2022年もありがとうございました
大晦日になりました。
心身ともに不健康な身の上で、今年も何とかこの日まで生きてきました。何が私を生かしてくれているのか、あまりよくわからなくなっていますが、天命の尽きるまで、この世への恩返しをするために頑張ろうと思います。
この数年の間に、かつて親しくしていただいた人たちが何人か亡くなったのですが、今年はそういう話は聞かなかったように思います。それが一番幸せだったかもしれません。
今年もよく歩きました。11月末までで3,992,276歩で、12月1日には400万歩を超えていました。今日までの総歩数は夜までわかりませんのでまた後日書くことにします。
来年も無理をせず、1日8,000歩くらいは歩きたいと思っています。
皆様どうかよき新年をお迎えくださいませ。
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2022年 私の十大ニュース
今年ももうあとわずかですので、この一年を振り返ってみようと思います。調べてみると、2017年から「私の十大ニュース」というのを書いているようですが、今年も含めてたいしたことのない日々しか送っていないことに愕然とします。所詮凡人のすることはこんなものでしょう(笑)。
さて、今年はこんなことがありました。
第1位 創作浄瑠璃の初演
9月に創作浄瑠璃『異聞おくり提灯』を初演していただきました。書いたのは昨年でしたが、師匠になかなか作曲していただける時間がないようで、一年越しの初演となりました。それから、詳しいことは事情があって書けないのですが、もうひとつ創作浄瑠璃を書き、それも作曲、演奏していただきました。これは女流義太夫さんの演奏でした。来年もすでに書きつつあるものを含めて少なくとも2~3作は書きたいと思っています。
第2位 徳地人形浄瑠璃との出会い
上記の創作浄瑠璃の初演をしていただいたのは山口県山口市の洞春寺でした。本来は別の曲を演奏される予定だったのですが、私が行くとお聞きになった師匠が急遽初演してくださったのでした。私がここに行った本来の目的は徳地人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」を鑑賞することでした。小さな人形で、どうしてもスケールの大きさは出せないのですが、山口県の小さな町で脈々と受け継がれてきた人形の動きに感動しました。
第3位 短歌の創作継続
今年も短歌を少しずつ勉強していきました。雑誌に載せていただいたのは28首でした。自分では一生懸命なのですが、なかなかこれといった作品はできません。キャリアと能力の問題かなと思います。能力はあまり伸びませんが、キャリアは毎年積めるわけですから、これからも頑張っていこうと思います。「ぶらんこに乗りたきことのある夕べさりとて座板はさらに冷たし」。
第4位 源氏物語のエッセイ継続
短歌雑誌に連載している『源氏物語』のエッセイは27回目になりました。まもなく丸七年です。最初の巻である「桐壷」から始めて、「帚木」「空蝉」「夕顔」「若紫」「末摘花」「紅葉賀」「花宴」「葵」までを読み続けてきました。これまでに何度も読んできた作品ですが、エッセイを書くとなるとまたいろいろ調べねばならず、その結果、毎回発見があります。『源氏物語』は、私などではちょっとやそっとでは太刀打ちできない名作だと思います。
第5位 平安時代の出産と文学の勉強
以前から興味がありましたので資料は集めていたのですが、市民大学で「いのち」をテーマにした話をしてくれと言われたことをきっかけに、平安時代の出産と文学について夏休みに重点的に勉強しました。そして平安時代の文学と歴史資料を中心に読めるだけ読んで原稿用紙50枚程度にまとめ、11月に市民大学でお話しし、来年早々には活字にする予定です。
第6位 イチゴの収穫と育苗
去年の秋に植えた「宝交早生(ほうこうわせ)」という品種のイチゴは何とか成長してくれて、5月には50個くらい収穫することができました。「買った方が安い」なんていうのはナンセンスで、それよりはるかに大きなものを自分の心の中に収穫することが出来ました。今年の秋には親株から増やして育苗した子株、孫株を植え付けて今育てているところです。これが実を結べば、来年は「買うより安い」イチゴができるのですが・・・。
第7位 フェルメール「窓辺で手紙を読む女」鑑賞
少しだけではありましたが、今年も美術館に行くことができました。何しろ絵のセンスがない人間で、難しいことはわからないのですが、美術館に行っては悦に入っているだけの「美術ファン」です。今年はフェルメールの「窓辺で手紙を読む女」の、画中画のクピドが修復された形のものを観ることができました。ほかにも、大好きなコローの絵もいくつか観ています。
第8位 神社への日々の参拝
心が落ち着かないことが多く、そのために少しでも平穏を取り戻そうと、今年もわりあいに熱心に神社への参拝をしました。4月には春祭に行き、お神楽を目の当たりにすることもできました。6月末には夏越の祓にも参加し、多くの氏子さんと一緒に祝詞を挙げたりしました。この神社は親の代から縁の深いところですので、今後もこの縁を大事にしていこうと思っています。
第9位 「沼津」の読み直し
『伊賀越道中双六』「沼津」を少し詳しく読んでみようと思いました。こういう時には、ひとさまにお話しするのが一番いい勉強の仕方です。春から夏にかけて、SNS上で「『沼津』の床本を読む」という内容で少しずつ掲載しては自分の考えも書き込んで勉強しました。とても有意義でしたので、また何かやってみたいと思っています。
第10位 大雨に祟られる
今年はどういう因果だったのか、3度ばかり大雨に遭いました。そのうちもっともひどかった日は、たまたま私が長い距離を歩かざるを得なかったときで、その雨の強さときたら道路から側溝に流れた水が流れ切らずにあふれ出るほどでした。腰から下は濡れネズミ。駅に着いた時には気持ち悪くてたまらずに靴下を脱いで水を絞ってかろうじて帰宅したほどでした。
来年はもうちょっと大きなニュースがないものか(笑)と思います。
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- [2022/12/30 00:00]
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無事故無違反
運転免許の更新は滞りなく終わりました。この日は平日の午後だったこともあって、わりあいに空いていました。
私の場合、特別扱いをしていただかねばなりませんので、お金などを払うと、事務室に行きます。そして事情を話すと、てきぱきと処理してくれます。
10年前に更新に行ったときは、まだ聴覚障害者の更新手続きが徹底されていなくて、さんざんあれこれ確認されたうえ、担当者自身がどうすればよいのかわからなかったらしく、明石市の兵庫県運転免許試験場に問い合わせていました。その結果「〇月〇日の〇時に明石まで行けますか」と言われ、たまたま時間があったのでOKしました。面倒ではありましたが、やむを得ません。約束の時間に約束の場所に行ってみると、あちらでもどう対処しようか手探りしているようすでした。結局、警官らしき人4~5人に囲まれるようにして最初にちょっとした講習を受けました。「救急車をはじめとする緊急自動車に気を付けてください」などと、言われなくてもわかっていること(笑)を教えていただきました。さらにそのあと、実際に運転してもらいます、と言われて、試験場の構内を二人の警官を乗せて言われるとおりに運転しました。何ら難しいことではなく、こんなことをして何の意味があるのだろう(笑)、と思うくらいでした。一番わからなかったのは「このあと向こうからふらついた車が来ます(警官がわざとそういう運転をして出てくる)ので、クラクションを鳴らしてください」というものでした。そのとおりにすると、「いい感じですね」と言われたのですが、いい感じなのでしょうか? ともかくも実地での運転が終わると「午後に結果をお話しします」と言われ、昼食後に行ってみると
「合格です」
とのことでした。そして、あとは隣接している更新センターで手続きをして終わりました。記憶が定かではないのですが、その実地試験は無料だったような気がします。
次の更新の時もまた明石まで行って同じことをするのかと思ったら、案内ハガキには「地元の更新センターに来い」と書かれていました。やっとルールができたのでしょう。何の講習もなく、もちろん運転試験もなく終わりました。
そして今回も同じように近くの更新センターに行ったわけです。
もちろん前回同様、何かの試験をされるわけでもなく、すぐに「こちらへどうぞ」と視力検査のところに連れていかれました。ほかの人は順番待ちして並んでいるのに、案内してくれた警官の人が、使っていない検査機をオンにして私だけすぐに調べてくれたのです。これも一発で終わって、あとは写真を撮って講習室へ。昔は優良運転者であれば壁にかかっている交通安全の説明パネルを読んで勝手に部屋を出ていくだけでした(若い男の子なんか、ほとんど素通りしていました)が、それではダメだということになったのでしょう、今は30分の講習があります。と言っても最初に説明があったあと、ほとんど映像を観るだけで、あっという間に終わりました。私は事前に担当の人に事情を話して、
字幕付き
の映像にしてもらうようにお願いしました。この映像は手話もついているのですが私には役に立ちません。私以外に20人くらいの受講者がいましたが、その人たちには目障りだったと思います。ご迷惑をおかけしました。
それが終わるとその場で免許証を受け取ります。いうまでもなく、その講習室にいる人は全員無事故無違反でゴールド免許です。私の場合、この5年のうち後半はほとんど運転していませんので、無事故無違反といってもえらそうにすることではないのですが。
こうしいて新しい免許証を手に、とてもスムーズに帰ることができました。
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- [2022/12/29 00:00]
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眼鏡屋さん
文楽の技芸員さんは舞台では眼鏡はご法度なのだそうで、コンタクトレンズの愛用者が多いと聞きました。しかし、あるベテランの三味線弾きさんが、珍しい曲を弾くのに譜を持って出られたのを見たことがあります。そのとき、その三味線弾きさんは眼鏡(おそらく老眼鏡)をお使いになっていて、とても珍しい光景でした。
人形遣いさんも視力のよくない人は多いようですが、楽屋では眼鏡をかけて、出番になるとコンタクトレンズを入れるようです。頭巾を着ける場合は眼鏡のままという人も見かけますけどね。ところが、視力はよくないのにまったく裸眼で出遣いをする人もいらっしゃいました。私が舞台の袖にいたとき、ある人形遣いさん(出遣い)が眼鏡姿で出てこられ、どうなさるのかと思ったら、大道具の裏側の骨組みのところにヒョイと眼鏡を置いてそのまま舞台に行かれ、戻られるとまた眼鏡を取って何ごともなかったかのように楽屋に姿を消されました。
亡くなった
二代目吉田玉五郎さん
などは視力を失われても人形をお遣いでしたから、ベテランになると何とかなるものなのですね。
