裂ける氷
文楽の『本朝廿四孝』という作品は、全貌をすらすらと話せと言われてもなかなかうまく言えません。横蔵(山本勘助)や慈悲蔵(直江山城守)の話と八重垣姫の話が同じ物語の中にあるというのが、いまひとつ実感としてわかりません。
しかし、三段目はいかにも三段目らしいですし、四段目もまたそれらしくできた話だと思います。このところは四段目のみの上演や二段目と四段目の上演(昨年12月の東京公演がこの形でした)が多いように思います。
通し上演と言いつつ、第一部で初段と三段目、第二部で二段目と四段目というやり方もあったと思います。わかりやすいといえばそうなのですが、本来はやはり順番通りに上演するものなのでしょうね。全段を一日で観るお客さんはさほど多くないこともあって、「通し」といっても「『見取り』をつなぎ合わせたもの」というに近いかもしれません。
それはともかく、四段目は「十種香」「狐火」という静と動の場面が鮮やかです。越路太夫、嶋太夫などの「十種香」は四段目の真髄を感じさせてくれましたし、そのあとの「狐火」は「アト」にあたるのだろうと思いますが、少し若い太夫さんで人形の激しい動きの見せ所。八重垣姫の人形は、私の場合簔助師匠と今の勘十郎さんの印象がやはり濃くて、先代清十郎さんをわずかに覚えているくらい。当代清十郎さんは襲名披露がこの役でした。一暢さんも東京でなさっていたようですが、私はおそらく観ていません。簔助師匠は、お元気な時はほんとうに切れ味の良い八重垣姫で、当時足遣いをなさっていた簔二郎さん、清五郎さんあたりは
くらいつく
という言葉がぴったりするくらい必死に演じていらっしゃいました。ご病気のあとにもお遣いになったのを拝見しましたが、かなり動きを省いての演技でした。
信州の諏訪湖には今も湖畔に八重垣姫の像があり、私も一度だけ訪れましたが、ここには冬に起こる不思議な現象があることがよく知られています。諏訪湖の南から北に音とともに氷が裂け、それは男神の建御名方命(諏訪神社の上社)が女神の八坂刀売命(同下社)のところに渡る「御神渡り」の道だとの言い伝えです。この氷の割れ方などで、その年の気候や農作物の出来不出来といった吉凶も占われます。
ずいぶん昔からの言い伝えで、平安時代の源顕仲の歌に「諏訪のうみの氷の上の通ひ路は神の渡りてとくるなりけり」(堀河院御時百首歌)があります。
また、明治から大正の歌人である
島木赤彦
は諏訪の人で、湖を見下ろす位置にその家がありました。その赤彦の歌にも
空澄みて寒き一日(ひとひ)や
みづうみの氷の裂くる音ひびくなり
があります。この最後の句の「なり」は「響くのである」という断定の意味ではなく「響くのが聞こえる」という意味に解したいと思っています。連体形について断定を表す「なり」のほかに終止形について聴覚的な印象を表現する「なり」があるのです。家の中にいて、寒い一日を過ごしている赤彦が、氷の裂ける音を耳にしたのでしょう。はっとしてその瞬間を歌にしたのだと私は考えます。
時代を超えて文学の素材となる大切な「御神渡り」です。しかし近年は氷結しないことがあるようで、こんなところにも地球の高温化現象の影響があるとすれば残念な話です。
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- [2023/01/31 00:00]
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壊れた縦笛
今は「リコーダー」と呼ばれるのが普通ですが、私が小学生の時は単に「縦笛」と言っていたと思います。私のふたつ下の妹はリコーダーと言っていましたので、時代なのか学校のせいなのかはわかりませんが。
いや、名前だけでなくもっと大きな違いがありました。妹が持っていたものと私のものでは形状が違っていたのです。おそらく性能もよくなったのでしょう。私の持っていたものは安っぽくて「たてぶえ」としかいいようがありませんでしたが、ずっと立派でおしゃれになっていたのです。現在一般的に採用されている形状と同じで、頭管部、中管部、足管部の三管の組み合わせから成っていました。私のものは足管部が離れていない二管構造だったのです。
少し横道にそれますが、私は小さいころからピアノを習いたいと思っていたのです。ところが当時はピアノというと「(ちょっといい家庭の)女の子の楽器」というイメージが強すぎて、とてもそんな希望を口に出すことはできませんでした。同級生の男子でも習っている人はいましたので、満更無理な希望ではなかったのかもしれませんが「ちょっといい家庭」というところに問題があった(笑)のかもしれません。私の家は三人兄弟で、親は一番下の娘にだけお金をかけて(笑)、上の二人は「公立の学校(授業料の安いところ)しか行かせない」と、まだ私が小学生のころから言っていました。妹が中学から大学まで私立に行っていたのに対して、私と兄はひたすら税金のお世話になったのです。そんなこともあって、好きな楽器をやりたくてもできなかった(少なくとも言い出す勇気がなかった)のです。
当時は学校の授業の関係で木琴を各自で持つことになっていたのですが、兄と妹は新品、私は兄のお古で、ひとつ音が狂っているものをずっと使っていました。
そんな私がたったひとつ自分だけのものを手にしたのが
縦笛
でした。自分のものだと思うと、これがたまらなく大事なものに思えて、暇があったら吹いていました。すると、器楽部の顧問だった4年生の担任の先生が、「君、部活(当時は「クラブ」と言いました)に来ないか」と誘ってくれて、まだ資格はない(当時は5,6年生だけがカリキュラムとして部活をしました)のにお兄さんお姉さんたちに交じって器楽部で演奏していました(運動会でも一般の生徒席ではなく器楽の席にいました)。
5年生になると正式に器楽部に入り、笛と打楽器を担当しました。器楽部の楽器は、笛のほかにアコーディオン、木琴、大太鼓、小太鼓があって、大体大太鼓と小太鼓は男子担当のような雰囲気がありました。では男子のうちだれが担当するか、ということだったのですが、なんと、器楽部には男子は私一人しかおらず、笛からはじき出されるようにして太鼓も叩いていたのです(太鼓のいらない曲では相変わらず笛でした)。
ところがいつのことかはわからないのですが、その大事な縦笛が壊れてしまったのです。どこかにぶつけたのかもしれないのですが、
頭管部
の一部が欠けて、ヒビまで入ったのです。音は何とか鳴るのですが、息が漏れるような感じで、とても悲しい気持ちになりました。かといって、新しいものを買ってほしいなどとは言い出せず、なんとかこれでいい音を出さないとダメなんだ、と思いました。すると不思議なもので、それ以降はこの壊れた縦笛が私にとっては宝物のようになり、中学校でも音楽の時間で縦笛を吹く時にはこれを使い続けました。さすがにもうどこに行ってしまったのかはわからず、おそらく捨てられたのだと思います。
その後は音楽短大を出た義姉(声楽だったようです)が「もういらないから」というのでくれたフルートを吹くようになり、これもほんとうに壊れるくらいまで吹きました。縦笛とフルートは指使いに共通点が多いのでわりあいになじむのが早かったのです。
今はそういう楽器を吹こうにも、自分で音が理解できませんので不可能です。昔壊してしまった楽器のように、私は耳まで壊してしまい、もう取り返しはつかなくなってしまいました。
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- [2023/01/30 00:00]
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リコーダー
リコーダーという楽器があります。英語では「recorder」ですが、イタリア語では「flauto dolce」、ドイツ語では「Blockflöte」。
この楽器は横笛のフルートに比べると音を出すのが容易なために、小学生の教材にも利用されています。プラスチック製の安価なものが出回っており、今でも1,000円ちょっとから手に入れることができます。しかしこの楽器も奥が深くて、プロの演奏家の音はやはり格別なものがあります。もちろんプロのお使いになる楽器はそれなりに高価なものです。
リコーダーはバッハの『ブランデンブルク協奏曲』の第2番、第4番にも用いられますし、やはりバロックの作曲家であるパーセル、テレマン、ヴィヴァルディなどの作品にとっても重要な楽器です。
私はずいぶん前の話ですが、リコーダー奏者の
北山隆さん
の演奏(主にテレマンアンサンブルとの合奏)にしばしば聴きました。後に大阪音楽大学の教授になられた北山さんは、兵庫県芦屋市のご出身で、私が大学院生のころに非常勤講師をしていた高校の卒業生でもいらっしゃいました。そんな縁で、特に芦屋市のルナホールや西宮市の夙川カトリック教会(この地域ではなかなか有名な教会です)で演奏があるとその高校の先生からチケットをもらったりしてよく出かけたのです。
北山さんはリコーダーだけでなく「フラウト・トラヴェルソ(flauto traverso)」の名手でもあります。トラヴェルソはイタリア語で「横向きの」ということで、同じ「フラウト」でも縦笛ではなく横笛である、ということを言っています。今のフルートの前身というべき楽器です。バッハの管弦楽組曲2番をこの古楽器で聴くとほんとうにしびれました。
リコーダーは次第にトラヴェルソに
主役の座
を譲ることになります。音量が小さくて音色が単調であることが弱点になったようです。トラヴェルソは音を出すことはリコーダーより難しいですが、それだけに多彩な音色を出すことができます。もちろんそれが発展した今のフルートになるともっと華やかな音色が出るわけで、大編成オケの交響曲のソロパートになるとその本領が発揮されると思います。ドヴォルジャークの8番などその代表的なものではないかと思います。
トラヴェルソに追われるように勢いを失ったリコーダーですが、今なおバロックの演奏には不可欠ですし、何と言っても音の出しやすい楽器として小学校の音楽教育にも重要な楽器として生き続けています。
実は、私も小学生のころ、この楽器が大好きだったのです。
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- [2023/01/29 00:00]
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平成はレトロ
平成という元号がどうもわかりにくくて、たとえば西暦2000年は平成何年かと言われてもすぐには答えが出ません。元年が1989年だったから、1990年が平成二年、ということはその十年後だから平成十二年・・というような計算をしないとわからないのです。今の元号に至ってはもっとひどくて、今年が令和何年なのかを問われたら、1989年が平成元年で、それが31年続いたので2019年までだから、え~っと・・と、すぐには答えられません。
