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敬語がなくなれば(1) 

最近、「(目上の人が)~しておられる」という言葉があたりまえのように使われています。これはどの世代の人でも使うようです。何も調べていないのですが、かなり以前から使われているようにも思います。
それだけに今さら文句を言っても意味がないくらいなのですが、私は昔気質ですので、少し不平を述べておきます。
「おる」というのは「いる」の謙譲語として用いられてきました。「夜の10時なら、私は家におります」のように、自分の状態を言う時に使うものでした。それゆえに、「あなたは夜の10時に家におりますか」というのは相手の状態に謙譲表現を用いているという意味で奇妙な言葉です。その「おる」に尊敬の意味を表す「れる」をつけて「おられる」と表現するのは、

    謙譲と尊敬を混用

しているわけですから本来おかしなことなのです。しかしもはや「おられる」は当たり前の表現になってしまい、もう止めることはできそうにありません(私は頑として用いませんが)。その結果、目上の人に向かって「あなたは~しておりますか」という言い方すら出てきました。これなどは「おる」を尊敬表現のように扱った言い方でしょう。謙譲語が尊敬語に変わってしまうという、まことに奇妙な現象が起こっています。「いらっしゃる」という言葉があるのになあ、とついぼやいてしまいます。
以前、学生さんから「敬語がなくなったら、外国のように、年齢など関係なくフレンドリーな関係が築けると思いませんか」と聞かれたことがありました。なるほど、そこまで敬語は嫌われているのだな、としみじみ感じた体験でした。彼女たちは大学に来るまでは、年長者と触れ合うと言うと学校の先生か先輩くらいで、丁寧語と「れる」「られる」くらいを知っておけばこと足りたのです。まして謙譲語なんて不要だったと言っても過言ではないでしょう。
私は外国語についてはまるでわからないのですが、ヨーロッパ言語には日本のような敬語は存在しないと思います。やはりこれは

    長幼の序

を重んずる国ならではかもしれません。お隣の韓国の言葉では「おとうさんが~なさいます」に当たる表現はあります。やはり長幼の序を大事にするお国柄だと思います。
敬語なんて大嫌いな若者にとっては、ただただ面倒なもののように見受けられ、それだけに「もし敬語がなくなったら」という気持ちになったのでしょう。

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波 

平安時代の都の人たちは、海というものを見ずにその生涯を終えた人も少なくなかったでしょう。平安京のあった山城国は内陸ですから当然のことです。上流貴族の女性たちなどはほとんどその屋敷を動かずに暮らしますから、海どころか、賀茂川さえもあまりよく分かっていなかったかもしれません。紫式部や清少納言のような身分であれば、石山の観音に詣でたり、父や夫の赴任先に同行したりすることはあります。それだけに、その旅先で琵琶湖を見たり、海を目の当たりにしたりすることは十分に考えられます。
『源氏物語』の主人公光源氏は典型的な都の上流貴族ですが、彼は二十代のころに須磨、明石で海を見ていますので、そこで海を題材にした歌も詠んでいます。
その一方、見たこともないのに海や波を詠むこともありました。よく知られるのは今の宮城県多賀城市にあたる

    末の松山

で、もしあなたをさしおいて私が浮気心を持ったら、末の松山を波が越えるでしょう、という意味の
  君をおきてあだし心を我が持たば
   末の松山波も越えなむ
     (古今和歌集)
という歌は、後世に多大な影響を与えました。末の松山を波が超えるなんてありえない、だから私は浮気はしない、というわけです。この歌を下敷きにしたものには、『百人一首』に採られたことでも有名な清原元輔(清少納言の父)の
  契りきなかたみに袖をしぼりつつ
   末の松山波越さじとは
があります。「末の松山を波が超す」というと、それだけで「浮気心を持つ」という意味になるのです。実景がどうこうではなく、浮気心を「末の松山」という

    「記号」

で表したものと言えるでしょう。
どこからくるのはわからない波。穏やかで、飽きることなく寄せては返す波。しかし平安時代にも起こった東北宮城沖地震では人の命も呑み込んだはずの恐ろしい波。
十一月は、私にとって怒涛の一か月だったと、このブログに書きました。そう、これもまた「怒涛」という「涛(波)」なのです。
「波」という言葉を用いた慣用句にはいろいろあります。「波乱万丈の人生」「秋波を送る」「荒波にもまれる」「波風が立つ」「波にのまれる」などなど。海を知っていた人、見たことはなくてもうわさに聞いた人。それぞれの人にとって波は不思議な力を感じさせる自然現象だったのでしょう。
そして、この二か月の慌ただしい日々を終えた私が今一番感じているのは「寄る年波」なのです(笑)。

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懐かしい方々 

先日、市民大学でお話ししたのですが、76人の受講希望者があったと聞いていました。
ところが、実際の出席者は4回の講座を平均すると約半分。一番たくさんこられたのは音楽の先生で、ほぼ70%が来られたそうです。私は2番目で、55%の出席率でした。音楽の先生は、あるいはオペラ歌手か何かだと思うのですが、そういう方は人気がありますね、やはり。
担当者の方にうかがいますと、WEBで申し込みができる(支払いは当日)ために、

    とりあえず申し込んでおこう

という方が多かったのだろう、とのことでした。
だから、あまり気にするな、と言っていただきました。少し安心しました。
私の会に来てくださった方の中には、かつて『源氏物語』の講座を実施していた時においでになっていた方が参加してくださいました。声をかけてくださって、懐かしく思いました。
残念ながら、こういう講座は赤字になるようで、小さな学校ですし、今後も実施されないだろうと思います。ほんとうはこういうことが

    広報

になるのですが、そういう発想はないようです。
私が以前勤めていた短期大学は、もっと小さな規模でしたが、赤字を出しながらも講座を実施していましたから、考え方が違うわけです。
おそらくこれで私は担当しなくなると思います。今後はまた別のところでお話することができればいいな、と思っています。

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一段落しない 

25日の記事で、仕事が一段落したと書いたのですが、とんでもなく甘い考えでした。
三つの頼まれごとが立て続けに入って、あと2週間は同じように苦しまねばならなくなりました(笑)。
例によってそれによる収入はありませんが、それは気になりません。

    プロの文筆家

ではありませんから。
原稿料を出すなら、どなたももっとまともな(笑)人に頼まれるでしょう。
ときどき、放送局から、◯◯について知りたい、という問い合わせがあるのですが、知っていることはできるだけ答えるようにしています。ところが、中にはひどい物言いをする人もいて、教えて当たり前だ、と言わんばかりの剣幕でものを言ってくるディレクター(?)もいます。先日もこの忙しいさなかにひとつ問い合わせがあったので、具体的に言ってくださいと(メールで)返事をしたら、

    なしのつぶて

で、「頼んでおいて何も言わないとはどういうこと?」と思いました。もう二度と言ってこないで欲しいです。
そんなアクシデントもありながらの日々ですが、今度こそ「あと2週間」ですので何とかがんばります。

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文楽錦秋公演千秋楽 

今年は紅葉が遅いような気がします。それでも、冬は確実にやってきました。立冬は11月8日でしたが、そのあと最高気温が10度くらいになることもあって、木々も忘れかけていた紅葉を急いだことでしょう。
今年は山でどんぐりが少なかったのだそうで、そのせいで熊が里に下りてくることが多かったのだとか。これは人にとっても熊にとっても悲しいことだと思います。熊だって冬眠のためにはどんぐりをたくさん食べないわけにはいかないのですから。
文楽十一月公演はそんな中で無事千秋楽を迎えました。
今月の公演の「面売り」「朱雀堤」「道行相合かご」は野澤松之輔作曲。相変わらず松之輔作品は頻繁に上演されています。
これで本年の大阪本公演は幕を下ろし、次はもう初春公演となります。
初春は、「堀川猿回し」を錣・藤蔵、呂・清介、「御殿」を千歳・富助、「政岡忠義」を呂勢・清治という組み合わせで。与次郎は勘十郎、おしゅんは簔二郎、与次郎の母は勘壽、政岡は和生、八汐は玉志、沖の井は勘彌、俊寛は玉男、千鳥は一輔、八百屋お七は勘彌。
その前に十二月東京公演がありますが、これが初めての足立区のシアター1010での公演です。4日から14日までで、大御所の方は出られないのですね。
劇場も最初は手探りかも知れませんが、うまくいきますように。

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一段落 

十一月は怒涛の日々でした。
もっと早くからあれこれしておけば楽なのですが、それができない性分はもはや如何ともしがたいのです。
特に十一月の後半は毎日息が詰まるようなありさまでした。『源氏物語』の講座でお話してまずひとつめの山を越えたのですが、そのとたんに、まったく予想もしていなかったところから手助けしてほしいと言われたことがありました。もちろん「今忙しいです」と言って断ることもできたのでしょうが、お世話になっている人からの依頼でもあったので、これもまた性分で断るということができないのです。私はこれまで頼まれた仕事を断ったことはほとんどありません(一度非常勤講師の依頼を断ったことがあり、これは後悔しています)。
お引き受けしたからには、多少休めると思っていた日をそれに当てるほかはなく、その日はずっとパソコンのお相手をしました。一日で終わることではなかったので、それと並行して3つの原稿の仕上げ。これはもう、

    締切当日

までかかってしまいました。
この間、わりあいに書いていたFacebookも投稿が一気に減り、かろうじて生存報告(笑)をする程度でした。
折しも、急に気温が下がる時期で、鼻風邪をひいてしまい、それも苦痛でした。
とどめは、このブログで2週間にわたって書いた藤原道長の病気についてのお話をすることでした。
私自身が風邪をひいたのですが、ふと平安時代貴族の

    「風病(ふうびょう、ふびょう)」

という言葉を思い出しました。今の風邪とまったく同じものではないのですが、彼らもよく風病になっており、ああ、これも病気の話をするのにふさわしいかも、などとのんきなことを考えていました。
そのお話も何とか終えて、これで一段落したことになります。次は十二月の『源氏物語』の講座ですから、少し余裕があります。それも終わったらもう一年も最後。
今年は短歌の会の関係で年賀状を例年より多めに書く必要があるかもしれません。この10年ほどの間に極力減らしてきた年賀状ですが、今年はどうなりますことか。
ともかくも少しホッとしました。

