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20203年文楽四月公演千秋楽 

文楽が千秋楽を迎えました。
大曲の「妹山背山」は、今回は呂・織(背山)、錣・呂勢(妹山)という配役でした。
思い出したのですが、まだ昭和だった1986年4月大阪公演で「妹山背山の段」を太夫さんお二人で語られたことがありました。背山が七代目竹本住太夫(三味線は清治、四代目錦糸)、妹山が五代目竹本織太夫(三味線は八代目団六、五代目燕三)でした。61歳の住太夫と54歳の織太夫というまだ若いお二人でしたから大変な迫力がありました。今なら千歳太夫の背山、呂勢太夫の妹山という感じでしょう。
あれ以来、こういう形では上演されておらず、背山二人、妹山二人の太夫さんが語られます。とてもエネルギーが要りますが、体力のある年代の太夫さんにこういうことを試みてほしいという気持ちも持っています。「太夫が足りなくて通しができない」と言われることが多いですが、工夫すればできそうに思います。

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植物の輪 

朝顔を植えると花が咲いて種ができます。年によってはあまりできないこともあるのですが、多い時は2株か3株で250個くらい穫れたこともありました。
その時はうれしいのですが、さてその種をどうしたものかと悩みます。差し上げるといってもなかなか欲しいとおっしゃる方もいらっしゃいません。結局は廃棄するほかはないというのが実際のところです。
去年はイチゴのランナーをやたら伸ばしたため、これまたたくさんの苗ができて処理に困ってしまいました。たまたま、株が小さくて使えそうにないものがあったため、それは残念ながら廃棄することで何とか今年のものを確保したのでした。それでもずいぶんたくさんあって、いくらかは処分せざるを得ませんでした。
さいわい、苗が欲しいという方がいらっしゃったので、比較的使えそうな大きさのものをお渡しして、捨てずに済んだのでした。今年は少し少なめにランナーを伸ばそうと思っています。
そのとき、もらってくださる方があるのはほんとうに

    ありがたいこと

だと感じました。
朝顔の種をいただいたこともあり、またオクラの種も昨年いただきました。これは今年蒔くつもりです。
そんなことをしていると、今年は綿sの朝顔の種を少し分けてほしいというかたがいらっしゃって、お世辞でそうおっしゃっているのかな、とは思ったのですが、送り付けてしまいました。
幸いその方は

    「蒔きます」

とお返事くださいましたので安堵しました。
植物の種や苗があちこちにもらわれていったりいただいたりで、けっこう楽しい気持ちになります。
アノ苗が育っているのかな、と思うと育ててくださる方の優しい気持ちがうかがわれますし、こちらもまた丁寧に育てようという気持ちになります。
こうやってやり取りできるのはやはり平和だからでしょう。戦争している暇があったらみんなで種を蒔きましょう。

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バタバタと 

二月ごろから少し体調が悪くなって、それ以後好調な日がありません。
四月の後半になって冷える日が続いたりして、よけいに冴えない日が続いています。私の場合は酸素の血中濃度が不足して、動くのが億劫になるという面倒な状況に陥るのです。
最低限のことだけをして、あとは多少不義理を繰り返している状況です。
最低限のことというのは、やはり書かなければならないものをこなしていくことです。こればかりはサボることもできません。
不調の合間には大阪の府立図書館に行ったり、中之島で『源氏物語』のお話をしたりしていますが、あのときは家に帰ったら食欲もあまりなくてぐったりしていました。
ウォーキングもかなり歩数が減りましたが、天気のいい日はできるかぎり外に出るようにしています。
こういう時の気慰めになるのはやはり

    本と植物

です。最近は美術関係の本を少し読んだりして、またあれこれ学ぶことができました。もっぱら西洋美術史ですが、音楽と無縁になった今は、美術について学ぶのが大いなる楽しみです。最近は、神戸大学の宮下さんという美術史の専門家の本をいくらか読んでいました。この人はカラヴァッジョの研究で知られますが、それにとどまらず、美術史を見渡すのにとても有益なものを書いてくださっています。カラヴァッジョの闇を生かした絵は、短歌を作るヒントにもなっています。きわめて深い闇を用いる手法は彼の信奉者であるカラヴァッジェスキたちにも受け継がれ、彼らの手法である

    暗黒主義(テネブリスム)

は大流行しました。カラヴァッジョの作品では「ロレートの聖母」「慈悲の七つのおこない」「ラザロの復活」「ダヴィデとゴリアテ」などがあり、カラヴァッジェスキではアルテミジア・ジェンティレスキ「ユディットとホロフェルネス」カラッチョロ「聖ペテロの解放」などが思い浮かびます。いずれも大好きな絵です。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのさまざまな絵も闇と光、特にろうそくの炎が印象的です。ラ・トゥールの描いたいくつもの「マグダラのマリア」は炎によって彼女の心がうかがえるようです。
短歌を詠むとき、光や闇は「光」「闇」という言葉だけで表すのではなく、ほかの言葉を用いながら暗示できれば効果があると思います。といってもなかなかそういう言葉は浮かんでこないのですが。
短歌は幸いなことに絵筆を動かすような体力を要しません。寝っ転がっていても詠めないことはないのです。
ただくたびれているだけでなく、その時間も何かこういう創作ができればと思っています。
植物の存在も大切です。窓辺に置いているイチゴは授粉や水やりのちょっとした仕事がかえってありがたいのです。
もう少し暖かくなって多少なりとも元気を取り戻したらグラジオラスも植えたいと思っています。

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郵便が不便 

幼稚園か小学生のころのなぞなぞに「5円で日本国中どこへでも行けるのはなあに?」というのがありました。正解はハガキで、1966年までハガキは5円だったのです。私もそのころのことを覚えています。それが7円になり、10円になり、20円、30円、40円まできたところで消費税(3%)が新設されたため41円になりました。以後、50円、52円、62円と続いて今の63円に至ったのです。
それでも、郵便事業は長らく公営でしたから月曜から土曜まで配達されて、概ね2日で着くという安心感がありました。日曜日の配達がなかったので、唯一、金曜日に投函したら2日では届きませんでしたが。
ところが郵便事業の民営化が2007年におこなわれてからじわじわと便利さが蝕まれてきたような気がします。折しも、メール、メッセンジャー、チャット、LINEなどという形で文字による通信がたいていの人の手に入り、手間や時間がかかって割高になる手紙やはがきは敬遠されるようにもなりました。それはいきおい民営化された日本郵便の経営を圧迫することにつながり、結果的に

    利用者へのサービス

が低下してしまったと言わざるを得ないでしょう。民営化って何だったのでしょうか。
もちろん、郵便会社の皆さんは雨の日も嵐の日も配達してくださっていますのでありがたいことなのですが、以前に比べると特に配達日数に遅れが目立つようになりました。さらに土曜日の普通郵便の配達がなくなっていっそう時間がかかるようになりました。
郵便局に郵便物を持って行って「普通郵便で」と配達依頼すると「これは○曜日に着きますがそれでよろしいですか」と聞かれるようになりました。また、同じ郵便物でも送る相手の地域によって「こちらだけは1日遅くなります」と言ってくれるようにもなりました。これは、低下したサービスを少しでもフォローしようという郵便局の心配りでしょう。急ぐのであれば速達にしないといけないのですね。
以前、水曜日の午後に郵便局で東京都の23区内への普通便を依頼したところ、到着したのは

    月曜日

でした。以前なら金曜日には着いていたのではないでしょうか。たまたま、ほとんど同じ時期にスイスに手紙を送った(航空便)のですが、6日くらいで着いたようでした。東京まで5日、スイス6日。もちろん航空便ですから単純に距離だけで測れるものではありませんが、何だか割り切れない気分になりました。
最近も、私が居住する県内の県庁所在地に送るものがあって、木曜日の朝にポストに入れたのです。これも着いたのは翌週の月曜日でした。昨年(2022年)2月から同一県内でも翌日配達がなくなりましたから、木曜に出しても月曜日になるのは理屈ではわかりきったことだったのですが、以前なら金曜に着くはずが月曜日まで着かないとなると、実感としては不思議ですらありました。
今後ますます手紙を書く人は減っていくだろうと思いますが、さて、郵便事業はどんな道を進むことになるのでしょうか。

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梅の由兵衛(3) 

何となくこの先が予想できそうな話ですが、長吉の持っていたのは七十両、刀に必要なのは百両です。改作前の話には、長吉が百両を持っていたことになっているものもあるのですが、この三十両はどのように穴埋めするのでしょうか。改作ではここにも工夫を凝らしたのです(それがおもしろいかどうかは別ですが)。
さて、長吉が台所に入って、表の間には小梅だけがいます。そこに戻ってきたのは由兵衛。小梅は、質屋の刀が明日請け出されるようだと伝え、さらに「今、長吉が奉公先の七十両の金を持っていて勝手にいる」と言います。こんな言い方をするなんて、何やら奇妙ですね。
由兵衛は小梅に「どうしても金が出来なかったら、明日、質屋に行って相談しよう。今夜は十文を飲んで寝よう」といい、買いに行かせます。「十文」は盛り切り十文の酒です。ちょっとひっかけて寝る、というのです。しかし何だか、わざわざ

    小梅を追い出している

ような感じがします。
それなら買いに行ってくると小梅は「刀は百両ですね」と念を押したうえで出かけます。由兵衛は掛け金を掛けて脇差を取り出し、長吉を呼び出します。いくらかのやり取りをしたうえで、金があることを確かめ、さんざんためらったあげくに刀を抜き放します。ちょうどそのとき小梅が戻り、長吉が立ち上がって門口に行こうとしました。その背後から由兵衛は刀を振り下ろします。小梅の手前うろたえた由兵衛はそこにあった染め物を長吉にかぶせて隠します。そして小梅が茶碗を持つ由兵衛に徳利から酒を注ごうとします。ふたりとも手が震えています。そして小梅が傾けた徳利からばらばらと落ちたものは、一歩金(一分金。小粒。一両の4分の1)で

