久しぶりの大阪歩き(3)
産湯稲荷神社とは奇妙な名前です。実は神社本堂に向かって右手の少し階段を下りたところに覆屋が見えそこには井戸があります。これは玉ノ井とも呼ばれていて、このあたりを開拓したとされる大小橋命(おおばせのみこと)がこのあたりで生まれて、玉ノ井の水が産湯に使われたというのです。
玉ノ井のさらに奥(東側)には不動明王も祀られています。私はもう少しゆっくり見ていたかったのですが、蚊が多くてじっとしていられず、また別の季節に再訪しようと思って早めに切り上げたのです。ここからはJR鶴橋駅が近いので帰ろうとは思ったのですが、何となくもう少し歩きたいという気持ちになって、味原池のあったあたりから府立高津高校の西側を通って円珠庵(天王寺区空清町)に向かいました。遠回りをすればずいぶん前に訪ねた梅川忠兵衛の供養墓(天王寺区城南寺町)もあるのですが、それはやめておきました。
円珠庵に行くのも何十年ぶりだと思います。時刻がすでに5時を過ぎていましたので中には入れませんでしたが、学生時代にとても敬愛した国学者の
契沖
が住まいとした寺で正式には鎌八幡と言われます。最近、見学者のマナーが悪いそうで、境内では写真を撮ることはできません。昔は撮れたような気がするのですが、違ったかな? 契沖という人はほんとうにたいした勉強家で、『万葉代匠記』『勢語臆断』『古今余材抄』などの著書を残しています。私の場合は、特に『勢語臆断』『古今余材抄』に、学生の時以来ずいぶんお世話になりました。
以前渡舎このブログで学生時代に恩師に唯一認めてもらったのは「解釈力」だった、ということを書きましたが、契沖にしても賀茂真淵にしても本居宣長にしても、とにかく解釈力がすぐれていたと思います。それだけに私は契沖には(能力ははるかに及ばないですが)親しみを覚えます。
さて、こんなもので帰ろうかと思ったのですが、ここまで来ると玉造駅まで行かねばならず。それならついでに、と、さらに少しだけ遠回りすることにしました。大坂城の出城である真田丸の跡地とされる明星学園という私立の中高があります。その学校の南から東へ回るように歩くと、私には記憶がないのですが、真田丸の顕彰碑というのがあるようですので、そこを目指しました。
途中には
木村兼葭堂
の墓所である大應寺があり、ここにも谷文晁画の兼葭堂の肖像をもとにした案内板が建てられていました。そしてしばらく歩くと真田丸顕彰碑がありました。知らなかったはずで、1916年に建てられたそうです。実はこのすぐそばの心眼寺門前にも「真田幸村出丸城跡」の碑があるのですが、うっかり通り過ごしてしまいました。私は武士にはあまり関心がないので、気にしていませんが(笑)。
さて、あとは玉造まで一気に行こう、と思って歩いているとどんどろ大師(善福寺)に出くわしました。ああそうか、こんなところにあるのか、とちょっとびっくり。以前ここに来たときは西から歩いてきたのですが、今回は南からでしたので、ここに至るとは知りませんでした。どんどろ大師は大坂城代だった土井利位という人物が熱心に通った真言宗の寺で、「土井殿の通ったお大師様の寺」が「どいどの大師」になって、それが訛って「どんどろ大師」になったと言われます。
歌舞伎では「どんどろ大師門前の場」として、『傾城阿波の鳴門』の舞台となっています。ここでお弓とおつるが出会うのですね。そこでこのお寺の門の左側にはお弓とおつるの像が置かれているのです。とても久しぶりに訪れたためか、何だか以前とイメージが違っていました。久しぶりの場所って、既視感とともに違和感もあるように思います。
こうして、私の久しぶりの大阪歩きは終わり、玉造駅まで歩いて大阪環状線に乗ったのです。
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- [2023/09/30 00:00]
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仲秋の名月2023
本日、9月29日(金)は旧暦では八月十五日に当たります。ということは仲秋の名月です。神戸では、月の出が17時51分だそうで、18時を過ぎると建物の上に出始めることでしょう。
今年は8月末(旧暦七月十五夜)がスーパームーンとか言ってとても大きく見える月だったようで、仲秋の名月がもっとも明るいというわけではないようです。しかし、蒸し暑くも寒くもないこの時期の月こそ、観賞するのにもっともふさわしいのでしょう。
歌川広重の短冊絵に
月に雁
があります。
満月と交差するように雁が描かれたものですが、この「月」と「雁」との組み合わせは古くからあるもので、『古今和歌集』に
白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の
数さへ見ゆる秋の夜の月
さ夜中と夜は更けぬらし
雁がねの聞こゆる空に月わたる見ゆ
があります(どちらも「よみびと知らず」)。前者は明るい月ゆえに雁の数まで見えると言っています。白い雲に浮かび上がるような雁が月の明るさでよく見えるのです。雁は秋に渡来して春に北に帰りますので、その到来は秋が来たことの証明でもあります。
『竹取物語』ではこの夜に月から迎えがやってきてかぐや姫は去っていきます。市川崑監督のものはUFOに乗って、高畑勲監督のアニメでは
弥陀の来迎
のようなお迎えがやってきました。
先だって、インドが無人探査機の月面着陸に成功したというニュースがありましたが、こういう話を聞くと、夢のある話とも絶望的な話とも思えます。かぐや姫は暮らしていない、餅をつくウサギなどいない、という、「実は誰もが知っている」のに「心のどこかで信じたい」と思っていることを容赦なくそんなものはうそだと決めつけてしまうからです。科学の発達は希望と絶望の両面を持っているように思うことがあります。絶望のもっともわかりやすい例が原子爆弾であることは言を俟たないでしょう。
科学が夢を膨らませてくれる反面、人類の存続を窮地に追い込む可能性を持つことは今や常識だと思います。
科学とは夢と絶望
月面に無人探査の機械が降りる
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- [2023/09/29 00:00]
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久しぶりの大阪歩き(2)
小橋という地域はわりあいに広くて、JR鶴橋駅を挟んだ東西に及んでいます。東側は東成区東小橋というところで、天王寺区小橋町は近鉄電車の線路を含む北側です。『迎駕籠死期茜染』のいう野中の井戸がどこにあったのかはわかりませんが、とりあえず小橋町をぐるりと歩いてみました。地図でわからなかったのは、東に向かって下り坂になっていること、言い換えると西の方(産湯稲荷神社のあたり)がやや丘陵地になっていることでした。大阪は上町台地の東西が低くなっていますから、下り坂になるのは当たり前なのですが、実際に行くまでは実感がありませんでした。
小橋町の北には大正時代まで味原池があったのですが、この池とともに丘陵地は桃の林として景勝の地であったそうです。
伝染病治療のための施設であった桃山病院(天王寺区筆ケ崎町。今はない)の名称もこの桃の林に由来するのかもしれません。小橋町の最寄り駅であるJR「鶴橋」のひとつ南側の駅は「桃谷」ですが、この駅は本来大阪鉄道の
「桃山」駅
だったそうです。のちに大阪鉄道は合併して関西鉄道になり、さらにその後、関西鉄道は奈良鉄道も合併します。ところが奈良鉄道にも桃山駅(伏見桃山の「桃山」)がありますので、もとの大阪鉄道の駅が「桃谷」になったのだそうです。
産湯稲荷神社の所在地は、もとは比賣許曾(ひめこそ)神社があったところ(今は東成区に移転)で、産湯稲荷はその境外末社だったそうです。
「稲荷俥」という落語があります。もともと上方のものですが、江戸落語にも移され、そちらでは上野から王子稲荷まで俥に乗せる話にされました。上方では桂米朝師が戦後に復活されたのですが、その内容は次のようなものです。
高津で客待ちをしていた梅吉がある人物に「産湯まで」と頼まれ、あのあたりは狐が出るから、とためらいつつも30銭出すといわれて乗せることにします。梅吉が身の上話などをしているうちに産湯の森が近づいてきます。梅吉は狐が怖くて「もうこの辺で」というと、男は「私は産湯の稲荷のお使いの者(狐)だ」と言い、目的地まで生かせたあげく、「お前は正直ものだ、近い内に福を授けよう」といいかげんなことを言って車代を踏み倒して去っていきます。梅吉が帰宅して妻に事情を話しますが、妻はもちろん信じません。ところが俥の中を見るとそこには150円という大金がありました。男の忘れものです。これは警察に届けねばと彼女は言いますが、梅吉は「稲荷様のお恵みだ」と言って近所の人を集めて酒宴を始めます。一方くだんの男は150円を忘れたことに気付き、乗り逃げしただけに警察にも行けず、身の上話の途中で聴いた俥屋の家(高津四番町)に行きました。梅吉はお稲荷様のお越しだと言って大喜びして酒をふるまおうとします。男は「穴があったら入りたい」というのですが、梅吉は「とんでもない、お社を建ててお祀りします」。
落語と言えば、小佐田定雄さんの新作落語にも
産湯狐
があります。こちらは桂枝雀さんがお話しになりました。
極道者の息子の吉松が家を飛び出したあと、その母親のお米(およね)が「吉松が無事に戻りますように」と毎朝お膳を産湯稲荷に供えに行くようになって、風邪気味なのに無理を押して行ったところ、倒れてしまいます。長屋の隣の男が明日からは代わりにお膳を供えてやると約束して、妻のお咲(おさき)に頼みます。お咲も承知してお膳を供えるのですが、夕方御膳を下げに行くとカラになっています。宮司さんの話では、狐の仕業だろう、ということでした。
そんなある日の夜中、お米婆さんの家からお米と若い男の声が聞こえてきました。長屋の薄い壁に穴をあけて覗くと、そこには吉松がいたのです。翌朝、事情を聴くと吉松が帰って看病してくれたとのことでしたが、吉松はまたどこかへ行ってしまったとのことです。
その夜、また吉松が来ているようです。雪の降る早朝、男は吉松と話をしようと思って隣に行きますが、また吉松はいません。おかしいと思って外を見ると、狐が一匹屋根から屋根へと飛ぶように去っていくのが見えました。
そんなお話です。「きっちゃん」と呼ばれる「きちまつ」は、もちろん「きつね」をもじった名前でしょう。
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- [2023/09/28 00:00]
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久しぶりの大阪歩き(1)
平安時代のことを日ごろ考えるものとしては、やはり京都に詳しくありたいと思います。誰が生まれた場所だとか、こんな政治事件があったところだとか、そういうことも大事ではあるのですが、私にとってもっと大切なのはそこに多くの庶民が住んでいたその息遣いの名残というか、生活のにおいを感じたいということなのです。
京都の町は平安時代そのままに残されているわけではなく、二条大路より大きな顔をしている(笑)御池通りなどを見ると、何だか違うなぁ、と思ってしまいます。それでもその違いもまた歴史の必然というか、意味があってのことでしょうから道を歩きながらいろいろ考えることがあります。
神社仏閣
ももちろん重要ですが、今となってはあまり観光する気分にはなりません。その社寺に沁み込んでいる平安時代の人の血や汗が感じられたらそれでいいように思うようになっています。
大阪も歴史のあるところですが、平安時代の人にとってはそれこそ観光地のようなところで、住吉や四天王寺などに参詣することが大きな目的になることが多かったはずです。大阪の人々の生活というと、やはり江戸時代の印象が強くなります。
9月半ばに用があって久しぶりに大阪に行きました。用があったのは天王寺区でしたので、帰りには少しその界隈を歩こうと思っていました。私は天王寺区の特に北の地域についてはあまりよく知らないので、だいたいこういうところなのだというイメージをつかもうと思っていました。イメージというのは、街の賑わいや雰囲気もそうなのですが、地図やグーグルのストリートビューではわからない距離感とか坂道の傾斜とか歩く人の顔つきなどです。
この日まず目指したのは小橋公園の北側にある
産湯稲荷神社
でした。特にこの神社に関心があったわけではないのですが、このあたりは天王寺区小橋町という地名で、少し前に読んでいた『迎駕籠死期茜染』「聚楽町」にその地名が出てくるからです。その段の最後の部分で、登場人物の長吉という子どもが姉のためにお金を盗み、姉に金を渡したあとそっと「小橋の野中の井戸」に身を投げようと思っていた、という話があるのです。それで、この作品は近代では『迎駕野中の井戸』というタイトルで上演されてきました。