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学生はつらい 

平安時代も半ばになりますと、藤原氏がほかの氏族を排斥して我が世の春を決め込みます。さらに藤原氏の中でも、北家と呼ばれる一門以外は端に追いやられます。さらにさらに、その中でも権力争いがあって、かつては摂政を出した家柄が何らかの事情でわきに追いやられることもあります。その事情というのは、たとえばその家の働き盛りの長男あたりが若くして亡くなるということがあります。書家としても有名な藤原行成は摂政伊尹の孫なのですが、父の義孝が疱瘡に感染してわずか二十一歳で亡くなった(そのとき行成はまだ三歳)のです。義孝という人は信仰心が篤く、大変な美男子で、和歌も巧みな人でした。『百人一首』にも「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」が採られています。誠に惜しい人材だったというべきでしょう。その結果、これまた優秀だった息子の行成も、正二位権大納言には至りますが、摂政など夢のまた夢のまま終わったのです。
それでもまだこういう人たちはそれなりに出世できたのです。それすら叶わない人にとっては何とか生きる道を見つけねばなりません。そこで頭脳明晰ながら家柄がもうひとつ、という若者たちは

    大学寮

で勉強したのです。今も昔も試験が大変で、まずは寮試(大学寮の試験)というのがあって、それに合格すると擬文章生(ぎもんじょうのしょう。擬生)、さらに省試(大学寮を管轄する役所である式部省の試験)に合格すると文章生(もんじょうのしょう。進士)になります。さらにその特待生である文章得業生(もんじょうとくごうのしょう)となって対策(秀才試)という試験に合格すると任官の道が開けました。
例えば紫式部の時代の代表的な知識人であった大江匡衡は擬文章生、文章生となって対策に合格し、東宮学士、文章博士などから式部大輔に至っています。彼の漢文の文才は多くの人の認めるもので、藤原道長などは漢文作成の必要があると匡衡を頼りにしています。
今と違って、もっとも重要な学問は古代中国史や漢詩文で、それを専攻、教授する、いわば文学部教授の

    文章博士

は、官位としては従五位下に相当しました。そのあとは明経博士(儒学。正六位下相当)、明法博士(法学。正七位下相当)が続き、音博士(経書の白読)、書博士(書道)、算博士(算道)が従七位上でした。これらはすべて大学寮の博士なのですが、典薬寮(てんやくりょう、くすりのつかさ)に属する医療関係の博士もいました。医博士、針博士などがそれで、もっとも位の高い医博士でも正七位下で、文章博士の地位の高さが浮き彫りになります。今の医学博士と文学博士を比べると、まったく逆ですね(笑)。
大学で勉強するのはなかなか大変で、試験に合格するのも難しかったようです。『源氏物語』の中では、光源氏の息子の夕霧が、名門の子弟にしては例外的に大学寮で学ばされます。これは光源氏の教育方針によるもので、この息子は「どうして源氏(皇族出身の氏)である自分が大学なんかに・・」という不満があったようです。ただ、彼が偉かったのは、猛烈に勉強して誰にも負けないほど優秀だったことです。

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中途半端な者は 

『源氏物語』「帚木」巻はその大半が雨夜の品定めと言われる、若い男たちによる女性談義が占めています。
光源氏以外の男が体験談を話すのですが、そのあとに左馬頭という人物が全体のまとめのような話をします。

1 中途半端な者は男女を問わず、ちょっとした知識をひけらかそうとする
2 女性が三史五経を学ぶのはかわいげがないが、女でも世間のことについて知らないわけにはいかない
3 特に勉強しなくても少しでも才気のある人なら知識に触れることはあるだろう
4 漢字をさらさらと書いて女同士の手紙に書きたてるのは残念なことだ。こういう女性は上臈にも多い
5 自分が一人前の歌人だと思っている人が古い歌を取り入れて場違いな時に歌を詠みかけてくるのはうんざりする
6 何ごとも、時と場合を考えずに風流ぶったりしない方が無難で、自分の知っていることも知らないふりをするくらいがよい

2つ目に書かれている

    「三史五経」

というのは『史記』『漢書』『後漢書』のことで、要するに古代中国史です。「五経」は『詩経』『書経』『易経』『礼記』『春秋』で、こちらは「四書五経」という言葉でおなじみだろうと思います。これらは大学寮という学問を伝授する場での教科でした。女性がこんなことを学ぶのはかわいげがない、と言っているわけです。
現代の女性がこれを聞いたら、「何と勝手なことを!」とお怒りになると思います。でも、私が高校生のころはまだ「女子は国立大学なんかに行かなくてよい。そんなところに行くと結婚もできないぞ」という風潮が残っていました。事実私の高校の同級生は地元の国立大学と私立大学に合格したのですが、なんのためらいもなく私立の

    「お嬢様学校」

に行きました。
4つ目の「漢字を云々」というのは、申すまでもなく当時の女性は仮名文字を使うのがあたりまえだったからです。まして漢文などは使うものではありません。仮に漢詩を話題にすることがあっても、それをうまく日本風に言い換えるべきだったのです。紫式部は、清少納言が漢字を書き散らしていることを『紫式部日記』の中で批判しており、また紫自身は漢字など何も知らないふりをしていたとも同じ日記の中に書いています。
5つ目には風流ぶって古い歌などを引用してはTPOをわきまえずに和歌を送ってくることへの批判です。
これは女性について言ったものではありますが、こういうのを読んでいますと、私はとても耳が痛いのです。いいかっこして和歌を詠んだりするな、なんて言われるとドキッとします(笑)。中でも一番「ごめんなさい」という気持ちになるのは、1つ目の「中途半端な者は男女を問わず、ちょっとした知識をひけらかそうとする」という点です。長らく授業というのをしてきましたが、その多くは「ちょっとした知識をひけらか」したものでしたし、最近も、一般の方々にお話しているのはそれ以外のなにものでもない、という感じだからです。
世間の皆様すみません。

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つまはじき 

『源氏物語』「帚木」巻で、藤式部丞という男が、女性についての経験談をする場面があります。式部丞というのは式部省という役所の三等官で、ここのトップは式部卿。これは親王が任ぜられ、平安時代中期くらいになると実際の仕事はあまりしなくなります。実務をおこなう官僚という意味でのトップは次官に当たる式部大輔。これはかなりのインテリでないと務まりません。有名な人物としては藤原道長に重用された大江匡衡がいます。赤染衛門の夫です。この人は、元号や皇子の名前の案を考えたり、道長らから依頼されて格調高い文章を作成したりしたことでも知られます。
藤式部丞は藤原氏の式部丞ということで、紫式部の父親の藤原為時もこの職を務めたことがあります。それで、その娘は紫「式部」と呼ばれているわけです。
さてこの男の経験談、とんでもないインテリ女性と付き合った話です。彼女は博士の娘で、親譲りで漢文が得意(紫式部みたいです)。

    寝物語

で、官吏としての職務遂行の役に立つような教えを垂れたり、手紙をくれると漢文で書いてあったり、と、まったく普通の女性とは異なるのです。
そして式部丞に漢詩の作り方も教えたために、彼は今ではそれなりの詩が作れるようになったという、まさに師匠のような人なのです。
彼はこの女性と結婚したかったのかと言うと、実はそこまでは考えていなかったようで、久しく訪れなかったりすることもありました。あるとき、久しぶりに行ってみると、部屋には入れてくれません。どうしたのかと思ったら
  月ごろ風病重きに堪へかねて、極熱の
  草薬を服して、いと臭きによりなむ、
  え対面賜らぬ、まのあたりならずとも、
  さるべからむ雑事らはうけたまわらむ
と言うのです。何という堅苦しい言葉遣いでしょうか。「風病(ふびやう)」「堪へかね」「極熱の草薬」「服し」「臭き」「対面」「雑事」などなど、

    普通の女性

が用いる言葉ではないと思います。普通なら「月ごろ風いと重ければ、蒜(ひる)といふなる薬、用ひぬ。便なきによりてなむ、内にな入りたまひそ。もの越しにてもとかく承らはむ」とか何とか言いそうなものなのに。
この話を聞いていたのが光源氏や頭中将たち。彼らは「作り話に決まっている」と非難して「つまはじき」をしました。
「つまはじき」ということばは、もともとは「嫌悪」「非難」の気持ちを表現する動作を意味しました。その動作というのは、文字どおり中指や人差し指の爪を親指の腹(爪の反対側のやわらかいところ)に当ててはじく行為を指すのです。文字どおり「指弾する」のです。おそらく光源氏たちは実際に指を使って式部丞に向かって爪を弾いたのだと思います。
今、この言葉は「他人を嫌って排斥する」「仲間はずれにする」というような意味で使われていますが、私も仕事場では最終的にこんなふうになってしまったな(笑)と残念な気持ちを持っています。

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傍観者 

社会心理学の用語に「傍観者効果」ということばがあります。
何か事件があって、多くの目撃者がいる場合、その目撃者は自ら行動を起こそうとしないことがあるそうです。つまり「誰かが何とかするだろう」「ほかの人が黙っているのだから、たいしたことはないだろう」「もし自分が行動を起こしたとして、それに対してまわりから変に思われたらいやだ」などと思ってしまうのではないしょうか。
事件というほど大げさなものでなくても、困っている人がいたときになかなか助けに行けない、というのは我々の平凡な日常にもありうることです。
先日、TikTokだったかYouTubeのショート動画か何かで、電車のドアのところで二人の人物(若い男性)が喧嘩をしている動画を観ました。ほんとうにあった出来事を偶然撮影したのか、台本のある作りものだったのかは知りません(そこまで熱心なウォッチャーではありませんので)。
この動画で気になったのは、周りの人がほぼ何もしないことでした。こわくて逃げるわけでもなく、口を挟むわけでもなく、あたかもそこには誰もおらず、喧嘩など

