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帝への拒否(2) 

帝から入内の申し入れがあった時、翁は当然大喜びでした。自分も官位がもらえるというので二倍の喜びです。『竹取物語』では「五位」を与えると言われており、これなら「貴族の端くれ」という地位です。当時の「貴」は三位までで、その下の四位、五位が「通貴」、つまり「貴」に通ずる身分ということで、ここまでが「貴族」ということになります。経済的に豊かな翁が欲しがるものとしてはやはり身分でしょう。今でもお金を持つと「理事長」とか「顧問」とか、その類のものになりたがる人はいくらでもいるでしょう。
ところが、かぐや姫は強く拒みます。高畑監督はこの部分をあまり原作から変えていません。「どうしても帝の所へ行けと言われるなら私は死にます」「お父様が官位を望んでいらっしゃるなら私は帝のところに行って官位をもらうところを見届けたうえで死にます」というのは原作と同じなのです。『竹取物語』のかぐや姫の

    強い拒否

に高畑監督も共感されたのかもしれません。
少し遡りますが、翁が帝の意思をかぐや姫に伝えに来たとき、彼は有頂天になっています。一方、媼は「いいかげんにしてくださいな」「あなたにはまだわからないのですか、ヒメの気持ちが」と諫めています。こういうところは男親と女親の違いをうまく表現していますが、媼をあまり描かない『竹取物語』にはこういう場面はありません。翁はこの時「女御のお一人になられるのですよ」とかぐや姫に伝えています。もともと天皇の「きさき」には「皇后、妃、夫人、嬪」というランクがあって、「女御」というのは、「嬪」の別称でした。しかし平安時代中期には「女御」はかなり格が高く、その下に「更衣」がいます。そして女御の中から中宮が選ばれました。高畑さんはどういうイメージで「女御」とされたのでしょうか。
『かぐや姫の物語』の帝の訪問の場面です。鳳輦(ほうれん。鳳輿。屋根の上に鳳の飾りがある)がかぐや姫の邸の東門を入ったところ、東中門の手前に置かれていて、すでに帝が邸内に入ったことを暗示しています。このあと帝は東中門廊から東の対の廊(簀子)を経て寝殿に向かうのでしょう。なお、鳳輦というのはかなり格式の高い乗り物で、私的な外出であればむしろ葱花輦(そうかれん。屋根に葱坊主のような珠の飾りがある)のほうが実態には合っているだろうと思います。しかし、いかにも帝らしい華やかな鳳輦をあえて選ばれたのかもしれません。江戸時代の『竹取物語』の絵にも鳳輦が描かれることがありますから、突拍子もないことではないと思います。
帝の行幸となると、音楽のひとつも演奏されていそうですが「おしのび」ということになっているため、そういうものは描かれません。『竹取物語』では、帝は堂々と入り込んで「光みちてけうらなる」人を見つけ、袖をとらえるという行為に出ます。一方、映画では翁に案内された帝が近づくことも知らないかぐや姫が、このときも

    琴(きん)

を演奏しています。彼女はこの難しい楽器の名手のようです。
そして帝はいきなり背後からかぐや姫を抱きしめます。現代ならおよそ非常識な行為として咎められるべきですが、帝は平然としています。誰もが自分の言うことを聞くのが当然だという考えによるのでしょう。特に、自分に愛されて喜ばない女性はいないはずだというのは彼にとって当たり前すぎて疑いの余地すらないのです。
『竹取物語』では帝に袖をとらえられるや、かぐや姫は「きと影となりぬ」とあって、実体のないうっすらとした影になってしまいます。『かぐや姫の物語』では帝の手をすり抜けて姿を消し、そのあと厳しい表情で「影」になっています。帝はやむなく招き寄せた鳳輦に乗り込むのです。

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帝への拒否(1) 

映画『かぐや姫の物語』に登場する人物はそれぞれ個性的に描かれています。帝もまたそのひとりです。帝は整った品のよい顔なのですが、あごが長く描かれます。以前学生さんから教わったのですが、これは「男前だけれど、一か所特徴的な欠点がある」顔に造型されたのだそうです。
天皇というのは、誠に不自由な生活を強いられるもので、原則的に三種の神器と一緒にいなければならず、要するに内裏を出ることはまずないと言ってよいのです。
今の天皇は海外にも行きますし、国内もあちこちの行事に行きます。静養ということで「御用邸」に出かけることもあります。しかし平安時代の天皇となるとそうはいかないのです。
『竹取物語』でも、五人の求婚者はかぐや姫のもとを訪れたり、難題に取り組むために出かけたりしているのですが、天皇だけはどういう姫なのか分からないので女官を遣わして見に行かせています。ちょっと出かけてくる、というわけにはいかない身分なのです。それでも、かぐや姫から入内を拒否されたと聞くや、どうしても会いたいというので

    狩の行幸

という理屈で出かけることにしました。何だ、出かけてもいいんじゃないかというとそういうわけではないのです。飛鳥時代などはもっと頻繁に行幸(国見の行幸、神事にまつわる行幸など)が行われていますが、平安朝になるとなかなかそうもいかないのです。いずれにしても建前が必要なのでここでは「狩」ということにしているのでしょう。狩というのは行幸の大義があるもので、『源氏物語』にも帝が大原野に狩の行幸をする場面があります。神社への行幸もあって、たとえば一条天皇(平安時代中期)は松尾大社や吉田神社に行幸しています。
というわけで、「かぐや姫に会いに行くために出かける」というわけにはいかないので、狩の行幸という建前で行ったのです。「行幸」となると日程なども占わねばなりません。
中宮や女御は実家で出産するのが普通の時代でしたから、天皇は我が子の顔もすぐに見ることはできず、一条天皇は、第二皇子の敦成親王(母は中宮彰子)が生まれたときに彰子の実家である土御門第(彰子の両親藤原道長夫妻が居住)に行きたいと言ったのですが、ことはそう簡単ではありません。子どものことですし、訪問先が時の一の人である道長の屋敷ですから大義としては何とか理屈は付けられますが、「では明日行く」ということはできません。皇子が生まれたのは九月十一日でしたが、実際に行幸できたのは、なんと

    一か月あまり先

の十月十六日でした。その日の出来事は道長の日記『御堂関白記』にも載っているのですが、この行幸は大変大げさなものであったことがわかります。鳳輦という輿に乗った帝をかついで行き、多くの官人が随行します。
映画『かぐや姫の物語』では、わりあいに安易に帝が行幸しています。一度かぐや姫が帝からの宮仕え(事実上の結婚)を断ったあと、「よし、(手を打って)私のほうから出向こう。造の家へ忍び参るのだ」と言ってそのあと場面が変わって鳳輦がかぐや姫の邸に到着しているのです。時代劇で将軍がいとも簡単に「おしのび」で街中に出ていたり、遠山の金さんがやくざな身なりで「遊び人」として江戸市中を闊歩しているのと似ているかもしれません。このあたりも時代考証などとうるさいことは言わず、「映画のうそ」として許容されてもよいところだと思います。

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思いついたら 

私は飽きもせずに毎日一つずつ感じたり考えたりしたことをこのブログに書いてきました。といっても、ほんとうに毎日書いているわけではありません。大きな仕事が終わった後などに、あふれるように書きたいことが出てきて、一気に30日分くらい書いてしまうことがあります。その反面、特に何かと忙しい時や逆にぼんやりしてものを考えるのが億劫(笑)なときなど「ネタ切れ」という問題が発生することも珍しくありません。忙しすぎると、非日常の時間が減りますので、何の変化もない暮らしを続けることになって、書くことがなくなるのです。「あそび」というのは、本来は

    「非日常のおこない」

のことですから、その「あそび」のない生活になってしまうとネタがなくなるのですね。
そんな時でも、ひと息ついた時、たとえば夜、寝床に入った時などに「ああ、こんなことを書いておきたいな」と思いつくことがあります。あるエライ学者さんが、いつも枕元にメモ帳のようなものを置いて、寝床で研究に関することでおもしろい発想を得た時にはすぐに目もできるようになさっていると聞いたことがあります。
私も依然その真似をしたことがあるのですが、やはり大先生とは「モノが違う」(笑)のでしょう、全然書くことがありませんでした。書いたとしても、翌朝読んでみると

    「なんだ、これは?」

というつまらないことばかりでした。
しかしブログのネタになるようなことはこのごろ書くようにしています。それもスマホのメモ帳機能を使ってほとんど単語ひとつだけメモしておくという感じです。これなら枕元にスマホを置いておけば鉛筆を探す必要もありませんので簡単です。つまらないと思ったらあっさり削除しています(ほとんど削除しています・・笑)。
もうひとつ、私の趣味と言ってもよい「ウォーキング」の際にも時々思いつくことがあります。短歌の一句が浮かぶこともありますので、これらもスマホに入れておきます。そのうえで、あとでそれを見返して、何とかなりそうだと思ったらあまり難しく考えずに一気に書いていきます。
やはり勉強に関することで、いい思いつきをして、あとで見ても「これはおもしろい」と思えて書き始められるようになりたいと今さらながら思っています。

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浮ついた言葉(4) 

石作皇子の声を担当していらっしゃる声優さんは上川隆也さんという方でした。私は知らない人ですので、どういう声を出されるのかもわかりません。ただ、この方のプロフィルを調べてみると、この映画の制作当時は40代後半の渋い顔をした方で、二枚目の声をなさるのだろうという印象を持ちました(どういうお声なのかご存じの方、教えてください)。そういう年代のやや低めのとろけるような声(知らんけど)で「ここではないどこかへ」なんて言われると、映画を観ている若い女性たちはちょっとうろたえる(笑)かもしれませんよね。この映画はプレスコ(プレスコアリング。台詞や音楽・歌を先行して収録する)で撮られたそうで、声の出演者のイメージが人物の絵にも影響を与えるようです。
このように、ロマンティックと言えばそのとおりなのですが、見方を変えると、性懲りもなく

    歯が浮くような

ことをあれこれ言っているとも言えるでしょう。まさに結婚詐欺。今でもいそうな男です。それだけに、どこまでも二枚目を気取っていた彼が、山姥のような正妻を前にみじめな姿をさらすのは、観客の笑いを誘うのですが、私はそれと同時にぞっとするほどリアルな人間がそこにいるように感じ取りました。言葉は、真実を語る時はたくましいばかりの力強さを持ちますが、軽佻浮薄な偽りをしらじらしく並べ立てたときは馬鹿げたほど空虚で危険なものだと思います。それだけに、その言葉を受け止める人が「浮薄さ」に気付かなかったときは不幸なことになるでしょう。言葉は宝石であり、ナイフでもあります。
原作の『竹取物語』ではあっけなく姿を消して、5人の求婚者の中でもっとも印象の薄い人物と言えそうですが、映画では悪い意味ではありますが、かなり印象に残る人物として造型されています。
本物そっくりのものを作らせて騙してやろうとした車持皇子、財力にものを言わせて偽物と知らずに手に入れた阿部右大臣、武将として自ら恃むところが多いために無謀な冒険をした大伴大納言、籠に乗って燕の巣に手を突っ込んだためにバランスを崩して落下するという頼りなくて無分別な石上中納言。彼らはそれぞれに

