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吉井勇の芝居歌 

このところ、短歌ネタが多くなっています。興味をお持ちでない方はどうぞスルーしてください(笑)。
吉井勇(1886~1960)と言われると、私が最初に思い出すのは、京都白川のほとりにある歌碑です。
  かにかくに祇園は恋し
   寝るときも枕の下を水の流るる
          (『酒ほがひ』)
この歌は吉井勇の若いころの作品です。初二句で、ともかく祇園は恋しいのだ、と、なんの理屈もなくこの一帯の無条件のすばらしさを言って、三句以降に川辺の宿で寝る時まで枕の下を川水が流れているくらいなのだ、と極めて具体的なことを詠んでいます。大津市山中町あたりを源泉として琵琶湖疎水を経てやがて賀茂川にそそぐ白川。私は白川沿いを歩くのが大好きで、京都市美術館に行ったときなど、帰り道は白川に沿うように歩いて四条まで戻ることがあります。そして新橋から石畳の白川筋を少し歩くと歌碑があります。あの街並みにとてもよく似合う歌であり、ここにきて碑を見るといつもホッとします。
もうひとつすぐに思い出すのは中山晋平の作曲で有名な

    ゴンドラの歌

です。もともと松井須磨子らの芸術座公演『その前夜』の中で歌われたものですが、黒澤明監督『生きる』で歌われたことでも有名です。「命短し恋せよ乙女」ですね。
吉井勇は脚本を書きましたし、もちろん芝居を観るのも好きでした。『新演藝』(玄文社。1916年創刊)という雑誌があったのですが、この雑誌の中で吉井勇は観劇したときの思いを歌にして連載しています。そしてそれを集めて大正七年(1918)にやはりその玄文社から

    『芝居歌集 鸚鵡石』

を刊行しました。ほとんどが歌舞伎を観ての歌です。『鸚鵡石』というのは、本来は声をよく反響する山の岩のことですが、芝居のせりふの抜き書きした冊子のことも言いました。(オウムのように)役者の声色をするための名ぜりふを集めもので、歌舞伎の公演ごとに売られたのです。
吉井勇の歌を少しだけ紹介してみます。

   浄瑠璃
 浄瑠璃の三味線鳴りて
  そぞろなる夜の心に君もなるとき
   伊勢音頭
 油屋のお紺はかなし
  たまきはる命も恋に棄てにけらずや
   朝顔日記
 朝顔の露の干ぬ間の唄かなし
  その声あまり君に似たれば
   重の井
 重の井の子わかれを見て
  出戻りの従妹は泣きぬ身にや染みけむ
   紙治
 うつし世のうつし身なれば歎かれぬ
  治兵衛はいかに悲しかりけむ
 鴈治郎の紙治の幕の閉づるまで
  うつつなかりに君にやはあらぬ
 恋に生き恋に死ぬゆゑとこしへに
  小春治兵衛はうつくしきひと

まだまだたくさんあるのですが、これくらいにしておきます。
芝居を観てそれを歌にするというのは実は私も時々していました。なかなか楽しいものでした。吉井勇と並べるのはおこがましいですが(笑)、『壺阪観音霊験記』を詠んだものにこんなのがありました。

   お里に連れられて
  春霞引かれて参る
   壺阪の三つ違ひのその観音に
   お里の覚悟
  沢市の骸を指して
   観音の示現のごとく
    跳ぶ者のあり
  春の闇深き谷間に身を棄てて
   何死ぬるべき我に答へよ
  死ぬるにはあらで
   夫(つま)をば救ふべし
    ともにあれかし南無観世音

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『源氏物語』の講座ふたたび 

ウイルス感染が怖いから、といういかにももっともらしい(それでいてちっとも「もっとも」ではない)こじつけの理由で、多くの人が楽しみにしてこられた『源氏物語』の講座が閉じられてしまいました。早い話がお金にならないからやりません、ということで、朝三暮四の考え方だな、と私には思えます。その証拠に、今春からこのたびの厄介なウイルスが「5類」になると決まっても、再開しようなどという話を聞いたことがありません。一発逆転で「いや、やりますよ」と言ってくれればいいのですが、まったく期待はしていません。どこか、公民館(市民センター)のようなところで部屋を借りてでも引き続き実施したかったのですが、さすがにそういう事務的なことを采配するのは今の私には難しくて、ほぞをかんだまま今日に至っています。
『源氏物語』はほんとうに素晴らしい作品ですから、多くの人に伝えたいという思いがあります。従来なら、○○カルチャーセンターというところにはたいてい『源氏物語』を読む講座があり、私の先輩たちはあの人もこの人も講座を担当していました。不肖、私もいつかやってみたいと思っていたくらいです。ところが最近はそういう講座が減ってきたようで、私のような

    三流研究家

にはお話は回ってこないままに終わりそうです。
かつての受講者の方からは「講座がなくなって残念です」と書かれた年賀状をいただいたりするのですが、ほんとうに悔しい限りです。
そんなことを嘆いていたら、先月の半ばに私の短歌グループの代表の先生から、おおげさなものではなく、サロンのような感じで『源氏物語』の話をしてもらえないだろうか、それも一回で終わるのではなく、できるだけ長く続けてほしい、というお話をいただきました。

    渡りに船

とはこのことで、すぐに「お願いします」とお返事しました。
私が短歌誌に連載している『源氏物語』のお話を読んでくださる方がいらっしゃって、その中の何人かの方が、直接話を聴いてみたいというご希望を出してくださったのだそうです。
四月から始めたいというご意向のようで、私の空いている時間をお知らせしたうえで調整していただいています。
棄てる学校あれば拾う神あり。ありがたいことだと思います。

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薬師寺東塔 

阪神間に住んでいると、京都には阪急電車かJRに乗ればいとも簡単に行けます。ところが、奈良となると阪急(阪神、JR神戸線など)からJR環状線(または地下鉄)を経て近鉄に乗るという面倒なことになります。交通費も2倍くらいかかるかもしれません。直線距離なら奈良も京都も変わらないのに、感覚的には圧倒的に奈良の方が遠いのです。
京都ならふらっと行けるのですが、奈良だと小旅行の気分です。いきおい行く機会も多くなく、古跡についてもあまりよく知りません。
案内してくれと言われたら、京都なら少しくらいはできますが、奈良となるとまるで自信がないのです。学生のころはしばしば訪れましたが、最近はかなりご無沙汰しています。それでも

    奈良国立博物館

にはたまに行くことがありますから、近鉄奈良駅近辺、たとえば東大寺や興福寺などであればまあ何とかわかります。しかし、少しでも離れるとさっぱりで、唐招提寺も薬師寺ももう20年以上観ていません。
ドイツでは建築を音楽に喩える考え方があり、ドイツ観念論の哲学者シェリングは「具象的な音楽(konkrete Musik)」「固まった音楽(erstarrte Musik)」という言葉を用いました。この「固まった音楽」というのがいつしか「凍れる音楽」と言われるようになったようで、薬師寺の東塔を見たフェノロサがこの言葉を使って讃嘆したという伝えがあります。スペイン系アメリカ人のフェノロサなら「frozen music」でしょう。ガイドブックなどには「フェノロサの言葉」として載っているのではないでしょうか。実際にフェノロサはそう言ったのかもしれませんが、言葉そのものはそのときに彼が思いついたものではなく、(ハーバード大学で哲学や政治経済を専攻した彼なら知っていたはずの)ドイツの美学から学んだものでしょう。
薬師寺東塔は裳腰(飾り屋根)が各層についていますので一見すると「六重塔」なのですが、実際は

    三重塔

です。解体修理がおこなわれて、二年前に竣工しました。16世紀に焼失した西塔(1981年に再建)とは違って、1300年前の創建当初から残っている国宝です。歌人の前川佐美雄は、満18歳の夏にこの東塔の屋根に登攀したことがありました。もちろん塔の内部からのぼっていくのですが、先端の相輪を含めると高さは34.1mもあるそうですから、ビルの10階くらいでしょうか。
その時の短歌に

  あららぎの九輪にすがり
   大空に鳴ける雲雀をほのに聞きつも
           (『春の日』)

があります。「あららぎ」は塔のこと。東塔の九輪(相輪の大半を占める九つの輪の部分)にすがって雲雀の声をわずかに聴いた、というのです。のちに佐美雄は『大和まほろばの記』(角川選書)の中で、実際は何も聞こえなかったことを告白しており、ここに詠まれていることはいわば「うそ」なのです。しかし、危なっかしく塔の屋根の上で九輪に命を預けてかすかな鳥の声を聴いたなんて、よくもこんな見事なうそがつけたものだと拍手を送りたくなります。

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いくさのあとの歌 

人間は愚かなので、いつも争いを起こしています。そういうことをしたら争いになるに決まっている、とわかっていても、自分だけは正しいと思いたくなる浅はかさのために、性懲りもなくいくさをします。
結局は、国破れて山河在り。あとに残るのは「やらなきゃよかった」という後悔だけ。弱いものは命を失い、権力を持つ戦争の張本人は情けないことに相も変わらず「戦うほかはなかったのだ」「私は何も間違っていない」という強弁を押し通そうとします。
国民も煽られ、煽られ、つい「その気」になってしまうのでしょう。長い目でものを見るのはほんとうに難しいものです。
歌人の前川佐美雄は一時期プロレタリア短歌にかかわりを持ったことがあり、そんなことも原因だったのか、彼が発行していた

    『日本歌人』

は発禁になったことがある、というのは以前ここにも書きました。その前川佐美雄は戦後になって戦争をどのように振り返ったのでしょうか。

 必ずに敗るいくさを敢へてせし
  無知を超えたる悪のきはまり
 必ずに勝つと言はれて命捨つ
  そのことのつひに空しきろかも
 幾万の命をあだに死なしめて
  罪業如何につぐのふとすや
 国民にわびの一つも申さずて
  常のごとくにふるまふもあり
 戦争は勝敗(かちまけ)によらず
  儲かるといふのろふべき現実を見よ
          (『紅梅』)

