今年も新作浄瑠璃
ちょっとわけがあって、詳しいことは言えないのですが、この夏、ひとつ浄瑠璃を書きました。詳しく言えないのは、著作権の問題が絡んでくることと、それとの関係で、この作品が上演されても私の名前が出ないからです。
「自分が書いたのだから自分の名前が出るのは当然で、出ないのであれば作品を返してもらう!」という考えを持つ方もいらっしゃるでしょう。それはちっともおかしいことではありません。むしろまっとうな考えと言ってもいいと思います。権利を主張することは大切です。
ただ、私はそういうことに無頓着で、名前が出ようが出まいが、あまり関心はないのです。もちろん私だって名誉欲のようなものはないわけではありませんから出してもらえたら嬉しいですが、出ないからと言って不満を持つことはないのです。「名前は出ません」と言われたときも「そうですか、別にかまいませんよ」という程度の気持ちしか湧きませんでした。こういう考えを持っているから出世もしないし(教員には出世なんてないといってもいいのですが)、
お金持ち
にもなれないのだ(笑)と思いますが、もう貧乏には慣れっこになっていますから問題ありません。
さてその浄瑠璃ですが、上のような事情で内容もはっきりとは言えません。ただ、書いたものが多少変更はあるものの、節付けされて語っていただけそうだ、ということは記録しておこうと思います。私は自称浄瑠璃作者ですが、新作浄瑠璃の需要なんてめったにありませんので「プロ」と名乗ってお金をもらっているような「作家」ではありません。あくまで素人の「作者」です。
このたび書いたものは、史実を基にした、いわば
時代もの
の作品で、私が主に書いてきた世話の内容とは異なります。しかしどうしても私が書くと時代物も「時代世話」になってしまいます。「渡海屋」ではなく「すしや」、「切腹」ではなく「腹切」という感じになります。力強い大柄な作品ではなく、庶民のはかない願いを描いてみました(できたかどうかはわかりません)。
私が合戦が嫌いなのは、その陰で多くの庶民がつらい思いをしなければならないからで、そういう発想は江戸時代の浄瑠璃と共通すると思います。江戸時代の浄瑠璃作家たちも、庶民の哀しみを必ず書き込んでいます。知盛が碇をかついで海に沈む姿が勇壮ですばらしい、ともいえるでしょうが、お里や権太の悲哀こそが観客に訴えてきたのではないでしょうか。樋口次郎のカンヌキもかっこいいですが、権四郎一家の哀しみこそがクライマックスだと思います。三段目の切にはそういう場面が多いはずです。
この新作は、短い期間で「やっつけ仕事」のようにあわてて書かざるを得なかったものです。10日もかけなかった(というか、かけることができなかった)と思います。どこで上演されるのか、まだ知らないのですが、陰ながら成功を祈っている次第です。
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- [2022/09/30 00:00]
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2022年の中秋の名月
子どものころ、兄が記念切手を集めていて、まだ自主性のなかった私は、兄の真似をしておけば間違いないというので、若干切手に関心を持っていたことがあります。そのころ、「月に雁」と「見返り美人」はとても価値のあるものだと言われていました。きれいなものであればかなり高額で売られていたような気がします。もちろん子どもの私にそんなものが買えるわけがありませんから、カタログの写真を眺めるのが精一杯でした。おそらく今でもマニアの中では人気があるのでしょうね。
「見返り美人」は菱川師宣、「月に雁」は歌川広重の絵です。広重の絵には「こむな夜かまたも有うか月に雁」という画賛があります。「こんな夜がまたとしてあるだろうか、月に雁が重なって見える」ということでしょう。
白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の
数さへ見ゆる秋の夜の月
は、『古今和歌集』の「よみびと知らず」の歌です。白い雲がかかっている空に羽を交わすようにして飛ぶ雁の数まで見える、そんな明るい秋の月だ、というのです。月と雁は昔からペアで愛されることがあったのです。もうひとつ、『古今和歌集』には月と雁の歌があります。「さ夜中と夜は更けぬらし雁がねの聞こゆる空に月渡る見ゆ」こちらは雁の姿ではなく鳴き声と素材にしています。秋は、月のほかにも秋風、七夕、虫の音、雁、鹿、草花(萩、女郎花など)、白露、菊、霧、時雨、紅葉など歌の題材になる景物がたくさんあるため、『古今和歌集』の中では
「中秋の名月」
ということは特に主題になりません。月はよく詠まれますが、特に時期は決まっていません。有名な歌に「月見ればちぢにものこそ哀しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど」(大江千里)があります。この歌の下の句は白居易の漢詩を下敷きにしており、満月とも言っていません。「ひさかたの月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ」(壬生忠岑)も秋の明るい月を詠んでいますが、時期については厳密ではありません。千里の歌と忠岑の歌は『是貞親王家歌合』に載せられた歌です。
今年は9月10日が旧暦八月十五日でした。私はこのところ、夕方になるときれいな月が見えるスポットが近くにありますので、そこに行くことにしているのですが、今年はその時間帯が曇り空で、やっと宵になって観ることができました。
かぐや姫
が月に帰り、『源氏物語』でもこの翌日に光源氏は夕顔を連れて廃院に行きます(そこで夕顔は頓死します)。光源氏の正妻葵の上が亡くなったのもこのころ、紫の上が亡くなったのもこの時期です。秋の、少し物悲しくなる折を作者は選んだのかもしれません。「時しもあれ秋は人の別るべきあるを見るだに恋しきものを」という歌があります。盟友の紀友則が亡くなったことを悼んで壬生忠岑が詠んだものです。秋は哀しい季節なのです。
『源氏物語』で月を観るというと、「鈴虫」巻が思い出されます。光源氏の妻である女三宮が密通して出産したあと、出家してしまいます。そして光源氏は、八月十五日に彼女がひっそりと暮らす庭に鈴虫を放って秋の風情を醸し出します。
中秋の満月ですから、音楽の遊びをおこなうのが常だったようで、この夜も内裏で管絃の催しがあるはずでした。しかしなぜか中止になったらしく、風流な人たちが光源氏の屋敷に来ます。すると光源氏は「今宵は鈴虫の宴をしよう」と言うのです。月の宴ではなく、あえて鈴虫の宴と言っています。
そこに院(光源氏の異母弟、実は光源氏の子)から招待があって、そちらでは月の宴が催されます。
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- [2022/09/29 00:00]
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天王寺から新世界(2)
実は、美術館に行った日、私は天王寺の駅で少し迷ってしまいました。私の住む町にはあり得ない大きさの駅ですから、人の流れに乗り誤ると間違いを起こしてしまいます。どうも私はあべのハルカスに行く人たちの流れに乗ったようなのです。途中で気付いた時にはかなり天王寺公園からは離れていました。
さて、大阪市立美術館に行くだけで、またすぐに天王寺駅に戻ったらあまりあの周辺の雰囲気を味わうことはできません。といっても、ハルカスにはまるで興味がなく、入ろうという気になりません。むしろ私は、美術館からの帰り道は西に行って新今宮駅から帰ることにしているのです。美術館の隣は大阪市立天王寺動物園。ここには一度だけ入ったことがありますが、もう記憶の彼方です。その動物園をまたぐよう広い道を歩いて、
新世界門
とかいうのを超えると、そこはたった今まで見ていた場所とはまるで雰囲気の違うところです。その名も「新世界」。昔はパリのエッフェル塔を模した初代の通天閣とルナパークという遊園地があったところです。建てられたのは1912年といいますから、100年以上前のことでした。しかし通天閣は火災や戦時の資材供出のために完全に姿を消しました。その後二代目の通天閣が場所を移して建設され、1956年に竣工したそうです。北側には放射状の道が出ており、それは凱旋門のイメージです。
先日書きましたように、私はこの塔にのぼったことはないと思います。幼いころに親に連れられて行った可能性はゼロではありませんが、少なくとも物心がついてからは行っていません。最近も近くまですら行ったことがなくて、次回はのぼらないまでも、足元までは行ってみようかな、と思っています。
通天閣から南側には通天閣南本通りがあって、以前はここに大きなふぐの提灯がありました。
づぼらや
ですね。今はその建物だけがあって、何とも寂しいのです。あの跡地はどうなるのか、もう決まっているのでしょうか。
づぼらやの閉店は寂しいのですが、周囲には串カツの店などがあっていまもそれなりににぎやかです。なにしろ「ビリケンさん」の模型が大きさを競うようにあちこちに置かれていて、店の構えも大きくて派手です。私は美術館にはいつも一人で行きますので、当然このあたりの店に入ることもありません。一人だから入る、という人も多いでしょうが、私は逆なのです。誰かに誘われでもしないととても行けません。
さらに南側には飲食店などの居並ぶ南陽通商店街がありますが、ここは通称ジャンジャン横丁。ここにも私は行ったことがありません。いつも美術館でくたびれるので、なかなか足が向きませんが、いつか元気な状態でこのあたりに来たら歩いてみたいところです(歩くだけです)。
こうして天王寺のひとつ西側の駅である新今宮駅まで行ってそこからJR環状線外回りで大阪駅まで帰るのです。
天王寺の駅で迷ったと書きましたが、実はこの日はJR大阪駅から阪急電車に乗り換えるところでも迷いました。都会はどんどん変わっていくので、私はもうついていけません。このまま田舎者で終わろうと思います。
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- [2022/09/28 00:00]
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天王寺から新世界(1)
大阪の南の玄関口と言えそうなのが天王寺駅です。多くの電車(地下鉄を含む)の路線が集結しています。駅舎も大きく、当然利用する人の数も多いのです。北といえば梅田ですが、同じターミナルといっても雰囲気はかなり違って、なんとなく天王寺は下町のような印象を持ちます。
