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あたふたした二月 

3か月に一度押し寄せる原稿の波がこの2月にもやってきました。いつもながらの悪戦苦闘でしたが、2月20日にすべて提出して無事にクリアしました。もっとも、えらい大先生とか、流行作家に比べると雀の涙ほどの量なのですが。
それでも、ともかくも2月の主だった仕事は終わりました。
寒暖の差の大きさで体調がまたもや悪化したこともあって、締切直前(つまり2月中旬以降)はかなり苦痛でした。もっと早く書いておけばいいのに、といつもながら反省しています。
書くこと以外では、月例の『源氏物語』の講座でお話しする仕事もありました。『源氏物語』の専門家でもなんでもない私にとっては、予習がなかなか大変で、資料(レジュメ)作りもしなければなりませんので、講座が終わるとすぐに次回の予習が必要になってきます。『源氏物語』を読むこと自体は楽しいことで、勉強するのも当然おもしろいのですが、無責任なことは言えない、という重圧だけがしんどいといえばしんどいかもしれません。
ところで、2月には

バレンタインデー

というのがありますが、私にはとんと縁のない行事です。このブログでは何度も書いていると思いますが、学生さんには人気がありませんし、そもそもこんな時期に学生さんはめったに大学には行かないので会わないのです。それ以外にも、あまり人と会うということがありませんから、当然どなたからもいただくことがないのです。
ところが今年はひとつ、とてもしゃれたチョコレートをいただきました。6個入っているのですが、缶入りの豪華なものでした。いったいどなたが、ということなのですが、なんと、『源氏物語』の講座においでいただいている7人の女性方からいただいたのです。
高齢の方なのですが、とても気の利いたことをしてくださいました。皆様ありがとうございました。
2月はとても暖かい、

    春、本番

という日があったかと思うと、また冬に逆戻りしたりしました。こういうのは私にとってはやはり健康にはよくないのです。
そんなわけで、何かと大変だった2月でしたが、いよいよ春の到来ということになりました。私は3月に関してはまあまあ余裕ができそうな気がしています。このあたりでまたひとつ創作浄瑠璃の骨格だけでも考えてみたいと思っているのですが、果たしてどうなりますやら。

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孫が生まれたような 

私がほんとうの意味で指導した学生というのは、もう全員30歳を過ぎています。「ほんとうの意味で」と申しましたのは、授業だけするのではなく、それ以外の場面でもつながりの多かった人こそが「指導した」といえると思うからです。
そういう世代の人たちの何人かとは、今でも年賀状のやり取りがあったりFavebookやInstagramでかろうじてつながりがあります。
あまり熱心に空書き込みをする人はいませんが、それでも何かあったときに報告のようなことをしてくれます。
最近、一番ホットだったニュースは子どもが生まれました。というものでした。
私の学生時代なら女性は25歳までにおおむね結婚して、20代後半には母親になる人がとても多かったのです。しかし、今や30歳を過ぎてから結婚する人も少なくなく、35歳までに最初の子が生まれる、という話をよく聞きます。最近出産の報告をした学生さんは

    昭和の末

の生まれでしたので、すでに30代の後半です。この年代での出産は、日本産婦人科学会のいう「高齢出産」(35歳以上の初産婦による出産)と言われますが、今はほんとうに珍しくありません。
彼女の同年代の卒業生の中には、もう小学校に行くお子さんのいる人もいますから、早い人はそれなりに早く出産しますね。
今は、結婚年齢の高齢化、出産年齢の高齢化が進んで、少子化にもつながります。
若者たちは子どもが育てられるのか不安が多いようにも聞きます。実際は私のような貧乏教員でも育てられるのですから何とでもなると思うのですが、不安を持つ気持ちはわかるように思います。
仕事を続けたいけれど、子どもができても

    保育所

に入れられるかどうかわからない、保育所に入れることができても何かあったときには仕事を差し置いてでも駆け付けなければならない、夫は嫌がるのでどうしても妻の負担になりがちだ、などいろいろ問題がありそうです。
それでも、かつての教え子さんが結婚した、出産したという話はやはりうれしくなります。私は、孫というものを持たないのですが、なんとなくこういうニュースに触れると自分の孫ができたような気になります。

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マルハラ 

メールというのができたころは「最新の通信連絡ツール」として、当時の若者たちはこぞって使うようになりました。もう手紙なんて書かなくていいんだ、という人たちが一気に増えたと思います。
ところが今や、メールの使い方がわからない、パソコンのキーボードが打てない、という若者が増えています。最新のツールだったものがあっという間に色あせて来たようです。今はLINEか、あるいはインスタなどで会話をするように連絡しあうのが当たり前で、手紙の延長上にあるメールは面倒なものなのでしょう。
会話と手紙では文章の質が異なります。手紙の面倒くささは多くの若者にはたまらないほど嫌なものかもしれず、メールも面倒なものの部類に入るのでしょうね。
最近はLINEなどで文の終わりに

    句点、つまり「。」

をつけるのを嫌がる若者がとても増えています。
(若者)今日、休みます
(上司)どうかしたの。怪我でもしたのかな。
(若)風邪です
(上)症状はどうなの。熱はあるの。
(若)38℃を超えています
(上)わかった。それではしかたがないね。
とやりとりしたとすると、上司はことごとく文のおわりに「。」をつけますが、若者は一文だけで返事するので「。」を書かないのです。そのためなのか、「。」を付けられると、相手が怒っているように受け止めてしまうようです。上司は「しかたがないね、ゆっくり休んでね」といたわって返事をしているつもりでも、若者から見ると、「休むなんて軟弱な奴だ」「ちょっとしたことで休みやがって」と文句を言われているように感じるのですね。
私にはその感覚がよくわからず、「そんなのごく一部の人だけでしょ」と思っていたら、豈図らんや、かなり多くの若者に共通するとのことです。
そして、こういう「。」付きの返事を送られると

    マルハラ

とまで言われるようです。鑓の権三の紋の「丸に二つ引き」の親戚かと思ったら、「マル・ハラスメント」なのだそうですね。「マルを付けられることでいじめを受けている」と感じるのですね。さすがにこういうのをハラスメントと言うのは言い過ぎだと思うのですが、若者たちはけっこう真剣です。感覚の問題ですから、いくら「そんな意味はないんだよ。」と諭してもダメなのでしょうね。
いささか悩んでしまいます。

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手書きの手紙 

創作浄瑠璃『重源上人徳地功』がやっと活字になりました。依頼してくださった地元の方にお送りしなければなりません。ご当地の図書館やメディアにもあいさつ代わりに送っておいたほうがよさそうに思います。さらにそのほか、若干お送りするところがあって、都合約10か所に送ったのです。
現物だけ入れて済ませるわけにはまいりませんので、手紙を添えます。宛先が違いますし、送る目的も異なりますので、それぞれに手紙を書かねばなりません。
プリンタを使える場にいませんでしたので、手書きすることにしました。
最近は、めっきり手紙を書かなくなりましたが、特に手書きの手紙は少なくなりました。
パソコンなら、間違えればすぐに書き直せます。手書きだと便箋1枚無駄にしてしまいます。何といっても、パソコンは字がきれいです。というか、誰にでも読んでもらえる字が出てきます。自筆だと、悪筆のうえに、どうしても

    

が出てしまって、「この字、読んでもらえるかな」という不安が浮かんできます。
一筆箋にして「創作浄瑠璃を活字にしましたのでお送りします。ご笑覧くださいませ」くらいにする手もあったのですが、あいにく一筆箋自体がありませんでした。しかたなく、手元にあった便箋に、おひとりあたり2枚ずつ書くことにしました。私は古い人間ですので、便箋1枚というのは苦手です。
書き終えてみて、読み返してみると、なんと、すべての手紙に「拝啓」「敬具」などの

    頭語、結語

を書き忘れていました。悪筆のお詫びも書きませんでした。時候の挨拶もずいぶんいい加減な書き方をしてしまいました。古い人間だとたった今言ったばかりなのに、手紙の定型をかくも簡単に忘れてしまっています。
しかし改めてまた書き直す元気もなく、便箋もなくなってしまいますので大変失礼ながらそのまま出してしまいました。
最近、手紙の形式なんて意味がありますか、という意見を多く聞きます。招待状に対する返信ハガキでいちいち「ご住所」の「ご」を消すのが常識だとか、宛先に「○山▽子 行」と書いてあるのを「○山▽子 様」に直さなければならないとか、そういうルールに対して「くだらない」と、特に若い世代の人から苦情が出ます。なにしろ彼らは私以上に手紙を書きなれていませんから、「めんどくさい」ことを異常なまでに嫌うようです。
学生に「実習先へのお礼状を書いたので見てください」と言われたことがあったのです。一生懸命書いた(はずの)彼女には大変失礼なのですが、それを見た瞬間、私は「小学生の手紙か」と思いました。これは彼女個人の問題ではなく、手紙と縁の薄い世代に共通することだろうと思います。
郵便料金が今秋から値上げになるそうですが、そうなるとますます手紙文化は衰退する可能性があります。

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市章 

どこの町にも市章というものがあります。
京都市は「京」の文字をデザインしたものと御所車を組み合わせたものです。御所車なんて、いかにも京都らしいですね。京都市章は色も美しく、金色と紫色を組み合わせています。神戸市の市章は実に単純で、扇を二つ重ねた模様で、それに「かうべ」の「か」の字をデザインしているものだそうです。なぜ扇が二つかというと、神戸と兵庫の二つの港があたかも扇を並べたかのような形をしているからだそうです。それでまとめて「扇港」とも呼ばれていたのです。大阪市は澪標(みをつくし)が市章になっています。
この三つの町の市章を組み合わせたのが、

