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五井金水 

このところ、毎月一度の割合で大阪市に『源氏物語』のお話をするために行っています。どういう具合に勧めればいいのか、まだ迷っているところです。というのも、『源氏物語』は長いですから、のんびり読んでいたら私の寿命がすぐに尽きてしまってあまりにも消化不良のまま終わってしまいそうだからです。いっそ、毎回ひとつの巻を取り上げてあらすじをお話ししながらその巻のおもしろさなどをお話しする方がいいかも知れない、とまで思っています。
さて、その『源氏物語』の6月の会は大阪市北区天神橋6丁目の「住まい情報センター」でおこなわれました。最寄り駅というか、直通ですぐに行ける駅は「天神橋筋六丁目」というのですが、なぜ「筋」がついているのか気になります。もちろん「天神橋筋」があるからなのですが、町名としては「天神橋6丁目」ですから、なんだかよくわからないのです。
この「住まい情報センター」は

    大阪くらしの今昔館

と一体になっています。どうせなら早めに行って今昔館にも行こうと思いました。
ここは、最上階まで上がって、江戸時代の大坂の街並みの復元を俯瞰するようになっていて、そのあと階段を下りてその街並みを歩きます。私は二度目なのですが、前回は急いでいましたので、表通りの店だけを見ていました。今回は裏長屋の方にも行きました。裏長屋のある家には衝立に『源平布引瀧』「松浪琵琶」の床本が貼られていました。こういうところがいいですね。風呂屋もあり、ここでは絵でしか見たことがなかった風呂屋のようすを中に入って体感出来てよかったです。柘榴口もあって、ほとんど人がその手前で帰っていましたが、私は湯舟のところまで行きました。唐物屋、人形屋、古本屋、屋台のぜんざい屋なども楽しみましたが、私は裏長屋が好きです。創作浄瑠璃のヒントになりますから。
企画展示では、折りから「五井金水とゆかりの画家たちー船場で愛された絵師の画房からー」も行われていました。

    五井金水(1879~1942)

は大阪生まれの画家で、本名は松次郎。久保田桃水、中川蘆月に師事して、京都の四条派の流れを汲む画家として活躍しました。船場の商家で彼の描いた絵を掛け軸にしたり屏風にしたりするのがしゃれていたのだそうで、なかなか人気があったようです。
すべて初公開だそうで、金水の「瀧図」「薫風」「水郷舟遊」などのほか、月岡雪鼎の「定家詠十二ヶ月押絵貼屏風」も興味がありました。
美術に疎い私は、金水という画家を知らなかったのですが、知識も増え、行ってよかったと思いました。

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ぼかし表現としての外来語 

私の学生時代にも「最近は外来語が氾濫している」と言われました。しかし今はその当時の比ではありません。何しろパソコン用語という新たな語彙が押し寄せてきて瞬く間に広がりました。「使えないとカッコ悪いよ」という強迫観念にも苛まれつつ、現代人は使用を余儀なくされているように思います。
私はパソコンを使うのは早かったのですが、その進歩や変化に遅れをとって、しかも耳の問題で人に教わることがうまくできないために、わからない言葉がどんどん増えていきました。
外来語を使いたくなるのはいちいち日本語に訳していられない、そもそも技術者たちは英語で理解しているので日本語にするとわかりにくくなる、という事情がありそうに感じます。そして携帯電話からスマートフォンの時代になって、もうこの流れは止められないようです食べ物も世界中の食事が日本に集まっていて、これまたその国の言葉を用いることがカッコよくもあり、また

    異国情緒

を味わわせてもくれるのだろうと思います。パスタの種類を言われただけで、「それってどんなの?」というほど食に疎い私なんて、フランス料理やイタリア料理のメニューを見ても何のことやらわかりません。お菓子の類でも名前を言われてもまったく実物を想像することすらできないのです。
LGBT理解増進法が成立したそうです。もともと超党派で提案するはずだったものを自民党が保守派と言われる人たちの顔を立てるために、また、応援してくれる宗教団体から叱られないようにするためにも「性自認」という言葉をどうしても変えたくて、そのほかにもいくつかの理由があって単独で案を出すという奇怪なことをしました。さらに自民党とは意見の一致することの多い「中途半端な野党」がこの言葉を

    「ジェンダーアイデンティティ」

と表現していました。
すると、「これだ!」とばかりに自民党が、というよりも首相が飛びついたと新聞で読みました。これなら「性自認」とも「性同一性」とも訳せるから誰も文句はないだろうというわけです。
あのう・・・日本の法律なんですけど。
英語を用いることで便利なのは、真意をごまかせる点にもあります。日本語で差別的な表現も英語で言えばそうでもない、ということはよくあります。昔は耳の不自由な人を和語ひとことでいっていましたが、それは良くないというので「耳の不自由な人」という長い表現で差別を緩和しました。ところが英語の「デフ」を使うとひとことで言えて、しかも悪く聞こえないというメリットがあります。聴覚障害者の演劇は「デフシアター」と言いますが、これを昔使われていた聴覚障害者を指す言葉でいうと途端に囂々たる非難が来るでしょう。ちょっとした方便だと思います。
しかし、法律をそういう

    ごまかしの言葉

で書くのは如何なものでしょうか。あの首相は国葬の時も見境なく側近の「できますよ」の言葉に飛びついたと伝わりますが、今回も似たようなものだと思います。この人は「あれ、おいしそうだな」と思ったらすぐに手を出そうとする「お坊ちゃん育ち」らしい幼稚さがあるようで、どうもこういう点に人間としての厚みのなさというか、はっきり言ってしまうと「浅薄さ」を感じ取ってしまいます。
政治家が困ったときによく言う「政治は妥協だ」というまやかしとはうまくマッチするのかもしれませんけれどもね。

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おむつを替える 

私には兄がいるのですが、この人が若くして結婚し、翌年には子どもができましたので私もまた若くして「叔父」になりました。
兄は芸人ではありませんが各地を飛び回る仕事をしていて、土日も関係なく家にいませんでしたので、当時学生だった私は兄の子の御守りもする羽目になりました。
あやしている分にはまだ問題ないのですが、ミルクを与えてはげっぷをさせるのは初めての経験で、しかもその子の健康にもかかわることですから慎重にしました。とてもいい体験をさせてもらってあとあと役に立ちました。もちろんおむつを替えることもありました。
あるとき、来訪者があって義姉が「ちょっと見ててもらえる?」と言って赤ん坊を置いて出ていきました。赤ん坊は機嫌よく寝ていたのですが、突然顔を真っ赤にして

    「フンッ」

と言って力を入れたかと思うと雪崩のような音とともに強烈なにおいが部屋に充満しました。「やってくれたな」と思ったのですが、次の瞬間に「ギャーッ」と泣くでしょうから、義姉も気がついて戻ってくるだろうと思ったのです。ところが赤ん坊は気持ちよかったのか、ニコニコしています。
さすがに放置しておくわけにもいかず、替えのおむつを取り出して私が処理するほかはなくなりました。よりによってかなりゆるいもので、拭くだけでもひと仕事。しかし、これもいい経験だったと思います。そのうち我が子のおむつを替えるようになっても、何とも思わずにするようになりました。
ある日、友人に赤ちゃんができたので見にこないかと言われ、出かけました。奥さんが台所で何かしていて、赤ちゃんは新米お父さんがあやしていました。すると赤ちゃんがまたもやところ嫌わずに猛烈な勢いで排泄しました。すると、おとうさんはやおら台所に向かって

    「おーい、頼むよ」

と声を挙げたのです。あとで聞いたところでは、「おむつを替えるのだけは絶対にできない」ということでした。そして奥さんもまったく平気で「はいはい」と言ってやってきてササっと処理していました。
あの当時はまだ「男性はそこまでしなくていい」という考えもありましたし、替えられないからといって「ダメな男だ」と非難されることもなかったと思います。しかし今どきは「おむつも替えられないような男と結婚なんてしたくない」という若い女性が少なくありません。以前多くの若い女性に聞いたことがあるのですが、圧倒的多数の人がそう言っていたのです。こういうところがどんどん平等になっていくのは、私はいいことだと思っています。
この点だけでいうなら私はひょっとすると今の方がモテたのではないか(笑)、と早く生まれたことを悔いたのでした。

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桐壷巻の自然描写 

『源氏物語』はどこを読んでもすばらしいと思います。この国にも古来多くの文学作品がありますが、やはりこの物語が最高峰と言わざるを得ないと思います。
人物を描かせると鋭いですし、作者の博学がものを言う場面もあります。音楽、美術という芸術に関する見識もうかがえます。なぜこんな具合に書けるのか不思議と言ってもよいくらいです。
先日、大阪の「紫木会」という『源氏物語』の読書会で、最初の巻である「桐壷」の自然描写のことをお話ししてきました。
光源氏の母桐壷更衣が亡くなったあと、帝の使いとして靫負命婦(ゆげひのみやうぶ)という女官が更衣の母を見舞う場面があります。「命婦」とうのは官女としてはさほど高位の人ではなく、中級官女というところです。「靫負」は「靫(ゆき)負(お)ひ」のことで、矢を入れて背負う道具(靫)を背負うところから衛門府の官人を指します。この官女の父、兄弟、夫などが衛門府の役人だったことによる呼び名と考えられます。
帝は、右大臣の娘で桐壷更衣を憎んでいた

    弘徽殿女御

の手前もあって、あまり大っぴらに更衣を見舞うことすらできないのです。そこで、身近な腹心の女房たちを折に触れて使いに出しました。そのひとりが靫負命婦だったのです。
この場面の自然描写はとても美しいです。
命婦が母君の邸を尋ねたのは「夕月夜のをかしきほど」で、秋の寂しい風景です。手入れの行き届いていた庭が荒れています。
日本ではもともと秋は悲しい季節ではありませんでしたが、古代中国の詩人たちが「悲哉秋之為気也(悲しい事よ、秋の気といったら)」(宋玉)「大抵四時心総苦、就中腸断是秋天(四季を問わず心は苦しいが、とりわけ断腸の思いがするのは秋の空だ)」(白居易)などと盛んに秋は悲しいと言いましたのでその影響で平安時代の人は秋を悲しく感じるようになりました。
帝のいたわりの心が月の光のように母君の邸を照らしているかのようです。
母君は靫負命婦に長々と繰り言を述べて夜が更けてしまいます。この場面には