「絶対に負けるような戦争をあえてするなんて無知どころか悪だ」「必ず勝つと言われて命を棄てた人たち、そのなんとむなしいことか」「何万という命を無駄に死なせてその罪業をどうやって償うつもりなのか」「国民にわびの一つも言わずに普段と同じようにふるまう者もいる」「戦争は勝敗にかかわらずもうかるのだなどという呪わしい現実を見ろ」・・。
すべて戦後間もないころの歌です。これは太平洋戦争の悲惨な結末のあとの歴史的な素材のようですが、実は

    普遍的なこと

を言っていると見るべきです。戦争というのはいつもこのようなものなのです。いや、戦争だけではないでしょう。今の世の中でも、力を振り回すことを喜ぶこざかしく理不尽な権力者の横暴やいじめのような諍いまで、詰まるところは同じだろうと思います。
前川佐美雄も、戦前、戦中はこういうことは言えなかったでしょう。戦後にならないと言えないことなのです。自由に物を言わせないのが戦争というもののひとつの側面ですから。そのことも含めて、こういう歌は記憶されるべきなのだろうと思います。

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戦争をたのしむ 

物騒なタイトルを付けましたが、もちろんほんとうに「たのしむ」ことがこの文章の趣旨ではありません。
前川佐美雄は、歌集『植物祭』(1930年)の中で「戦争と夢」として5首の歌を挙げています。1930年というと、満州事変の前年ですから、しだいに日本軍が増長する時期でしょうか。そんなときにちょっとびっくりするような歌を含むこの歌集が刊行されたのです。その5首とはこんなものです。

 戦争のたのしみはわれらの知らぬこと
  春のまひるを眠りつづける
 きたならしい人間のすることに飽きはてて
  春の植物を引き裂いてやる
 人間のたのしみの分らぬ貴様らは
  野の炎天にさらされてをれ
 戦争のまねをしてゐるきのどくな
  兵隊のむれを草から見てゐる
 足もとの菫を摘まうとかがむとき
  春の日にわれは頸をねじらる

あの時代にこういう歌を詠んで大丈夫だったのかな、とつい案じてしまいます。戦争を推進する心を「たのしみ」という語で表現しているのが皮肉ですらあります。戦争をする者(しかも自分が現地で命を賭けるわけではない者)は戦争を楽しんでいるのでしょうか。おそらく当人に聞けば「はいそうです」などとは言うはずもなく、「国のため」「国民のため」「未来のため」と主張するのだろうと思います。しかし、人間の持つ邪悪な心を考えると、「たのしみ」でないとは言えないようにも思うのです。人を痛めつけておいて「気の毒なことをした」「しかたがなかった」とうそぶくのはこういう人たちのきまり文句です。これをいうときに彼らは痛めつけた相手を思いやるふりをしながら実際は

    自分の英断

を誇って悦に入っているものです。人に迷惑をかけるというタブーを犯してまで自分は大事を成し遂げたのだ、と不思議な恍惚を覚えて自慢します。迷惑をかけた時点でアウトですけど。
「戦争のまねをしてゐる」というのは訓練をしているのでしょうか。それをじっと草の蔭から見つめている作者です。どちらが滑稽なのでしょうか。ひょっとすると

    どちらも滑稽

なのかもしれません。少なくとも「兵隊」がすばらしくて「草から見てゐる」人が愚かだとは言えないと思います。
なお、『植物祭』という歌集は昭和二十二年に増補改訂版が出ているのですが、そこではこの「戦争のたのしみ」の歌は「戦争のまねをしてゐる」とともに、なぜか削除されています。敗戦間もない時期に「戦争」という直接的な言葉を用いて諧謔的な表現をするのがためらわれたのでしょうか。
戦争への怒りを大声で叫び、権力者を怒鳴りつけるのもレジスタンスのひとつの方法でしょう。しかし短歌という文芸は戦争の哀しみを歌ってこそ、という面があると思います。

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反戦歌 

反戦歌というのは戦争がある限り作られ、歌われます。とするなら、反戦歌は作られない方が、歌われない方が幸せなのかもしれません。
アメリカという国は第二次世界大戦後にも、あの泥沼のベトナム戦争を始め、さまざまな戦争に加わってきました。“Imagine”“Happy Christmas”など、ジョン・レノンは人類愛をさまざまに歌いましたが、それはすなわち人類が争いを起こさず平和に暮らすことを願うことであり、しかしそれが叶わないことを哀しむ思いでもあるでしょう。“Imagine”は共産主義的だとも言われたそうですが、どこか無抵抗思想に通じるようにも思います。ジョン・レノンはビートルズの歌について「ぼくらの歌は全部反戦歌だ」(「ザ・ビートルズ・アンソロジー」)と言ったそうで、どんなテーマを歌っても根底には反戦への思いが湛えられているのでしょう。
ボブ・ディランの“Blowin' in the Wind”は“How many times must the cannon balls fly before they’re forever banned”(それが永遠に止められるまでにどれくらいの砲弾が飛ばねばならないのか)と歌いました。
ピート・シーガーが原詞を書き、ジョー・ヒッカーソンが補作した

  “Where have all the flowers gone”

は、反戦歌の代表のような位置にある歌だと思います。私は「花はどこへ行った」という日本語の歌詞で最初に触れましたが、そのときはまだ子どもでしたから「反戦」などという真意を理解していませんでした。私は英語が苦手なのですが、不思議なことに、この歌は英語の歌詞を読んでこそ分かったような気がしました。意味だけではなく、音の響きに感じさせてくれるものがありました(私が聴いたのは、おそらくピーター・ポール&マリーかジョーン・バエズだっただろうと思います)。
野に咲く花は少女が摘み、彼女の夫は戦場に行って亡くなった、そしてその墓は花で覆われた・・。“Where have all the flowers gone? Long times passing.”は、いつしか“Where have all the soldiers gone? Gone to graveyards, everyone.” と歌われ、“When will they ever learn?”と繰り返されます。ほんとうにいつになったら学ぶのか、人間が生きている限り、破滅するまで続けるのでしょうか。
こんなことを書いているときりがないですね。そう、反戦歌はきりがないくらい歌われてきたのです。戦争にキリがないのと同じように。
翻って日本でも、明治以降の誤った軍国主義が次々に戦争を身近なものにしていきました。多くの国民が賛同を声高に叫ぶか口をつぐんでしまうところだったでしょうに、戦争への拒絶を詩歌の形で表現した人はいました。
よく知られるのは、与謝野晶子でしょう。日露戦争に行く弟を想って

    「君死にたまふことなかれ」

を発表しました。

  あゝをとうとよ、君を泣く、
  君死にたまふことなかれ、
  末に生れし君なれば
  親のなさけはまさりしも、
  親は刃をにぎらせて
  人を殺せとをしへしや、
  人を殺して死ねよとて
  二十四までをそだてしや。

反戦詩といっていいかどうかはともかく、わかりやすく、切実な姉の声が伝わる詩で、きっとこれからも読み継がれるでしょう。「親は刃をにぎらせて人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや」は子を持つ親ならきっとわかる感情でしょう。
この詩に対して歌人、詩人の大町桂月は「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざなり(『一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし』という教育勅語や宣戦の詔勅を非難するなど、大胆なやり方だ)」(『太陽』文芸時評。明治37年10月)と非難しました。

  君死にたまふことなかれ
  すめらみことは戦ひに
  おほみづからは出でまさね
  かたみに人の血を流し
  獣の道に死ねよとは
  死ぬるを人のほまれとは
  大みこゝろの深ければ
  もとよりいかで思されむ

天皇自身は戦争に行かず死ぬことが誉だなんて、お思いになるはずがない、と言っており、天皇個人への批判というのではないのです。むしろ天皇だってそう思っていないだろうに、弟は行かねばならない、その哀しみの詩なのでしょう。
晶子は大町の批判に対する反論として「ひらきぶみ」(『明星』明治37年11月)という文章を書いています。そこで彼女は「少女と申す者誰も戦争ぎらひにて候(少女というのは誰もが戦争を嫌います)」「歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候(歌は歌でございます。歌を詠み続けておりますからは、私は何とか後世の人に笑われない、本当の心を歌いたいと思っております)」と述べています。反戦思想の表明ではない、弟を想う歌なのだというのでしょう。歌人の矜持ですね。
その彼女の思いとは少し違うかもしれませんが、この詩の永遠性は反戦の思いとして読者に受けとめられることで半ばは保証されているのではないかと思います。結果として反戦歌。ジョン・レノンが「ぼくらの歌は全部反戦歌だ」といったことに通じるのではないかと思います。

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前川佐美雄の母 

前川佐美雄の母は名を久菊といって、旧姓白井。奈良の坊屋敷にあった呉服商で、大阪心斎橋の呉服の老舗小大丸(明和元年=1764創業)の分家でした。小大丸は、もとは大和屋と言って、代々忠三郎を名乗る人が当主でした。文化九年(1812)淡路出身の白井庄介という人が婿となったときから白井の名を名乗り、現在の社長も白井さんです。小大丸というのは心斎橋大丸と区別するためにお客さんが呼びならわしていた名を、明治32年(1899)に、そのまま屋号にしたもので、今も大阪市中央区心斎橋筋2丁目に小大丸ビルがあります。
久菊という人は、梅花女学校に通い(のちに中退する)、何とあの山川登美子と同級生でした。やがて前川佐兵衛(佐美雄の父)の妻となり、佐美雄らを生んだのです。
前川家の嫡子である佐美雄が芸術に心を奪われていたことは祖父の佐重良(さじゅうろう)にとっては不快なことでしたが、擁護してくれたのがこの母親だったそうです。しかし、面と向かって佐重良に盾をつくことはできませんから、苦労もあったようです。
おためごかしに支援するのではなく、そっと日陰から息子のやりたいことをさせてくれるというまさに