最近の私はめったにこの駅を使うことはなく、ここに来るのはせいぜい大阪市立美術館に行くときくらいです。駅名の由来である四天王寺は少し北にありますから、この駅は使いません。以前は文楽の遺跡を回ることが多かったので、そういう時にはここから義太夫生誕の地の石碑を通って義太夫の墓のある超願寺から多くの文楽関係の墓のある四天王寺に参ることがありました(そこからさらに北へ行くともっと多くの文楽関連遺跡があります)。今はそういうことをしなくなったので、天王寺駅に降り立つと公園(美術館がある)の方に行くのです。
昔はあのあたりはかなり猥雑な感じがあって、昼間から路上でオジサンたちが飲んでカラオケで歌って、という場所でした。小さい子を連れて行くのがいささかためらわれるような雰囲気もありました。ところがそういう雰囲気を一掃してしまって、今は巨大なあべのハルカスというビルを建てて、地上には
てんしば
という若い人にも受けるようなしゃれた雰囲気の場を作ってイメージチェンジを図ったようです(それでもまだかつての雰囲気は残りますが)。あの路上でいつも酔っぱらっていたようなおじさんたちはどこへ行ってしまったのでしょうか。
先日、大阪市立美術館に行ったときも「てんしば」はかなり賑わっていました。しかも何だかみんなビールを飲んでいるのです。午後3時半ごろでしたから早いんじゃないかな、また昔の路上飲酒に戻るのかな、などと思っていました。実はそうではなく、毎年ミュンヒェンでおこなわれる
オクトーバーフェスト
Oktoberfest
に倣って「てんしばオクトーバーフェスト」というのがおこなわれていたのです。
オクトバーフェストはミュンヘンで9月半ばから10月にかけて行われるビールのお祭りですが、最近では日本でも各地でおこなわれています。
ビールを飲んでは語り合うお祭りですから、仮設の店が出て、さまざまなドイツビールでなかなか繫盛していました。
今から美術館に行こうとする者にとってはいささか妙な雰囲気だったのですが、大阪では天王寺が一番似合うかも、とも思いました。
そしてそのにぎやかな一帯を抜けると、一転して静かな大阪市立美術館があるのでした。
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- [2022/09/27 00:00]
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秋の花
昔から秋には草花を愛でることが多かったのです。代表的なのは萩。『万葉集』で春夏秋冬を問わずもっとも多く読まれている植物は萩なのです。何と、142首の歌に詠みこまれています。
わが丘にさを鹿来鳴く
初萩の花妻問ひに
来鳴くさを鹿(万葉集1541)
鹿は萩の花を妻問いするのです。いわば鹿と萩は恋愛関係、夫婦関係にあります。
萩は『古今和歌集』にも多く詠まれていて、
秋萩にうらびれをれば
あしひきの山下とよみ
鹿の鳴くらむ(古今集216)
も萩への恋心を持つ鹿を詠んでいます。
萩と鹿は、和歌の世界では秋を代表する植物と動物ですから、両者を結び付けたのかもしれません。
ほかにも秋の植物というと、いわゆる
秋の七草
があります。萩もそのひとつですが、ほかに女郎花、藤袴、尾花、葛花、なでしこ、朝顔の七つです。ただし、この朝顔は我々の知る朝顔ではないかもしれません(桔梗かムクゲかも)。
私が先ず秋を感じる花は(夏から咲き続ける朝顔は別として)彼岸花です。これが咲くと暑さも終わりという気がします。ところが今年は九月になっても33度とか34度などという日があってなかなか彼岸花に出会えませんでした。
以前は「ここに行けば咲いている」という場所(花壇)があったのですが、なくなってしまって、あちこち心当たりをうろついて、やっと近く(といっても徒歩15分くらい)のお寺で見つけました。
七草については、尾花ならいくらでも見かけますが、萩、女郎花、藤袴などは近くのちょっとした公園に行かないと見られません。
秋の景物として和歌に詠まれるものには
虫の声
もあります。これは虫を見ながら声を聞くわけではなく、草むらで鳴いているのを耳にしつつ、目はどこを見てもかまわないわけですね。ですから、秋の草花とともに鑑賞することも、大空の月と一緒に味わうこともできます。これに風のさわやかさを加えると、目と耳と皮膚感覚で秋を楽しむことができます。秋風の中で月を見ながら虫の声を聴いて、マツタケの香りと一緒に栗ご飯を食べたらパーフェクトかもしれませんが。
秋はなかなかいい季節です。
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- [2022/09/26 00:00]
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夏を越した植物
朝顔の花は夏から秋にかけて咲きます。そしてそのあとは種を作って翌年に備えます。夏の間は花が咲いてもそのあとなかなか種はできませんが、秋になると次々に花のあとが膨らんで種をつけます。今年も、9月の声を聞くとほとんど同時に種がつき始めました。花が咲くときに「めしべ」が「おしべ」の間をすり抜けるように伸びて受粉し、実をつけます。その中に種があって、しばらくは緑色の実なのですが、やがて枯れたようになって弾けて中の種を落とします。朝顔は実を鳥に食べてもらうということはする気がないのですね。赤くおいしい実をつけたら鳥が狙うでしょうに、まったくそういう気配はありません。
今年、初めて実が膨らむのを見つけたのは、9月上旬でした。それからかなりの日にちを経て、茶色っぽくなるとやっと
採種
できます。来年まで大切に置いておこうと思います。
もうひとつ、去年から今年にかけて初めて栽培したイチゴはランナー(匍匐枝、匍匐茎)をいくつも出しますので、それの発根する部分を種まきポットに置いて動かないようにしてやるとやがて根が出てきます。さらにそこからランナーが出て、いわば孫にあたる株ができます。イチゴの子株は親株の病気を引き継ぐことがあるので成長しにくいとする資料もあるのですが、まったくそういうことに触れないものもあります。
私は子株、孫株あわせて
30株くらい
を根付かせたのですが、どうしても生育の悪いものがあります。枯れてしまったものもありますし、小さいまま成長が止まったものもあります。それで最終的には生育のよい子株孫株それぞれ5株ずつくらい選んで10月下旬になったら植え付けようと思っています。まだまだ植えられそうなのですが、場所がありません(笑)ので、廃棄するほかはないと思います。
フランターふたつと植木鉢ふたつに植えて、しかも置き場所を露地と二階の窓辺に分けてみようと思っています。露地と窓辺、プランターと植木鉢、それでどれくらい成長に差が出るかを調べてみたいのです。
去年から今年にかけてのイチゴ栽培一年目は、さほど大粒のものではありませんでしたが、収穫はできたしランナーの扱い方も何とかクリアしました。自動車の運転免許でいうなら第一段階をクリアして、いよいよ細かい動きにチャレンジする、というところでしょうか。仮免までもまだかなり先は長そうです(笑)。
(私が生きていれば)5年くらいはイチゴ栽培を続けたいと思っているのですが、その5年のあいだに少しずつスキルを向上させたいと考えています。
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- [2022/09/25 00:00]
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夫婦別姓
今の民法に従う限り、結婚すると妻か夫かどちらかの姓に合わせる必要があります。明治の民法なら結婚すると女性は男性の家に入るとされて、婿養子でもない限り男性の姓になるのが当然でした。戦後の民法では、養子とは関係なくどちらの姓を名乗ってもかまわなくなっています。しかし、今でも学生さんに聞いてみると、妻の姓に合わせるのは養子だと思っている人はけっこういるのです。
また、結婚したらどちらの姓にしたいですか、と聞いてみると大半が夫の姓にしたいと希望しています。「夫の姓になることで、結婚した、夫婦になれたと思うから」というのが彼女たちの多数意見です。自分の姓に合わせても一体感を得られるのではないですか、と、少し意地悪な質問をしてみると、やはり「婿養子みたい」「何か変だ」という言葉が返ってきます。最近流行の言葉でいうなら、
違和感
でしょうか。
もちろん、民法でそうなっていて、若い人たちの大半も夫婦は同姓であることがふさわしいと思っている、さらに夫の姓になるのが嬉しいというならそれでいいと思います。
しかし、歴史的に見ると、藤原氏の男と源氏の女が結婚しても、妻は藤原を名乗るということはありません。藤原道長の妻は源倫子ですが、彼女は藤原倫子になるという考え方はありません。日本が規則を作るときにお手本とした古代中国は当然別姓。アジアの国では今でも夫婦別姓があたりまえという国はいくつもあります。
早い話が日本で夫婦同姓となったのは明治以降のことで、なんでもかんでも西洋の模倣をしたかったことと、ちょうどそれが男尊女卑の考えというか、女性は結婚したら
夫と夫の両親に仕える
という発想とうまく合致したのではないかと思うのです。それまで姓を持たなかった庶民は喜んでこの制度を受け入れたのかもしれません。今の日本で姓を持たないのは皇族だけです。
そして、戦後の民法になってどちらの姓を名乗ってもかまわないという規則になっても大半が夫の姓を名乗っています。
しかし、結婚しても元の姓を名乗りたいという女性は少なくありません。子どもの数が減ってきて、娘の結婚(=姓を夫に合わせる)によって、男子のいない家庭では親の姓が消滅してしまうことも現実的にあります。そういう現実が次第に夫婦同姓を窮屈に感じさせるようになってきました。そこで、選択的夫婦別姓制度を作ろうとか、通称として旧姓を名乗れるようにしようという動きが活発になってきました。仮に選択的夫婦別姓が採用されても、当分の間は多くの人が同姓を選択するかもしれません。それなら通称の使用でいいじゃないか、という意見もあり得るとは思うのです。問題は同姓を選択したくないという少数派の考えです。私はどうしても少数派の気持ちを無視する気にはなれません。
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- [2022/09/24 00:00]
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自分以外はバカ
『他人を見下す若者たち 「自分以外はバカ」の時代!』(講談社現代新書)という本があるそうです。16年前に出ているようですが、私は読んでいませんので感想を書くことはできません。あえて言うなら、パッとタイトルを見たときに、あまりにも「ウケ狙い」なのが気になったくらいです。
他人を見下すのは若者たちだけではないし、若者の大半は他人を見下したりはしないと思います。また、最近に限ったことではなく、いつの時代もこういう人はいたものです。ただし、特に最近はインターネットの普及で、SNSなどでいとも簡単に他者をバカにする人が目立つのは事実です。16年前にもこういうことが言われているのであれば、今はこの本の著者自身も驚くくらいさらにそれが激化しているかもしれません。
