歌は歌えない
このブログのどこかに書いたような気がするのですが、今も心の傷になっていることがあります。小学校5~6年生だったと思うのですが、同級生の前で歌を歌わされたことがあって、そのとき、それまでなら出ていたはずの高音が出なくなってしまったのです。当然声は嗄れたようになって、自分でも一瞬どうして良いかわからなくなりました。すると、おしゃまさん(最近でもこんな言葉使うのかな?)だった同級生の女の子がフフッと笑ったのです。「あ、笑われた」という悔しさのような恥ずかしさのようなきもちが沸き起こって、かなりショックでした。おそらく顔が真っ赤になったと思います。
トラウマと言うのでしょうか、音楽そのものは大好きなのに、それ以来、人前で歌を歌うのが苦手になりました。
そうはいっても、お酒が入ると
カラオケ
で順に歌うというのはやむを得ない時代を過ごしましたから、そういう場では数回歌ったことがあります。しかしレパートリーなんてまるでなくて、「神田川」くらいしか歌わなかったように思います。
車を運転しているときは人に聞かれることはありませんから、口ずさむ程度に歌うのは好きでした。音を外しても恥ずかしくないわけですから気ままに歌ったものです。
でもやはり人前で歌うのは避けるようにして、カラオケボックスなんて入ったこともありません。
今週末、ある会合があるのですが、それに関してびっくりするようなことを言われました。
前半はまじめな話があるのですが、後半はいわばお楽しみ会のようなものらしく、歌のうまい人(声楽の経験者)などが歌われるそうです。そして、何を思われたのか、「よかったら
花はどこへ行った
でも歌ってくれませんか」と言われたのです。はぁ? なんで私が。しかもどうしてそんな曲を指定してきたのか、意味が解りませんでした。思い当たることとしては短歌の中に「Where have all the soldiers gone」という一節を借りたものを作ったものですから、それを覚えていた人が言い出したのではないかと思うのです。
それにしても天下の音痴によくもそんなことが言えたものだ(笑)と思います。救急搬送される人が出たらどうするつもりなのでしょうか。
というわけで、歌うつもりはさらさらありません。
でも、「何かやれ」と言われたときにどうすればよいかを考えておかねばならず、「外郎売」でもやってやろうかな、と思ったりしています。しかしやはり何とか逃げる算段をする方が人々の健康のためにはいいのでしょうね。
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- [2023/05/31 00:00]
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2023年5月文楽東京公演千穐楽
文楽東京公演は今日千穐楽です。壮大な長編『菅原伝授手習鑑』が一度に通し上演される日は来るのでしょうか。
東京の観客の入りが以前に比べると減っているという話を聞きますが、それはウイルスによる一時的なものなのか、あるいはファン層が若いほうに移って行ってくれないことの証明なのか。少子化はこういうところにも影響が出ると思います。
国立劇場はお客さんの入る演目を上演するようにということを考えているようですが、同時に稀曲の伝承などもしなければならず、そのバランスをうまくとっていただきたいものです。
次は大阪の鑑賞教室。そして大阪本公演と続きます。咲さんのおかげんはいかがでしょうか。
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- [2023/05/30 00:00]
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大関の相撲
私は、あまり相撲は観ていませんが、この夏場所は千秋楽近くの、しかも結び近くのいくつかの取り組みはテレビの前にいました。
朝乃山はやはり強いのだと思います。しかしずっと幕内上位では取っていなかっただけに、何か「忘れていたもの」があるのではないか、と感じました。横綱との対戦での完敗のほか、大栄翔に負けたのも何か実力以外の「思い出せなかったもの」があるのではないでしょうか。しかしそれらの敗戦によってきっと思い出すきっかけにはなったと思います。本人は二桁勝ちたいといっていたようですから、それは果たしました(最終的には十二勝)ので立派だったと思います(なぜか三賞は受賞しませんでしたが)。来場所は正真正銘の幕内上位。ここでどうなるかが重要でしょうね。
霧馬山という人がいつの間にか強くなっていて、来場所はめでたく大関に昇進することが決まったようです。実は、私はこの名前を何と読むのか知りません。「きりまやま」なのか「きりばやま」なのか、またほかの読み方なのか。調べればすぐわかることですが、特に名前を呼ぶことがないので知らないままなのです。そういえば、碧山という力士を、私はずっと「みどりやま」だと思っていました。何かのきっかけでその間違いには気づいたのですが、大きな声で言わなくてよかったです(笑)。ほかにもきっと間違えて覚えているしこ名があると思います。
このところ贔屓にしている(というほどは観ていないわけですが)
若元春
はきれいな相撲を取って、態度もきれいです。夏場所も二桁勝って、来場所もし12勝以上すれば大関ということになるのではないでしょうか。ただ、この人は優勝ということになると、まだそこまではいっていないような印象があり、この半年で破った殻をさらにもうひとつ破るくらいでないと届かないように思えます。もちろん期待はしています。ついでにいうと、この人はインタビューでの受け答えが愛想に欠けます。人気商売という面がありますので、若元春に限らず、力士はこのあたりの勉強が必要なのではないかと思います。
この若元春と今の大関の貴景勝との一番(十四日目)を観ました。大関は、私にとっては地元の兵庫県芦屋市出身の人だけに頑張ってほしいのですが、この相撲を観てがっかりしました。何でも膝が悪いのだそうで、自在に動けないようですが、それにしてもひどい相撲でした。
ひたすら張る、張る。脇が甘くなってもかまわないといわんばかりに思い切り張っていた、いや、
ひっぱたいていた
だけでした。いつもこんな相撲を取っているわけではないでしょうが、あまりにも「大関の相撲」からかけ離れていて私は言葉がありませんでした。組まれたら終わり、という点も大関としてはいかがなものでしょうか。
ファンの人がたくさんいらっしゃるので言いにくいですが、かつての横綱白鵬も現役の終わり近くになると「かちあげ」という名の肘打ちや「張り差し」という名の平手フックを武器にしていました。これらを「喧嘩相撲」などと言っておもしろがる人もいますので、中にはこういう力士がいてもいいのかもしれませんが、私個人はとても観たくない相撲でした。膝が悪いのはお気の毒としか言いようがないのですが、だからといって正攻法でなくても勝ちたいというのは、やはり地位にふさわしくないような気がしてなりません。
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- [2023/05/29 00:00]
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薔薇の花散歩
このところずっと呼吸の状態がよくなくて、上り坂を見るとうんざりします。
調子が良ければいくらでも歩くのですが、長い距離もあまり歩きたくない昨今です。
医者も「いかんねぇ」という顔をします。ただ、血液検査をしたところ、肝臓も腎臓も悪くなく、少し強めの薬を使っても大丈夫のようです。検査するところによって違うようですが、アルコールに敏感に反応するというγ-GTPなどは58以下を基準値とすると、私の病院では決めています。これははるかに低いのです。とにかくアルコールを飲みませんからね。しかし「非アルコール性脂肪性肝疾患(NAFLD:ナッフルディー)」というのがあるそうで、食べ過ぎ、運動不足、加齢による基礎代謝量の低下などで、摂取したカロリーを消費できないまま肝臓に
中性脂肪
としてたまってしまうそうです。運動といわれると、歩くことくらいですから、大丈夫かな、とは思いますが、中性脂肪の数値も低いのでまあ、さほど心配はいらないと思います。食べすぎはありません。加齢による基礎対処の低下は当然あります。これからも頑張って摂取カロリーくらいは消費しようと思います。AST、ALT、乳酸脱水酵素(LDH)、コリンエステラーゼ(CHE)も正常値。というか血液検査はすべて正常値なのです。
まあそんなことで、少し強めの薬を使うことになって、不調が多少緩和されたような気がします。
季節がいいので、時間のある時はバラの花を見に行ったりもしています。兵庫県伊丹市には
荒牧バラ公園
というのがあって、なかなか立派な花を見ることができます(入園無料)。中でも「天津乙女」という花は伊丹で作られたもので、あの宝塚歌劇団のスターの名前をとって名付けられたものです。なんでも、世界に広がっている花だそうです。
伊丹市というところは小さな町ですが、なかなか文化の栄えたところで、その伝統を感じます。やはり西国街道が通っているのは大きいと思います。伊丹は酒どころでもあって、「老松」「白雪」などの銘柄があります。
宝塚市の
花のみち
にもバラが少しだけ植えてあります。タカラヅカは何といっても『ベルサイユのばら』で知られますので、そのゆかりの花なのです。「マリー・アントワネット」「オスカル」「アンドレ」などの名前のついた花が一か所に集められているのです。
伊丹のバラ公園も宝塚の花のみちも坂道がないので歩けます。
しかしやはり、坂道を気にせずに歩けるようになりたいものです。
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- [2023/05/28 00:00]
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「なんなら」
私が学生のころ、後輩たちがよく「今日はこのあと『かてきょう』だ」「『ぱんきょう』の単位がまだ残ってる」などと言っていました(私は使ったことがありません)。「かてきょう」は家庭教師、「ぱんきょう」は一般教育科目のことでした。当時の「若者言葉」ですね。今も「かてきょう」は「かてきょ」として生き続けているそうですが、「ぱんきょう」はなくなってしまいました。
若者言葉は長く命脈を保つものと露と消えてしまうものがあります。昨今あたりまえに使われる「やばい」「タメ口」などはかなりの年輩の方でもお使いになるようになってきました。こうなると次の世代、その次の世代にも受け継がれる可能性は高く、しかるべき
国語辞典
も項目を立てて説明せざるを得なくなってくるでしょう。その一方でどう考えても誤用としか思えないものもあります。ある若い人が「八つ当たりもほどほどしい」と言っていました。「ほどほどにしてほしい」「ほどほどにすべきだ」の意味かな、とは思うのですが、よくわかりません。
こんな言葉が使われます(私自身も使います)。
「甘い飲み物は苦手でいらっしゃるのですか。
なんならコーヒーでもお出ししましょうか」
「お荷物が多いですね。何ならひとつお持ち
しましょうか」
これらは「もしよろしかったら」「お気になさらないようでしたら」というような意味でしょう。
「ジュースがなんならコーヒーをお持ちしま
しょうか」
という言い方もあります。これは「もしお気に召さないなら」と言っているのでしょう。
これがあたりまえだと思っていたら、最近は異なった意味で用いられているようです。
NHK放送文化研究所のHPが挙げている例では
○彼はいつも朝寝坊だ。なんなら昼過ぎまで
寝ていることもある。
○うまくできなくてもかまいません。なんなら
まったくできなくても大丈夫です。
