から来た人でした。いかにもお嬢様っぽい人で、どういう家柄なのかもっと詳しく聴いておけばよかったと思います。
昔の鉱山は人力でコツコツと掘っていくわけですから、大変な重労働で、しかも日の当たらないところでの作業ですから精神的にもあまり健全な仕事ではなかっただろうと想像されます。それだけに罪人の作業場になって、彼らは過酷な肉体労働を強いられたのだろうと思います。
近代になって、朝鮮半島の人たちが強制労働という形でこういう作業に従事することがありました。それはすでに世界遺産になっている
端島(軍艦島)
での石炭採掘でも同じことです。
この点について韓国から、強制労働の歴史がある佐渡金山を世界遺産にするのはおかしい、というクレーム(端島のときもありました)がついています。
たしかに、外国人というだけで人を人とも思わぬ振る舞いをした時代があったことは認めるべきだと思います。さらに言うなら、江戸時代の罪人だって人ですから、今思えば人権を蹂躙しているような労働をさせたのはおかしいと思います。そういう人たちの苦しみを踏まえたうえでなければ、手放しですばらしい文化遺産だというのはいかがなものかと思います。しかし、ピラミッドだって、始皇帝の墓だって、日本の古墳だって、権力者の都合で「たかが墓」に無理な労働を課された人たちがあったのは間違いないと思います。
文化遺産となる建造物は時として悲惨で
過酷な背景
を持つものがあると言えるでしょう。
この世界遺産登録に関しては、韓国からのクレームを重視して、このままでは登録できないかもしれないという危惧もあって、政府は見送る考えを示していたようです。ところが、一転して推薦を決めたというのでびっくりしました。今の総理大臣はよくも悪しくも「一転する」人ですから、驚くほどではないのかもしれませんが、どうも背景に政治的な思わくが絡んでいるようなのが気にかかります。こういう話になるとにわかにゴチャゴチャ言ってくる特定の議員がいるということです。
政府はとりあえず推薦して、イコモスが「登録」の勧告を出さなかったらひっこめればいい、という考え方なのでしょうか。政治家の極めて政治的な思わくだけでこういうことまで動くというのが、仮に登録された場合でもきっと後味の悪さとして残るだろうな、と思います。
私はもともと「負の側面」も踏まえたうえで登録されるだろうと思っていたのですが、さてどうなりますやら。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/21 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
硬貨はダメ
銀行に預金するとき、今や窓口ではなくATMを利用するのがあたりまえになっています。私も銀行の窓口に行ったのはお金がなくなって(泣)なけなしの定期預金を解約しに行ったときが最後です。
昨今銀行はなかなか経営が大変みたいで、どんどん利用者へのサービスが悪くなってきています。何と言っても利息なんてあってないようなもので、いつぞやこのブログで元銀行員という方から「今後はお金を払って財産を預かってもらうところ」に変わっていくかもしれないというお話さえ伺いました。利息は払わない一方で、休業日にATMを使ったら手数料をがっぽり取られてしまいます。銀行には
お金を貸している
はずなのですが、貸しているのになぜこちらが損しなければならないのか不思議で仕方ありません。
今や通帳というのもWebになっていて、銀行によっては、紙の通帳を使う場合は発行手数料が必要になるみたいですね。
そして最近のニュースによると、お金を預ける場合、硬貨を使うと手数料を取るところが出てきているとか。硬貨で入金すると、
機械の故障
につながることがあるらしく、たしかに面倒だろうとは思います。しかしだからと言ってこちらがお金を貸すのに硬貨の場合は手数料を取るって、なんだかなぁ、と思います。私は幸い銀行にはもうあまり残高がない(これって幸いなのか?)ので個人としてはどちらでもいいことではあるのですが、銀行とお付き合いの多いかたは大変なのではないかと同情いたします(そういうひとはお金持ちなので同情しなくてもいいかも)。
正月といえば初詣。あるいは関西では十日戎。大きな神社になると多額の「お賽銭」が投げ込まれます。中には惜しげもなく1万円札を入れる人もあるようですが、たいていはせいぜい100円硬貨ではないでしょうか。となると、神社には膨大な数の硬貨が集まることになり、実際、銀行員さんがそのお金を計算していらっしゃるところが新聞記事になったりしています。
あれは当然銀行が回収してその神社の口座に入るのでしょうが、あれは大口だけに手数料なんて取らないのでしょうか。
「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」7条に「貨幣は、額面価格の20倍までを限り、法貨として通用する」とあるそうです。例によって法律らしいわかりにくい書き方ですが、早い話が一度に同じ硬貨は20枚しか使えず、210円の買い物をして10円硬貨を21枚出したら、店は受け取りを拒否できるのだそうですね。硬貨は存外邪魔者扱いされるのですね。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/20 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
歩き続けて
一昨年の5月半ばから携帯で歩数計を使っています。それ以後年末まで232日で1,202,967歩、一日平均は5,712歩でした。夏ごろの体調がひどくて、8月などは平均2,099歩でした。
去年はよく歩くようにしようと一念発起して、しかも体調が少し良くなったので1月は約11,000歩、2月はなんと16,930歩でした。その後、7,8月はやはり暑さに負けてあまり歩けなかったのですが、前半期の貯金が効いて、一年で
3,684,751歩
となって、一日平均1万95歩に達しました。1歩を70㎝とすると約2,580㎞で、神戸からでいうなら、宮崎県まで一往復半できるようです(神戸~宮崎市を自動車を使うと約850㎞)。気分は水戸黄門でした。
しかし江戸時代の人は2週間くらいで江戸京都間を歩いたと言いますから、仮に距離を480㎞としたら、1日平均35㎞近く歩いていたことになります。1歩70㎝なら5万歩! 時速4㎞で9時間! これを毎日です。ちょっと信じられないくらいです。
私は1日3時間歩くくらいなら珍しくないのですが、それだと東海道五十三次を40日くらいかかってしまいます。昨年、最高に歩いたのは1日28,256歩、約6時間で、距離は21㎞ちょっと。これと比べても、昔の人の歩き方はどんなのだったか、不思議です。
今年に入ってもあまり元気がないのですが、やむを得ず歩かねばならないことも多く、結局1月は
266,558歩
でした。平均すると8,599歩。まあまあというところでしょうか。
歩けばいいというわけではないのですが、私は医者からも肺の機能を弱らせないためにもある程度は歩いた方がいいと言われています。よくなることはないのですが、悪くなることはありますからともかく現状を維持することが大事です。
去年は2月と3月に「庚申塔めぐり」をしましたので、これでかなり歩いたのです。この2か月だけで888,363歩。1日平均15,057歩も歩いていたのです。これは年間の24%ほどでした。
今年は、あまり無理はせずに、それでもできれば1日平均8,000歩くらい歩けたら、と思っています。年間で292万歩。キリが悪いから300万歩をめざそうかな。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/19 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
体重測定
体重計というのがなかったのですが、娘がやはり体重の増減を気にしますので入手しました。
最後に測ったのはいつの頃か思い出せないくらいです。15年くらい前に病院で測ったことは覚えているのですが。