この本の著者は
「仮想的有能感」
という言葉を使っているらしく、他人をバカにすることで優越感を得ようとする若者を憂えているようです(違うかもしれません)。
しかし、前述のように、他人を見下すような若者はごく一部です。私が接してきた学生さんなど、そういう人はごくまれにしかいませんでした(いなかった、とは言えません)。その一方、どういう人なのかはわかりませんが口が達者で「論破」とやらをしたがる人もいます。くだんの本が出版された16年前なら、前の大阪市長だった人もまだ若かったでしょうから、その中の一人かもしれません。自分より弱い(例えば知識がない)相手を怒らせることで快感を覚えるのかもしれませんが、それはおかしいと思います。弱い人にはより一層ていねいに向き合わなければなりません。SNSは言いっぱなしができますし、相手を知らない(相手のいい点は見えない)からこそよけいに人をバカにしやすいのではないかと思います。ただ、こういう人たちを見ていると、私の目には何だか中学生の悪ガキのようにすら見えてしまいます。
また、他人をバカにするのは若者たちだけではなく、むしろ
いい歳をした
人に多いのではないでしょうか。国会の委員会で質問者をバカにする総理大臣もいました。その人が亡くなって国葬にするべきかどうかという話になると「(するのは)当たり前だ。しなかったらバカだ」と言った超高齢者の議員もいたと伝わります。「今どきの若い奴は」という高齢者の決まり文句も優越感を持ちたい気持ちの裏返しでしょう。
・・と、他人事のように言ってきましたが、私自身も身に覚えがないわけではありません。権力者が嫌いな私は、ついついそういう人たちをバカにしてしまいがちです。これは劣等感の裏返しかもしれません。
結局人間というのは自分を守るために他人をバカにしたくなる動物ということなのでしょうか。
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- [2022/09/23 00:00]
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フェルメールの18作品目
私が大阪市立美術館に行ったのは平日の午後3時半ごろということもあって、さほどの混雑ではありませんでした。
まず入口での検温とアルコール消毒はお決まりです。
中に入るとまずは「レイデンの画家」の部屋。美術館で観るにはやや小ぶりなものが多く私はこれといって強い関心を持つものがありませんでした。メツーの「鳥売りの男」など、いくらかおもしろいものはありましたが。
次の部屋は「レンブラントとオランダの肖像画」。ハルスの絵に期待して行ったのですが、それほどでもありませんでした。レンブラントの「若きサスキアの肖像」、ヴァイアンの「自画像」など。
次は「オランダの風景画」。あまりよくわからないまま通り過ぎました。
次は「聖書の登場人物と市井の人々」。ブラーメル「神殿で祈るソロモン王」、ステーン「ハガルの追放」などがありました。
次は「オランダの静物画」。静物画は、私は普段はあまり観ないのですが、ヘームの花瓶と薔薇」はよかったです。ドンデクーテル
「羽を休める雌鳥」
は以前どこかで観たような気がします。
次はすべてぺインによる「複製版画」という珍しい展示でした。「放蕩息子の譬えに扮するレンブラントとサスキアの肖像」など。
そして最後にフェルメール「窓辺で手紙を読む女」。
画中画の大きなクピドが再現されたものです。これまで、写真版で観ていたものはクピドのいないのがあたりまえでしたから、ニセモノ感がなくもない(笑)のでした。画中画のない、修復以前の絵は、フェルメールの手紙を素材とする絵の中ではもっとも静謐さがあり、その静けさは思い入れを誘ってくれたようでした。しかし、フェルメールは、実はこうして理知的な絵を描いていたのだ、と長い時間眺めていました。
1時間余り観賞して、ぶらぶらと新世界から新今宮に出て帰りました。大阪駅で迷いました(笑)。
私がこの展覧会でヨハネス・フェルメールの作品を見るのは
18点目
でした。
フェルメールの作品とされるもので現在知られているものはとりあえず37点と言われます。私はそのうち2つ(あるいは3つ)は彼の作品ではなく、総点数は最大で34~35点ではないかと思っています。もしそうであれば、この18点目で過半数を観たことになります。しかしまあ、どうせなら19点目を観て正真正銘の過半数と言いたいです。
これまでに観たフェルメール作品
「ワイングラスを持つ娘」「マルタとマリアの家のキリスト」「手紙を書く婦人と召使い」「小路」「ヴァ―ジナルの前に座る若い女性」「リュートを調弦する女性」「ディアナとニンフたち」「レースを編む女」「青衣の女」「手紙を書く女」「真珠の耳飾りの少女」「水差しを持つ女」「天文学者」「恋文」「取り持ち女」「ヴァ―ジナルの前に座る女性」「信仰の寓意」「窓辺で手紙を読む女」
まだ観ていないもの(観たいもの順)
「デルフトの眺望」「牛乳を注ぐ女」「天秤を持つ女」「真珠の首飾りの女」「少女」「地理学者」「ヴァージナルの前に立つ女」「ギターを弾く女」「士官と笑う娘」「中断された音楽の稽古」「婦人と召使い」「ワインを飲む女」「音楽の稽古」「眠る女」「絵画芸術」「合奏」
以下は作者に疑問のあるもの・・「聖プラクセディス」 「赤い帽子の女」「フルートを持つ女」
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- [2022/09/22 00:00]
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大阪市立美術館
大阪市天王寺区にある大阪市立美術館は、もともと住友家の本邸のあったところで、15代当主の吉左衛門友純氏が美術館をつくるなら、と寄贈しました。住友さんはけた外れのお金持ちですから、当時の大阪市が美術館を建設するのにふさわしい土地がないと困っているときに「それではこの土地でどうぞ」とポンと寄贈したのだそうです。美術館のお隣の
慶沢園
も、もともと住友さんの庭園でした。
大阪府立中之島図書館も住友さんが建設したものですから、ほんとうに大阪の文化にとって住友さんの果たした役割は大きかったと思います。企業メセナという言葉では収まりきらないほどの大規模な寄付だと思います。
この地は、すぐ隣に大阪市立天王寺動物園があり、大規模な公園です。また少し西へ行くとがらりと雰囲気が変わり、いかにも庶民の街という新世界、通天閣があります。私はなんだか場違いなような気がしてこのあたりであまり長居したことがなく、おそらく通天閣には一度も昇ったことはないと思います。
この秋、楽しみにしていたのがこの大阪市立美術館でおこなわれているドレスデン国立古典絵画館の展覧会でした。夏の間、がんばって勉強したら、秋には行ける、と自分自身にニンジン作戦をかけていたのです。がんばったとは言い難いですが、何とかノルマだけはこなしたので行ってきました。タイトルは「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」でした。
こういう展示の場合、もちろんフェルメールの作品に注目せざるを得ないのですが、同時にほかの作品のなかから
掘り出し物
を見つける楽しみもあります。
今回のフェルメール以外の展示はハブリエル・メツー、フランス・ハルス、レンブラント・ファン・レイン、ヤン・ステーン、ヘンドリク・アーフェルカンプなどなどの作品も出ています。美術に詳しくない私にとっては名前も知らない画家がたくさん(^^;)。だからこそ「お気に入り」を見つけたいと思うのです。
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- [2022/09/21 00:00]
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2022文楽九月東京公演千秋楽
文楽九月東京公演が本日千秋楽です。
皆さまお元気でお勤めになったようで何よりです。
次の本公演は、早いもので大阪では一年納めの十一月。
そろそろ切の字が四つ並ぶかと思ったら、咲さんが「宝引」、千歳さんが「上田村」で、切場ではないようです。番付が寂しいです。
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- [2022/09/20 00:00]
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たたけば売れる
私は『男はつらいよ』シリーズの映画をほとんど知りません。あれほど国民的映画として有名になり、多くのファンを獲得した作品なのに、我ながら情けないことです。学生のころは文楽、落語、クラシック音楽に傾倒するあまり、映画にはあまり心が向きませんでした。かろうじて洋画はいくらか観たのですが、日本映画に接する機会はきわめて少なかったのです。小津安二郎監督の映画をいくらか観たり、招待券をもらったり(笑)した場合くらいだったと思います。ここ15年くらいは字幕のある洋画一辺倒で、よけいに離れてしまったように思います。もっとも最近は洋画も観なくなってしまいましたが。
フーテンの寅さんは香具師の寅さんが旅先で「マドンナ」と出会い、また東京の下町、柴又で故郷の人たちと時には口汚く喧嘩もしながら交流します。もともとテレビ番組だったのが映画になって、最初は観客動員で苦戦しながら、しり上がりに人気が出てついには
松竹の看板映画
にまでなりました。ロケ地になると、当地の人が大歓迎するのがお決まりになっていて、その点でもいかにも庶民映画らしいものだったと思います。
寅さんは香具師ですから、威勢のいい啖呵を切りながら物を売ります。いわゆる「啖呵売」です。
「七つ長野の善光寺、八つ谷中の奥寺で、手鍋下げてもわしゃいとやせぬ。信州信濃の新そばよりも、わたしゃあなたのそばが良い。あなた百までわしゃ九十九までともにしらみのたかるまで」「てき屋殺すにゃ刃物は要らぬ雨の三日も降ればよい」などといっては暦本、雑誌、傘、かばん、ぬいぐるみ、ネクタイ、履物、ガマの油などを売って行きます。
ところで、私は何となく
バナナのたたき売り
がありそうに思っていたのですが、少しネットで調べた限りでは、寅さんの映画にバナナは出てこないようなのです(正確なことはわかりません)。
子どものころ、何かでバナナのたたき売りというのを観て、おもしろいことをするもんだ、と思ったことがあります。あんなことをしなくてもふつうにバナナを並べておいただけではダメなんだろうか、とすら思いました。やがて「たたき売り」というのはつまりは芸能なのだと思うようになりました。
