軍備
この国の国民の多くは、最近のウクライナ情勢に鑑みて、防衛力という名の軍備増強に肯定的になっているようです。自分の身を守ることは人間の本能ですから、気持ちはわからなくはないのですが、ことは戦争に関わってきます。軍備を増強するということは他国に対して脅威になるということでもあり、他国はさらに日本を敵視するという悪循環に陥る可能性もあると思います。
5月8日の朝日新聞によれば、防衛力(軍備)増強に「賛成」「どちらかと言えば賛成」を合わせた「賛成派」が64%にのぼったそうです。ほぼ3分の2にあたります。反対派は1割ほどで、圧倒的な差がついています。もちろん、賛成派の人は突然出現したわけではなく、新聞の調査を見ても、以前から5割以上の人がもっと兵器を、戦闘機を、と望んできたようです。自民党はそういう人たちの支持を受けているわけですから、強気になるのももっともですね。
明確な賛成派の人の意見をSNS上で読んだことがあるのですが、その人は、「反対派の人間はいつまでも平和が続くと思っていて、中ロ朝などの脅威をまったく理解していない
頭がお花畑
の人種だ」という意味のことを書いていました。明治かせいぜい戦前の人のような「勇ましさ」を感じます。そして行きつくところは軍隊の設置、核の保有ということになるのでしょう。しかし、日本ほど核を持ってはいけない国はないのではないか、と「お花畑」の私には思えます。核を持つことはそれ自体が人類としての犯罪に加担することであり、いくら「きれいごとに過ぎない」と言われても私は核の保有に与するつもりはありません。
ある新聞記者が外務省の役人から
「『唯一の被爆国』
などという言葉は海外では通用しない」と言われたことがあるそうです。海外で通用しないからその言葉には意味がない、という論法なのでしょう。相変わらず「外国様のおっしゃること」に弱く、「日本の言うことなど誰も聴いていない」という諦観を持つことがグローバルの意味だと考えているのではないか、自分の意志を持たないのだろうか、通用しないなら通用させるようにしたらどうなのかとすら思います。
世界は複雑です。自分の考えを他者に理解してもらうことの困難さはよくわかります。だからと言って黙っていたのではどうにもならないように思えるのです。
私はやはり軍備増強には反対します。
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- [2022/05/31 00:00]
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御神饌
プランターでいろいろ作るだけの家庭菜園愛好家ですが、とてもできないのは米作りです。憧れますが、こればかりはどうにも無理ですね。天皇なんていう仕事はまっぴらごめんですが、五月十八日にナルちゃん天皇(こんな呼び方をしたら怒る人がいるだろうな)が田植えをしていたのを見て、あの時だけ代わりたいと思いました(笑)。ご自身では20ほどの苗を植えて、あとは専門家におまかせのようですね。秋になったらまた鎌を持って収穫しなければなりません。稲刈り機なんて使えないのです。写真撮影があるので、それなりのポーズで植えねばならないでしょうから、陛下もなかなか大変ですね。
Facebookの「友だち」で淡路島の農家の方複数がいらっしゃいますが、広大な田畑で米や野菜をお作りになっているのを拝見すると、ああいう家に生まれるのもよかったのかもしれない、と思います。
そのうちのお一人は、淡路の
鶴澤友路師匠
の下で弾き語りの修業をされて、人形座で活躍なさいましたが、阪神淡路大震災以降はそれをお辞めになって、農業をなさりながら個人で義太夫活動をお続けでいらっしゃいます。
三味線と農業なんて、何だかもう、うらやましいったらないですね。
人間はそもそもライオンなどと同じで狩猟をする
肉食獣
だったそうです。生物学の方がそうおっしゃっていました。となると、私のように肉食を好まないものはもっとも人間的でないということになりそうです(笑)。人間はいつしか米を作ることを覚えて、そのために田畑を切り開き、それは環境破壊にもつながることになりました。また、品種改良という形で、できるだけ多くの種(すなわち米)を生むイネにする工夫もしてきたわけですが、人間の身勝手とも言えるでしょう。実るほど頭を垂れる稲穂と言いますが、頭を垂れるほど実るのは自然ではないとも言えます。
ともかくも、長期保存が利いてエネルギー源になる米は、甑(こしき)で蒸した強飯(こはいひ)や今のご飯と同じように炊いた「粥」や今のお粥にあたる「汁粥」などの形で食べられました。古くは、庶民はなかなか口にできませんでしたが、日本人の生活にはきわめて重要なものになり、お金の代わりにもなり得たのでした。平安時代の貴族は黄金も持っていましたが、邸宅内に大きな米蔵を持っていて、それが彼らの財産として利用されました。神聖なものという考えもあって、出産の現場では女房たちが「うちまき(米を撒く)」をして産婦に悪霊が取り憑かないようにもしました。
この春、神社のお神楽に行ったとき、
御神饌
をいただきました。神様からのお下がりですね。私はてっきり米粒がいくらか入っているのだと思っていました。そして、その夜にご飯を炊くときに混ぜ込もうと考えていたのです。しかし、いただいたものは神社の紋をかたどった紅白の干菓子でした。もちろんこれはこれで嬉しくありがたいもので、苦いお茶と一緒にいただくことにしたのでした。
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- [2022/05/30 00:00]
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ランナー
英和辞典を見ると、「runner」の項目にはたくさんの意味が書かれています。「walker」にはそんなにあれこれ意味はないのに、おもしろいものです。
「runner」の第一義は当然「走る人」です。「競走馬」「走り使い」「(野球の)走者」あたりはそれに近い意味ですが、「逃走する者」というところから「密輸商」「密輸船」という意味もあるのだとか。さらに「客引き」「集金人」「(機械の)運転手」「スケートの刃」「細長いじゅうたん」「靴下のほつれたところ」などという意味まであるようです。そして、「(植物に関して)匍匐枝」という説明もありました。「匍匐」は腹ばいになって進むことですから、地を這う枝茎のことです。早い話が蔓(つる)のことで、上には伸びないものです。
イチゴが花を咲かせて実をつけると子孫を残す準備ができます。鳥に食べてもらって別の地に運んでもらい、糞の中に残ったタネを落としてもらおうというわけです。しかしイチゴにはもうひとつの方法で増える手段があります。それが「runner」、すなわち
ランナー
です。
「匍匐枝」の名のとおり、地面を這うように伸びてくる茎なのです。花が終わるといつのまにか先に葉のようなものをつけた少し太い茎が伸びてきます。これを、例えば育苗用のポットに受けて、軽く土につけるようにしてやると、そこから発根して新たな株ができます。ランナーは、ひとつの株から何本も出てきますので、増えるのです。先の葉のようなものは、大きくなると
クラウン
と呼ばれる株の基幹部分になります。ただ、イチゴの育て方の資料を見てみると、根付いたものからさらにランナーを伸ばして孫世代の株を作るのが良いそうです。そしてその孫の株を来年育てるのです。子の株は親の欠点(病気)をうけついでいることが多いらしく、育てることは推奨されません。
私が昨秋から育ててきたイチゴも花と実が終わり、いよいよランナーが出てきました。最初のうちは花茎と紛らわしいのですが、明らかに太さが違い、また先端の様子がはっきりランナーであることを示しています。これからは来年のために株を育てる作業に入ります。
さて、無事に発根してくれるでしょうか・・。
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- [2022/05/29 00:00]
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外でのマスク
東京や大阪ではCovid-19の感染者がそれぞれ140万人、90万人を超えています。人口比でいうと10%を超える人が感染したことになります。全国では800万人超ですから、6.5%くらい。やはり都会の感染者の数は段違いに多いです。亡くなった方は東京が4,400人ほど、大阪が5,000人ほどで、なんと大阪の方が多いのですね。
大阪在住と見られる学生さんのInstagramへの投稿を見ると、誰かの家にたくさん集まって大笑いしながら何かを食べて、顔を近づけながら写真を撮っている姿をよく見ます。以前とほとんど変わらない風景です。若い女の子たちですから遊ぶなというわけにはいかないですし、集まれば大騒ぎするのは目に見えています。もしその中に1人でも感染者がいたらほぼ全員アウトでしょうね。ただ、現実にはたいていクラスタになることもなく、何の問題ないので、よけいに
危機感
は薄れるのだろうと思います。
これから暑くなっていきますが、こうなると運動するときにマスクをどうするかという問題が起こってきます。今でもスポーツ選手はマスクなしで試合をしており、大きな声も出さないわけにはいかないでしょう。サッカーなんて、マスクを知ようものなら酸欠で倒れる選手が出てくるのではないかと思います。
ただ、街中でジョギングしている人の中にはわりあいにマスク姿の人がいます。わざとマスクをすることで吸い込む酸素濃度を抑えて鍛えているのだろうかと(そんなわけはないですが)思うくらいです。
小学校のようすを見ると、通学は集団登校が基本でしょうから、みんなマスクをしています。しかし短時間歩くだけですからさほどしんどくはないでしょう。でも、運動場でマスクをして走り回っている子どもの姿も見かけます。教育委員会からそのようにお達しがあるのでしょうが、こちらはいささか心配になってきます。ランニングをしていて倒れた子がいたような記憶があります。
もっと小さな子どもでも、3歳児以上になるとやはりマスクをしなければならないようです。
海外に行くと今でもバスや電車でもマスクをしないのがあたりまえというところは少なくないようですが、日本人は
潔癖症
の人が多くて、うっかりマスクをせずに歩いていたりすると白い目で見られます。私は以前、誰も歩いていない道でマスクをせずに歩いていたら、どこから現れたのかという感じで高齢の男性が近づいてきてお小言を食らったことがありました。おそらくマスクのことだったのでしょう。近づいて来なければいいと思うんですけど、と言いたいところですが、向こうは怒っていますので、こういう場合は素直に聞いておいた方がいいのだろうと思って何も言いませんでした。
政府はやっと、体育の授業でのマスクは熱中症のリスクがあると言い出しているようです。外を歩く時も人通り次第で外してもいいということも言っているそうですが、当然だろうと思います。
これでまたしばらく様子を見ていくほかはないのかな、と思いますが、ほんとうに厄介な世の中になりました。