私の体重は、体調によって増減が激しいことがあって、一番ひどかったときは57.5㎏というのがあります。ひどい体調であまりものが食べられない状態だったときで、これも病院で測ったのです。頬が削げ落ちて風に吹かれると立っていられない頃(笑)でした。逆に一番重かったのは73㎏くらいだったと思います。仕事に行くのは車で毎日忙しく働いていた頃で、極端な運動不足、しかも物が食べられる頃でいささか暴食のきらいがあった時期です。身長は変わらないのに、最高と最低で15㎏以上の差があったことになり、(頬のふくらみは明らかなのですが)いったい体のどこの部分が痩せたり太ったりしたのだろうと不思議でなりません。
体脂肪率というのは測ったことがないのですが、おそらく73㎏のときはかなり高い数値だったのだろうと想像できます。
BMI
というのがあります。体重【㎏】÷(身長【m】×身長【m】)で、18.5~25の間であれば標準範囲だそうです。170㎝60㎏の人であれば60÷(1.7×1.7)=60÷2.89=20.76です。私の場合、あの悪夢の57.5㎏のときは17.17で標準最低値の18.5にはまったく届かず「低体重」でした。私の体重の標準範囲は、62㎏~84㎏だそうで、ずいぶん範囲が広いものです。適正体重はBMI22で、これなら私の場合73,7㎏くらい。ということは、あの「最重量時代」が実は適正だったのですね。
さて、このたび久しぶりに測ってみると、真冬の服装で70.1㎏でした。さすがにこれではきちんと測れていないと思って、一番上に着ていたものを取ると69.6㎏。それでもまだ1㎏くらいは着ていると思われ、実質は
68.5㎏
というところでしょうか。この数字で計算すると、BMIは20.45(70㎏なら20.9)でした。これなら標準体重で重からず痩せすぎずというところだろうと思います。
実は、この5年ばかり、相当体調が悪いために脂肪の付きやすくなる副作用を持つ薬を多用していました。医者も「太ったね」と言っていましたので、きっちりその副作用が出ていたことになります。ところが、1年あまり前にその薬をやめることにしました。その後も体調が悪くてもほとんどその薬は使っていません。それに加えて、車が壊れて(涙)少々の距離なら歩くほかはなくなったこともあって運動量が増し、さらに以前ほどものを食べなくなりましたので、少しやせただろうと思います。その結果が今の体重で、医者に「太った」と言われたときは、ひょっとしたら75㎏くらいあったかもしれない、と感じています。
健康で多少太るのはいいのですが、「薬太り」なんていやなものです。できればこの体重を維持したいと思っています。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/18 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
歌人という呼称
私は平安時代の和歌について勉強してきましたが、これまで何の疑いもなく「紀貫之は歌人」というような言い方をしてきました。しかし、貫之の本職は土佐守などを歴任した官僚です。「文学史の観点から見れば」という「但し書き」を付けたうえで「歌人」と言えるわけです。
では鴨長明は文学史の観点から何と言えばいいのでしょうか。専門家は「歌人」と呼ぶことが多いのですが、彼には『方丈記』という散文作品があって、そちらが高校の教科書にも取り上げられるために、「エッセイスト」という見方をする人が多いのではないでしょうか。しかし彼はまさか自分が後世そんなふうに思われているとは思わなかったでしょう。
現代にあって、「歌人」と呼ばれる人は、やはりある程度それによって
生計を立てている
というイメージがあります。短歌を詠んでなにがしかの収入を得ている、短歌でしかるべき賞を受けている、短歌の雑誌を主宰している、短歌の雑誌や新聞などで選者をしている、カルチャー講座などで講師をしている等々。実際は学校の教師を兼ねている人も少なくありませんが、「教師で短歌も詠んでいる」のではなく、「歌人で教師もしている」と思われている人ほど歌人として著名であるように思います。
もうひとつ、歌人と言われるためにはやはり歌集の2冊や3冊は出しておきたいものです。少なくとも「歌集はありません」というのでは話にならないだろうと思います。私の知り合いの松平盟子さんは角川短歌賞を受賞してデビューされ、すぐに第一歌集を刊行されました。こうなるとデビューしていきなり押しも押されもせぬ歌人と認められたと言えるでしょうね。
私は、歌人と呼ばれたらカッコイイだろうな(笑)、とは思うのですが、だからと言って自称するつもりはありません。浄瑠璃作者はこの世にあまりいらっしゃいませんし、プロとなると
皆無
だと思いますので、自称してもいいかなと厚かましくも思っているのです。しかしプロが目白押しの歌人となると、さすがにそうはいかないでしょうし、金輪際そう呼ばれる日は来ないだろうと思います。
短歌の雑誌に入れていただいてまもなく2年になります。雑誌に掲載していただいた歌の数はまだ52首に過ぎません。これではまったく話になりません(笑)。200首くらいになるまであと6年として、それまで生きているかどうかも怪しいものです。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/17 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
LINEの機能
私は必要に迫られてLINEを使っています。ほかのメッセンジャー機能でもいいのですが、不思議な手軽さがあって便利だと思います。私は目の前にいる人との会話も時にはLINEを通してということがあります。相手の方には面倒をおかけするのですが、私はとても助かります。
とはいうものの、LINEの友だちを申請するのはなかなか勇気が要るもので、今繋がっている人はとても少ないのです。以前は『源氏物語』や『枕草子』の講座の方とやり取りをしていたのですが、今は講座がなくなってしまいましたので事実上絶縁状態です。若い女の人には恥ずかしくて(笑)とても「つながりましょう」とは言いにくいのです。また、何かの事情でつながりを持っても、実際のやり取りは年に1度などということもあります。今一番よく使うのはやはり家族の連絡です。
それにしてもLINEというのは会話機能だけではないのが驚きです。私は新聞社も「友だち」になっていて、毎朝そこから配信されるニュースを見ることにしています。yahooニュースなどより手っ取り早いのでまずこれを見るのです。
LINEで使う
スタンプ
はいろいろありますが、無料でくれるところもあるので、スタンプだけを目当てに「友だち」になっているところがあります。
しかし、時には貯めたポイントを使って買う有料のスタンプも欲しいと思うことがありますので、それを手に入れるためにはポイントを貯める必要があります。以前、「カップ麺の裏ブタに印刷されているシリアル番号を記入するとポイントを差し上げます」というキャンペーンがあった時には100ポイントもらったこともありました。そのおかげで文楽の咲寿太夫さんの作っているスタンプを手に入れることができました(笑)。
ほかにもLINEの機能はほんとうにたくさんあって、最近は
リマインダー
機能というのもあると知りました。「リマインくん」というのを「友だち」にしてその「リマインくん」に「○月○日 こういう予定」と言っておけば、その時刻に思い出させてくれるという機能です。便利というか人間を横着にする機能というか・・。
ほかにも、ほんとうにたくさんありますので、何か使ってみたいと思う反面、「もう、そういうのはいいよ」という気持ちもあるのです。世の中、便利になっていくと言えばそのとおりなのですが、必要のないこと、さほど役に立たない割には面倒なことはもう放置しておこうと思うのです。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/16 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