昭和生まれというと、そろそろ全員が中年以上になってきて、「若者」の範疇に入るのは平成生まればかりです。今年成人式を迎えた人たちは、だいたい2002年生まれで、これは平成十四年に当たります。「若者」というのは何歳までなのかは考え方に違いがあるでしょうが、今若者と言えそうなのは平成五年から十七年生まれくらいでしょうか。
そういう人たちから見たら、「昭和」というだけで
レトロ
と思われるようです。
しかし、流行という話になると、平成の初めごろに人気だったものなど、すでにレトロになっています。あの頃、私はパソコンも使ってはいましたが、それではデータベース作成が中心で、文書を作るときにはワープロ専用機を主に使いました。インクリボンを使ってプリントを作っていたなんて、なかなか今の若者には理解してもらえません。
あの当時はまだ自動車電話というのがあったように思います。車の中で電話ができるという画期的なものでしたが、携帯電話の普及で姿を消していくことになりました。その携帯電話も当初は大きなショルダーフォン(肩に掛けるもの)からどんどん小さくなっていきました。
平成の初めごろというと、ポケベルもありました。無線呼び出しというようですが、私はこれを持ったことはないままで、実物を見たことすらありません。
平成八年(1996)には
たまごっち
というのが発売されて、これも大変な流行になりました。いい歳をした人も持っていて、子どものおもちゃというにとどまらなかったようです。しかしもうずいぶん前のことですから、私はてっきり消え去ってしまったのだろうと思っていたら、形を変えて続いていて、今は「たまごっちスマート」(2021年発売)というのがあるのだそうですね。
たまごっちのような形をしたものに「ポケットピカチュウ」というのもありました。これはちょうどうちの子がそういうものを喜ぶ年代のころでしたので、私も手に持ったことがありました。たしか、歩くと電力(ワット)がたまって、それをピカチュウにあげると仲良くなれるのだったか、そういう感じのおもちゃでした。
今の若者世代から見るとこれらもきっとレトロなのでしょうね。
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- [2023/01/28 00:00]
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テレビとの向き合いかた(2)
とにかくテレビとはあまり縁がなかったのですが、文楽の放送があったときは必ず観ていました。まだ舞台を観たことがなかった高校時代にも、テレビで放送があると何となく観ていました。もっともそのときは今人形を遣っているのが誰だとか、誰が語っているのかということには関心がありませんでした。ひょっとしたら八代目竹本綱太夫・竹沢弥七などという名人もテレビで聴いていたのかもしれませんが。人形は紋十郎さんは亡くなっていました(1970年没)のでおそらく初代玉男、二代目勘十郎、四代目清十郎などでしょうから後になって舞台でも拝見することができたわけですけれど。
耳の状態が悪くなると、すっかりテレビへの興味がなくなり、それと軌を一にするように文楽も放送されなくなってしまいました。こうなるともうほんとうにスポーツ番組以外は観なくなったのです。
そんな私が最近、少しテレビを観るようになりました。それは
字幕放送
があたりまえになってきているからです。ニュースもいくらか観るようになり、ドラマも大人っぽいものであれば観ようという気になります。ストーリー性のあるものなら脚本があるわけで、それが浄瑠璃を書くときの参考になるという思いもあります。ただ、ときどき実につまらないものを観てしまったと後悔するようなドラマがあり、それはやはり俳優さんというよりもタレントさんのような人の演ずるものが多いのです。脚本家の人も、あまり難しい演技は求められないのでこんなしらける本を書いちゃうのかな、と思ったことがあります。事実、演技もひどいもので、ベテランの脇役さんのうまさが引き立つような番組があったのです。
昼に家にいるときには水谷豊さん主演の
『相棒』
という刑事ドラマの番組が再放送されているのを観ることがときどきあります。ドラマを観るというよりも、脚本を「読む」のが好きなのです。社会性のある内容を持ちつつ、できるだけ登場人物(主に犯罪者)の哀しみを掘り下げようという姿勢があるのが「浄瑠璃的」でいいと思います。
このように、字幕は基本的にはありがたいものなのですが、スポーツ中継の場合は目障りで集中できないことがあり、かえって邪魔になる場合が多いのです。
野球なら多少のことはわかりますのでさほど説明してもらう必要はなく、字幕は消すようにしています。それでなくても最近の野球中継はバラエティ番組化してやかましいことがありますので、これが字幕となって画面に出てくると目障りで仕方がありません。いわば球場で観ているような感じです。
サッカーもアナウンサーや解説者のおしゃべりが多いようで、ほんとうに字幕が煩わしいのです。サッカーの場合はロングでピッチ全体を写すことが多いですが、そうなると字幕の方が選手より大きくなってしまいます。スポーツアナウンサーの言葉は、ニュースを読むような言葉とは違ったものであることも多く、視聴者をわくわくさせるようなものであればいくらかは許されるのでしょうか。いつぞや、「今年大注目の選手です」と言っていたアナウンサーがいました。「大注目」ねえ・・。こういうのは耳で聞いている分にはあまり気にならないかもしれませんが、文字にされてしまうと「奇妙な言葉だ」と思って引っかかることがあるのです。民放だからいいのかな・・。
その点、大相撲はNHKですから、アナウンサーも興奮して絶叫するような中継はしません。それだけにまだしも煩わしさは少ないのです。それどころか、解説が北の富士さんの時にはその毒舌がNHKには不釣り合いなまでの言葉として字幕に出てきますので、それがおもしろいこともあります。北の富士さんは出しゃばりませんし、そもそもアナウンサーではありませんから「けしからん」とは思いません。
そんなあれこれを感じながら字幕でテレビを観ることがあります。みなさまもよろしければ、ためしに字幕のボタンをオンにしてテレビをご覧になってみてください。
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- [2023/01/27 00:00]
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テレビとの向き合いかた(1)
私は以前からテレビはさほど好きではなく、一人暮らしをしていた頃はテレビそのものを持っていませんでした。音楽を聴きながら本を読んでいる方がずっといいと思っていたからです。当時はカセットの時代で、私は安物のラジカセを後生大事に使って、朝は大阪名物の浜村淳さんの番組を聴いたり、夜はもっぱらクラシック番組を聴いたりしていました。そして落語、義太夫、クラシック音楽のカセットをよく流していたのです。
大晦日になると父が「紅白歌合戦」が大好きで必ず観ていたのですが、私は興味がなくて「おやすみ」といって寝ることにしていました。正月でもずっとテレビがついていて、それを流しながら父はよくマージャンに興じていました。私はテレビにもマージャンにも関心がないのでここでも失礼していました。今思えば親不孝者です。
その後もテレビにはあまり興味はなくて、スポーツ中継を観る程度でした。ドラマやバラエティはまったく観ないといっても言い過ぎではなかったのです。ですから、活躍している歌手とかタレントさんはほとんどわからず、私が知っているアイドル歌手と言えば
南沙織さん
にさかのぼってしまいます(笑)。現代の人で、たまに顔を知っているタレントさんがいても名前とは一致しません。「誰もが知っている」というような人でも私にはわからないということが多いのです。そういう話になると学生さんには「信じられない」という顔をされてしまったことが少なくありません。
ちょっと話は変わりますが、最近のお笑いタレントさんは、漫才出身でも人気が出れば出るほど漫才をしなくなるという現象があると聞きました。事実はどうか知りませんが、テレビのトーク番組で忙しく、「漫才師」ではなく
「お笑いの人」
になっていくようです。それはそれで時代の趨勢なのかもしれませんが、昭和の時代の漫才を思い浮かべる私としてはちょっと心配でもあります。私にとって最高の漫才師は夢路いとし・喜味こいしのお二人で、このコンビは小学生のころから何度か舞台を拝見したことがあり、なぜか道ですれ違った(笑)ことも一度ならずあったのです。もちろん一番魅力的なのは実力がすばらしいからですが、このご両人が私にとっての漫才の雛型なのです。ダイマル・ラケットさんはちょっと錆びついていたし、それ以後の人はやかましい人が多くてあまり好きではありませんでした。
今はテレビで純粋の寄席番組というのがなくなり、NHKが『日本の話芸』という番組で放送するのがせいぜいかなと思うくらいです。昔は道頓堀の角座での寄席中継があり、お客さんがあまり笑わないようなもの(笑)でも普通に中継していました。今は「爆笑」させないとテレビには出られない時代になって、これでは若い人は育たないのではないかとこれまた不安に思っています。
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- [2023/01/26 00:00]
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2023 文楽初春公演千秋楽
文楽初春公演が千秋楽を迎えます。
この公演から幕見席の販売が再開されました。11月公演の『勧進帳』で一種の幕見を試みたところうまくいったこともあって、期待されるところでしたが、結果的にはどうだったのでしょうか。
一年で一番寒い時期の公演で、体調維持も何かと大変だったでしょうが、技芸員のみなさん、裏方のみなさんともにお疲れさまでした。咲太夫さんの全日休演、清治さんのウイルス感染による一時休演もありましたが、中堅若手の奮闘もあってつつがなく幕が降りるのは喜ばしいことと思います。
次は二月東京公演、近松名作集だそうで、引き続き国立劇場の「さよなら公演」と銘打っています。
この公演では、「河庄」が千歳、「大和屋」が咲、「甘輝館」が錣、「油店」が呂と、やっと「切」の字が四つ揃うことになります。
勘彌さんも復帰だそうで、充実した公演になりますように。
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- [2023/01/25 00:00]
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短歌を詠む覚悟
