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お駒(3) 

話を整理してみます。

萩原家には勝鬨(かちどき)という家宝の茶入れがありました。
ところが、萩原千草之助が吉原の遊女・十六夜に夢中になるうちにこの茶入れを喜蔵や丈八に奪われます。
尾花才三郎の父は萩原家の家老。その息子才三郎に茶入れ探索を命じます。腰元お駒は実家に戻り、それぞれ町人として暮らしつつも茶入れの詮議を心に掛けています。

とまあ、ここまでが「城木屋」の前提ですね。

で、城木屋は家が傾きかけていて、なんと、あの喜蔵がお駒目当てに金を融資する。
茶入れとお駒というふたつの宝物を手にしようというわけです。
逆に言うと、二つの問題の解決が喜蔵の婿入りによって迫ってきます。

  悪の勝利か、一気の解決か

解決のためにはきっかけが必要です。それはお駒が茶入れの犯人を喜蔵と知る瞬間の演出ではないでしょうか? 茶入れは丈八の手に渡りますから、それ以前に喜蔵が茶入れを持っていることを何らかの形でお駒が察するように見せる必要がありそうです。
それが丈八の手に渡ったことを知らずにお駒は喜蔵の周辺を探し回りそれを見つけた喜蔵がお駒に襲いかかろうとして、誤ってお駒は喜蔵をあやめてしまう。そんな感じでしょうか。

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今のテキストでは、城木屋の段切でお駒は殺人の覚悟を極めたハラで奥に入らざるを得ません。
そして、そういう約束でつい見慣れたお客さんは見ています。
ただ、初めて見る人に

    「え?」

と首をかしげる人が多いのも事実です。
「鈴が森」の段でお駒の母は「才三殿が盗まれし茶入れとやらが出るならば助かる筋もあらうか」といいます。茶入れと殺人の関係も、もやもやした話になります。
また代官の堤弥藤次は「仔細ありとはいひながら、仮にも夫を殺したる罪は」と言います。この「仔細」についてももうひとつ明確ではありません。
結末が茶入れの発見ですべてが解決するわけですが、その緊迫感やカタルシスも十分でしょうか?

こういうことを申しますと、それは古典なんだから、これまでそうやって上演してるんだから、ある程度お客さんが話を知っておくのが文楽の常識だから、という話でまたうやむやになりそうです。
私はやはり納得できないのです。

お駒や才三郎の人物像をもっと明確に描くためにも、

    恋娘昔八丈

は改めて筆を入れるべきではないかと、思えてなりません。

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コメント

古典を活かす

恋娘昔八丈に限らず、「んなアホな」というような、あまりに無理な展開のものがありますね。「前からやってきたことやから」と安易に流すのではなく、より分かりやすく手を入れることが、古典を活かすことかと思います。どこまで手を入れるかというバランスはちょっと難しいところですけど。古典落語でも演者によって、少しずつ手を加えることが普通ですね。
「古典だから変えてはいけない」というのは、古典を活かすことにならないと思います。

♪やたけたの熊さん

私は江戸文学研究者ではありませんので、こういうことは弱いのです。
原作に戻ればいいというわけでもないでしょうが、やはり原作でどういうことを言おうとしていたのかはきちんと確認しておきたいと最近強く思うようになっています。
茶入れの話を入れるとごちゃごちゃしてつまらないですかね・・・?

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