fc2ブログ

あずま袋 

学生時代の恩師は普段はもちろんスーツ姿でしたが、正月にお年賀に伺うと着物をお召しで、とても印象に残っています。学生はみんなネクタイ姿で、堅苦しいのですが、先生は立派なお召し物なのにくつろいでいらして、着物ってなんてすてきなものだろうと思いました。
私はついに和装には縁がありませんでした。いまだかつて着物というものを着たことがないのです。もちろん自前のものは持っていません。何となく似合わないだろうなと思っているのですが、着たことがないのですからわかりません。
Facebookの「ともだち」の皆さんはかなり和服をお召しになります。文楽や歌舞伎の方はもちろんのこと、そうでない方もかなり多いです。女性の「ともだち」の方々はむしろお召しにならない方が少ないくらいです。着付けの講師をなさっている方もいらっしゃいますし、洋装の写真をアップされると奇妙に感じるくらいの方もいらっしゃいます。お嬢様が祇園の舞妓さんという方もいらして、ほんとうに

    

の雰囲気があふれているのです。
私は服装にはかまわないものですから、洋服でもおしゃれということができません。まして、もし和服を着たら小物類はどうすればいいのかなどさっぱりわからないのです。
そんな私が最近とてもすてきなものをいただきました。

    あずま袋

です。あずま袋は、一枚の布(ふろしきなど)をシンプルに縫い上げた入れ物ですが、江戸時代に考えられたものらしく、いかにも庶民的なそして実用的なものだと思います。折りたたむととても小さくてカバンの中にポンと入れて持ち運べますし、大きめのポケットになら入りそうです。それでいて、広げるとなかなかの容積を持ち、軽くて便利です。トートバッグの和風のものという感じもします。最近は買い物に行ってもレジ袋がなく、多くの人はエコバッグというのでしょうか、やはり小さな折りたためる袋をお持ちになります。あずま袋はこのエコバッグの元祖のような感じですね。
私がいただいたのは愛知県三河方面の名産の木綿でできたものだそうで、「刺し子織の小幅生地」を縫い上げたものだとかで、とてもしゃれているのです。刺し子織でできた商品には、作務衣、頭陀袋、信玄袋、ショルダーバッグ、帽子、袢纏などいろいろあるそうです。いただいたあずま袋は、おしゃれに縁のない私には不似合いなくらいすてきなもので、さて私に使いこなせるか、という問題があります。しかし置いておくのも逆にもったいないですから、ちょっとした荷物を入れて昨日書きました歌会に持って行ったのです。そこにいらっしゃるのは私よりずっと年輩の女性ばかり。「すてきですね」なんて言われて、とても嬉しかったです。下さった方にはこの場を借りて改めてお礼申し上げます。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

スポンサーサイト



歌会への出席 

以前、学生さんと一緒に歌会をしたことを書いたことがあります。とてもいい思い出です。
自分の歌をほかの人に見てもらって、意見や感想を言ってもらうわけですが、思い掛けないことを言われてハッとすることもしばしばあります。短歌は何と言っても三十一文字という短い詩ですから、いろんな解釈が生まれることもあるのです。「なるほどそう読むと面白いかも」なんて、自分の詠んだ歌を他人事のように見直すこともあります。
あのときの学生さんも、もう50歳くらいになっているのかな。「光陰矢の如し」です。
短歌との付き合いも、人との付き合いも減って、もうあんなことをする機会はないだろうと思っていました。
ところが、縁あって短歌のグループに入れていただき、

    「配慮するから

歌会にも出てきなさい」と言われ、いつも尻込みをしていてはいけないと思って、3月15日に行ってきました。
大阪の某公共施設で、15人くらいの方が参加されました。私は初めてですので、紹介していただいて、あらかじめ提出されていた短歌について作者名を隠した形で読みあげて、それに対して数人の人が意見や感想を言います。作者は黙って聞いているのです。そして今回は、何と、私がまとめ役のような形で最後に意見を言う大役を任されました。無理難題を課せられた感じがしますが、新参者の私が先輩たちの

    洗礼

を受けた感じでした。そしてそのあとに「作者は○○さんです」という紹介があって終わりました。
やはりいい勉強になり、みなさんがどういう思いで短歌に向き合っていらっしゃるのかも感じ取ることができました。
私の歌についても意見をいただけて、とてもありがたいことでした。短歌に限りませんが、作者は作品を作った時点で終わり、あとは読者が作品の評価を決めていきます。もちろん読者も勘違いをして誤読することがありますが、誤読をさせたことも含めて作者はいろいろ感じるものがあると思います。
この歌会では特に優秀作品の発表というのはありません。しかし作者を知らせるのを最後に回して、すべての感想を出し終わったところで好きな歌をいくつか選んで○印でもつけてもらい、会の最後に「今日一番よかったとされた歌はこの歌でした」と発表するのもいいかもしれません。
というわけで、なかなか楽しい時間を過ごせました。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

選挙に行く? 

私はこのところ国政選挙は皆勤、知事選挙や市長選挙にも行っています。
しかしそういう選挙は当選する人の票がかなり多いですから、私の票の価値なんてほんとうに微々たるものに過ぎず、私が行かなかったからと言って情勢が変化することはありません。組織の力がものを言う選挙がほんとうに民主主義の手段と言えるのか、疑問を持たないわけにいかないのです。結局のところ、ほかに自己表現する方法がないから、という消極的な理由で選挙に行っているような気がします。だいたい私の投票する人はほとんど落選します(笑)ので、虚しさもあります。この20年くらいの私の勝率(私の投票した人が当選した率)は1割あるかないかくらいだと思います。実は1人しか当選していないので、選挙に行った回数が10回なら1割ということです。
私は学生にも「投票に行こう」と言っていたのですが、たいていの人には「私が行っても何も変わらない」「せっかくの日曜だから遊びに行く(バイトする)」と一蹴されてしまいました。
以前書きましたが、古代ギリシアでは選挙は貴族的なもので、民主的なのは

    「くじびき(抽選)」

だと考えられていたそうで、現代の政治学者にも、かなり真剣に「くじびき」を導入しようと考えている人がいます。その方が案外民意の反映になるという考えによるのです。
この4月は統一地方選挙があります。私の住む町は県会議員と市会議員の選挙だけで、ほとんど盛り上がりません(笑)。実は、私は市会議員の選挙にはほとんど行っていないのです。こちらは当選票数が少ないですから、私の1票の価値も国政選挙に比べたら高いのですが、どうにも行く気になれません。地主の出身で土地の名士のような人だとか、店を経営しながら現場はアルバイトの人任せにして政党の青年部に加わり、

    順番

を待って、上の人が引退したら跡を継ぐ、という形の人もいます。こういう人は組織選挙ですから落選することは考えられません。何期か勤めたら引退する約束なのだと思われ、最後に議長や副議長にしてもらって退職金を多く受け取ることになっているようです。議長になった時点で「あの人、今期で引退なんだろうな」とわかる(笑)わけです。こういうのも何だか虚しい気持ちになります。
昨今、地域によっては市議、町議、村議のなり手がいないらしく、無投票も少なくないようです。もうほんとうに、まじめな話、抽選で決めることを考えた方がいいように思います。
というわけで、この4月の選挙もいまのところあまり意欲がわきません。そもそもどんな人が立候補するのかもわからず、何だかみんな頼りなさそう(笑)に見えてしまいます。ついでに言いますと、県議選と市議選が同時にできないのはなぜなのでしょうか。何か理由があるのでしょうが、かかる費用を考えるととてももったいないと思っているのです。それはともかく、この地方選、わからないままに投票すべきなのかどうか、今なお悩んでいます。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

甲東園 

大阪市中央区伏見町にある芝川ビルは昭和2年(1927)に建てられました。私も何度か行きましたが、存在感のある立派なビルです。建てたのは芝川又四郎(1883~1970)という方で、この人は大日本果汁株式会社(「日果」、のち「ニッカウヰスキー」)を創業した竹鶴政孝とは強い絆があります。化学やウイスキー製造を学んでイギリス留学から帰った竹鶴が奥さんのリタさんと大阪の帝塚山で住んだ家の大家が芝川又四郎でした。又四郎の娘はリタさんから英語を習ったそうです。そんな縁もあって、竹鶴が寿屋(のちのサントリー)から独立して大日本果汁を設立するとき、その設立式は芝川ビルでおこなわれました。そして、加賀正太郎(京都府大山崎町にあるアサヒビール大山崎山荘美術館はこの人の山荘)や柳沢保恵らとともに日果に出資したのでした。
その又四郎の父は

    二代目芝川又右衛門

で、元の名は又次郎と言いました。江戸時代の末期に芝川新助という人が唐物商の「百足屋」を興したあとその女婿(二代又右衛門の父)の初代又右衛門が土地経営を始め、二代又右衛門(以下、「又右衛門」とだけ書きます)もそれを継承したのです。以下、学校法人関西学院のHPその他の資料から内容をお借りして書きます。
又右衛門は兵庫県武庫郡甲東村(現西宮市)の上ヶ原地区に果樹園を開設しました。これが

    甲東園

で、今は西宮市甲東園、上甲東園という地名になっています。甲州ブドウとか柿、桃などを植えたそうです。同時に、立派な道を整備して、これが現在も阪急電鉄甲東園駅から関西学院大学につながる道として使われています。この甲東園駅も、又右衛門が用地を寄付する形で阪急電鉄創業者の小林一三が建設したそうです。
又右衛門は果樹園のほかに、桜、梅、楓など多くの樹々も植えたそうで、その名残として、

    甲東梅林

が今に愛され続けています。この梅林はもともと一か所にあったものではなく、中学校(梅林の隣にある)を建設するために、運動場を確保するべくそこに植えられていた梅を移植するなどしてできたのだそうです。
広大な梅林とは言えませんが、地元の住宅街(かなり高級感のある住宅街です)の皆さんなどが梅の季節には多く集まってこられます。私は今月のはじめにここに行って今年初めての梅見をしてきました。
梅林の説明板によると、「豊後」「林州」「白加賀」「白玉梅」「南高」「白難波」「道知辺(みちしるべ)」「見驚(けんきょう)」「黒梅(こくばい)」「桃千鳥」「摩耶紅梅」「輪(りん)ちがい」などの品種があるそうです。
すぐそばにある高校には「入組野(いりぐみの)古墳」が移設され、高校の門を入った左手の庭園は「芝川農園跡(憩いの広場)」と呼ばれています。
甲東梅林のすぐ近くには今も芝川家があります。
ちなみに、西宮市には、山の手に「苦楽園」「甲陽園」「甲風園」「甲東園」、海側に「香櫨園」「甲子園」「昭和園」があり、これらは「西宮七園」と言われ、閑静な住宅街として知られます。特に山手側は高級感があって、大きな住宅が並んでいます。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