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- [2022/05/28 00:00]
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人の心を動かせるか
浄瑠璃を書くということが、ほとんどライフワークになってきました。平安時代の研究こそ、と思ってきたのに、人生はわからないものです。ライフワークといっても、もうあまり時間もなく、あとどれくらい書けるのかわかりません。越路太夫師のお言葉を借りるなら「一生では足りない、
二生
欲しい」と思います。もちろん今さらそんなことを言ってもしかたがありませんので、残された時間を有効に使う努力をするばかりです。
なぜ浄瑠璃を書きたいと思ったのか、と問われたら、私にとって言葉はリズムでありメロディだから、というのがひとつの答えといえます。それを具現化する手立てのひとつとして和歌があり、浄瑠璃があります。和歌は文学、浄瑠璃は演劇。その両方に魅力を感じて自分の生きてきたことを証明したいということです。学者としても教育者としても、何の成果もなく、周りから評価されることもなくときにはマイナス評価をされることもありました。屈辱的ではありますが、それも世の中の不条理と見て、短歌や浄瑠璃に生かせればいいのではないか、とも思います。
浄瑠璃を書きたい理由として、そういう純粋な思いのほかに、厚かましい願望というか、色気のようなものがあるとすれば、やはり
人の心を動かしたい
という思いです。文章を書く人間にはきっと少なからずあると思うのですが、共感してほしい、一緒に考えてほしい、笑ってほしい、泣いてほしい、などという思いが根底に潜んでいます。
聴いていただきながら、「そうだよな」と思ってもらえるならどれほど嬉しいでしょうか。
初めて上演してもらった作品は稚拙なものではありますが、大阪府能勢町の人形浄瑠璃のために書いた『名月乗桂木』という作品でした。これは喜劇なのですが、自分では喜劇だと思っていても、笑っていただけるかどうかはわかりません。それだけに、初演の時に周りのお客様が笑ってくださったときにはその笑いがからだの中に沁み込んでくるような思いをしました。あんな感覚はそれまでにはほとんど感じたことのないものでした。
狂言風オペラ『フィガロの結婚』のときに、膝を叩いて笑ってくださる方のお姿を見たときは、少し違って、身体が火照るような感覚になりました。
また、野澤松也師匠にお送りした作品を語っていただいた時に、松也師匠から「お客様が涙されました」と聞かされた時はゾゾッと寒気がするような不思議な気持ちになりました。浄瑠璃なんて初めてという学生も、松也師匠に語っていただいた拙作を聴いて「涙が出そうになった」と言ってくれたことがありました。
松也師匠はもう何度も拙作を語ってくださっていますが、私はその都度「せっかくの師匠の演奏なのに今度はダメなんじゃないか」「内容がつまらなかったと言われるのではないか」とそんなことばかり考えてしまいます。
今後はまた「人の心を動かしたい」という願望を振り切って、純粋に書きたいことを書くという境地に至ればいいな、と思っているのです。
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- [2022/05/27 00:00]
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豊作のイチゴ
昨秋、イチゴの苗を手に入れたときは、収穫できるのかどうか、はなはだ不安でした。1個だけでもいいから食べてみたい、と願ったのは大げさではないのです。ところが春になって花が次々に咲き出して、ひとつの株から数十個の実ができるという、想像もしていなかった成果が上がりました。
味は、やや酸っぱさが勝って、いまひとつ(笑)なのですが、イチゴらしいと言えばイチゴらしい味です。店で売っているもの、つまり本職の人が作るものはどうしても甘さを追求しがちです。私はどうすれば甘くなるのかも知りませんので、うまくいくはずがありません。
それでも、実のできる数ということでいうなら満足しています。苗はひとつ
198円
でしたから、元は取った(笑)でしょう。
もちろん私の場合は、イチゴを栽培することに最大の目的がありますので、元を取ったどころかお釣りが来てもおかしくないくらいです。冬の間はあまり活発に成長しなかったのに、春になると目覚ましい勢いで成長し、はが大きくしっかりとしたものが次々に出てきました。ああいうときの悦びは栽培の醍醐味だと思います。少なくとも私はそれがおもしろくて土いじりをしているのです。
最初のうちは1日に1個しか穫れなかったのに、4個になり8個になり、と、増えても行きました。予想をはるかに超える方策だと言ってもいいと思います。実の数を正確に数えておけばよかったと後悔しています。
5月に入ると、
ランナー
も伸びてきました。次世代を作る蔓のようなものです。するすると長い茎が出たかと思うと先っぽにちょっとした緑の葉のようなものがついているのです。イチゴの幹のような「クラウン」の幼い姿です。実が生っているうちはまだそれを成長させない方がいいらしく、収穫が終わったら小さなポットにその赤ちゃんクラウンを受けて、根付かせてやるのです。これも初体験ですので今から楽しみにしています。
やはり198円は安いです。
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- [2022/05/26 00:00]
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500の種
5月になると、ここ何年か、窓辺に朝顔の種を蒔いています。たいして日よけにはならないのですが、それでもエアコンがないうえにまともに西日を受ける私の部屋では少しでも役に立つかなと思っているのです。
昨年はプランターがなかったので朝顔を蒔いたのはニンニクのあとでしたから、6月だったのです。遅すぎてうまく育たないかな、と案じたのですが、それは杞憂に終わり、たくさんの花が咲いて、種もこれでもかというほどできました。また、やたけたの熊さんからも種をいただいたので、それがまた種をつけ、手許におそらく500くらいの種があると思うのです。
誰かにあげればいいのですが、そういう相手も思い浮かびませんし、朝顔の種なんて安いもので、何かのおまけについていたり、チラシと一緒に配っていたりすることもありますから、わざわざもらってくれるひともなさそうです。これがせめて10円硬貨であったら、5,000円のお小遣いになるのですが・・。
せめて私は
3株くらい(笑)
育てたいと思っており、3粒は使いそうです。そしてもし今年も花が盛んに咲いて種ができたら、うちはそのうちに朝顔の種であふれる(笑)かもしれません。
そのうちにやむを得ず廃棄せざるを得なくなるでしょうが、今年もともかく蒔いてみることにします。
朝顔の種はゴールデンウィークの頃に蒔くといいそうですが、私がそのためのプランターを置く場所には、今のところイチゴとニンニクがあるのです。そのため朝顔のスペースがなく、せめてニンニクを収穫してからにしようと思っています。実は去年も同じで、6月に蒔いたのです。それでじゅうぶんに咲きましたので、この時期でもいいかなと思っています。
土は
準備OK
ですし、プランターもありますので、その日を待つばかりです。
それにしても、500もの種はもったいないような気がしています。いっそ家の前に10個くらいをひとまとめにして小さな袋に入れて「ご自由にお持ちください」と書いておいておこうかな。
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- [2022/05/25 00:00]
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2022年文楽五月東京公演千秋楽
文楽東京公演が千秋楽を迎えます。
豊竹咲太夫さんがお休みというのは、東京のファンの方々にとっては残念なことだったでしょう。
今後は、夏の公演とか東京公演などは無理にご出演なさらずに、というわけにはいかないのでしょうか。
次の公演は六月の「大阪鑑賞教室」「大人のための文楽入門」「Discover BUNRAKU」で、
『二人三番叟』(「大人のための文楽入門」「Discover BUNRAKU」では上演なし)と『仮名手本忠臣蔵』から二つ玉、身売り、早野勘平腹切だそうです。
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- [2022/05/24 00:00]
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化粧
高校生くらいになると、色気づいてくるというか、何とか自分をカッコよく見せたいという欲望が湧いてきます。私のように何ごとにも無頓着な人間でもそんなことがありました。髪型とか服装とかをどうすれば女性に振り向いてもらえるかと、そんなことを考える時期があったのです。ずば抜けて成績優秀だとか、めっぽうスポーツができるとか、そういう人ならあまり気にしなくても人気者になれたのでしょうが、なにしろ優秀とか運動神経に縁のない私ですから、そういう無能さを何とかごまかす方法が必要だったのです。ただ、私にはまるでそういうセンスがなかったためにすべて空振りに終わったのですが。
仕事をするようになってからも、ネクタイだとかスーツだとかに凝ってお金をつぎ込む人は多かったのですが、私の場合、他人様より学生生活が長かったためにそういう服装になじむ機会が遅くなったのです。また、就職してからしばらくはスーツやネクタイをきちんと着けていたのですが、そのうちにだんだんめんどうになってまたいいかげんな格好で働くようになってしまいました。
なにしろ、ネクタイというのも人からもらったものばかりで、私は自分のお金でネクタイを買った経験がほとんどなく、唯一結婚式に招かれたときのための
白ネクタイ
だけは必要に迫られて買ったことがあるという珍しい人間なのです。
化粧品というのも、高校生の頃からヘアトニックなどの整髪用品は使い始めましたし、オードトワレも持っていました。しかし顔に付けるものというとアフターシェーブローションくらいのものでしたし、顔に細工をする(笑)ようなことは一切といってよいほどなかったと思います。
その点、最近の若い男の子は、まったく違いますね。まず、眉毛のおしゃれをします。散髪に行ったときに、「こうしてほしい」と指定するのでしょうね。最近減ってはきましたが、野球部の選手は坊主頭が多く、髪型はどうしようもないのですが、だからこそ眉のおしゃれには気を使うようです。
化粧水
も必需品で、汗臭いようではダメなのですね。女の子も「化粧水を使っている男子」をかなり好意的に見ているようです。服装も、靴もはっきりいって私よりずっといいものを身につけている学生さんは少なくありません。私はテレビ出たときに、いくら何でも服がないでは済まないから、というので、6万円くらいのスーツを買ったことがありますが、それが多分最高値。私にとって6万円というのは相当思い切った出費だったのです。テレビのギャラではとても足りず、出るんじゃなかったと思いました(笑)。