    阪急電鉄

の以前の社章でした。中央に神戸と大阪の市章がそのまま用いられ、周囲は京都市の市章を崩したデザインでした。私はそのデザインを先に知っていたため、大阪の市章って、阪急の真似をしたんだろうか、なんて思ったくらいです(さすがにそれはウソですが)。
私は西宮市の高校に行ったのですが、その高校のデザインは、一見すると六芒星に「高」の文字をデザインしたものなのです。ところがその高校では「西宮市の変形六稜型に、「高」の字を入れたもの」と説明しています。

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高校の校章

この「変形」という言葉がくせものです。実はきれいな六芒星の形にはなっていないというのです。しかし現実に私が校章を見た限りでは「変形」という感じではありません。西宮市の市章というのは明らかに変形です。真ん中に「西」という文字(ただし篆書体)が置かれ、その周囲が星形に見えるのですが、よく見てみると線がずれています。六芒星ではなく、カタカナノ「ヤ」を三つ組み合わせたデザインなのでした。真ん中に「西」、まわりに「三つ」の「ヤ」。この「ヤ」の字をはっきり見せるために線をずらしているのです。つまり

    「にし(西)・み(三)・や(ヤ)」

で「にしのみや」というダジャレ(失礼)のようです。高校の校章は、この市章を使っているのは明白ですが、線のずれまで細かくは考慮しなかったのかもしれません。
西宮市の隣の尼崎市は工業都市なので「工」という文字と「ア」「マ」とデザインし、さらに「小田村」という地域を合併した時に「小」の字を含めるために黒丸を二つ描いています。
芦屋市は山と海をデザインしつつ、芦屋の中心の海側の四つの村の調和を意味する四本線を使っています。
宝塚市は「タ」「カ」「ラ」の文字をデザインしつつ、町の中心を流れる武庫川の両岸を結びつける架け橋が描かれているようです。
私は小学生の時に「わが町」について習い、市章やその意味も覚えましたが、ましたが、今もこういうことは教わるものなのでしょうか。知っていても損はないと思います。

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体重が減りました 

学生の頃私は68.5㎏をずっと維持していました。やせ型ですが、細すぎるというほどではなかったと思います。ただ、体調のひどいときには60㎏を切ったことがあって、BMIは17.5くらい。このときはほんとうにしんどかったです。
中年になって仕事に行くのも車という時期は運動不足にもなりましたので最高で74㎏くらいまで増えました。このときはBMI22.1で、標準体重ほぼピタリでしたが、私自身は重く感じられました。そんなときは車をやめて電車で、しかもかなり長い距離を早足で歩くようにしてダイエットに励み、それ以後はおおむね70㎏くらいで推移していたのではないかと思います。ただし、家に体重計がありませんでしたのではっきりしたことはわかりません。
やっと家に体重計を買った後は不思議なことにめったに量ることがなくて(笑)、ほとんど放置していました。でもまあまあ、同じような感じだろうと思っていたのです。
昨年秋からずっと落ち着かない日々が2月後半まで続きました。無慮6か月。その間、胃の具合が悪かったり、電車で倒れたり、風邪らしき病気に罹ったり、治ってからも元気がなかったり、と体調も不安定でした。
特に1月下旬に風邪をひいたときには

    食欲

がなくて2日くらいは何も食べませんでした。
でも、そういうことは誰にでもありますから、それ以後元気に食べればすぐに回復すると思っていました。2月半ば。ふと思い立って、体重を量ってみました。予想では70㎏を切ったかもしれない、というくらいでした。しかし、セーター姿で

    67.9㎏

という結果でした。ということは、服を脱げば67㎏を下回っていたかもしれません。少なくとも67.5㎏以下だったでしょう。昼食を食べる前でおなかはすいていましたが、それでもちょっとびっくりでした。
やはり半年近くに亙る忙しく不調な日々というのはかなり堪えたのでしょう。
実は、1月19日から月末まで(13日間)の歩数が23,000歩くらいで1日平均1,770歩程度でした。回復したはずの2月に入ってからも最初の10日で約43,000歩。平均4,300歩でした。普段の私なら23日間であれば25万歩くらい歩いていますから4分の1くらいでした。それであきらかにふくらはぎの筋肉が落ちていました。
というわけで、歩くのが苦痛でなくなった2月後半からはウォーキングもしっかり継続しようと思っています。

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久しぶりの書評 

批評というのはなかなか難しい仕事です。ほめればいいわけではなく、けなせばいいわけでもありません。
かつて『上方芸能』誌に連載させていただいた「文楽評」というのはまったくできの悪いものだったと今になってなさけなく思います。およそ批評の名に値しなかったと、先に立たない後悔をしています。三味線の聞き分けができるわけでもないし、義太夫節の技巧についての知識もないし、やはり引き受けるべきではなかったと感じます。つまるところ、私にはそういう能力はなかったとしか言いようがありません。私に白羽の矢を立てた当時のM編集長は優秀な方ですが、人を見る目がなかったのではないでしょうか。
呂太夫さんの本を書いたとき、短い書評のようなものを書いてくれた新聞がありました。記者さんが書かれたようですが、書評というよりは紹介文のような感じでした。
新聞というと、週に一度書評欄を持つところが多いでしょう。ああいう場では、しかるべき学者や読書家の面々が担当されるので、なかなかしっかりしたものが書かれることがあります。とても私にはまねができそうにありません。
そんな私ですが、かつて

    論文集

の書評を頼まれたことがあります。若い人(30年以上前のことです)に書いてもらいたいということだったらしいのですが、その論集を前にして途方に暮れたことを覚えています。400ページほどある重厚な本で、読んで理解するだけでも時間がかかりそうで、私に何をしろというのか、と思いました。ともかく全体を読んで書くだけは書いたのですが、これもまったく書評の名に値しないもので、著者の方には申し訳ないことをしてしまいました。
この2月締め切りの原稿の中に、ひとつ書評というか、本の紹介文を書くことになりました。私がある本についてちょっと口走ったために「では書評を書いて」と言われてしまったのです。

    めったなこと

を言うものではありません。
しかし私も30年たてば多少は本も読んできましたし、その本の勘所やキーワードなどを押さえることも以前に比べればできるようになったと思います。
そこでともかく読み始めて、おもしろいと思ったところ、著者の工夫、創意、独自性、本全体に底流する魅力などをピックアップし、内容についてわからないことを調べていきました。そして、これは私の文章の作り方の常套手段なのですが、断片的に思ったことを書き散らしていきます。全体の統一性なんておかまいなしに書いていくのです。そして書いていくうちに何となく方向性が見えるようになってくると、書き散らしたものをアレンジしながらまとめにかかっていきます。
こうして、約1,500字の文章を書き終えました。いつも締め切り間際にあたふたする綱渡りのようなことをしていますが、書き終えたときにホッと一息つける瞬間が好きです。

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結核 

私は一度、結核を疑われたことがあります。具体的なことは忘れましたが、病院で「血液検査で結核の可能性があるから、一週間、誰とも会わずに部屋にこもって生活してくれ。詳細に検査して結果を報告する」と言われたのです。
さすがに血の気が引きました。部屋で一人になると結核療養についてあれこれ調べました。専門病院のこととか、そこでの生活とか、投薬の実際とか、治療期間の長さとか、さらには収入の道が途絶えて生活が不如意になることとか・・。調べれば調べるほど寂しさやむなしさに駆られるようで、だからといって(部屋を出られないのですから)発散するすべもありませんでした。長い長い一週間でしたが、結果は

    陰性

ということでホッとしたものです。
結核で亡くなった人として有名なのは、沖田総司(?)、高杉晋作、竹久夢二、新美南吉、山村暮鳥、瀧廉太郎、織田作之助、高村光太郎、梶井基次郎らがいますが、歌人にも少なくありません。有名なのは樋口一葉(彼女は小説家として有名ですが、歌人でもありました)、正岡子規、長塚節、石川啄木、前田夕暮といった人たちでしょう。
子規は「いちはつの花咲き出でてわが目には今年ばかりの春行かんとす」「瓶にさす藤の花房みじかければ畳の上にとどかざりけり」などを病床で詠んでいます。
白樺派の歌人である

    木下利玄

も結核で亡くなった一人です。
この人は東京帝国大学国文科の出身で、卒業論文は近松門左衛門でした。四人の子を持ちながら三人までが夭逝するという悲しみを味わっています。唯一長く生きた三男が誕生した時には、利玄はすでに結核を病んでおり、その三年後に39歳で亡くなっています。養父(伯父に当たる)は備中足守藩最後の藩主で明治になって子爵となりました。やはり子爵の家柄であった武者小路実篤とは学習院の同級で、志賀直哉は実篤や利玄より2歳年長でしたが2度落第したため同級となりました。利玄はその関係から白樺派に属したようです。
この人の作品は平明なものが多いこともあって、教科書にもしばしば掲載されてきました。
 牡丹花は咲き定まりて静かなり
  花の占めたる位置の確かさ
 曼殊沙華一むらもえて秋陽つよし
  そこ過ぎてゐるしづかなる径
など、難しい言葉や技巧がない歌です。
利玄は結核を病んでもそのことを歌にせず、晩年は写実的な自然を詠むことをよしとしたようです。
 山畑の白梅の樹に花満てり
  夕べ夕べの靄多くなりて
という歌は亡くなる直前のもの(利玄は1925年2月15日没で、それより少し前の作)ですが、そういう切迫した事情をあまり感じさせないと思います。むしろまだ寒い時期であるはずなのに温かみすら感じさせる歌だと思います。
前川佐美雄は利玄のことを「肉体とは別に利玄は心の健康な心の暖かい人だった」(『秀歌十二月』)と言っています。
今も結核は怖い病気ですが、薬が開発されていますので、早期に投薬治療を始めると多くは完治します。多くの才能が若くしてこの病気で失われたのは誠に残念です。