打ち上げが中止した 

広告文などで、「新商品が発売」「即売会が開催」というフレーズを目にすることが多くなったのはいつごろからでしょうか。これらは受身形の「される(た)」を略した形ということなのでしょうが、いささか無理のある表現だと思っていました。
しかしキャッチフレーズのようなものならある程度言葉を崩すのはやむを得ない面もあり、「何だか気持ちの悪い表現だな」というくらいであまりとやかく言わないようにしてきました。
ただ、新聞やテレビニュースなどでこういう見出しが出てくるようになると、それは好ましくないだろうと思っていたのです。今はっきりした証拠を出すことはできないのですが、テレビニュースで同じような形の見出しを見た記憶があるのです。もしこの記憶が間違っていないとしたら、報道の言葉としてはあまり好ましいことではなく、ディレクターにも一考をお願いしたいのです。
2月17日に種子島宇宙センターで予定されていた

    H3ロケット初号機

の打ち上げが、残念ながらうまくいかなかったようです。ただ、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の発表では「失敗」ではなく「中止」とのことでした。何らかの異常を検知した時には止まるのが正常なシステムであって、JAXAの人の話では「健全に止まっている」ということでした。「止まったら健全ではないのでは?」という意見もありましたが、当事者とすればそういう感覚なのでしょうね。
この出来事は、翌日の新聞に報道されましたが、私が読んだ新聞にはこのように書かれていました。「JAXAによると、固体ロケットブースターが着火せず、

    打ち上げが中止した

のは1994年の「H2」2号機以来という」。
この記事を読んだ瞬間、私は強い拒否反応を起こしてしまいました。「中止する」という言葉は他動詞で用いられるのが普通で、「~を中止する」と表現するものです。「中断する」ならかまいませんが、「中止する」をこういう形で使うのは不自然だからです。しかし、新聞記者がこういう間違いをするものだろうか、と思い、また校閲の人がいますからそこをくぐりぬけたというなら、私が何か勘違いをしているのではないかと思ってよく考えてみました。
まだすっきりはしないのですが、JAXAの言い方を見ているうちに記者の気持ちが少し見えてくるような気がしました。今回のできごとは、JAXAが主体となって打ち上げを「止(と)めた」わけではなく、ロケットが自動的に「停止した」という気持ちで、「打ち上げ」という動作が勝手に止まったと言いたかったのかもしれない、しかもJAXAが「停止」と言わずに「中止」という言葉を使っているのでそのことばを用いて「中止」と書かれたのかもしれない、と感じるようになりました。ただ、それでも言葉の使い方としてはあまりうまくなく、記者さんも「打ち上げが中止となった」か、JAXAの言葉の引用であることをカギカッコで示して「打ち上げが『中止』になった」くらいにしておかれたら私などにとやかく言われることはなかったのに、と思います。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

今年は荒れるかも 

今どき赤穂浪人の仇討ちなんてあまり感心されないのかもしれません。『仮名手本忠臣蔵』のように善と悪と明確にしたうえでなければ芝居にもならないと思います。いくら相手に非があってそれゆえに虐げられた結果だったとしても、老人に向かって刃を向けたら、犯罪者になってしまいます。昨年の国会議員銃撃事件がまさにそれだったでしょう。浅野内匠頭長矩がなぜあんなことをしたのかは100%わからないかもしれませんが、やはり暴挙だったと思います。さらに、そのために主君が罰せられたからと言って家来が徒党を組んで恨みを晴らすのは首をかしげたくもなります。浅野長矩が刀を抜かずに何とか工夫すればよかったのでしょう。
ただ、権力者というのはそれこそ徒党を組んで、罪をぼやかしながら

    弱い者をいじめて

きます。どうみてもおかしいことをし続けた議員を国葬にして祀り上げ、その非を必死になって隠そうとしてきたことにも明らかです。故人を悪く言うのは日本人の美意識からは外れるかもしれませんが、故人の犯した罪は憎んで正し続けねばならないでしょう。
私は聖人君子ではありません。気が長いと思われがちですが、実は短気です。基本的に人の悪口は言わないし喧嘩もしないのですが、どうしても許せなくなると激しく喧嘩します。暴力をふるうと負けですので、言い分を明確にしたあとで決裂したら、法的に問題ない範囲で報復することもいとわないのです。
最近、犯罪と言えるようなことをする人間に向きあうはめになってしまいました。どうして人間はこんなことができるのか、と思えるような汚いことをしてくる人物がいて、他人事としても看過できないのに、私の周囲に影響を及ぼしてきましたので、もう許すことはできなくなりました。その人物についていろいろ周囲の人から話を聞いてみると、

    悪い評判

がぞろぞろと出てくるのです。しかもその中には道徳的に許せないという範囲にとどまらずに、明らかに犯罪行為と思われることもあります。どういう法律に触れるのかはまだわからないのですが、人の財産を奪ったり、健康、命に関わる悪事をしたりするのは許せという方が無理です。
もうひとつ、以前から喧嘩してきた相手がいまして、こちらも今年のうちに結論を出そうと思っています。もう話し合う余地はないかもしれず、そうなったら実力行使もいとわない気持ちになっています。
この歳になってこんなことをしたいはずがありません。それでも相手がかかってきたら逃げるわけにはいかないですし、相手が逃げたらこちらから攻撃する必要もあると思っています。
今年はかなり荒れる一年になるように思います。返り討ちに遭うかもしれませんが、間違いをうかうかと見逃すには、長らく教育に携わってきたプライドが邪魔します。許さへんで!

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

お好み焼きは一枚 

今の総理大臣が就任するとき、テレビのインタビューで「お好み焼きは大阪ですか、広島ですか」という脱力感あふれる(笑)質問をした人がいました。すると総理大臣は少し悩んだあと「やはり広島です」と答えていました。悩んだお気持ちはよくわかります。大阪はダメとも言えず、しかし広島を無視することももっとできませんから八方美人にならざるを得せん。そして最後には、「どちらもおいしいのですが、どちらかというと」と言いつつ広島に軍配を上げられたように思います。私などはこの両者を比較する気になれません。同じ関西のお好み焼きの中でどれが好きか(イカ玉とかブタ玉とか)、というならまだわかるのですが、広島のものと比べても意味がないように思います。
広島地方で食べるお好み焼き(「広島焼」なんて言いません)はボリュームがあっておいしいです。2月に中国地方に行ったときも「そば入り」を食べましたが、食べ終わるとお腹いっぱいになりました。
前に書いたかもしれませんが、私が広島市の短期大学(残念ながら、4年制大学にすることができず、数年前に廃学になりました)に赴任してまもない6月に事務の女性たちに誘われて

    「とうかさん」

という祭り見物に出かけました。「とうかさん」というのはこの祭りのおこなわれる圓隆寺の総鎮守「稲荷(大明神)さん」の意味で、「稲荷」を音読みしているわけです。この祭りから広島には夏が来て浴衣を着てもいいのだと教わりました。その帰り道にいつの間にか一緒にいた人が次々に帰って行って(というより姿を消して)、ある女性と二人残されたのです。これは彼らのたくらみで、その女性と当時独身だった私をくっつけようとしていたような気がします。私は最初気がつかなかったものですから、「ではこれで」と言って帰ろうとしたのですが、彼女が「お好み焼きに行きましょう」と誘ってきて、言われるままにお付き合いしたことがあります。「みっちゃん」というお店でした。「広島のお好み焼きはソースがオタフクですけぇ、おいしいんですよ」と言われ、

    オタフクソース

というのもその時に知りました。彼女とはそれっきりで終わった(笑)のですが、以後、お好み焼きは折に触れて食べるようになったのです。
いつもお世話になっている歌舞伎三味線の師匠は広島のご出身ですが、今は広島に行かれると必ずと言っていいほど広島市の西十日市町にあるお店にいらっしゃいます。私も一度行ってみたいのですが、なかなか広島市に行く機会がなくて・・。
味音痴の私は細かい味のニュアンスがわかりませんので、特に「ここがいい」という店はないのです。昨年山口県防府市で泊まった時も夕飯はお好み焼きにしました。広島風のお好み焼きは山口でもあたりまえのように食べるのですね。
ところで、以前の私は一枚では少し物足りなかったのですが、さすがに最近はいくらか食が細くなり、半分食べたあたりでかなり満足し、最終的には一枚でじゅうぶんでした。かつての大食いの姿はもうありません。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

話しかけられる 

私は見知らぬ人から話しかけられるのが苦手です。そういう人はたいてい「道を教えてほしい」とか「あなたは神を信じますか」とかそういう用件だろうと思うのです。
神は信じていないので返事もできませんが、道を問われる場合はうまくいくと見事に答えを出せることがあります。あるとき、高齢のご夫妻らしい方が向こうから歩いて来られ、そのうちの男性がニコニコしながら私に近づいてきました。「あ、道を尋ねられる」と気づいたのはその人が歩きながら何となくきょろきょろしていたからです。目的地がこのあたりにあるはずなのに見当たらないという感じでした。そしてその人は私に向かって「おーみんあん」という口をなさいました。「道を尋ねる」「このあたり」「おーみんあん」という三題噺のようなところから私は答えを導かねばなりません。一瞬のうちに、近所に「おーみんあん」という感じの発音の施設、しかも高齢のご夫妻が生きそうなところはないか、と考えを巡らせました。近くにある施設というと「郵便局」「市役所」「公園」「スーパー」「体育館」などがあるのですが、ハタと気付きました。その場から5分ほど歩いたところに

    公民館

があるのです。これだ! と思って「公民館ですか」と聞き直したらその人は大きくうなずかれました。あとは簡単で、すぐに道をお教えするととても嬉しそうにお礼を言ってくださいました。
しかしこんなことはなかなかなくて、たいていは「すみませんよくわからないのです」とお詫びすることになってしまいます。
田舎の町に行って山陽道の山道を下りてきたところに、もう80代くらいだろうと思われる女性が立っていました。どう考えても私を見ています。「この人、なんで山道を歩いて下りてきたんだろう」とお思いになったのではないかと想像できました。そりゃそうです、険しい山道ですから、車で行くならともかく、歩いてくるなんて珍しいでしょうからね。声を掛けられたらどうしよう、と思っていたら、しっかり話しかけられました。もうやけっぱちで、こちらから「私、実は土地の者ではないのですが、この道に興味がありまして今歩いてきたのです。これって山陽道ですよね」と言いました。するとその人はなんだかとても嬉しそうに