私はずっと視力が良くて、高校時代までは1.5、大学時代は測ることがありませんでしたが、大学院に入る時の健康診断でも1.2はあったような気がします。いかに勉強していなかったかがバレてしまいます。同級生でそんな視力の人はめったにおらず、男子学生はほとんど眼鏡、女子学生の多くはコンタクトレンズを使っていました。
しかし、時代が変わって、ワープロやパソコンを使うようになると、次第に視力は低下しました。それでも30代の半ばにやっと眼鏡を買ったくらいです。しかもその眼鏡は車の運転以外ではまったく使うことがありませんでした。その眼鏡は広島で作ったのですが、あのころは今のような立派な機械があったのかどうか、あまり記憶にありません。
今は眼鏡屋さんもハイテクになりました。
実は、
運転免許
の更新に際して眼鏡をなくしてしまい、やむを得ず新しいものを作りに行きました。そのときも、店員さんはいくつものタブレットをお持ちで、それを次々に使いながら「次はこれをします」「どのように見えますか」「眼鏡をかけたまま歩いてみてください」と画面で指示を出してきます。支払いの時もタブレットで私のスマホを映しながら決済していました。そして、以前はなかったような検査方法で細かくレンズを選んで行きました。
今や眼鏡人口は相当な数にのぼるはずで、コンタクトレンズ愛用者でもたいてい眼鏡はお持ちだと思います。それだけに、以前より値段は安くなっているように思われ、また個人店ではなく、いくつもの店舗を持つ会社が運営する店が中心になって機械化が進み、サービスも向上し、店員さんも少なくて済むようになっている感じがしました。
ちなみに、私は老眼鏡を持たず、作った眼鏡も遠近両用ではありません。しかし運転にはこれで十分ですし、芝居や景色を観るのにも問題ありません。ただ、残念なことに、以前に比べて芝居や映画を観に行く回数が激減しましたので、その眼鏡はまたケースに入れたままあまり使わない日が続きそうです。
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- [2022/12/28 00:00]
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芭蕉の葉
「芭蕉」というと俳人を思い出す人は多いと思います。しかし草かんむりがついていることからもわかるとおり、もともとはバショウ科の植物の名です。バナナも同じ科で、当然似ています。中国ではバナナのことを「香蕉」というそうですが、「芭蕉」ということもあるようです。だからと言って松尾芭蕉を「松尾ばなな」なんて読むと小説でも書き出しそうに見えてしまいます。
その芭蕉の発句に
芭蕉野分して
盥に雨を
聴く夜かな
があります。台風の大雨が降り、(弟子が植えてくれた)大きな芭蕉の葉に雨がたたきつけます。そして家の中は雨漏りがするので盥を置いていてそこにも雨のたまる音がするのです。わび住まいの風景です。ついでですが、私はこの句を借りて『足洗ひ屋敷』という浄瑠璃作品を書きました。
芭蕉の葉は雨音をいっそう大きくするので突然その近くで雨が降り出すとびっくりするかもしれません。
宮柊二
の歌に
一年は須臾にして去ると
身に沁みて
芭蕉に雨打つ人の軒過ぐ
―宮柊二『多く夜の歌』
があります。一年はあっという間に去っていくと身に沁みて感じています。年末のある日、雨が降り出しますが、気にせずに歩いていたのでしょうか。すると芭蕉の葉にバラバラと雨が打つ音が聞こえました。そんな家の軒を過ぎたときに、ああ一年が終わったな、と深い感慨に沈んだのではないでしょうか。
宮柊二という人は著名な歌人ですが、長らく富士製鉄(もとは富士製鋼所)に勤めるサラリーマンでもありました。この歌は昭和三十三年(1958)の作で、まだ富士製鉄の社員の時代でしたから、今年も一年大変だった、という思いが吐露されているかもしれません。
私も気持ちはわかるのですが、芭蕉の葉に落ちた雨が音を立てたのを耳にした瞬間に「一年は須臾にして去る」と感じるのはやはりなかなか真似のできない歌の心だと思います。
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- [2022/12/27 00:00]
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春に知られぬ花
今は冬といっても花がなくなることはありません。寒さに強い花が海外からやってきてクリスマスを彩ったりしています。もちろん日本にも山茶花とか椿のように冬に咲く花はありますが、パンジー、ガーデンシクラメン、スノードロップ、サイネリア、クリスマスローズなど、やはり外来の草花が多いような気がします。
『古今和歌集』の「冬」の部を読んでみると、花はほとんど出てきません。かろうじて梅が詠まれますが、やはりこの季節は花枯れの時期なのでしょう。
紀貫之
の歌に「雪降れば冬ごもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける」(古今集・冬)があります。貫之ファンの方なら「いかにも貫之らしい詠み方だ」とお感じになることでしょう。彼の歌にはほかにも「桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」(亭子院歌合)「桜花散りぬる風の名残には水なき空に波ぞ立ちける」(古今集)があり、よく似た表現であることがお分かりいただけると思います。「桜散る」は、春の盛りに桜が散っているところは寒くもないのに空には雪が降っている(ように見える)、と言い、「桜花」は、水のないはずの空に波が立っている(ように見える)よ言っているわけです。それに対して『古今集』の「雪降れば」は、冬ごもりしている草木にも、雪が降ると春でもないのに花が咲いている(ように見える)、と詠んでいます。ありのままを詠まずに、雪を花に、花を雪に、花を波に見立てているのです。ここで「(ように見える)」と書いた部分は歌の言葉にはなっておらず、「花が咲いている」などと断定的に、要するに隠喩として表現されているのです。こういう技法を1000年以上前の詩人も用いていたのです。
同じ『古今集』に
清原深養父
の歌として「冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ」があります。「冬なのに空から花が散ってくるのは」というのはやはり「雪」を花に見立てているのです。しかしここでは「雪」という言葉すら用いられていません。それで、なぜ空から花が降ってくるのかというと、それは雲の向こうが春だからだろう、というのです。この歌は詩情というよりは諧謔のような雰囲気を持っています。正岡子規には嫌われそうな歌です。
海外から多くの花がやってきて、冬の街を彩るのはとてもすてきだと思います。しかし、花がないからこそ雪を花と見るという発想もできたわけで、「ものがない」ことは芸術にとっては無意味なことではないのだと思います。
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- [2022/12/26 00:00]
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値上がりのあと
今年の秋はものの値段が一斉に上がりました。母子家庭、バイトやパート、派遣社員などで生計を立てている人たちはスーパーに行くとため息が出るとおっしゃっています(ネットでしばしばそういう声を見かけました)。同じく収入の少ない私ですが、そもそもスーパーに行かなくなった(笑)ので、実感としてはさほどのショックを受けていません。でも、新聞折込のスーパーのチラシなどを眺めてみると、これが特売の値段なのか、と驚くほど高くなっているものがあります。ロシアのウクライナ侵攻によって小麦などの輸入が制限されたり、石油の値段が上がったり、金融政策の違いなどに起因するらしい円安によってやはり輸入品の値段が高騰したりしました。収入が増えずにものの値段が上がるという形のインフレは御免蒙りたいものです。
私は以前朝食として食べていたミューズリが(売れないのかもしれませんが)店頭からなくなってしまい、ほかのシリアルを食べようと思ったのですが、これが一気に値上がりしていました。
しかし庶民はへこたれません。
またぞろアメリカの物真似ですが、感謝祭(サンクスギヴィング デイ。アメリカでは11月の第4木曜日)の翌日は、
ブラックフライデー
として安売りがおこなわれます。「感謝祭」そのものには知らん顔をしても、商売となると話は別ですから、このブラックフライデーを借用して、スーパーでもネットショップでも安売りがおこなわれます。年末商戦で買い物を考えている人たちは財布のひもを固く締める時期だけに、店としてはここでたくさん買い物をしてもらおうという狙いがあるようです。この日を「ブラックフライデー」というのは、アメリカで買い物客がごった返すために、警察(特に交通警官)が出動せざるを得ず、警官にとってはいやな一日だったことから「ブラックフライデー」という名が起こったといわれます。「black」は、「機嫌が悪い」とか「縁起でもない」というくらいの意味でしょうか。もっとも、「ブラックフライデー」の語源としては、商店が黒字(英語でも黒字はbe in the blackと言います)になるから、という説のほうが一般的かもしれません。しかし、どうもそれは後付けの説のように思われます。
買い物客にとってもありがたいことで、不要なものまで買うのはかえって損ですが、必要なものをまとめ買いするのにはうってつけの催しです。
私もこれでもかというくらい(笑)貯蔵できる食べ物を買い置きしておきました。これで当分シリアル食品も買いに行くことはありません。貧乏人には貧乏人の生き方があります(笑)。
そんな、
ささやかな抵抗
をしても、日々の食品はやはり高くなってきました。お酒も値上がりして、先日酒店に(牛乳を買いに)行ったら、安いチューハイでも10円は値が上がっていました。ずっとお酒を飲み続けているなら「これを機会にやめるぞ!」というのですが、すでにやめていますので(笑)、何の意味もありませんでした。
しかし、人間の心理というのは恐ろしいもので、10月以降、私はほんとうにスーパーに行かなくなってしまいました。余計なものを買わなくなって、かえってMy family budget went into the black.(うちの家計が黒字になった)ということに・・・は、ならないかな・・・(笑)。
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- [2022/12/25 00:00]
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期待は裏切られ
今の総理大臣は三代目の衆議院議員ですが、もとは広島の実業家の家で、選挙区も当然広島です。しかし「東大出身官僚」(父親は通産官僚から議員になった人)の御曹司でもありますので、当然東京暮らしで、学校もすべて東京。
育ちの良さがにじみ出たような人で、自民党の中では「お公家集団」と半ば揶揄されている「宏池会」にはよく似合う方だと思います。
宏池会は広島出身の池田勇人さんが創設者ですが、宮澤喜一さんも広島県です。つまり現首相は「広島選挙区で宏池会」の人としては三人目の総理大臣ということになります。