    三十両

のお金でした。島之内に勤め奉公することを決めたというのです。小梅は夫が長吉の持つ七十両の金を奪うだろうと予想して、自分が残りの三十両を用立てたわけです。
小梅は長吉にまだ息があるなら会いたいと言います。瀕死の長吉を抱き上げた小梅はなきながら事情を話します。すると長吉は思いがけないことを言い出しました。
「私は殺されなくても死なねばならない事情があります。このお金は実は店のお金を盗んだものです。小初瀬の野中の井戸に身を投げるつもりでここに来たのです」。
由兵衛が「自分もお縄を受けてあとから追いかける。礼は冥途でゆっくり言おう」というと、長吉は「姉様をよろしく」と言って金を投げ出してはかなくなってしまいました。
小梅と由兵衛は長吉の亡骸を本人の言うとおり野中の井戸に葬ろうと決めました。

こういう内容の話です。もとは百両を長吉が持っていた話だったのに、改作されるうちにその百両を長吉と小梅が分担するように書き換えられました長吉が「どちらにしても死なねばならない」と言っているのも由兵衛の罪を軽く見せる役割がありますから、この三人を目いっぱい観客に同情されるように仕立てようとしているのでしょう。私には、改作の陥りやすいわざとらしさが感じられます。
子殺しというのは芝居の方法としてよく用いられましたが、その残酷さを救うものがなければならず、そこに浄瑠璃の味わいが込められるのだと思います。たとえば『傾城阿波の鳴門』「順礼歌」なら重点がお弓とおつるの再会にあって涙を誘います(十郎兵衛による子殺しは上演されないこともありますよね)。その点『迎駕籠』は殺しが露骨におこなわれ(「寺子屋」なら陰でおこなわれる)、長吉があまりにもかわいそうで救いがないようにも思えるのです。今の文楽では上演しにくいかもしれません。
ついでに書いておきますが、私の見た床本は記述のように角書が「梅野由兵衛」(角書なので二行に分割)で、題が「迎駕籠」でした。この「梅野由兵衛」という書き方なのですが、このままだと「お初徳兵衛」「梅川忠兵衛」のように

    女性と男性の名前

を併記したもののように見えます。しかし由兵衛の妻は「小梅」ですからそういう意味ではありません。由兵衛のモデルになったのは「梅渋吉兵衛」で、それが「梅の由兵衛」と言われるようになったのです。「梅渋(梅谷渋)」は梅の根や樹皮を煎じたもので、明礬(みょうばん)をまぜて染料にするものです。その商いをしていたので梅渋吉兵衛、そして梅の由兵衛となったのです。となると、「梅野」という、阪神タイガーズのキャッチャーの名前のような表記は厳密にいうと奇妙にも思えます。

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梅の由兵衛(2) 

梅渋吉兵衛の実説についてもう少し詳しく書いておきます。神谷養勇軒(1723~1802))編の『新著聞集』(1749年刊。『日本随筆大成』所収)第十四「殃禍篇」に「梅渋吉兵衛の積悪」という話が載っています。吉兵衛は、元禄二年五月十九日、天王寺屋久左衛門の小者(丁稚)長吉に「お前の親が在所から出てきて会いたがっている」と騙して聚楽町の吉兵衛宅に連れて行きます。吉兵衛には、博打がうまいという理由で(!)結婚した15,6歳も年上の小梅という妻がいたのですが、この小梅が長吉に蒲団をかぶせて吉兵衛が刺殺し、金を奪ったのです。ところが、小梅の弟である三右衛門の元の妻が事実を知って天王寺屋に事件を告げ、天王寺屋は公儀に訴えました。そして事件の翌月の六月十九日に吉兵衛は新町の廓で捕えられます。長吉の亡骸は小初瀬あたりの古井戸に棄てたと自白したので捜索の結果発見されます。吉兵衛は磔になり、小梅は大坂追放になるのですが、後に子殺しをして磔にかかるのです。まったくもって、夫婦そろって「どういしようもない」人間だったのです。
芝居ではそれを忠義の夫婦に変えて、しかも長吉を小梅の弟とするなどの工夫を重ねていきました。
昨日書いた原田由良助の『茜染野中の隠井』以後も改作が行われ、二代竹本三郎兵衛、寺田兵蔵作で明和八年(1771)に初演されたのが『迎駕籠死期茜染』(むかいかごしごのあかねぞめ)です。そして

    『迎駕籠野中井戸』

として、「聚楽町」の段は昭和の前半の文楽でもわりあいに上演されていました。これが越路師匠や若師匠が語られたものです。女義さんの会では今でもしばしば語られています。
私の見た床本は角書に「梅野由兵衛」としたうえで、単に『迎駕籠』とだけタイトルがついていて、『死期茜染』と『野中井戸』はどう違うのかはまだ調べていません。或いは同じもので、『死期』というタイトルがよくないから変えたのかな、と思ったのですが、何の根拠もありません。詳しい方、専門家の方には笑われると思います。
元は武士の 由兵衛と小梅の夫婦は大坂の聚楽町(今の中央区神崎町あたり)で暮らしていました。恩ある主人の盗まれた刀を見つけるのですが、質屋に入っていて、取り戻すには百両の金が必要です。お金の工面に困っている由兵衛の家に小梅の弟の長吉がやってきます。一人で留守番をしていた小梅は弟の相手をしている心の余裕はなかったのですが、邪険にもできず話をします。すると長吉は「奉公先の店の

    為替の金七十両

を持っている」というのです。こんな子どもに七十両のお金を持たせるなんて、あるところにはあるものだ、と小梅は嘆きます。小梅が飯の用意をしてやろうというと、長吉は自分でするからと言って勝手(台所)に入ります。
ここまでが前半です。

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梅の由兵衛(1) 

四代目竹本越路太夫師匠が、お若い時にラジオ放送(BK)で豊澤猿太郎師匠(後、六代目猿糸)さんと「聚楽町」をお語りになったことが『四代竹本越路太夫』(淡交社)に書かれていました。「聚楽町」って? おそらく「淡路町」(『冥途の飛脚』)のようにある作品の一段なのだろうとは見当がつきましたが、文楽で観たことがありませんし、素浄瑠璃でも聴いたことがありませんでした。女義さんはわりあいになさっているようですが、あいにく私はこの曲に縁がなかったのです。江戸時代の演劇専攻の方なら、あるいは歌舞伎や文楽の歴史に詳しい方なら上演されているか否かにかかわらずご存じでしょうが、何しろいいかげんな文楽ファンですから(^^;)。
そのまま月日が流れ、次に「聚楽町」に出会ったのは呂太夫さんの本を書くためにあれこれ調べている時でした。呂太夫さんがお生まれになった時、おじいさまの十代目豊竹若太夫師匠は何をなさっていたのかを調べると、四ツ橋文楽座で鶴澤友衛門師匠と

    『迎駕籠野中井戸』

「聚楽町」の後を語っていらっしゃったのです。この本では注を付けることにしていましたから、この作品がどういう内容のものなのか知らないでは済みませんでした。それでさっそく活字本を探したのですが見つからず、床本を探して読むことにしたのです。
この作品は「梅の由兵衛もの」として昔から知られていたもので、文楽でも歌舞伎でも上演されてきました。2017年12月(呂太夫さんの本が出版された後です)に「梅の由兵衛もの」の『隅田春妓女容性』(すだのはるげいしゃのかたぎ。初世並木五瓶作。1796年正月十五日江戸桐座初演)が上演されたのですが、この作品も40年ぶりくらいの上演だったそうです。初代中村吉右衛門がよく演じたのだとか。これはこの上演の時に「米屋の娘」を演じられた中村米吉さんのブログで知りました。
ではいったい「梅の由兵衛もの」とはどういうものなのでしょうか。
梅渋吉兵衛という男が、丁稚長吉を殺害して金を奪い、亡骸を井戸に投げ込むという事件(詳細は明日書きます)がありました。この事件では吉兵衛は死罪になったのですが、歌舞伎はいわゆる

    「際物(きわもの)」

としてすぐに取り上げたようです。芝居の常套として人物名を少し変えますが、吉兵衛は由兵衛(よしべえ)になります。そしてこの由兵衛は、本来は殺人事件の犯人なのですが、忠義な善人として描かれるようになっていきます。享保年間には『梅の由兵衛命代金』(うめのよしべえいのちのかわせきん。1728年初演)『梅屋渋浮名色揚』(うけやしぶうきなのいろあげ。松田和吉作)という作品が上演されています。江戸では曽我ものに組み込まれたりもしています。
そして浄瑠璃では原田由良助作、並木宗輔添削の『茜染野中の隠井』(あかねぞめのなかのこもりいど。元文三年=1738=豊竹座初演)が書かれて、これがかなり大きな役割を持ったようです。これは玉川大学出版部から義太夫節正本刊行会によって出版されています。

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イチゴは育つ 

初めてアスパラガスの種をまいた時期についての記憶が定かではありません。そこでこのブログの過去の記事を探すと、2020年3月21日に「たぶん4年前だったと思うのですが」と種を蒔いた時期を記録していました。となると2016年ですが、Facebookの記事を探してみるとどうも2017年に蒔いたように思われます。200円くらいの種でした。「種から育てるなんて気が長い」と言われましたが、私は育てるプロセスがおもしろいので気にせず育てていました。
アスパラガスは10年くらい収穫できるということですが、私は2019年から収穫しているようで、今年が5年目だと思います。折り返し点に来たか、すでに後半に入ったかというあたりでしょう。今年は概して野菜の生育が遅かったのですが、アスパラも3月下旬になって初めて茎が姿を見せました。
遅かったのはイチゴも同じで、一昨年の秋に植えたものは12月に花をつけたりランナーが出たりしていました(これは苗の成長のために切り取りました)が、今年はまったくその気配がなく、3月になってもまるで蕾が見えません。何度か書きましたが、私が親株から育てた苗ですので弱くてダメなのかと諦めかけていたら、

    3月29日

にやっと花が見えたのです。昨年より1か月近く遅いです。同時に、ランナーもいくつか出ているのを発見しましたが、これは花実に栄養が行くように切ってしまいました。ランナーはこのあとまだまだ出てくるはずですから。
こうなると、花は次々に咲きます。4月になって、毎日のように新しい花が咲いています。イチゴは人工授粉するほうがいいので、今年も綿棒で(筆が行方不明なので)やさしく花の中心部を撫でるようにしてやっています。授粉するときのイメージは、