    「そう、そう」

という返事をしてくださいました。それで私は間髪を入れず「いや、昔の人は大変でしたね。では、どうも~」という感じでその人から離れることに成功しました。ところがそのあと、近くにあった石碑を見ていたところ、その人がまた近づいてきて、石碑を指さして何か言っています。私は石碑に書かれていること読むようにして「昔は・・・だったんですね」というと、また嬉しそうにしてくれました。
すると今度はその人がその場を離れていって、申し訳ないのですが私はホッとしたのです。そしてさらに下って行ったところ、またその人が私を呼び留め、別の石碑を指さしていました。まさか無視することもできませんので近づいていってまたひとことふたことお話をしたのでした。最初は不審者だと思われたのかもしれませんが、よそ者であれば地元の自慢話をしてやろうじゃないかということだったのかもしれません。何だか、すっかりお世話になった感じで、けっこう楽しい時間でした。
めったに外部の人間なんて来ないでしょうから、もの珍しく思われたのでしょうね。おばさん、ありがとうございました。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

杖を持って 

何故山を越える自動車が来ないのかというと、いろいろ理由があるのです。人口が少ないのもそのひとつです。しかしこの道を通ると街に出るのにとても便利なので、かつてはけっこう車の往来があったのです。それがなくなった理由は、近くに立派な、驚くほど立派なトンネルや幅の広い道ができたからなのです。こんなに立派なものを作る必要があるのだろうか、いや、どこからこんなお金が出てきたのかと思うくらいだったのです。しかしその答えは何となく想像できます。この県は田舎なのに、明治以来繰り返し総理大臣を輩出してきたのです。県内のほかの地域を見ても道路はほんとうに立派なものが多くて、私は何度も驚愕したくらいです。政治家がこうやって利益を誘導しては票を得ている、まさに日本の政治の縮図を見ているようです。
さて、山陽道の話です。とぼとぼと歩いて山道を登っていくと、途中で脇道が見えました。車道から離れたその道は本来の山陽道でした。車が通れる道にはできなかったようで、車道はU字に迂回することで登って行き、やがてまたこの歩行者しか行けない道と合流することになるようでした。私は、せっかくなのでその脇道、つまり旧山陽道を歩いてみたのですが、これがもう

    怖いのなんの(笑)。

舗装なんてされていませんから、昔ながらのデコボコ道で、足をひねりそうになりながら登っていくのです。誰か一緒ならもっと歩いたと思うのですが、もし足をくじいたりしたら大変ですので、2~3分歩いたところでやめる(あきらめが早すぎ?)ことにしました。こんなところを昔の人はよく歩いたものだと思います。歩くだけでなく、馬や大名駕籠も通ったはずなのですが、どうやって昇り降りしたのだろう、と不思議です。そういえば、吉田松陰も罪を着せられて

    唐丸駕籠

に乗せられてここを通ったはずなのですが、怖かっただろうな、と思います。
もう少し上まで行きたかったという後悔がありますので、また機会があれば、なんらかの杖を持って行きたいと思います。水戸黄門が杖をついて旅をするのはもっともだと思います。
行くためには、くだんの老女にもうひと頑張り悪いことをしてもらわないといけないかもしれませんが。
このとき詠んだ歌を少し。なお、最初の歌の「合戦」というのは第二次長州戦争(長州征討、四境戦争などとも)のことです。
 合戦の砲台跡にのぼらんと
  崖に咲く花踏みしめて行く
 松陰が唐丸駕籠の跡を追ふ
  我こそ罪は重かるべきを
 唐丸の下りしといふこの坂を
  危ふく行けば眩暈激しき

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

我利我欲 

「私利私欲」という言葉があります。なにごとも自分の利益を基準として他人のことを慮らない態度を指すいやな言葉です。しかしこの言葉は「私利私欲のない人」「私利私欲を捨てて」のように否定的な使い方がなされて、結果的に善意を感じさせる形で用いられることも多いと思います。ところが「我利我欲」という形にするととたんにわがままさがあふれるように思えます。「ガ」という濁音がいかにもわがまま勝手な印象を与えます。濁音は概して強いイメージ、汚れたイメージが強いのです。外国の女性の場合「バーバラ」「ベッキー」など、日本風にいうと濁音で始まる名前の人は珍しくありません。一方日本では男性なら「大地」「元気」などいくらでもありますが、女性の名前ではあまり多くないでしょう。親の多くが娘に美的な名前を付けようとすることと関係がありそうです。
それはともかく、私生活の方で、こういう我利我欲の塊のような老女にとりつかれてしまい、かなり面倒なことになっています。この女に私のことを言わせると、「あんたは

    とんでもない人間

で、みんなが悪口を言っている」「あんたの義理の伯父さんがこんな悪口を言っていた」と具体的な内容まで伝えてくるのです。伯父さんに聞いてみると、「そんなことを言うはずがないじゃないか」とのことでした。もちろん私は人間的に評価されるような者ではなく、悪口を言いたがる人もきっといるでしょう。しかし私としては「それをあなたに言われたくないよ」というのが正直な気持ちです。
何しろこの人は嘘をつくのが日常茶飯事。どうしてこんなに嘘つけるのだろうと思うくらいです。それも子どもでもわかるようなウソをついて平気な顔をしているのです。具体的なことは書きませんが、「うそつき罪」というのがあったらとっくに刑務所行きです。私以上に、この人の悪口を言わない人の方が珍しいくらいなのです。おそらく何らかの病気なのだろうと推測するのですが、それがこちらに害を与えてくるのでタチが悪いのです。しかし今は言わせておいていざというときにその「うそ」についてあらいざらい公の場で言ってやろうと思っています(笑)。法的な処罰を加えるにはもうひといき(笑)なので、しばらくほったらかして何かしでかすのを待っているような感じです。物陰に隠れて違反を見張っている交通警官みたいです(笑)。
その問題のために、二月の終わりに休みの日を利用して三日ほど小さな町に行っていました。いやな話についてはこんなところでは書きたくないので、旅行として体験したことを少し。
朝早く、滞在したところの近所を歩いたのですが、このあたりは人家が少なく、人通りもめったにない、ほんとうの田舎なのです。私が歩いたのは昔の

    山陽道

にあたるところなのですが、平地ではなく山道。峠を越えるところなのです。山自体はそんなに高くはないのですが、昔は歩いたわけですから、かなり大変だったはずです。谷川が流れていて、そのそばを道が通っています。道幅は今では車が通れるようになっているのですが、中央線のない幅3.5mくらいの道ですれ違うのはギリギリです。私は一方のふもとから少し歩くことにしました。だれ一人歩いていないばかりか、車もほとんど通らず、片道15分は歩いたと思うのですが、出会った車はわずか1台。それも山を越えるのではなく、途中で曲がって人家の方に行きましたから、途中からはほんとうにひとり旅でした(明日に続く)。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

悪いことはしません 

研究費の不正取得などの犯罪行為があとを絶たないらしく、もはや大学教員は誰もが犯罪予備軍で、放っておいたらとんでもないことになると思われているようです。いくらなんでもそこまで思われているはずはないだろう、とお考えになるでしょうか。でも、まんざら被害妄想でもないのです。
昨今は、コンプライアンスというのがとても重んじられていますが、それに加えて研究者の倫理も大きな問題になっているようです。間違ったことをしてはいけない、というのはあたりまえだと思っていましたが、してはならないことをする人はやはりいるようです。そこで、何と、研究者向けに法や研究倫理の講座のようなものがあって「やっちゃだめですよ」「こんな罰則がありますよ」ということを教えてもらわなければならないのだそうです。パソコンでどこかのコンサル会社みたいなところなのでしょうか、そこのエライ人らしい人のお話を謹聴しないと大変なことになるのだそうです。しかし私はその人が何をしゃべろうがわかりません。
じゃあ、どうせ聞こえないのだから、ありがたく拝聴いたしましたということにしておけばいいよね、と考えていたら、

    それは甘い

のです。なんとその説明の理解度テストがあるのですよ! これを10問解いて(三択だったか四択だったかの問題です)送信しないと聴いたことにならないのだそうです。そんなこと言われても私にはできません。その社長さんか所長さんかの説明は1時間半くらいあったと思うのですが、画面を流してぼんやりしていても何も理解できませんし、画面に出てくるスライドはその人の姿がずっと映っていて動くこともありますので部分的に隠れてしまって見にくいのです。しかも画面は小さいですから、小さな文字は見えにくく、途方に暮れていました。ところが、ふと気がつくと、とても詳細なパワーポイントのスライド(画面に出てきたのと同じもの)が添付されていたのです。早速それをプリントアウトしてそれだけを頼りに問題をやってみると、あっという間に(10分くらいだったと思います)できました。
「こんなのでいいのかな」と思いながら、ほかにどうしようもなく、とにかく送信しておきました。ちなみに成績がわかるようになっているのですが、私は満点でした(たぶんほとんどの人が満点です)。
ではこれで終わりかと言うとまだそうではなく、何だか誓約書のようなものを書かされました。私は悪いことはしません、もししたら

    叱られても文句は言いません

という感じのものでした。
やれといわれたのでやってみましたが、終わった瞬間、何だか虚しい気分になってため息が出ました。こんなことをしないと信じてもらいないことにも哀しみを覚えましたが、こんな長い動画を流して、実際のところどれだけ多くの人が学ぶことができたのか、疑問なしとしません。ひょっとすると健常者の人でも私と同じようにスライドを見ただけで終わったのではないでしょうか。
心にやましいことがある人だけに「役に立ち」、そうでない善良な大半の人には釈迦に説法で終わったような気がします。私ももう中味の詳細は覚えていませんし、早い話が「悪いことはしないでください」と言われて終わっただけでした。
補助金などを盾に、いかにも「やってます」という姿勢を見せるだけならあまり意味はないのではないかとすら思いました。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

悪いことをする 

学校教員というのは、昔は「聖職」などと言われることがありました。「先生のおっしゃることに間違いはない」「先生が間違ったことをなさるはずがない」というたぐいの、先生信仰がありました。私も小学生のころに、先生というのは何でも知っている偉い人なんだと思っていたことがあります。ただ、中学生になって少しものがわかるようになると「先生といっても間違えることはあるんだ」と思い知ることが次々に出てきました。今も覚えているのですが、中学の国語の教科書に『万葉集』の長歌が出てきたことがありました。それを読む先生の読み方が完全な七五調で、意味を考えたら実に奇妙な切り方になるのです。そのときは「これでいいのかな」くらいで終わったのですが、今思うとやはりあの先生は五七調を理解していなかったのだろうな、と思います。また、英語の先生に質問をしに行ったとき、どう考えてもおかしいことをおっしゃるので変な顔をしていたら、隣の席の理科の先生が

