2023年8,9月文楽東京公演初日
初代国立小劇場での最後の文楽公演が本日初日を迎えます。
私はこの時期の公演というとつい五代目豊竹呂太夫さん(2000年9月9日逝去)と初代吉田玉男師匠(2006年9月24日逝去)が亡くなった時のことを思ってしまいます。どちらも大好きな技芸員さんでしたのでショックでした。特に呂太夫さんはまだお若かったのでほんとうに驚きました。
さて、今回の公演はいつもより長く、9月24日までの公演です。
第1部(10時45分開演)
菅原伝授手習鑑
(車曳、茶筅酒、喧嘩、訴訟、桜丸切腹、天拝山)
第2部(15時開演)
寿式三番叟
菅原伝授手習鑑
(北嵯峨、寺入り、寺子屋、大内天変)
第3部(19時開演)
曽根崎心中(生玉、天満屋、天神森)
というプログラムです。
いつの間にか1等席が8,000円になっていてびっくりです。『曾根崎心中』だけでも8,000円ですか・・。
桜丸切腹は千歳・富助、寺子屋は呂・清介から呂勢・清治、天満屋は錣・藤蔵。三番叟の床は、咲(翁)、呂(千歳)、錣(三番叟)、千歳(三番叟)と、切語りが並ぶ予定でした。しかしやはり咲太夫さんはお休みで、呂太夫の翁、錣太夫の千歳、三番叟が千歳・織ということになりました。
和生はおはつ、勘十郎は白太夫、玉男は菅丞相と徳兵衛、簔二郎が千代、勘彌が桜丸、玉助が松王丸。
このメンバーなら「桜丸切腹」を観てみたいです。
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- [2023/08/31 00:00]
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時間との闘い
私は作家ではありませんので、お金になるものを書くことはほとんどありません。あるとしたら自分にとってはほとんど役に立たない義務的な原稿が大半でした。呂太夫さんの本は印税がありましたが、トータルすると完全な赤字でした(笑)。それならなぜ書くのかというと、これはもう本能のようなもので、書かなくなったら人生はそれで終わりだと思っているくらいなのです。中味はたいしたことがなくても、書くことにこそ意味があると認識しているくらいで、間違って(笑)私の文章を読んでくださる方がいらっしゃったら、誠に申し訳ない限りです。このブログの文章だって同じで、しょっちゅう読んでくださる方には「悪文御免」のお詫びしなければなりません。
この8月はいくつもの締切があり、今なお時間と格闘して、書いては調べ、調べては書く作業を繰り返しています。計画的に書かなければ全部が途中で終わってしまう「共倒れ」になりかねませんので、まずは短いものから書いていきました。
連載を始めてもう7年以上、今回が31回目となる
『源氏物語』
の雑文は、少人数ではありますが読んでくださる方がいらっしゃるようです。これは400字詰め原稿用紙に換算すると10枚ちょっとの分量で、あまり長いものではありません。それでもトータルでは300枚以上ですから、ちょっとした本1冊分で、偉い先生ならこのあたりで単行本にしましょうと編集者さんから言われるところでしょう。
今回は「花散里」巻という、きわめて短い巻について書きました。岩波書店の『新日本古典文学大系・源氏物語』ならわずか4ページで終わってしまう巻です。
ストーリー上はなくてもよさそうなのに、長編物語の構成としてはやはり重要な巻だと思います。そのあたりを夏の代表的な景物である「ほととぎす」と「橘」を話題にしながら書いてみました。
短歌も詠まねばなりません。『源氏物語』はネタになる作品がありますのであとは私がそれをどう受け止めたかを書けばいいので半分は紫式部お姉さんが書いてくれたようなものです。しかし短歌は何もないところから作っていきますので、もの(それは自然の場合も、自分の心の内奥の場合もあります)を見つめてそこから自分の心を震わせるものを見出して言葉を選びに選んで、リズムを大事にして形を整えます。詠み慣れない者にとっては
一筋縄ではいかない
のです。しかしこれも締切には何とか間に合いました。
まだこのあとに2つの大物が待っています。本当に書けるのか、はなはだ怪しいです。学生時代に、やはり締切に苦しんでいらした恩師が、3日で1本の論文を書かれたという話をなさっていました。しかるべきすぐれた雑誌に載せられたもので、すごいものだと思いました。でも、3日で40枚くらいなら1日13枚だから、できるかも、と思ったものです。いやいや何の、本気できちんとしたものを書こうと思ったらとてもそんなことはできません。今になってやっと恩師の苦労がわかったような気がします。
さて、とにかく締め切りまでラストスパートです。なりふりかまわず頑張ります。
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- [2023/08/30 00:00]
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寡作
60代にして亡くなった歌人の河野裕子さんは多作だったそうです。多くの歌を詠んでは捨てていくのだそうです。そのお捨てになった歌を私に下さい、と言いたいくらいなのですが(笑)、少し大げさに言いますと「呼吸をするように歌を詠む」という感じがします。やはり河野さんは根っからの歌人、歌の申し子とでも言うべき方なのでしょう。
平安時代の歌人、和泉式部も口をついて歌が出てくるタイプの人だったようです。紫式部は和泉式部の詠みぶりについて「口に任せたることどもに、必ずをかしきひとふしの、目にとまる詠み添へはべり」「口にいと歌も詠まるるなめり」(いずれも『紫式部日記』)と言っています。ただし紫式部は和泉式部のことを「はづかしげの歌詠みとはおぼえはべらず(こちらが気後れするほどの歌人だとは思われません)」(同)とも評しているのですが。
私も以前は
日記をつけるように
短歌を詠んでいたことがあります。そのときのノートはもうどこかに行ってしまいましたのでどれほどの内容だったのかはわかりませんが、はっきりしているのはせいぜい自己満足のレベルだったことです。
歌の数は目安として一年に365首と定めていましたので、半分以上捨てても数年に1冊歌集が出せそうな数ではあります。もちろん当時はそんなつもりはありませんでしたし、ノートに書いてためているだけでした。
素人の歌人でも、歌集を持っている人は少なくありません。短歌の出版社がいくらかありますが、そういうところの経営が成り立っているのは、ひとつにはその素人の
自費出版
が理由だろうと思います。やはり歌集を持ってこそ歌詠み、という面はあると思います。
翻って現在の私は日常的に短歌を詠むことができず、「寡作」なのです。短歌が好きと言いながらなさけない限りです。自己満足レベルのものであってもある程度は多作する方がいいと私も思っています。
もう残された時間もあまりありませんし(涙)、今さら何千首もの短歌が詠めるとは思いませんが、他人から「そろそろ歌集を出したらどう?」と言っていただけるくらいにはなりたいと思います。もっとも、自費出版になってしまいますので、神の本なら最近利用する人が増えているPOD(プリント・オン・デマンド)にせざるを得ないだろうと思います。いや、そんなことを考える前に、早く歌を詠まねばなりません。
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- [2023/08/29 00:00]
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弥縫策
先にゴールを決めておいてあとからそれを目指して努力することは私もよくあることです。「○月○日までにこれを書く」と決めておいて、間に合いそうになかったらもう眼の色を変えて必死に追い込みを掛けます。これは物事を進める一つのやり方だと思います。
ただ、個人の問題ならそれでいいのですが、権力を持つ者が制度を大きく変えるようなことについては、それによってどんな問題が起きるかをあらかじめチェックしておかなければなりません。さもないと、結局弱者に迷惑をかけてしまうことになりかねないからです。
保険証を廃止するかどうかで政府がまたドタバタしています。個人番号のカードを発行することに躍起になったあと、銀行口座や免許証、そして健康保険証などと
ひもづけ
をしようというのです。中でも健康保険証は国民誰もが持つことになっているもので、それと任意取得のはずのカードと結びつけるのは難しい面があります。保険証を廃止してカードに一本化するということは、任意取得ではなくなることを意味するでしょう。
しかし担当大臣が来年秋に廃止すると明言してしまって、あとにひけなくなってしまいました。
その後もいろんな問題が指摘されるようになり、特に施設に入居している高齢者の問題では健康保険証を施設が管理することもあるだけに扱いが難しいことが浮き彫りになりました。若い世代にとっては案外便利で使い勝手がよく、しかもカードを作るとポイントまでもらえるという、税金による
ごほうび
までついていたため、これでいいじゃないかという意見も少なくありません。しかしそのニンジン作戦にも乗れなかった人たちも少なくありません。カード保険証を使うなと言っているわけではなく、これまでの保険証との併用でいいじゃないか、という意見も頷けるのです。
にもかかわらず政府は大臣の顔を立てるためか、自分たちのすることはすべて正しいと思っているのか、改める姿勢を見せません。とにかく「廃止」を撤回することだけは避けたいのでしょう。そのためなら「資格証明書を出しましょう」「1年だけ有効にしましょう」「いや5年でどうでしょう」と、弥縫策ばかり出してくるようです。
「弥縫策」という言葉の類語を調べてみると、汚い言葉のオンパレードです。
試みに列挙してみると、「一時しのぎ」「姑息」「その場逃れ」「糊塗」「泥縄」「場当たり」「苦し紛れ」「陋劣」「狡(こす)っ辛い」「卑劣」「狭量」などと出てきたのです。
政府に限りません。とにかく、自分の間違いを認めたくない輩は、何とか目先をごまかそうとするばかりです。それが恥の上塗りになっていることに気がつかないのが、見ていてなさけなくなってくるくらいです。
「弥縫策」の類語を調べていくと「けつの穴が小さい」というのもありました。いささか品のない言葉ではありますが、なんだかこういう「権力者たち」のことを言っているように見えてしまいました。
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- [2023/08/28 00:00]
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正倉院の宝物
いつのころだったか、正倉院にある瑠璃坏(るりのつき)を写真で初めて観た時には、その美しさに驚きました。簡単にいうと銀の脚のついたガラスのコップ(笑)なのですが、そういってしまうと身もふたもないのです。
22個の環状の装飾を持つあのコバルトブルーの美しさは何ものにも代えがたいほどで、私もこれまでに2度実物を観ていますが、ほんとうにしびれるような感動を受けます。コバルトと酸化鉄で発色した青には、吸い込まれそうな魅力があります。最近では奈良の幼稚園に文楽人形劇の稽古に行ったとき、帰りに立ち寄ったのですが、調べてみるとどうやら
2012年
のことだったようです。11年も前なのですね。
その前に見たのは学生のころで、まだ何も分かっていない未熟な頃でしたから、感動はおそらく二度目の方が強かったと思います。