  月は入りがたの、空清う澄みわたれるに、
  風いと涼しくなりて、草むらの虫の声々も
  催し顔なるも、いと立ち離れにくき草のも
  となり。

おそらく上弦の月がもう山の端に入りそうになります。そして風が涼しく肌に当たり、虫の声が耳に響きます。目に見える月、肌に感じる風、耳に響く虫。
なんとも美しい描写です。うまく和歌にしたいくらいです。
やっと命婦は内裏に帰りました。帝はまだ起きていて、長恨歌の絵を見たりしていました。
命婦からの話を聞いているうちに、さらに長恨歌の風情が重ね合わされてきます。そのとき、

    月も入りぬ

という一節が見られます。夕方の月のころに出かけた命婦が月の入りがたになってもなおなかなか帰れずにいました。そしてここでやっと月が沈みます。「月」の動きによって時間の経過が表現され、ここで一連の話が終わりを告げるかのように「月は入りぬ」と記されるのです。
この場面に限らず、『源氏物語』の自然描写はとてもすてきなところが多いと思います。

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紫陽花 

梅雨の時期の植物と言えばやはりアジサイが一番に思い出されるでしょう。
鬱陶しい時期に鮮やかな色の花を咲かせてくれるのは、心に安らぎを与えてくれます。理科系の勉強が苦手な私にはうまく説明できないことですが、土壌にアルミニウムがどれほど含まれているかによって色が変わってくるのだとか。
日本では酸性土が多いですが、そのために青色の紫陽花が咲くことがしばしば咲きます。土がアルカリ性になるにつれて紫陽花の色も赤みを帯びてくるのだとか。不思議な話です。だから、赤い花が見たければ土壌をアルカリにすればいいということなのでしょうね。手っ取り早いのは卵の殻を細かく砕いて撒いておくとうまくいくそうです。もちろん、アルカリ性に傾けるためには

    苦土石灰

を混ぜ込んでもいいのでしょうね。苦土石灰は炭酸マグネシウムと炭酸カルシウムが主な成分なので酸性を弱めてくれます。
というようなことを私が書いても、あまり信用されません。私自身わかっていないのですからそれは仕方のないこととご容赦ください。
紫陽花は平安時代の辞書である『倭名類聚抄』に「阿豆佐為」という音が記されています。「あづさゐ」と読めます。「ゐ」は「藍(あゐ)」のことともいわれます。
私の家には鉢植えの紫陽花が一株あります。10号の大きめの鉢ですが、紫陽花にはちょっと窮屈でかわいそうかな、という感じもします。
実は葉が

    うどんこ病

になってしまって、もうダメかもしれない、というところまで行きました。しかし早めに葉を取り除いて様子を見た結果、今はきれいな葉がずいぶん茂るようになりました。これで「復活」したことになるのかな、と思ったのですが、今年は花芽が出てこず、それは来年に持ち越しになりそうです。やはり紫陽花はあの華やかな花が咲いてこそですから、いささか残念です。来年はきっと、とは思うのですが、きちんと育てた経験がないので自信はありません。
紫陽花というと『万葉集』に歌があります。

  紫陽花の八重咲くごとくやつよにを
   いませわが背子見つつ偲はむ
      (万葉集・四四四八・橘諸兄)

紫陽花の花が八重に咲くように、いつまでもお元気でいらしてください、と長寿を願う歌です。紫陽花の美しさを詠むものではないのですね。
しかし紫陽花はあまり多く歌には詠まれませんでした。最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の夏の部は橘とほととぎすで埋め尽くされており、紫陽花の詠まれた歌はまったく取られていません。
ただ、平安時代の後半には少し詠まれていて

  紫陽花の花のよひらにもる月を
   影もさながら折る身ともがな
          (源俊頼)

などの例があります。
今は梅雨時を代表する花として愛され、短歌の素材にもなりますが、時代によっては強い関心を持たれることがなかったのですね。逆に、昔はとても好まれたのに今はさほどではないというものもあり、美意識の変化はなかなかおもしろいものです。

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処世の秘訣は朦朧たるに在り 

東洋のルソーと言えば思想家、政治家の中江兆民(1847~1901)です。土佐の足軽出身でフランス語を学び、岩倉使節団に参加しました。最初の衆議院議員選挙に当選しましたが、すぐに辞職するなど、ひとつの道を進むタイプではない、かなり個性の強い人物だったようです。
6月9日の朝日新聞朝刊「折々のことば」で鷲田清一氏はその中江兆民の言葉を紹介していらっしゃいました。
兆民の書生に大逆事件で刑死した

    幸徳秋水(1871~1911)

がいます。この人も高知の出身で、東京で同郷の先輩である兆民の門弟になったのです。兆民はあるとき、この若い書生のあまりに厭世的な面を案じて、こんなことを言ったそうです。

  処世の秘訣は朦朧たるに在り。
  汝義理明白に過ぐ。宜しく春藹
  の二字を以て号と為せ。

この言葉は幸徳秋水『兆民先生』(岩波文庫所収)に書かれているとのことで、私はこのたび初めて読んでみました。
「おまえさんは何でもかんでも義とか理とかをはっきりさせないと気が済まないようだが、世の中を渡っていく秘訣はぼんやりとしたところにあるのだ。「春藹」(しゅんあい)の二文字を号としなさい」ということなのでしょう。「藹」はおだやかで心が和む様子を意味しますので、春のぼんやりと穏やかな風情を号にして、あまり深刻にならずに心を穏やかに持ちなさい、というのですね。弟子を思いやる気持ちがよくわかります。
ところがこの若者は「朦朧なんていやです」と受け取らなかったのです。すると兆民は「では『秋水』を号にしなさい」と言ったのだそうです。「春藹」などとは似ても似つかぬ人物であることがわかっていた兆民は結局諦めたようにしてこの人にもっともふさわしい号を与えたのです。
富山市に「秋水美術館」があります。といっても幸徳秋水とは関係なく、日本刀の美術館なのです。つまり「秋水」とは

    研ぎ澄まされた日本刀

のことを言うのです。しかもこの号は兆民自身がかつて用いていたもので、彼はこの弟子にどこか自分と似たものを感じ取っていたのでしょう。
ところで、この「処世の秘訣は」云々という兆民の言葉は、私にとってはどうにも耳が痛いです。世の中をうまくわたっていくためには、ぼんやりとしていたほうがいいんだよ、というのは私にもわかるような気がします。そうやってうまく生きている人を何人も見てきたことも事実です。一方、あまりにもこだわりが強いと人から嫌われて結局はうまくいかないのでしょう。
ただ、器用に生きられない人間はいつもいるのです。私もこだわりは強く、妥協することを知らず、間違いは間違いと言わねば気が済まないのです。だから人から嫌われもしますし、ごまかそう、逃げようとする権力には「秋水」を振り回してでも立ち向かおうとさえしてしまいます。
兆民先生に出会っていたらやはり「春藹」と号しなさいと言われたかもしれません。でもやはりお断りしただろうと思います。

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2023年2月文楽若手会初日 

今日と明日、文楽の若手会が行われます。
「すしや」を芳穂・友之助、希・清𠀋、「新口村」薫・清方、亘・清公、靖・寛太郎という布陣。呂太夫門下が大活躍です。
人形では玉翔の権太、勘次郎の忠兵衛などは見ものではないでしょうか。
若手といっても世間ではもう中年という人がたくさんいます。どうか未来の文楽のためご健闘ください。

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耳目聡明 

私の耳の調子がおかしくなり始めたころに娘が生まれました。実はこの子は男女どちらかわからないまま出産のときになったのです。ところが、周りの人がたいてい「男の子だ」と言うものですから、私は何となくそれを信じてしまって名前を男の子のものしか考えていなかったのです。
私は、男子は『論語』などの漢籍から、女子は和歌から名前を取ると決めていましたので、この子にも漢籍から取る予定でした。

    耳目聡明

という言葉があります。直訳すると耳がよく聞こえ(聡)、目がよく見える(明)ということですが、物事をよく見分け、聞き分けてすぐれた判断をするようすを言います。私が耳の状態が悪かったために、この言葉から「聡」の一字を取って子どもの名前にしようと思いました。この言葉は『易経』の中に「巽而耳目聡明(「巽」は謙虚であること)」という形で出てきます。
「鼎の軽重を問う」という言葉があります。下位の者が、王などの統治者の力を軽んじたり疑ったりしてその地位を奪おうとすることです。しかし、上位の者は謙虚にして耳目聡明であればその地位を脅かされることはない、というのが『易経』の趣旨です。人はとかく位が高くなると人の話は聞かないものです。せいぜい聞いているふりをするくらいです。「どうせまともなことを言わないんだからこいつの言うことは聞かない」という結論を先に出しておいて、仮にその人物の言うことが正しいとわかっても、いったん「聞かない」と決めたからには、正しかろうが間違っていようが、

    聞かないための理由

を並べ立てようとします。そういう、なさけなくなるほど馬鹿げたことをするのが権力者というものだと、最近しみじみ感じます。愚かだとは思いますが、無力なものが何を言っても彼らはゴリ押しをするばかり。虚しい話です。
私は、生まれてくる子にそんなくだらない人間にはなってほしくありませんでした。権力を持つとか持たないとかいうこととは関係ないのです。人の話を聴かず、まともにものを見ないとろくなことにはなりません。私がいい反面教師です。この子はよく聴き、自分で正しい判断ができる人間であってほしい。そう願ったのでした。
結局生まれたのは女の子でした。私は平安時代の歌人の歌から言霊を授かる気持ちで彼女の名前を付けました。最近、名前の由来とその裏話(ここに書いたこと)をしました。
彼女は自分の名前を気に入ってくれているようでうれしいです。