    人間の弱さ

を露呈しているのです。しかし、言葉をもてあそんでかぐや姫の心を傷つけた石作皇子はもっとも罪が大きかったかもしれません。
かぐや姫は、大伴大納言以外の4人の求婚者の失敗を知って、車持皇子の時は笑っていたのですが、阿部右大臣の際はむなしい気持ちになり、石作皇子の場合は号泣し、そして石上中納言が命を落としたと聴いた時には激しい自責の念に駆られるのです。
次第に追い詰められていくかぐや姫は、このあと帝から力に任せた仕打ちを受けて決定的な打撃を受けます。

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浮ついたことば(3) 

石作皇子の甘言はとどまるところを知りません。

「かぐや姫様、あなたは私にとって真実心を捧げたいと思う唯一の方。どうかこの可憐な花を、私があなたを思う真心を受け取ってはいただけないでしょうか? 私は幼い頃から草花が好きでした。それも、道端や野辺に咲く名もない花に心ひかれてしまうのです。そしていつも思うのです。この野辺に咲く花のように生きることができたならと。姫、私と共に参りましょう。ここではないどこかへ。堅苦しい都など抜け出して、共に参りましょう。花咲き乱れ、鳥が歌い、魚が躍る緑豊かな地へ。ここではないどこかへ。ただ己の心のままに笑い、歌い、そして眠りましょう。朝な夕なの営みを喜びとし、四季の巡りを糧にして、共に美しい物語を紡ぎ出しましょう。さあ行きましょう、私と。ここではないどこかへ! 花咲き乱れ、鳥が歌い、魚が躍る緑豊かな地へ参りましょう。ここではないどこかへ、さあ!」

この長ぜりふの間に、かぐや姫側でいくらかの動きがあります。「私があなたを思う真心を受け取ってはいただけないでしょうか?」と言われた時、かぐや姫は考え込んでいます。「この野辺に咲く花のように生きることができたならと」という言葉に対しては、かぐや姫は花を手にして涙を落とします。ところが「共に美しい物語を紡ぎ出しましょう」と言われたとき、かぐや姫の後ろから、媼が肩に触れるのです。何かの合図をしているようです。
石作皇子の心は昂り(あるいは昂った演技をし)、「ここではないどこか」に行こうというヨーロッパ言語の恋愛詩を翻訳したようなロマンティックな表現をします。しかし、「真心」「ここではない場所」「花が咲き乱れ、鳥が歌い、魚が躍る緑豊かなところ」・・。こう言われた時、かぐや姫の心の中には石作皇子ではなく、

    まったく別の人物

が思い浮かべられていたかもしれません。かつて野に遊んだかぐや姫にとってかけがえのなかった捨丸・・。石作皇子の浮ついた言葉は、少しずれたところでかぐや姫の心を強く震わせたのではないでしょうか。
このエピソードには「オチ」があります。
石作は次第に御簾(みす。この奥にかぐや姫がいる)に近づき、ついにその御簾に手を掛けます。翁はどうなることかとかなり狼狽しています。そして「ここではないどこかへ、さあ!」とおそらくこれまでの彼なら多くの女性たちを篭絡してきたであろうことばを投げかけたあと、とうとう御簾を持ち上げたのです。ところが、そこにいたのは、先ほどの花を持って

    鬼の形相

で座っている石上の正妻でした。彼は「うわ!」とのけぞり、その拍子に頭を打ち、烏帽子は脱げ、御簾が外れて彼の身体に覆いかぶさってきます。当時の貴族は髷を結い上げて、それを烏帽子に結び付けましたので、そう簡単には脱げないのですが、このあたりは映画の「うそ」として許されるだろうと思います。
当時の男性は、種類はさまざまですが貴族から庶民まで烏帽子を付けるのがあたりまえで、脱ぐのは寝る時くらい。それだけに烏帽子が脱げるのはとても恥ずかしいことでした。正妻は「“ここではないどこか”ですか? ぜひ私も一度連れていっていただきたいものですわ」と皮肉を言い、石上は平伏して「ごめんなさい、許してください。堪忍してください!」とあやまります。正妻はさらに「“一輪の野の花”のように、あなたに摘まれ、捨てられ、悲しみのあまり髪を下ろして仏門にお入りになった姫君が何人いらっしゃることか」と暴露してその陰でかぐや姫は慟哭するのです。

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浮ついた言葉(2) 

ここまでで、高畑監督は4人の求婚者を2グループに分けているようです。車持皇子と阿部右大臣(どちらもニセモノを持参し、あわや成功するかという所まで行きながら最後の詰めが甘く失敗する)が第1。大伴大納言と石上中納言(どちらも本物を求めて自ら取りに行くが、失敗)が第2。
第2グループはまた「動物の持っているもの」という共通点もあり、こういう設定は原作も同じです。
さて、扱いに困るのが石作皇子です。昨日書きましたように、原作では実にあっけなく失敗するため、映像化するにあたっては話を膨らませたいところです。その膨らませ方こそが高畑監督の腕の見せ所でした。むしろ、この人物にこそかぐや姫に大きな打撃を与える役割を与えようと考えられたのかもしれません。事実、この石作皇子のエピソードはかぐや姫に決定的な打撃を与えることになります。
球根の場に再登場する石作皇子は髭を落としています。もともと美男子ですが、そのことでさらに若々しさが加わって、

    女好き

しそうな顔なのです。さて、彼は「仏の御石の鉢」を持ってきたのかというとそうではなく、なんと、一輪の花を手にしていたのです。それをかぐや姫に渡すように翁に言い、そのあとかぐや姫に聞こえるように延々と長ぜりふを言います。

「三年(みとせ)前、初めてお声を耳にして以来、かぐや姫様のことが片時も心から離れず、私は必死に仏の御石の鉢とやらを探し求めました。野を越え、山を越え、国中の寺を訪ね歩き、やがて疲れ果てて道端の石に腰を下ろした時でした。ふと、足元に咲く一輪のレンゲの花が私の目にとまったのです。ああ、私の姫への思いは人知れずとも可憐に咲くこの花のようなものなのだなあ。そう思った時、私は翻然と悟りました。私が真実姫に捧げたいのは、そして姫が本当にお望みなのは、得がたい宝物などではなく、この一輪の花。すなわち、姫を愛する我が真心ではないのかと」

仏の石の鉢は釈迦の用いたものですから、インドかネパールあたりにあるはず。いくら「野を越え、山を越え、国中の寺を訪ね歩」いたところで見つかるはずはないのです。そういう理屈は差し置いて、ロマンティックで女心をくすぐるような流麗な言い回しを続けるのです。必死に探したというアピールをし、どうにも見つからないまま疲弊して道端の石に腰を下ろす。おあつらえ向きに一輪のレンゲの花。それは彼の

    真心の象徴

だというのです。たしかに、どんな宝物よりも人を愛する心の方が美しく、尊く、かけがえのないものでしょう。この「真心」という言葉を聞いた時、かぐや姫もさすがに動揺します。陶酔したように語る色男ならではの手練手管によって、かぐや姫の心を動かしたのです。あるいは映画を観ている人も「そうだ、そのとおりだ」と石作皇子にいくらかでも心を寄せ始めているかもしれません。それはもちろん、高畑監督の「罠」なのですが。

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浮ついた言葉(1) 

高畑勲監督の映画『かぐやひめの物語』に登場する5人の求婚者は原作『竹取物語』を基本としながらいくらか変えているところがあります。特に、原作では最初の求婚者である「石作皇子(いしつくりのみこ)」の話はあまりおもしろくないので、監督としてはどうしたものかお考えになっただろうと思います。
原作では、かぐや姫から「仏の石の鉢」という、釈迦が用いていたという鉢を要求されたのです。ところが、インドやネパールなんて遠いところに、あるかないかわからないようなものを取りに行くなんて馬鹿げている、というので、この皇子は大和国十市郡にある山寺の賓頭盧像のそばに置かれていた黒ずんだ鉢をこぎれいな錦の袋に入れて持って行ったのです。馬鹿正直に探しに行くなどということはしない、合理的な人物ともいえるのですが、それにしては一切に行動はお粗末だとしかいいようがないのです。
こんなもの、

    すぐにバレます

よね。かぐや姫はひと目見ただけでニセモノだと言って突き返したのです。
このあとの求婚者たちのそれなりに苦労した話に比べると、あまりにもあっけないエピソードです。
そこで映画では石作皇子をトップバッターにしませんでした。5人が並ぶ序列は、原作では石作皇子、車持皇子、阿部右大臣、大伴大納言、石上中納言なのですが、この二人の皇子の順序を入れ替えているのです。
最初、石作はかぐや姫のことを「成金の娘」「賤の女(しづのめ)」などと馬鹿にしたように言います。ところが名付けをした齋部秋田という人物からいかに美しいかを聞くと「この上は何としても」とかぐや姫の家に牛車を走らせます。
石作皇子はなかなかいい男に造形されていて、車持皇子のいささか老いた凡庸な風姿、阿部右大臣の白塗りの美男とは程遠い容貌、大伴大納言の粗野でさえある武人の様相、さらには石上中納言の頼りない若造ぶりとは違います。ほんのわずかに口ひげを生やして、すらっと背が高く描かれているのです。
この5人の求婚者はそれぞれにかぐや姫をどれほど大切にするかを訴える際に「蓬莱の玉の枝」(車持)、「仏の御石の鉢」(石作)、「火鼡(ひねずみ)の皮衣」(阿部)、「龍の首の玉」(大伴)、「燕の子安貝」(石上)をたとえにしたものですから(原作ではこういう場面はありません)、逆にかぐや姫にその宝物を持ってきてほしいと

    難題

を出されてしまいます。藪蛇だったのです。
石作以外の4人の男たちは何らかの苦労をしてその難題を解決しようとします。車持は本物そっくりに作らせた玉の枝を持参します。ところがこの人物は報酬を支払わなかったために、工匠たちが訴え出てきてあっけなく偽物とわかってしまいます。阿部右大臣はどれほど費やしたのかわからないほどの巨額の金をもってそれらしきものを持ってくるのですが、偽物をつかまされた(原作『竹取物語』では唐の商人に騙される)らしく、燃えないはずの皮衣がめらめらと炎に包まれていくのです。大伴大納言と石上中納言はどちらも持参することができません。大伴は果敢に龍に挑むのですが、その圧倒的な力に負けてしまいます。石上は自ら籠に乗って家来に吊り上げさせて燕の巣に手を突っ込みますが、彼がつかんだものは燕の糞と卵で(原作では糞だけ)、あえなく墜落したその手は分らしきものに汚れ、その上で燕の子が生まれていました。そしてその新たな命の誕生とは裏腹に、石上は亡くなってしまうのです。ちなみに、大伴大納言が武勇を誇るのはわけのないことではありません。大伴氏はもともと武門の家柄。ほかの男たちのように軟弱な育ちではないのです。このあたりは原作そのままに描いていると言えそうです。