    ミツバチ

が花の上で羽をふるわせながらちょこちょこと歩き回っているような感じです。
具体的には、片手の指で花の付け根部分をつまむようにして、綿棒をそばに持って行き、花を軽く回しつつ綿棒を反対側に回すというやりかたです。
そうこうしているうちに花びらが散り、次第に赤みを増します。そうなれば、やや酸っぱいイチゴらしい(?)イチゴが少しずつ収穫できるはずです。
それとともに、ランナーとの付き合い方も気をつけねばなりません。
ランナーというと「走る人」のことですが、地面を這うように伸びていく茎もそれにたとえてランナーというようです。日本語では匍匐茎とも言います。これは実が終わってから伸ばすようにして、来年の株を作る予定です。ですから、今伸びているランナーはかわいそうですが切っています。今は花と実に力を注いでもらうためです。

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品格、品性 

今どき、こんな言葉を使って若い人に訴えるものがあるだろうか、とは思ったのですが、私はずっと学生さんに「品格」「品性」の話をしてきました。「ダサい!」と言われるかもしれないと若干心配でもありましたが、やはり必要なものだと信じて、これは大事なことだと言ってきました。
わざと品のない言葉を使ったり行儀の悪い態度をとったりするのは若者の日常でしょう。おもしろがって世の中を舐めたり甘く見たり、多少の悪さをしたりするのも若さならではかもしれません。
それだけに「品格」という言葉が学生の琴線に触れるかどうか、自信はありませんでした。それでも頑ななまでにそれを言い続けてきたのですが、さて彼女たちの心に残ったかどうか、それは知るすべもありません。
何ごとも効率第一で、目先の利益を負うことに必死になっている時代にあって、品格なんてのんきなことは言っていられないのかもしれません。他人を出し抜いてでも自己の利益を得ようとすることを是とする世の中にあっては、私の言うことなど空想の世界、夢物語の類なのでしょう。よくいわれる言葉を借りるなら「頭の中がお花畑」ということかもしれません。
でも、品格を教えないのであれば大学の価値なんてあるのだろうか、とすら私は考えてきたのです。
生涯宝塚歌劇の「生徒」であり続けた

    春日野八千代

が舞台で観客の目に触れた最後は、2009年6月の「宝塚歌劇九十五周年記念 『歌劇』通巻千号スペシャル 百年への道」でのトークコーナーでした。1915年生まれで、すでに93歳になっていた春日野は、それでも元気におしゃべりをしたそうです。このとき、聞き手の初風諄(『ベルサイユのばら』初演でマリーアントワネットを演じた。月組、星組の娘役トップ)が後輩に望むことを尋ねると春日野は三つの点を挙げたそうです。それは「品格」「舞台の上での行儀のよさ」「謙虚さ」でした。宝塚音楽学校に入学した生徒たちは「清く正しく美しく」という教えを基に学んでいきますが、これも「品格」「行儀」「謙虚」に通じるものがあるでしょう。
宝塚ファンなら知っている約束ごとに、

    「すみれコード」

があります。元・月組組長の越乃リュウさんは『婦人公論.jp』(2023.3.22)において「すみれコード」は「品格を損なうような言動をしない」「観客の夢を壊すような内容の表現や演出をしない ファンもそれを求めない」というものだとお話しになっています。ここにも「清く正しく美しく」あるいは「品格・行儀・謙虚」の理念がうかがえます。歌劇の生徒さんが本名や年齢は公開しないのもこの「すみれコード」によるのだそうです。越乃さんは退団後に新聞に自分の年齢が書かれるのを見て「夢の住人ではなくなった」ことを実感したそうです。
宝塚歌劇の生みの親である小林一三も「常に品格を忘れずに」と言っていたそうで、いかに時代が変わろうとも大事にしなければならないものがあるのだと思い知らされます。
学校というのは、楽しさは必要ですが、遊び場ではありません。宝塚音楽学校や宝塚歌劇団に限らず、学校でも、いや社会でも品格を重視することはやはり必要なことだと改めて思いました。

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万引きの夢 

このところしょっちゅう夢を見ます。いい夢はなくて、あまり寝覚めがよくないです。
昔なら夢解きというのをして、その意味を判断してもらったようですが、私はそういうこともできず、何の予兆だろうかと不安があります。
『源氏物語』「若紫」で、光源氏は義母の藤壺と密通するのですが、そのあとで異様な夢を見ました。夢解きの者に問わせると、まったく思いもよらないことを言ってきました。その内容は書かれていないのですが、光源氏が将来帝の父となることなどを言ったのだろうと思われます。さらにその者は「今後何らかの行き違いがあって身を慎まねばならないことがあるでしょう」とも言います。これは光源氏が須磨に退かねばならなくなることを予言するものと思われます。光源氏はあわてて「私の夢ではないのだ。ほかの人が言っていたことだ」と言い訳をします。しかし彼はこの予言を否定しようがなく、

    胸が詰まる

思いをしたことでしょう。夢解きというのは、いいことを言ってもらうと嬉しいですが、こんなことを言われたら不安におののきそうです。
私が最近見た夢の中でもっとも奇妙で嫌な感じがしたのは、どうやら私が万引きをしたらしいというものでした。「らしい」というのは、そういう場面は出てこなかったからです。ただ、「私が悪かったです」とあやまっている場面があって、どうも状況から何かを盗ったような感じでした。最近何かそんなことをしたかな? 論文の盗用をした覚えはありませんし、スーパーで見かけたビールが欲しくなってお金がないので思わず・・という経験もありません。散歩道の畑で

    タマネギ

が少しずつ大きくなっているのは見ていますが、それを盗もうとしたこともありません。私が関与していないことでそういう映像を観たかというとそんな記憶もないのです。ではやはり未来に何かかかわるのだろうか、と思うのですが、今のところ何かを盗もうという計画はありません(笑)。盗んだ場面は見ていないので、何か悪いことをしてあやまることがあるのかもしれません。
それにしても、このところの夢はろくなものがなくて、何かで失敗したとか、どこかから落ちたとか、その手のものばかりです。
宝くじで1万円くらい(桁が小さい)当たったとか、草野球で9回裏にサヨナラ逆転打を打つとか、せめてそういう夢でも見たいものです。

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間髪を入れず 

またまた言葉についての細かい話をします。
「綺羅」という言葉があります。「綺」は綾織の絹、「羅」は薄物の絹で、熟語になると美しい装いのことを意味します。そこから「華やかであること」「栄華を極めること」などの意味に発展していきます。その美しさが星のようであるという場合に「綺羅星の如し」という言い方もあります。これは「綺羅、星の如し」で「きら、ほしのごとし」と読みますが、最近は「綺羅星」をひとつの言葉と見て「きらぼし」と読むことも少なくありません。事実、辞書には「綺羅星」という項目を立てているものも多くあります。こうなると「きらぼしのごとし」は間違った言い方とは言いきれなくなくなっていると思います。今どき、「きら。星の如し」などと読む方が少数派ではないでしょうか。もはや

    「言葉の変化」

として認めざるを得なくなっているのが現状だと思います。私は言葉に関しては保守的ですので、今なお「きら、ほしのごとし」という言い方をしますが、ひょっとすると「変な言い方!」と笑われているかもしれません。
3月の終わりに、ある新聞を読んでいると、スポーツ部の記者の人が野球選手のことを書いている記事がありました。ある選手に質問をすると、その選手は間を置かずに答えたのだそうです。この「間を置かずに」にあたる言葉を、件の記者さんは

    間髪入れず

と書いていました。私はまたそこで立ち止まってしまいました。これはやはり「間髪を入(容)れず」と書くべきではないかと思ったのです。「を」というたった一文字のことなのですが、引っ掛かりを覚えました。この言葉はやや硬くて、口語ではさほど多くは用いられない、文章語のようにも思えます。もともとは「間、髪を入れず」と熟して用いられるのですが、「『綺羅星』の如し」と同じように「『間髪』を入れず」と読まれることが増えています。その場合「間髪」の発音としては「かんぱつ」になるようです。私が使っているパソコンでも「かんぱつ」と打つと「間髪」と変換します。あの記者さんもひょっとすると「かんぱつ、いれず」という意識で書いたために「を」を省いたのではないかと感じました。
前述のように、「綺羅星」は国語辞典にもかなり載っているのですが、「間髪」を積極的に採用しているものは少ないと思います。「綺羅星」ならモーツアルトの変奏曲でも知られる「キラキラ星」という曲からの連想もあって定着しやすそうですが、「間髪」では意味がわかりません。辞書に載せたくても意味の説明のしようがないと思うのです。このように意味がわからない言葉であれば、「言葉の変化」を安易に認めるのではなく、「間、髪を入れず」が正しいと言い続けざるを得ないのではないでしょうか。
もしそうであるなら、記者さんの書き方は不適切と思えてなりません。この方に対して個人攻撃をするつもりはなく、意地悪や悪口を言いたいのでもありません。この記事は、スポーツ新聞にしばしば見られるような、試合結果をおもしろおかしく伝えるものではなく、ちょっとした読み物風の記事で、何と言っても新聞の文章ですから、気をつけてほしいと思っているのです。

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やめなかった人 

宝塚歌劇出身の園井恵子のことを知ろうとすると、どうしても同時期の生徒さん(歌劇団員)のお名前が出てきます。
当初、宝塚歌劇団の芸名は『百人一首』の歌から取ったことは有名です。園井恵子の時代にもそういう人はいました。たとえば天津乙女と雲野かよ子の姉妹は「天津風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ」によって名付けられています。ほかにも瀧川末子(瀬をはやみ・・)、大江美智子(大江山いくのの道の・・)、門田芦子(夕されば門田の稲葉・・)、雪野富士子(田子の浦・・)、富士野高嶺(同)などの例があります。園井恵子の同期生にも神代錦(ちはやぶる神代も聞かず・・)、山鳥りか子(あしひきの山鳥の尾の・・)などがいますが、実はこの当時はそれほど多く『百人一首』由来の例があるわけではありません。安宅関子はどう見ても能か歌舞伎由来でしょうし、二見志摩子は地名を思わせます。園井恵子は、デビュー当時は「笠縫清子」でしたが、翌1931年に「園井恵子」と改めています。彼女は占いが好きだったそうで、そういう理由で改名したのかもしれません。
園井恵子より年は2つ下でしたが、学年はひとつ上という人に