「それどころか」
あるいは「いっそのこと」のような意味だと解釈できるでしょう。
YouTubeやTikTokなどで、言葉に無頓着な人の発言がスタンダードとして広がっていくのがあたりまえになった時代ですので私もなかなかついていけません。人は他人の言葉遣いにはわりあいに神経質になるもので、一番言葉に厳しいのは40代の女性という調査もあります(それ以上になると厳しさは減り、70代以上では日常生活において多世代交流が減ることもあってか、さらに激減します。それはともかく、人気のあるYouTuberやTikTokerは失礼ながらたしかに言葉が怪しい人が多いです。いや、おもしろおかしく言うためにあえて怪しげな言葉を使う人もいるのかもしれません。多い人だと何千万人というフォロワーをかかえていますから、彼らの影響力は甚大でしょう。かといって、「正しい日本語で発信しなさい」というわけにもいかないですよね。テレビもそれらに影響されるのか、昔ほど言葉がきれいではないような印象を持ちます。そう言えば先日野球中継でアナウンサーが「代走に○○(選手名)が起用します」と言っていました。最近はやりの「商品が発売(する)」の形ですね。スポーツ担当とはいえアナウンサーです。ちょっと悲しくなりました。そのうちに「この選手、これだけミスをすると明日はスタメン落ち、なんなら二軍行きになるかもしれませんね」とでも言い出しそうです。
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- [2023/05/27 00:00]
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新しい訪問者
このブログは、性懲りもなく(笑)18年目を迎えて書き続けています。あと3年足らずで20年なんて信じられないくらいです。
タイトルにしている文楽については、記事の数がかなり減りました。さすがに以前のように公演ごとに5回も6回も行くというわけにはいかず、もはや語る資格もないように思います。若い技芸員さんはお名前とお顔も一致しませんし、私にとっての文楽の雛型であったたちは多くが鬼籍に入られました。
越路、津、南部、錦糸(四代)、勘十郎(二代)、清十郎(四代)らの記憶ははるかに遠くなりました。私がもっとも長く拝見してきた住、綱(九代。五代織)、嶋、燕三、玉男、文雀といった方々もいらっしゃらなくなりました。簔助師匠も引退され、昭和から平成前半のトップの人たちが舞台からすっかり去ってしまわれました。わずかに今やベテランとなった呂太夫さん、清介さん、勘十郎さんなどとは有り難くも何らかのお付き合いをいただいて、時には仕事も一緒にすることがあります。最も親しくしてきた
吉田勘彌さん
も、主遣いとしてすっかり立派になられて、簔助師匠が遣ってこられた人形を受け継いだりもなさっています。嬉しい反面、なんとなく見上げるような存在になって一抹の寂しさも感じます。
文楽をきっかけに親しくなった方々も、多くはお付き合いがなくなり、このブログで親しくしていただいたお園さん、くみさん、えるさんなどももうどうしていらっしゃるのか存じません。
それならもうタイトルを変えるか、ブログを閉鎖するか、どちらかにすればいいのですが、
未練がましく
いまだに続けているありさまです。それでも、以前からずっとお付き合いいただいている方もありますし、時には思いがけない出会いもあるのです。今なおごくまれに「ブログを見て、昔のことを知れた」「とても懐かしい話が聞けた」などとこっそりメッセージを下さる方がいらっしゃいます。
つい最近も、「初めてこのブログを見つけた。文楽のみならず『障害』というところにも関心を持った」という方がご覧くださったそうで、ひそかにコメントを送ってくださいました。同業者の方だそうで、そういう点でも身近に思っていただいたのかもしれません。
これからもよろしくお願いします、とお返事だけは差し上げたのですが、また時には訪問してくださって拙文に触れていただければありがたく存じます。
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- [2023/05/26 00:00]
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家康の顔
私は武将というのが嫌いなので、信長も秀吉も家康も人間的にはあまり興味がありません。あるとすれば彼らの残した文化的な財産くらいでしょう。ただ、奴らは文化財を破壊もしていますのでやはり好きにはなれないのですが。断定はできないのですが、和歌山県粉河にある粉河寺の『粉河寺縁起絵巻』は戦乱で焼けたらしく、今は冒頭部分などボロボロになっています。戦国時代より少し前の応仁の乱ではさらにいろんな文化財が灰燼に帰したのだろうと悲しくなります。
戦国時代の人なんてそんな昔ではありませんから、書いたもの(書状など)はいろいろ残っていますし、刀とか鎧とか武具に関するものも伝えられているでしょう。そういえば家康の眼鏡というのも伝わっていました。顔についても、平安時代の貴族ならみんなよく似た顔で描かれていますが、鎌倉時代になると似絵(にせゑ)というのが流行し、リアルな顔を伝えようという機運が高まったのです。その後もその傾向は続いて、織田信長像とか豊臣秀吉像など、よく知られたものがあります。家康像というと徳川美術館にある「三方ヶ原戦役画像」という、ちょっと困ったような顔をしたもの(それゆえ
「しかみ像」
ともいう)やでっぷり太った東照大権現像などがあります。いずれにしても現代風の男前とはかけ離れた(笑)風貌のように思います。
今年はNHKの大河ドラマで家康の話を取り上げているそうで、、いつぞや家人が観ていたのを、私も5分くらい観たことがありました(私は大河ドラマというのはもう長らく観ていません)。ところが、家康がどの人なのかさっぱりわからず、やっとわかったときは「え、この人?」という感じでした。まだ若いころの家康でしたのでしかたがないのかもしれませんが、あまりにも私のイメージから遠かったものですからびっくりしました。とても若い(たぶん)役者さんでした。しかるべき演技力のある人なのでしょうが、私は拍子抜けしてしまったので同時に出ていた
武田信玄
にむしろ圧倒されてしまいました。
昔、緒形拳さんが秀吉を演じた時、私はまだ子どもでした。それで、緒形さんという役者さんを知らなかったこともありますが、何となく秀吉というのはこういう人なんだ、というのがにじみ出ていたように思ったのです。
「昔はよかった、今はダメだ」なんて言いませんが、何と言ったらよいか、以前の人は役の顔になっていたのですが、先日観た人は役者さんの顔が前に出ていたというか家康のイメージが湧きませんでした。悪口を言う気はないのですが、演出の問題としてもあれでいいのかな、とちらっと思ったのです。無理に「しかみ顔」をしてもらうことはないのですが。
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- [2023/05/25 00:00]
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オクラ
とてもあやふやな話なのですが、学生時代にはオクラというものの存在を知らなかったのではないかと思うのです。サケの卵のイクラは知っていましたが、食べ物に関心の薄い私はオクラなんて食べたのかどうかさえ定かではない(多分食べたと思いますが)のです。特に小中学校時代は、今自分が食べているものは何か、ということより、どれだけたくさん食べるかに関心がありましたから、食べていたとしても覚えていないと思います。
イクラもオクラもなんとなく日本語にありそうな名前ですが、イクラはロシア語、オクラは英語のokra(本来はアフリカの
トゥイ語
なのだとか)から来ています。日本語にするとよく似た言葉がロシア語と英語(さらにはトゥイ語)から来ているのもおもしろい話です。余談ですが、「オクラ」という名前で思い出すのは『万葉集』の著名な歌人である山上憶良(やまのうへのおくら)です。といっても、彼はアフリカ出身であるはずもなく直接は関係ありませんが。
オクラはアフリカ(エチオピアあたり)原産で、あちらでは多年草。ということは同じ株から何年間も花をつけて実が生るということになります。
私がこの植物を初めて栽培したのは2015年のことでした(このブログで確認しました)。ホームセンターで苗を仕入れたときは実を食べることしか考えていなかったのですが、実際に育ててみて、その花の美しさに驚いたものです。それもそのはず、オクラは
アオイ科
の植物で、芙蓉、ハイビスカス、ムクゲ、タチアオイなどの仲間ですから、花が魅力的なのも当然と言えるかもしれません。
さらにその上にこの植物の実ときたら、硬くなる前に収穫すれば、ねばねばした食感のあるおいしくて栄養豊かな食品として愛されています。
この春、このブログに時々コメントを下さるやたけたの熊さんから「オクラの種、使わない?」と言われて頂戴しました。せっかくいただきましたので、8年ぶりに育てようという気になりました。前回はホームセンターで買った苗でしたが、今回は種から育てます。暖かくなりきらない間は、種まきはしない方がよいらしく、私はやっと先週のはじめに蒔いたのです。硬い種ですのでしばらく水につけて蒔いてみると、3日くらいで根が出てきて、種の部分を持ち上げるような恰好で成長してきました。
3号ポットに4粒蒔いただけですが、その中から強そうなものをプランターに植え替えます。さて、夏の食卓にのぼってくれるのでしょうか。
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- [2023/05/24 00:00]
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紫木会
持病のため、ずっと息苦しい状態が続いていて、元気がありません。以前なら「朝のうちに1万歩くらいあるいてくるか!」といって家を出たものですが、近頃は「半分でいいよね」というありさまです。いや、半分でも歩ければまだいい方なのですが、何もしたくないということがたまにはあります。そんな毎日でも書かなければならないものがいろいろあって何とかそれを励みにして生きている感じがします(笑)。考えること、書くことが今の生活のすべてと言えるかもしれません。
そんな日々なのですが、先月から大阪で源氏物語を読む会を始めています。短歌グループの代表の先生がお世話くださって、別の短歌グループの方などにもご参加いただいています。
それが先週もおこなわれました。ほんとうは朝から行って国立国際美術館の『ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展』の展示を見たかったのですが体調不良のため断念しました。ピカソという人は昔から私には難解で、彼が評価されている理由は最近になって何となくわかる(というより感じる程度です)ようになったくらいです。だからこそ観たかったのですが、惜しいことをしました。
この会は月に一度、木曜日におこなわれますので、その名も
紫木会
といいます。「紫」はもちろん『源氏物語』の作者にあやかってつけられたのだろうと思います。場所は一定せず、大阪市を中心に公的な場所で借りられるところを借りて実施するということになっています。
最初は女性ばかりでしたがが、2回目は男性がお二人いらっしゃいました。いろんな方がおいでくださるのはとてもありがたく存じます。1回目でつまらないからやめるという方がいらっしゃる可能性だってあるわけで、そうでもなかったような気もしています(実際はどうだったのかはわかりませんが)。
『源氏物語』の最初の巻である「桐壷」から、いろんなお話を交えつつ読んでいくということにしています。「いろんなお話」というのは、私の場合、風俗とか歴史についての話が多くなります。