私はテレビのワイドショーなんてほとんど観たことがありませんが、よくご覧になる方がいらっしゃるからこそ昼の番組に欠かせないものとして続いているのでしょう。また、私は週刊誌というものも読む習慣がありません。駅の売店で週刊誌を買って電車でずっと読んで、降りるときに網棚に放り投げていく人、というのが昔はよくありました。私はそういうのを観てサラリーマンになったらああいうことをするのか、と思っていましたが、とうとうそういう習慣はつきませんでした。ワイドショーや週刊誌はときに思いがけぬスクープを出すこともあるのでしょうが、昔の不祥事をほじくり出して「この人はこんな悪いことをしていた」という、いわずもがなの批判記事を書いては視聴率や売り上げを伸ばそうとしています。どうでもいいじゃないの、ということでも、「他人の不幸は蜜の味」というわけで、人を叩けば売れるのでしょうね。「たたけば売れる」のは有名人とバナナなのでしょう。
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- [2022/09/19 00:00]
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銀座のクラブ
私は、バーとかキャバレーとかクラブとか、そういうところにはおよそ縁がありません。そもそも、それらが同じものなのか、どこか違うところがあるのかすら知りません。多分このブログに書いたことがあると思うのですが、20代のころ、一度だけ大阪の文楽ファンの(たぶん中小企業の)社長さんに連れられて、クラブというところに行ったことがあります。その社長さんが「クラブ」と言っていたからそう思っているだけで、実際は何なのかは知りません。
ボックスに座っていると、韓国から来たというダンサーの人がステージを終わって隣に座ってきます。社長さんは「ほいほい」と1万円札をばらまいていました。バブルだったのですね。かなり「うぶ」だった私はそんな場所ではどう振舞えばよいものか戸惑っているばかりでした。たまたま隣に座った女の子がとても純粋なタイプだったので、知っている韓国語と英語で日常生活についての会話などをしていました。クラブで色気も何もない話をしているなんて変わっていますよね。それでも、彼女も私に劣らずかなりあやしげな英語でしたので、うまくいきました。2時間くらいいたのかな、社長さんは
7万円
だったか、それくらい払っていました(私はもちろんご馳走になっています)。これがもっと高級な店になると、ひとケタ違うお金も飛んで行くのでしょうか。それもさっぱりわかりません。
有名な俳優さんで歌舞伎役者もしている人が、銀座のクラブで性的かつ暴力的なことをしたというのでかなり社会的制裁を受けました。おそらく酔っぱらって気が大きくなって、自制心を失ったのだろうと思いますが、そういう性格の人でもあったのでしょうか。そういうところではからだに軽く触れるくらいはあり得そうな気がするのですが、それだけでは済まずに、常軌を逸した行為に及んだようです。接待する店ですから、お客を王様気分にさせてくれるのでしょうが、だからといって、従業員を奴隷扱いするような態度になってはいけないですね。この役者さんは、私ですら知っているのですから、今や超売れっ子といっても過言でなさそうな人ですが、しばらくは干されてしまうのでしょうね。
暴力的なことはやはりダメだと思いますが、役者さんなど人気者が女性関係で羽目を外すというのはよくあったことだと思います。また、遊びと知って役者さんと付き合う人もいたはずです。役者さんに限らず、政治家とか野球選手とか芸人さんとか、そういうお金と名前のある人が愛人に店を持たせてそこに通うなどという話はときどき聞きます。
私の家の近所は、昔は田舎の別荘地みたいなところだったそうですが、それだけに、このあたりに
おめかけさん
を住まわせていた家がよくあったそうです。今でも、古くてちょっとしゃれた小さな家などが残っているのですが、そこがそういう家だと聞いています。おそらく「旦那」は大阪あたりにいて、ときどき通ってきたのでしょう。
私自身はイケメンでも芸人でもないし、そもそも甲斐性がない(お金がない)ので経験がないのですが、同じ教員でも金持ちの人(大きな私立大学に勤めていたり講演などで荒稼ぎしたりする人はよくいます)には、遊び人も多いと聞きます。家庭騒動になったあげく奥さんと離婚したりした人の噂も聞いたことがあります。最近は減ったでしょうが、学生に手を出す人もほんとうにいたのです。
かの役者さんもおそらく毎年何億円と稼ぐ方でしょうから、お金の使い道に困って、散財したくなるのでしょう。それはご本人の自由ですから遊ぶならどうぞご自由になさればいいと思うのですが、いくらなんでも暴力だけは犯罪になってしまいますね。
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- [2022/09/18 00:00]
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穴診る先生
最近、どういうわけか鼻がよく利きます。どちらかというと、においには鈍感でしたので、不思議な感じがします。何も治療したわけではなく、いつのまにかそうなっていたという感じです。私は以前耳鼻科の医者に「味、しませんよね」と言われたことがあります。どうも、私の病気では味覚障害が起きるのが普通らしいのです。ところが私はそうではなく、「鈍感ではありますが味はします」と答えて驚かれました。「そりゃ、奇跡だ」とは医者の弁でした。
実は障害どころか、味も最近よくわかるようになってきたように思うのです。以前は量さえあればおいしいとかまずいとかほとんど気にしなかったのですが、今は味の良しあしを感じるようになりました。甘いとか辛いとかにとどまらず、これにはこういう材料を使っているな、なんて、以前なら絶対にわからなかったことを感じるようになりました。といっても特段すぐれているわけではなく、普通の人のレベルに近づいてきた、というくらいですが。
耳鼻咽喉科の医者というのは人間のからだの「穴」を覗いて診断するわけです。ある程度までは光を当てると見えますので、
額帯鏡
と言われる小さな穴の開いた反射鏡を使ったり、最近は反射させずに光を出すクリニカライトというのを使ったりして覗きます。あれって、どれくらい見えるのでしょうね。見られてばかりですから、一度自分で見たい気もします。
最近は、Amazonで聴診器を売っていますし、額帯鏡も買うことができるようですが、もちろん買うつもりなどありませんが。
鼻の穴の中なんて、あまりきれいな感じはしませんし、特に病気だから来るわけですから、炎症を起こしていると汚いような気がして、医者も大変な仕事だと思います。
まるで話は違いますが、淡路島に
松谷辰造
という耳鼻咽喉科医がいらして、この人は淡路の人形浄瑠璃の首をたくさん収集していらっしゃいました。ご自分でも人形を遣って、看護師さんに左を持たせて酒屋のお園などを演じられたのだとか。文楽の方々との交流も多く、戦災で文楽人形が焼けたときに、この人の持っていた人形を貸し出したという有名な話も残っています。
文楽には淡路島出身の人がたくさんいらっしゃいました。三代目竹本春子太夫師はもともと淡路で竹本三木太夫という名で大変人気があったそうです。五代目竹本伊達太夫さん、桐竹紋壽さんも淡路出身です。大阪のお生まれではありますが、淡路に行かれた方に四代目竹本越路太夫師もいらっしゃいます。そういう方はたいていこの松谷さんをよくご存じで交流もお持ちでした。昔の文楽の人の写真を見るとよく松谷さんも一緒に写っている、というか、松谷さんのお宅で撮られた写真というのがよくあるようです。
文楽人形遣いの
吉田文五郎師
は淡路の方ではありませんが、孫弟子にあたる桐竹紋壽さんのことを「淡路のぼん」(淡路島出身の坊や)と呼ばれたそうで、紋壽さんに「穴診るせんせによろしうな」とおっしゃったそうです。もちろん松谷医師のことです。文五郎師という方は、特に学校で勉強されたこともないようで、「耳鼻咽喉科医」などという言葉はご存じではなかったかもしれません。しかし、直感的に見事によくわかる簡単な表現をされたものだと思います。こういう芸人さんを観ていると、「学問がある」なんて、そんなにえらそうにするほどのものではない、と思えてなりません。
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- [2022/09/17 00:00]
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神戸市立博物館(3)
スコットランド国立美術館はイングランドの北、スコットランドのエディンバラにある美術館で、1859年に開館したのだそうです。
その美術館の収蔵品から、多くの絵画が来日して、東京都美術館と神戸市立博物館、北九州市立美術館を巡回しています。神戸展は今月25日まで、北九州は10月4日からです。
私が行った日は平日の午後でしたが、あまり人は多くありませんでした。何だかもったいないような気がしました。
「ルネサンス」の部屋はラファエッロやヴァザーリの習作のほか、ヴェロッキオ(とされる)の「幼児キリストを礼拝する聖母」、ヴェロネーゼ「守護聖人聖アントニウスと跪く寄進者」、そしてエル・グレコ「祝福するキリスト」などがありました。今「(とされる)」と書きましたが、これはキャプションには「(帰属)」と書かれているものです。この「帰属」というのは美術でよく使われますが、とても分かりにくいと思います。「ヴェロッキオ(帰属)」と書かれた場合、例えば「ヴェロッキオの画房で書かれたが実際の作者が誰なのかわからない」ということなのか、「ヴェロッキオが所持していたもの」ということなのかと勘違いしてしまいます。実際は「ヴェロッキオ作と証明されてはいないがそうであろうと思われる」という意味だと思います。意味が分かりにくいので、何とか表現を変えてもらえないものでしょうか。
「バロック」の部屋ではベラスケスの「卵を料理する老女」、ヴァン・ダイクの「アンブロージョ・スピノーラ侯爵の肖像」が圧倒的に印象に残りました。
「グランドツアーの時代」の部屋ではブーシェの「田園の情景」(三部作)が忘れられません。そしてこの展覧会のシンボルになっているレノルズの「ウォルドグレイヴ家の貴婦人たち」もすてきでした。
「19世紀の開拓者たち」の部屋ではコンスタブルの
「テダムの谷」
がすばらしかったと思います。少し後の時代のフランス・バルビゾン派の人たちの先鞭をつけるような感じで、赤い服の人物が小さく描かれていて、私は最初「コロー、じゃないよね?」と思ったくらいです。部屋が分かれていたのですが、引き続き「19世紀の開拓者たち」が続きます。ここではいきなりミレイの「古来比類なき甘美な瞳」に感心しました。スミレの花かごを持つ少女ですが、その瞳がとても印象的です。ただ、日本語タイトルはもうちょっと何とかならないのかと感じました。そして、私の好きな
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー
の作品も二点出ていました。「廃墟」と「ラ・フェルテ=スージュアール近郊の思い出(朝)」という作品でした。コローはほんとうに好きなので、彼の作品も観たものを記録しておきたいと思うくらいです(ただ、作品数が多いのでめんどうかも)。
最後にはルノワール「子どもに乳を飲ませる女性」も出ていて、総数93点。小品や習作も多かったのですが、なかなかすばらしい展覧会でした。
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- [2022/09/16 00:00]
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神戸市立博物館(2)
私は神戸の街がとても好きです。それだけに、震災の直後には神戸の街を訪ねて無残に壊れたそごう百貨店を目の当たりにしたときは涙があふれそうになりました。
それが立派に復興して、昔に劣らぬしゃれた街として今も愛されています。
ただ、仕事場が長らく大阪府でしたので、神戸にはあまり頻繁に行けず、寂しい気持ちです。最近は、行くとすればたいてい市立博物館で、三宮の駅からぶらぶらと歩くのがとても好きです。
ここは観覧を終わって出口から外に出ると目の前が
15番館
というしゃれたレストランです。ここも震災でひどい被害を受けましたが、復活して頑張っていらっしゃいます。この博物館は、京都や奈良や東京の国立博物館のような大きなものではありませんが、ロケーションがとてもしゃれているので「すばらしい」というよりは「すてきな」博物館です。神戸らしくていいと思います。
さて、この博物館では9月25日までスコットランド国立美術館展がおこなわれています。
ルネサンス美術ではヴェロネーゼ、エル・グレコなど、バロックではベラスケス、ヤン・ステーン、レンブラントなど、そのほかにもレノルズ、ターナー、コロー、ルノワールなどの作品が展示されているのです。
もっと早く行きたかったのですが、忙しかったものですから、9月になってやっと行ってきました。
この日は予約していた時刻より早めに着きましたので周辺を少し散策しました。8番館のあたりに行くと、ちょうど花嫁さんと花婿さんの写真撮影が行われていました。前撮りをなさって、ついでに周辺のビルでも撮影しようということなのでしょうか。花嫁さんは裾の長い衣裳でしたので裾を持ってもらって、カメラマンさんと共に撮影スポットを探していらっしゃいました。
9番館
というとてもすてきなビルがありますが、そこでも撮っていらっしゃいました。
さて、ロダンの『カレーの市民』のうちのジャン・ド・フィエンヌの像に迎えられて中に入ります。このご時世ですので、手指のアルコール消毒のあと手首で検温。そしてスマホで予約のQRコードを示して入ります。3階まで上がるとチケットをくれます(このあと、2階に降りるとまたそのチケットを提示する必要があります。ちょっとややこしいです)。
最初の部屋は「プロローグ スコットランド国立美術館」と題された部屋でした。チャーチ『アメリカ側から見たナイヤガラの滝』から展示が始まりました。なんともスケールの大きい、迫力のある絵でした。もちろん始めて観ました。この絵には人物が点描されているのですが、うっかりすると見落としそうなくらい小さいのです。その小ささが滝の大きさをさらに強調するようで本当にのけぞるような絵でした。ほかに美術館のあるエディンバラの風景(エディンバラ城、カールトンヒル、国立美術館)なども展示されていました。
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- [2022/09/15 00:00]
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神戸市立博物館(1)
神戸市は山と海に挟まれた町で、平地の部分は東西に長く広がっています。東の橋は東灘区で、東隣が芦屋市。東灘区の本山や御影は高級住宅街として知られます。御影にある香雪美術館(朝日新聞創業者の村山龍平=香雪=の旧居跡で、彼の集めた美術品を納める)のあたりなどとても雰囲気のいいところです。村山龍平以後多くの大金持ちがこのあたりの土地を買ったので、高級住宅になったのですね。古い歴史を持つ弓弦羽(ゆづるは)神社はフィギュアスケートの名選手と名前が似ているために本人も来られ、ファンの人も行くのだそうです。谷崎潤一郎もこのあたりに住んでいたことがあって、阪神電鉄住吉駅近くには「倚松庵」という旧居が保存されています。海側は灘の酒で知られる地域です。桜正宗、白鶴、菊正宗、剣菱、沢の鶴、大黒正宗などの酒造会社が軒を並べています。
その西側は六甲地域。阪急やJR、阪神の駅からバスに乗って六甲山ケーブル下まで行きそこから六甲山に登れます。バスに乗ると途中に神戸大学が広がり、キャンパスから南を観ると大阪湾。天気が良ければ西は淡路島、南は和歌山まできれいに見渡せます。しかし、さらに六甲山や西隣の摩耶山まで登ればもっと美しい風景が見られ、特に夜景は美しく、北の函館とともに著名です。
100万ドルの夜景
ともいわれます。
さらに西に行くと三宮界隈。神戸市の中心地です。このあたりは北に行くと北野、海側に行くと旧外国人居留地という、とてもエキゾチックな雰囲気があり、独特のしゃれた風景が見られます。もっと西に行くと歴史的には半年だけ都が置かれたことになっている福原地域があります。平清盛の時代です。大輪田の泊は清盛によって修築されたことが知られます。日宋貿易の拠点となりました。
さらに西に行くと須磨界隈。申すまでもなく源平の
一の谷合戦
のあったところです。須磨寺には敦盛や熊谷ゆかりの者がいろいろあります。平安時代に関心がある方にとっては、在原行平と松風、村雨の話、『源氏物語』「須磨」巻なども思い浮かぶ土地です。「須磨」は摂津国の西の隅。それで「隅」=「すま」と呼ばれるという説もあります。
さて、元に戻って、三宮から海に向かって少し歩いたところはほんとうにしゃれた雰囲気があります。東遊園地という公園(アトラクションのある「遊園地」ではありません)は、もともと居留地に暮らす外国人専用の公園でしたが、今では市民の憩いの場で高齢者の方が絵を描いている姿もよく見かけます。阪神淡路大震災の大きな被害を受けましたが、今ではここに「希望の灯り」がともされています。
ここから少し西に行くと神戸市立博物館があります。横浜正金銀行神戸支店であったところですが、それが神戸市考古館として利用され、のちに神戸市立南蛮美術館を統合して神戸市立博物館ができたのです。私がフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』を観たのはここでした。
震災の被害も受けていますので、それを逆手に取って震災関連展示にもしています。日本史の教科書に出てくる「ザビエル」の絵はこの博物館の所蔵です。
ここで、9月25日まで「特別展 スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たち」が開催されています。
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- [2022/09/14 00:00]
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遊び方を忘れた日々
夏の間、ずっと考えることがあって、あっという間に時間が経ちました。体調はまずまずで、呼吸器に異常はなく、昨年に比べるとよく歩けました。昨年の8月は15万歩しか歩けなかったのですが、今年は33万歩以上歩けました。つまり2倍以上。
この夏は、やはりまだ都会に行くのが憂鬱なこともあって、どこにも行かず、狭い範囲でうろうろしていました。以前なら頻繁に文楽劇場に行って、田舎の家にも行って、それなりに動いていたのですが。
かっこよく言うと
原稿に追われていた
ということなのですが、ほとんどだれも読んでくれないようなものを書いているだけで、社会的な活動はしていないと言われてもしかたがありません。結局私は「ガッコのセンセ」であって学者にはなれなかったということだと思います。
それでも、ともかくも、予定していたものすべてを書き終えて、提出しました。そうなると、特にこれをしなければならないということがなくなってしまいました。
普段から遊び馴れている人なら待ってましたとばかりに「さあ、あれをやるぞ」と意気込むところかもしれません。ところが、そういう楽しみをあまり持たない者としては、さてどうしたものかとわからなくなってしまいます。世の中がこんなに騒がしくなく自由に出歩けて、お金に不自由しない身分で、車でも持っていれば、ふらっと四国まで行ってくる、なんてこともできそうなのですが、
三つともアウト(笑)
なので、どうにもなりません。
もともと遊び上手ではないので、私が学生時代にいろいろ経験できたのはほぼ友だちのおかげでした。あの頃大流行したディスコに行けたのも友だちに誘わされたからで、ひとりでサタデイナイトにフィーヴァーするなんてとても考えられませんでした。
逆に、その後は文楽も落語も映画も多くの場合ひとりで行きました(特に、映画はほぼひとり)。今はそれらを自由に楽しむことができませんので、縁遠くなってしまいました。
どうやって遊べばいいのかな、と日々考えるくらいです。もちろん、美術館に行くという楽しみはあります。ただ、どうしても都会に出なければならないのがこのご時世では苦痛です。田舎町で遊ぶとなると、散歩くらい(笑)でしょうか。
それでも、今月はどうしても観たい絵がありましたので、美術館には行きました。ウイルスの感染がまだまだひどくて、ひやひやしながら行くのですが・・。
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- [2022/09/13 00:00]
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あきれかえります
私は今の総理大臣がどういう人なのかさっぱり知りません。ただ、見た目はきまじめそうな人だと感じます。ここしばらく続いた狡猾そうな総理大臣とはイメージが違うのです。なんとなく朴訥な好青年がそのまま年を重ねたような感じだったような気がします(知らんけど)。
私はいろんな人の声をきちんと聴きます、というのがキャッチフレーズだったように思います。戦局、じゃなくて選挙区は広島ですが、お父さん(この人は広島出身)が官僚から議員になったということもあって、生まれも育ちも東京ですね。
1年間、どういう功績があったのか、私はまるで知らないのですが、悪いことをしそうにないからでしょうか、支持率もまずまずで推移していたと思います。
ところがここにきて、
宗教団体
と政党の関係が表面化して、当初は他人事のような態度だったことで印象が悪くなったような気がします。さらにそれよりも情けない感じがしたのは国葬問題でした。