詩人や俳人もそうだろうと思うのですが、短歌を詠む人には圧倒的にアマチュアが多いのです。それを生業としている人は数少なく、ちょっとした賞を受けた人でも生計は別の仕事で立てている場合が多くあります。小説なら同人誌は別として、発表する雑誌もいくつもあって、さまざまなジャンルの作品が毎日いくつも書かれては発表されています。エンターテイメントなら誰でも読みやすく、数万部売れることは珍しくありません。そういう作品を1冊出せば私の年収を超える(笑)印税が入ります。新聞に載る小説は著名なプロの作品、短歌はアマチュアの作品、というのも象徴的です。
プロの歌人と言われる人でも、大学教員をしている人は少なくありません。窪田空穂、窪田章一郎、佐佐木信綱、佐佐木幸綱(以上国文学)、高安国世(ドイツ文学)、永田和宏(細胞生物学)などの例があります。『サラダ記念日』で有名になった俵万智は、もとは神奈川県の高校教諭でした。
以前、私はある男性歌人とお会いしたときに名刺をいただいたのですが、その肩書のところには探偵社の名前が書かれていました。なんと、この方の本業は
探偵さん
だったのです。浮気調査、結婚調査などをしながら短歌を詠んでいらっしゃるわけです。なかなかすばらしい歌人だとその場にいらした別の歌人がおっしゃっていましたが、だからといって「歌人」だけでは生きていけないのですね。
ただ、こういう厳しい環境にいながら熱心に短歌を詠み続ける人には、何かしら覚悟のようなものがあるように思えます。現実には生活に疲れて短歌どころではなくなったという人もあるかもしれませんが。
「歌人」のみを生業として生きている人は、選者という仕事がありそうです。全国紙の選者になると、一気に著名になりますから仕事も増えるでしょう。地方紙の選者でも地元では知られるようになるはずです。ほかに、一般の方から募る短歌の審査員や短歌教室(いわゆる「カルチャー」)などもあります。歌集はどうしても売れにくいものですが、エッセイ集などは売れることもあると思います。
しかし、そうなるまではなかなか大変だろうと思えてなりません。ほんとうにすぐれた歌人であれば、一日に
十首
くらい読む人もいます。月に300首ということですね。もちろん多ければいいわけではありませんが、現実にこんなに多くの歌を詠むためにはかなりの力量が必要となるはずです。そういう歌人にも私はやはり「覚悟」を感じます。これしかないんだ、という強い気持ちです。
では、最近短歌に心を寄せている私はどうなのかというと、今のところ1日に1首も詠んでいません。これではやはり話にならず、今年は多くの歌を詠むことも目標のひとつにしたいと思っています。
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- [2023/01/24 00:00]
- 平安王朝 和歌 |
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退職後の出版
大学院のとき、制度として「指導教員」を三人お願いすることになっていました。一番お世話になったA先生は、すでにかなり多くの著書を出していらっしゃいました。しかし失礼ながら論文集がもう一冊あればいいのにな、と思っていました。雑誌に発表された論文はかなりあるわけで、それを本にすればいいのですが、なかなかなさいませんでした。
また、B先生はエッセイ風のものをたくさん書いていらっしゃったのですが、これまた本にまとめてはいらっしゃらず、論文集もありませんでした。
もうひとりのC先生も注釈書などはいろいろ出されていましたが、論文集はありませんでした。
そして、お三方ともにそのまま退職なさったのですが、そこからの
出版ラッシュ
がすさまじかったのです。
B先生は、万葉集と上代語の研究家でした。『万葉集』についてのさまざまなエッセイを書いていらっしゃったのですが、それをまとめて手軽な本になさいましたし、上代語については立派な論文集を上梓されました。ほかにもサブワークのようにしていらっしゃった近代短歌の歌人についての本も出され、あれよあれよという間に多数の本を出されたのです。
C先生は少し違って、全4巻の「著作集」という形で、書き溜めていらっしゃったものをまとめて出版されたのです。4巻といっても、全部で2500ページ近くはある大作です。
そしてA先生も立て続けに出版なさいました。待望の論文集は650ページほどの大作で、数々の業績を一冊にまとめられたのです。私も御恵与にあずかり、恩師の学恩のありがたさをしみじみと感じました。さらにはコンパクトな本も出されて、こちらには最新のすぐれた論文が含まれていたのですが、それ以外に、短い文を多く含むもので、肩の凝らない読み物としても楽しいものでした。先生は「退職したら
本作り
に励むよ」とおっしゃっていましたが、そのとおりでした。
先生方がこうして多くの著書を出されたのは、何と言ってもそれまでの間に多くの優れた論文を書き重ねてこられたからです。また、退職なさって少し余裕がおできになったことも理由の一つでしょう。専門書の場合は、発行部数が限られます。昨今は大学から文学部がどんどん消えて行ったために研究者が減り、図書館に購入してもらう数もそれに比例して減りましたので、さほど売れないのです。また、著者は研究者仲間に贈るために自分で多数購入しなければならず、先生方とて赤字は計算済みでいらしたはずです。それでも本が出せるのはとてもうらやましいです。
翻って私は、退職しても本になるほどのものは書いていませんし、出版費用も持ち合わせません。できの悪いものでもまとめておきたいと思うものはあるのですが、これはもう断念せざるを得ないと思います。
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- [2023/01/23 00:00]
- 研究・大学教育 |
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校正は苦痛
自分の書いたものを活字にするのはなかなか嬉しいものです。学生のころ、初めて書いた論文(みたいなもの)が活字になった時は、あたかも一人前の研究者になったかのような喜び(錯覚とも言う)がありました。今振り返ると研究の名に値しないようなものですが、それでも宝物のように思ったものです。
私のような者でも、これまでに活字にしたものはかなりの分量にのぼります。きちんと整理していないのですが、原稿用紙にしたら少なくとも何千枚かになります(「万」には届かないかも)。ひとつのもので一番たくさん書いたのは20年ほど前に出した注釈書で、多分500枚では済まなかったと思います。
この数千枚がすべてベストセラーの本であったら、今ごろは左うちわで余生を楽しんでいる(笑)はずなのです。残念ながらベストセラーどころか、ほとんど本にはなっておらず、後世に残るようなものはひとつとしてありません(笑)。
活字にするのは嬉しいのですが、その過程ではかなり苦しみもあります。まずは原稿を書くことです。私の場合は、フィールドに出ることもありますが、文献中心ですので、調べに調べてその中から使えるものを選び出し、自分の考えをまとめていくのはかなりの時間がかかります。やっとそれができて原稿を送ると、今度は校正作業が待っています。出版社の人が
「較正(こうせい)」
という字を使っていたのを見たことがあります。これは「比較して正す」ということで、「校正」と同じように使われることがあるのです。ただ、「較正」は一般的に精密機器などの狂いを正すときに用いられますので、私は使いません。
さて、その校正なのですが、出版社から出す著書であれば、編集者がかなり助けてくれます。出版社の人はとてもうまく間違いを見つけてくれます。第三者の目はとてもありがたいのですが、自分でないとわからないこともやはり多くあります。呂太夫さんの本の時も、初校のゲラ刷りは真っ赤になるくらいでした。結局5校までがんばって、さらにもう一度最終的な見本をもらった時も「もし何かあれば字数を変えないなら直せます」と言われ、事実上6校まであったことになり、2016年の終わりから翌年の2月くらいまではほんとうに校正ばかりしていたような気がします。
一方、雑誌に掲載する論文などは自分だけの責任です。何かの事情で一度に複数の校正刷り(ゲラ刷り)が届いたりすると、時間に追われて相当苦痛なことがあり、電車の中でも見ていることがあります。
ほかの人はそうでもないのかもしれませんが、私が校正を苦痛に感じるのは、
自分が書いた文章
を何度も読まなければならないところにもあります。どうしても自分の文章の欠点あるいは悪癖が見つけられないことがありますし、意味を覚え違いしていてもそれが正しいと思っていますので訂正できません。欠点を探し出すためには読者の視点で読み返すことが重要です。言葉の間違いを探すためには、国語辞典を横に置いて「この言葉間違ってないよね」と思いながらしょっちゅう辞書を引いたりしなければなりません。辞書を開くことは、電車の中ではさすがにそれはできませんので、スマホでごく簡単に調べて(あとで消せるように)鉛筆でメモしたり、スマホが出せない状況なら丸印をつけたりしてチェックだけをしておきます。
年末年始にかけては、原稿用紙100枚分くらいの校正があり、ちょっと苦労しました。しかしそれが終わって、今は一段落。次は2月締切の原稿にかかるところです。
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- [2023/01/22 00:00]
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住所印の郵便番号
私の本名の漢字はとてもバランスが悪いもので書きにくいのです。偏(へん)と旁(つくり)から成る字とか、画数の多い字とかが書きやすいと思うのですが、名前のすべての漢字がそういうかたちになっていません。
私は学生さんに、「これから結婚式などに出ると『芳名帳』というのに名前を書かされますよ。サインペンでもいいのですが、筆ペンで自分の名前を書けるようにしておくといいですよ」と話しました。これは私自身が体験してかなり閉口したことなので、伝えておこうと思ったのです。「桐竹紋十郎」「豊竹嶋太夫」なんて、きちんと稽古したらかっこいい字が書けそうだな、と思うのですが、名前だけは今さらどうしようもありません。もちろん、「近松○○」というペンネームでも作ってそれを書けばいいのですが、単なる「嬉しがり」として笑われるのがオチでしょう。
私はもう、結婚式のような華やかな場に出ることはないと思うのですが、やはり今でも自分の名前くらいはきれいに書きたいと思います。ただ、筆ペンで名前を書くなんてめったにあることではありませんから、上達もしないでしょうね。
わずかに筆ペンで書くとすると手紙を書く時くらいですが、今どき、めったにきちんとした手紙を書くことはありません。ところが、
年賀状