ところがこの時に何人かの方が関心を持ってくださったのは、言葉の
由来や本来の意味
でした。たとえば「をとこ(男)」と「をのこ」はどう違うのか、「清ら」と「清げ」は同じなのか、といった、とても微妙なことです。やはり普段から短歌を愛好されて言葉を繊細なに慈しんでいらっしゃる方々だと感心しました。
まだ手探り状態で今後どのように進めればいいのかよくわからないのですが、ストーリーを追いつつ、予習の段階でおもしろそうだと思うことを少し掘り下げてお話しできればと思っています。
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- [2023/05/23 00:00]
- 平安王朝 和歌 |
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イチゴの歌
先週、短歌を提出する締め切りがあり、かなりあせってしまいました。本当は毎日のように歌を詠んで、その中からこれはと思ったものを提出すればいいのですが、なにかと余裕がなくて、いつも締め切り間際になってあたふたしています。
今回は何を詠もうかと読もうかと思ったのですが、せっかくですから
イチゴの歌
にしようと決めました。
でも、ただイチゴがおいしいとか花がきれいだとかそういうことを詠むのではなく、もっと自分の生活に即した内容を取り込んで詠もうと思いました。
それをここに挙げておきます。
朝ごとに白き五弁をたしかめて
われはミツバチ花撫でてやる
金色の蘂なびかせて風光る
やがて深紅の実となる緑
蜂来たれ鳥舞ひ降りよと叫び終へ
命をつなぐランナーの這ふ
いびつなる苺を舌にまろばして
この十年の虚ろを思ふ
嚙み合はぬ話に倦みて五月冷え
今宵の苺はつぶして食らふ
甘すぎるものの危ふさ
鉢植ゑの宝交早生の酸味を愛す
こんな歌を詠んでみました。
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- [2023/05/22 00:00]
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迎駕籠死期茜染(5)
お吉には刀の詮議という苦悩がありますが、由兵衛にも生活の苦しみがあります。それでもなお由兵衛はお吉に尽くそうとしているので、由兵衛の妻の小梅も感動して心を同じくするのです。いよいよ「新地」の段も大詰めです。
お吉は「夫婦はいとこと同じくらい似るというが、さっぱりとして如才のない人だ。夫婦仲もいいのだろう。でも貧しいうえに私たちのせいで苦労を掛ける。拝んでいます。それにしても、金を貸したと言ってお内儀に道ならぬことを仕掛けるとは由兵衛も残念だろう」と独り言を言います。
そこに古手屋の三婦が来て「今宵は騒ぎに来た」と言います。お吉は三婦に「無心したいことがあります。今夜なければならない金があるので、この櫛で、銀で百五十目を私に貸してください」と頼みます。金利を確かめたうえで三婦は貸してくれ、お吉は遊女の都を呼びに行きます。あとに残った三婦は寝腹ばいになって「あの都と言う女は妙な癖があって、寝所に入ると煙草入れや紙入れを探る。金が欲しいのかというとそうでもなくて書いたものがあると読むのだ。そうか、あれは俺がほかに馴染みの女がいてその女から来た手紙を探しているのだろう。今夜は何か一通手紙を紙入れに入れて悋気させてやろう」と独り言を言ってあたりを見回すと状差しに手紙があります。「これを紙入れに入れておいて都が読もうとしたらそれをひったくったら『それは何の手紙』『見せぬ』『見せて』となって、今夜はおもしろいことになる」と悦に入っています。そしてそれを鼻紙入れに入れようとすると、そこには
質札
が入っています。「こんなものを見つかったら愛想をつかされる」と質札を飛び紗綾(とびざや)の帯の縫い目に隠します。
お吉が都を連れてきました。お吉は三婦と都とふざけた話をしたあと、「二階に寝間の用意をしましょうか」というのですが、三婦は「二階はぎしぎしいうからここで寝る」というので用意します。三婦が横になるので都は帯を解いてやろうとします。三婦はあわてて「大事の帯だから触るな」と自分で解いて屏風に掛けてまたころりと寝ます。
お吉は戸締りをして今夜は二階に寝なければなるまいと階段を上ります。九つも過ぎ八つの鐘が鳴ります。夜中の二時前後です。お吉は何とか今夜中に百五十目の金を由兵衛に届けたいので、勝次郎が来てくれないものかと思っています。すると「お吉、まだ寝やらぬか」と勝次郎の声がします。二階にいるお吉は取るものも取りあえず由兵衛のところにお金を持って行って欲しいと頼みます。そして鍵の置き場を忘れたのでここから投げるというのですが、勝次郎はとめます。それではとばかりに、お吉は屏風にかけた三婦の帯をそっと外して両端の縫い目を口でほころばせて片端を下に投げ、「銀の筒落とし」とばかりに帯の中を通して百五十目の板銀を落とします。勝次郎はしかと受け取ったのですが、何やらほかにも入っていると言ってとりあげたものを月に透かして見ると
「金子百両
凌藤四郎の刀一腰」
とありました。つまり、凌藤四郎の刀を百両で質に置いた、その質札だったのです。
「これこそ尋ね求める刀の書き付けだ」という勝次郎の声に驚いたお吉も「なんとおっしゃる、藤四郎の刀の書き付けですか」と声を挙げます。するとその声を聴いて三婦は飛び起きて「それをやるわけにはいかない」と二階に駆け上がろうとします。お吉は行燈を吹き消して勝次郎に「由兵衛に渡して」と言うと、勝次郎は「合点した」と急ぎ行くのでした。
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- [2023/05/21 00:00]
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迎駕籠死期茜染(4)
お吉は由兵衛が金に困っていることを案じます。一方、縁の下では時間が経つにつれてからだ冷えてくるのですが、妬ましさのあまりに心は燃え上がっています。少し顔をあげて覗くと由兵衛が夜具を持ち出して寝どころの用意をしています。小梅は身を震わせて、氷の地獄に落ちてもこれほどの苦しみはあるまいとさえ感じます。すると由兵衛がお吉の前に畏まって煙草盆を差し出して両手をつかえてお吉に言います。「この由兵衛の女房だとか妾だとか申しましたことはもったいない事です。藤四郎の刀が見つかるまでの辛抱とお許しください」。お吉が「いつも心遣いをしてくれて感謝しています。私が刀を紛失させたときたまたま来合わせたあなたの忠義。刀が見つかり、兄(唐琴左内)の武士も立ち、勝次郎様も晴れて帰国できるよう頼みます」と言うと、由兵衛は「とんでもないことです。長らくお家にお勤めして一人前になった私ですから、今が御恩に報いるときです。手がかりもつかみましたので、大船に乗ったつもりでいてください」と答えます。このやりとりを聞いた小梅は驚きました。お吉はさらに「刀の紛失は私が兄の目を掠めて勝次郎様と忍び逢いをしたため。今に刀の行方が分からないのは私たちの
道に背いた罰
でしょう」と悔やみます。由兵衛は「大坂中の研屋や刀屋に気をつけています。勝次郎様を近江町(今の大阪市中央区釣鐘町の一部)の晒屋に手代奉公に行っていただいたのも、あなた様に後家茶屋のようなことをさせますのも、人に安心させて手がかりがつかめまいかと思うからです。夜も更けましたので帰ります。門を閉めて風邪など召されませぬように。また明日お見舞いします」と出ようとします。
そのとき
「由兵衛殿、待ってください」
と小梅が声を掛けます。そして「お吉様とあなたの仲についての本八の告げ口を本当だと思って宵からここに隠れていました。お二人の歎きを聞いていて下屋から出られなかったのです。悋気は女の癖と堪忍してください。お吉様にお目見えもさせてください」というと、お吉は「あなたが小梅さんか。もっと早くにお礼も言いたかったが由兵衛が止めるのでできませんでした。宵からなら冷えたでしょう。こちらへ」と招きます。小梅は「これからは由兵衛殿と同じように思ってください。ご不自由なお暮らしをなさってお気の毒です」と涙ぐんでいます。由兵衛が「お吉様も眠くていらっしゃるだろうからもう帰ろう」と言い、二人は帰っていきます。
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- [2023/05/20 00:00]
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迎駕籠死期茜染(3)
「屋鋪」の段で事件が起こり、盗まれた刀の詮議のために勝次郎とお吉は大坂に来ています。
次は「新地」の段。
刀の探索のために大坂に来たお吉は新地に仮住まいしています。
ある日の黄昏を過ぎた薄暗い時刻に、綿帽子に顔を包んだ女性が男に連れられてやってきました。女は由兵衛の妻小梅、男は一六屋の本八です。本八は小梅に横恋慕しています。本八が小梅に「お前の夫の由兵衛はお吉と言う女をかこっていて、お前は捨てられたも同然だ。お前に惚れているからこそ金も貸してやっているのだ。今からでも俺になびいてくれたら財産を投げうつ気だ。新地の女のことを話しても『由兵衛殿に限ってそんなことはない』と片意地に言うから今から連れて行って証拠を見せよう」と言うと小梅も「私のような者に心遣いをしてもらって憎くは思っていません。どうぞ連れて行って証拠を見せてください」と応じます。本八は「由兵衛がお吉と夫婦だと言ったらお前もおれの女房にするぞ」と言いますが、小梅はその点はうまくはぐらかします。心がせく小梅に対して、本八は「お吉が
『私は由兵衛の女房だ』
というまで任せておけ。小梅の家の上り口は蹴込みの板をはめていない(ということは床下に隠れられる)ので、床下に入って様子をうかがえ」と指示します。
そしてお吉の家に着き、本八がお吉に挨拶しているうちに小梅は床下に入ります。本八は素知らぬ顔をしてお吉に色事を仕掛けます。拒もうとするお吉に対してなおも激しく迫ると、そこに由兵衛が来て中を覗くと、本八がお吉の帯に手を掛けると、お吉は思わず「私には夫がいる」と言います。本八が夫の名を問うとお吉は「梅の由兵衛」と答え、本八は小梅にわかるように知らせたうえで、小梅が出ようとするのを押しとどめます。さらに「由兵衛には小梅という妻がいるがそれでもお前は由兵衛の女房だというのか」と詰め寄りますが、お吉は「由兵衛は自分の男だ」と言い張ります。本八がなおもお吉に詰め寄ると、由兵衛はたまらず中に入って本八を突きのけ「あじやら(戯れ)もしつこいぞ、酒が過ぎたな、帰って寝ろ」と説教します。そして本八が「本気でお吉に惚れているのだ。なぜ邪魔をする」と煽ると由兵衛は
「お吉はこの由兵衛の女房だ」
と言ってしまいます。本八は「女房だ、女房だ」と縁の下の小梅に知らせます。小梅はこらえきれず、本八のこぶら(ふくらはぎ)のあたりをつねって痛がらせます。梅屋渋風情が女房を二人持つとはおかしくて腹が痛い、と本八はごまかします。そして「お吉が女房なら本妻の小梅には暇をやれ」と責めると、由兵衛も「ことによったら暇もやる」と、小梅が聴いているとも知らずに言うのです。本八は「てかけ(妾)狂いの由兵衛様」とからかったうえで「小梅に貸している百五十目の銀(かね)を返せ。さもなくは小梅を離縁しろ。おれが女房にする」とうそぶきます。由兵衛は「銀は戻す。踏み倒さないがお前を踏む」と言ってたたき出してしまいます。
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- [2023/05/19 00:00]
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甘さだけが大切?