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目が回る8月 

暑い日々です。しかし、のんびりしている時間はありません。普段もっとまじめに勉強していればこんなにしんどい思いをしなくていいのに(笑)、サボってばかりいるので「よし、これをやろう」と思った時にひどい目に遭います。
これから1か月、思っていた以上の仕事量になりそうで、どこかの金融関係の「ご利用は…」というCMではありませんが、勉強は「計画的に」進めないと頓挫しそうです。
先日もここに書きましたように、書かなければならない原稿がかなりの分量になりそうです。このブログの記事ならあまり読まれません(笑)し、どなたの役に立つという内容でもありませんから、気楽に書いていれば許されるだろうと思っています。しかし仮にも読者対象として

    専門家を想定する

原稿はかなり神経を使わなければ書けません。
書くためには「調べる」「考える」が不可欠で、それに相当時間を費やします。短歌関係の原稿が、枚数は少ないのですが、種類が増えそうです。連載は最近少しダレ気味(笑)なので、気を引き締めねばなりません。そして大物の原稿を2つ書くつもりです。
ほかにも雑用に関する原稿もあり、これは避けられるものなら避けたいと思っているのですが、そうはいかないのが浮世の義理というものです(笑)。
もとより無能な三文教師ですからどなたからもあまり

    期待されていない

ことは明らかで、「超三流でよかった」ということになるかもしれません。「避暑で軽井沢へ」とか「南半球へ」というような余裕などかけらもありませんので、それもかえって幸いかと思います。
ただ、この暑さ、食欲も落ちそうで、運動不足にもなりかねません。途中で目を回さないようにだけは気をつけたいと思っています。
ところで、さきほど「読者を想定する」と言いましたが、現実に読む人は数人(笑)ではないかと思われ、よく考えたらこのブログとたいして変わらないかもしれません。
と、ここまで書いたところで、ひょっとしたらまた別の原稿が入るかもしれないという情報が届きました。これは私の力ではなく読者がそれなりに想定されるものです。何とか無い知恵を振り絞ります。

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久しぶりの京都(3) 

というわけで、京都に行ってその目的は果たせました。
実は私が行った日は祇園祭の宵宮の日で、京都の夏はいよいよたけなわという時期でした。泉屋博古館では人が少なかったのですが、そこから市内の中心部に向かうにつれて喧騒が増し、「祇園さん」あたりはずいぶん「ぎおんさん(ぎょうさん)な人であふれていました(上方落語「三十石」参照・・笑」。
さて、泉屋博古館からはどうやって帰ろうかと思ったのですが、「もう、ここまで歩いたなら、帰りも歩くか!」というわけで、だらだらと下っていく鹿ケ谷道を南に向かいました。この少し東側に行けば「哲学の道」ですが、もうそこまで行く気力はありませんでした(笑)。さほどの距離を歩くまでもなく、紅葉の季節はことさら美しい永観堂(禅林寺)に着きました。こちらのお寺は浄土宗西山禅林寺派総本山です。
平安時代後期の永観(ようかん。1033~1111)が行道していたところ、須弥壇に安置されていた阿弥陀仏の像が突然下りてきて永観を先導するように行道を始めました。永観はさすがに驚いて立ちすくみました。すると阿弥陀仏が

    「永観遅し」

と振り返ったという伝承があります。その姿を映したという「見返り阿弥陀像」(平安時代後期~鎌倉時代)は、国の重要文化財に指定されています。永観堂といえばもうひとつ、与謝野晶子が鉄幹や山川登美子と訪れたことでも有名で、その歌碑も放生池のほとりにあります。
永観堂からすぐ南が南禅寺です。「絶景かな」の三門があります。私は登りませんでしたが、多くの観光客が五右衛門気分で楽しんでいらっしゃいました。
そこからはインクラインに出て無鄰菴、その隣の瓢亭の前も通りました。瓢亭のお昼の懐石料理は3万円ちょっとらしいです。谷崎潤一郎『細雪』などにも描かれる場所で、谷崎もよく行ったようですが、私にはおよそ縁がないところですので(笑)そっと前を通っていきました。
まもなく神宮道、ということは、ほぼ京都市美術館に戻ったことになります。私はそのあと、三条通を少し歩いて、

    白川

沿いの道をずっとたどっていきました。私は京都市美術館から帰る時はいつもこの道を通っています。人が少なくてとても気持ちのいい道なのです。
白川には「一本橋」(古川町橋、行者橋、阿闍梨橋。千日回峰行を成し遂げた行者が粟田口尊勝院に向かう時に渡る橋)という、恐ろしく幅の狭い(60㎝ほど)、しかも手すりも何もない橋がありますが、私はここを渡ったことがありません。耳の病気のあと、からだのバランスがあまりよくなく、ほぼ確実に白川に転落してしまいそうだからです(笑)。
祇園新橋と大和橋の間、白川の北側にある吉井勇の「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流るる」の碑もいつも見て通ります。やがて京阪四条駅の上、賀茂川のほとりに着きます。出雲阿国の像に挨拶して四条大橋を渡り、少しだけ寄り道しようと、これまたいつも行く新京極の誠心院にある宝篋印塔に参りました。この塔は和泉式部の供養塔と言われています。
結局、2万歩近く歩いたこの日の京都半日の旅はこうして終わりました。ああ、くたびれた・・。

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2023文楽夏休み公演初日 

本日夏休みの文楽が初日を迎えます。
第一部(10時30分開演)
かみなり太鼓
文楽ってなあに
西遊記(閻魔王宮より釜煮)
第二部(13時30分開演)
妹背山婦女庭訓
(井戸替、杉酒屋、道行恋苧環
鱶七使者、姫戻り、金殿、入鹿誅罰)
サマーレイトショー(18時30分開演)
夏祭浪花鑑
 (住吉鳥居前、三婦内、長町裏)

孫悟空は簔二郎さんですが、二郎さんもいくら何でも若くはないので、もう少しせめて50代の人に譲った方が安全ではないか(笑)と思います。また宙乗りはあるのでしょうかね。錣さんが「鱶七」で切場でないのが気の毒です。「夏祭」では、やはり勘彌さんが師匠の持ち役を遣われるようになったことに感慨があります。
大阪の熱い夏がやってきました。

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久しぶりの京都(2) 

京都市美術館はそれなりに人が入っていましたが、押すな押すなというほどではありませんでした。私が行ったのが平日だったからということもあるかもしれませんが。この「ルーブル美術館展 愛を描く」は東京では乃木坂の国立新美術館でおこなわれましたが、あちらはどうだったのでしょう。
さて、そのあと私は小さな展覧会に行きました。とはいえ、この日の本命はこちらだったのですが。
平安神宮の東側の岡崎通りを丸太町通りまで行ってそこから鹿ケ谷を目指します。途中、岡崎神社に参拝しましたが、美術館から1㎞あまりの道をほぼ休まずに歩きました。左京区鹿ケ谷下宮ノ前町にある

    泉屋博古館

でした。住友家のコレクションをもとにした博物館で、今は東京の住友家の別邸跡にも分館があります。ここでおこなわれていたのは「歌と物語の絵」という展覧会で、私にとってはきわめてなじみの深いものです。展示されていたのはすべて泉屋博古館の所蔵品です。
「うたうたう絵」としては伝藤原公任「中色紙」(実際は12世紀のもの)、松花堂昭乗「三十六歌仙画帖」(1616年)、土佐光貞「秋草鶉図屏風」(18世紀)、里村玄陳「続後拾遺和歌集」など。
「ものかたる絵」としては狩野常信「紫式部観月図」(18世紀)、伝土佐永春「是害房絵巻」(14世紀。重要文化財。『今昔物語集』に見える、唐の天狗是害房が日本に来て比叡山の僧との法力争いで敗れ、日本の天狗に介抱してもらう話)、俵屋宗達派の「伊勢物語図屏風」(17世紀)、「源氏物語図屏風」(17世紀)、「大原御幸図屏風」、そして

    「竹取物語絵巻」(17世紀)

などが出ていました。『竹取物語』はあまり長くない話ですし、不思議な展開を見せるものでもありますので、絵巻物になることが多く、今もいろいろ残っています。その中のひとつを観ることができてとてもよかったです。
「伊勢物語」「源氏物語」の屏風はいくつかの場面を散りばめたもので、「伊勢」なら、「宇津の山」「八橋」「御手洗川の禊」など、「源氏」では「桐壷」の光源氏の元服、「帚木」「空蝉」の空蝉と光源氏、「若紫」の垣間見をする光源氏、その他「末摘花」「紅葉賀」「朝顔」などの巻も描かれていました。
泉屋博古館は、町の喧騒から離れて東山の麓にある閑静な博物館で、観客も多くなく、ゆったりした気持ちで見ることができました。係員の方々もみなさん丁寧で、好感の持てるところです。

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久しぶりの京都(1) 

7月某日、曇り空の日に、これなら暑くないだろうと思って京都に行ってきました。左京区鹿ケ谷にある泉屋博古館(せんおくはくこかん)で開催されていた「歌と物語の絵―雅やかなやまと絵の世界」を観に行くためでした。
私は京都に行くとあまりバスに乗りません。もちろんタクシーなんて高級なものはもってのほか(笑)。地下鉄もあまり好きでないためまず使いません。じゃあ、どうするのか、というと、歩くのです。どうにも歩けない距離ならバスは使いますが、30分や40分なら確実に徒歩を選びます。
このときの目的地である泉屋博古館は阪急京都河原町駅から3kmあまりではないかと思われ、歩くべきかバスを使うべきか、なんとも微妙な距離です。ところが、この日はたまたま開催中だった京都市美術館(今は「京都市京セラ美術館」というそうですが)にも立ち寄ろうと思い、京都市美ならいつも歩く距離ですから、いったんそこまで行き、さらにそのあと1㎞ほど歩けば泉屋博古館ですから、「全行程徒歩」に決定しました。
河原町駅を降りて地上に上がり、私が好んで歩く

    木屋町通

を取りあえず北に進みます。途中「彦根藩邸跡」「土佐藩邸跡」「日本映画発祥の地」「高瀬川〇之舟入跡(○には数字が入ります)」などの石碑だの案内板などがいろいろありますが、もう最近は面倒になって(笑)見なくなりました。三条、御池などを横切って二条通りに出ました。私は賀茂川を渡る時は多くは四条か三条の大橋を渡ります。二条大橋を渡るのは珍しいことです。それは多くの方も同じことで、三条大橋や四条大橋なら駅がそばにありますから、橋を遣う人も多いのでしょう。この日、橋の上ですれ違った人はわずかに数人でした。川端を越え、東大路を越えると、いつも片岡仁左衛門代々の墓に参ります。
さらに二条大路を東に行くとやがて琵琶湖疎水が現れ、それを越えると神宮道。左を見れば平安神宮です。私は右に曲がって、新しくなった京都市美術館に行きました。