おっとりとして平和を愛し、リベラルな感じが漂うのがこのグループの特徴かな、と私は何となくではありますが、そのように思ってきました。もちろんそんな生易しいものではないでしょうが、自民党の中ではそういうグループではないかと感じていたのです。党内の力学であのどこか怪しげな金丸さんという他派のボスに(いやいや)推されて、やっと総理大臣になった宮沢さんも、何だかはっきりしないところがありましたが、教養人でしたし、嫌いではありませんでした。けたたましい声で「イイカッコ」を言ったり、偉そうな態度で人を馬鹿にしたりするような連中に比べれば
比較的好きなグループ
でした。
このところ、私の大の苦手なタイプの人たちが続いて総理大臣になりました。さほど見識がありそうにも思えないのに、なんでもかんでもごり押しして、間違ったことは他者に責任を押し付けて、とにかくえらそうにものを言いました。大事なのはオトモダチだけで、それ以外の人間はバカにしても平気でした。とにかくもう、辟易していました。
そこに現れたのが今の総理大臣でした。どういう見識を持った人かは知りませんでしたが、顔つきも(ちょっと前の副総理みたいに・・笑)あまりワルではなさそうに見えますし、「人の話をよく聴きます」というのがキャッチフレーズでしたし、少しはまともになるだろうとわずかながら期待もしていました。
個人的にはちょっとだけあの人の奥さんと縁があることもあり、しばらくは我慢して見ていました。
ところが・・・
がっかり
でした。宗教に名を借りた政治団体、それもどう考えても異常な「金集め」をする団体と深くかかわった人物が、その団体の被害者二世である人物に殺害されると、国民の8割近くが反対しても大々的な葬儀を強行しました。森友問題で苦しんで自死の道を選んだ方の奥様が真実を知りたいと言って損害賠償の形で法廷に持ち込もうとしたらお金だけ払って(自分の懐は痛まない)臭いものにふたをしました。とどめを刺すように、私がもっともがっかりしたのは防衛という名の軍事費の増強に突っ走ったことでした。それでなくても世界で9番目に多額の防衛費(軍事費)を投入しているのに、このままでは5年後にはアメリカ、中国、インドに次いで第4位にまでなるとのことです。もう、いいわけのしようのない軍事大国になってしまうわけです。
国民の声は聞かずに、相変わらず「大物」のような顔をしている長老や武器を売りたくてしかたがない軍事大国の顔色ばかり窺っている姿はみじめですらあります。こんなに骨のない人だとは思いませんでした。情けないし、悲しくさえあります。
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- [2022/12/24 00:00]
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南北東西活路通
Facebook友だちの中にはいろんな仕事や趣味をお持ちの方がいらっしゃいます。教育関係、芸能関係の人が多いのは私の仕事から考えても何ら不思議なことではありません。昔からの知友という人も何人かいて、そういう人は、何かのはずみで私の名前が検索に引っかかって、どこかで見たことのある名前だ、という感じで「ひょっとしてあのときの・・?」ということで申請してくれたのです。
昔は文楽ファンの人とこのブログを通して知り合うことが多くて、実際に多くの人にお会いしたものです。やはり趣味が合うというのはいいものですね、すぐにうちとけることができますから。しかし最近は、趣味つながりではありながら、なかなかお目にかかることはできなくなりました。関西の人であればまだしも、ほかの地方の方とはどうしてもネット上のお付き合いで終わってしまうことがあります。
そんな方でも、時にはいい勉強をさせていただくことがあります。それぞれの道のプロばかりですから、そういう点では教わることが多いのです。
やはり趣味がらみの人なのですが、お茶の師匠をなさっていらっしゃる方があります。この方は、稽古の時の写真をいつもアップされて、床の間の軸も見せてくださるのです。
今月のお稽古では、京都大徳寺の開山で、13~14世紀の臨済宗の僧侶である
宗峰妙超(大燈国師)
の偈(げ)を掲げていらっしゃいました。その文字は「関 南北東西活路通」というものでした。昨日書きました「私の今年の漢字」に選んだ「関」はこの偈に由来するのです。これは大燈国師が大悟したときの漢詩(「投機の偈」といいます)の一節によるものです。その漢詩というのは、
一回透得雲関了
南北東西活路通
夕處朝遊没賓主
脚頭脚底起清風
というものでした。大燈国師の師である大応国師から「雲門の関」という題を与えられて作ったものだそうです。「関 南北東西活路通」というのはその前半を言ったもので禅語としてよく知られ、茶席の掛け軸にもよく書かれるものです。この軸は、たいてい大きく「関」と書いてその下に「南北東西活路通」と小さく書かれます。
「ひとたび雲の関を通れば南北東西に活路が開ける」というのは何ともすばらしい言葉です。
しかし、
難関を通れば
活路が開ける、ということは、難関を通らなければなかなか活路が見いだせないということでもあります。そしてひとたびそこをくぐり抜けたら目の前には広大無辺の自由が待ち構えているのでしょう。「狭き門より入れ」(「マタイの福音書」7.13―14)という言葉もありますが、門や関の持っている狭く通りにくいイメージが、逆にその向こうの明るい光を感じさせます。
私の場合、とかく難関を避けたくなる気の弱さが情けないのですが、Facebook友だちの茶人の方の投稿にハッとさせられましたので、心に刻んで行動しようと思います。
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2022今年の漢字
今年も年末になり、また「私の今年の漢字」を考えてみることにしました。こういうことをする人はほかにもいるのだろうか、と思って少し検索してみたら、けっこうたくさんいらっしゃるみたいです。
さて、私が6年前から始めた、「私の今年の漢字」は次のとおりです.。
2016年 「耕」
2017年 「繋」
2018年 「忍」
2019年 「静」
2020年 「黙」
2021年 「星」
「耕」と「繋」は、呂太夫さんの本と狂言風オペラ『フィガロの結婚』の仕事をしたときのもので、どちらも翌年に成果が出る、ということで選んだ字でした。
しかしその後の3年間はあまり明るい字ではありません。
昨年はちょっといい格好をして「星」なんていう字にしたのですが、これも「太陽でも月でもなかった人生」という意味が込められていました。
さて、今年なのですが、大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)の漢詩から
関
という字を選んでみました。大燈国師が大悟したときの漢詩です。「大悟(たいご)」は禅宗などでいう完全な悟りを意味します。この漢詩についての詳細は、明日、別のテーマで書くことにしますが、十二月の茶席で掛けられる軸にこの漢詩がしばしば用いられるようです(お茶の先生にうかがいました)。
さてこの漢詩で、大燈国師は「関を越えると活路が広がる」という意味のことを言っています。「関」は「せく(さえぎる)」ところの意味で「堰く」「塞く」とも同じ意味があります。何かを止めるのが「関」「堰」なのですね。これを越えるのが大変なのは、昔の関所からもわかります。
『勧進帳』
なら義経一行を見張るために道行く人は関所で足止めをされました。義経自身もこの関を越えなければ生きるすべはありません。困難な関所で、富樫からさんざん山伏問答をしかけられたりしたわけですね。しかし弁慶の才覚によってひとたび関を越えると、そこには一気に自由な道が開けていたのです。富樫左衛門は関を通すことで義経の活路を開いてやったことになります。残念なことに、義経は結局悲惨な最期を遂げることになりますが、それでもこの関所を越えたときの気持ちは(史実であったなら)どれほど開放感に満たされたことでしょうか。
私はこの一年間、ものごとを前向きに進めようという気力を持てないままに過ごしてしまいました。しなければならないこと、したほうがよいことがどうにもできないのです。足を一歩進めれば済むことなのに、それができない精神状態でした。
そこで、この「関」という漢字を今年の字として、さて、越えられるかどうか、自分自身にこの宿題を課してみようと思います。
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スポーツ大会の闇
そういうことに疎い私にはさっぱりわかりませんが、大きなイベントはかなり儲かる商売なのでしょう。ましてそれが世界的な催しであれば桁外れのお金が動くことになるのだろうということは想像に難くありません。
そうなると、何とかしてその巨大な利益を手に入れようとするのは関連企業にすれば当然のことだろうと思います。企業が利潤を追求する組織であるからには必要なこととも言えそうです。
ただ、そのためには手段を択ばないということになると、そこに権力との癒着が起こってくるのだと思います。また、力の弱い人たちを道具のように使ってでも利益を上げようという考えにも結び付きかねません。
東京でおこなわれたオリンピックでは多くの問題が掘り起こされて、検察も黙って見過ごすことはなくなったようです。自分の親しい人を検事総長に任じて検察を黙らせようとするような人がいなければ、検察は健全に動くはずです。このところ、オリンピックのみならず、その前におこなわれた
テスト大会
での談合疑惑にもメスが入っているようです。やはりしてはならないことをした場合はルールにのっとってきちんとその罪を暴いていくことが必要だと思います。
何でも、次は札幌でまたオリンピックを開催したいと言っているらしく、東京五輪、日本万博、札幌五輪というのは既視感があるどころか、半世紀前の物真似のように見えてしまいます。いずれも巨大なイベントですから、大きなお金をめぐって争いもありますが、それとともに設備の建設のためにお金とともに人が動きます。その人たちに無理難題が押し付けられないかという心配もあります。オリンピックの時に多くのボランティアが集められたようです。ボランティアというと聞こえはいいのですが、企業は儲けてタダ働きさせようという魂胆ならけしからん話です。
またお金を払うといってもブラック企業並みの低賃金重労働というのもけしからん話です。それで思い出すのは先日まで行われていたサッカーワールドカップの
カタール大会
です。サッカー場などの建設のために雇われた人のうち、6,500人もの外国人労働者が亡くなったと言われています。いったいどれほどの労働を課されたのでしょうか。イギリスのBBCはそのためにカタール大会の開会式の放送をしなかったそうです(日本はしたの?)。カタールの側にも言い分はあるのかもしれませんが、やはり異常なことだと言わざるを得ないと思います。そもそも、サッカーはレギュラーのリーグ戦を行っているときにはワールドカップはしないというのでだいたい6月が開催時期になっていました。ところが今回はそんな時期だと猛暑でどうしようもないからというので、リーグ戦の時期におこなわれ、代表チームとしての選手のコンビネーションが不十分なままだった可能性もあります。そういうことを考えると、あまりいい大会ではなかったような印象を持っています。
ただ、こういうことについてカタールだけに責任を押し付けると、スポーツの闇というもっと大きな問題があやふやになってしまいそうに思います。