    春日野八千代

がいました。申すまでもなく、長い歴史を持つ宝塚歌劇団の中でも代表的な男役です(娘役で後には映画やテレビで活躍した八千草薫は春日野八千代の名前をもらって「八千草」にしたそうです)。
宝塚歌劇団では結婚すると退団する定めですし、映画やほかの演劇に移った人も多く、若いうちにやめていく人は少なくありません。男役の葦原邦子は画家の中原淳一と結婚して退団(女優として映画やテレビに出演)していますし、初音麗子(のち、礼子)は結婚とは関係なく退団してやはり映画やテレビ、舞台で活躍しました。私は、葦原さんも初音さんもおばあさん役でテレビドラマなどに出ていらしたことを覚えているため、まさか宝塚歌劇のスターだったとは長らく知りませんでした。
ところが葦原邦子と同期の春日野八千代は生涯タカラヅカでした。もちろんいつまでも主役というわけにはいかず、演出をしたり舞踊の会に出たりする程度になりますが、それでも生涯宝塚の「生徒」であり続けた稀有な存在です。
宝塚歌劇団はもともと雪、月、花の3つの組でした(「雪月花」という言葉は白居易の詩にある「雪月花の時、最も君を憶ふ」によって、自然美を表す言葉として古来用いられています)が、その後、星組が誕生しました。これは雪組にいた春日野八千代をスターダムにのせるために小林一三が創設したと言われています。
さまざまな役が知られますが、『虞美人』の項羽とともに当たり役となったのが1952年の『源氏物語』における

    光源氏

で、その前年に映画で同じ役を演じていた長谷川一夫をして「よっちゃん(春日野の愛称)にはかなわない」と言わしめたほどでした。なお、『虞美人』や『源氏物語』は『すみれの花咲く頃』の歌の詩をつけた白井鐵造の演出でした。
春日野八千代の宝塚大劇場での公演は2008年に「宝塚舞踊会」で清元の「浜行平」を踊ったのが最後でしたが、翌年にはトークショーで舞台に上がっています。
春日野八千代は、こうして「生涯生徒」を通した宝塚の至宝とまで言われる人ではありますが、芸術家として全国的にはどれほどの評価を得ていたのでしょうか。紫綬褒章こそ受けていますが、文化勲章を受章していないばかりか、文化功労者にもなっていません。それだけの価値のある人だったように思うのですが、宝塚歌劇は所詮ローカルなのか、評価がまだ低いのか、どちらにしても残念に思えます。
春日野八千代は2012年8月29日、現役のまま亡くなりました。

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分からない病気 

平安時代の医学書に『医心方』(丹波康頼撰述。10世紀後半)があります。中国の医書から抜き出したものを中心に、多くの病気についてその原因、治療、予防などの方法を書いているのです。中にはかなり怪しげな迷信のようなものもありますが、本邦最初のまとまった医学書として貴重なものと言えます。
平安時代ですから、よくわからない病気はたくさんあり、疫病が流行するとどうしようもなかったでしょう。だからこそ迷信に頼るわけで、医学書に迷信が書かれるのはやむを得ない面もあったのだと思います。
その後、医学はどんどん発達して、多くの病気の原因が解明され、なかには根絶されたものもあります。

    パンドラの箱

から飛び出したものに人智が勝ることもあるのです。それでもなお、解明できないことはいろいろあり、原因はわかっても治療法がわからないものもあります。また、解明されていても、論文を読んでいなかったり、学界から離れていたりして医学の進歩についていけない医者がいることもあります。
私の耳の病気も、最終的に診断してくれた医者によれば、早い時期に治療すれば何とかなったということだったのですが、その「早い時期」に頼った複数の医者はよくわかっていなかったようです。
広島、長崎に投下された原子爆弾についても、その爆弾の暴風や熱ではなく、その後の放射線による後遺症で亡くなった方については、医者もどうすればよいのかわからなかったようです。
以下、また千和裕之さんの本によって書きます。
被爆のあと神戸に逃れた桜隊の俳優園井恵子と高山象三は、現代の常識なら明らかな原爆症でありながら、診察した医者からは

    「ジフテリアだ」

と言われたそうです。医者だって原爆症なんて知らないわけですからやむを得なかったのでしょう。
同じ桜隊の女優に仲みどり(1909~45)という人がいました。この人は何かと男っぽいところがあって体格もよかったのだそうです。彼女は原爆のあと、広島市の宇品(うじな)の収容所に送られましたが、山陽本線が復旧したと聞いて母親のいる東京・天沼に行くことを決意しました。長旅ですが、特に被ばくしている彼女にとっては大変だったでしょう。被爆者は運賃が要らなかったそうで、かろうじて帰宅しました。見た目はさほど重症ではなさそうだったのですが、胸が苦しく、食欲もなかったようです。そこで彼女は玉音放送のあった翌日の8月16日に母親と一緒に東京大学医学部の附属病院を訪ねました。被爆者であることを話して入院したのですが、血液検査の結果、白血球数が

     400

ほどしかなかったそうです。外科医で放射線に詳しかった都築教授は「原子爆弾症」と名付けて、学生たちに講義をして、仲さんの状態が「sehr schrecht」だと言ったそうです。ドイツ語で「非常に悪い」という意味です。要するに助からないと言っているわけです。仲さんは結局8月24日に亡くなりました。仲さんの肺などは今も東京大学医学部に標本として残されているそうです。
ここしばらく千和裕之さんの『流れる雲を友に 園井恵子の生涯』を拝読していくらかご紹介したり、自分で感じたことを書いたりしてきました。

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戦争は文化を 

学生さんに話したことのひとつに「戦争は文化を破壊する」というものがありました。太平洋戦争末期のアメリカ軍の空襲が伝統文化を避けるようにして行われたという説もありますが、京都が原子爆弾投下の候補地になっていたことはよく知られますし、姫路空襲で姫路城が残ったのは単なる偶然であることも、米軍パイロットの証言から明らかです(姫路城のことなど知らなかったそうで、堀を池だと思って爆撃しなかったとか)。
アフガニスタンのバーミヤン渓谷の古代遺跡群がタリバーンによって破壊されたように海外の戦争を見てもさまざまな文化的遺跡が破壊されていることは言うまでもありません。
そういう建築物だけではありません。太平洋戦争は多くの文化人が徴用され、芸術がきわめて偏った形でしか表現できなくなるなど、文化に悪影響を与えました。
文楽でも

    時局もの

と言われる「新作」が上演され、栄三とか文五郎というような人たちが『三勇士名誉肉弾』などで軍服を着た人形を遣っていましたし、ほかの演劇でも演目などで厳しい統制がありました。
宝塚歌劇も同様で、『太平洋行進曲』(1934年)『広瀬中佐』(1936年)などのレヴューが上演されています。また園井恵子は『赤十字旗は進む』(1940年)に中国に派遣された看護婦長の役で出演しています。
また多くの男性は兵隊に取られましたから、著名な人も亡くなっています。沢村賞に名を残す沢村栄治は2度の軍隊生活のあと、肩を壊して引退し、さらに3度目の出征(現役兵として1回、応召で2回)のときに屋久島沖でアメリカの潜水艦に撃沈されて27歳で戦死しました。戦争がなければ引退することもなかったかもしれず、もっと長く活躍されたでしょう。もちろん、著名かどうかではなく、ひとりひとつの命が失われるのですから、すべての戦死者の命が等しく惜しまれるのですが。
沖縄戦、各地の空襲、広島や長崎の原爆投下でも多くの方が亡くなりました。なぜ何の罪もない人が

    非業の死

を遂げねばならないのか。運命などという言葉では片づけられません。なぜこの戦争をもっと早く終わらせることができなかったのかと情けなく思います。
私の短歌グループのある方がこんな歌を詠まれました。
 戦争の愚かさ知るも誰も止めず
  紙屑のごといのち散らし行く春
これはおそらくロシアのウクライナ侵攻が意識されているのだと思うのですが、どの戦争でも、誰も止めることができないうちにあっけなく若い命が散らされていくのはあまりにも理不尽です。
園井恵子は苦楽座で移動劇団として各地への慰問をおこなったのですが、その途中にも空襲に遭い、大変な苦労をしたのです。しかし行く先ではずいぶん歓迎されたようです。戦時であっても文化は人の心を打つのです。しかしその苦楽座も離脱する人が増えて、広島に本拠を置く直前に

    「桜隊」

と名を改めました。園井恵子は広島に行く直前の五月の末に、東京・成城の河崎なつの家で横浜の方での空襲を遠望していました。そして河崎に向かって「先生! 戦争はいけません! 戦争はいやです! 戦争をやめましょう」と怒鳴ったのだそうです(河崎なつ「人としての園井さん」)。
八月六日、その日は折しも園井恵子の32回目の誕生日だったのですが、広島に原子爆弾が投下され、桜隊のうち、丸山定夫ほか9名が命を落とすことになりました。園井恵子も助かったように思えたのですが、神戸の中井志づの家で八月二十一日に亡くなりました。
戦争ほど悲惨で馬鹿げたものはありません。

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河崎なつ 

戦後、参議院議員を務めた人に河崎なつ(1889~1966)という人がいます。しかし、この人はむしろ教育者や女性運動家として知られているかもしれません。婦人参政権や託児所を作る運動もしたようです。この人は現在の奈良県五條市出身で奈良県女子師範学校(のちの奈良女子大学)を出て教員をしていましたが、1920年に与謝野晶子・鉄幹夫妻、西村伊作らと語らって新しい学校を作ることを計画し、翌年神田駿河台に文化学院が設立されました。河崎なつはほかにも津田英学塾などで教鞭をとり、進歩的な教育者として活躍したのです。そしてこの人は小樽高等女学校の教員の経験もありました。小樽高女というと、あの園井恵子が通った学校でもあり、その縁で小樽高女の同窓会も園井恵子を応援するようになりました。その応援者の中に中井志づという人もいるのですが、この人こそ、園井恵子の最期を看取った人なのです。
話はややこしくなるのですが、この中井志づの恩師の一人が河崎なつでした。それで、園井恵子は河崎なつとも親しくなって、「先生」と呼んではいろいろ教えを請うたり、昭和二十年に広島に行く直前まで東京・成城の河崎宅にいたりするような関係だったのです。母親ほど年の離れた河崎なつに対して、園井恵子は尊敬の念を持っていたというかもっというなら