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2023 文楽鑑賞教室千秋楽 

鑑賞教室は中堅どころが活躍されることも見どころではないかと思います。いっそ、重要無形文化財各個認定を受けている方などは出演されなくてもいいようにすら思います_(ファンに叱られますが)。人手の多くかかる人形遣いさんはなかなかそうもいかないのかもしれませんが。
その鑑賞教室が千秋楽を迎えます。高校生の皆さんはどのように感じられたのでしょうか。
私は事前にアンケート用紙を渡しておいて、演目についての感想でも書いてもらったらどうかと思います。感想の提出者にはもちろんボールペンくらいはあげてください。そうすることでいくらかでも

    寝ない

人がいるかもしれません。心地よい空調の中で、大夫さんと三味線さんがバックミュージックを流してくれると大人でも眠くなる人がいます。まして高校生なら寝ても当たり前。そこを何とか予習と感想文という復習をしてもらうことで「教室」としての役割が果たせるのではないかと思います。
このあとは若手会。こちらは一気に年代が下がって、違った楽しみのある公演です。
呂太夫門下の人たちが重要な場を語られます。頑張っていただきたいものです。

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ときどき大阪 

このところ、用があってときどき大阪に出かけます。田舎者としてはあまり都会に出るのは好きではなく、行ったらできるだけ早く帰りたいと思う始末です。
たとえば文楽劇場に行くときは梅田から地下鉄で日本橋まで行きますから地上に出ることはありません。車窓から眺める風景というのがないわけですね。そうなると街の姿を知ることができませんので、どうにもつまらないのです。そういうこともあってか、私は昔から地下鉄というのがあまり好きではありません。私の日本史の恩師であるY先生は横浜の金沢文庫というところにお住まいでしたが、やはり地下鉄が大嫌いでいらっしゃいました。ただ、この先生の場合は「地面の中を走るなんて怖い」ということだったようです。私も、あまり自覚はしていないのですが、地面の中にいると想像するといささか怖いという感覚も持っているのかもしれません。それで私は天王寺(たいていは大阪市立美術館)に行くときでも、地下鉄で行けば早いのにわざわざJRで行くことにしています。
先日は天王寺ではないのですが、同じ大阪市天王寺区に用がありました。ここも地下鉄で行くと一番便利なのですが、

    あまのじゃくな

私はやはりJR大阪環状線を使いました。
大阪環状線に乗る場合は、大阪城ホール(大阪城公園駅)や市立美術館(天王寺駅)に行くか、奈良方面に行くために近鉄に乗り換える鶴橋駅か、それくらいしか使うことがないのです。ですから降りる駅も限定されます。ところが今回は、目的地に比較的近いのが

    桃谷駅

でしたので、初めてこの駅で降りてみました。このあたりは生野区と天王寺区の境目らしく、下町の雰囲気があって猥雑な面白さを感じます。生野区というと、私の思い込みかも知れませんが、どこかディープな街を連想してしまいます。「生野」というのは一節にはこのあたりで豚(猪)を飼う渡来人がいたために呼ばれるようになった「猪飼野(いかいの)」から来ているとも言われます。
こうして大阪に行くようになったのは『源氏物語』の講座に出かけるからというのが大きいのです。京都の方、堺の方、奈良の方などいろんなところにお住まいの方がいらっしゃるのですが、そうなると集まるにはやはり大阪市内が便利ということになってきます。
この日は午後をずっと大阪で過ごしました。しかし用が終わると田舎者の私はどうも居心地が悪くて、やはり一目散に大阪を離れようとばかりに帰って行ったのでした。

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盗まない 

野球の話が続いて恐縮です。
日本のプロ野球で一番多く盗塁をした人は元阪急ブレーヴズ(普通は「ブレーブス」と書きます)の福本豊さんです。この人はもともと松下電器で同僚だった加藤秀司さんのおまけのような形で阪急に入ったそうです。加藤さん(ドラフト2位。1位はエースになる山田久志投手)は天才的なバッターで注目されていたのですが、福本さんは小さくて(公称169㎝)非力でドラフトも7位。何と、自分が指名されたことは翌日新聞を読んでいた先輩に知らされたというのです。この人は自分が指名されただけでなく、驚いたことに自分が引退することも知らなかったという伝説の持ち主です。引退するつもりはなかったのに、当時の上田監督が間違えて「引退する福本」と言ってしまったために仕方なく辞めたというのです。この人にはこういう伝説がいくつもあります。まさに「レジェンド・福本」です。
ところが上田コーチ(のち監督)と取り組んだ練習の成果もあって、盗塁の名人となって、ついに

    1065盗塁

という、NPB(日本のプロ野球)では空前絶後の記録を作りました。この人に次ぐのは広瀬叔功さん(南海ホークス)の596ですから、2倍近い記録ということになります。福本さんは単に足が速いだけでなく、投手の癖を盗むことに秀でていました。ですから、投手がまだホームベースにボールを投げる動きをする前に盗塁を始めるという、信じられないようなテクニックをお持ちでした。逆に、日本シリーズなどの短期決戦の場合は、よくわからない投手が投げていますからあまり盗塁ができなかったこともありました。
ちなみに、福本さんは三塁打の通算最多記録もお持ちです。
昨今のピッチャーは、足の速い選手が塁に出た場合は誰もがクイックモーションをしますので容易に走れなくなってきました。それだけに、自由に盗塁することはチームの勝利に寄与しない可能性も高いのでサインが出た時だけ走るという方針のチームも増えています。
今、日本一の盗塁技術とスピードを持つのは周東右京選手(福岡ソフトバンク)かもしれません。しかしこの人はバッティングに課題があって、出塁数が少ない(レギュラーとして固定されておらず、代走での出場も多い)ため、あまり盗塁の数が多くならず、盗塁王も昨年までで1度だけ。年間最多盗塁数は福本さんの106に対して周東選手は50です。それでも、今年の周東選手は、今のところパ・リーグの盗塁数のトップを走っています(6月18日現在で15盗塁)。
それに対して、セ・リーグの盗塁数の少なさは目を覆うばかりです。最高の盗塁数(6月18日現在)が近本選手(阪神)の

    12

で、パ・リーグでは3位タイに該当します。今年の阪神の監督はグリーンライト(緑信号。いつ走ってもかまわないと選手に任せること)にはせず、サインを出しているようです。
勝つためにはそれもしかたがないのかもしれませんが、私はもっと盗塁数が増えてほしいと思っています。昔、阪急西宮球場で見た福本さんの盗塁のすばらしさは忘れられません。ああいう野性味にあふれたプレイが少ないのが今の野球のありかたなのでしょうが、感動を受けるという意味では物足りなさも感じます。
なお、福本さんは「盗塁失敗数」の歴代最多記録保持者でもあります。

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吉田選手という人 

前から気になっている言葉なのですが、日本の野球選手がメジャーリーグに移籍することが「挑戦」という言葉で表されることがあります。おそらく野茂さんの時代なら成功するか失敗するかわからないから「挑戦」というのが実感だったのでしょう。しかし今や、次々と日本の選手がアメリカに渡っています。特に投手はかなり活躍している人が多いと思います。今の人でもダルビッシュ、大谷、菊池、千賀などという人たちは先発ローテーション投手として活躍しています。野手はアメリカのパワーにかなり苦戦する人が多く、日本では無類の強さを誇った選手たちもあちらに行くと活躍できないことが多くあります。こういう場合はやはり「挑戦」という気持ちになるのかもしれません。でも、もういい加減アメリカを上に見て「挑戦」なんて言わずに

    「移籍」

と言えばいいのではないかと思います。アメリカの選手が日本に来て(さんざんな成績に終わって)もそれは「挑戦」とは言わないのですから。
さて、今年からメジャーリーグに移籍した投打の代表的な選手と言えば福岡ソフトバンクの千賀投手(現ニューヨーク・メッツ)とオリックスの吉田選手(現ボストン・レッドソックス)です。どちらも期待されたような働きをしており、千賀投手は5月末の時点で5勝、吉田選手は3割を超える打率です。
実は私は、千賀選手についてはきっと成功すると思っていたのですが、吉田選手はうまくいかないのではないかと案じていました。千賀選手の場合は何と言ってもあの「ghost folk」と言われるスプリッターがあり、スピードも海外の人にひけはとりません。それに対して日本人としても大柄ではない(173㎝)吉田選手は、190㎝を超える人がざらにいるあちらの選手に交じってパワー負けするのではないか、いくら技術があるからと言っても力の差は如何ともしがたいのではないかと思っていたのです。日本のメジャーリーガーでも大谷選手(193㎝)やダルビッシュ選手(195㎝)はもちろんのこと、千賀選手(185㎝)や鈴木選手(180㎝)よりもずっと小柄な人なのです。華奢な印象のあるイチローさんでも180㎝ありました。
それでも、吉田選手はあの飄々とした雰囲気で、何気なく短い腕をいっぱいに振って、3割はもちろんのこと、

    年間20本塁打

も夢ではないような活躍をしています。
WBCのメキシコ戦で打ったホームランはまぐれじゃないかと思うくらいうまく手が出ていましたが、一体あの人はどうやってヒットを打っているのか、不思議なくらいです。イチローさんも不思議な人でしたが、吉田選手はそれに次ぐ東洋のマジシャンとなるかもしれません。
このところ、毎朝ついついネットで吉田選手の成績を見てしまいます。頑張ってほしいです。