だけはこれまで筆ペンで相手と自分の住所だけは書いてきたのです。去年の暮れも「よし書くぞ」と意気込んではいたのですが、何となく億劫になってためらっていました。ほかのものを取り出そうとしてデスクの引き出しを開けてみると、そこにはかなり前に作った住所印がふたつありました。アクリルの胴体にゴム印がついた安いものです。ひとつは広島時代のもので、あの頃はよく手紙を書きましたので作ったのでした。もうひとつは広島から関西に戻った時に作ったもので、だんだん手紙を書かなくなったのと、書いたら自筆で住所も名前も書く習慣になったものですから、古いのに新品同様でした。
つい「今年はこれを使うか」と思って、ペタンコペタンコと捺して行きました。そしてにじんだりしていないかな、と確認していてふと気がついたら、その住所印の郵便番号が
3桁
しかありませんでした。
そうそう、昔は3桁(都市部など)か5桁(比較的小さな街)だったのですよね。広島勤務時は広島市在住であったにもかかわらず5桁(広島市の中心部はもちろん3桁)でした。もともと別の「町」であったところを広島市が吸収合併したからです。
さてせっかく捺した住所印ですから、今さらどうしようもなく、一瞬困ってしまいました。しかし、自分の住所を各部分のすぐ下には7桁の郵便番号を書く部分がありますので、そこに正しい(7桁の)ものを書くことにして、ゴム印はそのままにしておきました。このゴム印、まだまだきれいに仕えますので、新しいものを作るのももったいなく、今後もこういう使い方をしようかなと思っています。
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ニッセ
私がイギリスの「(2022年の)今年の単語」の結果を知ったのは、昨年12月15日の「天声人語」に書かれていたからなのです。そして「天声人語」はその日の記事の中でアンデルセンの「雑貨屋のゴブリン」にも触れています。この童話は2007年に刊行された『アンデルセン13の童話』(小峰書店 代田亜香子・訳)では「雑貨屋のゴブリン」というタイトルです。一方、岩波文庫の赤740‐3の『完訳 アンデルセン童話集(三)』(大畑末吉・訳)での邦題は「食料品屋の小人の妖精」となっています。さらに古いものではありますが、ドイツ文学者の高橋健二さんが訳されたものでも「食料品屋のこびとの妖精」となっています。私はデンマーク語なんてわかりませんが、「小人の妖精」というのは、原題では「ニッセ(nisse)」で、これは北欧やデンマークで伝えられるいたずらな妖精のことです。ミルク粥が好きで、クリスマスにはこれを決まったところに置いておかないといたずらをすると言われています。やはり一種の
Trick or treat
なのですね。デンマークでは、クリスマスの大スターはサンタクロースよりニッセだそうです。デンマークの児童文学作家のオーレ・ロン・キアケゴー(Ole Lund Kirkegaard)の作品で日本語訳も出ている童話に『ニッセのポック』という作品もあります。
「ニッセ」と「ゴブリン」は必ずしも同じではないと思うのですが、性格はよく似ていますので異伝のようなものなのでしょうか。
アンデルセンの作品も訳者は古くは「ニッセ」だったのに、新しいものでは「ゴブリン」。私としてはどちらにしようか、迷うのですが、この記事のタイトルにも「ニッセ」と書きましたように、以下もそのように呼びます。
さて、アンデルセンの童話はこんな内容です。
ニッセが、クリスマスイブにバターの入ったオートミール(ポリッジ)をもらえるからという理由で雑貨屋(食料品屋)にいました。その雑貨屋の屋根裏部屋に間借りしている学生は何も持っていない貧乏でした。ある日、チーズを買いに家主でもある雑貨屋に行くとそのチーズを包んでくれた紙に詩が書かれていました。雑貨屋が言うには、どこかのおばあさんがコーヒー豆と引き換えに置いていった本の1ページを破ったものだというのです。そこで学生はチーズの代わりにその本をもらいます。包み紙にすばらしい芸術があるというのは、浮世絵が海外に伝わった時のエピソードを連想してしまいます。
さて、ニッセが学生の部屋に行って鍵穴から中を覗いてみると、学生の本から光が出て、木となり、花や実をつけていました。本に詰まっている
知性や教養
があふれていたのでしょう。それ以後ニッセは学生の部屋に灯りがつくと何かに誘われるように鍵穴から中を覗くようになりました。それでも、クリスマスイブになると、ニッセはオートミールの誘惑には勝てませんでした。
その真夜中、火事があって、誰もが自分の一番大切なものを抱えて逃げ出します。そのときニッセは思わず学生の持っていた詩の本を抱えて逃げ出すのです。彼にとって一番大切なものが何なのかが分かったのです・・・。
しかし、話はここでは終わりません。火事が収まると、ニッセはまたもやオートミールが気になります。そこで彼は自分を二つに分けて生きて行こうと思うのです。
人はパンのみで生きていくわけにはいかないのですが、だからといってパンなしでも生きられないのですね。
浄瑠璃にできそうな話です(笑)。
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- [2023/01/20 00:00]
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ゴブリン
「新語・流行語大賞」というのがありますが、これは自由国民社の『現代用語の基礎知識』のアンケート結果がもとになって、そこから編集部、最終的には選考委員の考え方によって決まるようです。一見世相をもっともよく表すもののように思えますが、かなり偏りがあるように感じます。以前書きましたが、去年の「新語・流行語大賞」は「村神様」だったそうで、どうもすっきりしませんでした。
イギリスにも「今年の単語」というものがあって、これはオックスフォード・ランゲージ社(有名な英語辞典の出版社)の辞書編纂者が挙げた候補中から選ばれるもので、去年は一般投票によって決めたのだそうです。「メタバース(metaverse)」「#IStandWith(#私は~の味方だ)」とともに
ゴブリン・モード(goblin mode)
が候補とされ、一般投票の結果、「ゴブリン・モード」が選ばれました(ちなみに、2021年の「今年の単語」は「Vax」=ワクチンのこと=だったそうです)。
「ゴブリン・モード」というスラングは「恥ずかしげもなく自分勝手で、怠惰で、貪欲な行動」を意味し、多くの場合は「社会の規範や期待を拒否するような方法で現れる行動」なのだそうです。何だか身につまされるなぁ。
ゴブリンはヨーロッパに伝わる生き物で、伝承されるうちにさまざまな姿になって一定ではないのですが、おおむね「小さくて、邪悪で、いたずら好きな精霊」のように理解されています。「諸聖人の日」(Solemnity of All Saints, All Hallows)の前夜であるハロウィン(Halloween)には先祖の霊が戻ってきますが、その中にはゴブリンもまざっていて、その機嫌を損じないようにもてなすことになっています。ですから、ゴブリンはハロウィンの仮装にも登場します。Amazonで調べてみると、緑を基調としたゴブリンの衣裳(子ども用)が6,066円で売られていました(笑)。
その「ゴブリンの状態になった」、というのが去年の世相を表す単語だったのです。「ゴブリン・モード」というのは、以前からあったスラングなのですが、ことさら去年用いられた背景には、Covid-19による生活の制限が緩和されたことがあるといわれます。というのは、制限緩和によって元の生活ができるようになってきたのにもかかわらず、その生活に戻りたくないと思う(つまり、怠惰な生活のままでいたいと思う)人たちが「私は今ゴブリン・モードに入っている」というような使い方をしたからです。
なかなか皮肉があって、本質をついた「今年の単語」だと思います。「村神様」とはかなり違うな、と思います。「今年の漢字」とか「新語・流行語」も、単に投票で選ぶのではなく、世相をよく見ている人によってある程度候補を出してから投票してもらう方がいいかもしれません。
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- [2023/01/19 00:00]
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適正体重
ずっと体重計というものが家になかったのですが、やはり必要だというので手に入れました。
呼吸器の持病がかなり悪化したために、一時、ちょっと「厄介な薬」を使っていたのですが、この薬は副作用がひどいことでも知られるものなのです。消化器に潰瘍が起こることがあるというのが一番怖いのですが、もうひとつの副作用として脂肪がつくことがあり、そのために明らかに体重が増えました。私が記憶するもっとも重かった時の体重は、74㎏もあったのです。ただし、これは私の身長であれば特に多すぎるわけではなく、
BMI
なら22.1でした。BMIは18.5~25未満が「普通体重」と言われ、その中でも「もっとも病気になりにくい」という「適正体重」(BMI22)は、私の場合73.68㎏だそうで、320g多いだけでした。ただしそのときも服を着て計っていましたから、ほぼ適正体重にピタリだったと言えると思います。ちなみに、私が肥満度1(BMI25以上30未満)になるのは83.7㎏です。ただ、適正体重といっても、筋肉ではなく脂肪がついているのでそれがあまり好ましく思えず、また長らくそういう体重になった経験がありませんでしたのでからだが重く感じられました。
幸い、今はその「厄介な薬」は使っていませんので、副作用もなくなりました。それに加えてよく歩き、以前ほど多くのカロリーは摂取しておらず、さらには髪の毛がなくなった(笑)こともありますので、多少は軽くなっただろうと思っていました。脂肪がついてぶよぶよしていた(笑)ところも少し改善されたようで、こうして考えてみると、「よく効く薬」というものはほんとうに恐ろしいものだと感じます。
そして、(昨年末のことなのですが)少しドキドキしながら(笑)体重計に乗ってみると、
68.4㎏
でした。最重量の時に比べて5㎏くらい減っていることになります。ちょっと減り過ぎのような気もするのですが、学生時代と同じくらいの重さです。私が病気のために一番体重を落とした時は、今と同じ身長で、56.5㎏(BMI16.87の「低体重」でした)という経験があります。しかしそれは非常事態の時のことで、すぐにそういう危機は脱して、だいたい65~70㎏の間で推移してきました。
68.4㎏というのは、BMIでいうなら20.42で、衣服を400gとして68㎏とすると20.31です。「普通体重」の中ではやや軽めですが、どうもこれくらいが私にとっての「適正体重」ではないかと思います。
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- [2023/01/18 00:00]