    幻であるかのような

表情をしているのです。これも「傍観者効果」なのかなと思って、私もまた画面の外から傍観していました。
そういえば、ずいぶん以前ですが、私がアパート暮らしをしていたとき、女性の悲鳴が聞こえたことがあり、私はあわてて飛び出したのです。すると階段のところに若い女性がうずくまっていて、夜道をついて来られて突然襲われたと言っていました。もちろん犯人は逃げて影も形もありませんでしたが、そのとき外に出てきたのは私ともう一人同世代の若い男性だけでした。ほかのアパート住民の人も聞こえなかったということはないと思うのですが、まあ、たいしたことはないだろう、と思われたのかもしれません。
2年ほど前に、図書館から出てすぐのところで突然雨が降ってきました。傘を持ってこなかった私は、30mほど先の屋根のあるところまで走らざるを得ませんでした。ところが本を数冊持っていて、それを濡らしたり落としたりするわけにはいかないために、走るのも苦労でした。周りに人はいたのですが、やはり誰もが「短い距離だからなんとかするだろう」ということだったのか、振り向いてはくれませんでした。私自身走ればいいと思っていましたので「Help!」というつもりもありませんでした。すると私の身体がいつの間にか傘で覆われていました。学生さんが一人、何も言わずに(言われてもわかりませんが)さしかけてくれていたのです。私は嬉しくなって「ありがとうございます」と言い、わずかな距離の

    相合傘

を楽しんだ(?)のでした。「傍観者効果」の中でのホッとするひとときでした。
学生さんはときどきこのようにこちらが驚くようなことをしてくれました。
もうひとつ覚えているのが、「先生はいつも授業では明るいですが、落ち込むことはないのですか」と聞かれたことです。「障害があると日常的にいろんなことがあるはずなのに、そんなに明るくしていられるはずがない」という見立てだったのでしょう。
炯眼というのか、見透かされてしまった、と思いました。私としては、授業中はできるだけ明るくしようと思ってきたのですが、どこかに薄暗い(笑)ものが感じ取れるのかな、と思いました。人間誰しも、そんなに年がら年中明るく楽しい暮らしはしていませんよ、とだけ答えておいたのですが、油断も隙もない(笑)と思いました。

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小さい字 

年齢を重ねると老眼になります。これはもう仕方がないことです。ただ、これには個人差があるようで、わたしはかなり遅い方だと思います。40代の時、私の同級生がチケットの座席番号が読めないと言って困っていました。「そんなに小さな字?」と思ってみてみると、かなり大きくてはっきり見えました。なにしろ同い年の人ですから、そうか、私も老眼の年齢なのだ、と思い知りました。その一方、私は完全に見えますので、どうも人よりは遅いらしいということは分かりました。
学生さんのリポートなどで、自筆の場合はかなり小さい字で書く人がいます。これにもついに困ることはありませんでした。
それでも、何かの規約の中には小さくぎっしり詰まった文字で書かれているものがあります。あれだけは苦手。だって、字が小さいだけでなく、文もかなり変と言うか、実用重視の書き方がしてありますので、つまらないのです(笑)。法律の文章もそうですよね。
今や高校の国語では実用文をしっかり学ばせて文学的な文章はあまり読まなくてもかまわないという方向に進んでいるようです。なんだかわざわざ

    変な日本語

を教えるような気がしてします
それはともかく、あの小さな字というのは、どうしても読まなければならない文章の場合にはやはり困りますよね。利用者に不利なことも書いてある約款だからわざと読ませないようにしているのではないかと勘繰りたくなるくらいです(笑)。
私が最近老眼を意識するようになったのは、映画の

    かぐやひめの物語

のCDに付いている小さな紙に、スタッフの名前が列挙されているのを見た時です。この役の声はどなたかな、と思って調べたかったのですが、あまりに小さな字で書かれているので驚きました。ああいうものって、そんなものなのでしょうか。あれはいくら何でも小さすぎて、イライラします。しかも頑張って探したのに、声の出演として演者の名前だけが挙がっていて、誰の声を担当しているのかは書かれていなかったので二重にイライラ(笑)しました。
ためしに2倍に拡大して観たのですがそれでも小さかったですね。
結局、私の知りたかった声の出演者(橋爪功さんと上川隆也さんと宮本信子さん)は、Wikipedeiaに教わりました。

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藤原道長の病気(付記) 

何となく道長というと「この世は私のものだ」と豪語してふんぞり返っているイメージがあるかもしれませんが、実際は彼とて弱い人間に過ぎません。私はきっとこの人は「こわがり」だったのだろうと思っています。そんなあやふやな思い付きは論文には書けませんのでここで言っておきます。
私は、道長のような権力者は嫌いなのですが、彼が時として見せる情けなさ、弱さに興味があるのです。だからこそ、病気だとか宗教心だとか和歌に見える心情など、あるいはどんな思いを抱いてあの吉野の山(金峯山)を歩いたのだろう、とか、娘に先立たれたときはどれほどの涙を流したのだろう、などということを覗いてみたくなる、そんな気持ちです。
道長は和歌をいくらか残していますが、

    哀しみのどん底

では歌が詠めない人なのではないかと思います。『大鏡』という歴史物語は道長の和歌を大げさに称揚するのですが、そういう意味では詩人ではなかったと感じます。
我が家の権力を盤石にするためなら、相手が天皇であろうと、じわじわと追いつめて蹴落としてしまいます。ところがこの人はいったん蹴落とした人に対してはとてもやさしくなるのです。骨抜きにしておいてから親切にする、というのが道長のやり方です。彼は小さな穴を見つけると、他人が油断している隙にその穴を少しずつえぐるようにして、自分に光が当たるような大きさに広げるといった技を持っているように思います。もちろんこの技は天性の要素が大きいでしょうが、成長の過程で

    五男という位置

からさほど有能ではない兄たちを見て、自分ならこうするという工夫をする知恵をつけて行ったのかもしれません。
ただ、彼が追い落とした人の恨みをいつの間にか買うことにもなってしまいました。道長自身はさほど罪の意識はなかったのかもしれません。前述のように、自分のしたことに対する償いのように、そういう人たちに思いやりを見せていましたから、これでプラスマイナスゼロだとでも思ったかもしれません。結局道長は自分のしたことが相手をどれほど傷つけているのか、それがどれほど大きなエネルギーを持っているのかはわからなかったのではないでしょうか。虐げられた者、差別を受けた者の悔しさ、悲しさは加害者側には想像もつかないほど大きいものです。
その結果、これは現代の人たちには迷信だと一笑に付されるかもしれませんが、さまざまな

霊に苦しめられる

ことになるのです。おそらくほんとうに悩み苦しんだと思います。○○の霊です、と言われるとほんとうにそうだと思っておののいたのです。バカにすべきではありません。
藤原道長の病気(4)でも書いたのですが、長保二年五月には「厭魅」「呪詛」が病気の原因と言われ、兄道兼の霊が出たり、兄道隆の遺児伊周をもとの官位官職に戻せば治るという「邪気のことば」があったりしました。その言葉を帝に伝えて、拒否されると、病臥する道長は「怒目張口、忿怒非常也(目を怒らせ、口を張って尋常ならざる忿怒の表情をした)」(『権記』長保二年五月二十五日)のです。これは、道長自身ではなく、彼にとりついた物の怪の表情でしょう。
晩年には藤原顕光とその娘延子の霊が道長の娘寛子を苦しめたと伝わり、『栄花物語』では寛子の臨終に及んでその霊が「今ぞ胸あく(ああ、すっきりした)」と言ったとされるほどです。
道長は『源氏物語』の成立に大きな寄与をしたと考えられ、その作者の紫式部にとどまらず、和歌の公任、和泉式部、赤染衛門、書の行成など文化の面での才能ある人を支えた面もあります。
私は学生時代に日本史の山中裕先生にお教えをいただく機会に恵まれ、先生が多くの若者と一緒にお作りになった『御堂関白記全注釈』(全15冊)にも参加させていただきました。それが道長との本格的な出会いでしたが、政治史にあまり興味がないため、道長の和歌や宗教心などを彼の人生をたどることで考える仕事をしてきました。たいした実りではありませんでしたが、そういうものを書くだけでもとてもいい勉強になりました。今ここで道長の病気をざっと眺めることで、またよき学びができたと思います。
依頼された講座のために2か月ほど集中して勉強したのですが、かなりしんどかった(笑)です。こういう講座でいただける報酬はわずかで、仮に報酬を勉強時間で割って時間給を計算したらきわめてみじめなことになりそうですが(笑)。

道長は歴史に残る人物です。しかし彼の評価できる面とできない面をしっかり見極めて、これから生きていく人たちに伝えていきたいとも思います。残念ながらそういう授業は持たせてもらえなかったのですが、一般の方対象の講座でお話しできることはありがたいことだと思います。
歴史を学ぶことは大事です。それは人名、事件、年号などを暗記することではありません。過去を知り、現代を見つめ、未来を展望することだと思います。
今なお、私には、学問の基礎は哲学と歴史学にあると思えてなりません。

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藤原道長の病気(13) 

息子(顕信)に出家され、娘寛子、嬉子に先立たれ、自らも出家した道長です。幸いにして流行病には罹らなかったようですが、風病、重舌、頭痛、咳病、霍乱、腰病、腫物、痢病、胸病、飲水病、眼病、そして物の怪による懊悩も体験してきました。
萬壽四年(1027)には、道長を最後の試練が襲います。
秋七月十九日に、道長は痢病に罹っているのですが、それどころではありません。
三条天皇中宮となって微妙な立場の人生を送ってきた姸子が重病になっているのです。手足が腫れているそうだ、と例によって藤原実資のところに養子の資平がやってきて伝えます(『小右記』萬壽四年七月十九日)。八月一日にはさらに重篤になっているという報告も実資のところに来ます。そして「中将云、宮御悩似有恐、昨日内府云、十分之九無所馮(中将資平が言う。皇太后妍子のご病状は危機的です。昨日内大臣=教通がおっしゃるには、十分の九までは無理だろう、とのことです)」(『小右記』萬壽四年九月四日)と実資は書いています。そして九月十四日、妍子は臨終に際して出家し、やがて亡くなります。
これで道長は
    三人の娘

に先立たれたことになります。
こうなると、老境の法師にとってはもう生きる気力がなくなっても不思議ではありません。十月二十八日には痢病を起こし、耐えがたいような苦痛に見舞われています。十一月には「太危急坐、乍臥有汚穢(甚だしく危険な状態でいらっしゃり、臥したまま汚物にまみれていらっしゃる)」(『小右記』萬壽四年十一月十日)というありさまで、寝た状態で便や血を出していたのかもしれません。下からだけでなく、嘔吐や吐血もあったのではないでしょうか。
さらに十一月二十一日には飲食がすでに途絶え、背中に腫物もできました。そして十一月二十五日に道長は