    私淑していた

ようです。
その河崎なつは「人としての園井さん」という文章を書き残していて、これによって園井恵子の昭和二十年初夏の暮らしを知ることができます。その中で河崎なつは園井恵子の年齢について、「園井さんの年を知らないが、二十五、六と思える・・」と書いています。このとき園井恵子はまもなく32歳になるころでした。それほどに若々しかったのでしょう。そして園井が化粧をすると「ニ十娘になる」とも言っています。そして園井は河崎の畑仕事も手伝い、肥汲みまでして、さらには防空壕を掘ったりもしたそうです。
この河崎邸にはいろんな人が出入りしていたそうですが、その中に山本嘉次郎夫人もいたそうです。山本嘉次郎は『加藤隼戦闘隊』(1944年。藤田進主演。円谷英二特技監督)などで知られた映画監督ですが、園井恵子を使った映画を撮りたいと思っていたそうです。ちょうどそんなときに東宝の事務所にいったら、園井恵子が来ているというので山本監督は会おうと思ったのですが、すれ違いで帰ってしまったそうです。山本監督は園井恵子の居場所がわからず諦めたそうですが、もしこのとき映画の話があったら園井恵子は広島に行かなかった可能性もありました。園井は河崎なつの家にいたのですから、山本夫人にその話をすれば「園井さんなら居場所はわかりますよ」と教えてくれたはずですが、山本監督は奥さんに話はしなかったそうです。
園井恵子は広島に行くときも「あまり

    行きたくない」

と言っていて、しかも彼女が乗るはずの列車が二度まで出なかったのだそうです。今さら言っても詮無いことですが、もしここにとどまっていたら、と思わないではいられません。
河崎なつは、戦後参議院議員になり、そのあとは短大教授などを務めて、1966年に亡くなりました。

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悩める麗人 

園井恵子さんのことを書いた千和裕之『流れる雲を友に 園井恵子の生涯』という評伝を読みました。四代目竹本越路太夫師匠と同じ大正二年(1913)生まれというこの麗人は若い頃からいろいろ苦労なさったことがわかりました。亡くなったのは32歳でしたからその時点ですらまだ「若い頃」ではありましたが。以下、千和さんの本の内容をお借りしながら書きます。なお、この本は今年、増補、修正がおこなわれたうえで国書刊行会から『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(税込み3,080円)という形で出版されていますが、私は、そちらは未見です。私が読んだ方はAmazonの運営するパブフルからの自費出版ですので安価に制作できるのですが、どうしてもいろいろな制限があります。私が気になったのは年譜や索引がないことでした。もし国書刊行会のもので補われていたらいいのですが。
園井恵子(本名袴田トミ)は岩手県の生まれで、幼いころから教員になろうという気持ちがあったようで、その一方で演劇に興味を持ち、宝塚歌劇に関するものを読んだりしていたようです。北海道の小樽高女に行かれたのですが、やがて岩手に戻り、夢であった宝塚歌劇に進む決心をしたようです。驚くのは、家族の反対があったにもかかわらず1929年、15歳になる年の6月に一人で宝塚まで出てきたことです。もちろんお金がありませんから、幼いころからなじんでいた平安(ひらやす)商店という、こんにゃくなどを商う店の世話好きな奥さんから10円(盛岡から宝塚までのほぼ片道の運賃)借りて、家出のような形で汽車に乗ったのです。その年の

    宝塚音楽歌劇学校

の入学試験はとっくに終わっているのに、応対してくれた生徒監の南部半左衛門という人に「岩手に帰るお金もない」と強く訴えて、何とか試験をしてもらい、入学することになったというのです。なんとも意志の強い人です。なお、宝塚音楽歌劇学校は1939年に宝塚音楽舞踊学校、1946年に宝塚音楽学校と校名変更して現在に至ります。
こうして1930年に笠縫清乃という芸名で月組に配属とったのですが、その直後に岩手の父親が借金の保証人になったことが原因で破産してしまい、一家は突然惠子を頼って宝塚までやってきました。まだ薄給の娘に家族を養う力はありませんから、妹さんも働き、あばら家のような家を借りて苦しい生活をしたようです。
翌年には園井恵子と名を改めて、10月の『ライラック・タイム』の公演では「門番の女房」という役を演じ、箕面有馬電軌鉄道(現在の阪急電鉄)創業者で音楽歌劇学校校長を務めていた

    小林一三

から褒められたそうです。そして1933年には新設の星組に移って活躍するようになったのですが、生活は苦しいままでした。1935年に惠子の苦労を聞いた小林一三は、その苦労親孝行に感じ入って100円というお金をくれたそうです。
園井恵子は自分の芝居に自信が持てず、1936年の日記に石川啄木の歌を書き記しました。
  何がなしに頭の中に崖ありて
   日毎に土のくづるるごとし
  非凡なる人のごとくにふるまへる
   後の淋しさ何にかたぐへむ
票田の著者千和さんは少し違った読み方をされています。この本に載っている日記の写真(かなり暗くてはっきり読めません)を私なりに読んだのが上の表記です。脇役としてかなり評価は高まっていたのに、なおもこうして悩んでいたことがわかります。
その翌年の1937年11月には父親が阪急電車に飛び込むという悲惨な最期を遂げました。これも彼女にはどんなに大きな衝撃だったかと思います。あばら家のような住まいは引き払って、このころは川面鍋野裏というところに転居して少し落ち着いていたはずだったのですが。なお、この川面の家の近所に天津乙女、雲野かよ子姉妹(鳥居家)が、その隣には子ども時代の

    手塚治虫

が住んでいたことは以前このブログにも書きました。
世の中が戦時体制に傾いて行き、1941年12月8日にはとうとう太平洋戦争の火ぶたが切って落とされました。園井恵子は1942年、『ピノチオ』の主役を演じましたが、そのころに演出家の東郷静男と結婚して退団していた小夜福子から新劇団『新生家族』への勧誘を受けました。そしてその9月に東京での『ピノチオ』再演のあと、退団したのです。ところがこの劇団はすぐに解散し、園井恵子は新しく生まれた『苦楽座』に参加することになるのです。

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3月のプランター 

この春はかなり忙しくしていました。2月は原稿書き。3月は外に出る用がいろいろあったうえ、『源氏物語』の勉強会が発足するためにその準備もしなければならず、書かねばならないものももちろんありました。
読書もしておきたいと思ったのですが、なかなか重い本を読む余裕がなくて、気軽でしかも勉強になりそうなものを読んでいました。ここにもいくらか書きました前川佐美雄や与謝野晶子の本、私がほとんど知識を持っていない現代短歌の本など、短歌関係の本はほんとうに勉強になりました。
変わったところでは、宝塚歌劇の春日野八千代さんに関する本も読みました。そして以前から気になっている

    園井恵子

さんについての本も読んでみたのです。書かれたのは理学療法士の方だそうで、いささか驚きました(明日以降に書きます)。
そんな3月にはプランターの春の植物が大きくなってきました。昨年はあまり元気がなかったために掘り起こして土を替えてみたアスパラガスは、ちょっと荒っぽく扱ったかもしれず、芽が出るかどうか心配でした。例年よりはるかに遅く、3月20日ごろにやっとひとつ目が出てきました。そのあともわりあいにしっかりしたものが出てきましたので、安心しました。
もうひとつはイチゴです。なかなか成長せずに心配していたのですが、あれよあれよという間に葉が出てきて、上へ上へと盛り上がるように元気な姿を見せてくれるようになりました。花はやはり昨年に比べるとかなり遅く、3月の終わりになってやっと姿を見せました。
何しろ素人が

    ランナー

から育てた苗ですから、心配でした。2月の終わりか3月の初めごろにホームセンターに行くと、立派な葉を持ったイチゴの苗が売られていたのですが、明らかに私の育てたものとは大きさが違っていました。あちらはプロですから立派なものであって当然なのですけどね。何とか真っ赤な実が生るように観察していきます。
イチゴが終わったら、またいくらかランナーを伸ばして苗を作ります。そして空いたプランターには今年もグラジオラスを植えようと思っています。
また、土を替えるために空けた野菜鉢にはいただきもののオクラの種を植えようかと思っています。オクラは5年ぶりくらいだと思います。

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パソコンでは書けない 

大学生のころから私はさほど時勢に遅れているつもりはありませんでした。ワープロを使い始めたのはかなり早い時期でしたし、パソコンで仕事をするのも文系の人間としては早かったと思います。仕事場の個人研究室にパソコンが入るようになった時も、同僚からあれこれ質問されるくらいでした。
といっても、私はさほど多くのアプリを使いこなせたわけではなく、Excelは今なお初心者同様、WordもPowerPointも似たり寄ったりです。AccessやPublisherも使いましたが、常用しているわけではないため使いこなすところまではいっていません。
しかも完全な

    我流

で、使い方を習ったことはなく、上級者から見たらいまだに「何やってんの?」というレベルに違いありません。
それでも、原稿は今や100%パソコンですし、講座などでお話しする時もほとんどパワーポイントを使っています。短歌の原稿は、以前は原稿用紙に書くように言われていたのですが、これもこのところはパソコンも可となり(今も自筆で出される方は少なくないようですが)、私は完全にWord愛用者です。
ところが、私がどうしてもパソコンだけで作ることができないものがあります。それは

    創作浄瑠璃

なのです。
是ばかりは白紙をたくさん用意して、それに思いついたことを書きなぐり、消しては書き加え、また消しては書き直すという、きわめてアナログ的手法でなければ書けないのです。
浄瑠璃はある程度の分量を古い言葉を使って、しかも掛詞とか引用とか、いろいろなレトリックを挿入しながら書きます。それだけに、例えばこのブログの記事のように思いついたことを次々に書くということができません。
野澤松也師匠のために書いてきました作品も、すべて書きなぐりを集めてまとめたものと言っても過言ではありません。
今書いているものも、最初はパソコンで思いついたことを書いていたのですが、やはりダメで、途中であきらめてまた白い紙にペンで思いついたことを次々に書いています。こうすると、使えない言葉をどんどん捨てて行けるような気がして、いつの間にかまとまっていくのです。この

    「捨てる」

というのはもったいないようではあるのですが、長編小説と違って、捨てて削ぎ落していくのが私のやり方です。それならパソコンでパッと消してしまえばいいんじゃないかと思うのですが、なぜかそうはいかないのです。この辺りはもう理屈ではなく、経験上これしかない、という感じです。これからも、創作浄瑠璃を書くときは、もう下手に機械に頼らず最初からこのやり方を通そうと思います。

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映画が公開する 

いつかこういう言い方が出てくるのではないかと思っていました。
気になる言葉のひとつに「高校野球が開催」「新製品が発売という言い方があると以前ここに書きました。「高校野球が開催される」「新製品が発売される」というのをこういう書き方をするのですね。普通、「開催」といったら「~を開催する」、「発売」なら「~を発売する」という言い方をするわけです。文法の言葉でいうなら