    アイコンタクト

をしてきました。「その場で言うと英語の先生に恥をかかせるので、今は黙って帰れ」という感じでした。案の定、あとでその英語の先生が「あれはこう考えるのがいいな」と、「自分が間違っていた」「知らなかった」とは言わずに訂正してきました。学校の先生もこんなもんなんだな(笑)、と思わされました。おそらく理科の先生(それなりに英語を知っているのでしょう)が英語の先生に耳打ちされたのだと思います。
高校になっても、数学の先生が、思いがけない質問をされて、まったく間違ったことを言い出し、黒板にいろいろ書きながら「あれ、おかしいな」とずっと悩んでいました。生徒たちも「おかしいのは先生の考え方ですよ」と言えばいいのに、数学嫌いな文系の生徒らしく、時間が経って行く(授業時間が減っていく)ことを楽しむかのように(笑)見守っていたのです。
勉強のことだけではありません。すぐに殴る先生とか、生徒の眼をまともに見ない人とか、教師向きではない人もいろいろ見てきました。しかし、それぞれの先生にはいいところも多々あるわけで、欠点をあげつらうこともありませんし、人間だからそんなものだという程度で何とかやり過ごしてきたのです。
大学の教員というのもいろいろいまして、セクハラをする人は、以前はかなりいました。その結果ご自身の家庭を壊すようなことになった人もいます。
中には教員でありながら

    授業をするのが嫌い

という人も多いのです。でもしなければならないので、横を向いてしゃべるだけで、学生が興味を持とうが持つまいが、聴いていようがおしゃべりしようがおかまいなし、という人もけっこういます。
セクハラは今や犯罪になりましたが、ほかにも犯罪に当たることをする人もいます。とてもケチなのは「カラ出張」です。行かなかったのに行ったことにして旅費をもらうという形ですね。そんな人いないだろうと思っていたのですが、何でも、領収書の取れない日帰りの近距離出張を何度もしたことにして申請書を出した人がいるという話を聞いたことがあります。1回はせいぜい数千円程度かも知れませんが、10回繰り返せば何万円にもなります。それを見た事務の人が「どうもあの先生はあやしい」と言っていたのを聞いたことがあります。
ほかにも論文の盗用や改竄、研究費のごまかしなどいろいろあるらしくて、「一流大学」の、研究費がたくさん出る人たちがよく何百万とか何千万とか、桁外れのお金を不正に取っていたという新聞記事を目にすることがあります。私なんて、どうひっくり返ってもそんな金額の研究費を使える大物ではなく、縁がなくて幸いでした。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

感 

「感」は小学校三年生で習う漢字で、当然私もよく使う字です。いろんな熟語で用いられますが、「感心」「感謝」「感銘」「感動」「感激」など、心が揺り動かされるような様子を表していて、なかなかいい意味のことばが作れるのです。もっとも「感染」「感冒」など病気関係の言葉になると困りますけどね。
「感じる」と動詞にして用いると「思う」「考える」と似ているようでもニュアンスは違って、あまり理知的なものではない印象を与えると思います。あまり根拠はないのだけれど、こうではないかと思う、というときに「感じる」を使うことがあると思うのです。もちろん五感で受ける気持ちを表すこともあります。「緊張感」「恐怖感」のように「感」を別の言葉のあとに付けると「~の感覚」「~の気分」のような意味です。
近頃、この「感」が熟語のあとに付いて用いられる例に新しい用法があるように思います。わかったようでわからないような言葉なのですが、

    「空気感」

というのがあります。「空気」でよさそうなのに、わざわざ「感」を付けてぼんやりした印象を与えるようです。「あの人とはどうも空気感が合わない」「お正月の空気感は独特だ」など、「雰囲気」という言葉に置き換えられそうに思うのですが、やはり微妙に違うのでしょう。
物をはっきり言わないのは煮え切らない、ごまかすような表現に見えてしまいます。「感」を付けることで「はっきりしないけれどもそれらしい状態」を表して、最近はやりの言葉を借りるなら「知らんけど」と言っているようにも思えるのです。逃げ腰の言い方ですね。
もうひとつ、なぜか役人や政治家が使う言葉に多いような気がするのが

    スピード感

です。
以前なら「速やかに」とでも言っていたのに、誰が言い始めたのか「スピード感を持って」のように用いられます。「速やかに」と言われても「また役人言葉かな」という気がしましたが、「スピード感」になると私などはさらに信用が置けなくなってしまうのですが、そうでもないでしょうか。「スピード」ではなく、「スピードを出している感じを大事にします」と言っているように思えるのです。これにも「知らんけど」という気分がにじみ出るのですが、意地悪な見方でしょうか。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

子を𠮟る 

親に叱られた記憶はもちろんいくつもあります。どちらかというとやんちゃ、あるいはわんぱくだったのは兄の方で、私はついでに叱られたこともあって、ずいぶん損をしました(笑)。
自分が親になると、叱ることがとても下手で、あまり声を荒らげた記憶はありませんし、手をあげたことは皆無だと思います。幸い子どもたちは変な方向に進まずに頑張ってくれていますが、それは私の教育がよかったわけでなく、私が教育しなかったことが結果的によかったのかもしれません(笑)。あるいは彼らは親を反面教師にしたのかもしれず、それなら大いに納得できます。こんな人間にはなるな、と素顔を見せてきましたから。
前川佐美雄という人は、息子さんの佐重郎氏によるとかなりの癇癪持ちだったようです。奥さんや子どもさんに対してもよく𠮟ったようで、そんな歌が残っています。しかし佐美雄は、叱ったあとで「そうやってえらそうなことを言っている自分は

    どれほどのものなのだ」

という思いをいつも持っていたように思えます。この気持ちもわかります。人に何かを言ったあと、そういう自分は、と省みたとき、忸怩たる思いにとらわれることがよくあります。いつも自分が正しいと思っている人がうらやましくなります(そんな人いるのかな、いますよね)。以下、引用する歌はすべて『紅梅』(昭和二十一年刊)からです。
 原稿用紙を大切にせよと妻に言へ
  己が今日のしざまは何ぞ
ひょっとすると、奥様が書き損じの原稿用紙を捨てたりなさったのかもしれません。それに対して佐美雄は「もったいないことをするな」と言ったのでしょうか。ところが、翻って今日自分がしたことを思い出すと、

    偉そうなことは言えない

じゃないか、と思うのです。具体的に何をしたのかはわかりませんが、何か無駄なことをしたのでしょう。
 親と子の境を超えてよく叱る
  われは賢しき親にはあらじ
親子ならこれくらいにしておくべき、という節度を越えてまで叱ってしまう自分に嫌気がさしているようです。親としては失格。失格なのは私も同じですのでよくわかります。
 われはそも何の類(たぐ)ひぞ
  今も今いかり狂ひて子の頬を打ちぬ
明治生まれの佐美雄です。カッとしたら手が出るのですね。げんこつではなく頬を張ったようです。恐ろしいばかりの明治生まれの父親ですが、今もわが子を虐待する親がいるわけですから、それに比べればまともだといえるかもしれません(あくまで「比べれば」ですが)。しかし子の頬を張った佐美雄は「われはその何の類ひぞ(自分はどれほどのものなんだ)」とまたもや反省しないわけにはいかないのです。
これらの歌には、不器用で、短気で、しかも弱みを見せる人間臭さが描かれています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

左利きの歌 

何度か書いたことがあるのですが、私は左利きです。今どきは「だからどうなの」という感じで、普通に受け止められるようになりましたが、昔は「変な奴」と見られていたのです。左利きというだけで馬鹿にされることもあったくらいです。ところが、当時の実力ナンバーワンだった野球選手が王貞治さんで、この人が左利きですから、子ども心にとても心強くありがたい存在だと思いました。今、野球選手は右利きでも左打ちする人が増えて、逆に右利きの有力な選手が少なくなっているようにさえ思います。ちょっと思い出すだけでも、元メジャーリーガーのイチロー、松井稼(左右両打)、松井秀、昨年までオリックスにいた吉田、ヤクルトの村上、阪神の中野、佐藤、ソフトバンクの柳田などなど、優秀な選手が目白押しです。
左利きの人は日本人ではだいたい10人に1人くらいで、両親が右利きであれば子どもが左利きになる確率は少し減るらしいです。私も両親は右利きですので、珍しい存在かもしれません。なぜ右利きの人が圧倒的に多いのかについては、専門家でもわからないようで、脳の働きによるとか、心臓の位置の関係だとか、いろいろ言われるようです。
左利きは器用だと言われることもありますが、私には該当しません(笑)。絵がうまいという説もあるそうなのですが、これなど私にはまったくでたらめな説だとしか思えません。

    賢そうに見える

という見解もあるそうですが、「賢い」のではないことが誠に残念です(笑)。ひょっとすると左利きは「見掛け倒し」だと言いたいのでしょうか?(笑) それなら私にはあてはまりそうですが。
もっと極端になると「左利きは天才肌」というのもあります。もちろんそんなことは信じられませんが、10人に1人は左利きなのですから、天才的な人を10人集めたら必ず1人は左利きがいるわけで、100人集めたら10人です。10人いれば「あの天才も左利き、その天才も左利き」と錯覚するだけではないでしょうか。
前川佐美雄の歌にこんなものがあります。
  左利きは天才か否か
   ひだり手に箸もつ子をば
    朝夕(あさよ)叱りつ
(『紅梅』)
そうなんですよね。親は一生懸命「左手ではなく右手で持ちなさい」と教えるのです。私も同じで、箸と鉛筆だけは右で持たされました。たしかに、私の子ども時代は、社会に出たときに

    妙な目で

見られなくて済むという理屈があったのでしょう。今でも年齢層の高い人からはそう見られることはあるかもしれません。佐美雄のお子さんは生後まもなく亡くなった長女を除くとお二人で、次女が女性、末っ子の長男がやはり歌人となった前川佐重郎さんです。左利きというのはどちらのことなのかは知らないのですが、佐美雄は食事の時間になるとこうして改めさせたのでしょうね。この歌は昭和二十一年のものですから、次女さんは7歳になる年、佐重郎さんは3歳になったばかりでした。とすればやはり佐重郎さんでしょうかね。佐美雄は我が子が左利きであるのがわかって、直させようとするのですが、どこかで「ひょっとしたら天才かも」と親ばかぶりも発揮しているように感じます。
今どき左手でお箸やペンを持つ人は珍しくなくなったのですが、私自身は仕事柄(昔の文字や礼法を勉強する必要もあります)この二つは右手に直されてよかったのだろう、と思っています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