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知りたいと思う心
今はもう大学全入時代で、大学を選びさえしなければ浪人することはありません。定員割れがいくらでもあるのですから、そういう大学ではよほどのことがない限り入学させてくれます。そうでもしないと大学は経営が成り立たず、弱小大学はなりふりかまわなくなっているありさまです。入試といっても簡単な問題を4択程度で答えればいいところも多く、単純計算でいうなら、幼稚園児でも25点は取れます。仮にも高校まで卒業しているなら、40点は自力で取れるでしょうから、残る60点は適当に答えておいても15点、合計55点は取れてしまいます。そうなれば特にひどい点数というほどではありませんから、定員割れするような大学では落とす理由はどこにもありません。
しかし、「大学全入」自体は悪いことではなく、誰でも入れてしっかり学べば卒業できるというシステムなら問題はないと思います。でも、実際は「誰でも卒業できる」「ルールを無視してでも卒業させる」というのが多くの弱小大学に共通しています。
こうなると、教育の現場で仕事をしてきた者としましては、何を目当てに授業をすればよいのか迷うことがありました。私としては、学生の
知りたいと思う心
を何とか刺激して、仮に興味のない分野であっても話を聴きたいと彼らが思えるような授業を提示するほかはないと思いました。平安時代の話を難しく話すことなら私にとってはむしろ簡単なのです。大学院の文学研究科の授業なら難しい話をそのまま辛抱強くする方がいいと思うくらいです。もし話がわからないなら「自分で勝手に勉強して少し遅れてでもついて来い」と突き放すことも必要かもしれません。しかし弱小大学の、主として理系の学生に話す場合、その難しいことをどうすれば簡単に受け止めてもらえるか、そういう点に工夫のしどころがあったと思います。
ただ、資格取得を第一目標とする大学では、専門科目ですら苦痛なもので、とにかく覚えなければならないという強迫観念を抱えながら国家試験までの道のりを歩んでいくことになるようです。そこに、純粋に「知りたいと思う心」があるのかどうか、少し心配になることがあります。私の出身学部である文学部なんて、「自分で
思索する意思」
や「知りたいと思う心」がなければ何ひとつおもしろいことはないのです。虚しい時間だけを過ごしていくことにすらなりかねません。思索し、探求すること自体に第一義があるので、無理やり頭に詰め込むことはあとまわし、場合によってはなくてもかまわないとも言えます(結果としては多くのことを覚えますが)。
「こんな話を聴いて何の役に立つのか」と思われた時点でその授業は失敗に近いと思います。だからこそ、そう思われつつあるな、と感じたときにもう一度こちらの態度を見つめ直して「知りたいと思う心」を刺激し、学問の大切さ、尊さを伝えねばならないのだろうと思います。
それができたのか、と言われると、穴があったら入りたいくらいで、おそらく一部の人にしか思いは伝わらなかったでしょう。
教員として悔いがあるとするなら、その点に尽きるのです。
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- [2023/01/17 00:00]
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歌会
ずいぶん前の、広島の短期大学に勤めていた時の話です。
この短期大学は小さな学校で、私も就職するまでは名前すら知りませんでした。ただ、私が赴任していた時期と重なるように、ごく一時的に、同じ学校法人の高校が駅伝に力を入れて有名になりました。年末の全国高校駅伝では県代表の常連校になり、全国でも屈指の成績を上げたことがあったのです。
それはともかく、私はある先生から「この短大が若い人を探しているので行ってみないか」と言われて、鬱屈気味だった人生を打開したいと思っていた頃でしたのでお引き受けし、まったく未知の土地に行ったのでした。同僚はほとんどが広島大学出身者で、私はその学閥からぽつんと離れた孤立無援状態(笑)でした。しかし都会から来た先生だというので学生さんからは珍しがられて、歌舞伎や文楽の地方公演に連れて行ったり、40人を引率して京都旅行(+文楽劇場での観劇)をしたりしました。広島にいると、中国地方で最大の人口を誇るだけにかえって井の中の蛙になりがちだと思ったからなのですが、文学研修旅行として京都に連れて行くなどというのは前代未聞だったようです。
ただ、残念なことに、この短大は四年制大学になるきっかけを失ったために廃学の憂き目を見て今はもう存在しないのですが。
学生さんの成績と言うか、受験の際の
偏差値
でいうなら、決して高いとは言えない学校でしたが、学生はみんなかわいくて、やんちゃな者も含めて大好きでした。そして、中には古典文学が好きという人もいました。ある日、三人の学生さんが「短歌を詠みたい」といってやって来ました。嬉しい驚きでした。それでは毎週1回、ひとつでもふたつでも歌を詠んで、授業のない時間を使って「歌会」をしましょう、と提案すると、彼女たちはマメにやってきました。
もちろん、幼稚な歌なのですが、それでも一生懸命詠んできましたので、私もできるだけ褒めながら話をするようにしました。あまり技巧にとらわれず、まずは57577の韻律を守って、正しい言葉遣いで思っていることを歌にするように言い、歌会でもおもに言葉の正確さ、言い換えれば人に思いが伝わる言い方の話をしました。こういうことをしているうちに、言葉の大切さがわかるようになりますから、あとは日常的にさまざまな自然や芸術に触れて、自分の
美意識
を高めたり感性を磨いたりすればいいと思ったのです。歌会で作品を批評してもらうと、自分では気づかない欠点が解ったり、言葉の選択や工夫の仕方を学んだりできます。他人の批評を素直に受け入れる心があれば特に成長するだろうと思います。これはけっして短歌を詠む技術の問題にとどまるものではありません。結局はその人の人間性を高めることにつながり、心の豊かな人生をも約束してくれると思うのです。
私が赴任した年に公開講座を始めようという話が起こり、私も翌年から2年続けて企画と講師の仕事をしました。その際、目玉企画としてゲストの招聘を提案して、一年目は文楽の技芸員さんに来ていただき、二年目には、学生のころからの知り合いの、歌人の松平盟子さんに遠路おいでいただいて短歌のお話をお願いしました。そして、講座の前に学長室で松平さんとお話ししているところにその学生たちを呼んで、自分の作品を松平さんに見てもらったうえで、直々に声をかけてもらう機会を作りました。松平さんはうまくほめてくださって、しかも的確なアドバイスをしてくれました。学生は「ほんものの歌人」と触れ合ったことでさらに感激したようで、そのあとの松平さんの講演も熱心に聴いていました。
すると、その中のひとりは卒業してからもずっと短歌を詠み続け、ちょっとした賞に応募しては何度も受賞していました。独特の雰囲気のある人で発想もユニークでしたので、短歌には向いていたのだろうと思います。短歌なんて高齢者の趣味に過ぎない、と思われているとすればとんでもないことで、若い人の新しい感性が「敷島の道」の幅をさらに広げていくはずなのです。私は今も、どこかにそういう若者はいないものかと探しています。
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- [2023/01/16 00:00]
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Payだらけ
私は小銭を徹底的に使おうと思ってずっと「現金払い」をするようにしてきました。まだかなり残っているのですが、だんだん面倒になってきて、これはもう銀行に少しずつ入れようかと思ったりしています。
最近はそんな気持ちになってきたこともあって、スマホ決済を使うことも珍しくありません。私が使っているのは初心者向きと言われる某社のものです。確かに便利で、店としても助かる面があるのでしょう。これを使うと何だかポイントがたまるとか、そのほかにも特典がある場合があるらしいのですが、まだあまりよくわかっていません(笑)。
スマホ決済で怖いのは、現金がなくなることを目で見ないので、「使いすぎ」になることなのだそうです。しかし、もともとめったにお金を使うことのない私には無縁の話です(笑)。
ただ、薬局で薬を買う時にほかの人を見ていると、きわめて多くの人が現金払いをしています。理由はやはり
高齢者が多い
ことにあるのだろうと思います。時たまクレジットカードでの支払いをしている人はいますが、今のところスマホ決済(この薬局はQRコード決済です)の人を見たことがないのです。今、もっとも用いられているPayPayは登録車が5,000万人を突破したとか言っていますので、もっと多くの人が使っていてもよさそうなのですが、やはり場所によっては違うものですね。
この「何とかPay」というのはいろいろあって、あれって複数のものを使うものなのでしょうか。言い換えると、私のようにひとつだけしか使っていないのは
少数派
なのだろうかと疑問に思っています。コンビニなどに行くと(私はコンビニはほとんど利用しないので外から見るだけですが)、使えるものがたくさん表示されているのに気がつきます。でも何だかあれこれあると面倒に思えて、今のところほかのものには見向きもしていません。
それにしても、私が子どものころは、八百屋さんなんて天井からぶら下げたカゴの中に現金を入れてはお釣りを出す(あの当時は小銭が多かったような気がします)スタイルでしたし、学生のころはスーパーに行くとレジのお姉さんがひとつひとつレジのテンキーのようなものに値段を打ち込んでいました(腱鞘炎になりそうでした)。しかしいつの間にかバーコードを読み込むだけになり、支払い方法も手渡しせずに機械に現金を入れるようになり、さらに今やスマホで決済するようになってしまいました。
私は進化する世の中のあとをモタモタと追いながら進んでいくのですが、なかなか大変なことになってきました。
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- [2023/01/15 00:00]
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ひっつき虫
他人にすぐ甘えるようにべたべたする人のことを「ひっつき虫(くっつき虫)」ということがあります。小さな子どもにそういう傾向はよく見られます。
それと同時に、草むらに入るとセーターなどにくっつく植物も「ひっつき虫(くっつき虫)」と言われます。どちらも虫ではないのにおもしろい言い方です。植物のほうは、意思があるかのように人間の衣服にくっついてくるので動物として表現したのではないでしょうか。