この一点だけを展示している部屋があって、その周りには二重に観覧者が目を凝らしているのです。すぐ近くで観たい人はかなり並んで前列で観ます。私はからだが大きいものですから、後ろからでもよく見えますので、並ぶこともなく後列でゆっくり観ました。照明が当てられていますが、あたかもこのコップから光が出ているようでもありました。
フェルメールのウルトラマリンン(ラピスラズリ)、北斎のベロ藍も美しいですが、工芸品では私にとってはピカイチの青です。
映画『かぐや姫の物語』にはチラッとこの瑠璃坏らしきものが姿を見せます。帝がかぐや姫を連れてくるように命じたのに、断られた時の場面です。清涼殿の中で帝は倚子(いし)に腰を下ろしていますが、この場面には正倉院の宝物が調度品として描かれているようです。
帝の背後には「父母不愛不孝之子 明君不納不益之臣(父母は親孝行でない子を愛さない。すぐれた君主は役に立たない家来を用いない)」などと書かれた屏風が見えますが、これは正倉院の
鳥毛帖成文書屏風
と思われます。そして高机に置かれたものは白瑠璃瓶(はくるりのへい)とあの瑠璃坏に見えるのです。はっきりとはわかりませんが、その高机や帝の座っている倚子も正倉院のものを写されたのかもしれません(ただし、清涼殿に倚子はありました)。
倚子というのは中国風のもので、かなりきちんとした儀式のときに帝が座るものでした。高机もそうだと思います。映画ではずいぶんくつろいでいて、大会社の社長さんがブランデーでも舐めているかのような(笑)描き方になっています。そういう意味では不正確かもしれませんが、高畑監督が清涼殿で悠然としている帝を描こうとした際にこれらの宝物を用いられたのは現代人によく伝わる雰囲気づくりにとても役立っているように思います。
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- [2023/08/27 00:00]
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怒り
動物を見ていると、喜怒哀楽の表情の乏しさは人間の比ではないと思います。陽気な人間なら大声で笑いますし、若い女の子なんて、人をペチペチと叩きながら(笑)ケラケラと声を挙げます。泣く時も目を真っ赤にして肩を震わせて、激しい表情をすることが少なくありません。動物の場合はめったに涙は見せませんし、ケラケラとは笑いません。もちろん、しっぽを振るとか丸めるとか、感情の表出はありますが、顔だけを問題にした場合はあまり大きな変化はないと思うのです。
唯一動物の感情ではっきりしているのは「怒り」だと思います。牙をむく、いつもとは違った声を出す、自分を大きく見せる、目を怒らせる、実に明確です。ただ、狩をするときは、怒っているというよりは相手をしとめるために威嚇しているともいえるでしょうが。戦いの顔は怒りの顔。怒りがあるから戦うのでしょう。戦争をしている国の首領の顔はどれもこれも怒りに満ちて醜いものだと思います。
私は長い教員生活の中で、少ないとはいえ、怒ったことはもちろんあります。ときには感情に任せてしまったこともあって、今思うとそのときの学生さんには申しわけないくらいです。ただ、教員生活が終わりに近づくにつれて怒る回数は減ったと思います。年齢を重ねることで
人間が丸くなった
という事情もあるかもしれませんが、怒る必要がなくなったことも原因のように思います。国文科の学生さん相手のときは、どうしても専門的なことも話したくなって、学生さんを悩ませたかもしれないのです。すると彼女たちはさっそくおしゃべりを始める、それをやめない、というわけで怒ってしまったのです。ところがそれ以後は専門外の人に話をするので、徹底的に
「わかりやすく」
ということを意識するようになったのが奏功した可能性があります。そのためには、映像を用い、紙芝居も用い、いろんな手段を工夫して飽きないようにしてきました。こういうやりかたは昔の大学ならあり得なかったかもしれません。大先生が難しい話をしてこそ大学である、というのはたしかに事実だろうと思います。しかし、私の場合は大先生ではない(笑)のでむしろ簡単な話の方が得意だったのです。それに加えて根っからのお笑い好き。人を笑わせることには労を惜しまないところがあります。逆に人を怒らせたり悲しませたりするのは苦手。
それだけに、本気で怒りたくなる場合のさじ加減というのがあまりよくわかっていません。実は今でも本気で怒りたくなることがあると、自制できない感覚に陥ります。それを何とか抑えながら生きるのもしんどい話です。
これがテレビドラマであれば「エライ人」を怒鳴りつけてあいてを平伏させるのかもしれませんが、タヌキだらけの世の中ではなかなかそうもいかないのが現実です。
どうも長生きできそうにありません(笑)。
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- [2023/08/26 00:00]
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自ら悟るもの
このところ、下手な短歌を詠んでいます。いや、実際は小学生くらいから5とか7という音の数に興味があって、川柳のような俳句のようなものは作っていました。しかしどうも俳句では自分の思いを表現できないような気がして、いつしか短歌の字数に心が引かれるようになりました。中学生の時はほとんど「狂歌」というべきふざけた内容の三十一文字を作っていました。この時期が、今の私の生き方にとって大きなテーマである「笑い」と「歌」の下地となっていたことはおそらく間違いないでしょう。落語を聞いてその真似をして語ったりしていたのもこの時期が一番頻繁だったと思います。
高校生になって
『伊勢物語』
と出会ったことも今につながっていることは間違いなく、この中に書かれている和歌にも大きな関心を持つようになり、それを模倣した歌を作りました。
これらの経験は浄瑠璃作りにも大きな役割を果たしていると思います。
現代短歌のきらめく星の中でもひときわ美しく感じられる人に河野裕子さん(1946~2010)がいらっしゃいます。現代短歌に疎い私でも、河野さんの人口に膾炙するほどの歌は知っているように思います。
その河野さんはエッセイ(というよりは短編論文のようなもの)もよく書かれ、内容の濃いものとしていくらか読んでいます。亡くなったあとにまとめられたもののひとつに『どこでもないところで』(2014年刊。中央公論新社)があります。この中に、短歌雑誌の『短歌』(角川文化振興財団)の1982年10月に掲載された「結句の責任」という小論文があります。この中で、河野さんが藤原定家の
『近代秀歌』
の一節の「眼をさまされる思いをする一行」を紹介していらっしゃいます。定家の父藤原俊成の言葉なのですが、それは「歌は、広く見、遠く聞く道にあらず。心より出でて自ら悟るものなり」というものです。「短歌というのは広く、あるいは遥かな時代遠くを勉強して詠むものではない。自分の心が求めるものから湧き出て自ら悟るものなのだ」ということでしょう。河野さんは「歌一首の中での自己の要求、問いかけには、誰も肩がわりできない、自分だけがその問題について考え、判断し、答えを選ぶ」という点においてこれがとてもむずかしいことだと再認識されたようです。
これは短歌を詠むものの心得になると同時に、自分の人生のありようを考えるときに必要なことだろうと思います。言っていること自体は簡単なことで、誰でも言えそうなのですが、その道を究めつつあった俊成の言葉として聞くとあらためてハッとさせられるように思います。
私は大学時代ずっと平安時代の和歌を勉強してきましたので、つい「広く見、遠く聞く」ことに熱心になりがちです。理屈が先走ったものを作り、心から本当に湧き出ている感情が自分でとらえきれないことが多いと思います。
怒りなら怒り、喜びなら喜びをきちんととらえて表現するのは実はなかなか難しいことです。私は今ちょっとしたことで怒りを感じていることがあるのですが、それすらどう表現すればいいのか、迷宮に入ったような気持ちです。感情に任せてしまうのも性急に思え、かといって理論武装しようなどと考え過ぎると逆に自分が縛られるようで、別の袋小路に入ってしまいます。
古人の言葉は時として人生を変えるくらい大きな意味を持つことがありそうです。
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- [2023/08/25 00:00]
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不必要な存在
昭和十六年、というと誰もが太平洋戦争勃発の年、と思われるでしょう。しかしそれより前から世の中は不穏になっていました。谷崎潤一郎の最初の現代語訳『源氏物語』は昭和十四年から十六年にかけて刊行されましたが、皇統の乱れに関わる部分(中宮が天皇以外の男性=天皇の子の光源氏=と密通して男子が生まれ、その子が皇位につく内容)は出版側が自主的に改変するというような時代でした。
宝塚歌劇はその年十二月、つまり開戦の月に大阪北野劇場で公演があって、内海重典さんは「かぐや姫」を提案し(タイトルとしては『宝塚 かぐや姫』)、採用されたのです。「かぐや姫の役は小夜福子さんではどうか」と言ったそうですが、「本人が受けないだろう」と誰もが言うので、内海さんは直接頼みに行ったのです。すると小夜さんに承諾してもらえて、天にも昇る気持ちになった(そりゃ、かぐや姫ですから)そうです。翁に初音麗子(のち礼子)、媼に園井恵子、かぐや姫を取り巻く男たちに佐保美代子、春日野八千代、楠かほるというメンバーだったそうです。
今も宝塚歌劇の終演後に流される曲に
「さよなら皆様」
がありますが、この歌はこの「宝塚 かぐや姫」で月に帰るかぐや姫、つまり小夜福子さんが歌ったものです。もちろん作詞は内海さん。「さよなら皆様 さよならご機嫌よう 楽しい思い出 心に秘めて お別れいたしましょう また逢うその日まで さよなら皆様 さよならご機嫌よう」という歌です。
太平洋戦争が始まると悲しいかな、宝塚のレヴューも『忠霊』『軍艦旗征くところ』などのタイトルになっていきます。ただし、翌年には、こんな時勢にもかかわらず、内海さんはアメリカの漫画をもとにした『ピノチオ』を上演しています。春日野八千代、園井恵子、月丘夢路らの出演でした。
戦局は深刻になり、昭和十九年には「大都市の高級興行場」が閉鎖されることになり、内海さんがそのとき公演の稽古をしていた東京宝塚劇場も対象になるという情報が届きました。ここはダメでも宝塚は「大都市」ではないので大丈夫だろう、と思ったそうですが、あにはからんや、宝塚大劇場も閉鎖の憂き目を見ることになったのです。その日、東宝で稽古を見ていた大政翼賛会の人物が生徒たちを客席に下ろしたうえで「宝塚は今日の戦争には
不必要な存在
です」と言ったそうです。よくもこんなことを。ほんとうに大切なものを知らない権力者の醜さだと思います。
舞台に建てないだけでなく、戦争で命を奪われた生徒さんもいらっしゃいました。結婚するために退団した糸井しだれさんという方は、花嫁修業中に空襲に遭い、焼夷弾のために亡くなったそうです。そして内海さんにとってもっとも悲劇的な出来事だったのは園井恵子さんの被爆死でした。