    慈愛

の権化のような人だったのではないでしょうか。子どもというのはそのあたりを見抜きますから、「あなたのためにやってあげている」なんて言わなくても愛情は通じるものです。むしろそういうことを言うとこどもはうるさく感じてしまうのだろうと思います。
佐美雄は当時流行していたという空気銃を持っていました。あるとき、病床の母が眠りについているのを見て、庭に雀の大群がその眠りを妨げるかのように鳴いているのに腹を立てて空気銃を撃ったのだそうです。雀はもちろん逃げていきましたが、そのとき眠っていたはずの母に呼ばれて「雀には親兄弟がいるのだから、私のように

    独りぼっち

にしてはいけない」と諫められました。この人は親兄弟に死なれて、実家の白井家ではただ一人の生き残りとなっていたのです。
  諫められ母にいはれて
   鳥撃ちを思ひとどめき十九なりしか
          (『植物祭』)
佐美雄は母の諫言にしたがって、その空気銃を売ってしまったそうです。
  もう一度生まれかはつてわが母に
   あたま撫でられて大きくなりたし
          (『植物祭』)
大人同士の対等な付き合いを望むことはなく、あくまで幼児と親としての関係を保ちたいというのです。これは男子が父親に持つ感情とはまるで異なった、しかし正鵠を射た心理だと思います。
母が護ってくれた結果、すぐれた歌人となった佐美雄は、親孝行だったと思うのですが、子どもの心としてはそうは思えないものです。
  かかる家に嫁ぎしゆゑに
   不孝者のわが親となれるわが母あはれ
          (『植物祭』)
と詠んだのは、単なる自虐ではないだろうと思います。
今日の記事も小高根二郎『歌の鬼 前川佐美雄』(ちゅうせき叢書)に多くを負っています。

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2023年文楽東京公演千秋楽 

文楽東京公演は今日が千秋楽です。
吉田勘彌さんが復帰されたのが個人的にはもっとも嬉しいことでした。
実はもう楽屋に行くことがなものですから、勘彌さんとも長らくお話をしていません。
これからも立女形を中心に、ベテランとしてますますご活躍くださるように願っています。
国立劇場の公演もわずかになりましたが、本当にこの劇場は建て替えねばならないのか、少し気になっています。
もういまさら何を言っても仕方がありませんが、次に建てるものは50年といわず100年200年と続くようなものにしていただきたいものです。
4月は大阪本公演。『妹背山』ですが、「山」の大判事が呂、定高が錣というベテラン。しかし本来ならこのお二人は10年前にここを語ってもらいたかったものです。また、呂太夫さんは私は定高の人だと思っていましたので、(もちろん、呂太夫さんですからきちんとなさるでしょうが)適役なのかどうか気になります。

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前川佐美雄の父 

歌人の前川佐美雄は厳格な祖父と善良な父のもとで育ったようです。佐美雄の生家は当時の奈良県南葛城郡忍海村というところで、広い田や山を持っていた素封家でした。
尋常小学校を出た後、塾(もちろん受験の塾ではありません)で『論語』などをしっかり読む経験をしたのですが、祖父の佐重良(さじゅうろう)という人が跡取りの佐美雄を下淵林学校という、将来林業を采配させるための学校に行かせたそうです。先見の明があるというか、ずいぶん先のことを考えるおじいさんだったようです。
佐美雄は絵を描くことや歌が好きで、林学校の生活はあまり楽しくなかったように思えるのですが、なにしろこの佐重良という人は誰も口答えできないような峻厳さの持ち主だったらしいのです。
こういうおじいさんの息子さん、つまり前川佐美雄の父親はどんな人だったのでしょうか。佐兵衛という名のこの人は、実はあまり世渡りのうまくない、人を邪険にできず損をするような、先を見通す力には恵まれなかった人だったと思われます。火災で家を失ったうえに大黒柱の佐重良が亡くなり、家は傾き、山を売り、前川家に

    かつての面影

はなくなってしまったようです。
私はここで佐美雄のお父さんを悪く言おうなどとは微塵も思っていません。それどころか、この方にとても大きな共感を抱いてしまうのです。もちろん私と比較することなど失礼で申し訳なく思っていますが、それでもどこか共通点がありそうに思えるのです。
佐美雄もこの父親に対して恨むとか軽蔑するという感情はまったく持たなかったようです。
 門さきを掃ききよめゐる夕暮れは
  落葉のなかに父のこゑする
 この冬は父のかたみとつるばみの
  着物かさねてさびしくしゐつ
いずれも前川佐美雄の歌集『天平雲』に収められた歌です。
秋の夕暮れに門前の落葉を掃き清めていると、その落葉がカサカサと音を立てているところに父の声が聞こえてきた、というのです。また、冬に父の形見のつるばみの着物を重ね着して、寂しくじっとしているのです。「つるばみ」はどんぐりの実やかさを煮詰めた染料です。
落ちぶれはしましたが、前川佐美雄という鬼才の父となったこの人はうらやましい面もあると思います。
私の父はまだそんな年齢でもなかったのに「元気がない」という話を聴いたかと思うとまもなく亡くなり、今年はもう

    三十三回忌

になってしまいました。信じられないくらい時間の立つのが早いです。佐美雄の父親とは違って人生を楽しみ、それなりに成功した人だったと思います。もちろんまだ私も父の声は覚えていますし、さまざまな場面での姿も印象に残っています。
あいにく父と私はからだのサイズが合わず、着ていたものを受け継ぐことはありませんでした。ゴルフの好きだった父のクラブも、およそそういうことに不調法で、しかも左利きの私には使えず、どなたかにもらっていただいたのだったと思います。形見と言えるものはほとんどなく、私も何かちょっとしたところに父の声を聴いてみたいと思います。
今日の記事も小高根二郎『歌の鬼 前川佐美雄』(ちゅうせき叢書)に多くを負っています。

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発禁にされた『日本歌人』 

昭和十六年十二月八日、無謀で身のほど知らずの日本軍はパールハーバーへの攻撃をおこない、太平洋戦争が始まりました。二年前にドイツがポーランドに侵攻して始まっていた世界大戦に、極東の小国が「俺にもできる」と錯覚して突き進んだ愚行だったと思います。
しかし戦争は突如として起こったのではなく、「戦前」という名の準備運動によって「ムード」が醸成されていたのだろうと思います。文学の分野でも時勢に逆らうようなことはできないという「自粛」がありました。谷崎潤一郎は『源氏物語』(昭和14年から16年にかけて刊行)を現代語訳する際に、皇統の乱れを記述することになりそうな部分をカットすることで出版しました。命ぜられたのではなく、自身や出版社の判断だったようです。弾圧を受けるようなめったなことは言うまいという「強迫」の思いが「自粛」させたのでしょう。
以下の記事は小高根二郎『歌の鬼 前川佐美雄』(ちゅうせき叢書)に多くを負います。
歌人の前川佐美雄は一時期ではありましたが、

    プロレタリア短歌

のグループに加わっていたことがありました。こんなことで政府の情報局あたりから目をつけられてしまったのかもしれません。とにかく、左翼的な文筆家は排斥しなければならないというような、権力の愚かしい行為は、早い話が戦時に対する自信のなさの裏返しにほかならないのです。佐美雄の刊行していた『日本歌人』という短歌誌はその84号(昭和十六年八月)に載せられた次の歌が理由になって発売禁止になります。島戸徳雄さんという人の歌で、
  九重のうちにおはせど
   天皇(すめらぎ)の
    御心如何に常ならぬ世に
  交尾待つ間も堪へぬがに
   種馬の足(あ)がき勇みぬ
    松の下かげ
というのが載ったのですが、この二つの歌を「並べて配置した」ことが「不敬」であるというとんでもない屁理屈でした。こんなもの、

    言いがかり

としか言いようがなく、責任を感じたであろう島戸さんは気の毒ですらあります。ところが権力者というのはいつの時代もこういう馬鹿げたことをして平気でいるのです。こんなことを権力が言い出すと、戦争は近いのです。事実、この直後の同年十二月に太平洋戦争が勃発して、日本は転落の道を突き進んでしまいます。
翌年(昭和十七年)一月の短歌雑誌『短歌研究』(昭和7年創刊)には、短歌界の大御所たちが、今読むと身の毛もよだつような歌を発表しています。
  大君の大みことのり天にして
   皇祖(みおや)の御神
    うづなひきこさむ
        (佐佐木信綱)
  乾坤一擲の大事決行すべく軍動く
   此日一天晴れて霜雪の如し
        (尾山篤二郎)
  東京に天の下知らしめす
   天皇の大詔に世界は震ふ
        (土屋文明)
  撃てと宣(の)らす大詔遂に下れり
   撃ちてしやまむ海に陸に空に
        (土岐善麿)
こんな「空虚な勇ましさ」を湛えた歌を斯界の重鎮が詠まされる日が二度と来てはいけないのです。
『日本歌人』は発禁の憂き目を見ましたし、佐美雄は特に抵抗するでもなくその指令に従い、彼自身もまた戦時に迎合するような歌は詠んでいます。ただ、彼は昭和十六年というと満38歳です。まだ将来のある年代であったことは不幸中の幸いであったというべきでしょうか。

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新しいということ(3) 

文楽では新作のありかたが常に話題になってきました。事実、多くの試みがおこなわれて、ある程度の成功を収めたものもありました。しかしほとんどがお蔵入りになっており、さらに新しいものをというエネルギーも製作者や作者にも欠けているように見受けられます。
短歌の世界では、やたら難しい、本人以外には難解な「歌」がもてはやされることがしばしばあります。もちろん、難解いうのは絶対に悪いことではなく、ある程度難解なものを読み解く面白さがあります。問題は独善的でトリッキーに過ぎるものだろうと思います。新しいということを希求するあまりにそうなってしまうのは危険を伴います。
私が参加している短歌社の創設者の師匠、私から見ると、いわば「大師匠」にあたる