しかしこのひっつき虫、いろんな種類があるようです。東京都の高尾ビジターセンターのホームページを見ますと、ヌスビトハギ、キンミズヒキ、ダイコンソウ、ノブキ、ガンクビソウ、キツネノボタン、チヂミザサ、イノコズチなどの名前が挙がっていました。名前を聞いても、私にはほとんどわかりませんが(笑)。いずれにせよ、これは、植物の種が人間やほかの動物にくっついて別の場所に運んでもらうための知恵なのですね。そうやって自分の子孫を増やそうというのです。よくこんなことができるようになったものだと感心します。
私が昨年の12月初めにイチゴの苗の下に敷く枯れススキ(私のことではありません。植物のススキです)を探しに河原に行ったとき、一番ひどい目に遭ったのは
コセンダングサ
という「ひっつき虫」でした。「逆さとげ」というのだそうですが、逆向きになったとげが衣服にくっついてきました。
ヤツラはまったく気がつかないうちに接触してきますので、ふと見ると悲惨なことになっていました。何しろそれをすべて取ろうとしたら5分も10分もかかってしまうのです。
その一方、子どものころは、このうっとうしい植物の知恵を逆手に取って遊びに用いたこともありました。友だちの服に着けていたずらをするわけです。これに用いたのは、おもに
オナモミ
で、これの実を投げつけて遊んでいました。子どもの知恵と植物の知恵はたいしたものですね。
この「オナモミ」という不思議な名は、「雄ナモミ」なのだそうで、「ナモミ」は「ひっかかる」というほどの意味があるそうです。やはり名前にもくっつく特徴が用いられているのですね。
この実の中にある種は、リノール酸を多く含んでいるのだそうで、動脈硬化の予防に役立つようです。漢方薬の「蒼耳子」というのは、適量を用いるとリウマチ、関節痛などに効果があるそうですが、実はこれも「オナモミ」なのだそうです。
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- [2023/01/14 00:00]
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何もない正月でした
今年の正月は、久しぶりに自宅で迎えました。
このところハワイのコンドミニアムで(←そんなわけがない)新年を祝っていましたので、4年ぶりです。
兄の子が結婚するというので挨拶に来たり、妹とその息子が来たりして、かなり賑やかでした。
私個人は例年仕事を抱えての正月ですから、特にこれといって何もありませんでした。
大晦日といっても、たとえば紅白歌合戦というのも中学生の時以来観たことがありませんし、それ以後はFMラジオなどで、第九を聴くことはしていたのですが、今はそれとも無縁になってしまいました。この年末にはテレビで南座の顔見世の放送を観たくらいです。
正月になると、やはりFM放送でクラシック(ワグナーの楽劇が連日放送されたこともありました)や日本の伝統芸能を聴くことにしていましたが、これもできなくなりました。
今年は
呂太夫・清介
のコンビで「堀川猿回し」があったそうですが、残念でした。
お酒を飲むわけでもなく、することといえば散歩(笑)で、いつもと何ら変わりません。
ただ、ここ数年続けている神社への参拝は年末年始もサボりませんでした。大晦日には、
大祓
にも行き、罪を祓って清い身に(笑)なってきました。
新年はもちろん初詣。普段は静かな境内に、たくさんの方が晴れやかなお姿で参詣なさっていました。
私も、気持ちだけは新しいものにして、新年の仕事を始めました。
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- [2023/01/13 00:00]
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前川佐美雄と『橙』
昭和の時代を歌人として生き抜いた人に前川佐美雄(まえかわ さみお 1903~90)がいます。若いころから短歌を詠み、18歳のころに佐佐木信綱に師事しました。佐佐木信綱(本名は佐々木)は学者、歌人の家系で、父が弘綱、子が治綱、孫が幸綱という、代々の歌人です。今はさらに幸綱氏の子である頼綱、定綱の両氏も歌人としてご活躍です。こういう血筋ってあるものなのですね。あるいは「血」というよりも、子どものころから短歌に接していると感性が磨かれるものなのかもしれません。この一族の男子は「綱」の字がつくのです。幸綱さんが、お子さん(たぶん頼綱さん)がおできになって間もないころに「綱の字をつけたが、その上の字(「頼」の字)は先祖と重複しないように探した」という意味のことをおっしゃっていたのをうかがったことがあります。
前川佐美雄に戻ります。この人は奈良県葛城郡忍海(おしみ)村(現・葛城市)出身で、実家はかなりの素封家だったようです。ところが、彼が東洋大学を出たころに家が没落するという艱難をも経験しました。
その後かなりの覚悟で文学の道に進むことを決意したようで、一時期、プロレタリア短歌にも関心を寄せますが、わりあいに早くそこからは離れています。
ご尊父が亡くなったあと東京から忍海に戻り、短歌誌
日本歌人(にほんかじん)
を創刊しました。このグループから出た門下生には、塚本邦雄(『玲瓏』を創刊)、前登志夫(『ヤママユ』を創刊)らが出ています。『日本歌人』は戦時の弾圧によって廃刊の憂き目を見ましたが、文学は戦争には負けません。不屈の佐美雄は戦後には短歌誌『オレンヂ』を創刊、さらには『日本歌人』を復刊しました。
これまではっきり申し上げていませんでしたが、私が先年から入れていただいている短歌の雑誌は、この『日本歌人』の系統で、山崎雪子さんという方が創刊された
橙(オレンヂ)
というのです。と言えばおわかりのとおり、前川佐美雄が戦後創刊した雑誌の名前をいただいたわけです。
私はこの雑誌に入れていただいてはいますが、所詮新参者で、まだ載せていただいた作品も60首くらいに過ぎません。おまけに、こういう会ではとても大切な「歌会」にも参加できないような身の上です。ところが折からのウイルス騒動で歌会自体が開催できず、今は紙上歌会という名で、雑誌の中でそれぞれの歌を批評し合う形になりました。これなら私も参加できますから、少し思ったことを書いたりしています。
そうこうしているうちに、やはり雑誌のルーツを知りたくなってきました。しかしルーツどころか、そもそも前川佐美雄という人についてほとんど知らないことに気付き、このままではよくないと思って、少し勉強しようと思っています。それにはまず佐美雄の短歌を読むことでしょう。それで『前川佐美雄全集』(全3巻)をいうかなり高価な(涙)古書を入手し、読み始めているのです。全集ですから散文も入っていて、それも大いに参考になると思います。
私は、これからは研究の世界から少しずつ離れて、遅まきながら短歌と浄瑠璃の創作に情熱を傾けたいと思っています。
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今年も歩きます
スマホに歩数計を入れたのが2020年の5月でした。あまり体調のよくなかったときと見えて、最低限しか歩いていなかったように思います。その月の平均歩数は7,190歩でした。ところが6月は6,563歩、7月は4,367歩、8月に至っては2,099歩にとどまりました。体調がよくなった12月に1日平均1万歩を歩いたために、この年の平均は少し良くなって5,737歩にまで回復しました。
2021年は夏の間があまり歩けなかったのですが、春と秋によく歩いたために1年の合計が3,684,751歩で、1日平均10,095歩となり、1万歩を突破したのでした。何と言っても、2月、3月に近くの庚申塔を見て歩くことをしましたので、これがかなりの歩数になったのです。電車に乗ったら5~6駅先のところまで歩いたこともあるのですから、かなりのものでした。1日の最高歩数記録は今なおこのときのもので、
28,256歩
でした。これは今後もめったに破れないだろうと思います。1歩を75㎝とすると、21,192m、つまり21㎞あまりです。地元の方でないとわかりにくいと思いますが、神戸市役所を起点としたら、西宮市と尼崎市の間を流れる武庫川くらいまで歩いたことになります。
昨年(2022年)は、そこまで歩かなくてもいいかな、と思って、1日平均8,000歩を目標に設定しました。
ところが、あまり呼吸に問題がなかったこともあって、まんべんなく歩くことができ、11月のうちに前年を超えて399万歩を超え、12月31日までの総歩数は4,326,339歩で、1日平均にすると
11,853歩
に達しました。
私の場合は足がどうこうというよりは、呼吸の問題ですので、呼吸の状態さえよければどうやら1万歩というのはあまり難しくないようです。
電車に乗る場合も2駅離れたところまで歩いてから乗ることもしばしばありました。考えごとをする場合は、家でじっとしているのではなく、徒歩15分の公園まで行ったり、そこからさらに30分くらい歩いたり、さらに時間があるときはしょっちゅう神社(徒歩10分)にお参りしたり、そこから10分ほどのお寺まで行ったりしていました。図書館が徒歩20分余りのところにあるのもいい運動になったと思います。
さて、今年です。今年もとりあえず1日8,000歩を目安に歩きたいと思っています。寒いあいだは朝歩くのが億劫なのですが、いざ歩き出すと身体が温まりますので問題ありません。
年々体力は落ちてきますので、あまり無理をせずに今年も楽しく歩きたいと思っています。
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番付の女性
文楽は男性社会です。技芸員さんは全員男性と決まっています。
女性で義太夫を語る人は女義さんとして素浄瑠璃で活躍なさっています。人形は「乙女文楽」などがあり、今も一人遣いの人形を遣う方が何人かいらっしゃいます。アマチュアは別で、例えば能勢の人形浄瑠璃は太夫、三味線、人形いずれも女性がいらっしゃり、人形は女性が多いのです。
文楽では今なお男性社会を守っていて、研修生の募集も「二十三歳までの男子」のようになっています。当然ながら、
番付
に載る人も男性ばかり、でした。床山さん、小道具さん、衣裳さんなどの裏方さんで番付に載る代表者も私が文楽を見始めたころはすべて男性でした。名越さん、和田さん、石橋さんなどのお名前を覚えています。
ところがそこに女性が加わりました。床山の名越さんのところにとてもすぐれたセンスの女性が入門されたのです。名越さんは最初「ここは男性の世界だから」とお断りになったはずです。しかし、英語も堪能なこの女性は意志も強く、引き下がりませんでした。そしてついに名越さんも彼女に技を伝えることになさり、後継者となられて、
「床山 高橋晃子」
というお名前が、女性で初めて番付に載ったのです。