    ルーヴル美術館展 愛を描く

の京都展がおこなわれていました。“Louvre”(ルーブル)というつづりの中には“Love”という文字が隠れている、という趣向で、ともかくも「愛」が主題。となるとまずはアモル(クピド)を描いたものが登場します。そしてアダムとエヴァ、ニンフとサテュロス、プシュケ(アモルの妻)、ディアナ、ヴィーナス、ナクソス島のバッカスとアリアドネ・・・。
神話があまり得意でない私が比較的わかるのはやはりキリスト教関連を題材とする絵です。
スパーダ「放蕩息子の帰宅」、ブラン「エジプトから帰還する前の聖家族」そしてなんといってもマグダラのマリアを描いたものは飛び切りの興味をそそられます。私は聖書の中の人物を描いた絵でもっとも魅力を感じるのはこの女性です。今回出ていたのはスリンヘラント「悔悛するマグダラのマリア」とルティ「キリストの磔刑像の付いた十字架を手に、迷走するマグダラのマリア」。特に後者はしばらく眺めても飽きませんでした。
オランダ絵画ではスウェールツ「取り持ち女」(つい笑ってしまいます)、メツー「若い女性を訪れる兵士」など。この展覧会で私の関心をもっとも引いたのは18世紀ロココ時代のフランスの画家、フラゴナールの「かんぬき」でした。ドラマティックでエロティック。深紅のシーツと天蓋、今まさに扉にかんぬきを掛けようとする荒々しい若い男の情熱、拒みつつも悶えるようにさえ見える女。とてもおもしろい絵でした。
展覧会の終わりの方にはまたアモルとプシュケが出てきます。今回の展覧会の目玉作品のひとつであるジェラール「プシュケとアモル」がそれでした。
何となくあまり期待しないで行った展覧会でしたが、印象に残るものがあれこれありました。

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小紋さんのはなし 

私にとっての偉大な文楽の人形遣いというと初代吉田玉男、二代桐竹勘十郎、四代豊松清十郎、三代吉田簔助、吉田文雀などの名前がまず挙がります。私はこの人たちの人形を文楽人形の雛型として見てきたのです。
しかし、私が文楽を見始めたころ、常に頭巾を着けた(つまり役がない)年輩の人形遣いさんがいました。吉田玉之助、桐竹小紋、吉田福丸という方々です。この方々は、それでも朝日座のころを中心に小さな役を遣っていらっしゃいました。私が出遣いをされているのを見たのは桐竹小紋さんで、『曽根崎心中』の田舎客(生玉でお初を引っ張っていく役)や

    新口村

の村の人々として歩いてくるだけの役に出ていらっしゃいました。もちろんあの役は「針立の道庵」とか「伝が婆」とか名前もついていますから、小紋さんのお名前もプログラムにはありました。
国立文楽劇場以後は次第にそういう小さい役もつかなくなり、「村の歩き」「軍兵」などとして、多くの場合はいわゆる「幽霊」で番付には名前が出ていました。ツメ人形は持っていらっしゃったのでしょう。
幽霊と言えば、福丸さんは、『熊谷陣屋』で敦盛の幽霊を(障子に映った影だけですが)障子の裏側で持っていらっしゃるのを、これは舞台の袖から見たことがありました。
玉之助さんはもう30年以上前に亡くなりましたので、私は楽屋でもお見かけしたことがありません。
このお三方の中で、私が唯一お話ししたことがあるのは桐竹小紋さんです。夏休み公演の第一部で、私は解説などもういいや、と思って楽屋にいたのです。すると楽屋の下足の所に小紋さんがひょろひょろと出ていらっしゃいました。何気なく頭を下げると向こうも手持無沙汰らしく軽く頭を下げられました。私がベンチに腰を下ろしていると小紋さんも横に来られ、そのとき私はひとつ思い出したことがあって話しかけたのです。
ここに以前書いたことがあるかもしれませんので簡単に言いますと、私の家の近所に

    桐竹紋十郎師

の贔屓の方がお住まいで、公演のたびにそのお使いとして小紋さんが来られ、チケットや手ぬぐいなどを持ってこられたようです。この贔屓の方というのは、私より70年は年長と思われ(子どもごころに、かなりのおばあさんに見えました)もちろん明治生まれ。おそらく四ツ橋文楽座によく行かれた世代でしょう。その方のところに行かれたご記憶がおありかどうかを問いかけますと、小紋さんがとても喜ばれて、「覚えてるがな。ちょっとあんた、今時間あるんか?」というようなことをおっしゃり、「第一部のチケットを持っていますが、もう解説は聞かなくてもいいかなと思って」というと「そんなもん聞かんでええがな、ちょっと話、しょう」とのことで、10分くらい思い出話をなさいました。
楽屋にはいらっしゃるものの、若い人形遣いさんと話をすることもなく、お客さんもそれほどおいでにはならないでしょうから、昔の話をするのは嬉しくて仕方がないという感じでした。
文化デジタルライブラリを覗いてみますと、小紋さんについた役としては2007年に引退される少し前の2005年5月東京国立劇場での「盛綱陣屋の榛谷十郎」が最後で、それ以前には前述の「新口村の伝が婆」「生玉の田舎客」のほか、「彦山・杉坂墓所の斧右衛門の母」「上田村の駕籠屋」「新口村の樋ノ口水右衛門」「壺阪・土佐町松原の茶店の嬶」「新口村の針立道庵」「新口村の八右衛門」などがありました。

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これからも手紙を 

今の若い人はまったくといってよいくらい手紙を書きません。それは彼らが悪いのではなく、世の中がそういう具合にしてしまっただけのことです。世の中が何でも早ければいいという風潮になって、通信というのは用件さえ伝わればいいと考える人が急速に増えたように思います。その人たちの影響を受けた若者たちが手紙というアナログの権化のようなものを書かないのはむしろ自然なことかもしれません。用件以外の事をだらだら書く必要なんてない、という考え方は「文学なんて役に立たない」という思考と軌を一にしているようにすら思われます。いくら私などがあがいて「手紙を書こう」と力説してもほとんどの人は見向きもしないのです。
行動しないと退化するのは常識ですが、今や多くの若者は「便箋に2枚も手紙を書くなんて無理だ」とすら言います。「2枚って最低の枚数ですよ」というのは古い考えで、彼らにとって手紙とはダイレクトメールのようなものなのでしょう。
しかし世の中の流行というのは移り変わります。アナログ=悪のように言われたことがありますが、最近はレコードも、カセットテープも再評価されていると聞きました。私が大学生になって初めて自分のための高価な買い物をしたのは「オリヴェッティ レッテラ32」という

    タイプライター

でした。ガチャン、ガチャンと音をたてながら1文字ずつ字を刻んでいく文房具は私のあこがれで、なけなしのお金をはたいて手に入れて、ずっとそれを打ち続けていたことがあります。もう今は昔の物語ですが、何と、最近アニメか何かの影響でタイプライターに興味を持つ人がいるらしく、パソコンのキーボードもタイプライター仕様のものがあると聞きました。
私自身、LINEはおしゃべりの代用、メールは手紙の簡略版として使っていますが、それでも手紙を書くことはあります。お礼状などはやはり手紙がいいと思っています。私は仕事柄、新刊のご著書をいただくことがしばしばあります。そんな場合はきちんとお礼状を出すことにしています。特に面識のない方からいただいた場合などは形式を崩すことなくかなりかっちりした手紙にしています。
今の若者たちは形式というと毛嫌いするようなところがある反面、いざその形式についての話をすると、自分もやってみたいと思うようです。最初は真似でもかまわないので、きちんと書いてみて、そのうちに自分独自の味わいのある手紙が書けるようになればいいと思うのです。これは伝統芸能にも言えることですが、まず

    

をしっかり身につけることでそのあとの個性の発現につながるのだと思います。「型」のない人は個性を出すにも出しようがないと思うのです。文楽の当代呂太夫さんのお言葉を借りるなら、節にせよことばにせよ風にせよ、「がんじがらめ」の規律を身につけることが第一なのでしょう。
ところが、個性を重んじるという理屈でそれ以前の「型」を教えないでいるととりとめもないことになるばかりでほんとうに味わいのある個性などできるはずもないと私は考えています。
手紙を書くのは、たとえば剣道の素振りであり、柔道の乱取りであり、野球のキャッチボールでもあります。その基本をいかに身につけるかでその後に発揮される個性がすぐれたものとなるかどうかが決まってくると思います。
手紙は写経にも通じるのではないか、そんなことを思いながら今後もできるだけきちんとした手紙を書いていきたいと思っています。

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夏という季節 

気温というのは、私たちの普段の生活の快適さにとってかなり大きな意味を持つでしょう。道で知り合いと出会ったりすると「暑いですね」「寒くなりました」などとあいさつすることが多く、いきなり「桜が咲きましたね」「鶯が鳴きますね」などとは言わないものです。
春の初めを3月とすると、その最初の時期はまだ雪が降るかもしれず、私の居住地なら3月の平均的な気温は13度~4度らしいです。しかし5月になると23度~15度だとネットに出てきました。もっとも低い4度からもっとも高い23度までは19度の温度差があります。夏になると6月は26度~19度、7月は30度~23度、8月は32度~24度だそうです。19度から32度であればその差は13度。春とはかなり違います。
これは秋と冬にも同じことが言えて、9度から28度の秋に対して冬は2度から12度で、冬の気温は夏よりもさらに変化に乏しくなります。
つまり、気温の変化という意味では、冬がもっとも

    平板

で、次が夏ということです。春なら「まだまだ寒い」「暖かくなってきた」「すっかり暖かくなった」「暑く感じる」という変化がありますが、夏なら「暑い」、冬は「寒い」ばかりのようにも思われます(やや極端な言い方ですが)。
季節の微妙な変化を愛する日本の伝統的な詩人たちにとっては、ひとつの季節の中にさまざまな素材(例えば次々に咲いていく花など)のある春と秋がおもしろいのだろうと思います。和歌を詠むときにも当然のように影響があるはずで、古来夏と冬の歌が多くないのにも理由があるわけです。
夏のもうひとつの特徴は干天と大雨です。まったく雨が降らないことで稲が成長せず、秋の収穫に大きな影響を与えます。平安時代には飢饉の恐れがあるため、さかんに祈雨の行事がおこなわれました。逆に梅雨はもちろんのこと、夕立などの雨も夏にはつきものです。特に梅雨は洪水などの実害もあり、平安時代の記録にも賀茂川があふれて騒ぎになることも見えています。そういう実害のみならず、梅雨は退屈と背中合わせで、室内にこもってくだらない話などをして退屈を紛らわすこともあったようです。『源氏物語』「帚木」の