    前川佐美雄

という人はどういう性格の人だったのか、私はまったく知らないのです。息子さんの佐重郎氏によると、「奔放自在で、時に神経質、癇癪もち」(『心の花』1196号)という側面があったようです。お書きになったものを拝読するとかなりはっきりと思ったことを言う人で、論争も好きだったのではなかったかと思います。苦虫を噛み潰したような(失礼かな?)写真があるのですが、そのお顔(というよりは「面構え」と言いたくなります)から判断しても、気骨ある永遠の文学青年というイメージがあります。
彼が1940年に書いた文章の中では、「写生の悪足掻から一歩も抜けきれない一般歌壇の歌」「今日の歌壇の歌は和歌の伝統から逸脱したものであり、邪道を行くもの」「一般歌人の作、殊にその現実汚れのした下等なる作品は、単に悪文の断片と思ふだけで断じて歌だとは考へてゐない」(『前川佐美雄全集』「新風について」)などと舌鋒鋭く当時の和歌の状況について述べています。
この文章は佐美雄の主宰していた

    「日本歌人」

という短歌誌に載せたものですから、仲間意識を高めるためにも強めに書いたのかもしれませんが、この人の気持ちはよく出ていると思います。
佐美雄は伝統を重んじて、あまり社会情勢に関わる歌などは好まなかったようです。もっというならいつでも戦争に突入するという時点でも時勢に迎合するような歌はよしとしなかったのだろうと思います。「日本歌人」は太平洋戦争開戦直前の1941年8月に弾圧によって廃刊を余儀なくされるのですが、このあたりに理由があるのかもしれません(この点については別に書きます)。私はまだ佐美雄についてよくわかっていないのですが、こういう話を知ると弾圧した「当局」とやらに対してけっこうムカついて、佐美雄に肩入れしたくなってきます。
さて、伝統と新しさは矛盾するものではなく、新しい古典主義というものを私も看板に出したい気持ちがあります。
私は、短歌に新しさは大事だと思いますが、形はできる限り基本を保つのがいいと思っています。ですから、私が歌を作るときは原則として57577の形式を守ります。五七調か七五調かは一定せず時と場合によるのですが、おそらく私は古風な五七調を多く使っていると思います。根っからの詩人ではなく、また短歌も初歩の段階ですから、わかりやすい言葉を用いて難解には走らないことも意識しています。
佐美雄のような巨星には到底至ることはできませんが、今後も一首詠むごとに脱皮するようにしたいと思っています。

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新しいということ(2) 

伝統的なものはいつも存続の危機に晒されていながら、ほんとうに古典と呼べるものだけは生き残ってきたのです。『源氏物語』や『奥の細道』は古いから無条件に尊重されて生き残ったのではありません。歴史の荒波に揉まれながら、そのつど価値があるものと認められてきたからこそ残っているのです。
能狂言も文楽も歌舞伎も、浮沈を繰り返しながらも意義のある芸能として生き続けてきました。世阿弥、近松、黙阿弥などの鬼才の出現が大きな意味を持つことは言うまでもありません。
和歌は、不定形なものに始まり、長歌、短歌、片歌、旋頭歌など、さまざまな歌の形を持つようになりました。しかしこれも歴史をかいくぐって今に残っているのはほとんど

    短歌だけ

といえそうです(「短歌⇒連歌⇒発句の独立」のように形を変えて、俳諧(俳句)が強い力を持ちましたが)。
短歌は5と7の音を二度繰り返して、最後にもうひとつ7の音を加えたものです。この「二度」を「三度以上」繰り返すのが長歌です。短歌は、現代ではふつう575・77と理解されています(かるたの「百人一首」の取り札が77であることあらわれています)が、本来は57・57・7で、それゆえにこそ『万葉集』では五七調が多いのです。この調子は古いイメージができてしまってやがて七五調が主流になり、平安時代中頃には575・77として「75」で少し切るのが好まれ、それが今に続いています。今様という歌謡は75を四回繰り返すもので、この形は現代の「荒城の月」「蛍の光」などの歌詞にも用いられています。俳句や川柳は575で完結し、交通標語もそれに倣うものが多く、ことわざでも75の形のもの(「朱に交われば赤くなる」「仏の顔も三度まで」など)はよく見かけます。ことわざなら短歌の下の句のように77というのも少なくありません(「色の白いは七難隠す」など)。谷川俊太郎の詩の「やんま」も「やんまにがした ぐんまのとんま さんまをやいて あんまとたべた」ですから77を繰り返したものです。
もっとも、現代短歌は31音を基本としても、

    リズムを崩す

ものが多く、必ずしも七五調とはいえません。それどころか、57577という形もかなり崩れたものが多くなっています。古くから残る短歌という形式をどこまで崩せるのかを競うように見えなくもありません。詩人は言葉の破壊者という側面を持っていて、短歌においてもそれは例外ではないのだろうと思います。特に、明治以降、欧米からの影響を強く受けるようになってさらに近くはもっとグローバルになっていますので、短歌の世界にもその影響は強くもたらされてきたと思われます。

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新しいということ(1) 

文楽に向けられる批判的な言葉、あるいは文楽を嫌悪するときに用いる言葉のうち、代表的なものは「古くさい」ではないでしょうか。「何を言っているのかわからない」「価値観が今と合わない」など。たしかに、言葉は江戸時代のもので、明治の文学さえ読めなくなってきている現代人にとっては難しいでしょう。主君への忠義や親への孝行などあまりに極端で、わが子を殺してまで守るものではないと考えるのも現代の発想としては当然だと思います。
歌舞伎はどんどん新しいものを取り入れて、古典でも斬新な演出をしたり入れごとを加えたりして、それを歌舞伎の持つ様式によって表現しているからおもしろく、文楽はそれがあまりできない(・・・だから文楽に補助金は出さない、などという頓珍漢な理屈もありました)という現実もあります。文楽はせりふ劇ではなく

    語り物

としてしか成立せず、下手に口語にしてしまうと音楽と釣り合わないこともあります。『瓜子姫とあまんじゃく』は口語ですが、やはり子供にもわかるようにという点、内容が童話である点から許容範囲だと思います。『夫婦善哉』も近代劇ではありますが、濃厚に古い大阪の街の雰囲気を残す内容だからこそできた芝居で、それ以後の時代を描くのはなかなか難しくなっています。井上ひさしの『金壺親父恋達引』はやはり江戸時代あたりに仮託して作られていて、地の文やせりふの言葉遣いも江戸時代そのものではありませんが、ある程度は古風でした。歌舞伎は自由が利きますが、文楽は三味線に乗らないとどうにもならないと思います。
テーマは新しくしても、形式は三味線を伴う義太夫節として成り立つもの、という原則は守るほかはないでしょう。『狂言風オペラ フィガロの結婚』のときも、文楽人形だけが登場して、たとえばせりふだけを与えて陰で声優さんにしゃべってもらったのではどうにもならないと思いました。私は呂太夫さんにせりふのみならずできるだけ

    義太夫節を語ってほしい

という思いで、かなり多くの地の文を書きました(多くは脚色の段階でカットされましたが)。人形がじっとしてしゃべっているときはそれでいいのですが、動くときは地の文がないとどうしようもない、というのが私の考えにあるからです。役者さんならブツブツとアドリブ(捨てぜりふ)を言いながら舞台からはけることもできますが、人形の場合はやはり「裏庭指して、忍びゆく」のように語ってもらわないと立ち去れないと思うのです。
もうひとつ、古典というのは現代の価値観に引き付けて鑑賞するものではなく、むしろ我々がその古典の時代の価値観に遡って味わうべきものだと私は考えています。敵討ちそのものは現代では否定されますが、権力によって虐げられた人の苦しみを何とか晴らしたいという気持ちは庶民感情としては理解できることが多いのではないでしょうか。それなら敵討ちがあり得たという江戸時代に自分を持って行って、共感(empathy)を得ることができればきっと面白いと思います。
文楽だけではありません。『源氏物語』の主人公は多くの女性と関わったから悪人である、という理屈はあまりにナンセンスです。当時の貴族は複数の女性と関係を持つのが当然で、藤原道長が「男は、妻はひとりやは持たる」(貴族の男は、妻は一人持つものではない)と言ったような時代だったのです。そのことを前提にして当時の人々の悲しみや苦しみ(それは現代人にも当てはまる不変で普遍の課題です)を読み取ってこそ『源氏物語』はおもしろいのです。我々がその古い時代に帰ることで、古いと思っていたものが目を瞠(みは)るほど新しく見えてくるものです。
初めて文楽を鑑賞する方も、最初は多少ぎこちなく感じても、自分からその中に入っていけばその新しさにきっと気がつくと思います。

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若元春 

一月の大相撲初場所は、私は相変わらずあまり熱心なウォッチャーではありませんでした。大関の貴景勝という人は馬力があっていいのですが、なにしろハチャメチャな攻めをするので連日鼻血を出していたようです。激しい突き合いのなせる業で、前日の傷が癒えないままにまた同じようなことをするのからでしょうが、ひょっとして血圧が高すぎるとか皮膚が弱いとか、肉体的な原因もあるのではないかとあらぬ心配までしてしまいました。
今はよく言えば群雄割拠の時期で、悪く言うと背比べをしているどんぐりたちの相撲のようでもあります。
私は殴り合いのような相撲は好きではなく、下から突き上げて頬を打つのはともかく、腕を振り回してあきらかに顔を狙った「張り手」というのも見ていて不愉快です。豪快でよろしい、という意見もあるでしょうから、あくまでも私の好みの問題ですが。
相撲は激しいより厳しいのがいいと思います。おっつけとか腰を寄せて相手を追い詰めるとか、前みつを取って寄り立てるとか、厳しい相撲だったな、と思えるのが好きです。
毛利元就の三人の子である毛利隆元、吉川元春、小早川隆景(「三矢の訓」で知られる)の名をもらってそれぞれ若隆元、若元春、若隆景と称する