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やはり、研鑽 

大学の文学部に行くと、活字の本を読んでいるだけでは済まないことがあります。日本史専攻であれば古文書とか古記録なども読まねばなりません。私は国文学専攻ですが、歴史や美術の勉強はしておこうと思って、美術史や古文書の授業にも出ました。古文書には独特の書式がありますが、活字で読み慣れているとそれが頭に入っていて、実際の古文書を見たら見当がつくだろうと思います。しかし普段から活字で古文書に親しんでいたわけではありませんから、日本史専攻の人のようにすらすらとは読めず、苦労しました。
国文学専攻で、特に古典文学の勉強をしようとすると、

    写本や板本

の読み方を訓練する必要があります。板本(版本)はもっぱら江戸時代のものですが、写本は当然ながらさらに古くからのものが残されています。書写する人の癖だけでなく、時代によっても書き方が異なることがあり、その癖を見分ける技もより速く正確に読むのに役に立つと思います。
私がよくなじんだのは室町時代あたりの文字で、ふっくらとした流麗な書体がとても魅力的です。
江戸時代の板本になると、

    浄瑠璃の丸本

のようにギュウギュウ詰め込むような書体があって、最初は面食らいます。
漢字の草書と仮名ではどちらが難しいかというと、私の場合は圧倒的に漢字です。せっかくすらすら仮名を読めているのに、突然漢字が出現すると、「何、これ」とばかりに暗礁に乗り上げることがあります。しかし最近はそういう場合には強い味方ができています。
世の中はもうAIが何でもやってくれそうな時代に入っていて、最近では昔の文字を解読してくれるアプリも出ているのです。ありがたいと言えばありがたく、絶対に正確かどうかは断定できないまでも、少なくとも私よりは賢い(笑)ので、こう読むのではないか、という見当をつけてくれるのは助かります。ただし、そこで終わってしまっては人間の負けで、それが正しいのかどうかを検証しなければこういうアプリを使う意味はないと思います。
先日、藤井さんという青年が将棋の名人の位に就きました。将棋の世界も経験と知識と勘の時代から、パソコン、AIへと時代が変わり、この人の世代だと最初のころからAIとは親しんでいたのだろうと思います。しかし、みなさんがAIになじんでいるわけですから藤井さんだけがその恩恵を受けているはずはなく、やはりAIを超えるものをこの人は持っている、あるいは磨いているのだろうと感じます。
坂田三吉、関根金次郎、大山康晴といった往年の棋士たちには想像もできなかったような時代になっているのかもしれません。
藤井さんを見習うとしたら、使うべき機器は使いつつも研鑽を怠らないことでしょう。メジャーリーグの大谷選手にも通じるところがあるかもしれません。

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出家 

平安時代の貴族は、人生をはかなんだ時にしばしば出家しました。今なら命を絶つほどの悲しみに遭ったとしても当時の人ならこういう道が残されていたのですね。
寛弘六年十一月に一条天皇の第三皇子である敦良親王が誕生しました。その五夜の産養(うぶやしない)のとき、喧嘩が起こります。藤原道長の子能信が藤原伊成という人物を面罵したようです。能信は数え年の十五歳。生意気な頃です。一方の伊成もまだ十代の若者。賭け事でもしたのか、おそらくはつまらないことが原因ではなかったかと私は想像しています。「俺なんか、お父さんは道長だぜ」とでもいうような自慢もしたかもしれません。伊成の父親の義懐という人は政争に巻き込まれる形で出家せざるを得なくなった人で、この前年には亡くなっています。伊成は頭に来たらしく、持っていた笏で能信の肩を打ってしまいました。蔵人定輔という人物がすぐに伊成を庭に突き落とします。天気の悪い日で、伊成は泥だらけになったと思われます。冠は取れて髻を引っ張られて、能信の取り巻きたちにさんざんに痛めつけられます。
踏みにじられた伊成の耳には、能信おぼっちゃまの

    高笑い

が聞こえたかもしれません。
あまりの悔しさに、伊成は出家してしまいました。この出来事に関して、藤原道長は日記に書いておらず、知ったことではない、という態度に見えます。
出家の話を書こうとすると、さまざまな悲劇が残されていてキリがありません。伊成の例もほんのひとつに過ぎません。
天皇でも出家した人は多いですが、前述の義懐が出家したのも彼が仕えていた花山天皇という人が騙されて出家したために、そのあとを追った形だったのです。

    『源氏物語』

では、中年期の光源氏の周囲の女性たちが次々に出家していきます。その都度、光源氏は自分が取り残されていくような気持ちを持ったようです。若いころの奔放な恋愛が、その女性たちの出家という形で終わってしまう。そのことで彼はかなり落ち込んだようです。
今ももちろん出家する人はいらっしゃいますが、総理大臣をやめた人が仏門に入って世俗とのかかわりを断ったという話はめったに聞きません。それどころかますます増長する人もいるくらいです。
私も、最近ふと「出家したいな」と思うことがあります。誰にも迷惑をかけず、お金にも不自由しないなら、仏門に入って読経しながら創作をしたり講話をしたりしながら、自然に土に帰れたらいいな、と思ったりするのです。ま、無理なんですけどね。

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迎駕籠死期茜染(7) 

「晒屋」の続きです。

すべてを見ていた番頭の伝七は掛硯を引き出して錠前をキセルで開けようとしてその響きに驚いていると門口から「やい盗賊め、金を盗んでわからないと思っているのか」という声。伝七がびっくりするとその声は「詮議があるはずだがまあ許してやろう・・というのはおまけで、ハイ、和中散を買ってください」と続けました。「なんだ、物真似か、びっくりした」と伝七は追い返すために買ってやって金を投げだすと、薬屋はそれをとって急いで帰りました。余談ですが「和中散」はいうまでもなく薬の名前で、『忠臣蔵』五段目で与市兵衛が斧定九郎に金を取られそうになって、「(それは金ではなく)娘がくれた和中散、反魂丹」と言っていました。
「何かと邪魔が入る」とつぶやきながら伝七は錠前をこじ開けて百両の金を取り出します。そして初穂箱に隠して、これでいいだろうか、と思案しているところに主人の小兵衛が帰ってきます。小兵衛は伝七に庄兵衛を呼ばせ、庄兵衛が一間から現れます。小兵衛は「今天満へ行った戻りがけだ。布屋に

    為替の金

を取りに寄ったら、その金はお前が受け取ったと聞いたのだが」と尋ねます。庄兵衛は「確かに受け取りました」と答えるのですが、奥にいたわけを小兵衛が尋ねないのが気になっています。小兵衛もきょろきょろした庄兵衛の様子を見咎めますが、ともかく金を出すように言います。庄兵衛が掛硯を見ると錠前がこじ開けられて金がありません。伝七がわざと大きな声をあげると母娘が出てきます。伝七は庄兵衛のそばに寄って「おまえは大それたことをする。盗みをしても露見しないと思っているのか」と詰め寄ります。庄兵衛は身に覚えがないと言いますが、伝七は「『望みがあって百両の金がないと生死にかかわる、工面してほしい』と言ったではないか。とぼけた顔をするな。大盗人め」と足蹴にします。伝七はさらに「それだけではない、新米のくせに北の新地で

    妾狂い

しているらしいな。そのうえに許嫁のあるお絹様までよくも自分のものにしたな」とたたみかけます。お絹が伝七に「おまえこそ不義を言いかけて来たではないか」と反論すると「旦那様、奥様、お絹様の下着の紋が確かな証拠です」と言って伝七はお絹の下着の「丸に二つ引き」を見せて「これは庄兵衛の定紋。厚かましいことではありませんか」とお絹に意趣晴らしをします。なおも伝七に「金を出せ」と言われた庄兵衛は「たしかに金の要るわけはありますが、御主人の目を掠めてお金を取るようなさもしい性根は微塵も持っていません。今は落ちぶれていますが、まんざら賤しいものではないのです」と男泣きします。伝七が「どれほど筋目のいい家の者かは知らないが、この鍬平足で踏みのめしてもいわせてやる」と息巻くと、一間から由兵衛が現れ、伝七の首筋をつかんで踏み飛ばし「金の詮議をしようと思って出て来た」と言います。由兵衛と伝七は「あなたも関りのあることだから誓言を立ててください。それができないならあなたが盗人ということですか」「そんな証拠があるか」「証拠はありませんが、あなたが盗んでいない証拠もないでしょう。お二人とも誓言を立ててください」と言い合います。伝七が承知すると、由兵衛は「この柱にかけてある万人講(神社への寄進などのために多くの人で作る講中)の『天照大神』という書付のある初穂箱を踏み割ってくださればそれが誓言です」と言います。伝七がためらうと、由兵衛は庄兵衛に先に踏むように言います。伝七は「罰が当たるぞ」と脅しますが、庄兵衛が箱を下ろすと伝七が取ろうとして二人がもみ合っていると金がバラバラと落ちます。
金に駆け寄ろうとする伝七に、由兵衛がさきほどの和中散を投げるとそれが目や鼻に入って伝七は倒れてしまいました。由兵衛は金を拾い、小兵衛は伝七に隙をやるといって下男たちにたたき出させます。追い出された伝七が軒下から中をうかがっていると由兵衛は「娘さんとの浮名が相手のお婿さんに聞こえてはいけないからと、婚礼の済むまであなたを私に預けたいと奥様がおっしゃっています」と言って庄兵衛を連れ出します。もう黄昏どきです。
外では待ち伏せして意趣晴らししようとした伝七を由兵衛が打ち付けます。外に出て来たお絹と庄兵衛は共に泣いていますが、由兵衛は庄兵衛を連れていきました。

この段は、刀の詮議という話の本筋から離れたエピソードでした。

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迎駕籠死期茜染(6) 