    雨夜の品定め

がそれにあたります。
私は昔から夏が苦手で、この時期になるとよく体重を減らしていました。ひと夏に4~5㎏減ったこともありました。退屈なのは年中同じことなので(笑)平気ですが、食が細くなったり運動があまりできなくなったりするのが困ったものです。
しかし何を言っても暑さはやってきますので、精一杯工夫して乗り切ろうと思います。

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この夏の宿題 

最近、何かと忙しくて、あまり自分らしい時間を持っていないような気がします。春頃は体調もかなり悪かったものですから、大げさに言うなら日々のルーティンだけで精一杯という、何もできない日々だったように思います。
こういうのはダメだな、と反省しています。
私は夏にはできるだけ多くの仕事をしようと毎年思ってきました。昔風の原稿用紙(400字詰め)に喩えるなら70枚から100枚は書くように努めてきました。今年もおおむねそれくらいになりそうな気はしますが、厳しい締切を自分に課して、主に2つの原稿を書こうと思っています。もちろん、それでは終わらず、連載している原稿や短歌などを書かねばなりません。
一円のお金にもなりませんが(笑)、それでも書くことが生きがいの人間ですから、頑張ろうと思います。・・と今日はその宣言をここでしておきます。

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牡蠣船 

以前「落葉なき椎」という創作浄瑠璃を書いた時に、場所を墨田川に設定しました。江戸の「本所七不思議」を題材にしたこの七つの浄瑠璃は、今の北斎通りや少しそこから脇にそれたあたりが舞台になるのですが、この作品は唯一、川の上で繰り広げられる話です。七不思議それぞれにひとつ、合計七つの作品を書いたのですが、どの作品も思い入れがあります。しかしこの「落葉なき椎」は耳に障害を持ちながら三味線を愛し、また恋しい人と離ればなれになった若い女性のひたむきさとを描いたものとして、自分では好きな作品です。
ある豪商が辰巳芸者(江戸の南東、深川の芸者衆)をあげて舟遊びをするのです。そこで三味線を弾く「夕顔」と名乗る女性の悲しい話がこの小品のすべてと言ってもよいのです。最後の場面は、平戸新田藩の松浦氏の屋敷の椎の木(落葉がないことが七不思議のひとつでした)からひらひらと葉が落ちる場面でした。
舟遊びなんて何とも優雅で贅沢な印象があります。
昔、大阪には

    牡蠣船

がたくさんあったのだそうです。今はわずかに土佐堀川にある一軒(というのか、一艘というのか)だけだそうですが、やはり「大大阪(だいおおさか)」の時代は風流なものもいろいろあったのでしょう。
牡蠣船は、広島から運ばれた牡蠣を船から売るのが本来の姿で、それが次第に船内でその牡蠣を料理して食べさせるようになったらしいのです。
先日、ある方から、ご自身の実家が牡蠣船をしていた、というお話をうかがいました。その牡蠣船は土佐堀川ではなく、佐野屋橋のあたりだったのだそうです。佐野屋橋と言えば四ツ橋の東側、

    長堀

に架けられた橋(長堀の埋め立てで消滅)で、今もバス停に「佐野屋橋」があります。そしてこの方は子どものころから文楽に通っていたとおっしゃっていましたので、劇場はなんと「四ツ橋文楽座」です。朝日座はかろうじて知っていますが、私など四ツ橋となると遠い歴史の彼方のようにすら思えます。まだ山城少掾、文五郎などが健在だったころです。そして実際その方のお話しには文五郎、山城少掾、松太夫(後の三代目春子太夫)、四代清六などのお名前が自然に出てくるのです。そしてなんと、そのかたのお祖父様が佐野屋橋に料理旅館を建てられたのだそうで、そこに文五郎師と清六師が来られて政岡の稽古をなさったというびっくりするような貴重なお話を伺えました。
牡蠣船、四ツ橋文楽座、私の知らない時代ではありますが、どこか懐かしさすら感じさせてくれる言葉です。

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プライバシーを守る 

ブログは以前、怪しげな人物から脅迫まがいの電話が仕事場にかかったことがあって、その人物がこのブログも見ているらしいことから、ここではできる限りプライベートなことは書かないようにしてきました。相手が匿名の人間の場合、どうしても身の危険を感じます。さすがにもう諦めたものと思われるのですが、だからといってこういう場ではあまり個人の情報に関わることは書きたくない、という気持ちには変わりがありません。
文楽、浄瑠璃が好きで、何か書いていて、短歌も好きで、美術が好きで、というくらいはかまわないと思うのですが、親が大富豪だとか、奥さんが元女優で超絶美人だとか、子どもが何人いて何をしているとか、そういうことは書かないようにしています。特に親と奥さんについては、「嘘」を書くわけにはまいりません(笑)からね。

    スパムコメント

は今も絶えませんが、何だかわけのわからない英語らしきもので書かれているのは邪魔で仕方がありません。コメントを承認制にしているのはそういう事情ですのでご勘弁ください。
Facebookでも怪しげな「友だち申請」が来ます。最近は同じプロフィルで毎日のように異なったアカウントから来ます。日本人らしく装いつつ、翻訳機能で作ったような日本語で書いてくるコメントもあります。日本人名で日本の学校を出ていることになっているのに、職業は「音楽老師」であったりもします。コメントに対して返事をすると「友だちになりましょう。そちらから申請してください」と言ってくるのは目に見えています。
私の場合、リアルな「友だち」がほとんどなく、仕事場でも、同僚とは徐々に話さなくなり、最終的には学生だけと話すようになったくらいです。それだけにSNSはかろうじて保たれている

    コミュニケーション手段

ですので、なかなかやめられずにいます。
プライバシーに対しては30年前には思いもよらなかったほど神経質になってきました。他人に「どこに住んでいますか」と聞くのも、たとえ世間話のつもりでも避けるようになりました。
その一方、近ごろはどんな家に住んでいるかなんて、住所さえ分かればGoogleマップですぐに見られてしまいます。歩いている人の顔や車のナンバーなどにはボカシが入りますが、表札なんてあからさまですよね。
また、マイナンバーカードというのも今なお危険視する人が少なくないようです。たしかに、昨今の不具合を見ていると嫌な感じになりますし、高齢者や認知症の人のことをよく考えずに設計しているのも危ういように思います。便利すぎるものほど何かあった時に取り返しがつかないという気持ちになるのもよくわかります。
ただ、プライバシー保護に神経質になると、今度は「プライバシー保護商法」のようなものが出てこないか気になります。「あなたのプライバシーを守りましょう。そのために私にあなたの個人情報を教えてください」なんて。

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ほととぎす 

俳人、歌人の正岡子規(1867~1902)は幼いころから漢籍に親しむなど、かなりの俊才だったようです。松山中学を退学して東京に出て、のちに帝国大学哲学科から国文科に移りました。
この人は多くの号を用いたことでも知られ、子規のほか、獺祭書屋主人、竹の里人をはじめとして50以上の号を用いたとされます。おもしろいのは「野球」という号で、彼の幼名の「升(のぼる)」から「野球(のぼーる)」としたものです。アメリカのベースボールを「野球(やきゅう)」と訳したのは中馬庚だったそうですが、「のぼーる」でもよかったかもしれません。「プロのぼーる」「のぼーる中継」など、いかがでしょうか。
「子規」という号は、「ほととぎす」とも読めます。この鳥については、たくさんの漢字表記があって「杜鵑」「不如帰」「時鳥」「霍公鳥」「杜宇」「蜀鳥」その他の書き方をします(後述)。古典文学の写本などを見ているとこれらの字が出てきて、とまどうこともあります。どれかに統一してくれるとありがたいのですが。私は横着者ですから、メモを取る時などは簡単な「時鳥」ばかり使っていました。
子規は21歳になる年の夏に初めて喀血するのですが、その翌年にさらにひどく血を吐き、

    肺結核

という診断を受けました。それで「鳴いて血を吐く」と言われるほととぎすに自らをなぞらえて「子規(しき)」と号したとされます。「死期(しき)」を覚悟していたかどうかはわかりませんが、当時の結核はとても長生きできるものではありませんでしたから、自分の命の限界を赤い血の中に見たことでしょう。それでも彼は激しい情熱をもって俳句や短歌の革新に心血を注ぎました。凡人には、少なくとも凡人中の凡人である私ごときにはまねのできないことだと思います。
30歳を過ぎるともう満足に歩くこともできず、35歳の誕生日を迎える少し前に亡くなりました。やはり35年の人生だった

    モーツアルト

もそうなのですが、この短い人生の中でどうしてあれほどの仕事ができたのか、不思議ですらあります。
ほととぎすはこのように、その鳴き声が血を吐くと言われました。古代中国の蜀の国に杜宇という人物がいて、荒れていた蜀の国を、農業を振興することで立ち直らせて、彼は望帝となったそうです。やがて望帝は亡くなり、その霊はほととぎすになり、初夏になると農業の時節になったことを告げに現れたのです。のちに蜀は滅亡して秦の始皇帝によって国土は統一されます。そこで望帝の魂であるほととぎすは「不如帰(帰るにしかず。帰るほかはない)」と言って激しく泣き血を吐いたのです。そのためにほととぎすの口の中は赤いのだと伝えられます。
私も数回生きるか死ぬかというところまで行きましたが、血を吐いた経験はなく、まだ若かった子規がいったいどんな気持ちになったのか、そしてその自分を望帝のほととぎすになぞらえる、諧謔すら感じられる精神については想像を絶するものがあります。

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夏の歌 

夏は暑く、冬は寒いです。どちらの季節も歌など詠む気になれません(笑)。
というわけでもないのでしょうが、『古今和歌集』の夏と冬の部は歌があまりありません。夏は34首。冬は29首で、春の134首、秋の145首とは比較にならないくらいです。
「山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば」(古今集・315・源宗于)のように冬枯れを詠んだものもありますが、冬の歌にはほとんど雪が詠み込まれます。そして当然のように「寒さ」「わびしさ」を感じさせます。  
  み吉野の山の白雪つもるらし
   ふるさと寒くなりまさるなり
     (古今集・325・坂上是則)
  わが宿は雪降りしきて道もなし
   踏み分けてとふ人しなければ
     (古今集・322・よみびと知らず)
  白雪の降りて積もれる山里は
   住む人さへや思ひ消ゆらむ
     (古今集・328・壬生忠岑)
それと同じように、夏もまた『古今和歌集』の時代の人たちはあまり歌の素材となるものを見いださなかったようで、ほととぎすと橘の花がその大半に詠まれています。
 その中でもとてもよく知られる(国文科の学生ならたいてい知っている)歌に
  さつき待つ花橘の香をかげば
   昔の人の袖の香ぞする
     (古今集・139・よみびと知らず)
があります。五月を待って咲く花橘の香をかぐと昔の人の袖の香がする、というのです。橘の実は「時じくのかくの木の実」(長い期間良い香りをさせる木の実)と言われ、実も花も時間を超えて変わることがないというイメージがありました。だからこそ、いつまでも変わらない、昔懐かしい人の袖の香に思われるといわれます。この歌はとても有名になり、「(花)橘の香」というともうそれだけで「昔の人」を連想するのが、平安時代に限らず、昔の