    大波三兄弟

という人たちが話題になっていて、年の下から順に出世しているようです。最年少の若隆景はすでに幕内優勝もしていますが、お兄さんたちは遅れを取っています。しかしここにきて次男の若元春がぐんぐん追い上げてきました。私には、この人の相撲を分析解説する能力はありませんが、土俵態度のよさだけは私にもはっきり見て取れます。勝っても負けても礼の仕方がきれいで、負けたからといって相手をにらんだり礼を適当に済ませたりはしません。もちろん土俵の下に落とされてから「今のは『待った』だ」と叫ぶこともありません。勝ってさがりを呼び出しさんに渡すときにはいつも「お願いします」という気持ちで頭を下げています。ひとことで言うと「潔さを知っている人」で、なかなか好感が持てます。
初場所のある日、私は珍しく5番以上の相撲を観ました。その中に若元春もいたのですが、彼が勝ったあとに懸賞金を受け取ろうとしたときのことです。

    手刀

をきれいに切っていたので、ほれぼれしました。最近はこの手刀をいいかげんにする人も多いですし、懸賞金を両手で取り上げる人もいます。あんたたち、握力あるんでしょう、片手で持ちなさいよ(笑)。もともと手刀は、真ん中、正面側(審判長の座っている方)、裏正面側(行司だまりの方)の順で切るのがしきたりでした。東方の力士なら真ん中、右側、左側の順です。この時若元春は西方でしたので、真ん中、左側、右側の順で手刀を切っていました。何だかとても気持ちがよかったです。最近はこういうやり方はしなくなったようですが、私はできることなら昔風にしてほしいと思っているのです。若元春もいつもそのようにしているとは限らないようなのですが、今後はぜひ常に模範的な手刀を切るようにお願いしたいと思っています。
あえて言うなら、この人は立ち合いのときに右足を引くのですが、これはあまりきれいではありません。立ち合いのタイミングをとるためや鋭い踏み込みのためにしているのかもしれませんが、長い目で見ると私は直して行ってもらいたいと思っています。
それにしても、最近珍しく贔屓にしたくなる力士です。

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短歌の「派」 

派閥のことを書きましたが、短歌の世界でもアララギ派とか浪漫派などというちょっとした主義、派閥のようなものができることがあります。そしてその主義にある程度賛同する人が集まって結社を作ることがあります。
近代の短歌ではこのアララギのような写生を中心とする短歌がとても重要な位置を占めてきました。そしてそれに対峙する人もまたいるわけですが、そうなると世間は(あるいは歌壇は)反対する人にも「○○派」という呼称をつけようとします。歌人の

    前川佐美雄(1903~90)

は「大体僕は自分が歌を作る上に於いて、何々主義とか何々派とか言ふことを大事がらない」(『前川佐美雄全集』「新古典主義の方向」)と言っていて、自身が「現代主義」「芸術派」「超現実主義」「浪漫主義」などと言われてきたことにどうもしっくりこなかったようです。この人が比較的好意を持っていたのは明星派と呼ばれるグループでした。与謝野鉄幹、与謝野晶子らの明星派は、抒情的で「歌う」性格が強く、写生派の「観る」性格より佐美雄の感性にはよく合致したのだと思います。しかし明星派は、佐美雄に言わせれば「陶酔に耽つてモラルの裏打ちが乏しかった」(同)ために衰退したというのです。ただ、明星派が海外のものを取り入れたことは肯定的で、佐美雄はそのうえに人間を深く研究し、モラリストであろうと考えたのだそうです。明星派、特に与謝野晶子などは古典に精通していて、西洋のよさと日本の古典の両方を持っていた歌人だと思うのですが、佐美雄は明星派の人間探求には物足りなさを感じていたのです。
佐美雄は世界に目を向けて、現代精神を学ぶことを大事にして、さらにそこを通り抜けて、日本の古典的なものに強く向き合いようになりました。その結果、「何々主義とか何々派とか言ふことを大事がらない」と言いつつも、『日本歌人』を創刊(1934年)したころになると

    「新古典主義」

という方向に進んできたと言っています。新古典主義とは「あらゆる現代精神を通過した古典主義」(同)のことで、単なる古典偏重ではないのです。さらに彼は「ロマンチシズムとクラシズムとを格闘させる」(同)という言い方もしています。ロマンと古典を戦わせながら歌を詠む、というのですね。
私は偶然この前川佐美雄の流れを汲むグループに入ったのですが、私の歌に対する考え方とかなり合致することに驚きました。もっとも、わたしは「現代精神」についてはあまりよくわかっていませんので、このあたりも今後の勉強のしどころになるかなと思っています。
なお、主義を大事にしないはずの佐美雄が「新古典主義」を標榜したことについては、こういうことも言っています。「新古典主義」というのは「僕らの歌そのものから出てきたものであり、僕らの歌がさういふ方向を示しているから」そう名乗っているのだと。主義があって歌を詠むのではなく、歌がおのずから方向性を決めたところに主義があったのだというのでしょう。

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派閥 

私はカッコよく言うとずっと「一匹狼」でした。「一匹狼」は国語辞典では「組織の力に頼らないで、自分の力だけで行動する人」ということになります。前半は当てはまりますが、私は行動力がないのでダメなのです。むしろ「拗ねたはぐれもの」に近いだろうと思います。
とにかく群れるのが好きではなく、権力者を見ると近づきたくもないのです。仕事場でも仲の良い同僚はほとんどおらず、わずかに短期大学勤務中に2歳年長の女性教員にかわいがってもらったくらいです。この先生は姉御肌と言うか、ずばずばものを言ってくれるので気持ちよくて、

    「何を考えているかわからない」

というところのない、あけすけなところが好きでした。時には天然ボケというのでしょうか、とんでもない的外れなことをいうのも愛嬌で、私は退勤するときなどしょっちゅう彼女の車に同乗させてもらって、「乗せてあげるんだからあなたが運転しなさい」という、よくわからない理屈でドライバーも務めました。桜の季節は寄り道をして花見に行ったり、正月明けには初詣に連れていかれたりもしましたが、独身で美貌だったこの人は、残念ながら40代前半で病気のために亡くなり、あまりのことに心の底から哀しい思いをしました。それ以後はわずかにひとりお会いするといくらかお話をする、という感じの、6つほど年長の男性の先生がいたのですが、なんということでしょうか、この人もまたあの姉御肌の先生と同じ病気で亡くなり、ひょっとしたら私は疫病神なのだろうかと思いつつ、もうそれ以降はまったくと言ってよいほど気の許せる同僚を持たないまま過ごすことになったのです。
四年制になってからは、主流派と言えそうな人たちがいつも仲間内でものごとを決めるような雰囲気が出来上がってしまい、私が何を言ってもぬかに釘で「なるほど、承りました」で終わるようになり、そのうちに耳を悪くして

    反撃する力

もなくしてしまいました。だらしないというか、なさけないというか、生き方が下手というか、こんな人間が世の中をうまくわたっていけるわけがありません。
政治の世界でも人間関係は極めて重要で、「AとBは親しい」「Cは先輩に従順だ」などという話はよく新聞にも出ています。しかし私が仮に政治家になっても、派閥に属して親分の言うことを聞き、そこで親分の覚えめでたからんことを意識しつつ修業して出世していく、というスタイルは絶対にとれないだろうと思います。派閥のリーダーの側近と呼ばれるようになれば選挙に落ちることもなく、当選をしかるべき回数重ねさえすれば、大臣のイスが回ってくる・・・なんて、もう聞いただけでぞっとして、私とは無縁だと思います。そういう意味では「失敗した人生」なのかもしれませんが、そんな成功なんてしたくもない、と強がっているありさまです。

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禍 

「禍福は糾える縄の如し」といいます。司馬遷の『史記』にある「禍によりて福となす、成敗の転、譬へば糾へる纏のごとし」がもとになった言葉のようです。「塞翁が馬」とよく似た言葉です。
「禍」は災いのことで、最近では「コロナ禍」という形でもよく使われています。「渦」とよく間違えられて、「コロナ禍」も「コロナ渦」と書き間違える人がいて、しかしそれがウイルスによる混乱を「渦」に喩えているように見えてまんざら間違ってもいないようにも思えただけに不思議なものです。
日本人の伝統的な美意識ではまっすぐなものをよしとしました。しかも水平か垂直であることが大事で、斜めの直線もよくなかったのです。「なのめ」という言葉があり、これは「斜め」のことです。そして平安時代に「なのめなり」というと「どうでもいい」「いいかげんだ」「ありきたりだ」のような意味で用いられたのです。斜めであることがすなわち「いいかげん」なことだったのですね。
斜めよりもっとひどいのが「曲がっている」ことです。「曲がったことは大嫌いだ」などという使い方をします。そしてこの「曲がる」という言葉を語源とするのが

    「禍(まが)」

なのです。「まちがったこと」「よくないこと」「わざわい」のように不吉な意味を持っています。
広島市の平和記念公園には湯川秀樹の歌碑があります。湯川さんは、原子爆弾の研究に関わった経験を持つことが知られており、原爆が投下されたときには新聞社からコメントを求められて断ったことも記録に残っています。いわば当事者の面があったわけで、それだけに被害を目の当たりにしてこれはもう二度と使ってはならないものだと思われたのかもしれません。
まがつびよふたたびここにくるなかれ
平和をいのる人のみぞここは
というのが湯川さんの歌です。「まがつび」は「禍つ火」で「災いの火」「まちがった爆弾」、もちろん原子爆弾のことです。二度とここに原爆が落ちてはならぬ、ここは平和を祈る人だけが来るところだ、と詠まれたのです。「原爆の研究をしていたくせにいまさら『まがつび』なんてよく言えたものだ」と批判する人もいますが、自分のしてきたことに対する忸怩たる思いを持ったとき、大きな反省をすることは否定されるべきではないと思います。

    間違いを認めない人間

の方が、よほどたちが悪いでしょう。4年前の1月に広島の平和記念公園に行ったとき、私は湯川さんのこの歌碑を見て改めてそんなことを思いました。この時のことはその当時このブログにも書いているのですが、「行った」という程度にしか書いていませんでした。たまたまFacebookに「過去の想い出」として上がってきましたので、少し細かく書いた次第です。また、恥ずかしながら私が詠んだ歌がありますのでここに採録しておきます。