もう言い古されていることなので私がとやかく言うことはないのですが、「暴力に屈しない民主主義へのため」とやらいう理由をこじつけて、早い話が「数の力」を持っている右派への媚びのために強行しようとしていることはもう明らかになっています。それでも、建前を前に出して(というよりは本音を隠して)弔問外交もできるから(元大統領などが来てもたいしたことはできないでしょう)とこじつけて、
やったもの勝ち
を決め込むようです。ここで「やめます」と言ったら「男の一分が立たない」とでも思っているのか、「野党やサヨク連中に屈することになる」というのか、何が正しいかなど問題ではなく、何が何でもやらなきゃダメなんだ、という、正当性も何もないことをやらかそうとしているようにしか見えません。国民の多くが反対していることが「国葬」であり、それを強行するのが民主主義を守ることになるというのは完全な論理破綻です。
学校でも同じことがあります。建学の精神だの教育の理念だの、そんなことはおかまいなしで、お金のためなら何でもやりますというところを目の当たりに見てきました。
冷静に、客観的に考えればとんでもない愚行で、あきれ返るばかり。
こんなことをしていては、総理大臣も私が見てきた学校も、どちらも先は長くないと思います。
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- [2022/09/12 00:00]
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図書館への往復
この夏は書かなければならないものが多くて、まったく休めませんでした。例年よりはるかに忙しかったように思います。分量の目安は400字詰めで100枚くらいと思っていたのですが、それでは済みませんでした。またいくつか送ったあとに新規の依頼があったりしてさらにあたふたしたのです。中には義務的に書かなければならないものもありますが、メインになるもの、もっともしんどいものは書かなくても誰にも迷惑をかけないものなのです。しかし自分ではそれこそが一番書きたいもので、それを外すわけにはいかないのです。
時間の経つのが早すぎて、あれよあれよという間に次々に締切がやってきました。昔、学生時代に指導教授が原稿に追われて目が回るとおっしゃっていたことがあって、「君たちもそうなるからね」と言われたことがありました。先生は著名な方でしたからそういうことがあっても当然でしたが、ほかの弟子たちはともかく私などはまったくそういうこととは無縁だろうと思っていました。しかし今になって恩師の言葉が実現してしまったことに驚きつつかなりくたびれてしまいました。いつも思うのは、これが全部お金になったら、幸せだろうな(笑)ということです。ひとつだけ、雀の涙のようなお金の入るものがありますが、これとて時間給を厳密にはじきだしたらおそらく
900円/h
くらいで、学生アルバイトといい勝負か負けているか、というくらいです。どうあがいても貧乏暮らしをするように生まれてついているのでしょう。
もうひとつ、この夏がしんどかった理由として、私の要領の悪さがあります。徹底的に図書館で資料を集めたはずが、いろいろ疎漏があって、その都度あちこちの図書館に行かねばならなかったことです。この本はすぐ近くにある、この本はあそこまでいかないとない、ということがあって、ほんのわずかなこと(原稿にしたらせいぜい数行分)を調べるのにいちいち出かけていました。思いついたことを次々に書いていくわけにはいかず、「これを証明するためにはあの本を見なければならない」という一種の強迫観念にさいなまれるようになりました。途中で何度も「もうこれは調べなくてもいいかな」と
投げやりな気持ち
も沸き起こったのですが、学生のころから厳しく言われてきた文献主義、実証主義というのがからだにしみついてしまっていて、それではダメだ、とまた気持ちを奮い立たせることになるのです。
とにかく、日にちとの闘いでした。これは締め切りが早いから優先順位も先にしなければならない、でもこれはしばらく考え直してから原稿にしよう、などと考えながら書いていきました。
最終的には何とか間に合い、今はホッとしているのですが、来年はもうこんなことがないようにしないと、命が持ちません(笑)。
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- [2022/09/11 00:00]
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『餓鬼草紙』の出産
『餓鬼草紙』という、平安時代末期のユニークな絵巻があり、曹源寺旧蔵のものが京都国立博物館に、河本家旧蔵のものが東京国立博物館にあります。
この世でのおこないによって、来世ではどうなるかを教える内容です。仏教の考え方では、われわれ人間は六道のうちの人間界にいます。六道は「天」「人」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」で迷いの世界とされます。成仏するのはなかなか難しくて、たいていの凡人はまた迷いの世界のどこかに生まれ変わります。私のようなぐうたらな世間知らずは畜生道に落とされるかもしれません。少なくとも餓鬼道や地獄道には落ちたくありません。
この絵巻は『地獄草紙』とともに、悪行を働いた結果として餓鬼や地獄に落ちるとこんな苦しい思いをするのだ、と教えてくれるのです。だからみなさん、悪行はやめましょうね、ということです。
欲色餓鬼、食糞餓鬼、食小児餓鬼、羅刹餓鬼、食水餓鬼などなど、餓鬼にもいろいろあります。私はこのうち、
食小児餓鬼(伺嬰児餓鬼)
にもっとも興味を持ちました。これは、出産の場に行って、新生児を食らおうとする餓鬼なのです。東京国立博物館蔵の『餓鬼草紙』にこの場面があります。画面の中央に産婦が子どもを生んだ瞬間が描かれていますので、当時の出産のありかたが視覚的に理解できますので、とても貴重な資料だと思います。産婦は前後に二人の女性がいて、その人たちに支えられて膝をついたりしゃがんだりした状態で出産する、いわゆる
座産
です。あたかも排便をするような姿勢と言ってもいいかもしれません。今の出産は、私は見たことはありませんが、横になって「産み出す」という感じでおこなわれるのだと思うのですが、この当時は「産み落とす」感じです。
出産を助けるのは女性ばかりで、やはりこういうことに手馴れた人がいて、依頼されたのです。そしてやっと出産が終わったのですが、そこに忍び寄るのが食小児餓鬼。人間の目には見えない存在で、誰もが油断したすきに食いついてやろうとでもいう姿をしています。
床が汚れても大丈夫なように、敷物を敷いて、そのうえで出産するのですが、その場所を産褥といいました。今この言葉はもっぱら「産褥期」といって、産婦が出産してから元の身体に戻るまでの期間のことを言うようですが。そして、室内では米を撒いたり甑を割ったりします。これはいずれも魔よけのためのまじないで、『餓鬼草紙』にも描かれています。
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- [2022/09/10 00:00]
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出産と魔性のもの
すでに書きましたように、『源氏物語』「葵」巻では六条御息所の生霊が出産目前の光源氏の妻に取り憑いて苦しめます。彼女が出産後まもなく亡くなったのもあるいは六条御息所の霊が関わっているのではないかとすら思えます。『源氏物語』はフィクションですからこういうことはいくらでも書けると言えばそうなのです。しかし、フィクションは現実と密接な関係にあります。実際、この当時は病気になると何らかの霊が祟っていると信じている人は多かったようです。
藤原誠信、斉信という兄弟がいました。二人はある時点で、参議という地位にあったのですが、その上の地位は中納言です。そしてある中納言が大納言になったために欠員ができました。兄の誠信は我こそはと思って自薦したのです。そして弟の斉信には中納言昇進の申請はしないように言い含めるのです。斉信はやはり不満ではあったのですが、兄の言うことですから承知しました。
実はこの誠信という人はあまり能力がなくて信頼されていない人でした。惣領の甚六でしょうか。一方、弟の斉信は人柄がよく
人望があった
のです。それで、藤原道長が斉信に「君も立候補したらどうか」と言ってきました。しかし斉信は兄のことがありますから断ったのです。すると道長は「君が自薦しないならまったく別の人が選ばれるよ」と言ったものですから、それならとばかりに立候補し、彼が中納言になったのです。兄の誠信はショックでやがて悶死してしまいました。このとき、怒りのあまり手を握りしめすぎたため、彼の指が手の甲を突き破ったのだそうです(すごい握力!)。平安時代の歴史物語『大鏡』に入っているこの話はどこまでが本当なのかはわかりませんが、事実として弟が兄を追い抜いたことは間違いありません。
この兄の霊というのが、斉信の娘に取り憑いたという話があります。斉信の娘は藤原長家(道長の子)の妻になって万寿二年(1025)に懐妊していたのですが、当時流行していた赤裳瘡(あかもがさ。はしかのこと)に罹ってしまいました。そのうえにさんざん物の怪にも苦しめられたのです。八月二十七日、早産だったのですが、大きな男子を生みました。ところがこれは
死産
だったのです。そして斉信の娘自身もその二日後に亡くなってしまいます。藤原実資(ふじわらのさねすけ)という人の日記『小右記』八月二十七日条に、「新中納言(長家)の妻、大納言斉信の娘、故左衛門督の霊の為に連日取り入れられ、不覚。就中赤瘡を煩ふ。仍て加持する能はず」と記しています。長家の妻である斉信の娘が、亡き左衛門督の霊に取り憑かれて意識がない。とりわけ赤裳瘡も患っているので、加持祈祷をすることもできない」というのです。この故左衛門督というのが斉信の兄誠信のことなのです。赤裳瘡、死産、父の兄の怨霊と、何ひとついいことのなかった斉信の娘はあまりにもかわいそうです。斉信はこの時どんな思いを抱いていたのでしょうか。なまじ自分の方が人望があったために兄を超えただけでしたが、超えられた兄は耐えられなかったのです。こうなるともう誰が悪いという問題ではなく、骨肉ゆえの不条理を感じさせます。
フィクションの話ではなく、実際にこうして霊が信じられ、それが出産にも影響したことになります。こういう話はほかにもいろいろあるのです。
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- [2022/09/09 00:00]
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『源氏物語』の出産(5)
もうひとつ、『源氏物語』で忘れてはならない出産に関する出来事があります。