商業か、巨大化したオリンピックはますます種目が増えたりして収拾がつかなくなっていくのではないかと危惧します。ファンの方には申し訳ないのですが、私は野球もスケートボードもいらない、それはそれぞれの国際大会をすればいいだろうと思います。陸上、水泳、レスリングくらいでもいいですし、それらの種目も今では世界大会が別に行われるようになっています。商業イベントとしてはともかく、スポーツ大会としてのオリンピックの意義は薄れているのではないかとも思います。
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- [2022/12/21 00:00]
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スマホ・命
学生さんから、「本は読まないといけませんか」という質問をしばしば受けました。彼女たちの中には、まったく本を読まない人がいました。「中学校以来、一冊の本を読み通したことがない」という人は珍しくないのです。小学生は、今、毎朝短時間の読書の時間を設けたりして、それなりに本に接しているのですが、そういう時間が無くなる中学生になると、あたかもその反動のようにかなり読書量は減り、高校生になれば「受験だ、受験だ」といわれて、とんとご無沙汰するようなのです。大学生になっても「スマホ・命」ということで、読書をしない人はきわめて多く、読むとしてもエンターテイメントのような軽くて短い、ものによっては絵の入った「小説」で、重厚なものはまず読まないようです。もっとも、私が教えた学生さんは、途中から理系の人が中心になりましたので、父親の書架にあった『細雪』を一字一字いとおしむように読んだ私の体験を押し付けることもできないとは思っています。
ずいぶん前のことですが、
軽薄短小
という言葉がはやりました。
今どきの若者は重厚長大なものはめんどうに思うみたいだ、ということだったのでしょう。この言葉が使われていた頃に「若者」だった私としましてはエラそうなことは言えませんが、今も刹那的というか「すぐにわかるもの」が好まれるようです。TikTok のようなショート動画がはやる時代です。最近の映画はどうなのでしょうか。若者には、長編はやはり好まれないのでしょうか。
理系の学生さんたちに文学の授業をするに際して、私はしばしば
『竹取物語』
を選びました。この作品は古典文学の中では短いものなのでちょうどいいかな、と思ったのです。ところが学生さんは「『竹取物語』がこんなに長い作品だとは思わなかった」としばしば言っていました。
『源氏物語』を取り上げたこともあるのですが、その場合は「ある人物に焦点を当てていくらかの巻を読む」という形でした。「一般に販売されている『源氏物語』の本は2,500ページくらいありますよ」と話したら「気が遠くなる」という顔をしていました。
11月24日の朝日新聞に指揮者の井上道義さんの話が載っていて、そこで井上さんは「今の世の中で人気になるのは3分くらいの短くてわかりやすい音楽ばかりだけど、本当に面白い世界って、多少わかりづらいものじゃないかと思うんです。だからこそ、少し分かりはじめると、発見するのが面白くなってくる」とおっしゃっていました。井上さんはさらにショスタコービチに関して「本当に面白い人は多少とっつきにくそうな感じで現れる」と続けていらっしゃいました。そうなんですよね。私も初めて能に接した時はやはり退屈でした。しかしこれをおもしろいと思う人がたくさんいて今に残っているのは何かがあるはずだと思って観続けたら実におもしろいものでした。
「本を読んだら言葉を覚えられますか」「本を読んだら文章がうまくなりますか」というのも耳にたこができるほど聞かされた言葉です。どうしても「役に立つ」ということに関心が行き、役に立たないなら読書してもしかたがない、という発想を持つようなのです。
そうではなくて、おもしろいから本を読み、その結果として文がうまくなったり語彙が増えたりすることもある、と考えるのがいいのですが、なかなかそうは考えてもらえません。
もっともこれは学生さんだけのことではなく、電車に乗っても「スマホ・命」の大人たちがほとんどで、文庫本をさっと広げるという光景は珍しいものになってきました。
こうなったら、何と言ってもあまのじゃくな人間ですから、私は電車ではスマホは使わないぞ、と心に誓うのです。そして、ちょっと難しい本を読んで、「この言葉の意味は何だろう」と疑問を持つと、ついスマホで調べてしまう体たらくなのであります。
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- [2022/12/20 00:00]
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2022 文楽東京公演千秋楽
文楽東京公演が千秋楽を迎えます。
劇場は今、さよなら公演シリーズの真っ最中ですが、何もすぐになくなるわけではなく、次の2月公演も行われます。
この12月公演で今年の文楽本公演はすべておひらき。次は正月の大阪です。
中堅どころがずいぶんよくなってきたと言われていますので、今後も大いに期待できそうですね。私は「昔はよかった」とは思いません。今の人たちも頑張っているなら、それが今の
最高の文楽
です。今後も精進なさって末永くこの芸能を維持発展させていただきたいと願います。
新年は『良弁杉由来』をはじめ、楽しみな演目があります。あいにくまだ3部制ですが、いつかまた時代物の通し狂言が上演できる日を夢見て応援しています。
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- [2022/12/19 00:00]
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玄米
「玄」という字は「くろ」の意味があります。「玄人」と書けば「くろうと」で「天地玄黄」といえば「天は黒く地は黄色い」ということです。四神のうち「玄武」と言えば黒い亀(または亀と亀に巻きつく蛇)で、方角は北方、季節は冬です(青龍は東で春、朱雀は南で夏、白虎は西で秋)。私は何をさせても中途半端な人間で、何か「これ」という、とっておきがあれば「○○の玄人」と言えそうなのですが、あれも素人、これも素人で「玄」という字にはちょっとした憧れを持ちます。
「玄」という字でもう一つ我々の身近にあるものというと
玄米
があるでしょう。一般的には、おいしい米というと白米で、「白いごはん」というとそれだけで日本人は喜ぶところがあります。海外に行くと米といっても多くは長い粒のインディカ米で、粘り気がなくて日本人向きではないといわれます。通常、輸入されるインディカ米、というか我々が「タイ米」と言い慣わしているものはせんべいや泡盛の原料にするか、タイ料理やインド料理に用いられるものが多く、家で日常的にインディカ米を食べているという人はあまり見かけません。
アメリカでもインディカ米なのかと思いきや、
sushi rice
というのを売っているそうで、これはやはり炊くとパサパサしているのですが、寿司にすると(つまり酢を含ませると)なかなかいけるのだそうです。そもそも品種も「コシヒカリ」「ゆめにしき」「玉錦」などが栽培されているようで、カリフォルニア州あたりでよく作られているのだとか。寿司をはじめとする日本食が食べられるようになって、米にもこだわりができたのでしょうか。
しかしやはりおいしい米は白米ということで、私もたいてい白米を食べてきました。しかし最近はどういうわけか玄米をよく食べています。「黒い米」というのは言い過ぎですが、たしかに白米に比べると見た目は素朴で、土色のように見えます。味は確かに白米のような洗練された甘みがあるわけではありません。ほかの欠点としては、消化があまりよくなく、食感も今ひとつさっぱりした感じがないことが挙げられそうです。一方、栄養価が高いことはよく知られていて、食物繊維とかビタミンなどが多く含まれているのだそうですね。ビタミンB1が不足すると脚気になりやすいそうですが、江戸時代には白米を好んだ都市部の人たちにこの病気が多かったといわれます。
味に関しては、最近では玄米がおいしく炊ける炊飯器があり、長い時間水につけておく工夫をすればおいしくなるなどとも言われて、ずいぶん向上しています。さらには玄米を食べるための品種もできていて、ほんとうに至れり尽くせりといいたくなるほどあれこれ考えられているようです。
私も玄米は嫌いではなく、もっと食べたいのですが、もうひとつのネックが値段が高いことです。玄米はおいしく食べられるように手間をかけてから販売されますし、何と言っても流通量が少ないので値段は上がってしまうのですね。というわけで、玄米と白米をうまく混ぜながら食べたりしているのです。
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- [2022/12/18 00:00]
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授業に来ないでください
学生のころ、教養の授業でどうしても自然科学分野の授業を4つ(8単位)は取らなければなりませんでした。私は「数学」「生物学」「化学」「自然科学史」を取った記憶があります。「数学」と「生物学」はおもしろくて成績もよく、「化学」はまったくつまらなくて成績も平凡でした。残る「自然科学史」はその道ではかなり有名な先生の授業だったのですが、この先生は300人か500人か入る教室で、マイクなしでぼそぼそと話し始めたのです。そして最初に言われたのは「どうか授業に来ないでください」ということでした。「単位だけが目当ての人が多いと思うので、それなら何かレポートを書いてくれたらそれで単位は出します」と続けられました。興味のある人以外は授業を聴いてもらいたくない、ということだったのでしょうね。すると、初回は超満員だった教室が二回目から回を追うごとに減って、ついには数人になってしまいました。
私はその先生が有名な方であることは知っていましたし、あの当時は
アインシュタイン
に興味があったものですから、続けて出ていました。
そして、こうやって単位だけが欲しいというのではなく興味を持って聴いてくれる人にだけ話せるのはいい仕事だな、とも思っていました。
私が教員になって最初のころは仮にも国文科でしたから、学生さんはこちらが少し工夫すればそれなりに面白がってくれる人が多かったのです。しかしその後、理系の学生さんになってからは、「全然興味がない」という人を多数教えねばなりませんでした。
あの「自然科学史」の先生のように「授業に来ないでください」と言えたらどんなに気楽だろうと思ったこともあります。しかし授業には必ず来させて出席を取らねばなりません。私自身が学生のころは見たこともなかった(そんなものは存在しなかった)
出席簿
というのを当然のように渡されて「必ず厳密に出席を記録せよ」と命令が下ってくるのです。文部科学省もそういうことを推奨するのかもしれませんし、私立の学校は補助金をもらうためなら必死になって霞が関の言うことに従順になるものです。欠席回数が5回を超えたら自動的に単位は取れない、という決まりもありました。すると学生さんも対策を練ります。「祖父が亡くなりました」という忌引き届けを出すことによって、「公認欠席」を申請してくるのです。中には5回くらい同じことをしてくる人もいまして、受け取りながら「あなた、おじいさんがたくさんいるのですね」という話をしたこともありました。中には怒って突き返す教員もいましたけれども私はあまり気にしない方でした。