チョークを投げられる
以前学生さんにいわゆる「ら抜き言葉」について話すときに、「投げる」に「られる」が付く場合を例にしたことがあります。ら抜き言葉と言いますが、あれは別に「ら」を抜いているのではないと思います。国語学者ではありませんので自信はありませんが、要するに「読む」が「読める」という可能動詞を産んだように「投げる」が「投げれる」という可能動詞に変化したのだと思います。「投げられる」⇒「投げれる」ですから、表面的に「ら」を抜いているように見えますが、「ら抜き」という言い方は正しくないのです。
その話をするのに、「受身や尊敬の意味で『投げられる』とは言いますが、
『投げれる』
とはいいません」と説明しました。まだ首をかしげていますので、「『先生にチョークを投げられる』を『投げれる』とはいわないでしょう」というと何とか納得してくれました。
ところがその直後に学生さんから「今どきチョークを投げる先生はいません」と言われました。たしかに、今そんなことをしたらきっと暴力行為だということで厳重注意か何かの処分を受けそうですね。
昔、私が勤めていた短大の卒業生で女優兼テレビタレントになっている人が、歌舞伎授業の最中に教室でふざけていたら、先生にチョークを投げられて「こういう話は君にはもったいない」と言われたという話をなさっていました。その人は今おそらく50代くらいだと思いますので、30~40年前には大学でもそういう風景はあったのですね。
私自身はそういう目に遭ったことはないのですが、小学生時代は平手打ちされたり、蹴られたりしている同級生を見たことはあります。軍隊あがりか、そうでなくてもその時代の感覚の残っていた教師だったのでしょう。それ以後はそこまでの体罰は見ませんでしたが、チョーク投げはありました。当時の教師に許された唯一の「武器」だったのかもしれません。
そもそも、当今の大学ではほとんどの教員が
パワーポイント
で授業していますので、チョークを手にすることはあまりありません。手書きする場合も、黒板ではなくホワイトボードになっているところも少なくありませんので、手にするものはボードマーカー。これはチョークよりひと回りもふた回りも大きいので危険度も高まりますね。
教師の仕事では、時として児童、生徒、学生を叱ることも必要なのですが、昔のような暴力的な行為は許されません。そういうことをせずに、毅然として、しかもうまく子どもたちを指導できるような人がますます必要になるのでしょう。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/15 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
次の短歌を詠みました
年に四回発行される雑誌に載せてもらっている短歌を送りました。2,5,8,11月に送ることになっているのです。
割合に穏やかな、古風な歌を詠むことが多いのですが、今回はいささか風変わりなものになってしまいました。
雪をテーマにしたのですが、単に雪の美を賞するというものではなく、雪を見て感じることを詠みました。
「雪」はとてもきれいな言葉であり、静謐な音の響きであり、また文字も穏やかな印象を持ちます。ところがこの字には
すすぐ
という読み方があって、もっぱら使われるのは「恥を雪ぐ」の形です。「恥」の文字はむしろ「辱」の字を使うべきかもしれません。「辱を雪ぐ」で「雪辱」です。
この言葉は「雪辱を果たす」という形で用いられることも多く、辞書には「以前受けた恥を、仕返すことによって消し去ること」と説明されています。「仕返す」というのはいささか物騒ではあります。
『忠臣蔵』といわれるできごとは浅野家家臣のリベンジの事件ということもできますが、この復讐がおこなわれた元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日に当たる)は晴れだったそうですが雪辱という言葉にあまりにもピッタリなので、今でも一般的に雪の中でおこったとされます。どうやら前日に降っていたらしく、雪は残っていたようですが。
雪の中の血なまぐさい事件としては桜田門外の変とか2・26事件もあります。
私も雪を詠むにあたって、どうもそっちの方に心が行ってしまいました。
辱め雪(すす)ぐすべなく
親指をま白き道にくひこませ行く
悔しさに眠りも浅き夜の明けて
雪降る音におどろかれぬる
権力にあらがふべきや
黒御簾の太鼓のやうな雪の音聴く
いかに強く噛みしめつるか
しらたまの歯のひとかけら雪に埋むる
十年を音のなき世に生き来たり
東雲の空に雪の声聴く
雪持ちの南天の実のたまゆらに
朝日たゆたふその寂光土
いくばくか覚悟を腹に
親指の力ゆるめて雪晴れの道
こうしてみると
五七調の歌
ないしは五七調に近い歌が目立ちます。自分ではあまり意識せずに詠んでいるのですが、割合に好きな調子なのかもしれません。五七調というと万葉集に多い読み方で、短歌のそもそもの形はこの調子で詠まれるものでした。
これからも、穏やかな歌もいいのですが、多少感情的になってもいいので強い歌も詠んでみたいと思っています。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/14 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
文楽東京公演再開
休演状態が続いていた2月文楽東京公演が本日から再開されるそうです。
今度こそ無事に千秋楽まで開催されますように。
出演者はまだすべて出揃うわけではなく、清介さんらがまだ休演で、「俊寛」で呂太夫さんを弾くのは
鶴澤清公さん
だそうです。抜擢に応えてほしいです。
また、「弁慶上使」は錣さんに勝平さんだそうです。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/13 00:00]
- 文楽 浄瑠璃 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
真似のできない人生
今月の初めに石原慎太郎さんが亡くなりました。
私はよく知らない人なのですが、とにかくすさまじい人生を送った人のように記憶にとどめています。
『太陽の季節』が芥川賞を受賞したのは昭和31年ですからさすがにわかりませんが、このとき選考委員だった佐藤春夫は同じ選考委員の舟橋聖一とこの作品のについてかなり議論したそうです。佐藤春夫は『太陽の季節』は「風俗小説」で「文芸として最も低級なもの」であり、「美的節度の欠如」したものとして「嫌悪を禁じ得なかった」と言っています。吉田健一もハードボイルドの面を伸ばして行けば、「『オール讀物』新人杯位まで行く」と言っています。もちろん、井上靖のように「その力量と新鮮なみずみずしさにおいて抜群だ」という意見もあればこそ選ばれたわけですが。
その後の活躍も知らないまま、1968年の参議院議員選挙で青島幸男氏、横山ノック氏らと同時に当選したあたりからその名を知るようになりました。私の兄は石原氏を「かっこいい」といっていましたが、私はあまり好きなタイプの人ではなく、ほとんど何の印象も持つことはありませんでした。
政治家としては、言いたいことを言って、やりたいことをやって、派手に失敗もして、という危うさと元気の良さを併せ持ったような人だったのでしょうか。
支持する人はかなり熱狂的で、一方、嫌う人は心底嫌っていたように思います。私は好きとか嫌いというよりも
苦手
な人でした。仲間は大事にするけれど、それ以外の人に対しては冷たそうな印象もあります。
石原氏が亡くなった日のFacebookにもいくらか書いている人がありました。ちょっとひどいなと思ったのは、亡くなったことに対して快哉を叫んでいる人がいたのです。嫌うのはいいけれども、亡くなったことを喜ぶなんていうのはおとなのすることではありません。さすがにたしなめる人もいたのですが、ご本人は意に介さず、「だってうれしいんだもん」と言っていました。この方はいくら何でも幼稚すぎると思いますが、とにかく石原氏がいやだという人は少なくなかったことは事実でしょう。