光源氏が四十歳の時、姪(兄の子)にあたる女三宮という女性を妻にすることになります。今では法律的にダメですが、当時はこういうことがあり得たのです。女三宮はまだ十四、五歳で、光源氏とは親子ほどの年齢差があります。彼女はとても幼稚で、光源氏は物足りなく思います。しかし、40のオジサンが14、5の小娘を見て物足りないのは当たり前でしょう。光源氏だってそれくらいは考えないとダメでしょ。この時まで仲良く連れ添って来た紫の上を裏切る行為でもあり、光源氏はこのあと手痛い罰を受けます。まず、紫の上が重病になって、一時危篤状態に陥ります。かろうじて一命はとりとめたのですが、その隙にとんでもない出来事が起こるのです。
柏木
と通称されることになる男が、この女三宮に恋い焦がれていて、ついに密通してしまうのです。かつて光源氏が自分の父の妻である藤壺に犯した罪を今度はこの若者が光源氏の妻に犯すことになるのです。因果応報です。そして、その出来事があったあと柏木が少しまどろんでいると、夢を見ます。それは柏木が女三宮の身代わりのように大事にしていた猫が「ねうねう」と鳴きながら近づいてくる夢でした。『源氏物語』の古い注釈書である『細流抄』に「懐胎の事也」とあり、それより少し新しい注釈書の『岷江入楚』には「夢獣懐胎之相(獣を夢見るは懐胎の相なり)」と記しています。どうやら、夢に獣を見るのは妊娠の予兆だという迷信のようなものがあったようなのです。案の定、その過ちの結果女三宮は懐妊します。この密通は光源氏の知るところとなり、三者(光源氏、柏木、女三宮)がそれぞれに苦悩するのです。出産の場面は詳細ではなく、「夜一夜悩み明かさせたまひて、日さし上がるほどに生まれたまひぬ(一晩中苦しみ明かされたあげく、日が昇ることにお生まれになった)」とある程度です。この子が後に
薫
と呼ばれる男子です。この子はやむを得ず光源氏の子として育てられることになります。『源氏物語絵巻』「柏木」にはこの子の誕生五十日を祝う日を描いた場面があり、そこでは光源氏が何とも言えない表情で薫を抱いている姿が描かれています。女三宮は苦悩の結果出家してしまい、柏木は命を落としてしまいます。生まれたばかりの子は実の両親にかわいがられることなく育つのです。
なんともどろどろとした物語です。ほんとうにこの物語はただものではないと思います。
『源氏物語』には、ほかにも玉鬘の娘が女児と男児を生む二場面、宇治の八宮の娘である中の君が匂宮の子を生む場面などが描かれています。
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『源氏物語』の出産(4)
光源氏にはもう一人子どもがいます。それは女の子で、明石で暮らしていた女性との間にできたのです。光源氏が政界において苦しい立場に追い込まれたとき、彼は自ら須磨に退きます。今の神戸市須磨区からは想像でもできないような、大変な田舎です。そこで光源氏は大嵐に遭って、明石の入道という偏屈な男に導かれるまま住まいを移します。入道には娘がおり、何とかして都の貴人と結ばれるようにしてやりたいと思っていたのです。入道が誘うようなことを言うと光源氏はそれに乗って娘と会います。この娘は琵琶の名手で、美しく、謙虚な人でした。後に明石の御方(「明石の君」とも)と呼ばれます。彼女は懐妊するのですが、光源氏はやがて都に戻るようにという連絡があり、二人は離ればなれになってしまうのです。都にいる光源氏は、そろそろ子が生まれるのではないかと思ってお使いの人を送ると「女にて平らかにものしたまふ」(女の子で、安産でいらっしゃいました)ということでした(「澪標」巻)。
この子はとても愛らしく、光源氏は将来
入内させたい
と考えます。しかし彼女は田舎育ちの明石の御方の娘。これでは入内させても母方の出自が問題にされてうまくいかない可能性があります。そこで、紫の上(光源氏の事実上の正妻。父親は皇族)の養女にすることを考えます。明石の御方にすればたった一人の娘を自分の手で育てられないわけですから、こんな哀しいことはありません。しかし娘の将来を考えると、光源氏の言うとおりにする方がいいだろうと判断します。物心がつかないうちに娘は紫の上のもとに送られ、娘は紫の上を実の母のように慕って成長するのです。後に娘は中宮になり、子どもも多く生みます。その際、明石の御方はあたかも女房のように娘に仕えるのです。この人は自分を押し殺してでも娘の幸せを考え、一歩下がったところから見守ってやるのです。学生にこの話をしたことがあるのですが、多くの学生は
「そんな人生はおかしい」
と言います。貧しくても実の娘と一緒の方が幸せに決まっている、というわけです。
しかし私はこの明石の御方という女性が『源氏物語』の女性の中では一番好きなのです。おそらく今どきこんな人はめったにいないのでしょう。しかし彼女の生き方に何とも言えない魅力を感じてしまいます。
光源氏は若き日に夕顔という女性と親しくなるのですが、この女性は不思議な出来事があって頓死してしまいます。夕顔には娘がいました。父親は光源氏のライバルとされる頭中将という人です。ところがこの娘はいろんな事情があって九州で成長したのです。そして見るからに無骨な田舎の豪族から求婚されるのですが、お付きの女房たちと一緒にかろうじて逃げてきました。彼女が今の奈良県の長谷寺に詣でたとき、偶然、かつて夕顔の侍女であった人と再会し、玉鬘と呼ばれる彼女は光源氏のもとに連れて行かれます。やがて光源氏の養女のようになることで世間に知られ、多くの男の心を惑わせます。その中で抜け駆けをして玉鬘を手に入れたのはこれまた無骨な髭黒(ひげぐろ)という人物でした。
そして玉鬘が出産する場面は「いとをかしき児(ちご)をさへ抱き出でたまへれば」と短く記されています。
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- [2022/09/07 00:00]
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『源氏物語』の出産(3)
葵の上がひどく苦しむので、光源氏も気が気ではありません。あるとき、葵の上の口からこんな言葉が漏れます。「光源氏にお話ししたいことがあります」。まだすぐには出産しないだろうというので、女房たちは下がって、光源氏は葵の上と二人きりになります。すると、葵の上が変貌して光源氏に「物思いをしたために私の魂が抜けだしたのです」と意味の分からないことを言います。しかしその声はまぎれもなくあの六条御息所でした。つまり葵の上に取り憑いて、その口を借りて六条御息所がしゃべっていたのです。こんなことがあるのか、と光源氏は茫然としてしまいます。御息所の生霊は恨めしげな歌を詠んで、つらい思いを抱えながらひとまず離れて行ったようです。
産室の様子がいくらか静かになったので、葵の上の母が薬湯を持ってきて、いよいよ出産です。葵の上は抱き起されて男子を生んだのです。抱き起されるのは、この当時は座産だったからです。この男子は後に
夕霧
と呼ばれることになります。後産もなかなか大変だったのですが何とか済んで、ともかくも無事にすべてが終わり、一同安堵します。それを聞いた六条御息所はさすがに落胆します。「いとあやふく聞こえしを、平らかにもはた(とても危険な状態だという噂だったのに、安産だなんて!)」と思わずにはいられませんでした。ところがこのあと光源氏を含む屋敷の中の男たちが仕事のために留守をした日に、葵の上は急に胸の苦しみを訴えてあっという間に亡くなってしまうのです。作者は葵の上が出産の苦しみで亡くなったという設定にもできたはずですが、そうではなく「胸の苦しみ」としたのは
意味ありげ
です。これは何の根拠もありませんが、六条御息所の最後の執念と思えなくもないのです。
葵の上は、光源氏の妻になりながらその夫婦仲はあまりうまくいかず、やっと子どもができて光源氏とも心が通い始めたと思ったところで子を残して亡くなってしまいました。政界の第一人者である左大臣の娘として生まれ、何不自由なく育てられはしたものの、幸せな人生だったのかというとそうとも言えないように思えます。二十六歳でした。
光源氏は藤壺との叶わぬ恋に苦しみ、夕顔という女性にはうまくいきそうなところで先立たれ、空蝉という人は夫の任地(伊予)に去り、ここでまた正妻を失ってしまうのです。
出産の話から少しそれますが、光源氏は葵の上を失ったあと、なんと、まだ十四歳くらいと思われる若紫の君を野獣のように強引にわがものにしてしまいます。若紫は優しいお兄さんのようであった光源氏のあまりにも突然の変貌におののき、哀しみます。しかしこの出来事を経て、光源氏の正妻の地位は、形式的には問題があるにしても、若紫の君に移っていくのです。紫式部という作者は残酷なまでに人々の運命を描いていきます。
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- [2022/09/06 00:00]
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『源氏物語』の出産(2)
『源氏物語』に限らず、平安時代の物語でもっとも有名な出産の場面というと「葵」巻における光源氏の正妻葵の上のそれでしょう。
光源氏は十二歳の時に親同士が決めた結婚をします。相手は左大臣の娘で十六歳。葵の上と呼ばれます。今でいうなら小学校5年生の男の子と中学校3年生の女の子との結婚です。当時、姉さん女房というのはそれほど珍しいことではなく、特に政略が絡むと権力者はそんなことおかまいなしです。藤原道長の妻の倫子も道長より二歳年長でしたが、これは道長が望んだことのようです。しかし恋愛と言うのではなく、道長は家格の高い女性との結婚を望んだのだろうと思われます。倫子は宇多天皇の系統の源氏だったのです。
光源氏は、そういう経緯の結婚であり、また葵の上というのがツンとすましたような人で、うまくうちとけず、ほかの女性とばかり付き合っていたのです。その中には
夕顔や空蝉
という、やはり年上の女性もいました。そして彼がもっとも恋い焦がれたのは義母とは言ってもわずか五歳年長に過ぎない藤壺だったのです。
年少というと、光源氏十八歳の時に、後に紫の上と呼ばれる人が現れるのですが、この人はこの人は八歳年少と思われ(十歳年少という物語の記述が出てくるのですが・・)、まだ十歳の女の子。今なら小学校3年生にあたり、さすがにいきなり結婚というわけにはいかないのです。
そんなありさまで、光源氏はいつもうまくいかない恋愛に苦しんでいます。葵の上のところにはほとんど義理で通っているようなところがあり、なかなか愛情は湧きませんでした。
時は流れ、結婚して十年目に、とうとう葵の上が懐妊します。なんと、二十六歳での初産ということになります。当時の女性もそんなに若くして出産するわけではないのですが、それでも二十歳前後に最初の子を生むことは多かったと思います。藤原道長の妻倫子は二十五歳で最初の子を生んでいますが、彼女は結婚自体が二十四歳でしたから遅かったのです(ちなみに倫子が最後の出産をするのは四十四歳の時でした)。