イチゴの栽培というと全国最大の供給地は栃木県でしょうか。私はいまだに栃木県と群馬県の区別がつかない(笑)のですが、いま改めて調べてみると、東に茨城県、北に福島県があるのが栃木県でした。ついでにとんでもないことを書きますが、「いばらきけん」の読み方が「いばらきけん」で、「ぎ」と濁らないことを初めて知ったような気がします(笑)。大阪府の茨木市も濁らないので同じなのですね。昔、「茨城県」は濁って、「茨木市」は濁らないと教わったような気がするのですが、あれは嘘だったのか!
栃木県のイチゴというと「とちおとめ」「とちひめ」「女峰」「なつおとめ」などが知られるほか、最近では「とちあいか」という品種もできたそうです。そのネーミングから見ると、やはりイチゴは若い女性のイメージが強いようですね。
ほかにも愛媛県の「あまおとめ」「紅い雫」、静岡県の「紅ほっぺ」「章姫(あきひめ)」、福岡県の「あまおう」「とよのか」、佐賀県の「さがほのか」「いちごさん」などなど各地で多くの品種が生まれています。
いつぞや、ハウスに「いちご狩り」に行った人の話を何かで見たのですが、とても丁寧にどういうイチゴがおいしいかを教えてくれたりするそうです。しかも今は手軽な糖度計というのがあって、果物などの糖度を測るときに、その果物を傷つけることがないそうです。
いちご農家ではやはり大きさ、形に加えて「甘い」というのが重要だろうと想像します。大きさでは、特大サイズになると
55g
くらい、大きいもので36gくらい、普通のサイズで22gくらい(私の収穫したもので一番大きいのが約20g)、そして一番小ぶりなのが6~9gくらいだそうです。私は結局小さいサイズから普通サイズのものを収穫したことになります。
今も農業試験場や農家の皆さんは大きくて甘く、味の濃いものを求めて研鑽を積まれているのだと思います。
なるほどそういうものはおいしいですし、子どもたちが喜びそうなものではあります。しかし私は子どものころ、イチゴは甘いだけではないし、そんなに大きなものでもなかったのに、とても満足していました。それを今の子どもたちに押し付けるのは時代錯誤だとは思いますが、なぜか割り切れない気持ちもあります。
レイチェル・カーソンの
『沈黙の春』
は人間が自然をコントロールすることの愚かしさを述べていました。品種改良というのはたしかに収穫が増えるなどの効果があるのかもしれませんが、実るほど頭を垂れる稲穂は、やはりどこか不自然です。
えらそうなことを言っても、私もプランターという狭いところで植物を育てようとしていますし、ホームセンターで買った土や肥料を使っています。鳥よけにネットを使ったりもしています。本来なら鳥が食べて種を運んで行くものでしょうが、その自然のサイクルに逆らっているかもしれません。そもそも私が栽培したイチゴも品種改良で作られたものですから、私もこのイチゴを口にして「昔ながらのイチゴの味だ」などと言ってはいけないのでしょう。イチゴって、さらに昔はどんな味だったのでしょうか。
それを言い出すと、米だって私が一人暮らしをしていた頃なんてコシヒカリなどは雲の上の存在で、私はダイエーで一番安い、名もない米を買っていたように思います。
収獲したイチゴを前にして、いろいろなことを考えてしまいました。
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- [2023/05/18 00:00]
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ボケ対策
周囲の同世代の人の訃報を聞くのは嫌なものです。あんなに元気に見えたのに、と愕然とすることもあれば、長く病気を持っていてついに、ということもあります。25年ほど前に仕事場で親しくしてもらっていた同僚の女性が癌になって、あちこちに転移したあげく壮絶な最期を遂げられたことがありました。一か月前には、すでに死期が迫っていたにもかかわらず、とても元気に話してくれて、「お金は払ってあるので、車検に出している車を取ってきてほしい」と頼まれたことがあります。まだまだその車に乗るのだ、という意欲を見せていらしたのです。それから1か月足らずで亡くなり、深夜に妹さんから電話をもらったあの時のショックは今なお忘れられません。その車は、後日私が愛知県岡崎の彼女の実家まで運んで行ったのでした。
学生時代からの友人は心臓病で手術のかいもなく血がうまくめぐらなくなって、脳に影響を与えて
認知症
になったあげくに最期を迎えました。
癌の人は最後まで頭脳は明晰なままでしたが、認知症になった友人は、知人の顔を見てもわからなくなるという状態でした。あまりにも気の毒で、私なんてまだ幸せな方だと思わずにはいられませんでした。
せめて生きている間だけはボケないでいたい、と思うのですが、もうすでにしょっちゅう忘れものをしますし、人の名前もすぐに出てこないことが増えています。それでもまだ何とか生活できているのは、歩くことと
ものを書く
習慣が奏功しているのかもしれません。ものを書く場合には言葉を推敲しますから、常に辞書を片手に考えていなければなりません。自分で想像している以上の効果があるのではないか、気休めかもしれませんが、そう思うようにしています。
最近、仕事が忙しくて何もできない状態なのですが、それでも合間を縫って好きなこともしています。ずっと気になっていた『迎駕籠死期茜染』の丸本をコピーして常に持ち歩き、それを読むのもかなり有効な「頭のリハビリ」になっているように思います。あの、ぐしゃっとつぶれたような文字を解読するのは、江戸時代文学を専攻してこなかった、ということは学生時代に訓練していなかった私にはなかなかの苦行です。ひとつの難解な文字を読むのに、文脈から想像したり、ほかの部分に似た字がないか探したり、その漢字の「へん」や「つくり」から推定したりしていくと、かなり頭を使います。この丸本すべてを読んだわけではなく、今のところ上の巻の「屋鋪」「新地」を読み終えて、中の巻の「晒屋」「聚楽町」に挑んでいるという状態です。いつも思うのですが、ほんとうに江戸時代の人はこれを見てすらすら読めたのでしょうか。私などは、出版人がわざと意地悪をしているのではないかとさえ思ってしまいます。30分ほど読むとくたびれてしまいますので、ほかの仕事に戻るようにしています。その切り替えが頭のマッサージをしているようにも感じられます。
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- [2023/05/17 00:00]
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イチゴの収穫
イチゴを詠んだ短歌はどれくらいあるのでしょう。私は恥ずかしながらあまりよく知りません。新しいもので有名なのは俵万智さんの『チョコレート革命』にある
明治屋に初めて二人で
行きし日の
苺のジャムの一瓶終わる
でしょう。ドキドキするような一首です。明治屋で買ったイチゴジャムの一瓶を食べ終わる、という歌ですが、「初めて二人で行った」というところに恋愛の秘密があります。そのジャムが時間を経て一瓶なくなるけれど、その間二人の関係はどうなっているのか、今後どうなるのかも何も描かれていないだけに読者の想像が膨らみます。
斎藤茂吉には
乳の中になかば沈みし
くれなゐの苺をみつつ
食はむとぞする
があります。最近のイチゴは甘いのでそのまま食べるのが普通でしょうが、以前は練乳を掛けたり砂糖をまぶしたり、牛乳の中に入れてつぶしたりして食べました。
とりかへしつかぬ時間を負ふ一人
ミルクの中の苺をつぶす
は佐藤佐太郎の歌です。とても実感がこもっています。
俳句になるとイチゴはわりあいによく詠まれています。やはり季節を感じさせるのでしょう。
流水にたれて蟻ゐる苺かな
(飯田蛇笏)
青春のすぎにしこころ苺食ふ
(水原秋櫻子)
心ふとうつろにつぶす苺かな
(中村汀女)
などなど。
私も拙いながらイチゴの歌を詠んでみたいと思っているのですが、なかなか難しくて苦吟しているところです。
私の家のプランターで育てているイチゴは5月半ばにして最盛期を迎えました。私の育てている宝交早生という品種はあまり大粒ではないのですが、今年のイチゴは昨年に比べて粒が大きく、味もしっかりしています。特に何か新しいことをしたつもりはないのですが、要するに去年の育て方がヘタ過ぎたということなのでしょう(笑)。私は酸味がやや強めの方が好きなのですが、今年はそれもうまくいきました。まだこれからしばらくできると思うのですが、収穫が終わると今度は来年の苗作り。そろそろランナーを伸ばしていこうと思います。
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- [2023/05/16 00:00]
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骨抜き
何人もの方がFacebookなどに「鯛の鯛」の写真を載せられたのを見たことがあります。鯛などの魚にある骨を鯛そのものに見立てるわけですが、似ていると言えば似ているという感じでしょうか。やはりあの目にあたる空洞部分があればこそでしょうね。システィナ礼拝堂のミケランジェロ『最後の審判』の絵を「聖顔(キリストの顔)」に見立てる人がいますが、あれもやはり「目」にあたる部分がもっともそれらしく見えるということなのだと思います。
それにしても、鯛のからだから骨を抜くと鯛が出てくるというのはなかなか面白く、最初に気がついた人はたいしたものだと妙に感心しています。
骨抜きというと魚の小骨の骨を抜く器具のこともいうようで、検索してみたらすぐに骨抜き器具の写真とともに通販の宣伝が出てきました。いろんなアイデア商品があるものだと感心します。
・・・という話とは何の関係もなく、私は最近この「骨抜き」という言葉を新聞で見ていささかカチンと来たのです。おそらくカチンとくるように新聞記者が書いたのでしょうから、あちらの思うつぼにはまったことになりますが、書かれていることが事実ならこのおとなしい私だって腹も立つというものです。
それはあの
LGBT法案
と言われるものについての記事でした。そもそも党派を超えて提出しようとしていた「LGBT理解増進法案」を自民党が独自に修正したものを国会に提出したというのでした。それについて、(新聞によれば)某議員が誇らしげに「骨抜きにできた」と言ったのだとか。自分の党が提出する法案が骨抜き法案だと自慢しているようで、ひとことで言ってどういう神経しているのか、という感じでした。そいつの名前を書いてくれ、とさえ思いました。
「差別は許されない」という文言を「不当な差別はあってはならない」と直したり、「性自認」を「性同一性」に変えたりしたほか、「学校の設置者の努力」という言葉も削除したようです。