靴も、今履いているのはバーゲンで1,280円で買ったものです(笑)。それはかなり極端な例なのですが、これまでに5,000円以上の靴は買ったことがないと思います。
学生さんから「学生時代はモテましたか」と聞かれたことがあります。私が、いかにおしゃれに縁がないかの話をすると「それはダメですね」とあっさり言われてしまいます。そりゃそうだよね・・。
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- [2022/05/23 00:00]
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活
いつの頃からか、「就職活動」という言い方ができました。はっきりとは覚えていないのですが、私の学生時代にもあったような気がします。私があまり記憶にない理由は簡単で、会社訪問に励んでいた友人たちを横目にしつつ、就職活動そのものの経験がなかったのです。
私は学部を卒業する時と大学院の博士課程に行くときの二回、兵庫県立高校教員になるための採用試験は受けましたが、これに合格して教員になろうとする場合もこちらから何か働きかけをすることはありません。県の教育委員会で合格者名簿を作成して、各高校の校長がこの人を採りたい、と思ったら一本釣りしてくるのです。幸か不幸か(今思えば不幸だったかも・・笑)、大学院に行きましたので、合格者名簿に載ったあと、お断りの連絡はしたのですが、何かの手違いで、ある高校の校長から実際に電話がかかってきたことがありました。このときは「阪神間の高校」を希望していたのに、かかってきた電話はなんと播磨の山の中の高校でした。もしあそこに行っていたら、今ごろはその地方に家でも建てて左うちわで趣味半分の農作業などをしていたかもしれません。少なくとも今より経済的にはゆとりがあったでしょう。ただ、文楽とここまで触れ合うことはなかったかもしれませんが。人生何がどうなるかわかりませんね。
そんな思い出話はともかく、就職活動はさらに
就活
という略語を生み、パソコンで「しゅうかつ」と打てばすぐに「就活」と変換されるくらいあたりまえの言葉になりました。私の学生時代にはまだこんな略語にはなっていなかったと思うのですが、やはり記憶はあいまいです。
今の私はそろそろ人生の終わりをどうするかについての活動をし始めねばならないのですが、こういうのを「就活」になぞらえて「終活」というようにもなりました。不要なものを処分したり、あとに残る人に迷惑のかからないようにしたり、という作業です。この「終活」もパソコンは「就活」に次ぐ第二候補として変換してくれます。
こういう言葉が流行すると、「○活」という表現が一気に蔓延して、この「○」の部分に漢字一文字を入れて「○△活動」の略語として用いることができるのです。しかし現実には「○△活動」というよりは、「○△という行為を一生懸命にすること」くらいの意味で用いられているように思います。
そうやって生み出された「○活」という言葉には、
転活・・転職活動
朝活・・朝からしっかり食べて精力的に動く
涙活・・涙を流してストレスを発散する
燃活・・脂肪を燃焼させる(笑)
婚活・・より理想的な結婚のために張り切る
妊活・・妊娠するために尽力する
離活・・より有利な離婚のために励む
保活・・子どもを保育所に入れようと努める
眠活・・よりより睡眠のために工夫する
留活・・留学のために準備する
などというのがあるそうです。
何でも「活」の前につければいいってもんじゃないよ、と言いたくはなるのですが、「活」という言葉にそれだけの魅力があることの裏返しだともいえるでしょう。「活」という、いかにもはつらつとした、いきいきとした漢字は「何かを一生懸命おこなう」という明るい気分を醸し出してくれるのでしょう。「一生懸命おこなう」というのは、
がんばる
とも言い換えられそうです。「頑張る」というのは、何事にも勤勉な国民性として美徳のように感じられるのでしょうか。自分のしていることは無駄なことではないのだ、意義あるがんばりなのだ、と思いたい、という自己弁護も潜んでいるかもしれません。
そして、とどまることなくエスカレートする「○活」はついに漢字一字を入れるだけでは収まらなくなってきたようです。小学校に入学する前にはおじいちゃん、おばあちゃんによる「ラン活」というのがおこなわれるそうです。ランドセルを一生懸命選んでやるのですね。私が子どものころは、ランドセルというと男の子は黒、女の子は赤、というのが定番でしたが、今は色もデザインも素材も重量もさまざまなものがあるために、がんばって探さねばならないようです。よその子に負けないような(笑)いいものはそれなりの値段もするでしょうから、大変ですよね。
「ソロ活」というのもあるそうで、これは人と一緒に何かをするのではなく、一人で(ソロ)自分の好きな活動をすることだそうです。一人旅、一人ごはん、一人で野菜と向き合う家庭菜園などをするのが「ソロ活」なのだとか。ということは、今の私は完全にこの「ソロ活」に打ち込んでいることになります。いや、別に打ち込みたいわけではないのですが、日常のあれこれが、やむを得ず「ソロ活」になっている、というのがほんとうのところです。
また漢字一字に戻りますが、「友活」というのもあって、これはSNSの「友だち」などではなく、リアルに友人を作ることだそうです。私も、どうせなら今からでも「友活」をしたいものだと思います。
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- [2022/05/22 00:00]
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ブランデンブルク協奏曲
Facebookのメッセンジャー機能を使って、ある芸術大学の卒業生の方と少しお話をしました。芸大には邦楽系のコースもありますが、やはり主流は西洋のクラシックではないでしょうか。
「音大を出ています」
「声楽ですか、バイオリンですか」
という会話はすぐに成り立ちますが、一般的に「三味線ですか、能楽ですか」と尋ねることは少ないでしょう。
その方も声楽だとおっしゃっていましたが、専門分野だからと言ってえらそうになさることなく、私の音楽体験の無駄話にも付き合ってくださいました。私はオペラも好きでしたが、本来は楽器なのです。管楽器をしていましたので、そちらの方面の曲がとても好きでした。
モーツアルトのフルート四重奏は小品なのですが、初歩のフルート練習にもなるような作品です(実際は奥深くて初心者には吹きこなせないのかもしれませんが)。
憧れたのはドボルジャークの
交響曲8番
です。その第4楽章ではフルートのトップ奏者がソロをかなり吹きますので、この楽器を愛する者にとってはとても魅力的なのです。現実にはあり得ないことでしたが、オーケストラに入ってこれが吹けたら最高だろうな、と思いました。ドボルジャークといえば「新世界から」と言われる第9が有名で、あの作品では第二楽章のイングリッシュホルンの独奏がよく知られます。しかし私は圧倒的に8番が好きで、私が通った大学のオケがこの曲を演奏した時までわざわざ行ったくらいです。このときにフルートを吹いた学生は、やはりアマチュアですから音色はきれいではありませんでしたが、なかなかのテクニックだったので感心しました。
バッハの
ブラブランデンブルク協奏曲5番
も大好きでした。バッハはバッハでも「ぼったくらない」、倹約質素なヨハン・セバスチャンのほうです(言うまでもありませんが)。セバスチャン・バッハはほんとうに倹約家で、楽譜の空いたところにはもったいないからと別の曲を書きこんだという話を聞いたことがあります。「ブランデンブルクの5番」は生演奏で聴く機会がわりあいにあって、オール・ブランデンブルク協奏曲のプログラムに行ったこともありました。この曲はわりあいに指遣いは簡単で、私も真似をしたことがありました。
バッハと言えば無伴奏パルティータというのもあって、これはなかなか難しいのですが、それでも一生懸命練習して少しだけ吹けるようになった思い出があります。
管楽器は、篠笛も少し練習しましたが、もう今はすべて過去のことになってしまいました。
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- [2022/05/21 00:00]
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ニンニクも
去年の秋からイチゴを植えています。植木鉢二つに一株ずつ植えていて、ずいぶん大きくなり、実もたくさんついてきました。不器用な私のすることとしてはまず成功というべきでしょう。しかし鉢二つだと、いくら狭いといっても窓辺のスペースにはまだ余裕があります。それで、ほぼ同じ時期にもうひとつ小さなプランターを置いて、4年目のニンニク栽培もしています。
去年までのニンニクとは品種が違うのですが、まあ同じように育ってくれるだろう、と高を括っていました。
ところが、植え付けが少し遅かったのと、イチゴに関心が行き過ぎてニンニクの土をいいかげんにしてしまった(かもしれない)のとで、うまく育ちませんでした。なかなか芽が出ず、出てきたときはもう冬になっていて育たないままになったのです。本当は秋のうちにある程度葉を伸ばしておくべきなのですが、うまく成長せず、冬の休眠期には短い葉を眺めて「もう廃棄した方がいいかもしれない」と思ったくらいでした。
ところが、春になると葉がどんどん伸びて増え始め、去年とあまり変わらないくらいの、それなりの大きさに育ってきたのです。こうなると安易に抜いてしまうわけにもいかず、二月ごろには最後の
施肥
もして、さらなる成長を待つことにしました。それでも、秋にうまく育っていませんのであまりエネルギーが蓄積しているようには思えず、はなはだ不安なまま5月を迎えたのです。
ニンニクは5月の初めごろに花茎が出て花を咲かそうとします。しかし今年は気候のせいなのか、芽が出てきません。
ニンニクは花を咲かせると肝心の根の部分が成長しなくなるので、花が咲く前に取ってしまいますので、まあどちらでもいいのですが(笑)。もし芽が出たら、これがスーパーなどで食用として売っている「ニンニクの芽」ですから、これも食用になるのですが。
こうなるとあとは土の中の「ニンニク」が肥大してくれるのを待つばかりです。
もう少しで
葉が枯れる
はずですが、その枯れ始めの時期をのがさずに収穫するのです。おそらく来月初めごろだろうと思うのですが、大きくなるかどうか。
これまでのニンニク栽培は、やはり年を追うごとに大きいものができるようになって、それは手探りだった一年目に比べて次第に慣れてきたからだろうと思うのです。それでいうなら、今年はもっと立派なものが育たねばならないのですが、先ほど書きましたような事情で心配なのです。
イチゴの続報とともに、こちらも後日その結果をここに告白しようと思っています。
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- [2022/05/20 00:00]