もちろん、「野中の井戸」ですから、具体的にどのあたりにあったのかなんてわかりません。そこでとにかく「小橋」という地名のあたりを歩き回ろう(笑)と思った次第です。そのわかりやすい場所が小橋公園であり、その北隅にある産湯稲荷だったのです。
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- [2023/09/27 00:00]
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大阪府西宮市
九州とか東北などの人は、西宮市、芦屋市、宝塚市などといっても、それがどこにあるのかご存じでない方が多いと思います。私の兄は九州でしばらく生活していたのですが、「西宮は大阪だ」と思っている人がとても多かった、と言っていました。九州のように遠方でなくても、「西宮市がどこにあるかなんて知らない」という人はかなりいらっしゃると思います。それは当然で、私でも「宇都宮市が何県か」と問われたら瞬間的に「えーっと、群馬か栃木だったような」といういい加減さです。まして「川越市は?」「志木市は?」「桐生市は?」と聞かれてすぐに答えられる関西人は多くはないでしょう。
阪神タイガーズが優勝しましたが、このチームは本社が大阪市にあって、本拠地は兵庫県(!)西宮市にあります。しかし、全国的には
大阪の球団
と思われているでしょう。
だって、優勝したら武庫川(西宮市を流れる川)ではなく道頓堀(大阪市の運河)に飛び込む人がいて、パレードと言ったら大阪市の御堂筋でおこなったりしますから。広島カープが優勝したというので山口県の川に人が飛び込んだというのではニュースになりませんし、岡山県でパレードをするかというとちょっと考えられません。しかし、阪神はやはり「大阪のもの」という意識の人が多いのでしょうね。しかし、パレードというなら、兵庫県神戸市も黙ってはいません。以前もフラワーロード(神戸市役所や東遊園地などに沿った道)でパレードをしたことはあるのですが、今回も意欲を持っているようです。大阪の知事と兵庫の知事は同じ政党のお友だちですので、けんかにはならず、
「一緒にやろうね」
ということになるかもしれません。
オリックスも今は大阪が本拠地ですが、もともとは神戸なのです。しかし、あまり話題にならないのは、阪神人気とは比較にならないからでしょう。
うちの長男が『名探偵コナン』が大好きなのですが、彼の持っていたコミックを見たことがあり、そこには「大阪と言えば甲子園」「大阪と言えば宝塚歌劇」と、よりによって大阪の若者が言い合っている(コナン君がぼそっと「どっちも兵庫県じゃねえか」と、きつい関東弁で言うのですが)場面がありました。
つまり宝塚歌劇までが大阪扱いされているわけです。「大阪と言えば大阪ドーム」「大阪と言えば文楽」ですけどねえ。
関西地方は京都と大阪という個性的な「府」があり、兵庫「県」はワンランク下に見られてかなり影が薄いのです。
ただ、私はそんな兵庫県を愛する者で、京都、大阪、神戸の街なら一番好きなのは神戸です。下町のちょっと怖そうなところもあり、中心部には山側にも海側にも異国情緒の漂う場(異人館、外国人居留地、中華街、教会、モスクなど)があり、東側には高級住宅街があり、港の街で酒の街。とてもすてきなところです。
お願いですから、大阪府神戸市と覚えていらっしゃる方、改めてくださいね・・。
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- [2023/09/26 00:00]
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さくらとラガーマン
私は中学生の時にサッカーに夢中になっていたため、ラグビーについてはよく知りませんでした。高校にはラグビー部があったのですが、当時部員が3~4人で、同級生が部長だったのですが、ほんとうにみじめな「部活」をしていました。グラウンドの片隅で、数人でスクラムを組んで押し合いをしているだけだったのです。ただ、その同級生は学業優秀でとてもきまじめな人で、それを後輩たちと一緒にひたむきに続けているようなところがあり、誰からもバカにされるようなことはありませんでした。試合もできず、あれが続けられるのはたいしたものでした。
授業でも3年生になるとラグビーがあり、私は、体重はまったくないのですが、背が高いというだけの理由でスクラムを組むFW役が当てられました。細かったとは言っても、上背がなくて太った人くらいの体重はありますので、そんなに押し込まれることはなかったと思います。
あれはなかなかおもしろい競技で、前に進むのに、ボールを
前に投げてはいけない
という逆説的なルールがあって下手なチームがボールを回すとどんどん後退していくような滑稽さもありました。
さて、今年はバスケットボールに続いてラグビーのワールドカップもフランスで行われています。前回は日本で行われましたので、にわかファンがどっと増えて、しかも日本チームが健闘したので大きな盛り上がりを見せました。ラグビーというと、アイルランド、南アフリカ、フランス、ニュージーランド、イングランド、スコットランド、ウェールズなどのチームが思い浮かぶのですが、ユニフォームもそれぞれに特徴があって、一番よく知られるのはオールブラックスことニュージーランドの黒でしょう。彼らは同国の民族舞踊の「ハカ」のひとつである
カ・マテ
を試合前に披露することでも知られます。「カ・マテ、カ・マテ、カ・オラ、カ・オラ」という切実なまでの激しい叫びが民族舞踊らしさを醸し出します。
一方、日本チームは日の丸と同じ色の「赤と白」の横ストライプ(日本風にいうとボーダー)のユニフォームでとても明るい感じです。左胸には桜のエンブレムが入っていて、いかにも日本という感じです。
ニュージーランド代表は「オールブラックス」、南アフリカ代表は「スプリングボックス」、イングランド代表は「レッドローズ」、オーストラリア代表は「ワラビーズ」などという愛称を持っています。それに対して日本代表の愛称は「チェリーブラッサムズ」「ブレイヴブラッサムズ」などと言われているようです。桜のように華やかに咲いて潔く散る、というとなんだか「武士道」そのものですね。
そういえば、メンバーは集まりませんでしたが、あの高校時代の同級生ラガーマンにも桜のような潔さがあったと思います。
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- [2023/09/25 00:00]
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2023年8,9月 文楽東京公演千秋楽
文楽東京公演が千秋楽を迎えました。これをもって初代国立劇場における文楽本公演とはお別れということです。演者さんがやりやすいとおっしゃっていた今の小劇場の規模が守られることを願います。
呂太夫さんがおっしゃっていましたが、初代国立の最初の公演(こけら落とし)でも三番叟が上演されましたが、そのとき翁を語られたのは十代豊竹若太夫。そして最後の翁を呂太夫さんが語られたのは何か因縁めきます。
咲太夫さん、どうかお元気になられますように。
私もいろいろ思い出がある場所だけに、いくらかは寂しい気持ちにもなります。
御覧になった方はいかがでしたでしょうか。
一年はほんとうに早く、次の本公演は大阪では年内最後です。
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- [2023/09/24 00:00]
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それは技術に過ぎない
数学者の岡潔さんが前世紀の科学のなしたこととして「破壊」と「機械的操作」を挙げていらっしゃったことは少し前に書きました。
科学と戦争は密接な関係にあって、あたかも科学者は戦争をするために研究しているかのように見えることがあるかもしれません。しかし本来、科学者というのは、自分が疑問に思うことを学問的な手続きを踏まえたうえで解き明かしていくことに人生を賭けている人たちのことでしょう。私にはわからない、数学の難問を解き明かすことに夢中になる人がいるのは、実は科学者の本来の姿なのだろうと思います。
最近私のような文学の勉強をしてきた者がしばしば言われる
「世の中の役に立たない」
といういやな言葉は、何も文学だけではない、基本的にはすべての科学者に当たるかもしれません。たとえ役になんて立たなくても本気で勉強する人にとってはそんなことどうでもいいことではないのだと思うのです。
ところが、文学の場合はどうあがいても「役に立たない」のに、サイエンスのほうは結果的に「役に立ってしまう」ことがあります。例えば兵器を造ることを目標に研究していたわけでもないのに結果的にそういう形で「役に立ってしまう」わけです。そして、多くの報酬が得られることもあり、名誉という意味でも魅力的。時の権力者にもてはやされて、行きつくところは
御用学者
ということになります。そういう人は、科学者としていつの間にか道を外してしまったように感じます。思えばあのノーベル賞のアルフレッド・ノーベルもダイナマイトなどの発明で巨万の富を得て、「死の商人」とまで呼ばれたことがありました。私が子どものころ、ノーベルはダイナマイトを作ってそれが兵器に使われるとは思わず、悲しくてノーベル賞を設けた、という美談を聞かされた覚えがあるのですが、どうもそうとは言えないようです。
「結果的に役に立ってしまった」というと、原子爆弾がまさにそれで、なにも爆弾を作ろうとして研究していたわけではないのに結果的にそちらに持っていかれてしまったということではないでしょうか。最近読んだ池内了『科学者と戦争』(岩波新書)では、原爆の開発は、「原子核物理学」(何のことか知りません)の原理が分かったうえで「爆発物として実現する技術の開発」であったと記されています。ドローンでもそれが軍事に用いられるのはやはり「技術」です(これも池内氏の本に書かれています)。「科学技術」という言葉があるように、科学は技術の上なのかというと、そうでもなさそうです。池内さんは「科学は技術に従属するのが当然とされてきた」とおっしゃっています。そういえば「人形浄瑠璃」というのもあくまで浄瑠璃があっての人形芝居です。初代玉男師匠は「きつねうどんはうどんが主役」とおっしゃっていました。
文学の研究などはどんな技術を使っても原爆を作ることはできませんから、権力者にとってはどうでもいい(笑)学問に思えるのだろうかとひがんで(笑)しまいます。いや、実は嬉しいことですけどね。
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- [2023/09/23 00:00]
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パインアレ
阪神タイガーズの岡田監督は、マン・オブ・ザ・関西2023でしょう。全国的にはそこまで話題になっていないかもしれませんが、関西では六十代も半ばの現役最高齢監督が時の人になりました。この人はけっして話し方も流麗ではなく、愛想がいいわけでもなく、特に男前というわけでもないのです。子ども野球チームの監督のような雰囲気でありながら、あれよあれよというまにアレ=優勝をなしとげてしまいました。この人が昨年の秋に監督になるという話が出た時ときには「今さら岡田さん?」「もっと若い人を」「地味で冴えない」という声があったのですが、勝てば官軍というか、今や称賛する人ばかりです。これでもし日本一を達成しようものなら、さらに人気が高まるでしょう。阪神というチームは、50本ホームランを打つとか、首位打者になるとか、15勝したり沢村賞を取ったりするような絶対的な選手がいません。それだけによけいに岡田さんが表に出てきているように思います。
メディアも岡田さんのどこかとぼけたような物言いを旨く記事に取り入れました。岡田さんは「ウン」というかわりに鼻に抜けるような「オン」に近い発音をされるようです。これを
「おーん」
と平仮名の長音で表記して記事にそのまま使うのです。これが岡田節として定着しました。監督が記者と話すときに「それはね、君」と言うことがあるでしょうが、岡田さんは「そら、おまえ」とおっしゃり、これもそのまま記事に取り入れます。新聞記事にするときは字数を節約するために、こういう合いの手のような言葉は省いてしまいますが、ネット記事ならさほど気にすることはありません。新聞記事なら「もちろんです」とでも書きそうな味も素っ気もない言い方を、お話になる言葉そのまま「そら、おまえ、決まっとるやないか、おーん」などと書くわけです。こういうものの言い方が関西人、特に大阪の人の気質によく合うのではないかと思います。