作家としては、私はあまり大きな業績を残したようには思いません。何といっても政治に行ってしまったのが作家の仕事をかなり制限したように思います。
石原氏は性格なのでしょうか、気に入らないと「ポイ」と捨ててしまうようなところがあると思います。
自民党の参議院議員だったのに田中角栄氏の金権政治を批判して日中国交正常化にも反対して衆議院に鞍替えしたときは無所属、そのあと東京都知事選挙に出て(美濃部亮吉氏に敗れる)、再び自民党から衆議院議員選挙に出て国政復帰。その後総裁選挙に出るも海部俊樹氏に敗れて、
「日本の政治に失望した」
と言って辞職。そのあと東京都知事選挙に出て圧勝し、14年間知事を務めたのに、また任期途中に辞職。またまた日本維新の会で国政に復帰して・・・。
そういえば、芥川賞の審査員も「全然刺激にならないから」といって辞めてしまいました。
何だかもうしっちゃかめっちゃかで、よくわからないくらいの人生のようにお見受けします。
私にとってはあまりよく知らないままだった方なのですが、少なくとも私にはまねのできないような人生を送った方だ、ということだけは言えそうに思います。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/12 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
聖光文庫
私は美術が好きですが、それは昔からのことではありません。小学校時代は絵を描くなんて私にとっては信じられないような高等技術で、中学生の頃も小学生レベルの絵しか描けませんでした。高校生になったとき、芸術科目(音楽、美術、書道から選択)を選ぶのに、まず外したのが美術でした。それくらい美術には苦手意識が強くてまた絵を描くセンスを持ち合わせていないのでした。
今も描くことはできませんが、観ることは大きな楽しみになりました。何しろ音楽がダメ、演劇や映画もダメとなると、楽しみが限られてしまい、ごく自然に美術に傾倒していったというわけです。
昨日書きましたように、私は
絵巻物
の勉強をするのも好きになって、専門外ではありながら、いろいろな絵巻物を読むようになりました。単に物語の絵画かというだけでなく、描かれた時代の人々の生活や風俗がうかがえます。文学作品に描かれていても実際はどのようなものだったのかわからない、という場合に、絵巻物はとても役に立ちます。『伴大納言絵巻』『源氏物語絵巻』『信貴山縁起絵巻』『粉河寺縁起絵巻』『餓鬼草紙』『地獄草紙』『北野天神縁起絵巻』『年中行事絵巻』『彦火々出見尊絵巻』『一遍上人絵伝』『法然上人絵伝』等々、読めば読むほどおもしろいです。
しかしこういう本はとても高価なもので、私は廉価版をいくらか持っていますが、解説などに違いもあってどうしてもいいものを見たくなります。
そんなときにとてもありがたいのが宝塚市立図書館の中にある
聖光文庫
です。
宝塚市の清荒神にある鉄斎美術館の入場料がこちらに寄付されて、それによって美術関係の書籍雑誌が購入されています。その書籍というのは研究書もありますし、美術全集などもあるのです。私のようなものにとって美術史の研究書なんてとても買えるものではありませんから、ここに収められているものを拝見することがどれほどありがたいかわかりません。ただ、利用者は本を借りることができないため(いわゆる「禁帯出」)、どうしてもそこに長居しなければなりません。そんなこともあってか、この2年間、一般の図書館が開館になっていても聖光文庫だけは閉まっているということもありました。
今また、私はここで読みたい雑誌論文があるのですが、行けそうな日に開いているかどうかという心配があります。ほんとうにめんどうな世の中です。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/11 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
図書館の存在
私は図書館なくしては勉強ができません。自分で本を買う余裕がありませんので、今は「借りる」「もらう」のどちらかです。
しかし、当たり前の話ですが、「もらう」のほうはなかなか自分の希望どおりにはいかないのです。ですから、「借りる」の占める割合はとても大きいのです。私の利用する図書館は地元の外、神戸市立、大阪府立、大阪市立などです。文楽に関しては圧倒的に大阪府立(中之島)や大阪市立がありがたいのです。こんなものまで持っているのか、という驚きに近いくらいいろいろ所蔵されています。いつぞや大阪市立図書館で『上方芸能』第1号(実に質素なものでした)を発見したときはけっこう感動しました。
平安時代の勉強をするにも、やはり大きな図書館はありがたいです。以前
『伴大納言絵巻』
の勉強をしていたときは、神戸市立図書館でとても立派で豪華な(1冊数万円の)本を書庫から出してもらったことがあります。大きさ、重さが半端ではなく、出納係の女性の方がひとりでは持てないくらいで、キャスター付きの台に乗せて持ってきてくれました。この本は写真がとても美しく、当時の私にとってきわめて有益なもので、おかげさまで、論文というほどではないのですがちょっとしたペーパーを書くことができました。
『伴大納言絵巻』は専門ではありませんので、個人ではあまり本を持っておらず、ほかにも高槻市立図書館、宝塚市立図書館聖光文庫、川西市立図書館、大阪市立図書館などに行っては勉強させていただきました。そんな感じで、ひとつものを書くにしてもあちこちの図書館に出向かないと話にならないこともあるのです。
ところが、今またウイルスの感染状況が悪化して、各地で図書館が閉館になることがあります。人が集まるところだから閉じる、というだけでなく、勤務している人を保健所関係の仕事に移して、円滑なウイルス対策をするようにしているのですね。
私は今、
重源上人
についていろいろ勉強しているところです。この人は中世の人であり、また文学の人ではありませんので、私はまったくと言っていいくらい関連書籍を持っていません。
こんなときこそ力を発揮してくれるのが図書館です。早速あちこちの図書館の蔵書を調べて、出かけるのはできるだけ一度に済ませられるように調整しながら拝見あるいはお借りしようと思っています。
文献によって勉強しなければならない者にとって図書館の存在は限りなく大きいため、ウイルスは「勉強の敵」でもあります。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/10 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
終わりの日のために
以前、講座で平安時代文学の作品を読んでいた時、いつも来てくださる方がありました。私から見るとかなりのご年配で、お孫さんが高校生だとおっしゃっていましたから、70代の後半くらいでいらっしゃったのかもしれません。高校の国語の先生をなさっていたとかで、特に平安時代を専門のなさっていたらしく、ちょっと怖い受講者さんでした。もちろんいつも手を抜くことはしなかったつもりですが、こういう方がいらっしゃると「さらに慎重に予習をしなければ」という思いが湧いたものです。「怖い」と書きましたが、実際は「ありがたい」方でした。その方は、特に『紫式部日記』の講座をおもしろいとおっしゃってくださいました。この作品は読みようによってはちっともおもしろくなくて、私も学生のころは義務のような意識で読んだ記憶があります。ところが丁寧に読んでいくと実におもしろいことが分かってくるものですから、ぜひこれを講座で織り上げようと思ったのです。するとその方が「『紫式部日記』が
こんなにおもしろい