    文化人の常識

だったのです。和泉式部はかつて親密だった亡き親王の弟宮から四月のある日に橘の花を贈られます。すると彼女は即座に「昔の人の」という言葉が口をついて出るのです。亡き親王(昔の人)のことが思い出されます、というわけです。
ほととぎすも夏には欠かせない鳥です。「死出の田長(しでのたをさ)」という異名を持つ鳥で、冥府から来て農耕を勧める鳥とされます。鳴き声は人の叫び声の用だとも考えられ、「ほととぎす」という名も鳴き声に由来するとも考えられます。ちなみに最後の「す」は「からす」「うぐいす」と同じように鳥をあらわしているようです。
  思ひ出づるときはの山のほととぎす
   からくれなゐのふり出てぞなく
     (古今集・148・よみびと知らず)
のように、ほととぎすもまた昔を思い出させる鳥です。
夏は暑くて何もする気が起こらない、

    けだるい

季節です。
そんな時、昔をしのばせる橘の香やほととぎすの声に今を忘れて昔をしのぶことを古人はしました。
『源氏物語』「花散里」巻は五月(梅雨のころです)のある日を描いたもので、何らかの事情で「昔」を思い出させる三人の女性が登場します。折しも光源氏は何ごとも意のごとくにならず須磨に流謫する直前です。そんな忌まわしい「今」をほんのしばらく忘れて「昔の時間」に浸っているのです。
この場面に登場する麗景殿女御の妹はこのあとも「夏」のイメージで登場し、この巻の名前と同じ「花散里」と呼ばれ、光源氏がのちに建てる六条院の「夏の町」で暮らすことになります。

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『かぐや姫の物語』の発見(2) 

野澤松也師匠のかぐや姫のお話は、作中に「大塚家具」まで出てくる滑稽な作品です。以前学生に聴かせたときには、「浄瑠璃=まじめで堅苦しいもの」と思い込んでいた学生が「大塚家具はそんなに古くからあったのですか」と真剣に質問してきました。浄瑠璃では笑ってはいけないと思っていたのかもしれません。私の事前レクチャーが足りなかったようです。
絵本はおおむね『竹取物語』と同様の話で、子どもたちには空想的なお話としておもしろがられる力を持っているようです。しかしそれゆえに、『竹取物語』=幼稚な物語というイメージを持たれがちで、これはもうとんでもない勘違いだと思います。『竹取物語』は親子の愛情を中心にした「愛情物語」で、大人の鑑賞に堪えうる古典文学です。

    川端康成

は『竹取物語』(今は新潮文庫で読めます。電子版もあり)を現代語訳していますが、その解説でこの作品を、そして作者を高く評価しています。
『竹取物語』の魅力を映画にして残したいと考える監督がいらっしゃったのも心強い限りです。もちろん映画にすると監督をはじめとする制作者の考えで自由に内容を広げることができますが、その広げ方もまた原作に強い魅力があればこそできるものだと思います。
市川崑監督の作品は、ちょっとSFのほうに行き過ぎた感があって、また、かぐや姫の本当の悲しみが見えにくくて名作だとまでは思いませんでした。主演の沢口靖子さんは、かわいさと冷たさととぼけたようす(最近の言葉では「天然」というのでしょうか)を兼ね備えた私の好みのタイプ(笑)ですので、彼女が出演していることが救いではありましたが(笑)。そうそう、このブログに時々コメントをくれる「押し得子さん」は、沢口さんにちょっと雰囲気が似ています(笑)。ただ、沢口さんはまだお若かった(公開当時22歳)こともあって、演技は・・。
一方の高畑勲監督のアニメは平安時代末期の絵巻物に造詣の深い高畑さんらしく、故実に正確な描写が多くてたいしたものだと思っていました。もちろん細かいことを言い出すと奇妙なこともあります。たとえば、かぐや姫の所に天皇がお忍びで出かける場面がありますが、当時の帝は「お忍び」というような安易なことはしません(原作では狩の行幸という理屈をつけています)。そのほかにもいくらか気になるところはありますが、鑑賞に十分耐えうる範囲内だとほんとうに感心していたのです。内容もおもしろくて、深みのある、子どもも大人も楽しめるすぐれた作品だと思っていました。
ところが、日本映画の宿命で、私の持っていたDVDは字幕がなくて、恥ずかしいことに、私は厳密な内容を理解しないまま観ていて、それで満足していたのでした。
最近、あるかたのご厚意で

    字幕付き

の『かぐや姫の物語』を観る機会を得ました。
「目から鱗が落ちる」と言いますが、この慣用句を強く実感しました。そうか、そういうことだったのか、という場面がいくつもあったからです。「捨丸」という、原作にはない人物をどのように造型したのか、ということも以前はもっと軽く考えており、本当の意味が初めてわかったような気がしました。学生が最後の場面で涙を流していた理由もわかりました。この地上は穢れている、というのは仏教の考え方(「浄土」に対する「穢土」)で、原作にはそのまま天人に「穢きところ」と言わせていますが、アニメ版ではその言葉に対して「穢れてなどいない」とかぐや姫が反論するのも印象的でした。
この映画の中には「まわれ、まわれ、まわれよ、水車まわれ、まわってお日さん呼んでこい」というわらべ歌がありますが、この歌の存在も知らないままでした。あいにく今もそのメロディがわかりませんが、そこは私のことですから、適当に「作曲」して(笑)観ています。また「まわれ、めぐれ、めぐれよ、はるかなときよ、めぐって心を呼び返せ」というかぐや姫が歌う歌もありますが、これもまったく知りませんでした。「待つとし聞かば今かえりこむ」で終わるこの歌も重要な意味を持つことがよくわかりました。
こういうことをすべて知らないまま何度も繰り返しこの映画を観てわかったような気になっていたのですから愚かな話です。映像を見せてくださった方には、その愚かさを少し賢明にしてくださったことに対して深く感謝しております。

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『かぐや姫の物語』の発見(1) 

私は、文学に、特に古典文学にあまり関心のない学生さんに長らく「文学」というタイトルの授業をしてきました。中には高校時代「古文」が好きで、文学部に行きたいとすら思ったことがある、という人もいました。しかし、「文学なんて役に立たないでしょ」という考え方が世の中に蔓延して、多くの大学は「実学主義」になってしまいました(私は若者に対する社会的な圧力がそのようにしたと感じています)。そういうこともあってか、授業に来る学生さんの中には単位だけが目的で、最初から「こんなことをしてなにがおもしろいの?」という顔をあらわに見せる人もいます。感想を書いてもらっても「これ、役に立ちますか」と悲しいことを言ってくる人がいます。いや、これは文学に限ったことではありません。以前、医学部の教員に聞いたのですが、一生懸命授業をして「何か質問はある?」と聞いたら「今日の話のどこが国家試験に出ますか?」と言われ、がっかりしたことがあるそうです。その教員は「試験に出ない話はどうでもいいのか」という気持ちになったのでしょうね。
しかし、それでもなお、私は文学の話をしなければならないのです。

    「文学が役に立ちますか」

と聞かれたら、「おそらく直接あなたの人生に役に立つことはないでしょう。でも、それがどうかしましたか。学問をして実際の暮らしに直接役に立つことなんてめったにないのですよ。私は高校時代に学んだ数学や物理、生物、化学など、さらに大学の教養科目の数々は、人生においてほぼ役に立っていません。ベクトルも微分も高校を卒業してから一度として何かに用いたということはありません。英語は仕事柄役立つこともありますが、一般の人にとっては英語を流暢に話さなければ仕事にならないということはないはずです。
それでも、私はそれらすべてを勉強して良かったと思っています。だって、勉強すること自体に意味があるのですから。『役に立つ』なんてつまらないことを考えていると勉強はすべて味も素っ気もないものになってしまいます。そこに山があるから登るのです」ということをやわらかく、わかりやすく答えることにしています。この話をすると20%くらい(笑)の学生さんはやけに強く共感してくれるのですが、ほかの人は果たしてどう思っていることやら。大学というところは文化や人生を語り合い、論じ合うことにすばらしさがあると思うのですが、なかなかそうさせてはもらえないご時世です。せめてこれくらいのことは言っておきたいと思っているのです。
そして私は、私にとってなによりもすばらしい文学の話をする限りは、彼女たちにも「こんなにおもしろいものなのか」と思ってもらいたいといつも思ってきました。これはもう

    「教師の本能」

なのです。中には「初めて古典文学をおもしろいと思った」と(半ばはお世辞なのでしょうが)言ってくれる学生もいますが、そんなときはやはり嬉しいものです。専門外の学生だからこその喜びがあると言えます。
私は古典文学を話すに際して、『平家物語』『伊勢物語』『源氏物語』などをおもに取り上げてきましたが、最終的には『竹取物語』に行き着いたのです。これを全部読み通す(原文は一部だけしか読みません)ことで、「古典文学を一冊読み終えた」という満足感だけでも持ってほしいと思いました。また、ひとつの作品を読み通すと、その過程で古典文学の精髄がある程度わかってくるものですから、有意義だとも思います。そしてその際には『竹取物語』を題材にした紙芝居、絵本、浄瑠璃(野澤松也師匠の「債務姫竹取翁譚」)などにも言及し、味読(浄瑠璃は拝聴)してきました。それに加えて市川崑監督の『竹取物語』(実写版。沢口靖子、三船敏郎、若尾文子、石坂浩二ほか出演。1987年)や高畑勲監督の『かぐや姫の物語』(アニメ版。スタジオジブリ制作。2013年)を一緒に観てきたのです。

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久しぶりのオクラ栽培 

このブログにコメントを下さるやたけたの熊さんは家庭菜園をなさっています。あるとき、熊さんのお知り合いの方が、「何処からか種が飛んできたらしく、勝手にオクラができた」とおっしゃって、そのまた種を熊さんに贈られた(これ、シャレです)そうです。そして熊さん家では毎年オクラを育ててこられました。そのまた種を「育てませんか」というので昨年の秋に私にくださったのです。
これまでオクラはホームセンターで苗を買って育てたことはあるのですが、種からというのは初めてです。しかもこの種、どこから飛んできたのかわからないという