今は地上波のテレビ、BS、ネットなどでほとんど毎試合放送もありますから、ベンチの監督の表情が細かく伝わります。
その中で岡田さんがときどき飴を口に含む場面が映ります。岡田さんのお好きな飴で、大阪に本社のある
パイン(株)
という会社が製造販売している「パインアメ」がそれなのです。パイナップル味の飴なのですが、形も食べられるサイズに切ったパイナップル型、わかりやすくいうとドーナツ型になっているのです。以前、テレビの番組で岡田さんがインタビューを受けたときにこの飴が好きだとおっしゃったらしく、それを聞いた会社側はさっそく岡田さんに大量の飴を送ったそうです。その結果毎試合岡田さんが飴を舐める場面が映り、ファンもそれに追従するようになってとんでもない人気を博したのです。広告費を出さなくてもメディアは勝手に取り上げてくれるわけですから、飴の会社としてはこのうえない宣伝になります
そして優勝すると「パインアメ」に「優勝」の意味の「アレ」を掛けて「パインアレ」という商品を発売、巾着のような入れ物に飴が入ったものなのですが、これがあっという間に売り切れたそうです。飴は舐めれば終わりですが、この巾着は「レアもの」としてファンは大事にするのではないでしょうか。ファンも飴を舐めたいわけではなく、記念に欲しがるわけですから。
こういうことを含めて阪神の優勝は関西に大きな経済効果をもたらすようです。
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- [2023/09/22 00:00]
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「アレ」という表現
プロ野球阪神タイガーズの岡田監督が「優勝を目指す」という代わりに「アレ」という言葉を使って「優勝」を表現したのは関西人らしい技巧でした。昨日も書きましたが「アレ」というのはとても漠然とした言い方ですが、だからこそ野球チームという集団が心の内に秘める決意としてはよかったのだと思います。言葉としては「アレ」としか言わず、しかし誰もが優勝を意識している。監督の思う壺というべきでしょう。
高齢のご夫婦などが「アレ、どうなった?」「まだですよ」「あ、そう、頼むよ、アレ、そんなに急がないから」というだけで意思の疎通が完成することがあるようです。「アレ」というだけでお互いの心に同じものが思い浮かぶことが前提になって会話が成り立つのですね。
落語のマクラで
「どうも」
というだけで会話が成り立つ、というのがあります。二人の人物が出会います。
「どうも」
「あ、どうも」
「どうも、どうも」
「いやぁ、どうも、ハッハッハ」
「ほたら、どうも」
「どうも」
とだけ言って別れるというのです。もちろん実際にはここまで極端なことはありませんが、会話の言葉というのは時として具体的でなくてもよい、あるいは具体的でない方がうまくいくのだろうと思います。そういう我々の日常をうまく捉えたマクラだと思います。
私は最近しょっちゅう
物忘れ
をするようになったのですが、そんなとき「えーっと、アレ、あのう、アレ、えっと」とぶつぶつ言っていると親しい人が「○○のこと?」と助け船を出してくれることがあります。そんなとき、単に忘れ物を思い出しただけではない、「わかってもらえた」という、喜びが感じられることがあります。
岡田さんの場合は、忘れたのではなく、むしろ逆に明らか過ぎるほど明らかな「優勝」ということばを徹底的にぼかすことによって「仲間内」にだけわかる隠語のような意味を持たせました。そうすることで関西の野球ファンの心をつかんで「アレ」と言うだけでその意味を理解する人、「優勝」なんてあからさまなことを言わずに「アレ」でわかる人は誰もが仲間だ、という意識を芽生えさせることに成功したのだと思います。甲子園球場のファンの中には「アレM5」などという摩訶不思議なフリップを持っている人もいました。つまり「アレ(優勝)までのマジックナンバー5」という意味です。テレビカメラも黙ってはいませんから、盛んにそういう人たちを映していました。
「アレ」はちょっとした魔法の言葉と言えるかもしれません。
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- [2023/09/21 00:00]
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アレ
関西限定なら今年の流行語としてこの言葉が挙げられるかもしれません。一番流行したとは言いませんが、一部の人の間では、この、あまりにも漠然としたことばがとても具体的な意味を持つものとして使われています。
その言葉は、プロ野球の阪神タイガーズの監督である岡田さんが昨秋の就任のときに使った
アレ
という言葉です。
実は岡田さんはこの言葉を以前オリックスの監督だった頃に使ったことがあったそうです。パ・リーグとセ・リーグの交流戦での優勝を目指すときに優勝のことを「アレ」とぼかして表現したのです。それを昨年阪神の監督になった時にも使ったようです。すると、さすがは人気球団の阪神です。関西では「アレ」と言ったら「優勝」のことを指すようになり、「アレを目指す」という言い方が選手はもちろんファンの間でも使われるようになりました。
そして阪神は今年のスローガンを「ARE(アレ)」をもじって「Aim Respect Empower」と決めたのです。
岡田さんという人は、大学は関東の早稲田大学ですが、もともと大阪の人で、ずっと大阪弁でお話しになってきたようです。どこか
とらえどころのない
お人柄で、ポカンと口を開けて相槌を打ったりして、新聞記者との囲み取材だと「そら、おまえ、○○やろ」などという、「大阪のおっちゃん」そのもののようなものの言い方をされるようです。
ところが「大阪のおっちゃん」は怒ると怖いのです。盗塁しようとした選手から相手チームの内野手が完全にベースを隠してしまうというできごとがありました。これはダメだろう、と多くの人が思ったはず宇なのに、審判の判定は「意図的ではないからランナーはアウト」という不可解ものでした。それに対して岡田さんは目の色を変えて抗議し(たぶんガラの悪い言葉のひとつも吐いて)、審判を震え上がらせたうえ、日本野球機構(NPB)に「ブロッキング・ベース」という形でルールの運用変更まで決めさせてしまいました。
何も考えていないような顔をして、実は綿密に試合をメイクしていくのがこの方の特徴だと思います。私が感心するのは、攻撃よりも守りを徹底的に練習して、相手に得点を許さない野球を実現していることです。それも、個々の選手の力量の向上というよりはチームプレイとしての守備を重んじ、鉄壁の守備陣を作り上げました。外野からの返球とかダブルプレイの取り方とか。阪神はもともと投手は力があるのですが、今年は新たにほかのチームでくすぶっていた投手を採用して、その選手は大活躍しました。
そういうさまざまな成果があって、9月14日に、ついに阪神は優勝しました。私は阪神ファンではないのでその試合も観ていなかったのですが、とにかく関西では絶対的な人気を誇るために、いつも阪神の試合を見せつけられています。それだけに、優勝したと聞いたときは何となく「よかった、よかった」という気持ちになりました。
このあとまだプレイオフがあって、日本シリーズへの出場権を賭けて争います。今年はプレイオフに出場するのがオリックス、ロッテ、ソフトバンク(全部カタカナ)、阪神、広島、横浜になりそうで、最終的に日本シリーズが兵庫(阪神)対大阪(オリックス)になる可能性があります。かつて、1964年に兵庫(阪神)対大阪(南海)というのはあったようですが、それ以来というできごとです。さて、そうなるのか、横浜、広島、福岡、千葉などの球団が阻止するのか。
もし阪神対オリックスになると、なんと、この両チームの本拠地はどちらも阪神電鉄の駅が最寄りにあります。阪神さん、もうかりそう、株価も上がりそうですね。
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- [2023/09/20 00:00]
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獺祭忌
9月19日は正岡子規の命日です。つまり「子規忌」なのですが、「獺祭忌」「糸瓜忌」ともいわれます。
「獺祭忌」というのは、彼が「獺祭書屋(だっさいしょおく)主人」と称したことにより、「糸瓜忌」は、子規の最後の句に「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」などがあるためにそう言われるのです。
正岡子規は短歌、俳句どちらでも名を残した人で、私も好きな作品があります。前掲の「糸瓜咲て」の句は、やはり呼吸器に持病のある私にとっては他人事にも思えないほどです。
彼が野球好きだったことも、親近感を覚えます。子規が、本名の「升(のぼる」にちなんで
「野球(のぼーる)」
と称したこともあるのは以前ここにも書いたと思います。「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」という短歌があるのですが、素直に野球を愛好する気持ちがあらわれた歌です。
ほかにも教科書にも出ている
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
のような短歌もとても言葉の使い方がきれいですてきです。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
人も来ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花
足たたば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く
など、とても発想の面白い歌や子規ならではの写生の歌などさまざまです。
俳句では、
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
という著名な句がありますが、彼は柿が好きで、「風呂敷をほどけば柿のころげけり」「柿くふも今年ばかりと思ひけり」などもあります。
松山を詠んだ俳句にもいいものがあります。
春や昔十五万石の城下哉
松山や秋より高き天主閣
名月や伊予の松山一万戸
前述の「糸瓜」の句と同じく彼の最後の句には
痰一斗糸瓜の水も間に合はず
をととひの糸瓜の水も取らざりき
があります。
そのほかにも、
鶏頭の十四五本もありぬべし
赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
山吹も菜の花も咲く小庭哉
などなど・・・。作品を挙げているときりがありません。あえてもうやめておきます。
子規の人生はわずか35年。モーツアルトと同じです。最後は苦しかっただろうな、と思います。
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- [2023/09/19 00:00]
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敬老
9月の祝日の一つに敬老の日があります。毎年変わるそうで、とにかく月曜日が休みになるとその日が敬老の日ということです。
これまで私は全く縁のない日だと思ってきたのですが、周囲の人に「孫ができました」という人が増えてきまして、そういう人たちはお孫さんが幼稚園くらいになったら「おばあちゃん、おじいちゃん」あての手紙とか似顔絵などを書いて贈ったりするようです。
となると、同年代の人でも「敬われる」人はもういくらでもいるようになったわけですね。
まだ40代のうちに「おばあちゃんになった」という同級生がいました。私の世代の場合、20代の半ばで結婚する女性が極めて多かったので、その人たちがすぐに子どもさんに恵まれたら40代のうちにその子どもさんも20代半ばになります。だから40代でお孫さんができてもおかしくないわけです。
私の以前の教え子さんで、短大を出てしばらくして結婚した人がいました。私は結婚披露宴に招かれたのですが、その時彼女のご両親を見てびっくりしました。とてもお若いのです。
うかがいますと、なんと、
30代
でいらっしゃったのです! つまり、10代で結婚されたことになります。
その彼女は結婚後まもなく出産しましたので、おそらくご両親は40歳を少し超えたくらいの時に早くもお孫さんに恵まれたことになります。
その子どもさんは1996年か1997年あたりの生まれなので、もうすでに20代半ば。ひょっとすると私の教え子さんはすでにおばあちゃんになっているかもしれません(汗)。ということはあのご両親は今頃70歳くらいでもう
曾孫
がいらっしゃるかも!