梅の由兵衛を描いた『迎駕籠死期茜染』の中の巻は「晒屋」の段からです。またあらすじを書いておきます。興味のない方(笑)はどうぞスルーしてください。

花の季節も終わって衣替えのころの昼下がり。大坂近江町(今の大阪市中央区釣鐘町の一部)の晒屋では番頭の伝七が商売にいそしんでいます。
この家の娘のお絹が出てきますが、彼女は今恋煩いをして面窶れしています。お絹が「庄兵衛がいるか」と尋ねると伝七は「庄兵衛は蔵にいるので用があったら私にいってください」と答えます。相手にしないお絹を座らせると、伝七は「河内在から婿が来ることになっているのに庄兵衛をつけ回すようにして恋窶れまでしているのは親不孝だ」と責めます。お絹が「好きでもない男は許嫁でもいやだ」というと伝七は「それならいい男がいる」と言ってお絹に抱きついて放しません。お絹が突きのけようとすると着物を無理に引っ張り、伝七は下着の紋を見つけます。お絹はそれを替え紋だと言います。なおも抱きつく伝七に「主人の娘に慮外なことをすると両親に言いつける」と言って逃げていきます。伝七は、お絹が付けていた紋は庄兵衛のものだとわかり、何とかしてお絹をわがものにしたいと思案しながら内に入ります。
そこに梅の由兵衛が来て、店に入ると主の女房が丁寧に対応します。由兵衛は「今朝、こちらから使いをいただいたと、今、家で聞きましたので参上しました。ご用とは何でしょうか」と問うと、女房は「あなたが請け判をしてよこされた庄兵衛は如才なく勤めてくれて主人も認める発明な人です。仲でも娘のお絹がとても気に入ったようです。ところが娘には

    幼いころからの許嫁

があり、今さら断ることもできません。夫婦で相談して、庄兵衛をあなたに預けようと思うのです。祝言さえあげたらまた呼び戻しますので、しばらく預かってください」というのでした。由兵衛は刀のありかがわかっても金の才覚ができないという難儀をかかえているうえにまたこういう問題が起こってきたのですが、「ごもっともなことです。それなら連れて行きましょう」と答えます。しかし「今は主人が留守で、庄兵衛も蔵で仕事をしているので、しばらくこちらへ」と言われて、一間に入ります。
蔵での仕事を終えた庄兵衛(実は勝次郎)が現れると、表に来た者が「布屋勘兵衛から為替の金を持ってきました。お受け取り下さい」と言います。庄兵衛は「旦那は留守なので私が受け取る」と言って受け取りを書き、印も捺して渡し、使いの者は帰っていきます。庄兵衛は、番頭のたくらみに気付かず、旦那ももうすぐ帰られるだろうからと

    掛け硯(掛け子のある硯箱)

に金を入れておきます。そこにお絹が飛び出してきて「今日はあまり会わなかったから心配していた」と声を掛けます。庄兵衛は「あまりそのように親しく話しかけないでください。あなたは河内の御一家からもうすぐお婿さんがお入りになるのですから浮名が立っては互いのためになりません。私は大切な望みがある身ですので、もうあきらめてください」と忠告します。お絹は涙ぐんで「あなたがここに来たときから思い染めたのが身の因果でした。衣にあなたの丸に二筋(丸に二つ引き)の紋所を写し、これを抱きしめて起きては思い、寝ては案じて暮らすのもやるせないのです。かわいそうだと思ってください」と忍び泣きしています。庄兵衛はその気持ちに感謝すると、お絹は勢い込んで、「それなら見せたいものもあるし話したいこともあります。ここでは人目に付くから」と無理に引っ張って奥に入ります。

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今年もランナーを 

去年の秋からイチゴ栽培を楽しんできました。
いや、実際は一昨年の秋からでした。何となく「放置しておけば勝手にできる」というのはあまりおもしろくないので、多少手間のかかる栽培をしたいと思っていたところに、ホームセンターでイチゴの苗を手に取って、これだと思ったわけです。そして、去年の4,5,6月にはそれなりの結実があって、あまり大粒ではないものの、たしかにイチゴの味のするものを収穫出来ました。そして、6月には、ランナー(匍匐茎)による新しい苗作りに挑戦し、これもなんとか成功しました。伸びて来た蔓を3号ポットに置いて発根を促し、それが根付くとさらにそこから伸びる二次株を別のポットで受けます。こうして育ったものを秋まで適宜水やりをしながら育てて去年の10月に

    植え付け

をしたのでした。その苗が冬を越して成長し、この春もかなりの実を付けてくれました。まだ実は生りますが、そろそろ終わりに近づき、このあたりでまたランナーを育てようと思っています。
ランナーは、出てくれないと困るのですが、実が生っている間はあまり成長のためにエネルギーを使ってもらいたくないので申しわけないのですがせっかく伸びたものは切っていました。しかし実が終わると今度は何本も伸びている別のランナーからこれぞと思うものを育てることにしました、すでに5月の終わりにひとつめのランナーをポットに受け、今はすでに4つが根付いて、

    二次株(孫株)

もできています。
放っておくといくつもランナーは出てきますから、秋に植えつけられるくらいの数と予備を少しだけ育てることにして、あまり元気のないものはこれまた切っています。
自然はほんとうに神秘的です。あの匍匐茎から親そっくりの株が出来上がるのですから。根付かせるためにはうまく土の上に置かねばなりませんが、どうしても浮いてしまって土に接触してくれません。また風が吹くとせっかく乗せてやったのにポットから落ちてしまいます。そこで役に立つのが小さなクリップ。以前仕事場で何かというと書類止めに使われていた、針金を巻いただけの小さなものを、貧乏性の私は何十個も捨てずに置いていたのです。これがこういうところで役に立つとは思いませんでした。そのクリップを元の針金状にして、さらにそれを山型に折ってポットの土に茎を押さえつけるようにします。そして土を湿らせておくと律儀にきちんと根が出てきます。そうなると固定されますからもうクリップは必要なくなるのです。それで今度は孫株を押さえるためにまたその同じクリップが使えるのです。ひたすらリユースです(笑)。それなりに株が育ったらいよいよ親から切り離して独立させます。
秋まで、どうか厳しい夏を乗り切ってください。

・・と書いたのですが、クリップではどうも安定しないため、このところは爪楊枝をクロスさせて使っています。斜めに土に挿して、その下にランナーを置き、もう一本の爪楊枝を逆向きに斜めに挿します。とても安定がよくなりました。

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若太夫の復活(3) 

英太夫さんは、七十歳の時に六代目豊竹呂太夫を襲名されましたが、これは七代目竹本住太夫師匠のお勧めがあったからのようです。住師匠というと、厳しい稽古で知られ、英さんも相当あれこれ言われたとおっしゃっていました。しかし住師匠のいいところは、けなすだけではなく、稽古をつける太夫さんの将来もしっかり案じていらっしゃったことです。例えば今の藤太夫さん(当時文字久太夫)には「十代目竹本文字太夫を継いでもよい」とおっしゃっていたそうですし、英さんには「若太夫、継ぐんやろ」とも励まされたそうです。
その住師匠が英さんに「呂太夫を継げ」とおっしゃったのは、いったん呂太夫になって、覚悟を決めて若太夫になれという意図がおありだったのではないか、いや、これも私の推測に過ぎません。
嶋太夫さんは人間国宝にもなられてもうひと花、というところで、いろんな事情で引退なさいました。まだ現役でも十分活躍できるはずのお力でしたが・・。私は、個人的に嶋師匠にはいろいろお世話になりましたので、あのときはほんとうにがっかりしました。
五代目呂太夫さんは前述のように若くして亡くなりました。この時のショックも大きかったことを覚えています。あとになって今の呂太夫さんから亡くなる直前のお話をうかがった時は、五代目の壮絶なまでの義太夫節への執念を感じたものです。
こうなったら、もう十代目豊竹若太夫のあとを継げるのは

    一人だけ

になったと言えるでしょう。もちろん今の呂太夫さんです。若太夫の名は文楽のしきたりとして遺族である今の呂太夫さんが持っていらっしゃいます。呂太夫さんのご子息は別の道をお進みですからまずは呂太夫さんが継がれないと、この名前は宙に浮いてしまうというか、金輪際誰も名乗れなくなってしまいかねません。その意味でも、何としても呂太夫さんに跡を継いでいただかねばならないのです。もちろん、孫というだけではダメです。しかし呂太夫さんは円熟されて味わいを深め、押しも押されもせぬ

    切語り

にも昇進されました。お弟子さんも希太夫、亘太夫、薫太夫に加えて、嶋太夫門下の芳穂太夫、住太夫門下の小住太夫が加わっていらっしゃいます。呂秀さんを筆頭に女流義太夫にも人材を送り出されました。昔、C型肝炎をなさったそうですが、それは神様の力(!)で克服され、今はとてもお元気で、まだまだ現役としてご活躍になることは疑いありません。
それでも、年齢はもう七十六歳になられました。実は、私は今年の年賀状で呂太夫さんに「喜寿をお迎えになる来年、襲名してくださいね」という意味のことを書きました。私ごときが申すまでもなく、周囲からいろいろお勧めもあったと思います。
この五月に、晴れて呂太夫さんが若太夫の十一代目をお継ぎになることが発表されました。来年四月、まさに呂太夫さんが七十七歳になられるときに襲名されるそうです。演目はやはり「合邦」なのでしょうか。
これでまず十一代目ができます。どうか、呂太夫さんのお弟子さんの中から十二代目を継げるだけの方が出てきますように、それを合わせて祈りつつこの慶事に拍手を送ります。

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若太夫の復活(2) 

十代目豊竹若太夫が亡くなった直後に、四代目呂太夫だった人が八代目嶋太夫として文楽に戻り、まったくこの世界に入るつもりのなかった十代目若太夫の孫である雄治青年が三代目英太夫を名乗り、五代目呂太夫とともに三人揃って三代目竹本春子太夫(十代目の弟子。初名豊竹呂賀太夫、のちに豊竹松太夫、さらに春子太夫を襲名)門下になったのです。初代若太夫という人は美声で鳴らした人だったそうですから、春子、嶋、呂、英という揃いも揃って声のよく伸びる美声の太夫はどの人もゆくゆく十一代目を継ぐのにふさわしい人たちだったようにも思えます。しかし、春子太夫という人は春太夫の弟子名(春子太夫)を継いでおり、ひょっとすると将来春太夫の名を継ぐ約束でもあったのではないかと、これはまったくの当て推量ですが、思ったりしています。しかし春子太夫は春太夫にも若太夫にもなることなく、その二年後に舞台で倒れて心筋梗塞で亡くなりました。そして弟子になっていた嶋、呂、英は揃って