    風来坊

です。私という風来坊が風来坊のような種をもらったのですから、これはなかなか息が合いそうです。
ところがあいにく、私の家にはそんなにあれこれ植える余裕がなくてさて、おまけにイチゴの世話がそれなりに忙しかったものですから、どうしたものかと思っていました。そうこうしているうちに暖かくなってきましたので、そろそろ種を蒔くか今年は諦めるかを決めねばならなくなりました。
せっかくいただいたものですから、「蒔きませんでした」と報告して腕っぷしの強い(笑)熊さんの逆鱗に触れたくはありません(笑)。何とか育てたいと思ってまずは小さなポットにいくつか蒔いてみました。5月の終わりか6月初め頃だったと思います。
無事に芽が出て、その中から一番元気そうなものを少し大きなポットに植え替えました。しかしこれではまだ小さすぎますので、さらに大きな野菜ポット(10号)を用意して狭いところに置くことにしました。
そろそろ

    イチゴ

の収穫も終わりに近づきましたので、それと入れ替えにすればいいだろうということで、何とか場所を確保したのです。
ただ、小さいポットに入れている時期が長かったからか、何だかひょろっとしていて、心配になっています。イチゴのランナーの管理とともに、空いている時間には様子を見るようにしていますが、果たして成長してくれるのでしょうか。
オクラはアオイ科の植物ですから、花もとてもきれいです。先ずは無事に大きくなって花を咲かせてくれることを願っています。そして、暑くなったら実が生ることも期待しています。

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ランナーは伸びるよ 

久しぶりにイチゴの話です。今我々が口にしているイチゴはオランダイチゴで、江戸時代の終わりに伝わったものだそうです。もちろん、古くから野生のイチゴはあって、石器時代の遺跡から種が出土しているそうです(農林水産省のHPによる)。江戸時代末期に入ってきたのはオランダ船で長崎に運ばれたのでオランダイチゴと言われるそうです。
造園家、園芸家の福羽逸人さんという方が東京の新宿御苑でフランス伝来のイチゴから開発したのが福羽さんのお名前から

    「福羽」

と呼ばれる品種で、これは今の人気品種の「とちおとめ」や「あまおう」などの先祖に当たるそうです。
その後もさまざまな工夫がなされて今に至るのですが、今は流通していないこの「福羽」を食べてみたい気もします。
さて、私の家のプランターのイチゴは6月の半ばごろにはほぼ実が終わり、その後はランナーを適宜伸ばして育てています。ひとつの株からいくつも伸びてきますので、かわいそうですが一本だけを伸ばしています。それでも、そこからさらに孫株がいくつも出てきますし、さらに曾孫株も伸びていて、かなりの数になりました。そしてさらに強そうな10株くらいを育てたいと思っています。去年の体験で、来年の株になれそうにない弱いものも出てくると思われるため、少し多めに育てるつもりなのです。最近は

    四季なりイチゴ

もありますが、もともとイチゴは夏を嫌う植物ですから、弱らないように涼しくて風通しのよさそうなところで管理するつもりです。
イチゴの株を親から切り離すタイミングはなかなか難しいですがもう少し待った方がいいのではないか、とどうしても慎重になります。それで、おそるおそるひとつ切ってみて、それでも元気をなくさないようならほかのものも切るという素人っぽさです。
暑い夏、無事に過ごしてほしいものです。

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ジェンダーギャップ 

私は長い間女子ばかりの学園に勤めてきましたので、最近の男の子の生活実態をほとんど知りません。何を考え、どんな言葉を話し、どんな生活をしているのか、わかるようでわかりません。女の子経由で「俺がするっす」とか「あっざーす」とか言っているらしいというのは知っていますが、実際どんな顔をしてどんな思考をしているのか、謎なのです。
私が教えた女性たちもどんどん結婚していきましたが、配偶者の話をチラチラ聞くことがあります。すると、今でも昭和時代のおじさんのような若い男の子がいることに気付きます。「俺はお前(奥さん)を養っている」と公言する、家事はしない、休日はパチンコ、子どもの世話は気が向いた時だけ。「『子どもを見ておいて』と言ったら、ほんとうに見ているだけで、何もしてくれない」とぼやいている女性もいました。
昔に比べて男女差別が減っているのは教育現場では実感します。明治時代じゃあるまいし、「女は大学なんて行かなくていい」などという人はまずみかけません(ゼロではないでしょうが)。学校の教員も男女の比率がずいぶん変化してきて、女性が相当数いるようになりました。大学の教員を採用するとき、男女平等の観点から、「同じような評価のできる人が二人(男性と女性)いた場合は女性を採用します」と決めているところもあります。
ああそれなのに、それなのに、WEF(世界経済フォーラム)が6月に発表した今年のジェンダーギャップ指数は悲しい結果でした。
首相が女性で閣僚や議員も女性が4割以上を占めるという

    アイスランド

が最高で(この発表が始まって以来ずっと第1位)、そのあとはノルウェー、フィンランドと、北欧の国が続きます。さらにアーダーンさんが首相だった(今年の1月に退任)ニュージーランドを挟んで第5位も北欧のスウェーデン。
G7諸国ではドイツの第6位が最高で、アメリカは43位でした。そして日本ときたら、韓国(105位)や中華人民共和国(107位)より低くて、146か国中

    125位

だったそうです。もちろんG7では最下位。特に政治分野だけに関して言うなら、今なお女性首相が一人もおらず、閣僚や議員の女性の比率は低いことが大きく影響して138位(ほぼ最下位)なのだとか。
全体の最下位は相変わらずアフガニスタンでしたが、だからと言って「アフガンは残念な国だな」などと他人事の方に思ってはいけないのですね。
報道の自由度ではやはりノルウェー、アイルランド、デンマーク、スウェーデン、フィンランドという北欧諸国が上位に入ります。G7で最高なのはカナダの15位、次いでドイツの21位、フランスの24位、イギリスの26位、イタリアの41位、アメリカの45位と続いて、日本はやはり最下位の68位。
全体の最下位は180位の北朝鮮(179位は中華人民共和国)ですが、これはいくらなんでも参考になりません。
日本はあたかも自由な国であるかのように自称してはいると思うのですが、こういうランキングを見せられるとまったく話にならないほどひどいのが実情だとわかります。
政治の世界を見渡すと、80歳を過ぎたおじいさんたちが相変わらず「実力者」とかいって大きな顔をしていて、その人たちに「後見人」になってもらった人が首相の地位に就くという、まことにばかばかしいことを続けています。
この小さな島国で内向きになっているだけでは「井戸の鮒ぢやといふたとへがある」と高師直さんにからかわれそうです。
閉塞した今の状況では目先のことしか考えられない人が多すぎて今にも倒れてしまいそうです。私の知っているどこかの大学も同じだな、と情けない気持ちになります。

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迎駕籠死期茜染(10) 

小梅は不足していた三十両の金を自らの身体を売ることで用意し、由兵衛は小梅と長吉の姉弟に救われる結果となるのです。あとは最後まで激しいほどの愁嘆場です。そして、冒頭でこの家に来ていた由兵衛の伯母も登場し、五段続きなら三段目にあたる悲劇的な段が幕を下ろすのです。

小梅は「長吉はもう死んでしまいましたか。息があるなら会わせてください」と言って泣き出します。由兵衛は「刀を取り返したら弟の仇だから、存分にしてくれ」と言います。小梅は「あなたにとってご主人なら、私にとってもご主人。その大事に及んだ今夜ですから、私だってほしいと思った七十両を取るのは無理もないと思います。でも、殺してまでとは・・。せめて死に目に会いたいのです」。そういって小梅は長吉に駆け寄り、「さぞ憎かろうが、よく聞いておくれ。先ほど話した刀が他人に渡るとお国のご主人ご一家がどうなられるか。お前が死んでこの金が御用に立つと多くの命が助かる。仏も及ばぬ慈悲なのですよ。そう思ってお念仏を申しておくれ」と勧め嘆くと、長吉が目を開き、「私は切られなくても死なねばならないわけがあるのです。姉さんが瘦せたのも金ゆえと聞いて、何とかしたいと思って、この金は盗んできたのです。すぐに差し上げようと思ったのですが、親方のものは粗末にするなとご意見なさったので差し上げますといえなかったのです。姉さんに孝行したくても丁稚のうちは自由が利かず、盗んでなりとも苦難を助けて、そのあとすぐに小橋(おばせ)の

    野中の井戸

に身を投げようと死に場所まで決めてきたのです」と語ります。小梅は身も世もなく「両親に別れてから私もお前も苦労したが、あとこれくらいで年季が明ける、歳はいくつになったと数えていたのに、この姉の夫がお前を殺すなんて」と泣き口説きます。由兵衛も「こうなることは因縁だ。私もすぐに縄目の恥を受けることになろう。すぐにお前の跡を追って、礼は冥途でゆっくりとするぞ」と詫びます。長吉は由兵衛に「姉のことを頼みます」と言って懐の金を投げだして息絶えるのです。
由兵衛が「長吉の亡骸を隠さねばならない」というと、小梅もしかたなく「それなら、自分の死に場所を見てきたというのですから、野中の井戸に葬ってください。私も野辺送りして島の内の木幡屋に三年の憂き勤めに出ます」と答えました。そして押入れから「けっこはっこ(結構八講。とてもすばらしいこと)」の下帷子を取り出して「この子に着せようと思っていたのに、経帷子になってしまうとは」と泣きながら着せてやります。由兵衛も渋紙を出して包んでやり、小梅とともになおも嘆いています。小梅は、こうしてとやかく歎いていてもし夜が明けたら長吉の心が無足(無駄)になるから、と言いつつ、もつれ足のまま野辺送りに出ようとします。そこに家の奥から

    「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

という声が聞こえてきます。小梅が「伯母様がおいででした」というので由兵衛が立ち寄ると伯母が「さっきからここですべて話は聞きました。今夜のことは武士の奉公をしたことになる。あなたがた夫婦の心は格別です。また、長吉とやらの志は、姉を思い、その夫を思い、その主人を思うもの。このうえは由兵衛よ、江戸へでも長崎へでも行って元気でいておくれ。野江や飛田(どちらも仕置き場=刑場があった)に送られて逆さまな回向をさせてくれるな」と言って泣き出します。死なねばならない由兵衛、勤めに出る小梅、逆さまの回向をすることになると知らずにいる老いた伯母。それぞれの思いを抱きながら阿弥陀仏を頼んでいます。

『迎駕籠死期茜染』は、このあと下の巻「芝居側」に続きます。

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迎駕籠死期茜染(9) 

「聚楽町」の続きです。
まだ幼い子を殺さねばならなくなる、という切羽詰まった事情に陥るのは『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」も同じですが、そこでも夫は「切る」と決め、妻は理屈ではない情ゆえにためらいを見せます。しかし子どもはすでに覚悟している、つまり夫婦の上を行っていることになるのです。これとよく似た状況に陥ったのが由兵衛と小梅夫婦です。
もともとこの話では長吉は百両を持っていることになっていたのですが、この『迎駕籠死期茜染』では「七十両」としており、これは作者の新たな工夫でした。残る三十両はどうするのか。それについてのもうひとつのはらはらする話を付け加えたのですね。