   平和記念公園
 碑の前にたちつくす者
  過ちは繰り返しませぬと
   なべて誓はむ

平和祈念像
 平和を祈る像は女の姿
   男よ 汝が母の姿ぞ

   原爆の子の像
祈る人憩ふ人あまたあり
  皆やすらけきけしき見せつつ

   原爆ドーム
 戦争の墓所であれかし
  青空に黒々として聳ゆるドーム

   峠三吉の詩碑
 三吉が「かえせ」といふは
  次の世に生くる我らを
   さしてならずや


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学生さんとの出会い 

えらそうに「教え子がいます」などと言えるような立派な教師ではありません。それでも、立場上そういう言い方しかできないのでご勘弁いただきたいのです。このブログにも時々コメントをくれる「教え子さん」がいるのですが、彼女との出会いはほんとうにすてきなことでした。私がまだ若かりし頃、兵庫県内のある女子大で非常勤講師として授業を担当したのですが、なにしろ未熟で、中味のないお話をしてしまいました。それでも授業の後などに少し居残って雑談をする人が何人かできて、その中に彼女もいたのです。飛び切りセンスが良くて、いい意味で生意気な感じがありました。生意気さでは私も負けてはいませんので、ちょうど馬が合ったのかもしれません。
彼女が私の若いころの代表的な「教え子さん」なら、最近の人ではこのブログにも書いたことのある三味線のプロを目指す人がいます。
授業にかかわらず話をしてくれただけでなく、卒業研究でも

    地元の民謡

を取り上げたために指導できる先生がおらず、やむを得ず(?)私のところに相談に来たりしていました。
その「教え子2号さん」(笑)が一月の文楽初春公演に行ったという連絡をもらいました。今なおこうして連絡をくれるのはほんとうにありがたく、嬉しいことです。彼女にとって初めての体験だったようで、夜の部の『傾城恋飛脚』「新口村」と『壇浦兜軍記』「阿古屋琴責」を鑑賞したそうです。
「阿古屋」では三味線、琴、胡弓の三曲演奏があり、すばらしい曲が演奏されますので、かなり感激したようでした。
そのうえ、文楽せんべいとか文楽関係の書籍もあれこれ買ったと言って写真で見せてくれました。その中には

    呂太夫さんの本

も含まれていて、私はなんだか申しわけないような気になりました。ここまで興味を持ってくれるのであれば、学生時代に差し上げればよかったと思ったからです。ただ、一人の学生さんだけを特別扱いすることはできませんので、このあたりがむずかしいところです。卒業してから送ってあげればよかったな、と後悔しています。
彼女は、大学図書館に入っていたこの本を学生時代に借りて読んでくれたそうなのですが、「いつでも読めるように」というので買ってくれました。
ありがとうございました、教師冥利です。

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君が代は 

「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の蒸すまで」の歌を詠んだ人は、親しい人の長寿を祝っただけのつもりだったでしょうから、まさか自分の詠んだ歌が将来「国歌」として扱われる(1999年に「国旗及び国歌に関する法律」が制定され、「君が代」が国歌とされました)なんて夢にも思わなかったでしょう。
よく知られた話ですが、イギリスの軍楽隊が薩摩に来ていたときに「何か日本の代表的な歌はないか」と尋ねたそうです。明治になって国際化の時代を迎えて、どうしても国の歌が必要だと考えられたのでしょう。そのとき、薩摩の

    大山弥助

が薩摩琵琶の「蓬莱山」を推奨したと言われます。「蓬莱山」は「めでたやな 君が恵みは ひさかたの 光のどけき 春の日に」で始まり、その途中に「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」が含まれています。
ちなみに、大山弥助はのちに「巌」と名乗った人で、陸軍大臣、内大臣などを歴任しました。西郷隆盛の従弟で、あの有名な西郷の肖像画(上野公園の像も)は顔の上半分が西郷の弟の従道、下半分が大山巌の顔をモデルにしたといわれます。また大山は、津田梅子とともにアメリカに留学した山川咲子(捨松)の夫になった人でもありました。捨松は鹿鳴館の花とも呼ばれた人で、結婚後の「大山捨松」の名前の方が有名かもしれません。津田梅子の女子英学塾(のちの津田塾大学)を強く支援した人です。
それにしても「わが君は」の歌を詠んだ古人は、今の「君が代」の曲を聴いたらひっくり返るかもしれません。国歌というのは海外の例を見ても自国の勇敢さを描くことが多くどうしても軍楽的になります。歌詞を見ても「血」「戦争」「砲火」などという言葉が出てくるのはあたりまえといっても過言ではありません。「長生きしてね」というような国歌は珍しいのではないでしょうか。なんとなく優雅な印象の「God Save the King」(イギリス国歌)でさえ「From every latent foe, from the assassins blow, God save the King」「And like a torrent rush, rebellious Scots to crush, God save the King」という歌詞があって、「闇に潜んだ敵や暗殺者から」「濁流のように反逆したスコットランド人を打ち破るために」「神よ、王を加護し給え」と、何とも物騒な内容を持っています。
そういう、国歌というものが属性のように持っている軍楽的な要素と「わが君は」の歌の「あなた、いつまでもお元気で」という内容の「ずれ」が、今なおくすぶっている「君が代論争」に影響を与えているように思えます。
式典で

    「君が代斉唱」を強要される

地域の公立高校の教師をしていた旧友(女性)は、ずっとそれに逆らってきて、管理職の人からかなり目をつけられていたようです。その結果職場で不当な扱いを受けたというので裁判沙汰になったり、さらに法的に問題のない範囲で嫌がらせを受けたりしたと話してくれたことがありました。しかし彼女も60歳の定年を迎え、好きな海外旅行でもしながら生きていくのかな、と思っていました、ところが、この人は今なお血気盛んで、1月には明治学院大学国際平和研究所主催の「〈市民的不服従〉を通して平和を考える」の第4回「君が代起立斉唱拒否」というセミナーで講師として話もしたそうです。
彼女からその話を聴いて、セミナーの要綱を見たのですが、ひとつ気になったことがあります。彼女を含めて3人の講師すべてが女性だったのです。今ここでは、「君が代」の国歌としての是非は置いておくとしても、自分の理論と信念によって真正面から堂々と戦うたくましさは女性の方が強いのかもしれないと感じたのでした。

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わが君は 

今出版されている個人の歌集は年代順になっているものが多いと思います。それは歌集がその人のたどってきた歌人としての履歴書の役割をも果たしているからではないでしょうか。
一方、古来のアンソロジー、たとえば勅撰和歌集(天皇の命によって作られた歌集)の場合は「春」「夏」「秋」「冬」「賀」「離別」「羇旅」「哀傷」「恋」のように、テーマによって分類することも多いのです。
最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「賀」の冒頭に置かれた「よみびと知らず」の歌は、
  わが君は千代に八千代に
   さざれ石の巌となりて
    苔のむすまで
です。
申すまでもなく「君が代」のもとになった歌です。もともとは『古今和歌集』のように「わが君は」だったのですが、鎌倉時代から「君が代は」という本文が出てきて、後にはそちらが主流になります。「わが君」というと「私の親愛なるあなた」というかなり個人的な歌ですが、「君が代は」というと一般化した印象があり、そのあたりもこちらが好まれた理由なのかもしれません。
この「わが君は」の歌がどういう状況で詠まれたのかはよくわかりませんが、ある人物の

    長寿を祝い願う歌

であることは間違いありません。「千代に八千代に」というのは「千年も万年も」という感じでしょう。ただし「千代」というのは千年という数字を表すのではなく、限りないほど長い時間、ということです。「さざれ石が巌となる」は小さな石が大きな石に成長するということで、これも長い時間を表します。中国の『西陽雑俎』に記される、拳(こぶし)ほどの石が巨岩に成長する伝承によるとも言われます。そしてその巨岩に苔が蒸すまで、と続けられますので、さらに長い時間を表現することになります。ひとことで

    「無量大数」

ほど長生きしてください、というのでしょうが、和歌ですからそんな硬い言葉は用いずに、詩的表現を用いなければなりませんよね。また、和歌は歌うものですから、まず「わが君は」と言って、「千代に八千代に」と長寿を願い、さあそこからどうなるのか、と聴き手が耳を傾けると「さざれ石の」と思いがけない方に発展し「巌となりて」とまた永遠性を歌い、とどめをさすように「苔の蒸すまで」と結んでいることになります。歌う人の立場とともに、歌を聴いている人の立場で味わうとおもしろいものです。
この「君」は天皇を指すという人もいますが、別に天皇でなくてかまわないわけで、「わが君」というのはかなり親しみを込めた言い方ですから、「親愛なるあなた」というくらいに理解できると思います。たとえば賀の祝い(昔は四十歳から長寿を願う祝いをしました)の場で、いつまでもお元気で、と言っていると考えることもできます。
『菅原伝授手習鑑』の「佐多村」では、七十歳の賀の祝いなのに四郎九郎(白太夫)は息子の喧嘩沙汰や自害という悲劇に見舞われました。そんな悲劇はそうそうあるものではなく、平安時代の貴族は贈り物をしたり宴会を催したりして祝いました。

億劫 

数字の単位で実感の湧くのは、私の場合「万」がせいぜいです(笑)。「億」になるともうダメです。しかし日本の国家予算とか借金の話になると「兆」という単位があたりまえになり、そのうちに借金が「京(けい)」の単位に到達するのではないかと不安になります。「京」というと「富岳」の前のスパコンの名前にありました。江戸時代に吉田光由が記した算術書の『塵劫記』が記すところでは、「京」の上は、「垓」「じょ(のぎへんに「予」)」「穣」「溝」「澗」「正」「載」「極」「恒河沙」「阿僧祇」「那由多」「不可思議」「無量大数」・・と続きます。私も「1恒河沙」円くらいのお金が欲しいです(笑)。これらの単位はもともと仏教やヒンドゥー教に由来する言葉で、「恒河沙」はガンジス川の砂を意味します(サンスクリット語の「ガンガー」を漢字に当てはめたのが「恒河」つまりガンジス川で、「沙」は「砂」と同じです)。異説はありますが、無量大数といえば10の68乗だそうで、まさに天文学的な数字です。
話は変わるのですが、「億劫(おくごう、おくこう、おっこう)」というのも、もともと仏教の言葉です。「億」はもちろん数字の単位。「劫」も桁外れに長い時間の単位です。「劫」の意味についてはいろんな説もあるようですが、巨岩を100年に一度(3000年に一度とも)天人が羽衣で撫でて、その岩が擦り切れてなくなるまでの時間とも言われます。「未来永劫」という言葉や落語『寿限無』の「五劫のすりきれ」などにも用いられる字で、どちらも「永久」に近い意味合いです。その「劫」にさらに「億」を掛けたのが「億劫」で、もっと詳しく言うと「百千万億劫」なのです。「劫」だけでも気の遠くなるような時間なのに、それにさらに「億」をつけたのですね。
とてつもなく長い時間であるがゆえに、何をするにも面倒で