ものだとは思わなかった」とおっしゃってくださったのです。ところがその講座の途中でその方は来られなくなりました。何かあったのだろうかと気にはなったのですが、お尋ねするすべもないまま講座は進み、いよいよ最後の部分になったのです。するとその方がまたおいでになりました。事情を伺いましたら、「自分ももう歳なので、
終活
しようと思いましてね」とのことでした。「でも最後の部分だけは読んで、終わりにしたかったのです」とも。とてもお元気な型でしたので、「終活」などという言葉は合わないように思ったのですが、まだ若かった私にはそのお気持ちが理解できませんでした。しかし人生には限りがありますので、まだお元気なうちにいろいろ整理しておこうと思われたのだな、ということが、今ごろになって私にも何となくわかるような気がしています。
私はもうすぐ父が亡くなった年齢になります。自分もいつまでも生きられないという気持ちが強まってきて、なすべきことはしておこうという思いが募っています。「死んでも死にきれない」という言い方がありますが、本当にそういう心残りだけはできるだけ少なくしたいものだと思います。
創作浄瑠璃をもっと書く。短歌を詠む。場があれば平安時代の講座をする。この三つをしながら、そろそろ集めてきた本も整理し始めないとまずいなと思っています。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/09 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
海老蔵の今
私は何かを語るほどは歌舞伎を観てまいりませんでした。何と言っても圧倒的に東京の劇場が多く、歌舞伎座、国立劇場、新橋演舞場など、さまざまな劇場で上演され、時を同じくして別の劇場で上演されていることも珍しくありません。座がひとつしかない文楽では考えられないことです。関西では京都南座と大阪松竹座がありますが、必ずしも常に本格的な上演が行われているわけではありません。私のような貧乏教師には、歌舞伎の高額なチケットはなかなか手が届かないということもあります。南座なんて、おそらく20年くらいは行っていないと思います。
最近の歌舞伎は役者さんがかなり酷使されているイメージがあり、若くして命を落とす人が少なくありません。十二代目団十郎、十八代目勘三郎、十代目三津五郎などはその代表でしょう(以下、失礼ながら役者さんは呼び捨てで書きます)。昨年亡くなった
二代目吉右衛門
は若いというほどではないにせよ、やはり無理が続いたのではないかと思えてなりません。
さて、中堅から若手と言っていいのでしょうか、30~40代の役者さんは今どうなっているのでしょうか。私はもうこの世代になるとほぼわからないのです。もちろん舞台でいくらか観たことはあるはずですが、まだ彼らが十代とかせいぜい20代前半くらいですから大した役ではなかったのです。
その世代の人でいろんな意味で話題になっているのはやはり
十一代目市川海老蔵
でしょう。団十郎を襲名することが決まっていながら、ウイルス蔓延の影響で延期を余儀なくされ、今なお海老蔵のままです。今年45歳になるそうですが、その日はいつになるのでしょうか。最近では古典より新作に打ち込むことに熱心なように見受けられ、それに関しては賛否両論あるようです。私は観ていませんから何も言えませんが、最近では絵本の「えんとつ町のプペル」を歌舞伎化して新橋演舞場で上演されました。これに関しても、絶賛する人もあれば全く評価しない人もあるというのがこの人らしいと言えるかもしれません。私はときどきツイッターなどで評判を見ることがあるのですが、私のところに流れてくるのはかなり手厳しい意見が多いのです。「これでほんとうに団十郎になるつもりなのか」とまで言う人もあります。見巧者と思われる人ほどその傾向が強いように思います。
その一方、
「すばらしいのひとこと!」
という声もあり、またメディアはかなり持ち上げる傾向が強いとも感じます。彼の息子さん(海老蔵の団十郎襲名に合わせて市川新之助の名を継ぐ予定)は歌舞伎などほとんど関心のない大学生でもよく知っていて、大変な人気があります。テレビでこの親子が特集されたりすると、視聴率も取れると聞いたことがあります。海老蔵が座頭として芝居をするとお客さんもよく入り、高額なチケットでも売れるようです。休憩を含めて2時間ほどの『プペル』でも3万円以上の席があったと聞きます。
ただ、彼はあまり古典に熱心でないと不安視する人も多く、本人が「古典なんていつでもできる」という感じになってはいないのか、他人事ながら気にならないわけではありません。上の世代はいつまでも元気で指導してくれるわけではなく、今のうちに吸収すべきことがあると思います。
団十郎を襲名するにあたって、「未熟なので俳名の『白猿』も名乗る」と言っているそうですが、中途半端ではないでしょうか。「白猿」の名に甘えてしまわないかが心配なのです。団十郎を名乗るならそれだけの覚悟がほしいところです。未熟者を自称するのは団十郎の名に失礼だとすら思うのですが、いかがなものでしょうか。せっかく抜群の家柄に生まれた、目力のある団十郎らしい顔つきのいい男なのに、もったいないです。
歌舞伎を知らない者がずいぶん勝手なことを書いてしまいました。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/09 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
播磨屋の熊谷陣屋
先月の終わりに播磨屋さんの追悼番組として『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」が放送されました。もうすっかり歌舞伎にはご無沙汰していますので、私には歌舞伎について語る資格はないのですが、せっかくの放送でしたので思ったことを書いておきます。
私は概して丸本歌舞伎はあざとくて好きではないのです。人形浄瑠璃を見るとやはりこれが本来なのだと思えてなりません。人間にできるだけ近づきながら、やはり人形であるところに真実味を感じます。歌舞伎になると(あたりまえですが)人間臭すぎて、あまり感動したことがありません。亡くなった山城屋の『曽根崎心中』(私が拝見した時はまだ成駒屋)でも、当代菊五郎の「勘平腹切」でも、先代松緑の「すしや」でも、それぞれ至芸と言われているのにもかかわらず、何だか違うんだよな、という後味をかみしめざるを得ませんでした。「酒屋」を歌舞伎で観たときはつまらないとさえ感じました。ファンの皆様、まことに失礼なことを申しました。芸能の良しあしではなく、当時の私には「合わない」感じがしたのです。
人形は本来
無表情
です。しかし人間は頬が動き、口の動きが自在で、手足の動きも奔放なのです。しかし制約のある人形であればこそ浄瑠璃をたっぷり聴けてしかしその浄瑠璃の世界をうまく表現できるもののように思います。歌舞伎はあまりにも役者が前に出てしまうため、丸本の味わいをかみしめるのに不満を感じるということもあるのだろうと思います。
ところが、私が浄瑠璃がわからなくなっていることがまったく思いもよらない「効果」を引き起こしました。義太夫節を気にせずに純粋に芝居として観た場合、実におもしろいものだったのです。というと、歌舞伎の竹本の方々に失礼なことを言っているようではありますが、そういう意味ではないのです。これが越路太夫であろうが津太夫であろうが関係なしに、浄瑠璃がないセリフ芝居として観るとおもしろいと感じるのです。丸本歌舞伎があまり好きではない私が、セリフ芝居として丸本歌舞伎を見直したことになります。
「熊谷陣屋」は人形浄瑠璃から来ているわけですが、完全に歌舞伎化されたものが上演されています。たとえば制札の見得で、文楽(歌舞伎の芝翫型も)では制札を上にしてかつぐようにしているのに対して、播磨屋は九代目團十郎以来の制札の札の部分を下にして三段(階段)に突いて見得をきる型です。
段切も、熊谷は浄瑠璃では「夫婦連れ」で去ることになります(実際は姿を消すことはない)。一方、歌舞伎では幕が引かれた後、幕外で
花道の引っ込み