    四代目越路太夫

門下になりました。
「嶋」も「呂」も師匠譲りの名ですから、どちらかが将来若太夫を継いでもおかしくなかったでしょうが、嶋さんは長らく文楽を離れていらっしゃいましたから、やはり一番手は五代目呂太夫さんだったかもしれません。ところが当の呂太夫さんは、弟のようにかわいがっていた英太夫(六代呂太夫)さんに将来若太夫を継いでほしいとおっしゃっていました。一方の英さんは呂太夫さんのことを心底慕っていらっしゃって、仮に呂太夫さんがおじいさんの名を継がれても不満などお持ちにならなかったと思います。英さんは「自分は呂太夫兄さんの右腕であろう」と思っていらっしゃったそうで、この、いわば

    「兄弟愛」

はきれいごとでも何でもなく純粋なものだったと拝察しています(このあたりのことは『文楽六代豊竹呂太夫』に書きました)。
ところが運命は非情です。五代目呂太夫さんは肝臓を悪くされて、まだ五十五歳という若さで亡くなりました。将来文楽を背負って立つ人であることは衆目の一致するところだっただけに、文楽界にとっては大いなる損失でした。
私個人としては、ずっと春太夫という名前を復活できないものかと思っていて、それを呂太夫さんが継げないのだろうかと部外者の無責任な気持ちを持っていました。そうなったうえで英さんが若太夫を継げば嶋、春、若という大きな名前が居並ぶことになって、十代若太夫、三代春子太夫、四代越路太夫にとっても名誉ではないかと思いました。

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若太夫の復活(1) 

義太夫節の元祖竹本義太夫の弟子には二代目を名乗る政太夫がいました。声があまり大きくなかったそうですが、工夫を重ねて立派な二代目になったと伝わります。もうひとり、同じ義太夫の門下であった竹本采女は義太夫の芸風の継承者というよりは新風というか、独自の芸風を立ち上げて豊竹座を創設し若太夫を名乗ったのでした。美声で知られ越前少掾を受領。「幾竹屋」と通称されました。
二代目は初代の孫で、竹本志摩太夫、島太夫から豊竹座に移って豊竹島太夫(二代目)となり、若太夫を襲名しました。
ところがこの名前はこれ以後必ずしも幸せな継がれかたをしたとは思えません。二代目は後に島太夫に戻っており、三代目はやはり初代の孫でしたが江戸に行ったりして大坂ではあまり活躍していません。四代目も大立者とは言えそうになく、五代目は旅をしているときに不幸な亡くなり方をしたそうです。六代目は後に師匠の名前を継いで巴太夫の四代目になりました。七代目から九代目までもこれといった活躍の記録がありません。
結局若太夫の名を再び大きくしたのは

    十代目

ということになると思います。徳島の金平糖屋の息子で、浄瑠璃好きが昂じて二代目呂太夫に入門、本名(英雄)から英太夫と名乗りました。師匠はあまり落ち着かない人でよく旅に行ったようですが、文楽座に居場所を定めると英太夫は研鑽を重ねてめきめき腕を上げ、やがて豊竹嶋太夫の七代目を継ぎました。ところがのちにこの人は師匠の名前を継いで三代目呂太夫になったのです。せっかくいい名前を継いだのに、いくら師名だからといって、新しい名跡である呂太夫を襲名するのは「嶋」の名前に失礼ではないかという意見もあったようです。それでもあえて呂太夫を名乗ったのは、二代目が「いつか自分の名を継ぐように」と言っていたのではないかと私は想像しています。このとき嶋太夫の名前を捨てるのはけしからんといったのは、あの『浄瑠璃素人講釈』でおなじみの

    杉山其日庵(茂丸)

でした。其日庵は最終的には「それならいずれは若太夫を継ぐつもりで励みなさい」といったそうで、それがついに実現したことになります。
この十代目こそ、八代嶋太夫、五代呂太夫らの師匠です。しかしこの方は1967年に亡くなり、そのときは十一代目を継ぐのは誰だと考えられたでしょうか。四代目呂太夫を名乗っていた人(のちに八代目嶋太夫)は当時退座していましたし、五代目呂太夫はまだ二十歳そこそこでした。

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外国人選手 

昔の話ですが、プロ野球では外国人は2人までという時期がありました。そして外国の人はパワーがあるというのでかなり恐れられていたように思います。実際、過去の外国人には恐るべき選手がいました。私が子どものころには南海のスタンカとか阪神のバッキーとか阪急のスペンサーなどというすさまじい人がいました。パ・リーグはテレビ中継がまったくと言っていいほどありません(今も民放の地上波ではめったに見かけません)でしたし、何しろ私がほんとうに小さい頃でしたから実物はわからないのですが、何だか巨大な人というイメージだけが残っています。けんかっ早い人も多くて、何しろ体が大きいですから、こういう人を怒らせるとわけのわからない英語(笑)を叫びながら鬼の形相で襲い掛かってくるイメージがあって子ども心に怖かったものでした。
その後も、阪神のバースとか阪急のブーマーなどという三冠王になった選手がいました。外国人=大物というのはこのころがピークかも知れません。
昨今は人数制限が緩やかになって、「出来上がった選手」だけでなく発展途上の選手もずいぶん入ってくるようになり、日本で技を磨いてアメリカに行くという「逆輸入」も珍しくありません。
相撲の世界では、以前はハワイ出身者、今はモンゴル出身者がたくさん入ってきました。裸になってまわしだけを締めるというのは欧米の人には抵抗もあるようですし、そのほかにも相撲界の習慣になじめないまま終わった人もいました。しかしモンゴルの人は何人も横綱、大関になり、今やモンゴルの人がいてあたりまえという時代になりました。「相手を倒すことが相撲」「勝つことがすべてにまさる」という考え方が、時として日本のファンから目を背けられることもありますが。
狂言や能の世界にはしばしば外国人が入門します。ドナルド・キーンさんが

    「青い目の太郎冠者」

でいらしたことはよく知られます。そういえば落語家に入門される方もいらっしゃいます。
それなら文楽にもいてもいいじゃないかと思うのです。今は

    外国人のための文楽鑑賞教室

というのもあります。そういう場で、ちょっと人形を触るとか三味線の音を出してみるというだけでなく、留学生さんなどに「3か月でも修業してみませんか」とアピールして、希望者があったらほんとうにやらせてみればいいと思います。別に国籍なんてどうでもいいと思いますので、ほんとうに一生の仕事にしたければそうすればいいですし、「いい体験になりました」で終わってもいいと思います。何もすぐにプロを養成すると考えることはないのです。話題作りにもなって日本人にもアピールできるかもしれません。言葉の壁はありますが、文楽には英語の達者な技芸員さんもいらっしゃいますから大丈夫じゃないでしょうか。
そういえば、徳島には徳米座(とくべいざ)のマーティン・ホルマンさんという方がいらっしゃいます。
さて、さらに青い目の口アキ文七は誕生するでしょうか。

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スカウト 

大相撲の世界では巡業というのがあって、普段はテレビでしか見ることのできないほんものの「お相撲さん」を間近で見られるとあってなかなか人気があるようです。ここ数年はやはりあまり回数も多くなかったのでしょうか。
ああいうことをするのはとてもいいことで、相撲のすそ野の広がりを作る一助になっていると思います。
以前はホノルル(ハワイ)とかロサンゼルス、マドリッド(スペイン)、デュッセルドルフ(ドイツ)、香港、台北、ウランバートル(モンゴル)、ジャカルタ(インドネシア)などに出かけたそうで、日本の伝統的なレスリングだというので興味を持たれた方が少なくなかったことでしょう。そしてこういうことをきっかけに海外の入門希望者を探すこともあったのかもしれません。
文楽の研修生は、今年

    希望者がゼロ

だそうです。あれまあ、残念な、では済まないでしょう。国立劇場が「募集しています」と言ったところで、そうそう若者の心の琴線に触れるものではありません。ポスターを山ほど作っても目に触れるかどうかわからず、触れたとしても訴えるものが多いとは思えないのです。
私が思うに、もう少し募集活動を意欲的にしたほうがいいのではないかと思います。
こう言っちゃあ何ですが、御堂筋にキラキラ電飾を付けてもそれが大阪の宣伝になることはありません。大阪城は一定の人気がありますが、何と言っても昭和にできた天守閣を見せるのは心苦しくさえあります。特に海外の人は新しいものも注目しますが、必ずと言っていいほど「日本の伝統的な文化に興味がある」といいます。京都や奈良にはあまたのお寺があります。そう考えると、結局大阪名物として訴え得るものは文楽が一番だと思います。
海外から技芸員を求めるのも一案だと思いますが、やはり日本の若者に期待を持ちたいです。その場合、もう23歳以下なんて言っていてはいけないと思います。平均年齢が上がっている昨今ですから30歳以下でもよさそうに思います。三味線は子どもの時からやらないとダメなんです、と昔は言われていました。しかし今は大卒の人もいます。30歳で三味線を始めても弾ける人は弾けると思います。
そしてせっかく高校生対象の鑑賞教室をしているのですから、そこでもっとプッシュしてもいいのではないでしょうか。舞台から「声のでかい人いる?」「ギター弾ける人は?」と子どもたちに訴えてもいいと思います。
また、全国のアマチュア文楽劇団の人を訪ねて若い人を誘うとか、地方公演で若い人に実際に声をかけてみるとか、そういう

    スカウト

のような人がいてもいいのではないか、そんな気がしてなりません。
もちろんそれには費用がかかります。大阪市と大阪府は今こそ補助金を復活してスカウト専従者を雇って、全国を回らせるくらいのことをしたらどうなのでしょうか。まあ、彼らは補助金の意味がわかっていないので出さないでしょうけどね。