内海さんは昭和十九年十二月に宝塚ホテル(もちろん宝塚南口にあった旧宝塚ホテル)で、元歌劇団員の加古まち子さんと結婚されました。この方は園井さんをたいへん尊敬していたのだそうです。内海さんは新婚生活を神戸市の六甲で送られたのですがが、その近所に神戸製鋼の部長さんの奥様で、中井さんという宝塚のファンだった方がいらっしゃいました。そこに移動演劇の桜隊に参加して広島にいた園井さんが逃げてきたのは原子爆弾投下の二日後、昭和二十年八月八日のことでした。被曝してひどい身なりだったそうです。内海さんの奥様はすぐに会いに行き、内海さんも渡していなかった宝塚歌劇団の退職金を持って行きました。園井さんはそれをとても喜ばれたとか。しかし、園井さんはまもなく重体となって寝たきりになりました。真夏の暑い時期に高熱を出しているのですから、冷やす氷が欲しいのです。そこで内海夫人が走り回って氷を調達したといいます。そのかいもなく園井さんは二十一日に亡くなります。亡骸は内海さんたちによって大八車で火葬場まで運ばれたそうです。
人間が人間らしく生きるための文化にとって戦争は不必要な存在です。
内海重典『私が愛した宝塚歌劇―演出家として生きた六十年』(阪急電鉄株式会社コミュニケーション事業部発行。2000年3月)を読んで少しその記事を紹介してみました。
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- [2023/08/24 00:00]
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オクラと朝顔
この2年間、イチゴ栽培をしてきました。別に重労働ではないのですが、放っておけばいいという植物ではありません。肥料を与えるのはさほど面倒ではない(回数は少ない)のですが、それ以外にときどき世話をする必要があります。冬の初めに花が咲くことがありますが、それは早めに取ってしまいます。実は生りませんし、成長の妨げにもなるそうです。ランナーも冬の間に伸びるものがありますが、これも切ってしまいます。やはり栄養が花実に行き届かないことを恐れるからです。かわいそうなようではありますが、樹木も剪定することで元気になることがあるように、イチゴが子孫を増やすための手入れだと思って実行しています。
春になったら葉が混んできますので下葉を取ります。風通しが悪く、日当たりも悪くなるからです。花が咲いたら授粉があります。自然に受粉してくれることもありますが、念のために綿棒や筆の先でチョイチョイと撫でてやります。これをすべての花にしてやりますので毎朝新しい花が咲いていないかチェックします。この時期のランナーはやはり切ってしまうのです。徹底して栄養を花実に送ります。収穫のタイミングも難しく、早すぎると硬いですし、遅すぎるとジュクジュクしてしまいます。実が終わったころから、嫌というほど出てくるランナーをそろそろ育て始め、次々に3号(直径9㎝)のポットで受けます。いちいちクリップや爪楊枝で土に固定してやり、その後はこまめに水をやります。特に暑くなってくると土が乾きやすいので枯らせてしまうことがあります(今年もいくつか枯れました)。大事なのは2次株と3次株。これを出来るだけ大きくするように意識して育てます。2次株、3次株に根が張ったら親株から切り離して独立させます。作業ひとつひとつは簡単なのですが、毎日のように様子を見るのが面倒と言えば面倒です。
こうして来年の苗が出来たら、親はお役御免。一年間の感謝を込めながら
廃棄
します。
今、この時点まで来ていて、毎朝水やりをしてあまり暑くならない、風通しの良いところで保護し、秋以降の成長を待っています。
というわけでそれなりに仕事があるのがイチゴ栽培。でも、これくらいのほうが育てがいもあるというものです。
そうこうしているうちに、並行してオクラの種を蒔きました。これもしっかり育つように、ポットである程度成長した時点で深さのある10号(直径30㎝)の野菜鉢に移しました。ところが、ところがです。なかなか成長してくれず、とっくに収穫している時期なのに、まだ葉が6,7枚で背丈も伸びません。この種はいただいたものなので、何としても育てたかったのですが、これはもうダメなのでしょうか。もしだめなら、来年またチャレンジしてみたいと思っています。
もうひとつ、例年私は
朝顔
を育てていたのですが、今年はスペースがなくてパスしてしまいました。もし来年も無事にイチゴが育てられたらまたまた場所がないかもしれません。どこか適当なところがあったらと思うのですが、大邸宅じゃあるまいし、そうはいかないのがつらいところです。
イチゴを削減するか、大邸宅を購入するか、それが疑問だ。
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- [2023/08/23 00:00]
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機織り
今日8月22日は旧暦の七月七日です。つまり本来はこの日が七夕なのです。グレゴリオ暦の7月7日は梅雨の最中ですから、めったに星は見えません。旧暦(太陰太陽暦)は年によって今の暦とのずれがありますが、おおむね8月中旬あたりがその日に当たるのです。この時期はペルセウス座流星群の見える頃で、それとは関係なくても晴れる日が多いので、年に一度の牽牛織女の出会いは叶いやすいと言えるでしょう。
「七夕」を「たなばた」と読むのはもちろん当て字で、「棚機」のことといわれています。『万葉集』には「織女」という文字も出てきて、「たなばたつめ」(棚機つ女。織物をする女)と読んでいます。「つ」は「まつげ」の「つ」と同じで「~の」の意味です。「まつげ」は「目の毛」の意味ですね。
七夕伝説は申すまでもなく中国伝来で、天帝の娘の織女と牽牛が仕事をしなくなったため天帝が二人を離して年に一度だけ逢わせることにした、という今もよく知られる話です。
日本の「たなばたつめ」と
奈良時代
に伝えられたという中国の織女がひとつになって日本風の七夕の行事ができたわけですね。今でもこと座の1等星ベガとわし座の1等星アルタイルは七夕伝説と切り離すことはできないでしょう。
『かぐや姫の物語』の主人公かぐや姫は音楽では琴(きん)が得意でしたが、機織りもうまかったようで、媼の作業場に行っては機を織っていました。
文楽で機織りというと、『蘆屋道満大内鑑』に、姿は見えませんが、葛の葉狐が機を織っている場面があります。機織りの姿が舞台に見えるものには『瓜子姫とあまんじゃく』がありますね。
昔話の
「夕鶴」
や「天人の嫁さま」にもありますが、機織りは難しくてそれだけにすぐれた女性の技芸だったのでしょう。縫物と違って大きな機械を使いますから映画なら映像映えもしますし、なかなか会えない夫(『かぐや姫の物語』なら捨丸?)と離れたときの織女のイメージも重ねられている、というのはうがちすぎかもしれませんが。
翁が帝の求婚を伝えに来たときもかぐや姫は機織りをしていました。そして彼女はにべもなく断り、どうしてもと言われるなら「私は死にます」とまで言うのです。そして厳しい表情で再び機織りを始めるのが何とも印象的です。
媼が機織りをしているときに、かぐや姫は紡錘車を使って糸を紡いでいます。この場面を見ていると『信貴山縁起絵巻』「尼公の巻」に見える町の女性の姿勢によく似ています。あるいはこれをモデルにされたのかもしれません。
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- [2023/08/22 00:00]
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カーネーションの花かご
1970年に開催された大阪府吹田市における日本万国博覧会。私は、あまりよくは覚えていませんが、日本が世界の中でそれなりのことができる国になったのではないか、今後ますます発展して世界の一流国の仲間入りをするのではないかという思いを抱かせたように思います。私もまた、まだ影の部分などわからない年齢でしたから、6400万人を集めた素晴らしい催しだと思っていました。ただ、あの「万国博覧会」という名称はどうにも時代がかっているように思います。今は英語で「World Exposition」とされるようですが、古くは「All Nations」という表現もあったようで、なるほどこれなら「万国」かもしれませんね。なお、ほかにも「International」とか「Universelle(フランス語)」とか、国によっていろいろ言い方があるようです。
あの博覧会の時、開会式の演出をされたのは宝塚歌劇団の
内海重典さん
でした。内海さんはその打ち合わせの場でいろいろアイデアを出されたのですが、万博協会の人たちから「小学校の学芸会」「運動会」などと揶揄されつつ次々に反対意見が出てせっかく「見せ場」になると思って提案したことがどんどん削られていったそうです。内海さんが一歩も二歩も先を行きすぎて、協会のメンバーがついていけなかったのかもしれません。内海さんはさらに、開会式のフィナーレで子どもたちが(昭和)天皇夫妻、皇太子(現上皇)夫妻、三笠宮(崇仁親王)夫妻に花束を手渡すというアイデアを出されました。しかしこれも協会側の理解を得られず、「不可能」「非常識」と一蹴されたそうです。お役人の事なかれ主義というか頭の固さというか、せっかくのお祭りをつまらないものにしてしまいますね。
ところが中には賛同してくれた人もいて、その人が宮内庁に交渉したところ、「皇太子夫妻、三笠宮夫妻には直接手渡ししてもよいが、天皇皇后は侍従が受け取って渡す」ということになったそうです。ただしこれはハプニングとしておこなわれることになっていたそうで、メディアにはこの演出は事前に伝えられていませんでした。花屋さんも大阪の店では情報が漏れてしまうというので内海さんの親しい宝塚歌劇出入りの花屋さんに依頼したそうです。花屋さんもびっくりしたでしょうね。
そして当日、侍従は天皇のそばに立つことはないため、宮内庁からは「机の上に置くように」と指示があったそうです。内海さんは念のために「もし陛下が直接受け取られたらどうしますか」と尋ね、宮内庁側は「それは知ったことではない」と、ハプニング的に許容するような返事があったのです。私なんていっそのこと「手渡しOK」と言えばいいのに、と思うのですが、宮内庁の論理とは相容れないのでしょうね。あくまで「宮内庁はOKとは言っていない」ということにしたいのでしょう。
そして小学生の子どもたちが花を持って行くと、天皇は
直接受け取った
のです。そりゃそうですよ。天皇だって、子どもが目の前まで持ってきているのに、「朕は受け取らぬ。机の上に置くがよい」とは言わないですよ。そのときの天皇の言葉は「ありがとう、ありがとう、ありがとう」だったと内海重典『私が愛した宝塚』(2000年。阪急電鉄コミュニケーション事業部発行)に書かれています。あの人ならそう言いそうですね(笑)。
この時とんでもないアクシデントもありました。三笠宮夫妻に渡すはずのランとカトレアの花かごを、カナダの子どもたちを引率してきた外国人教師が「記念に欲しい」と言って持って行ってしまったのです(どういう神経をしているのでしょうかね)。慌てたのが子どもに出て行く合図をする役割の人。困ってしまって、たまたまそこにあった花かごを持って行くように指示、三笠宮夫妻にはカーネーションの花かごが渡されて事なきを得たのです。このアクシデントのため、少しタイミングが遅れて、その遅れがまたいかにもハプニング的でよかったのだとか。宮内庁の役人も性懲りもなく(笑)「大変良いハプニング」と納得したそうです。
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- [2023/08/21 00:00]