があります。そのためといえばいいのでしょうか、熊谷の単独行動のようになっています。本来は「子を捨て武士を捨て」ることで俗世から縁を切った熊谷が静かに「黒谷の法然」を訪ねようとするのですが、歌舞伎の熊谷は小次郎を手にかけたことを強く悔いて逃げるように去っていきます。まったく印象の違う幕切れです。歌舞伎では武士を捨てて僧形になる(文楽では有髪の僧、歌舞伎では剃り上げている)、つまり俗世から離れたはずなのに、逆に武士の間はこらえていた俗世の哀しみが湧いてくるという理不尽な内容になっているとも感じられます。
それにしても、播磨屋の熱演というか激演とでもいうような全力投球にはおそれいりました。相模の玉三郎、弥陀六の歌六、藤の方の菊之助などもそれに引っ張られるような激しさを感じました。おもしろかったのは仁左衛門で、超然とした義経を演じきっていたように思いました。義経の性根はあれだと思います。火花を散らす吉右衛門vs.玉三郎に対して、異空間にいるような仁左衛門でした。
もう播磨屋の舞台は観られないわけですが、私個人は歌舞伎の舞台に行くことは金輪際ないでしょうから、何かの折にこういういい役者さんの舞台をテレビなどで拝見できれば、と思っています。
改めて二代目中村吉右衛門という人の魅力を思い知りました。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/08 00:00]
- 文楽 浄瑠璃 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
すでに、春
旧正月は2月1日でした。そして3日が節分、4日が立春。
『古今和歌集』は春(上下)、夏、秋(上下)、冬、賀、離別、羇旅、物名、恋(一~五)、哀傷、雑(上下)、雑躰、大歌所御歌の千百首(ほかに「墨滅歌」というのが十一首あります)から成り立っています。四季の歌は全部で六つの巻を持っており、極めて重要なものでした。
私は子どものころ春は三月に始まって五月まで、夏は六月から八月まで・・と教わりました。ところが年賀状には一月なのに「新春」と書くのが何とも不思議でした。まだ旧暦というものを知らなかったのですからそれはしかたがなかったでしょう。
ところが、旧暦を知っても、旧正月が春だとはとても思えません。例えば今年の旧正月は2月1日にあたりました。真冬の気温でした。さらに立春は2月4日で、これまた寒い日でした。
私が子どものころにイメージしていた春はポカポカしてきて梅は盛りになり、もう
寒いという感覚
はほとんどなくなる時期だと思っていたのです。もちろん、三月に雪が降ることはありました。お水取りの時期が寒さの終わりですから大松明の行事が雪の中でおこなわれることだってあったのです(私は実際雪の中の大松明を目の当たりにしたことがあります)。それでも、その次の日は暖かくなったりして明らかに冬とは異なる雪でした。
昔の人はどういう感覚で春を迎えていたのでしょうか。『古今和歌集』の最初のあたりの歌を見るとその季節感がわかります。
袖ひちて掬びし水の凍れるを
春立つ今日の風やとくらむ
(紀貫之)
春霞立てるやいづこみよしのの
吉野の山に雪は降りつつ
(よみびと知らず)
雪のうちに春は来にけり鶯の
こほれる涙今やとくらむ
(よみびと知らず)
梅が枝にきゐる鶯春かけて
鳴けどもいまだ雪は降りつつ
(よみびと知らず)
氷がとけるころ、雪が降るころ。なるほど鶯の声は聞こえますが、それもまだ雪や氷がやっととける時期だというのです。
これらの歌はやはり現代の2月ごろのイメージではないでしょうか。彼らの感じる春は私のそれとは明らかに1か月の違いがあります。
つまり、春というのは暖かくなってからの季節ではなく、
暖かくなり行く頃
であり、雪の中から草が少しのぞく時期なのでしょう。そう考えれば、夏は暑くなり始める頃からその盛りまで、秋は涼しい気配がうかがえる頃から紅葉の時節まで、冬は朝晩冷えてくる頃から寒さのピークまで、という感じでしょう。
ということなら、もう間違いなく春なのですね。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/07 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
武庫川の気泡
兵庫県東部を、蛇行しつつもほぼ南北に流れるのが武庫川(むこがわ)です。このあたりの旧郡名も武庫郡でした。兵庫県篠山市に源流があって、神戸市山間部、三田(さんだ)市、西宮市山間部、宝塚市、伊丹市を経て西宮市都市部と尼崎市を隔てる川として大阪湾に流れ込んでいます。
西宮市の山間部から宝塚市に入るところに、かつて「ヰルキンソン」の工場がありました。「ウィルキンソン炭酸」の工場です。明治時代半ばに、イギリス人のジョン・クリフォード・ウィルキンソン氏が狩をしていて(宝塚のあたりは狩猟地だったのですね!)炭酸泉を発見し、その炭酸水を瓶詰にして販売したのです。海外にも輸出し、その取引先の人を招くためという目的もあってホテルも開業しました。今はもうなくなったそのホテルの名前は
タンサンホテル
といったそうです。そのまんまです。
その後、この街には阪鶴鉄道(のち国鉄、現・JR福知山線)が通り、さらに小林一三氏の努力によって箕面有馬電軌鉄道(今の阪急電鉄)が敷かれ、歌劇場もでき、ずいぶん発展しました。観光地になるに際してはウィルキンソン氏が炭酸泉を発見するより前からあった宝塚温泉(武庫川右岸。炭酸泉)も重要でした。
のちに武庫川左岸に「新温泉」と呼ばれる設備もでき、これに隣接する形で室内プールが作られたりもしました。もっともこのプールは不人気ですぐに閉鎖されました。しかしこれをうまく利用して宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の公演がおこなわれるようになりました。
この新旧温泉は、明治時代に架けられた「蓬莱橋」が結ぶ形になっています。この橋は今では「宝来橋」と書かれ、何度も架け替えられたのち、今ではゆるやかなS字のずいぶんしゃれた形の橋になっています。この橋の南詰東側のたもとに古く石碑が建てられていて、「天然たんさん水 この下にあり」と記されていたようです。
ところで、2018年6月に北摂地震がありました。大阪府高槻市や茨木市あたりはかなり揺れましたが宝塚市もいくらか影響があったのです。そして、あの地震以来、このあたりの武庫川の水の中から気泡がたくさん上がるようになったのだそうです。
これを逃してはなるものかと、その石碑のあった脇に建てられている
「ホテル若水」
の社長さんが石碑を再建なさいました。
私は一度この炭酸の泡とされているものを見たいと思っていたのですが、先日機会がありましたので行ってみました。最近河川敷がきれいに整備されているのですが、阪急電鉄宝塚南口駅下車すぐのところに河川敷への降り口がありますので、そこから宝来橋に向かって遊歩道を歩きました。10分足らず歩くと宝来橋です。すると川の護岸の部分に、表に「たんさん」裏に「ここ」と書かれた小さな案内板が挿みこまれていました。早速その近辺の川面を覗き込んだのですが、まったく何もありません。しばらく眺めていましたがそれでも同じことでした。寒い時期でもありますから長い時間立っているわけにもいかず、あきらめて帰りかけたのですが、どうしても心残りなのであと5分だけ見ていようと思い直して、もう一度その場所に行きました。すると、数か所からポコポコポコと気泡が出てきたではありませんか。
これがほんとうに炭酸ガスの泡なのかどうか、私には専門的なことはわかりません。しかし、なんとなく「炭酸を見つけた」という意味では、ウィルキンソン氏と同じような気持ちになれたかもしれません(笑)。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/06 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
2022年文楽二月東京公演初日