    他動詞

ですね。見出しで用いる場合、主催者が開催するという意味で「高校野球を開催」を言えばよいところなのですが、「高校野球」を主語にしたくて「高校野球が開催」になってしまいました。今やもうこういう言い方はいくらでも出てきます。
大きな新聞社の新聞記事でも珍しくなくなってきましたので、おそらく社会的に認知されているということなのでしょう。
言葉は変化するものですから、もうあまり抗ってもしかたがないのかもしれません。私も新しく生まれる言葉や新しい言い回しは否定しないのですが、生理的に受け付けられない言い方については断固(笑)拒否することにしています。私は今後もこのブログ記事のタイトル「新商品が発売」という類の言い方をするつもりはありません。
私がどう言おうとも世の中は知らん顔で変化していきますが、ここは頑固を通すことにします。永六輔さんが「NHKのアナウンサーは言葉に関しては保守的であってほしい」というようなことをおっしゃっていたと思います(違っていたら申しわけありません)。私も、すべてではありませんが、言葉については保守的な考えを持ち続けようと思っています。というのは、このままこういう言い方があたりまえになると「高校野球が開催する」「新商品が発売する」という言い方が現れるのではないかと恐れるからです。新商品が何を売るってんだい! と江戸っ子で抗議してみます。
しかしまあ、今すぐそんな言い方をする人は出てこないだろうと思っていたら、3月某日に、ある女優さん(だと思います)が自分の出た映画を宣伝する際に「○月○日から、私の出演している『○○○』という

    映画が公開します」

と言っていたのです。ああ、やはりこういう日がやって来たか、と思って頭を抱えてしまいました。若い世代では今後もどんどんこういう言い方が普通になっていく可能性が高いと思います。上の世代がいくら「誤用だ」といっても、もうとまらないのかもしれません。言葉の変化はかなりスピードアップしているように思います。

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忙しかった三月 

ニッパチという言葉があって、商売の世界ではあまり物が売れない低調な時期だそうです。もっとも、商売の種類はさまざまですから、それらすべてに当てはまるわけではないようです。2月なんてお菓子業界は儲かる時期ですよね(笑)。影響が強いと言われるのはアパレル関係で、この時期には売り上げが伸びがちだそうで、だからこそこの時期の商売を工夫されるのだろうと思います。それこそ、バレンタインデーのプレゼントとしてお菓子だけでなく服も抱き合わせるようにして買ってもらうようにするというようなこともあり得るのではないでしょうか。閑散期を逆手に取って、この時期は販売より春(秋)以降の商戦のために準備する時期と割り切るのもひとつのありかたかもしれません。
大学の教員というのは2月や8月は授業のない時期で、遊んで暮らそうと思ったらできないわけではありません。ずいぶん昔のことですが、ある国立大学の語学の先生が「夏休みは

    趣味のための海外旅行

に費やす」と言っていました。優雅な話です。私などは長い教員生活の中で、これらの時期が暇だと思ったことはありません。この時期にこそ普段できないことをやろうと思いますから、一番まじめに勉強ができる期間なのです。3月もその状態が続き、しかも4月からの準備が重なってきますのでけっこう忙しくしてきました。
今年はどうかなと思ったら、やはり趣味のための海外旅行はできません(笑)でした。朝早く家を出るという必要はあまりありませんので、朝はウォーキングに費やして、10時ごろに帰宅するのがほぼ日課。それからやおら本とパソコンを出してきて仕事にかかるのです。
原稿の締切があったのは2月で、3月はそういうものはなかったのですが、それでも毎日書くことはあります。このブログも書き物と言えばそのとおりですが、もっとまじめなことも(笑)書いていました。
例年と異なるのは、やはり短歌関係の仕事が増えたことです。これまでは無責任に(笑)下手な腰折れを詠むだけでしたが、少し手伝えといわれて、公開される原稿でなくてもあれこれ書かねばならかったのです。本を読むことについても、これまで不勉強だった現代短歌についていろいろ手を出すようになりました。短歌のほかにも、平安時代、浄瑠璃という

    三刀流

で、大谷選手を上回ろうと(笑)思っているのですが、鈍っている頭の切り替えもなかなか難しいです。
3月は珍しく大阪市内に行くことがありました。世の中が徐々に開放的になってきて、気候もよくなりますので、つい出かけたくなります。
4月になればまた新しいことも始めようと思っており、違う意味の忙しさも出てくると思います。

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冊子を作る 

私はこれまでに2冊の本を書き、ほかにも本の一部を執筆したものが10冊はあると思います。後者のものは共同執筆者が完全原稿を出して本にするもので、出したら原則的に手直しができないものでした。しかし逆にいうと、出してしまえばあとは完成するのを待つばかりですから楽な面もあるのです。
全責任を持って書いた2冊はその点かなり大変でした。編集者さんが細かくチェックしてくれてそれを参考にしながら書き直しをすることもあり、最終原稿を出した時はへとへとになったような記憶があります。最初に書いたものは学術的なものでしたので、何よりも論理的でなければならず、かなり神経を使いました。次に書いたのは呂太夫さんの本で、内容の正確さは当然ですが、一般書でしたので、

    読みやすく

なければならず、楽しんでいただけるような書き方も必要だと思いました。また、写真が入ったり脚注を入れたり、さらには索引も細かくつけましたので、きわめて長い時間がかかりました。
それ以外にも、実は頼まれてほかの人の本のゲラ刷りをチェックしたことが何度かありました。こちらは最終的な責任がないので、思ったことをズバズバ言ってあとは著者にお任せでした。
本にはなりませんが普段書いている雑文については、やはり自分に責任がありますので校正はしっかりしなければなりません。ところがどうしても抜けているところが出てきたりして、出来上がりを見て

    冷や汗をかく

こともあります。
『源氏物語』を学ぶ会をしたいとおっしゃってくださった方々に差し上げようと思って、過去に書いた源氏物語関係のものを冊子にすることにしました。そしてまた読み直しては適宜手を入れることにしたのですが、いろいろと気になることが出てきて、かなり書き直すことになってしまいました。テニヲハを間違っていることもありましたし、文章のつながりの悪いところもありました。学生にはえらそうに「あなたの書いた文章を読むのは自分ではありません、ほかの人が読むのだということを意識してきちんとした文章を書きましょう」などと言ってきましたのに、このざまです。
冊子は何とかできました。手製ですので、自分でプリントしてステープラーでとめて表紙をつけて・・。
4月の初めての会でみなさんにお渡ししようと思っています。

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茸狩り 

私は松茸狩りの体験が一度だけあるようなかすかな記憶を持っています。父親が会社の同僚と一緒にプチ慰安旅行に出かけるのに連れていかれたと思うのです。場所は覚えていませんが、大阪府能勢町あたりだったのかもしれません。松茸を取った記憶はありませんし、おそらくその松茸をその場で食べたはずですが、そんなものをおいしいと思うような歳ではありませんでした(そもそも味音痴ですし)から、記憶がきわめてあやふやです。ただ「松茸狩りに行く」という言葉とたくさんの大人に混じっていたことだけを何となく覚えている程度なのです。
与謝野晶子『私の生ひ立ち』を読んでいると、明治時代の堺の娘さんの生活が生き生きと描かれていて面白いのです。たとえば、当時(明治20年前後)の少女の髪型として流行したのは「おたばこぼん」だったのですが、晶子もその髪型をしていたのだそうです。「おたばこぼん」は文字どおり「煙草盆」のような髪型なのですが、頭のてっぺんに煙草盆のつる(取っ手)のように、横一文字型にまとめた髪をのせるような形です。この髪型の話たったひとつだけでも、今読むと「明治」が感じられるので興味をそそられます。着物についてもいろいろ書かれているのですが、私はさっぱりわからず、もしわかればおもしろいだろうな、と思います。
晶子は泉州堺の人でしたが、子どものころに

    茸狩り

に行った話を書き留めています。松茸狩りのことなのですが、単に「茸狩り」といったようです。今のように松茸が高価なものとなる以前で、山に行けばたくさん生えていたようです。
まだ真っ暗な4時ころに、家族や知人、店の番頭などが十数輌も車(人力)を連ねていくのだそうです。晶子は母親と同じ車に乗ったそうで、揺られているうちに眠ったりもしたようです。薪屋の金右衛門さんという人のところに行ったのだそうですが、そこで休憩していると村の子どもがやってきたので、晶子の母親が餅菓子を与えたそうです。それから山に入っていくのですが、「松茸は取つても取つてもある」というくらいたくさん生えていたようです。「いくらでもおとりなさい」と言われても、

    15,6本

も取ったらもう持てないくらいになったそうです。それはそうでしょうね。
一時期、晶子の少女時代は貧しい暮らしだったと言われたことがあったそうなのですが、この本から見てもけっしてそんなことはないことがわかります。和菓子屋の嬢(とう)さんとして女学校まで行ったわけですから、それなりにいい暮らしだったのでしょう。彼女はなかなか成績優秀な人だったと思われますが、最近の言葉で言うと「天然」というのでしょうか、頓珍漢なところもあったようです。堺女学校時代に、創刊間もない「早稲田文学」という雑誌を読んでいたらしいのですが、それを友人に「せわだ文学」と言ったのだそうです。友人は「わせだ文学」ではないかと訂正してくれたのですが、晶子はすっかり「せわだ」だと思い込んでいたそうです。こういうことは私も身に覚えがありますけどね。ちなみに、晶子の長兄である鳳秀太郎(ほう ひでたろう)は東京帝国大学教授(工学博士)を務めた秀才でした。

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2023年文楽四月公演初日 

文楽四月公演が初日です。
残念ながら咲太夫さんがお休みです。どうかお元気になっていただきたいものです。
演目は次のとおり。

第1部 午前10時30分開演
通し狂言 妹背山婦女庭訓
 (大内、小松原、蝦夷子館、猿沢池、
  鹿殺し、掛乞、万歳、芝六忠義)
第2部 午後3時開演
通し狂言 妹背山婦女庭訓(太宰館、妹山背山)
第3部 午後6時30分開演
近松門左衛門三〇〇回忌
曾根崎心中(生玉社前、天満屋、天神森)

月と星(2) 