小梅が夫の戻りが遅いのを案じていると、夫が帰ってきました。小梅は急いで「あなたが留守の間に勝次郎様が『明日中に刀を受けだす人がある』とあなたに知らせにいらっしゃいました。勝次郎様はお吉様のところにお知らせに行かれました」と伝えます。由兵衛は途方にくれますが、小梅が「あの刀はもともと盗品ですから、お上に訴えれば当分はお金の心配はしなくてもいいのでは」と言います。由兵衛は、「置き主は一六屋の本八と古手屋の三婦と分かっているが、三婦が伊予まで行って盗んできたとは思えない。もう一人犯人がいるはずだ。今ここで公にしたらその犯人を詮議する手段を失う。まず百両の金をこしらえて刀をこちらに取り戻せば詮議はいつでもできるのだが、その金の才覚をして取り戻さなければこの由兵衛の忠義が立たない。腹切ることは簡単だが、お家は断絶になる。それが無念だ」と涙ぐみます。そして小梅が「私も先ほど長吉が来て為替の金七十両を見せられた時は欲しくてなりませんでした」というと、由兵衛は

    「長吉はもう帰ったのか」

と問い、今夜はこちらに泊まると聞くと「今夜は思案してどうにもならない場合はお前の言うとおりにしよう」と何やら思うところがあるような言い方をします。由兵衛は酒を飲んで寝ようといい、小梅はそれなら買ってくると家を出ます。そのとき小梅は「刀の金は百両ですね」と意味ありげに念を押します。
後に残った由兵衛は心を決めています。掛け金をかけて押入れの脇差を懐に隠し、猫なで声で長吉を呼び出します。そして金を確認したうえで刀を抜き放しました。そのとき小梅が帰ってきて戸を叩いて「開けて」と言います。そして長吉が開けに行ったその後ろから由兵衛は切りつけました。長吉が倒れる音が胸にこたえた小梅は戸を激しくゆすると掛け金が外れます。由兵衛は慌てて染め物を長吉にかぶせますが、小梅と向き合うと

    歯の根も合わない

ほど狼狽します。由兵衛の差し出す茶碗に小梅が徳利を傾けるとばらばらと一分の金が出てきました。由兵衛は驚いてこの金の意味を問うと、小梅は「七十両では足らないと思って、肝煎殿のところに行って島之内の木幡屋に勤め奉公することにして一分で三十両もらいました」と言うのです。

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迎駕籠死期茜染(8) 

中の巻の切場は「聚楽町」です。この段が今もしばしば上演される『迎駕籠野中井戸』「聚楽町」に当たります。ほかの段は上演されないため、「野中の井戸」に限定するようなタイトルにしたのかもしれません。現行の上演のものに比べますと、中味が若干違っています。というのも、原文のままだと何者なのかわからない人物も出てきますし、この段だけを上演するなら登場させなくてもよい(むしろその方が自然に見える)のです。しかし話の筋は同じで、『迎駕籠死期茜染』「聚楽町」は『迎駕籠野中井戸』「聚楽町」と同じと言ってよいと思います。
以下、あらすじです。

梅谷渋(うめやしぶ)を商う由兵衛は商売で外回りをしていて、家には妻の小梅が仕事をしています。そこに由兵衛の伯母(河内屋女房)が寺参りにかこつけて「小梅さん、通りかかったので足休めにお邪魔します」とやって来ます。小梅は「由兵衛さんは今仕事に出ていて私はしてもしなくてもいいことをしているだけですからお茶でも差し上げましょう」と愛想よく言います。伯母はお供の下男に「日暮れに提灯を持って迎えに来い」といって帰らせ、小梅に話しを始めます。「由兵衛はお吉という妾に狂っているそうな。道理で、いつぞやは私に百両の金を無心してきた。そんな金はないと言ったら練気者(ねれけもの。ずるい人)らしくしおしおとして帰ろうとするので、つい銀二百目を渡してやった。ところがその金を道に落として、どういう因果かうちの親仁様が拾ってまたそれをもらうというありさま。そのときに性根を誰に奪われたのか気がついた。

    『悋気せぬ女と酢のきかぬ鱠は
        今の世の廃りもの』


というように、はじかみか生姜くらいの辛みを持つ方がよいぞ」。小梅は「夫に限って妾狂いなどあるはずがありません」と言うのですが、伯母は信じずに「由兵衛が戻るまで寝て待っているから枕と一間を借ります」と言って障子の奥に入っていきます。
そこにあわてたようすで勝次郎が来ます。小梅はその慌てた様子に驚きわけを聞きます。勝次郎は「ご存じのように藤四郎の刀が見つかりましたが、明日中に請け取る人があるとのことです。そのことを由兵衛殿に伝えようと思ってきたのです」と伝え、「夫はもうすぐ帰ります。また思案してくれるでしょうから、あまり心配しないように」という小梅に対して「新地のお吉のところに行って話してきます」と去っていきます。
入相の鐘が鳴ります。そこに小梅の弟の長吉が来ます。長吉は姉の顔を見て「痩せたようですが、何か苦になることがあるのですか」と案じます。小梅は「以前おまえにも話した大事な刀がお金を渡さないと手に入りません。他人の手に渡すようなことになっては一分が立たない、と私も夫も辛苦を味わっています。ほんとうに主人ほど大事なものはありません。お前も奉公を大事に思って親方様のものは塵ひとつ粗末にしてはいけません。さあお使いの戻りなら早く帰ってお返事しなさい」意見をしたうえで帰そうとします。長吉は「私は平野へ為替の金を受け取りに行って、日が暮れたらこちらに泊まってもよいと番頭さんに言われています。お金もこのように持っています」と言って首にかけた小財布をおろすと、小梅は驚き、「このお金はどれほどあるの」と聞くと

    「小判で七十両」

とのことです。小梅は、あるところにはあるものだ、子どもにこんなものを持たせて平気でいられる身代になってみたい、と思います。気を取り直した小梅は食事を用意してやろうといいますが、長吉は自分ですると言って奥に入ります。

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野中観音 

なかなか進まないのですが、『迎駕籠死期茜染』を読んでいます。この作品が歌舞伎ではなく浄瑠璃として今わずかに残っているのは、明日からあらすじを書く「聚楽町」の段です。文楽ではとんと上演がありませんが、女義さんが時々演奏されているようです。
この中で梅の由兵衛の妻小梅の弟である丁稚の長吉が姉夫婦に金を工面しようとして奉公先から七十両を盗んできたと告白します。義兄由兵衛に斬られた後のことです。そして長吉は、姉にその金を渡して、自分は自害するつもりであったことも伝えるのです。
彼が考えた自害の方法は「こばせ」の

    野中の井戸

に身を投げることでした。
恥ずかしながら、私はこの「野中」というのがどこなのかも「こばせ」という地名も知らなかったのです。この「野中」は、たしかに野原の中なのですが、ある場所を指していることがやっとわかりました。大阪市民でも府民でもない私はこの地域の地理には詳しくないことを改めて思い知りました。
いろいろな図書館のデジタルアーカイブで公開されているのですが、安政2(1855)刊の

    浪華の賑ひ

に「野中観音」というページがあります。私は早稲田大学図書館のもので見ました。そこにはこういう説明があります。( )内は原文に付されたルビです。

玉造(たまつくり)小橋の辺(ほとり)より
天王寺(てんわうじ)までの間(あひだ)凡(すべ)て
一圓(いちゑん)の桃畑(もヽばたけ)なれば此(この)野中(のなか)
といへる地(ち)は全(まつた)く桃(もヽ)の
最中(たヾなか)にて紅(くれな)ひ匂(にほ)ふ花(はな)
の盛(さか)りには天(てん)も酔(よへ)る
光景(くはうけい)なり(以下略)

桃畑が続くきれいなところだったようですね。野中観音は、大阪市天王寺区小橋町(おばせちょう)のあたり、産湯の清水の西にあった観音です。産湯の清水は、今は小橋公園の中の産湯稲荷(宇迦之御魂神、下照比売命、大小橋命を祀る)として知られます。小佐田定雄さん作の新作落語「産湯狐」の舞台にもなっています。鶴橋駅と上本町駅の間くらいです。
野中観音(本尊十一面観音)は「難波寺(なにわじ)」が正式の名ですが、1924年に大阪電気軌道(今の近畿日本鉄道)の本社建設のために立ち退きとなって、今は大阪市生野区巽北に移転しています。
今度文楽劇場のある日本橋に行くときは、環状線で鶴橋まで行って、上本町、谷町九丁目、日本橋というコースを歩いてみようかと思っています。

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憲法を恣意的に 

6月21日に国会が終わりました。
私は予算委員会のテレビ中継も観ませんし、国会の議論はせいぜい新聞でおさらいする程度です。この国会でどのような法が制定されたのかもほとんど知りません。きっと立派な法ができたのだろう、と眉に唾を付けながら理解しておきます。
国会の終盤になると、野党は内閣不信任案を提出することがあります(今回もありました)。これが可決されると内閣総辞職か衆議院の解散がおこなわれます。しかし何と言っても数の少ない野党のすることですからすぐに否決されるのです。それでも、野党として今の政府はおかしいぞということを明確にするためには必要なことだとも言われます。一方、形式的に「野党も頑張ってます」と言いたいだけだから意味がない、という人もいます。これに限らず国会の形骸化は至る所に見られ、前例をあまり顧慮しない若い世代から見ると「このおじさんおばさんたち、何やってんの?」ということになりかねません。
こういうことに輪をかけてびっくりしたのは、与党の人が「不信任案を出したら解散する大義がある」と言っていたことです。
世に言う

    七条解散

というのを私はまったく正しいと思いません。いつの間にか「解散は首相の専権事項」という言葉があたりまえのようになりましたが、どこからそんな考えが出てくるのか、不思議ですらあります。憲法七条は「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」として、その三号に「衆議院を解散すること」を挙げています。この条文のどこから「首相の専権」という話になるのか、憲法学者の講義を聴いてみたいです。
素人が勝手なことを書きますが、私は時の政権担当者が自分の都合のために憲法を恣意的に解釈しているとしか思えないのです。こんなことがまかり通るものなのでしょうか。
与党の人間もうしろめたいことがあるからか、

    「大義」

を求めようとして、先述の「不信任案提出が大義になる」という、荒唐無稽な理屈をひねり出すのだろうと思います。もし「専権事項」なら「大義」なんてそもそも必要ないことです。「大義」を野党の不信任案に求めるのは「あいつらのしわざだ」ということでしょう。
野党の「承認欲求」のような不信任案提出も旧態依然かも知れませんが、ときの与党(民主党政権を含む)が勝手に解散するのは許されないことだとすら私は思います。
・・って、一人で怒っていてもしかたがないかもしれません。どこかの新聞社が大キャンペーンでも張ってくれないものかと思います。

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