感染者の数だけでいうならとても文楽の公演を行うような状況ではなさそうです。少なくとも、昨年であれば何の疑いもなく早々に中止が決まっていたことでしょう。今流行しているものは、のどの痛みがかなり特徴的なようです。私が聞いた感染者の人たちの症状も「のどが痛い」から始まっている人が多く、風邪かなと思ったら熱が出るようになって、これは変だというので検査をするという感じでした。
さて、文楽は「国立劇場開場55周年記念」「文楽座命名一五〇年」と銘打っての公演。
残念ながら第3部が12日まで休演となりました。さらに第一部、第二部でも演者の変更が相次いでいるようです。
これを書いている2月4日18時30分現在で、国立劇場のHPに次のように出ています。
◯第一部
『二人禿』(三味線は4挺で演奏します)
豊竹希太夫 竹澤團吾
豊竹亘太夫 鶴澤友之助
竹本聖太夫 鶴澤清公
竹本文字栄太夫 鶴澤清方
『御所桜堀川夜討』
弁慶上使の段(全段通して演奏します)
豊竹睦太夫 野澤勝平
『艶容女舞衣』
上塩町酒屋の段
中 豊竹希太夫 鶴澤清公
○第二部
『加賀見山旧錦絵』
草履打の段
岩藤 豊竹藤太夫 鶴澤清志郎
尾上 豊竹呂勢太夫
善六・腰元 豊竹咲寿太夫
長局の段(全段通して演奏します)
竹本千歳太夫 豊澤富助
以上が国立劇場のHPのコピペです。
「草履打」の岩藤の予定だった咲太夫師は感染、濃厚接触ではないそうですが休演だそうです。
本来の配役から名前が消えているのは、燕二郎、錣太夫、宗助、靖太夫、清馗、咲太夫、織太夫、燕三、藤蔵でしょうか。人形は大丈夫なのでしょうか。
演目は一応次のとおりです。
第一部 (午前10時45分開演)
二人禿
御所桜堀川夜討 (弁慶上使)
艶容女舞衣 (上塩町酒屋)
第二部 (午後2時40分開演)
加賀見山旧錦絵
(草履打、廊下、長局、奥庭)
第三部 (午後6時開演)
平家女護島 (鬼界が島)
釣女
果たして千秋楽(22日)までいけるでしょうか。
【追記】2月5日17時46分着の国立劇場からのメールで、全公演の12日までの中止を知りました。ひょっとするとこのまま最後まで、かも・・。
(2月5日18時00分追記)
【三伸】その後の情報では咲太夫さんも陽性だとか。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/05 00:00]
- 文楽 浄瑠璃 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
竹取物語の映画
私は、もう字幕のない日本の映画を観ることができませんが、必要があって、『竹取物語』の映画のDVDを手に入れています。当然ながら、監督は架空の人物を出して来ますし、古典文学の『竹取物語』そのままにストーリーを作るわけはありません。それだけに、どのような展開になっているのか、必ずしも完璧に理解しているとは言えないまま観ています。
その映画のうちのひとつは、2013年に公開された、高畑勲監督による、スタジオジブリのアニメ映画
『かぐや姫の物語』
です。アニメといっても、その色遣いはくっきりした極彩色ではなく、絵巻物に詳しい高畑監督らしいと言えばいいのか、手書きの絵がそのまま動いているようにして進んでいきます。幼いころ一緒に飛び跳ねて遊んだ捨丸という男の子が登場するのですが、この子は貧しい世界~それはもともとの翁の暮らしと同じ~を生き抜く人物です。この映画の最後の方で月に戻らねばならない運命を悟ったかぐや姫は捨丸と出会い、二人で自在に空を飛び抱き合います。しかし捨丸はすでに妻子がいて、彼はその妻子のもとに帰っていくのです。
求婚譚は『竹取物語』を使っていますので省くとして、彼女はついに八月十五夜に月に帰ることになります。月に向かう彼女はすでに地球のことは忘れているのですが、目に涙を浮かべていました。
もうひとつの映画は市川崑監督の実写(1987年公開)で、タイトルはそのまま『竹取物語』です。途中に特撮の部分があって、そこは中野昭慶監督が撮っています。
主人公のかぐや姫には若き日(公開時22歳)の
沢口靖子
がキャスティングされました(敬称は略します)。
ある日大きな火の玉が落ちました。竹取造(三船敏郎)は亡くなった加耶という娘の墓が無事だったか調べに行くと、赤ん坊が姿を見せ、すぐに不思議な姿の女児になりました。竹取の妻(若尾文子)は加耶の生まれ変わりと信じて育てることにしたのです。
求婚譚で異なるのは、大伴大納言(中井貴一)が加耶の恋人のように描かれることです。大伴大納言は大嵐に遭って龍に襲われますが帰還します。この大嵐の場面はなかなか迫力のあるところです。車持皇子(春風亭小朝)と安倍右大臣(竹田高利)は偽物を持参しますが露見してしまいます。帝(石坂浩二)も登場しますが、加耶の思いは大伴大納言のみに向けられます。
加耶は、実は月の人で、宇宙船が故障して地球に落ちてしまったのでした。
やがてUFOそのものの宇宙船がやってきて加耶は月に帰っていきます。
平安時代の時代考証の観点から言うとかなりめちゃくちゃなところが多いのですが、それはとやかくいうこともないでしょう。
私は長い間愛され続けてきた『竹取物語』の「愛されかた」に興味があります。『源氏物語』にもその名や多少のストーリーが紹介され、その後も延々と読み継がれ、その間にさまざまな伝承も生じ、絵本になり、紙芝居になり、外国語にも翻訳され、そしてこうして映画にもなっています。それらが『竹取物語』をどのように読み解いているのかがおもしろくて、いろいろ読んだり観たりしているのです。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/04 00:00]
- 平安王朝 和歌 |
- トラックバック(0) |
- コメント(5)
- この記事のURL |
- TOP ▲
重源の略歴
重源上人(1121~1206)の人生を書くなんてそう簡単にはできません。しかし、最低限のことくらいはいつでも話せるくらいの知識は持っておいた方がいいと思います。これまた覚書として書いておきます。
重源はもともと紀氏の出身だったといわれます。紀氏というと、平安時代には紀貫之、紀友則、紀有常などという人がいました。中でも貫之は歌人として大変著名な人で、『古今和歌集』の撰者の代表でもあります。
しかし、紀氏というのは家柄としてはたいしたことはなく、その後は特に目立った人はいないと言えそうです。その末流に季重という人物があり、その子が重源その人でした。家柄から考えて、官人としての職もなく、出家するほかはなかったのかもしれません。数え年十三歳(今でいうなら小学校6年生)のとき、醍醐寺に預けられたようです。若いころは大峰山などでの厳しい
山嶽修行
もしたようで、その後は三度にわたって宋に留学しています。このときに彼は造寺造仏について相当学んだのだろうとも言われ、帰国後には今の福岡市西区にある誓願寺の本尊(阿弥陀如来)のために徳地の材木を調達しています。さらに彼は宋の寧波にある阿育王寺の舎利殿のために徳地の材木をはるか大陸まで送っているのです。なぜわざわざ日本から材木を運んだのかという疑問が湧きますが、当時寧波あたりでは材木の適当な供給地がなく、大陸内の遠く離れた土地から手に入れるより九州や周防の方が近く安上がりで、徳地の材木の質が良かったこともその原因だったそうです。この点については山口県立図書館レクチャールームでおこなわれた、山口市の市史編纂室中世専門部会専門委員の伊藤幸司氏の講演会の講演要旨を参考にしました。
平氏の抑圧に反抗していた興福寺や東大寺は治承四年(1180)の以仁王挙兵に力を得て、一触即発のような状況になっていました。そして同年十二月二十八日、平清盛の指示で、平重衡を総大将とした兵による南都焼き討ちがあって、東大寺・興福寺はもちろんのこと、その周辺も焼け野原になり、東大寺金堂(大仏殿)も焼亡したのでした。戦は文化を破壊するのです。
翌年、平清盛がその報いを受けるようにして亡くなったあと、東大寺は再建されることになり、その
大勧進職