光源氏の最初の子(実は藤壺と密通してできた子がいる)であり、正妻の子であり、その正妻は左大臣の娘ですから、世間でも大騒ぎ。ところがこの懐妊を嬉しくない気持ちで見ている人もいました。中でも、六条御息所と呼ばれる女性はことさら憂鬱なのです。彼女は元春宮(とうぐう。皇太子にあたる)妃で、春宮の娘も生んでいます。ところが春宮が若死にしたために隠居のような生活を余儀なくされているのです。もし春宮が長生きしていたら彼女は中宮(皇后)になっていた可能性が高く、男子を生んでいたら、将来は
「帝の母」
になっていたかもしれないのです。家柄もよく、父親は大臣でした。つまり葵の上に何ら引けを取らないのです。そして、もし葵の上に子ができず、六条御息所に光源氏の子ができていたら立場が逆転する可能性だってあったでしょう。ところがその葵上が懐妊して、自分はもう年齢的にも光源氏に顧みられないだろうという気持ちになっています。彼女は光源氏より七歳年長なのです。
そんなある日、六条御息所は葵祭の斎院の御禊という行事を(牛車に乗って)見物に行きました。すると、葵の上の車が割り込んできて、家来同士が喧嘩沙汰を起こし、光源氏の正妻で左大臣家の娘という権威を笠に着て御息所の車を破壊して恥辱を与えたのです。これが引き金になって、彼女の生霊が葵の上に取り憑くという事態に発展し、出産を間近にした葵の上はかなり苦しむのです。
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- [2022/09/05 00:00]
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『源氏物語』の出産(1)
平安時代の文学における出産を考えるうえで、『源氏物語』を無視することはできません。
光源氏が生まれたとき(桐壷巻)については生まれたことだけが記されていて、このたびの私の関心から言うと特記することはありません。彼の母親である桐壷更衣は若くして亡くなりますが、それは出産との直接的な関係はありません。
最初に問題になる出産は光源氏が密通を犯した結果生まれる、藤壺女御(のちに中宮)との間の子でしょう。藤壺は病気のために内裏から実家に戻っていて、そのときに光源氏が強引に侵入して密通してしまうのです。その後、藤壺の懐妊がわかるのですが、周囲の人はほとんどが帝(光源氏の父)との間にできた子だと思うのです。となると、彼女が病気で退出する前の三月ごろに子が宿ったことになり、生まれるのは十二月ごろと考えられます。ところが実際に妊娠したのは密通のあった五月のことで、二か月ほどおくれることになります。さあ、十二月です。もう生まれるか、と周囲が騒がしくなるのですが、まったくそんな気配はありません。年が明けて、いくら何でも一月には生まれるはずだと期待されますが、「つれなくてたちぬ」(何の気配もなくてこの月も過ぎてしまう)とあります。この「つれなくてたちぬ」という簡素な表現が、いかにもあっけなく月日が経ったことを示すようでおもしろいです。このときの藤壺の心理状態はどんなものでしょうか。帝の子で、男子であれば、次の春宮(とうぐう)候補にもなりますから国家の大事です。ところが月のものの有無から自分では不義の子であることを知っているはずですから、
罪の意識
は半端ではなかったでしょう。
生まれるなら早く生まれてほしい、男の子なら問題になるから女の子であってほしい、などと考えたかもしれません。ところが・・
二月十余日のほどに、男御子
生まれたまひぬれば(紅葉賀巻)
とあるように、帝の子にしてはどう考えても遅すぎると疑われかねない出産で、しかも男子でした。出産は苦しみを伴いますが、彼女の場合は肉体的な苦しみよりも
精神的な苦悩
が大きかったでしょう。
藤壺の夫である帝はおかしいと思わなかったのでしょうか。ほんとうに自分の子だろうか、と疑う気持ちは微塵もなかったのでしょうか。物語の中で、帝がそういうことを口にする場面はないのですが、後に光源氏は「ひょっとしたら父君はご存じだったのではないか」と疑心暗鬼に陥ってしまいます。ただし、懐妊してから出産までかなり長い期間があったという記録はないわけではありません。『日本紀略』という史書は長徳二年十二月十六日の皇后定子の出産に関して「懐孕十二ヶ月云々」と記しているのです。
帝はこのあと光源氏の異母兄にあたる朱雀帝に譲位して、藤壺とともに悠々と隠居生活を送ります。そして、朱雀帝の春宮となったのは、この藤壺の生んだ皇子だったのです。この子はその後即位して、冷泉帝と呼ばれます。不義の子が帝位につくというのはいわば「皇統の乱れ」であり、それゆえに第二次世界大戦の直前に刊行された谷崎潤一郎訳(谷崎は三回『源氏物語』を現代語訳していますが、その初訳)ではそれを憚って光源氏と藤壺の密通の場面をぼかしてしまうというできごとがありました。
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- [2022/09/04 00:00]
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2022文楽九月東京公演初日
今日から文楽東京公演が始まります。
ウイルスの蔓延があたりまえのようになってきましたが、どうかお気をつけて。
第一部 (午前11時開演)
碁太平記白石噺 (田植、逆井村)
第二部 (午後2時15分開演)
寿柱立万歳
碁太平記白石噺 (浅草雷門、新吉原揚屋)
第三部 (午後5時15分開演)
奥州安達原
(朱雀堤、敷妙使者、矢の根、
袖萩祭文、貞任物語、
道行千里の岩田帯)
- [2022/09/03 00:00]
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小松島の義経(2)
小松島市は観光資源として、義経の上陸と進軍を生かそうとしています。「勢合(せいごう。家来を集めた場所)」「旗山(源氏の白旗を立てた山)」などの地名は義経ゆかりとされます。勢合のあたりには義経馬蹄洗池、弁慶勢くぐりの岩、弁慶橋などがあり、旗山には大きな義経像があります。私は行ったことがないので実際のところはわかりませんが、義経ゆかりの名所のある道を「義経ロード」と言っているのだそうです。「水木しげるロード」とか「コナン通り」みたいですね。」
義経は、さっさと屋島に行けばいいのに(笑)、平家の味方をする豪族をやっつけてから行こうと、桜間介能遠の城を襲うことにしました。「桜間」は「さくらま」と読んでよさそうで、今でも地名として「さくらま」の名が残っています。ところが
『平家物語』
をみると、「さくらば」となっているものも多く、当時はどう読んだのかはっきりしません。「ま」と「ば」は発音が似ているため、「さくらま」なのに実際は「さくらば」と発音されたということもあったかもしれません。いちおう「さくらばのすけよしとほ」と読んでおきます。
義経はここから屋島に向かうのですが、道案内をさせる近藤六の話では屋島までは「二日路」、つまり二日かかるのです。ところがなにごとも猛スピードの義経。徹夜で阿波と讃岐の国境(くにざかい)の
大坂越え
も難なく越えて、二日どころか翌日には屋島の陸側に到着しています。義経が摂津渡辺の津を出たのが旧暦二月十八日未明。四国についたのがその日の早朝。そして勝浦付近で桜間などとの小競り合いの戦いをしたうえで翌十九日には屋島に着いているのです。いったい、いつ休んで、いつ食べて、いつ眠っているのでしょうか。恐るべき速さです。義経も義経ですが、家来たちも不死身ではないかとすら感じます。
そして屋島の戦いは二十一日には決着して、平家は西海の引島(ひくしま。現在の彦島。壇ノ浦の西)に落ちていくのです。
私は徳島というと鳴門(大塚国際美術館など)、徳島(阿波十郎兵衛屋敷など)あたりしか知らず、それらの場所を通ると高松や愛媛に行ってしまいます。高知県の室戸岬に行ったのは広島在住時代で、愛媛県経由でしたから、小松島の地を踏んだことはないのです。
一度行ってみたいところです。
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- [2022/09/02 00:00]
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小松島の義経(1)
合戦というのは庶民に迷惑をかける面が多いために私は好きではありません。戦国時代にも関心が薄く、たとえば山本勘助って何をしたのか説明せよと言われるとむにゃむにゃと答えざるを得ません。文楽でも、戦国時代を描く『本朝廿四孝』や『鎌倉三代記』などはあまり得意ではないのです。源平合戦でも迷惑を掛けられる庶民にばかり目が行きます。ですから、「大物」よりも「すしや」がおもしろいと思います。
それでも、好き嫌いは別として勉強しなければならないことはあります。
先日、屋島合戦前夜のことを調べていました。屋島の弓流し、扇の的、錣引き、佐藤継信の最期などのほうが有名ですが、私が調べていたのは義経が四国に上陸してから屋島に向かうまでのことです。
徳島市の南に小松島市があります。昔、小松島フェリー(大阪南港~小松島)というのがありましたので、何となくその町の名前は知っていました。ただ、「小松島」は「こまつじま」と読むのだと思っていました。正しくは
「こまつしま」
です。
『平家物語』巻十一は屋島、壇ノ浦という源平合戦のフィナーレが軸ですが、その直前の大坂・渡辺から四国に渡った義経のようすも描かれています。大阪市福島区の関西電力病院北側に「逆艪の松」の碑があります。義経と梶原景時が逆艪について議論した場とされています。梶原は逆艪を使うべきだと言い、義経はそのようなものは要らないと一蹴します。彼らはこのあとも口論することがあって、これが結果的に義経と頼朝の間に亀裂が入り、義経が追われる原因となったとも言われます。それはともかく、義経は船に乗って四国に渡ります。淡路島の南を通るのですが、通常なら数日かかるところを、折からの春の嵐(このときは旧暦二月後半で春真っ盛り)に後押しされるようにしてわずか5時間前後で渡ったようです。
そして義経がついた四国側の浜は勝浦、今の小松島市だったとされます。そこには平家の意を受けた一団が待ち構えていましたが、義経は難なく蹴散らして、その中にいた
近藤六親家
という人物を捕らえて道案内させることにしました。「近藤六」というのは近藤の六男という意味で、この人は別の資料には「近藤七」ともあります。
そして近藤六に「このあたりに平家に味方する有力者はいるのか」と尋ねると、桜間介能遠(良遠とも。読みはどちらも「よしとほ」)の名前を挙げました。
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- [2022/09/01 00:00]
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