「不当な差別」については、多くの人が「不当でない差別なんてあるのか」と言っていましたし、私も同じことを感じました。また「許されない」を「あってはならない」と書き換えたこともやはり「骨抜き」の意図を感じます。一部の政治家が差別発言してきたことを「あれは差別だけど不当ではないからかまわないのだ」「万一不当だとしてもそういうことはあってはならないんだよ、まあいいけどね」と言いたいためにこんな変更をしたのではないかとすら勘繰りたくなります。
「性自認」の書き換えについては、「自分で女性だと認めたら男性が女性の風呂に入ってもいいのか」と情けなくなるようなことを言っているようです。それは自認ではなく
自称、詐称
しているだけです。ほんとうに情けない、「こんな国会議員連れて国民やってまんねん、気ィつかいまっせえ」とかなり年輩の関西のお笑いをご記憶の方にしかわからない冗談で紛らわしたくなるほど恥ずかしいです。
こうまでしないといけない理由というのは、ひとつには「保守派」と言われる人たちの信念らしきものが影響しているのかもしれません。しかし彼らの「保守」というのは「明治時代を守る」程度だと思います。要するにたかだか150年の法治主義を盾にとって、人類が生まれてからずっと居続けるLGBTの人たちの生き方を狭めようとしているのだと思います。
前にも書いたはずですが、LGBTなどの性的少数者はいつの時代もいらっしゃったのです。ところが近代以降の法治主義で社会が変わったために生きづらくなって、憲法の言う
「基本的人権」
すら揺らぎかねなくなっているわけです。それをまともな形にするためには、まさに「法」でそういう方々を守るほかはない、そういう責務が議員にはあるのです。私などは、それを放棄するような態度の議員の気が知れません。
もうひとつ、ここまで「骨抜き」にしたい理由は、この人たちにとって何よりも頼りになり、しかも恐ろしい支持団体でしょう。早い話が、宗教団体あたりから「この法案に賛成するようでは選挙で支援できない」と言われているから反対せざるを得ないということです。新聞にはこの法案をつぶしたい団体が今なお議員に働きかけを続けているとも書かれていました。だからこそ「法案はできたけれども『骨抜きにした』」ことにしたいのではないでしょうか。
せめて野党がこぞって議論を吹っかけてくれればいいのですが、「こういう法でもないよりはまし」ということで賛成する向きもあるようで、もうほんとうにあっちもこっちも情けないです。
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- [2023/05/15 00:00]
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美田を残せず
西郷隆盛の詩に
幾歴辛酸志始堅
丈夫玉砕恥甎全
一家遺事人知否
不為兒孫買美田
(西郷隆盛「偶成」)
があります。
何度もつらい目に遭って志は初めて固まった。男子は玉砕するともつまらない生き方は恥じるべきだ。わが家訓を人は知っているだろうか。子孫のために美田は買わないということだ。
・・というくらいの意味でしょう。
中でも有名な一節は「児孫のために美田を買わず」でしょう。古く、疎広という人が「子孫に財産を残すのは怠惰を教えるに等しい」と言ったことが『老子』に見えます。『老子』にはさらに有名な「知足不辱、知止不殆」(過分に望みを持たなければ辱めは受けず、とどまることを知っていれば危ういことはない)という言葉もあり、大金持ちなんぞにはなるものではないのです(くやしまぎれ)。
さすがに西郷さんはカッコいいのですが、私の場合は「美田を買えず」で、とたんにカッコ悪くなります。
とにかく今の生活が目いっぱいで、余裕のかけらもありませんので、日々考えることはいかに倹約して生きるかということばかり(笑)。それでも、明日の米を心配するほど困窮しているというほどではないのでまだ恵まれているのでしょうが。
私は父親が亡くなった時、ほとんどなにももらっていません。ゴルフ用品とか、衣服などは残していきましたが、私はゴルフをしませんし(するとしても左利きなので親のものは使えません)、着るものはサイズが合いません。お金も残されず、わずかにもらったのは父親が私のお金ということでうまく運用してくれていた某電鉄会社の
株
くらいです。この株は売却していませんので(そもそも売る方法も知らない)、私は少しだけ電車に無料で乗れます(笑)。税務署の方は疑わしく思ったかもしれませんが、ほんとうに何ももらっていません(税務署の皆さん! はっきり言っておきます!)。
だからというわけではないのですが、私も子どもに何も残せそうにありません。家は持ちませんし、私の持っている本は役に立ちませんし、お金はもちろんありません。わずかに、本をメルカリにでも出せば多少のお金にはなるかもしれませんが、それでもせいぜい数十万で、相続税の対象にはならないでしょう。大学の教員は、お金持ちと思われることが多いのですが、本を買っても経費として落とすことはできず、実地調査をしてもほぼ自前。一流大学やお金持ちの子女の行く「おぼっちゃま大学」「お嬢様大学」の教員ならともかく、私などは貧しい学校のしかも底辺の教員ですから、
税務署もびっくり
でしょうね(笑)。
よく、相続税がたいへんだというのが話題になりますが、私の子どもたちは何の心配もないでしょう。「少しは心配させてくれよ!」と言われそうですが(笑)、彼らには申し訳ないことです。
そんな私でも、美田とまではいかなくとも、少しでも残してやれるものがあったら、という思いはやはり持っています。しかしほんとうにお金には縁のない人生だったと思います。そもそも「稼ごう」「儲けよう」という気持ちが足りなかった、いや、なかったといってもよいのです。
ただ、「児孫に借金を残さず」ということも言えると思います。せめて借金だけは残さないようにしたいものです。
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- [2023/05/14 00:00]
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迎駕籠死期茜染(2)
十六歳のお吉が姿を見せ、恋しい勝次郎を待っています。そこに現れた団平治は、お吉を捕えて口説き始めるのですが、お吉は徹底的に拒み、その場を逃れます。
団平治がどうしてくれようと思案していると大坂から古手屋三婦(さぶ)が団平治を訪ねて来ました。三婦は、団平治が浪人している時から金を用立て、仕官するに際しても身の周り用意のためにも金を貸していました。その金額は六十両にのぼります。その返済が滞っているので、遠路訪ねてきたのです。団平治はしばらく待ってほしいと猶予を願いますが、三婦は「半日も待たない」と強硬な姿勢。困った団平治の眼に入ったのは床の間に置かれた刀箱。三婦に耳打ちしてその刀を代わりに渡すと請け合います。そして床の間に近づくと人の気配。二人は小柴垣にひそみます。
そこに出てきたのは勝次郎とお吉。勝次郎はお吉が団平治と結婚するのではないかと嫉妬しています。勝次郎の嫌味な言い方にお吉は涙を流し「去年の夏に殿のお庭の泉水で若紫の杜若(かきつばた)の咲く三河国の八つ橋を模した橋を渡っていると向こうから来たのは業平にもまさるいい男。それで思いそめて恋仲となり、誓言してこうして起請も書いた。ほかに嫁入りする気はない。疑いが晴れないなら殺してください」と口説き泣きます。さすがに勝次郎も納得して和解しますが、お吉は癪が起こったから茶の間でさすってほしいなどと誘い無理やり連れて行きます。
その様子をうかがっていた団平治はお吉が落としていった起請を取り上げ、床の間の刀箱から刀を盗み、三婦に渡します。三婦は凌藤四郎の刀を受け取って大坂で売り払う旨の証文を書きますが、団平治は宛名の部分を破って懐に入れ、三婦は大坂に帰ります。団平治は先程の起請を床の脇に置きます。
やがて午の上刻となり、勝右衛門が来て、左内と団平治が迎えます。勝右衛門が刀の切れ味を問うと、左内は激賞し、団平治も賛同します。勝右衛門は息子の勝次郎がいないことを咎めるとそれを障子の向こうで聴いていた勝次郎とお吉は出るにも出られません。恋愛にうつつを抜かすのは、お軽・勘平を思い出してしまいます。団平治が勝次郎は用があって取り込み中だとしたり顔にいうと、勝右衛門はともかく刻限が過ぎるので刀を受け取ろうと言います。左内が床の間の箱を持ってきて蓋を取ると仰天します。勝右衛門に問われると左内は紛失したと伝えました。団平治が立ち上がって床の間を見回し、例の起請を拾い上げて「盗賊が分かった。左内殿の妹お吉と勝右衛門殿の子息勝次郎だ」と言います。そして確かな証拠があると言って「ついでに盗賊をお目に掛けよう」と茶の間に入って二人の首をつかんで引きずり出し、あげくには「不義者、盗賊」と嘲るのです。様子を見たお蘭(左内の妻)も駆け出してきます。勝次郎は不義を認めたうえで刀を盗んだ覚えはないと釈明します。団平治は証拠はこれだと懐から取り出したものを左内の前に投げ出すと、それは三婦が書いた凌藤四郎の受け取りでした。団平治はあわてて「その一通は起請と一緒に床の間で拾ったものだ。法跡(ご法度)の不義をして刀を盗んで大坂への路銀に当てるたくらみだ」と言い抜けます。勝右衛門は勝次郎を引き据えて「大馬鹿者」と怒鳴って主人への申し訳だと刀の柄(つか)に手を掛け勝次郎を斬ろうとします。お吉が押し隔てて「すべては私ゆえのことで、勝次郎様に咎はない。私を殺してほしい」と訴えます。団平治が左内にも「妹だからと容赦はならない」と言うと、左内もさすがに反論できません。ところがお蘭が団平治に「あなたがお吉に送った濡れ文がここにある(つまり団平治も不義者になる)」と言って不義の詮議はやめるように言います。団平治はさすがに不義の件は不問しますが、刀のことで勝次郎の首を討つよう勝右衛門に迫ります。しかし左内が「証拠という一通には宛名がないので勝次郎の仕業とも言い切れない。刀のありかが知れるまで殺すわけにはいかない」と言い、殿に日延べを願ってその間に刀の詮議をすることになります。左内はお吉に勘当を告げ、お吉は自分の過ちに泣き沈みます。お蘭は左内に「不義の話は収まったのだから勘当には及びますまい」と詫びるのですが、左内は「不義は逃れても刀の詮議がある。自分に代わって大坂へ行って刀を取り戻したらまた兄妹となろう」と言うのです。勝右衛門は勝次郎の大小(刀)をもぎ取って縁から突き落として、「左内殿の仰せのとおりだ。証拠の一通に大坂と書かれているので、お吉殿に助力して詮議しなさい。日延べの件はこの親が願い出る。刀が手に入ればまた会おう。それまでは勘当だ」と言い渡します。お吉と勝次郎は感謝しますが、お蘭は旅などしたことのないお吉を案じます。