世の中にはそういう方がいらして当たり前なのですが、遠い世界の話のように思ってしまいます。それだけに身の周りにそんな人がいるとちょっと奇妙な気持ちになります。
私はもう敬老の日に祝われることはないままに終わってしまうのでしょうか(笑)。
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- [2023/09/18 00:00]
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破壊と機械的操作
高校時代に私の苦手だった科目のひとつが数学でした。授業を聴いていても何らおもしろいと思えなかったのです。おもしろくもねぇものに時間を割くほど江戸っ子はひまじゃあねぇんだ、と、江戸っ子でもないのに思ったものでした。ところが大学生になって教養科目の数学が意外におもしろく、まさかと思うほど成績もよかった(実際しっかり理解していた)のです。もっと早くこういう数学に出会っていたら、いくらかまともな大学に行けたのではないかと思ったほどです(笑)。数学者という人の頭の中味がどういうものなのか、私には今なおよくわかりませんが、何だか「今世紀最大の難問を解いた」とかいうので新聞に記事が載ったりしているのは見たことがあります。数学者の中でも私ですらお名前を存じ上げている人に、
岡潔さん(1901~78)
がいらっしゃいます。ただし、この先生が世界的に名を知られることになる多変数複素函数論とかいう学問業績については、いうまでもなく何のことやらさっぱりわかりません。しかしこの人はもっと広い目で日本の未来について考えた人でした。
岡氏は小林秀雄氏と対談をなさって、それは『人間の建設』という本になって今なお読まれています。
その中で、二十世紀の科学、特に「科学の王者」であった理論物理学のしたこととして岡氏が第一に挙げられたのは「破壊」という仕事、そして第二は「機械的操作」なのです。これが語られたのは昭和四十年で、それからすでに約60年が経っているのです。しかし相変わらず原爆などの「破壊」兵器は捨て去ることもできず、
人類の存続
さえ脅かし続けています。「機械的操作」については遺伝子操作やAIの異常なまでの発達という形で、今も日々「発達」しています。かくいう私も、今この記事はパソコンで書いています。日々ブログやインスタグラムなどを通して思ったことを言っています。「機械的操作」の恩恵を受けていることは否定のしようがありません。しかし最近はもうこれ以上のレベルのものとは付き合いたいとも思わず、AIに文章を書かせるなどと言うこととは、できる限り縁を持ちたくないという気持ちでいるのです。
岡氏が60年後の今をご覧になったら「科学技術がさらに狭い範囲で発達するばかりで傲慢になっている」とお考えになるかもしれません(勝手に推し量るのは岡氏に失礼ですが)。
このところ、ひと昔前の人たちの予言のような言葉にいささか心を動かされています。
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- [2023/09/17 00:00]
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おだてられて
私は小さい頃から「こわがり」で、自分は何もできるはずがないと思い込むところがありました。たとえば自転車に乗るにしても、補助輪付きの自転車に小学校1年生まで乗っていた記憶があります。補助輪を外すと怖いものですから、自分は生涯補助輪なしの自転車になんて乗れない、と思ってしまうのです。
ところが親や兄が練習させようとして補助輪を外してしまいます。できるわけがない、無理、無理と思って足を地面に半ばつけながら、泣きっ面でやめさせてくれるのを待ちます。ところが何かのはずみで足を地面から離してすっと走り出すことがあります。そんなときに褒められると、突然できるようになりました。何とかもおだてりゃ木に登る、というわけです。
それでも、また別のことになると「自分にはできない」「無理、無理」の繰り返しなのです。
勉強に関しては、大学院の学生のこと、およそ自分の能力に自信がなくなって、「友がみな我よりえらく見ゆる日」が続いていたのです。そんなある日に恩師が「君は
解釈力がある
から、それを生かせばいい」と何かのはずみでおっしゃったのです。解釈力? そんなもの、ないですよ、というのが私の本心でした。でも恩師はそうおっしゃるのです。以後、私は文学論を振り回すような無謀なことはやめて、こつこつと解釈することに生きる道を求めました。これも、おだてられて木に登った一例だと思います。
とんとご無沙汰だなと思ったらにわかに頻繁にコメントをくれるようになる方がときどきいらっしゃいます。とてもありがたいことです。
最近コメント量が激増しているのは「押しego」さんだと思います。彼女は私の教え子だと自称されますが、実際は私が彼女の大学に非常勤講師として行ってほんの少し授業で出会っただけの関係で、「恩師と教え子」のようなものではないのです。ただ、何となく波長が合ったのか、授業のあと雑談をしたりするようになったのです。私もまだ独り者で若かったので、女子大生さんと話ができるのはうれしくて、授業が終わってからも何となくもぞもぞとその教室に残って、誰か話をしてくれないかな、と思っていたのです。すると何人かの人が話をしてくれて、短くも楽しい時間になりました。ただ、当時3年生だった彼女と教室で会うのは一年だけで、次の年は授業で会うことはなくなり、さらにその翌年に私はあっけなく
クビ
になりましたので(笑)、彼女が卒業すると同時に私もその大学との縁は切れてしまいました。授業で会わなくなったと書きましたが、私は授業のある日は、午後になるとその大学の図書館で勉強させてもらっており、彼女もよく図書館にいましたので、少しは話すこともできたのでした。
その彼女が最近ここで歯の浮くような(笑)お世辞コメントを書いてくれたことがあり、うれしいような居心地の悪いような気持ちになりました。
実は彼女とはちょこちょこメールのやりとりもしていまして、そこでもかつて週に一度会った時のことをうまくほめてくれるのです。人間は弱くて愚かなものですから、おだてられるとそれがお世辞だとわかっていてもうれしいものです。なんていうと、彼女は「お世辞ではない」とまたまた「お世辞」を言ってくれるかもしれません。
でも、このたびはおだてられても何かができるようになったというわけではありません。それでも、教員として生きていきたいと思った学生のころの思いがいくらかでも実現できたのではないかという満足感を与えてもらったことが何よりも心温まるものとして受け止められたのです。
ときどき毒舌も辞さない(彼女には「それはあんたでしょ」といわれそうですが)人ですが、押しegoさん、いつもありがとうございます。
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- [2023/09/16 00:00]
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田中正造
私は高校時代あまり勉強ができる方ではなく、特に数学と理科に関しては目も当てられない成績でした。この2科目ができていたらもう少しまともな大学に行っていたのに(笑)、と後悔しています(いや、実際は後悔していません)。
その一方、めったにほかの人に負けなかったのは日本史と古文でした。ただ、高校レベルの日本史の場合はほとんど「どれくらい暗記したか」で決まってくるところがあって、あまり自慢できるものではありません。実際のところ、歴史観というものを持つには至らず、上っ面の暗記だけで点数を取っていたにすぎません。
唐突ですが、たとえば「田中正造」というと
「足尾鉱毒事件」
と「直訴」という言葉を機械的に覚えておけば済んだわけです。実際、試験ではそれだけで「優秀な成績」がとれたのです。そんないいかげんなことでしたから、足尾鉱毒事件が歴史の中でどういう意義があるのか、なぜ今日まで問題になるのか、あるいはそもそも田中正造とはどういう人物なのが、なんて、何も知らないまま高校を卒業しました。
私は藤原道長の日記を読む仕事をしてきた(つまり平安時代の最高権力者の話を聞いてきた)のですが、それでいていつしか道長の「弱者」としての面に興味を持つようになったのです。彼は病弱でしたし、「こわがり」だったのではないかと私は思っています(胆がすわっていたということをわざわざ強調する伝承もあるのですが、だからこそあやしい・・笑)。そういう弱みにこそ関心があるのです。さらに説話集などに見られる小市民たちの話にも興味が湧き、文楽では英雄、豪傑、長者などよりも、その人たちのために苦しい思いをする町人たちに共感することが多くなりました。
田中正造はいろいろな言葉を残していますが、庶民の側に立った言葉が特に身に沁みます。岩波文庫には『田中正造文集』(一)(二)があり、小松裕『田中正造 未来を紡ぐ思想人』(岩波現代文庫)などの書物にもその言葉は多く紹介されています。おそらくもっともよく知られているのは「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」(1912年6月17日の日記)でしょう。なるほどそのとおりで、この言葉の対極にあるのが
戦争
なのだとすら思います。そういえばこの人は「戦ひは悪事なりけり世をなべて昔の夢とさとれ我が人」とも言いました。
もうひとつ、「天の監督を仰がざれば凡人堕落し、国民監督を怠れば治者盗をなす」というのもあります。歌人の馬場あき子さんも、法律で決まれば仕方ないと思って従い、黙ってついていく風潮を嘆いていらっしゃいましたが、これはまさに「政治家たちを監督しないと彼らは必ず盗みをする」という田中正造の考えに通ずるでしょう。何も人の家に侵入してものを盗っていくわけではなく、うまいこと言って制度の中でかすめ取っていくのだと思います。こちらのほうがよほどたちが悪いとも言えそうに思います。
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- [2023/09/15 00:00]
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ご当地浄瑠璃
夏に原稿用紙にするとわずか12枚程度でしたが、ご当地浄瑠璃を書いてみました。あれだけいろいろ調べたのに、95%は捨てたも同然かな、と思います。そういえば、ずいぶん昔NHKの番組に出た時、初めてカメラに追いかけられる生活をしました。カメラマンと音声さんにペアで文字どおり「密着」されて、ずっとカメラを回して、大変な量の映像を撮られました。しかし、ディレクターさんが「使うのはほんの一部で、ほとんどは使えない」という意味のことをおっしゃっていました。事実、ほんとうに多くの映像を撮られたのにオンエア10分そこそこだったような気がします。それをふと思い出しました。
論文を書く時も、あれもこれもと調べても使わないものがかなり多く、時間の無駄に思えることもあります。しかし実際は、その無駄に見えることが重要で、書いたもののどこかににじみ出ているように思いますし、よしんばそうでないとしても、後日何らかの役に立つことがわりあいにあるものです。まったく別の場面で「これは以前調べたことがあるな」と思い出して、使えることもあるのです。
ともかくも、
重源上人
に関してはいくらか詳しくなりましたし、これまで知らなかった「石風呂」とか「関水」というような言葉も覚えることができました。
以前、大阪府能勢町の浄瑠璃を書いた時も、場面設定をするために現地に行って長い時間そのあたりをうろうろしたことがありました。写真で見るだけではとてもわからないことがあり、このたびも現地に行くことに何のためらいもありませんでした。
石風呂跡というのがいくつも残っているのですが、ひとつ見ればよさそうなものなのに、私はひとりであちこちうろついて、何か所も見学してきました。現地は交通の便が悪く、バスに乗れば行けるのですが、帰りのバスまで
2時間待ち
なんてことも珍しくなく、それなら歩こう、というので延々と歩きまわったこともありました。これはこれでまったく思い掛けなかったようなものまで見物できるという「副作用」をもたらしてくれました。