一方、「前回欠席しましたが、そのときの授業について友だちにプリントを見せてもらいましたので感想を書きます」と言ってそれなりの長さの文章をメールで送ってくる人がいました。彼女は「欠席を取り消してほしい」などとはひとことも言っていませんでしたが「出席扱いにしておきますね」と返事をしたら喜んでくれて、次の回から全出席、しかもとてもいい成績でした。
逆に、「授業に出るのは時間の無駄だ」とばかりに、出席を取られることについては友だちに頼んで休む人もいました。ばれていないと思っていたみたいですが、教員というのはこういうことに関してはなかなか嗅覚が利くもので、たいていわかってしまうのです。こういう人はこちらから「授業に来ないでください」と言いたいタイプなのですが、意気地のない私は、最後にレポートを書いてくれたら最低の点数で単位は出しました。
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- [2022/12/17 00:00]
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荻
「くさかんむり」に「秋」と書くと「はぎ」です。万葉集の時代にとても愛され、万葉集にもっとも多く詠まれた植物として知られます。鹿とは恋愛関係にあるという発想があって、「わが岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻問ひに来鳴くさを鹿(私の住む岡に牡鹿が来て鳴いている。初萩の花に求愛しようとして来て鳴いているよ牡鹿が)」(万葉集・大伴旅人)などと詠まれました。もちろん萩は秋を代表する草花として『万葉集』以後もよく和歌に詠まれてきました。
その「萩」とよく似た字が「荻」です。「くさかんむり」の下の字は「狄」で「てき」と読みます。よって「荻」も音読みすると「てき」なのです。古代中国は東西南北に野蛮な「えびす」(異民族)がいるという考えがあってそれぞれ東夷、西戎、南蛮、北狄と言いました。いわゆる
中華思想
で、周りにいる異民族は自分たち以下だという考えがあったのでしょう。そして「荻」もまた草の中の「えびす」なのでしょう。イネ科の植物ですが、稲とは違って役に立たないつまらない植物だ、というので「狄」の字を充てられたのではないかと思います。もしそれが正しければ、ひどい扱いをされたものです。
この荻という植物は古くはあまり歌に詠まれず、『万葉集』所載歌はわずかで、『古今集』には一首もありません。ただし『古今集』時代の歌人が荻を詠まなかったわけではありません。例えば紀貫之の歌に
荻の葉のそよぐ音こそ
秋風の人に知らるる
はじめなりけれ
があります。荻の葉に風が吹いて音が聞こえると、それは秋の始まりだと知るきっかけになるのだ、ということです。荻の葉は、このように風に吹かれて出る音が歌の材料になりました。
『源氏物語』「空蝉」巻に空蝉(うつせみ)と呼ばれる女性の夫の子である「軒端荻(のきばのをぎ)と呼ばれる人が出てきます。空蝉は「伊予介」というさほど高い身分ではない高齢の男の後妻となった人で、光源氏はこの人と一夜だけ逢ったことがあるのですが、その後は徹底的に光源氏を拒絶し続けました。それでも光源氏は彼女がいた屋敷にうまく忍び込んで、義理の娘の軒端荻と囲碁を打っていたところを覗き、二人が寝たあと、忍び込みます。ところが危険を察知した空蝉はさながら蝉の抜け殻のように衣だけを脱いでその場を去ります。「うつせみ」という言葉は本来
「現身(うつしみ)」
のことですが、「空蝉」の字が当てられて蝉の抜け殻(のようにはかないもの)のことも言うようになりました。さて、あとに残されたのはまだ眠っている軒端荻です。何と、光源氏は本来のお目当てでなかったこの人とも一夜を共にしてしまうのです。うらやましい(←コラ!)というかなんというか、信じられない人です。この女性は肉感的な背の高い人で、そのために光源氏はのちに(夕顔巻)丈の長い荻に付けて(背の高さをこっそり揶揄するようないたずら心でしょう)「ほのかにも軒端の荻を結ばずは露のかことを何につけまし(ほんのわずかにでもあなたと契りを結ばなかったら、わずかな恨み言もどんなの理由で言えるでしょうか」という歌を送っているのです。この歌が彼女の物語中のニックネームのようになっています。結局彼女はこのあとも特に活躍することもなく姿を消していきます。
荻はやはり主役になるほどの草ではないのですね。
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- [2022/12/16 00:00]
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声を届かせる
私は耳の障害を持つようになって、逆に音に対する意識が強まった面があります。『フィガロの結婚』の仕事の時は楽譜を読んで音に還元することを、できないながらも一生懸命やっていました。別に私がアリアを歌うわけではありませんから、多少音が狂ったってかまわないのです。だいたいどのように音が流れているのかがわかればいいので、十分こと足りていました。
自分の声に対する意識もとても強くなりました。自分で自分の声がわからないという状態になって、正しい発音が正しい大きさで相手に伝わっているのかどうか、とても心配になりました。概して声が大きくなるので、例えば小さな店の中では声を出すのが怖いくらいでした。というのは大声になっては迷惑だからです。逆に小声で話すと、何を言っているのかわからないらしく誰も反応してくれなかったことも一度や二度ではありません。
正しい発音というのも難しいです。私は関西の人間ですから、関西弁も話せます(ただし大阪弁はできません)。しかし、誰にでもわかるような声を出さねばならないという強迫観念が強くなって、人前では関西の言葉を出すのがきわめて不安になりました。芸は身を助くというのか、昔、アナウンサーになろうと考えていた頃に多少
ボイストレーニング
らしいことをかじって、またその後は朗読に関心を持ったために今度はけっこう真面目にトレーニングもしました。のどの開け方とか、息の使い方とか、知らないことがたくさんありました。私が今でも『外郎売』のせりふをけっこう覚えているのはその時の成果です(笑)。ほかにも、母音の無声化や鼻濁音の使い方を練習し、演劇学校やボイトレの訓練で用いるという発声を試み、さらには声の専門家である医学者や演出家の発声理論を学んだりもしました。私の書架にはそういう類の本が今でもかなりあります。最近では学生に紙芝居の読み方の話もしますので、その練習もしています。そうそう、いつだったか文楽の豊竹藤太夫さんに教わった「密息」という声の使い方についての本(中村明一『「密息」で身体が変わる』新潮選書)を読んだこともありました。
もともと、美声でもないし、はっきりした声でもなかったはずなのですが、稽古は裏切りません。
声がよくわかる
と言っていただけることが少し増えてきました。自分ではよくわからないのですが、どうやら声が下に落ちずに前に出るようになったのだと思います。
先月おこなった市民大学でも、お寄せいただいた感想の中に「声に力がある」「声が後ろの席までよく通る」と書かれていたものがありました。マイクを使うことになっていましたから当然だとは思うのですが、ほかの教員よりはっきりしていたといわれましたので、少しは自信になりました。
これに慢心することなく、これからも適正な大きさの声を探求しながらはっきりした発音、発声を心がけて行こうと思います。そしてもうひとつの課題は、二人ないし数人で話す時の声の大きさの調整です。これは今なおよくわかっておらず、じゅうぶんに相手に届かなくて聞き返されることがしばしばあります。臆病になって小声で話してしまうのです。前途程遠し、です。
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- [2022/12/15 00:00]
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うれしかったご感想
十一月の終わりに実施した「平安時代の出産と文学」という講座は、私自身はおもしろいと思って長らく勉強してきたことをお話ししたのでした。しかし、いくら私がおもしろがっても、お聴きくださる方がどうお考えになるかはまったくの別問題です。高校までの教員であれば教科書があって指導要領がありますので、ある程度は教える内容が決まってきます。しかし大学の場合は教員の裁量に任される面があるのです。昨今多い資格取得系の学科では、高校と同じように内容が決まってくるところもあるのかもしれませんが、文学などという分野では資格とは無縁ですので、ほんとうに自由裁量になってきます。これは楽なようでいて、どうすれば学生さんに興味を持ってもらえるかを考えると逆に苦しみにもなってきます。さらにこれが一般の方対象の講座になると、もっと自由裁量の度合いが増しますので、おもしろさと不安が渦巻くのです。ですから、今回の講座でも話し始めたときは不安でいっぱいでした。途中で居眠りする人、退席する人がいらっしゃらないだろうかと気になるくらいでした。そもそも、受講者の人数は30人余りだと聴いていましたのに、私の講座(最終回でした)のときは20人足らずしかいらっしゃいませんでした。テーマからしておもしろくなさそうだと思われたのかもしれません。
それでふと思い出したのですが、
呂太夫さんの本
を書いた時、編集者の人に「おもしろい原稿だと思う。しかしこれが売れるかどうかはわからない」と言われたことがありました。つまり本を作る側がおもしろいと思っても読者はどう感じるかは別問題だということです。
今回も、出産と文学についての勉強をしているうちにおもしろくて仕方がなくなったのですが、独りよがりになっている可能性は否定できません。こんなことを勉強したところで、「世のため人のためになるのか」「実生活において何らかの役に立つのか」といわれたら返す言葉もないくらいですから。
こういうときに、お聴きくださった方から
ご感想
をいただくととても参考になるのです。ありがたいことに、終わってから数人の方からメールをいただきました。恐る恐る開けてみると、「出産と文学」というテーマが「これまでにない意外なテーマ」で「興味深かった」と書いていただいていました。その瞬間、少なくともこの数人の方にはそれなりに関心を持っていただけたのだ、と感じられたことにホッと安堵の息を漏らしました。たったこれだけのことでもこちらにしてみますと大きな励みになります。セールスの仕事をなさっている方が、「あの商品、使い勝手がいいよ」「便利だね」などと何気ない感想を言われたときもきっと同じお気持ちになられるだろうと思います。
ただ、ちょっと気になったのは、今回の講座では受講者の方にアンケートを取っていなかったように思うのです(違うかもしれませんが)。もしそうであれば、受講者のお考えをうかがうという大事な作業、一種のフィードバックが行われなかったことになるのではないかと気になっています。
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- [2022/12/14 00:00]
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小銭一掃運動中