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歌劇の生徒さん
関西にある私立大学の中で、同志社大学と双璧と目されているのが関西学院大学です。私が高校生のころは「関関同立」(関西学院、関西大学、同志社、立命館)の四つの大学こそが関西の名門と言われていました。中でも関西学院と同志社はレベルが高いと言われ、同級生たちもこのふたつのどちらかに行けば鼻高々だったように思います。
関西学院はもともと神戸の原田(菟原郡原田村)というところにありました。今の神戸市灘区王子町に当たります。王子公園のところですね。今、王子公園は再整備で大学を誘致するそうで、関西学院が里帰りのようにここにキャンパスを持つ計画があるようです。
1929年、関西学院はここから西宮の甲東村(現在西宮市上ヶ原)に移転しました。当時、今の阪急電鉄は阪神急行電鉄という社名で、まだ三宮駅はなく、ターミナルは神戸駅(神戸市葺合区坂口通。今の中央区坂口通)と言ったのです。この神戸駅は、のちに
上筒井駅
と改称されました。さてこの神戸駅からは、なんと、関西学院専用の電車が出ていたのだそうです。乗り換えなしで、仁川駅(今の宝塚市)まで運行されていたそうです。ところが、どういうわけか、生徒がこの電車より乗り換えのある一般の電車で行くことを好んだのだそうです。
宝塚歌劇団の理事で演出家であった内海重典さんは関西学院中学部の出身でいらっしゃるのですが、当時は神戸にお住まいで、やはり一般の電車で通われたのです。このとき生徒たちがなぜわざわざ乗り換えのある電車に乗ったかについて、内海さんは「宝塚生徒と一緒になれる」「乗り換えの西宮北口では、一緒にホームで宝塚行き電車を待てる」(内海重典『私が愛した宝塚歌劇』)ことが大きな理由だったとおっしゃっています。
それほどに、当時の若い男性たちには宝塚の生徒さんへのあこがれがあったのですね。しかも雲の上の存在ではなく、彼女たちは電車を使いますから電車に乗ればしょっちゅう会えるわけです。ちなみに、内海さんは
春日野八千代さん
と同い年、しかも誕生日がわずか2日違いでいらっしゃいます。
内海さんはさらに、帰りの電車でも宝塚の生徒さんと会えるように、公演の終わりの時刻を調べて、その頃の電車(内海さんたちは宝塚の生徒さんの乗る電車を「花電車」といったそうです)で帰るという熱心さもあったのです。
宝塚歌劇団の生徒さんや音楽学校の生徒さんとすれ違う経験は私も少なからずすることがあります。先日も、宝塚市の図書館に行った帰りに、明らかに宝塚歌劇の生徒さんと思われる人と並ぶようにして同じ方向に歩いていました。だからと言ってどうなるわけでもない(笑)のですが、何だか妙にうれしくなります。
彼女たちはとにかくおしゃれですし、いい香りがするのですれ違うとさっと芳香が漂ってくるのです。
かつての関西学院の生徒さんが憧れた気持ちは私も何となくわかるような気がします。
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- [2023/08/20 00:00]
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残暑お見舞い申し上げます
今年の暑さは尋常ではありません。私は以前から「地球温暖化」という言葉は文字どおり「生ぬるい」と思っていました。「温暖」なんて、何だかほんわかと暖かそうじゃないですか。今の状況は、そんな生易しい話ではないと思うのです。「灼熱化」とか、せめて「温熱化」くらいにはしないと、と思っていたのです。
すると国連の事務総長が「地球沸騰の時代(the era of global boiling)」という言葉を使ったそうです。一気に沸騰まで行っちゃいましたか。いやいや、これくらい言っていいと思います。
京都におすまいの方が、今月初めのある日、朝の5時には30度を超えるとおっしゃっていました。私の家では同じ日の7時頃に超えましたので、やはり京都は暑いところなのだと納得しました。
大学院生のころ、日本古代史の
山中裕先生
に師事して、日本史の専門でもない私は初めてしっかりと古代貴族の漢文日記(古記録と言われます)を読むことにしました。それまでは我流で読んでいましたので自信のないことが多く、若いうちに鍛えておかないとあとで困ると思ったのです。そしてその研究会が夏と秋(後には夏のみ)京都で多くの研究者や研究者の卵を集めておこなわれました。私などは卵にもなっていませんでしたが、それでも山中先生は嫌な顔ひとつなさらずいろいろ教えてくださいました。ゼミ形式でおこなわれたのですが、初めての時は発表される先輩の院生たちの読解力のすばらしさに目を剝きました。私が5文字読むのに彼らはすでに数行読んでいるという感じでした。ここまで読めないのなら、さっさとあきらめた方がよいのではないかと思ったくらいです。しかし、勉強はするものです。まがりなりにも少しずつ読めるようになって、その後の人生にどれほど役に立ったかわかりません。
意見が次々に出て一つの方向に向かうまで、学者先生や卵たちから大変な熱量を感じた、あの暑い夏の京都。当時でも最も暑い日は
35度
にまでなりました。今なら37度くらいでしょう。日が当たると肌が痛いくらいでした。
あの研究会が終わるともう晩夏。京都大学そばの思文閣会館の屋上で先生や友人たちと眺めた五山の送り火のうちの「妙法」。今年も夏が終わっていく、と何となく寂しい気持ちを誘われました。
既に立秋を過ぎて暦は秋だと言っていますが、事実上の夏ももうすぐ終わりです。
残暑お見舞い申し上げます。
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- [2023/08/19 00:00]
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一石三鳥?
台風の翌日、朝早くに20分ほど歩く必要がありました。
東の空からは早くも強い陽射しがあり、台風一過、きれいな晴天だな、と思って家を出ようとしたのです。
すると、頭の真上にはかなりの雨雲が広がっていて、陽は射しているのに傘を差さねば歩けない状態でした。
仕方がないので、いつも使っている傘を手にして家を出たのです。陽は相変わらず東から射していて、暑くもありました。こういう独特な天候はやはり台風前後ならではでしょうね。
そのときふと気づいたのですが、強い陽射しがある割にあまり熱を感じないのです。そうなんです。雨傘が日傘の代わりをしていたのです。
最近はあまりにもひどい暑さになるため、以前なら
女性のもの
と思われていた日傘が男性用のものも盛んに作られてよく売れていると聞きます。私もよく歩きますのでいい加減手に入れたほうがいいと思っています。使っている人にうかがいますとやはりかなり違うとのことで、最近はアマゾンあたりをのぞいたりしています。
台風の翌日はそのありがたさを初めて体験したのですが、雨はあれほどひどかったのに、10分もすれば止んでしまいました。これまでなら傘をすぼめて歩いていたのですが、もうちょっと差して射しておこうと思いなおし、残る10分ほどは雨傘を日傘代わりにして歩き続けました。
今日は
一石二鳥
だったな、と思って、目的地で傘を折りたたんだのです。すると、後半の10分間陽射しを受けたために、傘がすっかり乾いていました。折りたたんですぐにカバンに入れることができてとても助かったのです。これは一石三鳥というべきでしょう。
さらに、この体験で、今後はほんものの日傘を手に入れて紫外線を避けるべきだと思い知ることもできましたのでもう4羽の鳥を手に入れたようなものです。台風の思いがけない余慶でした。
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- [2023/08/18 00:00]
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台風今昔
8月15日を中心に、近畿地方は台風7号の直撃を受けました。
東海地方から紀伊半島までのどこかに上陸するだろうと言われていましたが、思いのほか西側を進み、結局は和歌山県を縦断し、そのあと再上陸した兵庫県のど真ん中を縦断して日本海に去っていきました。
「台風」というように、やはり風の強さが問題です。『源氏物語』には「野分」巻があり、台風のために簾が風にあおられて紫の上という人物が光源氏の息子の夕霧に顔を見られてしまうというできごとがあります。
今は停電することがほとんどなくなりましたので、土砂崩れの影響をほぼ受けない私の住まいでは、家の中にいれば涼しくて快適とも言えるのです。しかし私が子どものころは、台風は今よりはるかに恐ろしいものでした。
とにかく、停電があるかもしれないので、情報を得るためには
ラジオ
が必需品でした。
そもそも現代人(特に若い世代の人)はAMラジオなんてあまり聴かないと思うのですが、昔はとても重宝したものです。朝はラジオをつけっぱなしにしていて、天気予報とかニュースとか、時刻を知るためとか(何かをしているときは時計を見るよりかえって便利なこともありました)、さまざまな情報を得ていました。この人の番組が始まったらそろそろ学校に行かなければならない、というアラームにもなったのです。中高生のころは深夜番組も聴きましたし、FMを聴くようになってさらにラジオは欠かせないものになりました。
それはともかくラジオは災害時にも大切な情報源でしたから、台風の時は電池がなくなっていないか確認しておかなければなりません。懐中電灯も重要で、これも電池の確認が必要です。ただし、懐中電灯はあるスポットを照らす時、家の中を歩く時などに用いるので、部屋全体をぼんやりでも明るくするものとしては
ろうそく
も大切でした。小さなものでは間に合わないので、大きなろうそくを非常用に用意してあって、普段は仏壇(笑)の引き出しに入っていて無用の長物だったのに、こういうところで出番が来ると、部屋の真ん中でひときわ立派に光を発していました。そしてそんな大きなろうそくはたくさんあるわけではありませんから、家族全員同じ部屋で肩を寄せ合うようなことになりました。寝る時間になるまでは、薄暗い中でラジオをつけて話をしているような感じでした。
食べるものも、停電すると準備しにくいですし、買い物にも行けません。そこで、あらかじめ卵焼きとおむすびをたくさん作っておきました。このコンビは最強でしたね。これさえあれば何もいらない。
河川の決壊→水道管の破裂などの形で断水が起こることもまれにあったと思います。飲み水はやかんや鍋などに汲んでおいて、それ以外に使う水は風呂に貯めておいた水を使ったりもします。
台風時の生活は
生活の知恵
がたくさん詰まった時間だったとも言えるでしょう。
怖い経験ではあるのですが、そこは子どもですから、心の底から恐れているというよりは、どこかでその非日常を楽しんでいるようなところがありました。
今はほんとうに停電しなくなり、水が心配ならペットボトルに入ったものを売っています。情報もスマホから入り、緊急のものは頼みもしないのに、バイブレーション機能を発動して大きな音で(知らんけど)危険を知らせてくれるようになりました。
ただ、便利になったために「生活の知恵」という意味では失われたものも多いかもしれません。
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- [2023/08/17 00:00]
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人生百年(?)