うれしい卒業式 

サトウハチロー作詞の「うれしいひなまつり」には「赤いお顔の右大臣」という歌詞が出てきて、これは作詞家が間違ったのだろうと言われています。ふつう、赤ら顔の人物は向かって右側に置かれる高齢の男性です。向かって右ということはお内裏様(天皇と皇后にあたる)から見ると左側で、つまりその人物は左大臣なのです。ただ、この歌はあまりに有名になってしまって、今さら変えることもできないのかもしれません。
「お内裏様とおひなさま 二人並んですまし顔」というのも、このままならお内裏様=天皇、おひなさま=皇后のように思えますが、本来は繧繝縁の畳に座った男女セットで「お内裏様」というのだと思います。
サトウハチローさんにケチをつける気は全くないのですが、こういう故実に即した人形(有職人形)を歌詞にするのはなかなか難しいものだと思います。
三月というと、卒業式のシーズンでもあります。私は大学の卒業式と縁がなくなって10年以上になり、今はどんなようすで行われているのか全く知りません。内容は多少変わっても、相変わらず「理事長挨拶」「同窓会長挨拶」などはあるのでしょうね。私が知っていた最後のころ、

    「蛍の光」

は卒業生が退場するときのバックに流されていました。歌っていたのは記憶にありません。もちろん「仰げば尊し」などは歌いませんでしたし、そもそもみんなで何らかの曲を歌うということをしていたかどうかももう忘れてしまいました。
卒業式が終わってこそやっと楽しみが待っているのです。学生さんと向き合っていろんな話をするのは教員の

    一年間の「ご褒美」

のようなうれしいものでした。何か冗談を言って、彼女たちが笑顔を見せてくれたりすると、いつまでもその顔を見ていたい気持ちになりました。
私にはすでに縁のなくなったものではありますが、私の長男が教師をしているものですから、今その喜びを感じているようです。彼は嬉しさいっぱいで自分のクラスの卒業生の写真を見せに来ましたし、驚くことにある女子生徒さんからホールのケーキをもらったというので私もお裾分けにあずかりました。すごいですよね。卒業式にケーキを持ってきてそれを先生にあげるなんて、私には考えられませんでした。
卒業する人たちは感じることが多い一日だと思いますが、教師にとっても同じくらい喜びがあふれ、少し寂しい気持ちになる日なのです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

怒らず切れる 

海外から日本に来た人は、当然ながら文化の違いに驚きます。彼らの多くは都会を歩いていても街がきれいなのにびっくりするそうです。そして意外なことに「ゴミ箱がない」ことも不思議なのだそうです。「ゴミ箱がないのに、なぜ街がきれいなのか」という驚きです。ずいぶん昔の話ですが、カップヌードルというのが世に出たとき、歩行者天国でカップヌードルを食べながら歩く(お湯はどこで調達したんだ?)外国の人がCMに登場したことがありました。もしほんとうにあんなものを食べながら歩くのであれば、なるほどゴミ箱が至る所にないと困るでしょうね。私のような者でも「物を食べながら歩くのは品がない」「電車の中で物を食べるのはやめなさい」と言われてきただけにあちらの人の発想には、逆にカルチャーショックを受けます。
外国の人がもうひとつ口を揃えておっしゃるのは、日本人の親切なことです。「道に迷ったりして困っていると『どうしたのか』と尋ねてくれて、親切に教えてもらったり案内してもらったりした」「(たとえばコンビニの)店員さんがあまりにも親切なので驚いた」などとたいていの人が言います。私などは不愛想な人がいるな、と思うこともあるのですが、海外ではむしろそれが普通で、ニコニコと対応してくれる(最近の言葉で言うと「神対応」)人がいると驚くのでしょうか。これも文化の違いですね。
さらに彼らはこんなこともしばしば言います。

    「日本人は怒らない」

もちろんそんなことはないのですが、彼らの常識からいうなら穏やかで温かく包容力があってけっして怒らない、と感じられるのだそうです。「イツモシズカニワラツテヰル」という宮沢賢治の理想そのものが日本人の特徴だと思われているのかもしれません。クレーマーはかなりいると思うのですけどね。
しかし冷静に考えてみると、海外の人は確かに意思がはっきりしていて、意見の主張が明確で、対立する者には攻撃的なことを言う(ときには行動する)のが当然と考えているふしがあります。その点この国の人は何となく

    周りに合わせる

感じが強くて、出る杭は打たれるとばかりにはっきりものを言わない、主張しない性癖があるのかもしれません。ただ、かなり我慢するために、堪忍袋の緒が切れると「キレる」ということになるのかな、と思います。「一揆」という行為は耐えがたきを耐えてきた人たちの爆発だったように思えますし、塩冶判官はもう少し早く怒っていれば家来たちを巻き込む悲劇を起こさずに済んだかもしれません。適当にガスを抜くというか、小さく怒っておけば「キレる」ことは少なくて済むということなのですが、そういう器用なことができる人は少ないのでしょうか。私もそういうところがありますし、日本人の気質として同じような面があるために『忠臣蔵』のような芝居はおもしろがられるのでしょうか。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

役目なれ 

短歌の紹介が続きます。興味のない方はどうぞスルーしてください。前川佐美雄の歌集『紅梅』は、ほとんどがそのタイトルのとおり、昭和二十一年の梅の季節(昨日書きました「甘藷」の歌は前年の秋のもの)に詠まれたものです。つまり多くは戦争が終わってから半年後の作品なのです。この時期、世の中はどんな空気だったのか、また人々はどんな心で過ごしていたのか気になります。
『紅梅』というタイトルだけに、梅の花を読んだ歌ももちろんいくつもあるのです。「わが庭の紅梅の花に冴えかへる寒き三月の雪すこし降る」などは戦後かどうかに関係なく、ありふれた春寒の歌と読めそうです。しかしこれも終戦後初めて迎える春の

    冷え冷えとした心

が投影しているとも思えます。
 その歌に朱を入るることも
  復員の青年なればねんごろにすぞ
佐美雄が歌の添削をするのですが、復員してきた青年のものなのでより丁寧にしてやる、という心です。国内にいて和歌を詠んでいた佐美雄は、出征した若者に申しわけなかったという気持ちが働いているように感じます。
 九萬餘の若き女性があふれしと
  この現實もつひにかなしき
若い男たちが戦死して若い女性が結婚することもできないほどあふれてしまいました。これはもう厳然たる事実、哀しいまでの現実なのです。
 敗戦を悔(くや)む
  少女(をとめ)らの前に来て
   然らざるゆゑを説く日暮れまで
敗戦を悔やんでいる若い女性たちに「そうじゃないんだ」「悔やむのはやめよう」と話をしてやるのですが、長い時間がかかってしまいます。ただ、日暮れまで話してもそれで誰もが納得したかどうかはわかりませんが。
 をとめ等(ら)のかなしき問に答へつつ
  少女はまだ見ぬ世界も言へり
少女たちは悲しみにあふれたことを尋ねてきます。それに答えながら、将来の話もしてやるのです。戦争の悲惨さ、悲しみにとらわれ過ぎず、未来を見ようとするのでしょう。
 はしけやし少女たれ朝々くしけづり
  敗戦の悔みまた言ふ勿(なか)れ
ああいとおしいこと、毎朝髪を梳いておくれ、少女たちよ、もう敗戦の悔やみは言わないでと、娘らしく希望を持って生きることを歌っています。
 戦争の被害者たらぬものなけど
  なかんづく清き青少年ぞ
誰もが戦争の被害者なのですが、とりわけ

    心の清い青少年

が一番気の毒だと言っています。若い男女をこうして不幸にするのが戦争というものの正体なのでしょう。
しかし、佐美雄は若者の力に期待しています。
 少女らに取りかこまれて語るとき
  幾何(いくばく)か次の代をばたのみぬ
少女というのは佐美雄の周りにいる短歌を詠む人たちでしょうか。その人たちと話をしていると、少しは将来への期待が持てます。その頼るべき若者の命を失ったのはほかならぬ戦争です。
 封建の世は知らね戦後の貧民に
  君らは何を約束せるや
封建時代ならともかく、今、貧しい暮らしをしている人々に何を約束したのか、何もできないだろうに、と、政治家の責任を詰問するような歌です。
 過ぎし日に指導者などとたかぶりし
  君らも少しもの考へよ
これはもうあまりに直截的で、特に下の句は現在の政治家の顔を思い浮かべると笑ってしまいそうになるくらいです。昔も大差なかったのでしょうかね。大きな顔をしていても、何も考えていない。しかしそういう人にはお世辞を言う人が多いのが世の中。佐美雄はここで「王様は裸だ」と言っているようです。
 一國の総理といへど役目なれ
  愼みてこころ居丈高になるな
総理大臣と言ってもそれは役目に過ぎないのだ、謙虚な気持ちで、居丈高になってはならぬ、と言います。まったくそのとおりで、今の傲慢な政治家たち、たとえばあの人にも、この人にも見せたいような歌です。
昭和二十一年といえば77年前です。変わったこともあり、相変わらずということもあるようです。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

戦争から逃げてきた(2) 

前川佐美雄の歌を読んでいても、戦時中のものはあまり感銘を受けませんでした。佐美雄は『日本し美はし』の序文に「もとより身卑小にしてこの大いなる日の感激を歌ふに適せず、却つて御稜威をけがし奉ることなきやを恐懼しつつ、尚衷情やみがたくして歌ひあげたのがこれらの作品である」と書いており、戦争賛美とまでは言わないまでも、この人にして時勢から離れられない哀しみすら感じられます。わずかな救いとしては、新聞記事の切り抜きのような、威勢のいいプロパガンダ短歌ではなく、言葉の工夫に佐美雄ならではの味が感じられることが挙げられるくらいです。戦中の歌集には多かれ少なかれそういうところがあったのだろうと思います。文楽で『三勇士名誉肉弾』『水漬く屍』などが上演されたのと同じ哀しみを感じます。
佐美雄は、戦後の昭和二十一年に