に就いたのが重源でした。勧進職ですから寄付集めが主要な仕事です。彼は源頼朝からも寄付を受けることに成功したようです。
そして彼は周防国に赴いて山奥に入り、多くの住民の力を借りながら、檜のほか、松や杉など多くの巨木を奈良に運んだというのです。ちなみに、重源が再建に尽力した時のまま残っている東大寺南大門(これは平家の焼き討ちではなく大風によってすでに倒壊していた)の金剛力士像に用いられた材木も徳地のものであることがわかっているそうです。徳地鯖河内にある法光寺(元は重源の創建した蓮台山安養寺)阿弥陀堂の本尊である阿弥陀如来像と東大寺南大門金剛力士像が同じ徳地の檜で作られていると奈良国立文化財研究所が年輪年代法によって発表したのです。この発表は1990年のことで、それ以来徳地では「重源の里」を謳うようになったそうです。
大仏殿が再建されたのは建久六年(1195)のことで、功績の大きかった重源は大和尚と称されました。残念ながらその大仏殿は戦国時代にまた焼失し、今残っているものは江戸時代に建てられたものです。
現在、東大寺には江戸時代の元禄年間に建てられた俊乗堂があり、ここには国宝「俊乗房重源上人坐像」が置かれています。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/03 00:00]
- 文楽 浄瑠璃 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
東大寺造立供養記
山口市徳地の人形浄瑠璃のことを考えるためには、やはりいろいろと資料を読まねばなりません。いったい、重源上人が徳地に来て何をしたのか、どこまでが史実でどこからが伝承なのか、そもそも重源という人はどういう人なのか、などなど。
徳地と重源について知りたい場合、絶対に忘れてはならないものが『東大寺造立供養記』です。この中に、短いものではあるのですが、徳地で彼がどのようなことをしたのかが書かれています。原文は漢文で、かなり難しいものですので、ここにその徳地に関する部分の概要を現代語で書いておこうと思います(原文は一部のみ書いておきます)。これはどなたかに読んでいただきたいというよりは、私自身の覚書です。
源平合戦之時周防国払地損亡
故夫者売妻々者売子
或逃亡或死亡不知数者也
と始まります。
源平合戦のときに、周防国はぼろぼろになってしまい、夫は妻を売り、妻は子を売った、逃亡した者、亡くなった者は数知れない、というわけです。平家は西海に落ちて行きましたからその途中ではなはだ迷惑をこうむった庶民がいたわけです。戦があると迷惑をこうむるのはいつも何の罪もない庶民です。当地の人も「何が平家だ、源氏のどこが偉いのか」と言いたかったのではないでしょうか。
そして後に残った人たちも生きるか死ぬかのかつかつの暮らしをしていたのです。
為上人着岸之時国中飢人雲集也
重源上人が周防の海岸に着くときは、国中には飢えた人が雲霞のごとく集まっていました。上人は、慈悲の心によって船に積んでいた米をことごとく施してやったのです。さらに作農のために種を与えたりして人々の暮らしを安楽にしたのです。
重源はそのあと、大仏殿再興の材木にふさわしい木を探し求めたのですが、深い谷や高い岩があって、なかなかはかどりません。そこで杣人(きこり)に「材木にふさわしい木を探した人には一本ごとに米一石を与えよう」と言いました。生活に困った人にとって何よりもうれしいのは米でしょう。これさえあればさしあたって生きていくことができます。
因茲杣人等各発動心
不論谷峯忘贏贔負
以求尋好木也
杣人たちはやる気を起こします。険しい谷だろうが峯だろうが、そんなことはおかまいなしで勝ち負けを争わずに立派な材木を探し求めました。
柱の大きさは長さが9丈、10丈もあるもの、7丈、8丈のもの、口径は5尺4,5寸というものでした。
木を伐り出すにあたっては、轆轤(ろくろ)を用いるという工夫をしました。峠に設けた轆轤に太い綱を巻いて、材木を落とす力を利用して反対側の材木を吊り上げる工夫です。
さらに重源は数十丈の谷を埋め、巨大な岩を砕いて山道を開き、邪魔になる多くの木を伐ってけがをしないようにし、大きな橋を作って谷を渡れるようにしました。寒い時は水をしのいで、暑い時は汗を拭って人々はこの仕事に従事しました。
しかし、大きな木はあるのですが、材木としてふさわしいものはなかなか得難いもので、数百本伐っても十本か二十本しかありませんでした。というのは大きな木でも中ほどが「うろ」になっていたり、節や枝が多すぎたりしたからです。
従杣中出大河、名曰佐波川
木津至于海七里【三十六町為一里】
水浅故柱不流下
仍関河而湛水也
七里之間関水之所百十八處也
山の中から大きな川に出ます。その川が佐波川なのです。海までの七里は水深が浅いので材木が流れません。そこで河に関を作って(一部を堰き止めることで水路を作って)水を湛えるように工夫しました。その水を堰き止めたところは七里の間に118か所にも及んだのです。これが今言われる「佐波川関水」です。
このように、『東大寺造立供養記』を少し読んだだけでも、想像を絶するような大事業であったことがうかがわれます。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/02 00:00]
- 文楽 浄瑠璃 |
- トラックバック(0) |
- コメント(0)
- この記事のURL |
- TOP ▲
仁左衛門の一世一代
私が歌舞伎役者というものを初めて(おそらくテレビや新聞などで)認知したころというと、まだ二代目尾上松緑、七代目尾上梅幸、六代目中村歌右衛門、十七代目市村羽左衛門、十七代目中村勘三郎、二代目中村鴈治郎、十三代目片岡仁左衛門、三代目実川延若といった人たちが健在でした。そして江戸歌舞伎の若手であった「三之助」、つまり市川新之助(のち、十二代目市川團十郎)、尾上辰之助(若くして病没)、尾上菊之助(のち、七代目尾上菊五郎)が人気を博していました。しかし、上方の若手の役者は知りませんでした。
ところが、そこに江戸歌舞伎の御曹司ではない片岡孝夫が登場したのでした。梨園出身でなく、守田勘彌の養子に過ぎなかった五代目坂東玉三郎を相手に演じた
桜姫東文章
は大変なブームを巻き起こしたとされます。このころ、私はまだ歌舞伎にはあまり関心がなく、何となく噂で知っていたという程度です。玉三郎はすでに「海老玉」と称されて十代目市川海老蔵(のちの十二代目團十郎)とのコンビも人気でしたが、新たに「孝玉」が誕生したわけです。
その後の孝夫は、後ろ盾のない江戸で奮闘して人気、実力ともにトップクラスになって、三男でありながら仁左衛門の名跡を十五代目として継いだのでした。
私が最後にこの人の舞台を観たのは大阪松竹座で、秀太郎さんも御一緒だった
義賢最期
でした。「仏倒し」と言われる義賢の凄絶な最期を表現する演技も眼に焼き付けました。それ以後はもう身体的にも金銭的にも歌舞伎には行ける状態ではなく、あれが私の松島屋の見納めと思っています。
颯爽としていつまでも青年の雰囲気を漂わせる松島屋は、本日初日を迎える、東京歌舞伎座での公演で「渡海屋・大物浦」の知盛を演じられます。それだけでも評判を呼びそうですが、何と今回は
一世一代
として役をお勤めだそうです。本来歌舞伎役者で一世一代というと引退前の最後の演技ということですが、今はその役を演ずるのは最後になるという意味で使われるようです。いずれにしても、松島屋にもこういう言葉が使われるようになったのだと、何となく感慨があるというか、寂しい思いも抱いてしまいます。
1944年生まれの松島屋は今年78歳になられます。亡くなった成田屋が1946年、播磨屋が1944年、活躍中の七代目菊五郎が1942年、二代目松本白鸚が1942年の生まれ。
次の世代、その次の世代の奮起が待たれます。
にほんブログ村
↑応援お願いします
- [2022/02/01 00:00]
- 日々牛歩 |
- トラックバック(0) |
- コメント(2)
- この記事のURL |
- TOP ▲
- | HOME |