大阪府豊能郡能勢町野間稲地にある大けやき(国の天然記念物)と言えば、私がこの街のために書いた『名月乗桂木』というちょっとした芝居の前半の舞台となったところです。この大けやきは実際に行ってみるとほんとうに壮大なものです。このあたりはもともと「蟻無(ありなし)宮」という神社で大けやきはそのご神木だったとも言われます。この大けやきは一節に樹齢1000年とも言われます。実際のところは私にはわかりませんが、いずれにしても200年や300年でないことは間違いないでしょう。
この長い年月を思うと人の一生はまことに短いものです。「人間五十年」とは幸若舞「敦盛」にある言葉で、人の世の五十年というのは天界のそれと比べると夢や幻のようなものだ、ということで「人間」は「じんかん」と読まれます。この言葉を「にんげん五十年」と読んで
「人間の寿命は五十年に過ぎない」
と解釈するのは、本来は正しくないともいえますが、なかなか真実をついていると思います。昔は五十歳といえば完全に老人で、長生きとまではいわなくても十分に生きたと言える年齢だったからです。『菅原伝授手習鑑』の白太夫は七十の誕生日でしたし、『伊賀越道中双六』の平作も七十を過ぎていました(その割に若い娘、息子を持っていますが)。しかし、『源氏物語』の主人公の光源氏も五十歳を少し過ぎたところで亡くなったことになっていますし、五十年生きたら、あとは出家でもしようということだったのでしょう。「人間五十年」というとすぐに思い出される織田信長は数え年四十九歳で亡くなっています。
今、五十歳の人を「おじいさん」と呼んだらおそらく叱られます。それどころか、「今年六十歳のおじいさん」(「船頭さん」)も今や通用しないでしょう。男性は平均でも八十歳まで生きることになっていて、女性はさらに高齢までの寿命があります。
最近ときどき「人生百年時代」という言い方を聞くことがあります。これは何も、今生きている人の多くが百歳まで生きるということではなく、もともとはアンドリュー・スコットとリンダ・グラットンによる
『Life shift 100年時代の人生戦略』
という本から広まった言葉で、2007年生まれの人の半分が100歳まで生きる(ただし先進国に限る)という未来に向けての話です。ドラえもんのいる22世紀はそういう時代なのかもしれませんね。
それがいつの間にか現代の高齢者化社会に引っ掛けて、今生きている誰もが100年生きるかのように喧伝されたように思います。人生100年時代が来るから足腰を鍛えましょう、という類の高齢者向けのサプリメントの宣伝文句などはなんだかちょっと違うな、と思います。もちろん、商魂のたくましさがそういわせるわけで、悪いとは思いませんけどね。
私はどうも平均寿命まで到達できないように思われるのですが、それでもマハトマ・ガンジーが「永遠に生きるつもりで学びなさい」と言ったようにまだあと500年ほど(笑)生きるつもりで勉強したいと思っています。
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- [2023/08/16 00:00]
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醜女(2)
絵巻物を見ると、貴族女性は「引目鉤鼻」というよく似た顔に描かれます。『源氏物語絵巻』などでおなじみの顔です。しかし庶民を描いた絵巻物はわりあいに個性があって、生き生きとした感じが伝わります。『信貴山縁起絵巻』の大半の人物などはその典型です。ただしそこで彼女たちは特に「醜女」として描かれるのではなく、ごく普通の「おばちゃん」「おねえちゃん」問う感じです。『病草紙(やまひのさうし)』には体重が150㎏は下らないのではないかと思われる女性が描かれています。「病人」を扱った絵なのですが、この人は肥満で苦しむ(高利貸しで、贅沢ばかりしている)女性なのです。彼女もまた「醜女」として描かれているわけではありません。
では真正面から(というのも変ですが)「醜女」を描いた絵はないのかというと、そうではないのです。
『男衾三郎絵巻』
に描かれる女性がまさにそれだと思います。タイトルは「をぶすまさぶらうゑまき」と読めますが、『男衾三郎絵詞(ゑことば)』とも言われます。
この女性については、絵巻の詞書に「たけ(丈)は七尺はかり」「かみはちヽみあかりて(髪はちぢみ上がりて)」「顔には鼻よりほか又見ゆるものなし」「へ文字口なるくちつき」と記されています。背丈が七尺もあり、髪が縮れていて、鼻が大きすぎて、口がへの字に曲がっているというのです。そして絵にはたしかに髪がごわごわと縮れていて、鼻が天狗のように高くて、への字口をした女性が描かれています。
「尺」の長さは明治時代に定まるまで必ずしも明確ではありませんが、仮に一尺25㎝とすると175㎝、30㎝とすると彼女は2mあまりの身長ということになります。2mはともかく、175cmとしても相当な長身です。
平安王朝的な美としては、髪はまっすぐで艶があって長くなければなりません。坂東の鄙の人らしくまったく対照的な女性なのでしょうね。
この絵巻物は鎌倉時代のもので、吉見二郎と男衾三郎という武士の兄弟を描いています。兄の二郎は都会風の色男で、都の女性を妻としてかわいい娘まで授かります。弟の三郎は、美人の妻を持つと
長生きできない
というので坂東でも有名な醜女を妻としており、その子どもたちも母に似て醜い容貌なのです。この妻というのが前述の長身、縮れ毛、への字口の女性で、彼女によく似た娘とともに実際に描かれています。このあと、兄の二郎が山賊に襲われて亡くなったことで、その美しい妻や娘が哀れにも三郎の下女として使われるという悲劇的な運命が描かれるのですが、結末はよくわからないのです。おそらく二郎の妻と娘が何らかの形で救われ、幸福になるのだろうと想像されます。
この『男衾三郎絵巻』の「醜女」は、醜いだけでなく、七尺という大柄なこともあって「いかつい」イメージも持っていると思います。
「醜女」という、日常的にはあまり使いたくない言葉は、狂言、文楽、歌舞伎がある限り生き延びることでしょう。
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- [2023/08/15 00:00]
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醜女(1)
パソコンで「しこめ」と打っても「醜女」は出てきません。今どき使われない言葉ですし、いささか侮蔑的な言葉でしょう。そもそも顔が美麗に見えるかどうかで人格を判断するとしたら、やはり問題があると、私も思います(私自身、そういうことはしてほしくありません・・笑)。人はやはりハートが第一。
しかし狂言「釣針」文楽(歌舞伎)「釣女」には、見た目の滑稽な女性があからさまに「醜女」という名で登場します。でも文楽の「釣女」で「醜女」に用いられる首は「お福」です。あの顔を見ると、たしかに女優さんのような美人というわけにはいかないのでしょうが、愛嬌があってかわいいと思います。
「釣女」という演目は、女性を釣るとか、美人ばかりもてはやされるという内容だけを見ると、現代的感覚手はけしからんと言われそうではあります。しかし、あの「醜女」のかわいさが救いとなって、罪のないお話にできあがっているため、目くじらを立てるほどのことはなく、あれはあれでおもしろいと思えばよいのでしょう。
「しこめ」の「しこ」というのは、本来
「ごつごつしていていかつい」
という意味があり、『古事記』に出てくる「しこめ」は黄泉の国にいる女の鬼のことです。愛嬌とは縁がない、いかにも「いかつい」感じですね。それで、辞書の「しこ」の項は「醜悪」とともに「凶悪」という言葉でも説明されています。「め」は「女」ですから、当然「しこを」という言葉もあります。これももともとは「いかつい男」「頑強な男」ということです。
そこから「醜い」という意味に派生して用いられるようになったのですが、こうしてみると「しこめ」は文楽でいうなら愛嬌ある白塗りの「お福」ではなく、薄卵の
「八汐」
のような人物なのかもしれません。役名でいうと『伽羅先代萩』の「八汐」や『加賀見山旧錦絵』の「岩藤」あたり、草履で人を打ち付けるようなタイプですね。
平安時代に『新猿楽記』というおもしろい書物があって、この中にとんでもなく醜い女性の容貌をきわめて具体的に書いている場面があります。これについてはこのブログの2020年9月11日の記事に書いています。
ただ、文字で書かれてもなかなかイメージが湧きにくく、『新猿楽記』のこの女性を絵にしてもらえないだろうかと、絵心のない私などはいつも隔靴搔痒の思いを抱きます。
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- [2023/08/14 00:00]
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2023年文楽夏休み公演千秋楽
文楽の夏休み公演が本日千秋楽を迎えました。
残念なことに、2日から5日までは休演となってしまいました。技芸員さんに体調不良者が続出したとのことで、やむを得なかったのでしょう。1日が休演日でしたので、5日連続でお休みだったことになります。
しかしその後はなんとか千秋楽にこぎつけ、安心しました。
このあとは、内子座公演もあるようで、いよいよ東京国立劇場の最後の公演も近づいてきました、
500人規模のちょうどよい大きさの国立小劇場。近ごろ文化庁はもうからないのではだめだ、というような言い方を始めているようですが、何のための文化庁なのかと見識を疑ってしまいます。新しい劇場を造ることが大事なのではないことくらいはいいかげんわかってほしいものです。
もういまさら国立劇場の建て替えを止めることはできないのかもしれませんが、それならそれでぜひとも現場の人間、つまり演者や観客の意見を生かした劇場にしてほしいものです。
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- [2023/08/13 00:00]
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万博
1964年、というとまだ幼い頃でしたが、東京でオリンピックがあって、ひょっとすると自分が住んでいるこの国は世界でも知られた一流国になったのだろうか、といくらかうれしい気持ちになりました。「世界一」の新幹線ができて、高速道路が走り、日本人がたくさんの金メダルを取る、何とも言えない昂揚感が子どもにありました。
そのあと、今度は大阪府吹田市で万国博覧会がおこなわれました。私は学校から行ったくらいでしたが、やたら人が多くて驚いたことを覚えています。アメリカ館で月の石の展示があって、それを観るために何時間も並ぶと知って、田舎者の子どもにとってはそれ自体が驚くべきことでした。
あの万博は「吹田万博」ではなく、「大阪万博」と呼ばれました。たしか、愛知県でおこなわれた万博もありましたが、あれも「愛知万博」と言っていました。ただ、愛知のほうは開催地が一都市ではなかったのでそう呼ばれたのかもしれません。「つくば万博」は「茨城万博」ではなく、海外の例でも「上海万博」とか「ドバイ万博」というように、都市名で呼ばれることも多いのですから、今思うと「吹田万博」でもよかったような気もします。
今また、大阪市(今度は間違いなく「大阪」です)で万博を開催する(再来年だとか)とのことで、その準備が行われているようです。ただ、大阪に住んでいないと実感としてはよくわからず、会場になる島も、こんなところで大丈夫、という印象があるくらいです。そもそも私は実施されても行くつもりもありませんので、今のところ
ほぼ無関心
です。これは私だけではなく、読売新聞の7月の調査では「関心がある」は35%、「関心がない」は65%だったそうです。たしかに、大阪の隣県でも盛り上がらないのですから、ほかの地方では認知度が低くてもしかたがないでしょうね。