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紫女年わかく 

紫式部は、父藤原為時の血を引くだけのことがあって、漢詩漢文への理解に並々ならぬものがありました。『源氏物語』の端々に出てくる漢文学の知見は舌を巻くほかはありません。
彼女はかなり年の差があったと思われる藤原宣孝と結婚(それ以前に結婚の経験があったという説もある)して長保元年(999)ごろに一女(大弐三位)をもうけますが、夫がその2年後に亡くなってしまいます。そして4~5年のちに一条天皇中宮の藤原彰子(読み方はわかりません。やむを得ず音読みで「しょうし」と言われることがあります)の女房になりました。彰子は左大臣藤原道長の娘です。なお、紫式部はもともと道長の妻倫子に出仕していたという考えもあります。
紫式部の女房としての生活が生き生きと描かれるのが

    『紫式部日記』

で、寛弘五年(1008)の彰子の出産の頃からの記録が残されています。この日記の中で、紫式部が『源氏物語』の清書や造本にかかわっていることがわかり、また同年十一月一日には道長の屋敷で藤原公任から「このわたりにわかむらさきやさぶらふ」と冗談を言いかけられたことも記されています。このことによって2008年に源氏物語千年紀の催しが行われ、「古典の日」が11月1日に定められたのです。
歌人の

    与謝野晶子

は『源氏物語』の現代語訳をしていますが、この人の平安時代に関する知識もたいしたものだと思います。もし彼女が平安時代に生まれてやはり道長の娘に仕えていたら紫式部や和泉式部と並び称されていたかもしれません。
与謝野晶子の歌にこういうものがあります。

  源氏をば一人となりて後に書く
    紫女年わかくわれは然らず

紫式部は夫に先立たれてから『源氏物語』を書いたが、その時まだ年若かった。でも私はそうではない・・。
この「紫式部は若かったが私はそうではない」という部分は、散文的に読んでしまうと実につまらなく感じられます。しかしこれを短歌にしてしまったことで、「私はそうではない」がまことに詠嘆的で彼女のため息すら聞こえてきそうです。彼女には歌人としての、平安時代の研究家としての自負もあるでしょう。しかし、紫式部はまだ30歳そこそこであの『源氏物語』を書いたのです。気が遠くなるような大作を若くして書いた紫式部の才能の前に、与謝野晶子というたぐいまれな歌人がひれ伏しているような印象も持ちます。
私は、『源氏物語』の講座をかつて大学でかなり長い間続け(講座を維持するお金がないらしく、なくなってしまいました)、今は大阪で実施しています。ひたすら勉強してはお話しするということの繰り返しで、たいしたことはできていません。晶子の歌の「われは然らず」という部分は、晶子以上に私にとっては骨身にしみるようです。

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女性技芸員 

文楽の技芸員さんはすべて男性です。女性は入れてもらえません。
研修生の応募資格にも「中学校卒業(卒業見込みを含む)以上の男子」と明確に記されています。
ところが、今や研修生に応募する男子はめっきり減り、このところはゼロというありさまです。これでは文楽の未来は暗澹たるもので、何とかしなければなりません。昨年から夏休みなどに体験する機会が提供されていましたが、こちらは女子も可ということでした。体験はできてもプロにはなれない、というのはどこか理不尽に思えます。教えるほうだって男子に関しては何とかプロになってもらおう、という気持ちでしょうが、女性は「ファンになってね」で終わってしまいそうです。
この体験などを通して男子が入門してくれば技芸員の確保はできるでしょうが、現実にはいかがなものでしょうか。そこでしばしば出てくるのが、文楽にも

    女性を採用

すればどうか、というアイデアです。
以前は男性のもの、という印象が強かった落語家でも最近は女性がずいぶん増えています。電車の女性乗務員さんも昔は見たことがありませんでしたが、今は普通にいらっしゃいます。女子マラソン、女子サッカー、女子ラグビー、女子ボクシングなどもあたりまえになってきました。
文楽も女性が加わる日が来ているかもしれません。太夫さん、三味線弾きさんはプロの方もいらっしゃるのは周知のことです。豊竹呂太夫さんのお弟子さんとしては呂秀さん、呂響さんらが活動していらっしゃいます。竹本駒之助さんや鶴澤津賀寿さんなどは人間国宝にまでなっていらっしゃいます。技芸が不足するということはないように思います。声の大きさという点では私は小さなホールでしか聞いた経験がありませんのでよくわかりませんが、大丈夫なのではないでしょうか。

    オペラ歌手

を見ているとそうとは思えないのですが。三味線もじゅうぶん行けそうに思います。
人形は背の高さ、手の長さ、腕力の強さなどで大きな人形は扱えないかもしれませんが、小ぶりのもの、女性の人形などであれば対応できるように思います。各地の人形浄瑠璃でも女性の人形遣いさんはいらっしゃいます。能勢の人形浄瑠璃でもそういう方はいらっしゃいますね。足遣いのうちは男性の先輩とからだをくっつけて動かねばなりませんが、いまどきそれくらいで問題になることはないようにも思いますし、組み合わせを考えればうまくいくのではないでしょうか。
セクハラはどの世界でも厳しくなっていますから、文楽でも厳密に対処すればよいでしょう。
すぐに切場を語ったり弾いたりするわけではありませんし、主役の人形を持つわけでもありませんから、試してみる価値はありそうに思います。もちろん、伝統とか歴史とかいうことを問題にすると「前例がない」と言われますが、それでも滅んでしまうより前に手を打つことも大事だと思います。
オーケストラでは、外部の人に出演してもらう(いわゆる「トラ」「エキストラ」)ことがありますが、東京公演の時だけ、大阪の時だけのように常時出演するのでない形もありそうに思えます。
ひょっとすると「女性技芸員」という言葉を口に出すことすら「タブー視」されているのかもしれませんが、考えても良いのではなかろうか、と思います。

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構文? 

不覚にしてまるで知らなかったのですが、最近「~構文」という言葉がはやっているようです。「構文」というと、私は英語の授業に出てきた「分詞構文」をまず思い浮かべますが、まるで関係はないようです。
何かと話題に事欠かない(らしい)政治家の小泉進次郎氏の言い回しの首をかしげるような表現を「進次郎構文」というのだとか。これはもうネットで調べたことを写すだけですがたとえばこういうことです。
「今のままではいけないと思っています。だからこそ日本は今のままではいけないと思っている」
「(新型コロナ対策本部の会合を欠席しながら地元の後援会行事に参加していたことについて)反省はしているんです。ただ、これは私の問題だと思うが、反省しているといいながら、反省している色が見えないというご指摘は私自身の問題だと反省しています」
「プラスチックの原料って石油なんですよ。意外にこれ知られてないんですけど。石油の色も臭いもないじゃないですか。だからわからないと思うんですけど」
写してみたのですが、1つ目と2つ目は何が言いたいのかよく理解できません。3つ目はわかりますけれども、プラスチックの原料が石油だというのは子どもの頃に習いましたから「知られてない」ことはないと思います。プラスチックから石油の臭いがしたら食品を包装するものとして使えるわけがありません。石油の色って、何を指すのでしょうか。灯油ならほぼ無色ですし、重油は黒いですよね。というわけで、つい先ほど「3つ目はわかりますけれども」と書きましたが、読み返してみるとやはりわかりません。
小泉さんだけではありません。「○○構文」という言葉がよく使われているらしく、「構文」というのはどうやら「文体」「文章(あるいは口頭表現)の特徴」というほどの意味で用いられているようです。
これも初めて聞いたのですが

    おじさん構文

というのがあるのですね。絵文字、顔文字を乱用したり「~だヨ」のようにやたらとカタカナを混ぜたり、疑問符・感嘆符を多用したりするのだそうです。ほかにも、何の脈絡もなく相手を褒めるとか、問われたわけでもないのに自分の近況報告をするという内容の特徴もあるようです。若い人に何とか親しみを持ってもらおうとするあまり、かえってオジサンらしさ(特にいやらしさ)が丸出しになるということらしいです。
学生さんに授業のきっかけとして「おっさんビジネス用語」というのを話したことがあります。「ロハで手に入れる」「ガラガラポンにしよう」「寝技を使う」「よしなに願います」「えいやで決める」「全員野球でやろう」「鉛筆なめなめでいいからね」など、ビジネスの世界のおじさんたちが使う独特の言い回しです。私もここに書いたもののうち「ロハ」以外は使うことのない言葉で、意味の分からないものもあります(「鉛筆なめなめ」なんてまったく知りませんでした)。私ですらわからないのですから、とかくおじさんたちの言葉、特にビジネスの世界の人たちの用語は若者から見ると不思議なものなのでしょう。
ヒス構文というのもあるのですね。気に食わないときにヒステリックになって話をひどく飛躍させて激しい口調で食って掛かるときの言い方だそうで、もともとは母親の言い方を指したそうです。
さらに私にとって謎なのは

    ちいかわ構文

というもので、「~ってコト!?」とかいうのがそれにあたるのだとか。これはこうしてここに書いていてもさっぱり要領を得ません。「ちいかわ」というのは漫画らしく、そのキャラクターは阪急電車のラッピングに使われているため見たこともあります。ただ、どんなセリフを言うのかについてはまったくわかりません。
どうやら「~の独特のものの言い方」を、揶揄を込めて言うのが「~構文」と解釈すれば良いのでしょうね。いずれも、あまり真面目に受け止めて怒ったりしないほうがよさそうに思います。
おそらく一時的な流行でしょうが、今後も新しい「~構文」と言われるものができるのでしょうか。

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梅の季節 

私はどういうわけか、子どものころからぱっと華やかな桜よりもやや小ぶりで地味にすら見える梅のほうが好きでした。目立つよりも引き立て役になっているほうが性に合ったのだと思います。
とはいえ、梅はもともととても愛された花で、『万葉集』では一番多く詠まれた花は萩なのですが、それに次ぐのが梅です。清少納言が『枕草子』「木の花は」の段で一番に「濃きも薄きも紅梅」と言ったことはこのブログのどこかに書いたかもしれません。
中国から渡来した木で、「ムエ」「ンメー」というような発音を日本で「むめ」と聞きなしてその名としていますので、「うめ」という名は日本語ではないことになります。
梅の実は燻製にして胃腸薬として用いられたりしました。燻製ですから真っ黒になりますので、