今後も、命ある限り、どこかの地方の浄瑠璃が書ければ、と思っています。ただ、地方の人形浄瑠璃の団体は、基本的に古典を上演するばかりです。それは経済的な事情も、また技術的な問題もありますからやむを得ないのです。でも、私は人形浄瑠璃の形にこだわらず、素浄瑠璃ででも書いてみたいと思っているのです。私の家の近くの神社には、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連れ帰られた虎にまつわる伝承があるのです。これなんて、滑稽でありながら人間の愚かさを描けるおもしろい浄瑠璃にできるのではないかと思っています。
宮司さんに相談してみようかな・・。
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- [2023/09/14 00:00]
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バスケットボール
アメリカで、アメリカンフットボールと並んで最も人気の高い球技と言えばバスケットボールです。けっして野球ではないのですね。
NBA(アメリカのプロバスケットボール)選手の平均年俸は9億円だそうで、これはMLB(メジャーリーグ野球)の2倍以上だそうです。そして今年一番多くもらっている選手は64億円余りなのだとか。
ただ、日本での人気はまだサッカーや野球には及びません。熱心なファンはいらっしゃいますが、テレビ中継もめったにないようですし、新聞にもさほど大きく取り上げられることはありません。
ところがこの夏、
FIBAワールドカップ
がフィリピン、日本、インドネシアでおこなわれました。サッカーならフットボールなのでFIFAですが、こちらは「B」なのですね。
私は高校生の時に体育の授業で経験したのが最後で、しかも球技の中ではあまり好きな種目ではなかったのです。それでこのたびのワールドカップも開催されていることすら知らないくらい関心はなかったのですが、日本対ベネズエラの試合をほんのわずかだけテレビ観戦しました。
高校時代の経験を思い出すと、こういう高いレベルの人たちはまったく別の競技をしているかのようでした。ひとつ、ささいなことなのですが、ボールをサイドに出してしまうことがきわめて少ないことに驚きました。私たちのバスケならパスミスをしてすぐに外に出していたと思います。無駄な動きがないのでしょう。
日本にはアメリカで活躍する
渡邊雄太選手
という2mを超える大柄な人もいれば170㎝ちょっとという人もいます。もちろん大きな選手は有利な面がありますが、小柄な人の俊敏な動きもまたすばらしいものでした。あいにく選手の名前はまったくとわからないのですが(渡邊選手の名前もキャリアも調べて知ったのです)、会場では多くのファンの人が声援を送っていて、なかなか人気があるじゃないか、と再認識しました。目の前で観たらテレビではわからない迫力があるのだと思います。なお、最後まで観ませんでしたので結果は知らなかったのですが、翌日の新聞によると日本チームが逆転で勝ったそうです。
こういう機会があると、「にわかファン」が増えます。この「にわか」の存在は大事だと思います。この人たちが「じゃあ地元のチームを観に行こう」ということになるとBリーグ(日本のプロバスケットボールリーグ)の観客が増えたり、メディアの扱いが大きくなったりするかもしれません。あいにく、私の居住する県にはB1(一番上のレベル)には1チームもなく、B2に、かろうじてひとつあるだけのようです。
日本ではまだまだ人気は高いとは言えませんが、中学や高校の授業でも楽しいと思う人が増えればいいですね。ちなみに、私は下手でしたが、何点かは取ったことがあります。サッカーなら1点でも取ったら大騒ぎですが、その点バスケットは下手でもまぐれで(笑)点が取れることがありますね。
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- [2023/09/13 00:00]
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浄瑠璃は難しい
この8月、ほかの仕事もしながら浄瑠璃の創作にかなり時間を割きました。特に8月終盤は、頭の中は浄瑠璃ばかり。朝起きたらまず、前日までの文章を確認して改めるべきところを調べます。書いているときはこれでいいと思っても、1日経つとやはりダメだ、という場合が少なくありません。
そのたびに自己嫌悪というか、どうしてこんなものしか書けないのかという情けない気分に陥ります。そして書き直してはまた次の日にがっかりするという繰り返し。かなり精神衛生に悪い(笑)作業です。
ストーリーはすでに決めていたのですが、なにしろ浄瑠璃の文章は独得で、半ば韻文ですから、いかに表現するかで相当苦労します。
ある意味の言葉を使いたくても、
三味線の音
に乗らないようであれば別の言い方に変えなければならず、語りにくいと思ったらまた変えます。直前に出てくる言葉は基本的には重複しないようにしています。こうして、ひとつの言葉を考えるのにかなり時間を費やします。
小説のように、主に黙読されることを前提にした文章ではなく、耳で聴いていただくものですから、韻を踏むようなこともします。たとえば、重源は「関水(せきみず)」という水路を作って材木を流しやすいように工夫したのですが、そのことを言う部分では「水路を作って木を流した」という意味を伝えたいわけです。しかしそれではあまりに散文的で流れる感じがしないので「流した」という意味を「すいすい」という擬音で表現しようと思いました。「水路を作ってすいすいすい」。これで少し良くなったと思います。しかし何だか「作って」がひっかかります。できれば「作って」の「つ」ではなく「す」で始まる言葉に置き換えたいのです。しかし「作る」の意味を持つ「す」で始まる言葉というと・・・? こう考えた時にまた筆が(というか、キーボードが)止まってしまうのです。最終的には
水路を据ゑてすいすいすい
としました。「っ」という促音がなくなったこともあって、「水路を作って」よりもなめらかで、しかも「す」で頭韻が踏めます。
こういうことを最初から最後まで考えて作っていると、頭の体操になるというか、気が変になるというか(笑)。
私は以前から古語辞典を読むのが大好きなのですが、こういう古い文章を書くときにはさらに座右から離せないのです。間違った意味で使っていないかを調べ、時代錯誤がないかも考えます。実はある場面で「一期一会」という言葉を使おうと思ったのです。「一期」なんて仏教的な言葉で、重源上人が使うのにもってこいだと思ったからです。ところがこの言葉は茶の湯で用いられるもので、やはり時代としては合わないと考え直し、使いませんでした。
重源さんの言葉は硬めに、村の人の言葉は和語を多めに用いてしかもときには方言も交えるようにしました。
徳地の南隣の防府市では
「幸せます」
ということばを町のキャッチフレーズのように使っています。私は新しく作った言葉だろうと思ったのですが、なんとこれはひと昔前の人なら徳地でも使っていたのだそうです。
「こねえ、ええもんもろうてから、幸せます」
(こんなにいいものをいただいて、うれしいです)
というような言い方をするのだそうです。そこで、重源上人がふざけてこの言葉を使う場面を書き込んでみました。こうやって地元の方にあれこれお尋ねしながら何とか書くことができました。
これから、地元の方に見ていただいて、もし県や市の文化振興予算から補助金が出るようなら、作曲の依頼をしてもらって最初は素浄瑠璃でもいいので聴いていただき、そのうえでもし人形が付けられそうなら「オリジナル浄瑠璃」として日の目を見るかもしれません。私は大阪府能勢町のオリジナル作品を書きましたので、もし実現したら第二弾ということになります。能勢町は二百年以上の伝統を持つ土地の浄瑠璃に誇りがあるようですので、しっかり補助が出ていました。徳地は合併によって大きな市の一部(しかも東の端ということで、中心地からかなり離れたところ)になってしまいました。それだけにいささか不安があるのですが、期待はしています。
浄瑠璃を書くのはとても難しいですが、夢は広がります。
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- [2023/09/12 00:00]
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久しぶりの浄瑠璃
私はなかなか筆が進まず、書き物がいつも締め切り間際になってしまいます。
浄瑠璃に関して、遅筆になるひとつの理由は、時代背景、その土地の様子などを出来るだけ調べてからでないと書けないから、ということがあります。本所七不思議につきましても、古地図を観たり、現地の案内板を見たり、言い伝えについて調べたり、といろいろすることがあります。しかしそれでも遅すぎるのは自覚しています。ただ、筆が動き出すと、ある程度のスピードが出てきます。そして、締め切りという壁があるとさらに進むのです(笑)。
2021年の暮れに、初めて山口県防府市から山口市徳地に足を踏み入れました。防府は防府天満宮で知られますし、
種田山頭火
の出身地としても有名です。しかし私が関心を持ったのは周防国の国衙跡、阿弥陀寺、三田尻港、佐波川などでした。もちろん天満宮にも山頭火のゆかりの地にも行きましたけどね。
そして徳地(防府から北に行った佐波川沿いの盆地)では東大寺再建に大きな役割を果たして俊乗房重源にまつわる遺跡を巡り、当地の人形浄瑠璃で用いられる「串人形」も
徳地人形浄瑠璃保存会
の方に見せていただきました。
それもこれも、重源上人を主人公にした創作浄瑠璃を書くためでした。
さらに昨年もその人形による『傾城阿波の鳴門』の上演があると聴いて飛んで行きました。
これらすべてに触発されて、浄瑠璃を書くことにしたのです。題して『重源上人徳地功(ちょうげんしょうにんとくじのいさおし)』。
重源の弟子の蓮花坊という人物が材木を組んだ筏で佐波川を下るとき、岩に当たって淵に沈んだという話が伝わっています。それをもとに、土地の娘の蓮花坊へのあこがれと、僧として恋愛に踏み込めないのにその禁を犯してしまう蓮花坊の話に仕立てました。蓮花坊さんの名誉を傷つけるつもりはさらさらないのです。ごめんなさい。この作品では少し新しい試みをしてみました。わかっていただけるかどうかかなり微妙なところで、自己満足に終わってしまうかもしれません。
『古今和歌集』秋上・僧正遍照の歌に
名にめでて折れるばかりぞ女郎花
我おちにきと人に語るな
(女郎花という名に惹かれて折っただけだ。
私が堕落したなんて人に言うではないぞ)
があります。僧である自分が「女」を折った(女性と関係を持った)なんていわないでくれよ、とふざけたような一首です。それを借りて、「御馬の里」(ごもうのさと)の段」を深刻な話にしてみました。そのあと重源が筏に乗って川を下る「道行筏飛沫」(みちゆきいかだのしぶき)が付きます。よそ者にとって「御馬」という地名はとても「ごもう」とは読めませんが、地名は概してそんなものですね。当地では子どもたちにこの芸能を伝承する試みがなされていますので、道行は子どもさんに語っていただけるように短めにしました。ただし、言葉はあえて難しくしておきました。これには意見がいろいろある(現代人にわかるように書くべきだという意見もあるでしょう)と思うのですが、私は浄瑠璃の独特の韻律を伝えたくてこのようにしています。
この作品を先月末にかろうじて仕上げ、少し補足したうえで徳地人形浄瑠璃保存会の方にお送りしました。
ただ、浄瑠璃ですから、文章だけではどうにもなりません。作曲、お手本の語り、三味線の演奏が必要です。こうなると、どうしても予算が必要です。保存会とて一般の方の集まりですからそんな予算はありません。ここは何とか自治体の文化予算を割いていただけないものかと願ってやまないのです。
とりあえず、この夏の宿題は何とか終えることができました。
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- [2023/09/11 00:00]