    『紅梅』

という歌集を出しています。敗戦という現実を目の当たりにして心がぼろぼろになったのと同時にほんとうに言いたいことを自由に言えるようになった時期の歌集です。その中には、戦争を主導した人たちをかなり激しく攻撃するような歌があります。
 國民をつねに戦に嗾(けしか)けし
  かのやからは早く疎開をしけり
自分は安全なところにいて、人をけしかける。よくある話です。話が飛びますが、かつて総理大臣だった某氏の子どものころを知っている人がこんなことを言っていました。「あの人は腕っぷしの強い者の陰に隠れて喧嘩をけしかけるような人だった」と。子どものころからそういう人なら、三つ子の魂よろしく大人になっても変わらないでしょうね。そういう人が威勢のいいことを言って戦争をけしかけるのだと思います。
 国民にわびの一つも申さずて
  常のごとくにふるまふもあり
しらをきるのも権力者の得意技ですね。詫びたら負けだと思っているのか、絶対に自分が悪いとは言わないのです。そんなことをしても庶民はとっくにお見通しですが。
佐美雄は『紅梅』の中に「甘藷の歌」(戦後間もない昭和二十年秋の歌)という小題を持つ二十一首の歌を収めており、この中に政治家や役人をこっぴどくやっつけたものが含まれています。
 のろのろと何をしゐるやつかさびと
  甘藷(いも)腐るがね早も配りね
 米に替る甘藷にあらずや
  腐らせて徒(あた)に世びとを
   怒らすなゆめ
「何のんびりしてんだよ、お役人。今が腐っちまうよ、早く配っちゃいな」「米の代わりの甘藷だろうよ。腐らせちまっていたずらに人を怒らすんじゃないよ」と、江戸弁で解釈したくなるような歌です。なかなか埒のあかない役人仕事への批判でしょうね。
 しかすがにおぞのたぶれの罪深き
  大臣(おとど)の面(つら)に
   似し甘藷やある
この歌の直前に「つくづくと眺めてゐればその形どの甘藷もみな罪もあらずに」という一首があるのですが、それに続けて「しかしまあ、おぞましく狂った罪深い大臣の面に似た甘藷はあるだろうか」と言うのです。
 痴れものが甘藷ならぬうまき味しめて
  咽喉(のど)つまるとき
   戦は敗(ま)けぬ
「ばかな奴らが、甘藷ではないがうまい味をしめて咽喉をつまらせたら、そのときに戦争に負けたんだ」とかなり激しく批判しています。「咽喉つまるとき」がうまい言い方だと思います。大臣たちがうまいものを食べるようにいい思いをしたと思ったら、それがのどに詰まって目を白黒させている。そんな姿が浮かびます。狂言かチャップリンの映画にありそうな話で、権力者はいつも滑稽な顔をしています。
そして、「戦争だ、戦争だ!」と浮かれたように騒いでも、結局は庶民も敗残の憂き目を見るのです。
 ひとたびは戦(たたかひ)勝てと
  勢(きほ)ひしが
   今は甘藷食ふばかりなりける
 新しく開け来(こ)む世に
  夢もなく夜の爐にひとり
   甘藷を焼きつつ
私はずっと戦争の話から逃げてきました。しかし今は正面から向き合おうという気持ちになっています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

戦争から逃げてきた(1) 

今ひとつ創作浄瑠璃を考えています。「時代物」と言えるのですが、武士は出てきません。出てくるのは僧侶が二人と田舎の母子。それだけです。内容は書きませんが、時は源平の戦いのあとです。この話の中で私は少し反戦の言葉を入れるつもりです。たいしたことではないのですが、このところどういうわけか戦争への憎しみが強まってきていて、少しでも書き込んでおこうと思ったのです。
このブログでも反戦歌のことを書きました。
二月締切の雑誌に送った短歌は完全に反戦歌でした。そして、新聞でも何でも、戦争がらみの文章があると、これまでは何となく毛嫌いしていたはずなのに、つい読んでしまいます。ウクライナに限らず、人の愚かさの象徴として戦争を見つめています。
以前書いたことがあると思いますが、私は文楽が好きなのに

    戦国時代は苦手

です。はっきり言うなら「嫌い」なのです。群雄割拠の時代の人物関係もあまり詳しくありません。高校時代、日本史は得意科目で入試でもかなりいい点を取ったと思うのですが、戦国時代だけはやる気が失せるので私の弱点でした(幸い入試に出なかったのですが)。NHKの大河ドラマは2~3年に一度は戦国時代を扱っているような気がする(実際どうなのかは知りませんが)こともあって、いつのころからか観なくなりました。司馬遼太郎の小説はそれなりに読んできましたが、概して戦国時代を舞台にするものは肌に合いません。自分で書いてきた浄瑠璃はほとんどが世話に属するもので、これからも大げさな「時代物」には行かないつもりです。
近現代の戦争についてもまったく詳しくなくて、興味も薄く、本もあまり読んでいません。戦の場面のある映画などを観たら、勝った負けたと一喜一憂している「大将」よりも「ウォーッ」と声を挙げて突撃しながらあっけなく殺されてしまう名もない兵士が頭に残るありさまです。後ろで糸を引く権力者よりも「名もなき兵士」の人生、その家族などに思いを致してしまうのです。ですから、そういう人たちが権力者から「命を投げうってくれた英霊」などと扱われるのを見ると、腹立たしくさえ感じます。
かくして私はずっと戦争の話題からは逃げてきたと言ってもよいくらいです。
この冬、1903年生まれの

    前川佐美雄

の短歌を読んできて(まだまだ読み続けます)、戦争の時代をくぐり抜けてきた人の、短歌との向き合い方に関心を持ちました。佐美雄は戦時に
 よこしまの國は撃つべし
  邪(よこしま)の大國をうつ
   皇国今は
 御劔(みつるぎ)を神のみたまと
  伏さまくは今の戦争(いくさ)に
   御験(みしるし)ぞ給(た)べ
 眼の碧き紅毛どもを切らまくは
  日本(やまと)の剣に
   穢れあらすな
 學生の半らにありて國のため
  戦立(いくさだ)つてふ
   君らことに祝へ
 天皇(すめろぎ)の
  御眼(みめ)のまぢかに
   穢(むくつ)けく居し紅毛も
    追ひやられたり
などという歌を詠んでいます(すべて『日本し美はし』による)。今見ると悲しくなるような歌で、当時の歌人たちもマインドコントロールされたかのように多かれ少なかれこういう歌を詠んだのですね(明日に続く)。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

3月のイチゴ 

今年の春は植物の生育が少し遅いような気がします。3月8日はミモザの日でしたが、私が楽しみにしているご近所の立派なお宅に植えられたミモザはまだほとんどつぼみでした。梅も、なかなか満開まで行かず、やはり気候の影響なのでしょうか。
春になって、イチゴが少しずつ息を吹き返してきました。冬の間は成長が止まりますから、これでほんとうに実が生るのだろうかと不安になりますが、暖かくなることで変化がみられると少し安心します。しかし、昨年は3月のはじめにはすでに花が咲いていました。イチゴも、今年はかなり遅いような気がします。
今年の3月1日頃はまだ寒かったので、あまり変化はなかったのです。しかし同じ時期に去年の写真がFacebookに出てきて「花が咲きました」というキャプションがついていましたので、焦ってしまいました。
ところが、数日後に様子を見ると、新しい葉が出ているのがわかりました。冬を越した葉はさすがに疲れたように見えるのですが、新しいものはほんとうにきれいでみずみずしさにあふれています。同じ緑色といってもまったく違うのですね。人間も古くなると若い時代とは

    似て非なるもの(笑)

に変化していきますが、古い葉は濃いというか、黒っぽいというか。しかも色あせている部分があります。一方の若葉は「これぞ緑色」という華やかさを持っています。
数日するとさらに葉が出てきているのが見えました。もうこの時期になると肥料はやらなくていいらしいので、あとは適宜水をやりつつ様子を見ることにします。
今年、もし実が生ってランナーが出てきたら、伸ばすのは少し減らした方がいいのかもしれません。ひとつの苗に栄養が行きわたるようにするのがいいのかな、と感じています。数年はイチゴ栽培を続けるつもりですので、教科書(ネット、図書館にある栽培の本)に従いつつも自分の

    経験

を大事にしたいと思っています。その意味では、毎年いろいろと試行錯誤しなければならないでしょう。
さて、3月10日(昨日)現在、急に気温が上がってきたこともあって、イチゴの葉は次々に新しいものが出てきて、立体的になってきたというか、全体の背丈が伸びた感じです。ただ、まだ花が咲くところまではいっておらず、次にイチゴの記事を書くときまでのお預けとしておきます。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

紅梅と鶴 

梅の花は好文木とか花兄とか言われ、長く愛されてきました。『万葉集』の時代なら春の花の代表は梅でした。もともとは大陸の植物で、それが渡来したものです。以前どこかで書きましたが、「梅」はあちらでの発音が「メー」のような音で、それを聞きなして「むめ」と呼ばれるようになり、やがて「うめ」として定着しました。いわば「うめ」は外来語です。
『万葉集』以後の和歌にも多く取り入れられて、紀貫之の「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」に詠まれているのも梅です。
しかしこれほどに愛されてきた植物を歌に詠むのは逆に難しいものです。古い歌の焼き直しに終わってしまう可能性もあります。

    中村憲吉(1889~1934)

が岡山の後楽園の梅林で詠んだものがあります。『軽雷集』に収められた昭和三年(1928)の歌です。
 枝がちて蕾ながらの梅の園
  しら鶴を清く居らしめにけり
 春寒き梅の疎林をゆく鶴の
  たかくあゆみて枝をくぐらず
などがあり、梅林の鶴が詠まれているのです。梅に組み合わされる鳥というと鶯が一番に思い出され、鶴はむしろ松でしょうか。
しかし、白梅と白鶴、紅梅と白鶴というのもきれいですね。
前川佐美雄には『紅梅』という歌集があり、その中にも当然梅が詠まれているのですが、昭和三十九年(1964)に刊行された『捜神』にはこんな歌があります。
 紅梅にみぞれ雪降りてゐたりしが
  苑(その)のなか丹頂の鶴にも降れる
透明なあるいは白いみぞれが降っていて、それが紅梅に降り注いでいます。あたりの風景は何も描かれておらず、作者は白いみぞれと紅の花の中にいます。ところが、何かの視線を感じたかのようにふと気がつくと苑の中に別の赤いものが見えました。さらに見ると鶴でした。丹頂の白い鳥。鶴の頭の赤いところにもみぞれ雪は降っていました。みぞれ雪と紅梅からみぞれ雪と丹頂へ。はっとするような下の句です。ただ、楽しい歌なのかというとそうではなく、どこか

    寂しげな

雰囲気があると思います。ここにいる鶴は、一羽かどうかはわかりませんが、私には、何となく孤独なもの言わぬ鶴が雪の降るに任せてぽつんと佇んでいる感じがします。とても清澄な気分の感じ取れる歌です。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