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30周年
いつごろからか、勝手に浄瑠璃作者を自称しています。
作家というと何かそれで本を出しているとか、お金を稼いでいるというようなイメージがありますので、遠慮して「作者」にしています。しかし「作家」というと近代以降のイメージがありますので、案外浄瑠璃には「作者」が向いているかもしれません。
では私の浄瑠璃作者としての出発点は何だったのか、というのを振り返ってみました。はっきり覚えているものに『浜衛恋帚木』(はまちどりこひのははきぎ)というのがあるのですが、当時はワープロで書いていたのですが、フロッピーディスク(なつかしい)に入れていたデータがどこかに行ってしまいました。やはり最初の作品なので読み返してみたいと思うこともあるのですが、もう無理でしょうね。
ほかにも、タイトルは覚えていないのですが、たわいない若者向け浄瑠璃のようなものも書いたことがあります。
しかしそれらはやはり習作に過ぎず、まったく自分でも自信のないものでした。
やはり出発点というと文楽なにわ賞をもらった
斎宮暁白露
(いつきのみやあけのしらつゆ)
だろうと思います。今年の2月にそれは改めて活字にしたのですが、それを書いたのは1992年のことでした。
ずいぶん前だなぁ、何年前だろう、と思って引き算をしてみると、なんと、ちょうど30年前ではありませんか。
ということは作者デビュー(笑)してから今年は30周年ということになります。時間の経つのはほんとうに早いものです。
それにしても、30年とは言いながら、途中まったく書かなかった時期が長かったので、作品数は実に少ないのです。言い訳をしますと、作曲してもらえる当てがないとやはり書いていて虚しいものですし、そもそもその時期は雑用をさせられてばかりで本当に忙しい日々で作品を書く余裕はありませんでした。わずかに、あの阪神淡路大震災の年に書いた能勢町の新作浄瑠璃
名月乗桂木
があったくらいです。
もっと書きたいという思いはないわけではなかったのですが、需要がないために、なかなかモチベーションが上がらないのでした。
ところが、その後、豊竹呂太夫師匠や野澤松也師匠のおかげで作品を演じていただく機会がもらえましたので、2015年からの7年ほどの間にずいぶんいろいろ書くことができました。きっかけになったのは呂太夫師匠の本を書いたことで、師匠に私がしていることを知ってもらえましたし、編集者の人が松也師匠との縁を取り持っても下さいました。どこに縁が転がっているかわかりませんね。
そんな事情で、一応今年を30周年ということにして、記念作品(笑)を書きたいものだと思うようになりました。
ひとつ、進行中のものがあるのですが、ほかにも並行して書きたいと思っています。今後はさらに地域の浄瑠璃のようなものができれば楽しいだろうなと思います。松也師匠は京都、呂太夫師匠は大坂、奈良では幼稚園での人形劇、と活動してきましたが、兵庫県、滋賀県あたりではまだ何もしていませんので、そのあたりでも作ってみたいと思っています。
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- [2022/05/19 00:00]
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沼(津)にはまる
「床本を読みましょう」というページを作るために『伊賀越道中双六』「沼津」を丁寧に読んでいるのですが、当初は何度かやってみて読んでくださる方が「だいたいわかった」と言ってくださったらあっさりやめようと思っていたのです。ところが、自分でもまったく予想していなかったのですが、読んでいくうちに私自身が夢中になり、やめられなくなってしまいました。最初のうちは文字の読み方だけを説明していたのですが、次第に作品そのものについて思うことまで書くようになって、説明文がどんどん増えていきました。
例えばこんな場面に来るともうたまらなくおもしろいのです、
沼津の雲助である平作は、三十両の石塔料とともに旅人の十兵衛が置いていった書付を見て、そこに記された内容から、実は十兵衛はかつて養子に出した我が息子であったことを知ります。しかも十兵衛は敵対する立場にあることも知り、何とか後を追って敵の情報を手に入れようとして十兵衛を追いかけるのです。その場面に
本海道は回り道。三枚橋の浜伝ひ
勝手覚えし抜け道をと、子ゆゑに
迷ふ三悪道。こけつまろびつ
という部分があります。
本海道は五街(海)道のことで、この場面では東海道を指します。三枚橋は今の沼津市三枚橋町にあった貉川(むじながわ)に架かっていたという板(または石)を三枚連ねただけの橋です。こういう、具体的な名前を出すことで、平作がいかにも「勝手覚え」た人であることが表現されるのです。「子ゆゑに迷ふ」は平安時代の和歌「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」による慣用句。平安時代からずっと用いられてきた言葉で、力強い言霊があります。「三枚橋」の浜伝いに進んで、その行く先は「三悪道」。「三」が響いています。「三悪道」は現世で悪行を働いたものが落ちる
地獄、餓鬼、畜生
の道。そこに向かってこけつまろびつしながら走っていくのです。すばらしい文章です。
こういう文章に出会うと、私などが浄瑠璃作者を自称するのはあまりにもおこがましい気分になってしまいます。
そしてこういう文章を読みながら、竹本津太夫師、竹本住太夫師らの語りがまざまざと浮かんできます。二代目桐竹勘十郎師や吉田作十郎師らの平作も思い浮かびます。文章を読んでいるだけなのに「沼津」の沼にはまってしまいそうです。
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- [2022/05/18 00:00]
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読みたくなる
『源氏物語』の講座をしていた時、「もしご希望があれば昔の仮名を読む練習をしてもいいのですが」と申し上げましたら、半数くらいの方が「やってみたい」とおっしゃいました。その方々は「まったく読めない」とおっしゃっていて、「それなら瞬く間に上達しますよ」とそそのかして(笑)、練習していただくことにしたのです。
毎回、昔の写本を1ページずつコピーしてお渡しし、家で読んでいただき、次の週にお持ち願うのです。そして私が添削してお返しする、というやり方でした。
すると、私の言ったことが大げさでないことが証明されました。ほんとうにあっという間に上達されて、たいていのものなら8割は読めるようになられたのです。もっとも、掛け軸にされるような、あえてわかりにくい書体で書かれたものはそう簡単にはいかないのですが、それでも半分くらいはお読みになれるようになったと思います。
そしてその方々は、何かの展覧会があって写本や掛け軸が出展されているときなど、「これまでなら『ふーん』と言ってやり過ごしていたのに、つい
読みたくなる」
ともおっしゃっていました。そうなのです、私も学生時代に写本の読みをするようになると、あちこちに展覧会でそういうものが出ていると、(ほかの人の邪魔になったかもしれませんが)つい立ち止まって読んでしまうという経験があります。そして、読めると嬉しいものなのです。
その方々も、「展覧会に行く楽しみが増えた」とまでおっしゃってくださり、そそのかして(笑)よかった、と思ったのです。
最近実施しているFacebookでの文楽の床本の文字の解読ですが、これにも興味を持ってくださる方がそれなりにいらっしゃって、熱心にお読みになっているようです。
そして、ある方が「文楽劇場の展示室に床本があって、写真撮影OKだったので、それを撮って自分で読んでみた。これまでは読もうなんて思わなかったのに」とおっしゃっていました。
展示されていたのは
『嬢景清八嶋日記』
の「日向島」でしたが、Facebookでご覧いただいている「沼津」とは書体も微妙に違います。それでもその方はかなり見事にお読みになっていました。
私も室町時代あたりに書写された写本はかなり読んできたのですが、丸本や五行本などの書体はまだまだなじんでいるとは言い難く、もっと勉強したいと思っています。
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- [2022/05/17 00:00]
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「え」の字
Facebookの機能を使って、15人くらいの方と一緒に『伊賀越道中双六』「沼津」の床本を読んでいます。
私が読み方を書いていますので、間違えるわけにはいかないのです。それだけに、私なりに慎重に読むようにしています。当然、一字ずつ丁寧に読む必要がありますから、わかりにくい言葉は古語辞典を引いて用例を探したりして確認したりもしています。
すると、名作ゆえに何度も聴いたはずの「沼津」の段が、これまでいかにいいかげんに聴いていた(読んでいた)かが思い知らされます。聴き流していたようなところまでがくっきり浮かんでくるような気がしています。その意味でとてもいい勉強になっています。
それにしても、あんな本だけでよく技法が伝わっていくものだな、と感心してしまいます。節を思い出しながら読んでみても、とても私などが語れる代物ではありません。やはり師匠からの
口伝
というのがどれほど大事なのかが、床本を読んでみるとよくわかります。
江戸時代になると、言葉は現代にかなり近くなります。高校の国語の授業では江戸時代は「古文」で明治になると「現代文」ですが、わたしの感覚では鎌倉時代あたりまでが古文で、室町から明治の初めごろまでは近世文とでもいうような独特の中間的な言葉のように感じられます。そもそも権力による時代分けを安易に文化に当てはめるのも必ずしも適切とは言えないと思います。
たとえば発音でも古い時代は「ハ行音」の子音は「h」ではなく「f」に近い音でした。動詞の活用もそれまでは二段活用があったのに、一段活用になってくるのです。これは現代語と同じです。
ところが、発音は変わっているのに、文字で書く場合は昔の仮名遣いを踏襲しようとするあまり、へんてこな書き方をすることもあります。丸本にも五行本にも
追ふてゆく
なんて書かれていますが、これは「追ひて行く」がウ音便で「追うてゆく」になったものですから、歴史的仮名遣いでは「追うてゆく」でいいのです。ところが古風な書き方をしようとして「追ふてゆく」という理屈に合わない書き方をするのが普通になっているのです。「よふござる」は「ようござる」が歴史的仮名遣いでは正解で、ほかにも「そふじやない」は「さうじやない」、「有ふか」は「あらうか」がそれぞれ歴史的には正しいのです。私は以前から文楽劇場のプログラムについてくる「床本集」を見ていてこういう字が出てくると、思わず添削したくなった(笑)のです。