    「烏梅」

と呼ばれます。
『古今和歌集』の歌で『百人一首』にも入る
  人はいさ心も知らず
   ふるさとは花ぞ昔の香にほひける
            (紀貫之)
にいう「花」も梅です。
香に「好文木」というのがありますが、この「文を好む木」というのも梅のことです。晋の武帝が学問に励むと梅の花が咲いたところからそう名付けられたものです。
『義経千本桜』「すしや」ですしの空き桶をかついで帰ってきたのは「利口で伊達で色も香も知る人ぞ知る優男」でしたが、この言葉の下敷きになったのは『古今和歌集』の
  君ならで誰にか見せむ梅の花
   色をも香をも知る人ぞ知る
          (紀友則)
でした。昔の人は梅でも桜でもきれいに咲いている枝を折って人に贈ったのです。それを室内の瓶に挿して鑑賞しました。この歌はその際に添えられた歌。あなた以外のどなたに見せましょうか、梅の花は、色も香りもわかる人だけがわかってくれるのですから、ということです。
挨拶に和歌を用いるような生活は、今ではほとんど考えられなくなりました。でも、57577の31文字でちょっとした連絡事項を伝えたりするのはけっこうおもしろいもので、

    正岡子規

もそんなことをしていたのを読んだことがあります。この日に歌会をおこないますので、おいでください、などというのをはがきに31文字で書いて送るのです。やはり歌人であった塚本邦雄氏もご自身の電話番号を短歌仕立てにして伝えていたと木津川計さんの本で読んだことがありました。短歌にもそういう遊び心があっても良いわけです。
梅の季節は春を告げるころで、まだ寒い時期ではあるのですが、その色も香も心を温めてくれる花だと思います。

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須磨に落ち行く光源氏の持ち物 

『源氏物語』の主人公、光源氏はいろいろなことがあって須磨に身を落とします。今の兵庫県神戸市須磨区ですが、大変な田舎だったと思います。「すま」という地名の由来は「摂津国のすみ(隅)」という説があり、実際、隣の神戸市垂水区はもう播磨国です(須磨区も一部は播磨に属する)。光源氏は須磨で暴風雨に遭って、さらに西の明石に流れるのですが、もちろんここも播磨国です。
須磨に暮らしていた人々は、農業はもちろんですが、漁や塩焼きをする人が多かったものと思われます。海のない都の人からすると珍しい風景だったでしょう。言葉も、都の人が聞くと何を言っているのかわからないようなものだったはずです。今でも京都と神戸ではかなり言葉は違いますが、昔はさらに極端だったと思います。特に庶民の言葉は都の「共通語」のようなものからは自由ですから、キツイ方言だったでしょうね。
そんなところに落ちていくのはやはり不安であり、憂鬱でもあったでしょう。二度と都に戻れないかもしれないという思いすら抱いていたはずです。
須磨というと、在原行平(業平の兄)が一時蟄居した場としても知られます。行平はここで浜辺に流れ着いた木片を用いて一絃琴を作ったといわれ、それが今に須磨琴として伝わるとされています。
謡曲

    『松風』

では悲恋の話がおなじみですね。行平はこの地で松風、村雨という姉妹と出会い、都に帰ることで別れたということになっています。彼女たちは行平と別れたあとは、彼を思いながら尼になったと伝わり、彼女たちの住んだ庵の跡が「松風村雨堂」とされます。伝説ではあっても、都の貴人が田舎暮らしを余儀なくされた時に出会う土地の女、というのはロマンティックなものです。『平家女護島』の丹波少将成経と蜑千鳥もそうですね。
菅原道真が大宰府に流される途中にも、須磨に立ち寄ったとされます。そのとき漁師たちが綱を巻いて道真の座としたと伝わり、今も神戸市須磨区天神町には「綱敷天満宮」があります。この綱を敷くというのは須磨のみならず各地に伝承があり「綱敷天満宮」「綱敷天神」が香川県、福岡県、大阪府などにあります。
『源氏物語』よりはるかにあとのことですが、須磨は源平の一の谷の合戦でも知られ、敦盛が熊谷次郎直実に討たれたのは須磨の海岸でした。今も須磨寺には源平の庭があり、熊谷と敦盛の像が置かれ、『一谷嫩軍記』に登場する弁慶執筆の「一枝を剪らば」でおなじみの「若木の桜」まであります。須磨寺には敦盛首塚、小枝の笛などを収める宝物館もあります。
さて、光源氏は須磨に落ちるときに、あまり華美なものを持っていくことはしませんでした。
最低限の必要なものを持ち、そのほかに彼は漢籍や

    『白氏文集』

を携えました。さらに彼が得意だったとされる楽器の琴(きん)も忘れませんでした。
白居易は「北窓三友」という詩を書いています。今日は北の窓辺にいる。何をしようかと考える。うれしいことに、私には三人の友がいる。琴を弾き終えると酒がある。酒を飲み終えると詩がある・・というのです。要するに、文人には欠くことのできないものとして「琴」「酒」「詩」の「三つの友」を挙げたのです。そして、白居易自身が左遷されたときにも琴を持って行っています(『白氏文集』「草堂記」)。光源氏はそれに倣ったのかもしれません。
昨日、離れ島に行くならどの本を・・、ということを書きましたが、文人たるもの、詩と楽器と酒は持っていく必要があるのでしょうね。
私も、文人といたしましては(笑)、お酒はほとんど飲まなくなったのでともかくとして、『源氏物語』に加えて昔取った杵柄のフルートか篠笛を持っていきたいと思います。もし音を理解できるのであれば、誰にも聞かれないで練習できますから。

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離れ島に一冊 

よくこういうことが言われます。「もし離れ島にひとりで暮らすとして、1冊本を持っていくとしたら何を持っていきますか?」。
以前は「『歎異抄』を持って行くと答える人が多い」などと言われていましたが、あれはほんとうのところ、どれくらいの人にそう思われているのでしょうか。そもそも「『歎異抄』って何?」という人も多いはずです。私が『歎異抄』を初めて読んだのは、おそらく大学1年生で、何でもかんでも読んでやろうと、手当たり次第に読書していた時だと思います。それ以後はきちんと通して読んだことはないかもしれず、この、さほど長くもない宗教書を持っていくとしても、注釈がないと無理だろうな、と思います。
ずいぶん前のことなのですが、HonyaClub.comが「離れ島に・・」について意見を募集したことがありました。その時の結果は、第1位が尾田栄一郎の

    ONE PIECE

だったそうです。歌舞伎にもなった漫画(?)ですよね。私は読んだことがないのですが、超有名作品らしく、しかも長く続いているようなので1冊ではなく、1作品で何十冊(?)もあるのでしょう。「1冊持って行くとしたら」って言ってるじゃん(つい訛ってしまいます)、とクレームをつけたくなりますが、まあ、大目に見ておきましょう。
第2位は『聖書』だったそうです。これは少し分厚くはなりますが、1冊で旧約、新約ともに読めますから、いい選択だと思います。私もこれを持っていくのもいいな、と思います。これを旧約から読んで、いろんな絵画を参照できればおもしろいと思うのですが、それはだめなのでしょうね。私はキリスト教絵画が大好きなのですが、旧約聖書を下敷きにした絵があまりよくわかりません。その意味でも『聖書』を持って行ってしっかり読んだあと、いつかこの国に戻れたら自信を持って絵画を観たいと思います。
第3位は何と『広辞苑』だそうです。私なら『岩波古語辞典』のほうがいいかもしれませんが、辞書を持っていくのはなかなかおもしろいと思います。でも、持って行くなら語源や用例についての解説の詳しいものがいいです。
第4位以下は『ロビンソン・クルーソー』『ハリー・ポッター』『赤毛のアン』と海外の物語が続きます。
もし1冊でなくてもよいのであれば、私はやはり

    『源氏物語』

を選ぶと思います。『源氏物語』は、市販の注釈書なら5~8冊くらいに分かれています。そういうものなら、全体で2,500ページはあります。
実は『源氏物語』もこのときの調査ではランクインしているのですが、残念ながら19位に甘んじていました。しかも、HonyaClub.comのHPに掲載されている『源氏物語』の写真には林望さんの訳したものが掲げられていましたので、原文に限定しているわけではなさそうです。たしかに、原文を持っていこうという人はあまりいないでしょうね。私は、現代語訳(特に作家の訳したもの)は不要で、原文と注釈で十分ですが。
この調査では、年代別の人気も公開されていました。やはり10代、20代、30代のトップは『ONE PIECE』で、40代50代は『広辞苑』が首位でした。60代以上になると『聖書』が一番に来ていました。世代の特徴がうかがえておもしろいです。ちなみに、『歎異抄』は影も形もありませんでした(汗)。
なお、あくまで投票の形で募集したもので、無作為抽出による世論調査ではありません。

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小澤征爾さん 

今月6日に指揮者の小澤征爾さんが亡くなったそうです。
今更この人については私のような門外漢が何かを言うことなどできません。個人的なことを少しだけ書きます。小学生のころ、私の夢は(もちろんあり得ない話なのですけれども)音楽家になることでした。その時、若手の指揮者として活躍なさっていた小沢さんの名前を知って憧れたこともありました。あのころ、指揮者というと山本直純さん(作曲家というべきか)や岩城宏之さん、秋山和慶さんなどがいらっしゃり、大阪では朝比奈隆さんも活躍なさっていました。ヨーロッパでは「日本の音楽家なんて」と思われていた時代ではなかったでしょうか。ヨーロッパの人が尺八を吹いても「日本音楽の心なんてわかるわけがない」と理不尽に批判されることがありそうですが、それと同じ目がヨーロッパで発展したクラシック音楽を指揮、演奏する日本人にも向けられたかもしれません。そんな時代に、世界に飛び出して活躍された小澤さんは