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2023年文楽鑑賞教室初日 

文楽鑑賞教室が始まります。「五條橋」と『忠臣蔵』の「刃傷」「切腹」「城明け渡し」だそうです。『忠臣蔵』は、この場面だと塩冶判官に焦点が集まるように思います。判官はあたかも桃井若狭助の身代わりのように師直に刀を向けることになります。本来は若狭助が師直を切ろうとしているのに、賄賂の力が彼の命を救いました。世の中を渡っていくにはこんな汚いお金も必要なのか、とまじめに生きる貧乏人からは悲しくなるような話ですが、実際のところはそんなものなのだろうというあきらめも感じてしまいます。
「鮒ざむらい」の判官は

    「あちらの喧嘩の門違ひ」

であることもわからず、猛烈に腹を立てて刀を抜いてしまうのが何とも哀れです。
今回の公演では清十郎、簔二郎、勘彌、一輔という、女形や二枚目系の人形を持つ人形遣いさんがこの判官を演じます。師直は玉輝、文司、玉志、玉助といった大柄な人形を得意とする人たち。床もどんどん若くなってきて、もう私には誰が誰やら(笑)わからなくなってきました。
派手な立ち回りもありますので今どきの高校生たちにも何か訴えるものがあると思いたいですが、いかがでしょうか。高校生にはあらかじめこういうところを見ると面白いよ、という話をしておくといいのですが、これはもうここで何度言っても劇場の人に伝わるはずもありません・・。

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若いあなたへ 

このブログのことを教えてほしいという若い方がいらっしゃって、本日お教えする予定です。
QRコードから入ってもらうつもりで、この記事が一番早く目につくことだと思います。
それで今日は若者向けに書きます。若者とはいえない(笑)方、生意気なことを書きますので皆様にとっては興ざめな内容になるかもしれません。あらかじめお詫びしておきます。

私は、ずっとここで日記のようなものを書き続けてきました。
いろんな目的があります。そこで、カテゴリとして「文楽・浄瑠璃(私が文楽に関して活動してきたこと、浄瑠璃の創作など)」、「聴覚障害(私の障害について)」「日々牛歩(日常のあれこれ)」「平安王朝・和歌(私が専門にしてきた平安時代の文学や歴史、また短歌の創作について)」などを設けています。
時には露骨に不満を述べること、怒りを書き連ねることもあります。読んでいて不愉快だと思われることでも平気で書いているところがあります。そういうところは無視していただけばいいのです。
若い世代の方は

    文楽

をあまり知らないと思いますが、大阪を代表する伝統文化といえます。大阪の人が(もちろん世界中の人も)これを大事にしてほしいという思いを強く持って書いています。文化を守り発展させないと、ただ飲んで食べて終わりというだけのつまらない人生になってしまいます。その意味でも、大阪では文楽という芸能は大事だと思うのです。
私はこの芸能と長くかかわりを持ってきて、15年間大阪国立文楽劇場での公演について批評のような仕事もしてきました(雑誌に連載)。また、浄瑠璃の創作という変わった仕事もしてきました。このカテゴリでは、それらについて書いています。
和歌は本来は研究対象なのですが、最近は自分で作ることが多く、時々ここに自分の作品を載せたりしています。
日々牛歩というのは、毎日牛の歩みのようにのろのろと生きながら、思ったことを書いているのです。時には若い人の話し言葉の不思議な用法についても触れています。

  「最後の晩酌」「帝お節介」

って、なんだかわかりますか? これはかつて学生さんが真剣に書いてくれた文の中にあった言葉です。どうやらレオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐(ばんさん)』と出産の方法の一つである「帝王切開」のことのようです。ところがうっかりこんなことを書いてしまうのですね。私はそういうことをからかったり馬鹿にしたりするつもりはありません。そうではなく、なぜそういう間違いが起こるのか、どうすれば正しい方向に持っていけるのかを仕事として考えてきましたので、そういう視点から書いているのです。最近はこんなのも書きました。http://tohjurou.blog55.fc2.com/blog-entry-6479.html?sp
私は文章を書くのが大好き、というよりは生きがいです。ここに毎日1000字から2000字くらいの文章を書き続けてきたのですが、すれにそれが17年を超えています。もうすでに記事数6,000超、字数なら800万字くらい書いているかもしれません。それをただ漫然と書くのではなく、読んでくださる方がきっといらっしゃると思って工夫して書くことで自分の文章の勉強にもしています。このブログはすでに延べ

    102万アクセス

を超えています。半分は私がアクセスしているとしても、延べ50万人ほどの方の目に触れていることになります。
これからもできれば毎日書き続けたいと思っています。
「私は今日チラッと見に来ただけ」という方、それでいいのです。どうもありがとうございました。でもまた思い出すことがあったら、いつか来てください。お待ちしています。
どうぞコメントも残してくださいね。

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オオキンケイギク 

小笠原諸島は東洋のガラパゴスと言われ、固有の生物が大切に守られています。それゆえに世界自然遺産にも指定されているのです。オガサワラシジミ、ハハジマメグロ、タコノキなど多くの固有の動植物が生きています。
私は行ったことがないのですが、東京から船で行く以外に渡るすべのないというこの島は、それだけに外来生物が島に入ることに対してずいぶん神経質になっています。
かつてここにグリーンアノール(アメリカカメレオン)がペットとして持ち込まれ、それが野生化した上、一気に繁殖してオガサワラシジミなどに被害を与えました。そこで

    特定外来生物

に指定されて駆除の対象にまでなりました。しかしグリーンアノールにはなんの罪もなく、故郷のアメリカから運ばれてきて野に放たれ、そこで生きて行こうとしたら迷惑だと言われるわけです。人間の嗜好の犠牲になったようにも思えます。「特定外来生物」は「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」(2005年6月1日施行)によって飼養、栽培、保管、運搬輸入などに規制されるものです。グリーンアノールはこの特定外来生物の第一次指定種の中のひとつになっています。
私の家の近所にさほど大きくない川があるのですが、そこは晩春から初夏になるときれいな金色(黄色)で埋め尽くされます。

    オオキンケイギク

という草花が一斉に花をつけるのです。とても愛らしくて目にも鮮やかな花ですが、これも2006年に施行された特定外来生物の「第二次指定種」に含まれてしまいました。この植物は北アメリカ原産で、明治時代に日本に入ったようです。そしてその美しさからとても愛されたのですが、繁殖力が異常なまでに強く、そのためにカワラナデシコなどに被害を与えるというので一転して特定外来生物になってしまったのです。
ある日、大掛かりな一世駆除がおこなわれ、一夜にしてオオキンケイギクの姿はその河原からなくなりました。なんともかわいそうな話です。
和泉式部の夫の藤原保昌が「明日、狩をしよう」というので、この歌人が夜に鹿の声がするのを聞いてこう詠みました。
ことわりやいかでか鹿の鳴かざらむ
   今宵限りの命と思へば
    (後拾遺和歌集)
「鹿の鳴くのも当然だ。今夜限りの命だと思うと」という簡単な歌なのですが、人間の都合で明日には命を絶たれるという生き物の悲しさを詠んでいます。
  ことわりやいかでか花の咲かざらむ
   この日限りの命と思へば
と、オオキンケイギクに捧げます。

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祖父の写真 

私には祖父が3人います。母方はひとりですが、父方は実の祖父と父の養子先の義祖父がいるのです。ところが父方の二人は私が生まれるはるか以前に亡くなっていて、私はまったく知らないのです。
わずかに知っているのは母方の祖父だけです。「わずかに」というのは、この人とは75年ほどの年齢差があって、何度か顔を見た記憶はあるのですが、声などはまったく覚えていないからです。同居していたわけでもありませんから、どんな性格の人だったのかもさっぱりわからず、あちらも私のことなどあまりよくわかっていなかったような気もします。「この子誰?」という顔をされた(あるいは言われたのかも)記憶があるのです。
神戸で印刷業を始めた人で、その後大阪に移転し、国鉄や阪急電車の関連の印刷をよくしていたようです。時刻表も作っていました。
このブログにも書いたことがありますが、この人は義太夫が大好きで、

    四ツ橋文楽座

にもよく通ったようです。
先日、この人の写った古い写真を見せてもらいました。場所はどこなのかわかりませんが、ちょっとした座敷のようなところで三味線を弾く女性(義太夫のお師匠さんかもしれません)が横にいらして、揃いの裃で立派な見台を前に置いて義太夫節をうなっている写真でした。
昔の人にしては背の高そうな人で、さらに尻ひき(尻引。尻敷)も使っているでしょうから、大きく見えます。禿頭でしたので、どこか

    豊竹山城少掾

を思わせる(笑)雰囲気も持っています。
どんな曲を語ったのかなどまるで分らないのですが、聞かされたことのある父の話ではそれなりに長かったような感じですので、「お園のクドキ」だけで終わる、というようなものではなかったようです。一段語り切ったのでしょうか。となるとこれはもうほとんど落語「寝床」の世界です。幸いなのは「軒付け」のように三味線弾きが「テンツテンテン」「トテチントテチン」「チリトテチン」しか弾けないということはないことくらいだったのではないでしょうか。祖父は迷惑をまき散らして有頂天になっていたのではないかと、失礼ながら想像しているのです。でも、かつてはこういう素人がたくさんいることによって「こわい客」もいたのではないでしょうか。
しかしこの祖父、まさか「この子、誰?」の「子」が浄瑠璃を書くようになるとは夢にも思わなかったでしょうね(笑)。