もう少し例を挙げると、「思へども」は正しいのですが「見へにけり」は間違いです。「見ゆ」の連用形は「見え」なのですが、たいてい「見へ」と書かれています。「消ゆ」の連用形も「消え」が正しいのですが、「消へ」と書かれることがあると思います(「沼津」では「消て」のように送り仮名を略していますのではっきりとは言えませんが)。
それでふと思ったのですが、床本を読んでいると「え」という字があまり出てきません。感動詞の「えゝ」も「エゝ」ではなく「ヱゝ」とわざわざワ行の「ヱ」を書くことが多いようです。「え」という字はそもそもあまり多く用いられることはないのですが、それにしてもめったに出てきません。
こんなことに気付くのも一字一字読んでいくからだろうと思います。
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- [2022/05/16 00:00]
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湯立神事
わけあって、このところ神社に行く機会が増えています。散歩コースに入れているという意味もあるのですが、きわめて純粋な宗教行為というか、祈願したいことがあってのことです。そうはいっても、実際は、神に祈れば願いが叶うとは思っていません。あくまで自分の心の平穏のためなのですが、そんなことを言っているとそれこそ神罰を受けそうです。しかし、心を穏やかにして祈願することで祈願成就への自分の意思を高めようという意味では真剣ですので、神様にはなにとぞお許し願いたいのです。
何しろ週に4~5回は神社に行って祈願しているのですから、周りから見ると信心深いと思われているかもしれません。時には朝夕でかけることもあり、多少の雨なら傘をさしてでも行きます。拝礼のしかたも最低限のルールは守っています。神社の社務所からは見えるはずですので、ひょっとしたら「あいつ、また来てる」と言われているかもしれません。
最初は本殿だけに行っていたのですが、最近は境内にある
愛宕社、水天宮など
の摂社にも参拝しています。祈願の内容は書きませんが、生命を賭してでも成就したいと願っています。
そのうちにお百度参りでも始めるかもしれません(笑)。
その神社では、4月24日に春の大切な神事である春祭がおこなわれました。田植えの季節を前にして五穀豊穣を願うもので、こういうことはとても大切だと、最近しみじみと感じています。
祭というと、若者たちは「屋台」「夜店」を思い出すのが普通で、いつぞや平安時代の稲荷祭だったか賀茂祭だったかの話をしたときにも「夜店は出たのですか」という質問が必ずありました。私だって同じことで、子どものころの祭というと、神事なんてどうでもいいので、少しもらったお小遣いをどのように使うかを考えながら夜店を物色するのが楽しみでした。平安時代の史料を見ると、今のような夜店はなかったようですが、曲芸やお笑いのような芸能は行われていました。
ともかくも、祭の眼目は神事です。本殿の中で氏子総代などの方々を招いての神主による祈祷と巫女の神楽、代表の方々の玉串奉奠と続きます。総代の方は当然おじいさんなのですが、「いかにも総代」という世話好きそうな方でした。次に本殿前に白装束の巫女が登場し、御幣や鈴、扇を持ち、神楽を行い、途中で千早(ちはや。羽織るもの)を脱いでたすきをかけると、狛犬の手前に置かれた釜に入った湯を笹の葉でまき散らす
湯立神事
がおこなわれます。この湯を浴びるとよいとされます。たすき掛けの巫女さんのきりっとした姿のなんとカッコイイこと! しかし、この日は小雨が降り続いていましたので、見学者は屋根のあるところにいましたが、巫女さんは傘をさすわけにもいかず気の毒でもありました。
上代には、湯に手を入れて手がただれるかどうかによってその人物の正邪を判ずるという、ちょっと乱暴な(笑)盟神探湯(くかたち)がおこなわれたことがありました。室町時代になると湯起請(ゆぎしやう。ゆぎしょう)という形で同じことがおこなわれてもいます。湯というのは「水でありながら水でない」ものとして霊力のあるものと考えられたのでしょうか。
それが終わると、一般の参拝者が本殿内に招かれて、先ほどの巫女(神楽女)さんによる「太々神楽」があります。お着替えになる時間はなかったと思うのですが大丈夫だったのでしょうか。この神社は素戔嗚尊(すさのをのみこと)を祭神としますので、太刀を抜いてヤマタノヲロチを切りつける様子を見せます。参拝者は鈴払いも受けて、心を浄め、やがてやってくる田植えの心構えをします。もちろん今は田植えをする人の方が少ないわけですが、それでも新年度の、活動的になるこの時期に意を新たにして仕事に励むことになるのです。
私はいったん帰宅して、夕方にもう一度参詣し、どこかの若いご家族と一緒に神楽の奉奏に参列し、神饌のお下がりをいただいてきました。
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- [2022/05/15 00:00]
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イチゴの収穫
昨年10月に鉢に植え付けたイチゴのその後です。
あまり葉が大きくならないまま冬を越しましたので不安だったのですが、3月になると徐々に大きくなってきました。そこで、この時期は徹底的に日に当てようと思って、いつも置いている窓際から、外のもっとも日当たりの良いところに移動させてみました。そのせいか、4月になって葉が上にぐんぐん伸びていき、その合間を縫うように花茎も次々に出て、ひとつの花茎から5~10個くらいに花がつくようになりました。
花の下に生えている古い葉は、風通しのためにいくらか間引きました。長い間ご苦労さん、という気持ちです。
当初、授粉には古くて使わなくなった筆を再利用していたのですが、どういうわけか行方不明になってしまいました。そこで、四月の途中からは
綿棒
に変更しました。ただ、綿棒は耳掃除をするには先がやわらかくて心地よいのですがイチゴにとってやわらかいかどうか若干不安がありました。そこで、わざと先を毛羽立たせて、ふわふわの状態にして使いました。これなら雄しべを傷つけずに花粉を広げることができるような気がしたのです。
花のあとそのまま終わってしまったものもありましたが、それは授粉できなかったものなのでしょう。なにしろ、都合よくミツバチが飛んできてくれるわけではありませんので、私が花を見落として人工授粉ができないと失敗する可能性が高いのです。
しかし、うまくいったものについては、実が日々おおきくなってきました。とはいえ、最初のうちはイチゴの形ではありますが、まだ小さな
緑色
のものです。しかし徐々にみずみずしさを持つようになり、色も赤くなり、4月25日に真っ赤になった第一号を収穫しました。こういう変化を見るのが栽培の楽しみだと思います。
植え付けたときは根付くだろうかと不安になり、その後も新たな葉が出るだろうか、水不足で枯れないだろうか、花は咲くだろうか、葉は大きくなるだろうか、虫は付かないだろうか、花のあとの実は成長するだろうか、せっかくの実を鳥に取られないだろうか、などとずっと気にかけてきました。
水不足は正月に家を空けたときにいささか心配だったのと、春になって暑くなった時に数日忙しくて水やりを忘れたときに葉がしおれていたのがあぶないところでした。しかし、花は咲き、葉は大きくなり、実もつきました。
このあと、収穫を続けると、今度はランナーが出てくるはずで、まずそれを小さなポットで受けて根付かせ、さらにそこからランナーを出して孫の世代、曾孫の世代を来年の株にするのです。これも経験がありませんので、どうなることかさっぱりわかりません。
初めてのイチゴ栽培はまだ先が長いのです。
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- [2022/05/14 00:00]
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書けなかった文楽の新作
私は、「それは名誉欲だ」と嘲笑されるのを覚悟で申しますが、やはり文楽劇場で上演される新作を書きたかったです。あの劇場で私の書いた文章を太夫さんが節をつけて語り、それに従いつつ人形遣いさんが独自の工夫をして人形を遣ってくれる、さらにお客さんがじっと見つめては笑顔を見せたり涙を拭いたりしてくれる、そんな場に居合わせたらどれほど心が豊かになるだろうかと思いました。それができなかったのは、人生の悔いとして残るだろうと思います。
そういうチャンスを手にすることができなかったのは、実力がなかったからにほかならないのですが、人徳のなさも大きな原因だっただろうと自分では思っています。
私が文楽劇場と新作でわずかに関係を持ったのは、まだ20世紀だった頃におこなわれていた
文楽なにわ賞
をもらったときでした。
あのあと、もっと積極的に書き続けていれば、と思わないでもないのですが、当該作品に関しては文楽劇場としては上演の意思はなかったのでそれっきりになってしまいました。文楽劇場の立場からいうなら、私の書くものは募集の意図から「ずれていた」ので上演というわけにはいかなかったのではないかと思います。実際はどうだったのか知りませんが、劇場は子ども向けの作品を期待していたのではないかという感触を持っています。
そのことを感じていた私は、能勢町の浄るりシアターのための芝居を書いたときには「書きたいもの」というよりも「上演できるようなもの」「重くなりすぎないもの」にしようと思いました。その結果、舞台で上演していただけたわけですが、こちらとて「では次回作もお願い」と言われることはありませんでした。もっとも浄るりシアターの作品は繰り返し上演していただいていますのでご縁は続いているのですが。
文楽劇場では、新作浄瑠璃として『春琴抄』『おはん』『蝶々夫人』『夫婦善哉』『瓜子姫とあまんじゃく』『金壺親父恋達引』なども上演されていますが、もっと新しい作者による成功作としては親子劇場の小佐田定雄『かみなり太鼓』くらいしか思い浮かびません。やはり年四回の本公演での新作そのものの上演が難しいので、冒険しにくいのではないでしょうか。
人形浄瑠璃の舞台で演ぜられる浄瑠璃というのは費用もかかりますから、現実的には難しく、それならば、というわけでもないのですが、短編の
素浄瑠璃
のほうに関心が向いて、豊竹呂太夫師匠や野澤松也師匠にお世話になりながらいくらか書かせていただいています。『ルター』『江戸情七不思議』などがそれにあたります。これらについては両師匠や聴いてくださった方々にはとても感謝しており、私の人生はまったく無意味なものではなかったと自己満足もしているのです。ただ、やはり文楽の本拠である劇場で、本公演の演目として上演されるようなものが書きたかったという思いは今なお残っています。
今生でかなわないのであれば、また江戸時代のような浄瑠璃全盛時に生まれ変わって作者になりたいと思います(笑)。
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- [2022/05/13 00:00]
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短期大学の姿(2)