    カラヤン

やバーンスタインらの薫陶を受けつつ活躍の場を広げていかれました。
私も、学生の頃、『ボクの音楽武者修行』を読んだり、レコードやFM放送でその演奏を聴いたりしました。ただ、小澤さんがボストンシンフォニーと来日された時でもとてもチケットを買う余裕がなくて生では聴けなかったのです。
実は小澤さんの指揮による演奏を生で聴いたのはたった一度だけなのです。オーケストラは大阪フィルハーモニーで、曲は

    ベートーヴェンの第九

でした。というとおわかりのように、年末のことでした。普通なら「コリオラン」とか「レオノーレ」とかそういう短い序曲のあとに「第九」ということが多いと思うのですが、そういうものは一切なし。もちろんアンコールもなし。実は、私が非常勤で教えに行っていた高校の(当然音楽の)先生がバリトンで出演なさったので、クラシック好きの先生たちに誘われて応援がてら行ったのです。
私はまだ学生でしたので、チケット代(5,000円くらい?)はこたえたはずですが、ひょっとすると無料でもらったのかもしれません。
バリトンの先生がちょっと息切れ気味だったかな、という印象が残っています。この先生は朝比奈さんの指揮(やはり大フィル)でブルックナーのミサ曲を歌われたこともあったのですが、そちらのほうがよかったです。
あのときは「ああ、ほんものの小澤さんだ」というだけで感激してしまって、演奏の細かいことはもう覚えていません(そもそも細かいことなんて私にはわからないのですが)。
それ以後も、テレビやラジオで小澤さんの番組があるとかなり熱心に聴いたのですが、生演奏にはついに縁がないままでした。
名手揃いのサイトウ・キネン・オーケストラをも指揮なさって、カリスマとしかいいようのない存在感で晩年まで活躍されましたね。
最初に結婚されたのは三井不動産社長だった江戸英雄さんのご令嬢でピアニストの京子さんでした。この方も1月に亡くなり、小澤さんは離婚後も交流を持たれたという京子さんを追うように鬼籍に入られました。

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薄皮をはぐように 

1月の後半に体調不良になったのは風邪だと思うのですが、Covid-19の第10波に襲われたのかもしれないという疑念は今も残っています。この第10波という言い方については、そろそろやめたらどうかという意見もあります。静岡県の感染症管理センターの所長さんが「第6波に当たる2022年の冬(オミクロン株が主流)以降、夏と冬にだけ波が来るので、『2024年冬の波』とでもいうほうがよい」とおっしゃっているそうです。医学的なことはさっぱりわかりませんが、名前としては長すぎるのでもうちょっと考える余地がありそうに思います。ただ第○波と言われても、それがいつのことかわからないので、「24(2024年)w(冬)」のように流行年と季節を入れるのは理に適っているともいえそうです。
それはともかく、私の場合、熱はすぐに下がりましたし、悪寒はないし、そんなにひどい咳が出たわけでもなく、痰は皆無、頭痛もなくちょっと違うように感じます。
ではなぜ疑念が残っているのかというと、

    からだのだるさ

がしつこく残ったからです。いわゆる後遺症ですね。後遺症として多く出現するものとしては倦怠感、関節痛、咳、喀痰、息切れ、頭痛などがあるそうです。私の場合は、ほかのものはないのですが、疲労感、倦怠感だけが長引きました。風邪をひいただけでこんなに残るものかな、と思うくらいだったのです。単に年のせい(笑)かもしれませんが、かつて経験したことのない症状でした。
2月の初めは、腰の痛みもあり、呼吸が苦しいわけでもないのに歩くのが憂鬱で、まったく外出しない日も多かったのです。その結果、少し長い距離を歩くと今度は足がくたびれて筋肉痛になり、また歩くのが億劫になるという

    悪循環

でした。
そこで、ほんとうはかなり忙しいのですが仕事は後回しにして、思い切って数日ゆっくり休むことにしました。ほんとうに何もせず、たまに本を読んだりこのブログの記事を考えたり、書かなければならない仕事のことを考えたり(仕事してることになる?)、その程度でした。
そうすると腰痛は収まり、薄皮をはぐようにだるさが少しずつ癒えてきました。
まだ完調というわけではありませんが、さすがにいつまでも休んでいるわけにもまいりませず、仕事を再開しております。

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2023年2月文楽東京公演千秋楽 

ついこの間、初日です、と書いたはずなのに、あっという間の9日間でした。日本青年館ホールでおこなわれている文楽2月公演が本日千秋楽を迎えます。ご覧になった方々、いかがでしたでしょうか。
このあとは地方公演を経ていよいよ四月の大阪公演となります。
六代目豊竹呂太夫さんが十一代目豊竹若太夫を襲名される公演です。若太夫の名前は今年しか継ぐ機会はない、とかねて思っておりました(呂太夫さんにもそのように申し上げました)ので、ほんとうによかったと思っております。十万円くらい包んでお祝いしたいのですが、そんなことをすると私の明日のお米がなくなってしまいます(笑)。
暖かくなる日を心待ちにしております。

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今年の大河ドラマ 

今年のNHK大河ドラマは意外に評判がいいように聞いています。勝海舟や坂本龍馬が登場するか、「合戦じゃ!」「エイエイオー!」がないとだめだといわれてきましたが、驚きました。視聴率はどうなのでしょうか。
例年どおり、私はまったく観ていないのですが、SNSを通して、多くの方がおもしろい、とおっしゃっているので「へーっ!」という感じです。
そもそも何も知らなかった私は光源氏が出てくるのかと思った(笑)のですが、そうではなくて大河ドラマらしく歴史上の人物のお話なのですね。
紫式部が主人公なのかな。
内容はよくわかっていませんが、漏れ聞く限りでは、とても現代的な内容が描かれているような感じでした。平安時代の貴族は、もともとは争いごとをして得た権力をその子孫が受け継いでいく、という感じで、江戸時代の将軍も現代の総理大臣も同じようなものです。
ただ、ときどきなかなか立派な人もいるもので、そういう中興の祖のような人があるとぐうたらが間に挟まっても(笑)ある程度は続くものかもしれません。このたびのドラマに

    藤原師輔

は登場したのかな・・? 道長のおじいさんに当たる人ですから、初めのあたりで顔を出したかもしれませんね。この人はそれなりに立派なところがあって、すべてにおいてとは言いませんが兄(実頼)を超える有能な官吏であったと言われ、和歌・学問をよくし、故実にも詳しく(兄の実頼も詳しい)、『九条年中行事』のような故実書を記し、さらには子孫への戒めである『九条殿遺誡』を残しています。九条殿というのは師輔のことで、彼の門閥が台閣の中枢を構成するようになっていきます。こういう人物が、道長たち子孫の背景にいい意味で亡霊のように憑いていたことが、彼らの心の支えになったと思うのです。
当時は

    疫病

がよく流行しましたが、そういうのも描いていくのでしょうか。いや、描かざるを得ないでしょうね。身分の上下なんて関係なく、感染した人はばたばたと倒れていくわけですから、政争にも大きな影響を与えます。
道長自身は疫病とはあまり縁がなかったようですが、いろいろな病気をしています。しかし、権力をふるう人物として、あまり病弱には描かれないのかもしれません。よしんばそうであっても、そのあたりはドラマのウソですから別にかまわないのですけどね。歴史という観点から言うと脇役に過ぎない人の中にも、私なら芝居に取り入れたくなるようななかなかおもしろい人物がいるのですが、そんなにあれこれ入れるわけにはいかないでしょうね。
私がこの大河ドラマを観るとすると、一番興味を持つのは装束や調度品をどのように見せてくれるか、という点だろうと思います。映画『かぐや姫の物語』でも、かなり調度品は気にしていました。建物の構造の描き方にも興味はあります。それなら今からでも観ればいいんじゃないの、と言われそうですが、おそらくすぐにやめてしまう(笑)と思います。
ご覧になっている方、どうぞ楽しみになさってください。

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元祖と二代目の豊松清十郎 

豊松清十郎というのはなんともきれいなお名前です。華があってお名前自体にスター性を感じさせます。
19世紀前半に大坂で活躍していた初代の豊松清十郎は、二代目豊松東十郎門弟でした。この当時、人形遣いの姓は今よりずっと多くて、「辰松」「藤井」「西川」「吉田」「吉川」「森竹」「吉尾」などがあり、「豊松」もそのひとつでした。
初代清十郎は初名を豊松伊三郎と言ったようです。菅秀才のような子役を遣ったりしていましたが、天保八年(1837)十二月の稲荷社で『玉藻前』の采女ノ方などを遣って豊松百造となりました。そして『廿四孝』の濡衣、『一谷』の玉織姫、『千本』の小仙、『菅原』の春藤玄蕃、立田の前などなかなかいい役を演じていたようです。そして天保十年(1839)七月に『浦島太郎倭物語』の乳母朝路、求女の前で豊松清十郎を名乗ったのです。それ以後は『廿四孝』の唐織、簑作(勝頼)、『恋娘』の才三郎、『近頃河原の達引』のおしゅん、『伊賀越』のおよね、『千本』の典侍局、などを遣いました。