寛弘三年(1006)の超新星の出現は人々に不安をもたらしました。何しろ見たこともないような明るさの星が見えるのですから。今なら「超新星です。危険はありません」などと天文台あたりからアナウンスがあって「ロマンですね」などと優雅に観ていられるのですが。このころ、内裏で六位蔵人が五位蔵人(つまり上司にあたる)を殴打するという事件がありました。この事件は、何者かが六位蔵人を闇討ちしたため、彼は偶然そこにいた五位蔵人を犯人だと思って殴打したようなのです。何か怪しげな空気が漂います。この出来事について、藤原行成は「最近天変が繰り返し起こっている。これは内乱や近臣の過ちなどが起こる予兆だ」と言っています。蔵人はまさに天皇の近臣。超新星の出現の結果、こういう形で当時の人々の不安が具体化したということかもしれません。
超新星だけではなく、ちょっとした星の動きも天文博士(安倍晴明などがそれにあたります)などが見逃さないようにしていました。彼らは日食月食について予告し、星が月を隠してしまう「星食」や両者が接近する「星犯」などを見て占いをおこなったりもしました。安倍晴明は花山天皇の突然の退位というできごとを

    天体の異変

で知ったという話が残っています。これについては現代の専門家が、「木星とてんびん座α星の接近のことだ」「月がすばる(プレアデス星団)を隠した星食をいうのだ」という説を出しています。今は、計算すれば当時の何月何日の何時ごろの星空なんてわかるのですね。
与謝野晶子『私の生ひ立ち』を読んでいたら、こんな話がありました。ある夏の夜、晶子は兄弟やいとこたちと一緒に大屋根の上の火の見台で涼んでいたのだそうです。商家の屋根の上にはこういうものがあったのですね。屋根のてっぺんに柵で囲って設けられた櫓のようなものでしょう。その時、彼女よりかなり年長の誰かがこんなことを言ったのだそうです。

    「お月様とお星様が近くに
      ある晩には火事がある」


と。そんな話をしたあと、子どもたちは火の見台をおりていってあとには晶子と弟の籌三郎(日露戦争に行き、晶子が「君死にたまふことなかれ」で歌った人)が残ったそうです。そのとき晶子が何気なく「あのお星様はお月様に近いのね」というと籌三郎は「火事があるやら知れまへんなあ」と答えたそうです。するとその夜中にほんとうに具清(ぐせい)という酒屋から火が出て大騒ぎになったのです。
実際に火事が起こったのは偶然としても、このような迷信があったのは注目されるところです。やはり星犯や星食には不吉なイメージがあったのですね。

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月と星(1) 

空に見えるものというと、雲、太陽、月、星でしょう。この中でもっとも詩的でないものは太陽かもしれません。もちろん、「You are my Sunshine!」と歌うことはできますし、沈む夕陽なんて詩的な感興を催します。しかし真昼の太陽は和歌には詠みにくいと思うのです。何と言っても太陽はまぶしすぎ(笑)て、直視できないのです。海に沈むときならともかく、形もよくわかりません。夏などは憎らしいような存在でもあります。一方、月はほどよい明るさで、形がはっきりしており、しかも毎日その形を変えるという、

    奇跡的な美しさ

を持っています。
雲のおもしろさは形と運動でしょうか。季節によって特徴があり、また空を泳ぐように流れては姿を変えていきます。昔の人が和歌に雲を詠む場合、しばしば煙と意図的に見間違えるようにすることがありました。火葬の煙が雲となると見て、亡き人のことを思う歌が詠まれるのです。
『源氏物語』「葵」で、光源氏は葵の上という妻を亡くします。そのときにはこんな歌を詠みました。

のぼりぬる煙はそれと分かねども
なべて雲居のあはれなるかな
(火葬で立ちのぼった煙はどの雲なのか
わからないが、雲のすべてがしみじみと
感じられる)

雲が亡き妻に見えてくるのですね。ふわふわと浮かぶ雲は中有に迷う人の魂のように思えるのでしょう。
星は古典の和歌では意外にもあまり詠まれません。月に比べると変化がありませんし、小さすぎます。今と違って昔は、肉眼で見える星の数は半端なものではなかったでしょうから、素材にしにくかったのかもしれません。もちろん、北斗星などは古人にとってもとても大切なもので、生まれ年によって北斗七星のどれかひとつがその人の守護星のような存在と考えられました。これを

    本命星(ほんみょうしょう)

と言いました。たとえば子年生まれの人は貪狼星(とんろうしょう。α星)、丑年と亥年生まれの人は巨門星(こもんしょう。β星)という具合です。また、占いにもとても重要で、星の運航からさまざまな占いをする天文博士というのも存在したくらいです。それでも、あるいはそれゆえに詩的なものとしてはあまり意識されなかったのかもしれません。
前述のように、星は何かを暗示するものとして意識されることがありました。西暦1006年には巨大な星が連日姿を現し、当時の人は、これはいったい何の予兆なのかと恐れたようです。実はこれは超新星(Super Nova)、つまり星の爆発だったのですが、そんなことを知るはずもない古代人にとっては不安を感じても当然でしょう。(続く)

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懐かしい石階段 

先月の初め、とてもいい天気の日がありましたので、少し長めの散歩をしてきました。ふと思い立って、私が通っていた高校のあたりまで行ってみたのです。私の高校は山の上ではないのですが、少し高台にあって、最寄りの駅からはなだらかではありますが坂道を登って行くことになります。
私は中学校がかなり急な坂道を15分くらい登っていくところでしたので、もう慣れっこになっていて、これくらいの坂はたいしたことはありません。走ってでも行けただろうと思うくらいです。ゆっくりと坂道を上がっていく方法もあるのですが、近道だったのがけっこう長い

    石の階段

でした。私はいつもこの石段を登って行き、ずっと前に年輩の先生が歩いているとすぐに追い抜いて行ったものです。私はある日まったく誰とも気づかずに年輩の男性を追い抜いていたらその人から「おい、君」と呼び止められ、強い言い方で「おはよう!」と言われました。「挨拶しなさい」という意味であることは、その言い方からすぐに分かりました。知らない人でしたが、どう考えても先生なのだと思って、「あ、おはようございます」と返事して踵を返し、またすいすいと登って行ったのでした。朝から不愉快でした(笑)。後に知ったところでは、挨拶にやたらうるさい先生だったのです。知らん顔をしていくのはたしかによくないですけどね。
坂道はゆるやかに大きくカーブする道で、帰り道は急ぎませんからこちらを通ることもありました。
以前、笑福亭松枝さんの『ためいき坂 くちぶえ坂』という本を読んだことがあります。松枝さんは師匠の家に行くのに坂道を歩くのですが、往路はため息が出て、帰り道は口笛を吹きながら帰ったそうです。通学路というのもいろんな思い出もあるものです。特に帰り道はその日にあった出来事を胸に歩きますから、楽しい日もあれば悔しい日もあります。何かわけがあって友だちともめるようなことがあると、わだかまりを持ちながら反省しつつ帰りました。テストの出来が悪いとさすがに憂鬱な気持ちだったと思います。
今でもはっきりその場面を覚えていることがあります。当時わりあいに親しくしていた女子の同級生がいたのですが、

    生徒会

の仕事を一緒にしていて遅くなり、暗くなってから二人で帰ることになったのです。生意気盛りですから、暗い道は女の子を守ってあげなければならない、などという気持ちもあって、車の通るところでは私が車道側を歩いたと思います。仲が良い人でしたから二人で帰るのは嬉しかったですし、彼女は何も思わなかったかもしれませんが、何となくロマンティックな(笑)気分にもなりました。ところがそれをぶち壊した(笑)のがまたまた先生でした。途中でばったりと出会ってしまい、「遅いな、何かあったのか」とか何とか言われたような気がします。私は何も後ろめたいことをしているわけではありませんが(笑)、仮にも学年一のマドンナと言われた人と二人で歩いているところを見つかったのですから、いささかうろたえてしまいました。もう覚えていませんが「せ、生徒会の、よ、用で」とでも返事をしたのでしょう。先生は「気をつけて帰れよ」くらいのことは言われたのでしょうが、それもあまり覚えていなくて、あちらが立ち去ったのを見送る形でほっと胸を撫でおろしたことだけは覚えています。純朴でした(笑)。
その彼女も、20代後半のころには結婚したらしいという噂を聞いたことがあります。今ごろはきっとお孫さんがいるのでしょうね。懐かしい道を見ながら少し懐旧の情に浸っていました。

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九歳の言葉遣い 

与謝野晶子の『私の生ひ立ち』はおもしろい話がいくつもあります。
「嘘」という話があるのですが、晶子が九歳くらいのころ、継母の話を友だちがするのだそうです。たとえば蒲団の中に針を入れておく「鬼のやうな継母」の話です。晶子はある日「自分の真実(ほんたう)の話」だとして自分は京都に家があると言い出したのです。賀茂川には東山、北山、西山のすべてが映り、八坂の塔、東寺の塔、知恩院、金閣寺、銀閣寺も映るなんて、どう考えてもあり得ないようなことを言ったそうです。
さらに、
その家はちりめんを染めていて、自分も川で洗うのを手伝った。雨が降って流れてしまって伏見まで追いかけた。ついに見失って泣いていると、おばあさんが近づいてきて、藁でこしらえたお餅を食べさせてくれた。清水にその餅を売りに行った帰りに

    「人取り」

に遭い、刀で刺されて箱に入れられ、船で支那に連れて行かれそうになったが、ひどい波に襲われて、船は壊れた。次に目を開けたときには堺の浜にいた。それで鳳(ほう)家の子になった。
・・とまあ、九歳にしてよくこんなことを思いつくものだという話をしたそうです。この話を聞いていた同級生は、かわいそうに思って最初四五人が泣きだし、そのあと誰もが涙を流したというのです。そしておまけに晶子自身も「熱い涙の流るのを覚え」たのだそうです。真に迫った語り方だったのでしょうね。栴檀は双葉よりなんとやらです。
私はこの話を読んで、晶子はませた子どもだったのだな、と思ったのですが、それ以上に彼女たちの会話の言葉遣いに驚いたのです。
少し会話文を挙げてみます(ばらばらに抜き出しますので、話は繋がりません)。
「まあえらい、洗濯をしなはつたの。」
「ええ、日に二十反位洗つては河原へ乾しますの。」
「まあよかつたこと。」
「藁でお餅が出来(でけ)るんだすか。」
「こはいこと、まあ。」
「それから鳳さんの子になりやはつたのだすか。」
「まあ可哀相な方」
「継子なんて、ちつとも知りまへんだした」
こんな言葉を九歳(これが数え年なら、満7~8歳でしょう)の子どもが言ったのであればちょっと驚きです。実録というよりはフィクションのようにすら感じられます。
今の子どもたちは