私が最初に勤めたS短大の教員には、やはり高校教諭だった人がかなりいました。高校の家庭科の先生だった人が食物栄養学科にいたような気がしますし、体育の先生も高校から来た人だったと思います。
二度目に勤めたところも国文科の教員(私が入る直前で8人)のうち、高校教諭出身が2人、元アナウンサーの「タレント教授」が何と3人もいたのです。教養教育科目の教員に至っては、体育とか地学(!)とか、多くが高校教諭出身者で、ある事務職員が「これならおれでも教授になれる」と豪語して(笑)、それは半ば本気だったらしいとも聞いたことがあります。
高校教諭出身者といっても馬鹿にしてはいけないのです。さすがに経験豊富な実務肌ですから、教師としてはうまく学生を導き、事務的なこともコツコツ進める人がいてそういう面では優秀だったと思うのです。ただ、研究者として何かをしようという意欲のある人はほとんどなくて、論文なんて書いたことがないし短大在職中にも何も書かなかったという人が多く、まれに大学発行の論集に執筆する人がいても学術論文ではなくエッセイのようなものだったことが多かったようです。
それでもなんとかやっていけた理由に、学生が優秀な研究者を求めていなかったという事情があったことは否定できません。それよりも面白い、楽しい先生がいい、というのが現実でした。また、時代がまだ短大を必要としていたこともあったでしょう。しかし、時は移ろいます。景気は次第に悪くなり、子どもの数が激減し、デジタル化が進んで、高学歴志向はますます上昇しました。その結果、四年制大学への進学を望む人が一気に増えました。それはすなわち
短期大学の終焉
をもたらすことにほかならなかったのです。
大学は教養を身につけるところから就職に直結する学びをして資格を取るところとみなされるようになり、教養主義の短期大学や一部の女子大学は女子受験生の心から離れていきました。特に国文学などという専攻は「役に立たないもの」の典型として槍玉に挙がり、四年制大学でも廃部になるところが続きました。英文科も、外国語学科のようなビジネス系のところはともかく、文学系のものは不要扱いされます。一時流行した「情報学」の学科も、パソコンを電子文房具として使うのが日常的になったからこそ、
専攻するほどではない
という認識が広まったのか、尻すぼみになりました。
女子大に新たな流行をもたらしたのは看護学科でした。私の同級生で看護師になった人は誰もが看護専門学校に行きましたし、あの頃はそれが普通でした。今やそういう人たちが四年制大学に来るようになったのです。そしてまたまた看護学科の設立が「雨後の筍」状態になって、あの大学もこの大学もなりふりかまわず看護学科を作るようになってしまいました。関西の主な看護学科を持つ大学には、兵庫医大、関西医大、大阪医科薬科大といった医療系の大学はもちろん、武庫川女子大、同志社女子大、仏教大、梅花女子大などの名門、さらには四天王寺大、摂南大などがあります。こうなると、看護系の教員になる人の需要が増し、失礼ながら教員の質が悪くなることもありえます。聞いたところでは、いったん就職しても、より給料のいいところに移ろうとする人も多く、ということはそうでない学校はどうなるのか、目に見えるようです。今のところ、まだ需要があるのですが、これも下手をすると需給のバランスが崩れる日が来るかもしれません。
それはともかく、短期大学は次第にその姿を消していきます。時代の趨勢ですからやむを得ないのですが、教養主義的な短大にはそれなりの良さもあって、それがなくなっていくのはいささか残念な気もします。
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- [2022/05/12 00:00]
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短期大学の姿(1)
なくなったS短期大学についての思いを書いたのですが、これはその大学へのレクイエムというよりも、少子化の時代にあって大学がどのようにあるべきかを考えるためであったともいえます。
以下、批判覚悟で私の感じた実態を書きます。
雨後の筍のように、というのは語弊があるかもしれませんが、昭和40年代の初めごろにあちらこちらに短期大学が乱立しました。しかしそこには教育の理念がどれほど豊かにあったのか、疑問もなしとしません。仮にも短大を作るためには理念を掲げるのは当然のことですが、下手をすると単なる「お題目」に終わっていたのではないかと思うことがあります。時によっては学園経営者の単なる上昇志向、あるいは社会的な名声を得たいという欲望、もっとひどいことを言うなら「作れば儲かる」という期待がその起点になっていなかったか。ひどいことを言いましたが、私はそれを全否定することはできないと思っています。もちろんそれが結果的に若者の教育に寄与するものであれば何ら問題はないわけですが、学歴を持ちたいと思う人たちに卒業証書を渡すだけの学校では本末転倒でしょう。
短期大学の教員は、文部省(当時)の認可を得るために
名のある老大家
を招いたうえで、高校教員を定年退職したような人たちを多く雇うことがありました。いわば定年組ばかりです。老大家の先生は「授業さえしてくれればいい」と言われれば嫌がる人は多くないはずです。また、ひととおりのキャリアを終えて、家も建てて年金生活に入ろうという高校の先生たちが、まだ働ける場を与えられるうえに「教授」になれるといわれたら給与よりも名誉というか喜んで再就職の呼びかけに応じたでしょう。授業のレベルもそんなに高くなくていいとあれば、高校教諭出身の人でも十分に役割は果たせたのです。それどころか、大先生に比べれば若い女の子を指導する力はまさっていたかもしれません。安く教員を雇いたい経営者の思わくとウィンウィンの関係になって、安定した経営という意味でも有益だったと思います。
しかし一方では短大という場が大学でありながら学問的な場ではなく、ぬるま湯のような場所になっていたようにも見受けられます。中には学問的な内容を熱心に講義する学者さんタイプの人もいたのですが、こちらは学生にまったく理解できないレベルで、授業はおしゃべりか居眠りの場になってしまいます。こういう先生は概して「近頃の学生は」と不満を口にするだけで、自分でなんとか工夫しようという意欲に欠ける人が多かったものです。
学生も、高校時代にはさほど優秀な成績だったわけでもないけれど、大学生として社会に出る前にもう少しの青春を謳歌したい、そして短大卒の資格を得たうえで就職してお金を貯めて25歳までには結婚したい、という何となく定められた道筋を歩んでいった人も多かったのだと思います。
「短大の卒業証書」は、
嫁入り道具
としてもなかなか有効だったのです。
時代背景としては「女は学問などしなくていい」という、まだ男女差別の空気があり、女性自身も「高卒ではない」という学歴は持ちつつ早く結婚することこそが「女の幸せ」という考えが強かったと思います。
大学進学率はずっと女性の方が高く、その受け皿となっていたのが短大だったのです。学科としては「国文」「英文」「家政」というのが代表的で、「良妻賢母」を目指す意味合いが大きかったと思います。
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- [2022/05/11 00:00]
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なくなった短大(3)
S短大でもうひとつ私が推進したかったのは生涯学習です。
子どもの数が減っていくのは自明のことですから、少しでも学園の宣伝をして社会に関心を持ってもらわねばなりません。そもそもどこの大学の学則にも、たいてい「公開講座」という項目があって、社会教育というのは大学に課せられた責務でもあります。しかも、社会奉仕であると同時に学園の教育を知ってもらい、どんな教員がどんな授業をしているのかを感じてもらう役割も持っているため、広報の観点からも重要な企画なのです。
私が赴任した時に、ちょうど学長が「公開講座を実施したい」と言い出したらしく、私はすぐにそれに乗りました。しかしこれも積極的に賛同する人はあまり多くなく、それなら、というので、文学の講座を実施するように進言しました。そして、宮島を近くに持つというロケーションにある学園ですから、無難であり、しかも人気があるはずの
平家物語
講座がいいだろう、というわけで4回の講座を実施するお手伝いをしたのです。私は「『平家物語』の女性たち」というお話をしました。小督や祇王についてのお話でした。また、文楽の竹本津国太夫さんにおいでいただいて、「文楽と平家物語」のお話を私との対談形式で実施しました。さらに最終回には厳島神社に行って宮司さんからいろいろお話をしてもらうことで花火を打ち上げたのです。自画自賛になりますが、この企画は当たって、大きな教室がいっぱいになるほどの受講者をお迎えすることができたのです。
こんなことをしながら3年目を迎えたときに父親が急逝し、私の心がいささかぐらつきました。広島に行ったときは、ある程度長い期間そこにいようと思っていたのですが、この出来事のあと、同僚が「実家に帰った方がいいのではないか」と言ってくれるようになり、今度は逆に関西の学校を紹介してくださったのでした。学長は「残念だ」と言ってくれましたが、私は関西に戻り、その後S短大のことは遠くから眺めるだけでした。
もう他人事になったとはいえ何となく毎年のように「四年制になっただろうか」と気にかけていたのですが、なかなか進捗しないようで、わずかに学科編成を変えているくらいでした。私が在籍した当時の学長はまもなく退陣し、その後の学長も四年制への移行はできないままに時間が経ちました。あるとき、何気なくS短期大学のHPを見たら
「廃学のお知らせ」
が書かれていました。やはり学生を集めることができなくなって赤字経営をするわけにはいかないということだったのでしょう。
大きな大学は「学生の質が落ちた」と嘆いていますが、弱小大学はそれどころではないのです。質がどうのこうのなんて問題外で、とにかく学生を集めないとつぶれるほかはなく、なりふりかまわず「お金、お金」に走る傾向が強まりました。大学自体も、就職に役立たない文学系の学部などはもういらないと言われ、社会系も新設はできても続かない現状があります。小さな学校は資格取得を目指す専門学校化するほかはない、という時代になりました。
S短大は栄養学部さえ作っておけば、あるいはS栄養科学大学にでもしておけば、一部教員を強制的に退職させた(早い話が事実上の解雇)としても、四年制として維持できたかもしれない、とは思うのです。しかしそんなことをしていれば、何だか専門学校のようで、せっかく育まれてきた文化的な香りは希薄になり、「勝ち組」「負け組」を作ってしまってあとに怨念を残すことにもなりかねず、「学園を維持するためにはなりふりかまわない」という汚名を着せられていたかもしれません。その意味では、まったく当事者の気持ちを察していない酷な言い方ではありますが、廃学というのはひとつの選択だったのかなと思わないでもないのです。