ところが最近、盛り上がるかどうかという以前に工事が遅れているというニュースがあって、何だか先行きが怪しくなってきたようです。「関心がある」と答えた人の「関心」には「おもしろそうだ」というのではなく「大丈夫なのか」という意味の「関心」もあったのかもしれません。
たくさんの国から参加の申し込みは来ているそうですから、実施しないと恥をかくことになるのでしょう。そのわりに工事の申請があまり来ていないというニュースもあって、いったい何がどうなっているのか、無関心派には理解できません。ついにはこのままだと突貫工事が必要だから残業規制の適用外になるように時間外労働もOKにしてほしい、と万博協会が言い始めたとも伝わり、まだまだ山あり谷ありという感じでしょうか。
費用も当初の見込みよりずいぶん
多くかかる
ようですし、また政治家が無茶なことを言い出さないか心配です。苦労するのはいつも現場の人間です。
会場の島は地盤が軟弱なところだそうで、雨が続くとすぐに緩んでしまうという話も聞きました。海辺というかもともと海だったところにあるわけですから、南海地震が来たら津波がおしよせるといわれているだけに悲惨なことにならないかも心配です。
大阪の政治家さんにしてみると、むしろそのあとにカジノを作るのが重要なのかもしれませんが、こちらも私には無縁でやはり関心はかなり低いです。
そんなニュースをチラチラ見ているとふと気がつきました。このたびの万博、なぜか「大阪万博」ではなく「大阪・関西万博」と呼ばれているではありませんか。おいおいちょっと待てよ、いつの間に「関西」の文字を入れてるの? 大阪だけでやるのでしょ。成功したら大阪のお手柄で結構ですから、どうか、何があっても関西全体に責任を負わさないでくださいね。
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- [2023/08/12 00:00]
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夜店
先月のある日、夜まで外にいたのですが、身体がどうにもだるくて、何となく熱があるような気がしました。ひょっとして、これまで無縁だったあの忌まわしいウイルスに取り憑かれたのではないか、という不安が沸き起こりました。最近は周りの人もマスクをしていないことが多く、特に若い世代の人の着用率は電車の中でも半分以下ではないかと思います。第9波が来たとも言われますが、マスクとの関係はあるのでしょうか。いや、自分の身に降りかかるとそういう一般論はどうでもよくなってきます。まずいことにならなければいいが、と思ったのですが、計ってみると熱はなく、疲れも一日休めば取れました。どうやら暑さに負けただけのようでした。
私はCovid-19流行の当初から、マスクの着用は限定的で、散歩するときなどは一切着けませんでした。そのかわり、
手洗いと消毒
だけは怠らなかったのです。今も同じようなことで、手洗い、消毒のほか、電車では相変わらずマスクをしていますから、案外ほかの人より神経質に見えるかもしれません。
世の中がそういう状態になって、いろんなところにしわ寄せが行きましたが、最近はレストランなどあちこちにあったアクリル板が減ったように思いますし、スポーツ観戦でも声を出してよいなど、ずいぶん平時に近づいてきました。海外からの観光客も明らかに増えており、ややもするとあの騒ぎが嘘だったかのような錯覚すら覚えます。
近くの神社では、この期間も年中行事としての祭はおこなわれてきましたが、宮司さんによる祝詞や神楽はあっても、夜店もなければ神輿もありませんでした。私は夜店よりは神事の方に興味がありますので、まったく気にはならないのですが、子どもたちの楽しみという意味ではやや寂しいものがあるかもしれません。
ところが、今年の夏祭(先月の終わり)では夜店が出て、境内にはたくさんの子どもさんの姿がありました。ただ、まだ夜店の復活というには寂しい限りで、かき氷とかベビーカステラとかほんのわずかなお店だけでした。金魚すくいはなくて、かわりに「ぷにょぷにょすくい」というのが出ていました。何だか小さいボールのようなものをすくうのでしょう。あれなら原価は安く抑えられそうです(笑)。
私は子どものころ、あまり祭に出かけたことがないのですが、それでもいくらかの記憶はあります。親から50円くらい(?)もらって、子どもだましのような(笑)ゲームに10円玉で参加したこともあったと思います。ただ、幼い頃から不器用な私は、何をやってもうまくいかず、つまらなくて、50円を使い切ることなく帰ったようにも思います
今回の夏祭りも、私は祝詞と
湯立神事
を見て、いったん帰宅してから最後出かけて社殿での神楽も拝見してきました。湯立神事は文字どおり湯を沸かすのですが、この神社では水を用いているようです。湯気は一切出ていませんし、窯の下には火はありません。
夏休みの子どもたちには浴衣姿もちらほら見られ、「日本の夏」を感じさせてくれました。立秋(今年は八月八日)を過ぎるともう夏は終わり、このあとはお盆があって夏とはさようならです。願わくは、暑さともお別れしたいですが、それはまだしばらくは無理でしょう。
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- [2023/08/11 00:00]
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真夏の図書館
私はフィールドでの資料集めもしないわけではないのですが、多くは文献に頼ってここまで生きてきました。
そういう時に頼りになるのはやはり図書館です。このことだけを思うと大阪府立図書館のある東大阪市に引っ越したくてしかたがありません。夏なら毎日でも通って一日中引きこもりたいです。
あいにく私の居住地の図書館は小さくてあまり役に立ちません。この夏は『かぐや姫の物語』に関心を持って勉強しているのですが、字幕付きの映像自体はある方のご厚意で観ることができるようになりました。この映画を考えるときに、平安時代から鎌倉時代あたりの絵巻物を参考にすることは欠かせないと思います。ただ、絵巻物とひと口に言っても相当な数に上りますので、一筋縄ではいかないのです。
まずは『かぐや姫の物語』の映像を繰り返し観て、場面のようすを細かい点まで頭に入れて、その上で絵巻物の本を次から次へと観ていくことにしています。絵巻物の文献としては
『日本絵巻大成』
を始め『続日本絵巻大成』『続々日本絵巻大成』という大部のものがあります。この本は、厚みはさほどないのですが、表紙は堅牢で紙も重厚なものが使われていますので、1冊持つだけでもけっこうな重さがあります。
そしてこれを全巻揃えているところを探さねばなりません。幸い、宝塚市にある中央図書館聖光文庫には揃っていますので、ちょっと不便ですがそこで拝見することにしています。この聖光文庫の図書購入費は、同市内の清荒神清澄寺の「鉄斎美術館」の入場料によって支えられていて、基本的に美術書専門の文庫なのです。もちろん参考資料として歴史や文学に関する基本文献も置いてあって、私にとってはまことに都合がよいのです。しかも、一般図書館に併設されてはいますが、そちらの図書館にある本をここに持ち込んで読むことはできず、そういうことをすると常駐している係員に注意されてしまいます(知らんけど)。というわけで、事実上、
美術書を観たい人
しか入りませんので、これまた私にはありがたい話です。古い研究書などは書庫に入っていますが、これも係員の人に頼めばすぐに出してもらえます。机がとても大きくて、利用者が少ない時は文献を広げて観ることもできます。
この『絵巻大成』シリーズは、全部で50冊以上ありますので、それをひとつひとつ丁寧に観ていくとあっというまに日が暮れてしまいます。絵巻の場面がほとんど頭に入っているものもあり、それらはあまり時間はかかりませんが、そうでないもの(こちらの方が圧倒的に多いのです)についてはじっくり観て行かないと見落としが出てくると思います。
図書館ですのでエアコンが効いていて、家にいるよりずっとよくはかどります(笑)。宝塚市さん、清荒神さん、ありがとうございます。
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祭礼としての五段目
文楽の時代物は原則としては五段構成ということになっています。十一段から成る『仮名手本忠臣蔵』でも、「刃傷」が序切、「切腹」が二の切、「腹切」が三の切」、「山科」が四の切と見ることもできます。見どころ、聴きどころというとやはり三段目、四段目でしょう。三段目(にあたる段)というと「すしや」「佐太村」「妹山背山」「熊谷陣屋」「松右衛門内」「沼津」「袖萩祭文」「是斎住家」など、四段目(にあたる段)は「河連館」「寺子屋」「金殿」「神崎揚屋」「岡崎」「一つ家」「金閣寺」などがあります。中でも三段目は武士の義理ゆえに命を落とさねばならない庶民や子ども、若者、老人など、運命に翻弄される弱者のどん底の悲劇を描くことが多く、しかしそこに何らかの光明があるような段で、声を振り絞るような太夫の声に涙を流す人も多いのです。
四段目も悲しい場面がありますが、三段目が墨色ならこちらは彩色の鮮やかな段とも言えそうです。「金殿」はお三輪が哀れですが、華やかな御殿でかわいい女性が虐げられる悲愴美があります。「金閣寺」も雪姫の痛々しさが美しいですし、「十種香」は八重垣姫のいじらしさが魅力的です。「河連館」は親を思う狐の夢幻的なおもしろさがあります。
ところが、結末に当たるのにめったに上演されないのが五段目です。『菅原伝授手習鑑』の「大内天変」は国立劇場で以前上演され、この9月にも手すりに上がりますが、多くの場合は「寺子屋」で終わることが多いでしょう。『義経千本桜』も「河連館」で狐が宙に舞ったところで柝が入るのが普通で、覚範(実は教経)と忠信の戦いや藤原朝方の陰謀の露見などを語る「吉野山」は、私など観たことがありません。
文楽夏休み公演で上演された『妹背山婦女庭訓』のでは珍しく
「入鹿誅伐」
が出ました。入鹿が笛の音で「酔(よ)ゑるがごとく勇気くだけて」しまい、玄上太郎、金輪五郎らによって討たれます。これは五段目かというとそうではなく、四段目の「アト」にあたると言えばいいのでしょう。『妹背山』の五段目は「志賀都」という段で、帝が位に戻って久我之助と雛鳥の供養がおこなわれるのです。しかしこれも私は観たことがありません。
五段目は初段で起こった問題が解決して
めでたく幕を下ろす
段とも言えるでしょう。
『忠臣蔵』はテレビや映画であれば討ち入りの場面はきわめて重要で、延々とそのようすが描かれます。吉良上野を見つけ出すまでもかなりの時間を要し、敵討ちが果たされてからも一同が庶民の喝采を受けながら泉岳寺に行かなければ収まりません。ところが文楽では師直の邸の場面はとんと上演されることがなく、それでいて原作にはない「光明寺焼香」などという段で取ってつけたような終わり方をして「これが十一段目(時代物の原則に当てはめれば五段目)です」ということにしているのです。
五段目というのは事件の解決を見せるかなり儀式的な段にも思われ、芝居を閉じるための祭礼のような役割も感じます。
しかし四段目までで解決の予想ができるし、大団円などなくてもかまわない、という観客の好みが今のような形を作ったのかもしれません。
今後もやはり不要なのでしょうかね、少なくとも「通し狂言」と銘打つときは上演できるものならしてほしい気もするのですが、慌ただしい現代にあってはそんな余裕はないかもしれません。
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- [2023/08/09 00:00]
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真夏の高校野球
むかし、むかし、若かりし私が白球を追っていた頃、真夏に地方大会の予選がありました。県内の遠くの球場まで出かけて行って、往復の電車(私立名門校のようにバスで移動何て考えられません)だけでも大変でした。試合中は水分補給なんて考えていなかった時代で、汗は容赦なく出てきて、身体は悲鳴を上げていたかもしれません。しかし何と言っても若さがあってその時は何とも思わないで試合をしているのです。幸いどうにもならないほど弱いチームでしたのですぐに負けましたからまだいいのです。勝ち進んでいくと疲労が重なり、大変だろうと思います。