キャッシュレスの時代になって、あまり現金を持ち歩かないという人が増えているようです。もちろんまだ現金のみの支払いの店はありますから、まったく持ち歩かないのも不安がありますが、聞いたところでは1万円札なんてまったく使わないという人もいます。持ち歩くのは1,000円札数枚なのだそうで、いろんなキャッシュレスのアプリをスマホに入れているという人もいます。そういう人は、もうすぐ紙幣の肖像画が変わると聞いても何の興味もないそうです。そもそも渋沢栄一なんて普通の人は知らないし(笑)。
今、私がお金を使うところで現金以外は受け取ってもらえないところと言うと、病院(薬局はペイペイOK)くらいしか思いつきません。もちろん神社のお賽銭は現金のみですし、電車で切符を買おうとするとき(ICカードを忘れたとき)も現金です。でも、切符なんて本当に買わなくなりましたね。
そもそも私は使いたくてもお金がありませんから(笑)、現金だろうがスマホ決済だろうがめったにお金は使わないのですが。
以前ここに書きましたが、私は以前とても横着をしていて、お金の支払いはたいてい紙幣で、いつも
お釣りの小銭
をもらっていました。その小銭は次の機会に使うかというとそうではなく、また紙幣を使うため、いやというほどたまってしまい、それをちょっとした入れ物に放り投げるように入れているのです。そういうことを何年も続けていましたので、おそらく小銭だけで数万円分くらい家に置いていた時期があったと思います。
使う機会がないうえに持っているものはけっこうたくさんある、となると、今持っている現金がなかなかなくなりません。こんなことをしていたら家が小銭で埋め尽くされそうで(笑)、ある時からお金は現金払いで、しかも貨幣で支払うことにする、
小銭一掃運動
を始めました。
「1,234円です」といわれたら500円1枚、100円6枚、50円2枚,10円2枚、5円2枚、1円4枚のような払い方もします。レジの人が怪訝そうな顔をするのは言うまでもありません。
しかし、小銭入れを忘れたりするとまた紙幣で支払うことになって小銭が増える、ということもあります。それでもかなり減ったのですが、まだまだ残っており、電車もPITAPA(ICカード)を使わずに現金で乗ろうかと思っています。
そんな面倒なことをせずに銀行に入れたらいいじゃん、と思われそうです。以前はそうしていたのです。50枚くらいドカンと入れて2,000円くらいの入金ということをしたこともあります。ところが、ゆうちょ銀行のATMでは小銭を入れるとお金を取られるらしく(これって、人を馬鹿にしていませんかね)、ほかの銀行も100枚までしか入らないようです。そもそも、小銭だけ300円くらい入金するのに銀行まだ行くなんて面倒で、私はそれもしません。
キャッシュレス時代になったために、こんなことで苦労するとは思いませんでした。
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- [2022/12/13 00:00]
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ススキ刈り
去年イチゴの苗を植え付けたとき、ネットなどでいろいろ育て方を調べました。その中に、藁(わら)を敷いておくといいというのがありました。寒くて霜が降りても大丈夫だし、実が生った時は土につかなくて済む、とのことでした。何ごとにも従順な(?)私は、さっそく藁とやらを敷こうと思いました。稲わらや麦わらがいいのだそうです。しかしそんなものは家の周りにはありません。農家の方であれば邪魔で仕方がないくらいあるのでしょうが、私の日常では目にすることすらありませんし、農家の知り合いもありません。こういうときはホームセンターに行けば何とかなるものです。たしかに600円くらいで「稲わら」というのがありました。しかし何だかこういうものを買うのもなぁ、という気持ちになって、代用品はないものかとまたネットで調べました。すると「おがくず」が使えると書いてありました。しかし「おがくず」もやはり身の回りにはありません。するとチガヤとか
ススキ
などを使ってもよいとありました。これなら家の近くの川に行けばいやというほど生えています。それで早速取りに行って、ススキを刈り取って使ってみました。腐りませんし、簡単には風で飛びませんから、とても重宝しました。
今年もまた河原に行かねばならないと思い、はさみとレジ袋を持って出かけました。すると、何とも見事に刈り取られているではありませんか! おそらく市から委託されたシルバー人材センターの方でしょう。ご苦労様でした。次に、近くの空き家の外回りに自生しているのを思い出しました。空き家ですし、そもそも自生しているのは道ですから、これならいいだろうと思って行きました。すると、その家が解体されていて新築工事中で、周辺はきれいに掃除されていたのです。
どこにでもあると思うからこそ安心していたのですが、二回連続で失敗し、こうなったら
100%生えているはず
の少し遠いところにある河原に行くことにしました。その河原の道沿いに生えているのをいただこうと思ったら、ここもまた刈り取られていました。シルバーのみなさん、重ね重ねごくろうさまでございます。
そこでちょっと面倒なのですが、河原に降りて行くと、そのあたりは見事にススキの森のような状態でした。ススキとよく似ていながら少し種類の違うものもあり、おそらくオギだろうと思います。ここでの大敵はコセンダングサ(小栴檀草)です。というよりもその種ですね。ススキに気を取られてふと気がついたら体中にあのトゲトゲの種がついていました。これをひとつずつ取るのはほんとうに面倒です。彼らにしたらできるだけ動物にくっついて遠くに運んでもらいたいと思うわけですから、必死です。それだけにこちらも必死で取らねばなりません。そしてやっとそれなりの数のススキの茎を取って帰ってきたのでした。
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- [2022/12/12 00:00]
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朝乃山の大銀杏
私は最近の大相撲には詳しくありませんが、数年前には朝乃山が次の横綱になるのではないかと思っていました。あまり愛想のよい人ではなさそうですが、動じない感じが大物になりそうな予感を与えてくれたのです。大相撲はもはやモンゴルの人たちが中心になっていて、なかなか日本人の横綱が現れません。モンゴルの人は日本人と顔もよく似ていますので、見た目はあまり違和感はないのですが、やはり相撲の種類が違うような気がしています。子どものころから日本の相撲を見て実践してきた人たちにも横綱になってほしいという思いがありました。そこに現れたのが朝乃山だったのです。
ところが、昨年の五月場所の最中に東京神楽坂のキャバクラ(私はどんな所かよく知りません)に行っていたことが「新型コロナウイルス対応ガイドライン違反」になり、しかも最初に事情を聴かれたときには「事実無根です」と嘘を言ってしまったために大問題になりました。朝乃山は引退を考えたようでしたが、結局は6場所の
出場停止処分
を受けたのでした。残念でなりませんでした。若気の至りというのか、もったいないことをしてしまいました。結局6場所欠場したことで三段目まで陥落し、そこから「黒まわし」(幕下以下が締めるまわし)で再起を図ることになりました。
私は陰ながら応援していたのですが、三段目では全勝優勝し、九月には幕下にあがり(優勝はできず)、この十一月場所(九州場所)は幕下四枚目まで戻ってきました。大相撲では給料が出るのが十両から。稽古まわしも十両になって初めて白まわしをつけることができますし、十両になれば付け人もつきますので、幕下と十両では雲泥の差です。
そして十一月場所の六日目、十両十二枚目の徳勝龍との対戦がありました。黒まわしには変わりありませんが、十両での出場ですから、久しぶりに
大銀杏
を結って土俵に上がったのです。私はテレビを観たわけではなく、YouTubeでその取組を観たのですが、今場所十両で4勝1敗の徳勝龍をまったく問題にせず、一気に押し出しました。これで朝乃山は勝ち越しを決めました。
この時私がちょっと気になったことがありました。勝ち名乗りを受けると次の力士に水をつけるために呼び出しさんのところに行きますが、普通は「さがり」を呼び出しさんに渡すと呼び出しさんがきれいにしてくれると思うのです。ところが、朝乃山は自分でそれを折りたたんでいたのです。分をわきまえているというのか、幕下の「関取」ではない者としての態度だったのかな、と思いました。幕下の人はそうしなければならない、という決まりがあるのかもしれませんが、そのとき呼び出しさんは「私がやりますよ」といわんばかりに手を出していましたので、そうでもないように思ったのです。もしそんな決まりはなくて朝乃山の考えでそうしたのなら、彼の心の成長を見ることができるかもしれない、と思いました。
来場所は正真正銘、大銀杏で15日間の土俵を務め、好成績をあげて幕内への復帰目指してほしいと願っています。
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- [2022/12/11 00:00]
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近松門左衛門の300年
浄瑠璃作者を自称する者といたしましては作者の氏神たる近松門左衛門(1653~1724)を敬愛しないわけにはまいりません。もし近松が今生きていれば、今年は数え年の370歳(!)ということになります。昔の人は数え年ですから、誕生日をあまり意識しません。近松も何月何日生まれかの記録は残っていません。ですから、来年が生誕370年ではあるのですが、今年こそが370歳の年ということになります。
生年月日のわからない人は多いですが、著名人になると没年月日がわかることが多いのです。そして、そのときの年齢が記録されていれば逆算して生年がわかります。昔の人の生年はこうやって判明することが少なくありません。
たとえば、歌人として著名な
在原業平
も、亡くなった時の記録が史書に残っていて、そこに没年が記されています。それで825年生まれで880年に亡くなったことがわかります。言い換えると、いつ亡くなったかの記録がないと生年もわからないことが多いのです。紫式部、清少納言、和泉式部などはその例で、概して女性の生年はわかりません。
さて近松ですが、彼の命日は享保九年(1724)十一月二十二日だとされています。もちろん旧暦ですから冬の真っ最中。今の暦に直すと、1725年1月6日に亡くなったことになります(寒いころですね)。そうなると、彼が亡くなったのは1724年というべきか、1725年とすべきか、わかりにくいですね。私はこの記事の最初に近松の生没年を(1653~1724)と書きましたように、意識としては1724年に亡くなったと思っているのですが、理屈を言えば1725年の1月が正しいことになってしまいます。
こんなことが気になるのは、来年が
三百年忌
なのかどうかという問題があるからです。近松の墓のある兵庫県尼崎市の広済寺では毎年今の暦の10月の終わりから11月ごろに「近松忌」という法要を行っていますので、来年はその時期に大々的な法要をなさるかもしれません。また、文楽でもその時期にやはり特別公演と言うか「近松門左衛門三百年遠忌記念公演」などを催すかもしれません。それくらいのことをしないと、企画力がないと言われてしまいますしね。