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なくなった短大(2)
四月になって専任講師(一番格下)として赴任はしたものの、まったく見知らぬ土地で、「東の方から来た妙なヤツ」と警戒されるのではないかと思いながら私なりに必死に仕事をして、論文めいたものを書いたら、2年目には助教授(今でいう「准教授」)になって、加えて「学生部次長」という役職も命ぜられました。「次長」って、名前はご大層ですが、別に偉い人のする仕事ではなく、体力のある若手教員の仕事で、学生と一緒に新入生のオリエンテーションや大学祭の準備をするような役割でした。テントを張ったり、雨でグラウンドに水たまりができていたら雑巾やバケツを使って排水したりしました。手当が月額3,000円(笑)だったのですが、あまりに安いというのでこの年から5,000円(あまり変わらん!)になったはずです。
当時は「短期大学はやがてつぶれる」と言われていた頃で、広島にいくつもあった女子短大でも四年制大学に移行するところが出ていました。S短大も学長が中心になって四年制への移行が検討されていました。あのころの短大の人的リソースを見渡すと、「食物栄養科」がありましたので、考えられるのは管理栄養士を養成する栄養学部か、あとはせいぜい英語教員を軸にした国際関係学部くらいだったのではないかと思います。しかしそうなるとそれらの分野とまったく関係のない教員は不要になってしまいます。そういう人たちは四年制になったら自分の首が危ういのです。また、四年制大学の教員になるためには文部科学省がおこなう
資格審査
に通らねばなりませんが、失礼ながらそううまくいかない恐れのある人もいました。そういう人は「何とか短大のままで」と保守的になるのもやむを得なかったでしょう。その問題が学内を一枚岩にする妨げになって派閥のようなものができていて、何となく居心地の悪い空気も漂っていました。
「資格審査に通らない、あるいは降格させられる(教授が准教授に、など)」というのは実際によくあることなのです。新設の四年制を作る場合、認可にはいろいろ条件があって、教員は博士号を持っているとか、論文を数多く書いているとか、特筆すべき教育研究業績があるなど何らかのアピールポイントが必要だからです。しかしS短大には高校教諭とかビジネススクールの講師の出身の人がいて、こういう人には研究業績というのはまずありません。そうなると審査に通らない可能性があるのです。もちろん私も
怪しいもの
でしたが(^^;)、だからといって賛成とか反対とか声を挙げるにはあまりにも新米すぎて、またよそ者でもありましたから、そこにはあまり深入りせずに見守っていました。
まず私にできることは、学生のレベルや関心を見極めて授業に取り組みつつ、学生の権利を守る活動をしたりすることでした。あの当時はまだ戦前派、戦中派の教職員がいましたからどうしても昔気質というか、かなり強引な学生管理が見られたのです。そこをやんわりと現代風に持って行くのが自分の役割かな、と思っていたのです。
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なくなった短大(1)
私が広島で暮らしたのはわずかに4年間です。
大学院には行きましたが、勤勉でも優秀でもない学生でしたので、それがあだとなって就職に困っていました。そんなとき、ある先生から夜遅くに電話がかかってきて、「君、広島に行く気はないか」と言われました。藁にもすがるような思いだった私は、藁などと言っては失礼なその先生のお言葉にすぐにすがるように反応して「行きます」とお返事しました。S短期大学というところでした(小さな学校で、私は聞いたこともありませんでした)。
大学教員として就職するためには、何と言っても
学問的に優れている
ことが重要ですが、それと同じくらい人間関係をうまく維持していくことも大事です。私はその両方ともダメなので、もう学問の道は諦めて高校教諭として生きて行こうと考えていた矢先のことでした。
その先生は私の学生時代の指導教員ではなく、他大学の先生だったのですが、学会などで顔なじみになっていたために声をかけてくださったのです。広島大学のご出身で、あちらの短大の先生のご友人という縁で、その短大教員に欠員が出たために「いきのいい若いのはいないか」というお尋ねがあったようなのです。広島の教育界というところは広島大学出身者が圧倒的な力を持っていて、私の行った短大の教員を見渡してもほとんどが(国語国文学の先生は全員が)広島大学出身でした。それだけに、「いきがいい」わけでもない私になぜ白羽の矢が立ったのかは今なお不明です(笑)。
大学、大学院を通しての指導教員であった東京の先生にも連絡しましたが、「その学校は、将来性はあるのか」と(あとになってみれば核心をついた)お言葉をいただいただけで、反対はされませんでした。
さて、紹介してくださった先生の「すぐに履歴書や研究業績書を送れ」というご指示に従って書類をととのえて急送すると、折り返しS短大の学長から
「一度会いたい」
と直々の電話があって、慌ただしく私は広島まで飛んで行ったのです。学長は人のよさそうな理系の人で、何と、能の大槻文蔵さんそっくり(笑)でした。「面接」は実に和気あいあいと進んだのですが、私のような「よそ者」を受け入れてくれるかどうかははなはだおぼつかなく感じていました。実際は広島大学出身の候補者が他にもいてその人と天秤にかけられて、結局私が落とされるのではないかという思いもありました。そうなったらもうこの土地に来ることはないかもしれないから、と、「広島の思い出」のために宮島や原爆ドームまで行ったくらいです。
ところがその日遅くに帰宅すると、すぐにその学長から電話があって「あなたに来てもらうことにした」と言っていただきました。正式決定は次の教授会なのでまた連絡するとのことでしたが、「決定と思ってもらってもいい」と言われてホッとしたものです。
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- [2022/05/08 00:00]
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2022年文楽五月東京公演初日
本日文楽東京公演の初日です。
演目は次のとおりです。
第一部 (午前11時開演)
義経千本桜 (伏見稲荷、道行初音旅、河連法眼館)
第二部 (午後2時30分開演)
競伊勢物語 (玉水渕、春日村)
第三部 (午後5時45分開演)
桂川連理柵 (石部宿屋、六角堂、帯屋、道行朧の桂川)
咲太夫さんが4月18日以降ずっとお休みで、この5月公演も早々と休演が発表されていました。
お体の具合がよくないようで気になります。
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- [2022/05/07 00:00]
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哲学書
私が大学で学んだ文学部では、哲学科(哲学、美学、社会学)、史学科(日本史、東洋史、西洋史)、文学科(国文学、英文学)の専攻がありました(その後、中国学、西洋比較文学なども加わりました)。どの専攻を選ぶかについては若干迷いがありました。もともと日本史を専攻するつもりでしたが、伊勢物語や能の文章に惹かれるところが多く、最終的に国文学専攻になったのです。しかし、哲学科の哲学専攻だけは間違っても選ばなかったはずです。哲学科なら美学がせいぜい(実際、美学や美術史の授業には出ました)で、哲学科の人たちがハイデガーとかカントとかフッサールなどを読むのを横目に見ていると、それだけでめまいがしそうでした。そうそう、たしか、ハイデガーの“Sein und Zeit”を講読する授業があったのをシラバスで見た覚えがあります。
ただ、文学専攻でも哲学的な理論書はありますから、そういうものにまったく触れなかったわけではありません。近代文学の先生が哲学者で批評家の
ロラン・バルト
の「作者の死」(『物語の構造分析』所収)についての話をしてくれたことがあって早速それを読んだのを手始めに、この人の『零度のエクリチュール(Le Degré zero de l'écriture)』『表徴の帝国(L’Empire des signs)』などを読んでみました。『表徴の帝国』(『記号の国』とも)は豊竹呂太夫さんの本を書いた時に少し触れましたが、文楽についてもかなり筆が割かれているものです。日本は西洋のような「意味の帝国」ではなく「表徴の帝国」だとするのです。彼はそこで「てんぷら」「すきやき」「学生運動」なども取り上げて日本文化論を展開しています。
しかし、翻訳の文体があまりなじまないものだったこともあって、未熟極まりなかった当時の私にとってはかなり難解なものでした。
ああいうものをすらすら読んで議論している人たちを見ると、自分の愚かさを思い知らされるようでした。
そんなこともあって、哲学に関しては文学部出身とは言い難いレベルのまま今に至っているのです。まさかそんな私がハイデガーやヤスパースに師事したことのある
ハンナ・アーレント
の本を読む日が来るとは、人生不思議なものです(笑)。ただ、アーレントの本を読んでもどうにも理解が及ばないのは相変わらずで、解説書に教わることも多いのです。
私は、哲学や歴史学はもっと尊重されるべき学問だと思っているのですが、そういうことを自分で確信するためにはやはり哲学書や歴史書をもっと読まねばならないと今ごろになって気づいているのです。書架に放置されている哲学関係の本をまた取り出してみようかと見上げている今日このごろなのです。
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- [2022/05/06 00:00]
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コジ・ファン・トゥッテ
モーツアルトの歌劇に『コジ(シ)・ファン・トゥッテ』があります。噺家の桂米團治さんは小米朝時代に歌手の方々と一緒にオペらくご「和菓子屋騒動記 こしあん取って!」というパロディ作品を上演されました。
「コジ・ファン・トゥッテ」というのはイタリア語で「Cosi fan tutte」で「みんなこのようにする」というほどの意味です。オペラの内容に即してもう少し具体的にいうと、「女というのはみんなこんなことをする」「女はみんな浮気をする」というニュアンスです。
この言葉は『フィガロの結婚』にも出てきます。1幕の7場で、小姓のケルビーノがスザンナの部屋にいるところに伯爵がやってきます。スザンナはケルビーノを慌ててイスの蔭に隠し、今度は音楽教師のドン・バジーリオが来たので伯爵もそのすぐそばに隠れます。バジーリオは伯爵がいるとも知らず、ケルビーノが奥方ばかり見つめている(奥方とケルビーノの不義を暗示)などと言ってしまい、伯爵が怒って姿を現すのです。さらに伯爵はそのあとケルビーノを見つけ、スザンナが若い愛人を引っ張り込んでいると指弾します。
するとそのとき、バジーリオが
Cosi fan tutte le belle!