    阿弥陀堂

に移されました。これはもう臨終の場という意味でしょう。阿弥陀の来迎を眼前に観ることができる場です。
十二月二日、丹波忠明(医師)が背中の腫物に針を刺します。膿汁や血が少々出ました。『小右記』はその時の道長が「吟給聲極苦気也(うめきなさるお声はひどく苦しげだ)」と伝えています。
そして十二月四日のこと。道長は前日息を引き取ったようだったのですが夜になってからだが動く気配がありました。しかし、この日の寅の刻(『小右記』による)に亡くなったのです。
道長の長い長い病気と闘った人生でした。あと4年あまりで道長が亡くなって1000年を迎えます。
ところで、道長が亡くなったまさに同じ日に、もうひとり急死した人がいます。藤原行成です。優美で、書の達人で、インテリで、機転が利き、道長をずいぶん助けた人でもありました。最後の官職は按察使大納言、五十六歳でした

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藤原道長の病気(12) 

『御堂関白記』は、道長の病状が悪くなるにつれて、当然のように記事が少なくなり、長文も減っていきます。
その中で、寛仁四年三月二十二日の記事は久しぶりに書かれ、しかも七十字(もちろんすべて漢字)に及ぶものです。その最初には「此日、無量寺供養」と記されており、道長の邸土御門第に隣接する無量寿院(のちに法成寺に発展)の供養を喜ぶ内容が書かれています。京都御苑の東、府立鴨沂高校の北、荒神口通を少し東に行った北側に小さな石碑が建っていて、そこには「従是東北 法成寺址」と記されています。ここが道長の終の棲家になるところなのです。
現存する『御堂関白記』の最後の記事(自筆ではない)治安元年(1021)九月のもので、一日に「初念仏、十一万遍」、二日に「十五万遍」、三日に「十四万遍」、五日に「十七万遍」とあります。自筆では寛仁四年(1020)六月二十九日の「初卅講、十斎佛未奉作、三躰作了、奉立堂」です。
萬壽二年(1025)、六十歳になった道長にとって大変な悲劇が訪れます。娘の寛子(敦明親王妃)が年来霊気に取りつかれていたのですが、遂に水ものどを通らなくなってしまい、七月八日に出家します。こういう場合の出家は、もう命が危ない時に、最後の手段として仏の加護を得るためのもので、多くの場合は出家してまもなく亡くなります。寛子もその翌日「小一条院上、今暁入滅云々(小一条院の妃藤原寛子が今日の暁に亡くなった)」(『左経記』萬壽二年七月九日)という結果になりました。『左経記』というのは源経頼の日記です。「左大弁経頼」の日記で『左経記』です。
そのわずか1カ月後、春宮敦良親王(道長の孫)の尚侍になっていた藤原嬉子(道長の末娘)が親仁親王(後の後冷泉天皇)を産んだのですが、二日後の八月五日には、流行していた

    赤斑瘡(あかもがさ)

のために亡くなってしまいます。彼女はまだ十九歳でした。この人が亡くなったことについては、藤原顕光とその娘の延子(どちらも故人)の霊が祟ったとも言われますが、先の寛子に憑いた霊も同じだったのかもしれません。
道長はこの年齢になって娘二人を立て続けに失うという悲しみを味わうことになります。何の報いなのでしょうか。藤原実資もさすがに同情的で、「連月有事如何(二か月続いてこういうことがあるのはどういうことなのだろう)」(『小右記』萬壽二年八月五日)と書いています。
この期間、道長本人の健康については、あまり記録がありません。
そしてとうとう

    萬壽四年(1027)

がやってきます。
この年にも道長は娘を一人先立て、さらに彼自身も彼岸に旅立つことになるのです。

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藤原道長の病気(11) 

寛仁二年は道長にとって健康問題の重なった日々が続いていたことがお分かりいただけたでしょうか。ところがこの年の十月十六日、日本史の教科書にも出てくるようなできごとがあります。
それに先立つ、この年の三月七日に道長の妻倫子が産んだ娘としては三女に当たる威子が尚侍として入内しています。時に威子は十九歳、事実上の天皇との結婚です。ところがこの天皇とはご一条天皇のことですから、道長の孫、威子から見ると甥にあたります。年齢は十一歳。とんでもない結婚です。今の学年でいうなら、花婿さん小学校4年生、花嫁さん高校3年生です。そして十月に彼女は

    中宮

に立てられます。道長の長女彰子が太皇太后、次女姸子が皇太后になっていますので、一家の中から三人の「后」が同時に誕生したわけです。病気でヘロヘロになっている道長ですが、権力は相変わらず奮い続けています。
この夜の儀式で、道長は「余読和哥、人々詠之」と簡単に書いているのですが、この歌があまりにも有名なものです。『小右記』がこのあたりの事情を次のように書き留めています。
道長が実資を招き寄せて、「和歌を詠むから答えてくれ。いい気な歌なのだが、あらかじめ作っていたものではない」と言って次の歌を披露しました。

このよをばわがよとぞ思ふ
望月の欠けたることもなしと思へば

すると実資は「この和歌は何と優美なことでしょう。とてもお答えなどできません。皆で朗唱しましょう」と言ったのです。
有名な歌です。私が初めてこの歌を知った時、恰幅の良い、いささか傲慢で自信にあふれた中年の政治家の歌のように思いました。その考えは一般的にも通用するもののように感じます。しかし実際は、胸を病み、目を病んで祟りと噂されている初老の男の精一杯強がって見せた歌だったように見えてきました。
この直後、道長は盛んに「目が見えない」と言うようになり、賀茂川で解除(陰陽道で災いを避ける儀式)したり、僧に修法を行わせたりしています。
その後は、胸の病気を訴えることが多く、「胸病発動、辛苦終日」(『御堂関白記』寛仁三年二月三日)などの記事が散見します。
目はさらに悪化して、「二三尺離れたところにいる人の顔が見えず、

    手に持っているものだけ

が見える」というありさまになりました。
そのため、陰陽師や医者(こういうところにも陰陽師が出てくるのですね)の勧めがあって魚肉を食べることにしたのです。彼はもう出家していますから、本来なら口にしないものです。「是只為佛法、非為身」(『御堂関白記』寛仁三年二月六日)と書いているように、あくまで仏道修行のためだと言っています。そして肉食をする間は『法華経』一巻を書写することにしました。こういう日記の記事を彼はどうやって書いたのだろう、というその姿を想像してしまいます。相当見づらかったでしょうに、目を近づけて書いたのでしょうか。

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藤原道長の病気(10) 

道長五十一歳の長和五年(1016)、道長は盛んに水を飲みます。五月の法華三十講の際にも、頼秀阿闍梨という僧が実資に「摂政道長様は仏前にいらっしゃるのに、途中で御簾の中にはいられます。水をお飲みなのではないでしょうか。お顔色も悪く、気力がないようです。慎まねばならず、最期が近づいているかもしれません」(『小右記』長和五年五月十日)と物騒なことを言います。
実際、道長自身も「三月ごろから頻りに水を飲み、特に最近は昼も夜も飲んでいる。口が渇いて元気もない。食べる量は減っていないのだが」「豆汁、大豆煎、蘓蜜煎、呵梨勒などを常用しているから、それが原因かもしれない」(どちらも『小右記』長和五年五月十一日)と言っています。ただ、「その後、医師の勧めによって葛根を用いると水を飲まなくなって元気も出てきた」(『小右記』長和五年五月十日)とも言います。もっともこれについて実資は「葛根なんて庶民が食糧が亡くなった時に食べるもので、上流貴族が食べたという話は聞いたことがない」と記録しています(『小右記』長和五年五月十日)。
さらに実資は、心誉律師から「先日夢に亡くなった大僧正観修らが現れて『摂政は来年必ず死ぬ』とおっしゃっていました」(『小右記』長和五年五月十日)と伝えるのです。
長和六年(1017)には道長は摂政を辞めます。予定通り、息子の頼通を後継者にするのです。この年、寛仁元年と改元されたあと、五月にはあの

    三条上皇

がついに亡くなります。道長との確執で必ずしも幸福な天皇ではなかったでしょう。
さて、こうなると春宮になっている敦明親王(三条上皇の子)はまったく後ろ盾がなく、居心地が悪いことこの上ないのです。今の天皇(後一条)は自分より十四歳も年下の十歳なのです。どう考えても将来自分が皇位に就くことはないでしょう。追い詰められた春宮はついに道長に「春宮を降りる」と、自ら伝えます。道長は「どうぞそんなことはおっしゃらずに」としらじらしく止めるのですが、そこまでおっしゃるなら、と了承します。
この年の十二月に太政大臣となった道長ですが、これも翌寛仁二年(1018)の二月には辞めてしまいます。そして、四月九日、妻の倫子と一緒に娘の姸子を訪ねた後、亥の刻(夜の十時前後)にひどく重い

    胸病

に苦しめられました。丑の刻(午前二時前後)には少し収まるのですが、今後この胸病が彼についてまわります。このあと道長の日記『御堂関白記』は記事が減り、体調不良をメモのように記すことが増えていきます。閏四月十七日の『小右記』によれば、その前夜、苦しみのあまり大声で叫んだとさえ記されています。
資平が実資に語ったことによると、「最近三条上皇の霊が多くあらわれる」とのことです(『小右記』寛仁二年五月二十一日)。そりゃ、三条さんも祟りなくもなったでしょう。さらに別の人物が言っているのは「貴船神社の祟りで。敦明親王の妻の一人(藤原顕光の娘延子)の呪いによるものだ」ということです(『小右記』寛仁二年六月二十四日)。道長が、春宮を下りた敦明親王に我が娘を「ほうび」のように差し出したことで、元の奥さんが恨んでいるのでしょう。というと、これは「うはなりうち(先妻が後妻を恨んで何らかの害を与える卯こと)」の一種で、貴船と「うはなりうち」といえば後に謡曲でもおなじみになっていきます。

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藤原道長の病気(9) 

当時は、病気の原因として祟りなどが取りざたされることがありました。寛弘九年の道長の病気については、『小右記』がこんなことを書いています。

道長の病気は日吉社の祟りだ(六月四日)
道長の住む建物の上から人魂が出た(六月八日)
鵄(とび)が死んだ鼠を道長の歩く二、三歩前に落とした(六月十一日)
道長が法性寺に入ろうとすると蛇が落ちてきた(六月十一日)