私も別にその時期に法要をなさったり記念公演をおこなったりしてもかまわないと思うのです。無理に2024年1月にすることはないでしょう。ただ、彼は紅葉の季節に亡くなったのではなく、真冬の凍えるような時期に終わりを迎えたことだけは忘れないでおこうと思っています。
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夢ばかり見ます
眠るという行為はからだの機能回復のために欠かせないものなのでしょう。専門的なことはわかりませんが、寝ている間に回復するものはおそらくかなりたくさんあると思います。何かで興奮していても寝ることで落ち着きが回復しますし、何も食べられないと思ってもひと眠りすると食欲が出ることもあります。ほかにも、きっと病気を治してくれるはたらきもあるでしょう。
我々は、人生の3分の1近くを睡眠に費やしており、理屈から言うと25年も30年も眠っていることになります。もったいないようにも思いますが、これが重要なのでしょうね。しかし寝ている間は何もできず、それどころか他者に襲われてもわからないという命の危険すらあります。動物たちはその点しっかりしていて、すぐれた聴覚や嗅覚を持っているため、敵の襲来をいち早く察知して、寝ぼけることもなく対応できるのだと思います。しかし人間は、そういう能力をあまり持たないために寝てしまうとかなり
無防備
だと思います。
私は昔から鈍感で、特に子どものころは地震があっても一切気がつかず、翌日親から言われて「そんなことがあったの?」としか言えなかったくらいです。何者かにに襲われてもわからず、気がついたらライオンの胃の中で消化されつつある状態だったなんてことになりかねません。
動物も夢を見るらしいですが、私もしょっちゅう見ています。特に最近は記憶に残るような夢をよく見ます。ほんの少し居眠りするだけでも起きているのか寝ているのかわからない状態のまま夢を見ることがあります。
夢は見ても大半は忘れるようですが、このところの夢はとてもリアルで、寝覚めが悪くなるようなものが多いのです。
以前は「文楽の舞台の袖にいたら、人手がないからちょっと手伝って」と言われてわけのわからないままに頭巾をかぶらされて
人形遣い
になった夢を何度か見ました。必ず左遣いなのですが、動きなんてわかるわけがなく右往左往するという夢でした。
最近はどうも昔のことを夢に見ることが多くて、何だか末期症状みたい(笑)だな、と思えてきます。昔親しくしていた女の人もよく出てきます(笑)。まるで年を取っていなくてすてきな人たちなのですが、今さらよりが戻ってうまくいくわけではありません(笑)。ついこの間は、また大学時代の恩師に叱られている夢でした。これもしばしば観ます。時には権力者と喧嘩する夢を見ることがあって、これはもうリアルの極めつけです(笑)。あまりうれしい夢がないのが残念なのですが、できれば私の書いた浄瑠璃を聴いた人が涙を流しているところなどを見てみたいものです。
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- [2022/12/09 00:00]
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2023年の年賀状
年賀状をやめようという気持ちが強まっています。どうしても義理で出さねばならない人、挨拶しておかねばならない人があるため、今もまだ数を減らして続けてはいるのですが、ここ数年は下げ止まりというか、これ以上数が減らせないというところまで来ています。
思えば、昔は12月になったら毎日10枚以上書かないと追いつきませんでした。一時はパソコンで作っていたこともあるのですが、ほとんど手書きをしますので、時間がかかるのです。さいわい、テレビを観るという習慣がありませんので、一般の方がそうやってくつろいでいらっしゃるときに筆ペンを取り出して一枚ずつ書くのです。気力も体力も充実していた時期だったと思います。
だいたい私は何ごとにおいても
手を抜く
のが嫌いで、手を抜くくらいならはじめからしない方がましだ、と思っているくらいです。それだけに年賀状も形式的なものと思わずに手紙を書く意識で書いてきました。
以前は職場の人とも年賀状のやり取りがあったのですが、25年くらい前からはそういうことは一切なくなり、それも数が減った大きな原因です。個人情報を守るために職場の住所録というものがなくなりましたし、年賀状を出すために住所を聞くなんてことはしませんしね。
昔の友人との交流もいつの間にかなくなっていきました。ポツポツと
訃報
すら聞こえてきますので、みんな無事でいるのかどうかすらわからず、もう彼らとの交流が復活することはないのだろうと思います。そもそも私が今生きているかどうか(笑)も知らない友人が多いはずで、向こうも同じように遠慮するだろうと思います。
恩師も次々に亡くなって、寂しくなりました。
そんなあれこれを考えながら、今年も数少ない年賀状を書こうと思います。
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- [2022/12/08 00:00]
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今年度のイチゴ
10月末に書きましたが、去年に続いて、今年もイチゴ栽培を始めました。その経過について、断続的に書いていこうと思います。
去年はホームセンターで買った苗でしたので、たくさんの苗から一番元気そうなのを選ぶことができました。これで失敗したらカッコ悪いという苗でした。さいわいけっこうたくさんのイチゴを収穫することができて、初心者としては満足したのです。
ところが今年はその親株から伸びたランナーを自分で育てた苗ですから、かなり不安です。ランナーの先に苗の赤ちゃんのようなものができますので、それを9センチのポットに受けて、育てるわけです。プロの人なら何でもないことなのでしょうが、なにしろまったく初めての経験ですので、どれくらいの数のランナーを育てればいいのかよくわかりませんでした。今感じているのは、早い内に間引くような形でランナーを選び、厳選して育てればよかったのかな、と思わないでもないのです。ホームセンターに売っているような苗と比べても一見そんなに差はないように思うのですが、実のところは
ひ弱
なのかもしれず、不安なしとしません。
しかしもう何を言っても手遅れです。とりあえずポットをひっくり返して、それなりに根の張っているものを選んで、プランターに植え付けました。植え付けの時はしっかり水やりをしますが、冬の間はそんなに頻繁でなくても問題ないようです。ただ、寒くなってしまうまでに少しでも大きくなってもらわねばなりません。
植え付けたときは葉が3~4枚でしたが、これがどんどん増えてしかも大きく成長するのを待ちます。
クラウン
と呼ばれる部分から新しい葉が出てくれば何とか育っている証拠だと思います。さいわい、私が植え付けたものからは新たな葉が出てきました。これがどんどん出てきてたくましく育って行くといいのですが、まだ何ともわかりません。
12月は最初の追肥の時期なので、粒状の肥料をパラパラとまいておきます。去年までは住友園芸化学の「マイガーデンベジフル」を使っていたのですが、近くのホームセンターはこの商品を扱っておらず、代わりにハイポネックスの「花と野菜と果実の肥料」がありましたので、これを使います。「マイガーデンベジフル」は窒素・リン酸・カリ・マグネシウムが7・7・10・1.5でしたが。こちらは7・13・9・4です。リン酸が少し多めです。花付きを意識した配合なのでしょう。
これであとはもう一度2月ごろに追肥すれば終わりです。あまり肥料を多くやるのはよくないようで、ついやりたくなるのを我慢することにします。
イチゴは、ランナーの切れ端の反対側に花が咲き、実が生りますので、窓辺に置いているプランターはこちら向きに実が生るように(つまりランナーの切れ端を向こう側にして)置いています。無事に年を越しますように。
さて、次にこの続きの記事を書くのはいつになるでしょうか。
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2022年12月文楽東京公演初日
いよいよ文楽東京公演の初日です。
これが通常公演としては本年最後ということになります。
文楽公演は
本朝廿四孝
(信玄館、村上義清上使、勝頼切腹、
信玄物語、景勝上使、鉄砲渡し、
十種香、奥庭狐火、道三最期)
で、鑑賞教室は
解説 文楽の魅力
絵本太功記(夕顔棚、尼ヶ崎)
です。どんどん世代が変わっていくのが配役から見て取れます。大きな役を語る方は特にしっかりお願いしたいものです、
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- [2022/12/06 00:00]
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運転に自信が・・
私はもうすっかりペーパードライバーになっています。数年前に、長らく乗っていた車が壊れてしまって(長く乗り過ぎました)、それ以後はあまり、というかほとんど運転していないのです。
もともと私は、車を運転する気などまったくなくて、学生時代は友人が次々に自動車学校に行っているのを尻目に、まったく知らん顔を決め込んでいました。ところが、田舎暮らしをしたときに、どうしても必要になって取得することにしたのです。免許を取ること自体はそんなに難しくはなかったのですが、指導員さんから「うまい」と言われたことはありませんでした。特に、卒検というのでしょうか、最後の試験のときには坂道発進で勢いよくふかしてしまい(エンストが怖かったものですから)、終わってから指導員の人に「前に進んだからええですが、あれじゃあ運転が乱暴ですけ」(広島の人でした)とあきれられました。
まあ、何とか取ることができて、しばらくは借りものばかりで、初めて自分の車を持ったのは30代の後半でした。忘れもしません、ホンダの
シビック
でした。当時のシビックは今と違ってかなりの大衆車で、値段も安く、排気量は1500㏄。
この車もよく乗ったのですが、やがて私の最後の車になるトヨタのイプサムに代わりました。燃費の悪い車でしたが、よく働いてくれて、こちらはシビックの倍くらい乗りました。それが先年家に帰る寸前に壊れて、かろうじて駐車場に入れたものの、それでおしまいでした。その後、もう一台小さな車(マツダのデミオ、ホンダのフィットなど)に乗りたい気持ちがあったのですが、新車はおろか、中古であってもとても車を買うような余裕はなくて、諦めました。
そんな折、
運転免許の更新
のハガキが来ました。年齢的にはまだやめるほどのことはないのですが、仮に更新しても乗ることはほとんどないし、手数料を払うだけ損かも知れない、と思ったりしました。そして、さんざん悩んだ末、やはりもう一度は更新しておこうと思うに至り、更新センターに行ってきました。何しろほとんど運転していませんから、今回ももちろんゴールド免許でした。
それにしても、しばらくハンドルを握っていないために、今運転するとなると、どんな感じだろう、と不安になります。高速道路は御免蒙りたいですし、大都会の運転、夜の運転は怖いです。もう今回の更新で最後にしたほうがよさそうです。