というのです。「美しい(belle)人(女)は誰もがこんなことをするのです」というほどの意味です。美人は浮気者だ、と言っていることになります。『フィガロ』では4幕でもスザンナに裏切られたと誤解したフィガロのアリアで「女は魔女だ。妖術を使う」「女はフクロウだ。誘惑して僕の羽を抜こうとする」「女はとげのあるバラだ」「詐欺の名人だ」とさんざんに女性をこきおろします。女性の妖魔の性質に当惑する男の気持ちなのでしょう。
結局はすべて誤解でこの劇はハッピーエンドなのですが、男女の心のすれ違いがこうしていたるところにはめ込まれているのです。
もちろん女性も男性の不実に怒りと悲しみを覚えます。伯爵夫人は3幕でスザンナから伯爵を懲らしめようという提案を受けます。服を取り換えて、伯爵夫人がスザンナのふりをしてスザンナは伯爵夫人に成りすまして伯爵を騙す計画です。しかしひとりになった伯爵夫人は
「Dove sono I bei momenti
(美しい時はどこに)」
のアリアを歌います。
「あのうそつきの誓いの言葉はどこにいったの?」「涙と苦しみで私はすべて変わったのに、幸せな思い出はなぜ消え去らなかったの?」と男の不実を嘆き自分の誠実を訴えるのです。
フィガロの母マルチェリーナも4幕で「獰猛な野獣でも、森や野では連れ合いを平穏と自由の中に置いてやる。私たちかわいそうな女だけが男を愛しながらもその不実な男からいつも酷い仕打ちを受けている」と言います。
“Cosi fan tutte”の“tutte”は、結局「女はみな」でも「男はみな」でもなく、「人はみな」なのかもしれません。
こういうさまざまな行き違いは人間世界にはいくらでもあるものでしょう。しかしこの作品の大団円で、人々は“Questo giorno di tormenti, di capricci e di follia, in contenti e in allegria solo amor può terminar.”と歌いあげます。「苦しみと気まぐれと狂気のこの一日を満足と喜びの中で終わらせられるのは愛だけだ」というほどの意味です。
結局それしかないのです。愛だけなのです。それが難しいのですけれど・・。
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- [2022/05/05 00:00]
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自分がわからない
オペラ『フィガロの結婚』には、もうけ役というのか、とても面白いケルビーノ(Cherubino ボォマルシェの原作ではフランスの発音でシェリュバン。歌手はメゾソプラノの女性)という人物が登場します。美少年の小姓という設定ですが、この少年の「恋に恋する」心がこのオペラに彩りを添えます。第2幕で歌われる有名なアリエッタに「恋とはどんなものだろう(Voi che sapete che cosa è amor)」があり、自分では恋とはどんなものかまだわからないから、女性たちにそれを教えてほしいと願うのです。こういう恋愛の何たるかを模索して困惑する少年の心は『源氏物語』の主人公の
光源氏
の若き日にも共通すると思われ、私はこの作品を「狂言風オペラ」にするときに、ケルビーノにあたる人物(演者は狂言の山本善之さん)を「光丸」という名前にしました。「光源氏」の「光」を取ったわけです。
そのケルビーノにはもうひとつ第1幕における「自分が何なのかわからない(Non so più cosa son, cosa faccio...Or di foco, ora sono di ghiaccio...)」というアリアがあります。ひそかに思いを寄せる奥方のリボンをスザンナが持っているのを見て、ケルビーノはそれを取り上げて「その代わりにこの歌(2幕で歌われる「恋とはどんな・・」)を君にあげる。だから奥様や、他の女性たちにも読んであげてよ」と狂ったように言います。そしてスザンナに「あなたおかしいんじゃないの」と言われて歌うのがこのアリアです。これも恋心の不安を歌ったもので、「女はみんな僕の顔色を変えさせ、胸をどきどきさせる」「寝ても覚めても
僕は恋を語る」
などと言います。
ほんとうに狂ったように恋へのあこがれを訴えるこのアリアはケルビーノ役の歌手の聞かせどころで、客席から拍手が沸くと芝居を中断して歌手はその喝采にこたえます。ウィーン国立歌劇場がカール・ベームとともに来日した時(私は録画や録音で何十回と聴きました)はアグネス・バルツァがスケールの大きな歌を聞かせてくれました。
人というのは、他人のことはよくわかるのですが、自分のことはさっぱりわからないことがあります。これは少年だけではなく、あらゆる人間に当てはまり、それゆえに人は愚かな行為を繰り返すのだろうと思います。
自分は何も間違ったことはしていない、と固く信じて、愚行を繰り返す。批判されると批判する方がおかしいと思う。しょっちゅう見かける風景です。ただ、そういう愚行を批判する側も、「なぜこんなことがわからないのか」という姿勢では相手の理解は得られない可能性が高いと思います。この人は自分のしていることがわからないのだ、ということを前提にして話をしてやらないとなかなか納得されないでしょう。教育の現場は相手(子ども、学生)ひとりひとりに対応することがすべてで、一筋縄ではいかないものなのです。
しかし、恋心ならまだ穏やかで平和なのですが、きな臭い話だけはほんとうに勘弁してもらいたいものです。
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- [2022/05/04 00:00]
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科学者の判断
押谷仁氏、瀬名秀明氏の『パンデミックとたたかう』(岩波新書)という本を読んだとき、押谷氏はパンデミックが起こった時の政策判断は「政治家がすべきだ」という意味のことをおっしゃっていました。科学者は科学的知見に基づいて意見を出すことはできますが、パンデミックの際にどのように社会を安定させていくかという場合は単に医学的な問題だけではなく文化も経済もそのたさまざまな事情がありますから、科学者はそこまではものを言うべきでないということでしょう。科学者の謙虚さとして傾聴すべき意見だと思います。
ハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で「科学者が科学者として述べる政治的判断は
信用しない方が賢明
である」とも言っています。ここでいう「科学者」はもっぱら自然科学の分野の人たちです。
観念論的な哲学者は自然科学者に対してあまりいいイメージを持っていないのか、科学的言語(数式、記号など)によって考えが支配されるのを嫌う傾向があるようです。しかし、科学者だって創造性、柔軟性、多様性は持っているはずで、頭の中がすべて記号でできあがっているわけではないでしょうから、私はあまり科学者の考えを毛嫌いすることはないと思います。
科学は人類の生活を大いに豊かにしましたが、一方で大きな罪も作ったことは間違いないでしょう。原子爆弾なんてその典型だろうと思います。もちろんその罪は科学そのものにあるというよりはそれを
政治的、軍事的
にどのように用いようとするかの「判断」の問題です。空を飛べれば便利になる、それなら戦争をするときに爆弾を積んで空を飛んで爆弾を落とせば勝てるぞ、という発想がせっかくの科学の成果を恐るべきものに変えてしまいます。
せっかくの科学者の知見が政治家の誤った判断で台無しにされてしまうのでは何のための科学かと悲しくなります。科学の成果をもてあそぶような政治は最低です。一方、科学が神を超える、というか、しなくてもいいことをしてしまう方向に向くのもまた恐ろしさを伴うのではないでしょうか。
科学者には政治的判断はできなくても、科学者としての限度を守る判断があるべきだとも思います。
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- [2022/05/03 00:00]
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人の間にいること
「人間」ということばは今では「人」に近い意味で用いられています。しかし文字から考えると「人の存在する空間」のことだという想像ができます。もっとわかりやすくいうと人のいる世界、「人界」「世間」と同じような意味合いです。仏教で人間というと天、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄という六道の一つでもあり、やはり個人を指す言葉ではありません。
それがやがて人間(界)に住む人そのものを指すようになって今に至ります。ちなみに「人間」は普通呉音で「にんげん」と読まれますが、漢音で「じんかん」という読み方をすることも古くは多かったのです。
人間はひとりでは生きられない。一人だと思った時にはほんとうに悲しく切なくなる、ということがあります。一人で暮らしていても誰かとつながっていると思えるときもあれば、多人数と一緒にいても孤独感を覚えることもあります。
このところここでしばしば話題にするハンナ・アーレントに
『人間の条件』
という著名な著作があります(ちくま学芸文庫所収)。その中でアーレントはラテン語の「inter homines esse」は生きることとほぼ同じ意味、「inter homines esse desinere」は死ぬこととほぼ同じ意味だと指摘しています。「inter homines esse」を直訳すると「人々の間にある」、「inter homines esse desinere」は「人々の間にあることをやめる」の意味だそうです。ひとことで言ってしまうと、生きることは他人との関係を維持している状態と同じだ、ということでしょう。古代ローマ人はそう考えたのです。
アーレントはこの著書の中で、人間の
活動力(activity)
を「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」という三つの条件から捉えています。日本語にするとわかりにくい面もありますが、私の理解していることはこういうことです。
「労働」は生物としての人間が生きていく過程の中で生み出し消費されるアクティヴィティーです。「労働」というとなんだかちょっとしんどそうなイメージもあると思います。一人暮らしで風邪をひいた時など、しんどくても何か作って食べないとどうしようもない、という状態になることがあります。そのアクティヴィティは作ったもののあっという間に消えてしまいます。
彼女の言う「仕事」は自然物であるものとしての人間から離れた人工的なものを作り出すアクティヴィティと言えばいいのだと思います。「work」には日本語で言う「作品」の意味もあり、これは自分の生命の維持にかかわらず造られるものも言えるでしょう。また自分の生命の終焉のあとにも存在し得るものでもあり得ます。
そして「活動」は物事の介入なしに人と人との間でおこなわれるアクティヴィティで、人間はひとりで生きているのではないことと対応するのです。
哲学的な話なので、私は最初よく理解できず、何度も彼女の言うことを詠み返して何となく理解するようになったのですが、人にはまだうまく説明できません。
私が関心を持ったことは「人間」という言葉にある「間」ということだったのですが、アーレントのいう「活動(action)」にはそれと結びつく考え方があるように思えてきました。
そんなことをつらつら考えていると、今の私は「人間」と言えるのだろうかという悩ましさが湧いてきます。世の中への関心も薄くなってきて、いささか遁世気分に陥ることもあります。そういえば「関心」の意味の「interest」という言葉もラテン語の「inter」(~の間)と「est」(存在する)に由来して、「間に存在すること」を意味するのだそうです。
もう少し「人の間にいる」という生き方を取り戻さねばならないとひしひしと感じています。
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- [2022/05/02 00:00]
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