私は裏方さんのお仕事にも興味があって、何度か床山のお部屋をお訪ねしていました。名越さんはとても気さくな方で、訪問すると喜んで下さり、時には招待券まで下さいました(笑)。そのときに名越さんの横にぴったり寄り添っていらっしゃったのが高橋さんで、いつも師匠を立てて、ご自身は控えめになさっていました。名越さんは、定年後は大阪・四天王寺のそばに鬘司庵という仕事場をお持ちになり、私はこちらにもお邪魔しましたし、人形の鬘を一度修理していただいたことがありました。一方、劇場のことは高橋さんが担われることになり、私も今度は高橋さんを訪ねて行ったこともありました。
その高橋さんは、長らく文楽の床山を支えてこられたのですが、何と、もう定年をお迎えなのか、「卒業します」というお知らせをいただきました。どうやらこの3月までで第一線をお引きになるようです。ですから、この初春公演が高橋さんの最後の番付ということになるのだと思います。
私にとっての「ザ・文楽」とも言うべき方が、またお一人去って行かれます。やはり寂しくなります。
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病気の報告
あたりまえの話ですが、私自身の年齢が高くなるとかつての友人も同じように高齢化します。学生時代の同級生は今も学生あるはずはなく、孫を持つ人も少なくありません。ただ、どういうものか、そういう人たちからお孫さんの写真入りの年賀状などは届きません。子どもの写真を入れるのはやはり祖父母世代ではなく親世代のすることなのでしょうね。それだけに、誰にお孫さんがいるのかなどということはさっぱりわからず、なんとなくみんな私と同じような生活をしているのかなと思ってしまいます。
30歳前後の時は「結婚しました」「子どもができました」などとカラーの写真の入った年賀状を多くいただきましたし、少し前には、年賀状ではなく「喪中はがき」がずいぶん届いたことがありました。
私の場合、かつての教え子さんからいただくことがありますので、そういう人からは相変わらず「出産しました」という連絡があって、やはり嬉しい気持ちになります。一方かなり前の教え子さんはもう50歳前後になっていて、時の移り変わりにびっくりすることもあります。
今年いただいた年賀状は、昨日書きましたように、近況や今思うことをいろいろ書いてくださった方がいらっしゃいます。やはり年齢が言わせるのか、
含蓄のあること
を書いてくださるとしばし年賀状に見入ってしまいます。
今年一番驚いたのは、複数の同級生からの似た内容のものでした。ひととおりの賀詞のあとに、からだの不調がいろいろ書かれていたのです。ある人は耳がかなり遠くなって補聴器をつけているということでした。それ以外にもあちこちに不調があって困っているというようなことでした。また別の人は血圧が高くて突然鼻血を出すというようなショッキングな体験を書いていました。からだまっすぐに立たないという人もいました。
彼らは学生時代には
病気知らず
の元気者だっただけに、よけいに驚きました。
からだの不調ではないと思うのですが、高齢者用マンションに入ったという人もいました。この人は長らく一人暮らしをしていましたので、残る人生を考えるとお互いが無関心な普通のアパートでは不安だったのかもしれません。よき選択だったのではないか、と思いました。
みんなが少しずつ年を取っていきます。どこかに不調を抱えながらもう少し頑張って生きていきましょう、そんなメッセージとしての年賀状だった、と思います。
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- [2023/01/09 00:00]
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カラフルな年賀状
私は年賀状をほとんど手書きしてきました。印刷屋さんに頼んだことはおそらく一度もないはずです。わずかにパソコンに画像を入れて印刷したことはあります(昔は「ワープロ」で書いたこともあったかもしれません)が、それ以外はいつもほんとうに地味なものをお送りしてきました。投函するときは何とも思わないのですが、いざ正月に年賀状をいただくと、自分の送ったものがいかに味も素っ気もないものであるかに気付き、赤面してしまうくらいです。
今年いただいた年賀状を拝見すると、ほんとうにカラフルで、すばらしいものばかりでした。
私の所属している短歌会の先生は絵もお描きになるのですが、ことしは
シクラメン
を描いたものを印刷なさっていました。絵心のない私としましては、ほんとうにうらやましい限りです。
文楽の某技芸員さんは絵もプロ級でいつも何らかの絵をお描きになって印刷されます。また、奥様がイラストレーターという技芸員さんは奥様のイラストを印刷して送ってくださいます。
ご自身で描かれたものではなくても、お好きな絵の絵ハガキに年賀用の切手を貼ってくださった方もいらっしゃいました。絵は鏑木清方でした。
今年はうさぎ年ですので、どなたか
鳥獣人物戯画
の「うさぎ」を印刷される方はいらっしゃるかな、と思っていたのですが、それはありませんでした。私の恩師のお一人は篆刻を趣味となさる方で、奥様と同じうさぎ年でいらっしゃいました。それで「鳥獣人物戯画」の二羽のうさぎが並んでいる絵をご自身と奥様に見立ててスタンプの形に彫られ、何かのときにそれを捺してくださいました。ただ、今年ご生誕96年なのですが、残念ながらすでに鬼籍に入っていらっしゃいます。
ほかにも、ご自身のご著書にお使いになったという伊藤若冲の絵を印刷されたもの、版画をお作りになってそれをスタンプされたもの、既成のものであってもとてもかわいいうさぎの絵を印刷されたものなど、さまざまでした。少なくとも私のような一色だけというほんとうに地味な年賀状は一枚として見当たりませんでした。
こういうきれいなものをいただきますと、もう年賀状はやめようかと思っていますのに何だか後ろ髪が引かれます。
また、私も、来年も書くとしたら、少しは工夫しなければならないのかな、と思ったりしています。
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- [2023/01/08 00:00]
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今年いただいた年賀状から
年賀状の内容には、「謹賀新年」「旧年中はお世話になり、ありがとうございました。本年もよろしくお願いいたします」と印刷して終わり、というのもよくあります。何と言っても人気商売の人などで大量に書かねばならない場合はいちいち手書きしている余裕はないでしょう。
しかし、厚かましくはありますが、何かひとこと書いてくださるとうれしい気持ちになります。
自分がそう思っているものですから、私は必ずそれぞれの人を思い浮かべて思うことを数行書くことにしています。字は乱雑ですが、心だけはこもっているとご理解ください(笑)。
年賀状の数はずいぶん減りましたが、それでもまだまだ頂戴しています。中には印象に残ることを書いてくださる方もいらっしゃいます。以下、くださった方のお名前は書けませんが、私が印象に残ったフレーズをいくつか。
文楽のあるベテラン技芸員さんからいただいた年賀状には「師匠方の手本にこだわらず、
自分らしく
やりたい」とありました。伝統芸能に限らず、どんな仕事でもまず先人の真似をしなければなりません。医者だって、長い医学の歴史の到達点にいるわけで、先人の業績や手法を無視するわけにはいかないでしょう。先人からの試行錯誤の繰り返しが最新の学問を生んでいくのだろうと思います。私の場合も、恩師の論文を読んで、その方法を真似るところから始めました。さらにそれ以前の学問の歴史――それは江戸時代でもありそれ以前でもあります――を知ることも大切で、私にも経験がありますが、古典文学を注釈するときには、過去の研究を無視することなど考えられません。
しかし、学習(まねび、ならう=真似をして慣れること)を徹底した時、おのずから独自の道が開けてくるように思います。不易は流行を生み、流行はおのずから不易となる、というとかえってわかりにくいでしょうか。この人形遣いさんはもうベテランですし、評価もされていますが、それでもこれまでは師匠の手本どおりと考えてこられたのです。やっと今になって自分の独自のものが出せると自信を持たれたのでしょうか。謙虚さと自尊心が垣間見えてすてきだと思いました。
お若いわけではないある方は、年齢を重ねてから学問の世界に目覚められ、本当に真剣に勉強なさっています。この方が「学べば学ぶほど
わからないことが多く
なりました」とおっしゃっていました。このお気持ちはとてもよくわかります。勉強すればするほどどんどんわからないことが出てくるというのは、私もしょっちゅう経験することです。勉強というのは、わからないことが何なのかを知るためにするものなのだろうか、とすら思います。でも、そうやってさらに深く勉強することで、あるときパッと視界が開けることがあります。穴の中に入っているはずなのに、気がついたら空を仰いでいることがあるのです。文楽の人でも、あるときパッと大きくなるということがあります。これは当代豊竹呂太夫さんもおっしゃっていました(呂太夫さんの本にも書いています)。
ある歌人の方は「子供や孫の命と未来を奪うことにつながる戦争は、一日も早い終息を願わずにはおれません」とおっしゃっていました。この方も年賀状に「戦争」などという言葉はお遣いになりたくなかったと思うのです。それでも書かざるを得ない世の中を憂うるばかりです。
年賀状という、形式的なお葉書の中からも私はいろいろ教わることがあります。
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- [2023/01/07 00:00]
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去年の流行語
年末には「一年を振り返る」ことが当然のように行われます。それはひとつの区切りとしては悪いことではないでしょう。単なる懐古趣味ではなく、反省の意味がこもりますから。
個人で振り返ればいいとは思うのですが、社会全体でもこんなことをしてしまったが、あれは正しかったのか、と振り返っておく必要もあるでしょう。
去年、一番してはならなかったことは、国会議員の射殺事件を現職の首相が感情的に誇張して、しかも一部の人間の圧力に負けて国葬にしてしまったことだと思います。これが失態であったことは、当時の世論調査で8割近くの人が反対していたこと、それをきっかけにして内閣の支持率が見る見るうちに下がっていき、その後の失政も加わっていつ倒れるかわからないところまで落ちて行ったことに明らかでしょう。「国民の声を聴かない首相」ということを露骨に示したことになったと思います。こういうことを言うと真っ向から反論してくる人がいると思いますが、それはそれで当然。賛成派の人はきわめて少数とはいえ、いなかったわけではないのですから。