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- [2022/12/05 00:00]
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ふんだらべんつ
『上方芸能』誌の編集長は初代の木津川計さん、二代目の森西真弓さん、三代目の広瀬依子さんと続き、先輩編集長たちはそれぞれ大学教授になって次々に後進と交代していきました。私は、一番近い世代の森西さんとはけっこうふざけ合えるような感じで、あちらはそうは思われなかったかもしれませんが、友だち感覚でした。広瀬さんは少し年少ですのであちらがいくらか遠慮されるような感じがありました。それに対して、初代編集長の木津川計さんは何と言っても大先生ですから(私はこの人が文化功労者になっていないことが不思議ですらあります)、私としては近寄りがたいイメージがありました。ところがこの大先生はいたって気さくな方で、少しうつむき加減になりながら「どす」の聞いたお声で親しく話しかけてくださるような面もありました。
木津川さんは、経済的な苦労をし続けながらどんどん雑誌の知名度を上げ、内容を充実させ、菊池寛賞まで受賞されました。木津川さんはご自身が批評家であり、研究家でもありますから、厳しいことをはっきりおっしゃいました。文楽劇場ができたとき(1984年)、NHKで祝賀ムードの放送がありました。祝賀行事の様子や記念公演の中継などが映され、華やかな雰囲気を醸し出していました。一方、スタジオでは津太夫(4代目)さんや山田庄一さんらと一緒に木津川さんが出演されて座談会がおこなわれました。木津川さんはこのときに、とおりいっぺんの祝辞やお世辞を言うのではなく「国立劇場ができたのはめでたいともいえるが、実は大阪の人が文楽を
支えられなくなった
ことも意味するのだ」という点を指摘されました。これはのちに大阪府や大阪市までが文楽を見捨てるような態度を取ったことの予言のようでもありました。
その木津川さんは多くの書物をお書きになっていますが、その中の一冊に40年近く前に刊行された講談社現代新書『上方の笑い』というのがあります。その中で木津川さんは大阪のおっちゃん、おばちゃんたちの軽口、地口のおもしろさを紹介していらっしゃいました。「子育てに自信がない」「いくじがないね」なんていうのは序の口で、どうしてこんなにおもしろいことを思いつかれるのだろう、と感心することが多々あります。詳しくは同書をご覧いただくほかはないのですが、とにかく私など大阪のおっちゃん、おばちゃんたちにはとてもかないません。
おもしろいことを言うために生きているのか、生きているからおもしろいことを言ってしまうのか、とにかく「おもしろい」ということが人生に大きな意味を持つようなのです。この「おもしろくなければ何のために生きているのか」という精神は、言いかえると、
大阪の文化
そのものだろうと思います。どんなエライ政治家も、どんな大金持ちも、どんなインテリ学者も持っていない文化。いや、案外大阪ではこの文化を根底に持っている人こそ偉大な政治家であり商売人であり学者なのかもしれません。道を歩いているとシャレや地口でちょっかいを出してくるおっちゃん、おばちゃんがいるのが大阪の誇りであってほしいと思います。その文化を軽んじるような政治家がいるなら改心してもらいたいものです。大阪がニューヨークのようになろうとしても無理ですし、そんなことには何の意味もないでしょう。
少し前に、ある文楽の師匠がこんなことをおっしゃっていました。この師匠は劇場まで「自転車通勤」されることが多いのですが、その姿を見た元芸妓さんという人が、「今日は『ふんだらべんつ』でっか、師匠」とおっしゃったそうです。
自転車は、ペダルを踏んだらベンツと同じ。それで「ふんだらべんつ」としゃれていうのです。芝居がはねたらお客さんと近くの居酒屋でわいわいと安いお酒を飲んだりする文楽の師匠たちは大阪の人たちとこんなふうに触れ合ってきたのだとしみじみ感じさせてくれるエピソードです。そしてこの元芸妓さんが師匠にかけた言葉からは、人々の元気な暮らしぶりを謳歌するような口ぶりがうかがえると同時に、「エラそうにベンツに乗っていても自転車と同じやないか!」という庶民の高笑いが聞こえてくるようでもあります。
私はこんな大阪なら大好きです。
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- [2022/12/04 00:00]
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『上方芸能』のあと
昭和から平成にかけての上方芸能を支えてきたその名も『上方芸能』という雑誌はすばらしいものでした。芸能に限らず、芸術にとって批評や紹介をするメディアはとても大切なものです。中には嫌なことを書かれて不快に思う人もいらっしゃったと思うのですが、度を越えない限り、そして書く方に責任と覚悟があるなら、批評は辛辣であってもかまわないと思います。『上方芸能』がなくなってから、しみじみあの雑誌の大きさがわかるようになりました。今、たとえば文楽公演の劇評のようなことはSNSなどに書かれているのが最も大きいように思います。新聞記事の場合はあまりにも字数制限がひどくて批評ということになると十分とは言えないと思うのです。ただ、SNSの場合は観劇者の自由な記述ばかりですから、贔屓の人に対してはやさしく、そうでない人には厳しいということもないわけではありません。また、内容を拝見していると、勘違いされているな、と思うようなこともしばしば見られます。しかしこれはやむを得ないことでしょう。かといって、今新たにさほど売れるとも思えない新たな雑誌を作るのはかなり大変でしょう。そんなわけで、私は
Web版『上方芸能』
でもできればいいのに、と思うことがあります。歌舞伎を中心とする『演劇界』に関しては、終刊後に東京の本屋さんが批評だけの冊子をお作りになって、劇評家の方々がボランティア的に寄稿なさっているようです。
しかしこういうことができるのは、やはり東京の大きさと歌舞伎人気の高さが強みになっているのだと思います。
関西にもきっと批評のできる人(新聞記者さん、すでにWeb上で長らく執筆していらっしゃる方など)はいらっしゃると思うのですが、そういう人たちをうまくつなぎ合わせる、コーディネーターというのか、芯になるような人がいないように思います。
若い篤志家
の出現を望むのはやはり酷なように思いますし、もしそういう人を育てるなら、どうしても自治体が支援して雑誌にかかる費用を全額負担するくらいのことをしないと難しいように思います。しかしどう考えても大阪の自治体がそんなことをするとは思えません。結局Web上にしっかりとしたページを作って、見識ある人が無償で書いてくださるような形にするのが精いっぱいのところかな、と思ってしまうのです。役所に頼るのははなはだ残念なのですが、大阪市のホームページに文楽と演芸だけでも場所を設けてそこにしっかりした執筆者に書いてもらうようなことができれば、とも感じます。
いずれにしても『上方芸能』を喪失したことは上方文化にとって大きなマイナスであることを改めて考えるべきだと思います。
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- [2022/12/03 00:00]
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少年時代の夢
「将来何になりたいか」と問われた場合、最近の子どもたちはどう答えるのでしょうか。「サラリーマン」が、なかなか人気があるというのを新聞記事で見たことがあるような気もします。安定した生活ができそうだ、と思うのかもしれません。夢を問うのか、生き方を問うのかによって答えは変わってくるかもしれません。経済力に魅力を感じるかどうかも分かれ道になるかもしれません。
私は父親が商社に勤めるサラリーマンでしたので、子どものころは自分も将来は何となくそういう仕事をするのだろう、と思っていました。その一方でかなり無理な夢も観ていたように思います。
小学生の時に若き日の
小澤征爾さん
が活躍されていて、指揮者になりたいと思ったことがあります。作曲家にも憧れました。しかし音楽大学に行くなどという発想はなく、「現実的な夢」ではなかったのですが。それでも、音楽に興味を持っていたのは確かですし、家にあったわずかなクラシックのレコード(「田園」とか「新世界」とか「はげ山の一夜」とか・・)を聴いていたのも事実です。学生時代にクラシックを聴き続けたのはこの時期の経験があったからだろうと思います。
アメリカの経営学者であり心理学者でもあるドナルド・E・スーパーにキャリア発達理論というのがあり、それによれば14歳くらいまでは成長期で、自分の興味や関心を能力にかかわらず憧れのような気持ちで職業と結びつける時期のようです。そしてそこからが探索期で、実際に自分の能力に合った仕事を見つけて何をすればいいかを徐々に考えていくようになります。
スーパー(1910~94)の理論は1950年代のもので、今とは若干違いますし、日本とアメリカの違いもあります。しかし、私の場合、おおむねこの考え方に合うようにも思えるのです。
中学生のころになると「現実的な夢」ができてきました。私は「物を言う」か「ものを書く」かという仕事をイメージするようになったのです。具体的には、アナウンサーになろうか、新聞記者になろうか、という感じでした。方向性としてはなかなか的を射たものだったように思います。そしてアナウンスの勉強(らしきこと)を始めて、学校の昼食時に流す放送のアナウンスもしました。
この時期には、同時に落語が好きになって、次々にネタを覚えるようになりました。当時の若者はラジオをよく聴きましたし、ラジオではしょっちゅう寄席中継をしていましたから、教材には事欠かなかったと思います。『青菜』『金の大黒』『池田の猪買い』など、十五程度のネタを覚えていたように思います。しかしこれはまったく仕事にしようという気持ちはなくて、一生の趣味になりそうな予感を持っていました。
高校生になって、歴史と古典文学に興味が出て、これはもうズバリその後の進路に直結したのでした。
『伊勢物語』
との出会いは運命的だったと思います。
自分の人生を振り返ると、少年時代の夢はやはり大事にすべきものだと思います。アナウンスの勉強は、独りよがりに話すだけの授業にならないためにいい訓練になりましたし、音楽は和歌や浄瑠璃に姿を変えて一生を左右するものになりました。クラシック音楽は大学生のころに楽譜を読むようになって、交響曲のスコアも(わかりもしないくせに)眺めながら曲を聴いたりしていました。『フィガロの結婚』の仕事のときに、本当にこの経験をしていてよかったと思いました。文章を書くのはもちろん仕事そのものになりましたし、仕事以外でも毎日文章を書かないと気が済まないくらいです。
唯一、お金もうけをするにはどうすればよいかということを学ばずに生きてきたことが悔やまれますけれども(笑)。
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- [2022/12/02 00:00]
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