    女形や二枚目

が多いですね。
彼は座摩社の芝居に出ていたのですが、「天保の改革」で宮地芝居が禁止になってしまい、やむを得ず名古屋に赴き、そこから美濃三宅村に移りました。今の地名では岐阜県羽島郡岐南(ぎなん)町三宅にあたります。ここで彼は独自の人形浄瑠璃を興し、これがなかなかの人気だったようで、「三宅文楽」として後継者によって大正の初めごろまで続きました。
清十郎自身は明治四年(1871)、浜松に巡業しているときに亡くなったそうです。墓所は三宅の浄苑墓地内のほか、岐阜県安八(あんぱち)郡輪之内町の浄光寺にもあるそうです。後者の墓は長らくそれとは知られておらず、2001年に郷土史家で片野記念館館長の片野知二さんという方が発見されたそうです。
初代が後半生を過ごした岐阜出身の人形遣いが大阪でなかなかの活躍をしました。この人は初代の門人ではありませんが、岐阜の縁で

    二代目清十郎

を継いだようです。やはり女形などにすぐれたようです。
『桐竹紋十郎手記』(三田村鳶魚『未刊随筆百首』12所収)には「安政 (小六改 宇ち与改 か六改) 二代目豊松清十郎」とありました。『義太夫年表 明治篇』には桐竹歌六の門下で、兵花から哥六になって清十郎を継いだように書かれていました。私はこれ以上のことは知らないのですが、歌六または哥六から清十郎になったのは間違いないようですね。
明治の番付を見ていると、子の清十郎がとてもいい役を遣っていることが分かります。明治3年には『廿四孝』の八重垣姫、『ひらかな盛衰記』の梅ヶ枝、『夏祭』のお梶などです。
後年にも『菅原』の千代、覚寿、『白石噺』の宮城野、『太功記』の操、『壇浦』の阿古屋、『安達原』の袖萩、『酒屋』のお園などなど。人気もあったのでしょうね。
二代目に関しては、愛知県知立市に顕彰碑があるのだそうです(未見です)。そのことがきっかけになって、ずいぶん前に知立の山車文楽の指導を四代目清十郎師がなさることになって、今では五代目が引き続き関わっていらっしゃるようです。

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白湯ブーム? 

文楽の太夫さんのうち、切語りになると白湯汲みがつきます。長時間語りますので、時折口を湿らせる必要があり、盆が回るとお弟子さんが白湯を見台のすぐ脇に置きます。
お弟子さんは師匠の目いっぱいの語りを目の前で聴けるという特権があるわけで、昔から修業の場としても大事にされてきました。誰もができることではありませんからね。
私は今も家ではしょっちゅう白湯を飲んでいます。冬場は白湯がことのほかおいしいです。夜、仕事をしながら飲むのはほぼ白湯です。お茶もいいのですが、やはりお茶の葉の良しあしで味わいが違います。その点、白湯は味そのものが(ほとんど)ないので当たりはずれがありません(笑)。
ただ、仕事場の水道水は極めてまずかったものですから、とてもそのまま飲めたものではありませんでした。同僚の味にうるさい先生は、いつも

    六甲のおいしい水

を大量に購入してそれでコーヒーを淹れていらっしゃいました。時々その先生の部屋の前に、20本くらいの水が箱入りで届いていました。おそらくアマゾンあたりで買って、ネコさんにでも届けてもらっていたのでしょう。
私はそこまでする気力もなく、一時は我慢して水道水を沸騰させて少し冷ましたものを愛飲(!)していたのです。しかし飲めば飲むほどまずいものですから、ついには仕事場では水を飲むのをやめて、家から500㏄のペットボトルに入れた水を持って行ってそれだけを飲んだり、食堂においてあるお茶をもらったりしていました。あれ、どうしてあんなにまずいのでしょうか。屋上のタンクがひどい状態なのかな。
先日何かの記事で、最近、若者の間で白湯を飲むのが流行している、というのを読みました。お茶ではなく、コーヒーでもなく、白湯なのだそうです。サンプル数があまり多くないのですが、20代~50代の男女に聞いた結果、

    若い男性

が白湯を飲むことが多く、年齢が高くなるほど減っていくようです。「白湯男子」という言葉までできているそうで、私はきっとその元祖だろうと思います(笑)。
白湯は、内臓を温めることでその機能を活性化するとされます。その結果、デトックス効果があるとか花粉症などのアレルギー症状を改善するともいわれるようです。白湯は朝一番に飲むのがよいという話も聞きました。沸騰させてそのあと50度くらいまで下げてから飲むのがよいのですが、私は沸騰した直後からちびりちびりと飲み始め、自動的に(笑)冷めて、飲み終えるころには50度くらいになっていると思います(笑)。
2022年には自動販売機でも白湯が販売され始めたそうですね(私は自動販売機をまず使わないので、見たことがありません)。
以前は赤ちゃんに白湯を飲ませるという常識がありましたが、今はそういう必要はないとされています(母乳、ミルクで十分)。今は白湯と言えば若者、という時代なのですね。

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いや~な顔をされました 

1月の後半に風邪をひいた際、熱が出たため、通院予定日を逃してしまいました。その日は午前のみの診察だったのですが、一人で行くにはしんどくて、だからといって救急車を呼ぶほどのものではありませんから、家でじっとしていたのです。
ところが、私の通っている病院は、別に患者さんが多いわけでもないのに(笑)予約制になっていて、一回サボると次の予約が取れません。普通の人は電話すれば済むのですが、私はそれもできず、やむを得ずそのドクターの診察日に飛び込みで行きました。受付で事情を話して診察してもらえるかどうかを聞いて、もし「今日は無理だ」ということなら予約だけして帰ろうと思っていました。待合のイスを見ると誰も座っておらず、「忙しい」とは思えませんでした。すぐに医者に聞いてもらったらOKということで待つことにしました。いや、待つまでもなく椅子に腰を下ろすや否や呼ばれたのです。そりゃそうです、待合に誰もいないのですから。予約にする意味ある?
診察室に入ると医者が嫌な顔をして待っていました。一回飛ばしたことを根に持って(笑)いるようでした。もともとあまり愛想のいい人ではないので、あるいはいつもと同じだったのかもしれませんが。
事情を話し、風邪の具合についても詳細に伝えるのですが、医者の顔がどんどん険しくなりました。「インフルエンザだったかもしれんよ、いや、

    新型コロナだったかも」

と、いかにも「しろうと判断をせずにさっさと受診すればいいのに」といわんばかりの態度で脅かされました。たしかに、どちらも流行しているようですから、その可能性はあったのです。ただ、私としては、何も薬を飲んでいないのに発熱の時期が短く、頭痛もなく、のどの痛みも短期間で終わり、咳が少し残ったくらいでしたので、妙なウイルスの仕業ではないように思っていたのです。やはり医者の言うことのほうが正しいのかなぁ。
いずれにしても、熱は数日で下がり、咳も収まり、大事に至らなかったので結果オーライでした。
しかし医者はまだ執拗に疑いの目を向けてきます(笑)。「念のために

    レントゲン

を撮ろう」というのです。しかたなく言われるままにしたのですが、これも結果は「問題なし」でした。
レントゲンの結果を伝えるにしても、普段からにっこりとして「大丈夫ですよ、よかったですね」などと言うような人ではないのですが(笑)、心なしか悔しそうな顔にも見えました(笑)。
次回についてはしっかり予約を入れて帰ってきました。

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一水四見 

昨日、猿沢の池について書きましたが、私はそのとき前川佐美雄の鰻の歌よりも、まず次の歌を思い出していました。

  手を打てば鳥は飛び立つ鯉は寄る
    女中茶を持つ猿沢の池

猿沢の池で手をポンポンと叩くと、鳥は恐れをなして飛んで逃げ、鯉は餌をもらえると思って近寄り、女中さんは呼ばれたと思ってお茶を持ってくる、というのです。作者はわからないのですが、興福寺の僧ではないかという説があるそうです。
この歌はしばしば

    一水四見

という言葉を説明する際に引用されます。
水は誰の目にもそう見えるのかというとそうではない。天人から見ると美しい瑠璃や甘露のようであり、餓鬼はそれを飲もうとすると炎に変じ、魚にとっては住処以外のなにものでもないのです。
立場によって、あるいはものの見方によって、同じものでも違って見えるということでしょう。
とかく人間は頑迷になりがちなもので、自分の考えに固執してしまいますが、ちょっとものの見方を変えることで違うものが見えてくることもあります。また、同じことを教わっても、教えを受ける人によってはまったく異なった受け止め方をすることもあるでしょう。教育の難しいところで、学校の教員はこういうことをわきまえていないと、学生、生徒から誤解されることにもなりかねません。自分はきちんと教えている、と思っても、受け止めるほうはそうとは限らないのです。もちろん、そうはいっても誰にも納得されるような教え方なんてそうそうできるものではありません。でも、教える側としては自分のやり方はけっしてベストではないということくらいは知っておきたいものです。私もずっとこういうことが理解できずに一方的な教え方をしてきたように思います。今さら反省したところであとのまつりなのですが。
よく似た意味で、

    「一月三舟」

という言い方もあります。同じ月でも、停まっている舟に乗って見るとじっとしていて、北に進む舟から見ると北に動いているように見え、南に進む舟からは南に動くように見えるのです。
「一水四見」も「一月三舟」も、仏教で用いられる言葉で、説教臭い(笑)のですが、かみしめるに値する言葉だと思います。

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猿沢の池 

奈良興福寺の放生池である猿沢の池は特になんということもない池ですが、私もこれまでに何度も訪ねています。猿沢の池というと采女、ひいては『妹背山婦女庭訓』を思い出します。
そもそもの采女伝説は、帝の寵を失った采女が猿沢の池に身を投げたとされ、池に背を向ける形で采女神社も建てられています。
『妹背山』では、眼病に苦しむ天智天皇の寵愛を受けていた采女が蘇我蝦夷の謀略のために危険を感じて逃亡し、久我之助に救われます。采女が猿沢の池に身を投げたという話を伝え聞いた天智天皇が池にやってきたとき、都では蝦夷の子入鹿が帝となったと自称しました。藤原淡海の力添えで天皇が芝六(玄上太郎)のあばら家に身を隠したあと、淡海の父鎌足の力で采女の無事と神鏡が見つかり、天皇の目もみえるようになります。
猿沢の池というと、