そこに由兵衛が現れ、「様子はすべて聞きました。私がお供して大坂での詮議もお助けします。ご心配なく」と言うので左内は安堵して詮議の手掛かりとなる一札を渡すと、勝右衛門は「勘当したからには他人だからかまわぬことだ」と言いながら、涙を落とします。「頼む」と表向きには言わなくてもその涙が彼の気持ちを物語っているのです。
由兵衛は旅立ちを促します。左内も勝右衛門も不憫に思い、お蘭は嘆きながら見送ります。こうして由兵衛、お吉、勝次郎の三人は伊予の国を見捨てて大坂に出ていくのでした。
以上が最初の巻「屋鋪」のあらすじです。この続きはまた後日。
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- [2023/05/13 00:00]
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迎駕籠死期茜染(1)
私の持っている床本の『迎駕籠』は『迎駕籠野中の井戸』として上演されますが、これは『迎駕籠死期茜染(むかへかごしごのあかねぞめ)』とどう違うのかがどうしても気になっていました。内山美樹子さんの論文を読んでみたりもしたのですが、やはりわからず、専門家に聞くとかほかの文献を探すことは諦めて、
丸本で読む
ほかはないだろうという結論に至りました。
とはいえ、丸本はあの超ムズカシイ小さな独特の浄瑠璃文字ですから、読めるのかどうか不安いっぱい。それでも何とか読みつつありますので、ここにあらすじを書いておきます。皆様はほとんど興味をお持ちではないと思いますので、どうぞ今日明日、さらにその続きを書くときはスルーなさってください。あらすじを書いておくのは自分のためなのですが、万一この作品に興味を持つ、江戸時代の専門家でない人(専門家には釈迦に説法です)がいらっしゃるとして、検索してここに来られたら役に立つこともあろうかとちょっとうぬぼれた思いもあって書き留めておくのです。
まずは「屋鋪(やしき)の段」。伊予の松江修理大夫の家臣、唐琴左内の屋敷での出来事です。
登場人物は
唐琴左内、左内の妻お蘭、左内の妹お吉
妻木勝右衛門、勝右衛門の子息勝次郎
三上団平治、大坂の古手屋三婦
梅の由兵衛、若党林兵衛
です。
勝次郎とお吉は恋仲。団平治はお吉に横恋慕しており、三婦からは借金をしています。勝右衛門は一徹な父親。梅の由兵衛は頼もしい男です。
人形の首としては
左内・・孔明 お蘭・・老女形
お吉・・娘
勝右衛門・・鬼一 勝次郎・・源太
団平治・・小団七 三婦・・陀羅助
由兵衛・・検非違使 林兵衛・・源太
というところでしょうか。林兵衛はチョイ役ですから仮に源太を使うとしてもあまり上等な首でない方が映ると思います。
伊予国守松江修理大夫が将軍家に献上するために「凌藤四郎(しのぎとうしろう=京・粟田口の藤四郎吉光作)」の刀を求め、唐琴左内(からことさない)の屋敷で妻木勝次郎(つまぎかつじろう)、三上団平治(みかみだんぺいじ)が検分役となって左内自身による試し斬りがおこなわれました。無事に終わると左内の妻お蘭があいさつに出ます。団平治はお蘭に向かって、左内の妹のお吉を妻にしたいと願うのですが、お吉と勝次郎が恋仲であることを知っているお蘭は受けあいません。左内も「今日は大切な検分役で来たのだから私用を取りざたするのはわきまえがない」とたしなめます。
午の上刻に勝次郎の父である妻木勝右衛門が上使として刀を受け取りに来るので、それまで休息しようと一同は奥に入ります。
そこに、かつて奉公していた梅の由兵衛がやってきて、若党の林兵衛と出会います。由兵衛は、今は大坂で商人になっているのです。林兵衛から今日は左内が多忙と聞いてひとまず台所で休息しようと二人は去ります。(続く)
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- [2023/05/12 00:00]
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2023年5月文楽東京公演初日
文楽東京公演がきょう初日です。
このところ、「ナントカ記念」のようなキャッチフレーズがよくつきますが、この公演は「未来へつなぐ国立劇場プロジェクト 初代国立劇場さよなら公演 公益財団法人文楽協会創立60周年記念」だそうです。
1年間さよならを言い続けるのですよね。
演目は次のとおりです。
第一部 (午前10時45分開演)
通し狂言 菅原伝授手習鑑
(初段 大内、加茂堤、筆法伝授、築地)
第二部 (午後2時開演)
通し狂言 菅原伝授手習鑑
(二段目 道行詞の甘替、安井汐待、杖折檻
東天紅、宿禰太郎詮議、丞相名残)
第三部 (午後5時45分開演)
夏祭浪花鑑
(住吉鳥居前、内本町道具屋、釣船三婦内、長町裏)
『菅原』の「通し」の後半は九月だそうです。こういうのを「通し」っていうのかな?
以前、『忠臣蔵』を同じように何度にも分けて「通し」と言っていましたから、もう「前例」ができたということでしょうね。
「丞相名残」は千歳・富助で、玉男の丞相、和生の覚寿。
「道具屋」が錣・宗助、「三婦内」が呂・清介。勘十郎の団七、和生の義平次、玉也の三婦、勘彌のお辰。
- [2023/05/11 00:00]
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団七
明日からの文楽東京公演やこの夏の大阪公演では、『夏祭浪花鑑』が上演されるようです。明日からの東京はともかく、暑くてたまらない大阪の夏の公演にはうってつけの作品だと思います。
私がこの作品を初めて観たのはいつだったのかよくわかりません。先代勘十郎の団七は1982年朝日座が最後。それ以後は玉男、簔太郎(勘十郎)、文吾、玉幸、玉女(玉男)らで観てきたようです。簔太郎さんがご尊父の追善で演じられた時は簔助師匠が義平次を持たれました。
あの義平次という男を見ていると、「こんな人、今どきいないよね」と思うかというと、ちっともそうは感じたことがありません。ああ、こういう人、あそこにもいるな、と思い当たることが少なくないのです。こういう人間が大きな顔をして生きているのがいつの世も同じなのだと思います。根っからの悪人か、善人のように装いながら結局は自分のことしか考えていないか、それはさまざまですが。
ただ、団七のように「悪い人でも舅は親」と言って斬殺することはそう簡単にはできないのです。もちろん団七も簡単ではありませんでしたし、やはりしてはならないことでもあったのでしょう。しかしあえてそれを断行してくれたことで、観客は夏の暑苦しい中でぞっとしてしばしの暑さを忘れるとともに、世の中への不満を払ってくれたような気がして
快哉を叫ぶ
ことになるのではないか、と感じます。
義平次がしつこく言うのは「親ぢやぞよ」です。これはいわば金科玉条。「親」と言えば泣く子も黙る。従わなければならない存在という前提です。それをいいことに、子に対してどんな間違ったことをしても親なら許されると言い張るのは、どんなに間違ったことをしても、法律に触れなければかまわないというブラック企業などの理屈と似たようなものです。
コンプライアンス
というのは人々の安寧な暮らしのためのものであって、ブラックの魂胆を守るために強調されるものではないでしょう。
法律がどうであろうと、守らなければならない「人としての道理」というものがあり、それを破ることの方がよほど重大な過失だと思います。
義平次の名にある「義」とは結局は企業を守るためなら何をしてもよいというブラック企業の言う「正義」と何ら変わらないのです。作者の強烈な皮肉が込められた命名です。
『夏祭浪花鑑』は並木千柳、三好松洛、竹田小出雲の作品。今の時代にも通じるおもしろくもぞっとする話だと思います。
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- [2023/05/10 00:00]
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薫風
ボイストレーニングの一環として歌舞伎『外郎売』のせりふを稽古する人は少なくありません。演出家の鴻上尚史さんは「『外郎売』はあえてやらない」とおっしゃっていたと思いますが、関西のある劇団の稽古を拝見した時はやはりなさっていました。
私は耳を悪くしてから、自分が正しい言葉を使えているのかどうかに自信がなくなり、口さばきというか、明瞭な発音をしつつ流れるように話せるようにと思っていろんなボイストレーニングの本を読んで稽古し始めました。その中にはやはりこの『外郎売』もあったのです。早口言葉にこだわらず、はっきり伝わる発音をしようと努めました。また、棒読みするのではなく、團十郎のように(そんなことできるわけありませんが)、ちょいと歌舞伎役者になったつもりで
表情を持った
語り方を練習しました。何しろ長いですから、暗記するのはなかなか大変で、5行ずつくらい覚えていきながら稽古していきました。全部覚えて通して言えたときは、けっこう嬉しかったものです。
この『外郎売』の中に「(外郎を飲むと)薫風喉(のんど)より来たり、口中微涼を生ずるが如し」という一節があります。初夏の薫るような風が咽喉から出てきて口の中にかすかな涼しさがあらわれるようだ」というわけです。
餘にも自然な表現でしたので、最初ここを読んで覚えたときは特に何も考えずにそのまま素通りしたのですが、その後、Facebook友だちになっていただいている茶道の先生が禅語を紹介してくださったときにハッと気がつきました。
その禅語とは
薫風自南来 殿閣生微涼
というものでした。申すまでもなく、茶室では初夏5月ごろにこの一節を掛けることが多いようです。
これはもともと漢詩の二句で9世紀の文帝(唐の皇帝)が「人皆苦炎熱 我愛夏日長」(誰もが暑さを苦にするが私は夏の日が長いのを愛する)と言ったのに柳公権という人が付けた二句なのです。やがてこの句に悟りの心を読み取った人が禅語として定着させたようです。
「薫風南より来たり 殿閣微涼を生ず」。これが『外郎売』の「薫風喉より来たり 口中微涼を生ず・・」に用いられたのだと思います。こういうのを見ていると、江戸時代の人が古典に詳しいことに改めて感心してしまいます。
こういう教養があってこそいいものが書けるのだろう、と思えてなりません。『仮名手本忠臣蔵』大序の「嘉肴ありといへども食せざれば」というのは『礼記』によるものです。私が創作浄瑠璃に用いたことのある「耆婆扁鵲(インドと中国の名医)」というのは『勢州阿漕浦』に出てきたので知ったのです。
教養はやはり重要です。
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- [2023/05/09 00:00]
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覚えているプレー