マスク要りません 

昨年末から今年の年始にかけて第8波とされる感染の流行がありました。私の知る限りでもかなりの人が感染していました。私のように行動範囲の狭い者はウイルスに出会う機会も少ないからでしょうか、何とかここまでは無事に乗り切っています。
それにしても、国内の感染者はすでに3,300万人を超えていて、延べ人数なのかもしれませんが、見かけでは4人に1人以上が感染した経験を持っていることになります。
私がこのウイルスへの対策としておこなってきたことは、簡単にいうと都会に出ないことと手洗いすることです。流行し始めた2020年の二月に、私は東京に行きましたが、それ以後、逢坂の関以東はご無沙汰しています。大阪や京都も以前に比べると行った回数はきわめて少なくなりました。
このウイルス感染症の流行を象徴するものは

    マスク

でしょう。マスクをして電車に乗り、マスクをして事務を執り、マスクをして遊び。いったいどれほどのマスクを消費したのでしょうか。マスクを全世帯に2枚ずつ配布するというのは摩訶不思議な政策(と呼べるのか?)だったと思います。テレビのグルメ番組では「一口食べるとマスクを着けて感想を言う」などということもありました。
今年の学校の卒業式は、保護者はともかく子どもたちはマスクしなくてもかまわないというお達しが教育委員会あたりから通知されているようです。中学、高校の今春卒業する生徒さんは2020年の入学ですから、丸3年の在学期間をずっとマスクをしてきたことになります。親しい友だちはともかく、それほどでもない人の顔はろくに知らないまま別れていくことになるかもしれません。かわいそうな気がしてなりません。マスクが本当に要らなくなった時に同窓会をして

    「君、こんな顔だったの?」

なんて笑えるようになってほしいです。
私はこの3年間、電車に乗るときと文化施設や店など多くの人が集まるところのほかはほぼマスクはしませんでした。そうしないと呼吸が苦しくてたまらないということもありました。電車から降りて人のいないところでマスクを外した時の開放感は半端ではありませんでした。道を歩く時もしませんでしたので、ときどき冷たい視線を浴びることもありました。
今後は室内外いずれもマスクは不要で、電車や文化施設や店などでは着けるように推奨する・・ってこれ、私が3年間続けてきたのと同じです。
インフルエンザと同じように、また流行は来るのでしょうが、このウイルスについてはようやく沈静化の兆しは見えているようです。
マスクを外してもいいです、といっても、慎重な人が多いでしょうから、当分はマスク姿が続くでしょう。マスク生産をする会社には申し訳ないですが、発熱などの症状のある人以外は電車でもマスクを着けない日が来ますように。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

歌集 

私は大学では文学部でしたが、周辺には小説、詩、戯曲など、何らかの創作をしていた人は少なくありませんでした。中には学生時代に詩集を出していた人もいました。小説は新人賞に応募してもなかなかいいところまで行く人はおらず、いつしか断念せざるを得なくなることも多かったようです。
私の知っている人で、仕事を辞めてから数冊の創作を出版した人がいました。もちろん自費出版で、退職金を使っての散財(?)だったのだろうと思います。失礼ながら売れるはずはなく、ご自身の生きてきた証のようなものだったのだろうと思います。老後の経済的な心配のいらない方でしたのでこういうことがおできになったのだと思います。「売れない」と申しましたが、この方の作品の中には小さな文学賞の最終選考まで行ったものもあったそうですから、まったく箸にも棒にもかからない(失礼!)というものではなかったのです。
また、高校の先生で小説を書くのが趣味という人もいらっしゃいました。この人も小さな賞を受けることがあったそうで、何冊も出版なさっていたのです。これまた失礼ながら売れるとは到底思えないものでしたが、そんなことはおかまいなしで次々に出版なさっていました。独身を通された女性の方で、本の出版のために働いているという感じだったのかもしれません。
私が知っている人だけでも何人もいらっしゃるわけですから、こういう出版をなさる人は少なくないだろうと思います。
これはこれでとてもいい生き方というか、ご自身が納得のいくことをなさったのですからうらやましいです。
短歌の世界でも、

    「歌人」

と呼ばれるほどの人ではなくても歌集を出版することは珍しくありません。私は以前ある短歌の雑誌に連載を頼まれたことがあって書いていたのですが、そうするとそこの同人の方からよく歌集を送ってもらったのです。10冊はくだらないだろうと思います。その短歌結社では歌集の刊行を奨励されていたのだろうと思います。短歌をたしなむ人というと女性が多いのですが、いただいた歌集もひょっとしたらすべて女性(ほぼ高齢の方)のものだったかもしれません。その同人誌は月刊でしたので、毎年歌が何十首も発表でき、10年も経てば数百首ですからそれらを集めると

    しかるべき歌集

ができあがるのです。きれいな装丁でとても立派なものを刊行なさっていましたが、こういうアマチュア歌人の出版を引き受けるのは短歌出版の会社にとって重要な仕事だと思われます。
翻って私の属する結社では、歌集を出している方はあまりお見かけしません。代表の先生は出していらっしゃいますが、それ以外の方はそこまでお考えになっていないのかもしれません。でも、余裕のある方はぜひ出版なさるといいと思うのです。売れる必要なんてないのです。100部くらい作って仲間などに配布するようにすれば、お互いの励みにもなるだろうと思います。
・・などと言っている私自身も歌集の刊行は夢としては抱いています。ただ、以前も書いたかもしれませんが、経済的理由で(笑)難しいだろうと思います。おっと、その前に、まだ歌が詠めていないという致命的な現実がありました。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

園井恵子さん 

私は女優さんに憧れるということがあまりありません。海外の人では古くはオードリー・ヘプバーン、比較的新しいところではペネロペ・クルスでしょうか。日本人では、吉永小百合さんも映画ではあまり見ていませんし、これと言って思い浮かぶ人はありません。かろうじて、テレビによく出られる方で沢口靖子さんはどこかとぼけたようなところもあって、かわいくて好きです(笑)。
最近、びっくりするようなきれいな人を見つけました。知らない人でしたので、よけいに驚きました。
手塚治虫さんの書かれた「私の宝塚」というエッセイの中に出てくる人で、手塚さんが宝塚市にお住まいだった時にご近所だったのです。手塚さんは子どものころに兵庫県宝塚市御殿山というところにお住まいで、お隣は鳥居さんというお宅。ここの姉妹はお姉さんが天津乙女、妹さんが雲野かよ子。お姉さんは春日野八千代さんらとともに宝塚の至宝とまで言われた歌劇団のスターでいらっしゃいました。昔の宝塚の生徒さんは『百人一首』から名前を付けられましたので(霧立のぼる、小倉みゆき、瀧川末子、神代錦、瀬尾はやみ・・など)鳥居姉妹の芸名も「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ」に由来することは申すまでもありません。また、隣町には越路吹雪さんもお住まいだったそうです。そして、もうお一人、ご近所だったというのが、やはり宝塚歌劇団の

    園井恵子

さんだったのです。私は不覚にもどういう方か存じ上げず、調べてみたのです。園井さんは大正二年(1913)のお生まれ。竹本越路太夫師匠と同い年ですね。岩手県出身で宝塚音楽学校から宝塚歌劇団に入られました。最初の芸名は笠縫清乃、そして、新劇の苦楽座(丸山定夫、永田靖、多々良純、佐野浅夫らが所属)に移り、映画の『無法松の一生』(稲垣浩監督、阪東妻三郎、月形龍之介ら出演)では吉岡夫人という大役を務められました。この映画を観ていれば絶対に存じ上げていたはずなのに、日本映画はほんとうに無知なものですから・・。園井さんは、その後は映画に残らず苦楽座で演技を磨かれました。戦時下にあって、苦楽座は「桜隊」と改めて広島市を根拠地として慰問団のような形で演劇を続けたそうです。ここに至って「ああ、そうか」と、私はやっと思い出したのです。井上ひさし『紙屋町さくらホテル』に描かれている、あの劇団だ、と。まったく鈍い人間です。
そして昭和20年8月6日、園井さんが32歳の誕生日を迎えられたその日にあの忌まわしい

    原子爆弾

が投下されたのです。園井さんはすぐに症状が出たわけではなく、ご本人は助かったと思ったそうです。やがて敗戦となり、これで演劇に専念できると思ったところ、神戸市で容態が急変して21日に亡くなったそうです。
この方の写真はかなり残っていますが、どれを見ても本当に美しく、演技もすばらしかったそうですので、もし何ごともなければ戦後の演劇史、映画史に残るような活躍をされただろうと残念でなりません。なんと、3年前には千和裕之『流れる雲を友に 園井恵子の生涯』という本が出ていて、ぜひ読んでみたいと思っています。
今後、「好きな女優さんは?」と聞かれたら、迷わずこの方のお名前を挙げたいと思っています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

実学が大事? 

世の中が窮屈になってきて、今すぐ役に立たないような勉強はしても無駄だと言わんばかりの風潮になっています。しかしノーベル賞の受賞者を見ても、評価されるのは何十年も先ということが珍しくないのです。それをわきまえずに今すぐ成果を出せというのは見識のある人の考え方とは思えません。
声の大きい人がそういうことを言うと、すぐそれに乗ってしまうのが、いい方は悪いかもしれませんが、「役人根性」(もっと失礼に言うなら「小役人根性」)とでもいうか、指示してくる方を見て行動するタイプの人たちだと思います。実際にどうすればよき教育ができるのかがあとまわしになっていないでしょうか。
当事者の方にこんなことを申し上げたらきっとお怒りになるでしょうが、私はやはり間違っていると思います。
私の知っている人で、大阪の府立高校で年に一度(二日間)着物の着付けの講師をなさっていた方がいらっしゃいます。
府立高校の授業の枠内で、

    お茶と着付け

を実施していたのだそうで、とても珍しく、おそらく生徒さんも楽しみにしていたのではないかと思います。高校時代に一番楽しかった授業は何ですか、と聞いたら、きっとこの授業の名前が挙がるだろうと想像しています。事実、この講師の方ご自身も「生徒さんはとても喜んでくれました」とおっしゃっていました。人柄のすばらしい方ですので私のように憎まれ口はおっしゃらず、もう諦められたようですが、残念に思っていらっしゃるだろうと拝察しています。着付けのみならず、茶道もとてもいい教育手段で、品格教育として大切にすべきだと思うのですがほんとうにもったいないことです。
教育というのは、突き詰めて言えば文化の伝承です。多様な文化を教育者の見識と学生、生徒、児童らの興味関心を見極めながらうまく伝えることが必要だと思います。けっして機械にプログラムをたたき込むことと同じではないのです。「よそがやっていないことをするのは間違っている」とでも思っていらっしゃるのではないかと勘繰りたくさえなってしまいます。独自性とか特徴というのを怖がり、横並びを好むのはいかがなものでしょうか。
結局、この茶道と着付けの時間は