祟りと言われたうえに、なんとも不吉な怪異が続いたものです。
ところで、道長以上に三条天皇も病状が悪化していきます。長和三年(1014)になると「近頃、片目が見えず、片耳が聞こえない、ひどく苦しいが夜になるとさらにつらい」(『小右記』長和三年三月一日)、「近ごろ左目が見えず、鼻が利かない」(『小右記』長和三年三月十六日)と天皇は漏らしているのです。
そんな折、道長は自分の息子を昇進させるよう天皇に迫ったりしますので、実資は腹が立って「乱れた代のさらに乱れた代だ、上達部の数は果てしなく増えている。また天皇に

    譲位を迫った

ので『まったく我慢ならない』と天皇がおっしゃったとのことだ。奇怪と言うほかはない」(『小右記』長和三年三月二十五日)とかなり怒っているのです。
長和四年(1015)には、道長がトイレに行ったときに廊下から転げ落ちて足を怪我する(骨折したか?)というできごともありました。かなり腫れたらしく、水蛭に悪血を吸わせるという治療もしています。水蛭というのは乾燥したものを服用したり、こうして血を吸わせたりする形で医療によく用いられます。
天皇の病状はさらに悪く、道長は遠慮なく譲位を迫ります。そうすると天皇は鬱屈してまた悪化するという悪循環です。
道長は、天皇はすでに物が見えなくなっているので仕事ができないから退位してもらうほかはないという理屈で辞めさせようとします。さらに道長は「天皇の皇子は次の春宮になるには物足りない人ばかりだ、その点、第三皇子(道長の孫の敦良親王)はその器量がある」と勝手なことを言っています。
追い詰められた天皇はついに譲位を決断します。しかし春宮には何としても自分の第一皇子である敦明親王を立てたいと思っているのです。
長和四年は、道長の五十歳の年です。十月二十五日には

    五十の賀

がおこなわれます。
この日のことを道長は日記に書いています。
「太皇太后宮(藤原公任)が私を祝う歌を詠んでくれた。それを能筆の藤原行成が書き留めた
相生の松をいとども祈るかな
千歳の蔭にかくるべければ
 (これからも一層のご厚誼をとお祈りします。私
はあなたさまのおかげを末永く蒙る身ですので)
それに対して私はこう返した。
老いぬとも知る人なくはいたづらに
谷の松とぞ歳を積ままし
(歳をとっても友人がいなければ人目に立たない谷の
松のようにむだに年を取るばかりです。これからもよ
ろしく)」(『御堂関白記』)長和四年十月二十五日)
と漢文日記なのに、仮名を用いて書いています。ここには、政争も陰謀も何もない、仲の良い公任とのやりとりが見られ、道長の嬉しそうな顔が想像されます。道長の和歌というと、「この世をばわが世とぞ思ふ」が有名ですが、あの歌を詠んだときよりも、こちらのほうが彼の一人の人間としての幸せすら私には感じられます。
翌長和五年正月二十九日、道長の思わくどおり、三条天皇は譲位します。天皇の精一杯の抵抗は、道長の意に反して我が第一皇子敦明親王を春宮に立てたことでした。道長はこれを不服として、春宮に渡される壺切御剣(つぼきりのみつるぎ)を敦明親王には渡さないという行為に出ました(『小右記』寛仁元年八月二十三日に過去の出来事として書かれている)。こういうことをする道長の人間性は、私はどうにも好きになれません。
ただ、この敦明親王という人は暴力事件を起こすなど、いささか気性の荒いところがあったようで、春宮にふさわしくないという意見もまんざらでたらめではなかったのかもしれません。

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藤原道長の病気(8) 

天皇が亡くなると、その翌年に元号を改めることになっていました。一条天皇が亡くなったのは寛弘八年(1011)でしたので、寛弘九年が改元の年です。ところがなかなか機会がなくて暮れも押し詰まった頃にやっと長和元年(1012)となったのです。ここで話題にするのはまだ寛弘九年のころです。
一月十六日に道長にとってはとても悲しい出来事がありました。三男に当たる顕信が突然出家してしまったのです。顕信というのは、道長の「もうひとりの夫人」ともいうべき明子が産んだ子です。道長にはもっとも有名な倫子という奥さんがいて、この人は彰子、頼通、姸子、教通、威子、嬉子という四女二男を生みます。それに対して明子という人は頼宗、顕信、能信、寛子、尊子、長家という二女四男の母となりました。なんとも多産な人たちです。どちらかというと倫子が正妻格で、道長は彼女と同居しています。子どもたちも倫子所生の子のほうが出世しています。
顕信のにわかの出家は、道長もちろんなのですが母親の明子が相当なショックを与えてしまいました。
一方、翌月には、一条天皇中宮であった彰子を皇太后とし、新しい帝である三条天皇に入内していた彰子の妹の姸子を中宮としました。どちらも倫子所生の娘たちで、この二人の妻の明暗を感じます。
この年の四月に三条天皇は

    道長に対する不満

をこぼしています。藤原実資の兄懐平が参内して帝の御前にいたとき、天皇が「左大臣(道長)は私に対して無体なことこのうえない。この一両日は寝食もふだんのようにはできず、憂うる気持ちがひどい」と語ったというのです。天皇はかなりご機嫌が悪かったようです。道長は三条天皇に対して、このあとも繰り返し退位を迫ることになります。
三条天皇は、美貌と伝わる女御藤原娍子(藤原済時の娘。敦明親王ら二女四男を産む。美貌と伝わる)を皇后としたのですが、その立后の儀式の日、大臣三人が参内しなかったり、道長の娘中宮妍子をわざわざこの日に内裏に参らせて立后尾の儀式を等閑にさせたりするなど道長の妨害に遭います。藤原実資は『小右記』の中で「相府立后事頻有妨遏」(寛弘九年四月二十七日)と記しています。左大臣(道長)が、立后のことでしきりに

    妨害している

というのです。「妨遏(ぼうあつ)」は妨げることです。
その年の五月の末に、道長はまた重い病気にかかり、飲食物を受け付けないほどひどかったようで、大臣をやめるとまたも辞表を書かせます。
気が弱くなった道長は、藤原実資に向かって「今日は発作のない日で、平常を保っているが、病躯は普通ではなくながらえられそうにない。こうなっては何も思うことはなく命は惜しくないが、皇太后、中宮、春宮のこと、ほかの子どもたちのことの中でも皇太后のことが歎かれるばかりなのだ」と漏らします(『小右記』寛弘九年六月九日)。皇太后は道長の長女彰子のことです。
この少し後に、実資は日記におもしろいことを書いています。彼の養子(兄の子)の資平がこんなことを言いました。「左大臣の病気を喜ぶ公卿が五人いる。それは大納言道綱、実資、中納言隆家、参議懐平、通任だという風説がある」(『小右記』寛弘九年六月二十日)。これを聞いて実資はどんな気持ちになったでしょうか。
その後、道長が「私の病気の際に喜んだ人が五人いると最近聞いたが、まったく奇妙なことだ。中宮大夫道綱と右大将実資はそんなことはないだろう」と言ったことが実資のところに伝わった(『小右記』寛弘九年七月二十一日)ので、実資は胸を撫でおろしたかもしれません。

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藤原道長の病気(7) 

興味のない方には、ほんとうに意味のないことばかり書いています。実は、今度おこなう講演会の最後に、「ここで話しました内容はある程度ブログに書いていますのでご覧ください」といってQRコードをプリントしておこうかなと思っているのです。そのため、多少長くなるのですが、書き続けているというわけです。また、遠方の方から「どんな話をするの?」と聞かれたことがあり、いっそここで読んでもらえたらありがたいなと思ってもいるのです。
昔の人は四十歳から賀の祝い、つまり長生きのお祝いをしました。それはつまり四十歳を超えるといつどうなるかわからない、という気持ちに裏返しでもあります。私も40歳までに何人もの友人が亡くなりましたが、それは例外的なことで、現代では一般的に四十なんて人生の半分に過ぎません。まだまだギラギラしている年代で、

    「後世を願う」

という悟りの境地には至らないのが普通でしょう。
藤原道長は、寛弘五年、六年に続けて孫ができて、しかもそれは天皇の子で、さらに当時の事実上の皇位継承資格であった男子ということで、とても嬉しかったことでしょう。
しかし、一条天皇は寛弘八年(1011)六月二十二日に亡くなります。まだ三十二歳という若さでした。春宮(皇太子に当たる)であったのは居貞親王で、この人は母親が道長の姉の超子ではありましたが、超子が早くに亡くなっていたこともあって、あまり親しい関係ではないのです。道長とすれば、本当は我が孫をすぐにでも天皇にしたいくらいなのです。でも、その孫は四歳と三歳。ここはしばらく居貞親王に皇位を継がせて、春宮に我が孫敦成親王(後の後一条天皇)を据えるほかはあるまいと考えました。ここに

    三条天皇

が誕生します。この人は気の毒なことに病気がちで、目が不自由でもありました。『百人一首』に「心にもあらで浮世にながらへば」の歌が採られている、あの人です。同じ天皇といっても光孝天皇(君がため春の野に出でて若菜摘む)や崇徳院(瀬をはやみ岩にせかるる)とは似ても似つかぬ憂鬱な歌です。
道長との関係もどこかぎくしゃくしていて、即位したのに自分の息子(敦明親王)を春宮にすることもできず、結局は5年ほどで退位することになります。そのときに敦明親王をまだ幼い天皇である後一条の春宮に据えることだけは成功するのですが、やがてこの人も春宮の地位を追われてしまうのです。道長は普段はいい顔をしていても、こういうところがとても傲慢だと思います。
さて、その三条天皇の時代の寛弘九年(1012。12月に改元して長和元年)六月に四十七歳の道長はまた病気をして上表します。