    七不思議

というのがあって、もうこれは、観光案内の枕詞のように用いられるものといっても過言ではないくらいです。すなわち、「澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が七分に水三分」というものです。池水は澄むことも濁ることもなく、水は出入りもない、蛙はいないし、藻は生えない。放生会で放たれた魚があふれんばかりだ、というのでしょう。魚が七分もいたら酸欠になりそうですけどね。
先月病気をしていた時、前川佐美雄『大和まほろばの記』(角川選書)をぱらぱらと読んでいたのですが、その冒頭が猿沢の池の話題でした。佐美雄は一度池の水抜きを目の当たりにしたらしく、「猿沢の池さらへすと聞きしかばわが子つれ来るその亀を見に」「池底のどろどろを這ふ亀なれば亀はあはれに首もたげたる」と詠んでいます。観光客の多い時期を外して冬におこなわれたのだそうですが、このとき彼は思いがけないものを見ました。

  猿沢の池のもなかの泥に立ち
   鰻つかむ人をみなともしがる
               佐美雄

鰻がいたのですね。ちょっとおもしろいエピソードです。
前述の采女神社は仲秋の名月の日に

    采女祭

をおこなっていますが、これは歴史の浅いもので、春日大社宮司であった水谷川(みやがわ)忠麿氏が始められたそうです。水谷川宮司は近衛家の出身で、首相を務めた文麿、音楽家の秀麿の弟にあたります。いうまでもなく、藤原氏の嫡流の家柄で、王朝趣味は当然のように強くお持ちだったようです。そこでこの祭も平安王朝風にするおつもりだったのですが、奈良の祭に平安時代風となると賛成してくれない人もあったようです。そのとき、前川佐美雄は積極的に賛同したようで、水谷川宮司にとっては強い味方だったと思われます。
なお、水谷川宮司は秀才で音楽も絵もよくした人でしたが、五十代で亡くなり、そのあとは三条実春氏(実美の孫)、花山院親忠氏、葉室頼昭氏と続いて現在の花山院弘匡氏に受け継がれます。

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咲太夫さん 

人間国宝の文楽太夫、豊竹咲太夫さんが亡くなりました。まだ79歳。もう舞台復帰はないものと覚悟はしておりましたが、それでも後進の指導などで活躍していただきたかった方です。亡くなるくなる少し前には、からだをさすってくれた織太夫さんが時間がないのでそろそろ帰りますとおっしゃったところ、いやいやをするように首を振られたのだとか。病院が東京でしたから、織さんは最期をみとることはできなかったようです。
八代目竹本綱太夫師の一人息子として生まれ、幼くして豊竹山城少掾門下となり、竹本綱子太夫としてデビューされました。五代目豊竹呂太夫さん(初名若子太夫)や鶴澤清治さんとは年齢も近く、子供のころから舞台に上がられたお仲間でした。呂太夫さんとはライバルとして、お二人ともにまだ二十代のころから将来必ず文楽を背負って立つ人と見られていました。若子太夫が呂太夫を襲名されると、まもなく綱子太夫も改名しようということになって、綱師が山城師に相談され、いくつかのアイデアの中から江戸時代からの名跡である竹本咲太夫を選ばれたようです。ところが画数の問題などがあって、同じ咲太夫でも、豊竹の初代として改名されたのでした。
私が文楽を見始めたころの咲太夫さんは、まだ三十代で、若手と言うべきお年でしたが、技芸という点では五代呂太夫さんとともにすでに中堅の域に達していらっしゃったように思います。
これまでこのブログに書いたことはなかったかもしれませんが、私が初めて文楽の技芸員さんの

    楽屋

に入れていただいたのは咲太夫さんのお部屋だったのです。少しお話したいことがあって、厚かましくもいきなりお訪ねしたのでした。当時の咲さんはまだお若かったのに、泰然として動じない、自信に満ち溢れた方、という印象を持ちました。そのときにいただいた「咲」の字がデザインされた手ぬぐいは今も持っています。
そのあと、舞台以外で印象に残っているのは、お弟子さんになられた竹本南都太夫さんの結婚式でした。松香太夫さん、文字久太夫さん(今の藤太夫)、人形遣いをなさっていた和右さんらとともに同じテーブルになって、目の前が媒酌の咲太夫さんご夫妻でした。ちなみに隣はまだ十代だった咲甫君(今の六代織太夫)でした。
その時には私が書いていた

    新作浄瑠璃

のお話をしたのですが、あまり興味を持っていただけませんでした(笑)。その新作は、咲太夫さんに語っていただくことを念頭に書いたものだったのですが(笑)、パラパラっとご覧いただいただけでスルーされ、残念でした。
数々の名舞台がありますが、私が今なお忘れられないのは1998年12月の東京公演における『仮名手本忠臣蔵』九段目の

    「山科閑居」

です。ベテランの出ない十二月公演ということもあったのですが、この大曲一段すべてを三味線の鶴澤清介さんと練り上げた会心の語りでした。ドラマティックで力強く、聴いているこちらが息詰まるような時間でした。すさまじいという意味では、あれほどの語りを聞いたのは私にとって初めてで最後の体験だったかもしれません。越路師の「引窓」、津太夫師の「沼津」、住師の「沓掛村」、九代目綱師の「長局」、嶋師の「重の井子別れ」などとともに私の文楽体験の中で絶対に忘れることのない演奏でした。
病後でいらっしゃいましたので心配だったのですが、とにかく手に汗握るような語りで、「咲太夫は復活した」と多くの人に思わせたと思います。私はそのあと文楽仲間と忘年会があったのですが、興奮して「すごい、すごい」を連発した記憶があります。
世話物では『心中天網島』「大和屋」が印象に残ります。初冬十月十五夜の澄み切った空気を感じさせる冒頭から、ついに心中に向かってしまう治兵衛と小春のひんやりとした心根まで、実に鮮やかに聴かせてくださいました。
チャリ場もおもしろく、「笑ひ薬」や「宝引」など楽しかったです。
どこか「孤高の人」という印象を持っていたのですが、お弟子さんとして今の織さんを育てられたことは特筆に値すると思います。いずれ十代目綱太夫になるであろう織さんには、師匠の教えを守って大成していただきたいと願っています。
文楽の太夫は、これで人間国宝がなくなり、切語りも3人となりました。六代目豊竹呂太夫さんと六代目竹本錣太夫さんはますます責任が重くなります。お二人ともお元気ですが、どうかますます健康に留意なさって「咲太夫以後」の文楽を盛り上げていただきたく存じます。

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2024年文楽2月東京公演初日 

文楽2月東京公演が初日を迎えます。
今回の会場は日本青年館ホール(東京都新宿区霞ヶ丘町)です。けっこう広いホールのようで、1階の座席定員が815(固定席811。車いす席4)。ただし、床を設置するために上手側の32席は販売されず、実際の席はその分少なくなります。19列だそうで、大阪の国立文楽劇場と同じような感じです。2階席もあるようですが、販売されません。
普通の演劇やコンサートなら見えにくいという評判はあまり見当たらないのですが、人形の場合は果たしてどうでしょうか。
この公演で何より残念なのは公演日数が

    9日

しかないこと。チケットはやはり取りにくいのでしょうか。観に行こうという意欲を失わせることにならなければ良いのですが。
第一部(12時開演)
 二人三番叟
 仮名手本忠臣蔵
(山崎街道出会い、二つ玉、
身売り、早野勘平腹切)
第二部(15時15分開演)
 艶姿女舞衣(酒屋)
 戻駕色相肩(廓噺)
第三部(18時30分開演)
 五条橋
 双蝶々曲輪日記
 (難波裏喧嘩、八幡里引窓)
この演目ですから、各部とも休憩込みで2時間ちょっとという内容です。これでも1等席は

    7000円

なのですね。ケチなこと言うんじゃないよ、東京のハイソなお客様はお金持ちなんだから、と叱られそうですが、以前の二部制なら4時間でしたから、いつの間にやら二倍になっているようにすら感じます。
文楽に二階席なんて邪道、というのはわかりますし、この劇場の評判でも二階席は見やすさという点ではかなり劣るといわれているようです。しかしこうなると、二階席を2000円くらいで開放するのもありだとすら思えてくるのですが、やはり邪道でしょうかね。
「腹切」は呂・清介、「酒屋」は錣・宗助から呂勢・清治、「引窓」は千歳・富助。「酒屋」の切場なんて、二つに分けるものでしょうかね。そうでもしないと呂勢さんの場がないのでしょうけれど。
勘平は玉助、与市兵衛女房は簑二郎、お園は勘十郎、宗岸は玉也、半兵衛は勘壽、十次兵衛は玉男、長五郎は玉志、長五郎母は和生、お早は勘彌という人形陣です。
短い期間ですがどうぞ頑張ってください。

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春在枝頭已十分 

春を待ち焦がれる気持ちは、冬という季節のある土地に住む人たちには共通のもので、古来詩歌にも詠まれてきました。
袖ひちて掬びし水の凍れるを
   春立つ今日の風やとくらむ
    (古今和歌集・春上・紀貫之)
立春の今日の風は、凍った水もとかすだろうか、と、暦の上の春を待ち焦がれた気持ちが詠まれます。でも実際はまだそんなに暖かいわけではなく、
  春来ぬと人はいへども
   鶯の鳴かぬかぎりは
    あらじとぞ思ふ
    (古今和歌集・春上・壬生忠岑)
と、鶯が鳴かないと春が来たとは思えない、というのが実感なのです。
私も、近ごろ歩いているときは、春はどこに来ているだろうか、とついきょろきょろとしてしまいます。
宋の詩人戴益の