    女性言葉

というのは使わなくなっていると思います。子どもに限らず、若い世代は言葉の男女差がきわめて少なくなっているようです。今どき、「~ですわ」なんていう言い方は「ふざけて使う言葉」なのです。「まあ」という驚きの言葉も今は使わなくなっていますね。今は「えぇ」が主流ではないでしょうか。「なりやはつた」のような「~はる」という敬語も普通に用いられたのですね。
この文章を読むと、いささか「隔世の感」がありました。

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寺子屋 

文楽の『菅原伝授手習鑑』の四段目は、菅原道真の時代にはあるはずもない「寺子屋」が舞台です。江戸時代に子どもを集めて書き方や算術などを習う初等教育の場としての寺子屋は江戸時代の人々の識字率を著しく高めるのに役立ったといわれます。識字率が高くなると本も売れ、読書をすることで教養が身に付くという効果があったでしょう。文書の作成、商売上の計算などにも役立ち、また子ども同士の絆も強まってとてもすばらしい教育機関だったと思われます。
もちろん、中には「よだれくり」のような勉強大嫌いという子もいたでしょうが、それでも最低限のことは身に付けられたと想像されます。
明治になると学制が敷かれて寺子屋の役目は終わったものの、寺子屋がそのまま小学校に発展したり、「師匠」が「先生」になったりすることもありました。
寺子屋の師匠というと、

    浪人

のイメージがあり、『菅原』でも武部源蔵は勘当された浪々の身の上でした。しかし明治のはじめにおこなわれた調査では、寺子屋の師匠には商人、農民、僧侶などもいたようです。
寺子屋は姿を消しても明治期のおとなたちは江戸時代生まれが多いわけですから、学校ではなく寺子屋出身の人がいくらでもいたわけです。すると子どもを学校に行かせる場合も「寺子屋に行かせる」というイメージを持っていた可能性はあります。
1878年(明治11)生まれの与謝野晶子が小学校に行ったのは1880年代ですから、寺子屋という言葉はまだ大人たちの間では普通の言葉だったでしょう。学制が敷かれたのは1872年のことなのですから。
与謝野晶子の『私の生ひ立ち』の中に、晶子がお歌ちゃんという少し年長の友だちを学校に誘いに行く場面があります。そこでお歌ちゃんの家の前で「学校に行きましょう」と誘うのですが、その時の言い方は

    おていらへ

だったのだそうです。「おていらへ」?? 私は最初何のことかよくわからなかったのですが、晶子はそのあとに「寺子屋へ行く子供等の習慣(ならはし)が、まだ私の小さい頃にまで残つて居たのです」と書いていました。ということは「お寺へ」のことなのでしょう。それを少し伸ばして言うために「おてーらへ」「おていらへ」と言ったのではないでしょうか。
昭和生まれの者としましては、昭和17年まで活躍した与謝野晶子が子どものころに「寺子屋に行こう」という意味の言葉で友だちを学校に誘っていたなんて、何だか信じられない思いがします。

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さん付け 

与謝野晶子(1878~1942)は今の大阪府堺市堺区甲斐町で生まれました。本名は鳳志やう(ほう しやう)。実家は和菓子の「駿河屋」でした。学校は、宿院小学校(現在堺市立少林寺小学校)尋常科、高等科から堺女学校(現在大阪府立泉陽高等学校)に進みました。宿院(しゅくいん)というのは住吉神社の御旅所で、その境内に小学校があったそうです(今の少林寺小学校は場所が違います)。
晶子の家には出入りの車夫が二人いて、そのうちのひとりは「狸の安兵衛」と呼ばれていたそうです。文楽ファンの方なら『仮名手本忠臣蔵』で与市兵衛の亡骸を運んでくる村人の中にいる「狸の角兵衛」を思い出されるのではないでしょうか。「種子島の六」は鉄砲と関係ありそうで、「めっぽう弥八」は「とほうもない」人をあらわすのかなと思ったのですが、「狸の角兵衛」な何なのだろう、と思っていました。タヌキ取り専門なのか狸に似ていたからそう呼ばれたのか。そしてこの車夫はたまたま安兵衛という名前なので、「狸の角兵衛」に引っ掛けてそう呼ばれたのだろうかと思ったのですがよくわかりません。いずれにせよ、これは余談でした。
晶子が学校に行っていた頃のことはあまり資料は多くないようですが、『私の生ひ立ち』の中に書かれています。晶子は本姓の「鳳」をからかわれて「鳳さん、ほほづき」「鳳さん、ほうらく」とはやし立てられたと言っています。ちょっと気になったのは、からかうなら名前に「さん付け」なんてしなくてもとさそうなのに、ご丁寧に「鳳さん」と言われていることです。当時の人の呼び方について小さな驚きを感じました。呼び方というと、晶子が「お照さん」「お春さん」「より江さん」と近所の子どもを呼んだことが記されています。かと思うと、「さく」という名のいとこを「おさやん」と呼んだり、少し年上の女の子を「お歌ちゃん」と言ったりしています。先述の安兵衛は晶子のことを「嬢(とう?)やん」と呼んでいます。
尋常の2年生のころに学校の「修身」の授業の場面が紹介されているのですが、ここでは、晶子が「浅野」という生徒のことを

    浅野はん

と呼んでいます。しかも、先生がその生徒を指名する時にも「浅野はん」と呼んでいるのです。晶子はほかの場面で友人について「竹中はん」といっているところもあります。
このように、人を呼ぶときの敬称は「さん」「ちゃん」「はん」「やん」と、いろいろ使われていたようです。姓は「はん」で「名」は「さん」「ちゃん」なのかというとそうでもなくて、「柴田さん」という言い方も出てきます。「やん」は何となく使用人などの目下の人や子ども相手に使うような気がするのですが、どうだったのでしょうか。
話は変わって、私が子どものころ、学校では男子については「くん」、女子は「さん」を付けるのが普通でした。
大学までずっとそれでしたので、私にはもうしみついています。ただ、教員としては相手にするのは女性ばかりですので、「くん」を使うことは現実には少ないのですが。
近ごろの学校では、男子、女子、という区別をしないのだそうで、先生はすべて「さん付け」で呼ぶようにしていると聞きます。友だち同士も「さん付け」で呼ぶように指導されているようです。つまり男の子同士でもあいてのことを「○○さん」と呼ぶようにと教えるのでしょうね。

    性的少数者

への配慮もあるのかもしれません。私の知っているのは小学校のことなのですが、中学、高校ではどうなのでしょうか。大学ではまだ男性を「くん」で呼ぶような気がするのですが・・。大人社会では年少者(部下など)の女性のことを「くん付け」で呼ぶこともありますが、最近は減っているのでしょうか。
私がもし今男子学生を教える機会があるなら、おそらくその人のことを「くん付け」で呼ぶと思います。しかし今小学生の子どもが将来大学教員になったら、大学でもすべて「さん付け」に変わる日が来るのかもしれません。

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官僚のホンネ 

週刊誌を読む習慣がありません。
昔は電車の網棚によく週刊誌が捨てられていて、それを拾って読む人がいました。網棚ではなく駅で新聞や週刊誌を捨てていく人もいるため、ゴミ箱を漁る人もしばしば見かけたことがあります。昨今はみなさんスマホなので、網棚はあまりものを載せてもらえず手持無沙汰な様子です。
私は網棚の週刊誌を取って読むのが何だかいやで、ましてゴミ箱に手を突っ込むのも抵抗があって、かといって自分で買うことはありませんからほんとうに週刊誌とは縁がないのです。
ごくまれに読んだ経験があるのは、入院した時です。入院といっても耳の手術のためで、からだは元気なので、部屋にじっとしていることはあまりなくて、本をもって屋上に行ったり、談話室に置いてあったエアロバイクをこいだり(笑)していました。その談話室には本や雑誌があり、患者さんが読んだ本を置いて帰った場合もあったと思います。今は衛生上問題があるかもしれませんが、あの当時はそんなことはあまり気にせず、回し読みなんて普通のことでした。
エンタテインメント系の本が多くて、私はそういう本も買うことがないものですから、ここぞとばかりに拝借して読みました。たとえば

    東野圭吾

の本は、そこで何冊か読んだのがすべての体験です。
週刊誌もよく置いてあって、これもよく借りては読んでいました。あるとき、週刊誌に官僚の「覆面討論会」のようなものが載っていました。要するに本人の名は一切出さずに、官僚が言いたいことを言う、はっきり言うと政治家なんて馬鹿にした発言をしているわけです。どこまでほんとうなのかわかりませんが、大臣であろうが議員であろうが、かなりひどいことを言っていました。普段はへりくだっていても本心は違うということなのでしょう。
最近、大臣がこんなことを言った、という記録をめぐって、ちょっとした騒ぎになりました。当の大臣はその記録文書を

    捏造だ

といってはばからず(途中でトーンダウンしましたが)、「私が言うんだから間違いない」という態度を貫こうとしていました。でも、官僚が文書を捏造しても何の得にもならないし、大臣の言うことにはおよそ説得力がありませんでした。あの大臣の言い方には既視感があって、自分に都合の悪いことはすぐに他人のせいにする元総理大臣とそっくりでした。あの大臣はあの総理大臣が大好きでしたから同じことをすればいいんだと考えているのでしょうか。真似をすることで「ああ、私もあの人と同じようなことができた」と奇妙な一体感に恍惚としているのかもしれません。
それにしても、政治家というのはどこまで自分が偉いと思っているのか、見ていてうんざりします。今回、官僚は及び腰ながら大臣とは違った見解を示していますが、陰では「あの大臣馬鹿じゃないの」「あんな嘘が通用するわけないじゃん」と白眼視していてもおかしくないと思います。
新聞にも匿名で現職やOBの官僚のコメントがいろいろ出ていますが、新聞ということもあってか官僚答弁的で、ホンネまではうかがえません。
また政治家が力技で事実を捻じ曲げて終わってしまうのでしょうか。こんな理不尽なことで結局官僚が馬鹿を見る、もっとひどい場合は現実的に何らかの被害が出るとしたら馬鹿げた話だと思いますし、そうならないことを願うばかりです。

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