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藤原道長の病気(6)~寄り道 

道長の病気は、このあと人生の終盤になるにつれてさらに深刻なものになります。それは次回に回して、ひとつ寄り道をしておこうと思います。
道長が浄妙寺を建立したのは、一族の墓のある木幡の地でした。自分の後世を願うためなら木幡のような遠隔の地に立てる必要はなく、事実彼はのちに自らの終焉の地として都の中に九体阿弥陀堂(無量寿院)を建立します。
浄妙寺を建立する理由について、道長は、願文(建立の趣旨を記した文。大江匡衡に作成させた)の中でこんなことを言っています。
  私は若い頃に父に随って木幡の墓所に
  何度も来たが、多くの塚があるばかり
  で整備されておらず、どこにも読経の
  声はなく、聞こえるのは鳥や猿の声だ
  けだった。そのときひそかに涙を流し
  て、いつか身分が高くなったら、この
  地に三枚堂を建てて故人を追悼しつつ
  未来を願おうと決意した。
美文に飾られた願文ですから多少の誇張はあるかもしれませんが、一族の菩提を弔いつつ永劫の隆盛を願う気持ちが三昧堂を建てさせたことは大筋では事実でしょう。
このとき彼は、兄道隆の家(中関白家と言われます)はもちろん、少し血縁の薄い家でも、藤原北家に連なる一族を統括して自らがその頂点に立つことを示すかのように、それらの家の人々も集めて三昧堂を供養するのです。
道長の父は嫡男ではなく、道長もまたそうではありませんから、本来ならこういう場で末座にいてもおかしくないのは道長の方なのです。ところが、現実には彼こそが一族の中心にいて誰もそれに異を唱えることはありません。三昧堂供養が道長にとって法悦を感じる催しであったことは諸史料からうかがえますが、それと同時に、力を弱めた嫡流の人たち(父の兄の系統の家や中関白家など)を従えるような自らの姿に、満ち足りた思いを抱いたという側面もあったのではないでしょうか。
この供養の座には中関白家の

    藤原伊周

やその弟の隆家もいました。彼らはどんな思いで道長の振る舞いを見ていたのでしょうか。
伊周という人は文才があって、政治家というより文人の趣すら持っています。やや屈折した性格の持ち主である伊周は、胸に一物を秘めていたかもしれません。伊周はこのあとも中関白家のプライドを強く持っていたように思います。
それを象徴する出来事があります。
寛弘五年九月十一日に中宮彰子が敦成親王を生んだことで、伊周の甥にあたる敦康親王の立場が苦しくなったことはすでに述べました。これは伊周にも大きな打撃でした。もし敦康親王が皇位に就けば、伊周は天皇の伯父となり、復権の可能性があったのですが、事実上これでその夢は断たれたからです。
その敦成親王の誕生百日を祝う宴の席で、伊周は不思議なことをしました。座が盛り上がって詩を作ろうという話になった時、突然伊周が

    「私が序題を作りましょう」

と言い出したのです。序題というのは、序文のようなもので、漢詩の会の趣旨などを述べるものです。
一座の人は「立場をわきまえろ」というように怪訝な顔をしたのですが、伊周はおかまいなしに「第二皇子誕生百日のお祝いで盃をやりとりしている。帝(一条天皇)は隆周の昭王や穆王のように長く帝位にあり、我が国の桓武天皇や醍醐天皇のように子も多い。康きかな帝道」云々という序題を書いたのです。表面上は祝いの言葉が多いのですが、敦成親王をわざわざ「第二」皇子であるといい、天皇には多くの子があると述べ、「帝道は安康だ」と「康」の字を入れた言葉を用いています。「帝には第一皇子である敦康親王がいる」「跡継ぎはこの皇子だけではない」と言い、敦康親王を想起させる「康」の字をあえて用いており、これでは敦康親王がいれば世は安泰だと言っているようなものです。
また周の昭王、穆王の例を引いていますが、その国名として「隆周」という言葉を用いており、なんとなく隆家と伊周を想像させます。深読みかもしれませんが、全体の意味として「私と弟が後見して敦康親王が帝位につけば世の中は安泰です」と言っているようにすら見えてくるのです。なんとも鬱屈した伊周の気持ちがうかがえるようです。
しかしその伊周の執念は実ることはなく、彼は二年後に三十七歳で亡くなるのです。

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藤原道長の病気(5) 

道長は浄妙寺三昧堂を建立して寛弘二年(1005)十月に供養をおこないました。このとき彼は四十歳になっていました。姉詮子の亡くなった年齢であり、兄道隆の享年にも近づいてきました。それだけに、道長は次世代のための行動をさらに加速させます。
ひとつには男子たちの出世の問題がありますが、寛弘二年時点では長男の頼通でもまだ十四歳ですからまだ重要な官職に就けるのはいささか早すぎるでしょう。しかも官位官職については道長が健在である以上ある程度は思いのままになるはずですからさほど慌てることもありません。
むしろ肝心なのは娘彰子の出産です。寛弘四年(1007)に彰子は二十歳になっていました。一条天皇に入内した時は十二歳の少女でしたからまだ出産は考えられなかったにせよ、いくら何でもそろそろ、と期待される(なんて言うと、今ならセクハラかもしれませんが)年齢です。当時の女性は初産の年齢がかなり早く起きてように思われているかもしれませんが、そんなに極端に早いわけではなく、20歳前後と考えておけば間違いないと思います。それにしてもそろそろですね。
実はこの年、驚くことに、道長の妻倫子が

    四十四歳

にして末娘嬉子を産んでいます。現代でもこの年齢ならかなりの高齢出産でしょうが、医学の未発達なこの当時にあってはいっそう大変だったことでしょう。倫子という人は九十歳まで生きるきわめて強い体力の持ち主(彼女の健康なからだは、彰子【八十七歳没】、頼通【八十三歳没】らに受け継がれます)ではあったのですが、それにしても大変だったに違いありません。
母親が何とか出産したとなると、ますます「次は彰子だ」という期待が高まってもおかしくありません。道長は彰子懐妊、出産の祈願の意味もあったのか、その年の二月に大和の春日社に参詣しています。春日は藤原氏の氏神なのです。
さらに道長は、

    金峯山参詣

に挑むことにしました。これは厄除けのためとも言われるのですが、私は、彰子の出産を願う気持ちが春日に続いての金峯山参詣を促したのではないかと思っています。
ところがこの年の春から夏にかけて、道長は咳病、頭風(風によっておこると考えられた頭痛)、眼病、腰の腫れなどの病気に苦しめられています。
それでも金峯山参詣のための精進を続けた道長は、八月にその目的を果たしたのです。この年には浄妙寺多宝塔も完成しており、道長の宗教心はさらに高まったかもしれません。
これらのご利益があったのでしょうか、翌寛弘五年にはとうとう彰子に男子が誕生します。敦成親王、のちの後一条天皇です。『栄花物語』「はつはな」は、彰子が懐妊したという知らせを受けた道長の心の内を推し量って「御嶽の御験にや(金峯山に参詣したおかげだろうか)」と記しています。
彰子はさらにその翌年にも男子(敦良親王。後の後朱雀天皇)も産み、こうなると道長家の権勢は盤石となり、おのずからあの定子が産んだ敦康親王の立場はかなり弱いものになってしまいます。

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藤原道長の病気(4) 

長保二年(1000)二月に藤原道長の娘彰子は中宮になりました。現中宮を皇后という名に移してわが娘を立后させるなどという強引なことをしても誰も文句が言えない時代だったのです。今でもこういうことはありますから、要するに現代の政治は貴族政治なのでしょう。
そんなことをしたので罰が当たったわけでもないでしょうが、その2か月後に道長はまた病気をしました。この病気もかなり重かったらしく、これ以後の彼の日記は当分の間空白になっています。見舞いに行った藤原行成に対して「鶴君のことを何かと気にかけてほしい」と遺言めいたことを言ったようです(『権記』四月二十五日条)。鶴君というのは頼通の幼名で、このとき九歳でした。
この病気のあいだには、行成の『権記』によりますと、厭魅や呪詛(相手を呪うおこない)があったとか、次兄道兼の霊が現れたとか、邪気が伊周(道長の兄道隆の子)の復位が叶えば病気は癒えるだろうと言ったというようなことがあったらしく(『権記』)、兄たちの

    執念、怨念

が病気と関わっていることを示唆するようです。
この長保二年の冬から翌年七月にかけてはまた疫病が流行しています。このときも「道路死骸不知其数」(『日本紀略』)というように多くの死者が出たようです。その中には、紫式部の夫である藤原宣孝も含まれており、この高齢の夫を失った彼女は、このあと中宮彰子の女房となってあの『源氏物語』を書くことになるのです。
道長の姉詮子は、この弟をとてもかわいがったようです。道兼の後継者を誰にするかという問題が起こった時、一条天皇(詮子の子)に強く道長を推薦したと言われています。道長にとっては恩ある姉なのです。その姉が長保三年(1001)に四十歳を迎えました。さっそく四十の賀がおこなわれるところですが、詮子は前年末から病気で、しかも前述のように疫病もあったために延期されます。そうこうしているうちにまた彼女は病気になり(九月)、結局賀宴がおこなわれたのは十月でした。しかし彼女はこの年末に藤原行成邸で亡くなっています。その日の行成の日記『権記』には「寅の刻に左大臣(道長)が来られた。酉の刻に(詮子は)亡くなった。(左大臣が)お嘆きは極まりないものであった」といういみのことが書かれています。
道長の同母兄姉たちはこうして次々に亡くなり、もっとも長生きしたのは道隆の四十三歳でした。
こうなると、まだ三十六歳とは言え、道長も自分の人生がさほど長くないのではないかと思ってもおかしくありません。
長保五年(1003)の道長はどうやら元気だったようで、宇治川や大堰川の遊覧をしたり和歌や漢詩の催しをしたり、石清水八幡宮から住吉まで参詣したり、興福寺まで出かけたり、なかなか健康的な日々を過ごしたように見受けられます。そんな日々を送るうちに、道長は、一族の墓のある木幡(京都府宇治市)に寺を建てようと計画しました。今、木幡小学校になっているところが、その

    浄妙寺

の跡地とされています。この浄妙寺建立は、自分の極楽往生に関わるものというより、藤原北家一族の菩提を弔い、将来の安泰を願う意味があったのでしょう。
ところがこの寺の建設中にも道長はまた病気をしています。長保六年(七月に改元して寛弘元年)には重舌(ラヌラ)に罹ったり、頭を打って臥したり、霍乱に苦しんだりしているのです。翌年もあまり体調は良くなく日記の記事の少ない時期もあります。そんな中で浄妙寺三昧堂の供養をおこなったときは感極まったようでした。

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藤原道長の病気(3) 