私は昔野球をしていました。もちろん下手でしたが(笑)、おもに投手と一塁手でした。左利きですので捕手と一塁手以外の内野手は向かないので、投手、一塁手、外野手が私の居場所だったのです。
投手としては軟投派で、速球といっても、時速100㎞くらい(笑)だったのではないかと思います。
別にプロに行こうとしたわけでもなく、あくまで趣味の範囲でしたから、速度を上げようという努力も特にしませんでした。打撃も誇れるほどのものではありませんでした。
そんな野球経験でしたが、いろいろ記憶に残るプレーというものがあります。先ず、投手としては打たれたことはあまり覚えておらず(笑)、今もはっきりその時のボールの握り方までよみがえってくるのが二度の三振の場面です。
一度はパームボール。手のひら(palm)でボールを包むようにしてぎゅっと握らず、親指、薬指、小指の3本の指で支えながらぐっと押し出すようにして投げます。速さはありませんので、打者はストレートかと思って待っているといつまでもボールが来ない感じになります。高いボールだと思っていたら落ちて行ってつい空振りしてしまう、というのもねらい目です。そして私が思っていたように打者が「こんなの誰でも打てる」と言わんばかりに強振してきて空振りを取ったのでした。見のがせばボールです。
もうひとつは
フォークボール
です。ボールをフォーク(fork)のように挟んで投げるのでこういう呼び方をします。メジャーリーグではスプリッター(splitter)と言っていますが、今年アメリカに渡った元ソフトバンク・ホークスの千賀投手の「お化けフォーク」はあちらでも「ghost fork」と言っているようです。2ストライクから、指で挟んで思い切り速球のつもりで投げると、見事に落ちてくれました。ほぼ地面に付きそうなボールでしたから相手のベンチからは打者に「なんちゅう球、振っとんねん」という声もかかりました。打者は「フォークボールや」と返事していました。このやりとりを聞いているのもうれしい時間でした。そんなボールを振らせたわけですから。こういうときは気分も爽快です。
打者としては2番バッターで相手のストレートに見事にタイミングが合ってボールが右中間を転々としたことがありました。手ごたえがあったというか、何もなかったような感じでもありました。
ただ、打者としては痛恨のプレーもありました。
1アウトでランナー3塁。さあどうする、という場面で、私はかなり熱くなっていました。高めに外れたボールが来たので見送ろうと思ったら、3塁ランナーが走ってきていました。え、ホームスチール? そんなバカな。と思ったらタッチアウト。ベンチを見たら監督が「何やってんねん」という顔。私も3塁ランナーの暴走にがっくりしました。ところが、どうもランナーの様子が変です。悪いことをしたと思っていないようなそぶりなのです。はたと気がつくと、どうやら
スクイズ
のサインだったらしいのです(笑)。その試合はそのあともこっぴどくやられて負けました。
いろんな試合をしたはずなのに、ほんとうに覚えていることはわずかで、それでいてその記憶はとても明確なのです。
もう二度と野球のボールを握ることもありませんが、楽しい思い出としていつまでも大事にしておこうと思っています
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- [2023/05/08 00:00]
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今年のゴールデンウィーク
仕事柄、ゴールデンウィークなんてほとんど意味はありませんでした。あえて言うなら年中ゴールデンウィークみたいなものでしたから(笑)。
私の仕事は、週に3日現場に行けばいいので、祝日がうまく入ろうものなら5連休なんて珍しくないのです。それに夏休みになると、昔は7月半ばから9月一杯まで(つまり2か月半)休みでしたので、ゴールデンどころの騒ぎではありませんでした。もう20年近くになるでしょうか、文部科学省がにわかにうるさいことを言い出して、「授業すれば学力が伸びる」というまことしやかな迷信が流行していますので夏休みも8月初めから9月半ばまでの50日足らずになりましたが。
もちろん、今申しましたことは授業の仕事のことで、実際は雑用だらけですから連日何か用がありますし、私のように
図書館
にいることの多い者にとっては、家にいるより現場に行った方がはかどる仕事も多かったのです。それで私はずっと週に5日(一般のビジネスマンに准ずるくらい)程度は行っていて、一時は土曜日も誰もいないところで仕事していました。
さて今年は、サラリーマンの方は5月2日を休むと9連休になったようです。私は会社の仕事というのがよくわかりませんが、連休の間にぽつんと1日だけ行ってもあまり意味はないのでしょうか。
小中高校はカレンダー通りでしょうから、今年も5月1,2日は授業だったのでしょう。それでも5連休でしたから、海外旅行などできなくもないですよね(お金に余裕があれば)。
さて私は、別に普段と何の変化もないのですが、ゴールデンウィークだということにして(笑)、集中して
書き物
をしました。つくづく思うのは、私のような超三流の研究者でさえ書きたくなるものが『源氏物語』には潜んでいるということです。このたびは「賢木」巻の最後の部分を書きました。光源氏が対立する側にいる右大臣の娘の朧月夜という女性と密会した(それも右大臣邸で)あげく、その右大臣に見つかってしまうというドラマティックな場面です。
短歌も詠みましたが、これはまだもう少し時間がかかりそうです。
『源氏物語』の勉強会の予習もあります。ほかにもなんだかんだとありますので、このところあまり心の休まることがありません。
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- [2023/05/07 00:00]
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分からない字
学生時代に『古今和歌集』の古注釈をあれこれ読みました。大阪府立中之島図書館所蔵の七種類の古い本(もちろん活字になっていない写本)をすべて写真撮影してそれを少しずつ読んでいきました。ほかにも出版された注釈書があれば随時取り入れて、写本、活字本あわせて10種類あまりを比較参照して読んだのです。この、一見単純な勉強は、コツ事勉強することの重要性を教えてくれ、写本を丁寧に読む体験になって、「鍛えられた」と感じることができました。この経験のおかげでその後も変体仮名の文字ならある程度読めるようにはなったのです。ところが、難しいのは漢字です。仮名は「ん」を含めると全部で48字。それに対してさまざまな崩し字が当てられるわけです。しかしある程度限られますので、無限にあるわけではありません。ところが漢字はなにしろ字数が多いですから、何千という字が出てくる可能性があります。それに対して書き方がいろいろあって、書く人の個性はもちろん、
時代によっても
違いが出てきて苦労しています。今もってわからない漢字がたくさんあります。
ある写本を読んでいてわからない字が出てくると、その字の形を覚えたり書き写したりしたうえで、その本全体から同じ字を探します。同じ字が出てくると、前後の関係から文字が想像されて答えが導けることがあるのです。それでもわからない場合は保留するのもひとつの手段です。しばらくして見直すと、ふとひらめくこともあるのです。そういう場合は問題点をいつも頭に置いて別の本を読んだりするのです。そうしていると似たような字や文章がふと出て来たり、何らかの連想で読み方を思いついたりすることもあります。実際私は数年保留したあげくなんとか解決した経験があります。最初はまったくわからないものでも、何となく文字が見えてくるという感じがするのです。
私が読んできたものは
鎌倉時代から室町時代
あたりに書写されたものが多く、江戸時代のものも少なくありません。しかしあの浄瑠璃の文字だけはほんとうに慣れません。丸本の文字をぎゅうぎゅう詰めにしたものなんて、昔の人はどうしてこれをすらすら読んだのかと不思議なくらいです。
この春、『迎駕籠』という作品を読んでいて、どうにもわからなかった文字があります。読みとしては「うつむく」なのですが、「俯く」ではなく、さてどういう漢字が書かれているのか、いまだにわかっていません。案外簡単な字なのかもしれないのですが、少し時間をおいてまた読んでみようかと思っています。
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- [2023/05/06 00:00]
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人物の名前
4月27日付の朝日新聞朝刊の4コマ漫画「ののちゃん」は、ののちゃんのお兄さんののぼる君の所属する中学校の野球部に新入生が3人入ってきたという話でした。その子たちが自己紹介をするときに名前を言うのですが、この名前がふるっていました。「西です」「中島です」「南方です」というのです。大阪近辺の地理に詳しい人はこの3人の名前を見てプッとふき出したのではないでしょうか。実は地下鉄御堂筋線の「新大阪」駅と「中津」駅の間に「西中島南方(にしなかじまみなみがた)」という駅があり、おそらくこの名前を三つに分けたものなのでしょう。この駅名、ずいぶん長ったらしい名前ですが、これは駅のある「西中島」という地名と、かつての大字(おおあざ)の名で、すぐそばにある阪急電鉄の駅名でもある「南方(みなみかた)」を合体させたものです。阪急は「みなみかた」で地下鉄(といっても、このあたりは高架を走っています)は「みなみがた」と濁るようです。「南方」のほうが阪急との連絡がわかりやすいでしょうが、町名を駅の名前にしたいという意見も強くてこんな長い名にしたようです。
作者のいしいひさいちさんは岡山県玉野市の出身(「ののちゃん」の住んでいる町は「たまのの市」で、「ののちゃん」は玉野市のマスコットキャラクター)ですが、大阪府吹田市の関西大学に進んで、下新庄(しもしんじょう。関西大学最寄りの駅「関大前」から南へ3つ目の駅が「下新庄」駅)に下宿したそうです。そして下新庄駅からさらに南西側に3つ目の駅が阪急南方ですから、作者にとって「西中島南方」はきわめてなじみの深い名だったのです。
登場人物の名前を付けるのは、作者の思い付きなのか、何らかの工夫があってのことか、いろいろあるでしょう。
私は狂言風オペラ『フィガロの結婚』のアルマヴィーヴァ伯爵にあたる人物の名前を
在原平平
としました。9世紀に生きた色男の在原業平の子孫という触れ込みながら、美貌とは無縁で風流のかけらもない男として、思い切りふざけて「ひらひら」と軽い人物像を作りたかったのでこんな名前にしました。