    気が進まなくなる

という意味に発展していったのが、我々がよく使う「億劫(おっくう)」です。この「おっくう」を漢字で書けと言われると、「憶劫」「臆劫」と誤記する人が意外に多いのです。「気が進まない」の意味と数の単位とは関係ないだろう、と考えるのも当然とも言えそうですけれども。
もう何年も続くのですが、私は何ごとをするのも億劫になりがちで、ものごとをスピーディにこなすことができなくなっています。
原因はいろいろあると思うのですが、ひとつは生まれつき

    鈍重

であること。これはもうどうしようもないだろうと思います。
もうひとつはやはり障害の影響だろうと思います。ほとんど人と話すことがないため精神的に孤立してしまい、何をするのも臆病(こちらは「臆」の字ですね)になって、前向きになれません。ひとつのメールを送るのに、とてつもなく時間がかかることがあり、他人様に迷惑をおかけすることがしばしばです。
これではいけない、といつも思うのですが、なかなか思いどおりにはできないのです。今日、この記事を書いたことで、何とか一歩でも前に進もうと思っています。私がブログを書き続ける理由は自分を鼓舞するためでもあります。

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スマホの中にある理想像 

「こうすれば願いごとが叶う」という絶対的な方法があれば、誰だって飛びつきたくなります。「こうすれば稼げます」「○○したければこうしなさい(こんなことをするな)」などという(あやしげな)本はそれなりに売れるようです。「あやしげ」などといっては著者の方に失礼に当たりますが、多くの場合、「こうすれば稼げる場合があります」「○○したければこうするといいかもしれません」という内容にとどまる「場合がある」からです。他人の真似をしてまったく同じ結果を期待する方がおかしいです。ところがそんな「理想」を高々と掲げているものはいくらでもあると思います。
今はもう、そんな本を出版するなんてめんどうはことをしなくても、もっとお手軽にYouTubeやTikTokで簡単に表現することもできます。だいたい、本にする場合は黒字になる見込みがないと出版社は企画(著者に経済的な負担はない)で出してくれませんし、自費となれば著者はかなりのお金がかかって、それを回収できるかどうかもわかりません。ベストセラー連発という超有名な人なら多少の駄作でも(笑)出版社は喜んで出してくれるでしょうが、「ちょっとした有名人」程度ではリスクが大きすぎてだめでしょうね。

    オンライン動画

は、またたくまに世界に広がりますし、それがファンを引き付けると投稿者は大きな満足を得られますし、場合によっては収入にもつながります。いわばスマホの中に「理想」があるということです。
日本語でしゃべっても、字幕で英語を出しておけばそれこそ何十億人という人が視聴可能になってきます(あくまで可能なだけ)。世界中はともかく、日本国内であれば数十万人のフォロワーなんてけっこういけるものです。いわゆる「インフルエンサー」となるともっと多くの支持者がいるのでしょう。
どこかの国じゃあるまいし、何を言うのも、発信するのも自由ですから、自由にお使いになればいいのですが、とても気になることがあります。若い「インフルエンサー」たちの言うことはかなり思い付きが多くて、それを箇条書き的・断定的に表現したり、早口で流暢に真顔でまくしたてたりして巧みに信用を得ようとしているかのようなのです。しかるにその内容は、一面的に見ればそういうことも言えるけれど、頭から信じることは危険だ、と思われます。でも、さらに若い視聴者は感心して観たり聴いたりしているのかなと不安になることがあるのです。
いくら世間を知らないといっても、私にもいつの間にか身についた

    年の功

というものがありますので、すぐに見破ることはできますけれども、若い人が妄説を鵜のみにするのは好ましくないように感じています。
よく学生さんが「・・らしいですよ」とびっくりするような奇妙なことを言っていたのを聞いたことがあるのですが、「誰がそんなことを言ったの?」といいたくなるような話もありました。
かつて大宅壮一さんがテレビばかり見ていると思考力や想像力が失われるとして「一億白痴化」(のちに松本清張は「総白痴」とも)と言いましたが、その二の舞にだけはならなければいいのだが、と余計なお節介をしています。

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ブラックカード 

私が初めてクレジットカードというものを持ったのは大学を卒業して間もないころだったと思います。何だかとても立派になったように誤解した(笑)ことを覚えています。何しろ、現金を持っていなくてもものが買えるというのですから、自分は今や社会的にクレジット(信頼)のある人間になったのだ、と勘違いした(笑)のでした。
それ以来、私はずっと何らかのクレジットカードを持っています。最初は単なる某カード会社のカードという感じでしたが、今は交通のICカードに付けられたものです。ごくありきたりのもので、使い道としてはほとんどがネットショップでの買い物です。本とか中古の(笑)パソコンとかパソコン周辺機器など、仕事場で買ってもらえるものもたいていネットで、立て替え払いという形で自分のカードで決済していました。そうすると、

    ポイント

は私にもらえますので、時々それで別の買い物をしたりしました(笑)。これって、何か法律違反でしょうか。きちんと申請書にはアマゾンで買うと届けていますから、問題ないですよね。
カード会社には、VISA、JCB、マスターカード、ダイナーズクラブ、アメリカン・エキスプレスなどがあり、取引額でいうとVISAが世界最大のシェアをもっているのだとか。この中で日本発というとJCBで、この会社の前身の英語名(Japan Credit Bureau)というから名付けられたそうです。
私のようにPITAPA(関西の交通、ショッピングなどのためのICカード)にくっついた安っぽい(笑)カードだけでなく、ゴールドカードとかプラチナカードとか、カードにもいろいろな券種があるというくらいのことは知っています。その中ではプラチナカードというのが一番立派なものなのだろうと思っていたのですが、

    ブラックカード

というのがあるのですね。これは利用者が申し込むということはできないのだそうで、発行先から招待される形で持つことができるとのことですから、私にはまるで無縁なものです。お金持ちの人たちにとっては、これを持っているのが自慢になるらしく、「起業家として成功しました」というタイプの若い人がよく見せびらかして(笑)います。そういうのはそっと持っているのが「かっこいい」のではないかと思うのですが、どうも最近はそうではないようです。
私のような貧乏人には持たせてもらえないというのは事実ですが、同時にこんなものを持っても私にはメリットはないと思います(←ひがんでいるだけ?)。だって、大きな買い物なんてしないのですから。というわけで、万一「ブラックカードを持ちませんか」という招待が来ても断固としてお断りするつもりです。来ませんけどね(笑)。

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くじびきにする? 

選挙(特に国政選挙)における1票の格差が大きな問題になっています。人口比で定数を決めるのが当然だと考えると、大都市は定数が少なすぎ、人口の少ない地域に比べて1票の価値が低いということです。その一方で、人口の少ない地域の人たちは大都市の論理だけでものごとを決められてはたまらない、と不満を持ちます。私は、とても人口の少ない、そして今も減り続けているような田舎の街にしばしば参りますので、切り捨てられていく町というのを肌で感じることがあります。
民主主義イコール選挙という考え方は多くの人が賛同するのだろうと思います。しかし、今の国政選挙を見ていると、私はあまり簡単に納得できません。
古代ギリシアでは、選挙というのは「貴族的」なもので、民主的なのは

    くじ引き(抽選)

だという考えがあったのです。「選挙は貴族的」というのは今の日本の選挙の実態を見ると、私などとても理解しやすいのですが、いかがでしょうか。実際、選挙で強いのは世襲という名の「貴族」ばかりではありませんか。また、組織(企業のみならず、宗教団体〈もどき〉まで)が強い力を持つことで利権がからんで、「弱肉強食時代」を作り上げてきたではありませんか。また、タレント議員という、まことに失礼ながら、ほんとうに見識があるのかどうかわからないような議員を安易に生んでしまうという問題もあります。
そんなこともあって、今の日本の国情に合わせるなら、まずは参議院をくじ引きで選んだらどうか、という意見があります。この「くじ引き」という考え方は、私のような政治に知識のない素人の意見ではありません。世界の政治学の最先端の学者さんたちが本気でこういうことを考えているのです。といっても、急激にあらゆる議会を抽選で選ぶとなると相当無理が起こってくると思われ、世界的には議会に対して

    市民会議

のような形で抽選による議員を選ぼうという動きが実際に起こっています。
日本は二院制を取っていますが、今はどちらの院も同じような感じがして、参議院は衆議院のコピーとすら言われて、その存在意義が疑問視されることも少なくありません。それならいっそ参議院だけでも市民会議にしたらどうか・・というのはめちゃくちゃな意見ではないと思われます。それでも私のような素人の市民がそんな会議に加わって、大事なことが決められるのでしょうか。私はまんざら無理ではないと思っています。現に裁判員制度ができて重大な裁判に「素人」が加わっているにもかかわらず、判決がでたらめになるなどの大きな問題が起きたという話は聞きません。
日本の学者さんでは、九州大学の岡崎さんという人がこのような意見を述べていらっしゃるのを昨年の新聞で読みました。もちろんこういうことを現役の参議院議員に言ったら、その人にとってはどう考えても不利な話(職を失い、金や権力が脅かされますので)ですから、おどおどしつつも「冗談だろ」と一笑に付すだろうと思います。
しかし、歴史の中に実際にあったことでもあり、現代の民主主義がいびつなものになっているのであれば再考する価値は十分にあると私は思っています。