こうして道長は念願の「一の人」(時の第一人者)になったのですが、世に「御堂関白」と言われるのとは違って、彼は関白にはなっていません。後に孫の後一条天皇の摂政には短期間就いていますが、これもすぐに息子に譲ってしまいます。望めばなれたであろう関白ですが、彼はなぜその地位に就かなかったのか、研究者の間でもいろんな意見があります。名より実を取ったとか、謙譲の人であるがゆえに遠慮したのだとか。私はまったく日本史研究については素人ですが、関白になった二人の兄が相次いで亡くなったことと何らかの関係があるのではないかと(なんの証拠もありませんが)考えています。
道長が左大臣として権力を握ったあと、三十二歳の長徳三年七月には「瘧病(ぎゃくびょう、わらわやみ)」のような症状で、重症となりました。その翌年三月には邪気によるとされる「腰病」(『権記』三月三日条)を患い、「年来出家の本意あり、かかる時に遂げんと欲す」(同)と考えていたというのです。そして、先日書きましたように、このときに大江匡衡に依頼して上表文を天皇に差し出しているのです。この上表文は

    『本朝文粋』

という漢詩文集に収められているために現存していて、今でも活字で読むことができます(たとえば岩波新日本古典文学大系『本朝文粋』)。大げさともいえそうな表現で辞意を訴えています。ついでながら、こういう文は文頭、文末に書式があります。書き出しは「臣某言」なのですが、文末は「頓首頓首、死罪死罪、謹言」と書かれるのです。「頓首」や「謹言」は今でも手紙の文末に用いる人はいますが、なんでこんなところで「死罪」が出てくるのかと、初めて見るとびっくりしてしまいます。死罪に当たるような差し出がましいことを申しました、という謙遜の言葉なのですが。
道長はこのとき「病すでに危急なれば命を存(ながら)ふべからず。この時本意を遂げずんば、遺恨更に何の益かあらん」とまでいったようです(『権記』三月三日条)。大げさな表現をしたのかもしれませんが、ずいぶん気弱にさえ見えます。
結果的には事なきを得たのですが、今後もいつどうなるかわからないと思ったのか、道長は自分の「あと」のことを考えるようになります。父兼家が摂政になれたのは娘(詮子)が円融天皇の女御になって男子(のちの一条天皇)を産んだからです。道長は何としてもわが娘をその一条天皇の後宮に入れようとあせっていました。しかし道長はこのとき三十三歳で、長女の彰子は十一歳に過ぎません。それでも彼は速やかに娘を入内させようとして、翌年の二月に女子の成人式に当たる

    裳着(もぎ)

をおこなったのです。裳着は女子が結婚できることを宣言する儀式でもありました。ただ、姉詮子が三月に、道長自身が五月に、息子の頼通が七月に病気になり、どうも落ち着きません。それでも十一月一日に彰子を入内させ、まもなく女御にしています。ちなみに彰子が女御になったまさにその日に、道長の兄の娘で一条天皇中宮である定子が男子を生んでいます。一条天皇の初めての男子、敦康親王です。天皇の第一皇子ですからこんなにめでたいことはない・・・はずなのですが。道長は日記にはこの皇子誕生のことはひとことも記していません。一条天皇にはわが娘彰子も入内しているわけですから、いわばライバル。さほど嬉しかったわけではない、いやどちらかというと眉を顰めるような出来事だったのかもしれません。そもそも、定子の出産は差し迫っているわけですからそんな時期に彰子を女御にするなんて非常識とも言えます。同じ日になったのは偶然なのか、意図的なのか。「書かなかった」気持ちを察するべきだと思います。
娘彰子を女御にしたからには、次は中宮にしなければなりません。しかし中宮には定子がいます。いくら何でも中宮を降りろとはいえませんから、道長は困ってしまいました。そのとき藤原行成が、定子を皇后に、彰子を中宮にする理屈を考えてくれて、翌年にはそれが実現します。書の達人としても知られる行成は優秀な人だったのですが、父親が若死にしたこともあって権力の傍流に位置することになってしまいました。だからこそ精一杯道長に尽くして自らの存在感を高めねばなりません。寄らば大樹、権力者のご機嫌を取るのはいつの時代にもあることです。

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藤原道長の病気(2) 

正暦五年(994)は一年にわたってひどい疫病が蔓延した年でした。時に道長二十九歳。ばたばたと人が倒れ、「京の都の路頭には病者があふれた」と記録にあります。以前書いたかもしれませんが、デマも飛んで、「三条油小路の井戸の水を飲めば病気を免れる」と言い出した人物がいて、「京の人々はこぞって水を汲みに来た」という記録もあります。こういう噂はどういうわけか千里を走るように広がるものです。昔も今も変わりませんね。
疫病となると、身分の上下は関係なく誰でも罹患する可能性があります。周辺に感染者が出たのを見た道長も心穏やかではなかったでしょう。
政府がすることと言ったら大赦、祓、神社への奉幣、内裏での読経、法会の開催、税の免除、高齢者への食糧配布などで、医学的なことに関してはほぼ記録にありません。もちろん当時の医師(くすし)たちも手を拱いていたわけではなく、中国の医書にのっとった治療は施したはずですが、何しろ悪疫ですからどこまで効果があったものやら。
翌年になってようやく収まると、政府が次にしたことは

    改元

でした。議論のあげく、「長徳」という元号になるのですが、この元号についてもいろいろ意見がありました。「長徳」は「長毒」に通ずるとか、「徳」の字を持つ元号はこれまでに「天徳」しかないが、天徳元年には不吉なことが起こっているとか。
幸い道長はこの疫病には罹らなかったのですが、その元号が改まった長徳元年には道長の兄たちが立て続けに亡くなるという悲劇に見舞われました。長兄の道隆はなかなか豪快な人だったようですが、過度の飲酒が祟って糖尿病になったらしく、四十三歳の若さで亡くなっています。道隆は父の摂政兼家の後継者として、一条天皇の関白になっていました。天下の柱石が亡くなったのは大変なことでしたが、もうひとつ、後継者は誰なのか、という問題も起こります。道隆の弟の道兼は「我こそは」と思います。実はこの人は父が亡くなった時に兄以上に自分が関白にふさわしいと思っていたのです。結局道隆が関白となるとやけ酒を飲むような人でした。ところがその道隆が重病になり、道隆が後継指名していた伊周(道隆の長男)が若すぎたこともあって、その生前に禅譲が認められなかったので、道兼はついに自分の時代だと喜んだのです。そして関白の地位にも就けたのですが、実は彼自身そのときは病身で、道隆に遅れること約1か月で亡くなってしまいます。世に、

    七日関白

と言われます。
その後は伊周と道長にさやあて(というよりは抗争)があって、結局ねじふせるようにして道長が実権を握ることになりました。
病気は恐ろしいものですが、権力争いをする者たちにとっては好機が到来するきっかけにもなるのです。現代でもそういうことがありますよね。

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藤原道長の病気(1) 

来年のNHK大河ドラマでは紫式部とその時代が描かれるそうです。私はもう何十年も大河ドラマを観ていませんので、来年もおそらく縁がないと思います。
しかし、好きな方は多くいらっしゃるでしょうから、この秋から1年くらいは意識して紫式部の時代の話をしたいと思っています。
以下、年齢はいわゆる数え年で書きます。966年生まれの藤原道長の場合、たとえば969年は四歳です。
11月には某所で藤原道長の病気について(笑)話すことにしているのですが、それも大河ドラマに引っ掛けてお客さんに来てもらおうという魂胆がありました。この講演会ではいろんな分野の人がひとつのテーマを基にして話をするのですが、その分野というのは医療、音楽、栄養学とさまざまです。
私は人気がなくて、昨年は私の担当した回は申し込みをされた人数の6割くらいしか受講者は来られませんでした。恐ろしくて聞いていないのですが、すべての講演の中で最低の人数だっただろうと推測しています。今年は昨年より多くの方が受講希望されているようなのですが、また私の時だけ少ないという

    憂き目を見る

のかもしれません(涙)。
以下、かなり長くなりますが、そのときにお話ししようと思っていることをメモしておきます。というより、このブログの記事を書くことで予習をしているのです(笑)。
藤原道長という人は健康にあまり自信がなかったように思われます。彼の実の兄である道隆、道兼や姉の超子、詮子などという人たちは30代から40代前半という年齢で若死にしています。それだけに、自分も長生きできないのではないかという思いがあったと思うのです。
事実、当時の記録を見ると、しばしば病気をしていたことが書かれており、時にはもう出家したいと言い出していることもあります。また、再三天皇に「もう仕事をやめます」と辞表を出したこともありました。天皇に出す文書としては祝賀の意味のもの(賀表)もありますが、辞表も含めてこれらを

    

と言っています。祝賀の表としては「立后」「立太子」「朔旦冬至」などの表があります。朔旦冬至というのは旧暦の十一月一日が冬至に当たることで、この日はめでたいとされて祝宴なども行われたのです。
道長は病気が重くなると一度ではなく三度にわたって上表(辞表の提出)しています。だいたい上表を三度繰り返すのが普通だったようですが、これらは天皇から却下されます。天皇も「はい、辞めてください」とは言わないのです。「やめるやめる詐欺」みたいですが、形式的に「辞める」と言って「そんなことを言うな」と引き留めてもらうわけです。
形式的と言えば、この上表文というのが半端なものではないのです。今なら「一身上の都合で退職いたします」で済みそうですが、そんなものではありません。道長は当時の漢文の泰斗であった大江匡衡に依頼して見事な美文の(もちろん漢文体)表を書かせているのです。学者(もちろん漢学者)はこういう役割も持っていたのですね。

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LINE 

私は人と話すときに、LINEを使うこともあります。そのために、わりあいに早くからLINEは使ってきました。情報を手書きしてもらうのはどこか申しわけない気持ちになるのですが、LINEならなんとなく気軽に書いてもらえそうな気もしたのだと思います。
ただ、そもそも友だちが少ないこともあって(笑)、友だち登録している人はそんなに多いわけではありません。また、登録していてもすでに縁が遠くなってしまって、「名前だけの友だち」という人も少なくありません。
グループLINEは、家族、短歌結社、源氏物語の読書会が、今は機能しています(ほかにもありますが、やはり縁遠くなってしまって)。火急の用がある時など、一度に連絡出来てとても便利です。ただ、短歌結社は高齢の方が多く、あまりお使いになる方がないようで、しょっちゅう連絡が来るというわけではありません。かく申す私も、そのグループで発言することはさほど多くないのですが(笑)。
友人の少ない私は、同世代以下の友だちの集まる「グループ」がないので、それはいささか残念です。以前、

    「だし巻きの夕べ」

という文楽ファンの集まりがありましたが、あそこではLINE友だちはできませんでした。もし何人か「友だち」になっていたらあの集まりでLINEグループができていたかもしれない、とふと思いました。でも、「文楽の時だけ会う」という関係でしたので、特にそういう必要はなかったのでしょうね。
以前の学生さんは、まず「LINE教えて」というところから仲良くなっていたように思います。新入生の人たちが前の席、後ろの席の人たちと交換している姿をみたこともあります。今も同じなのかというと、そうでもなく、最近の若者はむしろ

    Instagram

のメッセージ機能でやり取りしているようです。これはあるOLさんから聞いた話です。
ついこの間、どういうところから知られたのかはわからないのですが、ある文楽の技芸員さんのお名前で友だちに追加されていたことに気付きました。「ほんもの?」「誰かのいたずらじゃないの?」と若干疑わないでもなかったのですが(笑)、どうやらほんもののようでした。
技芸員さんが今なお忘れずにいてくれているのがとても嬉しかったです。でも、なんの話をしようかな・・・?