今年の夏、私は知り合いの息子さんがかなり有力な野球の名門といわれる高校の3年生、つまり「高校球児としての最後の夏」を迎えていました。残念ながらベンチ入りのメンバーには入れず、応援の方だったそうですが、私はつい試合の結果を気にしていました。ベスト8まで行ったのですが、強豪高校に敗れて敗退してしまいました。
珍しく高校地方大会(それも地元ではない地域の)をウォッチして、改めて高校野球のあり方を考えてしまったのです。いろんなところで言っていますので、またその話か、と思われそうですが、同じことでも繰り返し書いておきます。
軟式野球はチーム自体が少ないので試合もあまりないのですが、硬式の地方大会は1学期の授業のあと、7月の初旬あたりから始まり、週に2試合ほどあります。ただ、下旬までは梅雨の期間ですから、
炎天下
という感じではありません。ところがベスト8が出そろったあたりで梅雨も明け、あとは真夏の太陽にさらされながらの試合です。そして勝ち抜いたチームは灼熱の甲子園。こうなると危険なのが熱中症で、選手として出場している生徒だけでなく審判や観客も足がつったりめまいを起こしたりします。立ちっぱなしの若いとは限らない審判も、激しく呼吸をする吹奏楽部の生徒も本当に危険です。
主催する新聞社や地元(球場のあるのは兵庫県西宮市)の経済に関心のある人たちは何としても甲子園にこだわりたいかもしれません。しかし、昭和のころとは違う高温化の時代にあって、多くの子どもたちの
健康を害する
ようなことになっては本末転倒です。まして「金もうけ」のためなんてまったくおかしなこと。「汗と涙の青春」なんて悠長なことは言っていられなくなります。今は5回が終わったところでクーリングタイムという10分間の休憩を取るようになっていますし、休養日も設けられています。しかし当日の暑さが厳しいからと言って「雨天順延」ならぬ「炎天順延」ということはありません。
倒れることを覚悟しながらの大会を続けていると、いつか命を落とす人も出てくるようで恐ろしいです。その日まではこのままの状態を続けるつもりなのでしょうか。私はどうしてもこの時期に大会をおこなうのであれば、ドーム球場を使うほかはないと思います。春の甲子園はそのままでかまいわないので、夏はいっそのこと日本ハム・ファイターズに逃げられた(?)札幌ドームあたりで実施したらどうなのかと思います。
「大人の事情」でそう簡単にはいかないことはわかりますが、「大人の事情」と「子どもの健康」ではどちらが大事なのでしょうか。
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- [2023/08/08 00:00]
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ゆずの葉
私はもともと匂いに鈍感で、食べ物でもあまり感じることがないため多少悪いものを食べても気がつかなかったかもしれません(笑)。
舌も鈍感で、おいしいものとそうでないものの区別がわからず、高級なものを食べてもどこがどう高級なのかがわからないのです。一人暮らしをしているころ、お米はいつも一番安価なものを買っていました。それでもなんらまずいとは思わないのです。米はコシヒカリだよね、とよく言っていた同級生の舌がうらやましかったですし、友だちと何か食べに行ったときに味の話になるとひとり沈黙するか適当に相槌を打つかのどちらかでした。しかし、安上がりなのもまたよきかな、と納得することにしていました。
ところが人間の身体というのは不思議なもので、耳の状態が悪くなるにつれて鼻と舌の機能が目覚めたのです。
以前書いたと思うのですが、
キンモクセイの香り
なんて、この10年くらいにやっとわかったくらいです。
味についてはまだあまり自信はないのですが、私の味覚のひどさを知っている人の前で、「これ、トマトが入っていますね」なんて言おうものなら、きょとんとされることもあります。「そういうことがわかるようになったのか」ということです。一番わかりやすいのは「まずいもの」「安っぽいもの」で、カレールウでも安いものは判別できるようになりました。もっとも、いまだにまずくても安いものは大好きなのですが(笑)。
5月だったと思うのですが、ゆずの木にとてもきれいな白い花が咲いていました。柑橘系の花はよく似ていて、可憐です。そして、受粉のお世話になる蜂などを招くような香りを発します。
やがて花は散ってそのあとに豆粒のように小さな実ができてきました。そしてしばらくすると、それはゴルフボールほどの
青ゆず
に育っていました。艶があってきれいな形ででこぼこしたイメージとはまるで違うものです。酸味の強いゆずはそのまま食べるわけにはいかないので、さまざまに加工して利用されます。柚子胡椒、ポン酢、ゆずみそ、ゆずジャム、ゆず酒など。不器用な私には難しそうなので、なかなか手が出ないのですが。
ある日、また大きくなったかなと思って木に近づくと、なにやら香りがしました。花は散りましたので、実の香りがするのだと思ったのですが、どうも葉の香りだったようです。
こんな香りに気がつくのか、と我ながら驚きました。
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- [2023/08/07 00:00]
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絵巻物
平安時代の終わりに、後白河院という人がいました。源平合戦の時代にあって、その武力に押されつつも権威を失うことなく生きた人物だったと思います。この人は今様(当時の現代歌謡)を愛し『梁塵秘抄』を編纂したことでも知られています。今様は「遊びをせんとや生まれけん たはぶれせんとや生まれけん 遊ぶこどもの声聞けば 我が身さへこそゆるがるれ」のように「75・75・75・75」という形が多いですが、完全な定型ではありません。
後白河院が文化の歴史に大きな役割を果たしたものとして絵巻物の制作があります。この時期に多くの絵巻物が作られたらしく『年中行事絵巻』『伴大納言絵巻』などのほか、『信貴山縁起絵巻』『源氏物語絵巻』なども描かれ、それらの多くは
後白河院が関与
したと考えられています。
映画『かぐや姫の物語』では、かぐや姫が相模という教育係に絵巻物を見せてもらう場面があります。原作の『竹取物語』の時代は求婚者の名前から考えて飛鳥時代ですが、物語の成立した9世紀ごろの風俗で描かれているとしても寝殿造はまだ確立されていませんし、絵巻物は存在していなかったと考えられます。9世紀なら絵巻物ではなく、冊子、言い換えると絵本ならあっただろうと思います。『源氏物語絵巻』「東屋・一」には浮舟という女性が女房に本を読んでもらいながら冊子の絵を見ている場面が描かれています(絵とテキストは別の本)。ただしすぐそばに巻物もあり、これも絵なのかもしれません。
その他、さまざまな風俗から考えて、『かぐや姫の物語』の舞台は概ね
平安時代末期
のイメージで作られていると考えればよいと思います。分かりやすく言えば、高畑監督が大変詳しくていらっしゃる絵巻物に描かれた世界を基準になさったのだと思います。
たとえば、かぐや姫の名づけの宴の場面で、門外につば広帽子や高下駄を履いた(ただし多くは裸足)田楽の一行が出てきますが、彼らは編木(びんざさら)、太鼓、笛、鉦、腰鼓などの楽器で演奏し、音曲に合わせて曲芸もしています。これは『年中行事絵巻』の「祇園御霊会」の場面に描かれる田楽法師たちを参考になさったのかもしれません。『年中行事絵巻』では一人の人物が曲芸ふうに鼓を放り上げているのですが、これをもっと芸能らしく見せるためなのか、『かぐや姫の物語』ではジャグリングをしている場面があります。
内裏清涼殿(帝の常の御座)の、東の孫廂に公卿が控えている場面は『信貴山縁起絵巻』に描かれる絵とよく似ています。清涼殿自体は『信貴山』のほかにも『年中行事絵巻』や『伴大納言絵巻』などの絵もあって、当時のようすがよく伝わっています。余談ですが、『信貴山縁起絵巻』には奈良東大寺の大仏が描かれているのですが、これは初代の大仏、つまり平重衡による焼き討ちに遭う前の姿なのです。実に貴重な絵画史料です。
石作皇子は二枚目を装うために廂の間に腰を下ろして簀子に足を流すような姿勢を取りますが、こういうポーズは階や縁に腰を下ろしている『源氏物語絵巻』『年中行事絵巻』『紫式部日記絵巻』の男たちにも見られます。
5人の求婚者たちがかぐや姫の邸に向かう時、牛車を猛スピードで走らせる人がいます。馬にははるかに及びませんが、牛は走るとそれなりに速く、時速20㎞以上で走れるようです。あの巨躯で走られると、実際はもっと早く感じるかもしれません。牛車はもともとゆっくり進むためのものですが、実際に牛が何らかの理由で興奮して速く走ることはあり、そうなると手が付けられませんでした。そういう姿は『年中行事絵巻(稲荷祭)』『平治物語絵巻(三条殿夜討)』『直幹申文絵巻』などにも見られます。
翁が天人に攻撃を加えるために建物の周囲にバリアを建造しますが、その大工たちの働きは『松崎天神絵巻』の北野社造営や『石山寺縁起絵巻』の石山寺造営の場面が参考になったかもしれません。『松崎天神』の絵を見ていると大工たちのようすが生き生きとして今にも動き出しそうですが、そういう目で絵巻を観ることのできる人は、これこそアニメの元祖であると感じ取れるのだと思います。
いずれも「かもしれない」ということなのですが、直接参考にされなかったとしても、高畑さんは絵巻物をあれこれご覧になっていますので、間接的にでも影響を受けられたのではないか、と思っています。
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- [2023/08/06 00:00]
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月に帰るかぐや姫(2)
八月十五夜になると、翁は無駄な抵抗をします。地上の武力で月の世界の人に勝てるはずがありません。月の王は天人というよりは如来のように見えました。菩薩なら装飾品も身に着けますが、如来は薄衣だけをまといます。これは多くの仏像を見てもわかることです。しかし天の世界とて迷いの世界ですから、私はかなり異様な描き方だと思いました。如来が雲に乗ってくるというと
来迎
のようにも見え、かぐや姫の「メタファーとしての『死』」すら感じさせられたのです。高畑監督の意図は那辺にあったのでしょうか。
天人の力は圧倒的です。武士たちが放った矢は花と化してはらはらと落ちていきます。さらに武士たちは意識を失っていきます。「無力」ということを具象化した姿がそこにあるのです。
小さな飛天が王の指示を受けて邸に入ると格子や妻戸が自然に開き、塗籠に潜んでいたのであろうかぐや姫は夢遊病者のように外に出て、釣殿からふわりと雲に乗ります。天人は穢れた地上には降りません。かぐや姫が天人から渡された羽衣を手にしたとき、女童を含む子どもたちの声が聞こえてきます。「まわれ、まわれ、まわれよ」とわらべ歌を歌っています。するとかぐや姫の手からするりと羽衣が落ちます。その歌はやがて「せんぐり命がよみがえる」と進みます。「せんぐり」は「次々に」「順繰りに」というほど意味です。よけいなことですが、以前、初代桂春団治の「黄金の大黒」を聞いた時に、春団治師は一枚しかない羽織を順に着ることを「せんぐりせんぐり」とおっしゃっていました。
かぐや姫は月に帰る(地上の人としては死ぬ)のですが、その命はやがてよみがえるものだというのでしょうか。
かぐや姫は王に向かって「待ってください」と願います。そして雲の端にいる翁と媼の方を振り向き、くしゃくしゃに顔を崩して「かかさま! ととさま!」と抱きつきます。羽衣を持って近づいたかぐや姫を急かすように天人が言います。「清らかな月の都へお戻りになれば、そのように心ざわめくこともなく、この地の穢れもぬぐい去れましょう」と。かぐや姫は即座に天人を咎めるように言い放ちます。