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やり投げの美
私は小学生のころ、どうしようもない鈍足でした。このころに、所詮他人に勝てるわけがないという思い込みがこのころに強く根付いたように思います。今に続く劣等感です。ところが高校時代になると、クラスの中ほどの足の速さだったように思います。大学生になると、何しろ文学部であまり運動が得意そうではない連中ばかり周りにいましたので、トップクラス(笑)になりました。
しかし100mを10秒で走るという感覚はまったく理解できません。棒を杖替わり(笑)にして6mも跳躍するなんて異世界の話にしか思えません。世界的な選手というのは信じがたいような技を磨き、力を蓄えているものだとただただ感心します。
夏のオリンピックではもともと「より高く、より速く、より強く」というのが目標のように言われていました。だからこそ陸上競技とレスリング、重量挙げなどはオリンピックの
基幹的な競技
だったのだと思います。最近は水泳や球技のほか、格闘技、体操のような採点競技も増えましたし、さらに私の知らない競技もおこなわれるようになっていて、オリンピックのありかたがずいぶん様変わりしてきたように感じます。私はもう何十年もオリンピックを一生懸命観ることはしていませんが、たとえば次のパリ大会を一生懸命ウォッチしたら浦島太郎の状態になりそうです。
先月、陸上の世界選手権がおこなわれ、これも私はまったく観なかったのです。選手で知っていたのは田中さんという、中長距離の選手くらいで、5000mでいい記録を出されたというニュースはネットや新聞で読みました。
そんな中で、まったく知らない人でしたが、北口さんという女性のやり投げ選手が優勝したというのは、かなり大きく取り上げられましたので関心を持ちました。やり投げというのは、遠くにいる獲物を狩るために必要な狩猟民族(人間はもともと狩猟で生きる肉食獣だと河合雅男さんの文章で読みました)の技が基本にあるように思います。
私はあの競技を見ると、同じ投擲競技の砲丸投げやハンマー投げとは違った、人間の必死に生きようとする姿をもっとも純粋に表現しているように思えます。ほかのことは何も考えずに、大地の果てまで届くなら届け、とにかく遠くまで投げよう。数ある陸上競技の中でもそういうひたむきさをもっとも強く感じるのです(ほかの競技がつまらないというのではありません)。
とても変なことを言いますが、やり投げを見ていると『夏祭浪花鑑』「長町裏」の「八丁目!」で駆け出す
団七九郎兵衛
を連想します。あてなんてない、どこまでも飛んでいけ、地の果て、空の果てまでも駆けて行け。あの舞台では、団七が舞台の上手へ(花道を使うときは鳥屋口へ)駆けていくのですが、そこで人形遣いさんが止まって「はい、おつかれさん」と足遣いさんに人形を渡している姿なんて思い浮かべる必要はないと思います。団七は、「田島町の段」でまた登場するわけですが、それがあまり上演されないのは、「どこまでも駆けて行った」団七の姿を観て終わる方が、観客にとっては強いカタルシスが感じられるからかもしれません。
やり投げも、投げ終わって「○メートル○センチ」という結果が発表されるのはあまり関心がなく、助走して空に向かって投げる瞬間に私は魂が浄化されるように思うのです。
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- [2023/09/10 00:00]
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詐欺メール
先日、Facebookにある方がこんなメールが来たと紹介していらっしゃいました。
なんでも、「日本統合金融管理部」というありもしない組織の「特別権限付与事務官」という仰々しい肩書を持った人物かららしいのですが、もうこの肩書を見た時点でアウトですね。ご丁寧に、いかつい顔のおじさんの写真の入った「身分証明書」のようなものまで添付しているというのがかえって馬脚をあらわしているというお粗末。ああいう写真というのは今どきはAIで作り出せるのでしょう(しばしば見かける、「とんでもなく美人で独身か離婚したと称する人からの友だち申請」もその手法だと聞きました)。
最初は穏やかに話を持ち掛けて、放置していると急に
こわもて
の本性をあらわし、ついには脅迫に近いことまで言ってくるという手法です。
以前なら、とてつもなくひどい日本語の文章でハガキを送ってきましたが、印刷は面倒ですし、ハガキ代もばかにならないのか、メールになってきました。でも日本語のひどいのは相変わらずでした。
こういうメールが来ると、人によっては不安を感じてまともに取り合って返事をするらしく、そうなると何としてもお金を払わせる方向にもっていくのでしょう。特に強い口調で警察だの訴訟だのと言われると恐れを感じる人がいてつい騙されるということがあるようです。脅し取ろうとする金額は、よく知らないのですが、恐らく少し無理をすれば払える程度の額を言ってくるのだと思います。私が以前
浮気現場の写真を撮った
という脅迫の手紙(笑)を受け取った時は10万円だったか30万円だったかを要求してきました。私は無理してもそんなお金は払えない貧乏人なのに、もう少し人を選べよ、と思いました(笑)。もちろん清廉な生活(言い換えると「およそモテない人生」)を送っている私にそんな事実はない(笑)ので放っておきましたが。
それにしてもああいう詐欺の文章というのはどうしてあんなに下手なのでしょうか。わざと意味不明のことを言ってとまどわせようとする魂胆なのか、単に日本語を知らないだけなのか。今ならChatGPTでも使えば、もう少しまともな文章が書けそうですが。ただ、以前のハガキの時よりは多少ましになっていましたので、あるいは何らかのAIを使っているのでしょうか。
Facebookに書き込んでいた私の知り合いの人も、多くの人から「放置せよ」というアドバイスがありましたのでそうなさったと思います。しかしいざ受け取ると嫌な気持ちになるでしょうね。
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- [2023/09/09 00:00]
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日本人贔屓
野球のメジャーリーグの試合は日本時間では朝おこなわれることが多く、ネットのニュースでは昼はメジャー、夜はNPBの話題が流れて、野球ファンの人は一日中楽しめる感じがします。
メジャーではどのチームが優勝するかというよりは、日本人選手がどういう成績だったか、日本人選手の最近の動向はどうなっているか、という点が話題になるようです。ネットニュースでは、7月の終わりごろはロサンジェルス・エンジェルズの大谷選手が移籍するかどうかが連日話題になっていました。そしてそれが全米の関心を集めているかのような書き方すらしていたものがありました。
大谷選手がいかに素晴らしい選手かを、これでもかというくらい、称賛する記事も続いていました。試合のない日などは今年度末で
FA
になる大谷選手は来年どのチームに移籍するのかを飽きるほど書いています。
ボストン・レッドソックスの吉田選手も、夏になってあまり調子は良くないですが、少しでもいい成績を上げた日には誰もが感心しているかのように書かれていました。ある日には「5打数1安打の活躍」と書かれていたことがあります。これではとても「活躍」とはいえないな、とかえってがっかりするような記事があったのです。
ほかにも、菊池、鈴木、ダルヴィッシュ、前田、藤浪各選手らのようすも過大評価と言えそうなくらい、ほめる記事が目立ちます。
日本人が読む記事ですから、日本人選手を贔屓するのはやむを得ないでしょうが、あまりにも極端なのは鼻白むばかりです。
そもそも、彼らの中でもっとも有名だと思われる大谷選手でも、アメリカではそんなによくは知られていないのです。よほどの野球好きならともかく、そうでもない人は「大谷」という名前すら知らないだろうと思います。彼の所属するエンジェルズはロサンジェルスの南東に位置する
アナハイム
というところにありますが、この地域で人気のあるのは、むしろロサンジェルス・ドジャーズでしょう。
多くのアメリカ人は大谷選手ばかりかイチロー選手も知らないのです。ところが日本のメディアの書き方だと、彼らはアメリカで知らない人がいないほどの著名人であるかのように受け止められてしまうのです。
相撲に興味のある人なら、モンゴルやヨーロッパから来ている力士の名前も知っているでしょうが、さほどでもない人、あるいはまったく興味のない人が、今の横綱が誰かすら知らないのは不自然でも何でもありません。私だって、若い歌手とかアイドルなんてひとりとして知りませんし、スポーツでも、今やオリンピック競技になったというスケートボードの選手の名前なんてまったくわかりません(そもそも東京のオリンピックでスケートボードという競技があったこともつい最近知ったほどです)。
メジャーリーグの話題を読めるのは、私としては楽しみでもあるのですが、もう少し公平な視点から書いてほしい、と思うことがあります。
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- [2023/09/08 00:00]
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時間がかかり過ぎ
私は、高校野球はほとんど観ないのです。何と言っても、あの炎天下で子どもたちが野球をしているのを見ると気の毒でひやひやしてしまいます。決勝戦なんて、1日に1試合なのですからナイターにすればいいのです。でもテレビ中継の都合でもあるのでしょうか、一番暑い時間帯におこなわれています。
プロ野球はわりあいに好きなのですが、関西ではほとんど阪神の試合しか放送しません(私は地上波専門)のでそれが残念です。
高校野球とプロ野球ではいろいろな点で違いがあります。
まず気がつくのは、プロ野球では少しでも地面に触れたボールはすぐに交換することです。昔のプロ野球はそんなことはなかったのです。内野ゴロで一塁手がボールを受け取ったら内野の選手のボールを回し、そのままピッチャーに返していました。キャッチャーはボールが地面について少し汚れると手できれいに払っていました。内野ゴロでスリーアウトになったら送球を受けた一塁手はそのボールを相手のコーチか審判に渡して、そのボールは次のイニングでも用いられたのです。昔に比べるとボールの使用量は
2倍以上
になっているのではないかとすら感じてしまいます。その点、高校野球は昔ながらで、キャッチャーが汚れたボールをユニフォームでごしごし磨いている(笑)こともあります。プロ野球のやり方はもったいない、と思うのは私が貧乏性だからでしょうか。
それから、とても気になっているのが、ちょっとピンチになったら内野手が集まってピッチャーに声をかけていることです。もちろん絶対に不要だとは言いませんが、さっき集まったのにまた集まる、ということをしているのが気になるのです。守備位置から声を出せばいいじゃないかと思ってしまいます。あれはけっこう時間の無駄だと思うのです。
それから、最近は野球以外の「おたのしみ」のようなイベントも多いのではないかと思います。チアガールのダンスは華やかではありますが、長すぎると感じることもあります。試合が始まるまでだけならいいのですが、5回が終わってグラウンド整備をする時にもダンスをするところがあるようで、少し間延びしてしまうように思います。かのグラウンド整備を見るのもなかなか楽しいのですが。
ピッチャーの投球間隔は長いですし、バッターもしばしば打席を外します。駆け引きだというのですが、見ていると嫌らしくさえ感じることがあります。
その結果、試合時間は3時間を超えるのがあたりまえになってしまいました。昔は、プロ野球は2時間半、高校野球は2時間弱でした。
アメリカでも同じような悩みがあるらしく、それでなくてもアメリカンフットボールやバスケットボールの人気に押されているメジャーリーグでは、今年から
ピッチロック