その後も、亡くなった議員が関わっていたことが明らかな、宗教団体を称するグループの問題が大きく取り上げられ、この問題でも多くの議員がその団体と関わっていたことや、与党にまったく別の宗教団体を母体とする政党が加わっていることもあって及び腰の対応が続きました。円高、防衛費問題などもあって、もうこの内閣は
退陣まで秒読み
になった感もあります。
一年を振り返る行事としてここ数十年は「今年の漢字」「流行語大賞」というのが新聞を賑わわせるのが普通になりました。私もここ数年「私の今年の漢字」というのを年末に決めてきましたが、社会全体のものとなるとどうも焦点がぼけるような感じがします。去年の年末に発表されたものは「戦」でしたが、なんとも残念な字です。「たたかう」という言葉は「たたく(叩く)」に由来するもので、「うちのめす」という印象の言葉です。もちろん、ウクライナのことが大きかったのでしょうが。
一方「流行語大賞」ですが、これはもう以前からまったく理解できないものになっています。社会全体がこの言葉をよく使った、というのが「流行語」のはずですが、どうもそういう基準ではないようで、「一部の人が話題にした言葉」のようになっているように思えます。
手っ取り早くWikipediaで過去の「受賞語」を調べてみると、この5年では「そだねー」(2018)「ONE TEAM」(2019)「三密」(2020)「リアル二刀流」(2021)、そして去年が
「村神様」
だったそうで、多くは「流行語」ではないと思います。流行語というのは、もっといろんな場面で応用の利くもので、その意味では「そだねー」というのは(私は使ったことはありませんが)いろんな場で使えそうな柔軟性、普遍性がありそうで、「流行」だったのかもしれません(知らんけど)。そうそう、この「知らんけど」という言葉も関西ではよく使われたようですが、あまり普遍的ではなかったでしょうか。
また野球関連の語が多いとも言われていて、「村神様」というのは一部のファンの人にとっては「昨日も今日も使うことば」だったかもしれませんが、日常の様々な状況に応用の利く言葉ではなかったのではないでしょうか。野球に限らず、スポーツ発祥の言葉も多く取られているようで、これもやや偏っているような気がします。
そもそも、12月の初旬に発表されるとなると、それが「今年の」と言えるのだろうかという疑問もあります。本来は翌年になってから「去年の流行語大賞」を選ぶべきですが、それでは一年の総決算を1月や2月にするということで、時期遅れのために盛り上がりに欠けるのでしょう。そもそも言葉を取り上げるのではなく、その言葉を発した人、つまり「流行を巻き起こした人」を表彰するというのも奇妙です。流行というのは不特定多数の人が使うからこそ流行なのですから。表彰式のイベントをおこなうためのものになっていないか、と首をかしげたくなることもあります。
では、去年一番流行した言葉は何だったのか、と言われると私はまったくわかりません。
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三原舞依さんのエレガンス
去年の女子フィギュアスケートグランプリシリーズで連勝し、ファイナルでも優勝したのは三原舞依さんでした。三原さんは兵庫県の出身で、ほんのわずかですが縁のある人なので以前からずっと応援していました。
この人は10代半ばのころから注目されていて、高校生の時には四大陸選手権で優勝も果たしています。ところが彼女は関節の難病にとりつかれ、スケーターとしてはまことに苦しい日々を送りました。幼いころからの仲間である坂本花織さんも、どういうわけなのか、三原さんの病気の時期はあまり調子が良くなかったようでした。ところが、三原さんが復帰するとそれに刺激されるかのように力を伸ばしました。そして坂本さんはオリンピックに出場して銅メダル、そのあとの世界選手権では、ロシア選手がいない大会とは言いながら優勝までしました。オリンピックには出られなかった三原さんも、その直前の四大陸選手権で二度目の優勝をしていて復活しました。自信を持ったであろう三原さんは、ひとつ年下の坂本さんの世界での活躍を心から喜んでいたと思います。
私は、直接は知らないのですが、三原さんはとても性格のよい、かわいらしい人のようで、その
純粋さ
がスケートにも表れているように思います。
スケートの技術についてはよくわからないのですが、例えばロシアの少女たちのように超人的なジャンプその他のテクニックを誇示するタイプではないと思うのです。ロシアの選手は4回転ジャンプまでやってのけるようですが、三原さんはトリプルアクセルも飛びません。しかしそれ以外の3回転はきわめて安定して着氷します。そしてなんといっても、
エレガント
でブツブツと途切れることのない、流れるスケートを見せてくれるように思うのです。それに加えて、彼女の内面があふれ出るような印象も持ちます。テクニックは安定していますので観る者は安心して彼女の世界に引き込まれていきます。
苦労を重ねて哀しみをも乗り越えてグランプリファイナルで優勝した三原さんは、まるでシンデレラのようです。
男子は4回転アクセルを飛ぶ選手も出てきましたし、女子でもロシアがまともな国なら4回転が披露されるはずの時代です。
しかし三原さんのような心の豊かな演技には、ジャンプを上回るような魅力があると私には思えます。
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新年の歌
『万葉集』は4516の歌が集められています。その歌の数は『古今和歌集』の4倍、『新古今和歌集』の2倍で、大変な数と言えるでしょう。しかも多くの長歌がありますので、さらに分厚く感じられます。
その『万葉集』の巻末歌は大伴家持の歌で
あらたしき
年のはじめの
初春の
今日降る雪の
いやしけよごと
というものです。「新年の今日降る雪が積もり重なるようにいっそう続いておくれ、すばらしいできごとが」ということです。「あらたし」は「新(あたら)しい」の古い形。現代語では「あらたまる」の形でしか残っていません。「あたらし」は、古くは別の言葉で「惜しい」「もったいない」の意味でしたが、平安時代あたりから「あらたし」が「あたらし」の形を奪うようになり(つまり今と同じようになり)ます。「いやしけ」というのは「弥(いや)」「頻(し)け」で、「いよいよ」「続き重なれ」の意味です。「よごと」は「吉事」の字が当てられますので意味は簡単ですね。
以前、私は年賀状にこの歌をよく書いていました。とてもすがすがしくて、また明るくおめでたい歌だからです。
しかし何度も書いていましたので、最近はもう使わなくなっています。今年の年賀状には和歌は書かなかったのですが、新年の歌はやはりいいものなので、ここで近代歌人の新年の歌を紹介しておきます。
春ここに生まるる
朝の日を受けて
山河草木
みな光あり
―佐佐木信綱『山と水と』
なんとも清新な一首です。「自然すべてが朝日を受けてすべて光がある。こうして春が生まれるのだ」というのです。もちろん山河草木には光はなく、日の光の反射に過ぎませんが、新年にみなぎる自然の力が感じられます。ちっとも難しい表現のない、新年のあいさつにふさわしい歌だと思います。
新しき年立つ今日を
広き見む
遠き望まむ
家出でつわれ
―窪田空穂『鏡葉』
「新年が始まる今日だから、広いところを見よう、遠くを望もうと家を出たのだ、私は」ということです。心を新たに持って、広々とはるか遠くまで見て望もうとして家を出ます。あたかも開拓使が荒野に出発するかのようなおおらかでたくましさもある歌だと感じます。「出ぬ」ではなく「出つ」と、「つ」を用いたところも強さがあって、強い意志や決意を感じさせます。
われつひに
六十九歳の翁にて
機嫌よき日は
納豆など食(は)む
―斎藤茂吉『つきかげ』
斎藤茂吉(1882年生まれ)は1950年に数え年六十九歳(満年齢なら六十七歳から六十八歳になる年)を迎えました。正月にひとつ年を取るという時代ですね。現代と比べると年齢の感覚は違うでしょうが、当時なら「翁」というにふさわしいのでしょう。六十九ということは「来年は古稀」という意識もあったでしょうね。老いて機嫌のよい日が少なくなりがちなのに、正月の少し心の明るくなる日には納豆などを食べているのです。茂吉はこの三年後の二月に満七十歳で亡くなります。人生の終わり近くの正月の歌で、何となく私も理解できるようになってきました。
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- [2023/01/04 00:00]
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2023年文楽初春公演初日
今年もいよいよ文楽の幕が上がります。
どんな人がどのように飛躍されるのかも楽しみです。私はもうよくわからなくなっていますが、いつも応援だけはしています。
演目は次のとおりです。
第1部 午前11時開演
良弁僧正千二百五十年御遠忌
良弁杉由来(志賀の里、桜の宮物狂い、東大寺、二月堂)
第2部 午後2時開演
義経千本桜(椎の木、小金吾討死、すしや)
第3部 午後5時30分開演
傾城恋飛脚(新口村)
壇浦兜軍記(阿古屋琴責)
どれも名作です。華やかな演目があるのもけっこうだと思います。
- [2023/01/03 00:00]
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今年やり遂げねばならないこと
新年を迎えると「今年はこれをやるぞ」と決意するのですが、去年思ったことはあまりできませんでした。
意欲がわかないというか、ものごとを前向きに考える力が減退しているような気がしています。
今年も今の時点ではめらめらと燃えるものがあるのですが、果たして強い気持ちを維持できるかどうか不安があります。しかし黙っていると時間が過ぎていくだけですので、かなり面倒なことではあるのですが、戦わねばなりません。「たたかう」というのは「たたく」という言葉から来ています。自分から行動を起こさないと、前に進まないのです。他人は何もしてくれるわけではありません。
わかりにくいことを書きましたが、自分の心を奮い立たせるためにメモしておきました。
今年は創作浄瑠璃を必ず2つは書かねばならず、できればそれ以上書きたいと思っています。どこかで集中して仕上げるつもりです。短歌の関係で少しこれまでとは違った仕事をしなければならないかもしれません。いつまでものんびりはさせてもらえない年齢になったのだと思います。
奥歯にものの挟まったような書き方をしましたが、心の中では強い決意を燃やしています。
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- [2023/01/02 00:00]
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