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和歌の朗詠 

和歌は歌うものです。もちろん、書いて送って相手が黙読することも多いのですが、たとえ書かれたものでもそれを見て口ずさむように歌うこともあったのです。歌を詠みかけることは恋愛の大切な手段で、古代には「歌懸き」(うたがき)という、春と秋の行事もありました。米の種まきのあとと収穫のあとに神を祀って宴会のようなことをして男女が歌を詠み、自由な恋愛をしたのです。「うたがき」は、東国では「かがひ」とも言いました。
おそらくそのときは歌の内容もさることながら、歌う人の声の良しあしも恋愛の成果につながったのではないかと想像しています。
ずいぶん昔のことですが、

    犬養孝先生

という万葉集の研究者がいらっしゃいました。この方は大学の先生であると同時に、万葉の旅をなさったり講演をなさったりで、ほんとうに御多忙な先生でした。
この方が絶大な人気を誇られた理由のひとつは、万葉集の和歌を朗詠されたことです。何しろ今でもAmazonを覗くと犬養先生の万葉集関係のCDがいくつも並んでいるくらいです。
私は業務としてこの先生の88歳のお祝いの会に行くように言われ、桂米朝師匠と同じテーブル(!)で、タダでおいしいものをいただいたことがありました(業務ですから)。
犬養先生が講演されるとなると、どこへ行っても多くのファンが詰めかけ、あるとき、神戸の某女子大で和歌の学会があったので行ったのですが、そのときの特別講演がその大学の名誉教授になっていらっしゃった犬養先生。するとどう見ても学者さんではなくファンとしか思えない人が詰めかけているのです。そして犬養先生が講演の途中で何度も歌を朗唱されるのですが、会場からは唱和する声が上がります。それも遠慮がちに声を出されるのではなく、大きな声を出されるのです。

    「これ、学会でしょ?」

と首をかしげるくらいで、そのうちにペンライトでも振る人が現れるのではないかと思うくらいの「コンサート」でした。そして先生の講演が終わっていよいよ学会発表となると、ファンの皆さんが一斉にお帰りになり、実に閑散とした会になったのでした。
でも、和歌を朗詠するのはとてもいいことだと思っている私は、とてもあの先生の真似はできませんが、和歌とも義太夫とも(笑)とられかねないような歌い方で詠むのが好きです。
『源氏物語』の講読会でも何とか節をつけて歌ってみようかな、と思ったりしています。

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阪神よう勝つな 

かなり前のことですが、三代目桂米朝師がテレビでちょっと珍しい落語をなさいました。人間国宝になられたときの記念だったのかもしれませんがやや記憶があやふやです。このネタは、内容はたわいないのですが、人間の心の弱さや動揺をうまく描いていらっしゃいました。「馬の尾」という噺でした。

ある男が釣りに行くのにテグス(釣り糸)がないことに気付き、ちょうど馬がつながれていたので、その尾をテグス代わりに使おうとして抜いたのです。そこに通りかかった男の友だちが「おまえ、今、馬の尾を抜いたな。なんちゅうことすんねん。わしゃ知らんで」とわけありげなことを言います。男は気になって「馬の尾ォ、抜いたらどないなんねん」と聞くのですが、答えてくれません。「どうしても教えてくれ」というと、

    「酒を二合

飲ませてくれたら教える」と言います。やむを得ず酒を出して「さあ教えてくれ」というのですが、友だちはあわてるなとばかりにのんびり酒を飲んで無駄話をします。そして飲み終わったのでもう一度「馬の尾ォ抜いたらどうなんねん」と聞くと、「あんなぁ」「ふん」「馬の尾ォ抜いたらな」「ふん」「馬が痛がる」。

これだけの話なのです。これをどのようにおもしろく語られたかというと、ちょっとしたことで優越感に浸っている強気な男とそれに反して不安に苛まれる男のコントラストを描きつつ、この友だちの無駄話でうまく笑いを誘われるのです。イライラする男を翻弄するようにわざとくだらない話を続けるのが、「話術とはこれなり」という米朝師匠の真骨頂でした。
米朝師匠は『地獄八景亡者戯』でも実にナンセンスなギャグをちりばめていらっしゃいましたが、このネタで一番受けたギャグも秀逸なナンセンスさでした。話が佳境に入ったころに「なあ、馬の尾ォ抜いたら・・」と食い下がる男に対して、酒をあおったかと思うと、

    阪神、よう負けるな

とおっしゃったのでした。客席はほんの一瞬「今のはなんだ」と時間が止まったようになったのですが、次の瞬間爆笑が起こり、その笑いがしばらく止まりませんでした。馬の尾をテグスにするなんて、どう考えても前時代です。そこにその当時連敗ばかりしていた阪神タイガーズの(関西人にとっては)自虐的なネタを入れられたものですから、大うけだったわけです。あの演目でよくもあそこまで笑わせるものだと感心しました。あの意外性とタイミングの良さは明らかに枝雀さんと同じで、普通に考えたら米朝師匠から枝雀さんに伝わったのでしょうが、枝雀さんの息を米朝師匠が取られたのではないかと私には感じられました。米朝師匠ならそれくらいのことはなさりかねないと思います。
それにしても、今年の阪神、よう勝つなぁ。

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いつまで生きるつもり? 

私は、父が亡くなった年齢になりました。あの人の人生はこんなにも短かったのか、としみじみ感慨にひたりつつ、いつの間にか自分自身がそれなりに長く歩んで来たんだなとも思います。
もう、楽しみはなくてもいいと思っています。「見るべきほどのことは見つ」をいいカッコする気はないのですがいろんな貴重な体験をさせてもらってきました。あとはせめてさんざん勝手なことをしてきた罪滅ぼしに、人のためになるようなことをしなければならないだろうな、と考えています。そうはいっても、「好々爺」になるつもりなどさらさらなく、むしろ間違ったことは間違っているとはっきり言うことで、ものを言えないでいる人のためになれないものかと思っています。
世の中を見渡すと、理不尽なことはいくらでもあります。そういう者に対して黙っていると次の世代の人にも影響が及びます。自分の利害を超えて言っておかねばならないことは嫌われても言ってやろうと考えるようになりました。もう誰にもいい顔をする必要はないだろうと思っています。実は最近も、詳しいことは書けませんが、「そんな無茶な」ということを頼まれたことがあり、はっきりとどうしてダメなのかを言っておきました。改善されるという期待をわずかには持っていますが、

    「それならもうけっこうです」

と言われるかもしれません。もちろんそれならそれでかまいません。
アメリカの大統領選が来年に迫り、バイデン氏もトランプ氏もやる気満々に見えます。しかしバイデン氏は1942年生まれで現在80歳、トランプ氏は1946年生まれでこの6月で77歳。いったいこの人たちはいつまで生きるつもりでいるのでしょうか。バイデン氏は仮に再選されたとしたら、4年の任期を終えた時には86歳になっています。
手仕事の職人さんのような仕事ならまだしも、世界を飛び回ることもある多忙な職に就くには

    あまりにも高齢

だと思います。私はお二人とも出馬はやめてほしいですし、周りもこの人たちに期待せずに新しい人を出す気概を持ってほしいと思っています。
ロシアのプーチン氏を見ていても同じようなことを感じます。彼はまだ70歳ですが、それでも晩節であることには変わらないと思います。
海外のことは言っていられません。日本にも、80代の国会議員で相変わらず大きな顔をして「俺さま」ぶりを発揮している人がいると思います。その間に息子を県議会議員かかばん持ちか政務秘書官あたりにしておいて地盤を譲る準備をして、やがて襲名披露のような選挙をおこなうのでしょう。
人生100年時代なんて言いますが、実際100年生きる人はきわめて少ないのです。もうじゅうぶん稼いだ人は「余生」をゆっくり楽しまれたらいいのに、と思えてなりません。まあ、政治家にとっては「政治は楽しみなんだよ、君ィ」ということなのかもしれませんが。
でもさぁ、もういい歳なんだから、バイデンもトランプもプーチンも、みんな日本に来て文楽でも楽しもうよ。世界が平和になるよ。

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きまZ 

いろんな若者言葉が生まれては消えていきます。
私の学生のころ、家庭教師のことを「かてきょー」と言っていた人がいましたが、これは今でもおおむね通用するらしいのです。ただし発音は「かてきょ」だそうですが。
「ギャルピ」という言葉を覚えました。私はこれまでに「好きピ」とか「パリピ」という若者言葉をマスター(笑)していましたので、これもきっと「ギャルpeople」のことだろうと思いました。ところがそうではなく、「ギャルピース」だそうですすね。なんでも写真を写すときに指をV字にする「ピースサイン」(これは私の高校生のころからありました)の二本の指を下に向けて「Λ」の字を作るようにするサインを「ギャルピ」というのだそうですね。
何でも略したがるのはいつの時代も同じことですが、やはり最近知った言葉に

    「おしゃピク」

というのがあります。わかったぞ! 「おしゃれな写真」のことだろう、と私は気がつきました。つまり「おしゃれpicture」だと思ったのです。しかしこれも外れました。正解は「おしゃれなピクニック」なのだそうです。そんなのわからないよ!
「同担」という言葉も知りました。実はこれは30年くらい前にはもう使われていたようで、私が知らなかっただけのようです。アイドルグループなどで、その中のある人を応援している場合に、やはりその人を贔屓(若者はこんな言葉は使わないでしょうが)にしている人のことを、「同じ担当である」ということで「同担」というのだそうです。知らなかった。パソコンでも「どうたん」と打つと「同担」と変換してくれるのです。びっくりです。そして同じ人を贔屓にする人とは親しくなりたくないという心理を「同担拒否」ともいうそうで、ほんとにもう知らないことだらけです。
もうひとつ、

    きまZ

という言葉も知りました。これは何と、「気まずい」ということを意味するそうで、「きまぜっと」というのだとか。つい「気まずい」でいいじゃん、といってしまいそうになりますが、あくまで言葉遊びですから、そんな理屈は若者には通用しないのでしょうね。
「同担」という言葉はけっこう長生きしているようですが、「おしゃピク」や「きまZ」あまり長持ちしないのではないかな、と想像しているのですが、どんなものでしょうか。

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