「穢れてなんかいないわ!」
と。この地上波穢れた場所だというのは仏教の常識的な考えであることは以前も書きました。しかしかぐや姫はそれを明確に否定したのです。観客に訴えます。この地上は美しいところなのだ、と。「喜びも悲しみも、この地に生きるものは、みんな彩りに満ちて、鳥、虫、けもの、草、木、花。人の情けを・・」ここまで言ったところで天人が羽衣を着せてしまいます。もちろんこのあとには、待っていると言ってくださるならきっと帰ってきましょう、という言葉が続くのです。
無表情になったかぐや姫は月に向かうのですが、途中一度涙を浮かべて地上を振り返ることがあります。あのとき、彼女は「まわれ、めぐれ、めぐれよ」の歌を思い浮かべたのでしょうか。
やがて、一行は月に溶け込むように消えていきます。後には月が見えるだけなのですが、高畑監督はここで月に赤ん坊を浮かびあがらせてラストシーンをしました。あの赤ん坊は何なのでしょうか。西村義明さんによれば月が出ているだけでは画面が映えず、映画が終われない。それで高畑さんはずいぶん悩まれたようです。西村さんは赤ん坊がこちらを向くことについては「高畑さん自身もわからない部分があると思う」ともおっしゃっていました。観客に何かを問いかけたい。しかしそれが何なのかは誰もわからず、観客一人一人が考えればいいのでしょう。
もしあの場面で成人したかぐや姫がこちらを向いていたらそれはやはり変だと思います。大人になったかぐや姫は羽衣を着せられて地上のことを忘れてしまったのです。しかし、彼女の心の深奥に潜む「赤ん坊の心」は月からこちらを見ている。またいつか、彼女以外の人がこちらに来るかもしれない。地上というのはそれほどにすばらしいところなのだ、命が繰り返しよみがえるにふさわしい場所なのだ、だから、赤ん坊はその美しい地上を見ている。そこは決して争いや殺戮のあるところであってはならないのです。
「せんぐり命がよみがえる」・・・。
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- [2023/08/05 00:00]
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月に帰るかぐや姫(1)
『竹取物語』の5人の求婚者による難題解決の話は滑稽で読者の笑いを誘います。今5人と書きましたが、本来は3人だったのではないか、という説が有力です。いろんな傍証があり、私もかなり高い確率で3人だったのだろうと思っています。男たちはそれぞれに人間の弱みを露呈しており、生まれた家柄によってたまたま「身分が高い」というだけの人間が実はどれほどつまらないかを示しているようですらあります。
ところが、帝の話になると少し風向きが変わり、かぐや姫に受け入れられなかった後は、快楽を求めることなく歌のやり取りをして暮らすなど、地上における最高の「みやび」の空気は醸し出していると思います。
ところが帝とのやりとりが始まって3年が経った春の初めから、かぐや姫は月を見ると物思いをするようになりました。地上で暮らす期限が来たのです。
かぐや姫の様子は次第に深刻になり、嗚咽することも増えてきました。ある日、ついに翁にそのわけを話し、
八月十五夜
に月に帰るのだと告白します。このあたりを読んでいると、私はいつもしんみりとした気持ちになって涙すら催されそうなのです。そして月に帰るかぐや姫。これはもう娘に先立たれた親の気持ちなのではないか。そう思うと、学生のころにはわからなかったこの物語の真髄が伝わってくるように思います。
映画『かぐや姫の物語』の結末もなかなかいいのです。なぜかかぐや姫が覚えていた「まわれ、めぐれ、めぐれよ」のわらべ歌を媼の前で歌い、その歌にまつわる思い出を語ります。かぐや姫はかつて月の世界で「まわれ、めぐれ、めぐれよ」の歌を歌っては涙を流していた人(女性)を見たことがありました。この人物もかつて地上に降りたことがあるのですが、それゆえにかぐや姫もこの地上に憧れて、その罰としてほかならぬこの地上に降ろされたのです。月で涙を流していた人物が地上から月に戻る場面がほんのわずかに描かれます。そこには地上の男と子どもが浜辺まで見送っている姿があります。これはやはり
天人女房(羽衣伝説)
の昔話によるのだと思います。この人物はかつて地上の男との間に子ができて、しかし月に帰らねばならず、夫と子を思う気持ちが心のどこかに残っていたのでしょう。
この話のあとかぐや姫は「ああ、帰りたい」と言います。どこへ? それを察した媼はあることを企てます。ひそかにかぐや姫を山に行かせるのです。山に帰りたかったのです。そこには「ほんもの」の「愛」があることをかぐや姫は知っていたのです。『竹取物語』は翁とかぐや姫の物語ですが、『かぐや姫の物語』は媼の母性がかぐや姫の心のよりどころになります。そして山で再会した捨丸との飛翔シーンとなります。かぐや姫にとって「ほんもの」の世界がここにありました。地上の美しいものを俯瞰してそれらを礼賛するかのように飛び回るのです。
しかし、その幸せは一時のものでした。捨丸はその体験を夢かと思い、妻や子のもとに帰っていくのです。
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- [2023/08/04 00:00]
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消えた袿(2)
かぐや姫危機一髪、というところです。すると画面が淡くなって、帝の手をすり抜けるようにかぐや姫がすっと立ち上がり桜色の袿(うちき)が脱げ落ちます。さながら蝉の抜け殻のようなものを帝は手にするほかはなかったのです。
この時かぐや姫の姿は「影」になっていて、彼女の身体から後ろの几帳などが透けて見えています。帝はあわててかぐや姫を探します。寝殿の南の庭も見通しますが姿はありません。なお、この映画では釣殿(中門廊の南の橋にある、池に突き出たところ)は西中門廊のほうに描いています。釣殿は、東西のどちらの中門廊の端にあるかは決まっていません。帝は寝殿の西側の簀子に出ているようです。
室内は、東側に屏風、南北に几帳が立てられて中央に畳が置かれ、脇息があり、火取(香炉)も見えます。
帝はことを急いたことを詫び、一目見たら帰るから出てきてほしいと言います。するとその「帰る」というひとことに反応したかのように帝の背後に忽然とかぐや姫の姿が現れます。かぐや姫は無表情で取り付く島もないような雰囲気で端座しています。このときまで帝はかぐや姫の袿を右手に持っていたのですが、その美しさに感じ入って思わず手を放してしまいます。このとき、火取からひとすじの煙が上がります。帝が近づくと、かぐや姫は身を引いて身体に触れさせることはありません。帝は諦めたように座るのですが、このとき、ちょっとおもしろいことがあります。
さきほど帝の手から滑り落ちた袿が、彼がそれを落とした場所から
消えてしまっている
のです。
かぐや姫はへなへなと倒れ、帝は簀子に出て簀子に横付けされた輿に乗り込みます。ここでもまた気になるのは、この輿は明らかに鳳輦ではないことです。鳳の飾りがないばかりでなく、切妻屋根の簡素な袖輿のように見えます。
かぐや姫が怯えているところに翁が様子を見に来ると、ついさきほどなくなっていたはずの袿が描かれています。
このあたり、いったいどういうことなのだろう、と不思議だったのですが、プロデューサーの西村義明氏がインタビューに答えていらっしゃる記事を拝見しますと、袿が消えたのはいわば
ミス
だったらしく、何か霊的な意味を持たせているというわけではないようです。
映画はカットをつなぎ合わせるように作りますので、連続している場面なのに小道具の位置がずれたり、人物のメイクが変わったりすることがしばしばあります。そういう「間違い探し」を楽しむ人もいる(笑)と聞きます。ただ、実写ならともかく、アニメでもやはりそういうことがあるのにびっくりしました。輿については、西村氏はなにもおっしゃっていませんが、やはり同じようにミスだったのでしょうか。私が何か勘違いしているのでしょうか。別に「間違い探し」の趣味はないのですが。
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- [2023/08/03 00:00]
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消えた袿(1)
『かぐや姫の物語』の登場人物で、帝はおもしろい人物です。原作の『竹取物語』では、帝は強引なこともしますが、実際はなかなか紳士的でした。かぐや姫が思い通りにならないとしても、翁を責めるわけではありません。そういう人柄だからでしょうか、実に3年間もかぐや姫と歌のやり取りなどをしたというのです。その点、『かぐや姫の物語』の帝はなかなか好色そうで、彼が無体な行為に出ようとしたことでかぐや姫は「こんなところにいたくない」と心の中で訴え、それゆえに月からの迎えも来たのです。
映画の帝(声は中村七之助)は、七之助のおじいさん(七代目芝翫)のようにあごがとがって長くなっている特徴的な顔をしています。かぐや姫が宮仕えを断ってきたときは顔色ひとつ変えず、「よもや私の申し出を断る女がいるとは思わなかった」と言います。そして「面白い。ますます会いたくなったぞ」と好奇心を煽られ、すぐに「よし、私のほうから出向こう。造(みやつこ)の家へ忍び参るのだ」と言い出します。このとき、帝は倚子(ひじ掛けがあり、背中の部分に鳥居型を持つ、腰掛)に座っており、前には正倉院所蔵の
瑠璃坏
そっくりの坏が置かれています。おそらくモデルになっているのでしょう。帝の冠の纓は平安時代末期のように纓壺に入れてすこし持ち上がってから垂れる形になっています。
帝はすぐに翁の邸に行きます。以前も書きましたが、実際は行幸というのはそう簡単にはできなかったでしょうけれど。
次の場面は、これもすでに書きましたが、翁の家の東門を入ったところ。東中門との間に輿(鳳輦)が置かれ、すでに帝は輿を降りていることがうかがえます。こんなのが来たら、誰もが大騒ぎして、かぐや姫にもすぐにバレたと思いますが、そこは帝自身が「忍び」と言っていますので、前駆などもひそかに行ったということなのでしょうが、鳳輦が通ったら、町の人たちはおとなしくはしていないでしょう。もちろんこういうことは「映画のうそ」で片づけてよいのだと思いますが。赤とんぼが舞う翁の家には敷物が敷かれており、帝はそれを踏みしめながら東の対(寝殿造りの東側の建物)の階を登って行ったようです。普通なら中門廊(中門は門をくぐり抜けるのではなく門内から北に向かって廊があります)を通るのですが、何か意図があったのか、よくわかりません。なお、この場面は
『年中行事絵巻』
に見える東門と東中門の絵に似た場面があり、あるいはそれを元に描かれたのかもしれません。
帝は東の対の西廊(東の対の西側の簀子)を通って、東北の渡殿(東の対から寝殿につながる通路)からかぐや姫のいる寝殿(母屋)に向かいます。この画面は透渡殿(すきわたどの、すいわたどの。渡殿の南側の反橋のようになった廊下。吹き放しになっている)越しに描かれます。なお、帝の冠の纓は『源氏物語絵巻』(平安時代末)のものと同じようにまっすぐ下に垂れる形です。
そして寝殿の東北の妻戸から入って、かぐや姫が琴を弾いているところを几帳の間から覗きます。あまりの美しさに彼はすぐに行動に出ます。そして「私がこうする(抱きしめる)ことで喜ばぬ女はいなかった」と、今どきの若い女性ならこの言葉だけでも「アウト」になるようなことを言います。帝は輿を寝殿の脇に回すように命じて、かぐや姫を引きずって行こうとします。
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- [2023/08/02 00:00]
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