『異聞片葉葦』では「お里」という人物を設定しました。うぶで一本気な、どこか『義経千本桜』「すしや」の娘お里をイメージしたことがきっかけだったのですが、最後に出てくる歌を考えているときに「里」という名前をはっきり決めたのです。その歌は「里の芋なら十五夜なれど
妹の里は十三夜」
と始まります。「里芋は十五夜に供えるそうだけれど、妹(いもと)の里は十三夜に団子を供えてくれた」という歌なのです。もちろん「さといも」と「いもとのさと」の言葉遊びです。江戸では里芋は供えない(関西の風習)でしょうが、そこはまあ、浄瑠璃ということで・・。
『落葉なき椎』のヒロインの名前は「夕顔」。辰巳芸者なので本来なら「○吉」「○奴」「○太」のような男性名を付けるはずなのに、この人は『源氏物語』にも出てくる「夕顔」という名なのです。しかし『源氏物語』とは直接の関係はありません。実は彼女は耳の不自由な女性で、『生写朝顔話』のヒロインで目の不自由な「朝顔」に対して付けたのです。
私は文才がありませんから、次々に名作を生む小説家のように筆は進みません。それでも、わずかに書いてきた小品の人物名を付けるのは、本文を書く苦しみとは裏腹に楽しいものです。
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- [2023/05/05 00:00]
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統一地方選挙
4月に2度選挙がありました。
2回に分けるのは何の理由か知りませんが、前半が知事や政令指定都市の市長などの大きな選挙で後半が市議会、区議会、町村議会などの選挙ということになっているようです。もったいないな、と思うのは選挙のハガキです。あれ、2回来るのですね。1回にして、ハガキに2回分の入場券を入れて切り取る形にするか、封筒に2回分のハガキを入れるか、何かできないものかと思います。ちょっとした街なら20万や30万の有権者がいるわけで、相当節約になりそうですが、難しいのでしょうか。新たな書式を作ったり封筒に入れたりする手間を考えたら安上がりなのでしょうかね。
少し前に書きましたが、私は市議会議員については誰が誰だかさっぱりわからず、選挙する気があまり起こらなかったのです。正直に言いますと、これまで市議会選挙だけは
パスしていた
のです。
ところが今回は、何となく行く気になって、少し立候補者のことを調べました。やはり「この人こそ」というほど食指が動く候補者はいませんでした。しかしせっかく調べたので、いくらかマシかな(笑)と思う人に入れようと決めたのです。私は疫病神で、このところ私が投票する人は必ずと言って良いほど落選するのです。いや、疫病神なのではなくて、落選しそうな人を選んで投票しているからだと思います。特に国政選挙では、巨大政党には入れませんので小選挙区では負けて当然という感じです。
統一地方選挙前半の県議会議員選挙でも、負けそうだな、という人に入れました。しかし、どうしたものか(笑)、その人は
最下位で
当選したのです。そして後半の市議会議員では今度こそ落選する人に入れよう(笑)と思ったのですが、何と、上位で当選していました。けっこう人気のある人だったようです。
これで、私は、今回の統一地方選挙は2連勝でした。どうやら福の神になったようです。
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- [2023/05/04 00:00]
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源氏物語の講座
大阪府立図書館に行ったのは、午後に中之島で用があったからです。図書館から淀屋橋までは地下鉄で行きますが、本町の乗り換えが少し面倒です。
淀屋橋の駅から地上に出て少し東へ行くとそこにあるのが栴檀木橋(せんだんのきばし)。このあたりは上方落語の『池田の猪買い』や『笊(いかき)屋』(『米揚げ笊』)で道を尋ねる場面に出てきます。『池田』では丼池筋の北浜を西へ行って淀屋橋から大江橋、蜆橋を渡り、『笊屋』では丼池の北浜を東へ行って栴檀木橋を渡らずに難波橋を渡って天満の源蔵町まで行きます。余談ですが、源蔵町というのは、今は西天満三丁目(の一部)というおもしろみのない名前になっています。天満宮の西に当たります。
淀屋橋南詰(御堂筋)の二筋東の丼池筋の北浜あたりに行くと「橋ない川は渡れんな」「渡るに渡れんことおまへんで」「おまえやったらどないして渡る」「泳いで渡ろか船で渡ろか」「それでは事が大胆な」というせりふをつぶやきそうになります(笑)。
淀屋橋を渡って東に行くか、栴檀木橋を渡ってそのまままっすぐ行くかは気持ち次第ですが、そのどちらかのルートを通って行くと大阪府立中之島図書館の東隣りに、国の重要文化財に指定されている
大阪市中央公会堂
があります。株式仲買人で北浜の風雲児とも呼ばれた岩本栄之助(1877~1916)が寄付した100万円をもとに建てられたもので、1918年竣工。すでに100年あまりの時を刻んでいます。なお、岩本は株の読み違いで大きな損失を出し、「この秋を待たで散りゆく紅葉かな」の句を残して自死しました。
私はここの小さな会議室をお借りして『源氏物語』のお話をしてきました。参加されたのはご年配の女性ばかり7人。数人ご欠席だったようで、今後は10人くらいが参加されるようです。
もともと継続していた源氏物語講座は、「コロナだから」という建前で(実はお金がないから)主催者によって中止されてしまいました。もう二度とこういうことをする機会はないだろうと思っていましたのでいい機会をいただけたと思っています。参加者はみなさん
短歌
をお作りになる方ですので、そういう方面の話も意識しようと思っています。
このときは源氏物語の作者、成立の背景、絵巻物、注釈史などについてお話ししました。
とにかくみなさん年の功というのか、やる気満々でこちらが逆に刺激を受けるくらいです。学ぶ気持ちの「熱さ」が、若い人とは違うような気がします。
次回は桐壷巻の冒頭を読みつつ、白居易の『長恨歌』を話題にしたいと思っています。
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- [2023/05/03 00:00]
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茜染野中の隠井(2)
中の巻「大坂渡辺橋木幡屋弥次兵衛内」
由兵衛は伯母婿の弥次兵衛に金を借りに行きます。その途中で三婦と本八兄弟に出会い、借金の返済を迫られ、今日中に返すと約束します。弥次兵衛は留守で伯母が応対するのですが、伯母は夫が始末屋なので貸せないと言いつつ、内緒で銀三百を貸してくれます。外に出ると、また三婦らが現れ、執拗に金を返せと言い、もみ合いになり、そのとき由兵衛は金を落としてしまいます。
弥次兵衛が帰宅して、その金を見つけます。妻(由兵衛の伯母)は涙ながらに自分が勝手に由兵衛に金を貸したと告白します。
弥次兵衛が表に出ると由兵衛が探し物をしています。弥次兵衛は「落としたものは、コレ、これか」と言って金を渡してやるのです。
次の段の「梅の由兵衛内」が、以前文楽で『迎駕籠野中の井戸』として上演され、女義さんが今もしばしば演じられる
「聚楽町」
に該当します。私が見た『迎駕籠』も同じです。しかし「聚楽町」と『茜染』の「梅の由兵衛内」は、話に細部で違いがあって、人物も異なります。
「上町 梅の由兵衛内」
伯母は由兵衛がお吉という妾に狂っていると誤解しています。そこで由兵衛に意見しようとして上町の由兵衛宅に来ました。しかし由兵衛は留守で、伯母はひとまず一間で休んでいます。
そこに研屋の左介が来て、小梅に「刀に買い手がついたので、もし欲しいのであれば今夜中に50両持ってきてくれと言って帰ります。
小梅がどうしたものかと悩んでいるところに、弟の長吉が来ました。長吉は「平野で為替の金100両を受け取ってそれを持っている。今夜はここに泊めてほしい」と言います。
やがて由兵衛が帰りますがお金の算段はできていません。小梅は、弟が100両の金を持って来ている」と伝えたあと「刀は盗品だからお上に訴えたらお金を払わずに返ってくるのではないか」と持ち掛けますが、由兵衛は「盗んだのは殿の奥方の弟(伴七)なのだから、表沙汰にはできない」と難色を示します。手詰まりに陥った様子を見せる二人ですが、「長吉」「百両」というキーワードが頭の中をめぐっているようです。由兵衛が
十文
でも飲んでもう寝よう、と言い、小梅は酒を買いに行きます。「十文」は「十文切」「十文盛」のことで、盛り切り一杯が十文の酒(飯にも言う)のことです。
やがて小梅が帰ってくるころに由兵衛は長吉を殺して百両をわがものにします。小梅が長吉を抱き上げると、長吉は思いがけないことを言います。「この金は、盗んだもので、姉様が困っていたから持ってきたのだ。自分は罪を受けて殺される運命だから、ここに来る途中、小橋の野中の井戸を死に場と決めてきた」。そう言って長吉は息絶えました。
すべての出来事を見ていた伯母が現れ、由兵衛にそれとなく遠くに逃げるように言います。由兵衛夫婦は長吉を抱いて野中の井戸に向かいました。
「道行涙のたま呼」
「みちゆきなみだのたまよび」と読むのだと思うのですが、あるいはもっと特殊な読み方をするのかもしれません。由兵衛と小梅は長吉の亡骸を野中の井戸に葬ります。
「瓢箪町 新町の研屋近く」
由兵衛は刀を受け取るとお吉に渡し、お吉は国元に帰ります。三婦と本八が長吉の親方を伴って由兵衛の前に現れます。由兵衛は代官に取り押さえられますが、本八は小梅への不義によって、三婦は盗品の刀を売った罪によって同じく引っ立てられました
おおざっぱではありますが、これが『茜染野中の隠井』のあらすじです。長吉という人物は殺されるためだけに出てきたようで、あまりにもかわいそうです。そこを工夫するためか、歌舞伎の『隅田春妓女容性』(江戸の話になっています)では長吉が勤める蔵前の米屋(和泉屋)の娘お君と恋仲という設定で少し役が大きくなるようです。2017年にこの演目が上演されたときは長吉が菊之助、お君は米吉でした。
こういう話を基にして『迎駕籠死期茜染』ができて、それが今の作品につながるようです。今度は活字になっていないもののWEB上でならあの独特の小さな字で書かれた『迎駕籠死期茜染』の丸本を読まねばならないのでしょう。
由兵衛沼にハマったような心境です(笑)。
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- [2023/05/02 00:00]
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