    簿記

になるのだそうです。簿記を学ぶこと自体に文句はありませんが、やはりここにも「すぐに役に立つ」ことを重視する意識が見え隠れするのが気になります。国語の時間に小説などは教えなくてもかまわない、というのも根は同じでしょう。私は学生に敬語の正しい使い方という「すぐに役立つ」話をしつつ、「何の役にも立たない」と思われがちな『源氏物語』や『竹取物語』の魅力を伝える授業をしてきました。この両輪がうまく回転してこそ教育に幅ができると思います。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

跡に残るもの 

藤原定家の歌に「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」があります。この歌は「見渡せば花も」と言ってまず一面の花を連想させます。さらに「紅葉も」と続けて春の花、秋の紅葉という最高に美しいものを描いています。ところが次の句で一転して「なかりけり」とそれらすべてを打ち消してしまうのです。花も紅葉もそこにはありません。ないものを「花も紅葉も」とわざわざ言っているのです。読者(歌ですから「聞き手」とも言えます)の目の前に広がった美的なものが一切なくなってしまい、あとに残ったのは「浦の苫屋」だけ。そんな秋の夕暮れだというのです。佐佐木信綱作詞の軍歌に

    勇敢なる水兵

という歌があります。日清戦争の黄海海戦の際の逸話をもとにした歌だそうです。この歌の冒頭は「煙も見えず雲もなく風も起こらず波立たず」というもので、なんだか「ないない尽くし」のようです。この次に「鏡のごとき黄海は」という言葉が続きます。つまり何もないことを表現することによって、静謐な海の姿を現しているのです。それをあえて「煙」「雲」「風」「波」という言葉を用いることでほんとうに何もないのだという印象を与えています。山口洋子作詞『誰もいない海』も秋になって誰もいなくなり、海だけがそこに残っています。
このように、「ないもの」を表現するというのはなかなかおもしろい方法だと思います。私も短歌を作るときに一度使ってみたいのですが、案外これが難しいのです。
能のひとつのパターンとして、亡霊が現れて、回向をしてもらった結果、姿を消す結末のものがありますが、これは「花も紅葉も」の部分が登場人物(通常はシテ)で、それが消えることによって、あとには「浦の苫屋」にあたるものだけが残っていた、という描き方をします。たとえば「船弁慶」なら知盛の亡霊が弁慶の祈りによって退散し、「また引く潮に揺られ流れて、跡白波とぞなりにける」と結ばれます。これは「船弁慶」をもとにした文楽『義経千本桜』「渡海屋大物の浦」もほとんど同じです。
最近Facebook友だちの方から教えていただいた、『源氏物語』の落葉の宮の霊をシテとする

    落葉

も「山風ばかりや残るらむ」で終わります。すべてがなくなって、あとには風が吹いているだけ、というのです。
こういう例をいろいろ見ていると、無常観とかはかなさという日本人の美意識につながるものが感じられます。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

口を開けずに話す 

子どものころ、とても人気のあった腹話術の名人がいらっしゃいました。といえば、演芸のオールドファンならすぐにお名前を思い浮かべられるでしょう。川上のぼるさんですよね。この方は、京都のご出身ですが、京都学芸大学(今の京都教育大学)音楽科で学ばれたという経歴をお持ちです(卒業されたのかどうかは存じません)。私は小学生低学年のころにナマで川上のぼるさんの芸を(おそらく複数回)拝見拝聴したことがあって、ほんとうにすばらしいと思いました。文楽人形とは違いますが、それをモデルにしているかのような「ハリス坊や」という大きな人形を抱えて出てこられ、口を動かさずに人形の声を出されます。しかも川上さん自身と人形との掛け合いがとても自然で、マジックのようでもありました。川上さんはもともとはいわゆる「声帯模写」の方で、花菱アチャコさんの真似をされたのを記憶しています。
その後の腹話術師としては、川上のぼるさんのご次男の川上じゅんさん、いっこく(堂)さんなどが活躍なさっています。
私も真似てみたことがありますが、なかなか難しく、特に両唇を開閉しなければならない音(マ行、バ行、パ行)はどうしても口が動いてしまってうまくできません。

    芸の力

はすごいものだと思います。
ところで、最近気になることがあります。若い人に多いように思うのですが、あまり口を開けずに話す人が目立つのです。口を少し横に引っ張るような形を作って、そのまま音を出そうとするのです。「イ」の発音をする口ですべての音を出していると言えばいいでしょう。もちろん、「マ」「バ」「パ」などは唇を開閉しますが、母音に関してはほとんど口を動かしていないように見えるのです。もっとも、これは最近のこととは言えず、私はずいぶん前に

    NHKのアナウンサー

で、あまり口を開けずに早口で話す人(おそらくもう80歳近い方だと思います)を見たことを覚えています。口の開閉は日本語の発音にとって大きな役割を持っているように思っていましたので、アナウンサーが「もごもご」と話すのは不思議ですらありました。この人はインタビューや進行役がうまかったとかで、とても人気があったようですが、私はそれもまた不思議でした。
私は教員生活において、できるだけはっきりした声で話すことを意識してきました。特に耳の病気をしてからは、自分の声を聴くのは自分以外の人だという気持ちが強くなり、どうすればよく聞き取ってもらえるかばかり考えるようにもなったのです。そのためには、やはり口を開けることは大事な作業だと思っています。「はい」という返事ひとつにしても、口を開けてはっきり言わないため「へえ」とか、鼻音で「え」と言っている感じに聞こえる人がいます。「そうです」は「そうす」「そす」、「ありがとうございます」は「ありあたす」。日常生活に関してはそれで不自由はないのでしょうし、急いで言わねばならないことがある(魚屋さんが「ありやたした」なんて言うのはかえって威勢が良くてすてきだとも言えます)のも承知しています。しかし、テレビなどであたりまえのように使われ、字幕にもそのように出たりするとがっかりしてしまいます。
ほかの人はともかく、私はやはり明確な言葉遣いをしようと思っています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

桜のピエタ 

私がいつも歩く(徘徊する、ともいう)公園は、本来はある銀行の運動場だったのです。ところが銀行も経営が大変で、合併を繰り返し、持っている財産も売り払うようになりました。そのひとつがこの運動場で、外周を歩くと800mくらいあります。学校の運動場より広いと思います。銀行員の方がここで年に一度くらい集まって運動会などをなさっていたのではないでしょうか。
この土地を売却するに際して、名乗りを上げたのが「市」でした。ここを

    防災公園

にしようと考えたのです。広大な敷地は芝生にして遊具は片隅に置くだけ。地上には太陽光発電の装置、地下には耐震性の雨水の貯水槽、トイレは二か所にあるうえ、公園の端のベンチの部分にも、非常時にはトイレが設置されるようになっています。当然、地震などの際の避難場所になっているのです。樹木として、白樫が植えられているのですが、これは耐火性の強い木ということで選ばれています。
河川敷側は耐火性の木を植える必要がないからでしょうか、桜並木になっています。まだ銀行の運動場時代から植えられていたものもあるようなのですが、その中には老いて花を咲かせることができなくなったものもあります。若木も植えられていますので毎年きれいに花を咲かせていますが、老いたものは伐採される運命です。ただ、伐られたあとの幹の部分だけが残っているものがいくつもあって、その無残な姿が何とも哀しさを感じさせます。
私がこのたび歌に詠んだのは、その老木たちでした。枯れ木を見ると我が身に異ならない(笑)ように思えて、つい感情移入してしまいます。しかしこの枯れ木の幹はなんだかオブジェあるいは彫刻のようにも思え、それらをひととおり見ていくと、私の眼には聖母子像に映るものがありました。これもさっそく歌にしたのですが、私はそれを幼子のイエスを抱くマリアと見立てたのです。すると、ある方がこれを

    ピエタ

のようだとおっしゃいました。マリアは幼いイエスを抱き、十字架からおろされたイエスも抱きます。彼女はずっとこうしてイエスの母であり続けました。私がラファエッロの聖母子像を思い浮かべたのに対して、この方はミケランジェロのピエタを連想なさったのかもしれません。すてきな見方だな、と思って早速これも歌に取り入れることにしました。私は文字で交流ができることをとても楽しみにしていますし、これがないと自分だけの殻に閉じこもって生きている意味も感じなくなるかもしれません。ありがたいことだと思っています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう

枯れた桜 

少し前に、反戦歌のことを書きましたが、ひとつ忘れていたことがありました。
『戦争を知らない子供たち』という歌がありました。ちょうど吹田市で万国博覧会があった年に発表されたのだそうです。それもそのはず、初めて歌われたのが万博のコンサートだったのだとか。折しもベトナム戦争の時期で、日本は無関係のようで米軍基地がありますから大いに関係があり、それだけに反戦運動も小さなものではなかったのだろうと思います。
北山修さんと杉田二郎さんによる曲で、ジローズが歌ったのを覚えています。これが私にとっての初めての反戦歌だったかもしれません。
北山さんも杉田さんも1946年のお生まれだそうで、戦争が終わって生まれ、戦争を知らずに大人になったのです。1970年と言えばこの年代の人はまさに大学を出て社会人になる年齢です(北山さんは医大なのでもう少しかかったでしょうが)。海外では戦争、日本ではお祭り気分。そのギャップもこの歌を作らせたきっかけになったのではないかと感じます。
ウクライナのことがあって、日本でも軍備増強路線が唱えられ、なんだかとても

    きな臭い

空気が漂ってきました。日本が軍備を整えるのに、アメリカのバカ高い戦闘機などを買わされて、日米同盟だといわれて喜んでいるのがどうも理解に苦しんでしまいます。哀しいことに、戦争はぼろい商売になるようです。
そんなことをあれこれ考えているうちに、「桜」の題で短歌を詠むように言われました。今月(3月)の歌会で詠みあげるためのものです。しかし実際詠むのは2月で、桜はもちろん咲いていません。おそらくほかのみなさんは想像で詠まれるのだろうと思いますが、私は何しろ不器用なので、目の前にある桜を詠むほかはありませんでした。ということは、

    枯れた桜

です。冬の桜は、こんなのを詠んで何がおもしろいのか、というくらい愛想のない木です。清少納言は、桜について「花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる」(『枕草子』「木の花は」)ものがいいと言っています。しかし私の見たのは老木で、幹は太い、枝は太い。ほんとうにみじめな木でした。
ところが、その瞬間に、ふと反戦の歌が思い浮かんだのです。まさかこんなところでブログに書いたことが生きてくるとは思いませんでした。老いた桜の木は多くのものを見てきたはずです。戦争も知っているかもしれません。そんなことを思いつくと、何だか詠めそうだ、という気になりました。結局、そこからいくつもの反戦歌ができて、無事に提出できたのです。
ブログはやめられません。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
↑応援お願いします
jyorurisakushaをフォローしましょう