という制度が始まりました。キャッチャーからボールが返ってきたら走者がいないときは15秒以内に、いる場合は20秒以内に投球動作に入らなければ違反となるのです。また、プレートを外したり牽制球を投げたりするのは一人の打者に対して2回までです。バッターも8秒以内にバッターボックスに入って足を揃えねばなりません。新たなバッターが打席に入って初球が投げられるまでは30秒以内。いろいろな決まりで時間を短縮しようとしています。ただ、そのためにピッチロック違反で試合が終わってしまったという例があり、それはちょっと後味が悪いと思います。
賛否はありますが、時間の短縮は日本でも考えるべきだと私は思います。ただ、すぐにピッチロックを採用するのか、採用する場合はアメリカで実施されていることをそのまま用いるのか、ほかの無駄な時間を削除するのが先か、考えることはいろいろありそうです。
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- [2023/09/07 00:00]
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さようなら国立劇場
東京三宅坂にある国立劇場は大劇場、小劇場そして演芸場が隣接しています。奈良の正倉院を模してデザインされた校倉造風の外観を持ち、シックな雰囲気があります。東が皇居、南隣に最高裁判所、さらにその南に国立国会図書館、国会議事堂。大阪の国立文楽劇場が怪しげな雰囲気のホテル街に隣接している(笑)のとはかなり違います。
国立劇場の設置は明治以来の懸案でしたが、戦争もあって実現せず、戦後もなかなか予算がつかず、やっと1955年になって文化財保護委員会が伝統芸能の施設としての基本的な構想を答申しました。国立劇場は伝統的な芸能を保護上演する責務があるので、けっして金もうけの手段ではないのです。
そして1966年に開場して57年。このたびこの初代国立劇場は閉場となって建て替えられるそうです。ただ、入札がうまくいかずにまだ業者が決まらないとか何とか言っていましたが、大丈夫なのでしょうか。この建て替えについては反対意見もかなり聞きました。本来多目的施設ではなく、伝統的な芸能の劇場ですから、形は決まっているようなもので、しっかりしたものを建ててしまえば100年以上だって使えるはずです。50年だけの施設ではかえって無駄が多いのではないかと私も感じます。この建て替えはもう決まっているようですが、200年劇場くらいのつもりで建ててもらったらどうかと思います。
さて、私はどういうものか、ついに大劇場に入ることはなく終わってしまいました。ここで歌舞伎を観たことがないのです。国立だけにチケットは安いですからもっと行ってもよさそうだったのに、我ながら不思議でさえあります。演芸場は演芸会も行きましたし、文楽の素浄瑠璃がおこなわれた時にも足を運んでいます。演芸場は国立劇場より新しいのに、ついでに(?)建て替えになるのですね。お金の使い方、間違ってない? 小劇場は文楽の東京公演の本拠地でしたのでもちろん何度も行っています。客席の数が出語り床設置時560人という適正な規模の劇場で、文楽の人は大阪の国立文楽劇場(出語り床設置時753人)よりやりやすいという人が多かったように思います。特に太夫さんは文楽劇場ができたとき「ここは
太夫殺し
の劇場や」(四代目竹本津太夫)とまで言われるほどがらんとして広すぎると感じていらしたようです。文楽劇場がすばらしいという声は、私個人は太夫さんから聞いたことがありません。
国立劇場にはいろいろ思い出があります。たとえば、このブログを通して知り合った多くの友人たちと出会うことができました。幕間には開演のベルが恨めしいほど話が弾んだものでした。『敵討襤褸錦』を観たのは国立劇場だけでしたし、文楽劇場でも観てはいましたが『神霊矢口渡』『勢州阿漕浦』などの珍しい演目も上演してくれました。時代物の五段目も大阪では出ませんが、こちらでは時々観ることができました。時には『狐と笛吹き』『鰯売恋曳網』のような現代作品ですべった(笑)こともありました(『鰯売』は歌舞伎のものでしょう)が、いろいろ試そうという気持ちは必ずしも悪いとは思いません。
国立劇場の外で信号待ちをしていた時に簔助師匠から「おはようさん」と声を掛けられてびっくりしたことはこのブログ(2021年4月20日)にも書いたことがあります。
別の用事で楽屋にお邪魔しているときに、稽古を終えられたらしい
八代目豊竹嶋太夫師匠
とばったりお会いして、初めてお話ししたのも国立劇場でした。実はたまたまお伝えしたいことがあってその少し前に師匠にお手紙を差し上げていたので、すぐにわかってくださいました。これ以後、嶋師匠はほんとうに親しくしてくださいましたので、いいきっかけになりました。仕事で竹本緑太夫さんにインタビューしたこともあり、ちょっと苦手だった(笑)野澤錦弥(現錦糸)さんと長い時間お話ししたのも国立の楽屋食堂でした。
1989年5月には四代目竹本越路太夫師匠が最後の公演をなさって、公演後に舞台に出て挨拶をなさったこともありました。
一時は公演ごとに満席になって、なかなかチケットが取れないことも少なくありませんでした。最近は空席が目立つ日もあるようで、関東での文楽人気もいくらか落ちてきているのか、不安があります。
思いつくままに国立劇場のことをあれこれ書きましたが、今後の文楽東京公演は当面、東京都足立区の「文化芸術劇場(シアター1010)」でおこなわれるそうです(「1010」は「千住」のこと)が、私はもう行くことはないだろうと思います。新しい国立劇場は2029年秋にできる予定だそうです(ほんとうにできるんでしょうね・・?)が、そこまで生きている元気もなく(笑)、これまた縁がないでしょう。
さようなら、国立劇場。
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- [2023/09/06 00:00]
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かぐや姫の物語の覚書でした
ここしばらく、高畑勲監督『かぐや姫の物語』についていろいろ考えてメモランダムの形で書いてきました。この映画は、月の世界という、いわば「理想郷」であるはずのところにもなかった「ほんものの愛」に憧れたかぐや姫(月では何と呼ばれていたのでしょうか)のお話でした。
彼女は月の世界で、かつて地上に降りた人が歌っては涙を流していたのを見て、涙を流すほどの「ほんものの愛」とは何なのかを知りたくなりました。禁断の地に憧れたというその罪のために、彼女は罰としてほかならぬその地上に降ろされたのでした。ところが地上の親(特に父親)が娘の幸せを願うがゆえに与えようとする「愛」、それは彼女にとっては「にせものの愛」であったために苦しむことになってしまいます。
父親としては、娘に苦労させたくありません。山を駆けずり回って、ぼろぼろの服を着て、貧しさに負けて盗みさえするような生活なんて、絶対にしてほしくない。考えただけでもぞっとするのです。ところが、そんなところに、案外「ほんとうの愛」はあるのだ、と、かぐや姫は
捨丸
の生き方を見ながら感じます。捨丸はかぐや姫が都に行ったあと、平凡な(映画では終始無表情に描かれる)女性を妻として、自分の手で粗末な家を建てて、山の木を切って、ある程度切ってしまうと今度はその樹勢が回復するまでは別の場所に行って暮らします。根無し草のような生活。それでもそこに「ほんとうの愛」があるとかぐや姫は思うのです。かつて月の世界で「まわれ、めぐれ、めぐれよ」の歌を歌っていた人は、地上で名もない貧しそうな男と暮らし、子どもが一人いたようです。その暮らしをかぐや姫もしてみたかったのかもしれません。
私はここしばらく、『かぐや姫の物語』を細かく観て、それについての覚書をここにメモしてきました。実は何らかの形でまとめて活字にしておこうと思ったのです。しかし、どうしても
高畑勲監督
ほかのスタッフの皆さんのインタビューを集めきることができず、また、私の身体的な事情から、そのインタビューの中味を理解することの難しさがわかり、とりあえず保留することにしました。
それでも、この作品をしっかり見つめることができて、平安時代を専攻してきた者としての視点を持つことができたように思います。
ここに書いてきたことは、私が考えてきたことの一部なのです。勉強することはいつでも、どんなところにでも転がっています。
この作品を観ることで、高畑さんらの脚本の作り方も学べましたので、浄瑠璃を書く時の参考になったとも思っています。この映画をご覧になっていない方にとっては「何のことかわからない」ことを長々と書いてまいりました。お付き合いくださった方、ありがとうございました。
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- [2023/09/05 00:00]
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東向きの兵士
『竹取物語』では、八月十五夜の子の刻、つまり深夜の0時前後に月からの迎えがやってきます。子の刻というのは、おおざっぱに言いますと午前0時をはさむ2時間くらいのことです。今の時刻の感覚から言うと十五日の夜から十六日にかけて、ということですね。ただ、昔の人は子の刻で日付が変わるという意識はなかったらしく、仮に今でいう0時を過ぎていても相変わらず八月十五日なのです。
その時刻であれば、月はほぼ南中していて、高い位置にあります。そのときに、にわかに明るさが増して、地上にいる人の毛穴までが見えるくらいだったと言います。強烈な光でしょうね。
そして天人がやってきて、かぐや姫は帝のために
不死の薬
と手紙を置いて去っていきます。月が昇ってから天人が下りてくるまでは、理屈から言うと6時間くらい経っていることになります。相当長い時間待たされているわけですね。
では、映画『かぐや姫の物語』では、ここをどのように描いているのでしょうか。翁は天人から姫を守るために兵士をこの日のために組んだやぐらや屋根に上らせるのです。
この場面で、画面が俯瞰図になるのですが、兵士たちは一様に東を向いています。というより、屋敷の東側にやぐらが組まれているのです。
すると月が東の空に昇り、まださほど高い位置ではないところで強烈な光が射してきます。雲が下りてきて、月の王を中心に音楽を奏でる天人たちが姿を見せます。またまた理屈を言うなら、おおむね7時頃、酉から戌の刻あたりに思われます。
やがて雲は屋敷の池の上あたりで止まります。飛天が屋敷の格子を次々に開けて、まず寝殿に入り、そのあと渡殿を経て西の対に向かいます。おそらく
塗籠の中
に隠れていたのであろう媼とかぐや姫はすぐに見つかってしまいます。
我を忘れたかのように、かぐや姫は西中門廊を通って釣殿に向かい、東を向いて雲の上に至ります。
どうでもいいことなのかもしれませんが、映画では、なぜ原作のような子の刻ではなくまだ早い時刻にしたのでしょうか。月が昇ってから深夜までの長い時間にして愁嘆場を描くこともできたかもしれません。どのように兵士を配置したのか、かぐや姫はどんな気持ちで塗籠に入ったのか、媼がかぐや姫に付き添い、翁は兵士の中に入るに際しての心理はどうだったのか、そんなことを描く可能性もないとは言えないように思うのです。しかしここはあっという間に天人が登場します。
月がまだ大きく見える頃だから、という理由もあるのかもしれません。絵として、高い南の空から降りるのではなく、低い東の空から滑るように出てくる形にする方がよかったのかもしれません。このあたりは
絵心のない私
にはまるで分りません。
私はもうひとつ、この月を眺める人たちの様子を描きたかったから、ということもあるのではないかと感じました。
帝は清涼殿の東の簀子に出て倚子(いし)に腰かけ、四人の求婚者たち(石作皇子、車持皇子、阿部右大臣、大伴大納言。石上中納言は亡くなっている)とともに空を見上げています。この場面でも、東から射す月の光を受けた呉竹や柱などの影が正確に描かれています。教育係だった相模と名付け親の斎部秋田は現代風にススキを瓶に入れて月見団子を供え、月見酒を味わっています。山の子どもたちはその明るさのために駆け回り、捨丸は子どもを背負った妻と共に家の屋根を葺いています。