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文楽十一月公演初日 

文楽は大阪大阪での一年納めの公演を迎えました。文楽の暦ではまた一年が暮れていきます。
演目は
第1部 午前10時30分開演
双蝶々曲輪日記
(堀江相撲場、難波裏喧嘩、八幡里引窓)
面売り
第2部 午後2時15分開演
奥州安達原
(朱雀堤、敷妙使者、矢の根、袖萩祭文、貞任物語)
第3部 午後5時45分開演
冥途の飛脚(淡路町、封印切、道行相合かご)
です。
「引窓」の切は呂・清介、「袖萩」は呂勢・清治、「貞任」は錣・宗助、「封印切」は千歳・富助。濡髪は玉志、十次兵衛と貞任は玉男、宗任は玉助、袖萩は和生、傔仗は玉也、浜夕は簑二郎、梅川は勘彌、忠兵衛は勘十郎という布陣です。
簑二郎さん、そろそろいい名前を名乗られたらいいのに。

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南アフリカ対ニュージーランド 

私はそんなに熱心なラグビーファンではありませんので、この秋フランスでおこなわれたワールドカップもあまり観ていません。正直に申しまして、ほとんどはダイジェストでしか観ていなかったのです。何しろ地球の裏側で、日本の早朝というか未明におこなわれることも多く、テレビ中継もどれくらいおこなわれていたのかということすら知りませんでした。
三位決定戦でイングランドが勝ったことも新聞で知ったほどでした。決勝戦は地上波のテレビでも放送があったようですが、私はちょっとくたびれていてナマでは観ていません。それでも朝起きると経過が気になり、6点差で南アフリカがリードしている、というところからチラチラと情報を得ていました。最終的には南アフリカがわずか1点差で逃げ切り、4回目の優勝を果たしました。
南アフリカというと、かつては人種差別の国でした。ところが獄中生活も経験した黒人のマンデラ大統領が誕生した時にワールドカップに初出場、下馬評はひどく悪かったにもかかわらず初優勝したことが思い出されます。いや、私はそれをクリント・イーストウッド監督

    『インビクタス』

で観て、こんなことがあったのか、と知っただけなのですが。その後、ワールドカップで2度優勝しており、今や強豪国になっています。
ニュージーランドも言わずと知れたラグビー王国ですから、この試合はやはり早起きしてみておけばよかったと、じわじわと後悔が湧いてきました。そこで、夕方NHKで録画放送していたものを観ることにしたのです。結果は分かっています。それでも私はいつしか目の前で行われている試合のような気がして、引き込まれていきました。
先だって、アジア大会のサッカーで某国選手がイエローカードを連発したあげく、判定を不服として試合終了後に審判を追い回すという蛮行を見せたのですが、ラグビーではアピールはしますがそういう行為はありません。相手ボールのスクラムになったからと言ってそのボールを遠くに投げ出すというようなこともありません。激しくぶつかり合う競技だからこそ、汚いことはしない。サッカーとラグビーは親戚のようなものなのに、なぜこんなにも違うのか、不思議ですらあります。
試合は両チームともなかなかトライが取れず、ペナルティキックによる得点のみで12‐6で前半を終えて、後半になっても一進一退。ラインアウトからニュージーランドがトライを決めたかと思ったらTMO(テレヴィジョン・マッチ・オフィシャル)つまりビデオ判定でノックオンがあったとのことで、ノートライ。その後もニュージーランドはよく攻め、南アフリカはよく守り、時としてよく攻めました。そしてニュージーランドがまたもやラインアウトからよくつないで、ついに

    トライ!

惜しむらくは左隅であったため、コンヴァージョンキックは右側に外れてしまいました。その後もペナルティキックから逆転のゴールを狙ったりしましたが、やがてノーサイドの笛が鳴りました。
観終わったあと、録画とか何とかは関係なし。やはりダイジェストではダメですね。ほんとうにいいものを見せてもらいました。
4年後も、もし生きていたら(!)また観たいものだと思います。

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今年も苦しい11月 

例年、十一月は多忙です。書かなければならないもののほかに、話をしに行くところもあって、その準備もありますので、余裕がないのです。そのわりにブログを書く余裕はあるじゃないか、というご指摘はご遠慮願います(笑)。
以前はこの時期に幼稚園児のための文楽人形劇を上演していましたので、その台本書きや稽古、本番があり、それだけでも大変でした。何しろ毎週奈良まで行っていましたので。
今はそれがなくなって、残念ではあるのですが、苦しさは免れています。
そういえば、『フィガロの結婚』の台本も11月が正念場でした。早朝から仕事場に行ってパソコンと向き合い、オペラのDVDを観たり、原稿を書いたりしていました。1か月半で書けというかなりの無茶を言われましたので、ずっと息をつめて働いているような感じでした。
それらはもう終わったことですが、別の仕事も出てきましたので、やはりこの1か月は相変わらずがんばらねばなりません。
『源氏物語』のエッセイは、もう

    32回目

を数えます。今回から「須磨」巻に入ります。都に居づらくなった光源氏が自ら須磨(今の神戸市)に退去して、そこから明石に移るまでの話です。このエッセイは年に4回ですから、丸8年ということになります。当初は10回続けば御の字と思っていましたので、よく続いた方だと思います。さすがは『源氏物語』、モノが違うという感じです。
短歌関係の原稿はほかにもありますし、短歌そのものを詠むことも必要です。
話をしに行くのは、藤原道長を中心とした平安時代貴族の病悩についてという、まことに陰気なお話と、もうひとつはやはり『源氏物語』の講座です。
道長の話はかつて書いた原稿がある程度役に立つのですが、アングルが違いますので、また彼の人生を振り返りながら話の構成を決めつつあります。私の持っている史料は乏しいので、図書館に通わねばならないこともあって、その往復の時間が誠に惜しいほどです。大先生は家の中に書庫かと思われるような本を並べて、そこからあれこれ引っ張り出して勉強されるような、ああいう姿がうらやましいです。
一方の『源氏物語』のお話は、

    「帚木」巻

の三回目。いつもぎりぎりに予習しており、綱渡り状態が続いています。今度は後に光源氏が偶然出会うことになる夕顔という女性がひっそりと登場します。
勉強すること、話をすることは楽しいのですが、同時に無責任なことはできないという精神的な重圧は私のような三文学者にも感じられるのです。

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古典と公園(古典の日に) 

本日、十一月一日は「古典の日」ということになっています。
私は明治天皇の誕生日ではなく、この日を文化の日にすればよいと思っています。
それはさておき、いうまでもないことですが、古いものが「古典」なのではありません。古くから脈々と伝えられて、今なおたくましく生きているものが「古典」です。だからこそ古典には力があります。
何だか意味は分からなくても、『百人一首』の歌のひとつくらい暗記している人は少なくありません。芭蕉の俳句だって、東北に旅行したらあちこちに彼が吟じた句が思い出されます。
自分の人生を顧みたくなった時、これは私のような者だけかもしれませんが、古典の言葉がよみがえってきます。朝日新聞に連載されている鷲田清一さんの「折々のことば」の連載は、すでに3,000回近くの回数を重ねていますが、名もなき人のさりげないひとこと、哲学者の思索の結晶、芸術家の強い思い入れなどとともに古典の一節がきらりと光を放つように紹介されることがあります。
私は高校生のころに日本の古典文学と呼ばれる一群の作品に心惹かれて、いつしか歴史と文学を勉強したいと思うようになりました。結果的にそれが仕事にもなり、今に至っています。
そんな古典は、本の中だけに生きているわけではありません。作者のゆかりの地、作品の舞台になった場所などで、なにかしら記念するものが置かれていて、現代人にも関心を持たれることがしばしばあります。福井県の元の武生市、今は合併して越前市になっているところには

    紫式部

を記念する立派な公園があります。なぜ福井県? というのはまた後日書くとして、こういう記念公園は作品を読んでいなくても何かゆかしいものがあるようで、訪れる人は少なくありません。
佐賀県嬉野市に行くと和泉式部公園があります。もちろん、単に歴史上の人物を記念するだけでなく、園内にさまざまな施設を設けたり、お土産の工夫をしたりして、観光客を集める工夫はなさっていますが。
愛知県知立市には『伊勢物語』のかきつばたのエピソードを意識した「八橋かきつばた園」があり、5月になると3万本というかきつばたが咲き乱れます。
奈良県北葛城郡広陵町には

    竹取公園

があります。広陵町は一節に『竹取物語』の舞台とされますので、町おこしのために作られたものなのかもしれません。
たくさんの遊具が置かれた家族で楽しめる公園ですが、同時に『竹取物語』の世界も味わうことができます。里中満智子さんの絵の描かれた説明パネルもあって、どんなお話なのかも理解できるようになっています。ちなみに、ここにはかぐや姫が生まれたという大きな竹の形をした場所があるのですが、なんと、これはトイレなのです(笑)。
文学の人ではないのですが、私が最近書いた創作浄瑠璃の主人公である重源上人については、山口市徳地地区に「重源の郷」という公園があります。ここでは重源上人がこの地に伝えたと言われる紙漉き体験などもできます。
古典は人々を今なおひきつけます。難しい文法や古語の暗記で苦労した高校時代の「古文」ではない、ほんとうの古典文学の世界を一人でも多くの人に知ってもらおうというのが私の人生だったのかもしれません。

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