    「探春」

という詩はこう言います。
  尽日尋春不見春
  杖藜踏破幾重雲
  帰来試把梅梢看
  春在枝頭已十分
一日中、藜(あかざ)の杖を突いて幾重の雲の中を、春を探して歩いたがどこにも見当たらなかった。家に帰って梅の梢を手に取って観ると、春は枝先にあったのだ、というわけです。幸せの青い鳥は遠くにはいなかったのですね。
この最後の句は

    禅語

として独立して用いられることもあって、二月の茶会などで軸が掛けられるのではないかと思います。
二月ではまだ春を感じることは少ないですが、「花の兄」と言われる梅はそろそろ咲き、やはり枝頭に春は来ていると思います。春の初めはまだ寒いのです。氷がとけるかどうかという時期で、鶯の声がしない限りほんとうに春が来たとは思えないのがこの時期なのだろうと思います。
それでもやはり暖かい日を待ち焦がれます。
今年の立春は2月4日で、旧正月は2月10日にあたります。つまり旧暦では正月になる前に春が来ることになります。こういうのを「年内立春」ということがありました。
  年のうちに春は来にけり
   ひととせを去年とやいはん
    今年とやいはん
    (古今和歌集・春上・在原元方)
という歌もあります。年内に春が来てしまったが、この一年を去年と言えばいいのか今年というべきか。ちなみにこの歌は正岡子規が、ハーフの人を日本人というべきか外国人というべきか、というのと同じ程度の歌だ、とひどくけなした一首です。

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二月は忙しい 

「にっぱち」というと商売が低調な時期と言い伝えられます。現代では冷蔵庫もあれば空調もあって寒い時期、暑い時期だから商売が冷え込むということは昔ほどではないでしょうが、それでも寒くて(暑くて)あまり外出したくないという気持ちはわからなくはありません。でも八月は飲食業界の売り上げは悪くなく、二月なんてお菓子業界は大儲けの時期でしょう。
呉服店由来の多い百貨店業界では衣料品の売り上げが大きな意味を持つようですが、やはり二月と八月は今も売り上げがかなり落ちるようです。ただ、百貨店のような小売業界とは違う製造販売や輸入業界は「にっぱち」の現象はないそうです。経済なんて知らないくせに、わかったようなことを言うじゃないか、と思われたかた、そのとおりです。正直に言いますと、ここまでは経済産業省のHPを覗いて書いたのです。
学校教員もいろいろあって、高校の先生などは二月と八月ではまるで忙しさが違うのではないでしょうか。二月はまだ三学期の最中ですし、三年生の担任の先生は受験の結果報告が寄せられて、うまくいかなかった生徒には何かと指導もしなければならないのかもしれません。一方、八月は、部活の顧問で超有名硬式野球部部長とか監督にでもなっていたらともかく、比較的のんびりするのでしょうか。いや、進学校などでは補習があるかもしれませんね。
私が最終的に関わった大学はしだいに看護師養成学校のようになっていきましたが、この専攻では実習というのがとても多いといううわさを聞きました。実習担当になるとしょっちゅう出かけなければならず、「ゆっくり大学になんていられないんですよ」とぼやいていた人もいました。「にっぱち」なんて関係ないのかもしれませんね。
文学部の先生になると、二月には

    卒論審査

という面倒な仕事が待っています。ただ読んで採点するだけならまだしも、口頭試問というのがありますから、しっかり読んでチェックを入れて話をすることを決めておかねばなりません。これはほかの教員の目の前で行うもので、その人たちの目も意識しながらということになりますので、適当に済ませることもできないでしょうね。大学が小さくなって私が専門的に関わる学生がいなくなってからはそういう仕事(卒論関係)がなくなりましたから、その時は寂しさの反面、二月は楽になるだろうと思っていたのです。しかしどうもそんな気楽な時間を過ごした経験はありません。
さて、私の、今年の二月はどうかというと、またまた忙しい日々になりそうです。ただ、今回は

    短歌雑誌

に掲載する書き物がほとんどで、5年ほど前までの生活なら一つ書けば終わり、10年前ならひとつもなかったことになります。ほんとうにいつどこで仕事が巡ってくるかわかったものではありません(もちろん仕事をいただくこと自体はありがたいお話なのですが)。一つの雑誌ですから締め切りはすべて同じ日。となると、そこを目指して、書けるものから順番に書いていかないと苦しい月末を迎えることになります。
三月はきっと、きっと楽になるはずです(笑)。

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ディズニー、焼き肉、USJ 

昔の子ども(主に男子)の好きなものは「巨人、大鵬、卵焼き」と言われました。私は「阪急、海乃山、きつねうどん」でした(なんとマイナーなこと!)ので、およそ賛成できませんでしたが。
ものを三つ並べるのは心理的にちょうどいい具合なのか、「三大なんとか」というのもよくあります。しかも「巨人、大鵬、卵焼き」の場合は七五調にまでなっていますのでよけいに流行ったのかもしれません。確かに、あのころテレビ放送される野球の試合はすべて読売がらみでした。当然パ・リーグなんて相手にするメディアはありませんでした。
しかしあの当時女子たちにとって、これぞというものは何だったのでしょうか。私はそんなこと考えもせずに、あたかも「巨人、大鵬、卵焼き」が

    世代を象徴する

ものだとすら思っていました。でも野球なんて女子にとっては今よりはるかに関心のないものだったはずで、それでは彼女たちは何を楽しみにしていたのか、どうにも思い出せません。歌手? タレント? どうだったのでしょうか。食べるものはむしろ女子のほうが詳しかったでしょうが、今のように食べ物の種類の豊富な時代ではありませんでしたから、案外彼女たちも「卵焼き」だったりして。
今も、卒業生とInstagramでつながっていますが、彼女たちの写真を見ると、ほんとうに顕著な特徴がうかがえます。非常にしばしばあらわれるのが友人たちとともに盛り上がっている

    焼肉パーティ

なのです。
よくこれだけ頻繁に食べられるものだと思います。看護師さんになった学生さんはお金持ちでしょうから経済的には困らないのかもしれませんし、うまく男子におごらせている(笑)のかもしれませんが、とにかく同じ人のインスタによく出てくるのです。たいてい、テーブル上にはビールがドンとおいてあり、うらやましくてなりません(笑)。どうか痛風にならないようにね。
Instagramは一時よく流行した「インスタ映え」する写真が撮られますから、若い女性にとっては、ディズニー(ランド、シーなど)は絶好の舞台でしょう。しかし関西で看護師をしている人が年に何度も行けるものなのか、と不思議に思ったり感心したりしています。あれ、全部千葉あたりにあるのですよね。
私はもちろん行ったことがありませんから、「あんなの、一度行けばいいんじゃないの?」なんて思ってしまいますが、けっしてそんなことはないのでしょうね。
これがUSJになると「地元」という人が多いですから、こちらは

    年間パス

でも買ってひまがあったら行く、という人もいるのではないでしょうか。あのパスって、かなり高いのだろうと思うのですが、縁がないので調べたことはありません。
来年、彼女たちのインスタには万博会場がたくさん映えるのでしょうか。これもまた私には縁がないのですけれども。

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新しくて古い 

私の口癖の一つに「古典とは古くて新しいもの」というのがあります。古典文学はなるほど古いものですが、単に古いだけなら残りません。新しさがあるからこそ読まれるのだと思います。
それとは全然関係ないのですが(笑)、長年使っていた中古のパソコンが危うくなってきました。こちらが指示したような動きをしてくれなかったり、動作が鈍かったり、キーボードに至っては、文字が消えてしまった(笑)ものもあります。私は力を入れすぎるらしく、「A」「M」「N」「I」「O」あたりのキーが

    ほぼ摩滅

しています。よく使うキーというだけでなく、私に何か癖があるのでしょうね。あまりキーを見ずに打ちますので、特に不便はないのですが。
そこで、ついに新しいものを購入したのです。ところが「新しい」というのは本当のようでも、うそのようでもあります。つまり、このたびもまた中古品なのです。理由は簡単で、私の経済状態から言って、新品を買うような余裕がない(笑)からです。
前のパソコンは少し重くて、

    モバイル

といってもあまり持ち歩きたくないものでした。今回は、軽いこと、SSD搭載であることをまず購入の条件にしました。
私は機械に精通した人間ではないので、パソコンの機能について横文字やら数字やらを駆使した言葉で書かれているのを理解するのが得意ではありません。それでも、わからないことは調べながら、あまりにも性能のよくないものはリストから外しています。ただ、そもそも私が使う機能というのはたかが知れていて、別に動画を編集してYouTubeに上げるわけでもなく、音楽関係にも一切使用しません。写真も、なにしろカメラを持っていませんので編集加工したくてもできず、極端に言うと、Officeさえあればほとんど用が済むのです。
メーカーについては、富士通、NEC、東芝、HP(ヒューレットパッカード)、DELLあたりならそんなに外れはないだろう、という考えです。よく「買ってはいけないパソコン」などという記事が目に入るのですが、それとまさに同じパソコンを推薦する人もあって、どれが正しいのやらよくわかっていません。
画面の大きさは、ある程度欲しい気もするのですが、私はコンパクトなものを使い慣れてきましたので、今回も小さめです。
早速起動してみましたが、当然ながら最初は実に快適です。これがどれくらい続いてくれるのか、楽しみでもあり、不安でもあります。
ところで、ものはついでとばかり、初めて

    パソコンスタンド

も手に入れました。これまでの使い方だと、どうしても前かがみになってしまうからです。これも使い勝手がどんなものなのか、不安でしたが、いざ使ってみるとまったく違和感がありませんでした。キーボードの位置が高くなるので、打ちにくいかな、と思ったのですが、そんなことはありませんでした。ちなみに、パソコンスタンドは新品です(笑)。
これからのブログの記事は、この新しくて古いパソコンで書くことにいたします。

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