深夜であればいくら何でも子どもたちは眠っているでしょう。月見酒ももう終えている時刻かもしれません。そもそも、冠を着けて羽衣を手に取ったかぐや姫が我に返ったのは女童や子どもたちがあの「まわれ、まわれ、まわれよ」のわらべ歌を歌ったのを聞いたあとでした。子どもたちが行き来する時刻なのです。
実際、高畑監督にどういう意図があったのかは存じませんが、結果的には、深夜に設定することはいろいろな意味で無理があったのではないか、と、余計な詮索をしています。
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- [2023/09/04 00:00]
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寝殿造り
平安時代の貴族の邸宅として知られるのは「寝殿造り」です。平安時代の初期にはまだなくて、次第に形が整っていくのです。この「寝殿造り」という言葉そのものは新しいもので、わかっている限りでは江戸時代が初見です。中央に寝殿という建物があって、東西、あるいは北に廊下で繋がれる「対」があります。内裏(皇居)が火災などの理由で使えなくなった時、天皇は一時的にこういう邸宅を仮御所とします。その場合は寝殿が紫宸殿、北の対が清涼殿の役割を果たしたりします。清涼殿は本来東向きに作られており、前庭は「東庭」でしたが、寝殿造りの北の対を清涼殿にすると前庭が南側になります。それでもこれを「東庭」と言ったりしたようです。
寝殿造りの場合、南側には池が作られますので「南の対」というものはありません。
門は東西と北に作られたようですが、よく使われるのは東西門だと思います。
『かぐや姫の物語』
では、平安時代後期が舞台設定のようになっていますので、建物は寝殿造りです。かぐや姫が初めて都の屋敷に入った時は東門から入って東の対に上がり、そこから透渡殿(すきわたどの)という渡り廊下を渡って寝殿に行きました。寝殿にはかしこまって座っている翁と媼がいて、かぐや姫に着替えなさいというのですが、たくさんの装束が置かれた部屋がありました。これはおそらく塗籠(四方を壁で塗りこめた部屋。妻戸があって、そこから出入りする)だろうと思います。帝もやはり東門から入りましたが、東の対から寝殿に渡るのは北側の渡殿を通って、東北の妻戸から入っています。この時はすでに夕刻で西日が射しこんでいます。かぐや姫は西の廂の間にいるようで、帝は姫のいる局の南側の几帳から覗き込んだあと、東側に立ててある屏風の方からかぐや姫に迫りました。部屋には脇息が置かれ、火取り(香炉)が薫(た)かれています。かぐや姫が普段暮らす部屋というよりは、琴(きん)の稽古場のようにしている部屋かも知れません。かぐや姫が姿を消したあと、西の簀子に出ます。そこから帝は
釣殿(つりどの)
のある南西側を見ます。この釣殿は後にかぐや姫が月を眺める場所としても用いられます。釣殿は東の対と西の対の両方の延長上に設けられることも、どちらかのみに置かれることもありました。月からの使者を防ごうと翁が防衛軍(?)を配備した場面で、この屋敷が俯瞰される場面が一瞬あるのです。これを見ると、釣殿があるのは西だけです。なお、この俯瞰図は寝殿造りの絵としてはいささかいびつな形をしているように思われ、特に東の中門廊と呼ばれるところの描き方が奇妙に見えます。中門廊というのは北側の建物(東の対、西の対)から南に向かって伸びていますが、南側には池があるため、そこで途切れてしまう(途切れたところが「釣殿」)のが普通です。しかし映画ではさらに南まで東中門廊は伸びているのです。西の中門廊は当然西の対から出ていますが、この画面では西の対が省かれたような描き方です。何も、高畑監督の仕事がずさんだと言っているのではありません。高畑さんならそれくらいは分かっているはずで、絵として効果のある描き方を採られたのではないかというのが私の推測です。
この映画で面白いのは、媼が作業をする部屋を持っていることです。実際の寝殿造りでは、北側に蔵があったり下仕えのものが暮らしたりしたと思われますが、そちらにあったと決めつけることはできないと思います。対の屋から廊でつながった場所だと思われ、西の対のさらに西側かな、と想像しています。檜皮葺の寝殿に対してこちらは藁葺。きわめて質素な造りで、媼はここで煮炊きをしたり、機織りをしたりしています。かぐや姫も機織りをしたり琴を弾いたり、そして箱庭のような小さな山の家を作り、川や橋を設けて疑似的に山の暮らしをしているのです。その庭についてかぐや姫自身が「茅草が竹林、蓬も木々そっくり」と言っています。ただ、かぐや姫はこの「疑似的な」暮らしを「ニセモノ」と感じて絶望することになるのですが。
寝殿造りはある程度絵画史料もあり、研究もありますので、映画で描く場合もそんなに難しくはなかったかもしれません。
この映画では太陽の光とそれによる影をよく用いていて、壮麗な寝殿造りの建物が作る影も印象的です。
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- [2023/09/03 00:00]
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待つとし聞かば今かへりこむ
先日書きましたように、高畑勲監督『かぐや姫の物語』には「まわれ、まわれ、まわれよ、水車まわれ、まわってお日さん呼んでこい」というわらべ歌が出てきます。「まわる」という言葉は時の動きや人の一生に深くかかわるものだと感じます。我々の人生は、生と死の間を直線的に進むのではなく、同じことを繰り返しながらぐるぐる回ることで進んでいくものです。落ち込んだときも、次の日にはまた日が昇ることで元気になることがあります。冬至になると一陽来復。一日、一年、それらが回っていきます。有為転変の世の中といいながら、実はぐるぐる回るのが我々の日常。「輪廻」もまた人生の繰り返しでぐるぐる回ります。回るという運動は人生の時間の動きそのものでしょう。
『かぐや姫の物語』のかぐや姫は、かつて地上に降りた人が口ずさむ
「まわれ、めぐれ、めぐれよ」
という歌に心惹かれ、自分のその地に行ってみたいと思ったのです。その人の歌は「まつとし聞かば今かへりこむ」で終わるのでした。もし私を待っていると聞いたならすぐにでも帰りましょう、ということです。なぜその歌が忘れられないのか、そこにはほんとうの愛があるのではないか、そう思ったのでしょうか、かぐや姫は地上にあこがれを持ちます。地上は禁断の場所で、かぐや姫はその地に憧れるという罪を犯し、その罰としてこの地上に降ろされたというのです。
この一節は
在原行平
の「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今かへりこむ」を使われたのでしょう。行平が因幡に下向するときに詠んだ別れの歌なのですが、今でもどこかに行ってしまったペットに帰ってきてほしい時にこの歌をおまじないとして使うことがあるようです。あの内田百閒も自分の猫がいなくなったときにこの歌をまじないに使ったそうです(内田『ノラや』中公文庫)。なお、「まつ」は「(因幡の山の峰に生えている)松」に「待つ」を掛けています。
古歌を用いることで古風にして、「わらべ歌」ではない大人の悲しみが歌われているようです。しかしどうしても現代人には意味が分かりにくいので、かぐや姫が月に帰ることを告白したあと、この歌を媼の前で歌うと、媼がきちんと「本当に私を待っていてくれるのなら、すぐにでもここに帰ってきます」とその意味を説明しています。媼が自分で納得しているようで、実は映画鑑賞者に説明する役割を持っているのでしょう。
私はあくまで素人考えではありますが、つい脚本を書くなら、という視点で見てしまいます。もし私が書くなら、行平の歌の四、五句をそのまま用いるのは避けただろうと思います。
この歌は『古今和歌集』所載のものですが、
『百人一首』
にも採られているため、かなりよく知られた作品だと思います。それだけに、私に関して言えば、元の歌の臭いが残り過ぎて何か心に沁みるものがありませんでした。いや、高畑さんはその香りを残すことを狙って、あえてこの有名な歌の一節を使われたのかもしれません。いわば引き歌のように使ったのだ、ということも考えられます。映画をご覧になった人も「あの言葉、どこかで聞いたことあるね」と強い印象を持ちながら帰られた方が少なくないでしょう。
あくまで「私なら」ということなのですが、古風なのはいいと思いますので、少しわかりにくい、新たな歌詞を作って、媼に「現代語訳」させるくらいがよかった、と思っています。
私はたまたま古典文学を勉強してきたからつい元の歌の臭いを強く感じすぎるのかもしれません。
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- [2023/09/02 00:00]
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媼の存在
『竹取物語』の翁は脇役というより、主役の相手役のような気がしますし、ひょっとすると彼こそが主役なのではないかとさえ思います。そもそもタイトルロールは彼なのですから。
もともと『万葉集』に竹取翁が美しい女性たちと出会って歌を詠んだという例があり、「竹取翁が美しい女性に出会う」という点では共通しています。あくまで翁と娘の話なのですね。
『竹取物語』でも、当然ながら求婚者は全員男ですから、彼らと直接やりとりをするのは翁です。媼はほとんど姿を見せません。帝の使いとして女官が来たときは女性同士というので媼にも出番はあるのですが。
しかし江戸時代の『竹取物語』の絵巻物や絵本を見ると、翁と媼がどちらも同じように描かれていると言えそうです。
さらに現代の絵本や紙芝居などになりますと、「むかしむかし、おじいさんとおばあさんがありました」という昔話風になって、
翁と媼は対等
に近づきます。いわば現代の家族関係を反映して媼(母親の役割)の存在が大きな意味を持つようになるのです。
市川崑監督の映画『竹取物語』で媼を演じたのは若尾文子さんでした。翁は三船敏郎さんで、よぼよぼとした夫婦ではなく、たくましい翁と美しい媼だったのです。若尾さんの媼は娘(おかや)を亡くして気弱になったところがあり、その亡き娘の面影をかぐや姫に求めていました。母性豊かな媼で、やはり映画の中での役割は大きかったのです。
翻って高畑勲監督『かぐや姫の物語』では、媼はさらに積極的な役割を持っていたと思います。
しっかり者で、翁をやり込めることも多く、常にかぐや姫の味方をする人でした。翁は、娘の幸せは都で高貴な男性と結婚することだと考えていて、それは『竹取物語』の翁にも通じます。しかも自分の出世もやはり期待していて、帝が官位を与えようと言ったときは有頂天になっていました。言ってみれば男の論理、現代でいうなら、安定した仕事を持っている
高学歴、高収入
の男性を求める父親像に当たるように思います。
それに対して、媼はかぐや姫の名づけの祝いのときに姫が「山のみんなも呼びたい」と言ったのに対して「それもいいかもしれない」と賛成します。翁が断固として否定しますが、このあたりもとても現代的な母親像だと感じます。
翁が帝からの申し入れにのぼせ上っている時も、「いいかげんにしてください」とくぎを刺していましたし、月に帰ることを告白した時、かぐや姫を一度山に返してやるのも媼でした。慈愛にあふれた、「ほんとうの愛」を求めるかぐや姫を理解する存在だったのです。
媼の声は宮本信子さんでしたが、実はこの映画全体のナレーションも宮本さんがなさっているようです。これは案外大事なことかもしれません。媼の視点で物語は始まり、進行役、つまり舞台回しも媼の役割と見ることが可能だと思うからです。『竹取(翁)物語』ではなく『かぐや姫の物語』です。時として翁は媼の手のひらの上で踊っているだけのようにも見えるのです。
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- [2023/09/01 00:00]
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