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2023年2月文楽東京公演初日 

文楽東京公演が初日を迎えます。
近松名作舅銘打っての公演で、時代物ひとつと世話物二つです。
圓網は次のとおり。

第一部 (午前11時開演)
心中天網島 (北新地河庄、天満紙屋内、大和屋、道行名残の橋づくし)
第二部 (午後3時15分開演)
国性爺合戦 (千里が竹虎狩り、楼門の段、甘輝館の段、紅流しより獅子が城)
第三部 (午後6時30分開演)
女殺油地獄 (徳庵堤、河内屋内、豊島屋油店)

切場は、河庄が千歳、大和屋が咲、甘輝館が錣、豊島屋油店が呂となっています。
玉佳さんがついに本公演で和藤内を使われるのがちょっとした感慨です。

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天秤 

二つのものの重さを量るものに天秤があります。これは世界各地にある道具と言えそうです。天秤は今でも理科の勉強に用いられたり、算数の計算に応用されたりして、身近なものなのです。私が子どものころは、市場で「天秤ばかり」を使って重さを量っていたお店はごく普通にありました。商品を天秤皿に載せて、反対側には錘(おもり)をぶら下げて錘を移動させながら量っていました。量り売りですね。とてもおもしろそうで、あんなの一つ欲しいな、と思ったこともありました(笑)。こういうものは今の日本では珍しくなりましたが、海外に行くと今でもあたりまえのように用いている地域があります。
小学校の授業では二つの天秤皿に片方は量りたいもの、もう一方には分銅を載せて、両者が釣り合うようにいろいろな重さの分銅を使いました。分銅をどう組み合わせればよいかなど、頭の体操にもなりましたね。
クイズにもあって、たとえば次のような問題です。
コインが9枚あります。そのうち1枚は偽物で軽いのです。天秤を

    2回使って

偽物を見つけてください。
これは簡単な問題で、3枚ずつを天秤に載せて吊り合ったら残った3枚の中に偽物があることになります。釣り合わなかったら、軽い方に必ず偽物が混じっています。よって、2回目は3枚の中から偽物1枚を見つければいいわけで、1枚ずつ天秤に載せて、釣り合えば残ったものが偽物、釣り合わなければ軽い方が偽物というわけです。
物売りをする人は昔から天秤棒を使いました。これも世界的に用いられたもので、日本でも古くから存在します。江戸時代には「ぼてふり(棒手振り)」「振り売り」などと言われました。魚屋とか水屋などですね。農家では、昔は肥料に人糞を使いましたから、そこでも活躍しました。こういう「天秤棒」は昔から「おうご(あふご)」とか「おうこ(あふこ)」とも言われ、「会ふ期(あふご)」に掛けて和歌に詠まれることもありました。『古今和歌集』にもその例が見られます。
上方落語では「天秤棒」ではなく「おうこ」という言い方が普通だと思います。
星座にも「てんびん座」があります。12星座のひとつとして、星座占いでもおなじみですよね。
フェルメールの絵の中で、私が好きなもののひとつに「天秤を持つ女」があります(実物は未見です)。この絵は意味深長で、背景の画中画には

    最後の審判

が描かれていて、ちょうどその画中画の真ん中の下半分を隠す位置に彼女が立っているのです。ふつう「最後の審判」の絵では、この部分に人の罪の重さを量る大天使ミカエルが描かれていますので、彼女はあたかも絵から飛び出してきたミカエルのように見えるのです。そして、ミカエルの比喩である彼女はこの絵を(つまり彼女の姿を)観ている人に向かって「あなたの罪はどうなの」と問いかけているようにも見えてくるのです。次の瞬間彼女はニヤッと笑って目をこちらに向けるのではないかと「怖い想像」をしたりします。
今の世の中は格差社会で、一部の人に富が集中するといわれます。また、いろいろな点で少数派の人は概して差別され、虐げられがちです。つまり天秤が機能していないことになります。政治家というのは、そういう状態を、天秤棒をかついで正す役割を持たねばならないのだろうと思います。彼らには歌川広重の『東海道五十三次』「日本橋」に見られる「ぼてふり」の絵でもじっくり見てもらうことが必要だろうと思います。

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昔のLGBTQ 

他人を「全否定」するタイプの人は政治家にも多いと思います。自分とは関係のない政党が政権を握った時のことを「悪夢の〇〇党政権」と言った人がいました。もうこれを聞いた時点で私はこういう人を信用できなくなってしまいます。
最近では、総務政務官になった人が、過去に信じられないような発言をしていたことが問題視されました。業を煮やした(?)上司の総務大臣に言われてしぶしぶ撤回したようですが、あくまで「言われたから撤回した」のであって、ご自身の考えは変わっていないようにお見受けします。この総務大臣の忠告というのも、何だか台本があるようで、私の眼には下手な芝居に見えたのですが。
また、この人はかつて発言したことが「当時所属していた政党の考えの代弁」であるかのようにも言っていました。今は別の党にいるので関係ないし、その当時も自分個人には責任はないと言いたいのでしょう。それなら今回の「撤回」も、「上司である大臣の考え」によるもので、自分個人の責任でおこなったものではない、ということになりそうです。そんな無責任で馬鹿げた話があるものでしょうか。
この人の発言で一番よく知られたのは「LGBTQの人は

    生産性がない」

と言ったことでしょう。
こういう性的少数者は子どもが産めないので、少子化の激しい日本にとっては存在価値がないかのように言ったのだと思います。「LGBTQはクソだ」とでも言っているかのようです。
しかし、間違っては困ります。LGBTQの人たちは現代に忽然と出現したかのように思っているようですが、そんなわけはありません。人類の長い歴史の中では、同性愛者やバイセクシャル、トランスジェンダーなどの性的少数者の人たちは、記録に残るかどうかは別として、常にいたのです。たとえば、平安時代の

    『とりかへばや物語』

はトランスジェンダーの兄妹の話ですし、『源氏物語』にはバイセクシャルのような描写が見られる場面もあります。僧侶と稚児、武将と小姓などの関係はよく知られます。江戸時代には「陰間茶屋」もありました。井原西鶴は『男色大鏡』なる浮世草紙を書いています。物語だけではなく、史実としてもLGBTQの人たちは必ずいたのです。
今問題なのは、そういう人たちが「けしからん」などということではありません。近代になって法治国家としての制度が整えられた結果、LGBTQの人たちが法的に不利になったり、もっと根本的なことで言うならに基本的人権がゆがめられたりするようになったことが問題なのです。そこをどのように支援して法整備するかが政治家の務めのはずなのに、それを怠るばかりか人権を無視するような発言をするのは本末転倒も甚だしく、信じられないレベルです。
結局この人は昨年末の復興大臣の辞職にまぎれるようにして政務官の辞表を提出しましたが、もういっそのこと議員を辞めて「ネトウヨ」と言われる人の仲間になってツイッターでも何でも使いながら言いたい放題言ったらどうなのかとすら思います。
そもそもこの人がなぜ国会議員をしているかというと、選挙で選ばれたからという単純な説明では済まず、中国地方比例1位という特別扱いで、落ちるはずがない待遇を受けたからです。どう考えても当時の権力者の好みによって当選しただけ、としか言いようがありません。その点も改めて法律を変えなければならないと思います。

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バカ、ゴミ、クソ 

若者言葉というのは若者だけが使うのではありません。それをおもしろいと思った年長者が真似をして用いることもあるのです。私だって「イケメン」などという言葉はもう普通に使ったりします。もちろん私の場合は「私はイケメンとは縁がありません」という言い方でした使えませんが(笑)。「やばい」という言葉で、(危険を感じるほど)「かわいい」「おいしい」「すばらしい」の意味で使うのはもともと若者だけでした。しかし、使う人の年代はどんどん上がってきているように思います(私は、この言い方はあまり好きではないので使いません)。
こうして若者言葉が、誰もが使う日本語として定着するのは、歴史を観ればいくらでもあることで、言葉というのはそうやって変化してきたものだと思います。その意味では、若者言葉はそんなに目くじらを立てるほど嘆かわしいわけではありません。私は、若者言葉の代表格のように言われてきた「ら抜き言葉」はもうすぐ「正しい日本語」になると思っています。
それはそうと、品性を大切にしている(笑)私には似合わないタイトルをつけてしまいました。それは今書いたことと関係があるからなのです。
今の世の中、とても安易にこういう下品、粗野、乱暴な言葉を使う風潮があります。ちょっとしたことでも「こんな奴はクソだ」なんていうのです。いわゆる

    「全否定」

をするのですね。
どうしてこういう言葉が横行するようになったのか、私はあまり知りませんが、意外にも、若くして巨額の富を手にした「成功者」タイプの人が使うことが多いような気がしています。もちろん、こういう人たちを「成功者」と呼べるかどうかは別として、ですが。
精神的に未熟な人が何かのはずみでうまくいくことがあると、それだけで天下を取ったような気になるのではないかと思います。もちろんそういう人にはそれなりの才覚があるからうまくできたことがあるのでしょう。私などまるでそういうものを持ち合わせませんのでうらやましいと思うこともあります。しかし、どうも彼らのもの言いを傍目から見ていると、悪い意味で自己愛にあふれていて、若者言葉で言う

    厨二病(笑)

の延長のように感じられてなりません。しかし30代くらいまでの人であれば「若気の至り」ということで、やむ得ない面もあると思います。
ところが、おもしろいことにというべきか、こういう言い草を年輩の人たちまでが真似をするようになってきています。ほんとうにいい歳をした人が、それも多少なりとも知性を売り物にしているような人が平気で使っていることがあるように思うのです。私の目から見ると、それだけで信用のならない人と思えてなりません。「こういう人間はクソ」「こんなことをするヤツはバカ」と軽々しく決めつける人をどうして信用できるでしょうか。(明日に続く)

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